青草掲示板ログ平二十年 九月 2008.9
多に蛍火の光く神、及び蠅声なす邪しき神有り。湯嶽神・菊嶽神の集い。
素人のひらめき、力はないが騒がしくなかなか従わない、一寸の草木にもある五分の魂の発露を!
 青草談話室

[4547] Re[4546][4545][4544][4539][4537][4533][4525][4524][4523][4520][4513][4512][4509]: 渡来人言語問題  大三元 2008/09/30(Tue) 18:19 [Reply]
琉球松さん

くどいけど。。。おっしゃるように「アマミ」という語が相当古くからある(2000年位前?)からあるとすると、その語が「アマベ」からの転訛と考えるのはとても無理だろうと思いますよ。

>  この弥生時代の沖縄の人骨は、山口県土井が浜遺跡人?との混血体と考えられている一部を除き、ほとんどが島人とのことです。

もう少し知りたいところですが、何を見れば良いでしょうか。

>  ところで大三元さん! 「天道日女」のお話、もう少し聞かせてくれませんか。なんか面白そうです。。。

主として「先代旧事本紀」を紐解いて行くことになりますが、そのイントロとして: http://mononobe.nobody.jp/kujihonki/index.htm なんかどうかしら。
また、私のサイトの丹後風土記残欠にも出てきます。
http://www.dai3gen.net/tango.htm

今自分で抱えている問題は:「道(路)」の古語は「ミチ」と「チ」。そこで「ミチ」とは「御チ」らしい、ということ。そうだと、天道日女、とあっても、アマミ・・・とはならずに、アマ・チ・ひめと読むことになりそうだ、ということです。「天御路」(アマ・ミ・チ)と解して、ここから「アマミ」だけを拾うのも気が退ける。

日本(本土側)史と琉球史を遡って行くと合流していたりしていたら、とても面白いのですがねぇ。

[4546] Re[4545][4544][4539][4537][4533][4525][4524][4523][4520][4513][4512][4509]: 渡来人言語問題  琉球松 2008/09/30(Tue) 16:49 [Reply]
 大三元さんへ

 首里王府編纂『おもろさうし』の元歌とされる村々の神歌群には、「もと昔あったように・アマミ世にしたように」とあり、「アマミ世」と同義として「昔ヤマト世」が出てきます。
 「神歌」は琉球王国建国以前からのものですから、その時点での「昔ヤマト世」は、沖縄諸島産ゴホウラ貝が西日本一帯に流通した時代、だいだい2千年前だと考えます。
 この弥生時代の沖縄の人骨は、山口県土井が浜遺跡人?との混血体と考えられている一部を除き、ほとんどが島人とのことです。

 ところで大三元さん! 「天道日女」のお話、もう少し聞かせてくれませんか。なんか面白そうです。。。

[4545] Re[4544][4539][4537][4533][4525][4524][4523][4520][4513][4512][4509]: 渡来人言語問題  大三元 2008/09/30(Tue) 11:59 [Reply]
琉球松さん、

>  <「アマベ」という音が「アマミ」に転訛しうるのは中世以降>とのお考えは多少違和感がありますが、

そうですか。五母音から三母音への変化がこの頃から、というのが一般的なのじゃないかな、と思ってますけど。

言葉としての「アマミ」はそう古いものではないでしょうね。

少なくとも、一部お書きになったように:
斉明紀3年(657年)「海見嶋」(初見)
天武紀11年(682年)「阿麻弥人」
続日本紀和銅7年(714年)「奄美」があり、この程度には古い。
これらが「アマベ」からの転訛、というのは無理だと思います。

>  それと、琉球方言で「アマム・アマン・アーマン」はヤドカリを意味しますが、考古学等からみて「アマミキヨ」は、ほとんど奄美沖縄諸島に定着していないはずですから「宿を借りる者」との認識があったかもしれません。

地方によっては「船虫」などの意味になるようですね。
「考古学等からみて「アマミキヨ」は、ほとんど奄美沖縄諸島に定着していない」というのはどういうことでしょうか。「考古学等からみて」ということは「アマミキヨ」が実在の人物だった、という観点でしょうか。そうでなくとも、なにか「像」みたいなものでもあるのでしょうか。「やどかり」に無理に付会しない方がよかないでしょうか。

>  大三元さんのターゲットは『日本書紀』の「海見嶋」でしょうか?

ここでの「ターゲット」の意味合いが判りませんが、「アマミ」とはいつ頃から云われているのか、ということの資料だと捉えています。


>  「海見嶋」なら「道の島」と呼ばれてきた「奄美」と意味的にも繋がりますね。

これは良いかも。「天道日女」(先代旧事本紀)なんてのとの関わりが出てくるのかも。(「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊、天道日女を妃として、天上に天香語山命を生む」)

[4545] Re[4544][4539][4537][4533][4525][4524][4523][4520][4513][4512][4509]: 渡来人言語問題  大三元 2008/09/30(Tue) 11:59 [Reply]
琉球松さん、

>  <「アマベ」という音が「アマミ」に転訛しうるのは中世以降>とのお考えは多少違和感がありますが、

そうですか。五母音から三母音への変化がこの頃から、というのが一般的なのじゃないかな、と思ってますけど。

言葉としての「アマミ」はそう古いものではないでしょうね。

少なくとも、一部お書きになったように:
斉明紀3年(657年)「海見嶋」(初見)
天武紀11年(682年)「阿麻弥人」
続日本紀和銅7年(714年)「奄美」があり、この程度には古い。
これらが「アマベ」からの転訛、というのは無理だと思います。

>  それと、琉球方言で「アマム・アマン・アーマン」はヤドカリを意味しますが、考古学等からみて「アマミキヨ」は、ほとんど奄美沖縄諸島に定着していないはずですから「宿を借りる者」との認識があったかもしれません。

地方によっては「船虫」などの意味になるようですね。
「考古学等からみて「アマミキヨ」は、ほとんど奄美沖縄諸島に定着していない」というのはどういうことでしょうか。「考古学等からみて」ということは「アマミキヨ」が実在の人物だった、という観点でしょうか。そうでなくとも、なにか「像」みたいなものでもあるのでしょうか。「やどかり」に無理に付会しない方がよかないでしょうか。

>  大三元さんのターゲットは『日本書紀』の「海見嶋」でしょうか?

ここでの「ターゲット」の意味合いが判りませんが、「アマミ」とはいつ頃から云われているのか、ということの資料だと捉えています。


>  「海見嶋」なら「道の島」と呼ばれてきた「奄美」と意味的にも繋がりますね。

これは良いかも。「天道日女」(先代旧事本紀)なんてのとの関わりが出てくるのかも。(「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊、天道日女を妃として、天上に天香語山命を生む」)

[4544] Re[4539][4537][4533][4525][4524][4523][4520][4513][4512][4509]: 渡来人言語問題  琉球松 2008/09/30(Tue) 09:55 [Reply]
大三元さん、ありがとうございます。

 <「アマベ」という音が「アマミ」に転訛しうるのは中世以降>とのお考えは多少違和感がありますが、言葉としての「アマミ」はそう古いものではないでしょうね。

 それと、琉球方言で「アマム・アマン・アーマン」はヤドカリを意味しますが、考古学等からみて「アマミキヨ」は、ほとんど奄美沖縄諸島に定着していないはずですから「宿を借りる者」との認識があったかもしれません。

 大三元さんのターゲットは『日本書紀』の「海見嶋」でしょうか?
 「海見嶋」なら「道の島」と呼ばれてきた「奄美」と意味的にも繋がりますね。

[4543] 天照大神=持統天皇説  ぽんた 2008/09/30(Tue) 02:54 [Reply]
<日本神話>
・最初に天之御中主神が生まれた。
・次に高御産巣日神、神産巣日神が生まれた。この3柱を「造化三神」という。
・次に男女ペアの神々が次々と生まれた。
・イザナギ・イザナミが生まれた。
・アマテラス(皇祖神)、スサノオ、ツクヨミの「三貴子」が生まれた。
・大国主から日本を譲り受け、アマテラスの孫が高天原から九州に降臨した。
*以後、記紀は人の話になるので、今の高天原がどうなっているのか(今も神々が生まれ続けているのか等)不明。

<持統天皇>
・和風諡号は「高天原廣野姫天皇」
・子の草壁皇子は夭折して天皇になっていない。
・孫が即位して文武天皇となった。

●「孫が即位」という不自然さの理由付けとして、持統天皇と藤原不比等が日本神話を創作し、アマテラスの「孫が降臨した」とした。
●天照大神は太陽神であるが、太陽は陽、月は陰であって、太陽神は男神のはずで、女神だと変えたのは、天照大神=持統天皇だから。

以上が「天照大神=持統天皇説」の骨子だと思います。

★PONTA補説(PONTA独自に考えた補説ですが、他にも同じ事を言ってる人がいたら教えて下さい。)

(1)太陽は男、月は女=太陽神は男神、月神は女神

PONTAでは、「当時の考えは、太陽=天皇、月=皇太子だった」としています。
太陽と月の性別は記紀の成立以後に考えられたと思います。ですから、記紀には月神(ツクヨミ)の性別が明記されていないのです。
太陽は天皇であり、天皇が女性(持統天皇)なら、その性は女。記紀でツクヨミ(草壁皇子)がほとんど登場しないのは、草壁皇子(ツクヨミ)が夭折したから。

(2)皇祖神はなぜアマテラスなのか?

・私が天皇なら、「最古の神=最初の神=天之御中主神が皇祖神である」とします。
・「天皇家は万世一系」と言っていますが、実際には跡継ぎがいなくて、越国から五世孫を呼び寄せて天皇(継体天皇)としたこともありました。

持統天皇と藤原不比等は、草壁皇子(夭逝)、あるいは、軽皇子(文武天皇)をなんとか天皇にしようと、他の皇子を排除したようです。このことからは、「今まではいろんな人が天皇になったけれど、これからは、私(持統天皇)の子孫だけを天皇にする」という持統天皇の強い意志を感じます。つまり、持統天皇以後の天皇家を万世一系にしようとしたわけで、持統天皇=天皇の祖=皇祖神・アマテラスというわけです。
天照大神=持統天皇説では、天孫降臨(アマテラスの孫が降臨したこと)が神話創作の最重要ポイントとされますが、もっと広く、天之御中主神は奈良にいたニギハヤヒ、次々と生まれた男女ペアの神々は各天皇、そして、アマテラスの誕生=持統天皇の即位という物語とも考えられます。

[4542] Re[4540][4534]: 邪馬台国論争  多美 2008/09/29(Mon) 23:37 [Reply]

>  この方は全ての学者や論者の上に立って判定を行う閻魔様のような立場に何時から立っているのでしょうか。

素人なので詳しく解りませんが、

「物量作戦」ができるようになってからでしょうか。

業界の後進性、経済的裏付けの欠如、そこを巧みに突いたのが安本さんではないでしょうか。

「邪馬台国の会」に講演会ひとつとっても、会費1500円×240人=360000円で賄える筈もないと思います。
ゲスト講演者の費用も交通費など含めれば最低30万以上必要でしょう。

確かに、安本氏の計数理論は今や陳腐、世界に通用しないと思われますが、それに反論反対する勢力の現出必然性は皆無なんでしょうか。

今のところ、一人勝ち。

スポンサーの存在(?)も大きいのでしょうか。

現場を見下す姿勢は、権威の真似ごと、コンプレックスの裏返しとみるのは、偏見か?

因みに、

森浩一氏は著書中で、今一番掘ってみたいのは箸墓古墳だ。宮内庁が許可してくれるか。と言っています。
先日、文化庁が仁徳天皇陵などを世界遺産に指定を目指すと発表、これに宮内庁がどう対応するのか、また近い将来皇室の世継問題など、時が解決するようにも思われます。

安本氏も時が結論を出してくれるのでしょうか。

そんなに遠くはないのではないでしょうか。

[4541] Re[4532]:  麻生高吉(太郎さんの父親)    多美 2008/09/29(Mon) 22:43 [Reply]
昭和54年11月(大相撲九州場所中、11月4日あの江夏の21球)後半でしょうか、飯塚

駅近くの旅館に一泊したことがありました。

同行人が予約し、一泊二食2,700円、とにかく安い。

風呂は木製、部屋は傾いて翌朝、同宿者4人全員部屋の片隅に。

一番まいったことは、午前4時過ぎまで貨物列車の入れ替え作業か、とてもうるさくて

眠れなかった。

当時、ビジネスホテル料金は3500〜4000シングル、二食付き2700円は・・・・。

[4540] Re[4534]: 邪馬台国論争  神奈備 2008/09/29(Mon) 17:28 [Reply]
> 安本美典氏によると(中略)プロの学者はすべて十両以下である。


 歴代天皇から天照大神まで引っ張って平均在職期間から割り出すと卑弥呼と天照大神とが同じ時代の人(=同一人物)と結論付けています。平均在職期間の計算など統計学をあやつって一見科学的に見えるのですが、『記紀』の天皇の代の数などを神話の時代のまで正しいとしての計算ですが、こちらは眉唾と言いますか、非科学的なお話。

 この方は全ての学者や論者の上に立って判定を行う閻魔様のような立場に何時から立っているのでしょうか。

[4539] Re[4537][4533][4525][4524][4523][4520][4513][4512][4509]: 渡来人言語問題  大三元 2008/09/29(Mon) 17:03 [Reply]
琉球松さん

>  奄美沖縄の創世神「アマミキヨ」は、弥生時代には別の呼び名だったとも考えられ、

これは、そうであるとかないとかが判らない。不明なことに基づいた考えの当否はこれまた不明。

> 「海部」の性格を持っていたからこそ「アマミ」に転訛したんじゃないでしょうか?

少なくとも「アマベ」という音が「アマミ」に転訛しうるのは中世以降、と理解しています。従って「アマミキヨ」などの「アマミ」の語源が「海部(アマベ)」である、というのは時代が合わないのではないかと思います。

>  例えば、沖縄宮古八重山でも盛んな祭り「ミルク(弥勒)」は女性とされていて、アマミキヨの再来との位置ずけができますし、

「アマミキヨ」も弥生時代の誰か(何か)の再来だ、ということのようですが、これも判らないこと。後世の例も参考にはしても、それと同様のことが昔にもあった、とも言えない。

>  伊波普猷や外間守善の説はもちろん、意味的にも「海部」と考えたほうが妥当じゃないでしょうかね。

「部」ってのは皇族とか豪族の「隷属民」のことのようですが、「アマミキヨ」なんかにはもっと精高い聖のように崇めたいのじゃないのでしょうか。よって意味的にも「妥当」とは思えないのですが。

[4538] Re[4537][4533][4525][4524][4523][4520][4513][4512][4509]: 渡来人言語問題  琉球松 2008/09/29(Mon) 14:01 [Reply]
訂正・・・

 <「アマミ」の所見> は <「海部」の所見> に訂正します。

[4537] Re[4533][4525][4524][4523][4520][4513][4512][4509]: 渡来人言語問題  琉球松 2008/09/29(Mon) 13:58 [Reply]
 大三元さんへ

 「アマミ」の所見が雄略天皇の時代でもかまわないと思います。
 奄美沖縄の創世神「アマミキヨ」は、弥生時代には別の呼び名だったとも考えられ、「海部」の性格を持っていたからこそ「アマミ」に転訛したんじゃないでしょうか?

 例えば、沖縄宮古八重山でも盛んな祭り「ミルク(弥勒)」は女性とされていて、アマミキヨの再来との位置ずけができますし、弥生時代にまで遡る可能性が高い「神歌」には「百姓・万人」など新しい言葉に置き換えられたりしています。

 伊波普猷や外間守善の説はもちろん、意味的にも「海部」と考えたほうが妥当じゃないでしょうかね。

[4536] 外間守善先生 と アイヌ語     生田淳一郎 2008/09/29(Mon) 10:35 [Reply]
 大三元さん、やっと(かめ)接点ができました。ただし画面の上下ですが。アハハ。
 小生が約一年まえ、三年半ぶりにインタ・ネットに戻ってきたのは、外間守善先生のホームページを見たいと思ったことと、沖縄のことばをめぐって議論の炎を噴きあげねば……とおもったこと、などの動機からでした。
 でも、どのようにすればいいのかに就いては、まだ最終的な肚ができません。それは外間守善先生がご高齢でいらっしゃるからです。年寄りに、あまり次々と難題を吹きかけたんでは可哀想です。
 外間守善先生は、極言すれば「沖縄語はすべて日本語からの借用だ」、「ただワー(豚)だけはその埒外である」との方針のようです。
 そこで小生は「えいのマンタは英語にもあるが……」だけを質問しています。が、ここ一年、お返事は頂いていません。
 
 すでにお気付きかと思いますが、大三元さんに、インドネシア語とタガログ語にみられる次の語彙を捧げたいです。
 buntu(閉ざされた、塞がれた)、kecil(若い)、kota(都市、町)、minum(飲む)、tali(紐)、tempap(手の巾)、terpa(飛びつく)、tikam(突くこと、刺す)、tiris(滴る)、tua(古くなった)、tunas(芽、若枝)、turun(降る、下る)……インドネシア語。
 以下はタガログ語
 apoy(火)、aso , oso(犬、熊)、burol(丘)、kibo(行動・うごき)、kilala(知り合い)、kinang(光輝)、halaman(植物)、huni(音……さえずり)、ikiskis(擦る)、inom(飲む)、lasa(味)、pula(赤)、putok(爆発)、puwit(肛門)、sama(同伴する)。

★ 「若いとき(学生時代?)に言語学畑にいなかった人は、言語学者ではない」みたいな偏見が言語学者のあいだに、根強くあるようです。
 そういう観点から、国文学畑出の大野晋教授は、タミル語“起源”説を出したあと、あわや袋たたきにされそうになりました。
★ 安本美典先生は心理学畑の方でしたか。

 いちばん喜ぶのは神奈備どんかな?

[4535] Re[4531][4530]: う ち の 宿 六  かっぽれ 2008/09/29(Mon) 08:15 [Reply]
生田さんが挙げたsewaのように、インドネシア語の中には大量にサンスクリット語彙が流入しています。
サンスクリットだけでなく、アラビア語や英語、日本語からも借用しているので注意したほうがいいですね。
ネット上にちょうど見やすいデータベースがあったのでリンクを貼っておきます。
「インドネシア語の中のサンスクリット借用語(英文)」
http://seasrc.th.net/indic/sktbyin.htm

> >あ、この sewa(世話)は日本語とインドネシア語(貸借、家賃など)にありますが、ST にはないものと想われます。 わずか 3500 年前にポッと出現したような言語なんざは、同列に置いて語れないんであります。
>
>
> 実は’sewa’も、サンスクリットやパーリ語にあります。サンスクリットseva, sevana パーリ語seva, sevati(動詞)

[4534] 邪馬台国論争  多美 2008/09/28(Sun) 23:30 [Reply]
安本美典氏によると

「論理と方法の問題がしっかりしていないため、もう正しさでは勝負は決まらず、悪乗りした方にかならず軍配が上がり、今のところ、その番付けは、

古田武彦先生が横綱
松本清張先生が大関
原田大六先生が関脇
宮崎康平先生が小結

というようになり、プロの学者はすべて十両以下である。

というようなマスコミ批判をしている。

安本氏は、30年以上前、原田大六氏宅をアポなし訪問をしたらしい。
つまり、この訪問が原田氏評価となったらい。


松本清張は小説家、学者と同一視するのはどだい無理、安本氏のジレンマなんでしょうか。

[4533] Re[4525][4524][4523][4520][4513][4512][4509]: 渡来人言語問題  大三元 2008/09/28(Sun) 21:34 [Reply]
琉球松さん
>  「アマミ」は本土のどこからかもたらされたと考えています。

伊波さんや外間さんのお考えでもそのようですね。
しかし、私の考えでは「アマミ」の起源が「海部」である、というお二人の説には疑問があります。下記にこれまでの勉強結果をあげておきました。ご参考まで。
http://www.dai3gen.net/amami3.htm

[4532]  麻生高吉(太郎さんの父親)    生田淳一郎 2008/09/27(Sat) 15:47 [Reply]
神奈備どん、4530 (下の下)も削除アマカネ。

 50年ほどまえ、飯塚市の南……おらが町の稲築高校体育館で、立候補の立ち会い演説会があったんです。
 稲築町は当時 人口 55000人。そのへんの市よりも人口だけは多かったんです。
 
 麻生高吉さんが演壇に立ち「え〜、私がご紹介に預かりました浅生高吉です」と言ったとたんに間のぬけた声でヤジが入った。「あほう、ばかきち、か」と。
 これには会場が爆笑に包まれ、麻生高吉の名が一挙に有名になって、選炭場の女や掘進・採炭夫の間にへんな話題を提供した。

 地の底で働く男たちです。ゼニ持ちには心底から軽蔑の念を固めています。
 それでも筑豊堅気は、ばかが好きなんです。
 とうとう当選してしもた。
 「あほう、ばかきちか」とヤジったやつこそ、オレの親友、エットクソです。
 けなしてやろうと思ってヤジったのが、裏目に出たんです。

 おれもばかになれる神経の涵養に励んだことがあります。やっぱ、川筋のバカ
やったらしい。
 ばかとは真面目な話ができない……は、古今東西の鉄則なんだなぁ。
 
 おれにヤジらせたら「あほう、ばか、きちがい」ぐらいなことは言っていただろう。

[4531] Re[4530]: う ち の 宿 六  かっぽれ 2008/09/26(Fri) 17:19 [Reply]
>「ろく」はあんがい簡単です。「ろくでもねぇやつ」とか「ろくでなし」という語があります。こういう語が慣用されてくると「ろく=人」という考え方が定着するでしょう。しかし、じつはこの「ろく」は、この世とか地上世界というネパール語だったのです。

そうですか、確かにネパール語にもlokはありますが。
その語源を見てみましょう。大学書林の三枝礼子編「ネパール語辞典」から少し引用するので参考に。
【lok】
1) 宇宙に存在するあらゆる物の何らかの区分、〜界。  (2) 世界  (3) 人民、人々 (4) 人間社会、世の中、世間
5) プラーナに記されている天上、地上、および地底の三つの場所。
6) プラーナに記されている地球よりも上の7界と地底の7界の計14界。

このようにヒンドゥー聖典の「プラーナ」に用いられている語彙ですから、もとはサンスクリットです。
ネパールはヒンドゥー教の国。宗教用語が一般的に使われていても不思議はないでしょう。

>ネパール語 lok(この世、地上)があります。lok sewa は「助けあげること」です。
>あ、この sewa(世話)は日本語とインドネシア語(貸借、家賃など)にありますが、ST にはないものと想われます。 わずか 3500 年前にポッと出現したような言語なんざは、同列に置いて語れないんであります。


実は’sewa’も、サンスクリットやパーリ語にあります。サンスクリットseva, sevana パーリ語seva, sevati(動詞)

[4530]  う ち の 宿 六        生田淳一郎 2008/09/25(Thu) 18:50 [Reply]
嬶ァがじぶんの亭主を少しけなして言う蔑称の一つに「うちの宿六」があります。
 明治期には隠語で亭主や男をロクといっていたそうですが、それがなぜそうなったかを、詮索したいのです。

 まず「やど」をみましょう。宿とは、その機能からいって「眠る・ do(処)」でしょう。そうすると ya に眠るという意味を確定させねばなりませんが、これは無理のようです。そこで「屋根がある・do(処)」、「や(夜)の do(処)」、「宿る」などをもって来ても快刀乱麻の結論は出ないようです。
 そこで小生は √ i ○○V の造語則を応用して、i -adho を提案します。 adho はネパール語で「めくら」ですが、遮光器土偶にみるように、これは神様で、めくら神と理解したいところです。「めくら神・する」が宿だと、提案します。
 i-adho が 「いえぞ」と発音された( 16世紀、フロイスの記述に遺っています)のが「蝦夷」で、「いあど」と発音されたのが宿になったのだと想うんです。

 「ろく」はあんがい簡単です。「ろくでもねぇやつ」とか「ろくでなし」という語があります。こういう語が慣用されてくると「ろく=人」という考え方が定着するでしょう。しかし、じつはこの「ろく」は、この世とか地上世界というネパール語だったのです。
 ネパール語では r と l の区別はそんなには厳格ではありません。この点、まさに「東洋と西洋の中間にある言語」として貫禄じゅうぶんといったところです。
 ネパール語 lok(この世、地上)があります。lok sewa は「助けあげること」です。

 あ、この sewa(世話)は日本語とインドネシア語(貸借、家賃など)にありますが、ST にはないものと想われます。 わずか 3500 年前にポッと出現したような言語なんざは、同列に置いて語れないんであります。

 サラセッセ、わ〜るいんだが、オレ、お釜堀りにストーカーされちょる。
 やつが来たら、すぐに、ここを削除がたアマカネ。それにしても世の中いろいろだぁな。
 ・ー・・・、ーーー、・・ーー、ー・ーー、ー・・ー・、・ー・・・、ー・・ー、・・・ー、ーーー・、ー・、・・、・・・、……、ー・ーー。オモシレェちゃこーゆーこっちゃねぇぞ。 どっからか、ゼニ貰ってんじゃねぇか? あんがい、あり得るんだナァ〜、それがぁ。いづれにせよ、ここまで△ツ掘られたんじゃ人権侵害である。50年前の“レプチャ語”はヤラセだったと、オレ惟ふよ。

[4529] 三島大社の方向  素人 2008/09/25(Thu) 00:57 [Reply]
 三宅島と三島大社の関係を考えたいたら、伊豆三(いずみ)島=泉島で泉の島でないかという地名起源の本に感化されて、火と泉の関係ではないかと夢想して調べると三島は富士山の湧水で有名、富士山・箱根と言う活火山も有近くに有り三宅島も同じではないかと調べて見ました。泉も古澪マール(大路池)や隣に同じぐらいの水溜りマールが有り、古い時代には三宅高校のある水溜りマールも池であったと思われます。
二つの爆裂火口でできた稜線の延長線に雄山山頂がありツル根岬に伸びています。
ツル根岬には弥生遺跡が発見されているようです。
方位は真北から西にややずれた角度で、三島大社の参道も同じような角度です?
驚いたことに、鳥居を入ると神池が有り左右に2個の池があるようです。
ツル根岬から西に行ったところに伊豆三島神社の故地とされる冨賀神社が海岸の亀のような小山の上にあります。
大路池は椎の原生林に囲まれた火山島の中のオアシスのようなところのようです。
三宅島の地形Web
http://www.tokyo-jma.go.jp/home/miyakejima/chikei.htm
とんでも青草でした。
これとの関係で白浜神社の裏の磯のご神体の謂れが知りたいわけです。
再度ご指導くださるようお願いいたします。

[4528] Re[4527][4518][4517][4504][4499][4498][4495][4493]: 歳差と太陽位置  佐々木 2008/09/24(Wed) 09:19 [Reply]
> 航空写真そのものの誤差は素人レベルの処理では無視できると思っていますが、目標物の中心点などその位置の判読があいまい。
> なお、うんと古い航空写真ではレンズの樽型歪みがあるとみえ、写真の周辺部では要注意。

 よく勉強されていますね。だから航空写真は、現物を買って頂ければわかりますが、写真の隅にレンズの歪度、レンズの傾斜などが出ています。
 大縮尺の空中写真は周辺の歪度がかなりあります。大縮尺(2500分の1または500分の1)の地図は、市役所のホームページから入手できつつあり、それの方が便利かもしれません。
 それを実体視できるように図化機に設置して地図を書いているのです。
 ぜひ「平安京プロジェクト」のホームページも見てください。何か間違いあればご指南して下さい。

[4527] Re[4518][4517][4504][4499][4498][4495][4493]: 歳差と太陽位置  かたばみ [Url] 2008/09/23(Tue) 23:18 [Reply]
>平安京の傾きは実測では西約22分、長岡京は西約7分

どの部分で測定するか、もありそうですね。
平安京などでは「建築主の意識」が反映されるであろう大極殿と朱雀門を結ぶ線を方位としてよかろうと思っています。

航空写真そのものの誤差は素人レベルの処理では無視できると思っていますが、目標物の中心点などその位置の判読があいまい。
なお、うんと古い航空写真ではレンズの樽型歪みがあるとみえ、写真の周辺部では要注意。

[4526] Re[4522][4517][4504][4499][4498][4495][4493]: 歳差と太陽位置  かたばみ [Url] 2008/09/23(Tue) 22:10 [Reply]
くずさん、謝々
以下を書き終わってから読みました。どうやら正解にたどりついたようです(^^)

秋分の日につき再び歳差と太陽について。
数学苦手、角度はもっと苦手だけれど、なんとなくわかってきたかも。

これまでの認識の絵(前出)
http://woodsorrel.cool.ne.jp/data/shinhoku/saisa.png
公転面(黄道)は恒星系に対して不変、味噌すり運動(歳差)の軸も恒星系に対して不変。
ならば、太陽の周りを公転する自転軸の角度は(夏至や冬至で)太陽に対して変化する・・のではないか。

恒星系に対して、太陽と地球の関係である夏至や冬至の位置を不変としていた・・これがアホである(^^;
恒星系に対して、太陽と地球の関係である夏至や冬至の位置は公転軌道上をずれてゆく。
夏至や冬至は「自転軸が太陽にむかって最大に傾いている状態」の時であって、公転周期(太陽暦の1年)や恒星系とは無関係。


現在の天空(冬至)
http://woodsorrel.cool.ne.jp/data/shinhoku/AD2008.png
味噌すり運動の仮想上の軸はりゅう座のNGC6543キャッツアイ星雲にあって不変(黄道の軸でもある)。

味噌すり運動=歳差は約25800年の周期、地軸のぶれの角度の最大はその半分の12900年で生じる。
現在から±12900年のとき、恒星の最大のぶれは約23.4度×2=46.8度、以後12900年で再び現在位置に戻ってくる。
円周上のこのぶれによって恒星が地表(真北など)に対してどうみえるか、数学に弱い私としては当面置いておきます(^^;

2000年前の天空(冬至)
http://woodsorrel.cool.ne.jp/data/shinhoku/AD1.png
先の天空とは同じ冬至でも太陽の背景の恒星が違います(すなわち現在とは違う公転面上の位置で冬至になっているから)。
さて、なんとなくわかってきたかなあ。


[4525] Re[4524][4523][4520][4513][4512][4509]: 渡来人言語問題  琉球松 2008/09/23(Tue) 12:23 [Reply]
 大三元さんへ

 いつもありがとうございます。参考にしたいと思います。
 「アマミ」は本土のどこからかもたらされたと考えています。またご意見を伺うことがあるかもしれませんので、よろしくお願いします。

[4524] Re[4523][4520][4513][4512][4509]: 渡来人言語問題  大三元 2008/09/23(Tue) 10:20 [Reply]
> 「アマビ」が「アマベ」になれるか、これは今 例が思いつかない。

「木」を意味する場合の「キ(乙)」だと「ケ(乙)」「コ(乙)」に転化する例があります。しかし、アマミの「ミ」は甲類の「ミ」であり、アマベの「ベ」も甲類であり、「木」の事例を応用できない。。。というところまで検討しました。

[4523] Re[4520][4513][4512][4509]: 渡来人言語問題  大三元 2008/09/23(Tue) 09:30 [Reply]
>  「ミ」が「べ」の転訛であるとすれば、「アマミ」の語源は「アマベ(海部)」との証明になるでしょうか?

マ行音とバ行音は交代する事例がありますから(例:「トメ」「トベ」)、「アマミ」が「アマビ」になることは「あり得ます」が、必ずそうなるとは言えない;つまり「証明」にはなるまいが、「説明」〜「傍証」にはなるだろうと思います。次いで、「アマビ」が「アマベ」になれるか、これは今 例が思いつかない。

日本語の音韻・子音体系で p・b・m が両唇音として共通の発音点を持つことから転化するのでしょう。
同様な事象は「タナラ相通」などと云われるようにt・d・n・rの間での音の交代があることがあります。参照:

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E#.E5.AD.90.E9.9F.B3.E4.BD.93.E7.B3.BB


[4522] Re[4517][4504][4499][4498][4495][4493]: 歳差と太陽位置  くず 2008/09/23(Tue) 08:39 [Reply]
> 味噌すり運動そのものの角度はどのくらいなのでしょう?
> 味噌すり運動の周期が2万6千年ならその角度の変化は周期の半分の1万3千年で生じるはず。
> それが真北にみえる恒星のずれの最大値になると思うのですが。

みそすり運動そのものの角度は地軸の傾き角の倍です。
傾き角23.4度ならば、23.4度+23.4度で、"真北位置の恒星のずれ"の最大値は46.8度。

約1万3千年前、公転面上では、現在とは正反対の位置で、夏至(冬至、春秋分)を向えていたことになります。

> 公転面が天球の恒星との関係を不変としているなら、同じずれは公転面に対しても生じる。

これは正ですね。天の北極がずれると天の赤道(にあたる恒星)もずれます。

> ただし、地球は黄道(公転面)を回転しているので太陽との関係はちとやっかい。
> 歳差のブレの位置(みそすり運動の周期の位置)によって、太陽との関係が異なる。

本来太陽との位置関係が最もシンプルなのですね。
歳差というのが読んで字の如く、地球の公転周期(1太陽年)と、春分点から次の春分点に至る周期(1回帰年)の"差"の事で、
この差を引き起こしているのが歳差運動です。

太陽観測を正確に行って暦を作成すれば、1回帰年を基準とした(つまり歳差を考慮した)カレンダーが自然に出来上がります。
より正確なカレンダーを求めて恒星を基準としようとすれば・・かえってこんがらがるのでしょうね。

掲載して頂いた絵で言えば、赤の天の赤道ラインが、黄道に対して23.4度を保持したまま、
2万6千年かけてぐるりと一周します。
(当然ながら、春秋分、夏至、冬至もぐるりと一周します。)

[4521] 伊豆、白浜神社の御神体  素人 2008/09/23(Tue) 02:35 [Reply]
関係ない内容で突然、済みません。
前から興味のある伊豆でご指導お願いいたします。
あるホームページには「白浜神社の御神体はこの神社の建っている場所の地下にある海食洞です。」と有り、火山を神様にしてきた火山島の神様と、どの様に繋がるのかご指導ください。
海食洞の正確な出口の位置など解りましたらご指導ください。
*海食洞写真
写真をよく見ますと奥のほうから明かりが射し込んでいるようにもみえます。
http://www6.ocn.ne.jp/~ikona/g104.jpg
白浜神社の自然Web。
http://www6.ocn.ne.jp/~ikona/newpage17.htm
*大明神岩または御神釜(おみかま)
祭礼の写真(海からの水路が奥で広がっているように見える。鳥居は三宅島に向かって建っていると書いてあるものもある。鳥居が立っている岩を大明神岩と言うらしい。)
http://izu-sakuraya.jp/photograph/photoofshirahama/shirahama19/051031jinja002.jpg
白浜写真Web
http://izu-sakuraya.jp/photograph/photoofshirahama/bigsize01.htm
同じ場所を御神釜(おみかま)と紹介しているWebもあります。
御神釜(おみかま)の朝日
http://www.izu.co.jp/~toshima/kankou.htm
御神釜(おみかま)(おみかま)・・・白浜神社の裏手
http://05152007.at.webry.info/200806/article_9.html
写真の注連縄の部分が、侵食される前はアーチ状に繋がっていて海との仕切りとなっていたかもしれません。夢想ですが仕切られた区域が御神釜(おみかま)などと空想してしまいます。(御神釜が奥に別に有ったら済みません。)
御神釜(おみかま)・鳥居が立っている岩を大明神岩と言うらしいのですが海食洞を含めてどういうご関係かご指導いただけないでしょうか。
青草失礼しました。

[4520] Re[4513][4512][4509]: 渡来人言語問題  琉球松 2008/09/22(Mon) 17:47 [Reply]
 大三元さん、お久しぶりです。
 話題とはちょっとズレますが、ご意見を聞かせて下さい。

 本土方言?の「タミ(民)」の語源は「タベ(田部)」とする説があります。
 「ミ」が「べ」の転訛であるとすれば、「アマミ」の語源は「アマベ(海部)」との証明になるでしょうか?

[4519] 丹後  とみた 2008/09/22(Mon) 11:14 [Reply]
神奈備さんや佐々木さんから竹野神社についてヒントをいただいて、丹後をめぐりました。次のような感じで見はじめています。籠神社の宮司さんにもご指導をいただきました。

籠神社の国宝の海部氏系図で、宮司さんが仰っていました話の肝=キーはね。火明は13の別名=呼び方がある。オオナムチが6つの別名があると同様。

基本は、火明命とニニギが兄弟で、火明命はニギハヤヒと同じでもある。

火明命は天道日女命を娶り天香語山命(天香具山命)を生み、天香語命の息子が天村雲。これが鍵ですねえ。

天村雲と伊加里姫との間に産れたのが、倭宿禰と出石姫。伊加里は吉野の水銀朱を掘る女酋の井光でしょう。当麻の倭直系の長尾神社の祭神が井光。鉄鍛冶の倭宿禰・倭直と水銀の井光が見事結ばれる。

天日矛の落ち着く但馬出石神社の宮司が長尾市でこれは鉄鍛冶でしょうね。

倭宿禰は鉄鍛冶を生業に丹後で生まれ、大和に入り吉野の白雲別神の女の豊水富命(これは水銀朱の神)と結ばれ笠水彦命が産れるのですね。これが舞鶴にいる。ここが笠水。

舞鶴は、丹後の加佐郡。丹後は丹波から713年に分けられたところ、丹波は田庭から出たなら稲田か鉄田か。丹とあるから水銀朱かもしれない。丹は不老長寿の丹薬で徐福の話が丹後にはあるし、浦島太郎の神仙譚もあるし神仙になるときの捨てる沓や冠の名のついた島が舞鶴の北の海に浮かんでいる。

倭直の元祖は椎根津彦、珍彦で宇豆彦でもあるようで、神武天皇を海道で導いた時、亀に乗ってくるので道教や神仙を感じますね。丹後の筒川の日置郷の浦島太郎を想像もできます。浦島太郎は日下部の先祖でもあります。

丹後は徐福、天女の里、まさしく神仙や道教です。吉野も道教の本場です。

斉明や天武の離宮は道教のものでしょう。

丹で結ばれた丹後と吉野。倭宿禰と伊加里姫。道教の翳。





[4518] Re[4517][4504][4499][4498][4495][4493]: 歳差と太陽位置  佐々木 2008/09/22(Mon) 10:24 [Reply]
 かたばみさん

 歳差とは、地球の(自転)軸が、地球が公転するときに、天球上で26000年間かけて大きな円を描くことなので、ある地点での真北の方向の変化は出ないのではないでしょうか。

★ちなみに平安京の傾きは実測では西約22分、長岡京は西約7分、恭仁京は西1度(60分)、平城京も西約22分程度ですが、奈良文化財研究所曰く平城京は場所によってかなり違うようです。

[4517] Re[4504][4499][4498][4495][4493]: 歳差と太陽位置  かたばみ [Url] 2008/09/22(Mon) 09:37 [Reply]
>歳差運動というのは、公転面に対する、この傾き(23.4度)の首振り運動(約2万6千年周期)なので、基本的に23.4度は保持されたままです

私の認識を絵にしてみました。
http://woodsorrel.cool.ne.jp/data/shinhoku/saisa.png

味噌すり運動そのものの角度はどのくらいなのでしょう?
味噌すり運動の周期が2万6千年ならその角度の変化は周期の半分の1万3千年で生じるはず。
それが真北にみえる恒星のずれの最大値になると思うのですが。
(概略で2000年前の真北位置の恒星のずれは約12度あたりとみえる)

公転面が天球の恒星との関係を不変としているなら、同じずれは公転面に対しても生じる。
ただし、地球は黄道(公転面)を回転しているので太陽との関係はちとやっかい。
歳差のブレの位置(みそすり運動の周期の位置)によって、太陽との関係が異なる。

味噌すり運動が太陽と平行に近い位置で移動している「年代」では、夏至あるいは冬至での太陽高度の変化は少ない。
味噌すり運動が太陽に向かう(離れる)位置を移動している「年代」では、夏至あるいは冬至での太陽高度の変化が大きい。

春分と秋分での日の出は自転軸が、夏至ないし冬至での、太陽方向と異なる。
これは置いておきます。

歳差の変化によって太陽の高度あるいは太陽の昇る、あるいは沈む位置が、真北にみえる恒星の位置がずれるのとは違うずれ方で変化するはず。
今は変化量の少ない時代??

[4516] Re[4506][4504][4499][4498][4495][4493]: 出雲大社の向きについて  かたばみ [Url] 2008/09/22(Mon) 09:13 [Reply]
東京は大雨、ここのところずぶぬればかり。

さて方位修正した画像と若干の自己流解釈ですが、今度は大丈夫かなあ(^^;
水色は真北、青は磁北です。

平城京707〜784
元明707-714 元正715-723 聖武724-748 孝謙749-757 淳仁758-763 称徳764-769 光仁770-780 桓武781-805
http://woodsorrel.cool.ne.jp/data/shinhoku/heijou71.jpg
真北とみてよいと思います。
天皇が「ある思想」を持つならその思想が現れるはずです(元明、元正、光仁、桓武は倭根子の尊称を冠する)。
周辺の古墳は真北ではなくぶれが大きいがほぼ同じ方位、ヒシアゲ(磐之媛命とされる)のみ他と異なる方位。

平安京794 桓武781-805 平城806-809 嵯峨809-822 淳和823-832 仁明天皇833-850 ・・・
http://woodsorrel.cool.ne.jp/data/shinhoku/heiann70.jpg
真北に対して1.3度ほどのずれ。計画都市でこの誤差は考えにくい。
遷都の理由(平城京〜長岡京〜)に伴う陰陽道的意味からわざと真北をはずした・・ありえるかもしれない。

法隆寺 創建年代謎なれど最古で607、焼失再建で670か
欽明539-571 敏達572-584 用明585-586 崇峻587-591 推古592-628 舒明629-641 皇極642-644 孝徳645-654 斉明655-660 天智661-670 弘文671-672 天武673-685 持統686-696
http://woodsorrel.cool.ne.jp/data/shinhoku/houryuji70.jpg
真北とのずれは約4.8度。
天皇系譜が錯綜する時代、「真北系」ではない天皇系譜による磁北使用か??

東大寺 創建は747頃 聖武724-748 現在の大仏殿は1709再建
http://woodsorrel.cool.ne.jp/data/shinhoku/toudaiji70.jpg
大仏殿は真北、創建時の方位を継承しているなら、平城京と同じ方位で妥当なところか。

伊勢神宮 創建不明なれど平安中期〜末期か
http://woodsorrel.cool.ne.jp/data/shinhoku/ise65.jpg
真北とみてよいと思います。

出雲大社 創建不明 現存建物は1744造営
http://woodsorrel.cool.ne.jp/data/shinhoku/izumotaisya70.jpg
現存建物での方位で真北から4度ほどのずれ。意味のある方位とは考えにくい。
ある年代での磁北による再建を継承しているのか?
出土した巨柱の方位は未検証です。

神魂神社 創建不明、現存社殿は1583とされるが不明
http://woodsorrel.cool.ne.jp/data/shinhoku/kamosu73.jpg
写真が小さくあいまいですが、真北の東西軸に近似ですがずれは小さくなさそう。

出雲熊野大社 現社殿の建築年不明
http://woodsorrel.cool.ne.jp/data/shinhoku/kumano73.jpg
ぴたり冬至の日の出の方向です。

大神神社 現社殿(拝殿)は1664再建
http://woodsorrel.cool.ne.jp/data/shinhoku/oomiwa70.jpg
拝殿は真北で拝殿方向は真東と思われますが、真東にはなにもない。
しかし、奥社(三輪山山頂)との関係を見ると、奥社から見て冬至の日没方向に社地があります。

http://woodsorrel.cool.ne.jp/data/shinhoku/oomiwa24.jpg
山頂奥社の位置がややあいまいですが、地図と整合させています。
奥社からみて冬至を求めるための基点が社地にあった可能性あり。

大山祇神神社 現社殿(拝殿)の建築年不明
http://woodsorrel.cool.ne.jp/data/shinhoku/ooyamatumi70.jpg
冬至の方向ともいいにくく、背後の山頂にも無関係にみえます。
冬至ライン(黄色)ともややずれており、集落の方向あるいは海岸になんらかの要衝があったとみるべきか。

池上曽根BC54 まだ高速道路がない時代の航空写真です。
http://woodsorrel.cool.ne.jp/data/shinhoku/ikegamisone65.jpg
列柱は水色線の交点です。
写真中の右図は発掘図面(インターネット上のデータ)、黄色は列柱、発掘図面の北を真北に合わせて合成しています。
隣接農道?境界とも重なるので大きな狂いはないと思うけど・・真北とのずれは約3.8度。
真北とのずれにしてはちょい大きい、といって磁石を使う時代とも考えにくいところ。

[4515] Re[4513][4512][4509]: 渡来人言語問題  多美 2008/09/22(Mon) 07:42 [Reply]
大三元さん

大変ありがとうございます。

小生、国語と英語が苦手。

読書は好きなんですが、以前、梅原猛「隠された十字架」を読み推理小説的感動しましたが、「水底の歌」は万葉集を知らないので、梅原猛氏の斎藤茂吉批判ばかり気になり、梅原氏(京大)は「東大・文化勲章」嫌い、と。(「隠された十字架」では、和辻哲郎批判(東大・文化勲章)をやってましたが。)

古代朝鮮語サイトを見ました。
とても難しい(字句確認など)ですが、主旨は理解できました。

[4514] Re[4512][4509]: 渡来人言語問題  多美 2008/09/22(Mon) 07:23 [Reply]

神奈備さん


>  乙巳の変(大化の改新の引き金となった蘇我入鹿暗殺の事件)の際、古人大兄皇子が「韓人が鞍作臣を殺した。」と叫んでいます。鞍人は入鹿のことで、韓人は首謀者の中大兄皇子(後の天智天皇)を指しているようですから、渡来人とする説もあながち荒唐無稽とは思われません。さらに、百済救援に多くの兵を差し向けて、ものの見事に負け戦になっています。百済へのいれこみが度が過ぎているように感じます。
>  

NHKスペシャル「大化の改新・隠された真相」(2007・2・2放送)、録画し数回観ました。以前から興味ある番組(NHKスペシャル)を録画保存し、時折観返していますが、急遽?古代史に突入し本番組はとても参考になりました。
{それまで、日本書紀など手にしたこともありませんでした(古事記は文庫本などチョット)が、「日本書紀」岩波文庫全五巻と「日本書紀」全現代語訳講談社学術文庫上下を購入勉強しています。}

確かに記紀に、古人大兄が「韓人・・・・云々」と、ありますが、紀注釈にあるように捏造作り話かと思いました。

また、番組での主テーマの一つ、日本書紀の巻24の改竄やその他巻にも潤色があると(森博達氏)に納得。

天孫降臨とは渡来人物語と思いますので、天智天皇も元渡来人と理解していました。

しかし、いくらなんでも、ダイレクト説には????でした。

現在、小生古墳時代あたりまでをウロウロしている最中ですので、いずれ天智・天武に突入したいと思います。

因みに、
神社の起源?も忘れてないのですが、ああ〜忙しい!

[4513] Re[4512][4509]: 渡来人言語問題  大三元 2008/09/21(Sun) 20:54 [Reply]
多美さん こんにちは。「古代朝鮮語」などに関しては、下記サイトに要領よくまとめてあると思います。一部引用します。
http://www.tufs.ac.jp/ts/personal/choes/bibimbab/siru/intiki.html

「日本語は古事記や万葉集など古代の言語の記録が残っており、古代語の姿をはっきりと知ることができるが、朝鮮語の場合は言語の姿をはっきりと知ることのできるハングル文献が15世紀までしかさかのぼれず、それ以前の言語に関しては漢字表記された極めて断片的な資料しか残っていない。」

神奈備さんも書かれたようにバイリンガルであった可能性は個人の能力の問題であり得ることだと思います。
「古墳時代以降でも日本語と朝鮮語とが似通っていて、大半の人々は意志が通じたのでしょう」に関しては上記引用などにあるように「古代朝鮮語」が判っていないことに照らして無理があると思っています。あとの可能性としては、日朝ともに漢文の筆談は十分に通じたと思います。

[4512] Re[4509]: 渡来人言語問題  神奈備 2008/09/21(Sun) 15:00 [Reply]
多美さん こんにちは。

> 古代史には、よく倭国ヤマトの王天皇など渡来人(この場合朝鮮半島)だという説が頻繁に登場しますが、もしそうだとすれば、言葉の問題はどのようなに考えたらいいのでしょうか。

 古代日本語の中に古代朝鮮語が潜んでいるし、その逆もまた真とされるのが、九州在住の福嶋雅彦さんの立場で、対馬海峡を挟んだ地域は一衣帯水の地域で、お互いに別の国だとの認識はなかったのでしょう。

 いつの時代でしたか、忘れたのですが、半島から来た人をすぐに文部大臣か大学の学長クラスに任命している例があります。この方はバイリンガルだったと見るのか、古墳時代以降でも日本語と朝鮮語とが似通っていて、大半の人々は意志が通じたのでしょう。


> 天智天皇は渡来人とする説がありますが、荒唐無稽と思いますが。荒唐無稽でないとすれば、その根拠の納得できる説明は?

 乙巳の変(大化の改新の引き金となった蘇我入鹿暗殺の事件)の際、古人大兄皇子が「韓人が鞍作臣を殺した。」と叫んでいます。鞍人は入鹿のことで、韓人は首謀者の中大兄皇子(後の天智天皇)を指しているようですから、渡来人とする説もあながち荒唐無稽とは思われません。さらに、百済救援に多くの兵を差し向けて、ものの見事に負け戦になっています。百済へのいれこみが度が過ぎているように感じます。
 

[4511] Re[4510][4508]: 出雲大社の向きについて  佐々木 2008/09/21(Sun) 10:13 [Reply]
>  動かない星が無い場合でも、北極点の回りを回転する星々は必ずあるので、観測によって南北線を確定できます。晴天の夜なら一晩で可能です。

 小生の説明不足でした。上記の方法は、紀元前中国の『周髀算経』に出てきます。日本ではかなり遅れて『令義解』で確認できます。
 これから考えると日本では9世紀以降は、確実に上記方法によって方位を決定した可能性があると思いますが、それ以前に持ち込んでいる可能性もあるのでしょう。
 持ち込んだとすれば「日置氏」なのでしょうか。それは残存小字地名と丹後風土記の記述が、今のところ資料でしょうか。
 失礼しました。

[4510] Re[4508]: 出雲大社の向きについて  神奈備 2008/09/21(Sun) 08:32 [Reply]
>  天の北極に恒星が、日本ではおおよそAD0以前〜800年ごろの間には見えないそうです。
>  ゆえに星による真北の再現は困難→日時計による決定しかない。
>  
>  高度な天文知識のある技術者の存在がうかがえる。これが「日置氏」なのでしょう。

http://www.cam.hi-ho.ne.jp/mjkawai/clinic/2003/mar.htm
江戸時代の大阪に、日本海の北回り航路で蝦夷地へ昆布やにしんの買い付けに通っていた桑名屋徳蔵という千石船の親方がありました。徳蔵はいつも子の星(ねのほし)つまり北極星を頼りに船を北へ進めていたわけです。ある夜留守を預かる徳蔵の妻は、機織りをしながら時々夫の身の上を思っては北の窓の子の星を見上げました。すると子の星が窓の格子に隠れて見えない時があり、子の星は動くのではないかと疑いを持ちました。そこで今度は眠らないように水をはったたらいの中にすわって一晩中子の星を観察して、間違いなく動くことを確かめたといわれています。北極星もまた天の北極そのものにあるわけではなく、わずかに離れて小さな円を描きながら回っているのでした。以上サイトからのコピペ

 動かない星が無い場合でも、北極点の回りを回転する星々は必ずあるので、観測によって南北線を確定できます。晴天の夜なら一晩で可能です。

[4509] 渡来人言語問題  多美 2008/09/21(Sun) 06:08 [Reply]
各位

素朴な疑問

古代史には、よく倭国ヤマトの王天皇など渡来人(この場合朝鮮半島)だという説が頻繁に登場しますが、もしそうだとすれば、言葉の問題はどのようなに考えたらいいのでしょうか。

また、そのような事実が本当とすれば、その事実を隠すことが何故できたのでしょうか。
または、隠す必要が無かったということでしょうか。

天智天皇は渡来人とする説がありますが、荒唐無稽と思いますが。

荒唐無稽でないとすれば、その根拠の納得できる説明は?

何れにしても、渡来人説には言語問題の疑問???。


[4508] Re[4503][4502][4498][4495][4493]: 出雲大社の向きについて  佐々木 2008/09/21(Sun) 00:15 [Reply]
 ようやく理解できました。
 天の北極に恒星が、日本ではおおよそAD0以前〜800年ごろの間には見えないそうです。
 ゆえに星による真北の再現は困難→日時計による決定しかない。
 
 高度な天文知識のある技術者の存在がうかがえる。これが「日置氏」なのでしょう。
 
 一方ほかの星(たとえばシリウス、スピカなど)を天の北極と見なして方位を決定するとずれてしまう。これが古墳の話と結びつくのではないでしょうか。

[4507] Re[4504][4499][4498][4495][4493]: 出雲大社の向きについて  佐々木 2008/09/20(Sat) 11:35 [Reply]
 くずさん

 出雲大社付近での地震に関する資料を見つけました。
 活断層は東西方向で、右横ずれ成分が卓越する。直下型地震は9世紀にあります。
 活断層の認定は、昨年騒がれた島根原発以降です。

 活断層は地形(空中写真の実体視)と地質で確認すると、拝殿の南の銅鳥居あたりに東西方向に何条かあるように見えます。

 http://www.hp1039.jishin.go.jp/eqchr/8-3-2.htm
 
 大林組の資料、神殿の一連の立替の経緯について記載されています。原因は地質分布から柱の不同沈下となっていますが、まるでピサの斜塔と同じですね。

 http://www.obayashi.co.jp/kikan_obayashi/izumo/p01.html

[4506] Re[4504][4499][4498][4495][4493]: 出雲大社の向きについて  かたばみ [Url] 2008/09/20(Sat) 10:36 [Reply]
>平安京、平城京の画像データですが、写真の上辺が磁北ではなく真北では??

ふたつ目のアホですね(^^;
国土地理院地図に書かれる磁気偏角と真北を逆に取り違えていました。
アップした地図は後ほどアップしなおします(たくさんあって恥ずかしいけど)。

その他についても後ほど(今日明日は近所の神社のお祭りで、その氏子であります)

[4505] Re[4504][4499][4498][4495][4493]: 出雲大社の向きについて  佐々木 2008/09/20(Sat) 00:45 [Reply]
くずさん

> 地殻の動きによって、過去の構造物の方位がズレる。
> これに限れば可能性はあると思います。が、千年、2千年で、10度近い捻れというのはどうでしょうか?

 活断層との位置関係では、2回程度の地震動でありえると思います。
 概ね500年〜1000年周期で、1回あたり垂直水平に数m〜5m程度ずれますので、これは三角点の移動履歴を確認すればわかるでしょう。台湾では1回10mぐらいのところもありました。
 しかも出雲は日本海が拡がる力と南からプレートが押す力があり、今のところ答えは出ません。
 

[4504] Re[4499][4498][4495][4493]: 出雲大社の向きについて  くず 2008/09/20(Sat) 00:10 [Reply]
佐々木さん、はじめまして。
自分も専門ではないのですが、歳差には昔から特別な興味があって、それなりに勉強をしてきました。
現時点での自分の見方、考え方との相違点のみ挙げさせて頂きます。
 
>偏角の変化から、現在の緯度経度と比較して、過去2000年間で緯度経度のずれはあると考えられる。 

偏角が変わる主因は、地磁気の永年変化にあるものと考えます。
地球磁場の変動は人類(史)スパンでみても不安定なものと言えると思います。

地殻の動きによって、過去の構造物の方位がズレる。
これに限れば可能性はあると思います。が、千年、2千年で、10度近い捻れというのはどうでしょうか?


かたばみさん、

>2000年前の歳差が12度なら公転軌道に対して夏至あるいは冬至での地軸の傾きは23.4+12=35.4度?
(足すのか引くのかわからん(^^;)

地軸の傾き23.4度とは地球公転面に対する角度ですよね。
歳差運動というのは、公転面に対する、この傾き(23.4度)の首振り運動(約2万6千年周期)なので、基本的に23.4度は保持されたままです。
歳差運動を角度変化として抽出するとすれば、公転面を真横ではなく真上か真下から見る事になります。
 360度÷2万6千年(周期)が年間の角度変化。

地球から観測した場合、歳差運動によって変化するのは方位ではなく"時間"ですが、これはカレンダーで補正されます。

平安京、平城京の画像データですが、写真の上辺が磁北ではなく真北では??

池上曽根遺跡の神殿(らしき構造物)の詳細な測量図を持っていますが、
建物南北の主軸が、東へ6〜7度振っています。
(建物の南面はやや西を向く形)

真北の方位は柱を建てて日時計を作れば出せます。
棒の影が最も短くなった時の影の指す方向が南北線。
事実同時代のローマでも、街路の方向を決定するのに日時計が使われていました。
ある程度南北を意識した構造が見られるのなら、弱冠のズレがかえって気になりますね^^


[4503] Re[4502][4498][4495][4493]: 出雲大社の向きについて  佐々木 2008/09/19(Fri) 20:16 [Reply]
 とりあえず簡単なところから、
 ウィキで「歳差」を見ると傾いた地球ゴマの回る様子が再現されている。
おそらく内側が地球の自転で、外側の方が歳差運動を示しているものと思うが。
 地軸の傾きへの影響は、ほとんど見えませんね。
 
 歳差運動については、当時スピカの観測で見つかったとされています。
 「平安京プロジェクト」でも、天文学者らが検討に検討を重ねているが、平安京・平城京・長岡京などの東西南北はどうやって決めたか結論が出ていない。
 その報告でも、北極星(こぐま座α星;ポラリス)は、歳差運動によって天の北極から10度もズレていたので、何も考えないで北極星の位置を測ると大きな誤差となると報じている。歳差の概念は4世紀ごろとも報じられている。
 まず地球は太陽系の惑星なので、月、太陽との引力関係が維持されますが、北極星は太陽系の惑星でないということかな。
 天の北極の軌跡を見ると、1万年から1300年前までの角度の変化(図を表示)が激しいけれどもが、それ以降は少ないので、今の日本ではそうゆうタイミングなんだろうか。
 http://www.asahi-net.or.jp/~jc1y-ishr/Precession/Kyou_Shokujo.html
 
 一度博士に聞いてみましょう。

 http://homepage3.nifty.com/silver-moon/index.htm 


[4502] Re[4498][4495][4493]: 出雲大社の向きについて  かたばみ [Url] 2008/09/19(Fri) 18:40 [Reply]
佐々木さん
>なんとなくわかりにくくなってきました。地球は地軸に対して23.4度傾いている。

アホやってる私が説明するのもおかしいけど、そのあたりが間違えやすい(^^;

お団子に串を刺す、お団子が地球、串が自転軸(地軸)。
串がどこを向いていようと、お団子の表面のアンコのくっつき方にとってみれば真北は串の向きであって変化はしない。

ただし、串の向きがお団子の周囲とずれれば、串(真北)に対して周囲の風景はずれる。
これが軸のぶれ(歳差)よる恒星の位置のずれ。
それでは太陽はずれないの?・・
立体動画で説明してくれればよくわかりそうだけど(^^;

くずさん
>地球公転面(つまりは黄道)は変化しないものと見てよいと思います。

昔懐かしの文字絵で
夏至         冬至
地軸   太陽    地軸
/−−−−−○−−−−−/
   公転軌道(≒黄道)

公転軌道は恒星に対して不変として、歳差は地球固有の地軸のぶれ。
春分と秋分では上図で太陽の手前と奥側に地球があるので地軸がどれだけぶれても、太陽方向での公転軌道と地軸の角度は90度(春分と秋分では必ず真東から昇る)。
しかし、夏至と冬至では地軸がぶれるとその角度だけ異なる公転軌道との角度になるはず。

2000年前の歳差が12度なら公転軌道に対して夏至あるいは冬至での地軸の傾きは23.4+12=35.4度?
(足すのか引くのかわからん(^^;)
日出と日没の位置が歳差によってずれる、年代によって春分と秋分以外の太陽の位置は同じにはならない?


>平安京の設計は磁石ではなく、地軸延長上の、(つまりは太陽か星の観測に基づく)方位基準でしょうか?
http://woodsorrel.cool.ne.jp/data/shinhoku/heiann70.jpg
(ファイル名称の末尾の数字はその地の磁気偏角を示します、写真の上辺が磁北、画像の上辺が真北)

配置からは真北で建設されたとはみえないですね。
磁北での建設であれば当時の近畿の磁気偏角の推測材料になりそう。
歴史年代での磁気偏角の変化、なにかデータがあるのかなあ。今はなくてもそのうち出てくると思うけど。

以下平城京
http://woodsorrel.cool.ne.jp/data/shinhoku/heijou71.jpg
ほぼ平安京と同じ方位とみえます。
近隣にある古墳、みな平城京とほぼ同じ方位ですがヒシアゲ古墳(磐ノ媛命とされる)では真北に寄ってる。
これらの古墳も磁北で南北方向に築造だとすれば、磁気偏角の変化がわかれば年代推定材料になるかもしれない。
磁気偏角の概念は1980年頃かららしいので、それ以前の方位にからむ論には注意が必要ですね。

>池上曽根遺跡の神殿(紀元前56年)は東向きに約6度振っていますが、当時の地磁気偏角はどうだったのでしょうかね
http://woodsorrel.cool.ne.jp/data/shinhoku/ikegamisone65.jpg
規模からみて住居とは考えにくいですから祭祀や集会のための建物だろうなあ。
航空写真は発掘がはじまった頃のものとみえます。

おおざっぱですが柱列は真北基準の東西方向、詳細情報をみれば正確な角度がわかるはずですが、段ボール(^^;
最古の磁石の使用は呂氏春秋BC239に登場しますが、BC56の日本では??
まず、真北での建築ではないかなあ。

[4501] Re[4499][4498][4495][4493]: 出雲大社の向きについて  佐々木 2008/09/19(Fri) 17:17 [Reply]
 結局、出雲大社が現在の真北からずれているのは、わかりやすい事例では、たとえば一等三角点の水平移動の蓄積した結果と考えるべきなのでしょう。
 http://www.hp1039.jishin.go.jp/eqchr/f7-23.htm

 蘇我氏関連の一定のずれは、有意なずれなので、一定の意図と法則性を感じます。

[4500] 丹後と西美濃の探訪  とみた 2008/09/19(Fri) 11:57 [Reply]
丹後と西濃(西美濃)を一人で巡りました。
たくさん面白い話が転がっています。その一端をご紹介します。

日本海は但馬から丹後へ・・・西から、久美浜と川上、網野と福田川、間人と竹野川いずれも潟湖(ラグーン)と川のセットです。その流域に海の民が住んだ。

間人にある竹野神社が鍵でしょうか。

祭神は、日子坐王、竹野媛、建波豆羅和気(別)王、丹波大県主の由碁里です。

竹野神社は神明山古墳の麓にあります。古墳神社でしょう。

竹野媛は、大県主の娘で垂仁の妃です。夫が亡くなると第一夫人でないので郷里に戻されて

斎王として竹野媛神社に祭られ神明山古墳に葬られた。これが4世紀後半の前方後円墳です。

日子坐王は崇神天皇の四道将軍として丹波に派遣され土着の豪族を平定した。

網野にはチヌシという地名があります。この地名は道主と考えられますので、丹波道主の縁でしょう。

丹波道主命、つまり日子坐王(彦坐王)?の墓と想定されているのが、

日本海最大の前方後円墳の銚子山古墳です。4世紀中ごろの古墳です。網野神社も近くにあります。網野には丹後日下の末裔が今も居られるようです。日子坐王も日下も太陽祭祀と関係があるのでしょうか。浦島太郎こと水之江嶋子が住んだ所でしょうか。日置郷も近いようです。

垂仁のお妃は日葉酢で、竹野媛の姉とされています。

日葉酢媛は東の久美浜の川上麻須良女と四道将軍、道主との間で産れた娘です。

垂仁と結ばれ、景行天皇を生みます。景行天皇と播磨稲日大郎女との間で小碓と大碓が産れ

小碓はヤマトタケルに、大碓は美濃の大王家の禁野で見張り役の大将=守部の君になります。

ヤマトタケルの息子が仲哀天皇です。仲哀は畿内で生んだ息子が忍熊王と、香坂王です。

神功皇后の新羅征伐に、但馬・丹波・若狭の水手(船頭)3百人が応援しました。

神功皇后と仲哀が九州で産んだ子が応神で、征伐を終えた神功皇后が武内宿禰と畿内に凱旋すると対決して戦ったのが、忍熊王と香坂王です。ここでも神功皇后側に応援して勝利に導いたのがやはり、但馬・丹後・若狭の水手でした。これが武振熊です。

武振熊が籠神社で火明命を祀る海部氏です。和邇氏の先祖とする説があります。

でも本当は、この地に遷ったのは丹後国が713年に丹波の一部から造られて国府が宮津の天橋立の付け根に持って来られたからのようです。

それまでは、久美浜が海部の本拠と郷土史愛好家が仰ってました。ついでに、竹野川の河口の間人という地名(タイザと読む)は聖徳太子の母の穴穂部間人が、物部と蘇我氏の間の乱を避けて7人衆(東漢直駒、中江・・・)を引き連れて大浜にやってきた。帰還するときに地名に間人の使用を許した。ハシウドと読むのは畏れ多いので、退座のタイザの村と読む。

たまたま道中の竹野神社で、東さんという後裔の方に出会い、その紹介で郷土史の中江さんのお宅に伺いました。東家は、竹野川の交通運輸を古代には生業とされていたようです。

ここまでは、丹後の資料館の学芸員と郷土史愛好家と籠神社の宮司さんの話の総合です。

東京への帰りに、美濃の大垣市(人口14万の都市。石田三成が関が原の戦い前夜に陣を取ったところ、奥の細道で芭蕉が旅を終えたところ)文化財担当の学芸員の中井正幸さんの所に立ち寄って西美濃の古代の概況を窺いました。

本年発行の、季刊考古学別冊16号”東海の古墳風景”の主論者です。

壬申の乱で真っ先に動いた湯沐邑のある土地。禁野のある地です。赤坂があり金生山がある産鉄族のうごめく地。関が原を下ると池田山があり壬生・額田・春日・伊福・池田の郷があり群集墳がたくさんあります。

ここに上述したヤマトタケルの兄の大碓が派遣され、禁野の見張り部を従えています。
この記紀伝承は大和朝廷とのつながりが出来ていた証とされるのが、東大の田島公教授です。

私は、額田も春日も和邇氏系で、丹後の日子坐も和邇氏ではなかろうかと
思っておりますので興味を抱いています。

大垣の昼飯町には昼飯大塚古墳という大きな前方後円墳が4世紀後半に造られ、大和王権の影響が見られます。

丹後も西美濃も3世紀までは土地の豪族の独自色が強く、4世紀中葉から大和王権の影響が濃くなるのが共通するようです。




[4499] Re[4498][4495][4493]: 出雲大社の向きについて  佐々木 2008/09/19(Fri) 10:42 [Reply]
 くずさん はじめまして。

 今や天動説でなく、もちろん地動説、そしてプレートテクトニクスの時代。方位の変化はほとんどない。
 実は私も土木建築測量など有資格者ですが、痴呆です。本業は違いますが。
 一様にまとめてみました。

★地軸は23.5度傾いているが、この傾きは22度から24.5度の間で変化する。地軸の傾きの変動の卓越周期は約4万1000年である。
 「平安京プロジェクト」の有志らの述べる北からのずれレベル(1度未満)なら、これでも仮の説明ができる。

★太陽と地球との離心率は離心率の変動の卓越周期は41万年程度と10万年程度である。
★歳差運動の周期は2万6000年周期である。

★西南日本過去2000年の偏角。
 西暦0年は西15度。
 80年・480年・1100年・1800年は0度。
 200年〜380年・1200年〜1300年は東15度。
 1600年〜1700年は東10度
 550年〜650年・820年〜920年は西15度です(再掲)。
 
 偏角の変化から、現在の緯度経度と比較して、過去2000年間で緯度経度のずれはあると考えられる。  

★日本海拡大運動が過去100万年で、年60cm。まっすぐだった日本列島が、弓形に変化回転している。
 緯度経度のずれの主な原因か。現在の北方角との相違が出て当然。
 地震動は、垂直のずれもあるが、横ずれに伴う、ねじれせん断変形を起こすので、いつのまにか方角がずれていても矛盾しない。震災時の墓石や鳥居などの被害調査からも示されているようです。

 http://www.s-yamaga.jp/nanimono/chikyu/chijiki-02.htm

参考図書 新版地学教育講座 東海大学出版会 高等学校「地学U」啓林館。

[4498] Re[4495][4493]: 出雲大社の向きについて  くず 2008/09/19(Fri) 01:09 [Reply]
> ただし、ふにおちないことがあります。
> 自転軸が歳差で恒星に対して変動し、公転軸(黄道≒恒星に対する太陽や惑星の通る平面の軸)が恒星に対して変動しないなら、自転軸と公転軸の角度が変化するはず(赤道と黄道の重なり具合が変化する)。
ならば地表からみた太陽の昇る位置が歳差によって変化するはず・・
> しかしプラネタリウムでチェックすると現在も千年前も冬至での太陽の昇る位置が同じにみえる??

かたばみさん、人類というスパンでみたらという前提ですが、
地球公転面(つまりは黄道)は変化しないものと見てよいと思います。
同時に、地表において方位(自転軸基準)を決定する、両極と赤道にも変化はない。
よって太陽運行の方位にも変化はない。として良いのではないでしょうか?

歳差運動によって変化するのは、地軸延長上の天の北極と、赤道延長上の天の赤道で、
こちらは変化しますが方位の変化には関わらないと見ます。

佐々木さんが[4496]で言われるように公転面に対する地軸の傾きは、
およそ22度から24度の間を行ったり来たりするらしいです。
(ただしでも地磁気や磁極の変異とは関係がないように思います。それと、地軸の傾きが変わっても両極と緯度経度に変化はないと考えて良いと思います。)

この変化(公転面に対する地軸の傾き)は南北の回帰線の変化にかかわりますので
夏至と冬至の日の出の角度に影響があるかと思いますが、この傾きの変化の周期は4万1千年と言われ、
千年スパンでも0.05度程度の変化なので、大きく検出は出来ないのではないでしょうか?

> 出雲大社も現在の磁北に近似、磁北による建造(平安以降?)が現在に継承されているということか。
> 谷の状況に合わせただけのことか、これもなんともいえずか。

平安京の設計は磁石ではなく、地軸延長上の、(つまりは太陽か星の観測に基づく)方位基準でしょうか?

年代のはっきりしている池上曽根遺跡の神殿(紀元前56年)は東向きに約6度振っていますが、当時の地磁気偏角はどうだったのでしょうかね。

[4497] Re[4496][4495][4493]: 出雲大社の向きについて  佐々木 2008/09/18(Thu) 21:07 [Reply]
 磁石は、「呂氏春秋精通篇」(BC249-237)に「磁石呂鉄 或引之也」、東漢の王充(AD30-100)の「論衡」に磁石引針とある。
 その後13世紀ごろ羅針盤が出て、磁石の示す方角が北極星の方角と信じられていたが、15世紀のコロンブスの大西洋航海時に、西に5〜6度ずれることから、偏角の存在に気づいたとされる。磁石の示す方角とずれると不吉なことが前兆とも信じられていた。とのことでした。

[4496] Re[4495][4493]: 出雲大社の向きについて  佐々木 2008/09/18(Thu) 20:02 [Reply]
>2千年前でも真北(自転軸基準)は現在の真北とほとんど変わらないと考えます。

 なんとなくわかりにくくなってきました。地球は地軸に対して23.4度傾いている。
 しかしこの傾きは不変でなく、自転または公転によってぶれる。つまり傾きが変化する。これは古地磁気学の教科書などで説明できると思う。
 よって過去の緯度経度が変わることになる。
 過去の緯度経度が変わることは、過去の地磁気の変化によって推定できる。これは偏角の変化として確認できる。現在2000年まえまではかなりの精度で復元されている。
 ゆえに過去の緯度経度が変われば、現在の北方角とは相違すると思うのだが。

 ???かな。

[4495] Re[4493]: 出雲大社の向きについて  かたばみ [Url] 2008/09/18(Thu) 19:28 [Reply]
>2千年前でも真北(自転軸基準)は現在の真北とほとんど変わらないと考えます。

ご指摘ありがとうございます。
そのあたりプラネタリウムを眺めながら基本的なミスをやってるのでは、という思いがずっとありました(^^;

地球自身の自転軸(北極と南極を結ぶ軸)が変化することはなかった。
だから、ある地点からみて真北がA山の頂上であったものがB山の頂上に変化することはない、ですね。
歳差で変化するのはA山の頂上(真北であれば天空の回転中心)にみえる恒星の位置だけ。
アホじゃなあ(^^; 歳差に関連する建物方位の話はすべて訂正(撤去)です。

ただし、ふにおちないことがあります。
自転軸が歳差で恒星に対して変動し、公転軸(黄道≒恒星に対する太陽や惑星の通る平面の軸)が恒星に対して変動しないなら、自転軸と公転軸の角度が変化するはず(赤道と黄道の重なり具合が変化する)。
公転軌道上で地球が冬至あるいは夏至の位置にあるときに最大、春分と秋分の位置ではゼロ。
ならば地表からみた太陽の昇る位置が歳差によって変化するはず・・
しかしプラネタリウムでチェックすると現在も千年前も冬至での太陽の昇る位置が同じにみえる??

やっぱりどっかでアホやってるのかなあ。
どっかに自転と公転をくるくるやって一目瞭然の立体動画はないかな。


以下は伊勢神宮、出雲大社、神魂神社、出雲熊野大社、法隆寺の国土地理院の航空写真です。
航空写真は一般地図と重ね合わせて方向が一致するので磁北撮影されているとみえます。
これをそれぞれの場所の磁気偏角で回転させて、全体画像の上辺が真北になるようにしています。
黄色線は写真に見える建物での推定基準方向です。

http://woodsorrel.cool.ne.jp/data/shinhoku/ise65.jpg
http://woodsorrel.cool.ne.jp/data/shinhoku/houryuji70.jpg
伊勢神宮と法隆寺は現在の磁北の南北にほぼ近似、創建年代から見て磁石が存在するはずで、「当時の磁北」で方位を決めた可能性あり。
東京の場合、現在の磁気偏角は7度あたりですが、江戸末期での磁気偏角はほぼ0度のようでわずか100年で7度も変化していますから、磁北であるかどうかはなんともいえないですが。

http://woodsorrel.cool.ne.jp/data/shinhoku/kumano73.jpg
http://woodsorrel.cool.ne.jp/data/shinhoku/kamosu73.jpg
出雲熊野大社は移転されており、現況にも有為の方位はみえず。
意宇川と近隣集落に正対して建築されたとみるのが妥当か。
神魂神社も有為の方位はみえず、周辺地形とも無関係に見える。

http://woodsorrel.cool.ne.jp/data/shinhoku/izumotaisya70.jpg
出雲大社も現在の磁北に近似、磁北による建造(平安以降?)が現在に継承されているということか。
谷の状況に合わせただけのことか、これもなんともいえずか。

[4494] 初期出雲大社は日時計だった???  佐々木 2008/09/18(Thu) 10:25 [Reply]
 過去の神殿とそのスロープの復元画像を見て、これは直角三角定規の付いた日時計に似ているなと。計時目盛は境内の建物だったとか。
 これを日置の人々が観察して、時刻を読んでいた。
 周辺への時刻の連絡は銅鐸を鳴らしていたとか。
 青草でした。

[4493] 出雲大社の向きについて  くず 2008/09/18(Thu) 00:05 [Reply]
ご無沙汰をしております。興味惹かれる話題に、
建築業を営んでおりますのと、歳差について春先にこの板で考察させて頂いております点から少し。

都市設計の合理性から言えば、
重要なポイントが離れて存在し、その2点を結ぶ為に道が造られる。
その後、繋がれた道の角度に合わせて、向きを変えた構造物が建てられる。
ということはあるのかなと考えます。


出雲大社の向きについて、

個人的に、出雲には北極星に対する信仰が、縄文系の流れも引き継ぐ(取り込む)形で存在したのでは?と考えていますので、出雲大社の向きには興味を惹かれます。
階段の角度が緯度と同じ(北極星を指す)であったら面白いなとか、
独り神であり、現れては消えたという御客座五神とはヴェガ以来の歴代の北極星ではなかったか?とか色々と想像は廻るのですが(笑)

しかし、ここでの春先の考察から、
少なくとも有史以後というスパンであれば、地球の歳差運動は、方位(地球の自転軸基準)にほとんど影響を与えていない。と考えるようになりました。
2千年前でも真北(自転軸基準)は現在の真北とほとんど変わらないと考えます。
ギザの大ピラミッドでも現在の方位から3分弱(約0.05度)のズレです。

現在の北極星ポラリスならば、当時真北からはずれて日周運動を行っていたでしょうが、
未来の北極星にあたるポラリスをすでに信仰対象としていたとは考えにくい。
北天に信仰対象を求めるとするなら過去の北極星でしょうかね^^


磁北(偏角)からも追いつかないズレとなると、違う理由があったのだと思います。

[4492] Re[4491][4487][4485][4479][4476][4472]: 方位について(ちょっと加筆)  佐々木 2008/09/17(Wed) 19:46 [Reply]
 かたばみさん

 どうしてもうわばみさんと間違います。いやはやごめんなさい。
> (真北マキタと読むと何に対する北かあいまい、自己流ではシンホクと読んでいます)
 これ、しんぼくと読むそうです。ただ市町村やら民間の出版社が出しているものは、北の定義がきわめて不明(方眼北が多い)です。
 標高の定義も2002年から変わりましたね。

 当時は天体観測はスピカで計っていのかな。

> 余談
> 大社造りの現存最古は神魂神社(カモス)で1346年のようですね。
> 出雲大社が何度も修復を繰り返しているのは、水害を受けやすい立地条件だからだと思っています。

 一番はシロアリ被害だそうです。それに竜巻、雷、台風、水害は後ろの山からの土石流でしょうね。

> 雪の降る地域で用いられた玄関配置であろうと思っています。

 そうでしょうね。昭和初期は縁部は6〜11mは降雪していましたので、通学時に電柱の上によく年寄りが腰掛けていたことがあります。

 出雲平野は、南部は出雲大川や神戸川のデルタは三瓶大平山の火砕流堆積物が5m程度あるようで、水田にはよい場所ではないですね。

[4491] Re[4487][4485][4479][4476][4472]: 方位について(ちょっと加筆)  かたばみ [Url] 2008/09/17(Wed) 18:38 [Reply]
>方位については日置氏が活躍していますが

真北(地球の自転軸の方向、これと直角のラインが赤道=恒星の道)
歳差(地球の自転軸の変化)
黄道(地球の公転軸と直角のライン=太陽の道≒惑星の道)
(真北マキタと読むと何に対する北かあいまい、自己流ではシンホクと読んでいます)

理屈を知らなくても真北は簡単にわかり、その時代の春分点(秋分点)は真北の90度で簡単(^^;
季節によって太陽の昇る位置(黄道の道)がどれだけずれるかは観測すればすぐわかる。
門外不出の巻物でも中身は単純明快(^^; 太陽暦は農耕用。

海運や漁師にとっては潮の満ち引きが重要ですから、これとは違う経験則(月の観測)が必要になると思います。
人間の生理にも影響大とみえるるので、人間主流の時代ではこちらが重きをなしていったか?
磁気の人間への影響があるなら 陰陽道では磁北も加味か?


余談
大社造りの現存最古は神魂神社(カモス)で1346年のようですね。
出雲大社が何度も修復を繰り返しているのは、水害を受けやすい立地条件だからだと思っています。

出雲大社の内部配置を不思議と見る論があるようですが、「神座≒拝」という意識があるからじゃないかなあ。
元々は人間の住まいだったものが神殿化されて継承されているのだと考えています。
住まいなら玄関から主の「寝室」が直接見えるような間取りにはしないと思います。

神明造りも屋根が切妻ですが、入り口は平入り。大社造りは入り口が妻側にある。
これは、雪を考慮しているためであろうとみています。
平入りだと屋根に積もった雪が入り口にどさっと落ちてくる。妻入りなら大丈夫。
雪の降る地域で用いられた玄関配置であろうと思っています。

>段ボールが長いですね

住まいの新築中で、梱包を解いて棚に並べるのは来年、それもちびちびと。
切り妻屋根で単純明快ローコスト、玄関は神明造りと大社造りの複合、心柱はありません(^^;
地図の磁北と真北のずれは
http://vldb.gsi.go.jp/sokuchi/geomag/menu_04/index.html
で計算できます、ずれは6度55分でした(AD2000時点)。
地形の都合で真南ではありませんが、太陽電池搭載。

[4490] Re[4489][4486][4484][4477]: 三輪山の日の出  佐々木 2008/09/16(Tue) 21:28 [Reply]
> http://woodsorrel.cool.ne.jp/data/izumotaisya.png
> 海面を5mほど上昇させた図ですが、堆積の状況など弥生あたりではこんなものだろうと思います。(黄文字は風土記地名)
> 一般に神社は洪水など災害の危険性の少ない位置に造るのが普通と思います。
> ところが出雲大社は小さな谷の合流部にあってそれに反するとみえます。
> 神戸川や旧斐伊川(出雲大川)の土砂堆積で港にも使いにくそう、大規模農耕の利便性もみえない。

 ほぼ研究者が示す現在の弥生初期の地形に似ていますね。
 斐伊川の宍道湖方面のデルタが神門水海と宍道湖の東西の水道を埋積するのは江戸時代以降らしいです。
 出雲大社の拝殿が載る平坦面は、縄文の高海面期の海食面で、大社の南に東西方向の断層があって、大社側が隆起傾向にあります。
 港としてきわめて不都合ですね。私の先祖がその後美保関に湊を造ったのもそのためでしょう。
 

[4489] Re[4486][4484][4477]: 三輪山の日の出  かたばみ [Url] 2008/09/16(Tue) 18:34 [Reply]
>海方向と関係ありそうに思えるのですが、間違えでしょうか

出雲とはなにか、弥生の歴史の中枢であり、これをまず体系化(仮説でよい)しないと空論にしかならないと思います。
私は「国譲りの事象は事実だが、神話時代ではなく神武と大国主命の間で行われた」という解釈をしています。
出雲文化の領域は奈良を中枢として東北にも到る広大なものであり、北九州(豊後)の譲渡で大戦争にならずに済むなら譲歩しよう、という大国主命の決断によるもの。
(記紀が年代を含めてそれをどう書くかは別の問題)

持論と異なる論であれば、当然ながらそうかなあとは思いますけど(^^; 持論自体が可能性の問題。
いろいろな論は、それぞれの方が注目する事象から生じているわけで、やはり可能性の問題。
可能性同士で正誤うんぬんはできないですね。
出土物や前後の関連事象(神話も含む)を包含でき、歴史(年代観)として全体がスムースに流れるかどうか、これが私の判断の基準です。


出雲大社に修理再建とは異なる「遷宮」があるか・・なぜ遷宮するのか。
まずは現存する伊勢神宮の遷宮とはなにかの解釈が必須ですね。

http://woodsorrel.cool.ne.jp/data/izumotaisya.png
海面を5mほど上昇させた図ですが、堆積の状況など弥生あたりではこんなものだろうと思います。
(黄文字は風土記地名)

一般に神社は洪水など災害の危険性の少ない位置に造るのが普通と思います。
ところが出雲大社は小さな谷の合流部にあってそれに反するとみえます。
神戸川や旧斐伊川(出雲大川)の土砂堆積で港にも使いにくそう、大規模農耕の利便性もみえない。

すなわち、記紀の書く「国譲り後の引退者」の住処には適当であり、その記述は事実を含む可能性が高いと考えています。
まずは住居であって、社殿(出雲文化の象徴)となるのはずっと後でしょう。

実用性を伴わない高さを求めるなら、信仰としての出雲が確立してからその威厳の示威だろうと思います。
巨大化は記紀編纂以降、そこに書かれる神話としての出雲が一般に定着してから、そのように考えています。

[4488] Re[4484][4477]: 三輪山の日の出  神奈備 2008/09/16(Tue) 11:28 [Reply]
> 古墳の場合、私は方位うんぬんは無視しています。ばらばらで共通項がみえません。
> 人間の埋葬のシンボルであって、地形利用の利便性とその古墳をどのように見せるか(拝するか)の都合、加えて被葬者の信仰を遵守しての築造と考えています。

 自分で確認した訳ではないのですが、『扶桑国王蘇我一族の真実』渡辺豊和著 の中の記事
 
 山川出版社『前方後円墳集成』の前方は北で主軸が15度〜25度で、それが属する古墳群で最大のもの、築造年代は3世紀後半から6世紀後半の300年を10期に分けて表示。

会津若松市 大塚山古墳 三期
茨城県牛久市 蛇喰古墳 四期
茨城県那珂郡大宮町 五所皇神社裏古墳 五期
群馬県高崎市 長者屋敷天王山古墳 四期 これは群の最大ではない。
千葉県千葉市 大覚寺山古墳 三〜四期
山梨県東八代郡中道町 天神山古墳 五〜六期
石川県羽咋市押水町 宿東山一号墳 一期 これは群の最大ではない。
石川県小松市 矢田借屋八号墳 四〜五期
滋賀県伊香郡高月町 古保利七五号墳 三〜五期
京都府熊野郡久美浜町 島茶臼山古墳 三〜四期
大阪府羽曳野市 誉田山古墳 六期
大阪府堺市 野々井南十二号墳 八期
奈良県葛城市新庄 屋敷山古墳 六〜七期
奈良県橿原市 見瀬丸山古墳 十期

 渡辺氏は「陸奥から大和へと時代を追って西に移動している様子がわかるとされ、これを蘇我氏の足跡と見ているようです。
 九州から畿内へのこのような移動の姿は出てこないとされ、さらに八〜十期にかけては、大和以東で上記条件の古墳が急増していると指摘しています。

 これを以て東国の勢力である蘇我氏が大和を目指して南下して来たと推測は成り立つのかも知れません。特に継体の勢力とジョイントして新政権の樹立を図ったと見ると面白いかも。

 一方、蘇我氏についてシルクロードから朝鮮半島経由でやって来たと主張されている久慈力著『蘇我氏はシルクロードから渡来した』には古墳の方向よりも古墳の形がインドやガンダーラの寺院の形に影響されているとの主張があります。→ 写真掲示板。

 蘇我入鹿が殺された後にも、蘇我氏の血の入った天皇が続いており、オリエントの思想が尊ばれた余韻が続いていたことでしょう。


[4487] Re[4485][4479][4476][4472]: 方位について(ちょっと加筆)  佐々木 2008/09/15(Mon) 23:28 [Reply]
 どちらにせよ、新羅本紀には19回も日食の記載があって、天文学者が検討したのが2例以下なのは、なんとも不思議です。
 ただ伝聞記載であるとしても、実際にその現象が確認された場所が知りたいところ。
 しかし、かたばみさんは段ボールが長いですね。こちらは健忘と水没で・・・。

 ついでに方位については日置氏が活躍していますが、残存小字から太陽、風土記から天体が出てきました。最初から天体観測も併用していたかは不明です。
 また小字日置の分布は、西日本の日本海側、九州南部、とりわけ丹波丹後での密度が高い。あとは比企で埼玉で見られます。
 もう少しで勉強して日置氏の一連の技術と当時の条里制、そして安倍氏への技術伝承後の条里制の実像が見えそうです。

[4486] Re[4484][4477]: 三輪山の日の出  素人 2008/09/15(Mon) 23:12 [Reply]
かたばみ様
ご指導ください。
> 出雲大社はなぜ社殿を南にむけるのか。建立がいつか、誰によるのか。
素人がインターネットで調べると以下のようなWebが有り、海方向と関係ありそうに思えるのですが、間違えでしょうか。海側には上の宮(仮宮)(大社境外摂社、神在月に境内で「神在祭」が行われる。)、下の宮(大社境外末社)や有名な「国引き」の稲佐の浜と弁天島が有るようです。
現在の出雲大社の本殿平面図
http://inoues.net/mystery/izumo_m_6.jpg
http://inoues.net/mystery/izumo_nazo.html
他のWebには、昔の出雲大社の絵図と非常に高い本殿の模型が載っていますが、方位だけでなく高さも重要だったのでしょうか。参道や建物の方位はあまり変化がないように素人には見えます。古絵図では北側には建物も見られ特に禁則地でもないようです。東西も同様です。
出雲大社遷宮Web
http://www.highlight.jp/izumooyashiro/22.html
素人の戯言ですがご指導ください。

[4485] Re[4479][4476][4472]: 方位について(ちょっと加筆)  かたばみ [Url] 2008/09/15(Mon) 21:25 [Reply]
158年の7月に平壌で見られたであろう日食の先のソフトでの再現です。
http://woodsorrel.cool.ne.jp/data/NS158_0712.png
計算がどこまで正確か、がありますが、皆既食にはなっていないようで、中国全土で見られた日食です。
日付がずれるのは暦の扱いの関係だろうと思います。

新羅本紀にこれがどう記されていたか段ボールなので確認できませんが、部分食なら10年の単位で結構生じます。
新羅本紀には半島ではみえないはずの日食が多数記されていますが、おそらくは中国史書との関連の日時確認のマーカーにしたのだろうと考えています。

日食という現象をイメージしたお話が作られることはあると思いますけど、ある日時の日食そのものが直接神話や伝説の源になるかどうか、私は否定的です。
数世代も日食が起きないのであれば、誰も知らない現象となって一時は大騒ぎになるだろうと思います。
しかし誰かが見たことがあるなら「何事もなく終わること」も知っているわけで、不安の大小はあってもそれだけだと思うのです。

巨大彗星とか超新星爆発だとだれも見たことがないわけで、長期間空にみえるのでどういう反応になるかなあ。

[4484] Re[4477]: 三輪山の日の出  かたばみ [Url] 2008/09/15(Mon) 21:21 [Reply]
>古代において、全国的に統一された方位基準があったのでしょうかね。

いつのどこにどういう文化(思想)があったかですね。
出雲大社はなぜ社殿を南にむけるのか。建立がいつか、誰によるのか。
神武時代に「中国系の思想」が入っており、天孫系の社殿造営に影響を与えたのだろうと思っています。

やはり元データが厳密じゃないですが、現在の伊勢神宮内宮は現在の磁北よりわずかに真北寄り。
現在の伊勢の磁気偏角は6.5度なので、創建当初は現在の真北との差が6度であったとみると、平安中期〜末期あたりの創建と推定可能。
式年遷宮は天武673-685頃の制定とされますが、実行はもっと後のようですから一致する可能性あり。
(伊勢神宮創建に関する建築学的考察の資料があるんですが段ボール中)

伊勢神宮は飛鳥奈良時代での天孫系文化による社殿(応神〜天武時代は文化思想の錯綜時代とみています)。
出雲大社は出雲の象徴だが、社殿の基本は高床で南方系であり、最古の天孫系文化による造営とみます。

大山祇神社、これは背後の山かなあ、それとも交通路の方向かなあ。縄文の流れも加わるのではなかろうか。
大三輪神社、背後の山ですね。これにも縄文の流れが加わるか。
自然神系では周囲の環境によって社殿の向きが決まり、強い目的のある社ではそれに沿う方向で社殿を造ったのではないでしょうか。

厳島神社は湾の外を向いてる、港湾の守護かな。
鹿島香取なら防衛用の意識が伴うと思います(対蝦夷か)。
加えて中臣氏の個人的思想も加わるか。
(記紀以前の天孫系武神は手力雄命だとみています、武甕槌命は存在しない)

平安時代に入ってからは磁北で建立することもあるかもしれないですね。
陰陽道的文化があればその影響もあるかもしれない。


古墳の場合、私は方位うんぬんは無視しています。ばらばらで共通項がみえません。
人間の埋葬のシンボルであって、地形利用の利便性とその古墳をどのように見せるか(拝するか)の都合、加えて被葬者の信仰を遵守しての築造と考えています。
(次世代の権力者の意識がからむとなにが起きるかわからないけど)

現在の法隆寺は磁北から約4.7度ずれてる、奈良の磁気偏角は約7度なので11.7度も現在の真北からずれている。
(真北で建立するなら伊勢神宮よりちょいずれが大きい程度のはず)
ま、法隆寺は再建やらなんやら謎のあるお寺だから(^^;


[4483] 出雲大社周辺の古地理  佐々木 2008/09/15(Mon) 20:05 [Reply]
「日本の地形近畿中四国」朝倉書店から地形の変化の紹介。
・8000年前に杵築郷、薗の松山の2箇所に砂堆が発生する。
・5800年前に海面上昇(+4〜5m)によって海域拡大し、宍道湖(入海)と日本海がつながる。
・4700年前三瓶火山が噴火し、火砕流が流れてくる。
・2000年前に海面が下がり、宍道湖とは分断され、神門水海ができる。
・1700年前から神門水海の埋積が始まり、今まで神門水海に流れていた斐伊川(出雲大川)が宍道湖に流路変更し、1000年前に離水する。
出雲大社の場所は8000年前の砂堆上に位置しています。
日置郷の場所は三角州上に位置し、2000年前に離水して陸地になっています。

[4482] Re[4480]  かっぽれ 2008/09/15(Mon) 15:42 [Reply]
舌足らず部分を少し加筆します。

>金とは木(李はスモモ⇒木)に優るので・・・・

これは五行相克説の「金剋木」を想定しているのだろうと思われます。

[4481] ぎょうらしい     生田淳一郎 2008/09/15(Mon) 15:20 [Reply]
 九州ではギュウラシイともいう。 

[4480] Re[4470]: 栄えある神奈備掲示板  かっぽれ 2008/09/15(Mon) 15:04 [Reply]
談話室に提供される話題は、メンバー全員で話し合うネタになり膨らんでいくわけです。
生田さんご本人からレスを貰えなくても、議論や検討は続けられますのでご心配なく。

>朝鮮語辞書を読んでいましたら、kωm の項目の流れの中に kum(ねだん、金)があります。この kum の上も下も kω-- の語彙なんです。その途中にぽんと、kum があるのです。そして kωm(金)は出ていません。

これは確かに変です。そこで、生田さんがお使いの辞書「朝鮮語小事典(大学書林)」にあたってみましたよ。
結論から言えば残念ながら「誤植」と判明。昭和35年の発行とあれば無理もないところかもしれませんが。

この辞典の発音記号一覧表を見ると、「ㅡ」⇒「ω」、「ㅜ」⇒「u」となっています。これに従えば(ねだん・金)
の意味の금は当然kωmと表記されるはずが、kumと誤植。となると、その前後の単語が全部kω-であるのも
納得できるでしょう。この辞書のku-(구)単語群はkω-群の8ページ前あたりに掲載されているのを確認。
他の辞書で調べても、金を구+ㅁとする例は見つからないです。

> kum から kim に音を変えた主要因は、ネパール語の kimb(桑)ではないかと目されます。桑の木の皮で通貨を作ったのが、影響しているのではないでしょうか。
>そうでないとしたら、kum さんがなぜ kim さんのように発音されるようになったかは、やはり u / i 通音の法則があったからでは?

基本的に金(ゴールド)はkumですが、苗字に限ってkimとなります。昔はkumだけだったのに、李氏朝鮮の時代に、
金とは木(李はスモモ⇒木)に優るので、慮ってkimと読み替えたという話です。資料:講談社「歴史の交差路にて」

韓国語の漢字の音読みは一通りしかないのが普通。例外として「車」⇒チャ&ゴ、たとえば自動車(チャドンチャ)、
自転車(チャジョンゴ)。

そして本題。
ハングルはカタカナと同様、文字通りに発音する。逆から言えば実際に発音されている音を書き写したものです。
「ハングル」と発音するからには「ハングル」と書いてあるはず(と思っていた)が、「ハンギル」と書くという。
韓国語は私の守備範囲外で自信がない、もしかして「ハンギル」という書き方があるのかも、と質問したのだが。

[4479] Re[4476][4472]: 方位について(ちょっと加筆)  佐々木 2008/09/15(Mon) 11:01 [Reply]
> 市町村発行の2500分の1の白地図の図化方法と国土地理院の25000分の1の図化方法の違いから生ずる誤差の継承かなと。

 これ2500分の1の方眼北と真北の違いですね。

 4473のかたばみさんの最後のところに詳細な説明が掲載されています。

 丹後風土記に日置の里の記録があるのですが、昴星・畢星が出てきますが、太陽の観測でなく、星の観測を推定させる記述があったとは知りませんでした。http://www.kcg.ac.jp/kcg/sakka/sa0.htm

 かたばみさん 新羅本紀の日食とは、これはその一部ですか。間違い時は謝謝。
http://www.kotenmon.com/ecl/densetsu.htm

[4477] 三輪山の日の出  神奈備 2008/09/15(Mon) 09:19 [Reply]
方位につきまして、貴重なご指摘、ありがとうございます。

20度西に傾斜
鹿島神宮、飯豊山神社、誉田山古墳、若草伽藍、太子道

15度西に傾斜
香取神宮、出雲大社

古代において、全国的に統一された方位基準があったのでしょうかね。

現在の書籍でも、地図の上で線をひき、春分秋分夏至冬至時の日の出日の入りを論じる

場合が圧倒的に多いのですが、水平線から日が昇るのを見ることができるのは岬の先端

など限られた場所です。大和ではまず不可能。水平線に日が出てから実際に見えるのは

南側に斜めに登りますので地図上と言うわけにはいかないようです。
日置氏などはこの道で飯を食べていたのなら、充分承知のことだったのでしょうが。

参考 写真掲示板 三輪山の日の出

[4476] Re[4472]: 方位について(ちょっと加筆)  佐々木 2008/09/14(Sun) 22:28 [Reply]
 国土地理院の成果では、真北から9〜11度の間でした。
 20度近くなっている原因は、市町村発行の2500分の1の白地図の図化方法と国土地理院の25000分の1の図化方法の違いから生ずる誤差の継承かなと。
 これは経験済で、要するに平板測量の成果と比較できればいいのですね。
 さらに過去の歳差運動で、真北方位を出すだけでよかったのです。
 
 偏角はこの場合関係ございません。
 磁石を使用するような測量法になったときは偏角の情報も必要でしょうが。
 過去の偏角情報は、焼土等の年代を推定する時に使うようですね。

 あと2000年前の出雲大社は、どんな土地だったのか。少し気になりました。

[4475] Re[4473][4471]: 方位について  かたばみ [Url] 2008/09/14(Sun) 20:14 [Reply]
国土地理院空撮による作図です。
http://woodsorrel.cool.ne.jp/data/izumo_houi.png
空撮写真の真上を磁北とみなしています(地図と合うので誤差は小さいと思います)
2000年前の真北と社殿の北が一致するようにみえます。

[4474] Re[4473][4471]: 方位について  佐々木 2008/09/14(Sun) 19:30 [Reply]
> 新羅本紀の日食記事をかたっぱしからチェックしたことがありますが、ほとんど合わなかった(^^;
 今度天文学史の方に聞いてみましょうかね。

> 中国での日食記事をそのまま写しているからだとみています。
 そのような話を聞いたことがございます。
> 持論の年代観では神武(神武朝)はAD36- 66とみております(HP書紀年代の復元)。
 その年代で見ると、西南日本の偏角は西15度でした。
 歳差(地球の軸の傾き度合または星の回転の中心のぶれ)が天体位置計算で12°の幅でずれているとすれば、片翼のずれを出すために2で割って、6度、偏角15度+6度で、西よりで最大21度のずれが考えられるのかなと思います。
 そこで神奈備写真掲示板の出雲大社の建物(神奈備さんの記事)では西より20度弱とあるので、かたばみさんの年代値が近いとなります。
 西よりの偏角はAD0〜AD80、AD480年〜AD1100年に限定されるので、かたばみさんの数値はほぼどんぴしゃなのかもしれません。
 ※建物が、ほぼ真北を基準に建てたという前提。
 こんなことでよろしいのでしょうか。



> 出雲大社(の原型≒杵築大社)は国譲りの時の創建という記紀の記述が正しいなら・・
> 先のプラネタリウムによるとAD36-66頃の真北(=星の回転中心)は現在より12度ほどずれています。
> もし、出雲大社が創建時の方位を継承しているとするならば、ぴたりとなる?・・(^^)
> 厳密には出雲大社の測量図と真北の関係図が必要(あるはずですが非公開かなあ)。
> ここでは国土地理院の航空写真による出雲大社なのでおおざっぱです。
>
> 現存の建造物が真北で創建され、創建時の方位を正確に継承しているならば真北の差から創建年代も100年単位程度で推定できると考えています。
> (磁石が輸入されてからは磁北で処理する場合もあったと思います、ぶれが大きいはずで参考にならない)
>
> ちなみに真北を求めるのは作図だけで簡単に求められます。
> 適当な星の位置をマークして、東へ最大、西へ最大の位置の中心が回転中心、縄文時代でも巫者なら知っていたんじゃないかな。
>
> 現代建築でも真北を使いますが、地図の北は磁北です。
> 現在の大社町も東京も真北より西に7度ほどずれますが(偏角)、江戸末期(の江戸)では真北と一致していたようです。
> http://www.jmc.or.jp/faq/map2.html
>

[4473] Re[4471]: 方位について  かたばみ [Url] 2008/09/14(Sun) 17:32 [Reply]
興味深い事象なので首をちょいつっこみます(^^;
http://www.toxsoft.com/
ここにStella Theaterというプラネタリウムソフトがあります。
天体位置計算のいろいろは私にはわかりませんが、2000年前の星空も簡単に再現できるので常備品になっています。
新羅本紀の日食記事をかたっぱしからチェックしたことがありますが、ほとんど合わなかった(^^;
中国での日食記事をそのまま写しているからだとみています。

さて・・
持論では記紀の国譲りは神武による九州統一における大国主命の譲歩とみています。
(神武妃の媛踏鞴五十鈴媛は事代主命の娘であり、おおよそ大国主命と神武は同時代)
で、持論の年代観では神武(神武朝)はAD36- 66とみております(HP書紀年代の復元)。

出雲大社(の原型≒杵築大社)は国譲りの時の創建という記紀の記述が正しいなら・・
先のプラネタリウムによるとAD36-66頃の真北(=星の回転中心)は現在より12度ほどずれています。
もし、出雲大社が創建時の方位を継承しているとするならば、ぴたりとなる?・・(^^)
厳密には出雲大社の測量図と真北の関係図が必要(あるはずですが非公開かなあ)。
ここでは国土地理院の航空写真による出雲大社なのでおおざっぱです。

現存の建造物が真北で創建され、創建時の方位を正確に継承しているならば真北の差から創建年代も100年単位程度で推定できると考えています。
(磁石が輸入されてからは磁北で処理する場合もあったと思います、ぶれが大きいはずで参考にならない)

ちなみに真北を求めるのは作図だけで簡単に求められます。
適当な星の位置をマークして、東へ最大、西へ最大の位置の中心が回転中心、縄文時代でも巫者なら知っていたんじゃないかな。

現代建築でも真北を使いますが、地図の北は磁北です。
現在の大社町も東京も真北より西に7度ほどずれますが(偏角)、江戸末期(の江戸)では真北と一致していたようです。
http://www.jmc.or.jp/faq/map2.html

[4472] 方位について(ちょっと加筆)  佐々木 2008/09/14(Sun) 13:06 [Reply]
 高等学校「地学U」啓林館(平成8年)のp29で、「地磁気の短周期変化」の項目があります。
 そこに西南日本の偏角(磁石の示す北と真北の角度差)の過去2000年間の永年変化のグラフがあります。
 これを見ると西暦550年から650年と820年から920年は西15°、西暦200年から380年と1200年から1300年は東15°、1600年から1700年は東10°になっていました。  この数値に先の歳差を加えると、何か見えてくるのかもしれません。

[4471] 方位について  佐々木 2008/09/14(Sun) 11:51 [Reply]
 先般出雲大社の傾きについて紹介が「神奈備別荘」でありました。
 特別に資料を集めたわけではありませんが、簡単に言えば過去の地球の傾きを推定する内容が天文学者等によって紹介されています。
 下記サイトに天の北極の軌道が、時間別(何年前)で計算された粗い軌跡が描かれています。
 http://www.asahi-net.or.jp/~jc1y-ishr/Precession/Kyou_Shokujo.html

 出雲大社のずれが20°となると、5000年前となります。こんなに出雲大社の成立を古くしていいのかわかりません。5000年前からの伝承に従ったとするべきかもしれません。
 平安京のずれは1°未満、平城京のずれは1°前後らしい(別添サイト)で見ると1300年前以降になります。(平安京プロジェクトのサイト)

 http://homepage3.nifty.com/silver-moon/Heiankyo/digest.htm
 
 ちなみに中世は条里制に対して東に13°傾けて寺院を造ったそうです。
 
 大変な青草かもしれませんが。ご案内まで。

[4470]  栄えある神奈備掲示板    生田淳一郎 2008/09/14(Sun) 11:04 [Reply]
 百済語 ku(金)が出て、まだ興奮がさめやらぬときですが、朝鮮語辞書を読んでいましたら、kωm の項目の流れの中に kum(ねだん、金)があります。この kum の上も下も kω-- の語彙なんです。その途中にぽんと、kum があるのです。そして kωm(金)は出ていません。
 kum から kim に音を変えた主要因は、ネパール語の kimb(桑)ではないかと目されます。桑の木の皮で通貨を作ったのが、影響しているのではないでしょうか。

 そうでないとしたら、kum さんがなぜ kim さんのように発音されるようになったかは、やはり u / i 通音の法則があったからでは? そしてそのまた奥にはトルコ語の┃( = 日本の東北の“イ”)という巨大癖音の母音があります。

 この掲示板は「沖縄のグシケンはヒッタイト語の“金”であること」を、見破った名誉ある掲示板です。
 百済語の ku(金)は、グスクの ku(・ 強調で gu)だと思います。
 ー・ー、・−ー・、・・ー・、・ー、 ー・ーー 。

[4469]  自然人としての会話を      生田淳一郎 2008/09/14(Sun) 05:38 [Reply]
> 「金を賭けるか」みたいな回答はお断りします。
★ 同じ権利で、「こころに病気を持っていながら、且つ、覆面してる人とは、話になりません」を言おう。
 覆面していながら「じぶんだけが人間だ」みたいな意識はどこからでるのか?

 かなりの数のお弟子さんが、ウンジュの言辞に注目してるんだろ? だから先日のようなデタラメを言って、真理追求はほっぽり出して、じぶんの立場だけを護ろうとしているのでは?

 「ここで質議応答を続けると、専門的になりすぎる、I.T.掲示板は庶民文化であるべき」も、すでに告げた。
 同じことを、何ベンも言わせないで、『紋次郎・言語考古学』へ入ってきなさい。おら、生まれ育ちは筑豊たい。むかしのことはゴチョゴチョいわんばい。
 まずは電話(ファクス)048(882)4901

[4468] Re[4466]: つち(鎚)の語源  かっぽれ 2008/09/13(Sat) 15:03 [Reply]
>朝鮮語の i / u 通音のことを知らなかったから、そう記述したような次第でした。 i / u の通音とは……、お隣の国ではハンギルと書いて、両国あげてハングルと発音してるのです。

そうですか、もし事実なら重大な発見ですよね。この発言を見るのは確か2回目、相当な自信を
お持ちのようなので、単純な質問をします。
ハングルは表音文字ですから、文字通り「文字通り」の発音をするはずですが。
ハングルの綴りは한글。この「ㅡ」は通常用いられるローマ字表記でu(hangul)、2000年の
「韓国文化観光部告示」ではeu(hangeul)とする勧告がある。
いずれにしろイ「ㅣ」とは違う音。それがなんと混同されている?とは寝耳に水の情報です。
是非そのソース(根拠)を教えてください。

● 蛇足
(1)前記告示に、《ㅢ(ui)はㅣ(i)と発音されても「ui」と綴る》という付記。
  しかし今回の問題との関係はなし。

(2)韓国に「ハンギル社」という名前の出版社があります。
  これは「ハングル社」の誤発音とか誤表記ではなく、한길사(棒読みでハンギルサ)といい、
  全く別の文字が使用されているんですね。
  意味も当然違いますよ。
  한길(大通り、大道)
  한글(ハングル⇒意味は「偉大な文字」)

(3) 「金を賭けるか!」みたいな回答はお断りします。

[4467] Re[4465]:  お蔭で日本のヤタイ骨が浮上     神奈備 2008/09/12(Fri) 20:00 [Reply]
> 五島列島に「橘・白鳥」のセット遺跡(?)が出ていたことを機に、いまでは「津軽衆とは長崎大浦衆へ還元できる」という線まで来ました。

 
 「橘・白鳥」と言えば日本武尊が死んで白鳥になって西へ飛んでいったとか、海の神を鎮めるべく妃の弟橘姫が入水したとかが思い出されます。
 
 日本武尊が大和の国の人(々)とすれば、白鳥伝説とは無縁の存在だと思われます。日本武尊の名は熊襲の首領からもらったことになっていますが、これは童話のたぐいと見て、日本とは奥州の日高見国であるとか日本(ひのもと)の武尊と理解した方がいいのかも知れません。この奥州は白鳥崇拝の地域であり、白鳥も崇拝心もバイカル湖付近から伝えられたのでしょう。津軽衆と言えるのかも?。

[4466]  つち(鎚)の語源      生田淳一郎 2008/09/12(Fri) 17:02 [Reply]
   《 》
 『大黒様物語り』を読み返してみますと、やはりオレは純粋だったなあと思いますよ。まちがい、舌足らず、はみだしだらけでんす。
 あのころ、友人が「では、鎚の語源はなんだ」と訊いてきたとき、小生は即座に「わからん」と言ったことを思い出しました。
 しかし、いま考えればこれもネパール語の *tutu-(壊れる、壊す)あたりの語彙でできた言葉だとおもえるので、ここに発表です。

 tutu- といえば、tutuと *ub , um(生産)の合成でできた「チチブ(秩父)」があります。
 秩父彦が破壊と創造(シバ神)の国生みの神さまであることは有名です。
 ところが、原音に近い音は「トゥトゥ・ブ」なので「ツツブ」になるはずです。このことについては、これまで小生は、「新官僚が『これはヅ−ヅ−弁にちがいない』と断じて、言い換えた」と記述しましたが、これは穿ち足らずで、朝鮮語の i / u 通音のことを知らなかったから、そう記述したような次第でした。 i / u の通音とは……、お隣の国ではハンギルと書いて、両国あげてハングルと発音してるのです。

 ネパール語で鎚は hatawdi(ーwdiは道具)といいます。そして古代日本語で「はたく」とは粉々にするという意味です。粉々にする道具が鎚だったわけです。すると始発の鎚は粉々にする道具だったはずですが、使用する頻度によって次第に意味がかわり、ツチという音で鎚をいうようになりました。
 ではツチとはなにか……というと、はたた神(雷)と同じイカヅチのツチだったと思います。
 神戸の生田神社に雷神の意味も出てきたなぁ〜。うれしいが困った。
 古代人には、機織りも雷さまみたいに、やかましかったと思います。
 sin はベトナム語で雷 =秦 = ハタ。イランのハタミ大統領は、ご健在でしょうか。
 こなごなに岩を砕いて鉱物を採るとき大量の微塵がでます。それも「つち(土)」と呼ぶようになったのでは?

[4465]  お蔭で日本のヤタイ骨が浮上     生田淳一郎 2008/09/11(Thu) 15:52 [Reply]
席亭どん、さっそくの援助光彩、有り難うございます。しかも長文で……。
 お蔭さまで、暗かったああ港町十三番地にあったガス灯が、五百燭電球に取り替えられたみたいになって、周辺関連がハッキリしはじめました。
 日進月歩、これじゃあ、毎日々々が目くるめく破天荒な感受の連続です。

 五島列島に「橘・白鳥」のセット遺跡(?)が出ていたことを機に、いまでは「津軽衆とは長崎大浦衆へ還元できる」という線まで来ました。

 ところで、源・平・橘・藤のうち、橘が早めに勢いを失ったみたいなことを、小耳に挟んだような記憶があります。橘は神社スクリーンにはどのような影を映していましょうか。
 ご存じのように、津軽とはアビ彦が落ちて行った先です。由々しいことがいっぱいみたい。

 ヤタイ……ファラオの旗をかかげる、木わくだとか。

[4464] Re[4463]: 神奈備どん、助けてくれェ〜    神奈備 2008/09/10(Wed) 20:08 [Reply]
>  神奈備どん、薩摩に白鳥神社はありましょうか? 或いは“タチバナ”とのかかわりは?

白鳥神社(しらとりじんじゃ)倭建命
鹿児島県薩摩郡薩摩町中津川6557

白鳥神社(しらとりじんじゃ)日本武尊
鹿児島県曽於郡有明町伊崎田6426
由緒 白鳥神社は日本武尊を主祭神とする。史を按ずるに日本武尊は人皇第十二代景行天皇の皇子で天資英邁容姿端麗智勇竝なく慈愛慈悲和歌にも長じ給ふた。そして、西征東伐天下を経綸し給ふた御功績は我国史に顕著である。尊御年十六の時御父天皇の勅を奉じ日向の地に蟠居して暴戻な熊襲を討伐のため御下向奇略果敢その首魁川上師を誅し以て悉く平定し給ふた。今神社鎮座の所は即ちその砌玉歩をはこび給ふたところそして御腰かけの岩であったと申し伝へられる。
当神社の創建の年代は判然しないが「志布志旧記」に文和2年(註紀元2013年正平八年)再興とあり、また社家の記録に「白鳥権現者先祖所奉建立」といひ熊野山ぬのびきの瀧より御下向参河国、河内国、細島、高城、やがて当地に鎮祭の由申伝ゆとある。
古来白鳥六社大権現とごうせられ志布志郷伊崎田村の惣社として氏子及領主島津氏の祭祀厚く、また氏神として尊崇するものが各地に少なくない。

『平成データ』では、九州全体で24社鎮座、祭神は圧倒的に日本武尊ですね。弟橘姫命は鹿児島には見あたりません。

『日本書紀』の景行紀は殆どが九州の逆らう者達を征伐する物語、『古事記』は日本武尊が熊襲退治の物語、日本武尊が祭られる機会はあったのでしょう。但し白鳥は基本的には東北の鳥。白鳥と日本武尊のつながりは『記紀』的には特異な現象、『記紀』が書かれてからの神社創建かも知れません。

[4463] 神奈備どん、助けてくれェ〜    生田淳一郎 2008/09/10(Wed) 19:27 [Reply]
 神奈備どん、薩摩に白鳥神社はありましょうか? 或いは“タチバナ”とのかかわりは?

 ひとが語ったりダベったりするときには、地方とか地域ごとに抜き難い抑揚がみられます。それはイントネーションと呼ばれているのですが、それを地域限定という形で追求しますと、八重山〜薩摩〜長崎〜津軽の地域が、特殊な文化(偏執)を形成していることを思いしらされます。

 詳しくは『紋次郎・言語考古学』掲示板の 1261〜1264 に顕われています。
 小生は神奈備の脇にうろつくこと永年ながら、具体的な神様の分布など、まったく知りません。
 薩摩と長崎は多くの方言語彙を共通にしています。
 これら「ほうき星」みたいな言語分布の割拠は、旧勢力のテリトリーだったことでしょう。それを一層きわだたせるのが、神社の分布かと。

[4462] 無題  生田淳一郎 2008/09/09(Tue) 19:11 [Reply]
 下のサイト、少し読ませてもらいました。
 「オレは純粋だったんだナァ〜」というのが率直な思いです。

  わずか、5年か 6年前のことですが、20年も 30年も前のことのように思えます。

  http://kamnavi.jp/log/daikokusama.htm  純粋って何のことですかァ?

  ーーーヒトの善意だっきゃぁ、疑わんでくれよナ。それ疑われてると思うんで不純になる……、この思いつよし。

[4461] Re[4459]: 出雲大社  ふくろ  神奈備 2008/09/09(Tue) 17:43 [Reply]
> それと「西に約20度・・」ですけども、これは初期仏教建築の影響でしょうか?

 飛鳥の坂田寺は西に20度傾いていたようです。飛鳥寺は講堂のみが西に4度傾いていますが、残りは南北線通りのようです。
 面白いのは飛鳥から斑鳩への太子道が西に20度で、飛鳥寺と法起寺のラインにのっています。

 初期仏教は主に蘇我氏が関与していますので、西20度が意識されているのかも知れません。


『大黒様物語』 by 焼尻紋次郎氏 は下記に残っています。
http://kamnavi.jp/log/daikokusama.htm

[4460] 大きな“牛皮の”ふくろ     生田淳一郎 2008/09/08(Mon) 17:57 [Reply]
  6年前ぐらいのことでしょうか、ここで『大黒様ものがたり』をシリーズで書かせてもらいました。
 ところが、どうしても大黒様が持っている「袋」の語源がうまく解けずに、シリーズはしりつぼみに萎んでしまいました。
 ところが 10日ほどまえ「あ、ふくろはこれだ」と、納得できましたので、発表です。

 朝鮮語のふいごは phulmu です。この phul が √ i phul-i で造語されたのが北海道の胆振(地方)だと見受けられます。ネパール語の phuk(口で吹く)が、同様造語法で出来たのが「いふき」だと思います。沖縄のふいごは、ご(籠)がとれた語形でフ−チといいますが、これは「吹き」の沖縄癖音によるものとみうけられます。
 小生が持っている『ネパール語小辞典』には「 lo =道具」は明瞭には出ていませんが、いろいろな -lo がつく語形から絞りこむと「道具」がでます。普通、道具は -wdi が多く使用されるので、発見が遅れたようなしだいです。
 
 ふくろ(袋)とは、風を吹かせる道具が起源で「いふき道具」だったと思われます。別名、たたら。
 牛が日本列島にいつ来たか……確実にいえるのは古墳時代の末ごろだとかです。が、生きている牛ではなく、道具だけの牛の皮なら、かなり早くから出雲にも流入したことでしょう。

 ところで、牛の皮のふいご(吹き籠)は、ぶォお〜ん、ぶォお〜んと、うす気味わ〜るい音をたてたのではないでしょうか。その音はふくろう(梟)の鳴き声そっくりだったと思います。
 じっさい、小生の「ふだん記」仲間が、北海道京極でのナマ体験を書いていました。

 フクロ・フの「フ」はどこの言葉だったでしたか、鳥ですよ。
 川崎真治さんは「大きな鳥(フ)がはばたくので“けふ”が“きのふ”にな(化)るのだ」と云っていました。su 、syu(鳥)の変形かもしれません。

 ウシとは「 u(大)shi(風)」と分析できます。

[4459] Re[4458][4457]: 出雲大社  琉球松 2008/09/08(Mon) 17:09 [Reply]
 神奈備さん、いつもありがとうございます。

 「牛像馬像」は後世のもので「スサノヲ」との関係は薄いという事ですね。
 
 それと「西に約20度・・」ですけども、これは初期仏教建築の影響でしょうか?
 神仏の"論争"は今日においても決着をみていないのでしょうけど、古代には二転三転し、わけわからなくなっていますね。

[4458] Re[4457]: 出雲大社  神奈備 2008/09/08(Mon) 15:49 [Reply]
> 以前、出雲大社特別拝観の話題がテレビでありましたが、その祭に「牛の像」がナレーションされてましたね。
> この牛は「スサノヲ」との認識でいいんでしょうかね?

 残念ながら、見ていませんのでなんともはや。
 牛像馬像は銅鳥居をくぐった左側にありますが、江戸時代の奉納のようです。牛は一般的には天神さんの乗り物とされていますが、ここではまさかでしょうが、御祭神の父神の「スサノヲ」を牛の形で入口に祀るというのもいかがなものでしょう。「スサノヲ」は本殿の真後ろの素鵞社にこそ似合うように感じます。

 所で、出雲大社の建物鎮座の方向は真北から西に約20度弱程度傾いているようです。焼失前の法隆寺若草伽藍と同じような向きです。ペルシャの古い寺院や東国の前方後円墳にもこの角度のものが散見されるようです。蘇我氏が持ち込んだ信仰によるとの見解もあるようです。(栗本慎一郎『シリウスの都飛鳥』など)
 この出雲大社も乙巳の変で殺された蘇我入鹿の怨霊鎮めのために造営されたとの説もあるようで、何となく出雲大社の角度が気に掛かります。

 出雲大社で頂いた『出雲大社由緒略記』p.30の境内概略図を「写真掲示板」にアップしました。

[4457] 出雲大社  琉球松 2008/09/07(Sun) 22:54 [Reply]
 神奈備さんへ

 以前、出雲大社特別拝観の話題がテレビでありましたが、その祭に「牛の像」がナレーションされてましたね。

 この牛は「スサノヲ」との認識でいいんでしょうかね?

[4456] Re[4455]: マキノの鉄  佐々木 2008/09/07(Sun) 10:49 [Reply]
 素人さま

 ごぶさたでございます。お元気ですか。いつも中途半端で申し訳ありません。
 人命救助が優先なので、対応が悪くなるときがあります。
 実はもう目が見えないので、長い文書は数行しか見えません(とみたさんごめんなさい)。漏れがあればご指摘方。

> 私の不勉強なのですが、赤坂山(明王の禿の近く)は見つかるのですが、地名赤坂はどのへんでしょうか、製鉄遺跡はマキノ高原あたりだと思うのですが見つかりません。

 貴職に限って不勉強はありません。
 
 遺跡の付近の湖岸沿いの山にそんな名前がありました。湖西じゃなく、高島市マキノ町は湖北ですね。まちがいですね。すいませんでした。
 
 それは通称なのかもしれませんね。
 最近の地図で、数箇所思い当たる当時の山や地名を照合しましたが、ありませんね。いや様変わりです。
 大縮尺の地図でちょっと出てくる地名かもしれません。
 
 磁鉄鉱は湖岸で拾うことができるようですね。滋賀県の文化財協会の方は、遺跡については、ほとんど消滅に近いですよと言われてましたね。

 マキノの磁鉄鉱もスカルン鉱床ですかね。裏日本の方はチタンの含有率が低いのでしたか。良質の鉄鉱物が得られるとか。
 瀬田高原の小野とは、どのへんでしょう。湖西なら京阪電鉄が開発したところなのでわかるけど、よく似た地名があるから私から見るとパズルです。

 以前お教え頂きました「ゆざき」は聞いたような記憶はあるけど、またゆざきに関するホームページや文献などお教えくださいませ。
 
 素人さんはほんとうにお詳しいですね。すばらしい知識を文書にして公表してください。とりいそぎご回答まで。お役に立ちますれば。        

[4455] マキノの鉄  素人 2008/09/07(Sun) 00:37 [Reply]
佐々木様。
しばらくぶりで御座います。
>  湖西の赤坂は、北マキノ製鉄遺跡(陸軍によって供出を受けて破壊)です。赤坂地名は製鉄関連が多いようです。焼土の色でしょうか。
私の不勉強なのですが、赤坂山(明王の禿の近く)は見つかるのですが、地名赤坂はどのへんでしょうか、製鉄遺跡はマキノ高原あたりだと思うのですが見つかりません。
 戦争時には、鉄滓を掘り起こしたり近くの鉱山から鉄の硫化物を掘っていたように聞いたことがあります。試験的にこの鉱物で実験をしたら当然ですが亜硫酸ガスが噴出した様です。製鉄遺跡は有名な先生が調査をされているようですから消滅していたわけでは無いのでしょう。小野などの瀬田高原での律令期の製鉄実験でマキノ町の良質の磁鉄鉱(石灰を含む)が使用されたようです。湖岸で拾えるとか。
鉱山は琵琶湖畔と聞きます。
青草失礼します。

[4454] Re[4453][4445]: 丹後と竹野神社  佐々木 2008/09/04(Thu) 09:34 [Reply]
ちなみに
 舞鶴は近代地名で、もとは田辺です。また宮津から加悦あたりはかつて芳野と言いました。細川ガラシャ夫人が幽閉されて有名になりました。
 湖西の赤坂は、北マキノ製鉄遺跡(陸軍によって供出を受けて破壊)です。赤坂地名は製鉄関連が多いようです。焼土の色でしょうか。
 和邇氏も女系的ですね。これは海人族の特徴かもしれません。天武の宮廷歌人の山上憶良、柿本人麻呂が出ています。

[4453] Re[4445]: 丹後と竹野神社  とみた 2008/09/03(Wed) 22:58 [Reply]
佐々木さん、神奈備さん コメントありがとうございます。

私は以下のポイントを知っただけで自己満足しています。

> 天語山命の息子の天村雲が丹波伊加里姫と結ばれて、葛木出石姫と倭宿禰命がでる> これが当麻の長尾神社とかかわるようです。
>
> 長尾市は倭直で出石神社の宮司です。

>世襲足姫からなんと日置姫が出てきますね。

> 日置氏だ!これから和邇氏と日子坐王が出てきます。

日置氏を調べていたらこんなところにお出まし。

丹後の与謝の日置郷の浦嶋子は日下部首(丹後日下は網野に後裔がいますね)の先祖。雄略の時代。

日坐王が気になっておりましたら、やはり和邇氏とのこと。ワニはフカ・鮫のことでそれを信仰する海人らしい。

> 建額赤氏から、田裳見宿禰が出てこれこそ津守吾田で住吉神社神主です。

これは今NHKの朝ドラ、東京の佃島の住吉神社の話につながりますね。家康が大阪から江戸につれてきた佃の民。


舞鶴の笠水神社は、笠水彦の母の豊水富姫命=伊加里姫で水銀の神、 父の倭宿禰命で一つ目の鍛冶神を祭っています。

水銀と鉄が、関係しています。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
海部氏は女系集団?

船木氏は摂津から追われて丹後の奈具へ?

これは興味津々です。

私のインスピレーションは、和邇氏と赤坂です。赤坂は鉄だと思います。和邇は朝鮮渡来の太陽信仰と鍛冶集団とされています。

奈良は山辺の道に和邇坐赤坂日子神社があります。

丹後は今井赤坂。これは弥生時代後期末で関係がないか?

琵琶湖の湖西に赤坂があります。三尾氏か息長氏か

美濃に赤坂がありまして、湯沐邑です。壬申の乱のとき,大海人皇子に真先に応援した地ですが。この赤坂は鉄が取れて、それを狙ったのが和邇氏と尾張氏とかの説が分かれています。

吉野の首長は女酋で井光。

舞鶴の女神は伊加里姫で、井光と同じでしょう。

吉野から丹後の加佐郡(舞鶴)へ水銀を求めてきたのか、あるいは、丹後から吉野に向かったかどちらでしょう。

吉野も道教の地。

舞鶴も北に冠島と沓島があり仙人が脱ぎ捨てる冠と沓だし浦島太郎も竜宮城=蓬莱山と亀姫でいずれも道教です。

船木は、攝津だけでなく、丹後の竹野や伊勢や美濃にも地名があり日神です。(鉄説もあるかも。奈具はサナギと通じ鉄鐸説)

倭宿禰は一つ目の鉄鍛冶?水軍とばかり思っていました。

海部の地名は、全国にいろいろありますね。

豊前は海流の激しい関鯖で有名な海部郡佐賀関。隠岐島に、紀伊にもありますね。もっとも有名なのは愛知県の元首相の名のある海部でしょう。

[4452] 阿加留比売と豊受大御神 まとめ  神奈備 2008/09/03(Wed) 21:16 [Reply]
 古事記応神天皇段
 新羅国の阿具奴摩[あぐぬま]沼のほとりで女が昼寝をしていた。そこに虹のように輝いた日光がホトを射した。女は妊娠して赤玉を産んだ。様子を窺っていた男がその赤玉をもらい受け、腰につけていた。男は谷間の田の小作人の食べ物を牛の背に積んで谷間に入るときに天之日矛命(以下天日槍命)に出会った。「 お前は牛を殺して食べてしまうであろう」と言って獄舎に入れようとしたので、男は赤玉を天日槍命に差し出し、許された。

  天日槍命は赤玉を持ち帰り、置いておくと、うるわしい乙女になった。そして結婚して妻とした。 阿加留比売は天日矛命の為に、「種々(クサグサ)の珍(タメ)つ味(モノ)を設けて、恒にその夫に食はしめき。」とあります。ところが天日槍は心が奢り妻を罵るようになった。妻は「そもそも、私はあなたの妻となるような女ではありません。私の祖先の国に行きます。」と言いました。「阿加留比売は逃遁(ノガ)れ度り来て、難波に留まりぬ。天日矛、難波に到らぬとする間(ホド)に、その渡し神塞(サ)へて入れざりき。」と書かれています。
 これが難波比売碁曾社に坐す阿加流比売神と言う。

 阿加留比売とはさほど出来が良いとは言えない夫の天日矛から逃げてきた女人として描かれています。何故、彼女は神として祭られたのでしょうか。むろんひとりぼっちで来たのではなく、お付きの巫女さん方を引き連れての神としての来訪でしたのでそれなりに祀られたのでしょう。そのポイントは、阿加留比売には、大気都比売の神や保食神の雰囲気を感じるのです。御餞神と言える所が神らしい神だったのでしょう。

 天日矛を塞えぎった難波の渡しの神とは、住吉の神だと思います。『住吉大社神代記』には、子神として赤留比賣命神の名が登場していることです。赤留比賣命神は住吉三神とは何ら関わりがなく、神功皇后は天日矛の血をひいていても、赤留比賣命とは何も関係がないのです。皇后の祖先神からからやっと逃げおおせた女神なのです。縁としては、天日矛から赤留比賣命を守ったとこです。

 さて、話はころっと変わって:−
 『摂津国風土記逸文』によると、「稲倉山。昔、止与[口宇]可乃売神は山の中にいて飯を盛った。それによって名とした。またいう、昔、豊宇可乃売神はいつも稲倉山にいて、この山を台所にしていた。のちにわけがあって、やむをえず、ついに丹波の国の比遅(ひぢ)の麻奈韋(まなゐ)に遷られた。
 『丹後国風土記逸文』には、比治の里を追われた天女は竹野の郡舟木の里の奈具の村に至り、ここで「心が奈具志久(平和)になった。」と言われて、とどまりました。奈具の社においでになる豊宇賀能売命です。

 この話は現在伊勢神宮外宮に祀られている豊受大御神は元々摂津にいて、それから丹波に遷ったと言うことです。

 稲倉山なる山は現在の摂津の範囲には見あたりません。

 『住吉大社神代記』に「船木等本記」の記載があり、熊襲・新羅を征伐の際、船三艘を造り、神功皇后・住吉大神の部類神・御子神・船木の遠祖を乗せて渡りました。この船を武内宿禰は奉斎し、志麻社・静火社・伊達社の三前神となりました。また、津守・船木・某氏の三柱が大社の大禰宣として奉斎しています。

 住吉大社創建の頃には船木氏は重要な役割を果たしていたのでしょうが、その後の大社の歴史には登場していません。津守氏との主導権あらそいに破れたのかもしれません。基本的に船木氏とは日神を祭る役割があったのです。住吉大社に於いて船木氏の祀る日神とは赤留比賣命神であったのです。神功皇后に替わったので、お役ご免となったのでした。

 さて、住吉大社の第四本宮の比売神を神功皇后とするにあたってそれまで比売神であった赤留比賣神は現在の平野区平野東の杭全神社摂社の赤留比賣命神社に遷されたのでしょう。神功皇后を祀るのか、引き続き赤留比賣命を祀り続けるのかについて論争があったのかも知れません。船木氏は敗れたのかも知れません。この段階で船木氏は難波を追われ、住吉大社に祀られていた赤留比賣命神を奉斎して丹波の国の比遅の麻奈韋に遷ったのでしょう。丹波では赤留比賣命神を豊宇可乃売神として受け入れたのです。『丹後国風土記逸文』には、「竹野の郡舟木の里の奈具の社においでになる豊宇賀能売命」との表現があります。

 赤留比賣命神は今や豊宇可乃売神として伊勢の外宮の祭神となっています。

[4451] Re[4445]: 丹後と竹野神社  佐々木 2008/09/03(Wed) 20:41 [Reply]
>笠水はウケミズと読むんです。
 この読み、重要です。
たとえば、海犬飼氏:豊玉姫・玉依姫の父である海神(わたつみ)のために、山人国へ出かけて笠物(うけもの)狩に奉仕していた海人族。出典:新撰姓氏録、和名抄では阿波や上総国市原郡海部郷などに居たらしいですが、丹後にも居たのでしょうか。 それとも安曇犬飼の方で、天日槍命の通過点の滋賀県高島に安曇川があるので、滋そこから連行して来た可能性もあるでしょう。

 いろいろ絡んでいて複雑です。
 

[4450] Re[4446][4442][4441]: 琉球松さん  琉球松 2008/09/03(Wed) 17:51 [Reply]
 神奈備さん、佐々木さん、お手数かけました。ありがとうございます。

[4449] Re[4445]: 丹後と竹野神社  佐々木 2008/09/03(Wed) 16:42 [Reply]
C笠朝臣;孝霊天皇皇子、稚武彦命の後裔とすると、吉備から製鉄の技術の伝播に関わった?東に笠地名が続くような。
 治田連;開化天皇皇子、彦坐命の後裔、笠氏と親交があるらしい。近江の製鉄の技術の伝播に関わった。葛木・葛城との関わりは治田連でしょうか?
系譜は新撰姓氏録による。
 海部氏は、女系集団ではないでしょうか。

[4448] Re[4445]: 丹後と竹野神社  佐々木 2008/09/03(Wed) 14:31 [Reply]
とみたさん

@海部氏の出身は、熊野郡久美浜町海部(あま)字海士(あま)という説あり。
東には女布が、山頂には女布権現あり。
 
 舞鶴周辺(女布、大丹生)とともに「水銀」の拠点と言えましょうか。

A久美浜町海部には、意布岐(いふき)神社が集中して見られます。
ご指摘の鉄関係でしょうか。
「いふき」名から中部勢との関係が推定できるのかもしれません。
「水銀」は西舞鶴と久美浜両拠点、「鉄」時代は竹野川流域(たとえば大宮、峰山、弥栄町)に移動したのでしょうか。

B地名では、市野々、銚子山、笠などがあり、下総上総との共通点が見られます。

C笠氏は渡来人でしたか。少しあやふや。
 笠氏は滋賀県草津あたりにも痕跡(笠寺)、三河?に笠寺がありました。草津には木瓜原製鉄遺跡があります。
 木瓜原遺跡と遠所遺跡はともに製鉄コンビナートとして有名です。
 
 遠所遺跡の技術を滋賀県内や東海へ伝播したのでしょうか。
 
 笠金村と大海人皇子、額田王は、万葉集の有名な詠み手ですが、それぞれ近い場所で詠んでいるので関係ありでしょうか。
  
D加悦と伽耶が、それが門脇先生の丹後王国のヒントの原点だったようです。
しかし鍛冶遺跡は1箇所、群集墳が特徴ですね。愛宕社が多いです。

E竹を「タカ」と読むところは多いですね。詳しくは承知しておりません。
青草か神奈備でも話題になっていましたか。谷川健一翁がタケノと読んだので。

F尾張氏は、息長氏の後裔ですね。

 まとめ

★尾張氏・笠氏・・・製鉄のにおいがします。製鉄のにおいがあるところは、日吉社+愛宕・または秋葉社、意布岐社(これは鋳造?)などがあるようです。

★丹後間人地名の由来らしい、穴穂部間人皇女との関係はわかりません。

[4447] Re[4446][4442][4441]: 琉球松さん  佐々木 2008/09/03(Wed) 12:16 [Reply]
 緻密はありえない。
ちょっと専門的ですが、中之島図書館でコピーできましたが、

上遠野浩一2004、「茨田堤」の比定地について、歴史地理学、46
同上2005、古代「茨田」の範囲について、地方史研究、314
同上2005、淀川河口部における行基の活動について、(横田健一先生米寿記念会編)日本書紀研究
 この方は文書屋さんのようで、オリジナルの図が少なく文ばかりで読みにくい(実は時間がない)が関連する文書が網羅されています。
 茨田堤の位置は、京阪電鉄の枚方公園から香里園周辺の淀川とその旧流路の西側に限定しています。約12km程度。
 さらに行基の四堀川(吹田・大庭・姫島ほか)の位置についても考察しています。
とりいそぎ。まだざっと見ただけですが。

[4446] Re[4442][4441]: 琉球松さん  神奈備 2008/09/03(Wed) 11:33 [Reply]
>  佐々木さん、ありがとうございます。
>
>  神奈備さんの報告も参考にしたいと思いますので、結論は後回しにしますね。

 大阪市立中央図書館には徒歩20分程度。運動がてら『寝屋川市史』を探してみましたが、茨田堤については、何も見いだすことが出来ませんでした。
 佐々木さんは小生などと比べて緻密な方ですから、[4441] の御報告を以て小生の報告にして下さい。

 『枚方市史』にも、茨田堤の記事があり、また地図もありましたので、写真掲示板にアップしておきました。

 『枚方市史』のある茨田堤の場所についての説。

 天坊幸彦『古代の大阪』堤防を造って河内方面への氾濫を防いだもの。枚方市伊加賀や大阪市城東区古市・旭区千林などの地である。干潟の適当なものを基礎としてそれらを連結したとしています。

 『旧枚方市史』寝屋川市太間・池田・高柳から門真市一番・浜方面至る古川右岸。

 滝川政次郎『河内の薦席』茨田池は難波の入江の深部。この池に連なっている川は大和川だけだったが、淀川も氾濫すれば、その水は茨田池にも流れ込み、周辺の地を浸した。これを防ぐために茨田堤が築かれた。当時の淀川の左岸だった。
 ついでに難波堀江は茨田池の南にあり、讃良郡の地にあった。通説の天満川は堀江の河口である。

[4445] 丹後と竹野神社  とみた 2008/09/03(Wed) 11:33 [Reply]
宮津の籠神社は、宮司が海部氏です。ここの祝部の本系図と勘注系図が日本最古で国宝になっています。奥に真名井があって豊受大神を祭り伊勢の外宮へ持ってきたのはご承知のところです。

真名井はいろんなところにありますね。清水がわくところつまり川の伏流水が湧き出すところにいろいろあるようです。丹後の奈具だけでなく籠神社にもあり、舞鶴にもありますね、こちらが本家かもしれませんね。いずれにせよ海部の先祖らしい。

笠水はウケミズと読むんです。ウケはつまり宇気、受です。恩を受けるの受けらしい。豊受です。丹後では妙な読み方ですね!加悦はやはり本来はカヤと読むそうです。伽耶と関係があるのか?竹野はタカノと読みますがなぜでしょう。

苦手の系図に初挑戦。籠神社の系図では、海部氏は尾張氏に近く、尾張は物部に近いようで紛らわしい。尾張と葛木・葛城とつながってよく分かりません。

系図によっていろいろな関係付けがなされています。系図によってさまざまですがなんとなく、以下の関係が主系列のように感じます。

天照ー天忍穂ーニニギとニギハヤヒーニニギから神武が分かれます。

ニギハヤヒと火明命これが海部でしょう。

ニギハヤヒと天道日女と結ばれて、天語山命(=天香具山)と高倉下が生まれます。

尾張氏の先祖です。

天語山命の息子の天村雲が出て、それと丹波伊加里姫が結ばれて、葛木出石姫と倭宿禰命がでる。(別の説では、天村雲と日向の阿ヒ良依姫が結ばれることになっています。)

これが当麻の長尾神社とかかわるようです。

長尾市は倭直で出石神社の宮司です。

倭宿禰命の後が笠水と笠津です。これから、建諸隅=由碁里が出て、さらに竹野姫と丹波国造→海部となるようです。

天村雲からは葛城出石姫だけでなく天忍人と天忍男と建額赤が出ますね。

天忍人から建諸隅=由碁里や大海姫がでます。大海人皇子は関係があるのでしょうか?

天忍男から尾張氏系兄妹がでますね。兄のオキ津世襲から葛木彦尾張氏の祖です。

妹の世襲足姫からなんと日置姫が出てきますね。

日置氏だ!これから和邇氏と日子坐王が出てきます。

建額赤氏から、田裳見宿禰が出てこれこそ津守吾田で住吉神社神主です。そして津守屋主が紀伊国海神社の主になる。

なぜ吾田、阿多が津守に絡むんでしょうね??隼人がからんでいるのでしょうか?


丹波県主は由碁理でその娘が竹野姫と日葉酢姫で垂仁の后です。その本拠は舞鶴にあるようです。

<<舞鶴の伊加里姫神社は、神奈備さんと佐々木さんからヒントを得ましたので調べました>>

伊加里姫神社 舞鶴市京田 西側に白雲山(吉野系の地名か?) 伊加里姫を祭る

笠水神社 ウケミズと読む 舞鶴市公文名 白雲山の北部、加佐郡で豪族笠氏がいた。       清水の湧く真名井(ここも豊宇気大神の降臨地)に笠水彦、笠水姫=丹後海部氏 海部直の先祖。

の祖神を祭る。笠水姫は清水の女神 。     笠水彦の母は、豊水富姫命・・・、伊加里姫で水銀の神、 父は、倭宿禰命・・・一つ目の鍛冶神

      嫁さんは、現地の笠水女姫。子供は笠津彦命。

      付近は、高野由利で、水銀の産地。近くの祢布(ニュウ)神社は丹生であろう。ここが丹波の県主の由碁里の本拠。

笠は丹後加佐郡由来か、豪族の笠氏がいた。舞鶴は加佐郡浦入はもともとは水銀で8−9世紀??ごろには、国府の管理下で製塩と(製塩土器に笠百私印と刻印)と鉄鍛冶生産、9世紀には笠氏が国司。

結論として、水銀が貴重品として使われた古墳時代は水銀を掘っていたのが、古墳時代も終わり薄葬令がでると鉄鍛冶や製塩にシフトしたのでしょうね。吉野も水銀発掘から水田稲作に比重を移します。

以上、私にとって苦手の系図の解明ですがご批判をいただいて修正したいと思います。




[4444] デコイ の すまぶり     生田淳一郎 2008/09/03(Wed) 09:18 [Reply]
 気仙沼地方では、ニワトリが早く抱卵するように、たまごに似た小石を、巣の中に入れます。するとメンドリは母性本能を刺戟されて、ほんものたまごを抱くようになります、それをスマブリと云っています。
 
 アイヌ語に露頭している suma(石) + 下の pur(卵)……ならむ。

[4443] 東西にひろがる基礎語彙     生田淳一郎 2008/09/03(Wed) 09:09 [Reply]
おぎゃうぎわ〜るいのですが、重要だと目されますので、ここと、わが『紋次郎・言語考古学』とのダブル投稿を maphi ra アマカネ。

 きのふ、わが『紋次郎・言語考古学』[ 1185 ] に次のように五語形の書き込みをしました。
★ 「吠える」という意味の語彙は東Gではトンガ、フィジー、タヒチで、西Gではヒンディー、ベンガリー語で大略 chil の語形で喋られています。
★ 「咬む」という意味の語彙は東Gではフィジー、サモアで、西Gではヒンディー、ペルシャ、タミル語で大略 kat という語形で喋られています。

  オセアニア / 西G(インド方面) の類似語彙対比は 59語彙を挙げることができます。すでに 5ヶをあげましたので続けて残る 54を列挙したいのですが、『メール・保存』が利くようになったときには、一覧表にして掲出しなければならないところですので、ここは「全域」という文字が顔を出している項目だけを下記します。ここは、まずフィーリングをお掴みください。
 東Gとはオセアニアの「東グループ」、西Gとはインド・ペルシャ語の「西グループ」。
   ……………………   ……………………

《(p)mu 飲む 》 東Gは全域 西Gはヒンディー、ネパール、ベンガリーズ
《 kha(食べる)》 STを除く全域。
《 pur(卵)》 東Gはフィジーを除く全域 西Gはネパール語だけ
《 par(feather 、羽根 》 東Gは huru で全域 西Gはヒンディー、ペルシャ、ベンガリーズ
《 pae(足)》 東西全域
《 yak 、ak(肝)》 東Gは at , ak で全域。西Gはタミルを除く全域
《 lam(長い)》 東Gは全域 西Gは ヒンディー 、ベンガリーズ ネパール タミル
《 ek( 1 一つ)》東Gはトンガ、ハワイ、マオリ 西Gはタミルを除く全域
《 kor , kel(掘る)》 東Gはフィジー、トンガ 、タヒチ、マオリ  西Gはタミルを除く全域
《 pha、phal(果物)》 シンハリーズを除く東西全域
《 xat(笑う)》 フィジー、タミルを除く東西全域
《 mat(母)》 東Gはタヒチ、ハワイ 西Gはタミルを除く全域
《 tux(吐く)》 東Gはタヒチ、ハワイ、マオリ 西Gはシンハリーズを除く全域
《 ti-(3 三つ)》 タミルを除く東西全域

 これらの語彙群は 4万年 7万年の寿命を以って現代に脈々たり。
 こういう事実をなんら考慮することなく、わづか 3500年前にポッと出のサンスクリット語なんざを振り回して、お kam-a 掘られたんじゃ尻コチョばいいとですばい。

[4442] Re[4441]: 琉球松さん  琉球松 2008/09/02(Tue) 18:28 [Reply]
 佐々木さん、ありがとうございます。

 神奈備さんの報告も参考にしたいと思いますので、結論は後回しにしますね。

[4441] 琉球松さん  佐々木 2008/09/02(Tue) 10:45 [Reply]
 神奈備さん ちょっと失礼します。
寝屋川市史の茨田堤の原図は、6〜7世紀のようです。
日下雅義「平野は語る」大巧社、1998年のp21の図1に堤を担当執筆者が加筆したものようです(○○××、19??の第?図加筆と付記なしでは、市史としてはNG)。河内湖の形は同じですが、但し淀川の川筋は、ちょっと違います。
 西田俊秀⇒西田敏秀ですね。

[4440] ことば界隈で心霊現象が出ました     生田淳一郎 2008/09/01(Mon) 05:56 [Reply]
 ありきたりの評価では「天才」としか呼びようのない佐々木さんの頭脳は、すでにみなさん、十分に感知しておられるところと思います。

 小生、生田が台湾アミを読んでいると知った佐々木さん(アマカネ監査役・提督)が、二度にわたって「台湾アミ語の“北”はアミと云わないか」と、まったくあてずっぽうの問い合わせを書き込みされたのです、
 小生は「まさか」とは思ったのでしたが、二度ですので、調べてみました。
 ところがナンと、ほとんどズバリの正鵠だったのです。
 
 詳しくは紋次郎・言語考古学
http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/utubobbs.cgi
で観察できます。これは心霊現象の一つと表現したいところです。とにかく奇跡的なできごとですので、目を離さないでください。

 そこで申しあげたいのが、神奈備席亭が 6年ほど前に実体験したカンナリ現象のことです。
 われわれ現代人は物理化学のましゃくに合わない現象については、大幅にまちがった対応・処置をしがちです。とくに掴みきれてないのが自我現象です。
 自我現象については今日、明日じゅうに『呑み屋の価値観』に小生の存念を書き込みますのでアマカネ。
 
 巨大な理解不可能事に遭遇したときの個の反応は、「とにかく反発・攻撃しておけ」との判断を下し、平気で(正当性をでっちあげ)それを実行するという単細胞生物このかたのクセを展開します。
 まず、事実をシッカとみつめましょう。


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