青草掲示板ログ平十九年二月 2007.2 |
[2784] Re[2781][2780][2776][2775][2774]: 住吉大社 琉球松 | 2007/02/28(Wed) 22:30 [Reply] |
神奈備さん、ありがとうございます。 「表・中・底」は、すでに垂直思想ですけど、もともとは水平思想だったのではと考えたしだいです。 特に根拠もないのですが、「表=その辺・中=あちら辺・底=地の果て」なんて想像してみました。 すみませんいきなり。。。またお世話になります。 |
[2783] 関連 [2778] 筒裏占 倭亜布 | 2007/02/28(Wed) 21:12 [Reply] |
秦氏と稲荷に古墳 稲荷と古墳. 神奈備と古代豪族秦氏の氏神。 これが稲荷信仰のルーツにあることは間違いない。 ... ところで,全国的に見ても「稲荷」の名がつく古墳や遺跡は多い。 ... 伏見稲荷山についても同様であり,一の峰を始め古墳時代前期の古墳が発見されている。 ... http://homepage3.nifty.com/yahoyorodu/kohun.htm 秦氏一族は烏豆麻佐の天塚山に天の神として塚を建て、日、月、星の天地諸神を奉祀し、日夜礼拝した。 http://suzukishokai.cool.ne.jp/sub%2012%20amatuakofun.html http://ja.wikipedia.org/wiki/ç§¦æ° http://homepage3.nifty.com/yahoyorodu/hatasi.htm http://www.geocities.jp/miniuzi0502/distant-j/finari/inariyama/inariyama.html http://dumbwaitersite.hp.infoseek.co.jp/komaefile/HATA.HTM おまけ http://nene.pepper.jp/omake.html 6世紀後半から7世紀頃、この地で活躍した渡来系豪族の依智秦氏(えちはたうじ)の一族の古墳と考えられ、全体で約300基が確認されています。 http://www.pref.shiga.jp/minwa/32/32-02.html http://search.yahoo.co.jp/search?p=+%E5%8F%A4%E5%A2%B3+%E7%A7%A6%E6%B0%8F&ei=UTF-8&fr=top&x=wrt&meta=vc%3D 位置が台示です。 |
[2782] Re[2779]: 銅鐸について。 神奈備 | 2007/02/28(Wed) 21:11 [Reply] |
> 戸隠から銅鐸、白い石がでないかなーと常々考えているのですが、古来稲作が不可能だった戸隠(標高千mを越える寒冷地)から万が一それが出たなら、古代史にせまるなにぞが繋がるかもしれません。 戸隠神社を祀ったのは手力男命を祖神とする伊勢の船木氏とよく似た氏族だったのかも知れません。海人族、昔の海人族は猪突猛進と言うのか、海から川に入り、トコトン上流へ行ってしまい、どん詰まりで生活をしたのかも。穂高へ行った安曇氏もそうですね。 手力男神も日神を迎える神ですから、『住吉大社神代記』に、大田田神、神田田神の名が出てきます。伊勢の船木氏の祖ですから、手力男神の後裔となるのでしょう。 彼らが銅鐸祭祀に関与していた古い氏族であると言えるでしょうから、戸隠から銅鐸が出てくることもあり得るかも知れません。 実に楽しいでしょうんね。 |
[2781] Re[2780][2776][2775][2774]: 住吉大社 神奈備 | 2007/02/28(Wed) 21:01 [Reply] |
> 「浦島太郎伝説(水江之浦島児)」の主要舞台はこのはたりかもしれませんね。 『万葉集』一七四〇に浦島の子を詠める歌一首があります。 春の日の 霞める時に 住吉(すみのえ)の 岸に出で居て 釣舟の たゆたふ見れば 古の ことそ思ほゆる・・・・ 浦島太郎は日下部首等の祖先に当ります。和泉や各地にこの物語を持ち運んだようです。南九州にも日下部さんは行っています。 > ところで、「表・中・底」ってどういう意味なんでしょうか? 距離感の表現ではないかと想像しているんですが。。。 距離感の表現の距離とは具体的にはどう言う意味でしょうか? 猿田彦は比良夫貝に手をくわれて、海塩に沈んだのですが、その底に沈んだ時の名はは底どく御魂、海水のつぶたつ時はつぶ立つ御魂、沫咲く時の名は咲く御魂としています。 海の底に居て、水葉も稚やかに出る神が底筒男であって、たとえ海の底にいても安曇の磯良のように顔が醜くなるほど貝類がへばりついたものではなく、住吉の神は美しく若やいでいると言いたかったのでしょうね。底があれば、上に上がってくるので、中、表とついたのかも。 |
[2780] Re[2776][2775][2774]: 住吉大社 琉球松 | 2007/02/28(Wed) 18:23 [Reply] |
神奈備さん、久しぶりです。 住吉大社の「住吉(スミノエ)」が、『万葉集』の「墨吉(スミノエ)」だとすると「浦島太郎伝説(水江之浦島児)」の主要舞台はこのはたりかもしれませんね。 海幸山幸といい、ワタツミといい、神武の家系といい、ことごとく奄美沖縄との繋がりを連想しますね。 ところで、「表・中・底」ってどういう意味なんでしょうか? 距離感の表現ではないかと想像しているんですが。。。 |
[2779] 銅鐸について。 くず | 2007/02/28(Wed) 17:11 [Reply] |
古来の呼び名はさなぎ、あるいはさなぐであったのではないか、と自分も思います。 諏訪に伝わるサナギの鈴。神奈備さんご指摘の船木氏の祀る佐那神社、丹後の奈具神社と銅鐸の関係、 また南宮(ナングウ→ナグ)社(山)と銅鐸出土の関係などです。 そしてナギ、ナグは波の静かな様子の凪、和む、慰めるにも通ずる、鎮める様子。 荒ぶるものへの鎮魂が本来の役目ではなかったかと思います。 南宮からは梁塵秘抄より信濃(諏訪)が本山、美濃南宮大社が中の宮で伊賀国(敢国神社)との関係、信濃に追われた伊勢津彦と阿閉氏、扶桑略記に見える銅鐸(宝鐸)と白い石。 都祁村南之庄国津神社の白い石、風鎮祭。持統天皇の龍田・須波・水内等へ勅使の派遣。 戸隠に伝わる象牙の牙笏と九頭龍社の関係。 http://www.togakushi-jinja.jp/tenji/04.html また戸隠奥社祭神の天手力雄命と伊勢で同神を祀った佐奈の県のサナ。 戸隠から銅鐸、白い石がでないかなーと常々考えているのですが、古来稲作が不可能だった戸隠(標高千mを越える寒冷地)から万が一それが出たなら、古代史にせまるなにぞが繋がるかもしれません。 |
[2778] 筒裏占 倭亜布 | 2007/02/28(Wed) 11:38 [Reply] |
津々浦々は点と点? わら天神宮(わらてんじんぐう)ー地図 http://www.kamimoude.org/jinjya/kyoto-city/kita/ki-waka/chizu.html 境内の南端に古来より清盛塚と俗に称えられた前方後円墳式の古墳あり、改修の際に壇上の岩石を除くと石棺が現れ、東京の帝室博物館に鑑定依頼をするも、平清盛の時代と相違ありとのこと、岩石は六勝稲荷神社の前に移したものが即ちそれであります。 ... http://www.kyoto-jinjacho.or.jp/shrine/03/060/ 金攫八幡宮 http://www.kamimoude.org/jinjya/kyoto-city/kita/ki-kinkaku/index.html 塚原遺跡 平野神社の北約200mのところにあり、平成5年1月まで 発掘調査が行われていました。 その結果、古墳26基、小石室10基などが見つかりました。 今回は小石室について取り上げてみました。 ... 八幡宮と古墳の関係? http://search.yahoo.co.jp/search?p=%E5%8F%A4%E5%A2%B3+%E5%85%AB%E5%B9%A1%E5%AE%AE&ei=UTF-8&fr=top&x=wrt&meta=vc%3D 八幡と古墳の関係? http://search.yahoo.co.jp/search?p=%C8%AC%C8%A8%A4%C8%B8%C5%CA%AF&fr=top&src=top 寺社と古墳の津 通 浦 占 の関係が気になります? 「津村明神」といわれる姫神様が祀ってある。 ... 神島神は弓の名手で、矢を放ったところ、矢は蕪島の真中を突き抜け白野江の浜につきささった。 蕪島神は太刀打ちの名手で、ふりおろした大太刀は、苅田沖の太刀の浦にまで届き、 ... http://www.city.kitakyushu.jp/page/kankou/minwa/moji01.html http://www.geocities.jp/koten_ss/matugae/minwa5.html 白い大蛇が棲む 津村島 http://www16.ocn.ne.jp/~tabibito/ta23.html 「太刀浦」の由来については、津村島の女神を苅田沖の神島の男神と蕪島の男神が争っていた時に、 蕪島の神が神島の神を斬りつけようとして振りかぶった大太刀の先が触れた場所であるという伝説もある。 [関連事項] 津村島、 蕪島 (*)史跡・伝説 ... http://moji.ktai.sh/mojiko/tachinoike.html 青草の生長が楽しみです。 |
[2777] 和歌山 | 2007/02/27(Tue) 21:55 [Reply] |
MADOKAさん 和歌山の入浴料390円、徳島は360円でした。四国のお風呂では、鴨島町の鴨の湯温泉、遍路割引あり。行きと帰り2回入ったのですが背中に絵を描いたおじさんが入っていました。妙に礼儀が正しくて・・・徳島市内の新町温泉は朝早くからやっており歩き遍路はお接待で無料でした。風情のあるお風呂やさんです。愛媛県の石鎚温泉は素泊まりで3800円部屋の広さが10帖という広さ。大阪や和歌山でお薦めのお風呂屋さんはどこですか? 私が何年か前に購入した和歌山市北部の某家に伝わった近世古文書群中に神社関係の史料がありました。中には中世文書の写しもあり一部は自治体史にも掲載されていますが、中世文書も数点ありました。1点は紀伊国守護代発給文書です。神社関係では、「八幡宮旧記(府中八幡)」があり紀伊続風土記や「紀伊国名所図絵」にも概略が掲載されているのですが、どうやらこの史料からの引用のようです。ほかに「高橋神社記」は堀内某が遠祖ニギハヤヒを祭ったことなど。 現在所有している古文書は和歌山県内約30か村分の近世文書です。今後これらの目録を作成していきたいと思います。 |
[2776] Re[2775][2774]: 住吉大社 神奈備 | 2007/02/27(Tue) 16:41 [Reply] |
『住吉信仰』真弓常忠著 には、四艘の箱船が西の海に渡航している遣唐使の姿そのものと書かれています。しかしこれについては、遣唐使の船団を住吉大社の社殿に合わせたもののようです。 神功皇后を祀る第四殿の東(第一殿の南側)に五所御前と言う一本の杉の木を植えて祀った御阿礼所があります。ここが住吉三神顕現の場で、第四殿の神が齋祀っているのです。 第一殿から三殿は、軍船が一列となって進んでいる姿に見えます。 さて、住吉の筒男神を対馬の津々浦々の長神とした真弓宮司さんは、対馬の古い住吉神社(鶏知とその元社の鴨居瀬)の祭神が彦波瀲武鵜鵜草葺不合尊であることを下記のように説明していました。 『日本書紀』に、神功皇后が大祓えをした時に現れた神として「日向の橘小門の水底に居て、水葉も稚やかに出てくる神、名は表筒男、中筒男、底筒男の神」と表現しているのは、いかにも海辺の祭祀に現れた若々しい神格を表しており、それが海幸山幸神話の神々の名で称えられたとしています。 その基層には、南方系の古層の文化のにないてである対馬の海人族が奉じる海神としての母子信仰が海宮の乙女と海童として信仰され、竜神としての海神である豊玉彦とその子の豊玉姫と、その子であ小童神である鵜鵜草葺不合尊と言う三人立の神々の信仰としたもののようです。 対馬でも住吉大神が大をなした後に祀られた住吉神社(厳原など)は三筒男となっているようです。 |
[2775] Re[2774]: 住吉大社 神奈備 | 2007/02/27(Tue) 09:18 [Reply] |
和歌山さん、こんにちは。 昨日、26日には住吉大社で、真弓宮司さんの「住吉信仰の発祥等」の講演がありましたので、私も2時頃には住吉大社社殿付近をうろついていました。 講演の中で真弓宮司さんは海人族のことについて下記のように語っておられました。 1.海上から日神を迎える。 2.母神を介して子神を信仰する。 子神は少童神としてワタツミの神です。 住吉の筒男については、対馬の各港におられる神々のことで、津々浦々の神々とのことでした。母子信仰に加えて三人立(爺(母神の父)−母神−子神)が入って来て、三筒男となったように話をされていたようですが、ここらはすっきりと結びついての話だったかどうか、分かり難い所です。 |
[2774] 住吉大社 和歌山 | 2007/02/26(Mon) 23:25 [Reply] |
今日、近くまで行ったので住吉大社に参拝してきました。初めてだったのですが何の予備知識もなく、南海の駅から行くと最初に参拝したのが第三殿次いで4,2,1という順序でした。1列に並んでいるとは知らなかったので・・・でも段々奥へ参拝して行くと何だか奥の院へ行くような感じと言うか黄泉の国へ近づくと言うかイザナミのミコトに会いに行くような雰囲気になりました!1列になっているのは3,2,1殿と黄泉の国を意識したのかも?それとも仏教の影響? |
[2773] 【銅鐸】は方位線 レイライン に関係 倭亜布 | 2007/02/26(Mon) 10:19 [Reply] |
【銅鐸】は方位線 レイライン に関係します(初期なので誤差有り)。 「寺社」以前「古墳」以前「銅鐸」以前「鼎?」「甕棺」「支石墓」(ドルメン) 今、確かなことは「大和朝廷の大和自生」説は成立不可能ということ。それに変わって銅鏡文化圏の大和侵入者やその子孫達によって、銅鐸国家が滅亡させられた。それが銅鐸に変わって巨大古墳や銅鏡が出現する理由です 時には壊されて出土する銅鐸。 ... 和銅6年(713)7月6日大倭国宇陀郡波坂郷の人大初位上の村君東人は、長岡野の地で銅鐸を得て献上した。 高さ三尺・口径一尺でその造りは普通と異なっており、音色は律呂にかなっている http://www2.ocn.ne.jp/~syouji/kodaisi_8.html 律呂 十二律は陰陽に分けられ、奇数の各律は陽律であり、律と呼ばれ、六律(りくりつ)と総称される。偶数の各律は陰律であり、呂と呼ばれ、六呂(りくりょ)と総称される。よって律呂の名がある。 http://ja.wikipedia.org/wiki/å¾å 銅鐸には【舌】が付いていたはず。 http://www.maibun.com/KihonDate/open/open6.html 【舌】ゼツ した〔【口】出入り穴 端 はじめ しごと 刀剣の数 ひと(生贄の禹の父「口・鯀コン」)+【干】:さからう そむく(古文字では先が二又の矛?逆さの人の形〕:音を出す道具 【舎】の古文字に似ている【干】が【余】ヨ: 代名詞「吾」われ〔口+五(帝位 天の位)〕 禹の父「口・鯀コン」=漢字の【口】【台】の「口」=「境」の位置の「塚・古墳・橋(端」」測量での礎(圭たま霊)沮ソ:とどまる・・・鯀は黄河(氵 サンズイ)の【且】シャ(神に供える台)となり【口】は測量のポイントの位置【社】と成ったとの自論です。 (【圭】ケイ ケ たま:土地を計り治める。) http://ja.wikipedia.org/wiki/é¯ http://tokyo.cool.ne.jp/torai-jin/kisinogennkou.htm 口鯀(クこん?)黄河の治水に失敗し堤防の人柱にされたらしく【口・日・白・兄?】など白川静氏の字解での口(さい)=神への祈りの文である祝詞(のりと)入れる器の形とされています。 ... http://www.musubu.jp/kashimamanogimonizumi1.htm 「・・・黄河に配置された「酉」(酒の甕の目標物)と思へ日本での銅鐸や前方後円墳も「酉」(酒の甕の目標物)を模した形と考えています。 ・・・」 http://www.asahi-net.or.jp/~rg1h-smed/keijiban7.htm 【眞】〔鼎+ヒ(祭司)〕 眞・善・美 と禅~ 眞とは本物のこと。 善とは善いこと。 美とは美しいこと。 ヒ. はサジ、県は鼎はかなえ。 かなえにサジで物をつめる。 一杯 ... さて、これを禅で解釈すれば眞とはこれ以上はない絶対の境. 地、即ち大宇宙 ... http://www.nichiiken.com/mail/maga_373.htm |
[2772] 「鐸」は天(神)への問い(覗い)の道具。 倭亜布 | 2007/02/26(Mon) 08:21 [Reply] |
「鐸」は上部に手で持って鳴らすための細長い柄が付いたもの。 http://homepage2.nifty.com/LUCKY-DRAGON/kodai-3-1jikitaku.htm 銅鐸. 銅鐸はいわゆるベル型の青銅器で、 その起源は大陸製の小型類品にあったと推定されているが、 大きさや形状、紋様構成などにみられる多くの特色は 弥生時代の日本列島で独自に醸成された。 ... デジタルミュージアムでは、銅鐸の レプリカを作成しました。 ... http://www.um.u-tokyo.ac.jp/DM_CD/DM_CONT/DOTAKU/HOME.HTM 「鹿のツノを銅鐸の中に麻の紐で吊し、鐸全体を揺らして音を鳴らした。 」鐘のように、叩く(問う?)のでは無く「覗いみる」る意らしい? 「鐸」の【睪】エキ(易?釋とく解?) :覗いみる 覗く 〔目+土+羊〕(呉音)同音の漢字【懌エキ ヤク(羊 生贄?) よろこぶ 「鐸」タク(漢)すず :昔 命令を発する時に鳴らして大衆を集めたもの。文教には木鐸、武事には金鐸を用いた。 鈴・鐸の古語=「ぬて・さなき」(銅鐸?) 伊勢の、狭長田(さなだ)の、五十鈴(いすず)は、 ... 「鐸(ぬで)」は、サナキ=銅鐸のこと。 結婚・雨乞いの神。 金属精錬の神とも。 ... 立派な、物部氏系の巫女ということになる。 百襲(ももそ)=物部一族 ... http://www115.sakura.ne.jp/~byunbyun/wonder1/wonder66.html あくまでも祭器というなら、現在受け継がれている、拝殿礼拝とか、巫女さんの踊り用の鈴の原型ということだろう。 http://www.randdmanagement.com/c_shuju/sh_176.htm 巫女さん(神事に添え仕える神子)が神楽を舞うとき、手に鈴をもってシャンシャン鳴らすけど、 あれは銅鐸の名残? ... http://www.sumiyosi-jinja.jp/mikomai.htm http://www.ikoma.ne.jp/tb4-5.html http://www.city.sammu.lg.jp/benri_menu/08-kankou/bunkazai/03-m_kagurasuehiro.html |
[2771] 銅鐸型土製品 和歌山 | 2007/02/25(Sun) 21:59 [Reply] |
銅鐸は銅で出来ていることは確かですが、土で出来ているものも有ります。銅鐸型土製品です。手のひらに載る小さなものですが銅鐸に比べると簡素なものです。銅鐸型土製品も合わせて考えなければならないと思います。 |
[2770] Re: 銅鐸と海人族との関係は? どんたく | 2007/02/25(Sun) 14:17 [Reply] |
#2769
MADOKAさん、こんにちは。 どんたく です。 >現段階においての学説で銅鐸とはなにか?はどういったものでしょうか? まだはっきりした定説というものはないと思いますヨ。 色々な人が色々なことを考えているのだと思います。 どんたく WindowsXP(Home Edition) SP2 CMN v0.50dβ + YosPad 1.42 |
[2769] 銅鐸と海人族との関係は? MADOKA [Url] | 2007/02/25(Sun) 02:14 [Reply] |
いこまかんなびさん 長柄が微高地&住所&写真掲示板で家型はにわありがとうございます。導水施設かどうかは不明は残念ですが。。やっぱりちょっと変わったはにわですよね >まだまだ水際・低湿地にもたくさん埋まっているかも。 超それに期待!!古代船とか!海人の祭祀跡とか私はこの地区にゴロゴロあると睨んでいる!! どんたくさん ありがとうございます。ひょっとしたらとおもい。。西淀川の大和田ならもっと嬉しかったのですが無念。。 地図を見させていただきました。ちょっと以外だったのは結構川筋と銅鐸の分布はある程度の重なりがあるようにおもえました。 で、素朴な質問ですが 私の古い記憶では銅鐸は農耕儀礼に狩りに関わる祭具?戦いの時に多く光輝く様で相手を畏怖する 初期は聞く銅鐸から後期に見る銅鐸へ 葦の根本につく二価三価鉄塩の鳴る石が聞く銅鐸のルーツで聞く銅鐸は神社の鈴として痕跡を残す。 ですが 現段階においての学説で銅鐸とはなにか?はどういったものでしょうか? 銅鐸のルーツは銅鼓ですか? 海人族との関係はどうなのでしょうか? 数年前 NHKで衛星の再放映で『天空の棺』というのを見ました。河の岸壁に木の支えで棺が岸壁に浮かぶように並んでいる。(私はこれは天の浮船だとおもlった)この谷間の現住民はつながりがなく意味もわからない。山間なんですがどうも海人族の棺らしく、海から河ずたいに坂のぼってきた。でこの族は銅鼓の数で力が決まったようで 最後の酋長が処刑の際 銅鼓を力一杯叩いておたけびをあげて泣いた。ボウ族??でこの一族は太陽が印で船に鳥と銅鼓が必需品?とかいう話であったと記憶します。私はこれは日本の海人族のルーツではないか!と印象にのこったので。。。 上記の質問ですがどうなんでしょうかねえ。。。 大和田とつけられたのはこの銅鐸にほかにない特徴があるのでしょうか?大和田という地名は海人との関係が深いのではとおもっているので。。 水際ででた銅鐸には銅鐸としてほかの銅鐸と違う共通の特徴があるのでしょうか? |
[2768] 大和田はどこか どんたく | 2007/02/24(Sat) 22:54 [Reply] |
#2765
MADOKAさん、こんにちは。 どんたく です。 >>神戸・北青木銅鐸と亀山型(5)に大和田3号鐸 >とありましたが >この大和田はどこですか?? <神戸・北青木銅鐸と亀山型(7)> http://bbs.com.nifty.com/mes/cf_wrentC_m/FREKISHI_B032/wr_sq=FREKISHI_B032_0000000319 の「亀山型銅鐸一覧表」の最初にある「門真市野口 大和田駅構内」出土の銅鐸です。 京博の難波洋三氏はこれを大和田銅鐸と呼び、歴博ではこれを野口出土銅鐸と呼んでいます。 例の駅のトイレのところから出土した銅鐸です。 なお、島根県埋文センターの「銅鐸出土地名表」 http://www.pref.shimane.jp/section/maibun/pdf/seido.pdf のp.28〜34に銅鐸埋納遺跡分布図があります。 この分布図を見て戴くと、銅鐸がどのような場所から出土しているか、おおよそのところがわかるかと思います。 どんたく WindowsXP(Home Edition) SP2 CMN v0.50dβ + YosPad 1.42 |
[2767] Re[2766]: 水辺の銅鐸 神奈備 | 2007/02/24(Sat) 19:58 [Reply] |
いこまかんなびさん、ありがとうございます。 > いずれにしても水際は近い。まだまだ水際・低湿地にもたくさん埋まっているかも。 和歌山市の太田黒田遺跡からも銅鐸が出土していますが、ここも海岸だったと思われます。 http://www.wakayama-city-museum.com/SYOZOHIN-KOKO-DOTAKU.html |
[2766] 水辺の銅鐸 いこまかんなび [Url] | 2007/02/24(Sat) 12:43 [Reply] |
長柄の銅鐸については、保育社『日本古代遺跡11 大阪中部』に少し載っています。ここには天理図書館蔵の『好古集帳』に「摂北長柄畠中ヨリ堀出ス」と注記した銅鐸図とボストン美銅鐸の拓本が載っています。 水際といっても長柄も結構微高地の様子。 ほかには堺市浜寺昭和町で昭和3年に出土した銅鐸(高44cm、扁平鈕式六区袈裟襷文)は海岸の砂丘地から出たものといいます。海抜3mほどの門真市大和田から昭和38年に地下2mの砂層から3個見つかったものは、河の中州のような所だったといいます。『大阪府史』第1巻 いずれにしても水際は近い。まだまだ水際・低湿地にもたくさん埋まっているかも。 |
[2765] あー!! MADOKA [Url] | 2007/02/24(Sat) 03:12 [Reply] |
あー投稿したら下にズラズラあるじゃないですが! (±0±)ビックリしました!! &また投稿しようとしたら三重投稿!!すんません! 消してください!!m(==)mお騒がせしました! どんたくさん 感激です!!(*^0^*)/ >水際に埋められた銅鐸というのは珍しいと言ってよいと思います。 やはりそうですか感動感涙!!! >神戸市東灘区北青木(きたおおぎ)1の北青木遺跡 本山銅鐸の出土地点がほぼ縄文時代の海岸線に近いところであるのに対して、今回の北青木遺跡地点は弥生時代の海岸線に近い場所と考えられている。 これですこれです!!この海岸線の延長に難波八十嶋があると見ているのです!! >神戸・北青木銅鐸と亀山型(5)に大和田3号鐸 とありましたが この大和田はどこですか?? >西谷真治「ボストン美術館所蔵の銅鐸の出土地について」考古学雑誌第68巻第1号、昭和57年6月 残念ながら私はこの引用で銅鐸の拓本図と家型はにわ(導水施設?)の絵しかみていません。 私もはっきり出土場所が知りたいのでよろしくお願いいたします。(私もあたってみますが。。文献名がわかったのはありがたかったです 謝謝) 和歌山さん 私は 浪花生まれの河内の山の手育ち!年代もんの独身のOL(大阪レディー)であります! 下町ウォッチや風呂ウォッチはものめずらしくってはまってます!取材能力を高めて古代史にいかそうかと。。。。 和歌山は¥390 風呂は 『本町温泉』!源泉! 『奥熊野温泉 女神の湯』 重曹泉(ナトリウム炭酸水素温泉)「とろみの湯ベスト10」として5つ星を獲得 橋本 『ゆの里』 でしょうねえ!! 全国的には『花山温泉』(未入浴) >当然神道の影響もあるようで、熊野信仰特に熊野比丘尼の活動も指摘されています。他に補陀落渡海信仰や一宮・神宮寺なども組み込まれていったようです。 これはあると思っています 熊野中辺路 大雲取 小雲取 は完走しました。 お遍路ツアーにはウドン食べたさにお試しツアーにこの間行ってきたとこ また報告します 一緒にいった同じ独身和歌山女子は強烈な和歌山ナショナリスト!!和歌山が一番住みよく、他なんか住む価値がナイ!すべての文化は和歌山に始まり他はその模倣二番煎じを豪語する! この女子で私は和歌山中華思想を知りました!! あまりの面白さにどうにかそそのかして大阪女インタビューによる和歌山中華思想ブログを目論見中。。 >古文書などの史料を集めています。収集史料の中には神社に関する史料もあるのでそのうちに報告できたらと思います。 期待しています!!(^^)// 各位様 河尻 または 長柄橋 に関わる古歌の情報お持ちの方 書き込みお願いいたします |
[2762] 八十嶋祭り&霊水 MADOKA [Url] | 2007/02/24(Sat) 01:34 [Reply] |
神奈備さん >八十島は大八島のことで、国土全体を指しているの>ですから、河内湖が徐々に埋まってくるのもよし、>淀川や難波堀江の河口が埋まってくるのもよし、>遠く淡路島を眺めて国生み神話に思い至るのも>よし、すべてよしでしょうね。 究極そうだと私も思います。祭祀は観想観念がしっかりしていれば、どの場所でも可能 ただ私は八十嶋祭りのルーツ祭祀の根源に興味。 >熊河尻の住吉神。いずれの由緒にも八十島が登場>するようです。 >大阪市西淀川区佃 田蓑神社 >大阪市西淀川区大和田 住吉神社 >大阪市此花区伝法 澪標住吉神社 >尼崎市梶ケ島 住吉神社 これは メッチャ 嬉しい!! 熊河尻はいろんな説があって判然とせずどこのことかとおもったので この場所は私のいう 神崎川 の河尻と同じ場所! つうことは、平安時代に歌に詠まれた河尻は神崎の遊女をイメージしているというのが一般的?ですが。。やはり 神崎川の河尻は 八十島祭りの熊河尻を詠んでいるともいえるわけですね!!!! 河尻の泊まりの歌はちょっと資料が今出てきませんが。。 特に私は大阪市西淀川区大和田 住吉神社に注目 大和田の浦 の伝承地(兵庫説もあるがこちらがルーツだと思う) 『浜清く 浦なつかしく 神世より 千船の泊まる 大和田の浦』 読み人しらず 万葉集 千船という地名も現存 http://www.city.osaka.jp/nishiyodogawa/spot/spot04.html 和歌を詠むというのはなにかあるとおもう。 ほんとに、長きにわたって 何回も流れて残骸状態?の長柄橋跡へワザワザ なぜ都の貴族がコースを変えてでも立ち寄って歌を詠んだのか?不思議な行動 長柄橋跡が難波津を代表する 歌枕?だった時期がある。。。 能楽の『融』 http://www.syuneikai.net/tohru.htm 左大臣源融が難波の海水を運んだ史実も呪的要素 この難波の融ゆかりの場所は 北区 大融寺 http://www.y-morimoto.com/s_saigoku/s_saigoku02.html 長柄か河尻付近で 海水を採った可能性は高い 平安貴族は古代の伝承をはっきり知っていた人達です この時代の都人の人型は難波津にわざわざ流しています 古代難波津の海水はすべてを払い清める霊水だった 和歌山さん >八十場(弥蘇場)の水である。甦りの水のようですな! >崇徳上皇が崩御された時、勅許を待つ間夏場であったため遺体の損傷を防ぐためこの霊水に浸した。そして近くの白峰山で荼毘にふし現在の白峰御陵に葬った。霊水に対する信仰が読み取れますね! これおもしろいですよね! 御霊崇徳上皇を霊水で封印していたのかも? あっ!甦りの水か!? 甦ったら怖いっすね!! あーーその効験 あらたかで! 祟徳上皇伝説は現代にまで残り、明治天皇が真っ先に御魂を京都へ移したのは、そのお蔭! 青草でした!(±0±)/ |
[2761] はじめまして 和歌山 | 2007/02/24(Sat) 00:05 [Reply] |
続き・・・ 四T八十八ヶ所はその成立過程や宗教的背景が複雑でいまだによく分かっていません。元々修験道(山修験、海修験)による修行が始まりのようでのちにお大師信仰と結びつき現在のような寺院を廻るようになったと言われています。当然神道の影響もあるようで、熊野信仰特に熊野比丘尼の活動も指摘されています。他に補陀落渡海信仰や一宮・神宮寺なども組み込まれていったようです。 MADOKAさんはじめまして MADOKAさんはこてこての大阪人のようですね、想像するに30歳前(失礼)の独身女性で下町生まれのOLといったところか?私も子どもの頃から銭湯が大好きです。風呂敷の良いお店ご存知でしたら教えて下さい。 私のプロフィールは簡単にいうと、中年になる手前の独身男性で、歴史特に神社が好きで、神主になりたいという願望の持ち主。古文書などの史料を集めています。収集史料の中には神社に関する史料もあるのでそのうちに報告できたらと思います。 |
[2760] 水際出土の銅鐸 どんたく | 2007/02/23(Fri) 23:55 [Reply] |
#2753 MADOKAさん、こんにちは。 どんたく です。 >銅鉾 銅鐸 は基本的に水際での出土は珍しいのでしょうか??? はい。そう言えると思います。 銅矛について水際で出土したものがあるかどうか、私には記憶がありません。 銅鐸の場合、水際に近いところで出土した例として今私の頭に浮かぶものとしては、次のようなものがあります。 (1) (伝)愛知県郡鳴海海底出土銅鐸(出土年不明) (2) (伝)名古屋市名古屋城濠出土銅鐸(出土年不明) (3) 和歌山県紀ノ川銅鐸(1960年出土) (4) 和歌山県有本銅鐸(1965年出土) (1) についてはそのような言い伝えがあるというだけではっきりしません。 (2) も同様に言い伝えによるものですが、銅鐸が埋められた弥生時代にはまだ名古屋城はありませんでした。 (3)と(4)とは、何れも現在の紀ノ川河川敷から出土したものですが、弥生時代には紀ノ川が流れていたルートは現在とは違っていたものと考えられているようです。 これ以外に、昨年神戸市の北青木(きたおおぎ)から銅鐸が1個出土しています。 阪神電車の線路沿いの場所で、弥生時代の海岸線はほぼこの辺りだったろうと言われています。 この銅鐸について、2006/11/3の神戸新聞は「沿岸部で初の銅鐸」、2006/11/5の朝日新聞は「海岸近くの出土は初」、というような見出しをつけて報じています。 これからみても、水際に埋められた銅鐸というのは珍しいと言ってよいと思います。 なお、この北青木銅鐸については、下記の@niftyの掲示板に「神戸・北青木銅鐸と亀山型」と題して、数回に分けて私がアップしておりますので、ご関心があればご覧下さい。。 (この@niftyの掲示板は、今年3月末でなくなりますので、それまでに見てください。) http://bbs.com.nifty.com/mes/cf_wrentC_m/FREKISHI_B032/wr_sq=FREKISHI_B032_0000000313 なお、大阪市大淀区長柄出土の銅鐸(ボストン美術館蔵)については、下記のような文献があるようですね。 西谷真治「ボストン美術館所蔵の銅鐸の出土地について」考古学雑誌第68巻第1号、昭和57年6月 私はこの文献を読んだことがありませんが、もしMADOKAさんがこれを読んでおられるようなら、その概要を教えて戴けないでしょうか? どんたく WindowsXP(Home Edition) SP2 CMN v0.50dβ + YosPad 1.42 |
[2759] 無題 和歌山 | 2007/02/23(Fri) 23:33 [Reply] |
MADOKAさんこんにちは、お風呂が大好きなようですね! 昨年秋、四国野宿と民泊しながら八十八ヶ所巡礼を歩いてまわりました。野宿が続くとなかなかお風呂に入れなくて・・・ 四国八十八ヶ所はその成立過程や宗教的背景が複雑でいまだによく分かっていません。元々修験道(山修験、海修験)による修行が始まりのようでのちN |
[2758] Re[2753]: 八十嶋祭りと河尻と導水施設? 神奈備 | 2007/02/23(Fri) 10:13 [Reply] |
熊河尻の住吉神。いずれの由緒にも八十島が登場するようです。 大阪市西淀川区佃 田蓑神社 大阪市西淀川区大和田 住吉神社 大阪市此花区伝法 澪標住吉神社 尼崎市梶ケ島 住吉神社 > 河内湖に八十嶋があったという説があるが私も当初そう思っていましたが 現在地名をみても河内湾は 島とつく地名は少ない。。。 『摂津国風土記逸文』には、八十島として、「堀江の東に沢がある。」と出ています。奈良時代の貴重な文献で、同時代の資料ですから、これを無視することは出来ないと思います。 また『古語拾遺』では、大八島之霊を祭るとされる生魂神社が東成郡に鎮座していることも合わせて考えなければと思います。 神奈備としても、どうやら八十島の島に拘泥しすぎているのかも知れないと反省中。八十島は大八島のことで、国土全体を指しているのですから、河内湖が徐々に埋まってくるのもよし、淀川や難波堀江の河口が埋まってくるのもよし、遠く淡路島を眺めて国生み神話に思い至るのもよし、すべてよしでしょうね。 |
[2757] Re[2756]: 無題 神奈備 | 2007/02/23(Fri) 10:13 [Reply] |
和歌山さん、面白いご投稿、ありがとうございます。 香川県坂出市の霊泉で「野沢(やそば)水」とも言われているそうですね。また兵士を指揮していた皇子は景行天皇の皇子で、日本武尊、神櫛王など諸説があるようです。『古事記』によりますと景行天皇の御子は全部で八十王(やそはしら)だそうです。 霊泉については空海が霊気を感じたとのお話もあり、また四国八十八ヶ所は江戸時代半ばのようですから、八十場(弥蘇場)の霊泉に伝わる八十八人の兵士に因んでいる可能性もありそうですね。遊び心かも。 |
[2756] 無題 和歌山 | 2007/02/23(Fri) 08:18 [Reply] |
景行天皇の時大魚が暴れたので日本武尊の王子に退治を命じ88人の兵士とともに退治に向かった。大魚は鳴門から瀬戸内海に入った。王子たちは飲み込みこまれたが王子は火を使い腹を切り裂き脱出した。すると童子が現れ差し出した水を飲むと元気になったので水のありかを聞き兵士達の飲ませると元気になった。これが八十場(弥蘇場)の水である。甦りの水のようですな!88と八十八ヶ所の関係は不明。 また崇徳上皇が崩御された時、勅許を待つ間夏場であったため遺体の損傷を防ぐためこの霊水に浸した。そして近くの白峰山で荼毘にふし現在の白峰御陵に葬った。霊水に対する信仰が読み取れますね! |
[2754] Re[2752] 無題 MADOKA [Url] | 2007/02/22(Thu) 21:39 [Reply] |
和歌山さん はじめまして >愛媛県坂出市に八十場(弥蘇場)の霊水というのが有りますが、八十島祭と何か関係があるのでしょうか? 逆に愛媛県坂出市に八十場(弥蘇場)の霊水についてくわしく 書きこんでいただきたいのですが。。 興味シンシン(^0^)/ お願いします。 |
[2753] 八十嶋祭りと河尻と導水施設? MADOKA [Url] | 2007/02/22(Thu) 21:33 [Reply] |
ちょーーとぼーとしてると掲示板には何を書かれるかわかりませんなーー(+0+)私は体重による引力はあっても圧力はネエーざます!(=0=)尼崎情報ありがとうございます。以前 この伝承をもとに 住友精密工場敷地内で仁徳天皇の咲くやこの花の歌の伝承とセットで『梅と八十嶋祭り』というイベントは環難波津研究会でやりましたなあー 尼崎は公害の町のイメージが強いですが、尼っ子といって非常に地元に誇りをもっていて、近松門左衛門
(日本のシェクスピア) http://ja.wikipedia.org/wiki/è¿æ¾éå·¦è¡é とか 本拠地大阪(大阪にも墓はある)より 尼崎のほうが歴史に熱心! 八十嶋祭りのイベントも地元の人は非常に喜んでくれましたが。。。このときわかったのは阪神間というのはあらゆる時代の歴史が通り過ぎた土地だということ。。幾たびの合戦で多くはなくなっていますが。それほど抑えなければならねの要所であった!それを実感したのは阪神大震災!あの時阪神地区が被災したことで全国の物流が西から東に流れなくなった。つまり阪神地区は日本全土に血流を流す大道脈ということです!これは古代においても同じであったと思われます。船!日本海から琵琶湖 淀川 瀬戸内海ルート 黒潮ルート 出雲&但馬から瀬戸内ルートそれが重なるのは 血の海! ちぬのうみ で船は海流(時計まわり)の関係で阪神間古代港に漂着する。 阪神間の神功皇后伝説が帰還の話が多いのはそのことを表している。河内湖は逆周り それで 上町台地の突端部分はポンプ状態で流れが速かった で浪速。古代船は船底に貝や海藻が付くとダメになる。海と淡水の交わる場所の小島の陰に船をつなげる場所があるところが良港!たくさんの小島が河口にあれば最的 八十嶋です。河内湖に八十嶋があったという説があるが私も当初そう思っていましたが 現在地名をみても河内湾は 島とつく地名は少ない。。。もっとも多い場所は 私がいっている場所です。河内湾は案外小島がたくさん生まれていった場所というより周辺から埋まっていって河内湖なっていたのでは? 私は大川説を否定しているわけではない。 大川 難波の堀江が重要だったことは間違いない、 神仏戦争のとき神派が奈良の仏像をこの堀江になげこんだのもこの地の意味、ここから海外へで、海外文化もこの地からやってきた 諸点の重要さと渡辺党が守っていることからも呪的な意味もこの地にはあったのでしょう坐摩の行宮 石町 の神功皇后腰かけ石は生駒山との関係からみてもやはりなにかある。このちに三つの井戸伝承も。ただ。八十島祭りのすべてをここだけに集約するのは無理だとおもう。 暴れる聖なる河 淀川の右岸の聖なる地としては堀江のここだとおもいますが、左岸は神崎川周辺まで考えるべきだとおもう。この範囲を淀川の河口はしょっちゅう動いていたとおもっています。神崎川は淀川の支流であり、猪名川につながっており遡ると田能遺跡。この弥生時代の大集落から川を下るとベストな港が 難波八十嶋。生魂足魂も祠のような神社ですがあります。 まあ 本音をいうと 私は文献に残っている 八十嶋祭りにはあまり興味はない。。八十嶋祭りのルーツに興味がある。八十嶋祭りの原型となった場所がここだとにらんでいる。固定した祭祀となった段階は現生魂神社 仮宮の祭祀が豊崎の板葺きの宮ではないか 。この広範囲な河口付近の八十嶋を巡る祭祀ではなかったか。 浪花の鯉の物語で気がついたんですが。。。 熊河尻。。。いままで考えもしなかったですが。。分けると 熊 河尻 です。河尻なんてどこにでもある地名でしょうが。。和歌を詠んだ時代に全国的に有名な河尻といえば イコール 神崎川の河口 河尻のことだったとおもいますがね。 >熊河尻は淀川河口だそうで、古い鎮座を自称する住吉神社が幾つか鎮座しているようです。 これはどこのことでしょうか? さきに 長柄橋近くで発見された銅鐸と家型はにわについて書きましたが。。これは現物がなく 絵だけだったとおもいますが。。。私の記憶では家型はにわは。。導水施設型はにわ だったような。。そうならビコーンなんですけどね 神奈備さん いこまかんなびさん 両氏 資料確認できませんかね?お手数ですが。。。 どんたくさん にお聞きしたいのですが 私が淀川河川近くの発掘例で見たのは(古い情報です)この長柄橋の一例と 京阪 大和田駅のトイレ工事の際みつかった銅鐸一例。大隅宮の近くで銅鉾二例でした。このときの本の解説に、『銅鉾。銅鐸が水際に埋められている例はなく。非常に全国的にも珍しい例』とあった記憶します。。あれから 出雲で大量の銅鐸 銅鉾の発見。平成になっての考古学の躍進。説も大きく変わっているとおもいますが。。。 銅鉾 銅鐸 は基本的に水際での出土は珍しいのでしょうか??? |
[2752] 無題 和歌山 | 2007/02/22(Thu) 20:45 [Reply] |
愛媛県坂出市に八十場(弥蘇場)の霊水というのが有りますが、八十島祭と何か関係があるのでしょうか? |
[2751] 続 浪花の鯉の物語 9 終 神奈備 | 2007/02/21(Wed) 20:10 [Reply] |
八十島祭は文徳天皇の即位に伴う嘉祥三年(八五〇)が文献上で初見で、鎌倉時代の後白河天皇の元仁元年(一二二四)を最後に廃しされています。 平安時代の形態は、女官が祭使となり、御衣を納めた筥を奉持して御巫らを従え、船で難波津に下向して祭るものであった。祭使は御衣の筥を開き、琴の音に合わせて海に向かって御衣を振る儀礼であった。 この祭儀が古い起源を持つものと考えられている理由いくつかあります。 巫女や女官を中心とした祭儀。 文武天皇から光仁天皇までの奈良時代には八代七人の天皇のうち六人が大嘗祭の翌年に難波に行幸。 『文徳天皇実録』に「向摂津祭八十島」とあり、八十島を対象とする祭儀。 新たに即位した天皇が難波の海に臨み、大八州之霊を身につける即位儀礼の一環。 6世紀初頭、欽明天皇元年に難波の祝津に行幸していますが、祝津との表現が祭儀との関わりをしめしており、この時代にある程度の儀礼となって来たのかも知れません。難波祝津については尼崎の難波に鎮座する熊野神社の境内に祝津宮跡と刻印した大きい石が置かれていて、いかにも「ここだ!」と主張しているようです。環・難波津研究会(庭田まどか代表)の圧力で最近できたのかも。昭和5年にはその石はなかった。ただ、「環・難波津」とはいいネーミングであり、大阪湾の半円形を北東に押し込んだ場所に想定される環が難波津での八十島祭の祝津の場所の移動の軌跡と見ることができそうだ。 東の河内湖の島々を大八島之霊としたのだから、難波の生国魂神社が舞台だったと思われます。 河内湖が徐々に浅くなり、美しい雰囲気を失ったので、淀川河口付近の島々から大八島之霊を呼び寄せた時代が来るのです。この頃が五反島付近。 更に尼崎やここと大阪市との境界付近の島々。住吉神社などが幾つか鎮座。 次ぎに難波砂堆へと移動。御霊神社とか。このあたりまで来ると住吉の神人がのしてくるようになった。 このような環の動きは考えられます。 話を戻します。さて八十島祭は何故難波の海であったのか、ですが、『摂津国風土記逸文』に八十島として、「堀江の東に沢がある。」と出てきます。河内湖が徐々に埋まって来て国土が生成されてくるのが大八島之霊の仕業と見たのでしょう。5世紀には八十島祭の萌芽があったと考えて不自然ではないようです。まさに河内王権の時代となります。生駒山から登る太陽が河内湖の島々と湖面をキラキラと照らす、太陽信仰としての海の彼方から来る太陽神を身につける儀式があったのかも知れません。 その後、河内湖が大きく埋まってしまい、東の湖面が輝く様を見ることができなくなって、今度は西をむいての夕陽信仰に切り替わったと思われます。四天王寺西門の夕陽など。そのことが難波の西の淡路島を中心とした国生み神話が形成されていった由縁と考えることができます。 |
[2750] Re[2749]:[2747]・[2748] 上町台地北端〜周辺の低地古代遺跡 神奈備 | 2007/02/20(Tue) 18:10 [Reply] |
>八十嶋祭は、国をおさめる天皇となるためには必用な、心身を浄め祓い神のように絶大なパワーを得るための神事だったのでしょうか。河底の土器などは体内の穢れを詰めて流したものなのかも知れません?。 禊ぎと言えば住吉の神ですが、住吉の神はは八十島祭の祭神ではないようです。 生魂神社の祭神である大八島之霊が八十島祭の祭神で、天皇の衣類を水端で振るのは、所謂鎮魂と言うのか、大八島之霊を天皇の身につける呪術的儀礼と考えられます。統治の正当性の保証と言うよりは、おっしゃるようにパワーでしょうね。 尚、岡田精司氏によれば、禊ぎ・祓いは祭の準備過程で行われるものであり、神道では禊ぎ・祓いの儀式を祭と呼ぶことはないそうです。 |
[2749] Re:[2747]・[2748] 上町台地北端〜周辺の低地古代遺跡 いこまかんなび [Url] | 2007/02/19(Mon) 22:04 [Reply] |
>八十島祭の場所は転々と移動しているのかも知れません。 古地理的感覚の発想なんですが、>>祭祀場所の移動>>、そうかもしれませんね。 日下江の入口〜旧淀川・三国川などの河口に近い所では、流路が大きく変わったり、河筋に囲まれた多くの島々や洲も形が変わったり消滅することも多かったかも知れませんし。 さらに妄想を加えれば、清浄なる海水の流入する入江〜河口、それに何故か上町台地の突端、それと東方の生駒山の上から昇る太陽の光りと力を受けることができるという地理的な位置関係などが必須条件だった???のかも知れません。 八十嶋祭は、国をおさめる天皇となるためには必用な、心身を浄め祓い神のように絶大なパワーを得るための神事だったのでしょうか。河底の土器などは体内の穢れを詰めて流したものなのかも知れません?。 >> 海抜2m付近の低い所でも、地下5mくらいの所から古墳時代〜鎌倉時代の遺跡がでるところもあります。 自分ながら、この海抜は低過ぎますわ。海抜3m以上はありますかね。青草。 |
[2748] Re[2747]: 上町台地北端〜周辺の低地古代遺跡 神奈備 | 2007/02/19(Mon) 17:14 [Reply] |
> 海抜2m付近の低い所でも、地下5mくらいの所から古墳時代〜鎌倉時代の遺跡がでるところもあります。 いこまかんなびさん、貴重な情報ありがとうございます。 八十島祭は「浪花の古代史研究会」の発足以来の大きいテーマだそうで、その姿に一歩一歩近づいていきたいと思っています。第四日曜日夕刻です。お時間ができましたら是非ご参加下さい。 > 五反島遺跡 > 「河道に投棄されたように出土したこれら特殊な遺物は、ほとんどが神祗祭祀の祭料に関係する資料と考えられています。」つまり「八十嶋祭の関連資料とする考え方が有力です」 長暦元年(1037)の八十島祭は住吉の神人たちが暴力をもって祭場を熊河尻から住吉代家浜に移す事件があってから海を西にした祭場の配置となったと『古代祭祀の史的研究』で岡田精司氏は述べています。 熊河尻は淀川河口だそうで、古い鎮座を自称する住吉神社が幾つか鎮座しているようです。 八十島祭の場所は転々と移動しているのかも知れません。 当初は東の河内湖の島々を大八島之霊とした。難波の生国魂神社が舞台か? 続いて、淀川河口付近の島々とした時代が来る。この頃が五反島付近。 更に尼崎との境界付近の島々。住吉神社が幾つか鎮座。 次ぎに難波砂堆へと移動。御霊神社とか。 住吉の神人がのしてくるようになった。 八十島祭について記載のない『住吉大社神代記』ですが、これは住吉大神の由緒を記載する文献であって、住吉神が何をしたとか、御利益について述べたものではないので、あたりまえのことでしょうが、その中に住吉神の子神として、座摩神、生国魂神、田蓑島神、開速口姫神、長柄神(不明:難波か?)などが出てきます。これらは八十島祭に関わった神々の一部です。住吉の神人が暴力を振るう根拠となっているのかも知れません。 |
[2747] 上町台地北端〜周辺の低地古代遺跡 いこまかんなび [Url] | 2007/02/18(Sun) 21:52 [Reply] |
こんばんわ、 海抜2m付近の低い所でも、地下5mくらいの所から古墳時代〜鎌倉時代の遺跡がでるところもあります。地盤沈下や当時の海面の高さや潮の干満などを考えることも必要なようですが、新淀川周辺や上町台地周辺の砂堆一帯には、驚くような遺跡がまだまだいっぱいあるかも知れません。 ビル街の建設現場では、何か出てきても、わからないままの所も多いでしょう。興味ある遺跡を少し拾ってみました。 (1) 豊崎神社境内遺跡 北区豊崎6丁目 1983年5月、標高2.5m前後の境内下約1mから古墳時代前期の土師器甕・壷(タタキ目を持つものあり)が出土 (2) 遺跡名未確認、1988年11月 御堂筋と堺筋の間、中央区平野町3丁目の地表下2m、TP+0mから弥生末期甕・鉢、9世紀の土師器・須恵器・無釉陶器・緑釉陶器・隆平永宝1などが出土 (3) 高麗橋遺跡? 中央区高麗橋1丁目、現地表下3.5m下の砂層より出土、5〜6世紀の土器に混じって韓式系土器(甕・平底鉢)が出土 (4) 山口遺跡 1927年、東淀川区崇禅寺の伝中島惣社近くの下水工事で地下2mから、弥生時代末期〜古墳時代前期、大型壷形土器、弥生時代の竪穴式住居跡・古墳時代前期の大溝、平安時代の遺構・遺物が出土、弥生土器は在地産のほか、近江系・東海系・吉備系・山陰系の甕を含む。庄内期の土坑から鉄製の素環頭太刀、埴輪(5世紀末)が出土した。 (5) 五反島遺跡 吹田市南吹田5丁目 南吹田下水処理場の建設に伴い昭和42年6月発見、弥生時代〜鎌倉時代、地下5〜6mで出土、旧神崎川の河床、8,500・の発掘、 朝鮮半島製の陶質土器・軟質土器・須恵器・土師器(圧倒的に布留式土器、瀬戸内・東海の土器含む)、鉄劒、平安時代の堤防遺構・歴史時代の須恵器は播磨系が多い、平安時代の土師器は日常容器の他、大型の竈が目立つ、「栗家」・「田中」・「龍」・「西」・「大月(明)」などの墨書がある緑釉陶器・舶載磁器も含む、鉄製刃先を装着した農具や武器・馬具、平安時代の鉄鏃・馬具・鎌・刀子・古墳時代の鋤先、白銅鏡(瑞花双鳳双麟鏡)なども出土。 住居跡は確認されていませんが、河岸に5世紀を中心とした集落が存在したようです。 また平安時代の多量の土器や金属製品・鏡など「河道に投棄されたように出土したこれら特殊な遺物は、ほとんどが神祗祭祀の祭料に関係する資料と考えられています。」つまり「八十嶋祭の関連資料とする考え方が有力です」と見ているようです。但し、このような祭祀遺跡は他にも発見されるかも知れませんが。 参考 わが町吹田市の文化財 http://inoues.net/osaka/suita_gotanda.html? |
[2746] 続 浪花の鯉の物語 8 神奈備 | 2007/02/18(Sun) 20:53 [Reply] |
難波の住吉郡と古社 住吉郡 住道・大羅・杭全・榎津・余戸 式内社は十五社を数えます。 @住吉坐神社四座、A大依羅神社四座、B草津大歳神社、C中臣須牟地神社、D神須牟地神社、E楯原神社、F須牟地曾祢神社、G止杼侶支比賣命神、H赤留比賣命神社、I天水分豊浦命神社、J努能太比賣命神、K大海神社二座、L多米神社、M船玉神社、N生根神社 式内社が多いのは、上町台地の付け根にあたり、比較的平坦な台地が広がっており、五世紀には開発が進んだ地域で、また住吉津や榎津などの港を含み、また河内中央部を東西に結び、大和への交通の便も良かったことによるものと思われます。 津守氏は西生郡の南部から住吉郡の中央部に分布している中心氏族です。住吉大社を祭るとともに、大海神社を氏神としていました。依羅屯倉に関係する氏族です。依羅には他に諸氏族の公倉(おおやけ)もあったようです。Fの牟地曾祢神社を祀った氏族は物部系の住跡物部と見なされています。渡来系では田辺史、式外社で田辺西ノ神、東ノ神が鎮座していました。 難波地域には郡としては百済郡がありましたが、式内社はなく、郡も消滅しています。百済王氏一族が居住していたのですが、洪水など多く、交野に移住していったようです。 |
[2745] 続 浪花の鯉の物語 7 神奈備 | 2007/02/18(Sun) 08:27 [Reply] |
難波の西生郡と古社 西生郡 長溝、安良、伏見、槻本、宅美、讃楊、雄伴、三野、津守、郡家、駅家、余戸 上町台地谷町筋の西側や天満砂堆、難波砂堆など 坐摩神社 当社は大坂城建築時、天満橋南詰辺から現在地に遷座しています。水と宮殿の安寧を守る神のようです。式内社はこの神社一座、これは東生郡や住吉郡と比べても地域として新しいゆえの歴史の浅さにその因がありそうです。 宮中の神祇官西院に祭られる二十三神を祀る巫四人の中の一人に坐摩巫がいます。当地に住む都下国造の童女で七歳以上のものが任じられます。都下とは『仁徳紀』に出てくる菟我野のことで難波堀江の北側の地です。北区兎我野町。 八十島祭には関わっていないようです。『古語拾遺』では座摩の神は大宮地之霊です。 吉士集団に加えて、三宅連氏が住み、やはり屯倉を管理していたのでしょう。渡来系。 一方、難波津を中心とする海運には安曇連が活躍したものと思われます。北区野崎町に小字でアドエがあり、安曇寺もあったようです。都下の東隣。 |
[2744] 続 浪花の鯉の物語6 神奈備 | 2007/02/17(Sat) 09:23 [Reply] |
難波の東生郡と古社 東生郡 郷 古市、郡家、酒人、味原、余戸 大阪市内の谷町筋の東側の地域で、上町台地の頂上より若干西から東側となります。 @難波坐生國咲國魂神社二座、A比賣許曾神社、B阿遲速雄神社 @は難波大社とも呼ばれ、現在の略称は生國魂神社と言い、元々は上町台地の北東端付近(大阪城付近)に鎮座していました。大坂城築造時に四天王寺の北側に遷座しています。祭神は生島神・咲国神で、宮中の神祇官西院に祭られる二十三座の神のうちの生島巫の祭る生島神・足島神と同じ神であったと考えられています。『古語拾遺』では生島の神は大八州之霊です。八十島祭りでは住吉大社より大きな役割を持っていたようです。 現に『住吉大社神代記』には八十島祭のことは記載されていません。 『摂津国風土記逸文』八十島 堀江の東に沢がある。広さは三・四町ばかりで、名を八十島と言う。(以下略) この堀江とは難波堀江のこと、上町台地の東側に広がる河内湖に点々と浮かんでいる島々を八十島と呼んだことが判ります。 東生郡に鎮座している生國魂神社は河内湖での島々を生み出す神秘な力を神と見て祀ったのでしょう。初期の八十島祭りはそのような力を首長のものとする呪術的な祭儀だったものと思われます。 Aの比賣許曾神社は東成区東小橋に鎮座、現在でも韓国人朝鮮系人が多く住んでいる地域になります。この神自身も新羅の国から来た女神とされ、渡来人が祭った神とされていますが、近世に創建されたと『大阪市史』は見ています。高津神社の摂社が式内社だったのでしょう。 Bの阿遲速雄神社は葛城鴨族の味鋤高彦根命神の御子神とされる阿須伎速雄神を八十島の地主神として祭っているようです。当地は河内湖の淵の高台であり、河内湖には大和葛城からの水が流れ込むわけで、神霊が流れ着いたような伝承があったのかも知れません。すなわち、鴨族の淀川付近への移動。 東生郡に拠点を持っていた氏族では、『播磨国風土記』に面白い話が載っています。景行天皇が摂津の国の高瀬の済(渡し場)に来て、河を渡ろうとした時、紀伊国生まれの渡し主の小玉は「私は天皇の召使いではないと渡し賃を要求し」、弟縵をせしめているお話です。紀氏の一族が河川をおさえていたと見ることができます。 物部大連守屋の館が難波にあり、捕鳥部萬がこれを守ったと『崇峻天皇即位前紀用明天皇二年』に記載されています。物部氏は大阪城の場所に磐船神社を祀っていたとの伝承もあり、上町台地の北に勢力を持っていたと見ていいのでしょう。 難波と言えば渡来系の難波吉士の集団が住み着き、外交や屯倉の管理をしていたとされます。 |
[2743] 難波八十嶋はココ! MADOKA [Url] | 2007/02/17(Sat) 02:08 [Reply] |
神奈備さん >難波の宮との間に難波堀江がある川向こうの豊崎神社は、天満砂堆の上に鎮座しています。現在の標高は2m。恒久的な宮を造る場所ではなかったでしょう。湿地帯、波打ち際、蓮根畑、ムツゴロウの跋扈する場所のイメージは鶴橋付近と同じですね。 とーぜん!(^0^)だから祭祀の場所なんですよ! 祭祀にとって重要な場所に恒久的に人が住むのは無礼では!だってそうじゃないですかー神奈備山も大事な祭祀場所は対外禁足地!水辺の大事な祭祀場所も同じじゃないでかね?!神が降りる仮宮が本来でしょうがーー!!現在の神殿つくりは仏教の寺に対抗するために発展した経緯がある。奈良の春日の古地図でも大仏殿は書かれていても春日はあの広大な敷地に部分的場所に神地と書かれただけで神殿が描かれていない。。結構神殿は新しい形式。 出雲大社も昔は湿地滞 水際の湿地滞は神が降臨するという考えは古代人ははっきりもっていたとおもいます!イワクラ祭祀のように。。 で。今回の豊崎神社 長柄 と五反田島遺跡にはさまれた淀川と神崎川の間の西淀川区 淀川区 東淀川区の神崎川と淀川に挟まれた中州地帯はいまでも御弊島 加島 姫島 歌島他今でも島の名前が多い地区。(前に書いたことがありますが)つまり 神奈備さんの嫌いな!(=0=) 神奈備さんが絶対認めない!(±0±) 私の好きな 神功皇后&あかる姫伝説がある地区 &この地に大隅宮跡 &有名な 江口 神崎の遊女伝説がある。江口、神崎の遊女は仏教に先祖供養をうばわらた時代 みこさんが大量リストラ??にあい 遊女に落ちぶれた?主に住吉のみこさんだったらしいという話もある。 住吉といえば八十嶋まつりの関係の深い神 で。たびたびいいますが ココこそが難波八十嶋です! 五反田島遺跡&豊崎板葺きの宮&長柄橋伝説はそれを表しているとおもいますね! 鏡も出土しています!! 『水にうつる願い』ーより 「五反島遺跡(吹田市)出土銅鏡」(市指定有形文化財)[写真3]. (ごたんじまいせき しゅつどどうきょう). 平安時代のはじめ、天皇が即位した次の年に行う八十島祭に使われた鏡。 ... 私としては 姫島を問題にしたときも 神奈備さんと同じ理由で 有名な0メートル地帯なんで無視されましたが、今回のことで確信(*^0^*) ココ以外で 難波津で淀川沿いで島の名前がたくさんある地区は無いと思いますね 住吉信仰関わりからいっても! 八十嶋祭りの北祭は佃島の田蓑神社という記録もあるのですから 淀川河口を特定することはむつかしいですが 大川は旧淀川ですが相当河口は動いている 大川だけで八十嶋祭りの祭祀場所を限定するのはむりだと思います もう少し大きい範囲で考えナイと 神崎川も掘られてますが 本来このあたりにも何度か河口が動いたことがあって掘りやすかったのだとおもいます。その証拠というか ここが源平時代の淀川河口の港(大物の浦)であったのが機能しなくなったのは土砂で埋まっていったからです。もともと 川の土砂で埋まった土地とかんがえられる。 まっ私としては満足(^^) 風呂屋取材をかねてまたこの地を洗ってみます! 皆さんも 地域取材には風呂セット持参をお勧め! なぜか? 歴史のフィールドワークに 地域の古老の話は欠かせません! 調査地域の銭湯はその地域の古老のたまり場! ごっそりいるんだわ!! 地域取材には風呂屋! 私がせっせっと巡っている原因でもあーーる^^ |
[2742] Re[2741]: 長柄橋と八十嶋祭り 神奈備 | 2007/02/16(Fri) 14:49 [Reply] |
>> 兵庫県伊丹市御願塚4-10-11 南之神社 > これは知りませんでした!で。?なんでここに 孝徳天皇が祭られているのでしょうか? この神社の由緒は未だ調べていません。その内に。 > 政治は現難波の宮 祭祀は豊崎神社の板葺きの宮! 難波の宮との間に難波堀江がある川向こうの豊崎神社は、天満砂堆の上に鎮座しています。現在の標高は2m。恒久的な宮を造る場所ではなかったでしょう。湿地帯、波打ち際、蓮根畑、ムツゴロウの跋扈する場所のイメージは鶴橋付近と同じですね。 > 五反島遺跡が八十島祭りの遺構として最有力 これは面白い遺跡です。『延喜式』の八十島の神祭の準備すべき物品は金銀人像、鏡、玉など後に残るものも多く、それらの一部でも出土すれば楽しいですね。準備すべき物品には竃は入っていないのが残念。 ついでに大阪市内の現在の標高を。カシミールから。 法円坂 27m 難波宮 四天王寺 9m 豊崎神社 2m 御津八幡 7m 港 五反田遺跡 3m 水辺の祭祀跡 産湯稲荷 9m JR鶴橋駅 2m 森ノ宮駅 2m |
[2741] 長柄橋と八十嶋祭り MADOKA [Url] | 2007/02/16(Fri) 05:03 [Reply] |
神奈備さん >孝徳天皇を祀る神社が他にありました。 兵庫県伊丹市御願塚4-10-11 南之神社 これは知りませんでした! で。?なんでここに 孝徳天皇が祭られているのでしょうか? 近つ飛鳥の孝徳天皇稜もげせませんが 本来なら上町台地に御稜があってしかるべきかと。。上町台地の難波の宮の付近に天皇を祭る神社が多いのは全国的にみて大阪の特徴だと 大阪城博物館の北川さんもおっしゃてましたが。。もともとこのあたりに古墳がかなりあったと私が思う根拠でもありますが。。。置き去りがいやだったんで、奈良に帰りたかった?なら平城京の側であるはず。。 >戸田繁次氏著 戸田次郎氏蔵 稿本 長柄郷土誌 これは非常に有難かったです謝謝(^^) 実は私の古代史の入り口は小学生の時、難波の宮遺構の発掘の新聞記事を片手に発掘現場を一人で訪ねていったことに始まり。後年長柄地区が本来の天皇祭祀場所ではないか!と凄く執着して調査したことがあるんで思い入れが強いんです。 >豊崎は御崎の意。 難波の上町台地の御崎の宮。 私は大阪のシュリーマンと呼ばれた 山根徳太郎氏を私は尊敬していましたが、長柄説が消えた功罪はおおきかったと思う。 私は政治は現難波の宮 祭祀は豊崎神社の板葺きの宮だったと思う!!! この根拠に一番関わりがあるのが 長柄橋伝説! なんでかというと 一つに長柄橋のところで、昭和30年代?ぐらい?に銅鐸と家型はにわの発掘例がある 銅鐸はボストン美術館蔵 もう一つは日本一有名な人柱伝説 橋にこだわって調査中ですが。。橋は古代において非常に呪術的意味が強い!&天皇が橋を架けるということはそれを制する力があることを示す行為でもあるということ 長柄橋が暴れ川の淀川の力で橋桁だけになった期間は長い。。。ところがそれが長く難波の名所として。貴族がたびたび長柄橋跡を訪ねて たびたび歌を詠んでいる。これが非常に不思議なんだなあ。。これは呪的意味あいの強い橋跡で呪的意味あいで歌を詠んでいるという解釈が一番妥当と思われる。 それが日本一有名な人柱伝説として語り継がれた? 今回 改めて 豊崎神社(淀川大橋と長柄橋の間に位置する) 長柄橋位置を確認したところ重要な発見が!(*0*) 現在 発掘調査例として八十嶋祭り遺構としての最有力候補 南吹田5丁目の五反島遺跡との関係です! 五反島遺跡が八十島祭りの遺構として最有力な根拠は 天皇の祭祀において最も最高位の人型 金銀の人型の発掘と竃の発掘です! 水野さんの講演で知ったのですが、天皇にとって竃は非常に重要なものだったらしい。天皇は自ら食べるためのご飯を炊く竃と 祭祀する神に供える御飯を炊く竃と天皇の切った御髪を入れる竃と天皇の切った爪を入れる竃 最低4つは持っているとのこと。髪と爪は何故?? 天皇の髪と爪は分身!御神体の一部ってことよ!! 有名な井上親王の天皇呪そ事件っていうのはこの天皇の竃から髪と爪を持ち出して呪そしたらしい!!いまでもオカルトサイトの恋愛奪還グッズに相手をイメージした人型のクッションに相手の髪の毛を入れて呪そするグッズがあるのよねえ!つまりそれほどかようにそれを保存する竃というのは天皇にとってもっとも身近で重要な祭具ということです!で竃のミニチュアの発掘例は他にもあるらしいですが 五反島遺跡は実物が発掘された!これは天皇にとって一世一代の祭りであったことを意味するのではないかということで 八十嶋祭り遺構の比定地に!! で今回 五反田島遺跡の場所を探してビックリ!! なんと!!東淀川区西淀川区の大きな島を挟んで神崎川の向かいに五反田島遺跡がある!! それは豊崎神社 現長柄橋 の場所はその方向を指示しているとしか思えない場所であったということです!!! 大発見!!(*^0^*) MADOKA説 政治は現難波の宮 祭祀は豊崎神社の板葺きの宮! 難波の宮の祭祀場所板葺きの宮は八十嶋祭りに関連する!! どないだ(^0^) |
[2740] Re[2738][2737]: ご無沙汰しております!&御案内(*^0^*) 神奈備 | 2007/02/15(Thu) 20:02 [Reply] |
> 確かに、法円坂付近の宮跡は難波宮跡でしょうか、これを難波「長柄豊崎」宮と言う説得力のある説明には出くわしていません 。 難波長柄豊崎宮の神奈備流解釈。 長柄は住吉大神が鎮座する長峽と同じく、上町台地を言うのだろう。 豊崎は御崎の意。 難波の上町台地の御崎の宮。 |
[2739] 続 浪花の鯉の物語5 神奈備 | 2007/02/15(Thu) 07:14 [Reply] |
『日本書紀』に現れた難波について(その四) (48)斉明天皇元年(六五五)難波の朝で蝦夷をもてなした。 (49)斉明天皇六年(六六〇)難波宮に行幸。(筑紫へ行くため。)七年崩御。 (50)天武天皇元年(六七二)壬申の乱 (51)天武天皇八年(六七九)龍田山と大坂山に関所を置いた。難波に羅城を築いた。 (52)天武天皇十二年(六八三)都城・宮室は一ヶ所だけではなく、二〜三ヶ所あるべき。難波に都を造る。百寮の者はそれぞれ難波で家地を賜るように願えと命令が出た。 (53)朱鳥元年(六八六)正月 難波大藏省から失火、宮室全焼、兵庫職のみ焼け残る。 前期の難波宮は焼失。構造は南から朱雀門、朝堂院、内裏と一直線上に並んでいた。建築物は掘建柱形式で、屋根は板葺きであった。内裏南面門の東西を八角形の楼閣でかざるり、大陸の式の宮殿建築思想が入っていると言う。また宮殿の東端付近で大規模な門を構えた楼閣風の建物跡が発見された。皇族達が生駒山に輝く夕陽、河内湖に写る月影、難波津を行き通う船の舳先の篝火、これらを眺めながらの宴会も行われた。飛鳥とはスケールの違う宮であったようだ。 (54)持統六年(六九二)四月 親王以下すべての有位の官人に難波大藏の鍬を賜う。 (55)文武三年(六九九)正月 難波宮に行幸、翌月藤原宮に還る。 (56)文武天皇:慶雲三年(七〇六)九月 難波に行幸。翌年六月崩御。 (57)元明天皇:和銅三年(七一〇)始めて都を平城に遷す。難波宮より奈良京に移御。(『扶桑略記』 (58)元正天皇:霊亀元年(七一五)即位。養老元年(七一七)二月 難波宮に行幸。続いて和泉宮。 (59)聖武天皇:神亀元年(七二四)即位。神亀二年(七二五)冬十月 天皇は難波宮に行幸。 (60)聖武天皇:神亀三年(七二六)十月 藤原朝臣宇合を知造難波宮事とする。後期難波宮の造営開始。 (61)聖武天皇:天平四年(七三二)九月 石川朝臣枚夫を造難波宮長官とする。後期難波宮の完成。 (62)聖武天皇:天平十六年(七四四)二月 都を難波宮と定める。 (63)聖武天皇:天平十七年(七四五)八月 難波宮に行幸。九月 朕ははこの頃病気がち。 (64)太上天皇(聖武):天平勝宝八歳(七五六)難波の堀江のほとりに行幸。夏四月 太上天皇のお体が不調。五月 崩御。 (65)孝謙天皇:天平勝宝二年(七五〇)正月 大郡宮に帰る。 (66)孝謙天皇:天平勝宝八歳(七五六)二月 難波に行幸。 (67)延暦七年(七八八) 和氣朝臣清麻呂、河内国と攝津國之堺に川を掘り、荒陵の南から海へ通そうとするもならず。 (68)延暦七年(七八八)九月 水陸に便のある長岡京に都を遷す。難波京の建物は移された。 前期難波宮の焼失から半世紀、再び宮が造営された。前期宮と殆ど重なった配置。 天皇の即位二年目に難波に行幸するケースが目立って来ます。大嘗祭の翌年。どうやらこれは八十島祭との祭祀と関係がありそうです。 欽明天皇元年に難波の祝津に行幸の記事があり、それも祝津としているのは、八十島祭の原型のようなことが行われた可能性があります。6世紀始め頃のことです。 文武天皇、聖武天皇、太上天皇(聖武)は体調が悪いと難波に行幸しています。天平十七年の時には回復しているのですが、天平勝宝八歳の時にはなくなっています。ここにも八十島祭の姿が見えます。 |
[2738] Re[2737]: ご無沙汰しております!&御案内(*^0^*) 神奈備 | 2007/02/14(Wed) 21:21 [Reply] |
> ちなみに考徳天皇を祭る唯一の神社は大阪市北区豊崎の豊崎神社です。 孝徳天皇を祀る神社が他にありました。 兵庫県伊丹市御願塚4-10-11 南之神社 > また豊崎神社は難波の宮の古地。板葺きの宮なのだ!えらい先生が上町台地説をとったからみんなそっちになってしまった。 明治時代まではそのように思われていたようです。 戸田繁次氏著 戸田次郎氏蔵 稿本 長柄郷土誌 http://homepage.mac.com/ryomasuda/Saigoku/Nagara/LIB/Nagara/index.html 惜しい事には明和九年(1772)に豊崎神社が炎上して孝徳天皇の御衣と傳へる、上古の金襴一片を残すのみとなって古文書をすっかり焼失してしまった。 昭和八年二月大阪史蹟調査會と趣味の考古学會によって、長柄本庄豊崎方面一帯に亘って調査した事があったが、何等得るところがなかったといふ。 確かに、法円坂付近の宮跡は難波宮跡でしょうか、これを難波「長柄豊崎」宮と言う説得力のある説明には出くわしていません 。 |
[2737] ご無沙汰しております!&御案内(*^0^*) MADOKA [Url] | 2007/02/14(Wed) 00:16 [Reply] |
ぜーーぜーーやっと追いついた(=0=) 長きの冬眠 写真別荘はすぐみれたのですが、神奈備、青草の過去ログが見れず、ご無沙汰しておりました。どんたくさん!はじめまして、まったく知らず御無礼しましたm(==)mなるほどと思いました。どんたくさんは銅鐸に造詣がお深いと神奈備さんから受けたまわっております!銅鐸の件でお伺いしたいことあり&銅鐸のことについての書き込み期待しております(^^) またよろしく! 神奈備さん 浪速の鯉の物語 こういうふうにまとめていただくとありがたいですね 謝謝。 ちなみに考徳天皇を祭る唯一の神社は大阪市北区豊崎の豊崎神社です。ここと天皇の宮所?にしかお祭りしてません。この豊崎神社が発行している豊崎だより?は秀逸 文献的価値あり?またここの宮司はまあインパクトのある人でした!明治維新の壮士そのものの風体。かわった人でした。考徳天皇が神様を軽んじたとされていることに憤りを感じておられ、めんめんと語られます。かいつまんでいうとようは、考徳天皇の時代 常世の神騒動がひんぱんに 起き(いまでいうところの統一教会騒動かオーム事件新興の現世利益を宣伝する神。常世の神を祭ったらこんないいことがあったなどと民を惑わすものが多くでて問題となっていた そのことに断罪をくだしたのが考徳天皇 それがなにかすりかわっているらしい。生玉の杜を守ったのは考徳天皇 で神を手厚く祭った天皇である! このあたりは豊崎だよりを参照ください)また豊崎神社は難波の宮の古地。板葺きの宮なのだ!えらい先生が上町台地説をとったからみんなそっちになってしまった。残念なことに証拠が出せない、ここは海が近いので土に塩分が高く古代の土器が出てもその場でボロボロになる。ときどき、どこかの重要な神社から?線を引くとここを通過するこここそ板葺きの宮だという人が現れる。一ついえることは、垂水から難波の宮へ竹の筒で水を流した(水道?)という記録があり、距離があって誰も信じないが、垂水とここはピッタリ場所が合うんだ!と熱く語っておられました。あーいう宮司さんにはエールを送りたいものですね(*^0^)/ で 実はワタクシ ブログを立ち上げました(*^0^*) サイトデビューはこの掲示板、ネット上でのことがよくわからず皆さんには御無礼しました。陳謝m(..)m そのおかげde?この掲示板での大三元さんとのやりとりでヒントを得た『MADOKAの風呂敷』の第一号風呂敷日記を立ち上げることができました。^^)\ 風呂敷やからまずは風呂やなあと安直に。。 『チャリで巡るお風呂屋さん!風呂敷日記』 MADOKA このサイトの方はアーカイブの『風呂敷日記由来』からお読み下さい。テーマ一覧から入れます。大三元さん本人の確認ないまま御出演!はえある命名者に!?ブログになれたら歴史関係に拡大予定! うれしかったのは風呂について調べていくと語源が室、岩窟という説あり!姫神&ナーガを追う私としてはピコン!&風呂は全世界 宗教儀礼が起源!祭祀がテーマの私はニコリ(^^) 日本においては,やはりもともとあったミソギと仏教が混在した形が風呂の習慣を産んだ(神仏習合ってことね!これも追ってるテーマ)風という字の中の虫という字は竜のことらしい!龍です!私の大好きな!)このいきあたりばったりの調査法はMADOKA流!今回も結果オーライで当たり!ありがとうございます 大三元さん!(^^) まだ機能がよくわからず リンクアドレスはコピー&ペーストしないという不便さですが。。なんせ携帯メールで更新してるんで。一般風呂関心者向けなんで 歴史関係はぽちらぽちらのみですがコテコテの関西浮世風呂紀行文をお楽しみください。コメント等風呂関係でなくても結構です。私との連絡窓口のつもりでたちあげたので。。いろんな情報がほしいのが本音。いろんなネタやメンバーが集まったら古代史風呂敷掲示板が夢です!(*^0^*)/ それでは 大三元様 各位様 御入浴券でございまーーす!! 下記 クリックして 御入浴!!下されたし(^^)\ http://ameblo.jp/2626150 |
[2736] 続 浪花の鯉の物語4 神奈備 | 2007/02/13(Tue) 08:21 [Reply] |
『日本書紀』に現れた難波について(その三) (40)孝徳天皇:大化元年 都を難波長柄豐碕に移した。老人等は「春から夏にかけて鼠達が難波の方に向かった。遷都の前兆だった。」と。 (41)孝徳天皇:大化二年(六四六)正月 子代離宮においでなった。−或本に言う。壞難波狹屋部村の子代屯倉を壊して行宮を建てたとある。 (41)孝徳天皇:大化二年(六四六)二月 飛鳥に戻った。九月、蝦蟇行宮においでなった。 (42)孝徳天皇:大化三年(六四七)小郡(上町台地の西の建物)を壊して小郡宮を造った。 (44)孝徳天皇:大化四年(六四八)四年春正月、拝賀の礼があった。この夕、天皇は難波碕宮においでになった。 (45)孝徳天皇:白雉二年(六五一)味経宮(あじふのみや)で二千百余人の僧尼を招いて一切経を読ませた。天皇は大郡より新宮に遷る。難波長柄豐碕宮と号す。 (46)孝徳天皇:白雉三年(六五二)秋九月、豐碕宮の造営はが完了した。 (47)孝徳天皇:白雉五年(六五四)冬十月、皇太子は天皇が病疾であることを聞き、皇極上皇、間人皇后、大海人皇子、公卿等を率いて難波宮に赴かれた。天皇は崩御。 孝徳天皇は「仏法を尊び、神道を軽ろんず。」とあり、これは生国咲国魂神社の神木を伐って宮殿の材料にしたということで、生国咲国魂神社の鎮座の古さを知ることができます。 孝徳天皇の難波宮を前期難波宮と呼んでいます。天皇は子代離宮、蝦蟇行宮、小郡宮、難波碕宮、味経宮、新宮(難波長柄豐碕宮)と移動しています。難波長柄豐碕宮は言い表せない程立派だったと言います。孝徳天皇(軽皇子)は飛鳥しか知らない中大兄皇子などとはレベルの違う国際人だったのかも知れません。なぜならば、宮の新しさ立派さだけではなく、乙巳の変での「韓人が鞍作を殺した。」の韓人だった可能性があるからです。 大化二年に大化の改新の詔を発す。土地、統治の仕組み、戸籍、税などの改革です。尤もこれらの改革は天智天皇の業績とも考えられています。それはともかく難波に都すると言うことは、始祖王的存在の仁徳天皇の治世にあやかっただけではなく、旧態依然の飛鳥の勢力とは一線を画すること、また国際的な情報を多く得ることを志したのであろう。孝徳天皇を捨て置いて飛鳥に帰った中大兄皇子(天智天皇)や藤原鎌足などは百済救済のために唐と高句麗との連合軍に戦いをいどみ、大失敗をするのを見ると、国際情勢に暗かったとしか言いようがない。秀吉程度。 |
[2735] 続 浪花の鯉の物語3 神奈備 | 2007/02/11(Sun) 17:02 [Reply] |
『日本書紀』に現れた難波について更に追ってみましょう。 (17)継体天皇六年 任那四県の割譲の了承について、物部大連麁鹿火を勅使として、難波館に出向き、勅を百濟の使いを伝えようとしたが、割譲の責任を問われると拙いので麁鹿火の妻が止めた。 (18)安閑天皇元年 難波屯倉と钁丁(くわよぼろ:人夫)を宅媛に賜った。 (19)安閑天皇二年 県犬養大連に「牛を難波の大隅嶋と媛嶋の松原に放って、名を後世に残そう。」と言った。 (20)欽明天皇元年 難波の祝津においでになった。 (21)欽明天皇十三年 蘇我稲目に百済王が奉った仏像を礼拝させたが、後に、国に病がはやり、若死にする人民が多かった。長く続いて手だてがなかった。物部大連尾輿と中臣連鎌子とが仏を祀るゆえと奏上した。仏像を難波の堀江に流し捨てた。(=ここから上陸した大和に運ばれた。) (22)欽明天皇二二年 難波の大郡に諸国の使者を案内するときに、新羅の使者を百済の後に置いたので、新羅の使者は怒って帰ってしまった。 (23)欽明天皇三一年 許勢臣猿と吉士赤鳩を難波津から出発させて、船を佐々波山に引き上げさせ、高麗からの使いを近江の北の山に迎えさせた。 (24)敏達天皇六年 百濟國王は使いの大別王らに、經論若干卷、律師、禪師、比丘尼、咒禁師、造佛工、造寺工の六人を献上した。これを難波の大別王の寺に安置した。 (25)敏達天皇十二年 日羅を難波の館に訪ねさせた。また阿斗桑市に住まわせたが難波の館に移した。 (26)敏達天皇十四年 蘇我馬子が仏を祀ったので国内に疫病がはやったとして寺を焼き、残った仏像を難波の堀江に捨てた。 (27)崇峻天皇即位前紀用明天皇二年 物部守屋大連の近侍の捕鳥部萬は百人を率いて難波の守屋宅を守った。百済川沿いにあって、原四天王寺が営まれたとの説もあります。 (28)推古天皇元年 この時、始めて四天王寺を難波の荒陵に造った。 (29)推古天皇六年 難波吉士磐金が新羅から帰って鵲二羽をたてまつった。それを難波杜に放し飼いにさせた。(生魂神社と見られています。) (30)推古天皇十一年 新羅を討つ将軍になった當麻皇子は難波から出発した。 (31)推古天皇十六年 大唐の使人裴世と下客十二人は妹子んみ従って筑紫に着いた。大唐の客のために難波の高麗舘の近くに新しい館を造った。六月、客たちは難波に泊まった。九月、客たちを難波の大郡でもてなした。 (32)推古天皇二一年 難波から京に至る大路を設けた。(竹田街道?) (33)舒明天皇元年 大伴大連金村は住吉宅に隠居。 (34)舒明天皇二年 難波大郡と三韓館を修理した。 (35)舒明天皇四年 唐の使者高表仁らが難波津に泊まった。 (36)皇極天皇元年 高麗の使者が難波津に泊まった。諸大夫を難波の郡に遣わして、高麗国の奉った金銀等を点検させた。高麗と百濟の客を難波の郡で饗応された。五月、百濟の調使の船と吉士の船が難波津に着いた。 (37)皇極天皇二年 難波の百濟客の舘と民家が火災で焼けた。六月、百濟の朝貢船が難波津に着いた。大夫たちを難波の郡に遣わして百済国の調と献上物を点検させた。 (38)皇極天皇三年(六四四)三月 豐浦大臣の大津宅倉でフクロウが子を産んだ。 (39)物部、蘇我、大伴 それぞれ難波や住吉に邸宅を持っていた。 (40)皇極天皇四年 何もないところから猿のうめくような声が聞こえた。古い本に、京を難波に移し、板蓋宮が廃墟となる兆しであるとした。 また、河内王朝の頃の5世紀後半に難波津の側の高台に倉庫群が造られています。その頃から連綿として難波津は対外折衝の地であり、外来客の留まる地であったようです。発掘では前期難波宮以前の柱穴も出ているのですが、朝鮮三国の館などには比定は出来ていないようです。 欽明天皇元の難波祝津は難波津と同じ場所であったのですが、祝津と言うからには、神霊を受ける八十島祭の場や仏像の上陸地(捨てる場所でもある)と云う聖地の要素があったのかも知れません。 |
[2734] 続 浪花の鯉の物語2 神奈備 | 2007/02/10(Sat) 19:47 [Reply] |
ここらで、『日本書紀』に現れた難波について追ってみましょう。 (1)神武天皇即位前紀 まさに難波碕に着こうとするとき、速い潮流があって速く着いた。よって浪速国とした。また浪花とも言う。 (2)垂仁天皇二年 大加羅国の王子、都怒我阿羅斯等が見つけた乙女が逃げ失せたので、王子は海を越えて日本にやって来た。乙女は難波に至って比賣語曾社の神となった。 (3)景行天皇二七年 日本武尊が熊襲を平らげて帰国。難波に至るころに、柏渡(かしわのわたり)の悪い神を殺した。淀川のカッパか? 仁徳皇后が柏の葉を投げ捨てたゆえ。大伴家持 「船いだす沖つしほさい白妙に かしわのわたり浪高く見ゆ」 (4)景行天皇 『播磨国風土記』(賀古の郡)景行天皇が摂津の国の高瀬の済(渡し場)に来て、河を渡ろうとした時、紀伊国生まれの渡し主の小玉は「私は天皇の召使いではないと渡し賃を要求し」、弟縵をせしめているお話です。 (5)神功皇后摂政元年 忍熊王が軍を率いて待ちかまえていた。武内宿禰には皇子を抱いて紀伊水門に行かせ、皇后はまっすぐに難波に向かったが、船が海中で回って進まなかった。 (6)応神天皇十三年 日向の髪長媛を桑津邑に安置(はべら)した。 (7)応神天皇二二年 春 天皇は難波においでになり、大隅宮に居られた。秋 天皇は淡路嶋で狩りをした。。是嶋は難波の西にある。 (8)仁徳天皇即位前紀 漁師は鮮魚の献上品を菟道宮にお届けした。菟道稚郎子は「自分は天皇ではない。」と言って、返して難波に奉らせた。大鷦鷯尊はまた返して菟道に奉らせた。そうこうしているうちに魚は腐ってしまった。 (9)仁徳天皇元年 難波に宮を造り、高津宮と言った。仁徳天皇十一年、宮の北部の野を掘って、南の水を導いて、西の海に入れた。(難波堀江と言う)。 (10)仁徳天皇十四年 猪飼津に橋を渡した。小橋と言った。 (11)仁徳天皇三〇年 天皇は皇后の居ないことを知って、八田皇女を召して大宮に入れた。皇后は難波の渡りに着いてこれを聞き、取ってきた三つ柏を海に投げ入れた。葉の濟(’かしわのわたり)と言った。 (12)仁徳天皇六二年 遠江国の大井川に流れ着いた木で船を造った。南海を巡って難波津に持ってきて御船とした。 (13)履中天皇即位前紀 仲皇子が太子(履中天皇)の宮を焼いた。逃げ出していた太子は河内國に到り、埴生坂で目覚めた。難波の方が燃えているので驚いた。・・・ 太子は瑞歯別皇子に難波に帰って仲皇子を殺せと命じた。 (14)允恭天皇四二年 允恭天皇がなくなったので、新羅の王が多くの調の船に多数の楽人を乗せて奉った。船は難波津に泊まってみな麻の白服を着た。難波から京に至るまで、泣いたり舞ったりした。 (15)清寧天皇即位前紀 大伴大連に助命を受けた漢彦は難波の来目邑の大井戸の田を大連に贈った。 (16)仁賢天皇六年 女が難波の御津にいて泣き声をあげていた。 応神天皇と仁徳天皇は同一の天皇との説があります。それはともかく、応神天皇以降継体天皇の前の天皇までを河内王朝、また顕宗・仁賢天皇を播磨王朝とする説もありますが、河内・和泉の大古墳から見て河内に王権があって勢力を張っていたのはまぎれもない事実でしょう。『記紀』には河内の大王が国土を支配するにあたって八十島祭を行ったようなことは一切出ていないが、生国咲国魂神社が上町台地北東端に鎮座していて、大八州之霊を祭っていること、また国生神話が難波の海からの風景との関わりの強いことから、八十島祭の原型や国生神話が河内王朝の頃から形成されてきたことを示しているようです。 また神功皇后の伝承では、忍熊王を追いつめていって淀川を遡り、近江に至って殺しています。近江でのことは壬申の乱の反映かも知れませんが・・・。淀川の制川権を確保し、また大和西南部の葛城氏の支援もあって大和川の制川権を握り、大和の東部、北部の勢力を抑えたのでしょう。 仁徳紀に難波津、難波大津、難波御津、桑津、高津、猪飼津が出てきます。 難波御津は御津八幡神社、桑津は桑津天神社、高津は高津高校、猪飼津は比売許曽神社の鎮座地の近くではないかと考えられています。難波津はいくつかあったのでしょう。難波大津もよく分かっていません。 八十島の出来る状況 これは写真掲示板に掲載です。 |
[2732] 大阪府寝屋川市の高宮神社 田仁 | 2007/02/09(Fri) 22:57 [Reply] |
ご紹介有難うございます。一度機会があれば行って見たいと思います。 神奈備様は大変に充実した内容で、中々一度に見れないんですが、七夕と三の数字に関わりがあるんですってね? 実は姫路の十二所神社がお菊さんの播州での大元ですが、ソレも元は三社と呼び慣わしていたとか。神社も大正期まではそのような、正面から見ると大きな三角屋根に、手前に一寸低い左右の子屋根がついて、三を象徴させていたとか。蚕ではないですが、お土産に江戸期からお菊虫を売っていて、ソレが黒揚羽の蛹なのです。 |
[2731] 続浪花の鯉の物語1 神奈備 | 2007/02/09(Fri) 16:32 [Reply] |
難波地域に古墳がいくつか存在しています。まさに上町台地の尾根筋にも多くの古墳があったものと思われていますが、その後の上町台地の開発や市街化で破壊されてきたのでしょう。四天王寺に豪壮な長持形石棺があるのですが、ここは荒墓と呼ばれていた土地です。古墳の上に築かれた寺院だったと思われます。 現在でも確認されている古墳がいくつか残っています。 難波では4世紀の古墳は見あたらず、5世紀代に100m超の古墳が作られていますが、6世紀になりますと殆ど作られなくなります。 5世紀は倭の五王の時代であり、古市、中百舌鳥古墳群の被葬者が推定されるのですが、難波の古墳は倭の五王のものではなく、その関係者の古墳であったのでしょう。 倭五王が南朝の宋に献使朝貢しましたが、畿内からも九州からもどこからもそれらしい遺品は出土していません。安東将軍・倭国王等の称号は得たようですが、まさか手ぶらで帰ってきたわけでもあるまいし、不思議なことです。ただ、伝応神天皇陵、伝仁徳天皇陵など傑出したサイズの古墳が河内和泉地方にあり、ここの勢力が倭国王であった可能性は高いようです。 同時に五王の名として、讃・珍・済・興・武と一文字であるのは、倭国の王らしくない名前に思われます。邪馬台国の時代でも卑弥呼・卑弥弓呼・難升米など、推古天皇の頃には姓は阿毎、名は多利思比狐、阿輩雉弥などです。 しかし、福島雅彦さんはこれらを職掌名とされており、倭の五王は倭國の伝統として「氏・姓」を隠していると指摘されています。『隋書』以前の中国正史には倭王(倭女王)の固有名詞は壹與(台与)以外には登場していないとされているのです。 姓は阿毎、名は多利思比狐、阿輩雉弥=天帯彦大王、微妙な所です。 |
[2730] 続 鳥居の起源 倭亜布 | 2007/02/09(Fri) 09:22 [Reply] |
古墳時代の終えんに鳥居の登場。 茨城の国府「石岡」と旧「玉里村」境(未確認)付近に古墳の中腹にお墓(○○家・・・・秦氏系の苗字)の入り口には石の鳥居が在ります。 お墓に鳥居(古墳に鳥居)全国に多く在りそうですが如何でしょうか? 古墳に稲荷は多く見られますよね。 稲荷は秦氏系(商人の神?)でしょうか? 大阪府 高井田 横穴 の壁画 に鳥居(追刻?) |
[2729] Re[2727][2725][2722][2719]: 鳥居の起源 nick [Url] | 2007/02/07(Wed) 17:55 [Reply] |
当地では、氏子の方々は鳥居では往復共一礼されます。 降臨の「ゆには」にはもちろん立ち入り禁止です。 例祭の時は「結界」されます。 |
[2728] Re[2725][2722][2719]: 鳥居の起源 nick [Url] | 2007/02/07(Wed) 08:51 [Reply] |
PONTAさん、早速のご回答ありがとうございます。 > 本は知りません。お寺に行くと時々あるので、何かなと。神仏習合ってことかな。 > 本堂の仏像の前にあるのは高さ30cmくらいですが、外にあるのは2mくらいです。 > 2本の柱の間にお供え物が置かれています。 「神仏習合」の色彩が濃いですが、 この葬礼をされる地方はどちらになるのでしょうか。 当地の大隅地方の村でも独特な祭礼があります。 |
[2727] Re[2725][2722][2719]: 鳥居の起源 PONTA | 2007/02/06(Tue) 18:32 [Reply] |
私は「鳥居」=「通り入る」語源説を支持しています。「門」だと思います。 垣根の無い神社ではどこからでも入れますが、鳥居=門から入るのがよろしいかと。 「参道の中心は神様の通り道だから左端を歩くように」といわれました。つまり、神様は空の上から本殿に降臨する(空と本殿を行き来する)のではなく、本殿のご神体にご分霊が宿っていて、本殿-拝殿-参道-鳥居という確保されたルートを通っておられるようです。 つまり、お寺の2本の柱と注連縄も人工的に作った仏様が通るルートで、必ずそこを通るから、そこにお供え物を置くのではないかと想像しています。 |
[2726] 砥神神社 PONTA | 2007/02/06(Tue) 18:16 [Reply] |
蒲郡市の砥神神社を調査中です。 先輩のフィールドノートでは、「砥神」=「砥鹿」=「多賀」で、ご祭神は保食神となっています。 社伝では、「10頭の鹿が山に登っていくのを見たので十鹿見」となっています。やはり鹿・・・。 創建者は橘諸兄=葛城王(母・橘三千代の姓氏・橘を継ぎ、「橘諸兄」と改名)です。三河国造・菟上足尼(葛城氏)と関係あるかもしれません。「菟上」は「とかみ」と読めます! 橘諸兄の父親は藤原不比等だとする説もありますが、一般には美努王(弥努王・美奴王・美弩王・三野王とも表記)で、三河国と接する三野国(後の美濃国)と関係ある? 橘諸兄の祖父は筑紫率の栗隈王で、壬申の乱の時に大友皇子の軍兵徴収要求を拒否しているわけで、三河の壬申の乱参戦の傍証となる? というか、橘諸兄がなぜ三河に神社を建てたか謎です。 |
[2725] Re[2722][2719]: 鳥居の起源 PONTA | 2007/02/06(Tue) 18:10 [Reply] |
> 「仏様の前に2本の木を建て、注連縄が渡してある」 > これってどんなものなのでしょうか。掲載されている書籍でもご存知でしたら > ご教示お願い致します。 本は知りません。お寺に行くと時々あるので、何かなと。神仏習合ってことかな。 本堂の仏像の前にあるのは高さ30cmくらいですが、外にあるのは2mくらいです。 2本の柱の間にお供え物が置かれています。 |
[2724] RE[2723] [2722] [2719]: 鳥居の起源 倭亜布 | 2007/02/05(Mon) 14:02 [Reply] |
七 五 三 を考えました。 友円数と三角形の外接円との関係 (a,b,c)=(3,5,7),(5,8,7)である三角形とその外接円との関係。 辺 c=7の対角は、それぞれ120°,60°であることより、これらの角は、補角の関係から辺cを弦とする円の円周角である。 (a,b,c)=(8,7,13),(15,7,13) についても、辺c=13を弦として同様のことがいえるから、2つの三角形は図のように円に内接させることができる。 http://www.nikonet.or.jp/spring/friend/friend1.htm 「注連縄」が測量に関係した名残と思います。 |
[2723] RE[2722] [2719]: 鳥居の起源 倭亜布 | 2007/02/05(Mon) 13:37 [Reply] |
天照大神が天の岩戸からお出になった後、岩戸に縄を張り再び中に入れぬようにした。この縄は「尻久米縄」と云われたと古事記に記され、しめなわの始まりとされている。 縄が境界を示し、占有のしるし、立入禁止のしるし? http://matsuri.quu.cc/fukude/sim/01.htm 縄を張り、紙垂(しで)をたらし遠くからでも、長さがどれくらい在るかの計測に使われた名残が「注連縄」と私的に思います。 標縄 【標し】(印し) 占める【占】(はかる) 長さを測る> 地面に溝を掘って水を流し込むと、水面はみな水平になる。 それを目安に縄を水平に張る。 円の直径×3,14が円周の長さ。 ... それは今の科学技術などによって判明したことなので、古代 ... http://www.nara-wu.ac.jp/fuchuko/curriculum/study/Math/04sousu1/14report/14-12pyramid.htm ┃┃┃┃┃┃┃┃┃┃または、╋╋╋╋╋╋╋╋╋╋を、「10」と書き、「じゅう」と読みます。 http://www2.atwiki.jp/rokurei60/pages/65.html 「玄関に蘇民の子孫であるとしてこの注連縄を掛け続けている。 」 http://www004.upp.so-net.ne.jp/dhistory/absy_12.htm http://www.ne.jp/asahi/maroudo/somin/denshoushaji/matsushita.pdf#search='注連縄%20道教' その土地の神を祭って工事の無事を祈願するまつりであり「七夕の夜」に星に願いをかけた人々の願望とも共通する道教的行事であります。閉塞された現代社会に活性化するべき道教の再認識が生き続ける必要を実感するものです。 http://www.crayon-box.jp/column/column0308/c030811.htm 「森羅万象・巨岩や巨木が神仏様の依代(ヨリシロ)だからコソ、修験者は、注連縄(しめなわ)はり、木札を奉納する。 …」 http://www004.upp.so-net.ne.jp/kotengu/syugen6.htm 日本の古い信仰に、仏教や支那の道教・儒教・陰陽道などの思想が融合し、現在の芸術的な門松へと発展しました。 注連縄は、「結界(けっかい)」といい、邪悪なものや災いは進入できない神聖な、神を祀る場所であることを示すために張られました。 ... http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=1145501 漢字「注連縄」の「注連(ちゅうれん)」は、中国で死霊が入り込まないよう、水を注いで清め連ね張った縄を意味し、一定の間隔で藁を三・五・七本と垂らすため、「七五三縄」とも表記される。 また、古代には「しめ縄」を「尻久米縄(しりくめなわ・しりくべなわ)」といった。 ... http://gogen-allguide.com/si/shimenawa.html 参考になれば幸いです。 |
[2722] Re[2719]: 鳥居の起源 nick [Url] | 2007/02/04(Sun) 11:31 [Reply] |
>
お寺へ行くと、仏様の前に2本の木を建て、注連縄が渡してある事があるのですが、あれは何なのでしょう? こんにちわ。 当地は「廃仏毀釈」で寺院は壊滅しています。 「仏様の前に2本の木を建て、注連縄が渡してある」 これってどんなものなのでしょうか。掲載されている書籍でもご存知でしたら ご教示お願い致します。 |
[2721] Re[2720]: 鳥居は道教の影響を受けているとも考えられます。 神奈備 | 2007/02/03(Sat) 18:11 [Reply] |
> 渡来人が神社を造って一族郎党を祀っているのではなく、日本の支配者の命令で神社が建てられ人民に渡来人を神として祀るよう指導したのである 支配者の命令があったかどうかは不明ですが、『日本書紀』垂仁天皇二年にこんな記事がありましたね。 大加羅国の王子、都怒我阿羅斯等が見つけた乙女が逃げ失せたので、王子は海を越えて日本にやって来た。乙女は難波に至って比賣語曾社の神となった。 この乙女はただの人間ではなく、村にお祀りしている神である白い石が乙女になったので、神だったから神として祀ったのかも。 |
[2720] 鳥居は道教の影響を受けているとも考えられます。 倭亜布 | 2007/02/02(Fri) 08:42 [Reply] |
土盛をして庚申塚、小さな鳥居を立て庚申神社と称されるものもあります。 ... この庚申信仰は道教の守庚申に由来します。 ... 道教では、人体内に三尸と呼ばれる三匹の虫がいるとされます。 上尸という虫が頭に、中尸が腹に、 下 http://homepage1.nifty.com/nishiageo/kaisetu.htm 胞衣(えな=胎盤)から発生する豆ッ魔という霊虫が人の運命に災いをもたらすとして妊婦を産屋に封じ込めたわけです。また死穢といって死者に触れるのを嫌うのも道教思想によるものです。神社であまり葬儀がおこなわれないというのは、じつはここからきてるんですね。 http://homepage3.nifty.com/youzantei/mitisirube/jinja_bukkaku.html 神社の起源を朝鮮とする論拠は? 神社、神社信仰の起源について http://www2.odn.ne.jp/~had26900/topics_&_items2/on_jinja.htm 神の依り代の樹木を朝鮮語で「カムナム(神ノ木)」といい、これが訛って神奈備(カンナビ)と呼ばれる神社語ができたともいう。アイヌ語でカムイは神というのはよく知られているが、これも朝鮮語の転じたものだという。これは、新井白石が「東雅」の中の記述を誤って解釈しているようだ。「 渡来人が神社を造って一族郎党を祀っているのではなく、日本の支配者の命令で神社が建てられ人民に渡来人を神として祀るよう指導したのである |
[2719] 鳥居の起源 PONTA | 2007/02/01(Thu) 22:12 [Reply] |
お寺へ行くと、仏様の前に2本の木を建て、注連縄が渡してある事があるのですが、あれは何なのでしょう? 1.神仏習合時代に神社の形式を取り入れた。(神社が先) 2.神道には建物が無い。仏教が伝来し、お寺が建てられるのを見て真似して神社を建てた。鳥居もその仏教のものからきている。(お寺が先。鳥居の起源) |