青草談話室ログ平十七年 一月
2004.8.13
多に蛍火の光く神、及び蠅声なす邪しき神有り。湯嶽神・菊嶽神の集い。
素人のひらめき、力はないが騒がしくなかなか従わない、一寸の草木にもある五分の魂の発露を!
 青草談話室

[1072] Re[1062]: いのーあっちゃー  恋川亭 2005/01/25(Tue) 01:16 [Reply]
 『いのーあっちゃー』なんて言葉がポピュラーだとは思ってないもんね。島の不良老人(^^)であるオヤジ連中との話しで聞いたから。「こみにちーせんたぁ」の副館長からも聞いたぞ。で、帰ってから調べてみると、比嘉康雄先生の名著!にもちゃんと載っている。
 検索しても出てこないでしょ?生の会話から得たものだから。私は「ネットのみが情報源」派ではないので、悪しからず。
 『はっちゃがまく』、こんな言葉も聞きました。『がまく』とは腰のことですが、三味線の撥(ばち=はっちゃ)の如く、ウェストがキュッとくびれて、ヒップが張っているナイスバディの意味だとか。オヤジ連中が若い頃、『あの娘はハッチャガマクだねぇ』とひやかしあったんだって。なんのこっちゃ。

 生活の中での言葉は、わずかな範囲でも少しずつ変わっています。隣り町に行くだけで微妙に異なる。大きな都市と都市の間では、グラディエーションがかかったみたいに変化する傾向を感じることさえできたりします。南西諸島でも、奄美・沖縄・八重山では異なるし、沖縄本島でも首里周辺と田舎や離島では言葉が違う。首里の中でも地域の差があります。
 外国から離島にお嫁さんに来た人が、やっと言葉が判るようになったので、本島の市場に出かけたら全然通じなかった、とはご本人から聞いた話。
 以前、辺境ほど古い言葉が残ると力説していた方がいらっしゃいましたが、私は「狭い範囲内ほど、独特の表現・発音に変化(特化)しやすい可能性もある」のではないかと思うようになりました。
 それにしても、沖縄方面の言葉は、本州と比べて、漢語・中国文化の影響の比較的少ない、濃厚な日本語ですねぇ(ただ訛っているだけ)。
 南島の言葉の話しはこれで終わります。m(__)m

[1071] Re[1060][1053] カジマヤー  恋川亭 2005/01/25(Tue) 00:34 [Reply]
>QUBOさん
『台湾坊主』の名は私も聞いたことがあります。子供の頃、父から教えてもらった、懐かしいな〜。何百年も漁師・船乗りの一族なのに私の代以降からは陸仕事です。ちょっと寂しい。
『カジマヤー』は、風廻し、風回り、程度の意味でしょうか。そこから、風車も(風車祭のマツリ・マツィは省略されてますね)。『ニンガチカジマヤー』は、2月の風廻りとして、ポピュラーな言葉のようですね。春一番やアイノカゼと同じものを指すのでしょうか?海上を吹き荒れる春先の突風は、どの地方でも恐れられているものです。お話しになりますナァ。
 池上さんの小説『風車祭』を紹介した手前(漫画なみのドタバタなのですが)。
ご参考:http://www.churashima.net/people/ikegami/index.html

[1069] Re[1068]: 止まった時計  klarin 2005/01/24(Mon) 15:48 [Reply]
> 古代の金の採取方法は、金が水銀とアマルガムを作る事を利用した

アマルガム法の利用はA.D10世紀とどの辞典にも載っていますが、
10世紀も古代と看做すならともかく、文意からはそう読み取れませんね。

それに「古代の」から「完了です」という文章は斉藤さんのHP(http://www.asahi-net.or.jp/~uu3s-situ/00/4-1.html)からの丸写しです。
引用した旨書かないとまずいのではないですか。

[1067] Re[1060][1053] カジマヤー  神奈備 2005/01/24(Mon) 07:30 [Reply]
> 月末から宮古ですか!
> 今年最初の花見ができるといいですね。あ〜うらやましい

宮古島への入門旅行です。所謂パック。
これで様子を見てから次回を考えます。


tomboの先生が捨てぜりふで去っていきました。

この前は生徒も捨てぜりふでしたが、お詫びもなく戻っています。
この生徒の人格はあまり良いとはいえませんね。

[1062] いのーあっちゃー  恋川亭 2005/01/24(Mon) 01:24 [Reply]
 南島に遊んだとき、浜の食堂に陣取って、日がな一日中、『ぴし(干瀬)』に打ち付ける白波を眺めていました。もちろん、オリオンビールを延々と補充しながら。
 『ぴし』は島を囲む『いのー(珊瑚礁)』の外側になります。天然の堤防でしょうか?すぐ側で見ていないので不明。黒潮とぶつかって白波が湧き立ち続け、翡翠色の『いのー』と、黒々とした外洋を隔てています。波音が、朝も昼も夜も絶えることなく響いてくる。

 引潮の加減がよければ、干潟となった『いのー』を歩いて『ぴし』の近くまで行けたのかも知れませんが、聖なる浜のタブーは犯せませんでした。
 海で遭難した『まぶい(魂)』は、『にらーはらー(常世)』へ行けないということなので〔このことは盲点でした〕、危険は回避。
 もし許しを得られれば、干潟を歩く人=『いのーあっちゃー』(すなどりする人)となってみたいものです。聖地でない浜にて。

 さて、そうやって『ぴし』を眺め続けて、わずかな知識も流れ去り痴呆中年ができた頃。『昔の人とはいえ、来訪人を来訪神として祭り上げるなんてことは、(ありえ)ないだろうナー。』という漠然とした思いが湧き上がりました。
 人は人、神は神、常世は常世。まぶいレベルの精神世界については、現代人よりも昔の人の方が、はるかに豊穣で精緻な観念を築いていたのだろうと。

(蛇足:奇跡のように美しすぎる東シナ海。たとえどこの国であろうと、見境のない海底油田開発など、してほしくない思いです。なぜか環境保護の観点からの発言を、TV新聞で見かけないなぁ。)

[1061] ガジマヤー(風車祭)  tomboの先生 2005/01/24(Mon) 01:17 [Reply]
カジマヤーというのは厳粛な儀式と思っています。イリアンジャヤあたりの戦士たちの儀式とも似ている。

カジマヤーの儀式の異様さは、97歳のお祝いの主人公の死の儀礼をやるということです。死んだ真似する、というもの。死装束を祝いの前にまとって儀式をやる。そして、迎えるカジマヤー、風車祭と現代訳ではあるけど、これは十字つまり辻なのです。境界ということです。これは厳しい儀式でもある。長く生きすぎたから、一度死んで残りの生は若い人に託すという意味もある。そして、最も重要なのが、死んで生まれ変わる、再生する、ということです。

[1060] Re[1053] カジマヤー  QUBO 2005/01/24(Mon) 00:42 [Reply]
恋川亭さん!初めて知りました!
カジマヤーに「風車祭」と言う意味が有ったんですねえ
私が初めて聞いた「カジマヤー」は「ニンガチカジマヤー」
旧暦2月に突然やってくる突風をともなった嵐です
海人(うみんちゅ)やダイビングの世界では恐れられています。
解説では通常「台湾坊主」(今は使えない放送禁止用語らしい)
いまふうに言うと「東シナ海低気圧」
二月の風+魔+也(風の魔なり)と勝手に思っていました。

席亭さん
月末から宮古ですか!
今年最初の花見ができるといいですね。あ〜うらやましい

[1060] Re[1053] カジマヤー  QUBO 2005/01/24(Mon) 00:42 [Reply]
恋川亭さん!初めて知りました!
カジマヤーに「風車祭」と言う意味が有ったんですねえ
私が初めて聞いた「カジマヤー」は「ニンガチカジマヤー」
旧暦2月に突然やってくる突風をともなった嵐です
海人(うみんちゅ)やダイビングの世界では恐れられています。
解説では通常「台湾坊主」(今は使えない放送禁止用語らしい)
いまふうに言うと「東シナ海低気圧」
二月の風+魔+也(風の魔なり)と勝手に思っていました。

席亭さん
月末から宮古ですか!
今年最初の花見ができるといいですね。あ〜うらやましい

[1059] Re [1058] 古代防毒マスク  QUBO 2005/01/24(Mon) 00:28 [Reply]
tombo さん 始めまして
改めて言う事でも無いんですが、部分がいい加減だと、
その合成である全体がいい加減だと判断されますね。

水銀による中毒症だと水俣病ですね。
しかも有機水銀で、無機水銀の話とは違います。

「イタイタ病」?余り聞きませんねえ。
富山の「イタイイタイ病」ならカドミウム中毒です。
表現を間違えるのは患者に失礼です。
病気に罹ってしまった被害者に失礼な表現は、
控えたほうがいいですよ

>天然の金は先ず水銀アマルガムとして取り出される。
@アマルガムとは、金属を水銀に溶かし込んだもの
 水銀の合金のことです。
 馬から落ちて落馬した。
 女の年寄りのお婆さん・・・みたいな表現です。
A採取の時はありえないですね。
 砂金取りとかを見たことはないのですか?

金アマルガムは精錬や鍍金(メッキ)の時ですね。
日本でも8世紀、奈良の大仏に鍍金しました。
この時既に水銀中毒症の公害が出ていますが
防毒マスク様のものを工夫し、以降の病気発生を防いだそうです。
http://www.tmk.or.jp/history/6.html

[1057] 訂正いたします。  わーぷ 2005/01/23(Sun) 01:41 [Reply]
「斉明天皇は、道教ほかに大乗仏教(景教の影響大)をも信仰してたようです。」は、私の勘違いです訂正いたしますスミマセン。

[1056] 斉明天皇=始皇帝  わーぷ 2005/01/23(Sun) 01:35 [Reply]

古代中国の神仙思想(道教に強い影響)では水銀が不老不死の薬とされていた事は御存知のことと思いますし秦の始皇帝も道教思想での建築物を沢山建てた事も承知と思います。
道教思想は陰陽・牝雄・凹ボコ(穴・輪・盆地・谷・泉・海・亀・甕・古墳・・・)凸デコ(川・蛇・矢・・・)私的には始皇帝陵の「水銀の川や海」には陰が生命を生み出す「海」で「川」が陽で「水銀」を「精子」と考えております。北極星を「太一」(宇宙の中心・創造神・祖神)とし、北の守り神「玄武」は蛇と亀の「目会ひ」まぐあひを表しています。「酒船石遺跡」の亀形石造物に水と共に水銀を流したと考えます。(始皇帝も同様の施設を造っていた。)
斉明天皇に始皇帝と同様に「道教」に狂わせたのは始皇帝を祖とする「秦氏」と思います、日本の文化を作り育てたのは渡来系の技術者集団(石工・ハタ織部をふくむ)の頭=中臣(藤原氏)八幡神 秦氏と思っています。(秦氏のルーツはシルクロードに)
斉明天皇は、道教ほかに大乗仏教(景教の影響大)をも信仰してたようです。石の建造物が数多く造られたのは石工・大工などの日本に渡来した多く職人の雇用対策と考えます。「太子講」のような「講」の仕組みには「石工組織」(メイソン?)との繋がりを感じます。
天照大神が素盞嗚尊の行いを嘆き、天岩窟に幽居ましてしまい
となってしまった時は、思兼命の教えに従い種々の幣帛を備え、大御心を慰め和しめし奉るに当たり、石凝姥命が、天の香山の金を採って大御神の御像を鋳造」られました
「石凝姥命」(八咫鏡を造った鋳物師)を奉る神社 「石凝」の「凝」ギョウには「心をこめる」の意がある。(石に心をこめる=石工?酒船石ので冨本銭が鋳造された。)
「金山神社」(都留市上谷)
「鏡作神社」(田原本町) 古代鏡の製造に深くかかわったといわれ、神宝に自分の魂が宿るとされる「三神二獣鏡」があり、古来の鏡鋳造の神として信仰され、「鏡の宮さん」として今なお職人の間で崇拝されています
「竹田神社」(蒲生郡蒲生町鋳物師)石凝姥命が天の香山の金を採って大神の御像を鋳造られた。
「石見鏡作神社」奈良県磯城郡三宅町石見
崇神天皇の世に、其の子孫が石凝姥命の子孫と共に、後代宮中にある三種の神器中の剣、鏡を作工し奉った話がある。

[1055] Re[1054]: 大日女姫は古墳と共に?九州へ上陸!  神奈備 2005/01/22(Sat) 19:22 [Reply]
> 皆様のご意見を御聞かせ頂ければ幸いです宜しく御願い致します。

> 1.5000年から6500年前の埋葬者も北枕(北斗信仰?)
> 2.大日女姫は古墳時代前期に九州へ上陸!
> 3.「水銀の川や海」=不老不死=酒船石遺跡=斉明天皇=始皇帝=北斗信仰?
>  4.高度な土木技術はメソポタミヤからエジプトー中国を経て、石工(メイソン?)により日本へ

 上記四仮説についての意見と云うことですか? そうしてその仮説の根拠は各新聞記事と云うことですね。

 一つの発掘記事からまさにハンドルネームしたように仮説を発想されることに敬意を表します。

1.沖縄へ漂着する海人達は航海をした民でしょうから北極星を知っていた可能性はあるのでしょうね。それを北斗信仰と云うのなら、そう云えるのかも。

2.大日女姫よりは石凝姥命を連想しますね。

3.等号の意味がよく判りません。特に斉明天皇=始皇帝など。

4.なぜそのように云えるのかまったく理解できません。

始めに既成概念があって、それぞれの記事を概念に合うように読んでいくと云うことは仮説検証としては一つの手段でしょうが、網羅的にやらなくては勝手論理になるのでは。

[1054] 大日女姫は古墳と共に?九州へ上陸!  わーぷ 2005/01/21(Fri) 23:13 [Reply]
 
 遺跡関係のニュース 2003年11月度より、
5000年から6500年前の埋葬者も北枕(北斗信仰?)
沖縄県名護市屋我地島の「大堂原(うふどうばる)貝塚」で縄文時代(新石器時代)前期の埋葬と推定される「人骨」2体が見つかったそうです。地層の出土土器により5000年から6500年前の人骨とみられ、埋葬と推定される同年代の人骨が県内で発見されたのは初めてで、2体は115センチメートル離れて横に並び、2体とも頭を真北に向けた形で、骨の形状から、市教委文化課は「あおむけ、体を伸ばした状態で埋められたもの」と県内最古の埋葬とみている、とのことです。人骨は1体が人体下肢両足の脛(けい)骨、腓(ひ)骨(脛骨と並行する細長い骨)と片方の足指、もう1体が腓骨、脛骨、大腿(だいたい)骨で、骨盤から上の骨は見つかっていないそうです。9日午後3時から4時まで、現場が一般公開され、13日に人骨を取り上げて調査、現場を記録保存する、とのことです。
(琉球新報より抜粋して引用させていただきました)
 大日女姫は古墳時代前期に九州へ上陸!
熊本県鹿本郡植木町古閑の「古閑天神平(こがてんじんびら)遺跡」から見つかった「石うす」が、古墳時代前期に作られた「水銀朱精製用石うす」だったことが四日、分かったそうです。発表した同町教委によると、同石うすの出土はこれまで近畿地方に集中しており、中国地方以西では初めて、とのことです。「石うす」は「石英閃緑岩(せきえいせんりょくがん)製」のほぼ正円形で、周囲には縁があり、すり面は平らになるよう精緻(せいち)な加工が施されている上、すり面のほぼ全面に水銀朱が付着していたそうです。鉱物の辰砂(しんしゃ)から水銀朱を精製するために使ったとみられ、水銀朱は祭祀(さいし)などに用いる貴重な顔料で、古墳時代には一部の有力者による占有が始まったとされ、町教委は「植木地域が古墳時代初期に中央政権と密接な関係にあった可能性が大きい」としているそうです。
詳細:熊本日日新聞社 http://kumanichi.com/news/local/main/200311/20031105000031.htm
 「水銀の川や海」=不老不死=酒船石遺跡=斉明天皇=始皇帝=北斗信仰?
中国陜西省西安市の「秦の始皇帝陵」(東西345メートル、南北350メートル)を、同省文物考古研究所と中国地質調査局が、電気探査などのハイテク技術で調査した結果、墳丘の地下約30メートルの地点に巨大な「地下宮殿」や墓室が存在することを28日までに確認したそうです。地下宮殿の存在はこれまでのボーリング調査などで予測されていたが、具体的な規模や構造が判明したのは初めてで、飯島武次・駒沢大教授(東洋考古学)は「世界最大の『地下宮殿』であり、これまでの調査を一歩前進させた」と評価している、とのことです。同研究所などによると、地下宮殿は東西170メートル、南北145メートルの規模で、中央には石灰岩でつくった墓室(東西80メートル、南北約50メートル、高さ15メートル)があるとみられ、また、地下宮殿には大量の「水銀」が流し込まれていたことも判明したそうです。司馬遷の史記には始皇帝陵について「水銀の川や海がある」との記述があり、これを裏付ける結果、とのことです。
(毎日新聞より抜粋して引用させていただきました)
 高度な土木技術はメソポタミヤからエジプトー中国を経て、石工(メイソン?)により日本へ
兵庫県伊丹市の「岩屋遺跡」から、機能が異なる複数の「堰」を組み合わせた弥生時代前期中頃(紀元前4世紀)の大規模な「灌漑施設」が、ほぼ完全な状態で見つかり、19日県教委埋蔵文化財調査事務所が発表したそうです。大陸から伝わったばかりの稲作が、すでに高度な土木技術を伴っていたことを裏付けるもので、「日本のコメづくりの歴史を塗り替える発見」と専門家は評価している、とのことです。現地説明会は21日午後1時半〜3時に行われるそうです。
(産経新聞朝刊より抜粋して引用させていただきました)
詳細:神戸新聞 http://www.kobe-np.co.jp/kobenews/sougou/031220ke5210.html

皆様のご意見を御聞かせ頂ければ幸いです宜しく御願い致します。

[1053] Re[1047]: た〜がひ〜かぷっ  恋川亭 2005/01/21(Fri) 01:42 [Reply]
高校の頃、授業が国語や歴史だとスタコラと『ふけよった』輩だったもので。m(__)m

(あっ、そうだ。このタイトル要注意です)
タイトルの『たーがひーかぷっ』は、非常に腕白な『ふきゆるわらび』が、逃げ出すときの捨て台詞、『誰がするかぁ〜、プッ(屁)』という悪態です。(^^)
それにしても『ふきゆるわらび』とは、雅た言葉ですね。首里近辺での表現なのでしょう。古い時代からヤマトの都の文化は、絶え間無くもたらされているので、この『ふきゆる』も記紀の教養のある人達が伝えたかもしれません。田舎や離島では、もっと別の卑俗な表現だったのでしょうね。
 ファンタジー小説ではありますが、面白かったので。池上永一・著、文春文庫・刊、『バガージマヌパナス(わが島のはなし)』と『風車祭(カジマヤー)』、石垣島が舞台のドタバタ喜劇です。

 宮古島へ行かれるのですか。いいぃ〜なぁ〜!大神島遥拝ですね!!
宮古島は、カミンチュ(神人)や、ユタやらカンカカリヤーの人口密度(笑)が、とても多いそうですね。できれば、ツカサさん達の方とご縁ができれば楽しみですが。

[1052] Re[1051][1050]: 先人のお話  神奈備 2005/01/20(Thu) 08:05 [Reply]
わーぷさん、KOJIKIさん、ありがとうございます。

> 何事も、ものの成就は受け入れる心、即ち肯定から始まるのである。

> 手当たり次第に「思いつき」や「発想」を書き連ねられたらとても収集がつかなくなってしまいます。

この二つのことを止揚しますと、読まれている方々に判りやすく、その発想の根拠を陳べていただくことだと思います。
 そこには、いささか無理筋でもよろしかろうと思います。ニヤリとするものなど大歓迎です。そう云う意味で、「思いつき」や「発想」を書き連ねる掲示板でもあります。
 某氏につきましては、面白い発想をお持ちの方のようですが、説明不足と書き込みに不誠実な態度が見受けられましたので、遠慮していただいたのです。特に神奈備で[5890]のような書き込で不愉快な思いをされた方も多かったと思います。残念です。

[1051] Re[1050]: 先人のお話  KOJIKI 2005/01/20(Thu) 04:45 [Reply]
「元東大総長 有馬 朗人」氏の言わんとするところは、純粋な学問のあるべき態度としてなら理解できます。
しかし個人の"趣味"で運営している掲示板の場合は別な話ではないでしょうか。ここに手当たり次第に「思いつき」や「発想」を書き連ねられたらとても収集がつかなくなってしまいます。特にほとんどの読者が知らないような外国語を多用し、その言語の説明もせずに論を進めていく場合など「落書き」と同じ、と私も思います。まして問題の投稿者は過去に掲示板読者の無知につけこんで「悪戯」をした方なのですから。
書き込みがわーぷさんの直接のご意見ではないので、今のところこれしか申し上げられませんが。

[1050] 先人のお話  わーぷ 2005/01/20(Thu) 00:06 [Reply]
  世界的な規模で広がる生命工学や電子工学などの急激な進歩発展に、日本が科学技術立国とし

て世界に遅れることなく各国に互していくには、常に弛むことなく努力することは当然であるが、

その根底には各自の豊かな創造性なくして実現することは困難であろう。

  そこで創造性に就いて考えてみると、何事も興味と必要性と僅かなヒントから素晴らしい発明

や発見がなされるのであるが、特に研究や実験を行うような時には各自に内在する創造性の発露

がその成果にかなりの影響を及ぼすことは明らかである。

  誰しも創造性を持っているのである。しかし、多くの人は自分が持っている創造性に気が付い

ていないのである。このような事を書くと、自分などは創造性なんか持っていませんと、謙遜混

じりに云う人がいるかも知れないが、それは自分自身を否定することであり、自分の成長を止め

る結果になることに気付くことである。それとは反対に、人は学問もあり、多くの知識を身に付

けてくると、だんだんと既成概念の虜になって他の人の意見を聞かなくなり独善的になってくる

傾向がある。そして、物事に対する批判精神が旺盛になり、とかく他の人の考え方を否定したく

なるものである。

  否定や反対を云う前に、まず相手の考え方やものの見方を聞いて理解するように、どのような

事でも受け入れるように努めることである。この心の在り方が自然の様々な事象や現象が起こる

のを見た時に、自然界の変化を素直に受け入れていく気持ちにしてくれるのである。即ち、自然

が私たちに様々なことを教えてくれるのである。これが創造性となって物事の完成へと導いてく

れるのである。何事も、ものの成就は受け入れる心、即ち肯定から始まるのである。

元東大総長 有馬 朗人

[1049] 宮古島と落書き  神奈備 2005/01/19(Wed) 21:03 [Reply]
今月末からちょっと宮古島とその近辺の島にバタバタと行って来ます。御嶽と云うものに出会えるのかどうか。出会えたら入っていってもいいのだろうかね。
寂しくとも、特に留守中には落書きをしないで下さい。勿論いつもですよ。

[1048] またですか  KOJIKI 2005/01/19(Wed) 20:42 [Reply]
このtombo氏とは、先日神奈備掲示板で、タガログ語に無知な読者に「悪戯(自認)」をした方と同一人物であろうと思われます。あの時は一応非を認めて詫びられたのでそれ以上は追求しませんでした。しかし、またタガログ語を散りばめて書き込んできたところをみると、あの「事件」で一時的にせよ「騙された」掲示板読者がどれだけ不快な思いをしたか、全く考えたこともないようですね。

[1047] Re[1044]: た〜がひ〜かぷっ  神奈備 2005/01/19(Wed) 16:16 [Reply]
> 『ふける』じゃぁないのでしょうか。逃げるという意味の。

『広辞苑』には「ふける」として、逃げる、駆け落ちする、退屈する、などがあります。
だから別の言葉とは思えません。おっしゃる通り、標準的日本語なのでしょう。

[1045] Re[1041][1039]: 番外編  かたばみ [Mail] [Url] 2005/01/14(Fri) 19:49 [Reply]

≫出雲の熊野と紀州の熊野をつなぐキイは、伊邪那美命や櫛御気野命、半島からの渡来と言うよりは南方系のような、海人かも知れません。

大屋彦命はちょいおまけでありまして(^^; 大年神グループということではありません。

指標がほとんどないのですが以下、赤の文化の番外編

海神族とは何者か、高御産巣日神系でも神産巣日神系でもない、
大綿津見神であり、彦火々出見尊の妃の豊玉姫の祖先であり、安曇氏の祖先でもあり、みな謎っぽい。
大年神グループよりはるかに古い登場で、具体的な伝承がなかったのだろうと考えています。

竜宮城はどこか・・かろうじて海幸山幸伝承から隼人族に関連するであろうことがうかがえる程度。
地形から天草諸島じゃないかと思ってますが、根拠はゼロ。


記紀では天照大神は諾尊の目ん玉から生まれたとか、高御産巣日神の関係のあいまいさとか、出自に関してはどうにもなりません。
ま、このあたりは記紀の都合でしょうからどうにかするつもりもないですけど(^^;

しかし、単なる縄文ではない人々がいたとみるのが、持論でのアマテラス族です。
すなわち海神族と結合しある時代での最新文化を受け取っていたグループ。
(瓊々杵尊、彦火々出見尊、鵜草葺不合尊、天之ではなく天津の尊称があることに注目する)

そういう最新文化が渡来する可能性はあるか・・
黄河系文化をしのぐ高度文化が長江流域にあったことが年々はっきりしてきています。
BC2000頃、その長江下流の良渚文化が大洪水によって滅亡します。
そして中国神話に三苗という人々が登場する。

このあたりは
http://www.tcn-catv.ne.jp/~woodsorrel/kodai/kf07.html
の推定をご参考まで(現時点では若干修正の要があります)

この三苗が海神族の祖先で渡来ルートは台湾〜南西諸島〜九州南西岸と考えています。
もたらしたのは海の文化と照葉樹林文化(焼畑と陸稲、根菜、ネバネバもちもち系の嗜好)。
加えて太陽信仰と発達した祭祀(記紀における天照大神登場への源流とみる)。

台湾、フィリピン、雲南〜ベトナムなどは長江文化を真っ先に受け取れる位置にあります。
ベトナムやタイでは稲作を基盤とする文化がBC2000以降に広まり始めています。
ニューギニア東部のビスマーク諸島ではBC1500頃に突然のように土器を伴うラピタ文化が登場し、ポリネシアへ広まってゆきます。
これらも三苗の拡散をきっかけにスタートしたものと考えています。

ただし、それを継承発達させるか、失われてしまうかは別問題です。
文字を書いた祭文を羊が食べてしまったので、その羊の皮で太鼓を作って鳴らし祭文の代わりにした、なんて伝承を持つ無文字民族もあります。

水稲をもつ農耕民は安全な東シナ海沿岸をゆっくり北上、山東半島から朝鮮半島南西岸でのんびりと列島へ。
南西諸島経由で列島までやってきたのは海洋民。
高度な技術を要する水稲は持っていなかったが、移動速度ははるかに早い。

これらの海洋民がやってきたのは南風(ハエ、バエ)を利用できる夏でしょう。
南風に強い意識を持ち、その方角に祖先をみるんじゃないかな。
ハイヤ節という2拍子のリズミカルな踊りが各地の沿岸域にありますが、ハエと同義だと思います。
海の民が運んだ音楽、エイサー、阿波踊り、佐渡おけさ、などなど。

大屋彦命は後にこれらの南方系文化を東へ運んだのだと思います。
出発地はわかりませんが海神族によって紀州沿岸〜伊勢志摩あたりへ。
長崎もミカンの産地、柑橘類ももって温暖な沿岸地へ。

五男神三女神に熊野久須毘なる人物がいますが、どこのだれかなあ。


さて、
弥生あたりから海神族は日本海をメインとする海人と南西諸島や太平洋岸をメインとする海人(九州西岸、南岸、東岸)に分化していったと考えています。

記紀でいう五男神三女神のうちの活津日子根が日本海側の海人、天津日子根がその他の海人を表すとみております。

活津日子根に後裔の記録がないのは主に出雲系(大年神系)とつながる海人だったからだと考えています。
(大年神の妃は神活須毘神の娘、神活須毘神と活津日子根は同義じゃなかろうか)
(後の壱岐、息にもつながるものとみています)

天津日子根は天孫系とつながる海人。
そのために後裔に桑名直、凡河内直、彦伊賀都(伊賀都彦)などの系譜の記録が残ったのではなかろうか。

瓊々杵尊〜鵜草葺不合尊は天津の尊称がつきます、天津日子根、九州西岸降臨の系譜だからだと考えています。
ハイヤ節で踊っていたかも知れない(^^;

なお、九州東岸、日向へ降臨が天火明命、天津の尊称がないグループ、こちらは純度の高い天孫(^^;

海人系の伝承を少なからず持っているとみえるウエツフミでは、神武をウガヤフキアエズ王朝の73代目としています。
1代を20年とみると初代はBC1460頃・・海神族の先祖が渡来したであろう年代と一致(^^;


[1044] た〜がひ〜かぷっ  恋川亭 2005/01/13(Thu) 23:42 [Reply]
???『フキユン』って、少し訛っているだけで。『ふけよる』でしょ???
(神戸では今でも普通に使っているしィ〜。)
いわゆる、『ふける』じゃぁないのでしょうか。逃げるという意味の。
それとも、ぜんぜん別の言葉なんですか?「言語学的には違う!」のでしょうか?
(訛ってはいても、言葉としては標準的日本語じゃないかぁぁぁ、と感じるのは私だけ?)

[1043] Re[1042]: ふき:くき  神奈備 2005/01/13(Thu) 20:12 [Reply]
> 神奈備さん、とても興味のある御指摘です:

ご興味を持って頂き、なによりです。
谷川氏
「私は以前に奥里将建の『琉球人の見た古事記と万葉』という本の中で大正頃まで、琉球では「非情に腕白で・・・ふきゆるわらび」と言うと述べてあるのを読んだことがある。
『民俗の宇宙1』p.171。

[1042] ふき:くき  大三元 2005/01/13(Thu) 18:02 [Reply]
神奈備さん、とても興味のある御指摘です:

> > 琉球では腕白ですばしこく持て余した子供を「手の俣からふきゆるわらび」と言うそうです。『古事記』では少彦名を「わが手俣より漏(く)しき子ぞ」とあり、漏れるを琉球方言で「フキユン」と言うようで、日本の古語と琉球方言の単語の一致例としてあげていました。

「クナト:フナト」の対から、和語の「フ」が必ずしも全てがPに遡るのではなく、KHに遡るものもあったのではないか、と思っているからです。
ただ「ふきゆる」が「漏れる」という意味では手持ちの『沖縄古語大辞典』には見あたらず、いつ頃の語なのか、知りたく思います。

また、
http://www.city.gushikawa.okinawa.jp/sanpo/13.html
に「はんたばる胡弓小 音高さ胡弓小 こがと暗河まで ふきゆる 胡弓小  三線の音、胡弓の響、そして美しい歌声が若者たちの情熱をかき立てたに違いない。それにしても胡弓小の声の音を「ふきゆる」との表現は妙を得て感心する。」
とありますが、ここの「ふきゆる」も「胡弓の小さいのが『吹いている』」というのはおかしいので、音が漏れてくる、という理解が当を得ていそうで、更に興味を惹きます。ありがとうございます。

天のフキネ、フユキヌ、も腕白小僧だったか・・・無理か



[1041] Re[1039]: Re:[1040]  神奈備 2005/01/13(Thu) 10:10 [Reply]
> 「熊野」は遠賀川グループにその源流があって、紀州熊野にもこのグループがやってきていたのではなかろうか。
> 大屋彦命などもこのグループです。

遠賀川グループとは大年神グループと縄文の結合との定義でしたね。大年神グループとは渡来系、それにしても『日本書紀』には系図がのらず、『古事記』にしか載らない、これ多氏と縁のある渡来系、秦氏を思わせますが、そ秦氏は『姓氏録』で諸蕃扱い、今来でしょうから、別の氏族となりますね。
出雲の熊野と紀州の熊野をつなぐキイは、伊邪那美命や櫛御気野命、半島からの渡来と言うよりは南方系のような、海人かも知れません。

大屋彦そのものも、『古事記』には記載がありますが、『日本書紀』には記載はなく、その分では大年神グループとは同じような扱いで、五十猛命と習合する下地があったのかも知れません。


ワープさん、貴重な情報、ありがとうございます。
http://www.daito.ac.jp/gakubu/kokusai/asia_21/asia_21_08_3.htm

> ホータンという名称について、古代ホータン語文書にはKhotanaやHvatanaなどと、また『漢書』や『魏書』には手間(Yutian)国・和?とみえる。

少彦名命と常世国、ホータンと補陀洛(渡海)、一歩前進かも。

直接手間天神の解読とは関係がないのですが、最近、『民俗の宇宙1』谷川健一著三一書房 を拾い読みしているのですが、ここに面白い話が載っていました。

琉球では腕白ですばしこく持て余した子供を「手の俣からふきゆるわらび」と言うそうです。『古事記』では少彦名を「わが手俣より漏(く)しき子ぞ」とあり、漏れるを琉球方言で「フキユン」と言うようで、日本の古語と琉球方言の単語の一致例としてあげていました。

[1040] Re[1028][1027][1026][1023]: 赤の文化5  かたばみ [Mail] [Url] 2005/01/12(Wed) 21:45 [Reply]
この時代になると10年単位での精度の情報がほしいです。
記紀の神代の中枢でもあって、持論(仮説)も大量に加わわる話となります(^^;

下図はBC200頃からBC0頃の北九州での「殺された人々」の推移です。
(国立民族歴史博物館図録倭国乱る、より)
http://tokyo.cool.ne.jp/woodsorrel/data/hone_senshi.png
年代は幅がありますから、おおざっぱな変化の様子とみるのがよいと思います。

日本の土壌では骨は溶けてなくなってしまうために、甕棺の推移ほどは実状を写しておらず、戦死者ははるかに大勢いただろうと思います。

ちょっと横道にそれます。

土井ヶ浜の人骨(BC200頃〜150頃か)には石鏃とサメ歯の鏃が多数打ち込まれた骨がありますが、ここでは殺されたのが確実なのはこの1体だけのようです。
縄文では鮫の歯を首飾りにしているので、鮫の歯だけでは殺した側は特定できず。

では埋葬された人々はどういう集団なのでしょうか・・ちょいと推理してみます。
縄文平均より3cmほど長身で、貝の腕輪や勾玉がでています。
(土井ケ浜には甕棺や支石墓はありません、赤の情報もありません)
もうひとつ重要な情報が抜歯風習です。

世界の抜歯風習は縄文に遡ると、アフリカを除けば列島の東海〜東北、山東半島〜長江に集中しています。
弥生にはいると九州や南西諸島にも広まり弥生末期で消える。
朝鮮半島では抜歯風習はないに等しい状況です。

土井ケ浜の抜歯のパターンには山東半島のタイプが含まれています。
http://www.museum.kyushu-u.ac.jp/WAJIN/wajin.html


埋葬では頭を東南東に向けて葬られていることに注目があるようですが・・
http://tokyo.cool.ne.jp/woodsorrel/data/hone_doigahama.png

傾斜地であれば頭は高い方に置くのが普通だと思います。
自動的に東枕になるんじゃないかな。
このあたりの詳細な状況がわかりませんので、方位がうんぬんは面白いですが危ういので無視します(^^;


勾玉からは列島と朝鮮半島、抜歯からは列島と山東半島がみえます。
両方を包含できる状況は、「縄文人と山東半島系渡来人の混血集団である」だと思います。

山東半島型の抜歯を持つ遺跡は他に、山口県中の浜、大阪府藤井寺国府、名古屋市熱田貝塚で、中の浜と国府は長身でもあり、熱田も長身と推定されています(縄文社会論究/春成秀爾)。
土井ヶ浜と同じ集団とまでは断定できませんが、同系譜である可能性は高い。


持論の流れからみれば・・
土井ヶ浜の人々は山東半島から朝鮮半島南岸経由でやってきた大年神グループが遠賀川で縄文と結合、後に東へ進出したグループの後裔。
大年神グループの渡来は春秋戦国時代の戦争避難民、王の意識はない人々。
再度
http://tokyo.cool.ne.jp/woodsorrel/data/kami_ootoshi.png

弥生初期の大阪や熱田など近畿にも同じグループがやってきていた。
出雲の登場よりはるかに古い。
山陰沿岸のサヒメ伝承もこのグループではなかろうか。
再度
http://tokyo.cool.ne.jp/woodsorrel/data/oogetuhime.html
(御歳神儀礼関連での文章なのでここでは関係ない内容含みます)

オオゲツヒメの登場も合わせて、サヒメは遠賀川から山陰へ移動していった人物で、途中で縄文系(大山祇命)と競合することもあったとみることができます。
さらに拡張すれば、出雲熊野大社もサヒメ伝承に関連し、後に最新版の農耕を運んだ杵築大社(出雲大社)との間に鑽火神事が生まれたのだ、と考えることができます。

「熊野」は遠賀川グループにその源流があって、紀州熊野にもこのグループがやってきていたのではなかろうか。
大屋彦命などもこのグループです。
後の出雲系譜の進出と習合されたのが五十猛命らの植樹伝承ではないかな。

ただし、太平洋岸では大海原を航海できる技が必須と思います。
下図はシチズン時計が行った漂着実験の結果です(日中文化研究4より。青は海流)。
http://tokyo.cool.ne.jp/woodsorrel/data/hyoucyaku.png
マーカーは沖縄海域から放たれています。

太平洋岸では海に翻弄されていて星を読めない海人では遭難必至だろうなあ。
これを切り抜ければ四国南岸、紀州沿岸、東海沿岸にたどりつけそうです。
伊豆七島が一種の壁になっているのが面白い。
伊豆七島をクリアすれば四国と房総が直結する可能性もみえます。

対して日本海側ではシンプルで、水と食糧さえ持っていればどこへでも到着できそうです(季節風によってだいぶ違うと思いますけど)。
対馬海域から漂流してしまった場合でも、土井ヶ浜〜島根半島あたりに漂着すれば助かる可能性が高いのではないかな。

そのひとりが素盞鳴尊、少し遅れてもうひとりが天穂日命。
赤の文化がでてこないですが、情報がないので(^^;


ごく単純に、山口県北部の須佐湾へ漂着した男、スサの男あるいはスサの王、これが素盞鳴尊であります(BC190頃)。
箕子朝鮮再興の目的をもって沿岸沿いを同族もいる遠賀川へ向かった。
再度
http://tokyo.cool.ne.jp/woodsorrel/data/bc800.png

それからすこし遅れて島根半島に漂着したのが「天孫の親」に先行する偵察部隊の天穂日命だと考えています(BC150頃)。
天穂日命の性格がわかりませんが、列島情勢を知りやすい状況にあったとみて、山東半島あたりの出自とみておきます。

ならば、文化としては畑作系、祭祀では斉の瑯邪八神を持っていたのではなかろうか。
(瑯邪八主、長江系の自然崇拝をメインとするとみえる)
大国主命など出雲の頭領を「主」と呼ぶのはここからきており、後の出雲の祭祀の中枢になったのではないかと考えています。
(青銅器埋納も山東半島にあるようです)
縄文とも容易に融合できるのではないか、あいにくここでも赤のありようについては不明。

天穂日命は九州北岸を目指したが島根半島に漂着してしまった。
島根半島から東の沿岸は40年ほど前にスサノオに掌握されていて「天孫の親」に連絡しようにもできず。
その後裔は東へ進み、後に若狭から近畿へ。
(なお、天之稚彦はスサノオ族の美女に惚れてしまったわけで、こちらは裏切り(^^;)

天穂日命、出雲臣族は島根県意宇郡を根拠にする氏族。
近畿大和から島根へはいったの説もあるようですが、時間軸での前後関係が説明しにくいと思います。
書紀1書に天津神が「国譲りで引退した大己貴命」とその神殿を祀るのは天穂日命である、とあります。
人名などが混乱しているとみえる部分ですが、大国主命の国譲りと杵築大社建立と同一の事象でしょう。

天穂日命系譜が島根半島に拠点を持っていたからこそ、天穂日命(の後裔)が大国主命を祀ったのだと思うのです。
(見方よっては監視という守護でもある(^^;)

出雲国風土記の公開が他と比して大幅に遅いのはこれらの島根本来の伝承を記紀と習合させる作業のためだとみています。

続く

[1039] 「手間」参考まで  わーぷ 2005/01/12(Wed) 17:02 [Reply]

あるHPでは次のように記されていました。「「ホータンという名称について、古代ホータン語文書にはKhotanaやHvatanaなどと、また『漢書』や『魏書』には「手間」(Yutian)国・和?とみえる。  (参考になれば幸いです。)

[1038] 朱々と  恋川亭 2005/01/10(Mon) 01:28 [Reply]
 子供の頃のことですが、小学生の中頃に母に連れられて、神戸市須磨区離宮公園にあった人骨の博物館に行った記憶が薄れません。当時の埋文センターだったのかな??
 縄文時代から近代に至るまでの頭蓋骨がズラ〜リと整然に何百も展示されていました。幾部屋にも分かれて時代毎に並べてあったのです。たくさんの「しゃれこうべ」に最初は恐怖感が強かったのですが、次々と部屋を進むにつれ慣れてしまい、しまいにはオッスと声をかける程に。(^^)
 1体1体きちんと対峙して見学すると、それぞれがとても個性的でした。生きている人の顔つきが違うように、頭蓋骨から受ける印象が異なるのです。優しそうな骨、こわそうな骨、親切そうな骨、冷たそうな骨、笑っているような骨、怒っているような骨、いろいろありまして頭蓋骨というのは、けっして無表情なものではないような気がしました(子供だけに主観の塊でしたね)。(^^)

 そして、今でも印象に残っているのは歯です。縄文時代の抜歯したり、刻みを入れて牙みたいにした歯。江戸時代のヤニで黒くなった歯(タバコなんだそうで)。昔とくらべると弱々しい明治以降の近代の歯(現在なんてもっと華奢なんでしょうね)。
 今、近所に同様の施設が無いので残念ですが、この展示会に行ったことは楽しい思い出です。また再開してほしいものです。(でもこんな展示会に幼い子供を連れて行く親なんて、今考えれば可笑しいですね。私がねだったのかしら?変な子)

 さて、その時に不思議に思ったまま、今なお釈然としないことがあります。頭蓋骨ばかりでなく、いくつかは発掘当時の状況を示すために、甕棺や石棺の中に全身の骨や副葬品とともに展示したものがありました。
 その中に、大量の「朱」を施された埋葬例も。当時の私は、何を不思議に思ったのか・・・、『埋葬するときに施された朱って、塗料みたいな半液体?それともサラサラした液体?粉末?ベースト状???』ということでした。(念頭には習字の朱しかなかった)
 展示物(出土状況写真も)を見るかぎり、骨になってから一様に吹き付けたように朱色だったのでした。例えば、高いところが薄い色で、底の方が濃い色ならば、納得していたのでしょうが、甕棺であれ石棺であれ、全体に朱色スプレーを撒布したような色合いの様子だったのが不思議でした。相当、大量の「朱」でウズメタのでしょうか。
(当時、子供ながら土葬の骨を何年かして洗骨後に改葬する田舎の例を知っていましたので、余計に不思議に思ったのです。でも、展示例の発掘された骨は改葬されたものではなかったです。)

やっと、『朱の文化』の端っこまで辿りつけましたでしょうか?

[1037] Re[1036]: ・・・とは言っても  恋川亭 2005/01/09(Sun) 00:05 [Reply]
> > 『歪められた日本神話』 萩野貞樹著(PHP新書)
>  起承転結の内、結かあり、そこへ転が加えられ、更に承が・・と言うような論理が見受けられます。が、それはともかく、興味深く読めました。

 ぢつは・・・、論理なんてなくて単なる愚痴で。「今まで黙っていたがモウ我慢ならん」ってな感情的反論の書ですね(その語り口が面白かったのですが)。(^^)
 「論理的な詳細は、吉田敦彦先生の著書を参照のこと」なのかも。日本神話の史実反映説や創作説に対する反証が、ダイジェスト版でズラズラ列記されている状態でした。
 萩野先生の目的は「自説に都合のよい例だけを取って構築する説」の欺瞞を知らせたいのでしょう。数学なら1つの反例があれば十分論破できるのですが、人文関係は幅を利かせる者の勝ちなんでしょうね。

>  話は変わりますが、正月の神社界隈で偽札が多く遣われたようで、テレビでは生田神社の宮司さんが登場し「ばちあたり奴」と怒っておられました。

 宮司様が怒っておられたのですか。いつも優しく穏やかなご様子しか知らないもので。わけの判らない質問をしても、「宮司様なら」親切に教えて頂けます。(・・・ということは、他のご神職の方々では・・・???印満載か、!!!ムードです。)
 今思い出すと境内でいろいろ罰当たりな悪戯をやっていたもので(子供の頃ですが)偉そうには言えませんが、人を騙したり、お賽銭を盗るようなことはできなかったですね。

> 出雲大社、大神神社。氷川神社などの名は聞こえてきませんね。

皆さんで、守っていかなくてはいけない・・・ところですね。

[1036] Re[1034][1032]: ・・・とは言っても  神奈備 2005/01/07(Fri) 08:05 [Reply]
> 『歪められた日本神話』 荻野貞樹著(PHP新書)
 起承転結の内、結かあり、そこへ転が加えられ、更に承が・・と言うような論理が見受けられます。が、それはともかく、興味深く読めました。

 話は変わりますが、正月の神社界隈で偽札が多く遣われたようで、テレビぬは生田神社の宮司さんが登場し「ばちあたり奴」と怒っておられました。遣われた神社の傾向は何となく体制側の神々が多いようでした。それだけ初詣など幅を利かしていると言うことでしょうね。
出雲大社、大神神社。氷川神社などの名は聞こえてきませんね。

[1035] Re[1029]: >赤の文化  かたばみ [Mail] [Url] 2005/01/06(Thu) 18:02 [Reply]
おくればせで、明けましておめでとうございます。

≫遠賀川志紀土器の分布を物部東遷と見たのが関西で人気のあった鳥越氏、
≫弥生文化の運びやとしての物部、どうなんだろう

私も「本当の物部氏」の発祥は遠賀川であろうとみております。
(饒速日尊降臨は後世のいろいろが複合して登場したものとみる)
ただし、遠賀川式土器が登場する頃ではまだ物部氏の姿はないと思っています。
輸送を仕事にしはじめた海人族が登場する、といったところか。


総じて縄文土器は口が広く開いています。
これは貯蔵とか煮炊き用で動かすことのない土器だったからだと考えています。
総じて弥生土器は首が細く絞ってあり、絞ってまた開くなんてのもあります。

これは輸送を考えた形式だからではないかと思っています。多くは船便でしょう。
こぼれにくく、蓋がしやすい形。
縄文土器みたいに余計な紋様つけられたんじゃ運びにくいし、実用本意で形式の規格化もあったんじゃなかろうか。


瀬戸物のご飯用の茶碗、これを運ぶときは積み重ねて紐で縛って運んだのだそうで、あの茶碗の縁の広がり方が大事なんだそうです。
重ねたときに縁が接触するようだとちょっとの衝撃で割れてしまう。
そうならないちょうど良い角度に作っていたのだそうです(瀬戸物屋さん談)。

木製のお椀の場合は割れにくいので、手に持ったときに持ちやすい形に作ってあるそうです。
その代わり食器棚にしまうとき重ねると座りがちと悪いですね。

[1034] Re[1032]: ・・・とは言っても  恋川亭 2005/01/06(Thu) 00:43 [Reply]
 神話学の正統な分野からの所見として、『古事記や日本書紀を、撰述時の創作・史実反映・政治宣伝文書などとは見なせない』とは言っても、やはりまとめる時には、原資料の取捨選択、表現の方法等、何らかのバイアスがかかった記述になるだろうナと考えられます。
 要はそのバイアスが、『現代人の信条から由来するものとダブらせてはダメですよ』と先の著書の萩野先生は戒めているのだろうと思います。

 牧尾一彦・著『国の初めの愁いの形 −藤原・奈良朝派閥抗争史−』(風濤社・刊)

 購入してから何年も経つのに古本屋に出せず逡巡しています。(^^;
難しいので繰り返し拾い読みしています。典型的な記紀・政治反映書説です。ただし、古事記と日本書紀とは、敵対しているというのです。
『古事記と日本書紀。西暦八世紀初頭に、わずか八年の隔たりをもって、二人の女性天皇に献上された勅撰国史。日本という国の初めを説く国史として類似の部分が多い。だが両史書を注意深く読み比べてみると、例えば天照大神という女神の扱い方において、二つは微妙なしかし決定的な対立関係を秘めている。この対立関係の背後には、各々の献上時における政治上の二大派閥の対立と抗争の政治史・思想史が密接に絡んでいる。(後略・・・表紙より)』

 中には、跳んでるンじゃないかナ?という解釈もありますが、ワタクシ的には面白かった。最初は硬いけどジワジワとスルメのように。著者は精神科の医師で、歴史学者ではありません。アマチュア・セミプロの書。しかし、移ろいゆく歴史に翻弄される人々を観る目が、どこか歴史家とは異なるように思います。古代人の心情を汲もうとされているからだろうか?私にはまだそれを正確に語れませんです。m(__)m

[1033] Re[1032]: 年賀 プラスα  恋川亭 2005/01/04(Tue) 15:23 [Reply]
著者名の訂正です。

>  『歪められた日本神話』 荻野貞樹著(PHP新書)

(誤):荻野貞樹著
(正):萩野貞樹著

ハギノ先生ですね。誤りを謝ります。<(__)>

[1032] 年賀 プラスα  恋川亭 2005/01/04(Tue) 15:13 [Reply]
 旧年中はお世話になりまして有り難うございます。
毎度好き勝手なことを書き込ませて頂いております。積もった因業により年末年始は風邪でダウン、ご挨拶が遅くなりました。
 さて、昨年中に読んだ本もあらかた古本屋に持っていったのですが、この1年の快著と思うものは手許に残しました。たとえば・・・、一度ご紹介した本ですが、再読しても面白いので、もう一度取り上げます。

 『歪められた日本神話』 荻野貞樹著(PHP新書)

 内容は『神話に変な解釈を施すのはオカシイぞ』というシンプルなテーマだけです。青草話しを愉しむ際、トンデモが逸脱し過ぎないようなバランス感覚を示してあり参考になりました(語り口は悪いけど、笑えます)。

 日本神話に対して、大勢を占める諸説・・・「史実反映説」から、「創作説」や「政治宣伝文書説」、「統合・接合説」、「架上説」、「聖数論」、「道教起源論」、「継体新王朝説」など、神話や記紀を合理的に解釈しようとして陥る誤解や錯覚・無理・問題点について、わかり易く解説されています。
 有名人や大家の説を俎上に乗せて遠慮なくバッサリ「斬り!」。『諸家の論理操作について』という章では、先生方のネタを暴露して、いかに恣意的な論説で一般人を相手にしているか公開されています。
 そして神話の解釈が歪んでしまいやすい、現代日本の特殊状況についても言及されています。

 本書で批判の対象に(名前だけでも)挙げられた先生方は、
梅原猛・上山春平・津田左右吉・松村武雄・川副武胤・神田秀夫・横田健一・松前健・荻原浅男・中村啓信・倉野憲司・益田勝実・上田正昭・岡田精司・福永光司・吉野裕子・千田稔・高橋徹・三品彰英・青木和夫・水野祐・井上光貞・直木孝次郎・吉井巌・和田萃・西郷信綱・渡部義通・松本信広・次田潤・武谷久雄・西田長男・中西進・大野晋という碩学・大家ばかり(敬称略)。
 書店の古代史の棚に名前を連ねるおなじみの方々の説が、もうケチョンケチョン!痛快ですらありました(失礼)。
〔読後感:なんだ!この説も、あの論も青草と変わらなかったのネ!?〕
 しかし、著者は権威に対する反骨者ではありません。神話学の正統である、大林太良、吉田敦彦の両先生を紹介し、「神話を神話としての」正しい神話解釈の道を示しています。

 これは私の感想ですが、「日本神話の考古学」を著作されている森浩一先生や、「日本の神々」シリーズの谷川健一先生は、批評の対象になっていません。両先生ともそれぞれご専門の考古学、民俗学の範囲を逸脱することなく「歪んでいない日本神話」の論説を展開されているからと思います。

 薄い新書版の書物ですが、門外漢にも判りやすい記述です。しかも、読んで初めて判った事柄も多くて新鮮でした。
 黄泉の国への訪問、天に岩戸隠れ、大蛇退治、天孫降臨、国譲り等々、諸外国に同じ構造の神話がいろいろとあること。なかでもギリシャ神話だけはかなり濃厚に共通する説話があること。などなど例示が多いので、私程度でも読めました(笑)。
 皆様には、いろいろな考え・立場をお持ちのことと思いますが、神話と古代史をテーマの当板にはご参考になる本かと紹介させて頂きます。大方の勢力を相手に論を張る著者の姿勢が嬉しくて。(念の為、私は著者・出版者等と一切無関係です。)

 しかし私には学習能力が無いので、神話解釈の誤謬に陥っても、素人の愉しみとして青草板には我田引水的トンデモ説を投稿していければ面白いナと思っています。
 今年もよろしくお願い申し上げます。


神奈備掲示板、写真掲示板、過去ログ集




神奈備ホームに戻る