青草掲示板ログ平十八年 八月 2006.8
多に蛍火の光く神、及び蠅声なす邪しき神有り。湯嶽神・菊嶽神の集い。
素人のひらめき、力はないが騒がしくなかなか従わない、一寸の草木にもある五分の魂の発露を!
 青草掲示板

[2435] Re[2431][2427]: 遅レス&産屋と藤娘  神奈備 2006/08/31(Thu) 20:00 [Reply]
> 鳥見神社は神々廻(ししば)などと言う珍しい名前の場所にもあります。

千葉県印旛郡白井町神々廻1408ですね。それでシシバですか?。

鳥見は饒速日尊とともに天下りした二十五部の中の「鳥見の物部」と云うのがあります。九州からの移動を天下ると云うのでしょうから、登美の地を九州で探すと、『続日本紀』の藤原広嗣の反乱を退治する記事に、登美・板櫃・京都の三カ所云々の地名が見えます。小倉の富野の自衛隊の基地付近でしょう。板櫃・京都はずばり残っています。
 ここから大和に入った物部が鳥見の長髄彦と手を組んだということで、饒速日尊の本家かも知れません。
 まさに神々が廻っているようですね。素人さん、いいお話、ありがとうございました。

[2434] Re[2427]: 遅レス&産屋と藤娘  大三元 2006/08/31(Thu) 13:34 [Reply]
MADOKAさん、
> レス有難うございます。HPも拝見。お聞きしたいことがあるのですが内容をまとめるのに苦戦中。いつになるかわかりませんが。掲示版かメールします。よろしく。

へい、お待ちしてます。お手柔らかに。

[2433] Re[2423]: 根源と根本  大三元 2006/08/31(Thu) 13:33 [Reply]
くずさん、
「国家としての成長、自立」あたりに関心をお持ちなのですね。
私の数ある弱いところの一つなので、論議は控えますが、くずさんに敬意を表するつもりで、2,3,おたずねしてみます。

> 過去にあってけして外せず、そして(このクニを存続させるのであれば)これからも外してはならないクニの根本。

国家の定義、を追い求めておられるようですね。それも普遍的な定義、少なくとも時間軸上で何時でも当てはまる(何時でも参照されるべき)定義、日本列島内部だけでの普遍的な定義なのか、世界規模なのか。

前の方で、「今、この国の根本に危機感を持っております」ということで何か倫理的な側面のことかな、とも思ったのですが、そうでもなさそう?

> これも私の感じ方ですが、自己認識と対外表明のその意思。
> それを持った瞬間から名が必要となる。名前が生まれる。

この要素(名前、自己認識、対外表明)だけを取りあえず考えると魏志倭人伝の国名なんかは、国家の名前としてとらえておられるのだろうか。まてよ、国家の定義が未定なんだったな、、、

> 日本という名が生まれた瞬間、そして生まれるに至った過程ですね。興味があります。
> それが根源かな。自分にとっては。

「日本という名が生まれた瞬間」については「瞬間」は捉えられていないと思いますが時間的幅としてはほぼ通説があるのではないのでしょうか。その「幅」に疑問がある?「幅」では不満で「瞬間」を求める? それとも「過程」に重点があるのかな。

「過程」もまた「くせ者」ですよね、何がどのように連続してどれほど遡ることなのか、ということへの探求でしょうか。

ま、くずさんのご興味の在処をよりよく理解したとしても、おつきあいできる力はないと思いますけど。

[2432] Re[2431][2427]: 遅レス&産屋と藤娘  nick [Url] 2006/08/31(Thu) 08:32 [Reply]
> > とみたさんへ
> > 阿波忌部の本手に入れられたようですね。私は渡来系祭神&姫神&海洋民に興味があり、難波津から紀の国。黒潮ルートの日本への最終地点が房総半島であることで興味をもっておりますが。勉強不足と土地感のなさでちんぷんかんぷん。そちら方面の情報楽しみにしてまーす。今。舟橋を追っております。千葉県に船橋大神宮。ここに関わる情報があれば掲示くださーい。待ってマース\(^0^)/

おはようございます。とみたさんの前にしゃしゃり出て恐縮です。
私も現在「黒潮ルート」模索中です。
来月また地元の上野原縄文遺跡で史資料の精査をと。

若かりし頃、その船橋日の出町のコンビナートの基本プランニングを
やってました。
足が無くて大変でしたが、その後有楽土地間連やら、幕張やら。。
千葉方面とは長い係わりがあったのですが、こと歴史に関してはさっぱりでした。
いろいろまたご教示下さい。

[2431] Re[2427]: 遅レス&産屋と藤娘  素人 2006/08/31(Thu) 03:12 [Reply]
> とみたさんへ
> 阿波忌部の本手に入れられたようですね。私は渡来系祭神&姫神&海洋民に興味があり、難波津から紀の国。黒潮ルートの日本への最終地点が房総半島であることで興味をもっておりますが。勉強不足と土地感のなさでちんぷんかんぷん。そちら方面の情報楽しみにしてまーす。今。舟橋を追っております。千葉県に船橋大神宮。ここに関わる情報があれば掲示くださーい。待ってマース\(^0^)/
>
あまり関係ないので、気がひけますが周辺の関連情報。
ご存知と思いますが、房総沖は黒潮の離岸のために難所であり、迂回ルートがあったようです。古代では香取海と言う内海が今の印旛沼に繋がっていたようです。印旛沼から鹿島付近を通って房総の先の太平洋に出れたようです。
印旛沼(古代から近代、香取海)
http://www.city.narita.chiba.jp/sosiki/kankei/seisui/history.html
この辺の神社はいくつかのグループになっていたようです。
印旛沼周辺の神社
http://www.inbanuma-kankou.jp/column/index.php?ID=17
前に宗像神社でこちらで神奈備さまにご指導いただきましたが、現在は鳥見神社に興味があります。私見ですが、鳥見ですから鳥の目で高いところから見ることと、夢想してしまいます。鳥見神社は神々廻(ししば)などと言う珍しい名前の場所にもあります。他の鳥見神社では高貴な方が丘に登られて霞ヶ浦をご覧になった話が残っています。
関係のない無駄情報の青草でした。

[2430] Re[2429][2428]: 大原志  神奈備 2006/08/30(Wed) 20:02 [Reply]
> 鈴鹿千代乃先生

 新宿の花園神社の発行の『神道時事問題研究』と云う機関誌に「古事記の構造」と云う小論を順次掲載されています。ひょっとしたら8月15日で終了かも。

> 村山左近さん

 柏原市の二宮神社に入られてから神社を復活、実に綺麗な神域になりました。だから地元の人々の支持を受けておられる優秀な神官です。
 宮司は別にいるそうですが、村山さん以前は魑魅魍魎の跋扈する神社にしていたような人です。

> 9月3日
 熊野古道、野中の清水付近でうろうろの予定です。

[2429] Re[2428]: 大原志  nick [Url] 2006/08/30(Wed) 09:25 [Reply]
> nickさんへ
> 恋隅ーすみは物かげ。コモル。
> 粋な名前ですねー こういうハンドルネームで 素敵な人とメル友したいの心。

星隈、笑隈 と言うのもあります。
古代人は「粋」でした。
見習いたいものですが、お脳がお疲れぎみで。笑。
皆さんから話題にして頂いたから本腰で取り組まなきゃ
いけませんね。

[2428] 大原志             MADOKA 2006/08/29(Tue) 23:40 [Reply]
大原志 おばらざし

は大原神社への参拝を意味し、夏の季語となっている言葉

でした\(^0^)/

nickさんへ
恋隅ーすみは物かげ。コモル。
粋な名前ですねー こういうハンドルネームで 素敵な人とメル友したいの心。

[2427] 遅レス&産屋と藤娘            MADOKA 2006/08/29(Tue) 23:16 [Reply]
大三元さんへ
レス有難うございます。HPも拝見。お聞きしたいことがあるのですが内容をまとめるのに苦戦中。いつになるかわかりませんが。掲示版かメールします。よろしく。

とみたさんへ
阿波忌部の本手に入れられたようですね。私は渡来系祭神&姫神&海洋民に興味があり、難波津から紀の国。黒潮ルートの日本への最終地点が房総半島であることで興味をもっておりますが。勉強不足と土地感のなさでちんぷんかんぷん。そちら方面の情報楽しみにしてまーす。今。舟橋を追っております。千葉県に船橋大神宮。ここに関わる情報があれば掲示くださーい。待ってマース\(^0^)/

9月3日(日)午後二時半公演開始
−大原志(おおばらざし)ー 希波牟(きはむ)の会
お話 『日本唯一・大原神社の産屋』神戸女子大学教授 鈴鹿千代乃
柳川三味線『閨の扇』 戸波有香子
能管 『双調神楽』 野中久美子
お話『藤娘のルーツ現わる』 大坂大学名誉教授 信多純一
歌舞伎舞踊『藤娘』 村山左近
  
       入場 無料 絵馬殿舞台

ウガフキアエズの産屋はこれか?と思うようなカヤブキの竪穴式住居風の建物がこの神社にあるようです&神社に現存する絵馬の図から藤娘の原型がわかったようです。
今回の藤娘は現在の踊り

鈴鹿千代乃さんは  クグツの研究家
村山左近さん は 柏原 二宮神社の異色の神官
&私の先輩ッス よろしくm(。。)m

京都府福知山市三和町大原
 TEL0733−58−4324 大原(おおばら)神社
JR『綾部駅』南口から送迎バス 綾部駅出発午後1時45分(所要時間15分)

[2426] Re[2425]: 国としての始まり。  nick [Url] 2006/08/29(Tue) 10:00 [Reply]
> それから指導なるものはする気もないですし、また出来るとも思っておりませんので。なんでも言ってください。解る範囲で、また出来る範囲でですが、自分なりに考えて意見をまとめてみますので。
>
こんにちわ。ちょっと親子共々病院通いでバタバタしていました。
高齢者だと「老衰ですから診察しません」と言われる病院の多さに驚きます。
結局タクシーであちこち廻るはめになって私まで可笑しくなりました。

「国」に対する定義なり根拠をご教示頂いて論考をご展開頂と理解も深まります。
ヤングの頃学習したのは、全国が中央統制下で律令制度普及した頃が国の原点かなと。

そうすると大化の改新以降となりますが、
この大化の改新や聖徳太子も仮説とか
判らないおつむ(脳梗塞3回、くも膜下出血1回)が余計こんがらがっています。
どなたか明快な回答をお願いしたいと希望しておりました。

ここはうってつけの脳のトレーニング場です。笑。

[2425] 国としての始まり。  くず 2006/08/28(Mon) 00:36 [Reply]
nickさん、(お馬さんについてレス頂きましたよね^^)
具体例・・と言っても、それを見つけたいと思ってこの場へお邪魔させてもらっておるわけで・・・
 あくまでも個人的に、なのですが7世紀後半にはメボシをつけています。それとそこに至るまでの過程ですね。そしてその時の代償として失われてしまったものにも。

それから指導なるものはする気もないですし、また出来るとも思っておりませんので。なんでも言ってください。解る範囲で、また出来る範囲でですが、自分なりに考えて意見をまとめてみますので。


[2424] Re[2423]: 根源と根本  nick [Url] 2006/08/27(Sun) 15:22 [Reply]
くずさん始めまして。私にはちょっと内容が理解出来ません。
具体例をあげてご指導頂けましたらありがたいです。

論点とはずれますが、
「日本」の記録としての初見は「織田信長」だったように聞いています。
また「日の丸」は大山巌が提唱したとか、君が代も同じでしたか。。
かなり曖昧ですが。

[2423] 根源と根本  くず 2006/08/27(Sun) 12:44 [Reply]
大三元さん、はじめまして。
これも私の感じ方ですが、自己認識と対外表明のその意思。
それを持った瞬間から名が必要となる。名前が生まれる。
日本という名が生まれた瞬間、そして生まれるに至った過程ですね。興味があります。
それが根源かな。自分にとっては。
 それとクニにも成長があると思います。国家としての成長、自立。
紫寝殿、前庭の梅(左近の梅、渡来系の象徴)が桜に植え替えられた時であるとか、ですね、外的にも内的にもクニとしての意思を示した瞬間。
 漠然と、ではなく、そういった瞬間をピンポイントで形にしたい(イメージとして固めたい)
そして、時代を経て生まれる瞬間毎に、もし動かざる共通項が存在したなら、
それがこのクニの根本なのだと思います。
過去にあってけして外せず、そして(このクニを存続させるのであれば)これからも外してはならないクニの根本。

[2422] 国のなりたち  大三元 2006/08/27(Sun) 09:45 [Reply]
くずさん 国の成り立ち、について雑感です。
所詮、私の考えであって、こうでなければならない、とか、他はだめなどというつもりは毛頭ありませんので、最初から申し上げておきます。

「国」とはなんぞや:国家(政府)のことか、国民、国土、国語のことか。これらのすべてなのか、または、なんらかの組み合わせのことか。はたまた、違うことか。

時間的視野は100年ほどで、まぁ、現在の国家(政府)が連続的に遡れる範囲か。
1000年規模で、天武あたりに国の始まりを見るのか。
2000年ほどで、神武周辺から弥生時代、古墳時代に基本を求めようとするのか。
万年レンジで、縄文や旧石器時代に、特に国「民」の根元を探ろうとするのか。

「国」(定義の如何にかかわらず)を複合体と認識するか、単一なものと認識するか、によって、その根元も複合であるはずなのか、単一なものを求めうるのか、違ってくるのだろう。

こんなことを考えています。

[2421] 繋がりついでに。  くず 2006/08/27(Sun) 09:18 [Reply]
地図はカシミール3Dから使っております。無料ですし、冬至、夏至の日の出、日の入、(それが山の上でも)確認できますし。
善光寺周辺から、戸隠をカシミールから"国土地理院の地図閲覧サービス"上にてご案内致します。
●善光寺、市街地の北西。JR長野駅から北上しての突き当たりです。
現在の本堂(国宝)は江戸中期に再建されたものです。(1707年完成)
[善光寺三鎮守]
●湯福神社、息吹とも言われます。地図で見ますと善光寺の北西。東大地震観測所(あるいは例の地獄神社)あたりとの中間点にあります。健御名方命荒御魂、伝本田善光廟。
●妻科神社、善光寺の南西、県庁のやや左上に「妻科」の表記のあるあたりです。式内社
●武井神社、善光寺の南東、黄緑色の国道406号がクランクしているあたりに「大門町」の表記がありその近くです。神社が菱形に並んで表記されますが、その左はし。

[善光寺七社]には、上記三社のほか善光寺近辺に次の二社があります。
●加茂神社、善光寺の南西、妻科社の北、国道406沿いにあります。
●美和神社、他の4社からは若干離れますが、善光寺の東、やや北より。長野電鉄長野線の[ほんごう駅]のすぐ北にあります。式内社。

カシミールの[見通し]機能を使って地図上に直線が引けます。
◆ライン1:加茂神社から美和神社
◆ライン2:湯福神社から武井神社
◎ライン1とライン2の交点(善光寺参道上)が元善町(伊勢町の表記)の如来堂跡です。現在地に善光寺本堂が移る前はこの場所にあった事が知られています。また式内社の"健御名方富命彦神別神社"もここにあったと考えられます。

湯福社 ― 健御名方富命彦神別神社(水内社)― 武井社 は直線上。
それに対して、妻科社の位置がT字形を表すのではないか。善光寺の撞木造りとあわせての推論です。善光寺における心の御柱「守屋柱」の意味も重ねています。

加えて戸隠、旧如来堂(水内社?)跡から、戸隠山八方睨、に直線を引きますと、戸隠中社に重なり、如来堂跡から戸隠連峰西岳山頂に直線を引きますと、宝光社と重なります。
如来堂と奥社の線上には芋井、泉平の素桜神社。(ここは神代桜があります。)

また戸隠南東外れにある猿丸、猿丸社を起点とし、@奥社、A奥社参道入口、B中社、3本の線をそれぞれ引きますと、少し面白い設計が浮かびます。

[2420] Re[2418][2416][2414]: 繋がり  くず 2006/08/27(Sun) 08:14 [Reply]
玄松子さん、はじめまして。戸隠山のくずと申します。
武井神社のご紹介ありがとうございました。
神奈備さま、お祭りの関係で少々忙しくなっておりまして、反応が鈍くなっており申し訳ありません。

>地獄神社
御嶽山神社です。市内から戸隠へのぼる山道(七曲り)の入口にあたります。

>ヤタガラス、今晩にでも過去ログの発掘にいっててまいります(笑)
自分の知識の浅さ、そして井の中の蛙ゆえの見識の片寄りは完璧に自覚しております。
そして、その事実にまったく劣等を覚えておりません。これから積み上げればよい事ですから。
今、この国の根本に危機感を持っております。あるていど(おおざっぱにでも)、自分なりの"形"にしておきたいのです。この国の成り立ちを。
 正確な情報、広範囲の洗い出し、継続性における要点の洗練、自分にとっては全てありがたいものです。
 勝手なお願いになります。そしてしばし、井の中からの書き込みになろうかと思いますが、もし気になる事がございましたら厳しい目でご指摘頂けたら私もありがたいです。
 

[2419] Re[2418][2416][2414]: 繋がり  玄松子 2006/08/26(Sat) 20:18 [Reply]
>  地図を見ていますと善光寺の北西1km付近(箱清水)に地獄神社の名が見えます。びっくりです。何でしょうね。

御嶽山神社でしょうね。

ちなみに、武井神社は善光寺の南東付近です。
http://www.chizumaru.com/maplink.asp?SER=all&D=all&X=497493.957&Y=131951.340&SCL=1000

[2418] Re[2416][2414]: 繋がり  神奈備 2006/08/26(Sat) 20:03 [Reply]
 地図を見ていますと善光寺の北西1km付近(箱清水)に地獄神社の名が見えます。びっくりです。何でしょうね。

[2417] Re[2415][2413]: いささか反省  神奈備 2006/08/26(Sat) 20:03 [Reply]
とみたさん、励ましになります。ありがとうございます。

> 今までの厳し目の姿勢を継続していただきたいと思います。

これは席亭のスタンスというよりも、玄松子さん・大三元さんはじめ、尊敬する各位と皆さんのおかげだと思っています。ありがたいことです。

[2416] Re[2414]: 繋がり  神奈備 2006/08/26(Sat) 10:50 [Reply]
善光寺三社(湯福、妻科、武井)と水内
地図を眺めているのですが、湯福と妻科は北南の関係のようです。
後は地図で見ていてもやはり土地勘のなさ、どこだかわかりません。
武井神社の住所が長野東町、これがどこだかわからないありさま。


> またヤタガラスとアジア起源で北と南に分かれた(?)三本足の鳳凰、

ちょっと心配なのはヤタガラスは三本足とは限らないということです。多分違うのでしょう。このことは神奈備掲示板で玄松子さんが指摘されています。紀伊国熊野界隈の神社で出てくるカラスはヤタガラスではありません。祭神にもはいっていません。


> 丹生と九頭の関係

これは楽しみですね。何がでてくるやら。待っています。

[2415] Re[2413]: いささか反省  とみた 2006/08/26(Sat) 08:54 [Reply]

神奈備さん とみたです。

ここにお寄せさせていただいて一年ぐらいになりましょうか。
私も、いくつかの掲示板を訪れていますが、掲示板にはそれぞれ主宰者=座主=管理人の姿勢とかコンセプトというものがあり、得意範囲も自ずとあります。

古代史はロマンであり謎解きですが、それでも人によっては、妄想に過ぎたり、トンでも説も横行しがちです。ある程度根拠のある話でないと、論じていても詰まりません。それゆえ、今までの厳し目の姿勢を継続していただきたいと思います。

神奈備コーナーで真面目な問答をし、青草コーナーでトンでも説をある程度容認されている方法は、賛成です。写真投稿のコーナーもありますし、貴重な掲示板です。
何よりも管理人さんのその姿勢と、知識の豊富さに魅力を感じています。これからも出没しますので、よろしくご指南ください。

高校野球には高校野球の、プロ野球にはプロ野球の魅力があります。
人によっては、別のものを期待されることもありましょうが、管理人の姿勢や作法で自ずと人は選択し、集まります。これだけ長続きしている掲示板です。きっと裏には、屹度管理人さんのご苦労があろうかと推察しています。

ブログが流行る、時代の変化も読みながらも、基本姿勢をぶれないようにするにはいかにするか、どこの掲示板でも悩んでおられるようです。


>  某サイトの掲示板にあることを書き込んだら、以下のような応答をいただきました。
> −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
> 「しょうむな」「どこが面白い」「速攻 削除の運命。」
> −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
>  主観ですからやもうえませんが、小生もよく似た罵倒をしていない訳でもなし、
> もうすこし言葉つかいに注意をしなければ、と反省です。

[2414] 繋がり  くず 2006/08/26(Sat) 04:22 [Reply]
北信濃からもうすこし。
私は善光寺に繋がる水内社信仰が、古来、構造線を祀ったものではないかと考えています。
現在の善光寺に繋がる撞木造りのTの字の棟が中央構造線と糸魚川静岡構造線をなぞった形ではないか。それと善光寺三社(湯福、妻科、武井)と水内の4社交代で行われる御柱。
湯福、元善町旧善光寺本堂(如来堂)跡(おそらく旧水内社跡)から武井に至る直線に対し、妻科社の角度はT字の配置で、妻科社が伊勢あたりを、湯福社が糸魚川河口、武井社が富士川河口あたりを、水内社が諏訪をそれぞれ映す配置であったのではないかと、
この想定の元ならば、建御名方神と奴奈川姫の関係、伊豆、伊勢との関係、あるいは構造線での丹生都姫との繋がりなど、新しい?視野が開かれるのではとの思いもあります。

また諏訪の「諏訪大明神画詞」の一文、「八幡大井、諏訪、住吉同体ノ由来アリト申」
から、応神、また住吉との繋がりですね。
河内長野と長野、誉田別と本田善光、善光の廟の云われのある湯福社の「健御名方命荒御魂」
またヤタガラスとアジア起源で北と南に分かれた(?)三本足の鳳凰、
古代、中世までの軍事上の要とも思われる、舟、鉄、情報、それに馬(と弓)
高松塚の被葬者が従一位の石川万呂であったとするなら、キトラは申寅に没し、従二位の大伴安麻呂であったのではないか。
高句麗との関係。
そして丹生と九頭の関係、若狭湾(海部氏)と菊理姫の関係など、今頭の中で組立てています。


[2413] いささか反省  神奈備 2006/08/25(Fri) 22:56 [Reply]
 某サイトの掲示板にあることを書き込んだら、以下のような応答をいただきました。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
「しょうむな」「どこが面白い」「速攻 削除の運命。」
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 主観ですからやもうえませんが、小生もよく似た罵倒をしていない訳でもなし、
もうすこし言葉つかいに注意をしなければ、と反省です。

[2412] 訂正と追記  くず 2006/08/25(Fri) 12:09 [Reply]
「川原寺式であり」(←言いきりは良くないですね)「川原寺式と見られ、」に訂正させて下さい。
 追記ですが、境内から離れた場所で同型の丸瓦と平(軒)瓦が見つかっていますが、
そのうち平瓦の文様は「唐草つなぎ文」と呼ばれ、この文様はかなり特種なようです。当麻寺の金堂、弥勒仏座像の台座に同型の文様が見られます。

[2411] 北信濃より、  くず 2006/08/25(Fri) 11:41 [Reply]
>尾張部が6世紀後半以降に東海地域から北信濃地域に移住した集団であること、7世紀後半から8世紀初頭にかけ守部が移住したものである。〔機関誌:信濃53−11〕

遅くなりましたが、
長野市内に尾張部の地名が残ります。千曲川と犀川の合流近くにあたります。
二川の合流"クルワ"の内側を称して水内と呼んだならば、その中では外縁に近く、かつての善光寺跡にあったと思われる水内社を中心と見ますと、三輪地区のさらに外になりますので、6世紀の後半以前には、すでに水内社を中心とする地域構造があったと考えます。
又、昭和初期に善光寺境内から古瓦が見つかっており、鐙(丸)瓦の文様(複弁式蓮華文)から明日香の川原寺式であり、このことから天武との関係がうかがえます。

[2410] Re[2409][2408][2406][2405][2404][2403]: 隼人/忌部・安曇/オホ氏・尾張氏の信濃への移動  神奈備 2006/08/24(Thu) 20:16 [Reply]
> お騒がせしました。
とみたさん、面白いテーマありがとうございました。またよろしくお願いいたします。

> 天日鷲命が珍彦だとすると、総合案内人なんですか。

 『国造本紀』の海上でのシーンは、椎根津彦(珍彦)であることを確認したのが天日鷲命ですから、珍彦より先に皇船に乗っていたと思ったので、総合案内人としたのです。珍彦であると水先案内人、ない場合は総合かと。

ヤタガラスと剱根命は違う神だと思います。ヤタガラスは山城賀茂の祖、剱根命は葛城族の祖神のようです。

> 明石は阿波との関連が深い気がします。珍をなぜウズと読むのでしょうか。渦つまり鳴門のウズ??下衆の勘ぐり。

 「下衆の勘ぐり」などとはとんでもないので、一般的な説明が渦だと思います。鳴門か佐賀関か、いずれにしても美味しい魚がとれる海峡です。

 
> 珍彦はなんとなく、水上水軍とかの関連

村上水軍のことでしょうか。伊予の河野氏ですから、物部系かも。


[2409] Re[2408][2406][2405][2404][2403]: 隼人/忌部・安曇/オホ氏・尾張氏の信濃への移動  とみた 2006/08/24(Thu) 19:45 [Reply]
神奈備さん

さすが、その道の大家ですね。
私が如き素人は、いろいろな仮説にすぐ尤もだと頷いてしまいます。

批判精神というか疑う能力が大切ですね。
> 道案内であれば、八咫烏だってそう言えます。鷲宮神社由緒は、天日鷲命を神武東征の総合道案内としているのでは。

天日鷲命が珍彦だとすると、総合案内人なんですか。

明石から熊野までさらに、大和に入ってからも弟猾と変装して敵陣の真っ只中の天の香具山まで出向きます。
論考行賞として、珍彦は倭国造になり、弟ガシはウ田主水部になる。ヤタガラスは熊野から宇陀までの案内人としての褒美として、葛城高鴨神を祭り、さらに後に山背まで案内して、山背国の下鴨神を奉った。葛城国造になったのでしょうか。

倭国直の同祖つまり珍彦=椎根津彦の子孫が明石国造になっている。

明石は阿波との関連が深い気がします。珍をなぜウズと読むのでしょうか。渦つまり鳴門のウズ??下衆の勘ぐり。



大和神社の宮司さんに伺ったとき珍彦はなんとなく、水上水軍とかの関連を仄めかされたようです。タカオカミの水神に雨乞いする祭りのことを仰ってました。
玉置神社の宮司さんに伺ったときヤタガラスは、熊野の水軍とか、薬草取りとか、修験道との関連を言っておられたようですが、いずれも口を濁しておられました。



> 『日本各地を開拓した阿波忌部の足跡』の根拠は総崩れに見えます。
>
>
> 根拠らしいものとしては、阿波国美馬郡に式内社の倭大國玉神大國敷神社二座が鎮座、これが倭国造の奉斎する大和神社との関連があるのかも。板野郡にやはり式内社の宇志比古神社が鎮座、珍彦に通じるのかも。
>
>
> 大阪府阪南市鳥取に揖取神社(かじとり)が鎮座しています。

著者の、林博章さんは東京の私大を出て、鳴門教育大大学院で地理の修士を終えておられます。

弱冠40歳過ぎの教師です。阿波の忌部と房総の安房の忌部の間の交流会を実質的に支援されています。



>
>  丹生川上神社上社はダムに沈むと言うことで、山の中腹に遷座しましたが、どうやら出来たダムは周辺が崩れてどもならんと言うことで、ムダになるかも。
>  移転後、神社境内の発掘で、縄文時代以来の祭祀の場であったようで、大和神社摂社の分祀で出来たのではなく、元々祭神の名なんかはなくて、水神だったのでしょうから正式に高オカミ神の名を頂いたという風に理解をしています。

ありがとうございました。吉野川の丹生神社は生業の変化に伴い、水銀の神から水の神に代わってゆきますね。

Nickさん 

、毎度、隼人情報ありがとうございます。忌部や安曇族が房総に来れるなら、隼人も来ておかしくありませんね。
阿波に来た阿波忌部そのものの出自、出身地がこの本では論じていませんものね。
千葉県の土器もいずれ少し調べてみますので期待しないで待っていて下さい。

玄松子さん

コメントをありがたく頂戴しました。

由布津主命は、天日鷲命の孫ですね。大麻比古の子供でしょうか。

天太玉命の孫の天富命、その娘の飯長姫と由布津主命が結ばれて安房忌部の祖、言可(ごんべんに可)多々主命になった。


安房の地、館山市の安房神社境内の洞窟遺跡より22柱が発掘され、忌部塚とされています。生存年代は弥生以前に遡ります。

また、中世期の古文書によると、香取海では〔海夫〕と呼ばれる漁民集団が存在していたとされ、沿岸には”おみかわの津””つのみやの津””さわらの津”など多くの津があったそうです。

そして今日、千葉生まれの仲間に尋ねたら、昔から千葉の安房と四国の阿波とは縁戚関係が多いと聞いている。

以上です。お騒がせしました。

[2408] Re[2406][2405][2404][2403]: 隼人/忌部・安曇/オホ氏・尾張氏の信濃への移動  神奈備 2006/08/24(Thu) 10:33 [Reply]
> ◎茨城県稲敷郡那珂村〔鷲宮神社〕祭神:天日鷲命 の由緒に・・・・天日鷲命は神武天皇東征の折、道案内に立たれた神様で、出発の日が旧11月の初の酉の日であった。その故を以って祭日は酉の日と定めた

道案内であれば、八咫烏だってそう言えます。鷲宮神社由緒は、天日鷲命を神武東征の総合道案内としているのでは。
 但し、東征の出発日は10月5日で、ここが総合案内説は苦しいのですが。


> ◎〔国造本紀〕には、〔磐余尊=神武は日向より発して倭国に赴き向う、云々、海中に浮かぶ者あり、何ものぞやと、すなわち粟忌部首の祖天日鷲命を遣わす〕(姓氏家系大辞典)

『国造本紀』には、「浮A海中@者何物之耶乃遣A粟忌部首祖天日鷲@令使見之還来復命曰是有人耳名椎根津彦即召率来矣」とあり、「海の中にいる者は誰か見てこいと天日鷲に命じたら、その名は椎根津彦でだと復命、すぐに召し抱え案内として。」との意味に読めるのです。最も全く自信がありませんが・・・。

 つづいて、『国造本紀』に、国造を羅列しています。
以椎根津彦命為大倭国造即大和直祖
以剱根・・
・・・・・
以天日鷲命為伊勢国造即伊賀伊勢国造祖
とあり、どう見ても椎根津彦命と天日鷲命とを同一とは読めません。

> 相浜神社
 この由緒は、一緒に来たのであって、同一とは言えません。

『日本各地を開拓した阿波忌部の足跡』の根拠は総崩れに見えます。


根拠らしいものとしては、阿波国美馬郡に式内社の倭大國玉神大國敷神社二座が鎮座、これが倭国造の奉斎する大和神社との関連があるのかも。板野郡にやはり式内社の宇志比古神社が鎮座、珍彦に通じるのかも。


大阪府阪南市鳥取に揖取神社(かじとり)が鎮座しています。

 丹生川上神社上社はダムに沈むと言うことで、山の中腹に遷座しましたが、どうやら出来たダムは周辺が崩れてどもならんと言うことで、ムダになるかも。
 移転後、神社境内の発掘で、縄文時代以来の祭祀の場であったようで、大和神社摂社の分祀で出来たのではなく、元々祭神の名なんかはなくて、水神だったのでしょうから正式に高オカミ神の名を頂いたという風に理解をしています。

所で、阿波に式内社で阿佐多知比古神社が鎮座、皆さんいかがでしょうか。

[2407] Re[2405][2404][2403]: 隼人/忌部・安曇/オホ氏・尾張氏の信濃への移動  nick [Url] 2006/08/24(Thu) 06:44 [Reply]
とみたさん、おはようございます。
精力的にご研鑽中で感服しております。

> 中原康富の家系は、隼人正の地位を世襲してきたようですが、その〔康富記〕によれば、隼人の移住地としてDの凡朝恩之地、江州龍門隼人司領、当国大住庄、井宇治田原郷を含めています。
> 中村明蔵さんによれば、長岡京・平安京の時期に重要視されたのではないかと述べておられます。


中原康富家は室町時代の隼人司と
地元の「隼人郷土史」で見かけました。
一応それの写しをマイサイトにも掲載しています。
(歴史探訪==>>隼人の服従)
隼人抗戦の頃(650-720)の時代よりかなり下がってますから
中村先生は、それを踏まえて、他の出典も加味し時代考証をされて
いるようです。

現在、房総辺りの「埋蔵文化財報告集」を精査中ですが
当地南九州との繋がりを未だ見出せません。

一応「鐘ガ崎土器」の出土はあるようですが。

また、とみたさんにご紹介頂いたサイトの掲示板にも
出土例をお願いしていますが、こちらもレス待ちです。
ま、涼しくなったら再開です。



[2406] Re[2405][2404][2403]: 隼人/忌部・安曇/オホ氏・尾張氏の信濃への移動  玄松子 2006/08/24(Thu) 06:20 [Reply]
> ◎阿波忌部族の房総半島上陸地には祭神を宇豆彦命(珍彦)とする楫取神社(現在名:相浜神社)の由緒には〔天富命にしたがってこの地に渡り漁業を主として指導された〕とある。天富命は天日鷲命と同じく天太玉命を祖とする阿波忌部氏

宇豆彦命 を祀るお宮は、千葉ではこの社のみ。
由布津主命(天日鷲命の孫) との混同の結果じゃないでしょうか。

[2405] Re[2404][2403]: 隼人/忌部・安曇/オホ氏・尾張氏の信濃への移動  とみた 2006/08/24(Thu) 01:24 [Reply]
> > D瀬田川水系の近江竜門・宇田川原郷(滋賀県大津市・京都府宇治田原町)とあるようです。
>
> @〜Cまではそれらしい神社があるのですが、Dについてはどうもよく判りませんでした。

中原康富の家系は、隼人正の地位を世襲してきたようですが、その〔康富記〕によれば、隼人の移住地としてDの凡朝恩之地、江州龍門隼人司領、当国大住庄、井宇治田原郷を含めています。
中村明蔵さんによれば、長岡京・平安京の時期に重要視されたのではないかと述べておられます。
>
> > さらに面白いのは珍彦は忌部の祖=天日鷲命でもある。
>
> いや、これは初耳です。どういう根拠で言ってるんでしょうか?

私も初耳でした。阿波から、黒潮に乗って紀州や伊勢を経て伊豆半島にも寄って安房にやってきた忌部を探求するため、〔日本各地を開拓した阿波忌部の足跡〕という本を購入して読んでおりました。阿波忌部の祖=天日鷲命=珍彦を説明するものとして次を挙げています。

記紀によれば、神武東征軍が、速水の門(豊予海峡説と明石海峡説)で椎根津彦の水先案内を受けます。(椎根津彦は珍彦ともよばれ、後の倭国造になります)。ここまでは当然として、

◎茨城県稲敷郡那珂村〔鷲宮神社〕祭神:天日鷲命 の由緒に・・・・天日鷲命は神武天皇東征の折、道案内に立たれた神様で、出発の日が旧11月の初の酉の日であった。その故を以って祭日は酉の日と定めた

◎〔国造本紀〕には、〔磐余尊=神武は日向より発して倭国に赴き向う、云々、海中に浮かぶ者あり、何ものぞやと、すなわち粟忌部首の祖天日鷲命を遣わす〕(姓氏家系大辞典)

◎阿波忌部族の房総半島上陸地には祭神を宇豆彦命(珍彦)とする楫取神社(現在名:相浜神社)の由緒には〔天富命にしたがってこの地に渡り漁業を主として指導された〕とある。天富命は天日鷲命と同じく天太玉命を祖とする阿波忌部氏

以上です。

安曇が北九州と阿波に根拠があるというのもはじめて知りました。

海神が乗った丸木船というか独木船が安房の本場、館山市の船越舵切神社に所蔵されているようです。

そして、千葉県佐原市(今は香取市)に鎮座する香取神宮のカトリは楫取(カンドリ)と云う名から来ているようです。つまり
海洋民の航海の楫を取ることに由来するとのことです。香取神社の摂社の側高神社は天日鷲命を祭神としています。

紀伊半島南部の東ムロ郡太地町の東南端につきだした岬に、梶取崎があり、紀伊水道を隔てた和歌山市の紀ノ川下流に梶取という地名がある。

阿波の吉野川の川舟は梶取舟と呼ばれるそうです。


何れにせよ、古語拾遺から多くを引用しています。これはご承知のように中臣氏が神祇館として優勢なときに、忌部氏が神祇官としての正当性を天皇に訴えたものでしょうから忌部氏族を贔屓目に主張しているのでしょう。これを割り引いてもなかなか面白い説だと考えています。

珍彦の後裔は倭国造でそれが地の神を祭る大和神社と深いつながりがある。
大和神社はまた摂社がタカオカミで雨師の神様、これが丹生の研究で松田さんが論じておられる、丹生川上神社に分祀されているらしい。川上神社は天武天皇の時に創建とか。

この辺はどうなっているのでしょうね。




[2404] Re[2403]: 隼人/忌部・安曇/オホ氏・尾張氏の信濃への移動  神奈備 2006/08/23(Wed) 18:18 [Reply]
[2404] で[2402] は重複とのことですので両方を消去いたしました。

> D瀬田川水系の近江竜門・宇田川原郷(滋賀県大津市・京都府宇治田原町)とあるようです。

@〜Cまではそれらしい神社があるのですが、Dについてはどうもよく判りませんでした。

> さらに面白いのは珍彦は忌部の祖=天日鷲命でもある。

いや、これは初耳です。どういう根拠で言ってるんでしょうか?

[2403] 隼人/忌部・安曇/オホ氏・尾張氏の信濃への移動  とみた 2006/08/23(Wed) 12:35 [Reply]

◎隼人に関する学術論文を読む。
隼人の近畿地方の移住地については水路系が多いようです。
@紀ノ川・吉野水系の吉野・阿陀郷〔奈良県五条市)A大和川水系の河内萱振(現在の八尾市)B木津川水系の大住(京都府田辺町)C保津川水系の丹波佐伯郷〔京都府亀岡市)D瀬田川水系の近江竜門・宇田川原郷(滋賀県大津市・京都府宇治田原町)とあるようです。
いずれも交通や交易の要衝の地です。
宮都が代わる度に移住されたのでしょう。

◎日本各地を開拓した阿波忌部の足跡の本を読む。

神武東征で熊野から宇陀に移動するとき、・・・久米歌によれば・・・
阿多の鵜飼民やイピカ(井光)これは井戸の下で光るもの=水銀?鉄?を掘っている民、そして、くず(九頭、葛、国栖)などの土蜘蛛の援けを得ていますね・
これって、どういうことでしょうね。ヤタガラスや珍彦(これって、椎根津彦、瀬戸内で東征軍を案内した、その後裔は倭の直。つまり倭の国造になっている)

さらに面白いのは珍彦は忌部の祖=天日鷲命でもある。

珍彦は紀や熊野の水軍とばかり思っていましたのにね。

さらに、安曇族は北九州だけでなく阿波にも根拠を置き、阿波国の海人を統率し海産物を大嘗祭には献上していた。安曇族は千葉の房総にも忌部とともに渡来している。

◎大生氏の論文を読む。

オホ氏は茨城県の潮来あたりに住んでいて古墳も残している。
下総の埴生郡の郡領・国造氏族が大生部直であったこと印旛の県主もオホ氏であった。

北信濃地域に検出される部を見直すと、尾張部が6世紀後半以降に東海地域から北信濃地域に移住した集団であること、7世紀後半から8世紀初頭にかけ守部が移住したものである。〔機関誌:信濃53−11〕



[2401] 丸木舟  神奈備 2006/08/23(Wed) 09:39 [Reply]
 古代の舟は概ね丸木舟の形のものが出土しています。
 実際には葦舟もあったのでしょうが、これは残存確率はほぼゼロ。
 他にも、木や竹を並べた筏もあったのでしょうが、後に再利用されたのでしょうか、出土していません。
 丸木舟は木の固まりだから、土の中で残りやすかったのでしょう。
 また、遣唐使などが乗ったのでしょうが、板などを組み合わせて作った当時では大型の構造船も出ていません。

 『海の古代史』千田稔編著)によりますと、船の出土のトップの県は千葉県、次が大阪府です。千葉県からは縄文後期・晩期の船を中心に出ています。弥生時代のは少ないようです。忌部氏の源流は縄文後期に安房へ上陸したのか、逆に安房から南下していったのかも知れませんね。

 他に縄文時代の船は、滋賀県、日本海側、九州に多く出ているようです。

 大阪府からは弥生・古墳時代の船が多く出土しており、縄文時代のは見あたりません。縄文時代には河内湖があり、舟は使われていたのでしょうが、徐々に土砂が流れ込んで来て、深い所に埋まっているのかも知れません。市内にも近くに磐舟や石舟が埋まっていると伝わる神社が2社ほどあります。

 奈良県からはゼロ、やはり国中は湖だったはずで、河内湖と同じような現象かも。ただし、土器の線画としての舟の絵が唐古遺跡からでています。

[2400] Re[2399]: 葛城の本拠と紀氏へのつながり  神奈備 2006/08/21(Mon) 16:12 [Reply]
> 私の推量ですが・・・、この地区には一言主という在地の首長がいた。そこにアジスキの民が来たのでしょう。アジスキこのアジはアシ=葦とも言われますが、私はスキ=鍬で鉄の鍛治に深いつながりがあり、開拓民だと考えています。アジスキ神社の元々は一言主を祀っていたのでそこを渡来人が乗っ取ったのでしょう。

 鴨大神であるアジスキタカヒコネの神のアジスキですが、鴨にアジカモと言う種類があり鴨の中の鴨とされています。
 
 葛城の地の南側は鴨族の土地であり、そこへ葛城族が渡来人共々入り込んだように見えます。アジスキ神の名は『出雲国風土記』にも登場、大国主の子と位置づけられており、一応先住民の神ではなかったかと思っています。

 一言主神の登場の仕方、追放のされ方、まさに葛城族が力を失っていく姿を彷彿とさせます。葛城族が後に蘇我氏の母体となったのかどうかですが、藤原・中臣の関係が葛城(蘇我)・鴨にあったのかも知れません。



 紀氏は永く伊太祁曽神社を祭祀していました。日前国懸神宮に社地を譲ったとして鎮座した場所は現在は亥の森と呼ばれており、いまでも、伊太祁曽三神を祀る三生神社(みぶ)が鎮座しています。ミブと言えば壬生、丹生の変化ともされます。
 伊太祁曽神社が遷座して行った先は丹生神が祭られていて、その上に覆い被さって伊太祁曽三神が祀られた可能性は考えられます。
 紀氏とすれば、樹木もほしい、朱砂もほしい、王権の覚えもめでたくありたい、色んな事を考えてのてんやわんやの神祇政策だったのでしょう。


[2399] 葛城の本拠と紀氏へのつながり  とみた 2006/08/21(Mon) 13:28 [Reply]
橿原考古学研究所の東京講演があり聴いてきました。

神奈備さん掲示板での論戦と、考古学的な真実を組み合わせてどこまで古代の真相に迫れるか。

講演は葛城の南郷遺跡から葛城氏の実像を追っていました。

私なりに興味を持ったことを紹介させていただきます。

葛城山と金剛山との境目に河内・和泉と大和を結ぶ水越峠がある。

水越峠には名柄という土地がありそれを東へ行くと、室宮山古墳がある。これは大きな前方後円墳だから武内宿禰の墓とも言われていますが、実在性の濃い葛城襲津彦の墓と言うのが通説でしょうか。

名柄や室宮山古墳の南には南郷遺跡群が発掘されてここが講演のテーマ地です。南から極楽寺ヒビキ遺跡、南郷大東遺跡、南郷安田遺跡が発掘されています。

極楽寺ヒビキ遺跡は金剛山の東麓で尾根が張り出したところにあり、ここに祭祀用の高殿があった。この建物跡には板柱の穴が並んでいて、室宮山古墳に副葬されていた家形埴輪の板状柱という珍しいつくりを想定し復元された。板には直弧文がついている。

南郷は裾野で、朝鮮からの渡来人の工人が生産活動をする場所。一般の工人と管理者いわば親方衆と全体の首長層と三つに別けれて住んでいたらしい。

居館の大きさと住環境が違うとのこと。

工人は小さな家に住み、墓は土器棺、親方衆は少し大きな目の家で石垣もある、南郷の東の巨勢地区に10mぐらいの円墳ガその墓地。

首長層は、南郷の北部の多田檜木本及び名柄地区の緩斜面で交通にも便利なところに大きな屋敷を持っていた。100m級の古墳を残す。

ヒビキ遺跡の高殿で、裾野全体を国見していたようです。

祭祀や政治はヒビキ遺跡や安田遺跡の地点で行われた。

工人の生産活動では鉄の加工も行われフイゴの羽口や鉄くずが出てくる。南郷大東遺跡では水の祭祀が行われていた。覆屋や導水の管が発見されている。

まさしく南郷地区は葛城氏の本拠地なんですね。

この地域には一言主神社や、鴨アジスキ神社も近いので5世紀前後の舞台なんでしょう。

私の推量ですが・・・、この地区には一言主という在地の首長がいた。そこにアジスキの民が来たのでしょう。アジスキこのアジはアシ=葦とも言われますが、私はスキ=鍬で鉄の鍛治に深いつながりがあり、開拓民だと考えています。アジスキ神社の元々は一言主を祀っていたのでそこを渡来人が乗っ取ったのでしょう。

飛鳥に詳しい和田あつむ先生によれば、南郷は5世紀後半に、今来漢人が入植した地です。

室宮山古墳の石室は二つのうち一つは解明されて紀州の石を使っており、室内のベニガラ入りの壷に付着した泥は緑色の和歌山の土であることが判明しています。

葛城と木(紀)の国のつながりを考えると紀の国の謎解きが必要なんでしょうね。丹生氏や紀伊の忌部の祖=彦狭知命とスサノオ、伊太祁曾神社と日前神社などのつながりが少し面白くなってきました。

MADOKAさんから紹介いただいた”日本各地を開拓した阿波忌部の足跡”を入手して読みはじめました。徳島県阿波と千葉県安房の間で忌部交流会があるようです。丹生の研究という松田壽男先生の大著もかなり読み終わりました。

その中で143ページに面白いことが書かれていました。

太古、この丹生谷を中心にして山東地区に植民した丹生氏の一派は
、他の丹生の例にもれず、朱砂の採掘に発展の途を見出したのであろう。しかし朱砂の産が後に次第に衰えて行く一方、南方の海側から木の神として、蕃神イタキソとその妹神といわれるオオヤツヒメおよびツマツヒメを奉じて進出してきた一氏族との対立に敗れその結果、丹生氏が祀っていたニウヅヒメはイタキソ神に従属する立場をとらざるを得なかった。後代の覚ソウ?上人は根来寺の荘園の山東荘で丹生神社をイタキソ神社の奥の院にした。

このあたりが少し気になりました。イタキソは国津神。天道根が紀氏の国造で関係がありそうですね。

天孫族に懐柔されて在地イタキソ神社の領地を天孫族支配の国懸日前神社に奪われる。

それにもかかわらず、丹生明神を奉斎する丹生祝氏は紀伊国国造と縁戚関係。イタキソは確かスサノオの息子ですね。

木を全国にばら撒いて木の国に戻ったことになっていますね。

木の国忌部の彦狭知命は、木材を扱い造殿、神殿つくりを担当しています。

なんだか分かったような、わからないような話でした。


[2398] >心の御柱  くず 2006/08/20(Sun) 20:13 [Reply]
>心の御柱。
柱、石柱は男性の象徴と見て良いと思います。中央に一本ならば男性神、4本で周囲を囲むのであれば中央は別のものである可能性もある。
また、蛇、オロチであっても、八岐(八俣)であれば女性神を、九頭であったら男性の神格を連想します。

>伊勢の地勢
これはカシミール3Dでシュミレート出来るのですが、伊勢内宮の上空200m〜300m上空に視点を決め、夏至の日の出を望むと正確に富士に重なります。 この精度を偶然とは思えません。
もちろん内宮から富士を直視はできません。(朝熊ヶ岳がじゃまになります)又夏至の頃は梅雨の時期にあたるので、伊勢近辺から富士山を確認する事すら難しいかと思います。
 夏至は太陽エネルギーのもっとも高まる日、富士と重ねるのもエネルギーを高める意味合いのように思います。
 一方、蛇神を脱皮を行う性質から再生の神との位置付けもあると思います。
製鉄の炉を女性の胎盤と見立て、鉄を生み出す行為を再生と重ねたのかも。
その再生の意味合いを富士の山と重ねる。しかしわざわざ山の陰に隠す必要は感じえません。朝熊に奥宮があっても良いと思うのです。そして太陽運行との関連も見えてきません。
 また再生と言う意味では夏至よりもむしろ冬至に関連づけるほうがふさわしいように感じます。
いずれにしても祭祀の内容を秘事とするならばそれ相応の理由があると考えます。

[2397] 伊勢神宮のお札  Y.O 2006/08/19(Sat) 22:09 [Reply]
伊勢神宮が資金難とは、意外です。

神宮のお札、良いですねぇ。。
神宮のお守りは持っています。
いつもセカンドバッグの奥深くに忍ばせております。
しかし4年ぐらい前のものです。
毎年返しに行って、
新しいお守りに替えないといけないそうですが。

[2396] 心の御柱  神奈備 2006/08/19(Sat) 20:55 [Reply]
 神宮の心の御柱に銅板を巻いて長持ち(20年)をねらったそうですが、それでもなかなか思った通りにはならなかったそうです。
 また、心の御柱も20年に一度場所を替えるのですが、20年も経つとどこだか判らなくなることがあったようです。今はコンクリートで穴の場所が判るようになっているとか。
 白木の建物は20年保つかどうか、北東隅の太い柱がやられて来やすいそうで、何らかの補修を行っているようです。
 近年は靖国神社ともども資金的に苦しいそうです。お札を買って助けましょう。

[2395] 能古島  神奈備 2006/08/18(Fri) 10:03 [Reply]
福岡にお住まいの方からメールを頂きました。一部を紹介します。
福岡岡には壱岐島の東に小呂の島(オロノシマ)があって、博多湾内の能古島と合わせるとオノコロシマになるそうで、これに注目していた人もおられるようです。
ところが、能古島出身の人に聞いた話では昔「残り島村」と呼んでいたそうでそれがなまって能古島となったそうです。

地図を見ますと、能古島は博多湾の中央部に存在感を持っているように見えます。これが「残りもの」とはどういう意味だったのでしょうか。子供ができなかった夫婦が移住したとたんに子ができたとか、「福が授かった」島で、残り物とか。


[2394] 母神と父神  くず 2006/08/17(Thu) 09:40 [Reply]
出自を郷愁し、母性を慕う。リーダーは男性かもしれませんが、神と敬うのは母性を持った女性神。(蛇です。)
これが日本海側に勢力を張った"倭"の深層的な精神性かと思います。
夕日が好きだったのではないかな?
対して、故郷?に背を向け、日に向かった民、彼らが東進し、太平洋側に勢力を張った。
その精神性は逆に思います。男性的な神を祀り、そこに通じたのは女性。
日を背負う物(日本海側勢力)からみれば、日に向かう彼らの東進は日を隠す(曇らす)ものであったのではないでしょうか。
2つの勢力を意図的に結び付けたのがククリの神で、これが列島が国として成る原初的なものではないか。
そこへ、大陸(中国)の政治的な影響が複雑に絡まってくる。

[2393] Re[2389]: 残暑お見舞い申し上げます  nick [Url] 2006/08/17(Thu) 05:03 [Reply]
> nickさん
> 隈の字は佳字ではなく、熊などに変えて遣われたとか。更に反対語であった前(サキ)をして隈としてしまったようです。檜隈を檜前、紀伊の日前も多分そうだったのでしょう。

管理人さん。ご多忙のところご回答ありがとうございます。
私の知るところでは。現在「地名だけ」
その地名も宇佐地方と同名が多々散見されます。
これからの調査対象ですが、いつになるか。笑。

木枯らしが吹く頃が当地の歴史探訪の最盛。
(夏は藪蚊や湿地はマムシで余りお勧めでは)
今は保存データーの整理に追われています。

[2392] 無題  くず 2006/08/16(Wed) 12:01 [Reply]
ありがとうございます。円任は長安まで行っていますね。摩多羅神はキリスト以前にローマで崇拝されていた多神教、ミタラ教に関係するのかもしれません。
イラン、インドあたりに起源を持つ神の名。弥勒の信仰とも重なります。
小菅は真西に妙高を望みますので、弥勒信仰がその構造的原初であったかとも思います。
新羅との繋がりは感じますね。

安閑帝(蔵王権現)については、やはり政権争い、大伴、物部による古式復活の流れが、
扶余系百済の影響(蘇我氏)で断ち切られた。
と、言ったら大幅な歴史認識の誤認でしょうか?

[2391] Re[2390]: 権現について。  神奈備 2006/08/16(Wed) 10:03 [Reply]
> 小菅神社は白鳳八年(680)役小角の創建、小菅権現(摩多羅神)を祀り

伝承の世界のことですが、摩多羅神は慈覚大師円仁が唐から持帰ったといいます。
円仁は9世紀の人。役小角は7世紀の人、小菅神社の祭神については後から持ち込まれたものかも。
『平成祭りデータ』小菅神社の由緒では、舒明天皇の代(629〜641)に役小角が馬頭観世音(素盞雄尊)を祀るとあります。

小菅神社の別宮と奥宮とのは、素盞雄尊や廣國押武金日尊が祭神とあります。後者は蔵王権現だったのを改めたのかも知れません。

[2390] 権現について。  くず 2006/08/15(Tue) 21:30 [Reply]
九つの点は飯山の小菅神社奥社の裏手にある、滝の近くの岩にも刻まれていました。
小菅神社は白鳳八年(680)役小角の創建、小菅権現(摩多羅神)を祀り、熊野、金峰、白山、立山、山王、走湯、戸隠の七人を観請して、八所の宮殿を石窟内に祀る。とあります。長野県飯山市、すこし前に紹介した根塚遺跡のすぐ近くです。
摩多羅神は北斗七星に関係する神でミザールの伴星アルコルに由来すると言う話もあります。熊野から七所の権現を北斗七星と見たてているのかもしれません。
熊野(那智)から吉野(金峰)そして日吉(山王)はほぼ南北の直線上に並びます。
三輪山もこの線上。
そしてもう一つの線。
白山、立山、戸隠、小菅、これもほぼ直線と言っていいかと思います。
交点は若狭湾。 これに伊豆の走湯。
小菅神社の参道はほぼ正確に西から東。西の先には妙高山があり、里宮である関山神社は
國常立尊を本地とし、伊弉冉尊と素盞嗚尊を併せ祀ります。(素盞嗚尊は新羅明神とされています)
役小角を名乗られた方(達)がえん(猿)とも関係があったとしたら。
戸隠の外れに猿丸と言う地区があり、古くはやえん(やえんまる)と呼ばれていたとか。
伝承を綴る古事記では、夜麻登登母母曾毘賣命。
トとヒを隠している。かんぐりでしょうか。(笑)      

[2389] 残暑お見舞い申し上げます  神奈備 2006/08/15(Tue) 10:58 [Reply]
琉球松さん
> いわゆる「権現信仰」の原型は、「倭迹迹日百襲姫」が活躍した時代の継承、あるいは伝承だったのではないかと考えています。
> つまり、堂々と奉れなくなったために、表向きには阿弥陀仏や観音様などの仏教的なものに置き換えてきたのではないか

頭の中も猛暑でぐずぐず、九頭九頭なら九人前の頭脳。
で、百襲姫を堂々と奉れなくなったと言う事でしょうか。それならば比売神とか照姫とかでもいいのでしょうが、仏教伝来以降に百襲姫を奉れなくなった事態が生じた、と言うことでしょうか。


QUBOさん
> 神の祭りが、浄暗=真っ暗闇で行なわれるのは、その神がヒを凌ぐクマの神だから

石上神宮の霊振の儀式を思い起こします。暗闇からかすかにチリチリと鈴の音が聞こえてきます。十種瑞宝に見立てた木の枝がサラサラと音をたてる。神事の真骨頂を感じる瞬間でした。


くずさん
> ● ● ●
> ● ● ●
> ● ● ●
税金の取り方にこのような絵がありました。八軒の農家が中央の政府の田を八日に一日づつ勤労奉仕。


nickさん
隈の字は佳字ではなく、熊などに変えて遣われたとか。更に反対語であった前(サキ)をして隈としてしまったようです。檜隈を檜前、紀伊の日前も多分そうだったのでしょう。

[2388] 八と九  くず 2006/08/14(Mon) 09:19 [Reply]
こちらでは、はじめまして。
八方塞がり、とか、四方八方。八方位。
さてそのとき真中は。
真中に点をうつと九になりますよね。こんな感じ
● ● ●
● ● ●
● ● ●
漢、エジプト、世界認識(その時の)ができ、
その中で中心がくっきりとした時のイメージなのではないでしょうか。
九の頭の真中は国の頭。
古代の人のイメージ。

[2387] Re[2285][2284][2283][2281]: PONTAさん、ご無沙汰です。  意宇米子 2006/08/13(Sun) 13:21 [Reply]
八久米とは出雲の神聖な地。
「やくま」とも「やくも」ともいう。
隅、球磨は久米(くめ)の古語。八「はち」は
出雲の神聖な数字。日本文明の端緒の象徴。

[2386] Re[2384][2378]: くま  nick [Url] 2006/08/13(Sun) 02:10 [Reply]
以前もポストしたように記憶していますが
当地には「熊襲の七隈」と呼ばれる地名があります。

歴史探訪==>>地名今昔

に記載ですが一応ここにも。

■隈

山や川が弓形に湾曲した奥まった処  を指す。

当地の七隈の場合は、地の利が好く且つ展望が利く。

豊後・豊前にも同類の地名が散見されることから
隼人抗戦前後大分方面からの移住者が命名したと推定する。

■大隈

半島は弓形に湾曲している

■高隈

垂水・鹿屋境界の山並は、地形が弓形に湾曲している処から
また「日出ずる処」の高き山の喩えとも伝う。



■佐賀の七隈

<a href="http://www2.saganet.ne.jp/niesu/zyofuku/xufu/xufu4.htm" target="main"><h3>佐賀の七隈</h3></a>

地名からの精査は、頭部診察の結果待ちで再開予定。

[2385] Re[2379][2378]: くま  琉球松 2006/08/13(Sun) 00:34 [Reply]
 神奈備さんへ

 「クマ」から離れてしまいますが、いわゆる「権現信仰」の原型は、「倭迹迹日百襲姫」が活躍した時代の継承、あるいは伝承だったのではないかと考えています。
 つまり、堂々と奉れなくなったために、表向きには阿弥陀仏や観音様などの仏教的なものに置き換えてきたのではないかと(九州のキリシタン達が観音様を拝んでいたのと似ている)。
 あるいは、地域によっては、彼女の父「考霊」にしたり、兄弟にしたり、とにかく歪んだ状態が長く続いたと思いますね。
 彼女が、卑弥呼であり、アマテラスであるとすれば、奄美沖縄で「アマミコ・アマミキヨ・アマミク・アーマンチュー etc 」と呼ばれる女神もまた彼女を指している。。。なんて考えてます。

[2384] Re[2378]: くま  神奈備 2006/08/12(Sat) 21:56 [Reply]
> 『沖縄古語辞典』の「くま」の項目から抜粋しますと
> 「古代の血縁集落。対語「まきょ」・・・「くだ」(くら、こだ・ふた)・・・」

まきょ  巻向

[2383] Re[2379][2378]: くま  QUBO 2006/08/12(Sat) 09:16 [Reply]
> > 「クマ」は「隠る・籠る」の意味。。。というのはどうでしょうかね?
> 隅に隠る、そういう感じのイメージなのでしょうね。

「クマ」は積極的な意味もあるのでは?と思います
つまり「隠す・籠らせる」といった。隅に隠すですか

と言うのは、昔話「ねずみの嫁入り」では
太陽よりも偉いものとして「雲」が出てきます。
これを正しいとすれば、「クモ」の神はアマテラスを凌ぎます
日(ヒ)をさえぎるクモ(=クマ?)

アマテラスとは、天照国照天彦火明櫛玉饒速日尊
(あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)
天孫であり、正にヒの神だが、後から来た天孫にその地位を奪われる。 
神の祭りが、浄暗=真っ暗闇で行なわれるのは、その神が
ヒを凌ぐクマの神だから

「ねずみの嫁入り」について
 http://www.aozora.gr.jp/cards/000329/files/18335_11944.html

[2382] Re[2381][2380][2379][2378]: くま  神奈備 2006/08/11(Fri) 15:31 [Reply]
> クマ=高句麗、高麗のコマ。クマソのクマ、熊本のクマ。ついでに百済のクダも、そしてカミ(上、神)も、ここら全てが共通の語源だと思いますが、いかがでしょうか?

らいらいけんさん、初めまして。
神奈備は語源につきましては興味はあるのですが、知識がないので、高麗(コマ)には困ってしまいますし、百済の(クダ)を見ると、くだらないのではと思ってしまいます。

[2381] Re[2380][2379][2378]: くま  らいらいけん 2006/08/11(Fri) 11:20 [Reply]
いきなりすいません/(^_^;)[2380] は削除しください。

みなさんはじめまして。突飛な解釈が得意ならいらいけんと申します。この掲示板はずっとROMってたんですが、ついに観念して出てきました/(^_^;) よろしくお願いします。

クマ=隠るというより、むしろ神る?とでも言ったほうが相応しいのでは。たしかに神というものは人間の目に見えない、お隠れになっている人が多いですが。

クマ=高句麗、高麗のコマ。クマソのクマ、熊本のクマ。ついでに百済のクダも、そしてカミ(上、神)も、ここら全てが共通の語源だと思いますが、いかがでしょうか?

[2379] Re[2378]: くま  神奈備 2006/08/11(Fri) 08:59 [Reply]
> 「クマ」は「隠る・籠る」の意味。。。というのはどうでしょうかね?

隅に隠る、そういう感じのイメージなのでしょうね。

> 香川県「水主神社」の祭神は熊野神とのこと
> 熊野神は「阿弥陀仏&倭迹迹日百襲姫」と同体である

このあたりのことはよく理解できません。すこし解説をお願いします。

水主神社の前に百襲姫の陵と言われるものがあるそうですね。石棺が見えたのですが、埋め直したとか。
祭神に火明命説もあるようです。山城の水主神社からの連想でしょうね。


[2378] くま  大三元 2006/08/11(Fri) 08:15 [Reply]
『沖縄古語辞典』の「くま」の項目から抜粋しますと
「古代の血縁集落。対語「まきょ」・・・「くだ」(くら、こだ・ふた)・・・」



[2377] Re[2376][2366]: 隈  琉球松 2006/08/10(Thu) 20:46 [Reply]
 神奈備さんへ

 「クマ」は「隠る・籠る」の意味。。。というのはどうでしょうかね?
 出雲の「熊野大社」と和歌山の「熊野」は、どちらもイザナミが "コモった" 場所ですよね。
 また、香川県「水主神社」の祭神は熊野神とのことですから、水との関わりもあると思います。
 ちなみに、熊野神は「阿弥陀仏&倭迹迹日百襲姫」と同体であるとされていますが、沖縄からみると、けっこううなずけますね。

[2376] Re[2366]: 隈  神奈備 2006/08/09(Wed) 16:57 [Reply]
水辺の奥まった所を隈と言った。そこの主をクマシシと呼んだようで、隈獅子を熊と表記したのかも知れません。熊は鮭を採りに来ていたのですね。
朝鮮語でクマは神、熊はコム。
熊野大社や熊野本宮の神はつきつめれば水神。

インドの最南端コモリン岬で発生した観音信仰、これも水神で、コモはクマと深い所でつながっているのかも知れません。

[2375] 夏休みの自由研究  神奈備 2006/08/08(Tue) 18:53 [Reply]
 PONTAさん、こんばんは。沢山書き込み頂いたのですが、応答、遅れました。

 さて
> 「神在月」は出雲大社と銅鐸の話です。
この文章の意味するものは何でしょうか? お読みの本の「神在月」なる章か節の内容のことでしょうか。
神在月と銅鐸や銅剣の出土具合を考えますと、大国主の葬儀に参集した出雲の神々が持ち寄った銅の祭器を隠したのかも知れません。

 『崇神紀』に、「出雲振根が殺されてから暫く出雲大神を祭らないでいた。」とあります。このことが河内の美具久留御魂神社の創建につながっているようです。


> 定規を北へ平行移動していくと、北端(北隅)は丹後ともとれますが、出雲。

 大和の北を出雲とするのは無理筋でしょう。せめて丹波の出雲大神宮。
 アイヌにとっては熊は憑き神でもあり、祖先神でもあった。多分縄文人にとっても熊は神、熊の正しい表記とは熊であって、これは能と心で出来ており、到底、隈とは思えませんが。

> 「熊」の正しい表記(?)は「隈」であり、「隈」は「隅っこ」の意味です。
熊とは隅っこのことでしょうか。この意味がよく分かりません。

[2374] お口直し  神奈備 2006/08/08(Tue) 15:35 [Reply]
 神がいると認識されて、その神をめぐる儀礼が始まる。

 マレーシアのある町では、神が宿っていると言われる大樹の下を通る時、沈黙して通り過ぎるとのことで、人間の騒がしさを慎むものだとか。
 確かに、鬱蒼とした森に鎮座している神社に参る時、自然におとなしくなり、無駄口を叩かなくなるのは自然なことです。神というより精霊spiritと呼ぶのが相応しい存在。
 
 夜三輪と言うのでしょうか、要は日が暮れてからの大神神社に何人かで参詣した際、どなたかが拍子木を持っており、時々ならすことがありました。火の用心ならともかく、神への呼びかけとすれば実に失敬な行為ではないかと、いささか距離を置きたくなる心境でした。
 
 日本では神は潜んでいるモノで、水に潜む・宿る神、石に潜む神、鳥の神、蛇の神、何となく静かな雰囲気ですが、年に何度かの日だけは賑やかにさわいで神にも喜んでもらい、参加してもらい、食べてもらい、帰ってもらう、これがお祭りです。

 ある神が見える方が言うには、本当の神と偽の神とがいる、託宣を聞くためには、本当の神に出ていただくまで待つ、神に質問を発してその答えで神の真偽を判断する、そのような事を聞いたことがあります。神託を直接聞けない凡人の我らは籤を引くことで占うのですが、常に本当の神の意志が出ているのかどうか判りません。良い籤が出るまで引き続ければいいので、それが本当の神の意志と思えばいいと言えますね。

[2369] Re[2368]: クマ、クメ、クエ  神奈備 2006/08/06(Sun) 10:21 [Reply]
米子鉄斎さん、こんにちは。
安来駅の南側は日立金属の工場が建っています。
久米神社は伊邪那美命の神陵地とされている比婆山に鎮座している熊野神社もしくは比婆山神社のことですね。

『風土記』安来の郷では、娘を和邇に食われた猪麻呂が出雲国に鎮座する三百九十九の神社に願って荒魂に呼びかけ、和邇を殺すお話が載っています。天武朝の頃の話であり、その頃には出雲には三百九十九の神社があったと言えます。大量に出土した銅剣の数がこれに近いと言いますね。

大和では飛鳥に都があった最後の頃で次が藤原京の時代です。また聞きのお話ですが、池田銀行主催の「東アジアの古代云々」の講演会で、「藤原京が出来たとき、そこには神社はなかった」との発言があったそうです。現在では畝尾都多本神社や鷺栖神社が式内社として鎮座していますが、それ以降の建立になる神社と言うことになります。

ついでにその講師の方は、「平城京が出来た際、そこに鎮座していた神社は率川神社のみであった。」と言われたそうです。そう言えば春日大社もその後の勧請のようですね。

藤原京は大和三山に囲まれた平地で、湿地帯からやっと抜け出した頃で、農地が広がっていた場所だったこも知れません。神社が出来る雰囲気にはなっていなかったのかも。平城京はならだかな平原で、さほど特長のない地域だったのかも。

[2368] クマ、クメ、クエ  米子鉄斎 2006/08/05(Sat) 21:04 [Reply]
 クマといえば、旧出雲国意宇郡に由緒深いところがございます。
たとえば伊邪那美神の神陵があるといわれてい島根県安来市には
、久米神社、出雲熊野大社がございます。
 この安来というところは、出雲風土記によりますと、スサノオ
の滞在していた地で今も古代製鉄の文化が残るところです。


[2367] Re[2366]: 隈  nick [Url] 2006/08/04(Fri) 22:51 [Reply]
この「隈」ですが、当地の古語では「ズン」と読みます。
だから「大隈」これは「ウズン」

あちらの言語がさっぱり判らないのでそれ以上の繋がりは。。
「徐福」と関連があるのか??

[2366]  PONTA 2006/08/04(Fri) 15:53 [Reply]
 「熊」という字に着目してみました。
 「熊」の正しい表記(?)は「隈」であり、「隈」は「隅っこ」の意味です。
 
 正方位図法で描かれた日本地図を用意し、定規を大和(奈良)から西へ平行移動していくと、西端(西隅)は、熊本です。(「熊本」の語源は不明。「熊襲の本拠地」の意味でしょうか。)今度は定規を南へ平行移動させると、南端(南隅)は世界遺産の熊野です。定規を北へ平行移動していくと、北端(北隅)は丹後ともとれますが、出雲。出雲には元出雲一宮の熊野神社があります。

 問題は東隅です。はっきりしません。
 東山道(後の中山道)の諏訪大社あたりかと思います。(古代では東海道より東山道の方が発達していました。)東海道の三河国(愛知県東部)の熊野三山(本宮山・新宮山・夏山)、あるいは遠江国(静岡県西部)の熊野三山(三熊野神社・高松神社・小笠神社)かな。

 西端の熊本の西、北端の熊野(出雲)の北、南端の熊野(紀)の南は海ですが、東端の諏訪の場合、東には大地が続いていたわけで「隅」ではなかったのでしょう。
 この4つが大和朝廷の東西南北端かなと。首都を置くなら中央がいいから、西の北九州よりも奈良の方がいい。でも、関東や東北も支配できたら、中央はもっと東になるわけで、諏訪がいい。それが天武天皇が諏訪遷都を考えた理由かな。

[2365] 銅鐸はどこに消えた?  PONTA 2006/08/04(Fri) 15:49 [Reply]
銅鐸の謎の1つは、なぜ銅鐸圏の中心が大阪であって、奈良盆地から後期の銅鐸が出土しないかです。
奈良盆地で後期の銅鐸が出土しないのは、天照大神を祀るようになり、その象徴としての鏡に作り変えられたのでしょう。その鏡も古墳から出土する程度ということは、溶かされて仏像にされたのでしょう。(特に奈良の大仏を作るには大量の銅が必要だったでしょうね。)また、お金(コイン)を作るにも銅は必要です。貴重な資源は、当時、最も必要だった物に形を変えられて再利用されたのでしょう。時代は下り、仏像の中には、第二次世界大戦の金属供出で溶かされて武器に姿を変えたものもあります。

[2364] 銅鐸の起源  PONTA 2006/08/04(Fri) 15:48 [Reply]
古代の神社には拝殿も本殿もなく、ご神体の前に鳥居があっただけ。その鳥居には銅鐸が吊るされていた。鳥居は銅鐸を吊るすための構造物で、その語源は「通り入る」。

その後、拝殿や本殿が建てられるようになると、銅鐸は鈴に変わり、仏教の浸透に伴って鈴は鰐口に代わる。

本殿に置かれていた狛犬が、拝殿に置かれるようになり、さらには拝殿前、一の鳥居前と置かれる位置が本殿から遠ざかっていくのと逆ですね。

[2363] 書評?『宗像教授異考録 第3集』(2)  PONTA 2006/08/04(Fri) 15:47 [Reply]
 10月は全国の神々が出雲の集まるので、出雲では「神在月」で、その他の地域は「神無月」になります。(梅雨の頃を「水無月」というわけですが、「無(な)」は「之(の)」の意味で、「水無月」は、「梅雨で水が豊富にある月」という意味のようです。「神無月」=「神之月」=「神在月」!)

 なぜ10月に出雲に神々が集まるかというと、作者は、海から神(海蛇)が来るから(p.172)と考えておられるようですが、イザナミの年回忌に参加するために神々が集まってくるという説もあります。ちなみに、私の考えは「大国主の年回忌に神々が集まってくる」です。

 「神在月」は出雲大社と銅鐸の話です。
 三河の高師原(語源は「草丈の高い葦の原」?)では、「高師小僧」が産出します。これは、葦の根に鉄分が付着した後に根が腐って抜けて出来た褐鉄鉱の管です。これが銅鐸の起源だという説があります。その話を聞いたときに、歴史は青銅器時代から鉄器時代へと進んだのであって、鉄器から青銅器というパターンはないと思っていましたが、本書のp.92に銅鐸よりも鉄鐸の方が古いとする説もあるとあって、ちょっと納得出来ました。p.136には鉄鐸を身に付けたシャーマンの絵があり、高師小僧もこんな風に身に付けたのかなと思いました。

[2362] 書評 星野之宣『宗像教授異考録 第3集』(小学館)  PONTA 2006/08/04(Fri) 15:45 [Reply]
 p.106にたたら職人が鬼であるという話が出てきます。火を扱うために暑くて衣服を脱ぎ、体が火で赤く染まっている・・・この姿が鬼だというのですが、鬼には青鬼もいます。p.109に21日間宇治川に浸かって鬼となった橋姫の話が出てきます。これが青鬼でしょうか。
 「『かみ』は『火水』であり、火の男神と水の女神の夫婦が本来の形」というのは国語学的には誤りだそうですが、個人的には興味があり、さらに発展させて、鬼にも神同様、火の赤鬼と水の青鬼がセットでいると私は考えています。この話では「風鬼・火鬼・水鬼・金鬼」がセットで登場するので、「あれ?」って感じでした。

[2361] Re[2358][2357]: 阿波忌部 紀の国の忌部氏  神奈備 2006/08/04(Fri) 10:14 [Reply]
 紀の国の忌部氏の祖は彦狭知命と言います。『古語拾遺』神武こ項に、「手置帆負、彦狭知の二柱の神に命じて、山の木を採り、正殿を構り立てしむ。その裔は紀伊国名草郡御木、麁香の二郷にあり。」と出ています。手置帆負さんは讃岐の忌部の祖です。
 名草郡に忌部郷は記載されていますが、御木、麁香と言う地名は見あたりません。忌部郷は井辺と言う場所で、日前国懸神宮の1kmほど南の場所です。近くに式内大社の鳴神社があり、忌部氏の祖を祭っているようです。
 この忌部氏は蘇我氏の先兵として紀氏牽制の為、日前国懸神宮と紀氏の古墳群との間に勧請された神社でと考えています。

 古い時代の紀の国の忌部の居住地。
 御木、麁香の候補地。御木は今三毛となっており、下三毛には上小倉神社が鎮座、手置帆負命、配神に彦狹知命等を祭っています。
 麁香は桃の産地の荒川で、近くに美しい社殿を誇る三船神社が鎮座、木霊屋船神、太玉命、彦狭知命を祭神としています。


> 黒潮に乗って阿波→伊勢→伊豆→安房の海人の拠点を忌部が取り込んでいったようです。

 海を行った忌部氏の他に、阿波から大和、紀伊、讃岐(順不同)を渡っていった忌部氏もいたようですね。


[2360] まじない・鬼・妖怪  nick 2006/08/03(Thu) 21:26 [Reply]
阿波踊りで徳島へ行かれる方は
博物館でやっているようです。

●会 期   2006年7月11日(火)〜9月18日(月/祝日)
●休館日   月曜日(祝日のときは翌日)(※)8月14日は臨時開館

http://www.museum.tokushima-ec.ed.jp/default.htm

[2359] Re[2355][2354]: 紀の川、吉野川を歩く  大三元 2006/08/03(Thu) 09:16 [Reply]
MADOKAさん
こないだは、ども。

既に神奈備さんからレスがついていますが、私はこの本は存じません。
「吏読」というのは勉強しておかねばならないことだとは思ってますが、まだです。
万葉仮名のセンスで好いのだろうとは思いますが、朝鮮語の古語、というのが殆ど判っていないらしいので、読めても意味が分からない、みたいなことにもなりそうで・・・


[2358] Re[2357]: 阿波忌部  とみた 2006/08/03(Thu) 00:57 [Reply]
MADOKAさん はじめまして

> 亀田の試合には泣いたわ!!

浪速のジョー 。スプリット デシジョン 負けたと思いましたが、ホームタウン デシジョン?

世界を相手に、よく戦いましたね。世界の厳しさを知って磨きをかけるでしょう。


兄弟仁義、親子物語・・・・

なにせ、私はファイティング 原田と ジョフレの時代のファンですが、今日は久しぶりに痺れました。
> 突然こんなの頂きました
>  「日本各地を開拓した阿波忌部の足跡
>    安房国編
> 〜 古の『古語拾遺』の記憶〜」
> 林博章 編著 吉野川市鴨島公民館 発行
> TEL0833−24−5111 
> FAX0833−24−5113
>
> 公民館の発行とは思えない 丁寧な取材と資料。図解。写真多数。 阿波忌部のまとまったこんな本は初めてでは!? そういえば このあいだから千葉の忌部のことが掲示版にでてましたね。。。
> 参考までに。。。値段が書いてないんで非売品か?

私は、下総にただいま住んでおりますので、忌部が気になっております。

安房神社は天富命を祭り、香取神宮の隣の側高神社も天日鷲命を祀る。いずれも忌部

の祖である天太玉命の子孫です。黒潮に乗って阿波→伊勢→伊豆→安房の海人の拠点を忌部が取り込んでいったようです。

本のご紹介ありがとうございます。貴重な本かもしれません。
TEL/FAXで、早速、コピーの送付の可否を問い合わせしてみます。

>
>

[2357] 阿波忌部            MADOKA 2006/08/02(Wed) 23:40 [Reply]
亀田の試合には泣いたわ!!

>次回のウガでお貸しいたします。

よろしくおねがいしまーす。だいたいわかりましたが、ちょっと引っ掛かるところがあるんで。。。

突然こんなの頂きました
 「日本各地を開拓した阿波忌部の足跡
   安房国編
〜 古の『古語拾遺』の記憶〜」
林博章 編著 吉野川市鴨島公民館 発行
TEL0833−24−5111 
FAX0833−24−5113

公民館の発行とは思えない 丁寧な取材と資料。図解。写真多数。 阿波忌部のまとまったこんな本は初めてでは!? そういえば このあいだから千葉の忌部のことが掲示版にでてましたね。。。
参考までに。。。値段が書いてないんで非売品か?


[2356] Re[2352][2351]: 天道根とか紀豊耳はどこから  nick [Url] 2006/08/02(Wed) 13:02 [Reply]
管理人さんこんにちわ。
さっき止上神社に参拝してきました。
ついでに田の神も。
実は、過日ご紹介し損なった「大黒型」の田の神があるのですよ。
あの「隼人首塚」の100m程東方だったのに失敗でした。
恐縮しています。写真アップしますのでご覧下さい。

> 関東以北でしょうね。大阪や京都は34度。梅雨明け十日の真っ最中です。

あ、関西は暑いですか。そりゃ大変。ご自愛を。
そうそう、今年の西瓜は水っぽいが一番元気が出ますね。

> 祭神に火照命につながる名前は見えません。香春神社の宮司家は鶴賀さん、赤染さんと言ったようです。近くに現人神社も鎮座していますので、鶴賀さんに「都怒我阿羅斯等」の末裔ですか? と尋ねたのですが、言下に否定されておられました。どうもそのように伝わっていないようです。
>

昔の系図は、やはり話半分ででしょうか。
ちょっと調査し落ち着かないとなかなかあの世へ行けない。

> 桑幡と息長とは何か関係がありそうですね。隼人は海人族、香春神社の祭神の辛國息長大姫大目命の渡航などに貢献しているのかも。月読神も気にかかる所。

そうですね。ぜひ香春詣でをしないといけません。
あの辺りに八幡の社領地もあったようですし。(宇佐託宣・元寇の頃)

また、「月読神」ですが、桜島の松浦地区から毎年当鹿児島神宮へ
奉納舞(棒踊)に見えます。
やはり、何かありそうですが。

時に、昨日、やっと県の埋蔵文化財センターへ埋蔵文化財報告集を
閲覧に伺いました。
国指定:上野原縄文遺跡の一角にあって、平日、室内で発掘された遺物等の
分類作業を直に見学出来ます。
昨日は、長崎・五島辺りを精査しました。
一応、「海の民・隼人」で歴史探訪にアップしてあります。
他の四国や紀伊それに房総は、これからです。


[2355] Re[2354]: 紀の川、吉野川を歩く  神奈備 2006/08/02(Wed) 12:03 [Reply]
> 人物画像鏡を検索していたらこんなページが
> http://www.nenshosha.co.jp/mybooks/ISBN4-88978-925-1.htm
> 注文しようか? 考え中?
> 御存じないですか? 大三元さん!
> アドバイスお願いしマース \(~0~)/

大三元さんではありませんが、アドバイスします。
読んでみてがっかりできた。なぜなら、吏読での解釈が載っていないのです。断片的に漢文ではおかしい表現を指摘はしています。
中臣氏は紀氏から派生した氏族とあります。
根拠は平群坐紀氏神社の祭神に天児屋根命がいること
丹生都比売神社が春日造であること
紀氏は日前国懸神宮の祭祀氏族であったことをあげています。

平群坐紀氏神社の鎮座する平群郡は後に興福寺の寺領になり、名を春日神社と変えていた時期があること。
丹生都比売神社が春日造である理由は不明。
中臣氏も祭祀氏族ですが、氏神であれば、どの氏族でもその神を祭祀するでしょう。

どうしても読みたいのでしたら、次回のウガでお貸しいたします。


[2354] 紀の川、吉野川を歩く            MADOKA 2006/08/02(Wed) 10:27 [Reply]
産経 朝刊
流域紀行 紀の川、吉野川をあるく @ 7/31 より
「紀の川の特色を一言で説明してください」
歴史地理学者 中野栄治 元近大教授 県文化財研究会副会長「外洋性です」
「和歌山は岸辺を黒潮が洗っているし、海外移住のさかんな土地です。交易も多かった。瀬戸内海を通って朝鮮半島とも昔から接触していたんですよ。紀の川流域の寺院などから朝鮮やベトナムの焼き物がたくさん出土している。川はすべて海へ流れているが、他の内陸的な川と違うて、紀の川は海の向うへむいて流れとるのですな」

人物画像鏡を検索していたらこんなページが
http://www.nenshosha.co.jp/mybooks/ISBN4-88978-925-1.htm
注文しようか? 考え中?
御存じないですか? 大三元さん!
アドバイスお願いしマース \(~0~)/

[2353] Re[2350][2349][2348][2335]: 天道根とか紀豊耳はどこから  神奈備 2006/08/02(Wed) 09:57 [Reply]
> 周や呉の姓は「姫」氏です。呉の太伯はこの家の出であり姫氏と思われていたのです。

 『播磨国風土記』大田の里
 大田という由来は、昔、呉勝が韓国から渡ってきて、はじめ紀伊の国名草郡の大田村に至った。その後一部が摂津国三嶋の賀美郡に移り、さらに揖保郡大田村に移った。本の紀伊国の大田をもってその名とした。

 さてもここにも呉の人の名が見える。勝はマサル。呉の姫氏の末裔がまさに名草郡の真ん中にやってきています。名草の大田は今の日前国懸神宮の近くで、大田黒田遺跡のある場所です。おそらくは紀の名草郡に先住していた部族との戦いがあったはず、『神武紀』に記載の「名草戸畔を誅す。」と言うことはこの時の事件が語り継がれていたのかも知れません。
 天道根とは呉勝のことだったのです。姫氏の末裔、紀の国の初代国造とされ、紀氏の祖先とされたのです。
 一部が移った摂津の大田は茨木市・高槻市付近で、茨木市の海北塚円墳には紀ノ川名物の緑泥片岩が使われています。また茨木市安威の前方後円墳である将軍山古墳には紀の川産の結晶片岩が大量に使われています。これらの造営時期は4世紀末頃のようです。
 呉勝達が名草郡に入ったのは遅くとも4世紀だったのでしょう。こ頃は半島から牛の涎の如く、民人が列島に流れ込んできています。

[2352] Re[2351]: 天道根とか紀豊耳はどこから  神奈備 2006/08/02(Wed) 09:56 [Reply]
nickさん、おはようございます。
> 関西以北は涼しいとか。
関東以北でしょうね。大阪や京都は34度。梅雨明け十日の真っ最中です。

> 当地鹿児島神宮の四社家の一つ「桑幡家」の系図古文書によると、その「香春神社より下向」とあります。もちろん、血筋は「火照命の末裔」。

祭神に火照命につながる名前は見えません。香春神社の宮司家は鶴賀さん、赤染さんと言ったようです。近くに現人神社も鎮座していますので、鶴賀さんに「都怒我阿羅斯等」の末裔ですか? と尋ねたのですが、言下に否定されておられました。どうもそのように伝わっていないようです。

桑幡と息長とは何か関係がありそうですね。隼人は海人族、香春神社の祭神の辛國息長大姫大目命の渡航などに貢献しているのかも。月読神も気にかかる所。


[2351] Re[2350][2349][2348][2335]: 天道根とか紀豊耳はどこから  nick [Url] 2006/08/02(Wed) 07:03 [Reply]
おはようございます。
当地鹿児島は熱波です。関西以北は涼しいとか。

ちょっとはしょりで恐縮ですが、「香春」辺りなら私も参加できそう。

>  顕宗天皇の頃、即位以前の継体天皇は大和の押坂の地に迎えられていたと言う。皇統が途絶えかかったとすれば、親戚筋の紀氏から新天皇を迎えればいいのですが、そうなっていないようだ。押坂の地は息長氏の地盤とされていますが、この息長氏と紀氏とはこれまた同族か近い関係だったように思えてなりません。それは香春神社の存在で、祭神は辛國息長大姫大目命、祭祀氏族は辛嶋氏でこれも紀氏の分流のようで、素盞嗚尊・五十猛命の末裔ともされています。

当地鹿児島神宮の四社家の一つ「桑幡家」の
系図古文書によると、その「香春神社より下向」とあります。
もちろん、血筋は「火照命の末裔」。

辛島氏系は「女性のシャーマン」。
(宇佐神宮史天平7:763・禰宜)
当地の場合どうだったのか。
多種多様な雑念が、いや、「宇佐八幡との怨念」が渦巻いていそう。

[2350] Re[2349][2348][2335]: 天道根とか紀豊耳はどこから  神奈備 2006/08/01(Tue) 20:56 [Reply]
 『日本の古代』によりますと、平安時代の『日本書紀私記』に日本書紀の講義のなかで、「この国が姫氏とよばれるのはどうしてか?」と言う問いに対して、講師が「始祖の天照大神が女神、神功皇后が女帝だったから」との問答が記録されているそうです。
 周や呉の姓は「姫」氏です。呉の太伯はこの家の出であり姫氏と思われていたのです。「倭人」を太伯の裔とする説は、『魏志倭人伝』より早く成立し魏志の母体とされる『魏略』の逸文や『梁書』に見られるとか。

 『紀氏は大王だった』日根輝己)によると、「ポルタガル人宣教師J.ロドリーゲスが『日本教会史』に、太白(姫氏)の二番目の弟の子孫の幾人かが東方の海に船出して日本に移り住んだと言われる。それらの子孫の姫氏(きし)という呼び名から、シナ人は日本を姫氏国と呼び、第六代の子孫が始めて国王の称号を用いた神武天皇である。」とあり、この書はマカオで書かれており、そこに伝承が残っているのは興味深い。

 この日根氏が言うには、712年の好字令にもかかわらず、紀氏は紀伊氏とはせず、紀氏の一字一音を貫き通した。これは紀氏のみのことで、紀氏はその出自に誇りを持っていた。それは大陸の周王朝が姫氏(きし)であり、その後裔であることに誇りを持っていたという。

 要するに古代には天皇家とは同族であったと言うことになります。確かに4〜5世紀の頃の紀氏は倭王権とは独立した存在だったようで、5世紀末には三韓の王位を狙っていたと『顕宗紀』に出ています。
 天皇家との同族伝承は、西の日前国懸神宮、東の伊勢神宮が対応して鎮座していること、それも金属資源の豊富な中央構造線を押さえている形。

 顕宗天皇の頃、即位以前の継体天皇は大和の押坂の地に迎えられていたと言う。皇統が途絶えかかったとすれば、親戚筋の紀氏から新天皇を迎えればいいのですが、そうなっていないようだ。押坂の地は息長氏の地盤とされていますが、この息長氏と紀氏とはこれまた同族か近い関係だったように思えてなりません。それは香春神社の存在で、祭神は辛國息長大姫大目命、祭祀氏族は辛嶋氏でこれも紀氏の分流のようで、素盞嗚尊・五十猛命の末裔ともされています。
 また継体天皇との関連が深い隅田八幡宮の人物画像鏡が紀に国置かれていたことも傍証になるのかも。


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