青草掲示板ログ平十八年 十月 2006.10 |
[2568] Re[2564][2563]: 伎楽・舞楽のルーツ? なかひら まい | 2006/10/30(Mon) 19:02 [Reply] |
神奈備さん、ご無沙汰です。 なかひらです。 また、来月、和歌山に行ってきます。 > > 秦氏は弓月君です。弓月嶽が穴師兵主神社の裏にありますね。 > > 弓月岳については諸説があります。 > > 多くの渡来人がシルクロードを通って日本列島にやってきているのでしょう。また遊牧民族は草原の道を通って、いろんな文化を伝え、人々もやってきているのでしょう。 私も、今、ちょっとシルクロード関係を調べています。 頭の中を、弓月君、月氏、秦氏がぐるぐる回っています。 名草の民族そのものではないですが、文化、宗教が関連している可能性があります。 もう大変です。トホホ。 イスラム、シルクロードの「トンデモ本でない資料」も物色中です。 |
[2567] 数のナゾナゾ とみた | 2006/10/28(Sat) 21:15 [Reply] |
古代史の本を読んでいると。九とか八とか出てきますね 九頭竜、九寨湖、九黎、九州・・・・九頭竜は最近話題のたくさんの頭の龍でしょうか。九寨湖はたいへん美しい中国四川省の湖ですが、この近くにはたくさんのチベット支族ガいるのでなづけられたようです。九黎は黄河下流域のたくさんの苗族がいたところです。山東半島の蚩尤かも知れない。 九州は日本の九州だけでなく、中国は黄河の下流域は多数の河があり、この分流の形成するデルタを九州と呼びますね。 九とは単に多いという意味なんでしょうか? 別の説では、中国全土を九州に分けたとも言われます。 九は最高の数字であると、九州とは神州とも云うとか。 そういえば重陽の節句は九月九日で。九が重なるめでたい日です。 九は陽数であると。3も奇数で陽数。ヤタの烏は足が3本で縁起がよい? 出雲では八岐大蛇、で八、国引きの八束水臣津野命も八で束は長さの単位とか、 八雲立つ出雲、要は八とは古代では多いという意味らしい。 中国のガイドは、現代でも八は好かれる。末広がりだからか、車番でも取り合いに なるとか。四は死で嫌われるらしい。建物に四階は使わない。 ヨーロッパではキリストの磔日は13日で13は嫌われ建物に13階がないのと似てい る。 5は吾つまり私。1は欲しい。2は児で子供、11は皇帝だそうです。 518は私は8を欲しい。 なんだか分かったような分からないようなナゾナゾです。 |
[2566] Re[2562][2556]: 龍について nick [Url] | 2006/10/28(Sat) 09:23 [Reply] |
当地の場合は中世、島津が彼等を招聘しましたから 「中国色」が強く出ているように感じます。 現在でも大型店のオーナーはその末裔の方々です。 先日父と西都原方面へ出かけました。 西都原古墳はコスモス満開で大混雑でしたが、ちょっと離れたこの 三宅神社は立ち寄る人も無く厳かに佇んでいました。 拝殿の正面の柱には龍が巻きついていますが老朽化が。。 他にも巧みな彫刻がありますがいずれも。。 何と玄松子さんも参拝されているんです。 いつもながらそのフィールドワークの広さには敬意を表します。 来月、西都原古墳で「古墳祭」が開催されますが、その祭りの大半は この三宅神社で行われていたものだそうです。 |
[2565] 御参考になれば幸いです。 倭亜布 | 2006/10/26(Thu) 10:04 [Reply] |
歴史上、最も古い下水道は、今から約7,000年前(紀元前5,000年頃)にメソポタミアのチグリス・ユーフラテス河沿いにあったウル、バビロン、ニネヴェなどの都市に造られ、また、インダス文明の中心地モヘンジョダロなどにも下水道があったことがわかっています。 下水道の歴史 http://www.jswa.jp/05_arekore/01_his/ 一方、日本においては、弥生時代(紀元前300年〜300年)に集落の周りを溝で取りまいた環濠というものがありました。基本的には、集落を守るためのものですが、上流からの水を受けて下流の必要な部分に放流していたと見られており、水田と連結していたと推定されています |
[2564] Re[2563]: 伎楽・舞楽のルーツ? 神奈備 | 2006/10/25(Wed) 20:38 [Reply] |
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秦氏は弓月君です。弓月嶽が穴師兵主神社の裏にありますね。 弓月岳については諸説があります。 穴師山 巻向山 竜王山 穴師兵主神社の裏とすれば、穴師山か巻向山のイメージをお持ちなのですね。 > 民俗学の谷川健一さん 『白鳥伝説』が小学館から刊行されていますが、日の本を東に求めています。日本武尊の名前の日本も東の日の本の軍であったのかも。 皇子で文武に優れているのは武では日本武尊、文では聖徳太子、共に橘の字を持つ姫を妃にしており、蘇我氏との関わりを感じてしまいます。 蘇我、サカからの変化、サカ族には昔釈迦が誕生して仏教を説いた。その仏教を蘇我氏や聖徳太子が支持したとは因縁かも。 > 物好き人の私は去年シルクロードのトルファンも探訪しました 手近な所のお話ですが、月末に出雲の須佐神社に参詣しようと思っています。神社の横を流れる川は素鵞川が流れているとか。出雲大社の本殿の真北にも素鵞社があり、素盞嗚尊と蘇我氏との関係も気になるところです。 > 舞楽や伎楽とシルクロードの関連で日本への渡来人を調べたいのです。 多くの渡来人がシルクロードを通って日本列島にやってきているのでしょう。また遊牧民族は草原の道を通って、いろんな文化を伝え、人々もやってきているのでしょう。白鳥信仰などはバイカル湖から来たのかも。 |
[2563] 伎楽・舞楽のルーツ? とみた | 2006/10/25(Wed) 11:27 [Reply] |
民俗学の谷川健一さんの四天王寺の鷹を読了しました。 蘇我馬子と物部守屋の戦いで、聖徳太子が勝利を祈念して建てた四天王寺の話に纏わる謎解きが主題の本です。300余ページの大著です。その中に四天王寺の聖霊会の舞楽のことが書かれており、オヤと思ったことがありました。 聖霊会は蘭陵王の舞いで終了した。以前は蘇莫者が必ず演じられたとありました。蘇莫者は天王寺の舞人固有の舞で、元来は中央アジアの胡人の楽で黄色の蓑を着て登場する。 蘇莫者の曲名は、中央アジアのトルファン地方の帽子のことと書かれていました。 物好き人の私は去年シルクロードのトルファンも探訪しましたが、この地は天山北 路の入り口です。今はイスラムを信ずるウィグル人が多数者ですが、8世紀?あた りまでは仏教が盛んな土地でした。 卑弥呼の時代が3世紀前半で終わり三国志の魏呉蜀の戦いは3世紀の後半、魏の勝 利で幕を引き、魏の後を西晋が担います。この国が派閥争いで大いに乱れ、4世紀 は五胡16国の遊牧民が闊歩する時代です。 南北朝に分かれますね。鮮卑族が大いに力を持って、北魏が出来その後分裂して、 東魏と西魏になり、それがまた北斉と北周になります。北周が残ったのですが、隋 に滅ぼされ581年に中国の統一国家が隋が誕生します。まさに聖徳太子の時代で す(皆様ご承知のところ、相済みません)。 蘭陵王はこの北斉の将軍です。 イケメンで、仮面を被って戦に出た。仮面は僻邪と超能力を高めるものと考えられ ています。仮面をつけて踊るのは北斉がルーツと言われています。 舞楽や雅楽や伎楽のルーツかもしれません。 なぜその蘭陵王の舞楽が、日本の神楽や雅楽とつながっているのかが不思議です。 秦氏も舞楽と関係があるとか。四天王寺の舞人が聖霊会でなぜ踊るのでしょうか。 謎があるようです。 秦氏は弓月君です。弓月嶽が穴師兵主神社の裏にありますね。トルファンが出発地 である天山山脈の北路の北のジュンガル盆地には、古代は多くの遊牧民(烏孫、サ カ人、月氏、カザフ人)がおり、バルハシ湖に注ぐイリ川の近くには弓月城と呼ば れる地があります。 中央アジアのトカラ人(アーリア人でペルシャ系民)が古代には西域にはたくさん 住んでいて、ホータンあたりから伎楽をもちこんだというのは有力な説のようで す。 舞楽や伎楽とシルクロードの関連で日本への渡来人を調べたいのです。 少し青草ですが、詳しいことをご存知でしたら補足いただけませんか |
[2562] Re[2556]: 龍について くず | 2006/10/24(Tue) 08:26 [Reply] |
とみたさん、 > くずさん 竜神について、特に九頭竜についてこだわっておられるようですね。 戸隠の地主神さんなんでこだわってます。今、名前もおかりしていますしね^^ こことのご縁もクズに関する検索からでした。 > 中国では3600年前(紀元前1600年前)殷の時代には立派に龍が登場します。 > 北方系と南方系が交わっているのでしょう。 自分のこだわる戸隠の九頭龍さんから、その起源がうかがえないものかと、まとめてみました。 戸隠の九頭龍さんのお姿は文字通り九頭一尾。文献上最古の出は「阿娑縛抄」で、戸隠寺の縁起を嘉祥二年(849年)とし学問行者が九頭龍(九頭一尾の鬼)を巌窟に封じこめるお話がかかれています。 農耕神、水を治める神としての性格が強く、神饌には調理された熟饌が供えられます。芦ノ湖の九頭龍さんにも熟饌であるお赤飯が供えられるそうです。このあたりは南方系の龍神の影響でしょうか? 戸隠連峰には奥社と九頭龍社が並んで鎮座する表山(八方睨があります)と、室町期まで真言系の谷として栄えた西岳があるのですが、西岳の懐を水源とする楠川がありまして、寒冷地の戸隠には楠はありませんので、不思議な名前ではあるのですが、この楠はクズからきているのではないかとも考えます。 その楠川の上流に上楠川という集落があり、その地に鎮座する上楠川神社から明治期に見つかった大栓に、「祭神 天御中主神 氏子四十八人 安和二年四月二十日再建 本宮西岳地開村に依り此地に遷す」と書かれていたようです。 由緒には「往昔西岳中檀大岩窟に天帝を祀り西岳天御中主命を楠川明神として奉斎、後震災にて崩壊神石はその洪水のため流失し留まる処に社殿を造営した」とあります。 天帝、天御中主命と楠川明神がクズの由来に関係しているとしたら、これは北方系の龍神さまの影響でしょうか? |
[2561] まずは くず | 2006/10/23(Mon) 08:04 [Reply] |
倭亜布さん、 >3つのあたまをもつ竜がメス。 トルコから地中海沿岸に濃いのかと思いますが、三面一体の大地母神がかつて主祭されていたようです。3つの顔は、処女相、母相、老婆相をなし、これは月齢(月相)にも対応して、生命の循環を意味していました。 生産と豊穣を司る母神は、生と死を司る蛇神でもあったようです。この母神を祀った女長氏族社会に、北方から天空神を祀る遊牧系の男長社会の系統が覆い被さっている。ギリシャ神話にはそんな背景が見え隠れしますね。 勇者ペルセウスに殺されたリビアのメドゥーサはもとはアマゾネスが祀っていたアテナ神の一相だという説。ギリシャ神話にはにはアテナの処女相が取り込まれ、死と知恵の老婆相は化け物として葬られる。 女性の龍に3つの顔。これは興味深いです^^ 記紀神話にも大地母神で月に纏わる(月読尊に殺される)ウケモチの神がおりますが、記紀に語られる前の世界でもしやすれば主祭されていた神ではなかろうかと。あるいは記紀神話を持ち込んだ氏族がそのような歴史をふんできたのではなかろうかと。。 |
[2560] 続 9個の頭 (九頭)を考える。 倭亜布 | 2006/10/23(Mon) 00:12 [Reply] |
「九頭」とは 禹により古代中国の支配者「共工氏」と考えます。 嘲風:龍が生んだ九匹の子のうちの一匹 神社の狛犬(こまいぬ)などと同じく悪鬼(あっき)邪神(じゃしん)が内部に入って来ないように見張っているのです。 中国では嘲風(ちょうふう)とも呼ばれ、龍が生んだ九匹の子のうちの一匹で、高くて危ないところが大好きだそうです。 http://www.cnet-ta.ne.jp/p/pddlib/photo/bunkyo/taiseiden.htm 「鬼竜子」:中国・朝鮮の建物の屋根にある竜の子を模した瓦製の怪獣。日本の鬼瓦に該当するらしい。この年の年譜記述には「八月、訪韓古美術の旅」とある。『私立PDD図書館』に次の記述があった。「ちょうふう《てうふう》【嘲風】○(1)龍が生んだとされる九匹のうちの一匹の名。高くて危ないところが大好きなことから、それをかたどって屋根飾りに使われる。○(2)宮殿などの降棟(くだりむね)に立てた、(1)嘲風を模した魔除けの飾り。「鬼龍子(きりゅうし)」とも呼ぶ」。句は、屋根の上のそれより、地に列べ置かれた鬼竜子という気がする。「鬼竜子が列べた」という解釈もあり得るが、何をが見えない。 http://www.mypress.jp/v1_writers/masume/?idx_story_id=20321 竜王 中国で土地の神は竜王とも呼ばれ、同時に水の神でもあった。 「禹貢」をうちたてる。 「禹貢」とは最古の中国地誌とされ、これにより禹が天下を九州に分け貢納制度をしいたとされる。 ... 共工氏の九有(九州=中国全土)に伯たるや、その子を后土という。 という一節がある。 共工はもともと中国全土の支配者であり、その子が后土(土地神)として祭られるほど尊ばれていたのだ。 「黒竜」も、共工のことであろう、としている。 「雷神」も、共工と同一視している。 「窮奇」も、(少昊氏の不才の子) 窮奇 - Wikipedia 窮奇とは、 (かまいたち)日本の甲信越地方に多く伝えられる妖怪の一種。 ... 「構え太刀」の訛りであると考えられているが、鳥山石燕の『画図百鬼夜行』「陰」の「窮奇」に見られるように、転じてイタチの妖怪として描かれ、今日に定着している。 ... http://ja.wikipedia.org/wiki/窮å\ |
[2559] 9個の頭 (九頭)を考える。 倭亜布 | 2006/10/22(Sun) 23:29 [Reply] |
ドラゴン 例えば、「相柳」というドラゴンを退治したと言われる古代中国の聖王・禹(う)は、一方で「治水名人」としての面を持っています。 ... ギリシャ神話ならばヘラクレスに退治されたヒュドラ、上半身が美しい女で下半身が大蛇のラミアー http://homepage3.nifty.com/onion/monster/dragon.htm 相柳 そうりゅう 中国神話の中で、伝説上の帝王、尭が天帝だった時代に地上を荒らし回ったとされる九頭の巨大な蛇。地理書「山海経」では9個の人間の頭を持つとされる。個の怪物は英雄の禹が地上の洪水を治めたあとに出現し、9個の頭であらゆるものを食い尽くした。しかも相柳が進んだあとは毒のある水が溢れた沼沢地と変わり、どんな生き物も住めなくなったという。禹は人々のためにこの怪物を退治したが、怪物の血が流れた土地には何も育たず、人も住むことが出来なかったという。 共工の家臣の相柳は、人面蛇身で頭は九つ、その身体が触れると土が掘られて、沢や谷となったが、相柳の血の流れた場所には五穀を植えることもできず、深い穴を掘っても崩れてしまったため、禹は相柳の遺骸を埋めた場所に帝の臺(=陵墓)を作ったとされる。 九頭をもつ邪神の蛇とは、なにやら出雲の八岐大蛇(やまたのおろち)と似ている。 こんな共工が三皇の一人に数えられるのは、忠臣蔵の吉良上野介の如く、名君としての伝承が旧領に残っていたものと思われる。共工は羌族の信奉する神として尊ばれていたが、羌族が伏羲や女媧を奉ずる苗族や、禹を始祖と崇める夏族から中原を追われたため、凶暴なドラゴンにされたのだろう。そして羌族も簡単に西に追われた訳ではなく、長期間の抵抗を続けた結果として、各時代に亘って叛乱分子とされたものと推察する。 雄キ(ユウキ)【神】: 一身九頭のまむし神。 南方の怪神で、人を呑んで心臓を強くするという。 ... 禹に殺されて、うずめられて池にされたという。 キ:シュメール神話において天地創世の際に登場する大地母神。 バビロニア神話のキシャルに相当する。 ... 別名を「九頭鳥」といい、その名の通り九つの頭を持つ鳥である。 ... 最終的に共工は夏王朝の始祖神である禹によって追放され、洪水は治められたという。 ... 三皇−共工(きょうごん) http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/sinwa/sinwa-2-5kyogon.htm 「三苗を三危に遷したので西戎に変転した。鯀を羽山に左遷したので東夷に変転した。 一説には、共工が洪水を起したので民は皆、丘陵や樹木に殺到した。舜は禹に治水工事を命じて水を東の海に注がせた。そこでは海が東に在るのは共工のせいだとされる。」 ヒュドラ - Wikipedia ゼウスと敵対し敗れた男女の蛇神、デュポンとエキドナの子の九頭蛇(ヒュドラ)はゼウスの子ヘラクレスに敗れる。 ... この項目ではギリシア神話のヒュドラについて説明しています。 ... ヒュドラを殺すには、真ん中にある1つの不死身の首を何とかしなければならなかったが、ヘラクレスはその首を巨大な岩の下敷きにして倒した。 そしてヒュドラはうみへび座となった。 ... http://ja.wikipedia.org/wiki/ãã\ãã© ヒュドラとは、水蛇の怪物で、九つの首があ り、口からは毒ガスを吐き、沼に近づいた人や動物を、 ... http://www.kinjo-u.ac.jp/~multi/contest/2004contest/a-1/cancer.html わが国の氏族系統についての私見 http://shushen.hp.infoseek.co.jp/kodaisi/joukosi-nagare.htm |
[2558] Re[2557]: 龍と 皆さんにお尋ねします!! 神奈備 | 2006/10/22(Sun) 10:23 [Reply] |
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サイト上で記紀の口語訳で原文の意をそこなわないものあるでしょうか?? 質の程は評価していませんが、紀では・・・ http://www.linkclub.or.jp/~pip/ututu/ututu.html とみたさんが書かれているように、龍はドラゴンやナーガとは異質のモノですね。 ナーガ(サンスクリット語) 毒蛇コブラに似ているが、クロコダイルのことで、クンピーラ(金比羅大権現)のこと、ガンジス河、メコン河、揚子江にいたが目下絶滅の危機。お釈迦さんの一族のトーテム。 ドラゴン(英語)魔神、悪の化身 ヘブライ語でタンニーン、長い動物、大きい怪物 龍(チャイナ ロン)猛威、畏怖、瑞祥、皇帝のシンボル、龍は九匹の子供を生むとあります。この「九」は最大の数と言う意、一番目の子は贔屓と言う。 揚子江ではクンピーラとロンとの混同・合成があるのは自然なこと。 ついでに 九頭の九も最大の数のことでは、九頭とはたまたま国津、葛、屑の音と合わさったのでしょう。 |
[2557] 龍と 皆さんにお尋ねします!! MADOKA | 2006/10/22(Sun) 01:22 [Reply] |
龍のことこれだけ並ぶと圧巻ですね! とみたさんの >これが中国へ来ると皇帝さんは龍で聖獣です。中語の北方の黄河文明の龍のイメージは南方の長江文明の龍のイメージと違います。北方では、畑作・牧畜民で、猪、鹿と鳥(あるいは馬)をモデルとし合成した龍です。そんな絵を描いた土器が6500年前〜5000年前の紅山文化期に出土しています。長江の龍は、南方系です。南方系は稲作地帯で、龍は蛇がまじっています。インドの龍はナーガ(サンスクリットで蛇の意味)信仰で龍蛇です。水神信仰で降雨の能力があります。中国では3600年前(紀元前1600年前)殷の時代には立派に龍が登場します。 北方系と南方系が交わっているのでしょう。 倭亜布さんの http://kodo-tamaki.com/log/eid84.html くずさんの >御神木となる木に石を抱かせるお話があり、興味を持っておりましたけれど、あれはあえて雷を呼び寄せてその石に籠らせようとしたのではないかなーと今は思います。 は非常におもしろいなあと思いました! ありがとうございます\(^0^)/ 龍と巳ははまりますよねえーー^^ くずさん >自分にもつらい文章です。解説つけられないんで、まんまのせました(笑) そうですか!私だけじゃないんだ!ちょっとホっとしました!! そこで皆さんにお尋ねします! サイト上で記紀の口語訳で原文の意をそこなわないものあるでしょうか?? 引用コピーに使いたいんですが・・・ どなたか 御存じありませんか? サイトアドレスお教えください! m(。。)m |
[2556] 龍について とみた | 2006/10/21(Sat) 18:10 [Reply] |
くずさん 竜神について、特に九頭竜についてこだわっておられるようですね。私も龍と蛇について多少興味を持っています。 これはそれなりに難しい研究テーマです。 私の考えを述べさせていただきます。 龍はドラゴンでギリシャ語のドラコンが語源です。これは怪物とか、赤龍はサターンで西洋では龍は余り良いイメージがありませんね。 これが中国へ来ると皇帝さんは龍で聖獣です。中語の北方の黄河文明の龍のイメージは南方の長江文明の龍のイメージと違います。 北方では、畑作・牧畜民で、猪、鹿と鳥(あるいは馬)をモデルとし合成した龍で す。そんな絵を描いた土器が6500年前〜5000年前の紅山文化期に出土して います。長江の龍は、南方系です。南方系は稲作地帯で、龍は蛇がまじっていま す。インドの龍はナーガ(サンスクリットで蛇の意味)信仰で龍蛇です。水神信仰 で降雨の能力があります。 中国では3600年前(紀元前1600年前)殷の時代には立派に龍が登場します。 北方系と南方系が交わっているのでしょう。 鹿の角、首は蛇、身体はみずち(虫交)という姿です。中国の皇帝の紋章は龍にな る。 中国の龍は水を操り雨を降らせ嵐を起こすことが出来る。これは、長江流域の南 方系の蛇的龍(インドのナーガも混同)を取り込んでいるのでしょう。大昔は龍 が四方を守っていたのが、陰陽五行説の出る紀元前後には、青龍は東を守ることに なります。日本の龍は中国の影響をが強く雨を降らせ、水場を統治し、龍の玉をも ち怒らせると怖い。仏典の竜王は中国やインドの龍とは違い、湖や川の竜宮に住む 水神です。大神神社の大物主の正体が蛇で、大蛇伝説が時代と共に尾ひれがついて 龍化けしてくる。 |
[2555] 「私龍神さん大好きなのよねー!」RE 倭亜布 | 2006/10/21(Sat) 15:15 [Reply] |
「ツガイの龍神が祭られてるんです!」 二匹の竜といえば 3つのあたまをもつ竜が、メス。 「禹」の字の「冂」の部分は、「九」です。 書をやられる方は、 ... 二匹の竜といえば、「愚偶遇隅寓」などの「禺」という字も二匹の竜です。 【禺】 ... 漢字一字で広がっていく世界を大切にしたいものです。 ... http://kodo-tamaki.com/log/eid84.html 竜門は黄河の中流にある山峡で、禹が山を穿ち水を通したという伝説がある。 ... この魚が竜門を上る姿を見て、竜に変身すると考えたらしい。 ... 持参した蟋蟀を闘争用の籠に入れ、真ん中の仕切りを取ると、二匹の蟋蟀が闘いを始める。 ... http://www.hum.ibaraki.ac.jp/kano/peper/8.htm 禹の父「鯀」は洪水を納めることができなかったので、罰せられて亀(酒【甕】に浸けらる・甕棺)されるみたい。 http://www.chinjuh.mydns.jp/sengai/z_sengai/log0207.htm 田祖 蚩尤は兵器をつくって黄帝を伐つ.そこで黄帝は応竜をしてこれを冀州(国のまなか)の野に攻めさせた。応竜は水をたくわえ、蚩尤は風伯と雨師をまねき、暴風雨をほしいままにした。そこで黄帝は天女の魃をあまくだした。雨はやんでついに蚩尤を殺した。ところが魃は、天にのぼりかえることができなかったので、魃居るところには雨がふらない。叔均はこのことを帝に言上したので、後かの女を赤水の北に住まわせた。叔均はそこで田祖となった。 邪馬台國研究本編 「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)で有名な越の王、句践は、夏王朝を開いた禹(う)の末裔で、少康帝の子である。 ... 献上した男の生口4人・女生口6人・班布二匹二丈に対して、絳地交竜錦ほか各種織物があたえられた。 ... http://inoues.net/yamahonpen3-5-2.html 禹とは二匹の蛇をもって、描かれる文字であるが洪水の雷神でもあったらしい。 ... http://home10.highway.ne.jp/ikko/Japanese/3_J.html 応龍 応龍. 向こうの読みだとイェンロンかな。 鷹龍とも。 蛟の項で説明したが、中国の龍は蛇などから長い年月をへて龍に成長するとされる。 ... また中国全土を覆う大洪水が起こった際、女媧の血を引く禹は魔法を使って(うさんくせえな)山を開き、 ... http://www.interq.or.jp/sagitarius/ootarag/file/ouryu.htm |
[2554] Re[2551]: 龍神さま くず | 2006/10/21(Sat) 06:52 [Reply] |
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ある人に龍神て結局なんですか?と問われ考えあぐんで出た私の結論は『エネルギーの根源を統るもの』 ほとんど同じなんですが、自分の言葉ですと、「流れの具現化」それが龍神さまかなーと、思っています。 川の流れがたとえやすいけれど、風の流れ、気の流れ、地磁気の流れ、それらを運ぶ時間そのもの流れ。道教で言われる道(タオ)も同様のものかとも。 流れそのものもエネルギーに変換できますけれど、目に見える形としてはどれも捉えにくい。 時間と大地のうねりの変遷を受けつづけて凝縮された石、岩に龍が宿る、岩窟に籠るとされるのも感覚的には解ります。 御神木となる木に石を抱かせるお話があり、興味を持っておりましたけれど、あれはあえて雷を呼び寄せてその石に籠らせようとしたのではないかなーと今は思います。 ギリシャ神話でも最高神ゼウスは山岳の神でイカヅチの神。ゼウスと敵対し敗れた男女の蛇神、デュポンとエキドナの子の九頭蛇(ヒュドラ)はゼウスの子ヘラクレスに敗れる。 大地母神の一面である蛇神が、膨大な力エネルギーを発揮するイカヅチの神の系譜に敗れるという過程は、時間を超え、距離や民族を超えて共通する何かがあるように思います。 |
[2543] カグツチの祭祀 くず | 2006/10/15(Sun) 23:27 [Reply] |
初期の大和で香山の埴土を使い祭祀の実権を握っていたのは葛城ですかね? 土神剣根命、陶津耳命等の名は何か関係があるのではないでしょうか。 カグツチを切った刀から生まれた建御雷神もカグヤマ、カゴ、カシマと繋がるのでは。 蛇を水とするなら、五行で言う土は水を滅ぼす相剋の関係。ミゾクイが治水や干拓の技術に通じるならそれも関係があるやもしれません。 火の中に生まれた伝承を持つ垂仁帝の御子、本牟智和気(古事記)ですが、物言えぬ御子が出雲にてしゃべった言葉なのですが、 「是於河下、如青葉山者、見山非山。若坐出雲之石[石冏]之曾宮、葦原色許男大神以伊都玖之祝大廷乎。」 この一文、青葉を使った山の如き庭のしつらえ、はなんとなく姫さんが紹介してくれた厳島の弁才天さんが篭もる、題目立の舞台のしつらえを思い浮かべるのですが、題目立が平氏を滅ぼした多田源氏に由来するものだとしたら、自らが滅ぼした相手、ハフった相手を祀る手法が何らかに継承されていたのかも(笑) >都介野岳 写真掲示板に葛城の南方金剛山から見た額井山をのせてみました。 円錐形の山を拝み(夫神岳、女神岳)出雲式園地にツチを祀る。別所があって牛頭天王への信仰が濃い土地。先々週見てきた上田市の塩田にも通じるものが多いように思います。 |
[2542] 都介野岳 神奈備 | 2006/10/15(Sun) 10:10 [Reply] |
百済の武寧王の墓は二重の神奈備山の場所に作られています。 http://kamnavi.jp/it/sosimori2.htm 写真掲示板で姫さんのご紹介の都介野岳と額井山、この二つの山の延長線上には都祁の友田の水分神社や小治田安萬侶の墓があります。しかしここからは額井山の姿は見えないようです。 近くには国津神社も鎮座、摂社に九頭神社があります。背後の山を柏峰といい、山頂には巨石群があり、方形をなしているそうです。神社の御神体だそうです。ここからは都介野岳がよく見えるようです。その都介野岳の頂上には円状列石があるとのこと。 磐座ファンよ、まいろうぞ、まいろうぞ。 |
[2541] Re[2539][2538][2536][2537] 葛城 サン・グリーン | 2006/10/13(Fri) 06:44 [Reply] |
> > 住吉神社には「埴使い」なる神事が残るそうですが > > 倭国の物実と言われた香山の土は、倭国の実質で、国そのものの生命と等価。これで祭祀用の土器を作り、祭祀を行うことは、倭の国の祭祀権を握ることになるようです。 > 『住吉大社神代記』に、「覬覦之謀時:みかどかたぶくるはかりごとあらんとき」にも、かくの如く斎祀らば必ず服へん」とあり、住吉大社の祭祀には国家鎮護の意味があったのでしょう。 9月30日の伊勢神宮の研修会の折、皇學館大學で神々の神饌のお話を伺ってきました。 神宮の神饌の中に「カワラケ」だけというのがありました。 神武天皇が丹生の川上で行った祭祀が今も続いているというのを感じます。 |
[2540] Re[2539] 香山の土 くず | 2006/10/12(Thu) 23:38 [Reply] |
五行思想で言うところの人間は"土気"。 相生(そうじょう)で土を生むのは火にあたり、女性の陰部をホト(火処)と呼んだのはそれにあたる・・・このあたりは縄文ジャーナルに吉野裕子さんが書かれていました。 イザナミは火神カグツチを生んで黄泉の国へ。 カグツチが切られた刀は"伊都之尾羽張"で建御雷神の親神。ハハは蛇(古語拾遺)とも。 建御雷神が建御名方神を封じた諏訪、フネ古墳からは蛇行の剣(槍)が出ていますけれど、 槍ないしは矛ならば握り手が十握(トツカ)あってもおかしくないかな。 ある種のツチが古代において霊的な力を持つと考えられていたとしても、感覚的になんとなし解る気はします。 |
[2539] Re[2538][2536][2537] 葛城 神奈備 | 2006/10/12(Thu) 09:17 [Reply] |
> 住吉神社には「埴使い」なる神事が残るそうですが 倭国の物実と言われた香山の土は、倭国の実質で、国そのものの生命と等価。これで祭祀用の土器を作り、祭祀を行うことは、倭の国の祭祀権を握ることになるようです。 『住吉大社神代記』に、「覬覦之謀時:みかどかたぶくるはかりごとあらんとき」にも、かくの如く斎祀らば必ず服へん」とあり、住吉大社の祭祀には国家鎮護の意味があったのでしょう。 |
[2538] Re[2536][2537] 葛城 くず | 2006/10/12(Thu) 07:03 [Reply] |
素人さん、 >経文を埋める風習 経塚の関係ですかね、平安中期からの末法思想、56億7千万年後に向けたタイムカプセル。 山塊に続く東の尾根が選ばれたようです。それが古代の聖地と重なったか? nickさん、 >籠山 崇神紀の武埴安彦の奥さん、吾田媛の話、 「武埴安彦之妻吾田媛。密来之取倭香山土。裹領巾頭。而祈曰。是倭国之物実。乃反之。」 住吉神社には「埴使い」なる神事が残るそうですが、それは吾田媛の霊を鎮めるため? 住吉から諏訪へも繋がりますかね^^ 葛城山頂から夏至の日の出を見てみました。(写真掲示板に) 允恭帝の時の都祁氏降格、河内王権と葛城氏の確執? 関係あるんのではないでしょうか。 |
[2537] Re[2535][2534][2532][2529]: 多田氏とクズの関係 nick [Url] | 2006/10/11(Wed) 13:54 [Reply] |
こんにちわ。 興味深い論考、愉しく拝見しています。 やっと私も首をつっこめるかなと。笑。 > 元伊勢とも関係した説があるようで興味深いですね。 > 丹後の籠神社。豐受大神とも特別なご縁この神社。"この"も元は"かご"であったらしい? > でこの唄。かごめかごめ、 当地の「籠山」や「籠嶋」との関連もありそうで。 「籠山」は、例の隼人塚の西方100m辺りから西方域を云います。 どなたかのサイトに場所が掴めなかったと記載があったような。 昔歴史読本にに丹後の紹介があって、どんなところかなと興味津々でしたが 何とこのサイトにばっちり詳細な説明があって深く感銘を憶えたことでした。 皆さんからヒントを頂き今後の示唆にし調査に拍車をかけたいと念じています。 |
[2536] Re[2535][2534][2532][2529]: 多田氏とクズの関係 素人 | 2006/10/11(Wed) 02:33 [Reply] |
くず様 > 内宮の東には朝熊ヶ岳から連なる峰があって直視は出来ない。ただ朝熊ヶ岳のあさまの名は富士につながりますし、自分はなんらかの観測、あるいは測地に基づく意図的な配置であるか、 とんでもない青草ですが、お許しください。 朝熊ヶ岳の上に木の柱があり根元に経文が埋められていたとの記述を読んだ様な気がします。同じく宇佐神宮の裏の前にご紹介した、石柱のサークルのある米神山の石柱の下にも経文が埋められていたようです。経文ですから後の時代と思いますが、何かこのような風習があったのでしょうか。 うる覚えの書き込みで失礼いたしました。 |
[2535] Re[2534][2532][2529]: 多田氏とクズの関係 くず | 2006/10/11(Wed) 01:02 [Reply] |
>たまたまそこに富士山があったか 写真掲示板にのせましたのは伊勢内宮直上300mから夏至の日の出を見ています。 内宮の東には朝熊ヶ岳から連なる峰があって直視は出来ない。ただ朝熊ヶ岳のあさまの名は富士につながりますし、自分はなんらかの観測、あるいは測地に基づく意図的な配置であるか、 倭姫世紀から、宇治土公に適地を尋ねたおりには、すでに特別な祭祀地(跡?)であったようなので、古来から続く太陽信仰の跡地ではあったのかもしれません。これは聞いた話なのですが心の御柱の下には土器片らしきものが散乱していたと。 写真掲示板に外宮から夏至を見たシュミレーションをのせてみます。内宮と違って外宮からは夏至の富士が直視出来るようですが、微妙に重ならないみたいですね。 >オオ氏と多田源氏 墾田永年私財法の施行から、例えば優れた干拓技術、治水技術、貯水(溜池)技術など持ち合わせた氏族がいたとしたら、相当の力を持てたはずと思います。加えて製鉄技術、鉱山開発にも長けていたとしたら。。平安時代、中央は藤原氏に席巻されていたわけで、地方で力を蓄えた多氏が平氏よりも格上となる源氏姓に目をつけ経基に接触したか、または経基が多氏の勢力を取り込んだか、経基と満仲の軍事面でのギャップ、加えて伝えられている生没年の食い違い等を見ても、両者に血縁はなかったのではないでしょうか。(←青草ですけどね^^) >小夫天神社 元伊勢とも関係した説があるようで興味深いですね。 丹後の籠神社。豐受大神とも特別なご縁この神社。"この"も元は"かご"であったらしい? でこの唄。かごめかごめ、 籠女 籠女 籠の中の鳥はいついつ出やる。 夜明けの晩に、鶴と亀が統うべった。 だったとしたら、この時後ろの正面に座るのは誰でしょうね?(笑) 今なんとなく気になって口をついてしまう歌なので。まーそれだけなんですけどね。 |
[2534] Re[2532][2529]: 多田氏とクズの関係 姫 | 2006/10/10(Tue) 17:04 [Reply] |
くずさん、写真掲示板の方で、伊勢内宮から見た、夏至の日の出のお写真を拝見しました。 丁度富士山から昇ってくるように見えますね。 ありがたい感じがしますけど、地上からはこんな風には見えないそうですので、これは偶然に伊勢から日の出を見たら、たまたまそこに富士山があったと言うことなのでしょうか? 神奈備さま、 小夫は、オオ氏が住んだところだったのですね。 小夫と書いてとてもオオブとは読めませんので、どういう謂れがあるのだろうと思っていました。 室生村の多田から、山添村の桐山は近いですので、多田の地から移り住んだ人々がいたのかもしれませんね。 山添からもう少し奈良寄りに、丹生という大字があり、丹生神社があります。 私は最初吉野方面から移住してきた人が、丹生の地に住んだのかと思っていましたが、吉野からではなく、山添村から、行ったのかもしれないと思いました。 |
[2533] Re[2532][2529]: 多田氏とクズの関係 神奈備 | 2006/10/10(Tue) 10:40 [Reply] |
> 多(オオ)氏と多田源氏、そしてクズには他ならぬ関係があったのではないか、と思いますね。 大和の東の高原地帯、ここは多氏の多く居住した所で、小夫天神社の小夫(おおぶ)は多部から出た名(『大和の原像』小川光三著)とあり、また大和高原は九頭神の跋扈する地です。 これは偶然かもしれませんが、宇陀郡室生村多田にも九頭神社があり、戦国武将の多田氏の拠点だったようです。 『室生村史』に、「蛇が水神と結合して葛神となった。」との記述がありました。けっこう古い神のようです。 |
[2532] Re[2529]: 多田氏とクズの関係 くず | 2006/10/09(Mon) 12:14 [Reply] |
>山添村の戸隠神社 記載のクズ関係のお社について読み直したのですが、その中で摂津国川辺(兵庫県川西市東多田)の九頭神社の御由緒、多田満仲と九頭の関係が興味深かったです。 信州戸隠の九頭龍さんに雄雌二頭という話はありませんが、矢を放った先に九頭龍がいた点、(戸隠は飯綱山から学問行者が投げた独鈷の先)田畑に関する治水、干拓に由来する神という点、御霊の霊石が頭痛歯痛眼の病等にきく(戸隠は歯痛)と言う点が重なります。蛇神が死んでその跡に田畑が生まれる。そのあたりから「ウガ」「ウケ」の神も連想します。川西市の多田には太田田根子を祀る多太神社もあるようですし、多(オオ)氏と多田源氏、そしてクズには他ならぬ関係があったのではないか、と思いますね。 イワクラに繋がる話かわかりませんが、戸隠山の西を水源とします裾花渓谷に三つ釜と呼ばれる三つの岩穴があります。そこには昔"お善鬼様"と呼ばれる鬼が住んでいて、木を植え、石を積み、裾花川を美しくお守りしていたのですが、ある時"黒右衛門"という長者が移り住み、山の木を切り、堤の石を庭石として抜いて大きな御殿黒右衛門屋敷を作ったそうです。 お善鬼様はこれを見て悲しがり、そして怒りました。戸隠の方向を見て嵐をを呼び、自ら堤防に築き上げた石を千木(地名)の山の上に放り上げてしまったそうです。裾花川は大洪水をおこし、黒右衛門の屋敷もお墓も、みな流し去ってしまった。千木の山の上にはその時投げ上げられた石が累々と積まれ"石ごうーろ"となった。とこんな民話が残っています。 http://www.janis.or.jp/users/gann/100sen/meisyo/mikamado.htm この話の他にも戸隠、飯綱、黒姫周辺には、鬼、蛇、石に纏わる民話が多いように思います。よろしかったら、 http://www.ngn.janis.or.jp/mukasibanasi/index.html >允恭天皇の時代、都祁氏は、国造から、稲置に降格された 允恭天皇は母方が葛城氏となりますけれど、奥さんの忍坂大中姫(息長氏系?)の影響が強かったでしょうか。河内王朝において葛城氏と息長氏が影響した権力抗争があったとしたら都祁氏の降格も何か関係があったかな? >原住民????のいつわざる本音 明治期の神仏分離の影響下で、戸隠におきましても廃仏毀釈の嵐が吹き荒れたわけですけれども、その中で異形の神であった九頭龍王をいかにお守りするか苦心したようすが当時戸隠山顕光寺別当であった久山家の日記等に見られます。 戸隠山が天の岩戸だったという伝説も、鎮座していた岩戸開きに関わった祭神を結び付け、その中で九頭龍神を岩戸守神と名を変えお守りするための創出だったという話もあります。 中央がひっくりかえって新しい信仰体系を要求してくる。これに対して辺境が何を大切に思い守ろうとしたのか窺い知れるところかと思います。 |
[2531] Re[2529]: 山添村の戸隠神社 姫 | 2006/10/07(Sat) 15:56 [Reply] |
神奈備さま、 > 拙いものですが、アップしておきました。 拝見しました。 拙いどころかとっても綺麗に撮っていらっしゃいますね。 あんな山奥にまでお出かけなのですね! 驚きました! 桐山に鎮座しているのですね。 桐山の辺りはちょっとダムに沈んだようで、もしかしたら様子が変わっているかもしれません。 近々探索に出かけてみます。 ありがとうございました。 |
[2530] Re[2528] たびたび 鍋倉のイワクラ 姫 | 2006/10/07(Sat) 15:45 [Reply] |
MADOKAさん、 すみませ〜ん! いつも大事なところで、うっかりと間違ってしまいます。 仰るとおり、高野山は、神野山の間違いです。 神野山は「こうのやま」または「こうのさん」と呼びますの で、つい「こうの」と打つと高野山が出て来てしまうのですね。 大変失礼しました。 > &鍋倉石渓はイワクラ ゴロゴロなのに現在の祭祀の痕跡が薄いのが不可解? ほんとはもっとたくさん神野山にはイワクラがあったようですが庭石として売られたり、破壊されたり。妙に人工的なのに石組にかかわる穴氏兵主神社が付近に一社もない。神野山にかかわった族と現在の村民は違う族で非常に大きな記憶の空白がある感じなんだなあ。天狗がつくった石渓で伝承されてたんでしょうね。。。青山にいた天狗が?この天狗ネットワークは結構意味が深いかも?? 神野山の石は生駒山と同質の石で、庭石に最適なのだそうです。 それで随分持ち出されましたが、現在は石を動かすことは禁じられているのですよ。 また、MADOKAさんに言われて気づきましたが、確かに神野山の古代イワクラ信仰は、ある時期に途絶えてしまっているのですね。 古代のイワクラ信仰は、神野山麓で行われていたようで、麓から祭祀に使ったと思われる大きな丸い石が発掘されました。 山自体は神聖なものとして、人の侵入が許されなかったのかもしれません。 そのために、山中に祭祀の址が見つからないのでしょう。 神野山には、神野寺という行基が勧進したと伝えられる寺があり、僧の山岳修業の場となったために、奈良時代始めごろから、イワクラ信仰の形が薄れたのかもしれませんね。 |
[2529] 山添村の戸隠神社 神奈備 | 2006/10/07(Sat) 09:16 [Reply] |
拙いものですが、アップしておきました。 |
[2528] Re たびたび 鍋倉のイワクラ MADOKA | 2006/10/07(Sat) 01:30 [Reply] |
>むか〜し昔、神野山にへ天狗が棲んでいて、青山高原の天狗と喧嘩になりました。 青山の天狗は足許の土を、手でギュッと押し固め、つぶてにして高野山めがけて、どんどん投げつけました。 それが岩の石渓となったのだと、伝わっているのです。 それでぇかーー鍋倉石渓の駐車場にカラス天狗のオブジェがゴロゴロ 山頂の案内版にもカラス天狗がトマッテました。意味がわかんなかったんですがやっと了解! &鍋倉石渓はイワクラ ゴロゴロなのに現在の祭祀の痕跡が薄いのが不可解? ほんとはもっとたくさん神野山にはイワクラがあったようですが庭石として売られたり、破壊されたり。妙に人工的なのに石組にかかわる穴氏兵主神社が付近に一社もない。神野山にかかわった族と現在の村民は違う族で非常に大きな記憶の空白がある感じなんだなあ。天狗がつくった石渓で伝承されてたんでしょうね。。。青山にいた天狗が?この天狗ネットワークは結構意味が深いかも?? > 神野山との関わりとしては、青山高原は、高野山や生駒山と同じ位の標高ですので、かつてはこの三つの山頂にのろし台があった、と伝わっている位のものです。 けれども、のろし台の痕跡が発掘されたと言う話も聞きませんので、残念ながら確かな情報かどうか、わかりません。 これ結構大ネタだと思う Q 姫さんの投稿文中二つの高野山は 神野山の間違いですか???? それとも高野山???? >くずさん、 枡形のある牛ヶ峰の山も岩石山ですし、神野山付近一帯は地盤が岩磐なのでしょう。 それで周囲にはたくさんの巨石があります。 とても九つどころではありません。 これは私の青草話(竜王岩が本来いくつかの石でとりかこまれてたのをネタに)で くずさんの文章じゃないです。 >この辺りの宴会では、ちょっと前までは「伊勢音頭」が盛んでした。 民家の上棟式でも、棟梁は祝いとして、必ず伊勢音頭を唄ったものです。 これも対外 凄いっす!!! 伊勢音頭を村の人が唄うなんて! 私落語の中でしか知りません!!上方落語の世界が現在にも! |
[2527] Re[2520][2514]多田氏 姫 | 2006/10/07(Sat) 00:39 [Reply] |
くずさん、 こんばんは。 > アソ繋がり、それと(もしかしたら)五行に由来した祭祀から多氏を見てきていますので、多田氏がオオ氏の末裔というのは興味がありますね。 ちょっと調べましたところ、都祁において多田氏と言う名前が出てくるのは、地侍が荘園の中で力をつけてきた頃、鎌倉時代の初期のようです。 > 同じ多田源氏から溝杭氏がでていますけれど、この名も多氏の祖、神八井耳命の母方(ヒメタタラ)の祖父、三嶋湟咋と何か関係あるのではないかな。 この、神八井耳命を祖としているのは、むしろ都祁直で、都祁直の住まいは元の都祁水分神社があった小山戸です。 允恭天皇の時代、都祁氏は、国造から、稲置に降格されたという記事がありますので、非常に古くから都祁に居た氏族です。 一方、多田氏の住まいは小山戸の少し北東の室生村との境辺りで、今も多田という大字があります。 (現在は宇陀市室生区多田) 多田氏は、源氏は源氏でも摂津多田源氏の末と称しているそうです。 摂津から都祁に居を移してきたのはやはり都祁直との関係に縁るものなのでしょうか?? > 山添村には戸隠神社があるのですね。イワクラと共に九頭竜さんへの信仰も濃いのでしょうか。 山添村の戸隠神社については全くわかりませんので、また調べて書き込みさせていただくようにします。 くずさん、 > 北信濃には北信流なる宴会のしきたりがありまして(笑)宴の中じめなのですがそのさい「お肴」といって小謡を出します。普通のおじいちゃんが朗々と歌い上げますので、その話にいらしたシテ方演者の方も感心されていました。 MADOKAさん、 > 世阿弥が流された佐渡ヶ島では野良仕事の労働歌が謡曲ていう話を聞いたことがありますが。。。 凄いですね! この辺りの宴会では、ちょっと前までは「伊勢音頭」が盛んでした。 民家の上棟式でも、棟梁は祝いとして、必ず伊勢音頭を唄ったものです。 ちゃんと唄える人が居なくなりましたので、この頃はもう聞くこともなくなりました。 そのことを思えば、北信濃や佐渡の謡いは凄いと思います。 |
[2526] 九頭龍 MADOKA | 2006/10/06(Fri) 23:23 [Reply] |
くずさん >戸隠信仰の発祥は戸隠山の懐。奥社、九頭龍社の祀られた場所と言われます これは知りませんでした。 >九頭龍社の本殿の奥は深い窟になっていると言われています。戸隠連峰は海底火山が隆起したもので、(山中にはホタテ等の化石が見られます)三十三窟といってかつて修験者達が篭ったといわれる岩窟が各所にあります。 これは吉野にそっくりです。吉野も海底から隆起洞窟多数&くず伝説多し!!!!! >戸隠山は天の岩戸伝説の地であり、奥社祭神は天手力雄命であり神社にもこのお話にもとづく太々神楽が伝わっておりますが、地元におりましてもこれはどことなくよそから来た話に感じまして、信仰的にもっとも深くそして厚く続いているのは九頭龍さんを中心にした農耕神としての信仰ですね。 これもおもしろいですよね! 原住民????のいつわざる本音って感じで! >また九頭龍さんの頭は戸隠、妙高山の麓、関山神社が胴体で、尾が能生の白山神社という伝承もあります。 これもおなじような話が大和にあります! 和歌山 名草とべ関係でも! 紀州富士と称される 竜門岳は クズ神降臨地です!最近和歌山づいてますが。大和ー吉野ー紀の川は繋がってますは!調べていくとクルっと元にもどるだなあ。 >北信流は松代藩、真田氏の影響という話もあります ちなみに私は大阪城真田丸のドン前に住んでいます。真田の抜け穴まで徒歩一分(笑い) |
[2525] Re[2518]: たびたび 鍋倉のイワクラ 姫 | 2006/10/06(Fri) 23:20 [Reply] |
MADOKAさん、 こんばんは。 > >三重県の青山と言えば、もうひとつ山添村との関わりが見られます。 山添村にある鍋倉石渓に、青山高原の天狗との伝説が伝わっていることです。 > > このことに非常に興味があります。詳しく書いていただけませんか? ひょっとしら鍋倉石渓の上の天狗岩のことでしょうか???&青山にもイワクラは多いんでしょうか?? MADOKAさんも桝型や岩屋寺へ行かれたのですね。 長〜い階段にはお疲れになったでしょう! むか〜し昔、神野山にへ天狗が棲んでいて、青山高原の天狗と喧嘩になりました。 青山の天狗は足許の土を、手でギュッと押し固め、つぶてにして高野山めがけて、どんどん投げつけました。 それが岩の石渓となったのだと、伝わっているのです。 MADOKAさんの書かれている天狗岩で思い出しましたが、イワクラサミットでは鍋倉渓が、天ノ川であり、天狗岩がワシ座のアルタイル(彦星)、八畳岩が琴座のベガ(織姫)、北斗岩が北極星だと言うことになっています。 各岩の距離を計測すると、その位置はそれぞれの星にほぼ重なるのだそうですよ。 写真掲示板に、サミットの資料のパンフレットを紹介してみます。 青山高原についてはまったくわかりません。 神野山との関わりとしては、青山高原は、高野山や生駒山と同じ位の標高ですので、かつてはこの三つの山頂にのろし台があった、と伝わっている位のものです。 けれども、のろし台の痕跡が発掘されたと言う話も聞きませんので、残念ながら確かな情報かどうか、わかりません。 くずさん、 枡形のある牛ヶ峰の山も岩石山ですし、神野山付近一帯は地盤が岩磐なのでしょう。 それで周囲にはたくさんの巨石があります。 とても九つどころではありません。 |
[2524] 九頭龍さん くず | 2006/10/06(Fri) 06:46 [Reply] |
MADOKAさん、能について、 佐渡には何回か行っていますが能に関しては、とても土に染み付いているなと、感じています。 北信流は松代藩、真田氏の影響という話もありますね。若い人の集まり(消防団とか)でも宴会では"北信流"となります。さすがに若い人で謡曲出せる人は少ないと思います。木遣り唄(北信では善光寺木遣り)などになるのですが継承されてはいますね。 >くずさんの投稿で九頭という調べ方もあるなあと。。 信州戸隠山、九頭龍さんの信仰が参考になるのかわかりませんが少しまとめてみますと、 戸隠信仰の発祥は戸隠山の懐。奥社、九頭龍社の祀られた場所と言われますが、奥社に至る参道(2kmほど)は戸隠連峰、表山の特徴的な峰である"八方睨"に対して直線に向きます。九頭龍社、奥社は参道の最後を右に曲った沢すじに鎮座し、九頭龍社の本殿の奥は深い窟になっていると言われています。戸隠連峰は海底火山が隆起したもので、(山中にはホタテ等の化石が見られます)三十三窟といってかつて修験者達が篭ったといわれる岩窟が各所にあります。 奥社参道は上杉景勝寄進と言われる杉並木が特徴的なのですが、八方睨から参道が向く方向は冬至の日の出方向に対応しているようです。(写真掲示板にカシミール3Dを使ったシュミレーションを載せてみます) 戸隠山は天の岩戸伝説の地であり、奥社祭神は天手力雄命であり神社にもこのお話にもとづく太々神楽が伝わっておりますが、地元におりましてもこれはどことなくよそから来た話に感じまして、信仰的にもっとも深くそして厚く続いているのは九頭龍さんを中心にした農耕神としての信仰ですね。また本地垂迹では九頭龍=弁財天とされましたように、水の神様、河川の神様でもあります。秘伝である"戸隠瀬替えの法"では、瀬替えを行う河川の要所に九頭龍権現を祀りました。 雨乞いに関する信仰も濃く、種池の水を汲んでご祈祷を受け、持ち帰るのですがそのさい、桶を地面につけてはならない。言葉を発してはならない。と言われています。 虫歯の神様とも言われてますね。梨が好物でお供えすると虫歯が治るとか。また九頭龍さんの頭は戸隠、妙高山の麓、関山神社が胴体で、尾が能生の白山神社という伝承もあります。 とみたさん、 山東半島にはこのところの興味の流れで気になっておりました。投稿された内容を少しずつ咀嚼しております。 皆さんの投稿を読みつつの北信濃中心マイペース投稿となっておりますが、関連ありそうな事、お気付きの点ありましたらおいおいでもお話し頂けたらありがたいです。 |
[2523] Re[2522]: 能。龍。夕日。イワクラ サン・グリーン | 2006/10/06(Fri) 06:39 [Reply] |
MADOKAちゃんへ > > >第一回イワクラサミットの時に出会ったイワクラオタクの現地の縄文人Kさん(周辺の地理にめっちゃ詳しい)を知っていますけど、なんならご紹介しようかあ? > > いーねー現地ナビは欲しいっす” > これからしばらく 山添村探索だとおもうんで 2003年11月22日、23日第一回イワクラサミットの報告と鍋倉や桝型石、その他の写真などを私たちのHP「イワクラ見ぃ〜つけた新聞}のコンテンツの中に「山添村でのイワクラサミット報告」詳しくアップしているので閑なときにでも見てね。 http://www5c.biglobe.ne.jp/~izanami/iwakura/narayamazoe.html その時の資料一式は神奈備さまにお渡ししています。(私のは転居のため行方不明(~_~;)) あっ! 神奈備さま、おかえりなさぁ〜い(*^_^*)お元気そうで何よりです。高山病は大丈夫でした? > 今度イワクラフォーラム行くけどくるんかなあ? 彼に連絡取れたらMADOKAちゃんに直接メールするね。 > > 『イワクラフォーラム 2006』 > 講演 > 1.「石に呼ばれてー日本石巡礼ー」写真家 須田軍司 > 2、「石の神話とコスモロジー」宗教哲学者 鎌田東二 > 3.「古代日本における石に対する宗教的心性」歴史。地理学者 千田稔 > > 平成18年10月7日(土)午後2時ー5時(受付 1時) > 会場 アピオ大阪 小ホール > 大阪環状線。地下鉄中央線 森ノ宮徒歩5分 > 一般1500円(前売り 1200円) > 学生1200円(前売り 1000円) > > 仔細はイワクラ学会事務局まで > 電話 06−6351−0075 > FAX 06−6351−0779 > メール iwakurag@yahoo.co.jp > > 須田軍司はサイトで良く紹介。一度あったことがありますが。イワクラの写真巡礼の目的はイワクラの写真でイワクラマンダラを作ることらしいです。この発想はちょっとおもしろいかなあとおもっています。 > 20年近く山中のイワクラ求めて彷徨っていた頃を思うとイワクラファンが増えてほんとにうれしいです。岡山の吉備津彦神社でも宮司様がイワクラ整備と祭祀に取り組まれていますよ。 |
[2522] 能。龍。夕日。イワクラ MADOKA | 2006/10/06(Fri) 00:10 [Reply] |
くずさん >北信濃には北信流なる宴会のしきたりがありまして(笑)宴の中じめなのですがそのさい「お肴」といって小謡を出します。普通のおじいちゃんが朗々と歌い上げますので、その話にいらしたシテ方演者の方も関心されていました。 これってすごいじゃないですか!世阿弥が流された佐渡ヶ島では野良仕事の労働歌が謡曲ていう話を聞いたことがありますが。。。本来そうだとおもいますよ猿楽能全盛時は能は今でいうテレビに匹敵してたはずで徳川期に武士階級が独占し庶民からとりあげるまでは、各村にはカラオケ自慢のように謡曲自慢がいたはずです。今でもあるんだー感動!! 戸隠神社はいってきました。ダム湖の上道路沿いにありますが本来かなり山の上では? 九頭龍は私も追っています。九頭かどうかはわかりませんが 龍神関係は2ヵ所ありました。姫さん投稿の岩屋の手前にお堂がありその前に水たまりのような龍神池 奥にイワクラ(この下か上方から水が湧いている) イワクラ上に竜王神社跡という石碑 神奈備別荘の過去ログ 2で タイシさんが紹介されてます。 鍋倉石渓 に竜王岩(これはすーごーいイワクラ)現在新興宗教境内地に祭られています。あとで調べてわかったのですが この竜王岩は 現在一つですがほんとはもっと回りにいくつもイワクラがあったらしい。(ひょっともともと9つあったらおもしろいですよね)ただ どうも 地元の神社との関係が不明。姫さんの投稿からも どうも寺をしらべたほうがよさそうです。神野寺とか。青山の滝仙寺とか?? ほとんどしらべてないんでなんともいえませんが。。。くずさんの投稿で九頭という調べ方もあるなあと。。なーんか見つけたらまた。 とみたさん トーテツ紋て龍神の原型紋ですよね >玉j(そう)は宗教のシンボル これにトーテツ紋のあるものを拝見したことがあります。神と人と繋ぐ祭具とうかがいました。 私はどうもこれは シンの御柱と良く似たものか原型と考えています。中国史跡めぐり報告面白く読ませていただきました。海洋民に縁のあるところを探索されたんですね。長江と苗族が日本に関係深いと思っていたので参考になりました。 サングリーンさん >私もいざなぎ神宮の浜宮の夕日を送るお祭との関連を調べている最中です。 んーやはり夕日かあ。。。 和歌浦にも聖武天皇が八十嶋祭りの原型?祭祀をした場所から見える場所に夕日信仰があったんだわ! まだ話だけで未調査 >第一回イワクラサミットの時に出会ったイワクラオタクの現地の縄文人Kさん(周辺の地理にめっちゃ詳しい)を知っていますけど、なんならご紹介しようかあ? いーねー現地ナビは欲しいっす” これからしばらく 山添村探索だとおもうんで 今度イワクラフォーラム行くけどくるんかなあ? 『イワクラフォーラム 2006』 講演 1.「石に呼ばれてー日本石巡礼ー」写真家 須田軍司 2、「石の神話とコスモロジー」宗教哲学者 鎌田東二 3.「古代日本における石に対する宗教的心性」歴史。地理学者 千田稔 平成18年10月7日(土)午後2時ー5時(受付 1時) 会場 アピオ大阪 小ホール 大阪環状線。地下鉄中央線 森ノ宮徒歩5分 一般1500円(前売り 1200円) 学生1200円(前売り 1000円) 仔細はイワクラ学会事務局まで 電話 06−6351−0075 FAX 06−6351−0779 メール iwakurag@yahoo.co.jp 須田軍司はサイトで良く紹介。一度あったことがありますが。イワクラの写真巡礼の目的はイワクラの写真でイワクラマンダラを作ることらしいです。この発想はちょっとおもしろいかなあとおもっています。 |
[2521] kodai とみた | 2006/10/05(Thu) 10:31 [Reply] |
山東省の徐福のロウ耶台 、春秋戦国時代の都、臨シ、そして始皇帝が封禅した泰山、孔子孟子の魯国の曲阜、大ブン口文明の発掘地の大ぶん口村(鎮)・・・南京、蘇州、会稽=紹興、杭州、 遣唐使の上陸地の寧波を訪れました。 究めつけは、7000年前の河ボ渡遺跡と5000年前の良渚の遺跡の発掘地まで足を伸ばしました。 杭州の近郊とはいえ随分離れています。 それにしても古代人はすごい文明をすでに持っていますね。 河ボ渡遺跡は、7000年前は亜熱帯で象がいた。米作が始まったいること、丸木船や櫂があること、鳥と太陽の信仰がすでにあること、蚕や麻があること、高床式住居、黒陶土器、 民はモンゴロイド系であること 良渚文明は、5000年前の玉とトーテツ紋の文明。巫女(男)の力がすごく大きい。祭政一致なのでしょう。 宗教のトップが政治のトップ。 貼り付けた写真では、35mの丘に祭壇がありその下に巫女(男)の眠る棺がいくつかみえる。 玉には玉けつ(王央)は宗教のシンボル、玉えつ(金戊)は兵隊のシンボル、 玉璧は財産のシンボル ついでに黄河文明の一つ山東の大ぶん(シ文)口文明は、6300年前の文明で、黒陶、彩陶土器で有名。泰山の近くでした。 父系社会から母系社会への移行、階級社会への移行期です。 長江下流の良渚文明や黄河の下流の大ぶん口文明から多くを学び取って黄河中流の4000年〜3000年前に入ると夏や商・殷王朝時代にはトーテツ紋を青銅器(鼎など)に取り込み王権を発達させます。以上確実な情報です。この真実情報をベースに古代史をさらに追っていきましょう。 今回訪れた山東半島や江南は日本の漢氏、秦氏のルーツ、アメノヒボコのルーツかも知れません。 |
[2520] Re[2514]多田氏 くず | 2006/10/05(Thu) 03:29 [Reply] |
姫さん、遅いレスですみません、、 > 多田氏は、オオ氏の末裔を自称していたそうですが、どうも根拠の無いことのように思えます。 アソ繋がり、それと(もしかしたら)五行に由来した祭祀から多氏を見てきていますので、多田氏がオオ氏の末裔というのは興味がありますね。 同じ多田源氏から溝杭氏がでていますけれど、この名も多氏の祖、神八井耳命の母方(ヒメタタラ)の祖父、三嶋湟咋と何か関係あるのではないかな。清和天皇は母方が藤原氏ですし、多田氏の家紋に牡丹(と唐獅子)があるようで、多氏と藤原(中臣)氏は(自分のなかでは)三嶋の故地と武甕槌の名とで繋がるのですが、古来より祭祀を司った系統から祟り除けの鎮魂から疫病、鬼封じ、そして古芸能へ通じる流れが生じても不思議はないかと思います。 山添村には戸隠神社があるのですね。イワクラと共に九頭竜さんへの信仰も濃いのでしょうか。 MADOKAさん、 >感涙 は大袈裟(笑) 能、狂言は「紅葉狩」が中心ですけれど、地元でも薪能をやりますので何度か見ています。 今年は10月31日に狂言「船渡ムコ」「梟山伏」の二番。 北信濃には北信流なる宴会のしきたりがありまして(笑)宴の中じめなのですがそのさい「お肴」といって小謡を出します。普通のおじいちゃんが朗々と歌い上げますので、その話にいらしたシテ方演者の方も関心されていました。 |
[2519] Re[2518]: たびたび サン・グリーン | 2006/10/04(Wed) 06:35 [Reply] |
MADOKAちゃん > 成功した見たいやね えかった! \(^0^)\ ありがとう(*^_^*) にっぽん丸での船内講演で鍛えられたので「古事記漫才」のレベルに近ずきつつあります。 吉本にスカウトされたらどないしょ(~_~;)いつか聞きに来てね。 > こちらも 八十嶋まつりの件、和歌山で大収穫&御推薦の近つ飛鳥博物館関係資料で八十嶋祭りにかかわる記載みっけ!!!\(~0~)! それは、すばらしい! またウガで会った時に詳しい聞かせてね。 私もいざなぎ神宮の浜宮の夕日を送るお祭との関連を調べている最中です。 浅野温子さんの古事記の語りの宣伝ありがとう! 彼女の講演のギャランティからしてティケット代2000円は安い! ぜひぜひたくさんの方に見てもらいたいでぇ〜す(^^♪ それから山添村〜青山周辺のイワクラの件 第一回イワクラサミットの時に出会ったイワクラオタクの現地の縄文人Kさん(周辺の地理にめっちゃ詳しい)を知っていますけど、なんならご紹介しようかあ? |
[2518] たびたび MADOKA | 2006/10/03(Tue) 20:42 [Reply] |
姫さん たびたび >青山の滝仙寺(ろうせんじ)と岩屋寺の関係 ありがとうございます。ついせんだって。この枡型と岩屋寺はいってきたところです。岩屋の前にこれに似たことが書いてあったのですが、どうも意味のわかりにくい文面で????姫さんの投稿でやっとわかりました。 >三重県の青山と言えば、もうひとつ山添村との関わりが見られます。 山添村にある鍋倉石渓に、青山高原の天狗との伝説が伝わっていることです。 大昔、二つの地域には何らかの強い繋がりがあったのでしょうか。 このことに非常に興味があります。詳しく書いていただけませんか? ひょっとしたら鍋倉石渓の上の天狗岩のことでしょうか???&青山にもイワクラは多いんでしょうか?? サングリーンさん 成功した見たいやね えかった! \(^0^)\ 前回のレスの感じではいつもの検証の仕方と違うみたいやね! おーしゃ 目の鱗ひっぺがしてもらうのを覚悟と期待満々でまっとるでぇーーーーー!!!! こちらも 八十嶋まつりの件、和歌山で大収穫&御推薦の近つ飛鳥博物館関係資料で八十嶋祭りにかかわる記載みっけ!!!\(~0~)! へたばりぎみなんで ちょっと時間かかるけど投稿するから見てね! 八十嶋祭りの件は広めてやー! こんな由緒正しき祭りなのに大阪の人はほとんど知らんのやかねえーーーがんばってやーー! ☆トピックス 御案内 大阪府神社庁が60周年記念に 浅野温子さんの古事記の語り舞台を公演されます。 10月18日(木)(大阪市阿倍野区)阿倍野神社18時30分〜いざなみ、いざなぎと天の岩戸隠れ 10月20日(金)(大阪北区)大阪天満宮18時30分〜天孫降臨と国ゆずり 10月22日(日)((大阪羽曳野市)誉田八幡宮午後6時〜(公演内容未定) 10月24日(火)(大阪市)今宮戎神社午後6時〜(公演内容未定) 雨天決行、傘使用禁止(レンコート着用) 公演内容は四日間とも異なるそうです。 いずれも定員になり次第締め切りです。 全席自由席、会費各公演2000円 仔細は各会場神社にお問い合わせください。 壮大な日本神話「古事記」の世界を女優浅野温子さんの語りと音楽で 鑑賞いただきます。浅野さんの発する言霊の力をご一緒に体感いたしましょう。とのことです。 神奈備さん tanosiitabi to anzen wo ! |
[2517] 桝型(ますがた) 姫 | 2006/10/03(Tue) 13:58 [Reply] |
MADOKAさん、題目立に関連していろいろと教えてくださって、とても勉強になりました。 芝居の芝の意味など、面白いと思いますし、ワヤンを観る王の座席の位置などは、天皇陛下が遠くの二階席からご覧になる様子と、関連するように思いました。 ありがとうございました。 今回もまたローカルな話題ですみませんが、大和高原にある巨石についてちょっとばかり話させていただきます。 「桝型」と言う名前は、巨石の真ん中辺りに穿たれたほぼ正方形の穴が、丁度一升桝の形に見えることから名づけられたものですけれども、早く言えば弘法大師信仰の一端です。 山中にあるため、全体像が撮れませんが、写真掲示板に石の様子を載せてみます。 見えている面が加工したように美しい平面ですけど、巨石の一部がここからパカンと割れて、2,30m下に転がり落ちたようです。 落ちた石は、巨大な岩棚を作り、その下は上手い具合に高さが2m以上、広さは12畳ほどもある洞窟になっていて、ここに「岩屋寺」と言う山岳修業の場が開かれました。 奥に五輪塔や仏像が安置され、護摩壇も設えられています。 この岩屋寺が弘法大師の開いたものだそうです。 大師は山の麓にある「宝泉寺」に暫く滞在し、洞窟の入り口の上面に大日如来を線刻した(この像は現在も鮮明に残っています)そうで、そのときの鑿と鎚が桝型に納めてあると伝承されていました。 ところが、何時の頃か桝型の蓋を開けて、中を見たところ、鑿と鎚ではなく、木製の「鏡形御正体」が入っていたようです。 桝型は石の厨子だったわけで、中にご神体を入れていたようですが、弘法大師関係の遺物とすれば、鏡形の木板というのがちょっと不思議なことです。 面白いことに、平成二年、偶然から判明したのですが、実は三重県青山町滝仙寺に所蔵されている弘法大師所縁の宝物は、天正十年(1582年)頃まで、奈良県の山辺郡山添村の岩屋寺にあったことがわかりました。 どういう繋がりがあったのか、奈良の宝泉寺(ほうせんじ)(正確に言えば、岩屋寺ですが)から青山の滝仙寺(ろうせんじ)に伝えられたと言うことですね。 三重県の青山と言えば、もうひとつ山添村との関わりが見られます。 山添村にある鍋倉石渓に、青山高原の天狗との伝説が伝わっていることです。 大昔、二つの地域には何らかの強い繋がりがあったのでしょうか。 この鍋倉石渓はイワクラサミットにも取り上げられて、古代の祭祀址として認証されていますが、桝型巨大石もまた高い山上にある不思議な巨石ですので、古代においては何らかの信仰の対象になっていたと考えられます。 ところが弘法大師が実際に来られたかどうかわかりませんけれども、大師信仰にすっかり転換されてしまい、それ以前の信仰の形は消滅してしまって、イワクラ関連には加えられていません。 まあ、「桝型」の石は大きいものですが、鍋倉の延々と続く石渓の迫力には及びませんから仕方がありませんね。 ローカルな話題でどうもすみません。 |
[2516] Re[2506]: 青草も役に立つ。 サン・グリーン | 2006/10/03(Tue) 07:59 [Reply] |
素人さま 遅いレスですみません。 29日、中央公会堂講演に続いて伊勢崇敬会研修旅行で古殿地清掃奉仕に行っておりました。 (29日はたくさんの方に来て頂きありがとうございました。病気になるとなぜ天皇が難波に行幸するのかの私見を話させていただきましたが、青草には書ききれなくてすみません。MADOAKAちゃん、また別席で目のうろこ落とさせてね…) 餅鉄情報 > コンノ電気総合技術研究所Wab > 個人で餅鉄での手作り炉での製鉄をやっておられます。餅鉄は大変に詳しいと思われます。 > http://kondensouken.hp.infoseek.co.jp/index.html > コンノ電器総研掲示板 こちらでご相談になさってはいかがでしょうか。 > http://kondensouken.hp.infoseek.co.jp/cgi-bin/bbs/joyful.htm > 大変貴重な情報ありがとうございました。 さっそく井関教授にご報告させていただきますね。 教授は染色が専門ですが、そのバイセンに鉄が多用される面から製鉄に嵌られたそうです。 神奈備さま、ぼつぼつ帰国準備でしょうか? 魂の故郷(ペルー)に行かれて過去生の自分に出会われたのでは? またウガでゆっくりお土産話を聞かせてくださいね。 |
[2515] 題目立 能 古代祭祀 MADOKA | 2006/10/02(Mon) 23:04 [Reply] |
姫さん 舞台設営の写真ありがとうございます やーーこれは感動的。本来の猿楽能の舞台や作りもの(大道具)はこんな感じだとおもいますよ。能舞台の建築様式ができるまでは。。。 能は本来、芝に居て演じられ=『芝居』の語源。 奈良の薪能は今は敷き舞台ですが最初に僧兵が半紙を地面に引いて芝改めをして始まります(上演可能な舞台かどうかの点検?の様式化したもの?) >「石橋山」に至ってはかなり長く演じられていないそうです。 これは非常に長い演目で、一説に寄ると、夜が明けるほどだ、とのことです! これもなーんかわかりますわ。 一種の呪的要素が強いんでしょうね 文楽。歌舞伎の通し狂言や能の五番立てもほんとに半日かかりますからねえ。やはり祭りで演じられた名残なんでしょう。ある外国の学者が『西洋の演劇は舞台でなにごとかが起こるが日本の演劇の舞台にはなにものかがいずこからやってくる(たちあらわれる)』 と評していますがけだし名言。 一度外人作の新作能を外人が演ずるのを拝見 イエーツ 『鷹姫』 それが まあなんとも どっかの未開の部族の宗教儀礼のようで はっ??? どうも外人からみた能というのはこうみえるんだろうなあとしみじみ。 なにごとがおこるかをみるのではなく。たらたらとボート眺める 呪的トランス状態の中に身をまかせていると突然目の良くなるマジカル3Dの絵が見えるように この世のものでないなにものかが立ち現れる 能の貴賓席は舞台のかぶりつきではなく、正面の一番後ろです。 また インドネシアの影絵 ワヤンも王者の坐る席は影絵の見える場所ではなく。影絵を映す裏手奥。つまり操作する仕組みがすべて見える場所。 ワヤンは遠近法や突然画面に巨大なものが現れたり。大きいものが小さくなったり非常に多様なテクニックがあるのですがそれを見て手を叩くのは庶民で王者はすべての仕組みがわかる場所かみる。 これはたぶん 王者や貴賓は神の目線で舞台をみているのではないかとおもいます。 中世の芸能は私が講義を受けたころは。絵や言葉立てはあっても実際にどうだったかはわからないというのが通説でしたが。今は非常に研究が進んで具体的な復元等が行われています。(ほんとにめざましいものがあります)中世の芸能は古代祭祀の精神世界を引き継いでいて非常に参考になります。 >遠くからの見学は大変残念なことですが、ちょっと難しいと思います。 なーーんかこれも 呪的な意味で外部の人間がいけないようになっているんだろうか???なんておもっちゃいました。\(~0~)\ 貴重な情報をありがとうございました。 くずさん やー能御存じなんですね! 嬉しい 感涙” わたしはこのサイトの人にこそ謡曲本は読んでいただきたいとおもっています。井沢元彦や紹介したサイトなど古代史の観点で謡曲本がとりあげつつあります 。私は記紀の次に来る文献は謡曲本だと確信しています。その理由などは これからおいおい紹介していくつもりですが。その節は足りないところはフォローください。よろしく。 |
[2514] Re[2512][2505][2509]: 八柱神社から 姫 | 2006/10/02(Mon) 20:01 [Reply] |
クズさん、 題目立について、レスいただきましてありがとうございました。 残されている台本を詳しく研究された牧野栄三氏によりますと、構成が非常に合理的であり、限られた条件の中で控えめに、しかも多様さを持った変奏で作られているそうです。 限られた条件とは、演じるのが満16歳になったばかりの、田舎の少年であると言う意味でしょう。 作者はよほどの練達者であったのでしょうか。 > 「題目立」の演目が平家に関係するものとしたら、彼らの魂を鎮めよと舞ったのは源氏の流れではないでしょうか。都祁ならば、もしやすると多田氏に由来するものではない かと考えますが。 多田源氏のお話ですが、多田氏が都祁に勢力を拡げ始めたのは鎌倉時代ですので、丁度その頃に題目立が成立したかもしれないことを考えれば、ほんとうに仰るとおり、多田氏の系統の誰かが作ったものかもしれませんね。 きっとそうだと思います。 ありがとうございました。 多田氏は、オオ氏の末裔を自称していたそうですが、どうも根拠の無いことのように思えます。 > クズ関係で都祁、それから疫病の護符として牛頭天王の信仰、そして素戔嗚神との習合と興味が繋がっております。 > まず八王子社、八柱、それから疫病除けとなりますと牛頭天王信仰の影響を感じます。 クズさんのお話を聞いて、大急ぎで調べましたところ、題目立の奉納される八柱神社には、確かに、末社として八坂神社と、素戔嗚尊が祀られていました。 仰るとおり、 都祁村の神社を見ましたら、ほんとうに牛頭天王やスサノオの祀ってある神社が多いのですね。 題目立は、最初から上深川と言う村に伝わったものではなく、隣の荻という村から来たものではなかろうかと、言われているそうですが、荻にもかつては八王子社があったようです。 現在は廃絶していますが、これは大洪水によるものだそうです。 そのとき、題目立が上深川の村に遷されたのだと思います。 いろいろと気づかせていただきました。 ありがとうございました。 |
[2513] from peru kamnavi | 2006/10/01(Sun) 21:48 [Reply] |
genkide ryokouchuudesu |
[2512] Re[2505][2509]: 八柱神社から くず | 2006/10/01(Sun) 21:17 [Reply] |
nickさん、遅くなりましたが、、 > > 佐加神社。明治期に白髭大明神から改名、社伝に「799年帰化人5人が山門寺に住む」 > > この帰化人と言うのは「新羅」でしょうか。 白髭から新羅を連想しております。が、どうでしょうね。当地の佐加神社は平地にありました。 長野県内の白髭社は平地を望む高台に鎮座する事が多く、また祭神は猿田彦神が多いようです。 > >佐久市岩村田には曲口(しゃぐち)神社があるようで、土地の人が「岩村田の地尺をはかるときに尺を入れはじめをしたところ・・・ > > なかなか知名や名称の由来も面白いですね。 > 当地も「条里」の尺が残っている地名が散見されます。 > それに由来する神社はどうでしょうか。 上田の古安曽周辺にも条理の跡が残っているようです。九州には御社宮司と名が繋がるようなお社はございませんか? 姫さん、 クズ関係で都祁、それから疫病の護符として牛頭天王の信仰、そして素戔嗚神との習合と興味が繋がっております。 まず八王子社、八柱、それから疫病除けとなりますと牛頭天王信仰の影響を感じます。 それから「題目立」ですが、これは自分が知る「能」からなのですが、能の舞いとは過去(死者)への鎮魂が主題。それに対して現在の生を笑い、尊ぶのが狂言ではないかと、そんなふうに感じておりましす。 「題目立」の演目が平家に関係するものとしたら、彼らの魂を鎮めよと舞ったのは源氏の流れではないでしょうか。都祁ならば、もしやすると多田氏に由来するものではないかと考えますが。 多田源氏、摂津源氏は鬼との関係が深いですね。 戸隠を舞台にした能の演目「紅葉狩」がございますが、鬼女と呼ばれる前の彼女が都でつかえたとされるのが源経基で清和源氏の祖。お隣の鬼無里で紅葉が住んだと伝えられる居館跡(内裏屋敷)から鉄滓が出ています。お芋と一緒かは解りませんが(笑)製鉄技術に通じた鬼(女性)達がいたのかもしれません。 |
[2511] Re[2510]: Re 『題目立』 姫 | 2006/10/01(Sun) 20:59 [Reply] |
MADOKAさん、 レスいただいてありがとうございました。 > 非常に能に近いですね > 猿楽能全勢時にできたようですし能の題材ににてますねえ > > 能舞台の建築様式は元々神社建築にもとづいています。創世期の歌舞伎も能舞台を使っています。 > 本来の芸能は神を寿ぎ、御霊を鎮め。演者を通じて神霊の姿を垣間見る。 ご紹介いただいたサイトに、「大仏供養」と言う演目もありますし、仰るように、あまり派手な動作が無いという点から見ても、能の要素が強いのでしょう。 毎年きちんと演じられてきた題目立ですのに、八柱神社には舞台がありません。 それで宵宮には、広くもない境内の地面に直接茣蓙を敷き、その一角に竹で編んだ小さな屋形を建てて、即席の舞台が設えられます。 「厳島」では清盛が安芸の国の神社に詣で、明神のますますの恩恵を願い、様々の供物を捧げて、弁財天から薙刀を授かるという筋立てです。 「大仏供養」では、大仏の開眼供養に下向した頼朝が、度重なる平家の残党悪七兵衛景清の襲撃を、警護の武将の活躍でかわし、無事に鎌倉に帰る、と言う筋です。 特に、奈良の転害門で待ち伏せしていた景清の襲撃を撃退する場面が演じられるそうです。 「大仏供養」はもう50年以上も上演されていません。 「石橋山」に至ってはかなり長く演じられていないそうです。 これは非常に長い演目で、一説に寄ると、夜が明けるほどだ、とのことです! 内容は石橋山の合戦が語られ、最後に頼朝が一の谷の合戦から始まって、平家の敗戦の地名を列挙するそうです。 一気に合戦の地名を述べることで、若者の意気を高揚させ、それぞれの土地の精霊を集めた題目立を奉納することで、鎮守神の神格をより高め、氏神に守られた村人の繁栄を意図するものだとのことでした。 まったく意味のわからない文句を、そのままに伝承されていますが、少し内容をご紹介させていただきます。 これは、「フショ舞」(譜所舞)と呼ばれるものだそうで、この部分は口伝に依り、番帳には載っていないそうです。 そーよーやー、よーろーこびー、へいへんにー よーろこびーに、よーろこびーに、またよろこーびをかーさぬれーば、 もーんどに、やーりきに、やーりこどーんどー、 よーろこびーに、よーろこびーに、またよろこーびーをかーさぬれーば、 もーんどに、やーりきに、やーりこどーんどー > また。演じられることがありましたら。日程等をUPください。是非見てみたいとおもいました。 演じられるのは毎年、10月12日の宵宮ですけど、八柱神社のある上深川には、電車は勿論、バスの便もありませんので、遠くからの見学は大変残念なことですが、ちょっと難しいと思います。 写真掲示板に、設えられた舞台の様子の写真を載せてみます。 |