青草掲示板ログ平十九年六月 2007.8
多に蛍火の光く神、及び蠅声なす邪しき神有り。湯嶽神・菊嶽神の集い。
素人のひらめき、力はないが騒がしくなかなか従わない、一寸の草木にもある五分の魂の発露を!
 青草談話室

[3202] 琉球と難波津  縁MADOKA [Url] 2007/09/01(Sat) 05:04 [Reply]
琉球松さん
<沖縄島の女性だけで大和まで行ったとの伝承はあちこちにありますが、古墳時代後期頃の航海の可能性もおおいにあるかもせれません?>

古墳時代後期頃どころか もーーーーーと古いとおもいますよ!!
黒潮ルートは縄文ぐらい最低考えないと。。
大阪市史の一巻で書かれていますが、大阪の古代祭祀遺跡の特徴は太陽祭祀なんです!
日本の中でも稀有な存在!
これに良く似た例は琉球なんです。。 ただ、飛びすぎて繋ぎにくいんです。
古代難波津の信仰とニライカナイは非常に似た世界観ではないかとおもわれます。
ただ沖縄には現代に通じる痕跡等があるでしょうが コチラは資料に乏しい!!

どっと話は飛びますが
大阪の大正区はリトル沖縄!大正区のエイサー祭り 芸能伝承保存の情熱は 沖縄以上に熱いと沖縄の人がいう。

沖縄と大阪の関係で立証できるのは近世
昆布の流通!
昆布の生産地は北海道! 最大の消費地は沖縄 その流通の中継地&加工地は大阪!
だから!大阪名物がエビスメ!昆布の佃煮 名称がアイヌ娘

北海道から沖縄に行って中国に昆布が行った!!
中国には昆布はもともとなかったんです!

秦の始皇帝が求めた不老不死の薬は昆布だという話がある!
中国の風土病には 昆布のヨードが最大の薬であったから!
西前船が出来る以前 北前船ルートだけだったときの昆布中継加工地 小浜の昆布屋がHPで論説を載せています。

私はこれが 本来の黒潮ルートで古代沖縄 難波津が繋がっていた根拠と考えています
昆布大全より中国の昆布(昆布大全は一読に値する)
http://www.konbukan.co.jp/taizen/chishiki3_1.html
昆布館映像 海帯
http://www.konbukan.co.jp/taizen/movie2_1.html

[3201] Re[3200][3198][3196][3195][3194][3192][3191] Re[3189]: 勾玉 太陽  琉球松 2007/08/31(Fri) 23:27 [Reply]
 こういう遊び?の中からも、いろいろアイディアが出てくるものです。

 例えば「ガハラ」の語源は「高天ガハラ」。。。なんてね。
 これなんかも、あながち荒唐無稽とも言えないかも(笑)。

[3200] Re[3198][3196][3195][3194][3192][3191] Re[3189]: 勾玉 太陽  大三元 2007/08/31(Fri) 22:32 [Reply]
琉球松さん

>  沖縄諸島では語頭の「マ」がどっかへ行ってしまってますね(笑)。

こんな、マ抜け説、成立しそうもないですね

[3199] ヤヲの港  琉球松 2007/08/31(Fri) 19:11 [Reply]
 神奈備さんへ

 お隣の掲示板に「古墳時代の河内摂津/黒川史明氏」の画像がありますね。

 というのも、以前にも紹介した沖縄島北部に伝わる神歌「マガ玉を買い(請う?)に大和へ・・」の中の「ヤヲの港」は現在の八尾市あたりではないかと。。。

 沖縄島の女性だけで大和まで行ったとの伝承はあちこちにありますが、古墳時代後期頃の航海の可能性もおおいにあるかもせれません?

[3198] Re[3196][3195][3194][3192][3191] Re[3189]: 勾玉 太陽  琉球松 2007/08/31(Fri) 17:53 [Reply]
大三元さんへ

 宮古の「マガーリャ」は曲玉そのものを意味しているようで、あまり「曲がる」の意味では使わないようです。

 それと、さすが大三元さん! "「まがりあ」の語頭消失で「がりあ」→「がはら」"。。。沖縄諸島では語頭の「マ」がどっかへ行ってしまってますね(笑)。

[3197] Re[3196][3195][3194][3192][3191] Re[3189]: 勾玉 太陽  縁MADOKA [Url] 2007/08/31(Fri) 04:39 [Reply]
琉球松さん
>このタイプは高級神職の祭具であることは確実ですね。>
これ!おもしろいですねえ 考えたことなかったなあ

なんかそういえば 勾玉=測量器具ていうのがあって 私は結構そうかなあと
勾玉いっぱい首にぶら下げている人は測量士というか 暦と測量を司る長かなと思ってます

大三元さん
>がはら となると 勾玉 曲玉 がはらたま とも云う>
これ子持ち勾玉を連想しますねえ

[3196] Re[3195][3194][3192][3191] Re[3189]: 勾玉 太陽  大三元 2007/08/30(Thu) 22:43 [Reply]
琉球松さん、ども。

>  沖縄諸島でマガ玉は、やはり「ガーラ」と言いますね。
「かはら」の発音の揺れ、でしょうね。

>  これは、宮古諸島で「マガーリャ(曲がっているもの)」ですから、「曲玉」と表記したほうがより正確だと思います。

沖縄古語辞典によると「まがり・あ」曲ったもの。害虫に対するののしりの言葉。
宮古諸島では「マガーリャ」が曲玉を(も)意味するのでしょうか。
「まがりあ」の語頭消失で「がりあ」→「がはら」ですかねぇ???

「曲」、「勾」のどちらも古代文書にあるわけですし、所詮「まがたま」という音をどういう字で記録するか、という問題、漢字を借りて当てただけ、と考えると、どちらが「より正確か」という論評のメリットが判りません。


[3195] Re[3194][3192][3191] Re[3189]: 勾玉 太陽  琉球松 2007/08/30(Thu) 08:09 [Reply]
大三元さん、久しぶりです。

 沖縄諸島でマガ玉は、やはり「ガーラ」と言いますね。
 これは、宮古諸島で「マガーリャ(曲がっているもの)」ですから、「曲玉」と表記したほうがより正確だと思います。

[3194] Re[3192][3191] Re[3189]: 勾玉 太陽  大三元 2007/08/29(Wed) 23:01 [Reply]
> >「てだ」(含む発音の揺れ)なら「太陽」の意味があります。
> これは何語ですか??

沖縄古語辞典に出てきます。他に太陽を意味する沖縄古語には しの かは (含む発音の揺れ)があります。

かは は 川・井泉 の意味がある。
かはら となると 川 瓦
がはら となると 勾玉 曲玉 がはらたま とも云う

ここら辺の語群で結構「遊べます」

[3193] Re[3192][3191] Re[3189]: 勾玉 太陽  琉球松 2007/08/29(Wed) 21:15 [Reply]
 神奈備さん、画像アップどうもです。

 この彫りこみ?が何のためにあるのかはよくわかりませんが、博多湾周辺から始まった形のようですね。
 2本の紐を固定するためのようにも見えますが、琉球圏でもそういう話は聞かないし。。。
 ただ、このタイプは高級神職の祭具であることは確実ですね。

[3192] Re[3191] Re[3189]: 勾玉 太陽  縁MADOKA [Url] 2007/08/29(Wed) 20:17 [Reply]
神奈備さん 丁字頭勾玉 アップありがとうございます。
これは???
なんかぶら下げるために必要な筋???
琉球松さん どうしてこの痕跡のある勾玉が本物なんでしょう?
使用痕跡があるからですか??

大三元さん
>「てだ」(含む発音の揺れ)なら「太陽」の意味があります。
これは何語ですか??

[3191] Re[3189]: 勾玉 太陽  大三元 2007/08/29(Wed) 10:14 [Reply]
縁MADOKAさん

> このテシ? テツ?は太陽という意味つうのをきいたんですが・・なんで太陽って意味なんでしょうか?

「てだ」(含む発音の揺れ)なら「太陽」の意味があります。

[3190] Re[3189]: 勾玉 太陽  琉球松 2007/08/29(Wed) 00:35 [Reply]
画像が見つかれば、写真掲示板にアップしたいと思います。

「琉球の武術」の件ですが、これはたぶん「ティー(手=素手)」でしょうか。現在で言う「カラ手」ですね。

 太陽との関係は聞かない話です。

[3189] 勾玉 太陽  縁MADOKA [Url] 2007/08/28(Tue) 20:21 [Reply]
琉球松さんお久しぶり
「丁字頭曲玉」って?ようわからないんですが?
写真掲示板にアップしてほしんですが。。。。

ひとずてに聴いた話 最近NHKで琉球の武術 テシ? テツ?
つうのがあって 『勝とうはしないが けして負けない』つう?柔の心みたいな精神をもっている このテシ? テツ?は太陽という意味つうのをきいたんですが・・なんで太陽って意味なんでしょうか?

[3188] Re[3187][3185][3182][3180]: 三種の神器を御守護された稲田姫命  琉球松 2007/08/28(Tue) 10:40 [Reply]
 またまた訂正・・・四国西部ではなく東部(徳島県など)です。

[3187] Re[3185][3182][3180]: 三種の神器を御守護された稲田姫命  琉球松 2007/08/28(Tue) 00:04 [Reply]
神奈備さん、お手数かけます。

 ぜひとも知りたい情報ですが、のんびり待ちますのでよろしくお願いします。

 久米島や奄美の喜界島などでの「丁字頭曲玉」の穴を通す縄は「アワの国産が望ましい」と伝わっています。
 これは、四国西部の忌部氏や皇室の大嘗祭とも関係あるのではと調べています。

[3186] Re[3184][3181]: 天乃斑駒について  さかもと 2007/08/27(Mon) 14:44 [Reply]
早速のご返答、ありがとうございました。

当地は東北地方南部に所在し、過去において特に馬の産地だったわけでもございませ
ん。問題の神社も、市街から離れた山間の小集落に一社だけ単独で存在し(無住)
地元在住の私でも、これまでその存在すら気づきませんでした。旧街道からも離れて
おり、当地でもよくある街道沿いの馬頭尊とは性質が異なるように思いました。
また天斑駒を祀った神社というのは、それまで聞いたことがなかったので興味を持
ったしだいです。
現在の祭祀の実態については未詳ですが、当該集落最寄の旧村社の宮司の方にでも
お聞きしてみたいと思います。ありがとうございました。

[3185] Re[3182][3180]: 三種の神器を御守護された稲田姫命  神奈備 2007/08/27(Mon) 13:27 [Reply]
琉球松さん、こんにちは。

> ご紹介の「匂玉」は、いわゆる「曲玉」でしょうか?
 
 同じ意味で使われています。「丁字頭」タイプは宇木汲田遺跡からも出土しているようですね。鏡と剣は天皇位を示す神器、天皇家の家長を示す神器が勾玉と考えています。
 さて、巻向坐若御魂神社の御神体がどのようなタイプなのか、参詣する機会がありましたら、宮司さんにお伺いして見たいと思います。

[3184] Re[3181]: 天乃斑駒について  神奈備 2007/08/27(Mon) 13:26 [Reply]
> 最近、私の住む町に天乃斑駒神社という小さな社があることを知りました。

 高天原にいる神が乗る馬を天斑駒と云うようです。素盞嗚尊に皮を剥がされて織屋に投げ込まれたのもこの種の馬です。まさか、皮を剥がされた馬を祀っているのではないでしょうが・・。

 さかもとさんがどちらにお住まいなのか承知していませんが、ネットでの検索では、京都の上賀茂西後後藤町61に鎮座している貴船神社の摂社にも天之斑駒神社が鎮座しているようです。それ以外の場所では見いだせていません。

> どのような由来で勧請されたものなのでしょうか?

 現地で宮司さんに聞いて調べるのがいいでしょう。さかもとさんのお住まいの町で宮司さんに聞いて下さい。教えて頂ければ幸甚です。

 勘で云うのもどうかと思いますが、京都では上賀茂に二社、上賀茂と云えば上賀茂神社(賀茂別雷神社)、馬との関連では流鏑馬などが思い浮かびます。馬の成育とか祭りでの人と馬の無事を願ったのかも。

[3183] Re[3182][3180]: 三種の神器を御守護された稲田姫命  琉球松 2007/08/26(Sun) 16:37 [Reply]
 訂正・・・3本ではなく2本のラインです。

[3182] Re[3180]: 三種の神器を御守護された稲田姫命  琉球松 2007/08/26(Sun) 16:22 [Reply]
 神奈備さん、お久しぶりです。

 ご紹介の「匂玉」は、いわゆる「曲玉」でしょうか?
 そうだとすれば、頭?に3本の掘り込みラインがある「丁字頭」か否かご存知ないでしょうか?

 琉球圏では現在でも「丁字頭」タイプの曲玉は由緒正しいとされています。

[3181] 天乃斑駒について  さかもと 2007/08/26(Sun) 13:11 [Reply]
通りすがりの者ですが、掲示板、大変興味深く拝見いたしました。
もしよろしければ、皆様のご見解を賜りたく質問させていただきたいのですが、

最近、私の住む町に天乃斑駒神社という小さな社があることを知りました。
(鎮守の末社として祀られているわけではなく、単独で存在しております)
珍しい神社があると思い調べてみましたが地元で由来を知る者は見つけられ
ず、
また検索エンジンで調べても、同様の神社は京都の二葉姫稲荷神社の末社に天乃斑駒社があるのが確認できるだけでした。

皆様にお尋ねいたしますが、天乃斑駒を祀る神社は、他にも在るのでしょうか?
また、どのような由来で勧請されたものなのでしょうか?

[3180] 三種の神器を御守護された稲田姫命  神奈備 2007/08/25(Sat) 16:26 [Reply]
 山辺の道から東へ少し登ると穴師坐兵主神社が鎮座しています。現在は三社の合祀された姿。穴師坐兵主神社、穴師大兵主神社、巻向坐若御魂神社の三社です。右側の若御魂神につきましては、境内表示に「三種の神器を御守護された稲田姫命を御祀りし、御神体は匂玉と鈴で、芸能の神として崇敬を受けられています。」とあります。

 若御魂神とは稲魂とすれば祭神は稲田姫とするのも理解できますが、「三種の神器を守護された」とは不思議な文言だと思います。『記紀』やその他の文献にも寡聞ですが、見た記憶はありません。

 『青草[3159] 三種の神器は素盞嗚尊』の主旨は、鏡−日神−蛭児で素盞嗚尊との混線が見られること。また勾玉−月神−月読神で、食糧の神を殺すと云うことで月読神と素盞嗚尊とは混線。もう一つの草薙剣は素盞嗚尊の発見になるもので素盞嗚尊そのものとできます。三種の神器の根底には素盞嗚尊の存在があり、素盞嗚尊そのものと言えると云うことでした。

 そうしますと、素盞嗚尊の妃神の稲田姫、三種の神器を御守護された神といえます。

 『日本書紀』の注釈書である『釈日本紀』に引用されている『大倭本紀』には、天皇始めて天降り来ましし時、ともに斎鏡三面・子鈴一合を副え護らしめたもう。鏡の一つは伊勢神宮に、一つは紀の国の国懸神宮に、残る一つの鏡と子鈴は穴師社におさめたたとあります。
 神武天皇東征の時、お供をした紀直の祖である天道根命が鏡を奉じたと日前国懸神宮に伝わっているのと軌を一にする話かも知れません。

 所が『日本書紀』「天の岩戸」の(一書第一)には「天香山の金を採って、日矛を造らせた。また鹿の皮を丸剥ぎにして、フイゴを造った。これを用いて造らせた神は紀伊国においでになる日前神である。」と出ています。日矛があるのか別の神があるのか、両方かです。

[3179] Re[3178][3177][3176]: 難波の宮の場所  たんかんさ〜 [Url] 2007/08/24(Fri) 07:32 [Reply]
おはようございます。
管理人さん、愉しい伝承のご紹介ありがとうございます。

>  泉媛は「出の山湧き水」を汲んでお茶をたて、天皇に差し上げたとか。天皇が京に旅立つにあたって、媛は池に身を投げ、蛇に変身、水神明王として今も祀られているそうです。小林市。

写真掲示板に掲載します。
この出の山は蛍のメッカです。
来夏は見物したいと。。

[3178] Re[3177][3176]: 難波の宮の場所  神奈備 2007/08/22(Wed) 10:20 [Reply]
 諸県の名前が初めて登場するのは『景行紀十八年』のことで、天皇が筑紫国を巡行中、諸県君泉媛が供応するため待っていたとあります。『西海道歴史紀行』榊原秀夫著)によりますと、景行天皇と泉媛との間にできたであろう子供が諸県君の祖となったのではと推測しています。
 一方、『旧事紀天皇本紀』では、日向国佳人御刀媛との間の御子の豊国別皇子を日向諸県君の祖としています。この佳人も諸県君の一族の媛だったのかも知れません。

 泉媛は「出の山湧き水」を汲んでお茶をたて、天皇に差し上げたとか。天皇が京に旅立つにあたって、媛は池に身を投げ、蛇に変身、水神明王として今も祀られているそうです。小林市。


 諸県の名で気に掛かるのが、素盞嗚尊・五十猛神の末裔の名に諸豆彦の名前が出てくるからです。児湯彦−諸豆彦−宇豆彦と繋がり、児湯彦は宮崎県児湯郡(都農神社)、諸豆彦は宮崎県諸県郡(早水神社)、宇豆彦は大分県北海部郡(椎根津彦神社)と九州の東海岸に縁を持っているようだからです。
 諸県、渡来人説も彼らが五十猛神の末裔とすれば、渡来系の末裔と言える可能性はありそうです。

 『続日本紀』天平三年(七三〇)の記事。
 雅樂寮の樂生の定員を定めた。大唐樂卅九人、百濟樂廿六人。高麗樂八人。新羅樂四人。度羅樂六十二人(済州島)、諸縣舞八人、筑紫舞廿人。
 殆どが渡来系のものです。
 諸縣舞、筑紫舞は日本固有の舞いだったのでしょう。歌垣などから派生したものなのでしょう。

 『礼記』昧(まい)は東夷の楽なり。

[3177] Re[3176]: 難波の宮の場所  たんかんさ〜 [Url] 2007/08/21(Tue) 14:57 [Reply]
「天満橋」は懐かしい場所で
東京在住の頃、設計の打ち合わせ等で
よく日参した某中央官庁があります。
まさか、「隼人」と所縁のある地
それも美人の髪長媛とは。
ま、当時は見物などする余裕もなかった
ですが。。

髪長媛と云えば、後宮で入って
その皇子に見初められ後の仁徳天皇の妃と
なられた方だそうですが、
妃の出身は「日向の諸県君牛諸井」と
されています。

現在、宮崎の高城町では村興しで祭りがあるそうです.

http://www.kanko-miyazaki.jp/sokuho/shinwa/himuka/2005.05/takajyo.htm


古来より、隼人や正八幡宮 との係わりの深い土地柄で
中世、慕情の念からでしょうか
この「正八幡社」を勧請しています。

この春、その一つの「三俣町の早馬神社の春祭り」に
父と出かけました。

また数年前の秋には、隣の山之口町で「隼人の末裔:弥五郎」の
の放生会を見物しました。

諸縣君家は
新羅からの渡来系ではとの推論もあるようで、
仁徳天皇陵のような巨大古墳建造の
技術導入を図った「政略結婚」だった可能性も。

日向から出た妃については「神話伝承探訪」に少々。

[3176] 難波の宮の場所  神奈備 2007/08/21(Tue) 13:36 [Reply]
最近、難波の宮の場所の説を偶然に耳や目にしましたので、まとめておきます。

山根徳太郎氏

応神天皇 大隅宮については、この隅は住吉のスミとの理解で、『住吉大社神代記』679行のの下記の記事を考慮しています。
 猪加志利乃神、二前。一名為婆天利神 (元大神居坐して 唐飯聞食しける地なり。)右大神は、難波の高津宮にあめの下、しろしめしし天皇(孝徳天皇)の御世、波多毘若郎女の御夢に、さとし奉らく、「吾は住吉大社の御魂ぞ」と「為婆天利神亦は猪加志利之神と号す」と神懸かり給ひき・・

 ここでの大神は住吉大神のことです。唐飯聞食地、戦利品として持ち帰ったものを食した地。この地とは、摂津国西成郡の式内大社坐摩神社[ヰカスリ]の鎮座地で、天満橋南詰辺のこと。神功皇后の腰掛け石とされる磐座があります。ここが元住吉大神の鎮座地で、『古語拾遺』では、「坐摩是大宮地の霊なり。」とあり、応神天皇の大隅宮を天満橋南詰付近に比定しています。

仁徳天皇 高津宮については、『仁徳紀』の、「宮北の郊原を掘り、南水を引いて以て、西海に入れ、因って以てその水を名付けて、堀江という。」の文章から、堀江の南側であること、また『孝徳紀』の、「まさに上古の聖王の跡に従い・・」の文から、孝徳天皇の難波宮の場所がすなわち高津宮と推定されています。仁徳から孝徳まで200年、その間も難波津では海外からの使節などが行き来し、かっての宮であったことは忘れられていなかったとしています。


水野正好氏
応神天皇 大隅宮
『応神紀』に、「美人の日向国の髪長媛を摂津国桑津邑に置かれた。」とあることから、天王寺付近とされています。美人を遠い所に置くはずがないから。

仁徳天皇 高津宮 東高津町付近としています。猪飼津に橋を渡し小橋としたことを理由としています。このあたりに仁徳天皇の足跡が多いこともありそうです。

[3175] Re[3174][3173]: 隼人あれこれ  とみた 2007/08/17(Fri) 14:11 [Reply]
神奈備さん いつもフォローありがとうございます。

壱岐は原の辻という弥生時代の環濠集落を持った交易拠点です。何か神話や神社には隠されたものがありそうです

>> 芦辺町箱崎村根抵山 八幡神社
>  この神社の旧号は海裏宮であり、壱岐の古い社家である吉野氏(元壱岐氏)は壱岐の著名な神社を祀っていたが、やはりこの海裏宮をも祀っていた。古文書にも、「箱崎八幡宮月読宮云々・・」とあり、先の筆者はここを式内月読神社に比定しています。
>>  壱岐の県主の祖が登場してきますので、やはり月神の本拠の一つだったのでしょう。

神奈備さんの保証を得ますと、勇気百倍です。吉野氏(壱岐氏)の謂れももっと調べる必要がありそうです。

>
>  月神はもう一つの本拠は隼人だと思われます。山城国綴喜郡の月読神社は大住の地にあり、大隅国から 当地へ来住した隼人らが祀ったともいわれています。


サラリーマン時代、大阪枚方樟葉に住んでいましたが樟葉は竹が多くってエジソンの竹フィラメント?にも使われていますね。大住も竹が一杯ありましたよ。今は学園都市として随分開かれましたね。

隼人の住んだのは、田辺で、大隅も含まれるのでしょうか。田辺も竹林の名所のようです。

竹は、元々日本にはなかったようですね(笹はあったかも)。弥生の末から、古墳時代に移入したそうです。

隼人は竹細工に巧みであったとか。塩土爺が竹を生やして竹籠を作ったとか。

隼人は元々は中国江蘇省の漁民で竹筏で漁を行っていたとか。竹を使った(筌=うへ)鵜飼漁で宇陀の神武東征軍を援けたなどなど・・・・何となく、竹と関係がありそうですね。

竹取物語は、元々はチベットの班竹姫物語が原典だとか言われています。

竹は長江の上流域(眠江)の蜀に多いようです。中国南方の少数民族にとって竹垣は神聖な場所とされます。

南九州の阿多隼人は吉野川の五条あたりに植民して阿多という地名と、阿多比売神社を残しています。

海幸彦は隼人というのが通説で、五島列島=値嘉島の白水郎=潜水漁撈民は隼人だと思っていました。

今でも脱サラして鮑取りに専念する人が壱岐や五島列島にはいるようです。

隼人が壱岐にも足跡を残す!海は人の交流のネットワーク、頷けます。



>  福島さんが、鉄の古字は、「銕」と紹介して頂いています。
>  夷の金属の意味でしょうが、『鉄から読む日本の歴史』窪田蔵郎著(講談社学術文庫)によれば、外夷の意味のようで、ダッタン人や華南から北上の民を云うようです。


鉄は金篇に夷というのは何か意味深長です。ダッタンは、ダッタン人、韃靼ソバを思い出します。

4000年〜5000年前の中国の古地図を西安博物館で写したのを持っています。

華夏・・・これは中華の中原を占めています。中国南部の長江中下流域には苗蛮が位置しています。

今の上海あたりから北で黄海渤海沿岸、たとえば泰山を含む地は東夷とされています。確かにダッタンまで含むようです。

華夏、苗蛮、東夷と三区分していたようです。

殷は東夷の国とされています。子安貝を珍重視した民です。殷は商とも云いますから貝をカネとして物を交換したのでしょう。財(産)には貝がついています。

東夷の殷を、西からやって来た遊牧民の周が羌族の応援を得て倒します。

今でも、羊のついた文字は縁起のよい言葉です。善は羊がついています。








[3174] Re[3173]: とみたさん  神奈備 2007/08/16(Thu) 20:21 [Reply]
> 壱岐・月読神社は元は清水山の神で、平戸藩国学者の橘三喜が藩主の命で改名したらしい。
> 壱岐の八幡神社が月読神の本拠らしい。壱岐神社誌には、最初式内月読神社として創立したが、海神の配祀、竜神の合祀、下りて八幡宮の社号を取り込んだとのこと。


 壱岐の式内社である月読神社は名神大社で、とりあえず論社が二つあります。
芦辺町国分村深淵  月読神社
 山之神と称する祠があり、鎮座地の深淵フカフチが訛ってフカツキと云うとか、山之神の前の崖の下をキヨツキと云うことから、ツキヨミ神社と定めたとあります。延宝以前(1673以前)には社殿もなく、名神大社がここまで衰えるだろうかと、『式内社調査報告24巻』で山口麻太郎氏が述べて居られます。
芦辺町箱崎村根抵山 八幡神社
 この神社の旧号は海裏宮であり、壱岐の古い社家である吉野氏(元壱岐氏)は壱岐の著名な神社を祀っていたが、やはりこの海裏宮をも祀っていた。古文書にも、「箱崎八幡宮月読宮云々・・」とあり、先の筆者はここを式内月読神社に比定しています。

 『顕宗紀』に、「月の神が人について、我が祖高皇産霊は、天地をお造りになった功がある。田地をわが月神に奉れ。」とあったので、壱岐の県主の先祖の、押見宿禰が山城国葛野郡にお祀りしたとあります。壱岐の県主の祖が東條してきますので、やはり月神の本拠の一つだったのでしょう。

 月神はもう一つの本拠は隼人だと思われます。山城国綴喜郡の月読神社は大住の地にあり、大隅国から 当地へ来住した隼人らが祀ったともいわれています。



 『山海経』は最も古い部分は紀元前5〜3世紀に書かれた地理書で各地の怪力乱神たちや鉱山などを記しています。この中の「中山経」に、「鉄を産する山3690なり。」と出ています。もの凄く各地で鉄が採取されているようです。

 福島さんが、鉄の古字は、「銕」と紹介して頂いています。
 夷の金属の意味でしょうが、『鉄から読む日本の歴史』窪田蔵郎著(講談社学術文庫)によれば、外夷の意味のようで、ダッタン人や華南から北上の民を云うようです。

 鉄の利用は隕石から始まったようで、エジプトでは鉄を「天から降った石」と云う表現、またギリシャでもシデーロス(Sydyros)と、ラテン語の星(Sidus)を示すような表現です。紀元前3000年前のエジプトのジルザーの墓から発見された鉄器にはニッケル分が含まれているので、隕鉄製とされています。


[3173] ツキヨミ  とみた 2007/08/16(Thu) 13:05 [Reply]
余りの暑さに、クーラーのよく利いた本屋に飛び込む。

オヤ妙な本があるではないか。

”ツキヨミ秘された神”買うまではどうもね。立ち読み、長時間読んでいたら、なんとなく店員が睨んでいる。

アマテラスやスサノオはよく本に出ていますが、ツキヨミは余り本がないようです。

著者は戸矢 学さん、国学院出の陰陽道研究家。2007年に河出書房新書刊行です。1700円とはちと高い。

南=太陽=鏡=昼 北=月(星)=勾玉=夜

こんな方程式があるのかな?

ツキヨミ=男神=月神=天武=伊勢

アマテル=女神=日神=桓武=平安神宮

アマテルは伊勢で天武と読んでいたのにね。

一つだけ収穫がありました。

対馬は阿麻氐留=アマテル=天照神社のルーツかな。

壱岐は壱岐・月読神社がツキヨミ信仰のルーツかなと考えていましたら違うらしい。

壱岐・月読神社は元は清水山の神で、平戸藩国学者の橘三喜が藩主の命で改名したらしい。

壱岐の八幡神社が月読神の本拠らしい。壱岐神社誌には、最初式内月読神社として創立したが、海神の配祀、竜神の合祀、下りて八幡宮の社号を取り込んだとのこと。

祭神は豊玉玉依ヒメで、配神として月読神が残っている。

神社は本当に難しいですね。時の政治のご都合で切ったり張ったり祭神を変える。それが時代とともに累積すると後を辿るのが難しくなる。

壱岐のツキヨミであらためて感じました。





[3172] タマタマ  縁MADOKA [Url] 2007/08/14(Tue) 03:02 [Reply]
風鈴さん はじめまして

<玉依を反転させると依玉 依玉の中国語音はyiyuですね。壱与の中国音もyiyu ですから同じです。玉依が時空間でスピンして壱与。^^:>

フーーーーーーん ちょっとおもしろいなあと
邪馬台国論争は興味がなかったんで調べはじめたとこで若葉マーク
<玉依が時空間でスピンして壱与。^^:>
豊玉がカーブして 天照????? 卑弥呼????
ですか???
私のピントがずれてるとおもいますが若葉マークでご容赦を。。。
また詳しく お書き込み下さい。

ざーーーと調べてるとどっかで
対馬が豊玉 壱岐が玉依 なんてーのがあったような???

壱与 壱岐 で調べると下記サイトがちょっとおもろい
対馬に比べて壱岐の豊かなこと・・・
『潮まちの港 壱岐』
http://www.iokikai.or.jp/siomatinominato.iki.html

[3171] Re[3170]: 自己訂正  風鈴 2007/08/13(Mon) 10:23 [Reply]
玉依を反転させると依玉
依玉の中国語音はyiyuですね。

壱与の中国音もyiyu ですから同じです。

玉依が時空間でスピンして壱与。^^:


[3170] 自己訂正  縁MADOKA [Url] 2007/08/13(Mon) 03:14 [Reply]
すいません間違いました!
<神武の聖性は他のサイトにもでてますが豊玉姫の息子であること以外ねえ!>
神武は玉依姫と豊玉姫の息子ウガヤフキアエズの息子です
ウガヤフキアエズってほんと印象薄い人なんでついウッカリ ご無礼!
ただ
ウガヤフキアエズの息子だから神武が始祖王とは、とても思えない!
やはり、神武の始祖王でアル根拠は、海神の竜王の二人の娘 豊玉 玉依の血を引くことが聖性だとおもわれます。
天照と海照?の合体した血筋を持つのが神武の聖性とも取れないことはないですが。。。。。。。。

[3169] ズルイ男と猛女  縁MADOKA [Url] 2007/08/13(Mon) 02:32 [Reply]
神奈備さん
<トヨが玉依姫や豊玉姫として神話にでていてほしいものです>
そのとおり(@^0^@)
神武の聖性は他のサイトにもでてますが豊玉姫の息子であること以外ねえ!
豊玉=トヨかどうかは別として なにか血筋か霊系統が同じと考えます。
卑弥呼も一代 トヨの血筋がつづいた感じだし。。
根本的なところで今回イザナギから神武の血筋をみて、どうして、始祖王の神武につらなる男はかくもズルクなさけないのか??女の方が雄雄しくいさぎ良い!
これは一つの記紀の謎だよなあ???
暴れん坊ではあるけれど雄雄しく描かれているのはスサノオぐらい???

[3168] 玉にkiss  神奈備 2007/08/12(Sun) 21:31 [Reply]
> 神奈備大老の御壮健を祈念!

まだまだ大老にはいたらず、若年寄のレベル。


> 卑弥呼ではなく、トヨのほうが 天皇家? 大巫女?としては大名跡ではないか?

 国の女王台与(壱与) 男女の生口三十人、白珠五千孔、青大勾珠二枚、異文雑錦二十匹を貢す。
これは『倭人伝』の一節ですが、この青大勾珠二枚の原料に翡翠は南支那方面からの輸入品との説があります。たった二枚、超貴重品だったのでしょう。
 トヨが玉依姫や豊玉姫として神話にでていてほしいものです。問屋さん卸すかな。

 翡翠は糸魚川付近で採種されており、縄文前期の天神遺跡から出土しています。翡翠の勾玉の価値に@色がきれい(深緑色)、A加工に手間がかかっていること、B穴があり、吹けばいい音(石笛のごとき)がすること、C長持ちすることがあったそうです。

Aについてはトロブリアンド諸島に伝わるお話。特別に時間がかかったものに価値を見いだす。これをバイグア(強精剤ではない)といい、各人が持っており、亡くなった人の体を玉で撫でて持ち帰り、死者の玉がともに葬るそうです。

C古墳を壊して建物などを建てることが多かったそうですが、遺体をおさめた棺からは人骨だあったかなかったかの状態だったそうですが、それでもお腹の上あたりに置かれたであろう翡翠勾玉はまったく変化もせずに掘り出されたようです。人はここに魂を見たのです。まさに玉は魂です。

 古墳時代には翡翠の原石が少なくなってよく似た色の碧玉が増えました。出雲の玉作の山からとれます。大国主命が沼川比売に妻問いをしたのは勾玉作りの職人を出雲に連れて来た歴史の神話化なのでしょう。


[3167] これ! おもろい!  縁MADOKA [Url] 2007/08/12(Sun) 04:02 [Reply]
郭公さん
<いまの流れは、北部九州の海洋氏族のルーツ探しと>
ますますもって興味しんしんですね
とみたさんの話と繋がるとおもしろいですね
某掲示板 7月末まで読みました あとヒトがんばり
掲示板で紹介されてた
『海人の部屋』
http://homepage2.nifty.com/amanokuni/ama-top.htm
これほんと助かるわ!! 海神族をおうものとしては
チョウ 感激! ありがとうございます

[3166] Re[3165]: RE3164] Re[3163][3162][3161]: 怡土郡の五十跡手と伊太祁曽神社の五十猛神  郭公 2007/08/10(Fri) 06:40 [Reply]
 タイシさん、MADOKAさん、いろいろとまた教えてください。
 「そらちゃいまっせ〜」と遠慮なく突っ込んでくださいませ。
 いまの流れは、北部九州の海洋氏族のルーツ探しと、日向・大隅との関係。

 住吉大社の創祀について。
 住吉大社HPの「宮司あいさつ」には、211年と言われているけれども、じっさいは干支を繰り下げて5世紀前半と書かれていました。考古資料があればいいのですが。

[3165] RE3164] Re[3163][3162][3161]: 怡土郡の五十跡手と伊太祁曽神社の五十猛神  縁MADOKA [Url] 2007/08/10(Fri) 02:08 [Reply]
郭公さん この間はどうも
>平原の超大型内行花文鏡(伊勢神宮の八咫鏡=天照大神)を奉斎して、瀬戸内から紀ノ川を遡上したと考えていますが、誉田別は宇美か伊都の蚊田の生まれとされています。平原の超大型鏡を奉斎して東進しているのですから、伊都の五十跡手も一枚かんでるんとちゃうかと。>
注目しています おじゃましたらまたよろしく
タイシサルタヒコ 行脚も 楽しみです

[3164] Re[3163][3162][3161]: 怡土郡の五十跡手と伊太祁曽神社の五十猛神  タイシ 2007/08/09(Thu) 07:44 [Reply]
郭公さん いつも某掲示板楽しみに拝見させてもらっています。

>  神社は難しいです。
>  タイシさん繋がりでまたお会いできる日もあることでしょう。その節はまたいろいろとお話をお聞かせください。

郭公さんと神奈備さんとの古代史談義楽しみにしています。

[3163] Re[3162][3161]: 怡土郡の五十跡手と伊太祁曽神社の五十猛神  郭公 2007/08/08(Wed) 22:55 [Reply]
神奈備さん、さっそくにありがとうございます。

> 天道根命(『新選姓氏録』での紀氏の祖)
> 『新選姓氏録』には、伊蘇志臣は天道根命之後也。」

 についてはさっぱり頭にありませんでした。さいわいその資料はありますので、私も開いてみます。
 五十猛神と五十迹手、あながち無関係でもなさそうなので少しほっとしています。

 北部九州で南方系、北方系が混交しているようにも思われ、海洋氏族を通じてようやっと南方系のルーツらしきものが見えてきたようにも思っていますが、さて、当否は・・・。

>伊太氏の神(五十猛神のこととされる)

 この神様、島根、播磨ほか、広範に祀られているようですね。
 神社は難しいです。

 福島さんのご活躍はよく存じておりますよ。

 今後ともよろしくお願いします。
 タイシさん繋がりでまたお会いできる日もあることでしょう。その節はまたいろいろとお話をお聞かせください。

[3162] Re[3161]: 怡土郡の五十跡手と伊太祁曽神社の五十猛神  神奈備 2007/08/08(Wed) 21:10 [Reply]
郭公さん、こんばんは。

 五十猛神については、紀の国の紀氏(国造の紀直)を語らねばなりません。と云うのは紀直の祖先は素盞嗚尊であり、そこから天道根命(『新選姓氏録』での紀氏の祖)につながると云う系譜が伝えられているからです。五十猛神は素盞嗚尊の御子神ですから、紀直の祖となります。

 一方、伊都国の名前のいわれを、五十迹手の「いそいそさ」をほめて「伊蘇志:いそし」と言われ、五十迹手の国を伊蘇の国とされ、これが後に伊都国と訛ったのされます。『新選姓氏録』には、伊蘇志臣は天道根命之後也。」と出てきます。五十迹手と天道根命との前後関係はよく判らないのですが、神武天皇と天道根命、仲哀天皇と五十迹手との関係から見ますと、天道根命が先祖となります。

 五十猛神はさらにその祖神ですから、五十猛神と五十迹手とは同じ神と云うよりは五十迹手は末裔と言えるのでしょうが、神とは現在でも神としてあるわけですから、五十猛神は五十迹手として皇后や誉田別皇子を助けたのかもしれません。

 『播磨国風土記』には、「神功皇后が韓国を平定しようとして渡海された時、御船前(先導神)の伊太氏の神(五十猛神のこととされる)がここにいる。」とあり、実際には伊都の県主の五十迹手が五十猛神として先導することは十分考えられます。
 

 九州在住の福嶋さんは魏の国に遣いで行った帥升を素盞嗚尊とされています。帥升は倭の国王として現れますが、この頃の倭とは伊都国王だったかも知れず、その子孫に素盞嗚尊の御子の五十猛神がいるので、五十猛神が五十迹手であったとしてもつじつまはあいそうです。
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835208&tid=bdj0ba1vbcygogja1wldbja4oj88a5a4aba4i2rlc0a4ga4ada4ka1a3&sid=1835208&mid=1&type=date&first=1

[3161] 怡土郡の五十跡手と伊太祁曽神社の五十猛神  郭公 2007/08/08(Wed) 19:32 [Reply]
 いつも拝見し、参考にさせてもらってます。
 さて、ひとつ教えてください。

 伊太祁曽神社の祭神、五十猛神(いたけるのかみ)ですが、筑前国風土記怡土郡の項にある、「怡土の県主等が祖、五十跡手(いとて)」と関係しないでしょうか。

・「高麗(こま)の国の意呂山(おろやま)に、天より降り来し日桙(ひぼこ)の苗裔(すゑ)、五十跡手(いとて)是(これ)なり」

 某掲示板で展開している仮説ではありますが、応神(誉田別)が住吉三神と東進した際、平原の超大型内行花文鏡(伊勢神宮の八咫鏡=天照大神)を奉斎して、瀬戸内から紀ノ川を遡上したと考えていますが、誉田別は宇美か伊都の蚊田の生まれとされています。平原の超大型鏡を奉斎して東進しているのですから、伊都の五十跡手も一枚かんでるんとちゃうかと。
 濱之宮神社、竃山神社、日前国縣宮、伊太祁曽神社もそのルート上にあり、紀ノ川を少し遡ると「伊都」の地名があります。
 そんなわけで、伊太祁曽神社の五十猛神は、『風土記』怡土郡の五十跡手のことではないかとじつはずっと思っていたのですが、語呂合わせふうで、なかなか言いづらいところでもあります。

 率直に言って当否についてどう思われますか?
 ほかにお聞きするところもありませんので、神奈備さんにお聞きしようと思った次第です。
 急ぎません。よろしくお願いします。

[3160] Re:神奈備[8410] アカ族  神奈備 2007/08/07(Tue) 14:01 [Reply]
> アユタヤ王朝を建てた部族のルーツを追ってるんですが。。。
 
 アユタヤ王朝の始祖ラーマーティボーディー一世は小乗仏教の国を築いています。一方ここにはバラモンの思想も入っており、タイはインドとの歴史的関わりが多いようです。さらに、転輪聖王と言う古代インドの理想的な王の思想がアユタヤ王朝にも持ち込まれているようです。

 朝鮮半島の駕洛の金首露に嫁ぎに来た王女はインドの阿踰陀国(アユダ)の姫と言う興味深いお話が残っています。この阿踰陀国の名は三蔵法師の旅物語にも登場する国です。この国はその内インドでは滅ぼされてしまったようです。

 一つの仮説は、インドの阿踰陀国の末裔がインドからタイへ流れてきて仏教寺院などでくすぶっていたのが、突然覚醒した英雄がいて、タイ国でアユタヤ王朝を創業したのかも知れませんね。

[3159] 三種の神器は素盞嗚尊  神奈備 2007/08/06(Mon) 08:47 [Reply]
 上記発想からイメージできることは、唐突なようですが、素盞嗚尊の存在です。

 松前健一著『日本の神々』に、(手元にないのでうろ覚えで書きますが)『日本書紀』の一書(第二)に、「蛭子が生まれた。次ぎに素盞嗚尊が生まれた。この神は性質が悪くて・・・。それで両親が、「お前はたいへん遠い根の国を治めなさい」と言われた。次ぎに鳥磐[木豫]樟船を生み、この船に蛭児を乗せて放流した。」とあります。性質が悪いのは素盞嗚尊のようにされていますが、蛭児のことであって、文章の「次ぎに素盞嗚尊が生まれた。」は蛭児を放流したの後に来るものが間違って現在の場所に来ているのではないかと主張されています。

 素盞嗚尊は根の国に流されるのですが、本来これは蛭児が流されるのです。蛭児とは二つ目の太陽のことです。近辺の国々の多く分布する射日神話の名残があって、日神としての素盞嗚尊は蛭児として流されたのです。

 旧石器時代や縄文時代には漁労・狩猟・栗などの採種が重要な食料確保の方法でした。これらの内特に漁労は、日よりも月の方が影響が大きかったのです。日神より月神が尊ばれたのです。さて、『古事記』では、素盞嗚尊は穀物の神である大気都比売を殺します。『日本書紀』では月読命が穀物の神である保食命を殺すのです。素盞嗚尊は月神と同じような神と見なされており、農業生産には日神が寄り尊ばれたと言うことを示しています。

 素盞嗚尊は新羅のソシモリから出雲へやって来たと神話で語られ、八咫大蛇の尾から天叢雲剣(草薙剣)を取り出し、天照大神に捧げます。素盞嗚尊は新羅系帰化人(今は渡来人と言う)を代表する神であり、剣をもたらした神でもあります。

 三種の神器とはすべて素盞嗚尊の化身と言ってもいいのです。天王とか天皇と呼ばれる神なのです。

[3158] 八坂瓊勾玉  神奈備 2007/08/05(Sun) 17:42 [Reply]
 八坂瓊勾玉を調べていますと、「勾玉の形はインドなどの宝珠と火焔と同じ意味であり、円形の頭部が玉であり、尻尾の部分が玉の霊力の表現。(土橋寛著『日本語に探る古代信仰』から)」という説明に行き当たりました。
 宝珠と火焔は円盤状のものの周囲からコロナのように炎が各方面に出ているようなものです。
 また、ヨーロッパや中央アジアにある三つ巴なども同じ意味としています。

 勾玉は単なる装飾品ではなく、それを身につけることで霊力を付着させ、アップさせる目的があったのでしょう。縄文時代の遮光器土偶の発掘で有名な亀ヶ岡の石器時代の遺跡の中からも勾玉が出土しており、その形と意味がインドや中央アジアから伝わったというよりは、初期に列島にたどり着いた人々の潜在記憶にあったのかも知れません。

 こういうものは日本固有と言ってもいいのかも。
 
亀が岡は以下を参照して下さい。
http://myn.north-tohoku.gr.jp/kodawari/db04-m001-t002.php3

 一方、石器時代や縄文時代には太陽(日神)より、月(神)が漁労航海などをしていた人々の生活により結びついていたと言えるので、勾玉とは月(三日月)の形を模したもので、月神信仰の象徴ではないかとの意見(水野裕著『勾玉』)があり、小生はこちらの意見に興味を覚えました。

 さて、皇統に伝えられて来た三種の神器は、八咫鏡・八尺瓊勾玉・草薙剣と言うことになっています。崇神天皇の時、八咫鏡と草薙剣は御殿の外に出され、伊勢神宮に祀られます。草薙剣は更に日本武尊によって熱田神宮へ運ばれました。八尺瓊勾玉は皇居に留め置かれ、天皇から次の天皇に渡されたのでしょう。

 水野裕著『勾玉』に三種の神器を奉じた集団として次のようなグループを想定しています。

 鏡 天津神系  神別・皇別(大和)
 玉 国津神系  神別(出雲)
 剣 新羅系帰化人 蕃別

 古代の日本民族を形成した三つの民族的要素の統一の象徴だとしています。実に面白い発想だと思います。

[3157] 大人・小人伝説??  神奈備 2007/08/03(Fri) 17:31 [Reply]
『播磨国風土記』の神前の郡のハニ岡の里(ハニは[自口]の下に[土]と言う字)

 ハニ岡というのは、大汝命と小比古尼命とが言い争って「ハニを担いで遠くまで行くのと、糞をしないで遠くまでいくのと、どちらがやり通せるだろうか?」と言って、大汝命は糞をしないで行くことになり、小比古尼命はハニの荷を持って行くことになりました。
 数日過ぎて大汝命は「我慢できない」とその場にしゃがんで糞をした。その時、小比古尼命は同様に苦しいと言って荷を岡に放り投げた。云々・・・

 この話を見ていますと、大人・小人伝説と言えず、同じようなサイズの神々のように見えます。

 糞と埴土の物語は糞尿が肥料になることを奈良時代の人々は知っていたと言えるようです。日本では養豚に糞を利用しなかったので肥料と言う用途を開発したそうですが、大陸では豚の餌に使われたので、肥料にすることは思いつかなかったそうです。

 さて、どちらが良かったのでしょうね。現在のように下水が発達して、単なる廃棄物としているのは、もったいないのかも。

[3156] 無題  わかやま 2007/08/01(Wed) 20:53 [Reply]
大人=大国主命、ダイダラボッチ、弥五郎どん・・・等
小人=少名彦名命、コロボックル、座敷わらし・・・等

大人・小人伝説って日本各地に残っていますね!

[3156] 無題  わかやま 2007/08/01(Wed) 20:53 [Reply]
大人=大国主命、ダイダラボッチ、弥五郎どん・・・等
小人=少名彦名命、コロボックル、座敷わらし・・・等

大人・小人伝説って日本各地に残っていますね!


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