青草談話室ログ平十六年 十月
2004.8.13
多に蛍火の光く神、及び蠅声なす邪しき神有り。湯嶽神・菊嶽神の集い。
素人のひらめき、力はないが騒がしくなかなか従わない、一寸の草木にもある五分の魂の発露を!
 青草談話室

[978] Re[977][974][968]:縄文とアイヌの関係  かたばみ [Mail] [Url] 2004/10/31(Sun) 13:36 [Reply]

喜田貞吉博士の少彦名命の研究、一読いたしました。
総じて感じたのは「古いな」でした(^^; 大正時代の記述とみえるので当然かもしれませんけれど。
記紀などの文献からの解釈が大半ですね。

少彦名命の「少」を小さい男としそれに彦の尊称とみるのは間違いないと思います。
問題はスクナヒコ「ナ」のナ。
大己貴命や大穴持神(大名持神)のナとつなげる説の引用がいくつかありますが、これは氏が批判している通り単に「ナ」があるだけの語呂合わせと感じます。

では、大己貴命や大穴持神には彦、毘古、日子がないのはなぜか。
彦は「あること」を示す尊称だったのが一般尊称に変化したものだからだと考えています。
大己貴命や大穴持神は少彦名命とは異なる性格をもつ、というわけです。

スクナヒコ、ここで名としては段落のはず。
ナはなにかを示して明確にしようとする言葉だと思います。
氏は播磨風土記に少比古根命、神前群條(どんな本か知らず)に少比古尼命とあるのを引いて、天津日子根命と同様に「根」を加えたものと解釈しています。

これはおおいに賛同です。
ただし、「根」を敬語とみていることには異ありです。

活津や天津をどう解釈するかはおいて、根はある人々の祖先(源、故郷)であることを示すと考えています。
素盞鳴尊の根の国も同じです。地底や黄泉の国ではなく、故郷の意。
孝霊〜開化での倭根子の尊称も同じ、「倭を祖先とする子」の意。
倭根子(日本根子)は元明天皇(707)〜桓武天皇(781)でぞろぞろ再登場しているのが興味深い。

少彦根命、小柄な人々の祖先。
縄文のイメージをふくめたもの。

余談:身長1mのホモサピエンスがジャワ島で見つかった、ホモ・フローレシエンシス。
わずか1万8千年前の女性の骨で、脳容積はチンパンジー並。
ジャワ原人の子孫とも新聞には書かれていますがこれはちとオーバーランか?
もう1体みつかれば突然変異じゃない可能性が高まりそうです。

氏がアイヌと少彦名命とジョイントしている部分に関しては根拠が語呂合わせ以外にはみあたらないので、パスです(^^;

常世の国、支配した土地あるいは既知の場所に異世界は存在できないですね。
時代によって南から北へ(東へ)シフトしているんじゃないか。
当初は九州より東にそれがあった(場合によっては南海に→竜宮城、沖縄からはニライカナイに)。
既知の場所が広がるにしたがって異世界はその外側にシフトしてゆく。
本州での最後が北海道というわけでそのイメージがロマンとともに近世まで続いていたのではないかな。


山田の案山子(クエビコ)が知っていることをヒキガエルが教えた、なぜ蛙なのか。
縄文土器に人面とヒキガエル?を描いているものがあります、なぜ??
人面と蛙と蛇が関連していることが推定できますが今のところ不明。
(銅鐸にも亀や蛙やトンボなどが描かれる、共通項は水がなければ生きられない)

クエビコは村の物知りの長老といったイメージでとらえています。
足腰が弱って動けなくなった老人が見張り役になったいたなんてのが案山子の源(^^;


[977] Re[974][968]:縄文とアイヌの関係  神奈備 2004/10/24(Sun) 08:32 [Reply]
○異界の神・役小角には前鬼、後鬼が従者となって、私生活を支えたようだ。
○森の神・空海には狩場明神が付き従い、高野山を開発。
○比叡山の最澄には、童が手助けをしたと言う。出自は八瀬、これを八瀬童子と言う。(『修験道の歴史と旅』五重来)
これらの童子は後に修験者になっていったといいます。手間者か。天間者か。

 事程左様に主人には従者が付き従う形は大国主の昔からそのようだと思われていた。少彦名とはそう云った存在。

その少彦名命は熊野から常世国へ帰っていったのですが、その熊野とは異界であり、大和王権から見れば吉野の向こう、まさに縄文の世界、これは陸奥の国の北も同じで、遠野などの名からもいかにも遠い縄文世界のイメージ、こう考えると喜田貞吉博士が少彦名命の故国を遥か東国に求めたのもさもありなんと思います。

紀伊の熊野も出雲の熊野も、東国に繋がる異界と思われていたのでしょう。


[976] エミシ「蝦」「夷」は匈奴・蒙古  わーぷ 2004/10/24(Sun) 06:39 [Reply]

おはようございます。
エミシの「蝦」海老・エビ「夷」の文字は恵比須・戎・恵比寿・蛭子・えびす・胡(匈奴・蒙古)ですが海老は長いヒゲでユダヤ系ではと思います。

[975] おあそび  恋川亭 2004/10/24(Sun) 03:03 [Reply]
神奈備掲示板『Re[5695]:むらくも』より。
本日の状況から、あちらでは不謹慎になるようでしたので部分移動いたします。

> 弘法大師にゆかりのある高知の室戸の五所神社の祭神に、
> 天鈴鉾大神、天御雲大神、天村雲大神、天波與大神、天日別大神の名前が見えます。

累代の社って感じですねぇ。変な夢をみました?
アフロヘアにヒゲとサングラス、短足のカミサマが指を鳴らしながら鼻歌です。

 ♪ 俺が昔、ムラクモだった頃・・・
 ♪ 親父はミクモで、息子はハヨだった・・・
 ♪ 爺はスズホコで、孫はヒワケ・・・
 ♪ でも、あの頃はまだ、みんなアマ(天)チャンだったぜ
 ♪ ワカルカナ? ワッカンネェダロ〜ナ〜!(含み笑)

仮に1代を30年としても、弥生時代の中頃から先には遡らないような気がしてきます。
やはり、アマ(天)って、アマ(海)なのかも。

[974] Re[968]:縄文とアイヌの関係  かたばみ [Mail] [Url] 2004/10/21(Thu) 11:11 [Reply]

喜田貞吉博士の論を読んだことはないですが、神奈備さんの書き出された内容から見るとその当時の縄文情報と神社や伝承類をからめての考察のようですね。
縄文情報のほうを最新に置き換えるとまた違った展開になるのではないかなあ。

「DNA人類進化学/宝来聴」をベースにした日本人登場の仮説をたてています。
http://www.tcn-catv.ne.jp/~woodsorrel/kodai/dna/dna.html
ついでのときに4、5章あたりをどうぞ。

縄文と現在のアイヌ人とはつながらない、しかし「アイヌの祖先」とは共通項がある。
ちと微妙ですがこういう関係だと考えています。


≫『常陸風土記』にも、自らの国を常余の国と言うに至った
≫常陸の信太郡はもと日高見国で、これはもと蝦夷の退嬰と共にその国は北に退いたが、
≫かっては常陸あたりが蝦夷の根拠たる日高見国であった時代もあった

このあたりのイメージと同様を含んで登場しているのがホツマツタエじゃないかとみています。
(諏訪と関東や東海を含めてもっと広範囲に)

その具現化が奥州藤原三代といったところで、その一方の前身ともいえる阿倍一族など「蝦夷」は東北縄文と弥生の初期文化と出雲文化が結合した人々。
東日本の縄文人口は多いですから、西日本と違って弥生化はせず縄文を濃く残す人々です。
で・・その結合の流れの中にアラハバキあり・・(^^;

蝦夷とアイヌ人とは無関係、ですが交流は縄文時代から少なからずのはずです。
北海道の蕨手刀は縄文遺跡のある地域から出土しています(特に石狩〜苫小牧)。
コロボックル伝承もこの地域じゃなかったかしらん。


縄文人は一般に小さいですね、身長は150cm〜160cmくらい。
BC16000頃の沖縄から湊川人の骨がでていますが成人男性でも身長は153cm。
上半身は華奢で現代人の女性並、力仕事は不得手だが下半身は頑丈で山谷を歩くのはお得意。
おおよそ縄文人一般も同様みたい。

で、縄文には巨人もいます。
茨城県玉造の縄文時代後期の若海貝塚の骨は身長が170cmもあります。
小柄な縄文人からみたらまさに見上げるようなダイダラボッチ。
ただし、埋葬のされ方が異常、足を後ろ側に折り曲げられています、罪人のように。

大分県耶馬渓の枌洞窟(ヘギ)遺跡は縄文の墓所で早期〜後期の骨が連続して発見される貴重な遺跡です。
ここの骨も縄文前期の平均で弥生人とほぼ同じ162.8cmなのだそうです。

縄文を形成した人々にはいろいろな人々がいたんでしょう。
中国南部には「防風氏」という巨人神の国造伝承があります(日中文化研究4/海と山の文化)。


[973] Re[972] 感謝  QUBO 2004/10/20(Wed) 09:55 [Reply]
神奈備大人 こんにちは。
> 喜田説を紹介いたしましたが、それは珍しい文献だと思ったからで、
> 神奈備は喜田説を守り抜く決意をしている訳ではありません。
> 各位の考えるヒントになればとの思いです。

珍しい文献の紹介と丁寧な解答、大変有難うございました。

[972] Re[969]: 疑問  神奈備 2004/10/19(Tue) 15:20 [Reply]
QUBOさん こんにちは。
喜田説を紹介いたしましたが、それは珍しい文献だと思ったからで、神奈備は喜田説を守り抜く決意をしている訳ではありません。
各位の考えるヒントになればとの思いです。

> 疑問1、コロボックルの存在が前提のように見えますが?
> 疑問3、「アイヌの異」とはいったい何のことでしょうか?
こと、事の間違いです。お騒がせいたしました。
論文中に「コロボックルは石器時代のアイヌの事を伝説化して伝えたもの」との一文があり、この石器時代(この表現もアイヌの石器時代で倭人社会では弥生時代以降もそうだったのかも)のアイヌ人(縄文人の意味かも)が居たことには違いがなく、それでいいのでは。

> 疑問2、これは、何を根拠にしているのだろう?
遺跡と伝承、大正八年頃の喜田氏の知見なのでしょう。
アイヌ人が原始的風俗を維持しているカイ族を矮人と語り伝え、一本の葦を数百人で引き抜いたと言うように極端に伝承されたようです。

[971] 無題  わーぷ 2004/10/19(Tue) 12:28 [Reply]
  追伸
 少名毘古那神帰り来る際、この神の名を知る神は「崩彦の神」(クエビコの神とは案山子のこと?山田の中の一歩足(十字架)カカシ(蛇?)のみ。
(吉野裕子氏は「ハハ」を、クナド→フナド、コケ→フケと同じように、「カカ」の子音転換と見て、「カカ」を「ハハ」以前の大蛇名と考える。そして、蛇を象徴するものとして、鏡、酸漿、蔓性植物(藤も)、少彦名、案山子、光、梶、注連縄などを挙げている。また「ナガ」や「ナギ」も蛇の古語としている。)

くし墓(櫛?工師!物部氏?)酒(クシ)の司(カミ) 酒の神(神農さんや薬師さん)・・・秦氏。

地名「生野」死野をシノとすれば、吉野(ヨ シノ)・信太(シノ タ 茨城にもあります。)糞野(播磨国風土記での大汝命と小比古尼命のお話)

すくなひこ・の・くすね (煎じる薬草の古名・強壮・健胃剤) 古代、不老不死の薬が丹(水銀?)されていた 小粒の丸薬(仁丹の形)蚕の種は色が黒いが小粒の丸薬の様にみえます。

[970] 無題  わーぷ 2004/10/19(Tue) 11:41 [Reply]
今日は、
日本書紀では「一人の小男が「カガミの皮」(加賀蓑・石川県産の上等な蓑・イグサ)で船を作り、ミソサザイ(きじ科・桃太郎の?)の羽を着物にして潮の「流れのまにまに浮かんでやってきた」(一寸法師?お「椀)や「箸」ハシは蚕の種を播種するときに使われました。)」とあります。
日本書紀に「少子部(ちいさこべの)スガル(少彦名命・秦氏?)」が「三諸岳の神」(巳を捕らえよとの命により、大蛇(禹の子孫・出雲系?)を捕らえたという話などから「話の作者」(中臣・藤原・秦氏系?)の臭いが・・・・・・
「小子部スガルは養蚕とも関係」 天皇から蚕(こ)を集めよとの命を受けたのに誤って子(こ=嬰児)を集めたため小子部連の姓を賜ったという話が有るそうです。
他に少彦名命は、「いたずらっ子」(いもむしの様に蚕室を脱走)で、蔓芋の船・・・「うつろ船」(瓢箪・古代中国でのノアの箱舟)に乗ってやってきた「小さい子神(朝廷での低い地位・秦氏?)」です。
少彦名命を祭る神社に蚕(カイコ)養蚕に関係するものを多くみられます。
あづさみてんじんしゃ
阿豆佐味天神社
http://www.no-za-wa.net/murasaki-kai/guidebook/10.html
蚕影神社
http://www.nises.affrc.go.jp/pub/silkwave/silkmuseum/ITKokage/kokage.htm
日立市の蚕養神社は、神栖町の蚕霊神社、つくば市の蚕影神社、とともに「常陸国の三蚕神社」と呼ばれています。蚕養神社の先には、「海鵜の飛来地」(古くから京の鵜飼いと繋がる)があります。
http://www.nises.affrc.go.jp/pub/silkwave/silkmuseum/IKSanrei/sanrei.htm

蔓芋ツルイモ「蔓」系・「葛」ー「藤」ズル(「藤原」の姓を与えた天皇は・権力を奪った中臣を藤「ズル」に顕した?)
また「蔓」の文字に「草冠」(十字架が並び)・日・目が横で三つ目と又(Y型の鉾)と「芋」「草冠」(十字架が並び)干が並ぶと「鳥居」(古代測量での三角点?の妄想・三角・鳥居・秦氏・神社!!!!)
神社と藤原・秦氏の関係が解き明かされる日を楽しみにしております。

[969] 疑問  QUBO 2004/10/19(Tue) 09:21 [Reply]
喜田貞吉博士の著作も読まず、勝手な意見で失礼とは思います。
青草談話室と言う事で気楽に意見を書き込みます。

「コロボックルは小さい船を使っていた。」
 疑問1、コロボックルの存在が前提のように見えますが?

「その同類と認められる千島アイヌは、北海道アイヌに比べて著しく
低い。その北海道アイヌは普通の日本人に比べて低い方である。」
 疑問2、一般的に生物は寒冷地に行くと巨大化します。
     これは、何を根拠にしているのだろう?
     「千島アイヌ」と言う別種が有るのだろうか?
江戸時代末期、間宮林蔵がカラフトから、大陸に渡っています。
江戸時代は成人男子の平均身長は160cm以下。アイヌの身長
が和人と比べ低かったとの記述は、無かったと思います。

「石器時代の遺物から見て、コロボックルは石器時代のアイヌの
異を伝説化して伝えたもの。」
疑問3、「アイヌの異」とはいったい何のことでしょうか?
―今のアイヌとは異なるアイヌ―程度の意味なのでしょうか?

[968] 喜田貞吉博士「少彦名命の研究」  完  神奈備 2004/10/16(Sat) 09:03 [Reply]
8.少彦名命の郷国
 少彦名命が現れた時には、大国主神すら全くこれを知らない神であった。異域の神であった。事が済んで常世国へ去っていった。常世国からやって来て常世国へ去ったと見ていい。
 常世とは常夜、本来の意味は夜の国である。天照大神が天の岩戸に隠れて六合のうち常闇となった有様を語り部は「常夜往く」と伝えている(古事記)。日本は日の本で日出處であり、朝の国。支那は西にあり日没處の暮れの国であるので呉と言う。その国より西の国が常夜の国。これが本来の意味であったが忘れられて、常住不断のよい国と解されて、神仙の秘区などと言われるに至った。これが『常陸風土記』にも、自らの国を常余の国と言うに至った。
 常世の国へ行った少彦名命であるが、常陸の海岸に二つの怪石が出現、「我は是れ大奈母知少比古奈命なり。昔、此の国を造り終えて、去って東海に往く。今民を済はんが為に、更に亦来り帰る。」と言った。
 然からば、少彦名命の常世の国とは、東方海中にある国だと言うことになる。常陸は古へ山の佐伯・野の佐伯、即ち山夷・野夷の居た国だと風土記に伝えられている。常陸の信太郡はもと日高見国で、これはもと蝦夷の退嬰と共にその国は北に退いたが、かっては常陸あたりが蝦夷の根拠たる日高見国であった時代もあった。
 日高見なるカイの国に、去って東海に往かれたというクシの神なる少彦名命の現れたのは偶然ではない。常陸の久慈郡があるのも、或いはクシの古名を伝えていつるのかも知れない。
 少彦名命が東方なるクシ即ちカイの国の神におわす。

9.療病禁厭の法と少彦名命

 呪術師と医術師、薬師は未分化であった。

10.結論
 今日ではアイヌ民族は圧迫されて小さい存在であるが、石器時代の東方の彼らの遺跡は、西方のそれよりも遥かに優勢であった。しかし後には弥生土器即ち土師部土器に入れ替わっている。大国主神は弥生時代の伝説を以て解すると同時に、クシの神たる少彦名命に関する伝説は、まさにその過渡時代を示すというべき。

 アイヌ族は続々と内地各地に移住し、日本民族に同化融合してしまった。その徒からは安倍貞任、清原武則、藤原清衡の如き偉人を輩出した。我が民族の武勇・剛毅・技巧等の上に顕れた多くの美点は彼らに負う所が少なくない。これは日本民族にとって無情の幸福である。少彦名命は日本民族の祖神であり、この神の功業を称え奉るものである。

[967] Re[966]: むらくも  神奈備 2004/10/15(Fri) 08:43 [Reply]
神奈備掲示板に

[966] むらくも  玄松子 2004/10/14(Thu) 21:07 [Reply]
少彦名命談義の途中ですが。

阿波の式内社・天村雲神社について。
『式内社調査報告』には、天村雲命は、別名「天五多底命(あめのいだてのみこと)」とも云い、鎮座地は射立(現在は湯立)らしい。伊達神? 五十猛命?

そういえば、ヤマタノオロチから素盞嗚尊が取り出した剣は、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)。
天村雲命と素盞嗚尊には因縁があるような、ないような・・・ないかな。
天村雲という語が、製鉄を意味する語という可能性はあるかな・・・ないかな。

[965] 喜田貞吉博士「少彦名命の研究」  2  神奈備 2004/10/14(Thu) 18:07 [Reply]
6.谷蟆と山田の曽富騰
 谷蟆については浮浪漂泊の傀儡子(クグツ)を考えあわせるべきである。彼らは一畝の田を耕さず、一枝の葉を採らず、自ら浪人として上に王公を知らず、課役なきを以て一生の楽とするものであって、各地を遍歴するの徒であった。これをクグッと言う。蓋し、谷蟆の到らざる隈なきが如きもの。彼らは吉野山中の国栖人の如く、好んで蝦蟇(ヒキガエル)即ち蟾(クグ)を採って食ったから、それで蟆人(クニビト)の名を得たのかもしれない。
 本来はカイ族の残留者たるクエ彦が、山田守即ち山田の曽富騰として知られたのと同じように、本来はやはりカイ族の残留者であって、其のカイを蝦夷と書くことから、「蝦」の字に因んで、蟆人の名を得たのかも知れない。

 伊勢に延喜式内久久都比賣神社というのがある。倭姫世記に、倭姫が大神を奉じて久求(クグ)の小野に行かれた時に、久求都彦が参り合うたとあるのは、比賣神に対する彦神であろう。これらの神々は大水上命の子なりとある。蓋し、この神々ははもと川上の住居の神で、平地の農民とはその筋目を異にした。いわゆる傀儡子の祖神であろう。北海道アイヌは今も神は川上にありと信じて、決してその方向に向かって不浄を放射しない。家屋も川下に向けて、反対側には神窓を設けるを例になっている。

7.子男の神「少彦名」
 少彦名命が小男の神であり、東方に小人が居るとの思想は既に遠い昔から支那に存していた。『列子』に「中洲より以東四十萬里焦僥国を得、人長一尺五寸」とある。また、『魏志』に「女王国の東、海を渡る千餘里復国あり、皆倭種。又侏儒国あり。その南にありき。人長さ三四尺。」とある。
 『続日本後紀』承和十一年(844)三月條。
但馬国帽子・単衣・腰帯・草鞋・鎌・刀子等一櫃を上る。その体様卑称、此の間の物に似ず、疑ふらくは侏儒国の物流著するものか。

 今昔物語にも越後に小さい船が漂着した話が載っている。
 普通の民に比べて矮小なる民族が居たということは信じられること。アイヌの矮人として伝うるコロボックルは小さい船を使っていた。その同類と認められる千島アイヌは、北海道アイヌに比べて著しく低い。その北海道アイヌは普通の日本人に比べて低い方である。石器時代の遺物から見て、コロボックルは石器時代のアイヌの異を伝説化して伝えたもの。
 東国におけるカイ即ちアイヌ系統の民族は、太古からして背の低いものであったと解せられる。大国主系統の民族から当代のカイ族を矮人と呼んだと解釈しても不当ではない。
 クシの神が少彦名命即ち小男の神であったと言うことから、この神とカイ族との関係を認めたい。

[964] 喜田貞吉博士「少彦名命の研究」  神奈備 2004/10/14(Thu) 18:06 [Reply]
少彦名命についての文献がありました。
大正十年に喜田貞吉博士が「少彦名命の研究」と言う論文を出しています。珍しいので各位の便宜のためにダイジェストを紹介いたします。
1.〜10.までです。


1.古伝説上の少彦名命
記紀風土記の少彦名命の伝承紹介。

2.神名 少彦名命 の解釈
須久那志(スクナシ)とは、「多い」に対する「少ない」の意があるが、古代には「大きい」に対する「小さい」の意味にも使われた。これは少子部をチイサコベとするように他にも例があること。今日でも、軍隊の位の大将、大尉に応じて少将、少尉とあるが如し。

 要するに、「小さい」と言うこと。少彦とは小男のこと。
小さいと言うことが後世に誇張されて、指の間から落ちるなどの説話が語られるようになった。 

3.クシの神「少彦名」
酒をクシと言うとはどこに書いてあるのか?
クシの神とは蓋し蝦夷(カイ)の神の義である。蝦夷は普通エミシ又はエゾと読ませているが、本来の文字はカイと音読すべきもの。「蝦」の字にはエビの訓はない。「蝦」は「蝦蟆」の「蝦」で「カヘル」である。「エビ」の字は「鰕」。平安末期の『伊呂波字類抄』には「加伊」は東夷なり。と記している。
 「エミシ」或いは@エゾ」と呼ばれたアイヌ族は本名「カイ」であって、蝦夷とは卑字をあてたもの。
 「カイ」は「コシ」とも言った。北陸地方を越と言うのは、即ちコシ人の居所であったから。この地方は久しく蝦夷の住處であったことからも察せられる。
 樺太アイヌを@クイ」亦は「クエ」と呼んでいることで立証できる。 少彦名命のクシの神は大国主神に協力したのであり、このことは、天尊降臨以前の国土経営にアイヌ族が参加していたものと解する。

4.久延毘古とクシの神
クエビコもクエの男子、即ちアイヌの男子。クシの神を一人知っていて当然。

5.山田のソホトと久延毘古
案山子のこと。久延毘古が少彦名命の神名を知っていると申し出たのは谷蟆(タニクグ)。祝詞や万葉集の中に「谷蟆のさ渡る極み」なる文言が出てくる。至る所に隈無く行き届いている動物の事。悉く天下のことを知っているのは谷蟆のこと。これと久延毘古との連絡から、久延毘古は足は行かねども、天下の事を知る、と言われたのである。谷蟆とは蟾蜍のことで、九州では蟾蜍のことをドンクと言う。タニクグの転訛。

 ソホトとは赭の人、山田の番人のことで、日に照らされ、風雨に打たれ、皮膚が赭色になっている賤の者。僧都とも記す。『大和志料』には三輪神社の摂末社の中に曽富止神社の言うのがあった。今の久延彦神社のこと。

[963] Re[962]: ささ、百薬の長  かたばみ [Mail] [Url] 2004/10/12(Tue) 20:41 [Reply]

伝承や神話?をどのように現実(歴史)と対応させられるかがありますが、少彦名命には二重構造があるとみています。
おっしゃるようにひとつは縄文に遡って新文化を伝えた人々のイメージ。
(持論BC2000〜1500頃、長江あたりの三苗のイメージを伝える)
こちらは伝承に具体性はほとんど残らないと思いますけれど、弥生に新文化を伝えた人々のイメージは具体性をもつと思います。

書紀一書の少彦名命が「熊野の御崎」から常世の国に帰るとき、大己貴命の我々の国造はうまくいったのだろうか、という問いに対して、うまくいったこともあればうまくいかなかったこともある、と答えています。
うまくいったことは麦、大豆など、山間で作れる畑作物じゃないか。
米に匹敵する魚なしでもOKの食糧。

書紀のこの部分で興味深い記述がほかにもあります。
于都斯ウツシ、蹈鞴タタラ、幸魂奇魂、鷦鷯サザキ。
これらがなんであるか、どう前後とつながるかがはっきりしない書き方ですが、タタラとは少彦名命の船だと考えています。この状況でフイゴがでてくることは考えにくい。
(台湾〜フィリピンのヤミ族は船をtatalaと呼んでいます)

岩波の書紀注に手間とは指間タマであり兼夏本に多万与利タマヨリの訓注があるとあります。
すると、幸魂奇魂とは幸いの指間、奇なる指間の置き換えとみることもできる。
めずらしく役に立つものをもたらす手、南方の貿易者ならカノープスとも重なってくる(^^;


大年神系譜からは女性が農耕一般を伝えているとみえます。
高御産巣日神は少彦名命が悪ワルで教えに従わないといっています。
農耕(水稲)では全員の協調性が必要、少彦名命はそういうタイプじゃなかったとみえます。

諸蕃志の「海膽人」ハイタンは小柄だが猛悍であるとあり、少彦名命の小柄と悪ワルに重なってくる、隼人のハイトンと勇猛も重なってくるのであります。
海膽はウニの意、ちっこいけれどうかつに触ると危ない、貿易ともあるので海賊にも近かったんじゃないか(^^;

米による酒造りを少彦名命が伝えている可能性は高いとみています。芋焼酎も同じくかなあ。
酒はまさに百薬の長、貿易者であれば薬草などの様々にも長じていたはず。
少彦名命にはそういうイメージを空想しています。
「帰り来る神」とはまさにいったりきたりする神、貿易者にふさわしい表現でもあります。


東京上野に五条天神社があって日本武尊が少彦名命と大己貴命の助けを受けたことが縁起とされています。
http://www.asahi-net.or.jp/~vm3s-kwkm/gojou/index.html
(ずーっと工事中ですけど(^^;)


[962] ささ、百薬の長  神奈備 2004/10/11(Mon) 17:17 [Reply]
『古事記』大国主神記
 少名毘古那神が帰(ヨ)り来(ク)る際、この神の名を知る神はただ崩彦(クエビコ)の神のみ。
 クエビコの神とは案山子のこととされており、♪山田の中の一歩足の〜であり、稲の収穫を守っています。その神しか少彦名神を知らなかったと言うことは、”稲”に関わりの神との認識ができあがっていたと考えられます。

『古事記』神功皇后記
この御酒(ミキ)は 我が御酒(ミキ)ならず 酒(クシ)の司(カミ) 恒世(トコヨ)に坐(イマ)す 石(イハ)立(タ)たす 少名御神(スクナミカミ)の 神(カム)寿(ホ)き 寿(ホ)き狂(クル)ほし 豊(トヨ)寿(ホ)き 寿(ホ)き廻(モト)ほし 献(マツ)り来(コ)し御酒(ミキ)ぞ あさず食(ヲ)せ ささ
 やはり酒造りの材料は、芋よりは米でだったのでは。酒造の神とされたのは、神農さんや薬師さんとのつながりができてからかもしれません。

 どこからか立ち現れる少童神に対する信仰や憧憬は記紀作成時より遥かに古い時代からあったのでしょうが、この芋虫のようなスタイルや粟殻に跳ばされるお話は縄文の匂いがします。

 少彦名神を天神として祭っている神社は各地にありますが、大阪では生野区に比較的多いように思います。この生野区は司馬遼太郎氏が生まれ育った所で、彼は戦時中には兵庫県の生野銀山のある生野町に疎開していたとのこと。ここは「生野の道の遠ければ未だふみもみず天橋立」と歌われた所ですが、この「生野」と言う地名は、風土記に見える半殺しの場所を「死野」と言っていたのを、よい名に変えるとかで「生野」にしたとの付会の地名で、語源不明の地名、死野をシノとすれば、吉野とか信太なんかに通じ、神功皇后の足跡につながる地名のようにも思われます。
 アイヌ語の大三元さんによれば、
http://www.dai3gen.net/harima.htm
死野は糞野に通じ、『播磨国風土記』での大汝命と小比古尼命が相争って言うには「「はに」を荷物として遠くへ担いで行くのと、糞をしないで遠くへ行くのとどっちが勝つか」。との他愛もないお話になっています。
 生野に少彦名がからんでいると言うことです。

 生野−少彦名−神功皇后−何かのつながりがあるのかも知れません。

[961] Re[959][958]: 夜三輪探訪記  恋川亭 2004/10/11(Mon) 16:30 [Reply]
世阿弥の原作でしたか?謡曲『三輪』
夜三輪的雰囲気が漂う芸能ですね。

『 思えば伊勢と三輪の神  思えば伊勢と三輪の神
  一体分身の御事     今更なにを磐座や
  その関の戸の夜も明け  かくありがたき夢の告げ
  覚むるや名残なるらん  覚むるや名残なるらん  』

『今更、何を磐座や』って??? チョット、苦笑。

〔ご参考〕:『間申楽 能楽の杜』HPより、謡曲『三輪』
http://www.webslab.com/enkai/magyo/mwa/mwa01.htm
この中に「謡の全文」も紹介されています。

山頂裏の奥不動寺のご住職によると、『夜の奥三輪は、鹿や猪など、いろいろな動物達が出てきて、とてもにぎやかなんですヨ。』と笑っていらっしゃいました。

[960] Re[956]: ユイムン(寄り物)  かたばみ [Mail] [Url] 2004/10/10(Sun) 14:14 [Reply]
≫スクとは、アミアイゴの稚魚のことで、全長2cm程度の小さな魚です

少彦名命、スクナヒコナ、スクナヒコ、この名前がなにを意味するのか見当がつかないのですが、沖縄のアミアイゴの稚魚がスクですか。

以下単なる羅列。

小柄な体格=小人族を南方に探せばフィリピン(かっては台湾にも住んでいたらしい)のネグリート。
http://tokyo.cool.ne.jp/woodsorrel/data/negrito.jpg
(ハンサムや美人を選んでいます(^^; ネグリトにも部族がいろいろあるようです)

北村季吟(1624〜1705)の萬葉拾穂抄では隼人をハイトンと読んでいる。
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Circle/5293/
(万葉2497の注解)
本居宣長は日本書紀通証(1762)で隼人をハイトンとしている(原文未確認(^^;)。

宋の諸蕃志に海膽人ハイタンがありフィリピンの部族とされる。
http://www.lit.nagoya-u.ac.jp/~maruha/kanseki/zhufanzhi2.html
「號海膽,人形而小」小柄な人

三国志呉史孫権伝の徐福の後裔のいる地を求める艦隊の目的地は「夷州」と「亶洲」(呉音タン、漢音セン)。
(一般に日本のどこかと解される)
http://www.tcn-catv.ne.jp/~woodsorrel/kodai/kf08.html
徐福伝承、穀璧と支石墓、孫権艦隊、参照

金関丈夫氏の論(九州文学1955/2月号)にマレー系語圏にハイトンが「アタ」に響く例を挙げている(これは引用の引用(^^;)。


隼人の祖先には、フィリピンのネグリートの祖先と同じ人々、が混じっている可能性あり。
ちなみに太平洋域での「食べ物、食べる」はka、kan、kaiだそうです。

少彦名命は稲とは無関係ではないかなあ。
畑作系、南方系の焼畑、農耕には関わるが農耕民ではないとみています。
お湯をかけるのは芋煮(^^;

[959] Re[958]: 夜三輪探訪記  神奈備 2004/10/09(Sat) 17:36 [Reply]
ZOUさん、こんにちは。連休初日は雨でしたね。

夜三輪と言う言葉から目に浮かぶ景色は、三輪山の黒い輪郭の向こうに白夜を思わせる暗くも青白い空と、聞こえるものは横笛の音、神々の気配が迫ってくるこの雰囲気。
 といきたいところですが、小生の夜三輪参詣は、なんだか多くの人々とご一緒させて頂き、どちらかと言えば賑やかな参詣でした。

> 夜三輪は、私がたいへん好きな場所の一つです。人間がいませんから。
ZOUさんのように一人で夜三輪とは、これは贅沢な楽しみでしょうね。

> 背後の階段下に気配を感じるのは全く気のせいでしょう。それとも手水舎の蛇さんかな?
皇極六年には、三輪山には猿がいたそうですが、最近はどうなんだろう。巳さんしかいないのかな。


三輪山で二三。
三輪山にも修験道があったようで、その名残が若宮社とされる大直禰社で、かっての大御輪寺の存在です。ここには左近の桜、右近の橘がきちっと植えられています。これらは、陰陽道でいう陽−花−桜−左と陰−実−橘−右が対応しているそうです。大和を代表する神奈備である三輪と葛城、南面して見れば陽は三輪、陰は葛城となります。陽の三輪は王権とむすびついた傲慢な存在なのかも知れませんが、それが夜三輪となれば、陰の三輪と言うことになり、これは魑魅魍魎と結びついた怪異な存在としての姿なのかも。
 汝、これを愛するか、ですね。

大福と言う所から三輪山を見ると、−雨だからカシミールで−、三輪山本体の背後に巻向山でしょうか、その山のすそが外側に見えます。三輪山の裾の外側にもうひとつの裾が左右対称になって二重になっています。井上香都羅氏によると、これが三輪山の中心線だそうです。確かに、大福から銅鐸が出土していますし、ここには縄文遺跡もあります。このラインを延長しますと陰の葛城山にあたります。

 夜の葛城、夜の一言主、どんな雰囲気なんだろう。

[958] 夜三輪探訪記  ZOU [Mail] [Url] 2004/10/09(Sat) 02:48 [Reply]
神奈備さん、みなさん、こんにちは。
私はけっこう神社に対して文句や愚痴を言う方ですが、それでも中には好きな神社というのがありまして、とあるキッカケから、好き嫌いを文章化してまとめてUPしようと思っています。で、そのうちの一部に、夜の大神神社のことを書きましたので、その部分を抜粋して投稿させていただきます。夜の大神神社を訪れたことがあるのは神奈備さんほかほんの一部の方々だけでしょうね。こんな場所でした。

私が夜三輪のことを知ったのは、ネット上の友人のサイトの記述によるものです。観光ガイドには絶対と言って良いほど掲載されることはありませんが、奈良県桜井市の大神神社は夜間の参拝が可能です。夜は交通の便がたいへん不便なので、夜に訪れることができるのは車が利用可能など一部の人に限られています。

拙サイトでもネチネチと書いているように、私は大神神社が嫌いです。大和の国の一の宮などとぬかしてふんぞり返っておりますが、やはり神職の態度によるものでしょう、私から見てそのキライ度はかなり上位にあると言うことができます。が、それは日中の大神神社のことです。

夜三輪は、私がたいへん好きな場所の一つです。人間がいませんから。

参道にはほんのりと照明が灯されていますが、足元も見えにくいほどの明るさです。人気の無い参道の両側には闇ばかりが迫り、なんともいえない厳しい雰囲気に感じられます。小さな橋の結界を越え、祓戸社のそばをぬけると、階段の上の小台地には本社拝殿が見えます。

ライトアップされ、闇の中に青白く浮かぶ拝殿は、冷たく美しく、日中の拝殿にくらべて圧倒的な存在感で迫ります。

初めてそこを訪れたときは、「よく来たな」といわれたような気がしました。闇をぬける勇気を持つものに自分の姿を見せてやろうと言っているようなイメージです。ここを訪れるときはたいてい私一人なので、誰もいない境内に拍手が良く響きます。誰もいないはずなんですけどね、背後の階段下に気配を感じるのは全く気のせいでしょう。それとも手水舎の蛇さんかな?

ここに来たときは、必ず次に、拝殿の南側にある神宝神社に立ち寄ります。三輪にありながらなぜか熊野の神を祭る神社です。暗い参道の奥の神宝神社はこじんまりとしていながら、人の行いなど我関せずというようにその存在を主張されています。ここもたいてい一人で行くはずなんですけど・・・・

本社拝殿から北へ、狭井神社に向かう参道は山辺の道と重なります。その道は夜三輪のうちでも最も闇が深く、本当に人を拒んでいるような道です。その道をぬけるときはいつも「早く闇を抜けよう」とあせってしまいます。

狭井神社への鳥居をくぐると、左手に鎮女(しじめ)池と弁財天社。女性への鎮魂の社かもしれません。闇に浮かぶ物言いたげな赤い社には、挨拶に行くこともあれば、こちらの気持ち次第で立ち寄れないこともあります。立ち寄らないのではなく立ち寄れないんです。小さな社ながら、池の中に建つその雰囲気に怖じ気づくこともしばしば。

そうしてすぐに狭井神社が見えます。階段を上がったそれほど広くない台地にある狭井神社は、やはりライトアップされていて、本社とは違った柔らかで優しげな雰囲気です。ですが、ここから参道を振り返ると、そこには強い闇が広がっています。拝殿前の右手には三輪山登拝口が見えますが、そここそがまさに圧倒的で巨大な闇の本源に通じる入口です。晴れた夜ならば、この奥の山頂に月光に照らされる奥津磐座があるはず。そこに行ってみたい気がします。

狭井神社は拝殿に上がることができます。拝殿中央に正座し本殿を見上げる角度で拍手を打つと、社殿の反響によるのでしょう、誰もいない境内にその音は遠くへ、三輪山へしみこむように響きます。夜のこの場所のように、手を打つ音が高く強く鋭く聞こえる場所は他には知りません。そして時々拝殿裏でお水をいただくことがあります。私の場合、実は大神神社本社よりも狭井神社の方が好きなんですよね。

夜の狭井神社から久延彦神社に向かったことがあります。久延彦神社は、直接三輪山を拝することができる唯一の場所です。そして、久延彦神社のすぐそばには「大美和の杜」という展望台地がありますが、そこから見た夜の三輪山の姿は・・・形容しようがありません。黒く大きく静かにたたずんでいます。

私が好きな夜三輪はこんな雰囲気ですね。鋭く厳しく、人を拒みながらも訪れた人には美しい姿を見せるという印象です。冬の晴れた夜だと、木立の間からオリオンが見えるんですよ。綺麗です。

[957] Re[956]: ユイムン(寄り物)  神奈備 2004/10/04(Mon) 17:26 [Reply]
恋川亭さん こんにちは。良い季節になりましたね。
沖縄の手間で検索。
名護市屋部の民俗芸能に「手間戸」と云うものがあるそうな。どんな芸能なんだろうか。

少彦名神の古典での記述から二例

『出雲国風土記』飯石郡 多禰郷。
所造天下大神大穴持命、須久奈比古命と天下を巡行りたまひし時、稲種、此の処に墜したなひき。故、種と云う。

『播磨国風土記』揖保郡稲種山。
大汝命と少日子根命と二柱の神が神前の郡のハニ(即の下に土)岡の里の生野の峰にいて、この山を望み見て、「あの山に稲種を置くことにしよう」と仰せられた。ただちに稲種をやってこの山に積んだ。山の形もまた稲積に似ている。だから名付けて稲種山という。

稲この二神は稲種と深い縁があるようです。スクナヒコとは稲種の霊、穀霊なのかも知れません。『伊予国風土記』には、スクナヒコを目覚めさせるべく温泉の湯をかける話がありますが、春になって水温む季節に芽を出すということを語っているのかも知れません。

この神の故郷は米のルーツかも知れないジャワ、インドネシアとかインドシナだったのかも。ニライカナイのニライとはニルヤ、ネヤ、ネインヤ、ジルヤと呼ばれる常世国であり底根国であるとの意識があったのでしょう。

[956] ユイムン(寄り物)  恋川亭 2004/10/04(Mon) 00:26 [Reply]
 少彦名神と関係があると思っていません、たまたまキーワードが重なっただけの遊びです。『波の穂から寄り来る』、『手の間からこぼれ落ちるほど小さい』、『スク』、『ナ(魚)』・・・と続けば思い至るのに、沖縄沿岸に定期的に寄って来る小魚・スクがあります。
 スクとは、アミアイゴの稚魚のことで、全長2cm程度の小さな魚です。手で掬えば指の間からこぼれ落ちそうなサイズ。毎年毎年、決まって旧暦の6月1〜3日と、7月1〜3日の2回、岸辺に群れをなして押し寄せるという。このスクはニライカナイからの賜り物の尊い魚とされて、祭での供え物や振舞い物となったそうです。

 今では、塩漬けというか塩辛にされてスクガラスと呼ばれています。沖縄の冷奴は、固めの島豆腐の上に数尾のスクガラスが乗せられて出てきました。口に含むとジュワ〜ッと磯の香りが広がります。魚臭さが苦手な人には不向きですが、海好きの人には堪えられない泡盛の肴となります。(海人専用と思いきや、引退した老漁師達の中には『飽きたので肉の方がいい』という人もいました。笑)
 牧志市場の久高島物産店には、とても綺麗にビン詰めにされた(芸術的!)スクガラスが並んでいます。塩辛いものですが、本来の古典的な食べ方は、芋食にあうオカズだったのだろうと想像しています。機会があれば竜宮からの贈り物として試食してみて下さい。
http://www.okinawa1.co.jp/index_dic_sukugarasu.html

脱線:石垣島へは未訪問なので、書籍等からの受売り。
 東北のナマハゲに似た、この島の来訪神マユンガナシ(真世の加那志)はニライスクからの使者とされています。ニライスクとは、本島でいうニライカナイのことですが、このスクとは底のことでしょうか? 根の国・底の国、そのままですね。ちなみに『底つ岩根』の『根』は、釣り人ならご存知の標準語なのですが・・・『粗忽言わね』!?


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