青草談話室ログ平十七年 二月 2004.8.13 |
[1107] Re[1106]: お尋ねします。 神奈備 | 2005/02/28(Mon) 20:13 [Reply] |
奈良と三重の県境とは 山添村、都祁村、室生村、曽爾村、御杖村、東吉野村、川上村、上北山村、下北山村 ですね。 『神奈備・大神・三輪明神』もしくは玄松子さんhttp://www.genbu.net/data/yamato/oomiwa_title.htm の全摂社末社表を見ても、桜井市と奈良市以外には見当たりません。ましてや三重県側にも。 > 大神神社の末社 これは現在でもそうなのか、昔のことなのか、はたまた勧請社の勘違いではなかろうか、など疑問がでてきます。 |
[1106] お尋ねします。 サン・グリーン [Url] | 2005/02/28(Mon) 17:08 [Reply] |
神奈備さま、みなさまへ 突然の質問お許しください。 「大神神社の末社で、奈良県と三重県の境にあり、今は無人かも知れないが、昔、三輪さんという方が神主をしていた神社」を探している方がいます。どなたかご存知でしたら教えていただけないでしょうか? よろしくおねがいいたします。 |
[1105] Re[1084]: 鳥と古代、または鳥と神々 かたばみ [Mail] [Url] | 2005/02/28(Mon) 11:54 [Reply] |
≫何故、白鳥なのだろう。白鳥とは何のシンボルだろうか 古事記での日本武尊では氷雨とか稲幹とありますから季節は冬。 この頃に東から西へ飛ぶのは北海道経由で渡ってきたハクチョウ。 ナベヅル、マナヅルの繁殖地は中国大陸に広く分散していて、朝鮮半島経由で西日本へ渡ってくるらしい。 http://www.asahi-net.or.jp/~yi2y-wd/a-uta/uta-mana.html ツルやサギはカエルやドジョウがいるであろう浅瀬の鳥。 朝鮮半島経由・・伽耶であり出雲であって、銅鐸の水鳥はツルかサギ。 白鳥伝説/谷川健一では物部氏に注目していますが、銅鐸の年代や分布の研究が進んだ現在では?? 文中の「物部」を出雲に置き換えるとおおよそOKではないかなあ(^^; 以下に書く葬礼用の須恵器に水鳥らしきが登場するのは、大型古墳の登場に連動しているとみます。 池、濠の登場、大型古墳にはたいてい濠があります。 これらの大型古墳の濠はハクチョウの絶好の越冬場所になったのではないか。 古墳に樹木が茂り始めればここも一般の鳥のサンクチュアリになりそうです。 それを見る人々が葬礼用の須恵器に鳥を飾るようになるのは自然なことだと思うのです。 奈良、大阪には多数の大型古墳がある。 伊吹山付近まで入り込んでいた伊勢湾の広大な扇状地、北海道方面から飛来したハクチョウはさらに古墳の池へも飛んでゆく。 故郷へ帰る途中で没した日本武尊とハクチョウが重なって自然に生じた伝承だと思うのです。 同じ鳥でも年代や地域によっていろいろ違いがありそうです。 以下は物証としての鳥のいろいろです。 細かく説明するとたいへんなので略します(^^; まずは大陸の鳥です。 http://tokyo.cool.ne.jp/woodsorrel/data/tori1/index.html 102の良渚の鳥はかわいいですがその下にあるのが101と類似の太陽を運ぶ鳥の抽象化された絵だと思います。 重複して同じ鳥を描くのは考えにくいですから、上側の小鳥は身近な稲の鳥、下のは太陽を運ぶ最古の鳥だろうと考えています。 103は比較のために逆さにしてあります。フクロウとみえる鳥のお腹に神像を置くと104。 http://www.kamoltd.co.jp/kakegawa/fuku.html 104をさらに抽象化したものが殷の饕餮トウテツ紋様になったとする論がありますが(林巳奈夫)賛同です。 106もフクロウではないかなあ。 107の玉鷹は羽根がなぜか豚の頭になってる。お腹の模様はやはり太陽でしょう。 3本足のカラスはこの図像の尾羽の部分が後に変化して3本足になったのではないかと考えています。 伝言ゲームの結果みたいなものですね(^^; 太陽と鳥は東シナ海南方系の船の船首に描かれる鳥の目玉ともつながると思っています。 遠くをギョロリと見張ってくれる目です。 105の龍山文化の玉器はイヌワシとされ、長江中流域の屈家嶺あるいは石家河文化にも登場する鳥です。 内陸の山地なので鷲になっているのかもしれません。 次は縄文〜弥生の鳥です。 http://tokyo.cool.ne.jp/woodsorrel/data/tori2/index.html 縄文では鳥を表す図像がみあたりません。 201のコノハヅク(とされている)が知っている唯一です。 アイヌでのフクロウ(コタンコロカムイ、村の神)とこの土偶は関係あるかもしれない。 カエル、貝など陸上と海の動物はいろいろありますが鳥がいない、縄文文化の特徴のひとつとみています。 弥生にはいると鶏が登場しますが、銅鐸に描かれる水鳥を別にしてやはり土器の鳥は少ない。 木彫の鳥はありますが、稲作系の鳥でしょう。 サギは肉食だけれどツルは雑食、ツルが稲穂をくわえることはあるのかなあ。 弥生の絵土器のうち鳥の絵は約10%(鹿は47%)。 http://tokyo.cool.ne.jp/woodsorrel/data/doki_kaiga.png (表の上段のTがBC200前後、下段のWがAD200前後に相当します) 銅鐸では鳥は35%(鹿は47%)で鳥の比率が鹿に匹敵するほど増えています。 (弥生人の鳥獣戯画/雄山閣) 次が古墳時代〜古墳後期の鳥です。 http://tokyo.cool.ne.jp/woodsorrel/data/tori3/index.html 応神陵の鳥埴輪がハクチョウとみえます。 古墳時代後期になると葬送用須恵器に盛んに鳥が飾られていますが、この理由が大型古墳とその濠が呼び込んだ鳥だと考えています。 関東では鶏などが埴輪になっていて、首に紐の掛かった鷹とされる埴輪があります。 鷹狩りが行われていたのでしょうか。 307,308、315以降の子持ち壺ないし子持ち高坏は鳥とは直接関係ないですが、文化の流れを示す指標になりそうなので参考まで。 最古は後漢、ついで九州北部、半島南部と西日本全般へ。妥当なところか。 おまけで、弥生〜古墳時代あたりの伽耶参考図 http://tokyo.cool.ne.jp/woodsorrel/data/kaya01.png |
[1104] Re[1102]+α QUBO | 2005/02/27(Sun) 01:29 [Reply] |
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私ヤマトタケル稲作農業指導普及委員では?説、いまだに少し信じてます。 思い出した!「習志野のてつ」での書き込み 甲斐の国、甲府に「脚気石神社」があります。 http://www.geocities.jp/bear7bear7/koufu/kakkeisi/k02.htm ヤマトタケルは白米しか食べてなかったから、脚気になった。 三重県の名の元「足が三重になって・・・」歩けなくなったのは脚気のせい。 脚気は明治でも死に至る病だったんですよね。 |
[1103] Re[1096][1090]: 樟 素人 | 2005/02/27(Sun) 01:20 [Reply] |
〔1098〕無題 不慣れでタイトルを付け忘れてすみません。 > > ≫最近日本で一番大きくなる木、樟に興味を持っております > > 東京ですが高さ6mほどの小さい樟クスノキがあります。 調べてみますとネットでも日本一の巨樹(樟)を見ることが出来ます。巨木ベスト10の大半が樟でした。 「蒲生のクス」は日本一の巨樹、全国巨木ベスト10(昭和63年度・環境庁) http://www.town.kamou.kagoshima.jp/kamou/main-f/this-is-kamou/machi/kusu-documents.htm 楠の巨樹 http://www.asahi-net.or.jp/~it8k-kjmt/kigi/listkusu.htm 樟の採取は根も含めて「根こそぎ」採取で、解体後に以下のように水蒸気蒸留されたようです。松根油のように現場付近で蒸留されたのでしょうか。話が横道にそれますが、良質テレピン油は赤松などに傷をつけて生松脂を漆のようにかきとって採取し、蒸留した溜出物がテレピン油で残分がロジンです。テレピン油は塗料溶剤などに多用されたようです。 樟脳の歴史及び樟材からの簡易製造法。 http://web.kyoto-inet.or.jp/people/sugicom/kazuo/neta/bake41.html 日本語名は「カンフル」もあり、ドイツ語より来ているようです。 物質名:ショウノウ 日本語名:ショウノウ 、1,7,7-トリメチルビシクロ-(2,2,1)-2-ヘプタノン、カンフル 英語名:CAMPHOR http://www.k-erc.pref.kanagawa.jp/kisnet/hyouji.asp |
[1102] Re[1099]: 金鵄の話+α QUBO | 2005/02/27(Sun) 01:01 [Reply] |
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ガルーダ航空とはインドネシアの飛行機・・・ ガルーダ航空は インドネシアの国営航空なので、政府の役人はガルーダ航空を使う決まり。 でもお役人、私費で海外旅行する時は、必ずシンガポール航空を使そうです。 シンガポール航空の使い古した機体を、ガルーダ航空が買って使っているから。 > 『釈尊の国からきた神』(前田行貴著)によると、神武天皇が長髄彦との最後の > 対決の前に、弓の上にとまった金鵄とはガルーダのことらしい。 法隆寺に残っている伎樂(きがく)面で、迦楼羅(カルラ)を見たことがあります。 もっともそのお面が、いつからのものかは判りませんが、相当古そうでした。 > これは後世に天狗のモデルとなったと云う。 天狗は天狗でも、カラス天狗の方のようです。 > 八尋(ヤヒロ)白智鳥(シロチドリ)に・・・ これは白鳥(はくちょう)ではなく白鷺(しらさぎ)では と、昔ご本殿に記帳したような???白鷺もよく水田にいますしね。 私ヤマトタケル稲作農業指導普及委員では?説、いまだに少し信じてます。 |
[1101] 何故、白鳥が穀霊なのか。 神奈備 | 2005/02/26(Sat) 20:50 [Reply] |
餅は白い色、白鳥は白。 白鳥の滞在は湖の水辺とか湿地帯、ここは初期の稲作の適地。多分白鳥が飛び去った後に種を播く、収穫が出来る、また白鳥が飛んでくる、などの事があったのだろうね。 |
[1100] Re[1088][1084]:他 鳥と古代、または鳥と神々 神奈備 | 2005/02/26(Sat) 19:21 [Reply] |
『古事記』の倭建の命 ここに倭(ヤマト)に坐(イマ)す后(キサキ)等(タチ)また御子(ミコ)等(タチ)、諸(モロモロ)下(クダ)り到(イタ)りて御陵(ミハカ)を作り、すなはち其地(ソコ)のなづき田に葡匐(ハ)ひ廻(モトホ)りて、哭(ナ)きて歌曰(ウタ)ひたまはく、 なづきの田の 稲幹(イナガラ)に 稲幹に 葡(ハ)ひ廻(モトホ)ろふ 野老蔓(トコロヅラ)《35》 ここに八尋(ヤヒロ)白智鳥(シロチドリ)に化(ナ)りて、天(アメ)に翔(カケ)りて浜に向きて飛び行(イ)でましき。 この「なづき田「」とは、馴れた、なじんだの意だそうで、水稲の呪祷歌謡といいます。(『神話の源像』山上伊豆母著) これが正鵠を得ているようで、そうすればQUBOさんご指摘の通り、倭建命の魂は穀霊白鳥と言えることになります。 |
[1099] 金鵄の話 神奈備 | 2005/02/25(Fri) 21:12 [Reply] |
ガルーダ航空とはインドネシアの飛行機だが、小生が出張していた頃は落っこちて死んだら補償金は一人日本円で30万円だとか云っていた。落ちるならアメリカか日本の飛行機がよろしいようで。 『釈尊の国からきた神』(前田行貴著)によると、神武天皇が長髄彦との最後の対決の前に、弓の上にとまった金鵄とはガルーダのことらしい。インドの鳥で金翅鳥と云い、ガルダ、カルラなどと云う。最高の原始神で生命の進化の神のようなヴィシュヌ神の乗り物だそうで、武芸の神でもある。 三十三間堂の千手観音の眷属として祀られているそうだ。 これは後世に天狗のモデルとなったと云う。 |
[1098] 無題 素人 | 2005/02/24(Thu) 02:21 [Reply] |
初めての素人の書き込みに回答いただき感謝感激です。 >松の木から抽出した天然のテレピン油で強い芳香のある油で、こちらが名前の元祖です。 テレピン油の主成分α-ピネンからイソボルネオールへて合成カンファー(合成樟脳)が合成されています。同じテルペン類でもα-ピネンは近い化合物のようです。 >佐藤洋一郎著『クスノキと日本人 知られざる古代巨樹信仰』八坂書房刊。著者は稲のDNA研究者もしかしたら、ご興味おありかも。 大変に興味がありますので読みたいと思っております。情報ありがとうございます。 樟脳関連資料 新聞記事文庫 樟脳工業(1-001) 神戸新聞 1912.6.16(明治45) 世界市場の樟脳 黒潮と樟脳の関係、樟脳は日本の独占、南清樟脳大輸出、英米の樟樹栽培、データ作成:2004.2 神戸大学附属図書館(新聞のコピー等) http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00212131&TYPE=HTML_FILE&POS=1&TOP_METAID=00212131 「戦争とセルロイド」 http://www.celluloidhouse.com/salon8.htm |
[1097] 鳥と神々 番外 神奈備 | 2005/02/23(Wed) 20:34 [Reply] |
『三国遺事』巻第一 の説話 にあると云う。 新羅の阿達羅王のとき(西暦157年か) 新羅の東海浜に延烏郎、細烏女という夫婦がいた。ある日、延烏郎が海辺で藻を取っていると大岩が彼を背負って日本に運んだ。日本の人々は彼を見て、普通の人ではないとして王に立てた。夫が帰らないので妻の細烏女がたずね歩いたが、またしても大岩が彼女を背負って日本に運んだ。延烏郎と細烏女は相会し、細烏女は王妃となった。ところがこの二人は太陽と月の精であったので、新羅は日月の光を失うことになった。新羅王は使者を派遣して二人を呼び戻そうとした。しかし延烏郎は肯じまかったので、使者は細烏女の織った絹を日本からもちかえって天を祀ったところ、日月は旧に復した。その絹を国宝とし、絹を収めた庫を貴妃庫と名づけ、祭天の所を迎日県または都祈野と称した。引用以上。 さてこれに対応する日本の神話は何だろうと考えてみます。 特徴 1.迎日県または都祈野とした 1−1 『和名抄』には大和国山辺郡に都介がある。現在の都祁 1−2 延喜式に「座摩の巫は都下国造の童女」とあり、これは摂津国。 2.男(神)と女(神)が共に降臨している。 2−1 天日矛と阿加流比売 2−2 天稚彦と天探女 2−3 他に日本海側などに伝承が残っているかも知れない。 猿田彦と天宇受女なんかありそうだが... 3.大岩に乗ってきた。すなわち天磐舟。 3−1 饒速日尊 3−2 天探女、亦の名は下照比売(乗ってきた磐舟が鶴橋に埋まっている?)http://www.kamnavi.net/ym/hiboko/himekoso.htm 難波の日下は日の祭祀の場所との有力な説があり、加えて、女神(天探女)の降臨伝承が残っており、また天稚彦の妻の下照比売も難波に縁がある神であり、延烏郎と細烏女とは天稚彦と天探女のことと想定できそうです。 |
[1096] Re[1090]: 樟 かたばみ [Mail] [Url] | 2005/02/22(Tue) 20:59 [Reply] |
≫最近日本で一番大きくなる木、樟に興味を持っております 東京ですが高さ6mほどの小さい樟クスノキがあります。 だいぶ前に大雪で幹の二股に分かれた部分から折れ裂けましたが、ロープで縛って数年、なんとか復活。 照葉樹は気温だけでなく湿った雪が降る地域では落葉樹より不利なのだろうと考えています。 樟は木彫に最適な木のひとつでノミを入れると良い香りがします。枝落としした太い枝は保存してあります。 腐りにくい木ですが葉も黒くなるだけで腐りにくい。 樟脳の成分のためなのでしょう、他の落ち葉と混ぜないようにしています。 森では枯れ葉が積もって天然堆肥になるわけですが、東京ではうかつに落ち葉を貯めておくと腐敗してかえってうまくありません。 樹木が発散するフィトンチッドが腐敗を防ぎながら土に戻す微妙なコントロールをしていて、町中ではそれが風に飛ばされて機能を発揮できないためだろうと思っています。 神社に杉やヒノキが多いのは、これらの樹木が発散する「強い気」が具体的な清らかさになっていて、雑木林の里山とは違う環境を作り出しているのではないかと思っています。 中国でも樟は木工に使われますが、神木的な扱いがあるかどうかは知りません。 中国南部では楓香樹フウ(落葉樹)が重要な木材になっていて、香りのある樹脂が漢方薬になるそうです。 苗族では神木にもなっています。 山東半島で発見された随時代の双胴船は材料に楓香樹が使われています。 http://www5.ocn.ne.jp/~nhbg/nowflo04.11.htm http://www6.plala.or.jp/sin-oomiya/fuunoki01.html 東京だと上野寛永寺に巨木があります。 余談 テレピン油という油があります(石油から精製した無臭のテレピン油ではありません)。 松の木から抽出した天然のテレピン油で強い芳香のある油で、こちらが名前の元祖です。 芳香と感じるかどうかは人によるけど。 探さないと入手しにくいのですが、ワニスなどの塗料の希釈剤に好んで使っています。 フィトンチッドのかたまりでもあるわけで、除臭効果もあるとみています。 植物テレピンを使うと犬がくしゃみをしながら逃げてゆきます(^^; で、ネズミも逃げてゆくのです。 木造のボロ屋ですとネズミの侵入自由なんですが、ポリ容器にティッシュをつめて植物テレピンをしみこませて天井裏においておくとネズミがこないのであります(^^) http://www.yuasagreen.com/kafunsyou.htm 私は花粉症にはまずならないのですが、ひょっとしたら。 森では花粉とフィトンチッドの両方がある、都会では花粉と排気ガスが飛び回る。 花粉症の方はだめもとで松のテレピン油を試してみて損はないかもかも(^^; |
[1095] 米国も日本も めいそん社会? わーぷ | 2005/02/22(Tue) 18:10 [Reply] |
本殿での かたばみさんのお話、段々と確信に近づいて来ている様でとても楽しみです。 <この初老の夫婦は長いことその場にたたずんでいました。またこれ以上社殿に近づこうとはしませんでした。このときなにを感じていたのかなあ。 (戒律が厳しいからでしょう、コワイ!) ある外国の一神教の神様ですが、信者がたの神様に移ったのを嘆く話が有ります。 現在、日本には約12万程の神社があるそうです。(明治維新の頃には3倍はあったと言われます。古代は朝廷が裏で神社や祠のどの建設を行なわせ地元に管理運営の司を置いた、ご利益の在る寺社などは国造り予算の分捕る力が強い派閥に属していた。)水戸光圀も神社の維持に貢献しました、(神社と古墳・・・庚申塚・サルタヒコ・・・日光の三猿・・・カバラ?) なぜか日本では新しい神社(例:たばこ神社やカラオケ神社)や神様のご利益も交通安全祈願や必勝祈願などなど御神体などもバライティーに跳ん(富)でます。 一神教徒には理解し難い様ですが神仏集合までして宗教戦争を避けようとした先人達の知恵と努力のお陰と思います。(時の日本のトップなどは、強い宗派に対しては二分割する事で対立を発生させ弱める政策をとったそうです。 インドのヒンズー教の神々の一つにブッダ(お釈迦様)も居るそうです、おおらかです。 ある世界的な宗教の祖神と言われる神はアダムとエバが神に従わなかったばかりでなく紀元前ごろの話にも(サムエル第二・民数奇・歴代第一・ヨブ・ヨハネ第一・詩編・・・など)に神との契約の厳しさを強く感じます。 いま一神教勢力が脅威を感じている宗教をおさえようと戦っています(ピラミッド社会の成立・カースト制度的親族の永遠の安定のために) 強者は永久の繁栄のために法による支配を始めたのです、能力主義(資本主義?)知能の高い人々+大金持ちによる王国造り。 日本の与党の人たちも現状の甘い蜜の味(巨大裏組織の戦略)の為に現状維持・世襲制(新しく参入し辛い状況が構築され。) 軍事費とマネーゲーム資金・・・・・破壊と創造・・・・愚か! |
[1094] 鳥は、異界間のトラベラー わーぷ | 2005/02/22(Tue) 16:04 [Reply] |
「柱」鳥居かも(測量目的?)メソポタミア・エジプトの物神柱に鳥が乗り、東南アジア各地の鳥居にはいまも鳥が載っているように、本来鳥居は柱に鳥像を捧げて、神(あるいは王)の表徴(守護神)としたり、神域や部族 地の境界の界標(守護神)としたものです。(獅子神とのセットになっていて、その獅子がのちに狛犬になります)オリエントの幻想より 笠形(角度を計測?)木の鳥(あの世への案内?) >>尊の霊魂が白鳥によって西に運ばれたと云うことでは。 西:(西方より渡来した人々の聖地・故郷では?エジプトからのモーゼの民の末裔かも?ローラン遺跡は鳩の巣?「西」の甲骨文字は、鳥居が笊の中で体をまるめた形・「鳥の巣の象形」) エジプト神のナタルは、ナ(冠詞)+タル(鳥)で鳥神、民族の始祖 が母始鳥ゲブで王が鷹のホルス、守護神が梟のマ(あるいはイム。ベス神)です 呼吸を霊魂と見なして「バー(ba)」と名付けられ人間の頭をした鳥の姿で描かれております。 人間の魂そのものはクー(khu)とよばれ,鶏冠のある鳥の姿でしばしば描かれています。 (古代エジプト人が転生するときに最も望んだ生き物は鳥類です.これは空に対する憧れからくるものであると思われます.実際に神々もその変身した姿に鳥をとっているものが多いです.たとえば,オシリスであればベンヌ鳥というフェニックスがその姿であり,イシスは燕がその姿なのです.) 『春秋左氏伝』の魯王昭公(在位BC541-510)伝・十七年の条の一節より 玄鳥(燕)氏は春分秋分を司り 伯趙(もず)氏は夏至冬至を司り 青鳥氏は陽気が物を開くことを司り、 丹鳥氏は陰気が物を閉じることを司り 祝鳩氏は民を導き ショ鳩(ショは目扁に鳥)氏は法を司り シ鳩(シは尸扁に鳥)氏は土木を司り、 爽鳩氏は賊を取締り 鶻鳩氏は農工を司り(五つの鳩氏が民を集め教える役をつとめたそうです。) 五つの雉氏が五つの工人の長になり、道具を便利にし、度量の標準を立てて人民の暮しを楽にしたそうです。 九つの扈氏が九つの農の司になり、民を落ち着かせ、怠らぬようにさせたそうです。 孔子は、少コウの子孫であるタンツを「夷人」と呼び、後代では、中国東部の夷人が「鳥夷」と呼ばれていたそうです。 (参考:「鶴と亀」は、ウル・シュメール起源の白鳥(鶴)族・亀族に由るという 川崎説) 鳥の名で役職・役割を表現されたようです。 |
[1093] Re[1090]: 樟 大三元 | 2005/02/22(Tue) 09:11 [Reply] |
素人さん > 最近日本で一番大きくなる木、樟に興味を持っております。 佐藤洋一郎著『クスノキと日本人 知られざる古代巨樹信仰』 八坂書房刊。著者は稲のDNA研究者 もしかしたら、ご興味おありかも。 |
[1092] 鳥と神々 神奈備 | 2005/02/22(Tue) 08:56 [Reply] |
、『日本の古代13:心の中の宇宙』p.347 鳥に神霊が宿る観念は東南アジアに分布する蘇塗(ソト)、鳥杆が代表的なもの。 蘇塗とは、鳥杆とそれがたっている聖域のことのようです。現在の半島南にも村落の入り口に鳥杆が立っている所もあり、それはソッテ、スサルティ等と呼ばれています。杆頭に五穀の種や餅を入れた藁包に入れたぶら下げる儀礼がなされているとか。穀物をこの世にもたらした鳥勧請(鳥への感謝の意をささげる慣行)が原義で、穂落神話の儀礼表現だそうです。 鳥杆の杆は世界樹とされ、華北の雑穀栽培文化が南下して稲作文化にも吸収された儀礼ではないかとあります。引用以上 さて、鳥杆や村の入り口のイメージは「曽尸茂梨を訪ねて」の写真をご覧下さい。 鳥とは少し話がずれますが、高天原を追われた素盞嗚尊は新羅のソシモリの処に降ります。ここはアジールであって、逃げ込めばそこまでは追われない場所とされています。アジールの男、すなわちスサルティの男、これが須佐之男になったのかも知れません。 |
[1091] Re[1090]: 樟 神奈備 | 2005/02/22(Tue) 08:29 [Reply] |
樟木は和歌山の県木だったと思います。ここの多くの神社の境内にその巨木がたっています。 > 樟巨木の消滅は日本人の精神構造に変化を与えたのでしょうか。 どうなんでしょう。日本での樟木の北限は東京と云われていましたが、実際は埼玉や群馬にもありそうです。また鎮守の森の樟木は消滅していません。そう云うことでは、日本人の内、関西人と関東人との精神構造には差異がありそうですが、樟木の影響とすれば面白いですね。 樟木と船で連想することは韓郷で素盞嗚尊が曰く「杉と樟、この二つの木は舟をつくるのによい。」と。 素盞嗚尊が降臨したとされるソシモリの場所を特定しようとのツアーに参加しましたが、第一候補の春川の牛頭山(ソウルと同じ程度の緯度)には樟木は見当たらず、調べて見ますと樟木の北限が半島南岸付近で、樟木も生えない場所で樟木を生みだし、その用途を云うのもおかしいと感じた次第です。尤も現在より暖かい時代でしたら、ソウル付近で樟木が見られたかも。 樟木の成長は速いようで、湊川神社にも大きい樟木が見えます。大阪で目に付く樟木としては、 八剱神社跡(東成区大今里)http://www.kamnavi.net/en/settu/imazato.htm 岡中の鎮守社(泉南市信達岡中) http://www.kamnavi.net/kumano/osk/nagaoka.htm などです。 |
[1090] 樟 素人 | 2005/02/22(Tue) 02:36 [Reply] |
時々は意見させていただいております。 最近日本で一番大きくなる木、樟に興味を持っております。 神社にあり、御神木になっているようです。 日本は照葉樹林帯にもかかわらず、あまり樟の大きい木が見当たらないために調べてみますと、明治の初期までは古木の群落が各地にあったようです。特に土佐はその数が多いことが有名であったようです。 しかし、硝化綿工業の原料(セルロイドの可塑剤)として外貨獲得(兵器購入?)のために樟脳が輸出され樟脳原料の樟の古木が伐採されて明治後期には消滅したようです。樟の巨木の群落は壮観なものと推定され日本人の精神に影響を与えていたのではと思います。又、樟から昇華する樟脳(カンファー)は戦前のカンフル注射で有名ですが中枢神経興奮作用もあり樟の巨木の群落中では精神が高揚したのではないかと夢想します。神秘的精神の高揚を日本人は感じていたかもしれません。 樟巨木の消滅は日本人の精神構造に変化を与えたのでしょうか。 樟の巨木は古代では準構造船の材料として大型の外洋船を建造していたようでから樟材の莫大な蓄積が有ったとすれば古代日本の海洋国家としての可能性も見えてくるように思います。材料の大きさから帆船でないと外洋での航海は困難と思いますが、地中海では古代から帆船は有るようですが、東アジアでは残念ながらはっきりしないようです。 樟、照葉樹林帯から考えますと中国南部につながるように思いますが、手前味噌な考えでしょうか。 素人ですから間違えは多いと思いますがお許しください。 御指導お願いたします。 |
[1089] Re[1088][1084]:他 鳥と古代、または鳥と神々 神奈備 | 2005/02/21(Mon) 21:23 [Reply] |
白鳥が何を運んだのか、と云うことの解明がいりますね。 以下、『日本の古代13:心の中の宇宙』p.93付近をまとめると:− 弥生中期後半で、鳥取県西伯郡の角田遺跡から出土した壷に、ゴンドラに乗って櫂を操る数人の頭に羽根飾りがついており、これらの鳥装の人は祭場に向かい、そこには異常に高い掘っ建て建物と高床倉庫が描かれていると云います。銅鐸にも柱の上に鳥を置いた鳥杆、笠形図像や鳥装の人物が描かれているものが出ているようです。 鳥に扮したシャーマンが稲穂に宿った稲魂を運んでいる姿で、壷自体が種モミを器でしょう。この感じはタイ国北部の稲魂(ピー)を祀るアカ族の祠を想像させます。 所が後期後半から古墳時代には墓へ土製の鳥が奉納されたり、古墳の周囲から柱、笠形、木の鳥が出土しており、時代とともに穀霊から人間の霊魂を運ぶもにに変わってきたようです。 さて、日本武尊の場合、能褒野で田植えをした訳でもなく稲刈りをしたのでもなく、死んだのですから尊の霊魂が白鳥によって西に運ばれたと云うことでは。 古市辺りがゴールとすれば、ここは河内の真ん中、物部氏の跋扈していた地域です。 |
[1088] Re[1084]:他 鳥と古代、または鳥と神々 QUBO | 2005/02/21(Mon) 11:40 [Reply] |
>> 日本武尊は亡くなって、白鳥になって飛んでいきました。 >> 何故、白鳥なのだろう。白鳥とは何のシンボルだろうか。 私は稲の象徴だと思ってます 柳田国男説もそうらしい(うろ覚え)です 風土記の中に二箇所、餅を的に矢を射る話があります。 射られた餅は白鳥に変化し飛び立ってしまい、後の地では 稲を含む作物がそだたなくなり、その行為をした長者が 没落する。・・・といった話だったと思います。 日本武尊と物部氏・・・と鍛冶氏族との関係? ヤマトタケルのフリークなので、関心は高いのですが難しいですね。 日本武尊の東征の後、成務天皇の時代にかなりの「国造」が 任命されているんですが(大三元さんのHPに詳しい)、 http://www.dai3gen.net/kokuzo.htm これは景行天皇の巡幸の後と考えるべきか・・・とか? |
[1087] Re[1086][1085][1084]: 鳥と古代、または鳥と神々 神奈備 | 2005/02/21(Mon) 08:21 [Reply] |
大三元さん、ありがとうございます。 http://www.dai3gen.net/mizokui.htm に出てくるおほささぎ(仁徳天皇)と木兎宿禰との名前交換、またほむたわけ(応神天皇)と角鹿のいざさわけの交換も鳥(の名)が仲立ちしているようで、死と再生とつながるのかなどと平凡に。 仁徳さんで云えば、仁徳〜武烈が一つの皇統と云われるのは、大鷦鷯から稚鷦鷯への名前の対比からも頷ける所。 死と再生であれば http://www.dai3gen.net/tori_sougi.htm でご指摘の天若彦の周辺と葬儀に鳥がどっさり登場して来ます。所謂鳥葬というのでしょうか、にぎやかに過ぎるようです。 鳥葬ではありませんが、和歌山県田辺市の磯間遺跡から、胸に渡り鳥を抱いた男児の骨が発見されています。 他界へ無事に導かれ、再び蘇ってほしいとの親の願いが見て取れます。 |
[1086] Re[1085][1084]: 鳥と古代、または鳥と神々 大三元 | 2005/02/20(Sun) 23:31 [Reply] |
神奈備さん、面白いテーマですよね。 こんなことを考えていました↓ http://www.dai3gen.net/tori.htm http://www.dai3gen.net/chir-chip.htm |
[1085] Re[1084]: 鳥と古代、または鳥と神々 神奈備 | 2005/02/20(Sun) 21:18 [Reply] |
治承四年(1180)大仏の首が焼け落ちた。鋳物師大工の工人達が銅を鋳造するための火入れ式を行った。その時、春日山から白鳥が飛来し、タタラや炉のまわりをまわった。 また金子屋神は白鷺に乗って出雲国に飛んでいき、そこでタタラ製鉄を教えたとある。銅や鉄を精錬する人は白鳥を神とあおいだ。 物部氏は祖先を白鳥であるとの意識を持っていたのではあるまいか。 (谷川健一『白鳥伝説』) 日本武尊と物部氏とはつながるのかな? 日本武尊と鍛冶氏族との関係はどうなんだろう? |
[1084] 鳥と古代、または鳥と神々 神奈備 | 2005/02/20(Sun) 19:27 [Reply] |
上記命題で語ろうとの会合が計画されているようですので、事前にここで語って参考に供したいと思います。皆様のご協力をお願いいたします。 アイデアのみでも結構です。 日本武尊は亡くなって、白鳥になって飛んでいきました。 何故、白鳥なのだろう。白鳥とは何のシンボルだろうか。 また飛び立った跡には着物しか残っていなかった。(日本書紀) どうやらこれは尸解仙ではあるまいか。尸解とはいったん死んで、もしくは死んだようにみせかけて仙人になること。抜け殻のみが残るという。 |
[1083] Re[1021][1020]: ケガレと習慣 玄松子 | 2005/02/17(Thu) 17:48 [Reply] |
しばらくこちらを見ていなかったので、超カメレスですが。 > >現状は服喪も服忌も同じものです。 > >あえて、違いを誇張する必要もありません。 > > 忌の期間と喪の期間は違う数値が設定されており、広辞苑などでも違う意味に解説されているので、 厳密には違いがあることは承知しております。が、 【服忌】 喪に服すること。また、その期間。服紀。 【服喪】 喪に服すること。近親者の死後、一定期間外出などを控え身を慎むこと。 大辞林(国語辞典)より ということですから、一般的には同じ意味。 > >あえて、違いを誇張する必要もありません。 > >玄松子>> 喪中の家に年賀状を出して「ハレ」のエネルギーを送っても良いかも。 > >玄松子>これは押し付けではないですか。 > > > >この一文に関する意見です。 > > 断じて押し付けではありません。 > > Z>で、まあ、個人的には「ケガレ」を無意味なものとしてとらえていこうと思っています。聖地の女人禁制を撤廃してもおっけーかも。喪中の家に年賀状を出して「ハレ」のエネルギーを送っても良いかも。焼肉定食を食べてから神社に行ってもおっけーかも(^^;) > > クルマの運転に「かもしれない運転」という未来を予想する言葉があるように、上記は、あくまで時間軸上の未来に向けて発したものです。 まず、 ・まあ、個人的には「ケガレ」を無意味なものとしてとらえていこうと思っています。 と書かれ、次に、 ・聖地の女人禁制を撤廃してもおっけーかも。 ・喪中の家に年賀状を出して「ハレ」のエネルギーを送っても良いかも。 ・焼肉定食を食べてから神社に行ってもおっけーかも(^^;) と記述されております。 上記の書き込みでは、「個人的には「ケガレ」を無意味なものとしてとらえていこうと思っています」という決意以後に続く「かも」「かも」は、不確かな断定であり、貴方の意志であると取れます。 漠然とした時間軸上の未来ではなく、貴方の決意によって引き起こされる可能性です。 わき見をしていれば事故を起こすかも。スピードを出しすぎれば事故を起こすかも。 これらは、単なる可能性(予測)ですが、 貴方は、わき見をする・スピードを出すと表明しているわけですから、 単なる予想という説明は詭弁に過ぎます。 |
[1082] 「伊勢屋、稲荷に、犬の糞」 わーぷ | 2005/02/17(Thu) 10:10 [Reply] |
「伊勢屋、稲荷に、犬の糞」 平将門怨念ツアー 港・烏森神社2に http://www004.upp.so-net.ne.jp/dhistory/tko_1_12.htm 「ウガノミタマ」とは、食物の神? 「歳神」とは兄弟の神(市神と歳神)であり、神大市比売(かむおほいちひめ)を親神としているそうです参考になります。 |
[1081] Re[1080]: ほんの紹介 神奈備 | 2005/02/17(Thu) 08:25 [Reply] |
> 「イナリ ハチマン イヌノクソ」 ほんの紹介2 『八幡神とはなにか』飯沼賢司著 角川選書 p.125 749年に「一品」の品位を持って遇されており、皇祖・天皇霊と見られていた。 821年の太政官符には、太上天皇御霊とされており、聖武天皇のこと。 844年 八幡大菩薩は応神天皇霊説が一般化 > 八幡は応神天皇、日本武尊の孫です 9世紀に入り、新羅からの移住を制限した。この為新羅の海賊行為が増え、対新羅神として大帯姫への信仰が高揚、この副産物として応神天皇信仰が誕生。八幡信仰に応神そのものへの信仰の側面は殆どない。 |
[1080] ほんの紹介 QUBO | 2005/02/16(Wed) 10:04 [Reply] |
昨年9月に発行 完全踏査 『古代の道』 木下 良監修/武部健一著 私が一番面白かった=関心を寄せた一節はP45 「・・・古代駅路の初期は、東海道は伊勢湾を越えて伊良湖岬に 達していたもので、その場合の海上交通の拠点としては現鳥羽港 付近が考えられ、・・・」 私説ヤマトタケル東征 「ヤマトタケルは伊勢から船で東征に向かった。往きには 尾張に寄っていない。尾張の『建稲種』が軍に参加 『建稲種』を水軍の長として、東に向かった。」 おまけ 「イナリ ハチマン イヌノクソ」の 八幡は応神天皇、日本武尊の孫です 出生は怪しいが、人が神になった容です |
[1079] 本殿<[6010] 、ヨゴト(新生) わーぷ | 2005/02/09(Wed) 22:21 [Reply] |
白川静氏は【夜】(ヤ・よ・よる)を会意:「大と夕とを組み合わせた形。大は手足を広げて立つ人を正面から見た形。夕は夕方の月の形である。人の腋の下から月が現れている形で、つきが現れている形で、月が姿を現わすような時間帯を夜といい、「よる・よ」の意味に用いる」との事ですが、 私的には「人の腋の下から月が現れている形が白川静氏の言う「口」サイと甲骨の「月」との異同を確かめることは出来ない。」との見解ですし 「口」サイ;祝詞ノリトを入れる器の形」は私的には「黄河の治水に失敗し河の近くの測量のポイントに酒の甕に逆さに入れられ生贄となった夏王禹の父(鯀コン魚+系であだ名:口)の形で祖先の「霊」として禹が「ヒ:斎」する文字と考えます。 「人の腋の下から月が現れている形で、月が現れている形で・・・・」と?ですが向かって左の腋の下の「I」は数字の十を現わしパーフェクト=神を現わす亀甲文字と考えます、したがって「夜」は神と霊と人が共に過ごす・・・・ヨゴト(新生)・・・夜事ヨゴトとも私的に考えます。 <「脱皮出来なければ蛇は死ぬ。それはまさに、マガゴト(死)といえども一事、ヨゴト(新生)といえども一事ではないでしょうか。」古代の思想には死=再生(脱皮・羽化=天使になる)=修験道(生きながら生まれ変わる)の思想があり古墳(母なる山・子宮・蚕の繭など) ピラミッドなどと同じく「蘇えりの場所」とし日本の行基図の測量のポイントとの考えです。(中国では三千五百前の禹王の時代に中国を九州に分け地図が作られているのです。(このころ日本にも測量に渡来した可能性も考えられます。) |
[1078] Re[1077]天神地祇 QUBO | 2005/02/09(Wed) 01:09 [Reply] |
神奈備 様 レスありがとうございます 「天神社」に祀られるのは何となくアマテラス以前の神々 ではないのか?と思いまして。 神奈備 様 HPに「物部天神社」祭神櫛玉饒速日命 http://www.kamnavi.net/mn/higasi/saitama.htm が有り、面白かったものですから。 日本武尊は地祇でしょう。母方は吉備氏ですから。 ギリシャ神話でもゼウス(=最高神)の子ヘラクレスは 人間です。但し多くの試練の後神になってます。 |
[1079] 本殿<[6010] 、ヨゴト(新生) わーぷ | 2005/02/09(Wed) 22:21 [Reply] |
白川静氏は【夜】(ヤ・よ・よる)を会意:「大と夕とを組み合わせた形。大は手足を広げて立つ人を正面から見た形。夕は夕方の月の形である。人の腋の下から月が現れている形で、つきが現れている形で、月が姿を現わすような時間帯を夜といい、「よる・よ」の意味に用いる」との事ですが、 私的には「人の腋の下から月が現れている形が白川静氏の言う「口」サイと甲骨の「月」との異同を確かめることは出来ない。」との見解ですし 「口」サイ;祝詞ノリトを入れる器の形」は私的には「黄河の治水に失敗し河の近くの測量のポイントに酒の甕に逆さに入れられ生贄となった夏王禹の父(鯀コン魚+系であだ名:口)の形で祖先の「霊」として禹が「ヒ:斎」する文字と考えます。 「人の腋の下から月が現れている形で、月が現れている形で・・・・」と?ですが向かって左の腋の下の「I」は数字の十を現わしパーフェクト=神を現わす亀甲文字と考えます、したがって「夜」は神と霊と人が共に過ごす・・・・ヨゴト(新生)・・・夜事ヨゴトとも私的に考えます。 <「脱皮出来なければ蛇は死ぬ。それはまさに、マガゴト(死)といえども一事、ヨゴト(新生)といえども一事ではないでしょうか。」古代の思想には死=再生(脱皮・羽化=天使になる)=修験道(生きながら生まれ変わる)の思想があり古墳(母なる山・子宮・蚕の繭など) ピラミッドなどと同じく「蘇えりの場所」とし日本の行基図の測量のポイントとの考えです。(中国では三千五百前の禹王の時代に中国を九州に分け地図が作られているのです。(このころ日本にも測量に渡来した可能性も考えられます。) |
[1078] Re[1077]天神地祇 QUBO | 2005/02/09(Wed) 01:09 [Reply] |
神奈備 様 レスありがとうございます 「天神社」に祀られるのは何となくアマテラス以前の神々 ではないのか?と思いまして。 神奈備 様 HPに「物部天神社」祭神櫛玉饒速日命 http://www.kamnavi.net/mn/higasi/saitama.htm が有り、面白かったものですから。 日本武尊は地祇でしょう。母方は吉備氏ですから。 ギリシャ神話でもゼウス(=最高神)の子ヘラクレスは 人間です。但し多くの試練の後神になってます。 |
[1077] Re[1076]: 天神地祇 神奈備 | 2005/02/07(Mon) 17:16 [Reply] |
QUBOさん こんにちは。 高天原に坐すか、または高天原からやって来た神々が天神地祇で云う天神と理解していいのでしょう。 闇淤加美の神は伊耶那岐の命の動作によって生じていますので天神、これは雷神です。一方、菅公の霊も雷神と見なされています。 となると自然発生と云うことかも。 で、QUBOさんはこの位のことはとっくにわかっていてのカキコでしょうから、さてさて。 素盞嗚尊は? 宗像三女神は? 日本武尊は? |
[1076] 天神地祇 QUBO | 2005/02/07(Mon) 15:18 [Reply] |
ここの所疑問なので、どなたかお教え下さい。 菅原道真を祀る神社は「○○天神」ですが、 「天神社」が何故菅原道真を祀るのか? どう考えても、菅原道真は天神では無いんですよねえ 天神地祇の天神の意味でですが。 一種の祭神乗っ取り事件ですが、リードしたものか 自然発生的なものか判らないのです。 |
[1075] Re[1073]: 赤の文化6 神奈備 | 2005/02/05(Sat) 20:56 [Reply] |
> 稲作では最初から九州を目指して移動する人々もいたかもしれません。 > 緯度と気候からみて当初の稲は九州が目的地だった可能性もあると思います。 そうでしょうね。秋に収穫した種籾を壷にでも入れて、海水で濡れないようにして九州に上陸、春までには洪水にならない湿地帯を見つけて、種籾を播く。 聞くところによれば、葦原は葦が風除けとなって稲が倒れないのでいいそうですね。 最初の収穫まで緊張したものでしょう。 |
[1074] 八百万の神の思想 わーぷ | 2005/02/05(Sat) 04:18 [Reply] |
次の様な記載ありました。 八百万の神の思想 墨子(ぼくし) 前5世紀の思想家。善政道を説く。八巻明鬼の中で、為政者は鬼神の誅罰を畏れて行為を慎むべきであるとする。鬼神の存在と鬼神の誅罰を証し、鬼神・神霊を祀ることが国家万民を治める聖王の勤めであると説く。墨子は儒家の虚礼と虚偽を剥ぎ、真に人民に利する実のある仁政を説いた。そのなかでもとくに厚葬久喪は人民を貧しくするだけだとし為政者のおごりと虚栄を諌め、また攻伐は天下の害とし、天下を富ませ、人口を増やし、治安をもたらす道具として「天」の義法を重視する。天思に順う義政と尊び、天意に叛くは力政であるとした。そのため、さまざまな祖先神や土着神を祀るおおもとの思想ともなっている。俗に「お天道様に顔向けできない・・・」など言われていたが、それは墨子である。また、義は生に優るとし、武士道の根幹で、兵法の「一向二裏」も墨子から出ている。 日本国の語源はどこにあったのだろうか。 「如墨委面」(漢書の地理志の「倭人の項」顔師古の注) 委面を黥面と誤解して、黥面した倭人のことと勘違いしてはならない。それは、つぎの通り。 つまり、「如墨委面」は・・・[niw-mwwk-yiiben] これが、古代中国南語では、このように発音されていた。(P音はB音に近い)YIIPON,YIIPUN・・・これが、わが国では、NIPPONとなったのである。【委】は、[yii]はヰの音であり、【面】は、[ben/men]となる。これを北方語族が、この発音を聞いて「倭国」と翻訳文字を作った。現代北京語では、日本をRIIBENと言われているが、YIIPENがもともとである。(benは面と同音である。)邪馬壹国も同じで、邪馬は、ひどい蔑視差別語で、ことさら音を探る必要はない。ただ、漢民族がこういう見下す言葉をことさらつけなければ済まされなかったのである。だから、ここは意味語であり、切り捨てることができる。「邪馬壹国」の「壹」もyii、jiiで発音される。「壹国」もyiibenの音を写した文字である。 *魔除けの神具とされたもの= 鏡・櫛(くし)・剣・桃の実・髪飾り・鈴・朱=丹粉など。(鈴などは現在のユダヤ教の魔除けとしても見いだせる。) 摩多羅神 5 より |
[1073] Re[1040][1028][1027][1026][1023]: 赤の文化6 かたばみ [Mail] [Url] | 2005/02/01(Tue) 12:29 [Reply] |
前回の赤の文化6は練り足りないために削除していただきました。 これについてはもっとデータを集めてからとします。 以下は春秋戦国〜前漢あたりでの各地の剣の形です。 http://tokyo.cool.ne.jp/woodsorrel/data/ken_bunpu.png (スケッチ図の剣は国立民族歴史博物館図録による) 中国遼寧省(燕)に遼寧式と呼ばれる特徴的な剣があります。 琵琶型ともいうようで、朝鮮半島にこれが変化したとみえる細身銅剣があります。 弥生中期〜後期には細身銅剣系が西日本全般から出土します(多数あるので略)。 四国では細身銅剣とは違う方向で変化した銅剣がありますが、模倣の繰り返しによる特徴強化と特徴消失の結果の形だとみます。幅広矛同様に実戦には使えそうもない。 http://tokyo.cool.ne.jp/woodsorrel/data/ken_hiragata.png やはり遼寧式の変化とみえる柄に特徴のある剣は吉林省松花江と唐津や吉野ケ里から出土。 http://www.tcn-catv.ne.jp/~woodsorrel/kodai/g01.files/09/karatu01.gif もうひとつの特徴的な剣が桃氏銅剣と呼ばれる長江型の剣です。呉の剣と考えていいと思います。 同タイプは半島南西岸と九州三雲王墓などから出土。 列島では九州以外からは出ていないようです。 越の剣は呉の剣に似ていますが、剣先へのラインが微妙に違うようで、半島からも列島からもでていないようです。 http://tokyo.cool.ne.jp/woodsorrel/data/ken_etuou.png この剣には鳥文字という書体で越王の銘が刻まれて細かい紋様があります。 ここまでのどれでもない形の青銅剣が三雲王墓から伝:出土(長福時所蔵)。 http://www.tcn-catv.ne.jp/~woodsorrel/kodai/g01.files/09/mikumo04.gif 列島で様々が複合して登場したタイプかもしれませんが、戦国から前漢時代の鉄剣のひとつに類似しているようにもみえます。 中国における剣の様式と分布がわかれば三雲王墓の人物が絞れるかもしれませんがいまのところ情報不足。 弥生初期〜中期の半島南部と九州北部では遼寧系と長江系の剣が混在していますが、九州以東の西日本では弥生時代全体を通して半島系の剣しか出土していません。 中国文化圏ではなかったことがうかがえます。 すなわちこれが出雲の文化圏だと考えています。 持論からは、紀伊半島東岸〜伊勢あたりで長江系か三雲王墓型がでることを密かに期待していますけど。 (すなわち、天火明命が所持していた剣・・(^^;) 熱田の剣が弥生時代の伝世品であるなら、その形状にも注目ですが、公開はされないだろうなあ。 なお、名古屋の朝日遺跡は強大な環壕を持ち大量の出土品があるのに、剣や矛はでていない。 準備はしていたが、ここでは戦闘にならずに「終わった」ということか。 つぎに貨幣に注目してみます。 殷、周では宝貝(子安貝)を貨幣として使っていて、銅銭が登場するのは周〜春秋時代のようです。 宝貝は東シナ海沿岸では採れず、採れるのは台湾以南と南西諸島だそうです。 http://www1.u-netsurf.ne.jp/~sirakawa/C001.htm 殷の宝貝は宮古産という話もありますが未確認。 周に宝貝を模した銅貨に金をかぶせたものがあって、包金銅貝というようです。 包金ですからまだ鍍金技術はなかったのでしょう。 殷周時代BC1000頃には南西諸島〜九州西岸〜朝鮮半島南西岸〜山東半島の宝貝による交易ルートが登場していた可能性が高い。 東シナ海沿岸経由のルートもつながって「環東シナ海貝の道」にもなりそうです。 ゴホウラ貝は列島向け装飾用で東北縄文ともつながっていますが、それを枝の一部とするはるかにスケールの大きい貝の道です(柳田国男、海上の道)。 沖縄での明刀銭出土も宝貝交易がその源流だろうと考えています。 貝の道を移動するのは海人がほとんどでしょう、そして各地の情報が運ばれてゆく。 表青草の5965で書いた春秋時代の山東半島の紀国の紀候も九州を目指していたかもしれません。 農耕民は原則として保守的だと思います。 水稲が可能かどうかがわからなければ容易に移動はしないはず。 稲作可能の情報が伝わってから貝の道に添って水稲が運ばれたのだろうと思います。 長江河姆渡遺跡からは短粒と長粒の米が出土していますが、両方があるのは列島で半島から長粒型はみつかっていないようです(なお、河姆渡の長粒はジャポニカ種でインディカ種ではありません)。 柑橘類など照葉樹系の植物は南西諸島経由で温暖な太平洋沿岸へ運ばれたでしょう。 こちらは海人だけで輸送OK。 いらっしゃいらっしゃい、南国特産の甘い果実はいかが。 毛皮1枚で苗も売るよ。 (^^; 稲作では最初から九州を目指して移動する人々もいたかもしれません。 緯度と気候からみて当初の稲は九州が目的地だった可能性もあると思います。 燕の明刀銭は刀子の形で狩猟の意識、韓、魏、趙では農耕具型の布幣(銅貨)を用いており農耕の意識によるのかもしれません。 流通範囲は重なり合っているようで広範囲な経済圏があったとみえます。 周には魚型の銅貨もあり、これらの初期貨幣は物々交換の延長上にあるのでしょう。 明刀銭は山東半島の斉も使っていますが戦国末期では円形の貨幣になっています。 BC200頃の箕子朝鮮付近の青銅製品は遼寧式銅剣、馬車の車軸、朝鮮式銅鐸(銅鈴)、燕の明刀銭です。 馬車の車軸は出土状況から実用品ではなく祭祀具に使われていたらしい(朝鮮半島の考古学/同成社)。 この頃の朝鮮半島北部は燕文化圏に含まれていたとみて、スサノオのもつ文化もこれに準ずるとしておきます。 先史文化圏 http://tokyo.cool.ne.jp/woodsorrel/data/bunka_senshi.png 持論では黄河と長江が黒潮と混じる海域が大漁場となって漁労民が集まってきたと考えています。 http://tokyo.cool.ne.jp/woodsorrel/data/e_asia01.png 列島と大陸が切り離されて徐々に離れてゆくけれど、海の向こうに陸地があるという情報は連綿と継承され、それが貝の道になっていったのではなかろうか。 続く |