青草談話室ログ平十七年 七月
多に蛍火の光く神、及び蠅声なす邪しき神有り。湯嶽神・菊嶽神の集い。
素人のひらめき、力はないが騒がしくなかなか従わない、一寸の草木にもある五分の魂の発露を!
 青草談話室

[1334] 暑中お見舞い申し上げます。  神奈備 2005/07/28(Thu) 18:24 [Reply]
明日、29日から31日まで、能登半島うろうろの予定です。
能登島のおすずみ祭が主な目標。
天候がいささか心もとないのですが、
カンカン日照りよりはましと思って遊んできます。

[1333] 磐と水  神奈備 2005/07/28(Thu) 18:10 [Reply]
 雄略天皇が即位前に、将来の政敵となりそうな王族達を次々と討った。その中の一人に御馬皇子がいた。彼は三輪君見狭に会うために三輪へ出向いたが、途中、待ち伏せの軍に遭遇し、三輪の磐井のほとりで戦った。しかし間もなくとらえられて処刑されるにさいして、井を指して「この井の水は、ただ王者だけ飲むことならず、その他の人には飲用が許される。」と呪いのことばをかけた。その井戸は「三輪の磐井」と呼ばれていた。

 三輪の磐井とは三輪山からの水が湧き出す井戸で、まず思いつくのは狭井神社の薬井戸、多分、素麺屋さんなどは井戸水を使っているでしょうから、どの井戸かを特定するのは難しいこと。
 三輪は桜井市に属するのですが、桜井もまた井戸の呼称で、履中天皇の磐余若桜宮付近にあった井戸だそうです。磐余の井戸、これが磐井となったのかも知れません。

 『風土記の考古学』(辰巳和弘著)によりますと、筑紫君磐井と言う九州の豪族がいましたが、かれは御井で最後を遂げたことになっています。磐井とは固有名詞ではなく、地域の聖なる井戸を祭る人=地域の王、のことかも。
 なぜなら彼の息子は葛子と言うようで、この葛が屑に通じるのかも。

http://kamnavi.jp/as/uda/uresi.htm

[1332] エントロピィー  神奈備 2005/07/26(Tue) 13:41 [Reply]
 エントロピィーとはアイマイサを現す言葉で、五分五分の場合が最大で値は2(確率の逆数)です。
 熱力学では、例えば80度の湯1升と20度の水1升を混ぜると、50度の水2升できるのですが、それでは50度の水2升を80度1升と20度1升に分離する方法はありやなしや、ということです。分離するのには努力(エネルギー)が必要です。ヒートポンプが要るのです。
 もやもやするのは容易ですが、はっきりするには努力が要るということです。

 人間の身体についた垢などを水で洗い落とすことを、水垢離といいますが、これはエントロピィーの原理(放置しておけば、拡大する)と言う原理をつかって、集中している垢を水の中に分散させて、身体から離れさせることで、身体を奇麗にする方法です。水は汚れるのです。

 汚れた水はどうなるのでしょうか。垢の成分は蛋白質でしょうから、そのうち、海でプランクトンの餌になり、それが魚になり、人間に食われて、また垢となるループを繰り返す訳です。分散した垢は生物の働きで集中するのです。エントロピィーを減少させるエネルギー(努力)は生物が出していることになります。

 さて、穢れは精神的なものです。これを取り除く「水」に相当するものは一体何でしょうか。「時」の流れによって心が救われる(忘却も)ものなのか、神の前でのお祓いが心身を清めるのか、気枯れと理解してお祭りでもやって気を充実させるのでしょうか、雰囲気とか空気といったものかも知れません。

[1331] Re[1330][1326]: 五月蝿なす  神奈備 2005/07/21(Thu) 08:06 [Reply]
> ここでは蝿でなく蜂となっていますので、両者の区別はあいまいだったのかも。

 蝿と蜂、蝶(蛾)と鳥、現在の我々のように厳密には区分はしていないようですね。
 但し、蝶や蛾では絹(繭)が撮れるのかどうか、幼虫の栄養価がどうなんだ、などで区分されていたのでしょう。
 同じように、武力による抵抗者をたとえるなら、蝿よりは蜂、刺すかどうかはキチット見ているようにも見えます。

 もっと、多くの例文を探してみたいものです。

[1330] Re[1326]: 五月蝿なす  神話の森 [Url] 2005/07/20(Wed) 12:14 [Reply]
> 『日本書紀』推古天皇三五年に、「夏五月に、蝿有りて聚集る。其の凝り累ること十丈ばかり。虚に浮かびて信濃坂を越ゆ。鳴る音雷の如し。則東のかた上野国に至りて自づからに散せぬ。」とあります。

崩御の前年のことですから、天皇霊が離れる予兆の意味でしょうか。(上野国までですからハチの武蔵とはならなかったようですが)
「五月蝿なす」も何か重要な霊が寄り集まってくることを言っているのかもしれませんね。

先代旧事本紀 巻五 天孫本紀に
「天孫天津彦火瓊々杵尊の孫、磐余彦尊、天下を馭めむと欲ほし、師を興して東を征ちたまふに、往々に命に逆らふ者、蜂のごとく起りて、未だ伏はず。中州の豪雄、長髓彦……」
とありまして、
ここでは蝿でなく蜂となっていますので、両者の区別はあいまいだったのかも。

[1329] Re[1328][1326]: 磐と磐座 五月蝿なす  神奈備 2005/07/19(Tue) 19:57 [Reply]

> ところで万葉集で「五月蝿なす」は2例ありました。
>  大伴家持の安積皇子への挽歌で、お元気な頃はどこへお出かけになるにも「五月蝿なす 騒く舎人」が付き従ったが、亡くなってから日ごとに「変らふ見れば 悲しきろかも」と歌っています。「五月蝿なす 騒く」は褒め言葉になっています。
>  もう一つは山上憶良作の、病んだ老人の歌で、「五月蝿なす 騒く子どもを」捨てておいたままではなかなか死ねないものだ、という歌です。「五月蝿なす騒く子ども」たちへの愛着が感じられる歌です。

うるさい=元気がいい 身内への贔屓かも。

それとは関係ないのですが、『日本書紀』推古天皇三五年に、「夏五月に、蝿有りて聚集る。其の凝り累ること十丈ばかり。虚に浮かびて信濃坂を越ゆ。鳴る音雷の如し。則東のかた上野国に至りて自づからに散せぬ。」とあります。

この蝿はミツバチのこととするhpがあります。ミツバチ協会です。
http://bee.lin.go.jp/bee/history/02_01.html


[1328] Re[1326]: 磐と磐座 五月蝿なす  神話の森(y) 2005/07/19(Tue) 13:33 [Reply]
  閑さや、岩にしみ入る蝉の声 芭蕉
岩の中に蝉の声が入るわけですから、岩は蝉の声を聞けたのでしょう。やはり一方的にしゃべるだけでなく聞く耳を持たないといけないという教訓噺ではありませんが……。

  やれ打つな蝿が手をする足をする 一茶
手をするとは神を拝むときの動作ですから、蝿は敬虔な虫ということになります。

ところで万葉集で「五月蝿なす」は2例ありました。
 大伴家持の安積皇子への挽歌で、お元気な頃はどこへお出かけになるにも「五月蝿なす 騒く舎人」が付き従ったが、亡くなってから日ごとに「変らふ見れば 悲しきろかも」と歌っています。「五月蝿なす 騒く」は褒め言葉になっています。
 もう一つは山上憶良作の、病んだ老人の歌で、「五月蝿なす 騒く子どもを」捨てておいたままではなかなか死ねないものだ、という歌です。「五月蝿なす騒く子ども」たちへの愛着が感じられる歌です。

[1325] かたばみ さん
> 関東方面など、なにかを確認したい場合によろしくです(^^;;;
『関東の巻』重複して持ってましたが近くの知人に譲ったばかりで残念ですが、なんなりとどうぞ。

[1326] 磐と磐座  神奈備 2005/07/15(Fri) 13:11 [Reply]
 その昔は、山川草木岩などがことごとくモノを言い、うるさい程であった。これをさ蠅声えなすと形容した。
 
 記紀風土記の記事をあげると下記の通り。

『古事記』イザナギの身禊
速須佐の男が八拳須心前に至るまで、泣きわめいていました。その泣く状は、青山は枯山になるまで泣き枯らし、河海は悉に泣き乾しき。ここをもちて悪しき神の音なひ、さ蝿なす皆満ち、万の物の妖悉に発りき。

『古事記』天の岩戸
ここに高天原皆暗く、葦原中国悉に闇し。これによりて常夜往きき。ここに万の神の声は、さ蝿なす満ち、万の妖悉に発りき。

『日本書紀』葦原中国の平定
 その国に、蛍火のように輝く神や、蝿のように騒がしい良くない神がいる。また草木もみなよくモノを言う。

『日本書紀』経津主と武甕槌
 二神は邪神や草木・石に至るまで皆平らげられた。従わないのは香香背男だけとなった。

『日本書紀』一書第六
 高皇産霊尊は八十神たちに勅していわれるのに、「葦原中国は、岩根、木の株、草の葉もよく物を言う。夜は穂火のごとく騒がしくひびき、昼はうるさい蝿のごとくに沸きあがる。」と。

『常陸国風土記』信太の郡高来の里
 天地のつくりはじめ、草木がものをよく言うことができたとき、天より降って来た神、お名前を普都大神と申す神が、葦原中津之国を巡り歩いて、山や河のあらぶる邪魔ものたちを平らげた。

 北米やモロッコなどでも、木、水の流れ、大地はしゃべったと伝わっています。アメリカには精神の首都と言われる見事な巨石と言うか磐の山があります。
 要は人類の初期にはみんな、自然の声を聞いていたのです。多分、我々は現在ではその声を聞くことが出来ませんが、赤子や幼児の頃には聞いていたのでしょう。宮崎映画のように。

 磐もしゃべる磐があるわけで、その磐が磐座として祀られているのでしょう。三輪山登拝の道筋に同じような磐が二つ並んでいますが、磐座になっているのは片方だけ、多分、しゃべる磐としゃべらない磐との区別かも知れませんね。

[1325] Re[1323][1322][1321][1320][1318][1317]: 名所図会集成  かたばみ [Mail] [Url] 2005/07/12(Tue) 22:12 [Reply]

≫1冊欠けて半値以下と言う出物。まめにウオッチしていれば当たるのですね

おお、それは掘り出し物ですね(^^)
関東方面など、なにかを確認したい場合によろしくです(^^;;;

私の本はサインペンやら付箋紙などがぺたぺた、帯などはすぐ取ってしまう。
古本では買いたたかれるでしょうけれど、手放すことはまずないので無関係。
途中で読む気が失せてポイする場合はありますけど(^^;


[1324] Re[1319][1315][1314][1313][1312][1310][1309]: 伊勢参宮名所図絵  かたばみ [Mail] [Url] 2005/07/12(Tue) 22:10 [Reply]
これのことかなあ。
以下からの引用
http://www.cty-net.ne.jp/~hmasaaki/siryousyu(2)/siryousyu-right.html

≫安永3年(1774)の創建時には
≫笠木 檜  長  弐丈五尺(4間1尺)
≫     末口 壱尺三寸五分 
≫柱   檜  長  弐丈壱尺三寸六分(3間3尺3寸6分)
≫     末口 壱尺四寸六分
≫貫   檜  長 壱丈四尺六寸(2間2尺6寸)
≫     末口 壱尺

これは上記HPの最初の方にある1774の仕様書の抜き出しとみえますが、仕様書の読み取りを誤っていると思われます(^^;

原文?の仕様書では例えば貫は
「貫長壱丈四尺六寸  壱尺ニ四寸六分」とあります。
貫の長さは壱丈四尺六寸で「壱尺に四寸六分」ですから、すなわち壱尺×四寸六分の角材。

なぜか上記の読みとりでは原文?にはない末口を加えて壱尺とし、四寸六分を省略しています。
これでは末口壱尺の丸太材になってしまいます(^^;
笠木についても同様です。

(ひょっとして、そういう仕様もあって混同しているのかも・・すなわち丸太材だけの鳥居もあった)
(メールアドレスがないので直接問い合わせはしていませんけれど)


とりあえず、データはデータ通りに受け取ってコロビもなかった可能性をみています。
笠木と貫のみ角材にした鳥居で、いたってシンプル。
それがおかしいと思われる情報がなにか登場したら、そのときに考えますね。

http://woodsorrel.cool.ne.jp/data/torii_seki.jpg
右の図はいわゆる靖国型とみえますが、本来はこの形であって、伊勢参宮名所図絵時代では左のごとく明神型の影響も受けていた(ほぼ同時代の熱田や桑名も同型です、東海道名所図絵)。
で、幕末に復古の流れが生じて右図のごとくの鳥居も再登場した・・まそんな可能性です。


[1323] Re[1322][1321][1320][1318][1317]: 名所図会集成  神奈備 2005/07/12(Tue) 16:50 [Reply]
> 角川書店版「日本名所風俗図会」を安かったので18冊(\90000)購入しました

1冊欠けて半値以下と言う出物。まめにウオッチしていれば当たるのですね。

[1323] Re[1322][1321][1320][1318][1317]: 名所図会集成  神奈備 2005/07/12(Tue) 16:50 [Reply]
> 角川書店版「日本名所風俗図会」を安かったので18冊(\90000)購入しました

1冊欠けて半値以下と言う出物。まめにウオッチしていれば当たるのですね。

[1322] Re[1321][1320][1318][1317]: 名所図会集成  神話の森(y) 2005/07/12(Tue) 11:27 [Reply]
こんにちは 私はこの春
角川書店版「日本名所風俗図会」を安かったので18冊(\90000)購入しました。活字になっているのが読みやすいです。まとめ買いで従来所蔵のものと重複するもののうち一部は知人にあげましたが、まだ重複が残ってます。
 収録内容 http://plaza.rakuten.co.jp/sinwa/diary/200507110000/
日本の古本屋http://www.kosho.or.jp/の書名検索で探したわけです。

[1321] Re[1320][1318][1317]: 名所図会集成  神奈備 2005/07/10(Sun) 10:59 [Reply]
紀伊国名所図会は古書で35,000円。
摂津、河内、和泉は概ね一冊7,000円
これだけで50,000円を越えます。
そういう意味では、一冊も持っていない状態なら、たしかにお買い得ですね。

[1320] Re[1318][1317]: 名所図会集成  玄松子 2005/07/09(Sat) 21:41 [Reply]
> 良い企画のCDですが、原本の著作権料はゼロのはずだからもう少し安くてもと思いますよね。

著作権料はゼロですが、デジタル化の手数料を予測売り上げ枚数で割ると高額になるのでしょう。
数万枚の売り上げが保証されれば、安くなるでしょうが。

[1320] Re[1318][1317]: 名所図会集成  玄松子 2005/07/09(Sat) 21:41 [Reply]
> 良い企画のCDですが、原本の著作権料はゼロのはずだからもう少し安くてもと思いますよね。

著作権料はゼロですが、デジタル化の手数料を予測売り上げ枚数で割ると高額になるのでしょう。
数万枚の売り上げが保証されれば、安くなるでしょうが。

[1319] Re[1315][1314][1313][1312][1310][1309]: 伊勢参宮名所図絵  玄松子 2005/07/09(Sat) 21:39 [Reply]
論点の微妙なズレを感じますね。僕の書き方が悪いのでしょうかねぇ。

> 初めて鳥居の制作と管理が移管されたときの仕様書と読みとれますので、私は単なる角材であった可能性が高いとみます。

ですから、この資料からは、柱も角材だとお考えなんですね、と言うことです。

寸法しかないことを理由に、笠木を角材と判断するのなら、柱にも同様の判断をするはずですからね。

それとも、

> ある形状があたりまえとなっている場合なら形状の指定を省略することもあると思います。

柱の丸材は「あたりまえ」だから記されず、笠木の角材も「あたりまえ」だから記されず、ということでしょうか。

資料には、柱の転びも記されていないので、2本の柱は平行、それとも転びは当たり前だから記されていないということでしょうか。

これでは、結局資料の意味がわかりませんね。
形状を記されていないのは、「伊勢周辺の鳥居(伊勢鳥居)の形状は明白だから、サイズと装飾のみを記した」と見る方が自然ですね。

[1318] Re[1317]: 名所図会集成  神奈備 2005/07/09(Sat) 15:05 [Reply]
> 河内名所図会
摂津、和泉も出ています。摂津は2冊になっており、内容も詳しく、特に大坂の町中の風景(大丸の前身など)など、面白く読めます。神社や寺院を斜め上から眺めた絵など凧にでも乗ったのかと思わせる工夫された絵は見事としか言いようがありません。

http://kamnavi.jp/en/settu/misimakamo.htm
http://kamnavi.jp/en/settu/nomi.htm
http://kamnavi.jp/idakiso.htm

> http://www.ozorasha.co.jp/cdrom/Meisho.htm
良い企画のCDですが、原本の著作権料はゼロのはずだからもう少し安くてもと思いますよね。

[1317] 名所図会集成  かたばみ [Mail] [Url] 2005/07/09(Sat) 14:23 [Reply]

神奈備さんへ。
江戸時代だと各地の図絵がたくさんあるんですね。
http://www.ozorasha.co.jp/cdrom/Meisho.htm

大和名所図会、河内名所図会、阿波名所図会、紀伊国名所図会、尾張名所図会・・・
磐座などでも良いヒントがあるかもかも。


[1316] Re[1307]: 熱田の鳥居  かたばみ [Mail] [Url] 2005/07/09(Sat) 14:06 [Reply]

東海道名所図絵(1790)をチェックしました(著者は京都在住の秋里籬島)。
ここでの熱田と桑名と関(大神宮分道のタイトル)の鳥居の笠木は反り上がりを表現しています。
熱田ではあきらかに島木も表現されています。
貫は柱を貫通しておらず額束もありませんが、形式分類にはあてはめるならば明神型の変形と思われます。

初代広重の1831の熱田の馬の塔神事の浮世絵に描かれる明神型鳥居は正しいのかもしれません。
http://woodsorrel.cool.ne.jp/data/torii_atuta_hiroshige.jpg
ご無礼いたしたでござる、初代広重殿(^^;

もしこの頃までの熱田が明神型の影響下にあったなら、後の各種形状の鳥居でもしばらくは赤く塗る慣習が継続していても不思議はなさそう。

伊勢参宮名所図絵(1797)での伊勢の鳥居では反り上がりは見えませんから独自であり、伊勢周辺では伊勢との折衷型(貫の貫通なし)が使われていた可能性もありそうです。


[1315] Re[1314][1313][1312][1310][1309]: 伊勢参宮名所図絵  かたばみ [Mail] [Url] 2005/07/09(Sat) 14:04 [Reply]
≫問題は「元口」ではなく、「壱尺三寸六分」の方ですよ

丸太材の表示には特殊な例もあります。例えば以下
http://www5f.biglobe.ne.jp/~woodwork/kinohanashi-pages/comment7.html

日永仕様書では「末口壱尺三寸六分、元口壱尺四寸六分」とありますから先端部と根本では太さ(直径)が違うことを明示しているわけです。

≫形状を記したものではないと考えられるのではないか

その可能性はありますね。
ある形状があたりまえとなっている場合なら形状の指定を省略することもあると思います。
海星高校歴史研究会の記事では
http://www.cty-net.ne.jp/~hmasaaki/
初めて鳥居の制作と管理が移管されたときの仕様書と読みとれますので、私は単なる角材であった可能性が高いとみます。
柱材ではわずか1寸の太さの違いを指示していますし。

ただし、水はけ促進の定法として制作者が上端にわずかな屋根勾配を加えており、後にこれが強調されて将棋の駒型になっていった可能性はありそうです。
これは下からみた場合はデザイン的に目立ちませんから、デザインとしては笠木の木口を斜めに切り落とす、これがいつ生じたか、がポイントと思います。


[1314] Re[1313][1312][1310][1309]: 伊勢参宮名所図絵  玄松子 2005/07/05(Tue) 10:25 [Reply]

> 元口、末口は丸太材の寸法表現で、木の根本側(通常は太い側)を元口といいます。

問題は「元口」ではなく、「壱尺三寸六分」の方ですよ。


>笠木上端の屋根型とか、端部の斜め切りの指示はありません。
>この仕様で作ればは笠木は真四角に近い単なる角材です。

この仕様で作れば柱も真四角に近い単なる角材です。

つまり、先の資料は、「サイズ」「寸法」を記している資料であって、形状を記したものではないと考えられるのではないか、ということです。

[1313] Re[1312][1310][1309]: 伊勢参宮名所図絵  かたばみ [Mail] [Url] 2005/07/04(Mon) 21:56 [Reply]

≫「柱長弐丈壱尺六寸 末口壱尺三寸六分」ともありますね。

元口、末口は丸太材の寸法表現で、木の根本側(通常は太い側)を元口といいます。
笠木幅よりほんのわずか太いわけで、北斎の絵の柱が笠木に食い込んで側面が見えているのはきわめて正確に描かれているとみることもできます。

≫角材載せて「笠」とは呼ばないでしょ。

「鳥居の研究」に鳥居の柱の上に横はる用材を笠木と云い始めたのはいつ頃からであるか判然としないが・・うんぬん。
丸太材でも笠、だれかの感覚による表現が定着したんじゃないかな。


[1312] Re[1310][1309]: 伊勢参宮名所図絵  玄松子 2005/07/03(Sun) 02:11 [Reply]
一点。

> 笠木は「壱尺三寸五分」ニ「壱尺」とありますから角形(約41cm×30cm)。


「柱長弐丈壱尺六寸 末口壱尺三寸六分」ともありますね。柱も角材ですか?

[1311] 笠木  玄松子 2005/07/03(Sun) 00:25 [Reply]
結局何が言いたいのか、僕には良く理解できませんが、
角材載せて「笠」とは呼ばないでしょ。

「笠」なんだから、三角や五角であることは自然だと思うけどなぁ。

[1310] Re[1309]: 伊勢参宮名所図絵  かたばみ [Mail] [Url] 2005/07/03(Sun) 00:04 [Reply]

≫寛政9年(1797)の『伊勢参宮名所図絵』より

これが伊勢の鳥居を描いているいちばん古いものかもしれないですね。
ここの鳥居の絵には疑問をもっていたのですが、以下の情報をみつけて考えが変わりました。
平安〜鎌倉どころではなく、「伊勢型は近世のデザインである」です。

四日市の日永の追分にある鳥居を勢州日永村が作ったときの「仕様書」(安永3年、1774)があるのだそうです。
http://www.cty-net.ne.jp/~hmasaaki/siryousyu(2)/siryousyu-right.html

笠木は「壱尺三寸五分」ニ「壱尺」とありますから角形(約41cm×30cm)。
笠木の上端を銅板で覆い、木口を真鍮で包むとあります。
笠木上端の屋根型とか、端部の斜め切りの指示はありません。
この仕様で作ればは笠木は真四角に近い単なる角材です。

下図は20年後の伊勢参宮名所図絵による日永の鳥居です。
http://woodsorrel.cool.ne.jp/data/torii_oiwake02.png
「日永仕様書」の上端を屋根型に削って防水銅板と木口の飾りをなくしてシンプル化したもの・・納得です。
伊勢参宮名所図絵の平べったくみえる笠木は実際に平べったかった。


さて、以下は空想でございます。

いわゆる神明型の鳥居は丸太による普通の門に笠木を加えたものだった。
化粧で貫に角材を使うかどうか、柱を貫通するかどうか程度の差しかなかったのではないか。

いつごろからか丸太にも手が加わえられて笠木も角材となり、後に先の屋根型断面に工夫されたのではないか。
「後の伊勢型」の原形の登場です。
それでは先の宇治橋の丸太らしき、あららっの鳥居(^^;はインチキ絵か。


失礼して浮世絵をぞろぞろと(^^;

日永の追分の鳥居の浮世絵
http://asake.web.infoseek.co.jp/ukiyoe-a/10.htm
左下の葛飾北斎(1760-1849)の絵はバックデータがわかりませんが、笠木は真四角に近い角材のようにみえる。
北斎は「日永仕様書」と同時代、ならばその鳥居を描いておかしくない。
屋根型断面になる前の鳥居。

左上は初代広重で年代不明。右上は三代目広重かなあ、丸太に装飾つきで1863年(国会図書館蔵)。
丸太に装飾付き鳥居、独自にこういうデザインで描くとは考えにくいです。

ちなみに熱田が赤く塗られている話は東海道名所図絵にあるそうですが、広重は東海道名所図絵を参照して東海道五十三次を描いています。


伊勢参宮名所図絵の桑名の鳥居と浮世絵の鳥居です。
http://woodsorrel.cool.ne.jp/data/torii_kuwana.jpg
やはり画家の手元に各種資料がないとは考えにくい。

同じく関の追分の鳥居
http://woodsorrel.cool.ne.jp/data/torii_seki.jpg
ここでは図絵を下敷きにしているのはまず間違いないところ。
鳥居の形が変わっているのは、そういう情報を持っていたからだと思うのです。

熱田の鳥居にはこんなのもあります。
http://woodsorrel.cool.ne.jp/data/torii_atuta02.jpg
自己流でこういうデザインの鳥居を描いたりはしないと思います。

すなわちこれらの鳥居は実際に存在した。
幕末頃に(神明系の)鳥居のデザインにいろいろな試みがなされたのだと考えています。
平田篤胤などの思想の影響下で往古の丸太に戻ろうとする意識が介在したのではないか。
先の宇治橋の丸太斜め切り鳥居もそのひとつ。


静岡県立中央図書館に明治6年(1873)の「伊勢山田宮川橋詰両大神宮大鳥居新設之図」があります。
以下の「大鳥居」で検索
http://www.tosyokan.pref.shizuoka.jp/

あいにく小さい画像で細かいところが不明ですが、笠木が幅広であり、伊勢参宮名所図絵時代のイメージにみえます(図書館のお近くの方の実見に期待)。
そのイメージが正しいのであれば、図絵時代の形に戻して鳥居を新設した、といったことが考えられます。
(意識のせめぎあい(^^;)

いまのところ伊勢型が確認できるのは、写真では熱田の明治6年(1873)。
浮世絵では文久3年(1863)のやはり熱田の鳥居(東京大学蔵)。
http://woodsorrel.cool.ne.jp/data/torii_atuta.jpg
もうひとつ熱田で慶応頃(1865−1868)国会図書館蔵。
http://woodsorrel.cool.ne.jp/data/torii_atuta03.jpg

さて、同時代の伊勢の鳥居の写真がどこかにないものか。



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