青草掲示板ログ平十九年六月 2007.7
多に蛍火の光く神、及び蠅声なす邪しき神有り。湯嶽神・菊嶽神の集い。
素人のひらめき、力はないが騒がしくなかなか従わない、一寸の草木にもある五分の魂の発露を!
 青草談話室

[3155] 凸凹コンビ  狐の使い 2007/07/31(Tue) 21:54 [Reply]
狐の使いです。
返事が遅れてすみません。
夏風邪をひいてぶっ倒れていたのと、仕事場が移動になり自由にネットにアクセスできない。
(つまりは極度のセキュリティ監視下の中での仕事)
になったもので、これからはちょくちょく間隔でしか拝見することが出来ません。(T_T)

>スクナビコナ は ちいさこべ や一寸法師 のように、小さき人は知恵を持つ信仰??
そうそう、ある教授の言では、
「大国主命」と「少名彦名命」とのいわゆる凸凹コンビ(大国主命の「大」と少名彦名命の「少」)を
流行らせる為に、牛若丸と弁慶の話が広められたというものがありました。
元々京都の五条通りは、現在の五条通と比べると少し北に位置しており、そこに天神があって、
件の凸凹コンビが祀られていたことから発っしたと説明しておられました。
たぶん「五條天神宮」のことを言っていたのだろうと思われます。
ここの呼び名は「ごじょうてんしんぐう」なので「天神:てんしん」ですから辻褄があいます。

また同教授によれば、御伽噺の中の「ちいさき子」が活躍するものも、
少なからずこの天神(てんしん)崇拝流行化の意図が含まれるらしく、
「桃太郎(桃から生まれるぐらい小さい)」や、縁MADOKAさんが例にとられた「一寸法師」もなども例に挙げておられたと思います。

私がこの講義を聞いた後にまず思ったのが、
「誰が、何の為にこの凸凹コンビを流行らせようとしたか?」です。
「大国主命」にしろ「少名彦名命」にしろ、
「○○氏の始祖」などという話は(勉強不足もあるかも知れませんが)聞いたことが無く、
流行らせた仕掛け人の趣旨が全く想像出来ません。
そこで、半分やけくそに考えた説が、
「薬師如来と同様に、健康ブームが訪れると「少名彦名命」を流行らせた」説です。
・・・えっと、おそらくこの説は違います。
※ 「大国主命」と「少名彦名命」をデコボコ・コンビと称するのも、この教授の受け売りです。

[3154] お足がなくなった  神奈備 2007/07/30(Mon) 09:39 [Reply]
留守中、ありがとうございました。 

 旅の同行者に高山八幡宮(生駒市)の氏子さんがおられて、無足人の話を聞きました。禄のない武士のような者のようで、東大寺の聖武天皇祭には僧兵の扮装をして先駈として僧侶を先導して大仏殿に向かい、大仏殿の前で警護をする形で並ぶそうです。
 正月には管長さんと無足人とで食事をされるそうです。

 ギリシャでは摂氏48度を体験しました。湿度が低いようで、体感気温は10度以上引いた感じですが、暑いことは暑いのでした。まず、起こりえないことのようで、地球温暖化の影響なのかも知れません。

[3153] 蛙=知恵者  サン・グリーン 2007/07/29(Sun) 06:12 [Reply]
ふむふむ、

スクナヒコの話題だったんで、私は日本の神話だけを頭に描いていたんやけど.MADOKAちゃんは世界の神話を考察していたのですね。

日本では蛙を知恵者としてお祭りした神社を知りません。
神奈備さまがお留守なので、ついつい老婆心がでてしまいました。

[3152] 蛙=知恵者  縁MADOKA [Url] 2007/07/28(Sat) 21:51 [Reply]
久しぶり!サングリーンさん
>タニグク=蛙と混同していません?
古事記で知恵者とされているのはクエビコです。
だから、三輪神社の摂社にもクエビコ社が知恵の神様として祭られています。タニグク=蛙は、海からやってきた小さな人のことをクエビコなら知っているだろうと言っただけです。そしてクエビコはその小さな神は「かむみむすひの神の子」だと大国主に教えたというお話が伝わっています。 >

助かったこと半分と
[3149] スクナヒ[3150] 蛙=通訳? をよく読んでね!
私は大三元さんの
http://www.dai3gen.net/sukunahikona.htm
で、知恵者のクエビコが蛙に関係ある=ではないが。。
で、蛙が世界の神話で知恵者であるのはなぜか?を考察したわけよ
『蛙 知恵の神』 で検索してみて!いっぱいあるよ!

蛙=通訳か?
は同じく大三元さんの著書
『縄文伝承』のp87
7、ヤマトタケルが起用したバイリンガルの老人
で御火焼之老人を起用したのは、倭語とアイヌ語にこの老人が堪能であった
つう大三元説を
ヒントに 私がパクッテ おもいついたのよ!!

すくなくとも、卵生と水陸両用と肉体の変化から
蛙は スクナヒコと同じく
常世(生命の根源)の秘密に通じる知恵を持つということはいえるとおもう。

その蛙とクエヒコとの関係 
これは謎だが、、、
おもしろそうなことを示唆しているとおもわれる

[3151] 書中お見舞もうしあげます。  サン・グリーン 2007/07/28(Sat) 14:12 [Reply]
MADOKAちゃん
お久しぶりです。
もしかして、クエビコ=案山子と
タニグク=蛙と混同していません?
古事記で知恵者とされているのはクエビコです。
だから、三輪神社の摂社にもクエビコ社が知恵の神様として祭られています。
タニグク=蛙は、海からやってきた小さな人のことをクエビコなら知っているだろうと言っただけです。そしてクエビコはその小さな神は「かむみむすひの神の子」だと大国主に教えたというお話が伝わっています。
だから、蛙がナゼ知恵者か??
考えているMADOKAちゃん????
ナゼそういう疑問(蛙=知恵者)を持ったのか考えている私です。
風が吹けば桶屋が儲かる的に考えれば蛙も立派な知恵者ですけどね。

もうすぐ帰国への機上の人?
神奈備さま、お土産話楽しみにしていますね。

[3150] 蛙=通訳?  縁MADOKA [Url] 2007/07/27(Fri) 03:59 [Reply]
クエヒコで 蛙がナゼ 知恵者か??
考えてみました。。。
蛙は水陸両用!!
つまり、外国語と和語の両方使えた知恵者?!
なんかなあ??????
蛙=古代の通訳?!

[3149] スクナヒコ  縁MADOKA [Url] 2007/07/26(Thu) 23:40 [Reply]
大三元大老のHPに下記が!
http://www.dai3gen.net/sukunahikona.htm
http://www.dai3gen.net/sukunahikona2.htm
スクナヒコとは「小さな沖の人」(幼少な外国人)
さることながら クエヒコが!
なんかようわからなかったんですが。。。
クエ!クエ!じゃないけれど
おぼろげに蛙に関係あるのは納得。。
蛙ってわりと世界の民話の中で
蛙=知恵者ですもんねえ

豊玉姫 トヨ タマ ないですかーーー
たんかさーさんが書いてくれるかなあとおもったんだけどーーーーーーー(=0=)(><)(±0±)

[3147] 杏=an   2007/07/24(Tue) 20:33 [Reply]

シュメール語事始
最高位の神は天のアン神であるので、「アン( an )」とも読み、天を表し、 ... 代表的な神を挙げてみましょう。 シュメール語名. アッカド語名. 聖都. 意味. an. anu. Uruk. 天空神. inanna. ishtar. 豊穣・愛・戦い
http://act9.jp/fan/report/ai/ryuh/Sumerian.htm

杏 あんず 杖 つえ 杜 もり 杓 ひしゃく
李 すもも 杢 もく 杭 くい 杵 きね
枕 まくら 枇 さじ 杷 さらい 柑 みかん
柴 しば 柵 しがらみ 柿 かき 柘 つげ
柊 ひいらぎ 柁 かじ 柏 かしわ 柚 ゆず
栂 つが 栃 とち 柾 まさ 桓 カン
桔 キツ 桂 かつら 桁 けた 栴 セン
桐 きり 栗 くり 桝 ます 梗 でく
梱 こり 梓 あずさ 梢 こずえ 梯 はしご
桶 おけ 梶 かじ 梨 なし 梁 はり
椅 こしかけ 棲 すみか 栖 すみか 椎 つち
棉 わた 椋 むく 椀 はち 椙 すぎ
椛 もみじ 楳 うめ 楢 なら 楯 たて
楚 いばら 椿 つばき 楠 くすのき 楓 かえで
楊 やなぎ 椴 とどまつ 榎 えのき 榛 はしばみ
槍 やり 槙 まき 榊 さかき 槻 つき
樟 くす 樗 おうち 樋 とい 樫 かし
樺 かば 橘 たちばな 樵 きこり 橡 とち
樽 たる 橢 こばんがた 檜 ひのき 橿 かし
檎 キン 檀 まゆみ 檮 きりかぶ 櫛 くし
櫓 やぐら 麓 ふもと

[3145] ちいさき知恵もの  縁MADOKA [Url] 2007/07/24(Tue) 03:01 [Reply]
狐の使いさんはじめまして
こういう観点でスクナビコナを見たことがなかったので、おもしろくおもいました。

狐の使いさんの話を元に思いつき!!
スクナビコナ は ちいさこべ や一寸法師 のよう
に、小さき人は知恵を持つ信仰??

なぜ、小さき人が知恵を持つのか???

常世とこの世を往復できる能力を持つのではないか?壺中天のように、常世という、この世につながる別世界は入り口が狭い???そこを出入りでき、常世の無限の知恵? 生死にかかわるなにか? のデーターベースをこの世に持ち帰ることができるのは人では小人でなければならない?で!生死にかかわる情報を持つゆえに薬剤の調合ができる??かなあと??

『スクナビコナ』
http://ja.wikipedia.org/wiki/スクナヒコナ

[3144] 無題  狐の使い 2007/07/23(Mon) 22:12 [Reply]
>8社 少名彦名神
>8社 菅原道真公
>とイーブンです。

こんなことも判るのですね、やはり神奈備さんはすごいですね!

そうか・・・大阪だとイーブンなんだ。
つまり『天神』と書いて、「てんしん」と読むか、「てんじん」と読むかもイーブンなわけだ。
これって近畿(畿内)を離れると、どちらが割合として高くなってゆくのでしょうね。
なんだか勝手に「天神=てんしん」ブームの中心は、元々京都だと思い込んでいるのですが・・・違うのかな?

でも・・・少名彦名神だから「天神」・・・か、
少名彦名神って、たしか素性のわからなかった神様で、
誰もこの神のことを知らず、聞いて回ったところ「高御産巣日神(神産巣日神)の子」だってことが判ったっていう神様ですよね。
たしかに高御産巣日神(神産巣日神にしても)の子だったなら天神なのだろうけれど、何故この神様がこんなに人気があったのかが判りません。
薬師如来は、今で言う健康ブームが時代の中で起こるたびに作られたそうですが、それと同じ?

ちなみに今残業している私の会社は、道修町の一つ北隣の通りにあり(薬品会社じゃありませんが)少名彦名神社の近所にあたります。
ここ(少名彦名神社)はなぜか天神とは名乗っていないのですね、やはり大国主命とセットになると天神。
う〜んさっぱり判りません。

少名彦名神社は元々中国道教の神、神農さまのみを祀っていたのではないか?
(しかも薬の町が道修町に出来てからだから、近世!)
後に(それも近代になるぐらい)に、日本の神に置き換えられて(合祀?して)少名彦名命となった!
だから「天神=てんしん」ブームとは時代が異なり、少名彦名神社と命の名前がそのまま残る!
・・・なんて、また勝手な推測をしています。

[3143] 豊玉姫 トヨ(豊) 玉  縁MADOKA [Url] 2007/07/23(Mon) 21:12 [Reply]
突然ですが(*^0^*)/
私今、豊玉姫追っています!
全国の豊玉姫情報
トヨ(豊)

に関する情報 募集!!
書き込み待ってマース!!

[3142] Re[3140]: 無題  神奈備 2007/07/19(Thu) 20:50 [Reply]
 大阪市内では天神と名の付く神社の祭神は以下の通り。16社。

 8社 少名彦名神
 8社 菅原道真公

 とイーブンです。


> さらに菅公は、牛頭信仰(蘇民将来信仰)とも混ざっていたりしませんか?
> 天満宮に茅の輪が多いのは、御霊信仰を通して菅公と牛頭信仰が融合した旨もあるように思うのですが・・・。

 そうでしょうね。御霊信仰で菅原道真公を祀ることも多いに盛り上がったようです。

[3141] Re[3139][3138]: 天神祭り  神奈備 2007/07/19(Thu) 20:50 [Reply]
> 「天満」は「あまみつ(あまみんちゅ等)」を漢字表記したものではないかなぁ、と思っているのですがナカナカ説得力が上がってきません。。。

 「あまみつ」はそのような語源があるのかも知れませんね。満天の星もありと。

 道真公とどのように結びつけるかがポイントだと思いますが・・・

[3140] 無題  狐の使い 2007/07/19(Thu) 20:00 [Reply]
またまたお邪魔します。狐の使いです。

>「虚空見大和」からの転化、仏教の「天魔」、道真の心が「天に満ちる」と三つの説が記載されています。

そうなのです。
『日本の神々3』(実はまだ読んでいません)以外にも、この説を読んだことがあるのですが・・・
では『天満大自在天』という称号は、後付けで「天満」の文字がくっ付いたものなのか?と不思議に思いました。
確か天台側で『天満大自在天』という称号を与え、真言側では『大威徳天(今なら大威徳明王)』の称号を与えたとも書かれていたと記憶しています。
そんな昔に「天台宗」だの「真言宗」など明確な宗派が分別出来たのかも気になる処なのですが、
初期文献には、単に『大自在天』と書かれていたものが、後に「天満宮」が流行りだすと共に、「天満〜」の文字が頭についたのかな?

また天満宮にはつきものの「なで牛」は、『大威徳天(今なら大威徳明王)』が跨っている牛が元となっている・・・などという説もあり、
説得力があるような、眉唾っぽいような・・・。

また教授のセミナーで、『ある時期に「天神(てんしん)→大国主命と少彦名命」が「天神(てんじん)」に置き換えられていった・・・。』とも聞いたのですが、
私としては、まず国津神の代表格である大国主命を「天神(てんしん)」と呼ぶ説自体が納得いきませんので、どちらかと言えば神奈備さんの仰るとおり、大将軍神社のような天の神に対し菅公が雷を落とした逸話などと会い混じり、天満宮に置き換えられていったものが多いのではないかと思っています。

確かに大国主命と少彦名命を合わせて祀るのが流行(?)した時期もあったのかも知れません。神社の末社などには、結構このペアで祀られているケースも多い様に思います。
でもこのペアは、大黒さん(大国主命)とえびすさん(少彦名命)と置き換えられてから流行したペアじゃないのか?と内心思っていたりします。

さらに菅公は、牛頭信仰(蘇民将来信仰)とも混ざっていたりしませんか?
天満宮に茅の輪が多いのは、御霊信仰を通して菅公と牛頭信仰が融合した旨もあるように思うのですが・・・。

すみません。あまり歴史学的根拠もなく、好き勝手に書いてしまいました。

[3139] Re[3138]: 天神祭り  大三元 2007/07/19(Thu) 10:12 [Reply]
>  所で、何故、「天満」宮とよばれるのでしょうか。

「天満」は「あまみつ(あまみんちゅ等)」を漢字表記したものではないかなぁ、と思っているのですがナカナカ説得力が上がってきません。。。考の現状は下記に:
http://www.dai3gen.net/amami2.htm

[3138] 天神祭り  神奈備 2007/07/18(Wed) 18:35 [Reply]
 大阪の夏祭りの天神祭りの時期が来ました。
 所で、何故、「天満」宮とよばれるのでしょうか。

 『日本の神々3』には、「虚空見大和」からの転化、仏教の「天魔」、道真の心が「天に満ちる」と三つの説が記載されています。

 日本各地に天満宮が鎮座しているのですが、創建の歴史を少々。

 903 管公没する
 905 祠廟(太宰府天満宮の素)
 919 太宰府天満宮創建
 941 道賢 太政威徳天と名乗る道真に出会う
 942 多治比文子に道真の神託
 949 大阪天満宮創建
 951 文子天満宮を北野に遷す
 973 皇太后三条院詮子の典侍に神託 天満天神

 天満宮の名で記述していますが、はじめから天満宮であった訳ではありません。北野天満宮は北野神社とで天神・雷神が祀られている場所に合わせて祀られたようです。京都市内では北野の地から一乗寺方面には雷が多く落ちるルートがあるようで、野球場のピッチャーに落雷ということがありました。

 北野天満宮の側に大将軍八神社が鎮座、内裏の西北角に位置し、疫神の侵入を防ぐ四隅祭が行われていました。疫神と見なされた管公も近くに鎮まるとこになったのでしょう。大将軍八神社は陰陽道では西方の太白の精を祀っています。

 大阪天満宮も大将軍社の中に鎮座しました。難波宮の西北隅の疫神を祀る場所に同席したのです。この大将軍社は星にちなむ神社で、星合池、七夕池、明星池があり、七夕神社もありました。(今は豊国神社の摂社)要は大阪の大将軍社は星神の巣窟だったのです。星こそ天に満ちているもの、これから天満宮とよばれるようになったのでした。

 天満宮の名は道真公にピッタリのイメージでたちまちの内に九州から京都まで広がっていったのでした。

[3137] やっと解りました ありがとうございます。  狐の使い 2007/07/17(Tue) 21:15 [Reply]
ようやく日本書紀からクダンの箇所を発見。
とはいえ菟餓野が今ひとつ場所としてピンとこなかったもので、今ひとつ理解出来ず。
結局ネットに頼ることとなり、大阪市北区兎我野町に至り、
「兎我野が菟餓野?」と訳のわからない疑問を発しながらも、ようやく神奈備さんの仰っていることを理解(&イメージ)でき(たつもりになり)ました。

ちなみに昨日、たまたま本屋で「日本の神々 第三巻」を衝動買い(重い!)。
買って帰って、初めて気が付いたのですが。神奈備さんのページを見ると、参考文献として結構表れているような・・・。
しかも、よくよく見ると全巻読まれている様な雰囲気・・・すごい!

私は、まず自分のかき集めた情報整理と勉強の意味もこめて、まずは三巻(河内・摂津・和泉・淡路)をじっくり読むつもりです!

[3136] 台風は紀伊半島を  たんかんさ〜 [Url] 2007/07/15(Sun) 07:38 [Reply]
今、紀伊半島を通過中とかご留意下さい。

この台風4号は14日午後2時半頃大隅半島に上陸し
鹿屋市を通って日向灘からそちらへ向かったようですね。
お隣垂水市ではまたもや土石流が。
幸いに拙宅は被害が無く安堵しています。
今朝は、予報に反して青空です。

[3135] 生魂門  神奈備 2007/07/14(Sat) 09:20 [Reply]
> 生国魂神社の旧社地が大手門付近ということも驚きなのですが、
> 『鹿の鳴き声が聞こえる距離』という条件から、なぜそこを難波堀江や大阪城大手門に到せているかの論拠が、不勉強な私には見えません。少々補足していただければ、さいわいです。


 大坂城の大手門(追手門とも言う)はかっては生魂門と呼ばれていました。大手門付近に生国魂神社が鎮座していたからです。

 大阪歴史博物館の建物の南側に古墳時代の高床式倉庫が復元されています。仁徳天皇の頃のものです。復元は創業1400年になる世界最長の歴史を持つ建築会社である金剛組の手になるものです。

 大きい倉庫で90平方メートルあります。このような倉庫が東西に二列で16棟は建っていたようです。まさに仁徳天皇が高津宮にいた頃でしょう。

 仁徳時代に難波堀江が掘られています。梅田は難波堀江の北側です。倉庫は難波堀江の南側です。おそらく高津宮は倉庫に近い場所、難波堀江の南側にあったと考えています。それは前期難波宮(孝徳天皇)の倉庫が天皇の住居の西側に隣接していることからも推測できます。

 梅田の付近の鹿の声が高津宮にまで聞こえたと言うことは、倉庫群と梅田との間に高津宮があったものと推定できます。倉庫群の場所では鹿の声が届かないように思えるからです。

 仁徳天皇の業績を偲んで高津宮の跡が神社になった−生国魂神社−と言うこともあるのかなと思っています。
 

[3134] 無題  狐の使い 2007/07/13(Fri) 20:25 [Reply]
いつもいつも、とても詳しい解説ありがとうございます。

>難波にあった宮殿ー高津宮ーの場所はわかっていません。
>『日本書紀』仁徳紀)に、菟餓野の牡鹿の鳴き声を高台で聞いています。
>この菟餓野とは梅田の東と思われますが、
>鹿の鳴き声が聞こえる距離に宮があったと言うことは難波堀江に近い場所にあったのでしょう。
>大阪城の西北付近や、生国魂神社の旧社地付近(大手門)だったのかも知れません。

生国魂神社の旧社地が大手門付近ということも驚きなのですが、
『鹿の鳴き声が聞こえる距離』という条件から、なぜそこを難波堀江や大阪城大手門に到せているかの論拠が、不勉強な私には見えません。少々補足していただければ、さいわいです。

[3133] Re[3132][3126]: 疑問  神奈備 2007/07/12(Thu) 13:07 [Reply]
> どお読むか判りません 『日本武尊命』
> やまとたけるのみことのみこと?

ご指摘ありがとうございます。おっしゃる通りです。

ここに引用した由緒書きは、神社本庁発行の「平成祭礼データ」からのコピーですので、原文のままにしておくことにします。

[3132] Re[3126]: 疑問  ろむ 2007/07/12(Thu) 12:19 [Reply]
どお読むか判りません 『日本武尊命』
やまとたけるのみことのみこと?
調べたら他のHPにも散見
頼りがいのある神奈備さんらしく無いです 失礼
もし[3126]を訂正されたらこれは削除して下さい m(_ _)m

[3130] Re[3129]: 人にはお勧めできない散策方法  神奈備 2007/07/11(Wed) 08:58 [Reply]
 Googleマップは最近改訂されたのか、例えば和歌山市朝日の九頭大明神などが地図上から消えてしまっています。昔はこれで発見!もありましたのに。

写真掲示板
> 難波宮が書かれているところから、仁徳天皇の時代(四世紀末〜五世紀初頭)の地図ですよね。

地図は古墳時代には違いありませんが、難波宮は飛鳥・奈良時代ですから、これは単に目印ですね。
古墳時代の難波にあった宮殿ー高津宮ーの場所はわかっていません。『日本書紀』仁徳紀)に、菟餓野の牡鹿の鳴き声を高台で聞いています。この菟餓野とは梅田の東と思われますが、鹿の鳴き声が聞こえる距離に宮があったと言うことは難波堀江に近い場所にあったのでしょう。大阪城の西北付近や、生国魂神社の旧社地付近(大手門)だったのかも知れません。

[3129] 人にはお勧めできない散策方法  狐の使い 2007/07/10(Tue) 15:27 [Reply]
大阪市のパンフですか!、早速もらいに行って見ます。

私の上町台地散策は、まるで神社を使ってのオリエンテーリングしているようなものです。
Googleマップで任意の場所を呼び出し、「神社」のキーワードで検索すると、マップ内の神社ほとんど全てに印が付きます。
この地図を切り取り、同操作を繰り返して広域地図を作り、ある区域内の神社を総当りするもので・・・『絨毯爆撃型参詣』と呼んでいます。
この方法だと森之宮〜桃谷間(東西2ブロック内)でも、おおよそ16の神社を参詣出来ました。(さすがにクタクタにはなりますが・・・。)
しかし後から地域内に小さな稲荷神社を一社、抜け落ちていたことが発覚!・・・くやしい!

[3128] Re[3127]: 上町台地  神奈備 2007/07/09(Mon) 21:22 [Reply]
大阪市史跡連絡遊歩道と言うパンフレットがあります。大阪駅の案内所で入手できます。
この中に
上町台地北コース
同南コース
今里・平野郷コースなど5部発行されています。
だいたい3時間程度で回れます。

[3127] 上町台地  狐の使い 2007/07/09(Mon) 18:56 [Reply]
お世話になっております 狐の使いです。

「神奈備別荘」で素敵な地図を頂いた故もありまして、何回目かになる「上町台地」に行ってまいりました。
特に鵲森宮の奥社が、マンションの屋上にあるのと、五條宮のステンレス製(と思われる)鳥居には驚かされました。
現在、膨大に入手した資料を整理中ですが、さすがは歴史ある「上町台地」を感じさせる、歴史深い参詣コースでした。(至福・・・)

あと「玉造稲荷神社」で下照姫命という聞きなれない(たまたま今読んでいる本に説明が出ていたので、気にかかった)神格が、「比売許曽神社」にも下照比賣命として祭られている事や、
またやたらと月読命の名前が出てくる神社が多いのも気になりました。また沢山の文献と格闘する必要がありそうです。

[3125] Re[3121] Re[3120]: 古代史ネーム???  縁MADOKA [Url] 2007/07/05(Thu) 05:55 [Reply]
神奈備さん
蘇我クリニックはホンマに存在してたんですねえー
(±0±)/
んーーー物部が整骨院で蘇我がクリニック!!
神仏戦争を今に残すような。。。。
物部は保守 日本! 蘇我は先進 外国!
血筋は千数百年の時を越えて残っているのね!!

そういやー前になんかの週刊誌に妙な記事が??
十種神宝は実は古神道に伝わる健康法だ!
十種神宝の秘伝を受け継ぐ家系の某氏(物部??忘れた)が十種神宝健康器具開発!だったとおもう(なんかーローリングの組み合わせたコロコロする器具 )興味をもって切り抜いて買おうかともおもったんですが罰あたりそうでやめた記憶が。。。。。あれはなんだったんだろうか???いまでも売ってるでしょうかねえ???

[3124] Re[3123][3122]: 炎はエロス その二  さき(PONTA) 2007/07/05(Thu) 01:35 [Reply]
「高師小僧=銅鐸の原型説」というのがあったような気がします。うろ覚えですが。

http://www.hirotarian.ne.jp/backno/1604-rekisi.html
http://kihitsu.web.infoseek.co.jp/cgi-bin/c-board002/c-board.cgi?cmd=one;no=69;id=

[3123] Re[3122]: 炎はエロス その二  さき(PONTA) 2007/07/05(Thu) 01:29 [Reply]
>筒状の高師小僧は信濃などにある鉄鐸に似ています。

「高師小僧」は豊橋市の高師原で多く産出するからそう名付けられたわけですので、この豊橋市の高師小僧が豊川や天竜川の上流(信濃)に運ばれた可能性はありますね。(高師原(高師村)は今は豊橋市ですが、昔は渥美郡で、渥美(あつみ)の語源は「安曇」だそうですから、安曇野まで川を遡って運ばれた可能性はありますね。)

[3122] 炎はエロス その二  神奈備 2007/07/04(Wed) 15:51 [Reply]
 筒状の高師小僧は信濃などにある鉄鐸に似ています。

高師小僧 http://www.eonet.ne.jp/~isinosyuminoyaka/page017.html
鉄鐸 http://www.interq.or.jp/gold/waki/tour/ftour9801.html

 『古代の鉄と神々』真弓常忠著)には、銅鐸とは葦などの根元にスズと呼ばれる褐鉄鉱が育つように大地の神に祈願をして埋めたとの見方が披露されていました。慧眼だと思います。
 しかし、銅鐸を作るためには、褐鉄鉱を加工するよりも遙かに高温である1,000度程度が必要であり、この温度を出せるのであれば、砂鉄の加工も充分可能となって来ます。もはや低質な褐鉄鉱とはおさらばとなります。

 褐鉄鉱の加工は縄文土器の温度で可能、砂鉄や青銅の加工は土師器焼成程度の温度で可能と言えます。

 と言うことは、鉄鐸こそ、褐鉄鉱が育つための呪具であったと言えます。類感呪術の一種でしょう。

 天照大神と素盞嗚尊との誓約の場面で、天照大神は素盞嗚尊の十握の剣を三つに折るシーンがあります。神代の剣は脆いようです。おそらく褐鉄鉱から作られたものだったのでしょう。

 平安初期に斎部広成翁によって書かれた『古語拾遺』の日神の石窟幽居の段に「天目一箇神をして雑の刀・斧・鉄の鐸をつくらしむ。」とあります。岩波文庫ではこの鉄はクロガネと訓があります。
 銅鐸が忘れ去られて久いい時代になっていたから、諏訪大社とか小野神社に実在する鉄鐸を祭の道具と考えていたので鉄鐸と書いたのか、または気が遠くなる程古い時代である神代には鉄鐸が使われていたとの認識があったのか、文中からは分かりません。

 しかし阿波、紀伊、伊勢と最古の氏族であろう忌部氏に縁の深い地域からは多くの銅鐸が出土しており、銅鐸についての知識は忌部氏に伝えられていたのかも知れません。その忌部氏が神代の記述に鉄鐸を持ち出しているのは一つの確信だと思われます。素性不明の藤原氏には鉄鐸も銅鐸のことも伝えられていないことへの当てつけかも。

 忌部氏は木匠祖としてその祖神は尊ばれています。木の加工の神です。木造建築に必要なのは木を加工する鉄製品です。忌部氏には鉄を加工する技術も伝承されていたのでしょう。

 なお、『古事記』(天岩戸)には、「天の金山の鉄をとりて・・鏡を」と言う言葉があり、岩波文庫版ではマガネとの訓、この場合には鉄ではなく、銅のように思われています。これらも鉄は銅よりも後世のものとの先入観があり、銅と思わせたのかも判りません。

 五十猛神三兄妹も木の神、家屋の神とされます。一方、韓鍛冶とも見られています。木と鉄とはお互いのために存在しているようです。一つは火を介して、一つは人を介して。

[3121] Re[3120]: 古代史ネーム???  神奈備 2007/07/04(Wed) 15:50 [Reply]
> 『物部整骨院』 びっくりしたわ!(±0±)\

足代氏の家の近くに物部の表札を見たような気がします。
谷川健一著『四天王寺の鷹』によりますと、四天王寺の奉仕する人々にも物部姓があるそうです。蘇我クリニックは千葉県にあります。
蘇我氏本貫の地は千葉かも。

[3120] 古代史ネーム???  縁MADOKA [Url] 2007/07/04(Wed) 00:03 [Reply]
ブログの取材で?
生野区中川2丁目の弁天湯へ
ぼーと湯船につかっていると。。。洗い場の鏡の広告
『物部整骨院』 びっくりしたわ!(±0±)\
ひょっとしたら どこぞに
『蘇我クリニック』は存在するのであろうか??
モバイルやりすぎで眼トレーニングへ
生徒の名前をみていたら。。
『翁長OOちゃん』 オキナガ?!息長と同じか??
古代史ネーム遭遇記!(=0=)\

[3119] 炎はエロス その一  神奈備 2007/07/02(Mon) 15:32 [Reply]
 今の大阪市の東部や東大阪市は縄文時代には河内湾でした。ここに淀川や大和川などが流れ込んでいました。七千年前から六千年前の縄文前期には、河内湾は生駒山地のすぐ西に及んでいました。その後五千年前から四千年前の縄文中期には、淀川と大和川によって運ばれて来た土砂によって徐々に埋められて来ました。

 縄文中期の終わり頃には、上町台地東側の森ノ宮遺跡に貝塚が作られており、マガキ、マダイ、クロダイなどの海産物を捕獲していたようです。

 約三千年前から二千年前、縄文時代から弥生前期、上町台地の西側と北側に出来ていた砂堆がさらに北にのび、河内湾は大阪湾と遮られ、淡水化が進みました。河内湖になったのです。

 淀川・大和川によって運ばれてくる土砂の量は縄文中期以降急激に増えているようです。旧石器から縄文中期までの時代、たいした量の土砂が流れ込まず、中期以降に増えたと言うことは、淀川や大和川の上流での開発行為が活発化したものと考えられます。

 開発行為とはある程度の栽培農業を行う為に原野や原始林を切り開き、耕地にしていくことです。手が着けられていない原野・原始林には、おそらくは相当太い木々が生えていたことでしょう。どのような手段でそのような巨木を伐採したのでしょうか。石器でこつこつ伐っていたのでしょうか。

 鉄分の多い葦原などの葦の根元に固まって来る褐鉄鉱を高師小僧と言います。形状は筒状や鈴状になるようです。これを鍛造で叩いて成型して刃物や斧を作ることが出来るようです。この時の焼く温度は400度程度で出来るそうです。

 さて、縄文土器は総じて分厚く、これを焼くのには800度程度の温度を数時間かけ続ける必要があったようです。従って高師小僧を手に入れた縄文人にとって、褐鉄鉱製の斧を作ることは十分可能だったのです。

 斧が手に入れば、原野・原始林の伐採・開拓は石器に比べたら飛躍的に進んだことでしょう。そのような技術的背景があって、大和や伊賀・山城の開発が進み、その頃から多くの土砂が河内湾に流れ込んできたと思われます。

縄文     弥生




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