青草談話室ログ平十七年 十月 |
[1597] [1577] Re[1567]: 提案 耳と諏訪 倭亞府 | 2005/10/31(Mon) 23:29 [Reply] |
耳は「御史大夫」(隼人?犬?鳥は目) 布護署〔ふごしょ〕=隼人司 布護将軍〔ふごしょうぐん〕=隼人正 ... http://www.sol.dti.ne.jp/~hiromi/kansei/r_namecj50.html ぎょしたいふ http://www.tabiken.com/history/doc/E/E344R100.HTM 百足は「山師」(山幸彦?) 海人は漁業のみを専門とする人々ではなく、金属の採掘・精錬・鍛冶技術も長けた者が多かった。 http://members.at.infoseek.co.jp/accord/BIGLOBE/KAIZIN/nip10536.htm http://www004.upp.so-net.ne.jp/dhistory/tsai_001.htm 「耳裂き鹿」から牛の耳を裂き互いに生血を飲み「契り」とした話しを思い浮かべます。 執牛耳 《故事》同盟・団体などの盟主・長になること。▽春秋時代諸侯が盟約するとき、牛の左耳をさき血をとってすすったという。牛の耳をさいて皿に盛るのは、小国の君主の役割で、司会進行をつとめたことから。血を最初にすする(「歃血(ソウケツ)」)のは、大国の君主の特権で、盟主・覇者となった。〔春秋左氏伝・定八〕 耳族について http://members.at.infoseek.co.jp/accord/BIGLOBE/KAIZIN/nip11027.htm 参考になれば幸いです。 |
[1596] アイヌの犬祖伝説 大三元 [Url] | 2005/10/31(Mon) 17:12 [Reply] |
自分のサイトからの転載です。 北海道の「静(しづ)内川」に関して、「アイヌ語地名の研究」(山田秀三著、#2 p167)は、幾つかの解釈を示していますが、その一つに「Si-huchi-nai(大・祖母・沢)アイヌの始祖居りし沢」(永田地名解)が紹介されていて、この解を裏打ちしそうな伝説が、挙げられています。(原文の Shi を、Si に書き換えてあります。) 即ち「なお、このアイヌ始祖伝説は有名なもので、名高い『蝦夷島奇観』にも描かれている。昔一人の女神が漂着した。一匹の犬が現れて洞窟に案内し、(女神が)食を求めては(犬が)供して仕えた。その女神と犬との間に生まれた子供から広がってアイヌになったのだという。(後略)」 |
[1595] Re[1593][1590]: HOO 神話の森の番人 [Url] | 2005/10/31(Mon) 16:23 [Reply] |
玄松子さん>
ホト=境界と仮定すると、ほとり(辺・畔)や、ほとほと(殆)を連想できるかも。 ホトリとは窪地との境目の意味でしょうか。境界の意味ではクラも類似の言葉です。 柳田翁や谷川氏によれば、宮崎県の富土(ふと)は山の尾根が二股大根のようになっているその窪地の意味だそうです。フトモモのフトと同じで、ホトから転じたものとのことです。 地名のクラも川俣や山と山のの窪みなどをいいますが、マタグラのクラも同じです。 玄松子さん>「ホト」が、生と死、神と人の境界であることが共通の概念で、 ホトもクラもそうだと思います。 (火事のとき、女性が火に向かってしゃがんで腰巻を開いて見せることで、火の力が弱まるとは、日本各地にあった習俗のようですね。) |
[1594] Re[1567]: 提案 耳と諏訪 神話の森の番人 [Url] | 2005/10/31(Mon) 16:03 [Reply] |
隼人の犬祖伝説ですが、吉成直樹氏の「俗信のコスモロジー」(再再引用)にこんな記述も見えます。 「こうしたトーテム的な観念をめぐって注目に値するのは、鹿児島県の大隅半島にある高山町や奄美大島において、死後生まれる変わる動物として犬が登場することである。なぜ、これらの事例が注目に値するのかと言えば、同じく鹿児島県の大隅半島には犬トーテム的な観念にもとづくとみられる習俗が存在するからである。 たとえば、曽於郡歌丸では、子供が生まれて六日目に名づけをする。そのときに、犬を床の間に据えていちばん良いご馳走を供え、犬に着物を着せる。その犬が着た着物をさらに子供に着せるのだという。また、中国雲南省のペイ族は、自分たちの祖先を犬とする犬祖神話をもつ。このペイ族には、子供が生まれると犬に袋をかぶせ、それを新生児にもかぶせる誕生儀礼がある。 犬トーテム的な観念の痕跡は、琉球列島の宮古諸島を中心に、八重山諸島の与那国島にも認められる。」 犬祖伝説についてがメインの本ではないので詳しくはありません。動物と人間の境界はかなり近かったのでしょう。もっと調べてみたいテーマです。 |
[1593] Re[1590]: HOO 玄松子 | 2005/10/31(Mon) 15:53 [Reply] |
>
日本本土での女性達は、百襲姫などのように「ホト」を突かれて死にますね。 これ、本当ですか? 他の例を教えてください。 例えば、玉依姫は死なずに神を生みますよね。 イザナミの場合も、神を生んでいます。最終的には失敗して死にますが。 「ホト」が、生と死、神と人の境界であることが共通の概念で、死ぬことは副次的な現象と見れませんか。 「鬼餅由来」に関して、ホトは鬼を食らう口ということでしょ。人(神)を生み、鬼を食らう、境界を示す呪的な要素。 ウズメのストリップも出口を開き、神を再生する呪い。 大三元さんの火消しに関しては、ほとぼり(熱り)に繋がりそうな。 そういえば、ホト=境界と仮定すると、ほとり(辺・畔)や、ほとほと(殆)を連想できるかも。 その他、辞書で見つけた「ホトホト」。 (中国地方で、小正月の晩に若者や子供たちが「ほとほと」と唱えて家々を訪問し、餅や祝儀をもらう行事。) |
[1592] Re[1578][1577][1567]: 提案 耳と諏訪 神奈備 | 2005/10/31(Mon) 11:34 [Reply] |
> なんか、小説のレベルですよね。民俗学なんてこんなレベルなのか。 > 論理じゃなくって、想像の世界だと思う。 大三元さんのご批判、おっしゃる通りです。 要するに、隼人に犬祖伝承があり、かつ耳を大きくする風習があれば、残りは大した青草話ではないのです。 隼人が耳の長い犬を祖先としていたら一挙に解決ですが、それでは兎を祖先とする(宇佐族?)とどう違うの?とのお話が出てきます。 神祭りの風習などでも日本人と似ているとされる苗族は現在でも耳輪を付けます。大きい耳輪をつけた人々が九州西部もしくは南部に渡来して、犬祖伝承を持つ隼人と合体したのかも知れません。 青草1176から 『肥前国風土記』松浦の郡の条に値嘉の郷のことが記されています。 海の中に島があって烟が沢山たなびいていた。阿曇連百足が見に行くと、島が八十余りもあって、二つの島に人がいた。近島と名付けた。土蜘蛛は降伏した。その島の白水郎は容貌が隼人に似ている。 『筑前国風土記逸文』にも、近島が出てきます。志賀島のことです。安曇の本拠地で志賀海神社が鎮座。安曇磯良は安曇の祖。福岡県大川市の風浪神社に安曇磯良の木像があり、手には潮満玉、潮涸玉を持っています。安曇には白水郎、入れ墨と隼人系の伝承が色濃く残っており、南方系の人々だったのでしょう。 値嘉の島に隼人に似た者がいたところへ、阿曇連百足が見に行ったのであるから、安曇と隼人は違うとの結論をだしてもいい物語ですが、時間軸で言えば、はるかな昔に、値嘉の島から近島へ隼人に似た者が移り、安曇族の基礎を築いたとして、その事が忘れられてから『肥前国風土記』の物語が出来たのかも。もしくは隼人と安曇が同族と言うのはその頃の常識であって、従って阿曇連百足を見にやったのかも。 海幸・山幸の物語では、山幸彦が潮満玉と潮涸玉を持って海幸彦を屈服させて皇祖につらなり、海幸彦が隼人の祖になるようですので、安曇磯良がそれらの玉を持っているのはおかしいとの突っ込みがあるかも知れません。記紀神話とは別に海人族の雄である安曇にもそのような玉があったという伝承が残っていたのかも。 |
[1591] HOO 大三元 [Url] | 2005/10/31(Mon) 10:53 [Reply] |
ウズメのストリップも 鬼と化した(?)スサノヲ退治 というつながりでしょうかねぇ。 なお、和語の ホト の「ト」は「処」と解されている(『時代別国語大辞典上代編』)。とすれば、「ホ」(陰部)という語が 琉球、和語、アイヌ語に共通している、と観察できますね。 『知里眞志保著作集2』p33: 「なお、日高の沙流では、火事の際も女たちは下着の裾をまくりあげて「ホパラタ」(hoparata)しながら、ホーイ!ホーイ!と「ペウタンケ」(peutanke 女のする危急の叫び)の声を挙げたということである。」 |
[1590] HOO 琉球松 | 2005/10/31(Mon) 10:32 [Reply] |
大三元さん、これは感動的です! 沖縄諸島での火事の際の呪文は「ホーハイ!ホーハイ!(女陰をあらわにする)」ですが、これは琉球圏の古思想の解明にとって重要ですね。 日本本土での女性達は、百襲姫などのように「ホト」を突かれて死にますね。イザナミも同様とみていいかもしれません。 しかし、沖縄諸島ではまったく逆で、鬼と化した "兄" を退治するのは妹の "ホトの力" なんです。 ですから、「鬼女・鬼婆・山姥」など女性が鬼と化すという本土での現象は、沖縄では常識外ですね。 このあたりは、沖縄の説話「鬼餅由来」が参考になるはずです。 検索で見つかるとは思いますが、しかしアイヌとの関わりがここまであるとは。。。大三元さんに感謝! |
[1589] HOO 大三元 [Url] | 2005/10/30(Sun) 21:40 [Reply] |
なるほど琉球語辞典(半田一郎)には hoo 女陰 などと出ていますね。古事記の ホトと同源か、とも書いている それが面白いことにアイヌ語辞典(萱野茂)でも ho 陰門、、などとあり 更に沖縄の習俗同様に ho-par-paru「(陰部を見せるように)着物をぱったぱたさせる。*火事の時に女性が前をはだけてぱたぱたさせると、風向きが変わって延焼を食い止められるという。・・・」 お陰様で新発見につながりました。 なお、沖縄方言の最後の音節「ミ」は「箕」かもしれませんね。琉球語諸辞典にはこの語は見あたらず、本土からの流用かも。本件に就いての参考: http://www.dai3gen.net/mii.htm |
[1588] Re[1587]: ミホト 玄松子 | 2005/10/30(Sun) 21:20 [Reply] |
> 八雲熊野大社由来さんへ > なんか難しそうなんですが、じっくり読んでみたいですね。 じっくり読むなら、こちらのサイトで。(オリジナルです) http://www.mitene.or.jp/~hayamine/file3/kumanoni.htm 下の方は、どなたか知りませんが、アチコチにコピー&ペーストしている方ですね。 今日、3箇所の掲示板で見ました。ハンドルは、十神安来、八雲熊野大社由来、武生康則とイロイロですが。 みなさん、自分自身の知恵と知識と想像力で青草しましょう。 |
[1587] ミホト 琉球松 | 2005/10/30(Sun) 21:06 [Reply] |
大三元さん、どうもどうも。 むしろ、僕の想像力に対し、ほどよい抑制をかってでていただき感謝しています。 「ミホト」は、ご存じ「女陰」のことです。現在の沖縄方言では「ホーミ(ホト御?)」です。 女性の方がいらっしゃったら申し訳ないのですが、女性性器が登場する神話はけっこうありますね。 ところで、近畿地方の古墳から出る「鍬型石」は、九州を中心に兵庫県を東限として出土する「沖縄産ゴホウラ貝輪」を模したものであと見て間違いないでしょうし、なぜか、古墳時代にはパッタリと見えなくなるようです。 この大型巻貝は、琉球圏では「テルコナー・ティダンスー・ティラナー」など「太陽の貝」との名称を持っていますし、「ホーミグァー(女性性器の愛称)」などの名もあります。まあ、みるからに女なんですけどね(笑、笑)。。失礼! これを、弥生時代の九州人達(たぶん)がせっせと取りに来るわけなんですが、銅鏡よりも重要なものではなかったかと考えています。 『邪馬台国総合説/ゆい出版』の名護教授は ***「弥生時代とは、目(銅鐸)と耳(巻貝)の結婚では」***と語っています。 八雲熊野大社由来さんへ なんか難しそうなんですが、じっくり読んでみたいですね。 |
[1586] Re[1482][1480] 「先導するを 琉球語「サダル」と言うようです。 八雲熊野大社由来 | 2005/10/30(Sun) 20:26 [Reply] |
風土記の意字郡出雲神戸の條に、「伊佐奈枳乃麻奈子坐熊野加武呂乃命」 とあり、延喜式に収める 「出雲国造神賀詞」 に 「伊射那岐乃日真名子加夫呂岐熊野大神櫛御気野命」 とあるので、古くこの大神は伊弉諾尊の御子で櫛御気野命と称する神であると考えられていた。 「櫛」 は 「奇」 であり、「御気」 は 「御食」 であろうから、その意は要するに霊妙なる御食津神ということになり、さらに切りつめれば穀霊ということになってゆく。 ところが、このクシミケヌノカミを祀る社がここにもう一社あり、同じ意字郡四十八座の中に 「山狭神社、同社坐久志美気濃神社」 と記されている。 この山狭神社と同社坐神社とは、出雲国風土記では 「夜麻佐社」 「夜麻佐社」 と、意字郡の社名列記の條の第二位と第十二位とに別々に記されている。 この両社は、その社名をともに「山狭」としている。 鎮座地は山狭地区、すなわち現安来市広瀬町の山佐地区であったことは疑いない。 現在該地には、上山佐と下山佐とに共に 「山狭神社」 と称する社があるが、社伝ではこれが風土記以来の山狭両社の裔であるとなっている。 ところで、山佐といえば天狗山、すなはち風土記にいう熊野山の山麓にあたっている。 ただこの方はその東麓であって、熊野とはちょうど反対の方向になっているが、同じ熊野山から流れ出づる清流のほとりであるという点においては同じである。 地図を見ればわかるように、熊野山から流れる水は、西へ落ちては意字川となり、東へ落ちては山佐川となって、やがては飯梨川に注ぐ。 その水上に近く、西には熊野大神の社があり、東には山狭の神の社があって、それがともに奇御食野神と称へられていたということは、けだし偶然のこととは思われない。 熊野坐神社の祭神は古く櫛御気野命といわれていた。 ところが、後になるとこれが素盞嗚尊に変るのである。 それはすでに旧事本紀の神代本紀に 「建速素盞嗚尊坐出雲国熊野・杵築神宮矣」 と見えているから、かなり古くからのことであったろうと思われるが、これに始まって後永くその主祭神は素盞嗚尊であるとされ、やがては櫛御気野命とは素戔嗚尊の亦の名であるとする説まで現れるに至った。 天保四年(1833)の 『出雲神社巡拝記』 には 「くしミけぬの命と有ハ則すさのをの命の御名也。 天照大神ハ伊勢を本津大宮とし玉う。 須佐之男ノ神の本津大宮ハ此御宮也」 と説いている。 しかし、等しく伊弉諾尊の真名子の加夫呂岐であるからとて、それだけでこれを同神とするわけにはゆかぬはずである。 たとえば 『長寛勘文』 に引く 「初天地本紀」 にも、「伊射那支尊(中略)陸上時、身体左肩忍奈豆流時成出来神、名加己川比古命、右肩忍奈豆流時成出来神、名熊野大神加夫里支名久々彌居怒命、自髻中成出来神、名須佐乃乎乎命、三柱王等是也」 とあり、熊野大神と須佐乃乎命とを別押として考える伝承もあったのである。 その理由は明らかでないが、あえて想像すれば、出雲国造の西遷に伴う杵築大社の発展と無関係ではあるまいと思われる。 しかし明治になり、古代への復帰が叫ばれる時世になると教部省の 『特選神名牒』 では 「熊野坐神社、祭神神祖熊野大神櫛御気野命」 と記したが、今日の 「明細帳」では、結局 「祭神須佐之男命、亦御名神祖熊野大神櫛御気野命」 としている。御祭神 伊射那伎日真名子 加夫呂伎熊野大神 櫛御気野命 (いざなぎのひまなこ かぶろぎくまぬのおおかみ くしみけぬのみこと)由緒 斉明紀五年(659)の條に 「是歳、命出雲国造修厳神之宮」 とある。 出雲国風土記によれば、当時の出雲国には「大神」と称える祖神が四柱あった。 すなわち、この熊野大神と、意宇郡野城駅の條に見える「野城大神」、島根郡と秋鹿郡とに見える「佐太大神」、そして随所に散見する「所造天下大神」すなわち杵築大神の四柱である。 この熊野大神は古代出雲における四大神の一であった。 風土記の社名列記の條を見ると、熊野と杵築とについては「熊野大社」 「杵築大社」と記されている。 この両大神の場合は社としても大社扱いにされていたということが知られる。 また、延喜式の式部上によると、「謂、伊勢国飯野・度合・多気、安房国安房、下総国香取、常陸国鹿島、出雲国意宇、紀伊国名草、筑前国宗像等郡為神郡」 とあって、ここに出雲では意宇郡が神郡と定められた由が見えているが、これは熊野大神をまつるためのものにほかならない。 文徳実録仁壽元年(851)五月二十八日の條には「授出雲国正三位勲七等熊野坐神、正三位勲八等杵築神、紀伊国従五位上熊野早玉神、熊野坐神並従二位」とある。 次いで貞観九年(867)四月八日の條には、この出雲の両神には正二位を授くと見えている。 その序列は、終始熊野をもって首位とし、杵築をもって次位としている。 地元にあっても、中央から見た場合にしても、常に熊野坐神社を国内第一の社とし、杵築大社をもって次位の社とすることに変りなかった。 ところが、中世から近世へと下るにしたがい、熊野大社の名はほとんど出てこぬようになるのである。 その最も大なる因は、この熊野・杵築両大神をともに祖神として斉き祭る出雲国造家が、意宇郡から出雲郡に移住したということにある。 出雲国造家が、古く意字郡を本貫としていた。 それが現在の大社の地に遷るに至ったが、延暦十七年(798)の国造郡領兼帯の禁と無間係ではあるまいと思われる。 いずれにせよ、国造家の本拠がもともと意字郡であったればこそ、その意字郡の奥所に鎮まりますこの大社を国内第一の大社とし、西方十余里の地に鎮まります杵築大社は、これを第二の大社としていたわけである。 しかるに国造家の本拠地が西へ遷った。 さればこの両大社の関係も、それにつれて反対にならざるを得なかったわけであると八雲熊野神官の申すところである。 しかれども、更なる文書を紐解くと熊野の名は、古事記にも記された意宇の最東部、出雲と伯耆の堺 比婆山の熊野神社にさかのぼる。この熊野神社は久米神社との名で今に伝えられているが、古くより 伊邪那美の神陵地として尊崇を集めていたところでもある。出雲国風土記の伝える郷名はこの意宇最東部で細かく区画されていることからも現安来を中心とする地区がかつての出雲の中心地であり、その地の人々の尊崇を集めたのが久米乃社であると考えると、久米社が熊野大社に元熊野大社が杵築大社へと移り変わったと考ええるのがふさわしいと揖屋の古老の申すところである。揖屋は古事記にある黄泉比良坂という顕界と幽界を分かつ場所であり、幽界たる安来の記憶はほかにも様々な文書に隠されていると見るべきであろう。 |
[1585] 想像力万歳 大三元 [Url] | 2005/10/30(Sun) 17:01 [Reply] |
琉球松さん、こんにちは。 私も想像力を発揮することは古代史に限らず、おそらく物理学、数学などなどでも大変に重要なことだと思います。 問題は・・・想像しただけのこと、を断定的に主張される、ことです。 想像したことを、色々と裏打ちして、肉付けして、説得力を上げて行くのが研究(の一部?)なのではないかとおもうのです。 想像とわずかでも論拠のある主張は分別して欲しいな、と。 しかし、まぁ、考えてみれば(考えなくとも・・・)ここは青草、ということで、黙っていた方が良かったのかも知れません という舌の根も乾かぬウチに・・・「よろしくない社会」とは、現在の価値観で(それも個人差もあろう)すよね? 想像する、ってのは、自分も古代人の感覚になる(なったツモリ)ための作業、ってことじゃないかな、というのはいかが。 『九州の「ミホト(沖縄島)」』とはどういう意味ですか? 九州のどっかの方言の語ですか? 沖縄方言の語ですか? 沖縄古語大辞典、沖縄語辞典、琉球語辞典、全国方言辞典、で確認出来なかったので教えて下さい。「想像ですが・・・」美保、三保、、とのつながりが無いのかな、と思いました。 |
[1584] 想像力 琉球松 | 2005/10/30(Sun) 15:59 [Reply] |
ある程度の想像力を引き出さなければ、古代史の解明は無理じゃないでしょうか? 神奈備さんがこちらの掲示板を開設した理由もそこにあるのではと思いますね。 魏志の『倭人伝』が人ごとのようなリアルな表現なのに対し、『記紀』神話からは、なにか想像力を駆使したような必死さが伝わらないでしょうか? 「目・鼻・耳・口・尾・女陰」や、腐敗していくイザナミの体に例える手法は、当時の人々の生活実感に訴えて、わかりやすく(わかりにくく?)編纂されているように感じます。 例えば、「サルタヒコ」は長大な鼻(佐多半島)を持つ四国の海人達で、その対話の相手「アメノウズメ」は、女性達がまだ実権を持っていた九州勢力ではないでしょうか。 そうすると、時々出てくる汚物やトイレの場面の中に「倭国大乱」があり、よろしくない社会を表現していると思いますがどうでしょうか? 。。腐乱死体、火傷、不衛生、廃退主義、不正義、クーデター、テロ 。。。 それから、耳なんですけど。。。見ためからすると、吉野ヶ里遺跡や古墳などから出土する「貝輪・鍬型石・銅釧 etc」かもしれません? これは、ストリップのクライマックスであらわになる九州の「ミホト(沖縄島)」でしょうかね?・・・沖縄島南部には「漫湖」という干潟もありますよ〜(笑、笑、笑)。。失礼! |
[1583] Re[1580]: [1578] Re[1577][1567]:犬と関連する掲示板からデス。 玄松子 | 2005/10/30(Sun) 15:49 [Reply] |
それと。 他サイトの掲示板に投稿された記事を、出典も示さず、そのままコピー&ペーストするのは宜しくありませんね。 ひょっとして、以前に神奈備掲示板に現れた「いばらの紀氏」さん? だったらハンドル名を使い分けるのも宜しくありませんね。 |
[1582] Re[1564][1562][1560][1555][1554]: イリとワケ かたばみ [Mail] [Url] | 2005/10/30(Sun) 13:34 [Reply] |
1564 ≫話が発散しそうな気もしますが「イリ」と「ワケ」というのがアイヌ語で 私は、単純にイリは「入る」の意、ワケは「分ける」(別ける)の意、でよいと考えています。 (それらの言語の源流がどこにあるかは上納を持ちませんのでおいておきます) 下図は持論での縄文〜古墳時代の人脈(神脈?(^^;)の総合図です。 http://www.tcn-catv.ne.jp/~woodsorrel/kodai/sankou/shindai01.pdf 開化など(四道将軍)による出雲征圧と崇神の近畿大和への進出(入城)、これに伴うものがイリ。 景行(持論311-333)あたりになると、ワケが登場し始めますが、これは氏族拡大による「分家」の意。 (持論の各大王の年代観は以下) http://www.tcn-catv.ne.jp/~woodsorrel/kodai/g01.files/06/kojiki_shoki.pdf 景行の妃と子は無数といってよいほど大勢、多数の氏族と血縁関係(政略結婚)を結ぶことで支配力(融和)を高めた。 (おそらく景行の子や家臣もそれに準じたと推定、関東における物部系譜の源流など) したがって、新王朝(征服王朝)である崇神垂仁時代ではイリが多く登場し、氏族が拡大する時代ではワケが多く登場するのだ、そう考えています。 (他の時代でも類似状況によってイリやワケが使われる可能性もあります) 余談 異なる文化(氏族)が接触あるいは混合したとき、その言語はどういう変化をするのでしょうか。 これのシミュレーションを期待しています。 例えば、ある氏族集団(A)が、異なる集団(B)の文化圏(≒言語圏)に入った場合。 衣食住(特に食)に関連する言語は、(B)が使われるようになるだろうと思っています。 食を集団(A)に与えるのは周辺文化の人々であり、その言語が(A)に必須になると思うからです。 (周辺文化が持っていないものであれば、(A)が(B)へ浸透する) 集団(A)が武力などで(B)の支配者となった場合は・・ 集団(A)と集団(B)の男女が結婚したとき、その子は・・ 地名はどうなるかなあ。 集団(A)の故郷への思いが強ければ、故郷での地名を新しい土地に移して使うかもしれない・・ などなど、様々な条件でこれらがどうなるか、そのシミュレーションです。 こういうシミュレーションが背景にあるならば、ある言葉がある集団のものであろう、といった言語学からの仮説に可能性の大小という重みを加えることができると思っています。 |
[1581] ワープ、倭亞府、和亜布 玄松子 | 2005/10/30(Sun) 11:36 [Reply] |
すでに私信のようなので、レスはしません。(いこまかんなびさん、後はよろしく) 昨年の今頃も「アバウト」な地図で、同じ話を繰り返していましたね。 http://kamnavi.jp/log/yumv0411.htm 話は同じですが、名前の文字は変化しているようです。 |
[1580] [1578] Re[1577][1567]:犬と関連する掲示板からデス。 倭亞府 | 2005/10/30(Sun) 11:32 [Reply] |
犬と関連する民族 2005年10月28日 10:34:00 とみた かわかつさん 民族移動に拘る冨田です。 中央アジア、中国の西北部に犬か狼が出てくる。 朝鮮では犬を食べる 習慣がありませんか。 犬戎は私の関心事です。西周は幽王のとき紀元前771年犬戎に攻められて滅んだ。犬戎の本拠は黄河が湾曲している黄土のオルドス地方の陝西省、寧夏自治区あたりでしょうか。その北方は今は内モンゴル。古代キョウ(チベット)族、犬戎や古代匈奴のトーテムは犬です.後には、高車、鮮卑、突厥、契丹なども犬のトーテムを崇拝している。 狼は犬、青き狼ジンギスハーン。 きょう族は白犬(白い狼)を崇拝。 下に妙な本を紹介します。 他者への畏れが生み出す神話・伝承の怪物たち 犬頭の聖人クリストフォロス、アウトカーストの犬食い族、辺境の蛮族…… 西欧・インド・中国の神話や旅行記・史書には、 怪物種族の一たる犬人=ドッグマンが数多く登場する。 この異形のものたちは、どこから生まれたのか? 三大文化圏のはざまにあった中央アジア民族は、 それぞれの文化圏が抱く「異なるものへの怖れ」によって 怪物として語り継がれた。 異なる文化圏との出会いはまた、 自己と他者の相互認知から起こる融合、差別、排除の観念を生む。 そのシンボルがドッグマンだったのである。 犬人族が渦巻く中央アジア …………………………………………………………… 1 インドの伝承における犬面人エフタル・フンと女人国 2 中国の史書が語る異民族と犬 3 三大文化圏から見た中央アジア民族の歴史 4 犬戎と犬祖伝説、狼祖伝説 第7章 中国の犬人伝承----槃瓠と犬戎 ……………………………………………………… 1 『後漢書』の槃瓠神話 2 槃瓠と犬戎族、マン(蛮)族、ヤオ(瑤)族 (参考になれば幸いです。) |
[1579] Re[1533]いこまかんなび様へ 倭亞府 | 2005/10/30(Sun) 11:21 [Reply] |
Re[1533]いこまかんなび様へ 誤解がありました、「アバウトな地図」とは、行方の国神神社付近「(付近に地名:辻・ 江寺・ 台上戸が在ります。)」の地図のことです。(他は帝国書院の1:1.000.000の地図でかなり正確とおもいます。) 地名「江寺」付近が対角線で交わった同規模の2つの正三角形が「x」(交わる)ポイントです。 「津」を考えてみました。 「津」は「わたし」は「渡し」「橋」(虹・異界へのはし・渡し)(橋は船を連ねた渡し) 津の意味は進む意の語源からこちらの岸から向う岸に進んだところとあります。 「わたし」には「渡し」の他に「済・サイ」(すくう・救済)の意味もあります。 (さんずい+「斎」・サイ・ものいみは、身を清くするの言語「清」からで身を清める神事・沐浴などから) (「齎」・サイ・もたらすは、貝・金銭を持って行き来するの意味とあります。) 「塞」サイ・ふさぐ・とりで (塞の神・鹿島信仰・デダラボッチ?道祖神の祖・コンパスと定規) 「裁」サイ・うえる 土を盛り上げて(塞)木を培う意味。(土を盛り上げて・・・・・・古墳?) 「栖」サイ・すむ 西が音を表し、その上に来て留まる意の言語(止・至)止まり木の意・ひいては、鳥のねぐら・さらに住みかの意(栖烏セイウ:ねぐらの烏)(「栖栖セイセイ」:皇皇:忙しいさま。(古代ユーラシアには鳥トーテム(天使?)さかえた。) 「隹」サイ・スイ・とり(鳥・酉・鶏・禽) 「進」むは、道を行く「とり」(測量士+軍隊+宣教師・国造)などをあらわす隠語と思います。 「歳」サイ・セイ ・とし:木星の軌「道」・ひとめぐり・(十二次に分け1次を行く間を1歳という。) 古代での測量では測量区域を山・川・峠などの間に区分して津「わたし」・橋(川の中間)で交わる「x」・辻(津地・)「+」のポイントとした。 古道に掛かる「橋」(古代での位置)の真ん中を接点とする60度角の対角線上にポイントが存在します。(300m:600m:√900mの三つの距離以内が考えられ直角三角形での測量と思われます。) (広い御心にて御接し下さいマセ。) 迷える和亜布より いこまかんなび様へ |
[1578] Re[1577][1567]: 提案 耳と諏訪 大三元 [Url] | 2005/10/30(Sun) 10:49 [Reply] |
>
投馬国は、戸数五万、5万の規模は吉備に相当。鞆はトモ、福山市。 方角は無視するけど、人口は採用、、、ですか? > > 隼人は犬祖伝説を持つ南方系の海人のようで、 隼人が狗の声を真似てほえるから、という以外にどんな論拠があるのでしょう? > >これが北九州にまわって志賀島を拠点とした安曇海人となり、 論拠? 入れ墨が共通している、ってことだけ? > 瀬戸内海で吉備の国などをたて、ついには信濃までたどり着いたのです。 論拠? > 耳を大きくするなり耳輪をつける風習が海南島付近にあり、これが南九州に持ち込まれて隼人の犬祖伝説になった。 無理矢理、って気がしますが、耳輪と犬祖と関係ある、ということには、しっかりした論証があるのでしょうか? > 谷川健一氏は『白鳥伝説』上p162で狗奴国に狗の字を使ったのは、ここの民が犬祖伝説を持つことを意味していると述べています。 じゃぁ、邪馬台国は、邪な馬の信奉者の国だったのか、とか。他にも倭の諸国名を漢字の意味で考えるべきものがあるのでしょうか。(無いと思うのですが) 「この場合だけ」という ad hoc な話なのでは? > 耳を大きくするのは権威の象徴であって、その為に耳朶に穴を開けて輪をぶら下げたりしたので、大耳、耳垂と呼ばれたのです。 なんか、小説のレベルですよね。民俗学なんてこんなレベルなのか。 論理じゃなくって、想像の世界だと思う。 こんなレベルからどうやったら脱却できるんだろう。 |
[1577] Re[1567]: 提案 耳と諏訪 神奈備 | 2005/10/29(Sat) 16:28 [Reply] |
耳だけで敵味方は確かに単純過ぎますね。 投馬国の官を彌彌といい、副を彌彌那利と。 倭建のお供をした吉備の祖は御suki友耳建日子で耳の仲間。 投馬国は、戸数五万、5万の規模は吉備に相当。鞆はトモ、福山市。 隼人は犬祖伝説を持つ南方系の海人のようで、これが北九州にまわって志賀島を拠点とした安曇海人となり、瀬戸内海で吉備の国などをたて、ついには信濃までたどり着いたのです。 耳を大きくするなり耳輪をつける風習が海南島付近にあり、これが南九州に持ち込まれて隼人の犬祖伝説になった。谷川健一氏は『白鳥伝説』上p162で狗奴国に狗の字を使ったのは、ここの民が犬祖伝説を持つことを意味していると述べています。 耳を大きくするのは権威の象徴であって、その為に耳朶に穴を開けて輪をぶら下げたりしたので、大耳、耳垂と呼ばれたのです。 諏訪大社の御頭祭に鹿の頭七十五個を備えたのですが、その中には耳裂き鹿がいたと云います。鹿とは志賀のことで安曇族の人間の首を備えたのではないでしょうか。耳を大きくする努力が行きすぎて耳の穴が大きくなりすぎることはままあったのでは。 |
[1576] Re[1575][1574]: 耳 琉球松 | 2005/10/28(Fri) 13:20 [Reply] |
後年の聖徳太子が "耳系思想?" の信奉者だった可能性はあると思います。 井沢元彦先生も『逆説の日本史/小学館』で、「仏教でも儒教でもいわんやキリスト教でもない和の思想を発見したのは聖徳太子である」と言ってますね。 |
[1575] Re[1574]: 耳 大三元 [Url] | 2005/10/28(Fri) 12:53 [Reply] |
> 聖徳太子も耳(豊聡耳)なんだけど、これは別の耳?(失礼) > > 耳は、津見とか出見の仲間じゃないだろうか。単純に。 角身、祇(つみ)、士奴美、遅奴美、なんかもその仲間かも、とも思ってますが、そこから発展してないんです。。。 http://www.dai3gen.net/jinumi.htm また、「出見」の漢字の意味に拠って、それをアイヌ語で並べてみると san nu となり、これが「狭野」につながったりしちゃって、sanke nu とも作れるので、そうすると「三毛野」があぶり出されたりして、単なる偶然なのか、悩ましいです。san という音を「三」で表すなんてのが、ほんとかよ、という気もしたりして。(なお、nu を「見」にあてたのは、nu-kar 見る に基づき nu を語根と推定したことによる。独立語としての nu は「聞く」である。) |
[1574] 耳 玄松子 | 2005/10/28(Fri) 12:36 [Reply] |
聖徳太子も耳(豊聡耳)なんだけど、これは別の耳?(失礼) 耳は、津見とか出見の仲間じゃないだろうか。単純に。 |
[1573] 無題 琉球松 | 2005/10/28(Fri) 11:43 [Reply] |
大三元さん、ありがとうございます。 もっともっと本土の皆さんの私論など聞きたいわけなんです。 僕は、せっかく沖縄島で生まれ育ちましたから、本土の視点とは違うものを出したほうがいいと思いました。 ほんとに、頭がごじゃごじゃになるんですけどね。これはもう興味を持ってしまった者の宿命です〜(笑)。。 |
[1572] Re[1571][1567][1566][1565][1562][1560][1555][1554]: 提案 大三元 [Url] | 2005/10/28(Fri) 11:23 [Reply] |
琉球松さん > > 「もっと多次元(同族内での抗争もこれあり)で考えねば・・・」だとは思いますが、おおよそ二つの勢力(思想?)に分けていいですよね。 自分でも自問を繰り返すことが多いのですが、それは、ごちゃごちゃ考えたり研究したりした「結果」として、どう出てくるのか、というものではないか、と思っています。 言い方を変えれば、「おおよそ二つの勢力(思想?)に分け」るは、前提(前置、先入)すべきではない。ってな感じがします。 > > アイヌ語の「イリ」が「兄弟・姉妹」などの血縁を表すというのも面白いですね。 > これは、琉球方言で女性からみた兄弟を表す「イヘリ・エヘリ・エケリ」と繋がるんでしょうか。。。 今の私にはわかりません、、、ペコリ ただ、「イヘリ・エヘリ・エケリ」という語形から、第二音節が kh に遡るのかもしれない、と考えると、それは服部四郎の「原琉球語」アイデア(kh音の存在を仮定)を補強する語例になるのかもしれない、という意味で興味を持ちました。 > そうなってくると、現在まで続く日本の建前「万世一系」の始まりは、イリ王朝あたりで確立したとする考え方はなかなかイケてるのではないかと思いますがどうでしょうか。 まぁ one of two ハツクニシラス ですから、そういうこともあるのでしょうが、私は幾つかの王家的なものの並列、を考えるのが良いのかな、と思っているので、「万世一系の始まり」自体への関心はさほどありません。 ミマキイリヒコはミマツヒコの子、または、娘婿(ミマツヒメがミマツヒコの娘で、その婿)、と考えたら他にも説明が綺麗になる要素があるか、とかそんなことをやってみたいです。ミマツヒコ・カヱシネが出雲系譜とつながる、という私論もあります。 ここが「彌馬獲支」とつながるか、とか、ね(^^) |
[1571] Re[1567][1566][1565][1562][1560][1555][1554]: 提案 琉球松 | 2005/10/28(Fri) 10:17 [Reply] |
大三元さんへ 「もっと多次元(同族内での抗争もこれあり)で考えねば・・・」だとは思いますが、おおよそ二つの勢力(思想?)に分けていいですよね。 「イザナミ・葦原中国・神産巣日・スサノオ」 VS 「イザナギ・高天原・高御産巣日・アマテラス」。。これは、縄文社会と弥生文明の結婚の中から現れた「弥生強硬派 ≒ 狗奴国・臣」 VS 「弥生穏健派 ≒ 邪馬台国・連」とすることができるのではないでしょうか? つまり、強硬派による「倭国大乱」を沈めるために立ち上がったのが「一日に千五百の産屋を建てる!」と宣言した「倭」の思想集団だと思います。 アイヌ語の「イリ」が「兄弟・姉妹」などの血縁を表すというのも面白いですね。 これは、琉球方言で女性からみた兄弟を表す「イヘリ・エヘリ・エケリ」と繋がるんでしょうか。。。 そうなってくると、現在まで続く日本の建前「万世一系」の始まりは、イリ王朝あたりで確立したとする考え方はなかなかイケてるのではないかと思いますがどうでしょうか。 僕は、神奈備さんが示唆されたとおり、「ミミ」を含む名を持つ勢力が排除されたと考えます。 それから「稲・御毛」など、稲作に関する名を持つもの達も同じような粛正にあったと思いますね。 となると。。。現在の日本は「神武・アマテラス」を敵視しているという事になりますが、これは沖縄から見ると、けっこううなずけるわけなんです。 |
[1570] Re[1569]: RE1535)諏訪湖付近3 玄松子 | 2005/10/28(Fri) 06:48 [Reply] |
>
#諏訪湖付近については、生島足島神社を玄松子さまがきちんと奉戴する気になってから着手した方が安全かと(^^;) どういう意味ですか? |
[1569] RE1535)諏訪湖付近3 言蛇 [Mail] [Url] | 2005/10/28(Fri) 04:22 [Reply] |
>伊勢津彦が信濃に流れて建御名方となったと言う交流の歴史があったようで、御社宮司社と >伊雑皇大神は共にそれぞれの地主神のような古い神格を持っているように思われます。 先日の飛騨生活文化センターの展示ですと、東山道ルートを主体に文化が東進しているケースに近いですね。東山道ルートですと信濃といえそうなのは高山盆地と諏訪盆地、善光寺平と松本平は東山道から外れ過ぎていると思うのですがどうでしょう?タカラガイ土製品にしても、大平洋側でしたら普通にタカラガイを採取できるのですが日本海側ですと東限が現在は能登半島ですし。高山盆地での交流の結果、大平洋側の住人の影響を受けて日本海側の住人が土製品で代用したと私は考えています。諏訪湖近辺ですと海を感じる物証を私が確認とれていないので、伊勢津彦のグループは高山盆地に一旦移動し、安房峠・神坂峠越しに諏訪湖原住民と交流したという仮説をひとまず立てておきます。飛騨生活文化センターの資料ですと、縄文時代早期に下呂石を交易品とした遺跡が東山道に点在しているので下呂石石器の分布を確認ができれば足取りが確かになるでしょう。 #諏訪湖付近については、生島足島神社を玄松子さまがきちんと奉戴する気になってから着手した方が安全かと(^^;) |
[1568] re)1536 南島歌謡大成 言蛇 [Mail] [Url] | 2005/10/28(Fri) 03:20 [Reply] |
先週は小用で実家に帰ったのですが、横須賀三笠通り商店街と米軍基地の中間に「メン ソール沖縄」という沖縄専門店があってびっくり、どう突っ込んでいいのか分からず長野 にとんぼ帰りしてきました(汗。三浦半島住民は山の民といよりは海の民なので、ハーリー のような海洋リゾート基地の役に立ちそうなものは素直にとけ込めるはずと浦賀の叶神社 にお願いしたいものです。 ●恋川亭さん > 歌謡の記録は『生』で聴いてみたくなりますね。記紀古代歌謡も同様に。 万葉集の最初の歌にしても、万葉集全体にも東南アジアで散見される「歌垣」の名残りを 強く感じています。東南アジア/インドネシア/台湾/沖縄/九州を丹念に回って蓄積す れば、オリジナルとはいえませんが現代なり解釈した歌は皆でつくれるようになると思い ます。 >文字に残す記録、映像や音声に残す記録。それは、やむを得ない、「仮」の姿でしかな >いのでしょうね。 記録に触発されて現地に飛んで、現地ではすでに死んでいたらその記録は「意味が無い」 というか記録した人は泣くしかないでしょう。ただ「意味」が伝わっているものが別の形 であれ存在すれば現地の人含めて納得できるはずと考えているんですが・・・・ >・・・『愛だ!』と言ってくれ(笑) 誰も受け止めていないのが可哀想なので不肖ながら私が受けさせてもらいまーす。 正直、私がこちらのHPにお邪魔しているのは「雁歌さんへの愛だけ」が動機です(核爆) 私にしろ萩のかぐや姫にしても「あやとりだけ」なら他で済むので^^; ●琉球松 さん >その音声の主である神女達も「よくわからない」状態で継承しているわけで、むしろ文字 >された資料から読み解くほうが無難だと考えます。 読みといたら神女達に意味を伝え、納得して歌っていただけるようでしたら再録音して掲 載すれば現地とネットの同期がとれるようになりますよー。修正前と修正後の資料が残っ ていれば「意味」は後生に伝わるようになりますので無駄にはなりません。最近ではベー トーヴェンの未完成曲も復元されているので、いずれ音楽家さん達に出番をお願いできる ようになればいいですね。 ●こういう秦氏論でしたら大歓迎というかうれしいです。 琉球松 さん>「曲玉・八尾」を放ったらかしてしまいました。。申しわけない! 琉球松 さん>これは、他の考察同様、迷路に入ってしまいますね。 北国新聞社さんに「八尾の交流施設で伝統工法で大工の技の殿堂(*1)」という記事 が掲載されていました。「エリア21(*2)」という地方新聞紙の集合hpが私にとっ ては現在ネットにおいて信用できる情報の最低公約数ということで引っ掛かってきた のでお伝えしておきます。北国新聞社を介して秦正徳教授に問い合わせれば色々出てく きそうですね。テーマが縄文時代の高床式倉庫(*3)にしばらくずれてしまうと思いますが、 正倉院展も近いことですし寄り道した方が論文に厚みがだせるかも (*1)(http://www.toyama.hokkoku.co.jp/_today/T20051026002.htm) (*2)(http://www.area21.net/) (*3)(http://homepage2.nifty.com/kitadai/) |
[1567] Re[1566][1565][1562][1560][1555][1554]: 提案 大三元 [Url] | 2005/10/27(Thu) 18:06 [Reply] |
神奈備さん > > と云うことは耳を敵とすると、景行天皇とはつながっていることになり、イリとワケとは親戚筋? 多分、敵と味方の(兎と鰐みたいな)二元論じゃなく、少なくとも三つ巴とか、時間軸を含めて(昨日の敵は今日の友とか)もっと多次元(同族内での抗争もこれあり)で考えねばならないのでしょうね。 |
[1566] Re[1565][1562][1560][1555][1554]: 提案 神奈備 | 2005/10/27(Thu) 17:51 [Reply] |
> これは?(崇神記) > > 又日子坐王者遣旦波國。令殺玖賀耳之御笠【此人名也。玖賀二字以音】 おっしゃる通りです。 崇神記 日子坐は丹波の国の玖賀耳の御笠を殺す。 崇神紀 太田田根子、父を大物主大神、母は活玉依姫で陶津耳の娘。 太田田根子は征服された側の生き残りと見れば「耳」は崇神側ではなかったと云うこと。 と云うことは耳を敵とすると、景行天皇とはつながっていることになり、イリとワケとは親戚筋? |
[1565] Re[1562][1560][1555][1554]: 提案 大三元 [Url] | 2005/10/27(Thu) 16:17 [Reply] |
> 崇神天皇の周辺には耳は見えない所が気がかり。 これは?(崇神記) 又日子坐王者遣旦波國。令殺玖賀耳之御笠【此人名也。玖賀二字以音】 |
[1564] Re[1562][1560][1555][1554]: 提案 大三元 [Url] | 2005/10/27(Thu) 09:27 [Reply] |
>
崇神天皇から始まるイリ王朝は景行天皇のワケ王朝に代わるように見えます。『日本書紀』では、九州を平定するだけの天皇のようにも見えます。 話が発散しそうな気もしますが「イリ」と「ワケ」というのがアイヌ語で ir ひとつながり、兄弟姉妹 ir-okkayo 男兄弟、従兄弟 irwak 兄弟姉妹、いとこ、またいとこ、おじ、おい uwakikor 兄と弟または姉と弟の関係にある あたりに当てはめられそうで悩ましいところです。 > これは、東遷した邪馬台国の後裔を退治したかも知れない狗奴国の首長が景行天皇のイメージかも。そのまま神功皇后の代に東征と云うこともあり得るかも。その頃には紀豊耳さんは神功皇后の味方、もう耳の連中に目くじらをたてる必要がなくなっていたのかも。 |
[1563] Re[1561][1560][1555][1554]: 提案 大三元 [Url] | 2005/10/27(Thu) 09:16 [Reply] |
琉球松さん > 「(魏志・書紀・風土記)の記述を連続」。。。いいんじゃないでしょうか。 レスありがとうございます。 > また、名の中に「ミミ=耳?」を持つ尊は皇統ですからね、面白そうですよ。 この観察は、いいのかしら? 要注意じゃないかと思います。 ミミがついても皇統とは限らない。 ミミ+尊、だと皇統、というのは ミミに限らず、『「○×」を持つ「尊」は皇統』(なのではないのかな?) ということに過ぎないのでは? |
[1562] Re[1560][1555][1554]: 提案 神奈備 | 2005/10/27(Thu) 09:14 [Reply] |
> ここから、「ミミさん達は、魏志倭人伝が伝える時代(3世紀)の体制側と目されるヤマタイ国連合の一員、つまり、ヤマタイ側にあって、魏の役人にも「官」と認識された勢力だった。 > が、しかし、景行天皇に代表される勢力に滅ぼされた」 趣旨は ミミさん達ヤマタイ国連合の一員は、景行天皇の勢力に滅ぼされた ということ。 とすると、神武天皇の前後四代に見える多くの耳(見も?)は、この天皇は邪馬台国の流れを汲んでいる物語と見ることが出来るのかも。 邪馬台国の流れは実際には崇神天皇に行ったように思っていまうが、父とされる開化天皇は葛城の垂見の宿禰の女を娶っていますが、崇神天皇の周辺には耳は見えない所が気がかり。 崇神天皇から始まるイリ王朝は景行天皇のワケ王朝に代わるように見えます。『日本書紀』では、九州を平定するだけの天皇のようにも見えます。 これは、東遷した邪馬台国の後裔を退治したかも知れない狗奴国の首長が景行天皇のイメージかも。そのまま神功皇后の代に東征と云うこともあり得るかも。その頃には紀豊耳さんは神功皇后の味方、もう耳の連中に目くじらをたてる必要がなくなっていたのかも。 |
[1561] Re[1560][1555][1554]: 提案 琉球松 | 2005/10/26(Wed) 23:33 [Reply] |
「(魏志・書紀・風土記)の記述を連続」。。。いいんじゃないでしょうか。 また、名の中に「ミミ=耳?」を持つ尊は皇統ですからね、面白そうですよ。 |
[1560] Re[1555][1554]: 提案 大三元 [Url] | 2005/10/26(Wed) 21:10 [Reply] |
>
『魏志倭人伝』と『記紀』との事件の突き合わせ 自HPからの抜粋ですが、これに関して表面的にハッキリしているのは 「南至投馬國水行二十日官曰彌彌副曰彌彌那利」にある「ミミ、ミミナリ」と 景行12年紀 「唯有残賊者 一曰鼻垂・・・二曰耳垂」 (肥前風土記 第一嶋名小近 土蜘蛛 大耳居之 第二嶋大近 土蜘蛛 垂耳居之) の「ミミタリ」他「ミミ」名ではないか、と思ってます。 ここから、「ミミさん達は、魏志倭人伝が伝える時代(3世紀)の体制側と目されるヤマタイ国連合の一員、つまり、ヤマタイ側にあって、魏の役人にも「官」と認識された勢力だった。 が、しかし、景行天皇に代表される勢力に滅ぼされた」 と三書(魏志・書紀・風土記)の記述を連続して捉えられないだろうか。 と進めてみましたがどんなもんでしょ。 |
[1559] カグツチ誕生 琉球松 | 2005/10/26(Wed) 00:42 [Reply] |
けっこう荒唐無稽な感じですが。。 「イザナミ=母なる縄文社会・イザナギ=先進的父系弥生文明」ではないかと仮定してみました。 この2神は(北部九州〜朝鮮半島南部において?)まがりなりにも夫婦であったわけですが、カグツチに表される "火の暴走・金属の暴走" によって争乱状態に陥り、対立関係になったと見たいわけなんです。 ただ、その争乱の元凶は母イザナミではく、むしろ父イザナギ側にあったはずで、だからこそ反省(禊ぎ)し「一日に千5百の産屋を建てる」と宣言したのではないでしょうか? 『倭人伝』の説明から、「男性的手法による国境線の確定と、土地、水の争奪戦による大乱」。。を読み取ってみたいんです。 |
[1558] Re[1554]: 提案 大三元 | 2005/10/25(Tue) 17:30 [Reply] |
>
大三元さん、助け舟?ありがとうございます。 用心して下さいね、泥船かもしれませんから・・・(^^) ここら辺を考えるのにアイヌ語と琉球方言が役に立つことがあると思うので、お世話になることがあろうかと思います。よろしく。 アイヌ語は:縄文時代の言語(複数あったとすれば、その一つ)の後裔言語として。 琉球語と和語は共にいわば弥生語から分化、発展したものであろう、だから、琉球語には和語サイドでは忘れられた語彙や語義が見られるかもしれない、 と思っています。 |
[1557] Re[1556][1555][1554]: 提案 神奈備 | 2005/10/25(Tue) 09:56 [Reply] |
> なぜ?? > なにか特別な方法が必要なのでしょうか? > アップしたのは無料の場所、どうやら画像倉庫に使われるのがいやなのでしょうね。失礼いたしました。 http://www.kamnavi.jp/log/ugasakai.htm の上の地図です。 |
[1556] Re[1555][1554]: 提案 ペギラ | 2005/10/25(Tue) 08:38 [Reply] |
おはようございます。 > http://kamnavi.jog.buttobi.net/log/makimuku2.gif > /iog/のこのリンクに私は入れません。(ーー;) 以前御紹介の物件も入れませんでした。 なぜ?? なにか特別な方法が必要なのでしょうか? |
[1555] Re[1554]: 提案 神奈備 | 2005/10/24(Mon) 20:30 [Reply] |
琉球松さん、すばらしいご提案ありがとうございます。 『魏志倭人伝』と『記紀』との事件の突き合わせは興味津々の所があります。 最近思っているのは、箸墓が台与の墓ではあるまいか、と言うことです。これはわりかし多くの方が論じておられるようで、心強いことです。 箸墓は大市墓とも言われ、所謂境界領域に成立すると言う市に造営されています。『三輪山の考古学』学生社)に、箸墓の両サイドには川があり、太田巻向都市とも、また三輪山の神域とも川で切り離されていた境界領域でした。参照 ↓ http://kamnavi.jog.buttobi.net/log/makimuku2.gif この川に挟まれた領域がどこまで延長できるかは定かではありませんが、『垂仁紀』に、「天皇はこの言を聞いて、中臣連の祖の探湯主(くかぬし)にいって誰に大倭大神を祀らせるか占わせた。すると渟名城稚姫命(ぬなきわかひめのみこと)とでた。そこで渟名城稚姫命に命じた。神地を穴磯邑に定め、大市の長岡の崎にお祀りした。」とあります。 穴磯とは恐らく穴師のことで、まさに川に囲まれた延長です。そこの大市の長岡の崎に祭ったと言うことは、大市を共通とする同じ地域と言うことでしょう。 一方、『魏志倭人伝』に、市について、「租賦を収む、邸閣あり、國國市あり。有無を交易し、大倭をしてこれを監せしむ。」とあり、今まで、この大倭を苦し紛れに役職名と読まれていたようですが、実際は大倭社のことで、商いが正しく運用されるべく、市場の神が祀られて、おのずから監督されるようにしたのではと考えています。 ひとつは、境界領域にたつ市とは、無税無縁の存在で、国家にもお誰にも干渉を受けない場所だったと思われます。 『倭人伝』の「倭国大乱」の記事の、『記紀』にその片鱗が残っているものと思いますが、まだ考えをつめていませんので、まず、各位のご意見をおうかがいしたい所です。 先達である大三元のHPから勉強させていただきます。 |
[1554] 提案 琉球松 | 2005/10/24(Mon) 16:21 [Reply] |
大三元さん、助け舟?ありがとうございます。 神奈備さんへ タイムマシンでも発明しないかぎり古代の検証は不可能なんですが、この「縄文〜弥生・倭国大乱」の周辺を考察してみるというのはどうでしょうかね。 勿論、結論など出るはずもないんですが、いかがでしょうか? |
[1553] 倭国大乱 大三元 | 2005/10/24(Mon) 15:55 [Reply] |
琉球松さん、撤回しちゃうんですかぁ。 「倭国大乱」の主たるものが「出雲VS越」だったとしたら、どういう絵が描けるのかなぁ、と思ってます。 最初、出雲が越に勝った(ヲロチ伝説) 次に、越が出雲に勝った(タカミムスビが娘ミホツ姫を大物主に娶せる) http://www.dai3gen.net/kessi8-2.htm http://www.dai3gen.net/kessi8-7.htm http://www.dai3gen.net/kosi01.htm あたりで述べています。 |
[1552] 無題 琉球松 | 2005/10/24(Mon) 15:12 [Reply] |
ああ〜っすみません。 軽くないですよねやっぱり。。。撤回しま〜す。 |
[1551] 縄文弥生の結婚〜離婚 琉球松 | 2005/10/23(Sun) 23:15 [Reply] |
軽く問いたいのですが。。。 神話の中の「イザナミ&イザナギ」っていうのは、縄文社会と弥生文明の関係を語っているように見えますが、どうでしょうか? 「カグツチの誕生・醜いイザナミ・8柱の雷神・一日に千人を殺す」などは、魏志の『倭人伝』でいう「倭国大乱」を連想しますね。 |
[1550] 生齧り、縄文系/弥生系4 恋川亭 | 2005/10/23(Sun) 19:26 [Reply] |
次にいつ書き込める時間ができるか判らないので、連続投稿ごめんなさい。m(__)m 弥生〜古墳時代までの本で気になったものをハショリます。古墳時代といえば「大阪府立近つ飛鳥博物館」館長の白石太一郎先生のとても読みやすい本。 (10)『考古学と古代史の間』ちくまプリマーブックス154 白石太一郎・著/2004年:筑摩書房・刊 たぶん高校生程度を対象にした叙述スタイル。目の前に先生がいらっしゃって語って下さっているような、そんな印象を受ける丁寧な本です。私のような門外漢にはとても良いレベルでした。挿図も多くて、しかも見やすい図なのです。著述とは「伝わること・判ることが大切」という感じですね。主張は現代的にスタンダードです。筑摩書房、いい仕事した。 (11)『邪馬台国から大和政権へ』大阪大学新世紀セミナー 福永伸哉・著/2001年:大阪大学出版会・刊 こちらは大学初年生や一般人を対象。高校生でもOK。90ページと薄いけども、欄外の図が豊富。通勤電車で読める軽さなのに、内容はしっかり揃っているので買いました。この本も主張はスタンダードでしょう。 縄文系/弥生系の生齧りに、古墳時代まで踏込むのは、やはり社会変化の流れがつながっているからです。行きつ戻りつしながら眺めてみないと難しいですね。上記のような(軽装版であっても)スタンダードな古墳時代本を押さえてみたのは、以下に紹介する先生の準備のため。ちょっと、スタンダードではないかもしれない(笑)。でも、未来を切り開いていこうとしているゾ。この先生。 (12)『縄紋から弥生への新歴史像』 広瀬和雄・編著/1997年:角川書店・刊 (13)『前方後円墳国家』角川選書355 広瀬和雄・著/2004年:角川書店・刊 (14)『弥生時代千年の問い ―古代観の大転換』いさな叢書2 広瀬和雄+小路田泰直・編/2003年:ゆまに書房・刊 (15)『日本考古学の通説を疑う』洋泉社新書Y99 広瀬和雄・著/2003年:洋泉社・刊 私は、広瀬先生の『縄紋から弥生への新歴史像』のご一読をおおいにお勧めしたい・・・のですが、もう本屋に在庫が無いようなので、図書館でのご利用となるでしょう。旧弊に逆らう名著の運命なのか。 無い・・・ならば『弥生時代千年の問い』をぜひ。いろんな意味で面白かった!(討論会ではフテクサレテ受け答えしているような感じの一幕も。 爆笑) ここで広瀬先生の主張は、『弥生時代の開始が500年も遡る研究成果を受けて、今までの歴史観、古代史観をきちんと見直さなければならないのではないか』という至極真っ当な提言です。 今まで列記してきた書籍の中で、一番の一押し本です。この先生の記述は主張がはっきりとしていて、まるで読者にも『どう思うか?』と迫ってくるかのような、実のある、骨のある文章です。ワクワク読めるヨ。 新書版『日本考古学の通説を疑う』は、通勤電車の中でも読めるサイズなので便利ですね。主張は他の書物と同様に一貫しています。 この新書、ご丁寧にアマゾンの書評欄で酷評している方がいますが、一連の関連図書を読んだ方には『お、個人的な反対派だな』と判っちゃいます(笑)。余程気に入らないみたいね。敵が多いんだろうな(笑)。 広瀬先生編著の最新刊『王統譜』が書店に平積みになっていましたが、今月のお小遣いが底を尽いたので、購入は来月やな〜(涙)。私は一読者として、この先生を応援します。観点・論点が違うの。イケイケ! さて書籍の紹介はこれぐらいにして、来週からは青草的に来襲したいなと予定中。 <つづく> |
[1549] 生齧り、縄文系/弥生系3 恋川亭 | 2005/10/23(Sun) 17:02 [Reply] |
前回は複数の専門家が語り合う本でしたが、一人の先生が解説する本として次の本を購入しました。 (6)考古学選書〔11〕『弥生時代の始り』 春成秀爾・著/1990年:東京大学出版会・刊 「市民向けシリーズ」なので一般読者にも読みやすいし、判りやすい記述になっています。私も拾い読みも含めて何度も再読しました。門外漢にとってスタンダード本として良いのかな?いろいろなスタンスの先生がいるのでチョット微妙かな?今のところ、私は教科書的な本として読んでいます。お勧めだと思います。 (7)『縄文人と「弥生人」−古人骨の事件簿』 片山一道・著/2000年:昭和堂・刊 私が「縄文系/弥生系」という言葉に反応するようになったキッカケの本です(笑)。前半は日本の、後半は海外での研究ノートです。前半部分だけでも、図書館あるいは本屋の立読みでも、ぜひとも目を通してほしいナとお勧めする本です。古人骨の専門家としての著者の主張の核は、こうです。 『典型的な縄文人は居たが、典型的な弥生人は居ない。』 縄文1万年に亘った北海道から沖縄までの日本列島。それは永く広範に生活していた均質な縄文人の世界だったようです。縄文人の古人骨はいかにも縄文人と判る典型的なものだと。そして発掘された古人骨の数量も多くて良好な資料が豊富なのが縄文人。 それに対して弥生人の発掘された古人骨の数は(縄文人の数と比べて)少なく、資料の状態も良いものは少ないのだそうです。弥生時代の始りの頃の古人骨は極端に少なくて、最近発掘された神戸の新方遺跡と福岡の新町遺跡2つしかないそうです。いずれの古人骨も縄文人骨の特徴を濃厚に残していたとの結果、骨以外の遺物は弥生時代を示しているのに。人類学者の立場としての著者は明確に記述しています。 『要するに「渡来系弥生人」とは架空の人びと。』 なんだか、今まで植えつけられたイメージと事実とが逆だねぇ。 しかし、著者は「渡来人」を否定しているわけではありません。「弥生人渡来仮説」は、もっと緻密に現実的に検証し直さなければ信頼性はないですヨ、と語っているのです。これは弥生早期といわれる弥生時代の始まりの頃のお話し。 さらに弥生人の古人骨は多様であり、弥生人骨の特徴はこうである!と一概に適用できるものはないそうです。バリエーションがあって、さまざまな形態。 そういえば、前に紹介した『日本の考古学(小学館)』の79ページに縄文人骨と弥生人骨の写真があり、「縄文人と弥生人の比較」という表まであって、その特徴の違いが判りやすくまとめられているのですが、ナント!縄文人の欄は『縄文人』とだけで、弥生人の欄には『弥生人(北部九州、山口地方)』と、カッコ付きの地域限定表示です。他の書籍でも「渡来系弥生人」の写真は、いつも決まって山口県土井ヶ浜遺跡出土の人骨だものねぇ(笑)。 重ねて書きますが、この本の著者は「渡来人」を否定していません。ただ、「弥生人」の古人骨に関しては、一部の例をもって全体を語れないと主張しています。実際の弥生時代はもっと複雑でダイナミックな様子なので、「弥生人渡来仮説」はかなり練り直しが必要でしょう。 このあたり、弥生時代初期の渡来人に関する件については、考古学の側からの次の書籍も多いに参考になりましたヨ。 (8)『九州弥生文化の特質』 中園聡・著/2004年:九州大学出版会・刊 (9)『弥生文化の成立』角川選書265 金関恕・大阪府立弥生文化博物館・編/1995年 大量の渡来人の来日は、弥生時代の前期末〜中期という主張もあるのです。もう始ってしまってからね。 <つづく> |
[1548] 生齧り、縄文系/弥生系2 恋川亭 | 2005/10/23(Sun) 14:53 [Reply] |
年表については、季刊『考古学』第88号「特集・弥生時代の始り」(雄山閣)の外表紙にもカラーで載ってますね。これは、西暦・中国・韓国・九州北部・西日本・従来の年代と横並びにして対比させてあるので、とても便利です。周辺諸国と合わせた年表は大切ですね、寝言が『寝言だ!』とすぐばれる、すぐ判る(笑)。 (設楽博巳・編、吉川弘文館・刊『歴史研究の最前線vol.1』2004年1月号にも、弥生開始年代を特集して主な研究者による年表を比べてあります。が、私にはこの本は専門的で難しかったです。) 年表なんてコピーすれば一発入手の簡単便利な情報ではあります。しかし・・・、膨大な数の壷や甕棺などの土器、銅鐸や鏡などの青銅器をコツコツと研究して、その結果にやっと作成された『編年』という成果をタダでコピーしてしまうのは、どうしても胸がいたみます(研究者はそれで給料を貰って裕福だとしても)。一応の敬意を込めて、出版物をお小遣いで購入しています。それは『研究を進めて、また出版してね。ファンが居るのだから。』という、ささやかなエールでもあります。 参考本の紹介をすすめますネ。 −−−−−−−−−−−−−−−− シンポジウム〔日本の考古学〕全5巻:1998年、学生社・刊より、 (3)第2巻『縄文時代の考古学』 司会/小林達雄+藤田富士夫 参加者/冨樫泰時+西本豊弘+春成秀爾+松井章+山田昌久 (4)第3巻『弥生時代の考古学』 司会/大塚初重+石野博信 参加者/石田日出志+武末純一+森岡秀人 (5)第4巻『古墳時代の考古学』 司会/白石太一郎 参加者/赤塚次郎+東潮+車崎正彦+高木恭二+辻秀人 対話形式の本が苦手な方もいらっしゃるでしょうが、私はこの3冊をとても面白く読みました。先生方の間でも意見の一致するところ、異なるところが判ってくるので、一人の著作本では知ることのできない広がりがあります。初めは一通り読み流して、再読は地図とメモを用意して。 考古学を体系的に勉強していない私のような門外漢にとっては難しい箇所もありますが、司会者のコメントが救いになりました。ゆっくりと再読して、語られている事柄を丁寧にイメージ化していくと、予想以上の収穫?があります。 北九州と関西が主となりがちな『古代史』話しに対して、伊勢や東海の中部、関東、東北の『考古学的』様子もしっかりと語られているので〔私にとっては新鮮な〕勉強になりました。東国の持つ「(一種の)国力」について認識をあらたにしたということです。国力という言葉がおかしければ、「社会力」とでも言い換えましょうか。この3冊の本の読了後、縄文時代・弥生時代・古墳時代と日本列島住民が持っていた「社会力」の充実度について思いを巡らせているところです。 今、新聞・TVなどを通して一般に流布されている『古代観』は、考古学の成果と比べて、断片的・時代遅れ・思い込みで偏向的等々と陳腐化しているのではないか???そんな印象を持ちました。この3冊もまた、「素人には素人なりの収穫のある本」だと思います。 <つづく> |
[1547] Re[1542]返信の意味不明 いこまかんなび | 2005/10/23(Sun) 11:48 [Reply] |
返信の意味がよくわかりません。 目標があって線を引いて探るのはいいですが、アバウトで無闇に引いて何かを探るのは無理がありますね。 |
[1546] Re[1545]: Re[1544] アバウトな地図なものですから。 玄松子 | 2005/10/23(Sun) 02:04 [Reply] |
「アバウトな地図なものですから。」 15Kmの誤差を持つポイントをラインで結ぶ。 そのラインの幅も、十数Kmの幅を持つ。 そんな広大なラインの上に並ぶ、 時代も背景も無関係な遺跡・寺社を、ネットで検索し、 正確な位置や、由緒の正しさを精査せずに、手当たり次第に書き散らす。 そんないい加減な検証で、レイラインだと主張するのは、 レイラインにまじめに取り組んでいる方々への冒涜です。 地図上に適当なラインを描いても、その程度の遺跡・寺社は 労力を要さずに発見できます。 |
[1545] Re[1544] アバウトな地図なものですから。 倭亞府 | 2005/10/23(Sun) 00:34 [Reply] |
]の位置は麻生城〜少年自然の家(古墳)から南へ60度〜千葉県小見川 花見寺のライン 麻生城 から東南へ〜神栖町 ∴ 砂山公園ライン この二つのラインが交わる点が]ポイントです。なを 麻生城〜少年自然の家(古墳)〜]の位置が描く正三角形と対照の形を香麻生城〜少年自然の家(古墳)ラインと取神宮から東へ平行線が同じ正三角形を描きます。(5数 王の位を表す形です。) 麻生城 http://www.asahi-net.or.jp/~dg8h-nsym/aso-jou.html 5.白浜台古墳群 、「白浜少年自然の家」の敷地内に前方後円墳の一号墳と円墳の二号墳が現存しています。標高33メートルの北浦を見下ろす丘陵上で、一号墳からは、調査により円筒埴輪片七つを採集しました。 http://www.town.aso.ibaraki.jp/kanko/shirahama/kansatu.html 花見寺 (小見川町小見川) ... 小見川) 城址、古墳群からなる公園内には桜1千本、つつ4千株が植栽されており、シーズンには県内外から多くの花見客が訪れる ... http://www.town.omigawa.chiba.jp/siseki/siseki.htm |
[1544] Re[1542]: Re[1533]いこまかんなび様へ 玄松子 | 2005/10/22(Sat) 19:06 [Reply] |
> 653年(白雉4)
行方の国神神社 これは麻生町の国神神社ですね。 > 行方の熱田神社 > 延宝3年(1673)水戸藩主・光國公巡視の折、由来を尋ねられ熱田神社の神号を賜る。 これは潮来市の熱田神社ですね。 両社の距離は15Kmちかく離れていますが、ポイントってそんなに大きいんですか。 ちなみに、熱田神社の近く(1.5Km)に上戸の国神神社が存在します。 こちらの創建は、観応年間と伝えられています。南北朝ですね。 |
[1543] [1542] の訂正です。 倭亞府 | 2005/10/22(Sat) 17:56 [Reply] |
東は鹿嶋 南向鹿島 を東は鹿島 南向香取 です、訂正いたします。 |
[1542] Re[1533]いこまかんなび様へ 倭亞府 | 2005/10/22(Sat) 17:46 [Reply] |
ポイント]の付近の神社 です。 (付近に地名:辻・ 江寺・ 台上戸が在ります。) 653年(白雉4) 行方の国神神社 歴史年表 紀元前 5000年頃 於下貝塚・大麻貝塚・小牧貝塚の周辺で人々の定住が始まる ... 500年頃 公事塚古墳・根小屋古墳群・富田古墳群の築造が始まる。 ... 653年(白雉4) 行方の国神神社が創建されたと伝えられる。 行方の熱田神社 日本武尊尊、東征の折立ち寄ったとの伝承 東は鹿嶋 南向鹿島 西方 筑波山の立地。 延宝3年(1673)水戸藩主・光國公巡視の折、由来を尋ねられ熱田神社の神号を賜る。 http://www.d3.dion.ne.jp/~stan/txt/ib1att.htm 日本武尊尊や水戸光國が関係していますのでこの辺にポイントが存在していたと思われます。(江寺の地名が気になります。) |
[1541] 無題 琉球松 | 2005/10/22(Sat) 12:06 [Reply] |
玄松子さん、ありがとうございます。 沖縄県立図書館は別として、最も重要な『沖縄編上』はなかなか馴染みがなかったんですが。。何時のまに。。(笑) 来週、さっそく借りてきてみます。ワクワク。。 |
[1540] Re[1539][1536][1531][1528]: ご無沙汰 玄松子 | 2005/10/22(Sat) 11:22 [Reply] |
>
沖縄県内の図書館では見かけないわけなんですよ。。。悲しい。。。 『南島歌謡大成』の全巻って、角川書店の全五巻ですか? http://www.library.pref.okinawa.jp/cross/ 沖縄県内図書館横断検索で検索すると、イロイロと出てきます。 沖縄県立図書館・那覇市立図書館・・・ |
[1539] Re[1536][1531][1528]: ご無沙汰 琉球松 | 2005/10/22(Sat) 10:53 [Reply] |
恋川亭さんへ 沖縄在住の僕が言うのも妙な話ですが、『南島歌謡大成』の全巻揃っていろというのは羨ましいですね。 沖縄県内の図書館では見かけないわけなんですよ。。。悲しい。。。 これは、王府編纂の『おもろさうし』があまりにも有名で、村々島々の神歌が軽視されているためだと思います。 よく音声資料があれば。。とは聞くんですが、外間守善先生らは、たぶん録音媒体から立ち上げたと思いますから、それらは資料として残っていると思います。 しかし、仮にそれを聞くことができたとしても、あまり参考にならないでしょうね。 と言うのも、その音声の主である神女達も「よくわからない」状態で継承しているわけで、むしろ文字化された資料から読み解くほうが無難だと考えます。 「曲玉を買いにヤマトへ・・」もそれらの神歌群に散見されるわけで、語られた時代がある程度推測できますね。 |
[1536] Re[1531][1528]: ご無沙汰 恋川亭 | 2005/10/21(Fri) 00:17 [Reply] |
『南島歌謡大成』は、わが近くの神戸市立中央図書館にしては〔珍しく〕全巻揃っていたので、買わずにすみました。自宅には、雑誌『国文学解釈と鑑賞1979年7月号』(特集:南西諸島の古歌謡)だけしか。私、理科系の電気屋ヤデ。読んでもサッパリ判りません。 歌謡の記録は『生』で聴いてみたくなりますね。記紀古代歌謡も同様に。タイムマシン無しでは叶わないことですが。 ・沖縄民俗祭祀の録音記録者として、宮里千里さんが有名ですね。ネットでは、何度か録音資料を聴いたのですが・・・CDは出してないのかな???新書版書籍では『沖縄 時間ゆったり流れる島』(光文社)。実は、那覇市役所のお役人さんだとか。 http://www.culture-archive.city.naha.okinawa.jp/html/b_profile/10070150.html ・『オキナワ・カルチャー・アーカイブ』サイトにて http://www.culture-archive.city.naha.okinawa.jp/index_db.html 「サウンド検索」のキーワード欄に「おもろ」を入力してみてね。『一九九八年八月十三日浦添城跡の伊波普猷墓前にて、王府おもろ伝承十五代 安仁屋真昭おもろを謳う』(収録紹介はたった2分だけど、寝るなヨォ!) ・ワンダー沖縄サイト『沖縄の祭りと年中行事』 http://www.wonder-okinawa.jp/022/index2.html カジマヤーも若水も画像があるヨ。 ・東京シネマ新社 http://tokyocinema.net/ DVD『沖縄久高島のイザイホー』を購入したときに電話で岡田社長さんから久高島の思い出話しをお聞きしたことがあります。とても懇切丁寧に語ってくださり、記録映画への、収録対象への熱情・愛情が伝わってきました。 本作品は1979年に収録された最後のイザイホーです。祭祀中のティルル(神歌)を聞き取ろうと何度も観ましたけど、とても難しいですね。はっきりと判ったのは「エーファイ!エーファイ!」という掛け声だけでした。 しかし判らなくても、胸キュンのティルルです。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 文字に残す記録、映像や音声に残す記録。 それは、やむを得ない、「仮」の姿でしかないのでしょうね。「実」を受け継いで体験してきた人にしてみれば、思い出よりもスカスカの幻かもしれない。「資料・史料」を扱い語るときには、その限界を悟る「戒め」が錘となるのかな? 「青草」という世界を区切って羽ばたくのは、遠慮というか謙譲というか節度というか。 ・・・『愛だ!』と言ってくれ(笑) |
[1535] 諏訪湖付近3 神奈備 | 2005/10/20(Thu) 21:20 [Reply] |
神奈備掲示板からこちらへ引っ越してお気楽版。 『信濃小社考』小口伊之著 によりますと、御社宮司社と伊雑皇大神(おんはざまおおかみ)とは同じ神とも言う。と述べていました。 志摩の国に伊雑宮が鎮座、内宮、外宮より古いと言う説もあるようですし、伊勢津彦が信濃に流れて建御名方となったと言う交流の歴史があったようで、御社宮司社と伊雑皇大神は共にそれぞれの地主神のような古い神格を持っているように思われます。 |
[1534] Re[1532]: RE[1520] 「緊急依頼です。」の件・・・お陰様で結果は「 ビンゴです。」 玄松子 | 2005/10/20(Thu) 12:39 [Reply] |
もう終わったようなので、ホッとしています。 > Aライン 加茂川市∴(頼朝かくれ岩・∴大海フラワーセンター付近)〜「愛宕山」〜「鋸山」〜「武山・三浦富士付近」〜鳳凰山(身延山地・修験道?) > (「愛宕山」〜「鋸山」〜鳳凰山(身延山地・修験道?)〜北東へ60度に「八溝山」 鴨川市ですね。 山を繋いでレイラインと言うのなら、日本には無数のレイラインが存在しますね。自由自在です。 > Bライン > Cライン これらのラインに乗っていない無数の古墳や寺社は無視ですか? 都合の良い線上にあるもののみを並べているようにしか見えません。 その手法を用いれば、直角三角形だけではなく、正三角形だろうが、正円だろうが作図することは可能ですね。 |
[1533] Re:[1532]???-終ります、ありがとう御座いました。 いこまかんなび [Url] | 2005/10/19(Wed) 19:54 [Reply] |
倭亞府さま。寂しいじゃないですかー。 ビンゴだった?からどんどん可能性の追求にがんばってくださいませ。 角度は何度にすめか知りませんが、私もよく線を引いて相関関係をの可能性を探ったりしてますもんで。 つなぐ場合は、やはり関係深そうな条件と場所・歴史的ポイントに限定してますけどね。 地図無き時代は?<といっても在ったりして>とくに星座の位置関係や方角(とくに山の位置)が大事ですね。 どんどん、ラインを引いて「これだったんだっ」という結果を紹介してみてくださいませ。 えらい上品に書いてしまったりなんかして。 がんばってくださいませ。 |
[1532] RE[1520] 「緊急依頼です。」の件・・・お陰様で結果は「 ビンゴです。」 倭亞府 | 2005/10/19(Wed) 17:37 [Reply] |
Aライン 加茂川市∴(頼朝かくれ岩・∴大海フラワーセンター付近)〜「愛宕山」〜「鋸山」〜「武山・三浦富士付近」〜鳳凰山(身延山地・修験道?) (「愛宕山」〜「鋸山」〜鳳凰山(身延山地・修験道?)〜北東へ60度に「八溝山」 Bライン 鳳凰山〜東へ30度に〜「]ポイント」(沢山のラインが交わるポイント)〜「鹿島神宮」 Cライン 「]ポイント」〜南南西へ60度〜「香取神宮」〜芝山古墳群〜宇之子古墳群〜清澄寺〜加茂川市∴(頼朝かくれ岩・∴大海フラワーセンター付近) Aライン〜Bライン〜Cライン 直角三角形が出来上がりました。 このA・B・Cラインの延長線(幹)から周辺のポイントに30・45・60・90・120・150度の(枝)が同じ様に伸びる。 江戸時代の「長久保赤水」(大日本史の地理志編纂に関係した儒者)の「改正日本興地路程全図」などは、修験者や僧侶などにより極秘に行なわれた測量史料の集大成と思はれます。 (終ります、ありがとう御座いました。) |
[1531] Re[1528]: re1525)ご無沙汰 琉球松 [Mail] | 2005/10/19(Wed) 09:42 [Reply] |
言蛇さんへ 「南島歌謡大成・沖縄編上』をお持ちなのでしょうか? これはなかなか出てこない貴重な資料です。 僕は『沖縄編下』を所有してますが、いわゆる「神歌」は出ていませんから、各市町村の資料やHPなどに頼っているしまつです。 これらの神歌群はそうとう崩れてはいますが、ぜひとも解明したいわけなんです。 所有していらっしゃるとすれば、譲っていただくことは可能でしょうか? ご検討、よろしくお願いします。 |
[1530] 「ひだ発掘物語」速報 言蛇 [Mail] | 2005/10/19(Wed) 01:04 [Reply] |
こんばんわ、早速ですが飛騨生活文化センターの「ひだ発掘物語」を見学してまいりました。石冠・独鈷石が欠けているので過剰な期待は裏切られましたが、この地域の遺跡発掘情報や民俗資料を定期的に確認したいのであれば「飛騨生活文化センター」はオススメです!一般展示が現代地域資料的にまとめられていて私自身はいま満腹状態です(^^ )。展示資料に英文添付が少ないのが残念ですが、素直に外国人へ英訳して関心を買えないのであれば相手の外国人の方に歴史文化センスがないと諦めた方がいいと納得できるほどうまく纏められています。先日は「きつねの嫁入り祭」あったのですが、このセンターには狐が喜びそうな食膳がおいしそうに展示されていました。位山だとお稲荷様がひもじい思いをしているのではないかと気がきではなくなってきます。 今回の展示物で神奈備さまHPに波紋をよべそうなもので心惹かれたのが、大野郡丹生川村板殿の 岩垣内遺跡から出土したタカラガイ型土製品。乗鞍岳丹生川村には海の記憶を持った縄文人が早くから住み着いていた物証で、五十猛信仰の一族の起源は出雲のスサノオ信仰一族よりは古い可能性も考慮できるようになりますので注目テーマに格上げしたいところですね(*1)。タカラガイに込められた古代人の願いごとについては柳田國男師「海上の道」をはじまりとしてHPに書き込まれる方は御存じと思い省略させてもらいますが、飛騨のタカラガイ型土製品がタカラガイ交易の結果として作られた(*2)のか、タカラガイが入手できないから土製品を作るようになったのかは展示資料やインターネット(*3)から伺えず、今後の探究がたのしみなところです。 ●倭亞府さんへ こんにちわ、私へのレスがない場合はネットで混乱を撒き散らせているのは倭亞府さんと名指しさせて頂きますので御容赦ください。三浦半島の書き込みについてレスを付けさせていただきましたが、レスを付けたから承認されたと合点されると、袂を分けているとはいえ以前から三浦半島に関するHPを開いている人に申し訳がたたなくなるので(汗。日露戦争は確かに諸外国に誇ることができる戦争でしたが、戦勝後に軍部と政府が酔っぱらっていく様は正直、「また裏切られたか、やれやれ(*4)」と生っ粋の横須賀人は冷めているものなので胸中を察していただければ幸いです。(怒っているのではなくてあなたの正義をちゃんと日にさらして下さいということです) (*1)飛騨に丹生川姫を想定するのは言蛇の青草です。神奈備さまの丹生都姫記事と整合性(秦氏か関わらなくなる)がとれなくなってしまいますが、陣痛を伴うのは健康な出産の証なので御容赦ください(汗 (*2)交易品であるタカラガイが飛騨の遺跡に出土しているか確認が必要ですが私はまだ未調査。 (*3)http://homepage2.nifty.com/kitadai/kitadai/q_and_a/ibutu/ibutu.htm (*4)過去において三浦一族が北条一族に滅ぼされているので誠意を具現化しないかぎり三度目の願いにうなずけないのは納得していただけるかと・・・・。 |
[1529] re1524)生齧り?縄文系/弥生系1 言蛇 [Mail] | 2005/10/19(Wed) 00:42 [Reply] |
こんばんわ、家内労働を抱えると走ろうにも走れなくなってくることに私自身気付かされることも多く御心中お察しします(大汗。 >素人には素人なりに得るものがあるという名著だと思います。 自称専門家の師匠でも酔っぱらうと基本を踏み外しても構わなくなる傾向があるので、まさに酔い覚ましに一家に一冊用意したいところです。師の風淋堂主人が顔無し神に飲み込まれてしまっているようなのでちょっと図書館によって拝借させていただきます(汗 >この年表を話題の座標軸としたくてね。 それですとネット上に一部資料をぶっこ抜くのが一番ですけど、多忙であればそれも難しいところ。貴志川線廃止問題も考えると、JR各社をスポンサーに迎えてこのHPの過去記事で使えるものを再編集してJRに提供、売り上げを地方学芸員の論文の買い付け&紹介に当てれば名実共に日本神話学頂点を自負できると考えているんですけど、どうでしょう? 新幹線を活用されているかたは「トランヴェ−ル」という小誌は御存じと思いますが、このクラスの記事でしたら神奈備さまと玄松子師が呼吸をあわせれば切り開いていけるのは衆目が一致するところと思います。 |
[1528] re1525)ご無沙汰 言蛇 [Mail] | 2005/10/19(Wed) 00:40 [Reply] |
こんばんわ、遅ればせながら「南島歌謡大成・沖縄編上(外間守善
他)角川出版』の入手おめでとうございます。 資料を同じくしたりすっぱ抜かれたりしても、価値観がちがったら全くの別物になるのが確認できたの私自身、胸を撫で下ろしています。 個人的に、沖縄では求婚したい場合どういう歌を歌っているのか掲載していただけるとこれからも楽しくやっていけると思いますので、ゆっくりながら宜しく願います。 歌謡文化・言語文化についてはMP3というファイルフォーマットを筆頭に音声ファイル化できますので音声ファイル掲示板のようなものがあれば、言語学における混乱を防げる(*1)と思いますがどうでしょう?時代時代の言葉の移り変わりを録音しておけば、言語学で「あやとり(*2)」をしているのか真面目に語っているのかは素人でも明瞭になると思うのですが・・・・ (*1)現代において本当の言語学者なら、録音資料は作成してはずということです (*2)老人を虐めるのは趣味ではないので「夢語り」は問題無しとして「ホラ話」はダメと区分けることができるようになれば害はないでしょう。 |
[1527] Re[1526][1525]: 訂正 琉球松 | 2005/10/18(Tue) 15:00 [Reply] |
また間違えました。 瀬戸内・沖縄文化研究センターから入れます。 |
[1526] Re[1525]: 訂正 琉球松 | 2005/10/18(Tue) 14:57 [Reply] |
ちょっと間違えました。 http://www.setouchi.ac.jp/〜dnagoh/ |
[1525] ご無沙汰 琉球松 | 2005/10/18(Tue) 14:52 [Reply] |
「曲玉・八尾」を放ったらかしてしまいました。。申しわけない! これは、他の考察同様、迷路に入ってしまいますね。 長らく投稿なかったことを、お詫びしたいと思いますが、下のサイトは参考になるはずです。 http://www.setouchi.ac.jp/〜dnagoh/ そろそろ涼しくなってきたようですが、皆さんも体に気をつけて下さいよ〜。 |
[1524] 生齧り?縄文系/弥生系1 恋川亭 | 2005/10/16(Sun) 23:26 [Reply] |
すみません、ご無沙汰しました。年度末まで季節労働中なので(怒りの葡萄)。 縄文系/弥生系の話題にはとても興味をそそられるのでチョット噛んでみたいところなんですが、私事都合により忙殺中なので、ゆっくりと少しずつ生齧りさせてもらおうかな、と。たぶん今までの宿題もこの中で消化できれば、と。 『少し愛して、長〜く愛して。』(女優・大原麗子さんの声で。ウフッ) −−−−−−−−−−−−−−−−−− 今夜は参考にするベース本の紹介から。(あくまで素人からの視点) (1)『図解・日本の人類遺跡』 〔日本第四紀学会/小野昭/春成秀爾/小田静雄−編集〕 〔出版:1992年・東京大学出版会〕 とても巻初から読み通す力量はありませんので、よなよな勝手な頁を開いて眺めています。とても面白い!私のような門外漢でも図を見ているうちに引き込まれます。(たいがい酔っぱらいながら見てるし〜) 旧石器時代、縄文時代、弥生時代、古墳時代、飛鳥・奈良時代ごとに道具の組み合わせ、生産、住居・集落、墓制、祭祀に分けた遺跡・遺物の分布図で全編構成。すごい仕事だなぁ!。素人には素人なりに得るものがあるという名著だと思います。 つねに日本全体図で見れるので、とてもバランス良く判るのです。『バランスの良さ』これがこの本の特徴といえるのではないでしょうか。触発されて青草ストーリーがどんどん湧いてくるのですが、脳内お花畑に堕すようなことはなくなる、そんな参考図書です。おおきな眼で古代の日本が見渡せる、ぜひともお勧めの1冊(僕は日本第四紀地図も好き)。一家に1冊的ですヨォ? (2)『日本の考古学』ドイツで開催された「曙光の時代」展 〔監修:文化財研究所・奈良文化財研究所〕 〔出版:2005年・小学館〕 近年までの発掘の成果を含めた古代の様子を、やはり『バランス良く』知りたいと思って選びました。 まず巻頭に日本全体の主要遺跡地図があり、続いて関連年表があります。この関連年表は、弥生時代の開始以前の年代を放射性炭素年代測定法による年代にもとづく暦年較正年代を採用しています。例の弥生時代の始りが500年も遡ったという成果ですね。なによりも、この年表が欲しかったの(笑)。この年表を話題の座標軸としたくてね。 本編は多くのカラー写真(きれい!カメラマン最高!)とともに各専門家による現代的な解説で構成されています。 巻末に発掘件数・費用・職員の推移表がありまして、80〜90年代の膨大な件数の伸びが一目瞭然です。素人ファンとしても、それだけの発掘を踏まえた専門家の話しを読みたいわけです。30年も40年も前に推測された古代史とは、状況がたいへん変ってきていると思うからです。青草説も良いアンテナを張っていたいですしね。 この本は、現在の日本考古学・古代史の姿を正確に海外へ紹介するというテーマから作成されたものです。1冊で概観が把握できるバランスの良さ、日本人にとっても多いに参考になるでしょう。 <つづく> |
[1523] [1508] 福井の八尾と玉 言蛇 [Mail] | 2005/10/12(Wed) 02:00 [Reply] |
姫川の翡翠が止まってしまったようなので、神通川周辺の発掘情報? ひょっとしたら縄文/弥生時代の交流状況が伝わってくるかも・・・ http://www.maibun.gifu-net.jp/EVENT/f_minitenji/hidatennji05/hidatenn_chirashi.gif http://www5.ocn.ne.jp/~maibunji/index.htm 以前、神通川・宮川・長良川交易ラインと想定しようとしましたがネット情報 だけだとちょっと繋がらないので、ちゃんと地元の郷土史研究会・博物館の門 は叩かないとだめです・・・(汗)。飛騨高山周辺の石器/土器は周辺の縄 文/弥生人が持ち込んでいるんですが、飛騨高山から周辺へとなると石冠と石 棒が目立つくらい。長野側の箱清水土器と比べると文化圏としての勢いは弱く 見えるのは、松本平が大平洋気候で雪が浅いのに対して日本海側気候で雪が 深いからかも・・・・ 白川郷を訪ねた時に荘川と神通川をドライブしたのですが、白川郷・荘川は東 西の山間が狭い土地で朝が遅く日没が早い痩せ地です。集落としての発展は観 光案内版にある通り、南北朝位じゃないと農業基盤が整わないんじゃ無いかと 納得するのが普通の人の感覚ですねー(^^; #白山の麓にあるのに白山神社が白川郷にはないのは驚いた覚えがあります。 |
[1522] re)1520 緊急依頼です。 言蛇 [Mail] | 2005/10/12(Wed) 01:12 [Reply] |
倭亞府さん、はじめましてこんにちわ。 1521番の記事は懐かしく拝見させて頂きました^^ NHK大河ドラマ「義経」では三浦水軍の考証もきちんと織り込まれて演出されていたので、地元の「三浦一族愛好会」のおじいさん達も溜飲下げたことと思います。 レイラインとかの情報は関心が無い(*1)のですが、武山・三浦富士の周りの森林は花粉症を併発しない森として慕われている様です。秋になるとアケビがハイキングコースの脇に実っていたのを思い浮かべます。倭亞府さんの参考にはならないと思いますが一筆。 (*1)現代の産業/技術体系に組み込めないので・・・(汗 |
[1521] 無題 倭亞府 | 2005/10/11(Tue) 00:10 [Reply] |
逗子市略年表 古墳時代 新宿、山の根、沼間に横穴古墳群が確認されている http://www.city.zushi.kanagawa.jp/second/zusisi/toukei/contents/P_files/H12toukei18_01.htm 98年 (景行28年) 日本武尊、東征に際し、本市通過の伝あり 三浦半島百景・・・一騎塚 一覧 戻る 穏やかな峰が連なる武山(標高202m)。山頂には三浦不動尊の一つとして知られる武山不動院が建つ。この登山口の近くに一騎塚(横須賀市武)がある。 鎌倉時代建暦3年(1213)の和田合戦で、和田義盛に加勢した武次郎義国が、ただ一騎この地から鎌倉にはせ参じて戦い、討ち死にしたのを里人が哀れんで、塚を築き霊を弔ったという伝承に由来する。 塚の中腹のがけには三基のいかめしい青面金剛(庚申供養塔)が立っている。階段の上には不動明王像、聖徳太子塔、そして富士登山信仰地蔵尊像なだが散在している。庶民信仰を物語るこれらは、同市指定史跡および有形民俗文化財に指定されている。佐島石工の作品として、地域文化を後世に伝えている。(あし)JR衣笠駅より京急バス横須賀市民病院行きで一騎塚下車、徒歩3分。(横須賀支社・山田信次)平成13年6月5日 神奈川新聞 逗子市披露山公園の七曲坂古東海道 http://www.asahi-net.or.jp/~ab9t-ymh/mukasino_Folder/zusi_folder/zusi-na01.html 猿島 http://www.geocities.jp/sakingno13122/rekisi/sarusima.htm 古墳とその周辺の地理的環境 http://www.city.zushi.kanagawa.jp/syokan/syougaigakusyu/shuhen.html 富士山は日本国 測量のON1ポイント。(富士見の地名) 新丸子に富士山はありません http://www2s.biglobe.ne.jp/~fuke/meisho.html 富士見塚古墳公園 http://www.kasumigaura.net/mapping/page/l-970504a-04.html 三浦半島最大の前方後円墳は古久里浜湾を望む丘の上 http://members.jcom.home.ne.jp/3372442101/kaze-kohun-ootuka.html 縄文人が暮らした丘と三浦水軍の拠点・怒田(ぬた)城 http://members.jcom.home.ne.jp/3372442101/kaze-kohun-yosii.html 三浦富士 http://www.asahi-net.or.jp/~dr4i-snn/takeyama_hike.html 19 経塚 長井中央の高台に、こんもり木の茂った塚があります。 最近の調査では、経文は出ず、前方後円墳ではないかと考えられています。 http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Sumire/6663/m_rtanken/html/y_nagai.html |
[1520] 緊急依頼です。 倭亞府 | 2005/10/10(Mon) 21:25 [Reply] |
レイラインを考える「鹿嶋」 タケミカッズチと「香取」フッツヌシが思い浮びます。 鹿島神宮(タケミカッズチ)のレイラインはみなさん御存知と思います。 では、フッツヌシのラインは?千葉に富津市が在ります。富津市から香取神宮・鹿島神宮には古代の道が存在したそうです。(確認していません。丑寅・鬼門の方角 鬼門ラインですね。) 「∴」 史蹟 (古墳?) が古代の測量台との証明が出来そうです、千葉の鴨川 「愛宕山」〜富津市「鋸山」〜浦賀水道を越え〜横須賀市の「武山」「富士山」あたりが人工の山・丘・古墳?だとしたら「ビンゴー」です。この掲示板を御覧の方々で横須賀市「武山」「富士山」の情報をお知らせください 御願いいたします。 |
[1519] 関心をもっていただければ幸いです。 倭亞府 | 2005/10/10(Mon) 02:47 [Reply] |
レイラインにかんするHPです、関心をもっていただければ幸いです。 熊本のレイライン http://homepage3.nifty.com/megalith/kyoseki1.htm 金砂大田楽とレイライン http://www.ley-line.net/kanasa/kanasa_04.html 出雲大社と分社の配置の謎 http://www.ley-line.net/izumo/izumo01.html 諏訪ー鹿島レイラインの研究 http://www.ne.jp/asahi/pasar/tokek/TZ/LL-SuwaKashima.html 富士熊野レイライン http://www.bremen.or.jp/masayosi/neospiritualline.htm 阿倍と水銀と水と http://www004.upp.so-net.ne.jp/dhistory/sei_0vf.htm 方位線について http://hw001.gate01.com/sangatu/houisen.htm 浮かび上がる五芒星の謎 http://www.ley-line.net/motoise/motoise_08.html 奈良、太陽信仰の道 http://www.ley-line.net/nara/nara_top.html 尖山‐気多大社ライン― http://www.ley-line.net/2003_05_noto/noto_02.html |
[1518] Re[1517][1510][1509]: 長野の遺跡群 神奈備 | 2005/10/07(Fri) 19:31 [Reply] |
> 勉強不足を痛感し 当分カキコは控えようと思っているのですが 勉強不足なら、小生はHPを閉じねばなりません。厚顔だけが支えです。 信濃の須坂市に墨坂神社が鎮座、大和宇陀からの勧請と言われますが、信濃は式内社、大和は式外社と面白い対比になっています。同じく信濃の須坂市に式内社の小坂神社が鎮座、大和の當麻の大坂山口神社に相当するのかも。この二つの神社の中間に 米持神社が鎮座、祭神は天照皇大神と健御名方命となっています。 米持神社の創建など詳細は分からないのですが、祭神から見ると、大和王権の肝いりで信濃にはいった人々が祀ったように見えます。 尤も但馬に面沼神社がありその奥宮が米持神社で、信濃に縁のある阿波の美馬郡や麻殖郡の天水沼間比古神を連想させます。 どうやら健御名方命は信濃の神ではなく、持ち込まれた神のようで、『古事記』では出雲から信濃に逃げたことになっていますが、『日本書紀』には出てきません。 『伊勢国風土記:逸文』には、「伊勢津彦は神武天皇に命じられた天日別命によって信濃国に追われた。」ことが記載されています。どうやらこの伊勢津彦が健御名方命に名を変えて信濃に鎮座、この神を信濃に運んだのは伊勢国の海人系だったのかも知れません。八坂刀賣命は安曇の女だったそうですし、信濃の御射口神が伊勢の海辺に多く分布しているとか。 |
[1517] Re[1510][1509]: 長野の遺跡群 QUBO | 2005/10/07(Fri) 13:37 [Reply] |
ご無沙汰です。 勉強不足を痛感し 当分カキコは控えようと思っているのですが 建御名方富命となると ついつい > 建御名方富は弥生の文明を持っていたように思いますが、 > 伝承としては諏訪が中心で、善光寺平は通り抜けたのか、 > 一部が定着したのか、良くわかりません。 先日「糸魚川ー天竜川」の日本のフォッサマグナを車で走破しました。 一部分は奴奈川姫とヒスイを求めての旅です。 地理的には糸魚川と松本との間に安曇一族がいるような気がします。 姫川の上流が安曇郡で、信濃大町経由松本に至ります。 途中に仁科神明宮 長野県上田市の生島足島神社に建御名方富命が奉仕したとの伝承があります。 これが良く判らない。諏訪に定着する以前だったようですが。 松本から善光寺平に展開した?方が地理的には考えやすいです。 但し今でも 長野市と松本市は仲が良くない。 昔から直線では近くても実際には遠い感覚が有ったのでしょう。 安曇一族は、建御名方富命に付き従った三族の一つ 説 有ります。 |
[1516] Re[1515][1514][1511]: 猪飼野 やさか [Mail] [Url] | 2005/10/06(Thu) 12:44 [Reply] |
ありがとうございます。手数をお掛けしました。 > 丹波の小幡神社に参詣されたそうですね。いかがでしたか。HPは? 小幡神社は日曜で、特に変りはなくひっそりとしていましたが、今回は機会を得てこの神社の奥宮があったと謂われる「高熊山」にも参詣することができました。 低い山なのですがかなり険しく、霊山らしい雰囲気で心が洗われるような感じでした。 当方のHPは事情で今、繋がらなくなっています。 (よろしければ旧アドレスで見ていただければうれしいです) http://www5.ocn.ne.jp/~miyosino/ > ”田”ですね。近々一杯やりましょう。 楽しみにしております。 |
[1515] Re[1514][1511]: 猪飼野 神奈備 | 2005/10/06(Thu) 11:17 [Reply] |
> 神奈備さん、御無沙汰しています。 ご指摘の通り消去しておきました。 ヤサカさん ご無沙汰です。 丹波の小幡神社に参詣されたそうですね。いかがでしたか。HPは? ”田”ですね。近々一杯やりましょう。 http://kamnavi.jp/link/okin.htm |
[1514] Re[1511]: 猪飼野 やさか [Mail] | 2005/10/06(Thu) 10:21 [Reply] |
神奈備さん、御無沙汰しています。 > 大阪に猪飼野と言う場所があります。(地名は失われました)生野区桃谷付近、鶴橋もそうです。 郷土史家、足代健二次郎氏とお会いした「MADOKA」酒房を思い出しました。 また、お運びの機会がありましたら、お誘いいただければ幸いです。 ●猪飼野を歩く http://ohto.ciao.jp/ikaino.html |
[1511] 猪飼野 神奈備 | 2005/10/05(Wed) 20:41 [Reply] |
子供の頃ですが、お盆になると村の東の端の橋、境であり辻(道と川との交差)で小石を拾い提灯の中へ入れて大豆の葉でふたをして祖先を家に迎えるのが役割でした。お盆が終わると、小さい船を作って祖霊を川に浮かべ、西に流しました。情緒のある風景でしたが、現在の大阪市内ではゴミ収集車が待ちかまえている祭壇に置くのが多いようです。これはいかがなものかと思い、今年はそれならばと燃やしてしまいました。 大阪に猪飼野と言う場所があります。(地名は失われました)生野区桃谷付近、鶴橋もそうです。仁徳天皇紀に「猪甘津に橋為す。即ち其の處 を號けて小橋と曰う。」とあり、最初の橋が記載されています。 橋は境を現し、橋の向こうは異界です。大阪人は猪飼野を一つの異界と見ているような気がします。自分が住んでいる所とは違う所−朝鮮人が多いとか、焼き肉屋が多いとか−異質なものを感じる所です。 イカイノと言う音からの連想なのかどうか・・・ |
[1510] Re[1509]: 長野の遺跡群 神奈備 | 2005/10/04(Tue) 20:13 [Reply] |
善光寺平は縄文文明の花開いた場所だったのでしょうね。 建御名方富は弥生の文明を持っていたように思いますが、伝承としては諏訪が中心で、善光寺平は通り抜けたのか、一部が定着したのか、良くわかりません。 地理的には諏訪と善光寺平との間に安曇一族がいるような気がしますが、この安曇族は南方系の海人族とされており、やはり持ち込んだのは弥生的なものだったのでしょう。 善光寺平に展開した弥生文明の担い手とは、どのような人々だったのでしょうか? 守田神社の守達神は建御名方富の子供となっており、安曇を飛ばして席巻していたのかも知れませんね。 |
[1509] 長野の遺跡群(Re[1360]:富士と邪教) 言蛇 [Mail] | 2005/10/04(Tue) 03:32 [Reply] |
>> 長野でも百済系渡来人と縄文・弥生系は別集落だし・・・・ >その弥生系とは縄文人が弥生文化を受け入れて弥生系と称された人々のことでしょうか? >長野に弥生文化を持ち込んだのは縄文人ということ? >もしくはどっかで縄文人が弥生人となって移住してきたとか。 博物館によるスケジュールがおくれまして申し訳有りませんでした 善光寺平の集落の多くは縄文の集落の上に弥生式集落が築かれていまして、建御名方神を祭るグループが縄文から弥生文化への橋渡しをしているのは確かかなと考えています。ただ、善光寺平と言えば「赤い土器のクニ」と称される箱清水土器が浮かぶものですけど、栗林式土器や中島式土器を出土する集落が別々にあったりもして、古墳時代を迎えるまでは結局ばらばらという見解が私は強いですね。 善光寺平の遺跡群を列挙しますと、 長野遺跡群(善光寺城山)、安茂里遺跡群(犀川)、裾花川扇状地遺跡群、浅川扇状地遺跡群、小島・柳原遺跡群、綿内遺跡群、大室古墳群、篠ノ井遺跡群に大別されます。篠ノ井遺跡群は渡来系弥生人(弥生中期)の骨が出土していて、この集落の人間は周りの集落より背が高いのが分かっています。 |