青草掲示板ログ平十八年十二月 2006.12
多に蛍火の光く神、及び蠅声なす邪しき神有り。湯嶽神・菊嶽神の集い。
素人のひらめき、力はないが騒がしくなかなか従わない、一寸の草木にもある五分の魂の発露を!
 青草掲示板

[2681] Re[2680]: 商人 続  神奈備 2006/12/28(Thu) 20:51 [Reply]
 縄文時代の商人ですが、三内丸山からは翡翠も出ているようで、広域な範囲で物が流通していたようです。商人が持ち運んだのでしょうが、商人とはその村にとってはマレビトであり疫病神でもあり、入る際には祭祀は欠かせなかったでしょう。

 縄文時代には宗教と商いは不可分と青森県教育庁主幹の岡田さんは述べていますが、中世や古代からの敷衍の推測に過ぎないので、どうかなとは思いますが、上記の程度には宗教的気分があったのでしょう。それは何をするにもそうだったとも言えるでしょう。

[2680] 商人  神奈備 2006/12/28(Thu) 20:31 [Reply]
> 商業というのは、本来、神仏との関わりなしには成り立たない行為だったのです。

 これがいつ頃の話なのか、ですね。仏ななくても商いはできた。本来と言えるかどうか。
 
 人類の最古の商売は売春であり、神仏は目を閉じたい気分。
 
 さて、弥生時代、卑弥呼が魏に献上した諸々の物は朝貢貿易として考えることができるでしょう。卑弥呼は鬼道をよくする女王なので宗教者と言えるのかも。一応神とのかかわりはありそうですね。

 さらに『倭人伝』には、対馬は南北に市糴しているとあります。また大倭が市場を監視しているようです。この人は単なる役人なのか、役人でかつ宗教者なのか、役人は皆宗教者だったのか、宗教者とは何だ、信者は皆そうなのか、その名前が大倭というのが何らかのヒントになっているのかも知れません。
 
 古墳時代以降には市がたっているようです。この時代のは椿や槻の木の生えている境界のような所が市。祭祀の気配が感じられますね。

[2679] 熊野権現と商人の関わり。  倭亜布 2006/12/26(Tue) 16:57 [Reply]
熊野権現と商人の関わり。
■ 熊野の説話 (邪馬台国の【牙】から、このようなHPに出会いました。)
 熊野権現の眷属28人が日本に来て、山伏となり、そのうちの4人が商人の始祖となったと「秤の本地」では語られます。

 普通、人が人と物と物との交換を繰り返していくと、人と人の繋がりはより緊密なものになっていきます。人にとって物とは単なる物そのものではありません。物は持ち主と強い結びつきをもち、物には持ち主の人格の一部が付着しています。
 物を交換するということは、自分の人格の一部を相手に渡し、相手の人格の一部をもらうことになり、両者の間に強い絆を作ってしまいます。
 しかし、それでは商売になりません。

 付着した持ち主の人格を物から分離し、物を物そのものとして交換するために、人は市場をつくりました。
 市場は聖なる場所につくられました。聖なる場所。神仏が支配する空間。そういう空間に入った物は、もとの持ち主の人格との結びつきを断ち切って、神仏の所有物となると考えられました。

 市場に入ったら、物は神仏のものとなる。そうしてはじめて物は、もとの持ち主の人格との結びつきを解かれて物それ自体として交換できるようになるのです。
 いったんは神仏の所有物になることによってはじめて物は商品になれる。

 商業というのは、本来、神仏との関わりなしには成り立たない行為だったのです。

商人の巻物「秤の本地」、商人の起源
http://www.mikumano.net/setsuwa/hakari.html

熊野牛玉宝印
『自分の他者に対する約束を熊野三山の権現にかけて誓うという誓紙で、破れば神罰たちどころにくだるという。』
http://www.mikumano.net/setsuwa/honnji6.html
http://www.mypress.jp/v2_writers/hirosan/story/?story_id=1394705

[2678] Re[2677][2670][2666][2664]: 尾張氏(これまでのまとめ)  神奈備 2006/12/26(Tue) 09:26 [Reply]
> 私は・・・古代の王国は北九州と畿内のどちらかにあったという説は支持しないし、北九州と畿内の2つにあったという説も支持しません。出雲が越を平定したのなら、越から出雲の北陸・山陰王国があったろうし、濃尾平野を中心とする東海王国や、関東平野を中心とする関東王国もあったと思います。

 そうだと思いますよ。「2つにあったとの説」はどなたがとなえられているのでしょうか? 他にはないと云うことでしょうかね? 寡聞にして知りませんが・・


> 「日本が1つになりました」と言っていいのは神武天皇の誕生の時と言うよりは、大化の改新の時では?

 大化の改新の時とされる根拠は何でしょうか? 乙巳の変は宮廷内のクーデターのようなものでしょうし・・・

 平安時代にも蝦夷への征服軍が幾度もでています。琉球や北海道を考えますと、もっと遅かったように感じます。

[2677] Re[2670][2666][2664]: 尾張氏(これまでのまとめ)  PONTA 2006/12/26(Tue) 05:45 [Reply]
> 白石太一郎先生は、邪馬台国と対立する強国の狗奴国を東海地方に想定されています。

愛知県埋蔵文化センターの加藤安信氏と赤塚次郎氏が「狗奴国尾張説」を初めて唱え、さらに最近では両氏によって「狗奴国尾張美濃説」へと進展しつつある。これを支持しているのが白石太一郎氏という構図のようですよ。

私は・・・古代の王国は北九州と畿内のどちらかにあったという説は支持しないし、北九州と畿内の2つにあったという説も支持しません。出雲が越を平定したのなら、越から出雲の北陸・山陰王国があったろうし、濃尾平野を中心とする東海王国や、関東平野を中心とする関東王国もあったと思います。神武天皇以降は畿内を中心に日本が1つにまとまったような印象を受けますが、実際は四道将軍とか、日本武尊が平定しに行ってるわけですから、「日本が1つになりました」と言っていいのは神武天皇の誕生の時と言うよりは、大化の改新の時では?

[2676] Re[2675][2673][2670][2666][2664]: 尾張氏(これまでのまとめ)  PONTA 2006/12/26(Tue) 05:27 [Reply]
> 邪馬台国=奈良とすると、「狗奴国」=熊野ですね。丹敷戸畔や名草戸畔たちのことかな。

邪馬台国=奈良説は、「南ではなく東」と言い換えて成立する説だから、狗奴国は奈良の南ではなく東になるわけで、濃尾平野ってことかな。
http://www.inuyama.gr.jp/ssinfo/contents/aotsuka/shinpo/shinpo7.html
を読むと、前方後方墳は尾張の古墳の特徴ではなく、尾張以東の東日本の特徴らしいですね。

[2675] Re[2673][2670][2666][2664]: 尾張氏(これまでのまとめ)  PONTA 2006/12/26(Tue) 01:11 [Reply]
> 「狗奴国」は邪馬台国の南の国ですから、PONTAとしては、邪馬台国=北九州、「狗奴国」=熊襲の国ですね。
> 狗奴国の位置を濃尾平野にすると、邪馬台国は美濃? 飛騨が古代日本の中心とする説(飛騨高天原説)のことかな?

邪馬台国=奈良とすると、「狗奴国」=熊野ですね。丹敷戸畔や名草戸畔たちのことかな。

[2674] Re[2667][2665][2664]: 尾張氏(これまでのまとめ)  PONTA 2006/12/25(Mon) 23:20 [Reply]
尾張・三河の墳墓の特長は前方後方墳です。
2世紀末  四上免
3世紀前半 矢道高塚、弘法山
3世紀中頃 市杵島神社、象鼻山
3世紀後半 桜井二子、東の宮

一方、尾張の古墳を大きい順に並べると、
1位:断夫山古墳・熱田区(6世紀)・全長151mの前方後円墳
2位:青塚古墳・犬山市(4世紀後半〜末)・全長123mの前方後円墳
3位:白鳥塚古墳・守山区(4世紀末)・全長109mの前方後円墳
です。

つまり、3世紀までは土着の豪族がオリジナルの前方後方墳を造り、4世紀に入って大和朝廷の人が入ってきて前方後円墳を造ったってことかな。

[2673] Re[2670][2666][2664]: 尾張氏(これまでのまとめ)  PONTA 2006/12/25(Mon) 21:39 [Reply]
> 私も南九州の阿多(吾田)の民が、黒潮に乗って太平洋岸に植民していると思っております。隼人でしょか。長江上流の巴蜀の民は鵜飼をするそうでこの民がルーツかも知れないとも思っています。早大の古賀登先生の説です。

古代は街道の整備がされていませんから、移動には船をつかうことになるでしょうね。
アタ族は黒潮に乗って太平洋岸はもちろん(たとえば温泉で有名な静岡の「アタミ」)、日本海側にも行ったかもしれません。秋田県の「アキタ」は「アタ地名」だとする説もあるので。

・鵜飼は中国の雲南から長江の沿岸、ないしは華南の海岸一帯に分布してるとか。
・野間半島には昔は多くの漂着民がいたそうで、アタに定着した中国人も多いそうです。特に華南との交流が深かったようです。野間岳の南の坊ノ津は遣唐使の発着港だったようです。
・野間半島の野間神社は昔は東宮と西宮に分かれていて、東宮の祭神はニニギとコノハサクヤ姫で、西宮の祭神はノウマ神(「野間」の語源?)。このノウマ神のルーツは中国の福建省だそうです。

> 白石太一郎先生は、邪馬台国と対立する強国の狗奴国を東海地方に想定されています。

「狗奴国」・・・似た名前なら「久努国」かな。『先代旧事本紀』の「国造本紀」によれば、遠江国は素賀国(掛川市。蘇我氏?) 、久努国(久能)、遠淡海国(磐田市)の3つに分かれていたそうです。
地名が同じというのは、同じ場所を言ってるのか、偶然の一致なのか、同じ氏族が住んでいて同じ地名をつけたのか・・・。
「狗奴国」は邪馬台国の南の国ですから、PONTAとしては、邪馬台国=北九州、「狗奴国」=熊襲の国ですね。
狗奴国の位置を濃尾平野にすると、邪馬台国は美濃? 飛騨が古代日本の中心とする説(飛騨高天原説)のことかな?

[2672] Re[2671][2667][2665][2664]: 尾張氏(これまでのまとめ)  PONTA 2006/12/25(Mon) 21:02 [Reply]
> 三河も混ざっていると思います。

ということは、「尾張の墳墓の特長は前方後方墳です」ではなく、「尾張・三河の墳墓の特長は前方後方墳です」ですね。

[2671] Re[2667][2665][2664]: 尾張氏(これまでのまとめ)  神奈備 2006/12/25(Mon) 13:51 [Reply]
> 古墳のことはよく分からないので・・・前方後方墳ですか・・・
> 桜井二子って尾張にもあるんですか? 三河だと思ってました。

三河も混ざっていると思います。

[2670] Re[2666][2664]: 尾張氏(これまでのまとめ)  とみた 2006/12/25(Mon) 12:16 [Reply]
PONTAさん 私事で恐縮ですが、出身が尾張名古屋ですから特に
興味のある尾張族の話、よくまとめていただいて感謝しています。

今は関東圏に暮らし、昨年今年と飛鳥の小治田近くの豊浦の民宿に泊りました。


> > 知多(『和名抄』の「智多」)の語源は不明で、「千田」(「多くの田」の意)等、多くの説がありますが、個人的には「阿田(あた)」が語源だと面白いなと思います。(「あた→ちた」の変化は国語学的にはありえませんね。)阿田族は『和名抄』の阿田(鹿児島県。阿多、吾田)を本拠地とする海人族です。にも知多半島に野間(野間灯台、野間大坊で有名)があります。また、「アタ」は沖縄の言葉で「鵜」の意であり、「阿陀(あだ)の鵜飼」であって、長良川の鵜飼を思い出しますし、下呂温泉郷(岐阜県下呂市)を流れる川は阿多野川です。

私も南九州の阿多(吾田)の民が、黒潮に乗って太平洋岸に植民していると思っております。
隼人でしょか。長江上流の巴蜀の民は鵜飼をするそうでこの民がルーツかも知れないとも思っています。早大の古賀登先生の説です。
吉野の五条には阿多と言う地名があります。神武東征軍が宇陀に入ったとき阿多の鵜飼の民が応援します。

和田アツム先生は、吉野川は古代に神仙境であった。ここへ紀ノ川から遡って吉野に入った漁撈民が神仙思想(道教)をもたらしたのではと考えておられます。

道教旋風を巻き起こした五斗米道は長江流域で2世紀に盛んでした。


> > 尾張国に入った海人族は「阿曇氏であり、同族でありながら2派に分かれ、1派は丹羽氏と融合し、1派は海部氏と融合して小牧市小針に本拠地を置いて、尾張氏を名乗った」のだそうですが、個人的には阿曇氏ではなく、阿田族だと思います。
> >
、葛城国造族の味師内宿禰が異父兄弟で紀伊国造族の武内宿禰と争って敗れた結果、尾張』とは『小治』で、『ヲ(接頭語)+ハリ(開墾地)』の意」とする説などがあります。(どちらの説も「高」の存在を忘れていますが(苦笑)。)「 高=小、尾=御、張=墾」あるいは、「 高=(美称)、尾=小、張=墾」で、小墾田宮の「小墾田」と同じかな。

千田稔先生の本で、天の香具山の近くに尾張氏が住んだことは十分ありうる。推古天皇の小墾田宮(オハリダノミヤ=現在の明日香村)の小墾田が尾張氏と関係がある。奈良時代の人物に小治田(オハリダ)と名乗っていた者が後に尾張という姓に改めると言う一例がある。天の香具山の香具は輝くと言う意味にとれホアカリの火のイメージにつながる。
> >

ついでに、考古学的に気になっていることです。

白石太一郎先生は、邪馬台国と対立する強国の狗奴国を東海地方に想定されています。

3世紀の邪馬台国の時代、愛知三重で作られた土器(東海式土器)は日本列島いたるところに動き回っていて東京や千葉にも見つかっているのに、逆に愛知にはよその土器は全然入ってない。愛知県の人は自分では出て行くがよそ者は入れないそうです。
反対に福岡はよそから各地の土器を入れるが自分のほうからは出て行かない。

大阪府和泉の池上・曽根遺跡出土の弥生時代後期の多孔(四つ孔)の銅鏃が伊勢・美濃・尾張の東海地方が生産地であった。

その分布は東海式土器の分布と相関がある。これは移動伝播経路に相関があるのかもしれません。古代から尾張族は動きの激しい民であるようです。

[2669] 尾張氏の出自  PONTA 2006/12/25(Mon) 11:55 [Reply]
海部氏と尾張氏の系図が同じと言うことは、海部氏が愛知県東部のヲワリ(小針、小治)という場所に定住して、尾張氏と名を変えたとするのが最も自然ですね。
大和国葛城郡高尾張邑が尾張氏の出身地とする説では尾張国造・乎止與命がそこからやってきたからとする説が最も有名なわけですが、乎止與命は土着族長・尾張大印岐の娘と結婚している、つまり、やってきた時にはすでに尾張大印岐という尾張氏がいたわけですから、乎止與命が尾張氏の祖とは言えないでしょう。尾張国造家の祖ですね。

[2668] Re[2666][2664]: 尾張氏(これまでのまとめ)  PONTA 2006/12/25(Mon) 11:08 [Reply]
> 「尾張」の語源は出雲の意宇母里(おうもり)であったという説があります。そうすると
> 出雲風土記の八俣之遠呂智の記述がここにも見られ下記の話と一致するのではと思います。

勉強不足で、よく分かりませんが、「出雲風土記の八俣之遠呂智の記述」って『出雲風土記』のどこにありますか? 『出雲風土記』にヤマタノオロチが出てきましたっけ? 『出雲風土記』にはスサノオはほとんど出てこないし、大国主命も大穴持命として出てきますね。
意宇郡は大国主の本拠地なのか、「大国主=意宇国の主」という説を聞いたことがあります。
『出雲風土記』の意宇郡母里郷の説明に「・・・大穴持命、越の八口を平げ賜ひて還り坐す時に・・・」とあり、この「越の八口」は「新潟県の八ツ口村」(砂鉄の産地)という地名で、「八口を平げ賜ひて」とは、「八口(地名)を平定されて」、あるいは「八口に住む人々(産鉄民)を傘下におさめられて」の意味でしょう。「八口(やくち)」をヤマタノオロチに見立てる説やミシャグチ神に見立てる説もあるようですが、基本的には地名ですね。その語源は「8つの坑道口」=「多くの坑道」かな。
で、「越の八口」がヤマタノオロチ、「母里(おうもり)」が「尾張(おわり)」の語源だとして、「下記の話と一致する」とはどういうことでしょうか? ヤマタノオロチは出雲国の母里にいたのではなく、越国にいたわけですし、倒したのはスサノオではなく大国主ですし、草薙剣の話も出てきませんが・・・。
勉強不足で話が通じません。すみません。

[2667] Re[2665][2664]: 尾張氏(これまでのまとめ)  PONTA 2006/12/25(Mon) 10:42 [Reply]
> 尾張の墳墓の特長は前方後方墳です。
> 2世紀末  四上免
> 3世紀前半 矢道高塚、弘法山
> 3世紀中頃 市杵島神社、象鼻山
> 3世紀後半 桜井二子、東の宮

古墳のことはよく分からないので・・・前方後方墳ですか・・・
桜井二子って尾張にもあるんですか? 三河だと思ってました。

[2666] Re[2664]: 尾張氏(これまでのまとめ)  中本 2006/12/25(Mon) 09:58 [Reply]
「尾張」の語源は出雲の意宇母里(おうもり)であったという説があります。そうすると
出雲風土記の八俣之遠呂智の記述がここにも見られ下記の話と一致するのではと思います。


以下に[2664]全文が引用されています。引用は冗長故消去しました。神奈備

[2665] Re[2664]: 尾張氏(これまでのまとめ)  神奈備 2006/12/25(Mon) 09:32 [Reply]
 よくまとまっていい勉強になります。ありがとうございました。

> どちらの説も「高」の存在を忘れていますが(苦笑)。)

 葛城地方は「高」が好きなようで、例えば高鴨神社、高天彦神社、高尾張邑、葛城高名姫、葛城高額比当スのようなネーミングがあります。

 高尾張がどこであるのか、ですが一つは尾張氏の祖である天香山命が祭られている葛木坐火雷神社の鎮座地付近とされています。葛城市新庄町笛吹448。


 それぞれの氏族の出入りと現実の歴史とがどのように対応するのかがこれからの課題ですね。

尾張の墳墓の特長は前方後方墳です。
2世紀末  四上免
3世紀前半 矢道高塚、弘法山
3世紀中頃 市杵島神社、象鼻山
3世紀後半 桜井二子、東の宮

 ここは邪馬台国時代には狗奴国として一方の雄でした。狗奴国の中心都市の候補は一宮町の萩原遺跡群のようです。殆ど発掘が進んでいませんが、そうとうな規模の遺跡だそうです。(愛知県埋蔵文化センター 赤塚次郎氏談)


[2664] 尾張氏(これまでのまとめ)  PONTA 2006/12/25(Mon) 05:49 [Reply]
「尾張」の語源は、「ヤマタノオロチの尾が張っていたので、不思議に思って尾を開いたら剣(尾羽張剣)が出てきた」、その「尾が張って」が語源であると『熱田国風土記逸文』にありますが、これはこじつけですね。正解は「尾張氏が住んでいたから尾張国」です。

愛知県東部(後の尾張国)の先住民は、丹羽氏と物部氏と海部氏です。

○丹羽氏=『和名抄』によれば、尾張国は8郡(海部、中島、葉栗、丹羽、春部、山田、愛智、智多)に分かれていました。この「丹羽郡」に住んでいたのが丹羽氏です。丹羽氏族の始祖は大荒田命で尾張国ニ宮・大縣神社(犬山市)に祀られています。

○物部氏=ニギハヤヒを遠祖、その子のウマシマヂを直祖とする氏族。大和の豪族で、大和→丹後→尾張と移動したとされています。本拠地は物部神社(名古屋市東区。祭神は宇麻志麻遲命)、高牟神社(名古屋市千種区。「高牟=鉾(「高」は美称)=尾張物部氏の武器庫」が神社として祀られるようになったと伝えられ、祭神は高皇産霊神、神皇産霊神、誉田別命)周辺とされています。

○海部氏=丹後地方から尾張の地へと、物部氏と同じルートで移ってきた海人族。「海部郡」がその本拠地でしたが、小牧市小針(旧尾張村。尾張神社には昭和15年に青年団が建てた「尾張名称発源之地」の碑があります)に本拠地を移して尾張氏と名乗るようになります。(丹後国一宮・籠神社の宮司家である海部氏が所蔵する国宝・海部氏本紀(系図)と『先代旧事本紀』の尾張氏系図と酷似しています。両氏の祖は火明命で、『日本書紀』巻第二の一書(第六・第八)では、火明命をニニギの兄であると記述した上で、火明命とその子・天香山命が尾張連の遠祖であると説明しています。天火明命は、尾張国一宮・真清田神社(旧海部郡、現一宮市)の祭神です。

次に有力な海人族がやってきます。この海人族は北九州を本拠地とする阿曇氏だとされています。
伊勢湾には知多(ちた)半島と渥美(あつみ)半島があり、渥美半島に上陸した阿曇(あずみ)氏は、飽海(あくみ)河(現豊川)を遡り、安曇野市に達したとされています。渥美半島、飽海河、安曇野市の語源は阿曇氏の阿曇です。
知多(『和名抄』の「智多」)の語源は不明で、「千田」(「多くの田」の意)等、多くの説がありますが、個人的には「阿田(あた)」が語源だと面白いなと思います。(「あた→ちた」の変化は国語学的にはありえませんね。)阿田族は『和名抄』の阿田(鹿児島県。阿多、吾田)を本拠地とする海人族です。族長はオオヤマツミで、その娘のコノハサクヤ姫(別名「神阿多都比売」。神は尊称、「都=ツ=の」ですから、「阿田族の姫」の意)が天から降臨したニニギと結婚し、その曾孫が神武天皇になります。記紀に登場する「笠沙岬」は鹿児島県笠沙町、野間半島の野間岬でしょうね。尾張国にも知多半島に野間(野間灯台、野間大坊で有名)があります。また、「アタ」は沖縄の言葉で「鵜」の意であり、「阿陀(あだ)の鵜飼」であって、長良川の鵜飼を思い出しますし、下呂温泉郷(岐阜県下呂市)を流れる川は阿多野川です。
尾張国に入った海人族は「阿曇氏であり、同族でありながら2派に分かれ、1派は丹羽氏と融合し、1派は海部氏と融合して小牧市小針に本拠地を置いて、尾張氏を名乗った」のだそうですが、個人的には阿曇氏ではなく、阿田族だと思います。

葛城山というと賀茂氏の本拠地として有名ですが、これとは別に高尾張には神武東征以前から葛城族(神武天皇により剣根(土神剣根命)が葛城国造とされる)という先住の一族がいて、葛城国造族の味師内宿禰が異父兄弟で紀伊国造族の武内宿禰と争って敗れた結果、葛城高名姫(大海姫)は八坂入彦とともに愛知東部へ移住して尾張氏となったそうです。(『日本書紀』の尾張大海媛=『古事記』の意富阿麻比売=異称:葛城高名姫で、尾張連祖・建宇那比命の娘にして祟神天皇の妃。祟神天皇との間に2男2女をもうける。その1人が『日本書紀』の八坂入彦命=『古事記』の八坂之入日子命。八坂入彦命の娘は八坂入媛命(生母不明)で、景行天皇の妃であり、景行天皇との間にもうけた子が成務天皇や岡崎市の和志取神社近くに陵墓(前方後円墳)がある『日本書紀の』五十狭城入彦皇子=『古事記』の若木之入日子王である。)
で、日本武尊(景行天皇の子。母は前皇后の播磨稲日大郎姫(針間之伊那毘能大郎女。吉備臣の祖・若建吉備津日子(孝霊天皇の皇子)の娘)で、後皇后の八坂入媛命ではない)が、草薙剣を尾張氏の宮簀媛に預けて以後、熱田神宮は草薙剣を祭る尾張氏の氏神社となったようです。熱田神宮の祭神は、草薙剣(に依る天照大神)であり、国造を廃して国司による支配に切り替えた際、尾張国造(他国の国造同様、国名を苗字として尾張氏と名乗っていた)もまた熱田神宮の宮司に落とされたようです。

さて、元尾張国造が宮司で、三種の神器の1つを保管する熱田神宮は、尾張国三宮であり、一宮ではありません。尾張国一宮は真清田神社で、その社伝では、「祭神・天火明命(尾張開拓の祖神)は御子・天香山命(「尾張」の命名者)を伴って神武33年に大和葛城国高尾張邑から当地にきて建国の基を定めた。その後裔は尾張氏で、名の由来は故郷の高尾張である」とか「尾張国が8郡から成るのは、天火明命が8頭8尾の龍(ヤマタノオロチ!)に乗ってこの地に来たから」となっています。

また、『先代旧事本紀』の「国造本紀」によれば、尾張国造は成務天皇が任命した小止與命(天火明命の10世の孫)とあり、『新撰姓氏録』では小豊命は火明命14世とあります。『先代旧事本紀』の尾張氏系図では乎止與命は彦火明命11世と「国造本紀」と矛盾し、海部氏系図では小登與命(小止與)は彦火明命11世です。
この尾張国造・乎止與命(オトヨ。熱田神宮境内の上知我麻神社の祭神)は、土着族長・尾張大印岐(オワリオオイキ)の娘・真敷刀俾(マシキトベ。熱田神宮境内の下知我麻神社の祭神)と結婚し、その子が丹波国造・建稲種命(タケイナダネ。日本武尊の東征に自ら副将軍として従軍)とその妹・宮簀姫(日本武尊の婚約者)です。乎止與命は、高尾張邑からやって来て、尾張国を造った尾張氏の祖です。

『先代旧事本紀』の「天孫本紀」によれば、物部氏の祖は宇摩志麻治、海部氏の祖は倭宿禰、尾張氏の祖は火明命の3世孫の天忍人命で、その子の天忍男命が土神葛木剣根命の娘の賀奈良知姫と結婚し、孫の澳津世襲命が高尾張邑から愛知県東部へ移住して尾張連の直祖になったとのことです。

いろいろな説があるようですが、「尾張」の由来は「高尾張」でいいでしょう。「尾張」の語源には、「大和の葛城山は尾根が発達した山で『尾張』と呼ばれていた」という説や、「『尾張』とは『小治』で、『ヲ(接頭語)+ハリ(開墾地)』の意」とする説などがあります。(どちらの説も「高」の存在を忘れていますが(苦笑)。)「 高=小、尾=御、張=墾」あるいは、「 高=(美称)、尾=小、張=墾」で、小墾田宮の「小墾田」と同じかな。

○まとめ

尾張国一宮=真清田神社=祭神:天火明命=海部氏
尾張国ニ宮=大縣神社=祭神:大荒田命=丹羽氏
尾張国三宮=熱田神宮=祭神:草薙剣=尾張氏
四宮以下無し

*なにか入植順のようですね。
*海部氏と尾張氏の系図が同じと言うことは、海部氏が愛知県東部へ来て、尾張氏と名を変えたとするのがスマートな考え方ですね。
*天火明命=ニギハヤヒだとすると、海部氏=尾張氏=物部氏となる?

尾張氏の出自は、
(1)もともと尾張の住民
・海人族がまとまり、小針に本拠地を置いて尾張氏と名乗った。
(2)大和国葛城郡(旧葛城国)高尾張邑からやって来た人
・葛城高名姫(大海姫)と八坂入彦
・賀奈良知姫の孫の澳津世襲命
・天火明命と御子の天香山命
・尾張国造として赴任してきた小止與命
(3)その他

○尾張の古墳

・東之宮(瓢箪塚)古墳・犬山市=尾張最古の古墳
・青塚古墳・犬山市(4世紀後半〜末)・全長123mの前方後円墳(第2位)
・白鳥塚古墳・守山区(4世紀末)・全長109mの前方後円墳(第3位)
・出川大塚古墳・春日井市
・兜山古墳・東海市=尾張南部で最も古い古墳
<5世紀前半 墳丘+円筒埴輪>
・八幡山古墳・昭和区
・春日山古墳・春日井市
<5世紀後半>
・ニ子山古墳・春日井市=尾張中部の支配者の墓(尾張中部(春日井市西部〜名古屋市北区)には約180基の古墳があったとされるが、現存するのは味美古墳群の4基のみ。その中の二子山古墳は国の史跡に指定されたため保存状態がよい。)
・断夫山古墳・熱田区(6世紀)・東海地方最大の前方後円墳・全長151m

*5世紀前半、小国家が群立していた。
*5世紀後半、尾張氏は尾張南部一帯を失脚した物部氏に代わって支配し、6世紀初頭には尾張氏の墓である断夫山古墳が完成した。
*6世紀前半、尾張氏は、尾張中部を支配していたニ子山古墳の埋葬者の子孫を制圧し、さらに尾張北部を支配していた青塚古墳の埋葬者の子孫を制圧して、尾張国をほぼ統一した。

[2663] 無題  PONTA 2006/12/24(Sun) 19:04 [Reply]
訂正

>物部氏
>そこに小止与命が大和高尾張からやって来て
小止与命が大和国葛城郡高尾張邑から来た時には既に物部氏がいたわけで、この物部氏が小止与命が来てから尾張氏と名前を変えたらしい。

[2662] Re[2661][2659][2658][2655][2654][2651]: 尾張の語源  PONTA 2006/12/24(Sun) 18:58 [Reply]
補足

・丹羽郡の丹羽氏=丹波郡は尾張国8郡の1つ。丹羽氏の本拠地
・後の本拠地は名古屋市緑区大高町=日本武尊は草薙剣を名古屋市緑区大高町火上山に留め置かれたまま伊吹山へ向かった。

[2661] Re[2659][2658][2655][2654][2651]: 尾張の語源  PONTA 2006/12/24(Sun) 18:54 [Reply]
>  尾張氏の誰が高尾張から尾張に移ったのか、はたまた祖先筋は本当に高尾張に居たのか、丹後からやってきたのか、よく判らない所。

尾張については不勉強ですみません。ただいま全力で勉強中です。
愛知県東部(後の尾張国)には縄文時代から弥生時代にかけて海人族による集落が形成されていて、その中心は、丹羽郡の丹羽氏、物部氏、阿曇氏(長良川の鵜飼の祖?)のようです。で、そこに小止与命が大和高尾張からやって来て、本拠地の地名を「小針」としたようです。(小牧市大字小針。尾張神社鳥居横の石碑に「尾張名称発源之地」と刻まれている。なお、本拠地は、後に名古屋市緑区大高町の氷上姉子神社の付近に移転。小牧市に本拠を置いたのは、やはり名古屋市は古代は海の底→湿地帯だったのでしょうね。)

尾張氏の本貫についてはさまざまな説があり、最も有名なのは大和葛城説と吉備播磨説だそうです。

[2660] 外山  神奈備 2006/12/24(Sun) 14:52 [Reply]
 外山をトビと読むので、「ビ」に山の意味との話があったようですが、外見山の二字化地名だそうで、登見などと同じ。従って、「ビ」に山の意味はなく、二字化の技術の問題なのでしょう。

[2659] Re[2658][2655][2654][2651]: 尾張の語源  神奈備 2006/12/24(Sun) 09:58 [Reply]
> ということは、真敷戸婢は地元(真敷? 後の尾張国)の女酋長、あるいは酋長の娘で、大和国高尾張からやって来た乎止与命と結婚したってことかな。


 尾張氏の誰が高尾張から尾張に移ったのか、はたまた祖先筋は本当に高尾張に居たのか、丹後からやってきたのか、よく判らない所。

 乎止与命の四代前の建諸隅命の妹の大海姫はまたの名を葛木高名姫と云い、崇神天皇の妃になっています。この人辺りまでは大和の葛木にいた可能性はありそうですね。

[2658] Re[2655][2654][2651]: 尾張の語源  PONTA 2006/12/24(Sun) 02:09 [Reply]
>『式内社調査報告8』井後政晏氏 によれば、宮簀媛命の母神だそうです。乎止与命の妃と云うことです。この出典は『先代旧事本紀』。

了解です。
ということは、真敷戸婢は地元(真敷? 後の尾張国)の女酋長、あるいは酋長の娘で、大和国高尾張からやって来た乎止与命と結婚したってことかな。

[2657] Re[2656]: 鉄と蚩尤  神奈備 2006/12/23(Sat) 19:14 [Reply]
> 始皇帝や前漢武帝は山東半島の泰山に封禅(天と地の神を祀る)の時、山東の軍神を祀ります。これは山東の蚩尤、兵主ではないかと私は考えています。

 アメノヒボコや兵主神社の分布と秦氏の分布は重なると云われます。まさに秦の始皇帝が祀った蚩尤にその原点がありそうです。
 アメノヒボコや秦氏は新羅のにおいがするのですが、新羅の前身の辰韓は、馬韓の王が秦の労役から逃れてきた亡命人を東へ移し、土地を与えたとされています。その地の言葉には秦語が混じり、秦韓とも書いたとか。

[2656] 鉄と蚩尤  とみた 2006/12/23(Sat) 15:05 [Reply]
PONTAさんが鉄の話をされました。
>紀元前8世紀(つまり縄文時代)の世界最大の製鉄所跡が日本で発見されるわけがない。ただし、大分の大製鉄所で作られた鉄はフェニキア人が持って帰り、日本人>には製鉄法を教えなかった。

素人の私も鉄に興味を持っています。
私は、鉄と中国神話の蚩尤のことを並列して考えます。
中国は紀元前11世紀の商(殷)の時代に中国最古の鉄が使われた。これは天から落ちてきた隕鉄です。殷から西周時代には戈などの刃として用いた。紀元前8世紀の終末期には人工鉄を加工した鉄刃、剣が使われはじめる。

紀元前8世紀〜紀元前5世紀の春秋時代から戦国時代初期までは、低温度で木炭を
使って固体状態で製鉄する塊錬鉄だそうです。
紀元前5世紀の後半、戦国時代には銑鉄の製錬技術が発達し、武器だけでなく農具にも使われ普及する。
鋳鉄製品が脱炭処理した可鍛鋳鉄が、燕、趙、魏、楚で農具として使われる

紀元前3世紀末の秦の時代以降、漢に入ると鍛造鉄器が非常に発達する

神話の蚩尤は、中国の斉国つまり山東半島の神様です。金属による武器の製造者で

す。斉国の大政治家である管仲(〜BC645)の書いた管子という書物では、”山木を伐り山鉄を鼓す”とあります。鉄を制する者が天下を制する。
管仲は異民族の蚩尤が金属をつくるやり方を王様の桓公に説明して、樹木の生えている山を神聖視して祭ることを進言する。

下って、漢の時代、山東半島に鉄官をたくさん設けました。鉄鉱石と木材がたくさん取れたからです。
始皇帝や前漢武帝は山東半島の泰山に封禅(天と地の神を祀る)の時、山東の軍神を祀ります。これは山東の蚩尤、兵主ではないかと私は考えています。

朝鮮半島の西北部には、BC3世紀に燕から戦国時代の鉄器が入っています。
燕と斉が秦始皇帝に敗れ集団移動したからでしょう。
朝鮮南部の(錦江すなわち後の百済地域)には、鋳造鉄器が入り
朝鮮南部の(洛東江すなわち後の金官加地域)には,BC2世紀の早期の鍛造鉄器が入っています。

さて、日本ではいつか、朝鮮南部より200年以上も前、弥生時代の前期に鋳造鉄片が入っています(燕からでしょうか?青銅器より前です)

奈良桜井の穴師兵主神社が気になります。内藤湖南先生は中国の兵主神社を持ってきたのではないかといわれ、大和岩雄先生は蚩尤だと考えておられます。但馬国に兵主神社がたくさんあるということで出石へ渡来してきたアメノヒボコの後裔ではないかとついつい思いたくなります。
天日槍/矛でいずれも武器を背負う戦いの神様です。蚩尤は牛の角をトーテムとして持っています。ツヌガアラシトも額に牛の角を持っています。

蚩尤・兵主神の信仰を持った民です。

蚩尤の本拠にはたくさんの説があります。黄河上中流域説と黄河下流域があります。後者ならドンぴしゃりの山東半島です。梅原猛先生は長江下流域の良渚などを想定されています。これだとまさに江南です。


ついでに孔子(魯国=山東の人)は春秋時代の人ですが、その一族は山東半島で戦国時代に鉄で大儲けしています(史記、貨殖伝=成金の話)

鉄文化は元々ヒッタイトなど西アジアが発祥地でしょう。インドは中国より古く伝播したといわれています




[2655] Re[2654][2651]: 尾張の語源  神奈備 2006/12/23(Sat) 09:03 [Reply]
> 高=小、尾=御、張=墾(「開墾地」の意)でしょうか。
> 小墾田宮の「小墾田」と同じ?

良い線を行っているような気がしますね。


> 鳥居型タワーの写真、見ていただけましたか?

アドレスは?



> 下知我麻神社の祭神の真敷戸婢(眞敷刀俾)ってどんな神様なのでしょうか。

 『式内社調査報告8』井後政晏氏 によれば、宮簀媛命の母神だそうです。乎止与命の妃と云うことです。この出典は『先代旧事本紀』。

 『尾張志』によれば、南区本星崎に鎮座する星宮社の摂社に下知我麻神社があり、ここから熱田神宮に勧請されたと上記書籍では述べられています。

[2654] Re[2651]: 尾張の語源  PONTA 2006/12/23(Sat) 05:44 [Reply]
高=小、尾=御、張=墾(「開墾地」の意)でしょうか。
小墾田宮の「小墾田」と同じ?

[2653] 無題  PONTA 2006/12/23(Sat) 05:36 [Reply]
熱田神宮が尾張国一宮ではなく、三宮である理由は、
1.伊勢神宮同様、別格であって社格はなかったが、一宮・二宮が定められた後に急いで三宮として追加したという説
2.単に国府から遠かっただけとする説
があるそうです。
別に、別格でいいわけで、一宮・二宮が定められてあわてることもないし、国府(尾張国の国府は未だ存在地が不明。稲沢市松下及び国府宮説と稲沢市下津町東国府及び西国府説がある)に近くないといけないのは総社。東隣の三河国一宮砥鹿神社にしても、遠江国一宮小国神社にしても国府からは遠い。

[2652] 下知我麻神社  PONTA 2006/12/23(Sat) 05:26 [Reply]
熱田神宮には上知我麻神社と下知我麻神社があるのですが(南に上知我麻神社、北に下知我麻神社と上下逆のような気もしますが)、下知我麻神社の祭神の真敷戸婢(眞敷刀俾)ってどんな神様なのでしょうか。神武天皇に滅ぼされた丹敷戸畔のように乎止与命に滅ぼされた土豪の女酋長でしょうか。名古屋市南区戸部町が本拠地かな。ちなみに、ご神徳は、旅行安全です。

[2651] 尾張の語源  PONTA 2006/12/23(Sat) 05:12 [Reply]
「尾張」の語源は、「尾張氏の居住地」で、「尾張氏」というのは「大和国高尾張邑に住んでる豪族」の意味(現在、熱田神宮の境内にある上知我麻神社の祭神が尾張国造・乎止与命(日本武尊と婚約した宮簀媛命の父親)で、景行天皇御世、大和国高尾張邑からやってこの地にやって来て、尾張国を造った)です。では、その「高尾張」の語源はというと・・・何でしょう?

[2650] 無題  PONTA 2006/12/23(Sat) 01:03 [Reply]
PONTAの研究範囲は三河と遠江なので、尾張とか伊吹山とかは実はよく分かりません;
尾張といえば、蓬莱島に熱田神宮があります。昔、名古屋は海の底で、蓬莱島という亀の甲羅の形の島に熱田神宮は建てられたのでしょう。熱田神宮は、三種の神器の草薙剣を保管してるのに、尾張国三宮です。尾張国一宮は、真清田神社で、祭神は尾張氏の祖・天火明命(=ニギハヤヒ?)です。
尾張は俗説では「ヤマタノオロチの尾が張っていたので、不思議に思って尾を開いたら剣が出てきた」、その「尾が張って」を語源とするのですが・・・正しくは「尾張氏の居住地だから尾張国」なのでしょうが、それでは「尾張」の語源の説明になっていないような気がします。
真清田神社の社伝では、「尾張国が8郡(海部、中島、葉栗、丹羽、春部、山田、愛智、智多)から成るのは、天火明命が8頭8尾の龍に乗ってこの地に来たから」だそうですが、8頭8尾の龍と言われてもヤマタノオロチしか思いつかないし・・・天火明命+8人の頭(8氏族の首長)の尾(後ろ)に物部8氏族がぞろぞろとついてきてこの地に定住して、「尾8」→「尾張」とか。ヤマタノオロチは先輩の言うように人の列かなぁ。一般的には龍や蛇は川ですから、濃尾平野が川によって7つの土地(「智多」は知多半島ですから、濃尾平野とは関係ないので除く)に分断されていたってことでしょうけど・・・

[2649] Re[2643][2641]: 今日のブログはつっこみ所満載  PONTA 2006/12/23(Sat) 00:29 [Reply]
> 植木算の問題で、一直線に頭が並ぶとしますと、ヤマタであれば九頭ですね。これが円周上にありますとヤマタで八頭です。『古事記』ではオロチに飲ませるために八つの酒桶を準備しましたので、八頭と言えそうです。九頭竜起源説は苦しいかも。

9つの頭であれば、確かに8俣ですね。
「8俣」ということを勘違いして「8頭」と伝わったのかも。
いずれにせよ、「八重」「八雲立つ」とか「八王子神社」「八柱神社」「八剣神社」(スサノオの8人の子)とか、出雲関連は8が多いですね。

[2648] Re[2646][2643][2641]: 今日のブログはつっこみ所満載  PONTA 2006/12/23(Sat) 00:24 [Reply]
>ヤマタノオロチ(八岐大蛇)のは大だこの足・・・

先輩の説は、「赤い軍旗を持った軍隊の列」です。
8列で、頭は8人の将軍で、降伏したとみせかけて引き入れ、お酒を飲ませて、殺した(首をはねた)。

> 今日は冬至。日の出の撮影は雨上がりで空売りでしたが
> 何と昼前から日本晴れでした。参った。きまぐれやさんには。

鳥居型タワーの写真、見ていただけましたか?

[2647] Re[2641]: 今日のブログはつっこみ所満載  PONTA 2006/12/23(Sat) 00:19 [Reply]
自己レス

>私的には蛇(タケミナカタ=国津神)と雷(タケミカヅチ=天津神)の争いを描いているものだとしたら面白いなと思います。

注連縄はそうでなくても、相撲の「まわし(締め込み)」はそうかも?
「下がり」が雷。

[2646] Re[2643][2641]: 今日のブログはつっこみ所満載  nick [Url] 2006/12/22(Fri) 20:58 [Reply]
>  PONTA さん、労作ありがとうございます。実に楽しく読ませて頂きました。
> とりあえず:−
>
> > ヤマタノオロチ(八岐大蛇)の原型は、シュメールのドラゴン(九頭竜)でしょうね。

大だこの足から連想して頭を蛇や龍に見立てたとも考えられる。
いろいろ想いを巡らして愉しいですね。

今日は冬至。日の出の撮影は雨上がりで空売りでしたが
何と昼前から日本晴れでした。参った。きまぐれやさんには。

[2645] 八重雲 【雲】の【云】は竜の尾です。  倭亜布 2006/12/22(Fri) 20:27 [Reply]
天孫降臨と「天八重雲」・・・・(意味不明の知識が後々お役に立つかもです。)
「天八重雲を排し分けて」というのは、事実は広大な葦原、葦の茂みを押し分けて、下ってきたわけです。見渡す限り空と雲と葦でした。はるか前方に見える高千穂の峯、後の泰山の頂上を目標にして、下ってきたのです。
http://homepage2.nifty.com/ikd/tenson2.htm
「天八重雲」を【土ぐも】先住の国つ神(土着神)と考え天御中主神は秦氏系かと?(これまでの年代認識に疑問です。)
【雲】の【云】は竜の尾です、雌雄の竜の漢字は【禹】ウ です。(水神です。)

「八っの竜が八っの頭を出して一つの神剣を守って出雲の国から八重雲にのって光を放ちつつ布留川の奥へ飛んで来て山の中に落ちた。 ... ちなみにこの本は、空海と丹生都姫(丹生氏)および稲荷神(秦氏)との関係を書かれた本です。 …」
神奈備にようこそ 掲示板 平成十三年十月
http://members.at.infoseek.co.jp/itakeru/yumv0110.htm

梟帥(たける)
「国見というのは巡幸と同じく元来は天子の国情視察である。この場合の国とは中洲(奈良盆地)、敵地であり、この時点で中洲を国見する立場にあるのは饒速日命側である。」
”たける”はこころがはげしく動いて興奮すること、”たけぶ”は勇みたって怒号すること、いきりたって荒々しく振舞うこと。(字訓)梟はふくろう、さらしくび、中国では、悪鳥、猛禽。(字統)八十は多くのの義、梟帥(たける)は梟将に同じ。強くたけだけしい野蛮人の長、どっちが野蛮か?烏、鴫、鴨、梟と山中で鳥軍が主導権をとっている
http://www.kyoto.zaq.ne.jp/dkanp700/koten/shoki8.htm
景行紀によれば、殺された熊襲の魁帥である川上梟帥には取石鹿文という別名
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou53/kaihou53.html

魏志倭人伝の「一大率」と日本書紀における「魁帥・梟帥」
http://www.k3.dion.ne.jp/~kodaira/sono102.htm
http://www.k3.dion.ne.jp/~kodaira/sono201.htm
お奨めいたします。


ヤタガラス ・・・ 天皇家の祭儀、日本各地の神道を仕切っているグループ(秦氏系の人々)
http://www.k2.dion.ne.jp/~yohane/0000isuraeru4.htm

[2644] Re[2640]: 跡部遺跡の埋納銅鐸  琉球松 2006/12/22(Fri) 10:55 [Reply]
 いこまかんなびさん、ありがとうございます。

 「八尾」は、沖縄島の神歌(琉球王朝成立以前からの伝承)に出る「ヤヲ」だと考えられます。
 島の女達が小船で「ヤマトへ曲玉を買う(請う?)」ためにヤヲの港に到着するというもので、日本本土で曲玉が祭具として通用していた時代を伝えているようです。

[2643] Re[2641]: 今日のブログはつっこみ所満載  神奈備 2006/12/22(Fri) 09:33 [Reply]
 PONTA さん、労作ありがとうございます。実に楽しく読ませて頂きました。
とりあえず:−

> ヤマタノオロチ(八岐大蛇)の原型は、シュメールのドラゴン(九頭竜)でしょうね。

 植木算の問題で、一直線に頭が並ぶとしますと、ヤマタであれば九頭ですね。これが円周上にありますとヤマタで八頭です。『古事記』ではオロチに飲ませるために八つの酒桶を準備しましたので、八頭と言えそうです。九頭竜起源説は苦しいかも。


> 日本武尊の前には「白い猪」として現われたけど、その正体はスサノオが倒したはずの八岐大蛇だそうです!

 大和の石上神宮にもよく似た伝承が伝わっています。石上神宮の東北数キロの山中にヤツイワがあり、この岩についての伝承です。

 神代の昔、素盞嗚尊が八岐の大蛇を退治されたとき、大蛇が身を変え天へ昇りて水雷神となって神剣に扈従して布留川上日の谷に天降り臨幸して鎮坐す。
http://kamnavi.jp/as/yamanobe/hinotani.htm


[2642] Re[2640]: 跡部遺跡の埋納銅鐸  神奈備 2006/12/22(Fri) 09:32 [Reply]
> 八尾市の跡部遺跡出土の埋納銅鐸(流水紋)の出土状況の写真

 いこまかんなびさん、写真ありがとうございます。神奈備の写真館にアップされています。
http://6314.teacup.com/kamnavi/bbs/

 跡部遺跡から見ますと旧大和川即ち玉櫛川は東側を北上していると考えていいのでしょうね。アップされた写真を素直に西側からの撮影としますと、残念乍、"頭" は旧大和川の下流方向となりますね。

[2641] 今日のブログはつっこみ所満載  PONTA 2006/12/21(Thu) 22:21 [Reply]
白いものは神の使いだったり、神が宿りやすかったりするらしい。
白蛇、白鹿、白鳥、白犬、・・・・、白米、餅。
私的には、白い動物は珍しいから、米(餅)は貴重だから、(神が与えたものとして)大切にしたのではないかと思います。

来年の干支は猪です。
「白い猪」は伊吹山の神(日本武尊を倒した荒ぶる神)そのものですが、実際に白い猪は見たことがないです。
沖縄では、「白い猪(「シルジシ」。「シル」=「白い」、「シシ」=猪)は神が飼っている動物で、捕らえた場合はすぐに毛を除き、腹を天に向けて調理する」という作法があるらしいから、沖縄にはいるのかな?・・・てなことを考えていたら、別府市の遊園地にいて、年賀状用に撮影しようと人が押し寄せているそうです。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20061218-00000005-maip-soci

白蛇は弁財天(正しくは「弁才天」で、学問・芸術の仏ですが、日本では稲荷信仰と結びついて「弁財天」(金運招福の仏)に変化)の眷属とされ、とぐろを巻いた白蛇が小判を銜えている置物が商店によくあります。

蛇は龍と習合して、水神になるわけですが、日本にはそれ以前の縄文時代にも蛇信仰はあって、縄文時代の土器を見ると、頭が三角なんです。つまり、蛇信仰というより蝮信仰なんです。(「マムシの頭は三角」と言いますが、実は卵形で、三角なのはハブなんですけど;)蝮にかまれたことがないので分かりませんが、最初はお酒に酔ったような気分になり、暴れだして、半狂乱になって死ぬのだそうです。この半狂乱の状態を縄文人は「神がかり状態」ととらえたようで、そこから蛇(蝮)信仰が始まったそうです。冬に姿を消し春に現われることや、脱皮することも「再生」ととらえられて信仰の対象となっていったのでしょう。
蛇信仰の起源は出雲の海蛇信仰(出雲大社の祭神の出雲大神の眷属は蛇。多分、海蛇で、海人族が体に刺青をしたのも海蛇のまね。出雲のタケミナカタのミナカタは宗像(海人族)で、語源は胸形(=胸に刺青))だとか、諏訪の蛇信仰だとか言われていますが、星野之宣氏によると、タケミナカタがこの両者を結びつけて(蛇神融合)、日本の蛇信仰の基礎が出来たのだそうです。(出雲神話では、出雲のタケミナカタはタケミカヅチによって両手をもぎ取られて蛇の姿にされ、逃げのびた先の諏訪に封印される。)
神社の注連縄は蛇だとするのが通説で、PONTAも支持しているのですが、それでは、注連縄につける紙垂(白いギザギザの紙)の説明がつかないわけで、注連縄は雷雲(「神」という漢字の語義は磐座に雷?)で紙垂は雷だとする異説も捨てがたいです。私的には蛇(タケミナカタ=国津神)と雷(タケミカヅチ=天津神)の争いを描いているものだとしたら面白いなと思います。
縄文時代から日本には蛇信仰があったので、稲作と共に蛇(田の水神)信仰が入ってきても、鉄文化と共に龍が入ってきても素直に受け入れられたのでしょうね。その後、蛇は龍に習合して水神になり、さらには水商売の神(み〜さん)へと変わっていくわけです。

文:那谷敏郎、写真:大村次郎『龍と蛇(ナーガ)』(集英社)は、アジアの龍や蛇の写真集兼解説書で、“蛇の寺院”と呼ばれるアンコール・ワットの写真はいいですね。アンコール・ワットへ行ってみたいですね。今はどうなっているのでしょう? 崩れかけてるとか、レリーフがはがされて売られているとか、悪い噂ばかり聞きますが・・・アンコール・ワットへは、行きたくても行けないので、近くのアンコールミュージアムで我慢しよう。

http://www.yrp-net.com/museum/index.html
*アンコールミュージアムは、“日本三大石都”の1つ岡崎市にある山本石産株式会社が運営しています。館長の山本勇氏がJSA(日本国政府アンコール遺跡救済チーム)の石材工学班長として参加し、自身の長年培ってきた日本の伝統技術(「空積み」と呼ばれるセメントや接着剤を使わない工法)を遺跡の保存修復に生かし、現地のカンボジア人が自身の力で遺跡の保存修復ができるよう石工技術の指導したことをきっかけにして設立された博物館です。

ただ、この本では、仏教の伝播と共にナーガ信仰が広まったとしていますが、それはどうでしょうか。巻末に世界の龍と蛇の解説が載っているのですが、「シュメル人の竜」が鉄文化と共にひろまったのだと思います。製鉄王国である出雲の神話のヤマタノオロチ(八岐大蛇)の原型は、シュメールのドラゴン(九頭竜)でしょうね。
北海道日本ハムファイターズの稲葉選手が打席に立つと観客が"稲葉ジャンプ"をして応援しますが、この応援方法の由来は稲葉→因幡(稲羽)の白兎→兎のように飛び跳ねる、なんですって。出雲神話の因幡の白兎の話の原型は、爬虫類のワニ(ワニザメではない!)の背を鹿や猿が渡るというインドや東南アジアの説話で、マレー半島ではソロモン王の命令を受けた鹿がワニをだましたという話になっているそうです。佐治芳彦氏は、これは、ソロモン王のタルシシ船団がインド、東南アジアまで至っていたことを示し、おそらく、日本海流(黒潮)に乗って日本列島に到着し、大分(八幡神社第1号の宇佐八幡宮)で発見された紀元前8世紀(!)の世界最大の製鉄所跡は、この船団の仕業であるとしています。ソロモン王といえば、大国主をソロモン王の末裔とする説や、四国の剣山に伝わるソロモン王の財宝(失われたアーク)埋蔵伝説があるわけで、日ユ同祖論ともつながってきます。また、製鉄もシュメールから中国を経て日本に伝わるというゆっくりしたものではなく、フェニキア人がタルシシ船でインド、東南アジア、日本とすばやく伝えたのでしょう。でないと、紀元前8世紀(つまり縄文時代)の世界最大の製鉄所跡が日本で発見されるわけがない。ただし、大分の大製鉄所で作られた鉄はフェニキア人が持って帰り、日本人には製鉄法を教えなかったので、日本人は大陸から伝わるまで製鉄法を知らなかった(製鉄所は発見されても鉄製品は発見されない)とのことです。もし紀元前8世紀に製鉄方法を知っていて、鉄製品を作ったとしたらどうでしょうか? その鉄製品は発見されるでしょうか? 21+8=29で、2900年前の鉄製品ですよね? 錆びてぼろぼろになって、原形をとどめていないように思えます。

宇佐・兎、八幡(やはた)・因幡・ヤマタ(八俣、八岐)、偶然でしょうけど似てますね。

参考:「原田実の幻想研究所」
http://www.mars.dti.ne.jp/~techno/
「コラム」→「日本史のブラックホール・四国」
http://www.mars.dti.ne.jp/~techno/column/black.htm

そういえば、伊吹山の神は伊冨貴神社に祀られているのですが、日本武尊の前には「白い猪」として現われたけど、その正体はスサノオが倒したはずの八岐大蛇だそうです! 『平家物語』に「出雲にて素盞鳴尊に害せたりし八岐大蛇、天降り…毒蛇となりて不破関の大路を伏塞ぎたり。…さる程に八岐の大蛇伊吹大明神は尊(日本武尊)に跳り越えられ…」とあります。草薙剣を取り戻そうと現われたのでしょうか? でも日本武尊は草薙剣を持っていなかった・・・。

参考:「いのちのきずなU」伊富岐神社
http://ultramal.exblog.jp/2963485/

[2640] 跡部遺跡の埋納銅鐸  いこまかんなび 2006/12/21(Thu) 20:12 [Reply]
横から失礼します。
八尾市の跡部遺跡出土の埋納銅鐸(流水紋)の出土状況の写真を平成14年度特別展図録『卑弥呼の時代と八尾-河内の大集落出現と古墳の始まり-』八尾市立歴史民俗博物館 から写真掲示板に紹介です。鰭を立てて頭の方角は不明です。
ご参考まで。

[2639] Re[2638][2637]: 阿刀の祭り  神奈備 2006/12/21(Thu) 19:24 [Reply]
>  その銅鐸は、どんな状態で出土したんでしょうか?

 銅鐸の出土の状態までは把握していません。また調べてみます。

 話は変わって。

 河内付近と東海付近とでは土器の甕や高杯などの分布で云えばくっきりと差があるようです。
 それを邪馬台国と狗奴国との区分とするのは判りやすい議論だと思います。
 両国が戦った結果、両社を統一した国が出来た。その象徴が大和の天理市にあたる大和古墳群と云うことで、ここには前方後円墳と前方後方墳とが混ざった状態で造られいます。
 これこそ邪馬台国と狗奴国との統合の跡との説があります。愛知県埋蔵文化財センターの赤塚さんがこの16日の講演で云われていました。
 かれの主張では大和は狗奴国の最西端の場所で、戦いに狗奴国が勝ったからこそ大和に都を移したとのこと。邪馬台国は河内潟の周辺だったのではとのことでした。

[2638] Re[2637]: 阿刀の祭り  琉球松 2006/12/21(Thu) 14:48 [Reply]
 久しぶりです。

 その銅鐸は、どんな状態で出土したんでしょうか?
 "頭" は旧大和川の上流方向でしょうか、また、"ヒレ" は上下だと思うんですがどうでしょう。
 つまり、銅鐸は「鯉のぼり・シャチホコ・河童 etc 」の原型だと考えますがどうでしょうか?

[2637] 阿刀の祭り  神奈備 2006/12/19(Tue) 09:55 [Reply]
 意味不明の書き込みが続きましたので一括して削除いたしました。

 全く話は変わるのですが、八尾市跡部の旧大和川自然堤防から銅鐸が出土しています。この地の跡部とは物部氏降臨神話の船長の跡部首に由来するものとされています。 『姓氏録』には摂津国神別に阿刀連の名があり、饒速日命の後とある。

 銅鐸と阿刀、銅鐸と物部、また大阪では河川に関わる土地から出土している特長がありそうです。

[2636] Re[2635][2634][2633]: 天髪王  nick [Url] 2006/12/17(Sun) 10:53 [Reply]
>  大淀町には八幡神社も入り込んでおり、比曽寺の鎮守からは天照大神、五條からは御霊信仰、上記の神々(ものの本には雑神と一括しているのもあります。昭和天皇に云わせれば雑神と言う神はいないと云われるでしょうが。)がよく今日まで持ちこたえたように感じます。神社の形があれば、根強く残るということですね。ただ、氏子さん7軒と云うピンチの里もあるようです。

当地も例に漏れず「過疎地の市町村合併」をした口ですが
山間部では氏子数人という地域も多々。
社殿の雨漏りらの修繕はおろか境内の清掃さえもおぼつかない。
由緒ある神社がまた合祀される運命にあるかと思うと一抹の寂しさが。
益々今記録しておかねばと気持ちは焦ります。

[2635] Re[2634][2633]: 天髪王  神奈備 2006/12/16(Sat) 18:12 [Reply]
タイシさん、こんばんは。明日から寒くなりそうですね。

> この峠付近にある大淀町に、塞神・草神・カサ神・山ノ神・葛神の民間信仰が極めて古くから信仰されていても不思議ではありませんね。

 大淀町には八幡神社も入り込んでおり、比曽寺の鎮守からは天照大神、五條からは御霊信仰、上記の神々(ものの本には雑神と一括しているのもあります。昭和天皇に云わせれば雑神と言う神はいないと云われるでしょうが。)がよく今日まで持ちこたえたように感じます。神社の形があれば、根強く残るということですね。ただ、氏子さん7軒と云うピンチの里もあるようです。

[2634] Re[2633]: 天髪王  タイシ 2006/12/15(Fri) 21:36 [Reply]
神奈備さん、こんばんは。
奈良県に葛神の地名は吉野川流域、旧磯城郡東部、宇陀郡西部、山辺郡に分布し30ヶ所ほどあります。
大淀町では、下渕に”クズ上”の小字があり、近くに車坂峠が走っています。
この車坂峠はいつも吉野・大峯方面に行く際通るのですが、車坂は谷間の意味の鞍間がいつの間にかクルマになったのでは?と考えています。

大淀町は葛城、飛鳥などから吉野へ向かう道が重なる所。
この峠付近にある大淀町に、塞神・草神・カサ神・山ノ神・葛神の民間信仰が極めて古くから信仰されていても不思議ではありませんね。
大淀町馬佐には、天王垣内の小字があり、隣町の下市町大字小路には、国栖神の小字がありました。

>  天羽槌雄命は倭文神とも言われる織物の神で、総本社とも言える神社が二上山の麓の葛木倭文座天羽雷命神社。愉快な蟹守宮司さんがおられる神社。

先日、加守廃寺へ行きましたがあのあたりは二上山が綺麗ですね。
鴨池なんかもありました。葛尾の小字も・・・

[2633] Re[2631][2630][2629]: 天髪王  神奈備 2006/12/15(Fri) 15:45 [Reply]
吉野郡大淀町の不思議な神社の表

地名  神社名   現在の祭神   神像         昔の書類

矢走  天髪王神社 建御名方命   天八王神、天八王姫神  
持尾  天髪神社  建御名方命   神像六体       天八王子社

畑屋  天水分神社 天羽槌雄命              九頭神 八大竜王
大岩  大岩神社  天羽槌雄命   女神男神各三体
          (八大竜王)  (八大竜王で二体欠く)

鉾立  葛神社   手力雄命    男女二神
岩壷  葛上神社  手力雄命               九頭神手力雄命

 
 奈良県で建御名方命を主祭神としている神社は上記以外に天理市の九頭神社三社と桜井市の戸隠神社。天髪王神社も九頭系の神社かも知れない。

 天羽槌雄命は倭文神とも言われる織物の神で、総本社とも言える神社が二上山の麓の葛木倭文座天羽雷命神社。愉快な蟹守宮司さんがおられる神社。

 八大竜王なる水神が天羽槌雄命に置き換えられた理由は不明。九頭神であった可能性は畑屋の神社の書類からは云えそうです。

 上記神社は全て九頭神!!。


[2632] Re[2617][2616][2615]: 漫画の話  PONTA 2006/12/14(Thu) 20:42 [Reply]
>どうも最近は名草戸畔の話題があちこちで語られているようようです。誰かが語り始めたのか、同時に出てきたのか、とにかく面白い現象です。

因果性か共時性か・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%B3%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%8B%E3%82%B7%E3%83%86%E3%82%A3

[2631] Re[2630][2629]: 天髪王  nick [Url] 2006/12/14(Thu) 09:50 [Reply]
ローズマリーさん、おはようございます。

> なるほど〜
> 謎解きが始まるようでワクワクしています。

本当に愉しみですね。どう展開するのでしょうか。
当地にも参考になるかもしれません。


> 神仏混合に限らず、道祖神・境の神では不可の通達があって
> 祭神名がやむなく変わった事もあったのでしょう。
> そんな、古い神様が、この百年二百年でわからなくなってしまうのは悲しいですね。
>
> 今の御神名とともに、昔の御神名も忘れずに記憶されていけばいいなあと思います。
> よりその土地の歴史や人々の考え方がわかるような気がします。

いや〜その通りですね。
当地の廃仏毀釈は凄まじく3000弱あった寺院や史資料は全て灰となり
石仏は手足をもぎ取られ中には神社の敷石に。。
100年前の西南戦争しかり、先の戦争の記憶も薄れつつある現在だからこそ
データーの収集や現地調査は重要と実感しています。

[2630] Re[2629]: 天髪王  ローズマリー 2006/12/13(Wed) 23:17 [Reply]
神奈備さん、こんにちは。
>天髪王神社の神像は天八王、天八王姫と云うことですが、
天八衢彦神、天八衢姫神かも知れません。

なるほど〜
謎解きが始まるようでワクワクしています。
吉野熊野は神仏混合も進んでいた地域。
お隣の大岩神社は、大淀町史によれば
「明治初年までは八大龍王と称したが、神仏混合不可になり水分神社と改称し、
大岩神社とも言う」

神仏混合に限らず、道祖神・境の神では不可の通達があって
祭神名がやむなく変わった事もあったのでしょう。
そんな、古い神様が、この百年二百年でわからなくなってしまうのは悲しいですね。

今の御神名とともに、昔の御神名も忘れずに記憶されていけばいいなあと思います。
よりその土地の歴史や人々の考え方がわかるような気がします。

[2629] 天髪王  神奈備 2006/12/13(Wed) 19:46 [Reply]
男女二神の神像を持つ神社があります。これは道祖神・境の神に多いようです。ひとつには性交を見る事への忌避、また勢いのいい生産力を示しており、外部からの疫病神の侵入を防ぐ目的があったのでしょう。

最近参詣した大和の神社で3社も立て続けに出てきました。

奈良県山辺郡山添村桐山 戸隠神社
奈良県吉野郡大淀町鉾立 葛神社
奈良県吉野郡大淀町矢走 天髪王神社

戸隠神社は、もとは九頭明神でした。
天髪王神社の神像は天八王、天八王姫と云うことですが、天八衢彦神、天八衢姫神かも知れません。九頭神に境の神の要素があると云うことは相当古い神格かも知れません。

[2628] Re[2626][2625][2624]: 夢ロマン  nick [Url] 2006/12/13(Wed) 10:55 [Reply]

> 鹿児島県曽於郡有明町原田577の森神社の祭神は用明天皇です。

>  物部守屋の逃亡説は鹿児島まであったのは最近の発見ですが、それ以外では滋賀県東浅井郡浅井町の波久奴神社などがあります。近江には物部の地名も残り、物部のにおいがするのですが、鹿児島には何が物部とつながっているのでしょうかね。
>  新田神社の摂社の守公神社なんかは物部だろうか。


ご丁寧に当地のご紹介ありがとうございます。
全然知りませんでした。

「守公」に関しては島津藩侯時代にそう呼ばれたようですが
それ以前は、国府の守護神・「総社」として祭祀されていたようです。

大隈國の場合は国分市内に現在は「祓戸神社」と呼ばれています。
拙宅から歩いて15分位の地、昔の国府のあった辺りです。

http://www.google.co.jp/maps?ie=UTF8&oe=UTF-8&hl=ja&q=&z=16&ll=31.746015,130.759192&spn=0.010529,0.013132&om=1

また、「物部」の影は当地には余り散見されないようです。
案外「薩摩地方」や「志布志地方」は、海洋航海で中央との繋がりが
あるのかもしれません。
当地はその点、内海の奥まった所、どちらかと言うと「山間部」でしょうか。

今後これ等も鑑みながらもっと歩いてみようと思っています。

[2627] Re[2624]: 夢ロマン  神奈備 2006/12/13(Wed) 08:21 [Reply]
> しかも出土地が西「近津」!!

ずばり近津神社が鎮座しています。
近津神社 祭神 味耜高彦根命  長野県佐久市大字長土呂字本宮

近津神社については以下に詳しく述べられています。
楡山神社ホームページ
http://nire.main.jp/rouman/ubu/tikata.htm

[2626] Re[2625][2624]: 夢ロマン  神奈備 2006/12/13(Wed) 07:13 [Reply]
> 当地の神話伝承地も俄かに脚光を浴びてきた。

鹿児島県曽於郡有明町原田577の森神社の祭神は用明天皇です。

由緒に面白いことが書いてあります。

 崇仏、排仏で蘇我と物部の争いは激しくなり、そのに滅亡したと伝えられた物部守屋は遂に一門一家を伴い身を遁れて大隅に亡命し原田の田原川流域の文化の非常に開け木花咲姫の神社や古墳のあることを知り、この原田を幽居の地と定めここに崇拝申し上げていた用明天皇を奉祀し物部氏は日参して天皇の御安泰を祈り奉り忠臣の誠意を表したのである。
之が用明天皇を祭神とする理由であると伝えられ高井田のノンド丘円墳は物部氏の古墳であると伝えられている。

 諏訪の守屋山も謎めいています。

 物部守屋の逃亡説は鹿児島まであったのは最近の発見ですが、それ以外では滋賀県東浅井郡浅井町の波久奴神社などがあります。近江には物部の地名も残り、物部のにおいがするのですが、鹿児島には何が物部とつながっているのでしょうかね。
 新田神社の摂社の守公神社なんかは物部だろうか。


[2625] Re[2624]: 夢ロマン  nick [Url] 2006/12/12(Tue) 23:16 [Reply]
> 信州で2000年近く前の弥生遺跡が出た
> タケミナカタの頃だろうか 夢ロマン
古代の遺跡が出る都度に「神話の信憑性が増してくる」
いいことだ。
当地の神話伝承地も俄かに脚光を浴びてきた。

[2624] 夢ロマン  QUBO 2006/12/12(Tue) 22:56 [Reply]
信州で2000年近く前の弥生遺跡が出た
タケミナカタの頃だろうか 夢ロマン
しかも出土地が西「近津」!!

[2623] Re[2622]: どなたの住まい?  神奈備 2006/12/12(Tue) 21:35 [Reply]
> 有力者が暮らしていた可能性が高いとの事。我家より広い。

QUBOさん こんばんは。
そうですね。我が家の3倍に近い広さ、ここは暖房が大変だったでしょうね。
以下を参照。
http://news.google.co.jp/news/url?sa=t&ct=jp/0-0&fp=457e1c2d5df8c726&ei=FJR-RcqTNYz8oQLCqszjBA&url=http%3A//www.shinmai.co.jp/news/20061212/KT061212FSI090005000022.htm&cid=1106130189

[2622] どなたの住まい?  QUBO 2006/12/12(Tue) 13:03 [Reply]
信州 長野県佐久市で、「弥生」最大竪穴住居跡が見つかったそうです。
11日の発表で、今朝の新聞で見ました。
南北18.0M、東西9.5Mの長方形 171uもある。
有力者が暮らしていた可能性が高いとの事。我家より広い。
1900〜1800年前、地名は西近津遺跡群 ロマンが広がります。

[2621] 投稿者名ミスです。  Y.O 2006/12/08(Fri) 21:03 [Reply]
誤「Y」→正「Y.O」です。

[2620] ありがとうございました。   2006/12/08(Fri) 21:02 [Reply]
そ、そう言えば良かったです。
「神界のネットワーク」ですね。

ネットワークという言葉が出てきませんでした。
電車や高速道路など例に出す事も無かったですね。

でも大体間違ってなかったという感触を持っています。
有難うございました。

また、立ち寄らせて頂きます。

[2619] Re[2618]: 話の腰を折って申し訳ありません。  神奈備 2006/12/07(Thu) 22:10 [Reply]
 神々はネットワークでつながっていると云うことをおっしゃりたいのですね。神界のネットワークでつながっていると云うことでよろしいのではないでしょうか。
 神様に聞いたわけではないのですが、地元の氏神様に「明日天気になーれ」と祈ると、氏神様は天候を司る神−例えば天照大神、タカオカミの神、風の神さん−などにお願いをつないでくれると云うことですから、まさにネットワークですね。

[2618] 話の腰を折って申し訳ありません。  Y.O 2006/12/07(Thu) 11:35 [Reply]
神様と神社って?

神社(寺院も)に興味を持ち始めて、まだ数年なんですが。

最初は、訳も判らずただ好きなところを参拝していました。
神社が神そのもの、「本体」だと思っていたからですが。
最近では「神社という建物」よりも「祭神」に目が行きます。

しかし、何か違うなぁ・・・と。
今でも好きでよくあちこちの神社仏閣へ出かけます。
素人ながら、調べてみたり詳しい方に教えてもらいながら
自分では今こういう感じで捉えています。

例えば、神様の本体が鉄道だとします。(阪急でも近鉄でも良いのですが)
神社はそれぞれの駅ではないかと。。。
本体を高速道路に例えても良いと思っています。

レールで繋がっているのか?地下で繋がっているのか?もしかしたら空中で?
判りませんが。

「神宮」とか「大社」と呼ばれる
参拝者を大量に集めることの出来る大きな神社は、
例えば「阪急梅田駅」みたいなもの。
高速道路なら「大きなインターチェンジ」
あちこちの中継点であり、木で言えば茎。
人間の体で言えば「脳」とか「心臓」

「末社」である近隣の小さな神社は、支線の末端の小さな駅。
例に挙げて申し訳有りませんが、阪急伊丹線の終点「伊丹駅」か?
伊丹駅という駅ではなく、切符売場でしょうか?
高速道路なら「小さな料金所」。

しかし、同じ阪急電鉄や○○高速というレールや道路で繋がっている。

こういう捉え方は間違っているのでしょうか?
勿論、「八幡宮」「稲荷神社」「天満宮」など色々有ります。
祭神も様々ですが、同じ神様を祀る神社もあちこちに有るわけで。

それは、阪急と近鉄の違い?南海電車でも良いのですが。
高速道路なら名神高速と阪神高速の違いとか。

何か怒られそうですね。御教授お願い致します。

[2617] Re[2616][2615]: 漫画の話  神奈備 2006/12/07(Thu) 11:23 [Reply]
丹生都姫神社の関係の方から聞いた話ですが、丹生都姫が漫画に取り上げられてから若い参拝者に増えたとか。

> 気になるのは、宇賀部神社・杉尾神社・千種神社の3社を爆破しているのですが、実在する神社を破壊するのは、・・・神罰が当たらないといいけど。

 おっしゃる通りですね。神罰があたるかわりに、参拝者が増えればいいですね。

 どうも最近は名草戸畔の話題があちこちで語られているようようです。誰かが語り始めたのか、同時に出てきたのか、とにかく面白い現象です。

 まだ破壊されていませんので、一度三社に参詣してあげて下さい。

[2616] Re[2615]: 漫画の話  PONTA 2006/12/06(Wed) 21:07 [Reply]
>その戦いの余波でイザナミの霊が目覚め、

爆風でイザナミの墓といわれる花の窟神社の封印が解かれるってことです。

[2615] 漫画の話  PONTA 2006/12/06(Wed) 21:04 [Reply]
11/16に永久保貴一『真・カルラ舞う!』の第1巻が発行されました。『真・カルラ舞う!』は、『カルラ舞う!』、『新・カルラ舞う!』に続くシリーズ第3弾で、「名草戸畔の霊や猫の霊を使って中言神社の関連人物を抹殺しようと企む人たちがいて、それを迦楼羅神教38代目教主扇翔子・舞子姉妹が阻止しようとする」という話です(多分;)。猫神使いの一族は、作者も認めているように和歌山市ではなく、田辺市在住ですね。

気になるのは、宇賀部神社・杉尾神社・千種神社の3社を爆破しているのですが、実在する神社を破壊するのは、・・・神罰が当たらないといいけど。

<今後のストーリー展開の予想>

強力な名草戸畔の霊と戦うために丹敷戸畔の霊を呼び寄せる。両者の戦いは引き分けに終わるが、その戦いの余波でイザナミの霊が目覚め、翔子・舞子姉妹の力をもってしても封じられない。もはやこれまでと思った時に、熊野三山の熊野本宮大社の主祭神の家都御子神(=スサノオ(イザナミの子)=阿弥陀如来)、熊野速玉大社の熊野速玉男神(=ニギハヤヒ(イザナミの孫)=薬師如来)が現われて、イザナミをなだめて、めでたし、めでたし。ラストシーンは浄化された名草戸畔と丹敷戸畔の笑顔かな。

[2614] 浪花の鯉の物語  神奈備 2006/12/06(Wed) 13:35 [Reply]
1.太古、河内湾とか草香江と呼ばれる海が広がっており、これに淀川や大和川などが土砂を流しこんでいた。
 七千年前から六千年前の縄文前期には、河内湾は生駒山地のすぐ西に及んでいた。
 その後五千年前から四千年前の縄文中期には、淀川と大和川による堆積作用で三角州が広がり始めた。北側に天満砂堆、西側には難波砂堆が広がった。

 縄文中期の終わり頃には森ノ宮遺跡に見られるように貝塚が作られていた。マガキ、マダイ、クロダイを捕獲していたようで、海の幸を楽しんでいたようだ。

 約三千年前から二千年前、縄文時代から弥生前期、砂堆がさらに北にのび、河内湾は大阪湾と遮られ、水が溜まり、淡水化が進んだ。河内湖になった。

 生駒山地の西麓の日下貝塚は縄文晩期の遺跡で、淡水産貝塚が出ている。森ノ宮遺跡からもカキが消えてセタシシジミ、コイなどが出てくるようになった。
 弥生前期には河内湖の周辺の東大阪の広がる低湿地の山賀遺跡、瓜生堂遺跡などで稲作を行うムラが出現した。

 遺跡と神社 石田神社は船の形の巨石が埋まっているとの伝承がある。古墳の石棺の蓋かも知れない。この伝承が神社をよんだのかも。

日下貝塚  石切神社
山賀遺跡  若江鏡神社
瓜生堂遺跡 石田神社

[2613] Re[2612][2611]: 辛国の城  nick 2006/12/02(Sat) 15:10 [Reply]
> > 歴史の窓・隼人の服従
>
管理人さんお手数をお掛けして恐縮に存じます。

> 玄松子さんの稲積六神社から
> 宇佐神宮に関する辛嶋氏伝承では、八幡神は、欽明天皇の御代、宇佐郡辛国宇豆高島に天降り、大和国の膽吹嶺に移り、紀伊名草海島、吉備神島と渡って、宇佐郡馬城嶺に現われ、・・、現社地へと移ったとする。
> その「宇佐郡辛国宇豆高島」が、この稲積山ではないかと、「八幡信仰」において中野幡能氏は指摘する。
> 山の北側に「スエ村」があり、古くから辛嶋氏が居住した地。
> 以上

興味深いところです。これが「韓国宇豆峯」に繋がる訳ですね。
それにしても当地は銅のような鉱物資源は無いのですが
どんな関連だったのでしょうか。
入り江(海運)の守護だったのでしょうか。

今夜は、神武天皇の「狭野神社」境内で夜神楽があります。
今日は一番の冷え込みで、寒風が吹きすさんでいます。
昨年も冷たい霙交じりで大変だったようですが。。

来週の祓川神楽殿(霧島東神社の当方)は見物したいのですが
どうかな。

[2612] Re[2611]: 辛国の城  神奈備 2006/12/02(Sat) 08:59 [Reply]
> 歴史の窓・隼人の服従

歴史探訪・隼人の服従です。


桑原郡に稲積郷があるのも、豊国の稲積山付近からの移住者がいたのかも知れませんね。

玄松子さんの稲積六神社から
宇佐神宮に関する辛嶋氏伝承では、八幡神は、欽明天皇の御代、宇佐郡辛国宇豆高島に天降り、大和国の膽吹嶺に移り、紀伊名草海島、吉備神島と渡って、宇佐郡馬城嶺に現われ、・・、現社地へと移ったとする。
その「宇佐郡辛国宇豆高島」が、この稲積山ではないかと、「八幡信仰」において中野幡能氏は指摘する。
山の北側に「スエ村」があり、古くから辛嶋氏が居住した地。
以上

辛島氏は五十猛神の末裔のようで、それが八幡神の移動に、紀伊名草海島の名が現れたのかも知れません。名草の海島とはおそらく古くは島だった名草山のことだろうと思います。

スエ村とは陶器を作っていた村でしょうか、大物主神の後裔の太田田根子が見つかったと言う陶荒田神社が堺市にありますが、やはり渡来系のにおいがします。辛島氏の段階で大物主と五十猛が合体しつつあったのかも。

[2611] Re[2610][2609][2606]: 辛国の城  nick 2006/12/01(Fri) 18:11 [Reply]
こんばんわ、
今朝は室温10度でしたが昼間は小春日和のぽかぽか陽気でした。
もう菜の花が咲いていました。

>  辛国城は豊国から人々が入植した地域としますと、桑原郡豊国郷と言うところがあるようで、その辺りとも言えそうですね。ここは具体的にはどこなのだろう。

ご掲示のように、隼人抗戦(720年)前後
当時の豊前・豊後・大分から平定のため
移住しているようです。

歴史の窓・隼人の服従・稲積のページにも掲載していますが

■和銅七年(714)三月壬寅《十五》===>>>豊前國民二百戸を隼人へ移住管轄させる
壬寅。

隼人昏荒。
野心未習憲法。
因移豊前國民二百戸。
令相勸導也

「桑原郡」
は当地の辺りを指すようです。
後になって、東と西に分断されています。

和名類聚抄に表記されている地名:桑原郡

1. 大原(オオハラ):
2. 大分(オオイタ);
3. 豊國(トヨクニ);
4. 答西(イヤ):
5. 稲積(イナズミ):
6. 広田(ヒロタ):
7. 桑善:
8. 仲川(ナカカワ)國用中津川三字:====>>牧園町中津川


ここの「稲積」は、妙見温泉の北方「中津川地区」に比定されているようです。


「日州」に関しては宮崎の庄内地方辺りを指すようですが
私は地元以外は疎いです。


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