青草掲示板ログ平十八年 三月 2006.3
多に蛍火の光く神、及び蠅声なす邪しき神有り。湯嶽神・菊嶽神の集い。
素人のひらめき、力はないが騒がしくなかなか従わない、一寸の草木にもある五分の魂の発露を!
 青草掲示板

[1899] Re[1898]: ビロウと蛇 半殺しの神と鰐  神奈備 2006/03/31(Fri) 17:01 [Reply]
>  それから「クハ男」。。。『摂津風土記逸文』の下樋山の記事にでる「久波乎」ですけど、もうちょっと勉強してみます。

この久波乎、気がつきませんでした。
 
『摂津国風土記』逸文に、下樋山(したび)と言うお話があります。
昔、大神があった。天津鰐といった。鷲となってこの山に下りとどまった。十人行くと五人は行き去らせ、五人はとどめられ(殺され)た。久波乎という者があった。この山の下に来て、下樋を伏せて神のもとにとどかせ、この樋の中を通って祈り祭った。これによって下樋山という。

 この物語は、播磨、肥前、筑後の『古風土記』に登場する、半分を通し、半分を殺す神の物語であり、もう一つは、鰐が神の下に近づく二つのお話があります。

 肥前の国の佐嘉の郡の物語は、川上の荒ぶる神を和ぎさせるお話に続いて、川上の世田姫の下に通う海の神(鰐)の話があります。摂津の国のお話では荒ぶる神が天津鰐なので、攻守所を変えていますが。

 出雲の仁多郡の恋山(したひ)のお話しは、半殺しはしないのですが、玉日女命を慕って和爾(鰐)が上がってこようとするのを石を以て塞いでいます。下樋と恋、プラス攻守がかわるのですが、鰐、これが共通点のお話です。
http://kamnavi.jp/it/izumo/komaki.htm

 そういえば、大和に和爾下神社二座鎮座、「下?」なお、この神社間も川でつながっています。
http://kamnavi.jp/as/yamanobe/wanisita.htm

久波乎、この名はなんでしょうかね。


[1898] Re[1897][1895]: ビロウと蛇  琉球松 2006/03/30(Thu) 12:01 [Reply]
 甲子園での八重山商工高校の敗退は残念ですが、夏の大会に期待ですね。
 しかしまあ、あの点の取り方や取られ方は、いかにも海賊(伊予水軍?)の血をひく琉球圏の男らしい(笑)。

 石垣島川平の「マユンガナシ(真世の神・カナシは大和言葉の "愛シ" に同じ)」の話が "素盞嗚尊が高天原を追われたシーンにそっくり" という事などは見逃していました。ありがとうございます。
 「マユ」は「ミルク(弥勒)」の同志である猫とも考えられますから、本土側の「ネコ」系神名との関係もあるのかなと想像しています。
 例えば、「大田根子」を祭神とする高知県物部川近くの「美良布(ビロウ?)神社」の銅鐸とか。。。

 それから「クハ男」。。。『摂津風土記逸文』の下樋山の記事にでる「久波乎」ですけど、もうちょっと勉強してみます。

[1897] Re[1895]: ビロウと蛇  神奈備 2006/03/30(Thu) 09:34 [Reply]
> 地下で銅鐸を祭っていたと思われる「クハ男」とも関係があるように思いますがどうでしょうか?

 銅鐸祭祀にはクワしくないので・・・


 八重山商業が敗退しましたが、出場した高校生の名前を見ますと、沖縄的な感じでよかったと思っています。近年は、関西辺りから甲子園出場を狙って生徒が野球留学するのが多くなったとか。

 その八重山に、正月だから見知らぬ旅人を泊めることはできないと、どの家でも断ったのですが、一軒だけ宿を貸した。その家は旅人の祝福を受けて、毎年作物が実るようになったとか。(『谷川健一著作集2:スサノオと砂鉄』から)

 この話は祇園の八坂神社の祭神を素盞嗚尊とする根拠となった『備後風土記逸文』に似ています。

 八重山のお話は、石垣島の川平ではマユンガナシの時、若者がクバの葉で作ったミノを着て、家を周り祝詞を述べるようです。特に雨がしとしと降る夜に行われるとか。これまた『日本書紀』での素盞嗚尊が高天原を追われたシーンにそっくりです。

[1896] Re[1895]: ビロウと蛇  nick [Url] 2006/03/29(Wed) 21:14 [Reply]
琉球松さんこんばんわ。
>島々の聖域においては、神がこの木を伝って降りてくるとされています。

当地鹿児島でも「降臨」は同じです。大樹に宿るとも。
大抵の神社には「ご神木」が。種類はまちまちですが。

[1895] ビロウと蛇  琉球松 2006/03/29(Wed) 19:45 [Reply]
 神奈備さんへ

 「ビロウ」は、琉球方言で「クバ」と言います。
 島々の聖域においては、神がこの木を伝って降りてくるとされています。
 また、その葉は若干加工され団扇ともなりますが、気になるのはその名ですね。
 「クバ」は「クハ(毒蛇ハブ)・クワ(桑)」、地下で銅鐸を祭っていたと思われる
「クハ男」とも関係があるように思いますがどうでしょうか?
 この「ビロウ」を聖なる木とする信仰は、縄文的な蛇信仰の名残ではないかと考えます。

 それから、琉球列島では有名な海蛇に「イラブー(エラブウナギ)」がいますね。
 聖地「久高島」で、この蛇の捕獲を許されているのはノロ(神女)だけで、かつては琉球国王への献上品だったようです。

 ところで、出雲のあちこちの遺跡で沖縄のゴホウラ貝輪が出土しますよね。
 この貝は、大国主命の同志「スクナヒコナ」の正体ではないかと想像していますが。。?

[1894] Re[1892][1891]: お見舞い、感謝です。  神奈備 2006/03/28(Tue) 14:44 [Reply]
> 大国主命を再生?したのは「ウム貝・キサ貝」ですが、これも沖縄との繋がりを想像しますね。

 佐田大神を産んだキサカヒメですが、加賀の潜戸で金の弓矢が流れて来て、これをとって洞穴を射たそうです。
 出雲の祭礼に欠かせないセグロウミヘビは集魚燈に光るそうです。どうも金の矢とはこのセグロウミヘビだったのでしょう。このヘビは南方産で黒潮にのってやって来たのでしょう。
 ついでに垂仁天皇の皇子のホムチワケは出雲で「檳榔の長穂宮」に住んだのですが、この檳榔もビロウ樹で、南方系の木です。
 佐田はサタですが、沖縄でしたか、サダルと言う言葉で、道案内の意味があったとの記憶がありますが、人も蛇も御神体も植物も神も出雲と沖縄とはつながっているのでしょうね。

[1893] Re[1891]: お見舞い、感謝です。  nick [Url] 2006/03/28(Tue) 00:11 [Reply]
>4月末に、開聞岳を予定していますので、自重して登山ができるように直しておきたいと思っています

欲張って無理をするとまた出ますよ。
鞭でしごきながら登りましょう。
そして露天風呂で養生を。。笑。

不摂生をしたわけでは無いのですが、ちょっと微熱が。。
どうもこの時期は。。お互い留意しましょう。

そうそう、開聞神社にも昔は『大隅命』を祭っていたようですが。。
『阿多』ではないのかな〜。。
遠いとさっぱりですが。。笑。

[1892] Re[1891]: お見舞い、感謝です。  琉球松 2006/03/27(Mon) 12:53 [Reply]
 神奈備さんへ

 これは、神々の啓示。。「少し休め!」でいいんじゃないでしょうか(笑)。
 あるいは、モノどもの祟り。。「真実に近ずくな!」かも(笑)。

 大国主命を再生?したのは「ウム貝・キサ貝」ですが、これも沖縄との繋がりを想像しますね。

[1891] お見舞い、感謝です。  神奈備 2006/03/27(Mon) 11:25 [Reply]
 nickさん、ZOUさん、やさしいお言葉、ありがとうございます。
先ほど、医者に診て頂きました。幸い、剥離骨折などはないようですが、3週間は無理をしないようにとのご託宣。ましてや、来週に山へいくなどとんでもないと釘をさされました。
4月末に、開聞岳を予定していますので、自重して登山ができるように直しておきたいと思っています。


>Re: [955] 手間天神 その5 2004/09/29

> (生野区の)旧南四条に、長宮または遠宮とよばれる天神社があった。

> (奈良市高畑町の手間天神)の手間天神も伯耆の国の「手間の山本」の鳥取県会見町天万の天神社からの勧請かも知れません。

 少彦名命が手の俣よりこぼれ落ちたので、手間天神と呼ばれたようですが、松江市の竹矢町になる宍道湖の塩楯島に手間天神社(テンマノテンシン)(ジンではない)が鎮座、祭神の降臨の際、海水が固まって島となったとの社伝が残っているようです。(by 『神国島根』)
 
>『生野の神々と「御神名記」』を書かれた足代健二郎氏から聞いたお話ですが、生野区に在った手間天神社は、塩楯からの勧請だそうです。
 かって、小生は、「大国主神が八十神に赤猪と騙されて焼いた大石を持って死んだ」とされる伯耆の国の「手間の山本」が古いのだろうと思って勧請元と推測したのですが、どうやらそうではなかったようです。


[1890] 一つ目一本足  ZOU [Url] 2006/03/27(Mon) 00:25 [Reply]
神奈備さん、足を怪我されたとのこと、お見舞い申し上げます。
実体験から少々親近感的書き込みです。

ほぼ一年前に私も足を怪我しまして、某聖山の裏登山道登拝オフミに参加できなかった経験があります。
社寺・聖地がらみでこの種の怪我をしてしまうと、
「印をつけられた」「止めが入った」などと言われて苦笑してしまうこともしばしば(^_^;)

余談はさておき、お大事になさってくださいな。今週中と言わずゆっくりと。
フィールドにお戻りになるのをお持ちしております。

[1889] Re[1888][1887][1886][1884]: 田舎の神様たち  nick [Url] 2006/03/26(Sun) 13:40 [Reply]
>今朝起きてみると足の裏に内出血があり、足首がパンパンに腫れていました。今週中に直したいものです。

時節柄ご養生を。
気分転換に「花見」にでも、しかし激痛でままなりませんか。
後々出ると厄介ですから無理は禁物。

昨日は父の車椅子を押して八幡様の参道を。。
いい花見でしたが今日は朝から雨です。

[1888] Re[1887][1886][1884]: 田舎の神様たち  神奈備 2006/03/26(Sun) 08:25 [Reply]
 滋賀県伊香郡の高月町に行って来ました。田園に鎮守の森と二階建ての住宅が点在する何となく豊かさを感じさせる風景の町でした。
 目的はもちろん神社巡りで、特に高野神社と町の境になる木之本町の石作神社が主な目標でした。
 高月駅から歩き始めますと、至る所に鎮守の森が見え、社名の標識を見ると式内XX神社とありました。それ以外にも八幡神社とご当地日吉神社が分布、神社から神社の距離は300m〜600m位。丁度フラットなゴルフコースを回っている感覚でした。そうして所々に槻の大木でしょうと、野大神と記した標識がありました。また多くの神社がお寺と仕切もなく、往年の神仏習合の姿をそのままに(と思います)鎮座されていました。

 平地でのんびり歩いていましたので、所々の神社では手水舎の水がなく、結果拝礼も忘れて写真だけ。この罰が当たったのか、何のこともない歩道から車道を横切ろうとした際、右足が段差のところで捻ってしまい、大男が車道にバッタリ。幸い自動車はなく、命長らえましたが、今朝起きてみると足の裏に内出血があり、足首がパンパンに腫れていました。今週中に直したいものです。

[1887] Re[1886][1884]: 田舎の神様たち  nick [Url] 2006/03/21(Tue) 17:15 [Reply]
今図書館と歴史資料館から帰宅しました。
桜の花も3分咲き、しかし今夜から雨模様。散らなければいいが。

当地もご多聞にもれず「過疎地の市町村合併」でめでたく「霧島市」となりました。
隼人関連の史跡は市町村の境の山頂に散在して分捕り合戦を展開、いざ保存となると
どこも二の足を踏んでいましたが、これで少しは先人の偉業を見直し保存へと
進んでくれることを。
そして東北地方のように古道や石碑が大事に活かされることを祈るのみ。

せっかく遠方からお越し頂くのですから記憶に残る隼人探訪にして頂けるよう
啓蒙に努めたいと念じています。

[1886] Re[1884]: 田舎の神様たち  ローズマリー 2006/03/21(Tue) 13:01 [Reply]
さすが、隼人の地ですね。昔からの神祭りがずっと今に繋がっているというのは、あり難き事。
ほんのちょっと前までは、日本中で見られた風景が、努力しないと残せなくなってきているのは、悲しむべきことですね。

九州は殆ど訪れた事がありません。一度行ってみたいです。
その折には、nickさんのHP参考にしたいです(^ー^)

[1885] Re[1884]: 田舎の神様たち  nick [Url] 2006/03/21(Tue) 12:44 [Reply]
自己レスの追加ですが。
近年まで当地では、所有地(裏の山や畑、庭)に祖先を祀って(埋葬)いました。
その名残が「内神さま」として散見されます。
また漁村では今でも立派な墓所が自宅横にある所が。

[1884] 田舎の神様たち  nick [Url] 2006/03/20(Mon) 17:44 [Reply]
都会だと神社の杜は凛とした神々しい雰囲気に浸って
英気を養うのでしょうか。

片や田舎の場合、至る所「神様だらけ」です。笑。
先ず、自宅の塀には「石敢當」、道端には庚申の猿田彦神
水辺を歩けば「水神様」、ちょっと田んぼを見れば、「田の神」が
微笑んでおられる。。
山に入れば入り口には山神の祠が、山頂にも山神碑が。
また峠には馬頭観音が、幹道を逸れた古道に入れば難所や
九十九折坂には磨崖仏や供養塚。。
その他「いぼの神」、「蝮除けの神」、「火の神」、「湯元の神」

これだけ居られてもご加護は千差万別。。
なかなか思うようにはいかないもので。笑。

[1883] Re[1880]: 森に棲む神々  ローズマリー 2006/03/20(Mon) 16:39 [Reply]
神奈備さんお書きの文章に共鳴して。。。

「神なり自然なりの思いの発露」いい言葉ですね。
それにふれるのが嬉しくて、神域に足を踏み入れるのかも?です。
思い込みだろうが構いませんよね(^^;
それで活き返るのでしたら。。。
活き活きしていることが、何より大切だとするのが神道の本義でしょうからね。

森に棲む神の話はどうなんでしょう。
依りつくのではありますが、木々や岩や水など森にあるものすべてに
始めから神のミタマの一部が備わっているというのが考え方のような気がします。
神様ですから、時空を越えてどこにでも数限りなく現れる事ができるものかも?
それでいて、すべてが繋がっている。
たくさんだけど、一つ。一つだけどたくさん。
祭神を祭るお社が何百社あっても気が向けばちゃんと顔を出してくださる。
神様ですものね〜。

そうして、祭神さまのまわりにもたくさんの精霊たちが遊んでいる。
賑やかに。。。
鎮守の森はそんな場所かなあと想像したりします。

[1882] Re[1879]拝読しました  やさか 2006/03/20(Mon) 08:50 [Reply]
nickさん、ご意見拝読しました。
書き込んでいただいた行間から、改めて考えさせられるものがあります。
ありがとうございました。このあたりで引き上げます。
この問題につきましては、自分の掲示板でいつかふれてみたいと思います。

[1881] Re[1878][1871]: ちょっとだけ脱線  nick [Url] 2006/03/20(Mon) 00:33 [Reply]
>歴史や民俗は、おかしく変な偏向さえ入らないように注意すれば、大切な土台となる>と思います。広く深くオープンに学ぶことと、異常な偏向を指摘・排除することの2>点を心掛ければ、素晴らしいパノラマが広がるかな〜と期待しています。

歴史は如実に物語っていますよね。
二度と同じ轍を踏まないようにと。。

当地の廃仏毀釈は残念。。お隣の文化大革命も。
徐福で交流が深まればいいですが。。

[1880] 森に棲む神々  神奈備 2006/03/19(Sun) 21:45 [Reply]
 今日は神道国際学会が京都で開催され、森に棲む神々のタイトルで幾つかのお話がありました。賀茂御祖神社(下鴨神社)の宮司さんの京都の森のお話、特に糺すの森の興味深いお話がありました。磐境(いわさか)は神道で言えば、あの世とこの世の境であること、また磐境を形作る森の中の2畳くらいのスペースの4隅の穴に小石をぎっしりと詰めるようですが、これは磐座であるとの見解が示されていました。大きい岩に(太い注連縄があろうがなかろうが)磐座として多いに心を寄せ、浄化作用を求め、写真を撮り、と言う磐座ファンクラブ的活動も素晴らしいのですが、小さい磐座、磐座学会発足講演で奈良大学の水野学長が仏舎利の話をされていましたが、小さい磐座にも目を向けていきたいものですね。
 神社の敷地がキラキラ光る瞬間と言うか時間や日がありますが、あれも一つの神なり
自然なりの思いの発露なのかも知れませんね。


 さて、ある方が、「森に棲む神の姿」について質問をされていました。
 森に棲む神とは、例えば「風」のような姿のないモノなのか、それとも「風の又三郎」のような形のあるものなのか、と。
 これに答えたのが下鴨神社の宮司さん、流石に、「森の中のモノは「依り代」であり、神はよりつくのであって、棲んでいるのではありません。」とおっしゃっていました。
 じゃあ、学会のタイトルの「森に棲む神々」とは一体何だったのでしょうね。

 また、「国破れて山河在り」から、「国栄えて、山河なし」へと、戦後。自然破壊と荒廃、人心荒廃は戦後の経済一本槍の政策のなせる業で、G7国のG6国の公共事業費を一国で上回っている自然の破壊について、外国人の研究者が各地の写真を紹介しながら、その危機を訴えていました。それに対して、「救いようはあるのか?」とのこれまた外国人が質問。神道ソングライターの鎌田東二さんの「霊性からの世直し」論で救えるのではとの意見がでていました。


[1879] Re[1877]: 慎太郎の「天皇論」  nick [Url] 2006/03/19(Sun) 11:15 [Reply]
父が寝言を言っていた。
そこで目が醒めてからそれとなく聞いてみたら
何と「天皇陛下と会っていた」のだそうな。
だから涙を溜めていたのかと。

当地に「天皇家の末裔」が居られます。
歴史が物語るように当時の治政者によって改変させられた皇室。
その後現在の系統が正当化され認知されてきましたが。。

「伝統」はやはり「継続しての成果」絶やすことには一抹の寂しさも
禁じ得ませんが、視点を換え「伝統・伝承」を継承するのであれば
それもいたしかたないかなと、只「改変」は御免ですが。

ま、難しいことは判りませんが、現在の皇室の姿勢は好きですよ。
第一皇太子は「山好き」ですからね。「余計身近く感じる」

[1878] Re[1871]: ちょっとだけ脱線  恋川亭 2006/03/19(Sun) 02:12 [Reply]
nickさん、ありがとうございます。
 僕の亡父や伯父たちは、戦中に多感な少年時代を生きた戦中派でして(笑)、戦前派と戦後派に挟まれたの谷間で釈然としない問題を抱えたまま、ガムシャラに働き通しを強いられた世代でした。年代的には、作家の開高健先生や藤沢周平先生の同世代かな。みんな長生きしないんだ。『成長期に食べるものが無かったからな』が決まり文句でした(笑)。

 そんな世代の不肖の息子たる僕たちの義務教育時代は、ベテランの教師やバランスのある良識・常識を備えた教師たちが、生徒の目前でバシバシと飛ばされていくのでした。公営施設なのに。(やはり○教□の齎した荒廃は糾弾されてしかるべきですな)
 実際、恩師の消息を尋ねると、我々を送り出して数年後には教職から転職した方々が多く、その次に定年を待たずに亡くなった方々も目立ちました。教育界に残っていたのは、実は思想的問題教師ばかり(爆笑)。
 せっかく前時代の問題点に苦労した人が教師になったのに、正反対の問題点を持つ連中にパージさせられたのですね。しかし・・・、
 「洗脳」ともいえる偏向的な教育を受けた若き世代が哀れと思いきや、「電脳」+「漫画」という手段でちゃっかり視野を広げているのは、いと面白きかな。
 それでも、師から徒弟への受け渡し、肝腎かなめの「こころ」が伝わってないので、魂がつながってませんねぇ。今の若者の苦労は、自分自身で1からこの「タマシイ」を造りあげなければならない苦悶なのかもしれません。
 彼等の前に見えるのは絶望的な風景だろうと思えます。依って立つべき足場・土台を破壊されているのですから。本来、次の世代への継続の為に必要となるはずの、伝統や形式・教えの累積・智恵の宝庫を易々と放り去った年配者。この年配者たちこそ、過去と未来の両方から責められることでしょう(意に介さないだろうけど)。

 歴史や民俗は、おかしく変な偏向さえ入らないように注意すれば、大切な土台となると思います。広く深くオープンに学ぶことと、異常な偏向を指摘・排除することの2点を心掛ければ、素晴らしいパノラマが広がるかな〜と期待しています。
(実際は、古代史の分野にも「転びバテレン」が集まって巣くっているようですなー!ビックリしました。)

> 「日本人としての自覚に目覚め」

 ぢつは、意外の多くの!とても多くの!外国人たちが、我々に『日本人としての自覚』を求めていることに驚きますよね!!しかも、メディアで喧伝されているような「近隣諸国の意見」とは、まったく異なる意味で。これこそ爆笑です。
 この『メディアで喧伝されているような「近隣諸国の意見」』については、当の近隣諸国系の老朋友たちから直接に諭された問題点もあります。現実の内情はぜんぜん違うものでしたが、機会があればどこかで書き込みます。古代史観とリンクできる内容にまとめられればと思っています。

> いじめや不登校、親への反抗等の子供も社会環境を変える意味でも
> 海外へ出すのも一つの手段だと思います。

 出す先も選定が必要でしょうね。「えざわ・たみ」さんや「えびす・にしき・しぶき」さんの国では、ちょっと大変な気がします。個人的には大好きなんですが、ワル消化能力が備わってないと行けないです。(笑)

[1877] 慎太郎の「天皇論」  やさか 2006/03/18(Sat) 19:44 [Reply]
産経新聞 2月6日朝刊 第1面『日本よ』のコラムに、「祭司たる天皇」と題した石原慎太郎氏の論説が掲載されています。
その中で氏は、「天皇こそ、今日の世界に稀有となったプリースト・キング(聖職者王)だと思っている」、「天皇は神道の最高の祭司にに他ならない」と言っています。
さらに、戦後の皇室の在りかたにふれ、その本質からずれているような気がしてならないと言い、例えて、
「何か災害が発生してような折、天皇が防災服を着て被災地に赴かれるなどということよりも、宮城内の拝殿に白装束でこもられ国民のために祈られることの方が、はるかに国民の心に繋がることになりはしまいか」と書いています。
私も石原氏がいうように「日本人の感性の祭司としてどうか奥まっていただきたい」と思う者の一人です。
皆さん方はどう思われますか。

↓やさか掲示板 [407](2/6産経新聞の記事を要約引用)
http://www.journey-k.com/cgi-bin/mbs/mbspro-2/bbs.cgi?room=maruya88

[1876] Re[1875]: 宮内庁改革  やさか 2006/03/18(Sat) 19:03 [Reply]
琉球松さん、ご意見ありがとうございます。
書き込んでいただいた内容を、よく咀嚼して考えてみたいと思います。
私の書き込みは、石原氏の論説の、内容の是非を問うたものではなかったのですが、
琉球松さんが婉曲に示唆くださっている様に、この記事内容についての議論の方が良いですね。

席亭さん、[1873]はあまり建設的な意見ではなかったと思います。
それで、この意見に関連する[1872]〜[1874]までを、削除していただければと思うのですが如何でしょう。
ヤサカの方はそれでOKですが、神奈備さんのご意見部分が消えることになりますので、もしこの通り削除いただけるようでしたら、よろしければ改題して本論に戻し、再投稿させていただきたいと思います。

お申し出の通りに削除させて頂きました。謝。神奈備。

[1875] 宮内庁改革  琉球松 2006/03/18(Sat) 13:23 [Reply]
 やさかさんの主張からは、「この国をなんとかしなければ・・」という気持ちが伝わってきますね。
 これは、幕末の愛国者達を連想しますが、現在の宮内庁体制のままではなかなか誤解の種だと思います。
 つまりは、情報が少なすぎるのではないでしょうか!?
 宮内庁は、皇室祭祀や天皇陵の情報をいつまで隠蔽非公開にするつもりなのでしょうか!?
 自国内の遺跡調査を世界に解放しているエジプトなどと比べるとお笑いぐさですね!!
 北朝鮮でさえ、古代遺跡の共同調査をしているというのに。。。
 このままでは天皇の立場があやふやで、無用な誤解がいつまでも続きそうですがどうでしょうか?

 『ゴーマニズム宣言』の小林よしのりさんは、沖縄での講演で「沖縄の本質は反米ではなく反日である」と言いましたが、この「反日」の一端には "天皇を悪用しているヤマト" があると思います。
 また、『逆説の日本史』の井沢元彦さんも宮内庁をボロクソに批判してますし、石原さんのお考えの正否も、反天皇制左翼の方々の正否も、とにもかくにも宮内庁改革にかかっていると言いたいですね。

[1871] Re[1870]: ちょっとだけ脱線  nick [Url] 2006/03/15(Wed) 09:35 [Reply]
最近、また歴史読本を読んでますが。。
(は、は、キャンペーンとかでつい予約を)
ここでもタイトルは様々ですね。
その掲載内容によって変えておられるのでしょう。

余談ですが、父のように祝詞を複数唱え
神代からの歴代皇室をすらすら言える世代ならいざ知らず
「天皇は庶民の象徴」なんて教育を受けた者にとっては
「国家」と同じくさほど気にもならないのでしょう。

これ等も海外へ出ると視点が変わり、付き合う友人・知人も
一個の日本人として認識してきます。
武芸や習慣・風俗について多種な質問をされても
無芸で無知な私は萎縮したのを思い出します。

せめて空手や柔剣道を真面目に習得しておれば好かったなと。
茶道にしてもしかり、、着付けもそうですね。
「日本人としての自覚に目覚め」
なんか「日本をしょってるんだ」なんて俄然勢いずいたりした
ものでした。それだけに責任を感じましたが。

またまた脱線しますが、、
いじめや不登校、親への反抗等の子供も社会環境を変える意味でも
海外へ出すのも一つの手段だと思います。

[1870] ちょっとだけ脱線  恋川亭 2006/03/14(Tue) 01:06 [Reply]
女性天皇問題などもあって、いろいろな言説が眼についたのですが・・・、古代史なんぞに首を突っ込んでアップアップしている身が気になったことを。

神奈備先生の投稿には、さりげなく『皇室』と記述されています。
古代史にいうスメラミコトの系統を現代風に呼ぶには、本当にごく普通の表現だと思っています、この表現だけは・・・。しかし、

『天皇家』や『天皇制』という語は、正しい用語と思えないのです。

とても怪しい!ウサンクサイ!近代的、政治的な思惑がたっぷりと込められた造語のような気がします。「万世一系」などと表現しても歴史的には「一家系」ではないし、「天皇」という「制度」があるかのような表現も、なんかなじめない。「宮家」というのはあってもスメラミコトは家制度じゃあないでしょう。ロイヤル・ファミリーの家系・血統を戴いてきたのではない。何か「天皇霊」ともいえるミタマを大切にしてきたのではないかなぁ?(僕は復古派じゃないよ・笑)
天皇は、「家」や「制度」とは別じゃないのか、と思っているのです。
(クニタマの一大依代として人権は認められないのに、人間宣言されてもなー)

近現代の知性でもって判然とする程度のサカシラな話しではないように思います。
単なる王家ではなく、スメラミコトでなければならないような重大な事件・転換点が、弥生時代1000年の間にあったのではないか・・・伝承以上の出来事ね。
(こんなことを書き込んでいたら、また右翼・左翼・隣国勢など似非連中から皮肉られるんだろうな。)

つまり、古代史になじみのある方々は、現代に使われている用語で「おかしい」と感じる場合は積極的に発言してもいいのじゃないかな!という提言です。
例の靖国騒動での『分祀』なんて何度聞いても正反対の間違った使い方だもの。

天皇「家」や天皇「制」という語でもって古代が語られるとき、不自然な感じを受ける方はいらっしゃいませんか??? 僕だけッ?

[1869] Re[1868][1866][1865][1863][1862][1861]: 古代妄想  nick [Url] 2006/03/13(Mon) 13:09 [Reply]
>  隼人にしても、物部、天皇家、海神にしても、あるいは後の時代の仏教徒にしても権現僧にしても、つまりは、時の政権に対しての妥協派と抵抗派?に分裂してしまっているために解りにくい。
>  ですから、DNAをいくら区分けしても答えは出ないと思いますね。

当時の史資料が複数あればてがかりになるのでしょうけれど。何せ出典が少ない。
ま、それだけに夢に浸れる。。笑。

しかし、性分でしょうかね。「奥歯に物がつまったような」感じは。。
自己納得のために公開されている史資料を、昔とったきねずかで
データ解析もどきをやってます。
机上の空論より実施・現場主義で。これがなかなかですね。
フィールドは狭いが現地を訪れて判ることも多々です。


[1868] Re[1866][1865][1863][1862][1861]: 古代妄想  琉球松 2006/03/13(Mon) 11:19 [Reply]
 「邪馬台国と狗奴国との対立」って、現在でもあるんじゃないでしょうか(笑)。
 これは近親憎悪ではないかと思うんですが。。。キリストとモハメットも親戚ですよね。

 隼人にしても、物部、天皇家、海神にしても、あるいは後の時代の仏教徒にしても権現僧にしても、つまりは、時の政権に対しての妥協派と抵抗派?に分裂してしまっているために解りにくい。
 ですから、DNAをいくら区分けしても答えは出ないと思いますね。

[1867] Re[1866][1865][1863][1862][1861]: 古代妄想  nick [Url] 2006/03/12(Sun) 16:38 [Reply]
>  時代は下がって筑紫君磐井、その後の隼人対宇佐八幡の旗印の兵、秦氏系の人々の進駐。そのわりには皇室の祖先伝承が語られる、

この辺りを調査していますが、データーが無いだけに厄介です。
徐福==>>秦氏 で、モンスーンに乗って串木野辺りに上陸して当地に。
そして福岡へ移動した。。この線で。

また、当地の八幡と宇佐との抗争も原因がよく掴めない。
宇佐神宮での派遣抗争に敗北し当地へ。。そこに追っ手が。。
小説の題材になりそう。笑。(十三塚原)

隼人のご先祖様の御霊や墓の所在も探索しているのですが。なかなか。
一応、国分の止上神社が有力ですが。今一つ確証が。

[1866] Re[1865][1863][1862][1861]: 古代妄想  神奈備 2006/03/12(Sun) 10:33 [Reply]
 隼人の反乱の底流に、邪馬台国と狗奴国との対立、その後の各国の動向が隠れているのかも。
 時代は下がって筑紫君磐井、その後の隼人対宇佐八幡の旗印の兵、秦氏系の人々の進駐。そのわりには皇室の祖先伝承が語られる、考えればだんだんよく判らなくなって来ますね。

[1865] Re[1863][1862][1861]: 古代妄想  nick [Url] 2006/03/11(Sat) 14:04 [Reply]
>  神奈備さん、nickさんへ
>
>  これは、隼人などが反目したというよりも、奈良の中央政府の変質じゃないでしょうか?
>  例えば。。。明治維新の功労者だったはずの薩摩藩士達は、後の政府に反発しますよね。
>  「こんなはずではなかった!」。。西郷さんや多くの革命家にとっての明治政府はもはや敵であり、東京の中央政府にとって彼等は排除の対象になってしまったと思います。
>
今古文書に記載されている江戸時代の石高を整理していますが
当地は「あわ・ひえ・そば」位です。
用水が完成した後でもこの調子ですから、平安初期はもっと悲惨では
と想定しています。
そこにいわゆる「重加算税」ですから。。
食料の備蓄迄供出させられたことが引き金と。。

当時の河川・用水の管理・運用体系が判明すれば俄然やる気がでるのですが。

西郷さんの事は全然勉強不足で仔細は。

[1864] Re[1863][1862][1861]: 古代妄想  琉球松 2006/03/11(Sat) 11:06 [Reply]
 補足
 
 奈良中央政府の変質は。。。
 太陽信仰の形骸化(アマテラスを神棚に排除)、女性の宗教的権威の否定(蛇信仰?の復活)、奄美沖縄との断絶(鍬形石など沖縄系副葬品の廃棄)。。などなど

[1863] Re[1862][1861]: 古代妄想  琉球松 2006/03/11(Sat) 10:04 [Reply]
 神奈備さん、nickさんへ

 これは、隼人などが反目したというよりも、奈良の中央政府の変質じゃないでしょうか?
 例えば。。。明治維新の功労者だったはずの薩摩藩士達は、後の政府に反発しますよね。
 「こんなはずではなかった!」。。西郷さんや多くの革命家にとっての明治政府はもはや敵であり、東京の中央政府にとって彼等は排除の対象になってしまったと思います。

 この例えは、イリ王朝にも言えるのではないでしょうか?
 沖縄原産?の太陽信仰を邪馬台国思想として活躍した隼人などの九州勢力は、その太陽信仰を嫌うイリ王朝にとって放置できない集団だったと考えます。

 あと「コノハナサクヤ姫」ですが。。。これはキラキラした美しい金属の完成品ではないでしょうか?
 だからこそ、前段階(姉)であるゴツゴツと醜い鉱石は金属加工技術が未熟だった南九州勢力にとって、「嫁にしてもしょうがない」という事だと思いますね。

[1862] Re[1861]: 古代妄想  nick [Url] 2006/03/11(Sat) 09:27 [Reply]
おはようございます。
昨日は父の体調不具合で診察や歯医者へで、バタバタしていて
今朝やっと落ち着いて読んでいます。

>景行天皇の時代には、「熊襲がそむいて貢物を奉らなかった。」と云うことで、討伐の対象になっています

大抵、反旗を翻す社会背景は次のようですが

1.大幅な社会機構の変革への反目
2.租庸調制度への反発

重労働の使役と石高としての「米(稲)」換算
が挙げられます。

当地の場合、火山灰のシラス土壌で稲は育っても
山間部の湿地帯、、それとて霧島山や桜島の土石流や火山灰で
その上夏の収穫前の台風や集中豪雨、河川の氾濫等の
大被害等が想定されます。
(江戸時代の記録では、年に数回も噴火が、
平安の頃も島が出現しています。
また、幼い頃住んでいた地域は毎年数回床上浸水でした。)

到底、納税出切るような収穫は得られなかったと想定されます。

また、制度の確立していなかった(制度が必要なかったのかも)地域へ
二重三重の縛りでは、己と反目せざるを得なかったのでは。

>退治されなかった土蜘蛛は球珠(くす)と呼ばれるのではないかと思います

「サンカ」となって山中に籠もったか
あるいは海洋へ出て別天地へ(北海道だったかもしれません)
と夢を馳せていますが。。

[1861] 古代妄想  神奈備 2006/03/10(Fri) 13:59 [Reply]
 天孫が降臨して吾田国で木花開耶姫を娶り、彦火火出見尊等を生んでおり、地上での皇統が始まっています。吾田国とは薩摩の一部で、球磨贈於(熊襲)の呼ばれていた地域です。
 ところが、景行天皇の時代には、「熊襲がそむいて貢物を奉らなかった。」と云うことで、討伐の対象になっています。と云うことは、景行天皇はその頃の熊襲とは相容れない関係であったと言えます。
 皇統が交替していたのか、もしくは熊襲の指導者が大山祇神系から熊襲梟帥、川上梟帥系に替わっていたか、両方が替わっていたか、となります。
 皇統で云えば、「イリ王朝」から「タラシ王朝」と替わったとの説があります。
 熊襲も大山祇神から海幸彦の後裔の隼人と海人系に変わったのかも知れません。

 『日本書紀』、『豊後国風土記』、『肥前国風土記』には、景行天皇の土蜘蛛退治の話がたくさん出てきます。特徴は、体に比べて手足が長い。至る所、土蜘蛛です。逆らって殺されるのと恭順の意を示して国造にしてもらうのと、人それぞれの生き様(いきよう)です。熊襲や隼人もいわば土蜘蛛であったのでしょう。土蜘蛛の大部隊の頭が梟帥と呼ばれたのでしょう。
 神武東征譚には大和の抵抗勢力の磯城の八十梟帥は女軍と男軍とで挟み撃ちにして討っています。葛城邑には赤銅の八十梟帥がいて、これは高尾張邑の土蜘蛛と呼びかえられて葛の網で一網打尽。

 『豊後国風土記』の日田の郡、石井の郷に、昔、この村に土蜘蛛の堡があった云々。阿蘇川がこの村に来て球珠(くす)川に入り、とあります。川の名は流れている地域の名になることがあり、この村は球珠村にかわっていたのかも知れません。退治されなかった土蜘蛛は球珠(くす)と呼ばれるのではないかと思います。吉野の国栖しかり、大和高原に多い九頭しかりです。紀の川の中流以下にも九頭神社が分布、この中には隼人の集落があって、馬を育てていたのかも知れません。

[1860] Re[1858][1856]: 貝の道  nick [Url] 2006/03/08(Wed) 16:42 [Reply]
>  平家の落人の後裔は物部と言えるとしますと、鹿児島なんかにも多いのかも知れませんね。

この平家落人伝承と墓地は結構存在します。
未着手ですが、前回、源氏を探索していて偶然隣が平家だったりして。
死後の世界では仲良くお暮らしでしょうか。
さっき、宇佐神宮託宣の「宇佐神宮史」を借りてきました。
これからです。
またご鞭撻ご指導お願い致します。

[1859] Re[1858][1856]: 貝の道  nick [Url] 2006/03/07(Tue) 22:29 [Reply]
>  Wikipediaによりますと、島津氏は、秦の始皇帝の末裔と称する渡来人の秦氏の子>孫の惟宗氏の流れを汲んでいるとか。何年か前、この掲示板で「○に十字」だから、>物部の十種瑞宝の十ではなどとやった記憶がありますが、筋違いだったようです。

忠久公のご落胤と同じように受け止められています。所謂風説。
秦氏自体徐福との接点がでてくるようですから、、
そうであると今後の調査の励みになるのですが。
なんせデーターが少ない。それが目下ネックです。

南薩摩にも古墳が出たようですから、、当時中央の勢力が及んでいたとなると
南九州の歴史も塗り替えられる可能性が。。
全然別系統なら徐福繋がりも捨て切れません。

今度は古墳も見学しなきゃならない。
平成9年刊行の「南九州古代遺跡の考察」を読み返しています。

[1858] Re[1856]: 貝の道  神奈備 2006/03/07(Tue) 21:35 [Reply]
 Wikipediaによりますと、島津氏は、秦の始皇帝の末裔と称する渡来人の秦氏の子孫の惟宗氏の流れを汲んでいるとか。何年か前、この掲示板で「○に十字」だから、物部の十種瑞宝の十ではなどとやった記憶がありますが、筋違いだったようです。
 鹿児島には物部系の神社は少ないようですが、たまたま表で話題の串木野市には伊多神社「饒速日命、天香山命」が鎮座、神社名がイタ、祭神が天香山命と言うのも興味津々です。
 文献上では未確認ですが、桓武天皇には物部の血が入っていたと聞いたことがあります。川内市宮内町出身の物部の末裔の方です。
 平家の落人の後裔は物部と言えるとしますと、鹿児島なんかにも多いのかも知れませんね。

[1857] おすすめHPです。  和亜布 2006/03/06(Mon) 10:31 [Reply]
是非御覧下さい。
「弥生の興亡 三、帰化人の真実 塚田敬章 第二章、各種伝承から探る弥生時代 一、鯰 ... ナマヅの皮で冠を作っていたのもこのことに依拠するのでしょう。 澤の右半分、睪(えき、ヤク)は、元々、鯰の象形 …」
http://boat.zero.ad.jp/~zaw10107/5/kika_3.htm#一、「2、鯰とシャクシ
弥生の興亡 三、帰化人の真実 塚田敬章

[1856] Re[1855][1854][1852][1848][1844][1836][1832][1829]: 貝の道  nick [Url] 2006/03/04(Sat) 18:07 [Reply]
>  ところで、「横(よこ)川」って、そもそも「おう川」じゃないでしょうかね?
昔の荘園の名残です。「横河」だったようです。
島津が関東から下向して来て3代迄は此方に住んでいませんから。。
只、栗野、蒲生、それに鹿児島の荒田は当地の鹿児島神宮の社領地でした。
(分社がありました)
私はこの辺りは詳しくないです。寺社探訪のいきがかり上、関連は少しずつ
記憶に留めています。
明日4日はその横川町の最大イベント「金山巡り」があります。
金山は江戸時代初期に採掘を。

[1855] Re[1854][1852][1848][1844][1836][1832][1829]: 貝の道  琉球松 2006/03/04(Sat) 13:30 [Reply]
 nickさんへ

 「鬼子」って面白ろそうですね〜。
 これは沖縄的に言えば「鬼の子」というより「鬼人」ですね。
 琉球方言の「コ・ク」は「人」を表します。ちなみに「子」は「クワ・クァ」。

 ところで、「横(よこ)川」って、そもそも「おう川」じゃないでしょうかね?
 奄美沖縄の女神「アマミコ(海部人?))が、地先の島(おう島)を足がかりに来島する事と関係ありそう。
 「大川・阿武川・意宇川 etc 」「大島・男島・雄島・粟島・淡島・青島 etc 」 。。。
 ちなみに、鹿児島の象徴「桜島」も、古くは「おう島」だったかも??

[1854] Re[1852][1848][1844][1836][1832][1829]: 貝の道  nick [Url] 2006/03/04(Sat) 12:09 [Reply]
> > 屋久島では「鬼子」と云うのがいるそうですが
>
> これは、なんと読むのでしょう。
> 「おにご」? 「きし」? どちらでも良い? どちらも違う?

「おにご」と呼ぶようです。
伝承は上屋久町横川にて とあります。
「御岳の神様が鬼子の姿をかりて、、、」とあります。
御岳のご神体は当地の山幸彦とありますが仔細は不明。
熊本の市房山もそうです。調査予定ですが、なかなか進みません。

[1853] Re[1851][1849][1845][1844][1836][1832][1829]: 貝の道  琉球松 2006/03/04(Sat) 10:44 [Reply]
 玄松子さんへ

 なんかややこしくなってきましたが。。。
 " 琉球圏の「モノ(ムン・ムヌ)」には、「怪」の意味がある"。。。ですが、それは「ケ」とは言わないんです。
 ですから、奄美の「ケンムン」の「ケ」は「怪」ではなく「木」であろうという事なんです。
 通訳すると(笑)、「木の怪」でしょうかね〜。

[1852] Re[1848][1844][1836][1832][1829]: 貝の道  玄松子 2006/03/04(Sat) 10:35 [Reply]
> 屋久島では「鬼子」と云うのがいるそうですが

これは、なんと読むのでしょう。
「おにご」? 「きし」? どちらでも良い? どちらも違う?

[1851] Re[1849][1845][1844][1836][1832][1829]: 貝の道  玄松子 2006/03/04(Sat) 10:33 [Reply]
>  「〜者」という言い方はするのですが、「怪」はあくまでも「ムン・ムヌ」で、本土方言?の「モノ」と同じです。

この意味が僕にはちょっとわかりません。


>  いわゆる「モノの怪」は、たんに「〜ムン(モノ)」で表現していますね。

つまり、沖縄で「〜モノ」という場合には、「怪」の意味があるということではなかったんですか?

[1850] Re[1849][1845][1844][1836][1832][1829]: 貝の道  玄松子 2006/03/04(Sat) 10:30 [Reply]
> くどいようですが「ケンムン」の「ケ」は「木」意外に考えられないんです。

くどいようですが、その理由を聞いているんです。
明確な返事が無いので、僕には「怪」以外に考えられないんです。

他の方はどうなんでしょう。

[1849] Re[1845][1844][1836][1832][1829]: 貝の道  琉球松 2006/03/03(Fri) 19:13 [Reply]
 玄松子さんへ

 沖縄方言(沖縄諸島方言)で「田舎もん」は、たんに「イナカー」ですね。
 「〜者」という言い方はするのですが、「怪」はあくまでも「ムン・ムヌ」で、本土方言?の「モノ」と同じです。
 つまり、「モノの怪」とか「怪モノ」とは言わないわけで(用例は皆無)、奄美諸島での「ケ=怪」は、比較的新しい言い方だと思います。
 また、徳之島の「ケムン=怪モノ」も同じような誤解だと考えられますし。。。くどいようですが「ケンムン」の「ケ」は「木」意外に考えられないんです。


 nickさんへ

 琉球王国編纂の『おもろさうし』などにでる「おに」は、いわゆる「鬼」ではなくて、「元気者・活発な者・頼もしい者・スーパーマン」という意味です。
 「鬼」は立場によって見方がクルクルかわりますよね?

[1848] Re[1844][1836][1832][1829]: 貝の道  nick [Url] 2006/03/02(Thu) 17:02 [Reply]
ケンムンはガジュマルやオホ木(アコウ)に住み着いて
風体は「河童」に似ているそうな。
名瀬では、河童のことを「ガラッパ」と言う。
河童の呼び名は当地鹿児島と同じですね。

屋久島では「鬼子」と云うのがいるそうですが
「神の化身」で逆に悪さをしている者を懲らしめてくれるそうです。

日本の民話集から引用。

[1847] 琉球の言葉は  nick [Url] 2006/03/02(Thu) 13:47 [Reply]
鹿児島県人でも「南西諸島や琉球の言葉」はさっぱりですね。
繋がりが掴めない。
「ばったい いかんが」(どうしようも無い・脱帽)
むそなこつ しゃんな。
(可愛そうなことをするな)
過日高校生に喋ったら、きょとん としてました。
パソコンの用語を説明するより難しかった。笑。

入門書あったらご紹介下さい。
出来たら「民俗関連」繋がりの方がいいですが。

[1845] Re[1844][1836][1832][1829]: 貝の道  玄松子 2006/03/02(Thu) 12:24 [Reply]
>  「キジムナー(沖縄諸島)・ケンムン(奄美大島)etc 」の語義が「キのモノ」であるとするのは。。。奄美を含む琉球方言で「妖怪・幽霊」などに「ケ」とはまったく言わないからなんです。

「まったく」とは? 他に用例が皆無ということでしょうか。
「ケンムン」がその用例であると言えませんか。


>  いわゆる「モノの怪」は、たんに「〜ムン(モノ)」で表現していますね。

沖縄では「田舎もん」は、田舎の怪のものという意味ですか?


>  沖縄諸島の「キジムナー」は、
> その原型は「キぬムヌ」であり、

これは確定ですか。ならば、これまでの話の流れは無意味ですね。
もしこれが絶対的なら、後出しジャンケンされた気分ですよ。

[1844] Re[1836][1832][1829]: 貝の道  琉球松 2006/03/02(Thu) 10:18 [Reply]
 いつもお騒がせしています。

 「キジムナー(沖縄諸島)・ケンムン(奄美大島)etc 」の語義が「キのモノ」であるとするのは。。。奄美を含む琉球方言で「妖怪・幽霊」などに「ケ」とはまったく言わないからなんです。
 いわゆる「モノの怪」は、たんに「〜ムン(モノ)」で表現していますね。
 また、河童との関係でいうと、例えば奄美では木に依りつくと「ケンムン」で、海や川に出没すれば「グゥワッパ」と呼ばれるようです。
 沖縄諸島の「キジムナー」は、交通安全のマスコットだったりしますが、その原型は「キぬムヌ」であり、奄美沖縄に襲来した "兵主神" 的性格で、ガジュマル(クワ科)など堅くて高温を発する木につく "火の神" の側面もありますね。

 あと気になるのは、なぜイユ(魚=伊予?)の "左目" を抜くのかなんですが。。。これは本土側からはどう解釈できるでしょうか?

[1843] Re[1842]: 衝波除  はーもにー 2006/03/02(Thu) 08:56 [Reply]
神奈備さん、雰囲気変えてすみません。

JRの御所駅から南東へ150mのあたりに、道がクランク状になっているところがあります。これを遠見遮断(奈良県内では他に無いもの)と言い、この通りより東へ1.5q茅原の吉祥草寺まで南へ500mが四方を堀で囲まれた中世の環濠集落で「御所まち」と言ってます。
まちなかの道幅は2間半で、道筋はこのまちが出来たときのまま今日の生活が続いているそうです。

江戸時代あたりのものなんてのは普通に生活風景の一部で、その時代に建築された家も多く並んでいますし、野面積み(1742年)の水路もそのまま利用されています。
一歩玄関内に入れば、1700年代の火付けや一揆を禁止する立て札などいろいろあって、面白いですよ。

[1842] Re[1841]: 衝波除  神奈備 2006/03/01(Wed) 19:13 [Reply]
はーもにーさん、投稿ありがとうございます。
”衝波”、ハッケのような気合いでしょうか。
ところで、御所の環濠集落ってどの辺りでしょうか?

[1841] 衝波除  はーもにー 2006/03/01(Wed) 18:00 [Reply]
近所の環濠集落では、T字路のつきあたりに衝波除と掘った石が置かれ、災いが道路を通って勢いよく家に入ってくるのを避けていると言います。この石を衝波石といいます。

[1840] 具の道  恋川亭 2006/03/01(Wed) 00:51 [Reply]
石敢当ほどではないけど、京・大阪・奈良などの古い路地の中でみかけることがあります。T字路のつきあたりにさりげなく置かれた石。壁を壊されにくくする、とても実際的なまじないとか?(笑)
沖縄では親切に『石敢当』と彫ってありますね。
 『石・・・敢えて当る』
敢の字に「石が当りに行ったのじゃないのよ。アナタが当りに来たのよ。」という警告が込められているなァと笑ったのは僕だけ?


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