青草談話室ログ平十六年 十二月
2004.8.13
多に蛍火の光く神、及び蠅声なす邪しき神有り。湯嶽神・菊嶽神の集い。
素人のひらめき、力はないが騒がしくなかなか従わない、一寸の草木にもある五分の魂の発露を!
 青草談話室

[1030] 八岐大蛇伝承  かたばみ [Mail] [Url] 2004/12/30(Thu) 21:45 [Reply]
足名椎と手名椎、このふたりがいつのどこにいた人物なのか。

先住者と征服者が争う時、インド神話では蛇を先住者の象徴にしています(ギリシャ神話もそうかな)。
倭迹々日百襲姫と大物主命のごとくも同様。
(これは単純に征服者と被征服者の関係ではない微妙な部分があるとみていますが)
基本的には森の文化と農耕文化(遊牧含む)の対比、これが蛇と鳥に象徴されると考えています。

焼畑の場合は微妙です、山の神でもあり田の神でもあって狩猟(漁労)を同時に行うのがほとんどだと思います。
水稲が広まってからは鳥ですね。木製の鳥があちこちから出土するようになります。

さて、八つの頭をもつ蛇がいるはずもないですから、八岐大蛇伝承はその地にいた農耕を行わない部族との戦いを象徴した説話と考えています。
神武以降の話であるなら神武東征での敵対者のごとく具体的に書かれたかもしれない。


象徴化あるいは神話化されたであろう部分を復元すると・・
二つの抗争する先住部族(縄文)があった。
一方を素盞鳴尊が支援し、勝利を得た部族のオサをその地の主とし、娘を妃とした。
どこにでもありそうなシチュエーションです。
だまし討ちといった類話は記紀にいくつかでてきますから、酒を飲ませての同じ戦法だったのかも。

もうひとつ重要な情報とみているのがウエツフミにでてくる草薙の剣の話です。
素盞鳴尊が得た草薙の剣を天照大神に返還するとき、天照大神は戦いの最中に落とした剣だ、といっています。

これも複合すれば、
ある時代の阿蘇山周辺にアマテラス勢力(水稲)があり、山岳地帯には旧来の縄文文化を持つ部族があった。
アマテラスはそれらの部族と抗争しており、アマテラスが戦闘中に落とした剣を抗争部族が手に入れた。
水稲、焼畑、採集狩猟、それらの部族の抗争にスサノオ勢力が割り込んできたわけです。

足名椎、手名椎とは何者か。
いうまでもなく書紀でいう土蜘蛛、縄文系の部族でしょう。
景行紀でも阿蘇山麓ないし日向山中と見える場所で土蜘蛛が登場します。

ただし、足名椎、手名椎は焼畑を行う部族であり、この部族と抗争していたのは採集狩猟の部族。
この部族が反目し合うことになるのは当然でしょう。
そして非農耕の部族を蛇で象徴したのが八岐大蛇ということです。

日向の五ケ瀬川中流に八峡川ヤカイあり、五ケ瀬川の上流は高千穂、天の岩戸神社などあり。
日向の耳川の中流域にも八峡川と八峡あり、谷が幾筋にもわかれている地形です。
その谷が苔むしているかどうかは不明(^^;

このふたつの川の間にあるのが猿田彦命?の五十鈴川です。
二人は後に八耳ないし八箇耳の名が与えられる(ミミは九州に多い)。

猿田彦命も焼畑系だったとみています、おそらくは半農半漁、こちらは大柄種族でアマテラス勢力(水稲)と友好関係だった・・
足名椎と手名椎はスサノオ勢力に従うことになった焼畑部族。
記紀でいう天照大神と素盞鳴尊が「葛藤」する時代の事象でしょう。


なお、出雲が蛇であるのは東進によって次々に縄文文化と融合して実物の蛇を受けていたためで、象徴化の蛇とは違います。
後に天孫という水稲(鳥)をメインとする側からは象徴化されて扱われたかもしれませんけれど。


持論ではこれらのシチュエーションは大きな流れの一部に包含されていて、年代はBC190頃〜BC150頃とみています。
(この話が出雲風土記にはでてこないとか、地名の問題については略)



列島にタミル語と関連する言葉があったのかどうか、あったとするならば下記のような場合であろうと考えています。
BC12000あたりに遡って、縄文を形成したであろう文化には南方系と北方系があったと考えています。
http://www.tcn-catv.ne.jp/~woodsorrel/k_data/bc20000.jpg
縄文の言語の基幹は両者の複合と人の動きに連動する変化にあると考えています。

言語を比較する場合は当然ながら同じ時代の言語同士で比較しなければならないです。
現在のタミル語は弥生ないし縄文時代ではどういう言語だったのか知りませんが、南方系の言語からインドで登場したのが「原タミル語」で、それが現在のタミル語に変化しているのかもしれません。

だとすれば、縄文形成時に源を同一にする類似生が存在していた可能性があります。
(同時に縄文語には北方系との類似性も存在する、どっちがどうなるかは神のみぞ知る(^^;)

これは東南アジアにも類似性が生じるわけですが、東南アジアはいろいろな人々の流動が大きいのでそこまで遡れる道筋は消えているかもしれません。
しかし、そういう流動の少なかった地域では、なんらかの類似性が残っているかもしれないと考えています。

[1029] >赤の文化  神奈備 2004/12/27(Mon) 21:21 [Reply]
> 糸島半島新町遺跡の支石墓の人骨は縄文人と何ら変わらない骨格なのだそうです。

かって志登支石墓跡の近所の潤神社に参詣したことが」あるんですが、可也山がよく見えていました。その山の名はいつ頃の命名かわかりませんが、半島南部のカヤの国と支石墓とは関連があるのだろうと思われます。半島南部から押し出された倭人は縄文人の体質だったのかも。
http://www.kamnavi.net/it/tukusi/maebaru1.htm

遠賀川流域付近、国生みの順から見たUターンポイントとは面白い発想。ここの名を持つ遠賀川志紀土器の分布を物部東遷と見たのが関西で人気のあった鳥越氏、弥生文化の運びやとしての物部、どうなんだろう、赤い土師の文化、いや赤っ恥かな。

[1028] Re[1027][1026][1023]: 赤の文化4  かたばみ [Mail] [Url] 2004/12/27(Mon) 20:21 [Reply]

背振山を囲むように甕棺を好む人々が急増した。
遠賀川流域ではそういう人々の急増はなかった。

支石墓はいろいろな形式があって一把ひとからげにはできませんが、半島南西岸に密集しています。
http://tokyo.cool.ne.jp/woodsorrel/data/shisekibo_hantou.png
登場は水稲の広まる時代におおよそ一致し、甕棺と支石墓が組み合わさった形式もあります。

支石墓も半島で水稲とともに広まった墳墓形式ではなかろうか。
日本ではそれほど広まらなかったけれど北西九州に登場しています。
甕棺が九州でブームとなったのはもともと東北縄文に類似があり、土器という縄文の得意技があったからじゃないか。

半島での水稲遺跡の年代は南西岸のほうが半島北部より古いですから水稲伝播の北回りルートはありえません。
水稲が長江〜江蘇省から運ばれたのであれば、仮に九州が目的地であったとしても山東半島南岸を経て半島南西岸へ上陸するルートが最短かつ安全だと思います。
(南西諸島北上ルートがありますが、こちらについては略)

南西岸上陸後の水稲はまずは南の暖かい地域へ展開してゆくはずです。
BC500頃、中国の戦乱からの脱出者も含めて稲作文化をもつ人々(得た人々)が半島南西岸、済州島、対馬、北九州など「縄文系文化圏」に展開しはじめた。
http://tokyo.cool.ne.jp/woodsorrel/data/bc800.png

この一帯で稲作を糧にする人々。これらの人々が後に中国からいう「倭人」(の源の「委」)だと考えています。
先住の海人系の人々とも沿岸部で重なってきます。
友達の友達もみな友達、広げれば台湾やフィリピン付近まで倭とみなされる場合も生じたかもしれません。

文化?血?言葉? ごちゃ混ぜでしょう(^^;
お墓も甕棺、支石墓、土壙墓、木槨、石箱、どれでもお好み次第。
裕福になった者は高価な赤を入手して墓に使うようになったかもしれない。


それぞれの文化を持つ人々がそこに定住し、それぞれの故郷と交流を継続していた。
半島南西岸〜九州北岸は中国の戦乱から逃れた人々と水稲の人々の渡来で東シナ海や東南アジア、山東半島や内陸部にまでつながりをもつ交易拠点になっていったのではなかろうか。

旧来からの交易先である東北縄文にもそれがもたらされた。
山形県から中国内陸系の青銅刀子がでたりするのは、ここと東北縄文との交易によって中国文物が東北へも運ばれたことによると考えています。

http://www.tcn-catv.ne.jp/~woodsorrel/kodai/g01.files/08/tousu02.gif
http://www.tcn-catv.ne.jp/~woodsorrel/kodai/g01.files/08/korekawa01.gif
http://www.toonippo.co.jp/kikaku/korekawa/new_index.html

糸島半島新町遺跡の支石墓の人骨は縄文人と何ら変わらない骨格なのだそうです。
山口県土井ケ浜の弥生人骨(BC150頃)のように「渡来系の骨」であることが予測されていたらしい、が、そうではなかった。

北九州にいろいろな文化を持つ人々が水稲文化を得てワイワイとやってきた。
洋服を着ていても西洋人とは限らない、そういう状況になっていたのでしょう。


それでは遠賀川流域で甕棺が登場していないのはなぜか。
遠賀川流域も扇状地となっていて水稲適地と思えますが、ここには貝塚が多数あります。
縄文時代から「空き地」ではなかったからだと考えています。

遠賀川流域に縄文後期あたりから瀬戸内式の縄文土器が登場します。
BC2000頃からの寒冷化時代に西を目指した瀬戸内縄文の人々がやってきていたからだと考えています。

さて青草を一気に高めます(^^;
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
伊弉諾伊弉冉神話での国生みは、淡路から始まって四国、九州と西へ進み、折り返して日本海を壱岐、隠岐、佐渡と東へ進みます。
神話に源となる事象があり、これがそれを伝えているのであれば北九州が折り返し点ということになる。
(最後に登場するのが大倭豊秋津島・・これを何処とみるかによりますが、出雲勢力の登場にからむものとみております)

寒冷化で西へ移動していた(縄文の)人々が、温暖化に転じた時点で東への移動に転じた、すなわち弥生の始まりを示す転換点が遠賀川流域ではないか。

記紀神話における禊ぎとはその転換を示す、古きから新しきに生まれ変わっての再出発を示す。
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BC2000頃からの寒冷化によって少しでも温暖な地域へ移動する人々がいた。
列島では北から南、あるいは東から西へ、あるいは山岳から平野部へ。

半島でも同様で北から南へ、さらには海を渡って九州までも。
水稲が登場するはるか以前から北九州沿岸に半島の人々がぽつぽつとやってきていた。
支石墓はまだ登場していない時代です。

BC800〜BC400、中国では春秋〜戦国時代となります(これも寒冷化による混乱が引き金とみています)。
戦乱から脱出する人々が半島へ南下し、その混乱からさらに南下する人々もいた(戦争避難民)。

三国志東夷伝に、箕子朝鮮に秦、燕、斉、趙の避難民数万が到来、とあります。
半島北部の箕子朝鮮は大量の避難民によって混乱状態になっていたと思われ、BC195には「燕の衛満」によって国を奪われてしまいます(衛氏朝鮮)。

黄河流域から山東半島経由で朝鮮半島南西岸に脱出してくる人々もいたでしょう。
(後には始皇帝後裔が秦滅亡時に南西岸(馬韓)に脱出したともされる、魏志韓伝)
これらの人々によって黄河系の畑作技術が半島と九州北部に運ばれてきたきたと考えています。
麦、大豆、粟、稗などの最新の畑作技術です(山東半島は畑作地域です)。

これが記紀系譜でいう「大年神」の文化ではないか。
http://tokyo.cool.ne.jp/woodsorrel/data/kami_ootoshi.png
その系譜の列島側の拠点が遠賀川流域ではなかったか。

遠賀川流域にあった縄文文化に畑の文化が融合し、大年神系の穀物文化が先に定着していたために、ここには水稲に関連する文化の広まりは少なかった。
弥生の始まりはBC1000〜BC500頃の遠賀川流域にあり、記紀系譜の大年神がそれを示す。

畑作系と水稲系の文化の違い、以前に書き込みがあった「大歳と大年」の源となる農耕儀礼の違いがここに生じているわけです。
赤の文化がどうかはなんともいえませんけれど。


BC200頃、甕棺の登場とともに、短剣や鏃がぶすりとか首を切り取られた遺体がぞろぞろ登場しはじめます。
定説では・・農耕がはじまり、ムラができ、王が登場し、クニができ、そして争いが始まった・・ですけれど。
少なくとも、北九州の水稲登場の地域ではちょっと様相が違うと考えます。

入植者は最初から「国家や王の存在」を知っています、自然発生(熟成)ではない「土地と支配」の意識が最初から存在していた。
その意識同士の争い、個人レベルに近い争い、アメリカの西部開拓史での牧場主の争いみたいなものでしょう。


HgSはその殺された遺体に登場します。
九州へやってくる途上で中国あたりで入手したHgSかもしれない。
半島南岸〜九州北岸の縄文系文化圏でHgSの赤土が発見されていたかもしれません。
このあたりはなんともいいがたし。

これがBC1000〜BC200頃までの状況。
そしてスサノオが登場、段階をふまずに突然に「王の意識を持つ男」が北九州に登場した。

続く

[1027] Re[1026][1023]: 赤の文化3  かたばみ [Mail] [Url] 2004/12/23(Thu) 20:23 [Reply]

九州での赤は遠賀川河口の山鹿貝塚が最初とみえますが、赤の内容についての情報がない。
(朱の考古学/雄山閣、骨の周囲の一部の土が赤く見えるという情報しか知りません)

18体の骨のうちのひとりの女性はかんざし2個、26個の貝輪をつけ、骨の一部が抜き取られているようで、なんらかの祭祀と関わってるのかもしれない。
カラー写真でみる限り、骨の周囲の赤が顔料であるなら埋葬穴全体に敷き詰めたようにみえます(すなわち北海道や東北と同じ)。

遠賀川流域は縄文時代には海であり、土砂堆積によって徐々に平野化してゆきます。
この湾の一番奥に椎木山遺跡があり、そこから2万〜1万5千年前の旧石器と竪穴式住居跡が出土しています。
ねつ造騒ぎの余波もあって住居跡については再検討の声もあるようですが、南廻りの旧石器人が住んでいたのでしょう。

遠賀川河口域には縄文貝塚が多数あって、縄文早期から後期に至る間の土器が出土していますから、この一帯は旧石器時代から途絶えることなく人々が住み続けていたとみえます。
海あり川ありで山に囲まれたよい場所に感じます、山に囲まれたヤマ・トの地。
(魚ウ菜ナの潟カタ、ウナカタでもある地(^^;)

もともと西日本の縄文人口は少ないですから、三内丸山ほどの巨大集落にはならなかっただけで、九州で最大級の縄文拠点のひとつだったのではなかろうか。
(ついで阿蘇山麓か)
人が住み続けていたなら文化も継承されていたはずです。赤の文化も同じ。


太平洋沿岸を東日本から九州まで丸木船で航海するのは距離が長いしデコボコが多くていささか危険。
しかし日本海沿岸なら距離も短くずっと安全そうです。
富山湾、若狭湾、宍道湖とおあつらえ向きの休憩所がならんでいます。

九州の糸島半島に縄文遺跡は少ないですが、阿蘇周辺には東北の土偶と類似の土偶があります。
糸島の広田遺跡からは石川県や岐阜県付近の地域限定石器がでており、東日本の縄文と交流があったことは確実です。
http://f1.aaa.livedoor.jp/~megalith/kouko26jyomonstone.html

東日本縄文が九州縄文に求めたのは南海産の貝じゃないかな、腕輪や装飾用のゴホウラ貝など。
九州に東日本で使える新文化が登場すれば、これもただちに東に運ばれてゆくでしょう。
運ぶのに必要なのは数年だと思います(持論ではその人々を初期開拓者と称しています)。

青森県砂沢遺跡の水田遺跡
http://www.komakino.jp/tyomei-iseki/sunazawa.html
年代の扱いが微妙なようですが九州の水田登場とほとんど同時期と考えることができると思います。
旧来の考えでは近畿より先に東北に水田が登場してはいささかまずい・・(^^;

下図は砂沢遺跡出土の土器です(日本の古代遺跡/青森)
http://tokyo.cool.ne.jp/woodsorrel/data/doki_sunaba.jpg
どうみても弥生土器じゃない、でも弥生の高杯を縄文感覚で作ればこうなりそう。

北九州縄文と東北縄文は時間軸でも同一文化を保有できた。
ただし、環境の違いなどからみな同じ文化には決してならないでしょう。
方言のごとく地域性は様々に生じるはずです。
逆に、出雲と東北のズーズー弁、あっさり同源ともいえる。

赤の文化がその中間地域にないとすれば発見されていないだけか、なんらかの理由で使われなかっただけではなかろうか。

それどころか・・

半島での土器登場はBC4000〜5000頃で、最古とされるのが済州島の高山里遺跡(隆起文土器)。
http://homepage1.nifty.com/rekisi-iv/report/tokubetuten/20010217doki2.htm
済州島ですから半島とはいえないかもしれない。
半島南岸部では全羅南道や慶尚南道などから準ずる古い土器がでています。
(半島全域で使われる櫛目文土器の登場はずっと後です)

高山里遺跡では九州の縄文土器もでているし、石鏃は佐賀県産の黒曜石だそうです。
http://www.asahi-net.or.jp/~XN9H-HYSK/tour/korea/album.htm

半島の土器年代と実年代の関係がいまひとつはっきりしませんが、半島の最古の土器は縄文土器と兄弟である、そう考えてもよいと思います。
半島南岸、済州島、九州北岸、が日本海沿岸を介して東日本縄文とも交流していた。
極論すればこの範囲は同一文化圏。


それでは弥生時代での赤の流れはどうか。
少し視点を変えます。

国立民族歴史博物館研究員の藤尾慎一郎氏の研究から
http://www.rekihaku.ac.jp/kenkyuu/kenkyuusya/fujio/index.html
その甕棺の登場と消滅の概要をアニメ化したのが下図です。
http://tokyo.cool.ne.jp/woodsorrel/data/kamekan_kyushu.gif

濃く大きい赤ほどそこに大量の甕棺が登場することを意味します。
糸島半島にはじまって糸島半島でおわっています。
甕棺の登場と拡大が初期水田遺跡の位置と一致していること、縄文遺跡がたくさんあった遠賀川流域には甕棺がないこと、に注目です。

続く

[1026] Re[1023]: 赤の文化2  かたばみ [Mail] [Url] 2004/12/20(Mon) 23:59 [Reply]

土器を赤く塗るのは旧石器時代に遡る文化に源がありそうですが、葬送儀礼に赤を使うのはいつごろからか。

中国での赤、黄河流域では仰韶文化(BC4000頃)など赤と黒の彩文土器があります。
墓にこれらの土器が副葬はされていますが、赤顔料を墓に施した情報はありません。
また鉄分の多い土で焼いた土器だから赤いのであって意図的に赤としたのではないかもしれません。

長江の河姆渡遺跡(BC4000頃)の土器は鉄分が少ない土で赤くはなく、赤の彩色もないようです。
赤を用いる墓制の情報もありません。

その後の良渚文化BC3000頃〜BC2000頃)でも赤を用いる墓制はありません(土器は黒彩がある)。
実はこの系譜の中国伝承で言う三苗に注目していますが、しかし情報がない。
ほぼ同時期の山東半島〜黄河中流域の龍山文化でも赤の墓制はありません。

支石墓にも赤はみえません。
下って高句麗、百済、伽耶、新羅・・ある時期から金や金銅の副葬品が登場しますが赤はない。

ないないない(^^; 知らないだけかもしれませんけど。
しかし九州の甕棺には赤がある。
列島での赤の葬礼はいったいどこからやってきたのでしょうか。それとも独自文化?

フィリピンパラワン島のタボン洞窟遺跡。
http://user.komazawa.com/~tanpopo/chikyujin/2/tabon/tabon.htm
3万年前から8500年前あたりがいわゆる旧石器に相当するようで、ナウマン象もいたらしい。

ここでBC500頃に甕棺が登場しています。
大きい甕に小さい甕で蓋をする合わせ型があり、九州とそっくりです。
(九州での甕棺はBC200頃からですが縄文全般ではでは子供の埋葬に壺を使っている)

土器にベンガラによる赤の装飾があり、同じパラワン島のエル・ニド遺跡からは赤に着色された人骨が発見されています(東南アジアの考古学/同成社)。

で、付近には少彦名命につながるかもしれない勇猛な小人族のネグリートもいるのであります(^^;

ここまでの状況からは、
縄文後期あたりにフィリピンあたりから赤の葬礼をもつ人々がやってきて九州の西岸や北岸に定着していた。
(海を得意にする人々、ひょっとすると海神族にも関係するかもしれない)
この人々は半島南岸にも定着していたかも知れません。環境が北九州とほとんど同じですから。

この文化が婚姻によって九州の先住者や渡来者にも取り込まれ、甕棺と赤の葬送が広まっていった。
葬礼に影響を与えるとすれば、相当な人数あるいは文化があったと考えるべきと思います。
(当然ながら言語にも影響を及ぼしているはずです)

フィリピンのその当時の文化は多様だそうで、同じ地域からやってきた人々でも異なる文化をもつ場合もあったかもしれません。
また「倭人」の形成に大きく関与したかもしれません。
沖縄ではどうかなあ、後の中国の影響が大きすぎて痕跡は消えたか。


葬送に用いられる赤と土器彩色での赤はとりあえず別に考える必要もありそうです。
列島での赤彩土器が縄文初期に遡ることは間違いないので、これは旧石器文化に普遍的にあったものの継承とみておきます。

なお、北九州の三雲遺跡や比恵遺跡出土のHgSは水銀としての副葬品であって、赤の葬送とは異なるものととりあえず解しておきます。
HgSを水銀として意識する渡来者の所持品をそのまま副葬したもの、ということです。

すなわち中国の王族。
中国王族しかもてない副葬品を伴っており、後の墓ではそういう副葬品は出土しないことから、渡来者の1代限りのものと考えられます。
(すなわち、天之忍穂耳等の天孫の親たちであります)

ただし、その子や孫が前記の赤文化を保有し、水銀とは別の意味で父や祖父の埋葬に赤を用いる可能性はありそうです。

中国の原始道教の方士は錬金術や仙丹を極秘にしているはずです。
アマルガムで金ができたなんて売り込むインチキ方士も少なからずでしょう。
徐福はどうかなあ(^^;
錬丹術などが公になるのはAD300頃、「抱朴子」が書かれて以降ではないかと考えています。

当時の列島でのHgS認識は「より鮮やかな赤」であって、水銀という物質の有無は認識外だった。
葬送で顔から辰砂、胸や足などからベンガラが検出されるのは、水銀だから顔に使ったのではなく、より鮮やかな赤を顔に使ったからだと思うのです。

続く

[1025] Re[1022]: 光・・・あれレッ?  恋川亭 2004/12/19(Sun) 23:19 [Reply]
 ひと月以上のご無沙汰です。光通信を申し込んでから1年の波乱万丈を経て、やっと配線が引き込まれたのですが・・・、切替え後の接続がうまくいかず、1ヶ月ぶりにアクセスができるようになりました。
 でも思ったほど速くないので、詳しい人に尋ねると『高速道路に乗り入れたからといっても、改造もされていない軽自動車クラスですからネ』という御回答。シクシク(T_T)
 旧式ノートパソコンで今夜から久々に頑張ってます。

さて、アイヌのお話しに触発されて。
 C・W・ニコルさんの対談集『ボクが日本人になった理由』(ビオシティ刊)〔副題:今の日本にはじめてやってきたらボクは日本人になっただろうか?〕の中に、二風谷アイヌ資料館館長:萱野茂先生との対談が集録されています。
 その中に、かつてアイヌの村を囲むように存在した『チノミシリ』という聖地の話が出てきます。カムイイピリマ・・・キツネやフクロウの声に仮託して、神様がこっそり耳打ちしてくれた場所だそうです。面白いヨ、機会がありましたら図書館ででもご覧下さいね。(この対談本。私には、結構、大切な話題が多くて、時々読み返したりしています。)
 現代となって(今こそ)言えることは、『聖地は何があっても大切に守る』という姿勢を持つことではないかと思うのです。多忙ではあっても、タブーを犯さないのが原則かと、多分。
(『よく言うよッ!』って、つぶやきが聞えるけど)

[1024] 朱の疑問  神奈備 2004/12/19(Sun) 21:53 [Reply]
呪術的効果(魔除け)の朱は辰砂でもベンガラでも同じなのかな?

アマルガム中の水銀を蒸発させて金を大仏さんに貼り付けたのですが、蒸発した水銀はどうなったのでしょうか。冷えれば液体になって降ってくるのかなのかな?

[1023] 赤の文化1  かたばみ [Mail] [Url] 2004/12/19(Sun) 12:50 [Reply]

赤を用いるのは世界中で普遍的。
なぜ赤なのかはわかりませんが、入手しやすい色ではありそうです。
ベンガラ(赤鉄鋼ヘマタイトなど)は褐鉄鉱を300℃ほどで焼けば作れ、褐鉄鉱は鉄分を含む水があれば自然生成もされる世界中普遍の素材。
http://www5e.biglobe.ne.jp/~j-kan/takasikozo.htm

赤い色、日本で最古は約2万年前の旧石器時代で千歳市柏台遺跡(1997発掘)で赤顔料が作られています。
http://www004.upp.so-net.ne.jp/north-islands/kashiwadai.htm
http://homepage3.nifty.com/tmizuno/kyuusekki_isekivisit/kashiwadai.html

HgSはいまのところ発見されていませんが、黒曜石で有名な白滝村(大雪山の北東側)の黒曜石もここで使われています。
白滝村の南隣は後のイトムカ水銀鉱山。

なお、褐鉄鉱を炭といっしょに焼く・・原始製鉄の発見につながる可能性大、世界中で。

カムチャッカやシベリア方面に同類があり、新潟県下田村荒沢遺跡でも旧石器時代の赤顔料とみえる発見があるようです。
この赤の文化は若干形を変えながら縄文中期では東北でも盛んです。

赤を施しているのは土器、土偶、装飾品、赤漆など多数で、石鏃まで赤く塗られたものがあります。
装飾から祭祀、広範囲に赤が用いられていたのは間違いなさそうです。
(葬送では床面に赤顔料を敷き詰める特徴がある)

この北方系の赤は関東、東海、中部ではいまのところ確認されていないようです。
旧石器文化に普遍的だったけれど、縄文化によって東北以南では消えてしまった、そう考えることができそうです。
そして、縄文時代末期〜弥生初期では東北の赤文化も急速に消滅します。


九州での赤顔料の確実な登場は北方系の赤の消滅と入れ替わるように縄文後期からです。
ほぼ同時にHgSの赤も登場しています(赤顔料中にベンガラと混在する)。

使い方が北海道系とは異なるので半島経由とされるようです。
確かに関東や中部では赤文化がみあたらないですから、縄文時代に北から伝播したものではなさそうです。

しかし、大分県の二日市洞窟遺跡で縄文初期1万年前とみられる赤痕跡のある無文土器が発見されています。
また、宮崎県塚原遺跡
http://www.miyazaki-archive.jp/d-museum/unit/maibun/2003/ma0027/
こちらも1万年前の赤塗り土器。

熊本県小野原遺跡コノバル
http://www.pref.kumamoto.jp/education/hinokuni/hakkutsu/kekka/konobaru/Q6_most.htm
弥生では床に播く例も存在しているようです。

日本の旧石器文化は北海道から南下する流れと、半島から九州〜瀬戸内への流れの2系列のあることが石器の違いからわかっています。

どちらの旧石器文化にも赤の文化があり、西では縄文化(南方系文化の優勢)で赤の文化は消えていったのではないか。

BC2000頃からの寒冷化によって黒竜江など内陸で生きていた赤文化が南下し、半島から再上陸したとみることもできると思います。
北朝鮮〜黒竜江あたりの情報が少ないのが歯がゆいところですが。


北九州の弥生前期(ここでいう前期はBC300頃)から中期での甕棺でHgSが使われています。
しかし、墳丘を伴う少数の甕棺だけで一般人?の甕棺では使われていません。
また、ベンガラとの混用のようです。

これらのHgSは半島経由で持ち込まれたものを支配者階級が使っていたのでしょう。
例えば吉野ケ里遺跡の初期の主、出土している細身銅剣の形式は半島のものですから、半島系ないし半島とつながりの深い支配者だったのでしょう。

甕棺の衰退する年代(AD100頃)になるとHgS使用ははわずかになってほとんどがベンガラになります。
HgSの入手が困難な状況になったと思われます。

続く


[1022] アイヌの伝承  神奈備 2004/12/18(Sat) 20:55 [Reply]
「あの世の入口−いわゆる地獄穴について」知里真志保、山田秀三
洞窟にまつわるアイヌの伝承から

1.あの世から来た幽霊の姿が我々に見えないように、この世から生ながらあの世に行った人の姿はあの世の人々には見えない。

2.ただし、犬だけは、この世の犬があの世から来た幽霊の姿を見ることができる。あの世の犬も同様。

3.この世とあの世では夜と昼とはあべこべ。

4.この世とあの世とでは時間の経過が違う。あの世で数時間すごしたばかりだと思ったのが、帰ってみると十数日も経過している。

5.あの世のものを食ったらもはやこの世に帰って来られない。「よもつへぐい」である。

6.あの世から帰って来たものはすぐ死ぬ。長くて一年。ただし誰かを身代わりにやれば、その人は逆に長生きする。

7.あの世は地下にある。ボクナモシル(下方の国)と呼ばれる。またカムイコタンとも呼ばれる。そこは善人の魂の安住する楽しい世界。洞窟を極楽穴と言う。

古来からの基層の考え方と仏教との影響が入ったような伝承ですが、天岩戸や浦島伝説など、記紀風土記にも反映しているようです。

[1021] Re[1020]: ケガレと習慣  ZOU [Mail] [Url] 2004/12/18(Sat) 01:17 [Reply]
目立ってますねえ・・・皆様へのお目汚し、お詫びいたします。
「勇み足」な表現があったことは「非常識と思われても仕方が」ないとの自戒を込めておりますが。

>僕は「年賀状」のことにしか言及しておりません。

年神様についての書きこみで「死穢」を出し、その後、「死穢」が伝染するものであるという話をさせていただきつつ「触穢」という言葉を使いました。枝葉に対応させるなら、「死穢」や「ケガレ」が根っこになり、「触穢」が幹になるという流れで話しています。ために当初のタイトルを「ケガレと習慣と」にさせていただきました。そして、

ZOU>聖地の女人禁制を撤廃してもおっけーかも。→→血穢・産穢
Z>喪中の家に年賀状を出して「ハレ」のエネルギーを送っても良いかも。→→死穢
Z>焼肉定食を食べてから神社に行ってもおっけーかも(^^;)→→食肉穢

上記3件は、その内部に「穢」という共通項を持つサンプルとして出させていただきました。年賀状ばかりが目立ってしまいましたが、年賀状を含む上記3件の表象面は枝葉のことです。

>玄松子>> 喪中の家に年賀状を出して「ハレ」のエネルギーを送っても良いかも。
>玄松子>これは押し付けではないですか。

>この一文に関する意見です。

断じて押し付けではありません。

Z>で、まあ、個人的には「ケガレ」を無意味なものとしてとらえていこうと思っています。聖地の女人禁制を撤廃してもおっけーかも。喪中の家に年賀状を出して「ハレ」のエネルギーを送っても良いかも。焼肉定食を食べてから神社に行ってもおっけーかも(^^;)

クルマの運転に「かもしれない運転」という未来を予想する言葉があるように、上記は、あくまで時間軸上の未来に向けて発したものです。特定の誰かに向けたものではなく、事象の予想を断定する意味も持ってはいません。なので、他者に意見を強要するなどの非礼な態度を取った覚えはありません。習慣についても、私の次の世代、次の次の世代も含む将来は変化していってほしいという意味の期待を述べました。これも他者に意見を強要した覚えはありません。

>現状は服喪も服忌も同じものです。
>あえて、違いを誇張する必要もありません。

忌の期間と喪の期間は違う数値が設定されており、広辞苑などでも違う意味に解説されているので、現状で両者は違うものと認識しております。書き込み当初より混同はしていないつもりであり、主に忌についての発言を繰り返しております。今後も混同して考えるつもりはありません。

>その期間が時と場所によって変化するからといって無意味なものでもありません。

物理的に実体のない物は、時と場合によりどのような意味も持たせられます。そのように実体の無いものが、「触穢思想」に表されるように人に伝染すると考えることが感心できないと思っております。

[1020] Re[1019][1018]: ケガレと習慣  玄松子 2004/12/17(Fri) 07:50 [Reply]
> ここが根っこですね。年賀状のことなどは枝葉のことでしかありません。

僕は「年賀状」のことにしか言及しておりません。

> 他者に意見を強要するなどの非礼な態度を取った覚えはありません。

玄松子>> 喪中の家に年賀状を出して「ハレ」のエネルギーを送っても良いかも。
玄松子>これは押し付けではないですか。

この一文に関する意見です。

> 「悲しみから復帰する」と「気枯れを克服する」を混用されませんように。
> 「喪に服す」とは、「残った人々が悲しみから復帰する」意味であり、私が言う「いま生きている人の意思を尊重する」ことで、これが喪。「死穢を祓う」ことは「気枯れを克服する」ことで、こちらが忌みになります。忌みの期間が、鎮魂や悲しみの克服とは関係なく神式で最長50日とされています。喪は否定しませんが忌を否定したく思っています。

喪は、人の死ですから、服喪と服忌の違いのことをおっしゃっているのだと思いますが、本来の忌は斎ですから、精進して神に近づく行為ですが、現状は服喪も服忌も同じものです。
あえて、違いを誇張する必要もありません。

> 「死穢」を含むケガレとは、測定計測可能な物理量や半減期のような時間も無く、

その期間が時と場所によって変化するからといって無意味なものでもありません。
冠婚葬祭等すべてにおいて、場所や状況によって変化はします。人によっては行わない場合もあるでしょう。
ですが、行っている方に、「喪中の家に年賀状を出して」というのは非礼です。

[1019] Re[1018]: ケガレと習慣  ZOU [Mail] [Url] 2004/12/17(Fri) 01:25 [Reply]
>ですから、わざわざ「死穢」を無意味とする必要はありません。

ここが根っこですね。年賀状のことなどは枝葉のことでしかありません。そして、ここがどうやら意見の相違がある部分でもあります。

>新年の祝いは、個人的慣習ではなく、共同体の統一行事ですから、
>個人の解釈を押し付けるのは非礼です。

過去の、足を運んでの年始まわりから、年賀状・電子メールまで挨拶の手段は変わってきています。共同体の統一行事であっても、時代や通信手段の変化に合わせ、多くの人がもとの思想背景を意識しそれを変化させていってほしいとの期待を述べたものです。他者に意見を強要するなどの非礼な態度を取った覚えはありません。

なぜ変化を期待するかといえば、根っこにある死穢を含むケガレという概念は、「触穢」という思想があり「伝染する」という考え方があるように、人に向けて発動されることがあるからです。民俗学では、「エンガチョ遊び」を、この概念の説明に用いることが多いようです。

>「喪に服す」とは、「死穢を祓う」という意味もありますが、
>もうひとつ、残った人々が悲しみから復帰する、つまり
>「気枯れを克服する」という意味でもあります。

「悲しみから復帰する」と「気枯れを克服する」を混用されませんように。
「喪に服す」とは、「残った人々が悲しみから復帰する」意味であり、私が言う「いま生きている人の意思を尊重する」ことで、これが喪。「死穢を祓う」ことは「気枯れを克服する」ことで、こちらが忌みになります。忌みの期間が、鎮魂や悲しみの克服とは関係なく神式で最長50日とされています。喪は否定しませんが忌を否定したく思っています。

以下は、喪ではなく主に忌みの話です。
手持ちの本からケガレに関した部分を引用します。

******************
☆延喜式から
凡そ穢れ悪しきことに触れ、まさに忌むべきは、人の死は三十日を限る、産は七日、六畜の死は五日、産は三日、それ宍(しし)をくらわば三日 

☆京都祇園社「服忌令」(15世紀)から
・月のさわりの人、十一日すぎて(神社に)まいるべし。
・産したる人、十日すぎてまいるべし。
・猪鹿食いたる人、五十日、相火の人、三十日、相火の人、三日から七日すぎてまいるべし。
・産み流し、三月までは七日、四月よりは三十日、死穢に同じ、三転まで忌むべし。
・五体不具の穢、七日すぎてまいるべし。
・六畜の死穢、五日すぎてまいるべし。
・六畜の産穢、三日すぎてまいるべし。  etc.
******************

これらの条件に当てはまる人がケガレを負い、ケガレが消滅するまでは神社に行ってはいけないことになります。こうして見ると、ケガレとは、伝染性の病気や害のあるエネルギーのように見えます。ところがサン・グリーンさんのご投稿[1015]でもわかるように、ケガレを克服する忌みの期間や内容は時と場所によって変化しています。

この習慣が、明治以降現代に残ったものが父母の死を忌む期間が50日というものです。それは、親子親族の関係によって長短が変えられ(ついでにいうと喪の期間も親子親族によって違い、最長が13ヶ月です)、さらに明治期の職制上の理由からも変化させられました。あまり休まれると仕事に差し支えるからという理由で、「共同体の統一行事」が変化させられたと解釈することができます。

また、「死穢」の発生する時点についても、葬送の時(土葬)、壷に御骨を収めた時(火葬)、行方不明者が死体で発見された時、行方不明者が行方不明になった時など、混乱とも言えるほどのパターンがあるそうです。同時に、肉親からだけでなく他人や獣蓄の死からも「死穢」を受けます。

ともあれ、このように人間側の勝手な運用ができるのは、忌みの期間のもとになる「ケガレ」に実態が無いからでしょう。

>ですが、他人が、それに対しとやかくいう筋のものではありません。

忌みの期間内の神社参拝に対しとやかくいうのは神社(を運営する人間)側であり、それは、再度サン・グリーンさんのご投稿を参照させていただくことでわかります。私としては、結果的に泊瀬女さんの行動を支持しています。

>ですから、わざわざ「死穢」を無意味とする必要はありません。

「死穢」を含むケガレとは、測定計測可能な物理量や半減期のような時間も無く、その強弱は人の運用次第でどのようにでも変えられます。なので、それは人の観念の産物であり実態の無いものでしょう。実態が無いがために無意味としました。さらに「触穢思想」に表されるように人に伝染し、時によって「穢れた人」というような感心できない表現をも生みます。意味があるとすれば、人と人との関係の中でケガレという概念がどのようにとらえられてきたかという意味でしょう。

あとはお読みになる方々のご判断で。

[1018] Re[1016][1014]: ケガレと習慣  玄松子 2004/12/15(Wed) 18:12 [Reply]
>新年の挨拶のような習慣は、ハレもケガレも死穢も関係の無い、無宗教または汎宗教的な習慣として残ってほしいと思います。

新年の祝いは、個人的慣習ではなく、共同体の統一行事ですから、
個人の解釈を押し付けるのは非礼です。


> 「死穢」を無意味とし、いま生きている人の意思を尊重すれば、そこに矛盾は無くなります。

「喪に服す」とは、「死穢を祓う」という意味もありますが、
もうひとつ、残った人々が悲しみから復帰する、つまり
「気枯れを克服する」という意味でもあります。
その克服に必要な期間は、人それぞれで、他者からはわからないこと。
そのおおよその期間として、49日や50日が定められている。
この期間は、鎮魂の期間にあて、鎮魂を通して、残された人々が
復帰する努力をするという意味で必要な期間です。


> >神様に叱られた感じはありませんでしたね。

これは、泊瀬女さんの復帰ができたということでしょう。
泊瀬女さんの中で、復帰作業を行われ、ある結論に達したということ。

ですが、他人が、それに対しとやかくいう筋のものではありません。
復帰できている人には、新年の挨拶も良いでしょうが、
できていない人には、残酷な仕打ち。
できた/できないの判断は難しいので、おおよその期間が設定されており、
他者はそれを判断の尺度とし、残された人々も、その期間内には復帰するべきであるという、モノサシであるのです。


> 泊瀬女さんは御父君が御逝去されてからの忌みの期間(正確には分かりませんが)に神社を参拝され、50日の喪が明けての新年の挨拶を拒否されるという矛盾に陥りかねません。

泊瀬女さんが、「新年の挨拶を拒否」しているわけではありません。
一般的に、失礼であるとおっしゃっているだけで、矛盾はありません。

> ですが、「死穢」を無意味とし、いま生きている人の意思を尊重すれば、そこに矛盾は無くなります。

ですから、わざわざ「死穢」を無意味とする必要はありません。

[1017] Re[1014]: ケガレと習慣  神奈備 2004/12/15(Wed) 15:42 [Reply]
 泊瀬女さん、御尊父の御逝去、お悔やみ申し上げます。

 我が家の墓は神社の奥にあり、お参りする場合には、鳥居をくぐらなければ行けない立地です。従って、葬儀の日をはじめ、都度都度に神社の境内に入ることになります。そうしますと、本殿を遠くから見ることになり、拝礼をして通り抜けることになります。

> 早朝参拝した神宮・内宮のご正殿には進めず、石段の下で拝礼しました。

 早朝の神社は特に良いですね。この前、春日大社に早朝にお参りいたしましたが、凛とした空気と静寂さは、やはりただごとではない雰囲気を醸し出していました。宮司さんが摂社を順々に参拝なされていましたが、三礼二拍だったような気がします。

 春日大社へ行きますと、若宮(今日からおん祭りですね)の前を通り、紀伊神社に参詣するのが小生の慣例になっています。それから春日奥山を散策しましたが、人っ子一人いない所に駐在所があり、何と、一人が座っていました。町の中には無人駐在所が多い中、奇特なことでした。

[1016] Re[1014]: ケガレと習慣  ZOU [Mail] [Url] 2004/12/15(Wed) 00:35 [Reply]
泊瀬女さん、ご無沙汰しております。
以下は「ハレ・ケ・ケガレは循環する」という考え方からです。

人は日常の生活である“ケ”の状態から、様々な要因で“ケガレ”に陥ります。ここで一定期間身を慎んで枯れたエネルギーの回復を待つのが物忌みということになり、これを消極的な解決法と表現した先生がいらしたかと思います。対して、祭りは“ハレ”の場であるので、祭りに参加することで積極的にハレのエネルギーを充填するという考え方もあります。私の年賀状の話は、後者を恣意的に応用したお気軽なものですが非常識と思われても仕方ありませんね。

僧侶の間には、昔は年賀欠礼の習慣は無かったといい、この習慣が神道に基づいていて、また移り変わるものであることが分かります。そして、年賀欠礼の根っこに「死の穢れは伝染する」という考え方があるようです。私の場合はこの「ケガレ」を否定したいわけですが、ケガレを否定すれば、その対極にある「ハレ」も否定できることになります。“「ハレ」のエネルギーを送って”という文言を入れなければ突っ込まれることも無かったでしょうね。この部分は勇み足だったかも。実際にそんなエネルギーが付いていくとは思っていません。新年の挨拶のような習慣は、ハレもケガレも死穢も関係の無い、無宗教または汎宗教的な習慣として残ってほしいと思います。

忌中の期間は仏式では49日・神式では50日とされています。喪中の期間は最長1年ですね。これは「服忌令」などで検索すればゴロゴロと出てきますが、習慣を数値化しただけのものと思います。武家の制度は現代にそぐわないとする観点から、50日を過ぎると喪が明けたとし年賀状もOKとするネット上の解釈もありました(ここに忌と喪の区別はありません)。解釈の問題であり、故人を偲ぶという意思をも尊重せねばなりませんから、これを泊瀬女さんに当てはめるとお気を悪くされるかもしれませんがm(__)mサキニアヤマッチャオ、泊瀬女さんは御父君が御逝去されてからの忌みの期間(正確には分かりませんが)に神社を参拝され、50日の喪が明けての新年の挨拶を拒否されるという矛盾に陥りかねません。ですが、「死穢」を無意味とし、いま生きている人の意思を尊重すれば、そこに矛盾は無くなります。

以上のようなことについて、泊瀬女さんのご発言内に、ある一つの答えが書かれているのではありませんか。

>神様に叱られた感じはありませんでしたね。

おっしゃる通りですね(^^) 人の作ったしきたりは、神様は気にしてないんでしょうね。また、ケガレは否定してもハレの祭りは楽しいから残った方が良いと、安直な解釈もしてみたいですね。

長々とお読みくださりありがとうございました。

[1015] Re[1014][1012][1011][1010][1009][1008]: ケガレと習慣  サン・グリーン [Mail] [Url] 2004/12/14(Tue) 10:34 [Reply]
> 父が10月に亡くなりまして、私は喪中なんですが・・・
> それでも先週、神社巡りを再開しました。

11月に仕事で与論島に行ったのですが、島にある高千穂神社鳥居の傍の立て看板にこう書いてありました。
「この先、次の者進入お断り」
◎葬儀に参列及び、出産に参加して三日以内の者
◎葬儀をした家族、出産後の夫婦、三十日以内の者
◎参拝に用のない者

与論島では未だに白不浄(お産の不浄)が生きているんだなあ…
と思って看板の写真を撮ってきました。
お父さまがお亡くなりになったのは10月とのことなので、与論島では神社参拝は大丈夫ということになりますね。地方によって喪に服す期間は違うのでしょうか?

[1014] Re[1012][1011][1010][1009][1008]: ケガレと習慣  泊瀬女 2004/12/13(Mon) 23:24 [Reply]
父が10月に亡くなりまして、私は喪中なんですが・・・
それでも先週、神社巡りを再開しました。最初に行った神社でお祓いをしていただこうとも考えたのですが、いつもながらのノーテンキで「まっ、いいか」って省略。
よく、喪中の人は鳥居を潜ってはいけないなんて言いますけど、堂々と鳥居もくぐってご神域に入ってしまいました。
鳥居を潜る時には「喪中の身ですが、失礼しま〜す」ってお断りしましたけど、いけなかったでしょうかね。神様に叱られた感じはありませんでしたね。

実は、久々に伊勢に行ったのですが、早朝参拝した神宮・内宮のご正殿には進めず、石段の下で拝礼しました。
伊勢に行って、少々鬱屈していた気持ちから開放されて清められた感じですよ。
喪中の人は神社に行ってはいけないんじゃなくて、神社に行って清々しく心を開放させていただくんだって考え方でも良いのではないか・・・って思ってます。

でも、ZOUさん、喪中の人にあえて年賀状を送ってハレのエネルギーを送るってのはちょっと賛成できませんよ。ZOUさんの気持ちは理解できますけど、ハレのエネルギーを送ってもらっても困るしね。

[1013] Re[1009][1008]: ケガレと習慣と  サン・グリーン [Mail] [Url] 2004/12/13(Mon) 18:34 [Reply]
> 所で、師走とは教師が走るのですか、導師(坊さん)が走るのでしょうか?

神奈備さま。みなさまご無沙汰しています。

師走の語源なのですが、以前に調べたことがあるので書き込みさせていただきますね。
伊勢神宮には「御師。おんし」という人がいて、年末になると、神宮大麻のお札と伊勢暦を各家庭に配るために日本中を忙しく走り回ったそうです。
そこで、12月は御師が走り回る月ということで「師走」となったとのことですよ。
ちなみに御師は伊勢参りの参拝や宿泊・案内を業とした人々「太夫」ともいうようです。

来年は酉年!鳥が鳴いて岩戸が開いて、良い年になりますように!!!

[1010] Re[1009][1008]: ケガレと習慣  QUBO 2004/12/11(Sat) 07:58 [Reply]
> 死穢
以前一度調べたことがありました。
仏教系のどこかの宗派は、葬儀の終了後塩を使わないそうです
1、「塩で清める」と言うのは日本的(ユダヤ教にもある)習慣?
2、「死穢と云っても死体を不浄とは見ずに・・・」清める必要は無い
どちらの理由だったか記憶に無いんですが。

死体そのものを穢れとする見方は、仏教にもあったようです
平安時代は、一般庶民は遺体を打ち捨てた=葬儀は行なわなかった
京都で投げ捨てられていた場所が仇野とか。

「走る師」の「師」とは、ふだん悠然としている人
そんな人でも年末は忙しくて走り回る。
導師(坊さん)は普段からベンツで走り回っているから悠然とは言えない
特にお盆の時なんか忙しそうですよ。
一方教師は普段のんびり。12月は、期末テスト、成績表の作成、
進学指導など、いろいろ忙しそうなので「教師である」に一票

[1009] Re[1008]: ケガレと習慣と  神奈備 2004/12/03(Fri) 20:01 [Reply]
ZOUさん、こんばんは。

 食肉を慎むのの食肉は所謂四つ足でしたね。亀や蛙はどうなんだろう。魚や鳥はいいのでしょうが、鳥は別に忌避するお話がありましたね。

 死穢は、四天王寺の西の鳥居はくぐってもいいのでしたね。一旦入って、西の浄土へ補陀洛渡海する儀式があったようです。神仏習合の頃の名残かも。
 最近は死穢と云っても死体を不浄とは見ずに、死に至る病などを汚らわしいものとする考え方になっているようにも思います。

> 喪中の挨拶
 これでしか消息を知ることが出来ない場合もあります。
 年明けの挨拶は単に「よい年でありますように。」なら、問題はないと思いますが。

所で、師走とは教師が走るのですか、導師(坊さん)が走るのでしょうか?

[1008] ケガレと習慣と  ZOU [Mail] [Url] 2004/12/03(Fri) 00:58 [Reply]
師走に入りましたね。ZOUです。こんにちは。

年末の時期ですから、知人から「喪中につき年始の挨拶を遠慮する」という旨のハガキが来ることがあります。さて・・・とある書き物から得た知識です。

新年は、各家に年神様を迎えシメ縄を飾って、その家は臨時の“神社”になるそうです。昔は各人が年始の挨拶に出かけていました。が、身内に亡くなった人がいる場合、その家族は「死穢」を負っていることになります。「死穢」を負った家の人は、新年の年神様を迎えた家に死の穢れを持ちこんではいけない、という考え方があったらしく、それが年始の挨拶を取りやめるという習慣として残ったそうです。理屈としては、喪中の人が新年の挨拶に向かうのはダメだけれども、同じく喪中の人が新年の挨拶を受ける(年賀状をもらう)のはかまわないということになります。なんとなくバカバカしく思えます。

過去には、月のものが来た女性やお産をした女性は、その後何日かを忌みとして、忌みが明けないうちは神社に詣でることができなかったといいます。これは血穢や産穢といわれるものですね。ですが、今ではそういう習慣を意識する人は少ないでしょう。また、仏教の影響だそうですが、食肉も忌まなければいけない穢れた行為で、食肉の忌みが明けるまでは神前に出ることはできなかったとか。とはいえ、今では旅行の一環として、松阪肉に舌鼓をうった後、伊勢神宮に行くこともあるでしょう。

実生活にそぐわず消えていった習慣もあるのですから、血穢も産穢も死穢も、それは実態の無い無意味なものだと思えます。喪中の年始の挨拶も堂々と行われる日が来るようになるかもしれませんし、来てほしいものです。

[1006] 無題  QUBO 2004/11/29(Mon) 07:20 [Reply]
Re[1004] 神奈備 様
金光坊の渡海失敗以降は、亡くなった住職を舟に乗せ
流したようです。金光坊島とか名が残るんだから、
周りの人々にとっても強烈な印象だったのでしょう
Re[1005] かたばみ 様
しまった!失礼しました。
以前の993、978、何故か見逃してました
青草な話ですが、ライオンと豹は交接、子を産むことは
可能(確か生まれた子がレオポン)だったですよね
ガラパゴス島にも、海イグアナと陸イグアナの間に
新種のイグアナが生まれてる。
そんな意味ではホモ・フローレシエンシスの遺伝子
今に残っていてもおかしくは無いと思うんです


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