青草掲示板ログ平二十一年 八月 2009.8
多に蛍火の光く神、及び蠅声なす邪しき神有り。湯嶽神・菊嶽神の集い。
素人のひらめき、力はないが騒がしくなかなか従わない、一寸の草木にもある五分の魂の発露を!
 青草談話室

[5211]  広がってきたホケケー地帯     生田淳一郎 2009/08/31(Mon) 13:44 [Reply]
 それはもう、1ヶ月も前から判っていたビックリ情報だったのですが、ここは大恩あるNさんに津々興味のお裾わけをしようとして忍々していたのでした。

 その情報持ってきた人は件の 秀信爺さんでした。
 やっぱ奥山育ちの人びとはいいですねえ! 自然作用を取り込んだことばと、その意識の乖離が少なです。
 その秀信さんが若いとき、真人(マットー)というところで教員してたとき、生徒たちに「おまえら、そばとマンジューのどっちがいいか」と尋ねたら、生徒たちがニヤニヤ笑って「またまた先生がへんなこと言う」と言ったそうです。
 マットー(真人)は十日町市と小千谷市に鋏まれたようなところで、いまは小千谷市に編入されています。マットーはお江戸のかわら焼き地帯のマッチ山と同系で「粘土とり」の意味だと見受けられます。優秀な粘土は窯焼きにとって不可欠で、この地名は……、古い!

 秀信じぃさんが帰ったらすぐ、 Nさんに電話いれました。
 だが、電話ぐち出てきた N さんは「腕を事故で切断したばかりだ。いてぇいてぇ」でした。
 もう、そろそろ痛みの去ったかな? そろそろこの情報を伝えようかといったところです。

 儂のはなしを丹念に読んでくれている人には説明の要もないでしょう。が、ちょと言いますと、とくに語りだしのところに特徴があって、そこの音調(イントネーション)が、鶯が鳴いたみたいにホーホケキョとなるのです。いや、ちょっとちがってホーホケケーなんです。
 ふつうのホーホケキョでは、おしまいの「キョ」が落ちますが、これを落とさずにホーホケの“ケ”の音階をそのまま引きのばして、ホーホケケ〜とやるんです。
 その調子で「うちのヤドロクは〜」とやってみてください。「あんなに言ったのに〜」とやってみてください。

 この特徴ある語りだしは、宮古島〜薩摩〜長崎〜津軽で、共通に聴けるんです。
 そして、この四地帯だけにしゃべられる方言がこびりついているんです。
★ まず第一に、この地帯だけにマンジュー(女陰)が聴けます(お江戸でも少々)。
★ ここの地帯の庶民は「ついたち、ふつか」と言わずに「シニチ、ゴニチ」と、吐き出すような口調で言います。
★ 「行ったサ、来たサ」の“サ”をいいます。沖縄では「流れは速い」を「ながりゃヘ−サッサ」いいますだ。
★ 委員会は「イインクワイ」いいます。
★ ぜに(銭)をダラいいます。

 これまでは、この特徴ある地域は宮古〜薩摩〜長崎〜津軽の四つでした。そこへマット−が、新たに参入しそうなんです。
 長岡、小千谷にも問い合わせが利く友人がいます。が、やっぱ大恩ある N さんにまっ先に報せたい。そういう昨今にございます。腕うしなった Nさんなら、なおさらのこってす。

[5210] 縣の神  神奈備 2009/08/29(Sat) 11:34 [Reply]
『日本書紀』巻二五大化元年(六四五)七月庚辰《十四》◆庚辰。蘇我石川麻呂大臣奏曰。先以祭鎭神祗。然後應議政事。▼是日。遣倭漢直比羅夫於尾張國。忌部首子麻呂於美濃國。課供神之幣。

 蘇我石川麻呂大臣は「先ず、神祇を祭り鎮めて、後に政事を議るべきです。」と言い、倭漢直比羅夫を尾張に、忌部首子麻呂を美濃に遣わし、神に供える幣を課せられた。

 さて、尾張と美濃の国が選ばれて幣帛が捧げられています。


 何故、尾張と美濃なのか

 東国との境界にあたり、東国に残っていた蘇我蝦夷・入鹿の勢力を牽制した。下総国には蘇賀比メ神社が鎮座。

 孝徳天皇が主導したであろう乙巳の変に尾張・美濃の出身者が活躍した。

 反天智天皇勢力の、孝徳天皇と大海人皇子の同質性の布石として挿入された。

 
 尾張と美濃が選ばれた理由はよくわかりませんが、幣帛を捧げられた神とどこの神なのでしょうか。

 尾張と美濃との神々で共通しているのは「縣の神」のようです。美濃国賀茂郡に縣主神社が鎮座、ここは王権の直轄地だったようで、その地の管理者が縣主ということになります。

 尾張の丹羽郡には田縣神社と大縣神社が対で鎮座しています。大縣神社は
「御社根磐」と言う磐座祭祀の神社のようで、古い神です。また現在まで続く祭礼の様子からは祭神は塞の神のように思われます。東国を睨むのには丁度よさそうです。

[5209] Re[5198]:   大君の へ にこそ死なめ   5     かっぽれ 2009/08/24(Mon) 16:21 [Reply]
生田さん
>すると「ナシ(梨)」の語源がぜんぜん分ってないのに呆れていたんです。梨は有名な梨の山地のフェルガナ盆地でもナシュパッチと云っているのです。

いいところに気づかれましたね。日本語の梨の語源かどうかはともかく、ネパール語でもnaspatiだし、ヒンディー語でも同じ形で、その元はペルシャ語nashpati。
16世紀から19世紀にかけてインド亜大陸を支配したムガル帝国の開祖バーブルはフェルガナ出身ですから、ペルシャ語を公用語としたインド(ヒンディー語)にnaspatiが入るのは自然の成り行きでしょう。フェルガナ地方の住人が話すタジク語はほぼペルシャ語(方言程度の違い)ですから。

このように、大帝国や大宗教の発展とともに言語も移動、侵食しますから、世界各地で同じような語彙が見つかるのも理由がないことではありません。先日のas-karもよい例で、
>as-kar というのは世界中に広くみられる軍隊用語で、普通、兵隊と訳されています。 as とは馬です。

「askar⇒足軽」説の可能性については触れませんが、asが馬だというのはかなり難しそう。
askarの元の言語については、アラビア語説とペルシャ語説があるようです。
アラビア語が元なら、定冠詞alがつくのでalaskar、これがペルシャ語に渡って語形が崩れlashkarになったという説。もしそうだとすればlashが「馬」でないと具合が悪いのに、ペルシャ語の馬はasbかaspですね。反対に、lashkar⇒askar説では、アラビア語に馬を表すasという単語がないことがネック。
asが「馬」というのはどの辺から来たのでしょうか、教えてください。

以上、ご参考になればと守備範囲内でコメントしましたが、議論は歓迎です。

[5208]   ウネメの語源       生田淳一郎 2009/08/24(Mon) 09:15 [Reply]
 多美さんがお書きになったウネメ(采女)について、ちょと書かせてください。
 もう十年以上も前のことになりますか、儂も「采女」という文字に惹かれて本を買って読みました。買った動機は、学者さん達がどれくらい古代語をわかっていらっしゃるのかが知りたかったからです。
 いや、その前に儂はいろいろな植物の語源について書いた植物学者の本を読んだんです。すると「ナシ(梨)」の語源がぜんぜん分ってないのに呆れていたんです。梨は有名な梨の山地のフェルガナ盆地でもナシュパッチと云っているのです。
 采女について書いた学者さん、どこまでその語源が分ってらっしゃるのかに最大の関心があったんです。すると、やっぱ、ぜんぜん分っちゃいらっしゃらなかった。
 ウネメほど簡単にわかる語彙も珍しいんです。 u(大)ne(指導者)me(女)です。そして、それがしかも、その制度からいってもちっとも外れちゃいません。
 「采」の字などを藤堂明保著『漢和大字典』で相談しましたが「ウネ=采」は出ていませんでした。采の意味は「摘む」と同じらしいです。→ 末摘む花(源氏物語)。

 上の両学者さんには手紙して、大略を訴えましたが、返事ひとつ頂けませんでした。
 こうして暮らしていますと、実にいろんな人びとに語源を教えてあげたい思いに駆られます。
 でも、今は電話や手紙で報せるのは、すぐに諦めます。その反応は目に見えているからです。
 ここの板で小生が「 ne =指導者」を提唱したときも、なかなかにスンナリと承服はしてくれませんでしたよネ。ま、出た釘の扱いはそんな紋です。

 でも、秩父には「中宇根さん」がいらっしゃいます。儂は拝んだりしませんが、この「中宇根さん」の佇まいだけには、静かに拝みたくなります。 naka ……、国という言葉が出る一歩前の「くに」で、 708年のさいたま騒ぎのときに、中央から来た人びとの末裔だろうと。

[5207] Re[5205][5202][5200][5199]: 奈良時代の年俸  琉球松 2009/08/23(Sun) 18:30 [Reply]
 "S会" のいやがらせで苦労した者としては、多美さんの意見に賛同です。

 「八百万の神々」が多神教と言えるか否かは別としても、縄文文化の「環状集落」に見られるサークル思想は、倭国大乱時の「環濠集落」とは違う助け合いの文化なんでしょう。

 そういう意味でも、S会流の個人崇拝は、倭人には馴染まないでしょうね。

[5206]   馬耳東風の十三回期      生田淳一郎 2009/08/23(Sun) 07:17 [Reply]
 「回期」という文字も、十三という数えかたにも自信ないですが、けふは時のローマ法皇パウロ二世さんが、カソリックの名において進化論を容認する宣言をした日から数えて 13年目です。
 あれから 7年めに人類はゲノム読み取りを終えました。
 人類はいよいよ新しい文化段階に入るのかな? と、期待しましたが、世の中はまったく変わろうともせず、景気の動向ばかりに気を取られているみたい。あ、オバマさんが大統領になったのが、変わったといえば変わったうちに入りましょうか。

 進化論容認にあたって、パウロ二世さんは付帯条件をつけました。それは「人間のこころは神様がお創りになったという従来の考えかたは少しも変わらない」という条件でした。
 ですが、「われわれの意識が大脳作用によって決定的に宿命づけられている」という事実は、進化論と同一“地平”にあるはずです。それは科学が立脚する素朴的実在論の次元にあります。

 こんな議論をするより、あの宣言がなぜ 1996年だったかを考えたほうがいいでしょう。
 アメリカ政府指導で「これからは大脳科学の時代だ」という風が起ったのが 1990年だったのでした。この趨勢に突き上げられて、カソリックは時代を先取りしようとしたからではないでしょうか。
 幸いというべきか、不幸にもというべきか、大脳科学が神経に及ぼす素粒子の計測で足踏みを余儀なくされています。
 だからといって、この際「あの宣言は無かったことにしよう」というのは、「都合のわるいことには、まず、それを攻撃しておこう」とする白血球中の A細胞 T細胞のうごめきと同レベルの野蛮な準拠です。
 もはや、神も精霊も悪魔も魂も、前世も来世も、そしてそれによる輪廻も吹っ飛んでしまっているのです。それだのに、いつまでも過去の準拠に拘泥し、因循姑息を続けるは、 A細胞 T細胞です。
 多くの宗教はメシア(救世主)待望に奔っています。そういうゴーストに掌を合わせて拝んでいると、アフリカのピグミーさんたちから嗤われようという紋です。
 メシアという精霊はいません。それよか、天才を大量に創ることは可能です。数百万人の天才を育てて、その彼らに言語を攻究してもらって、新しい準拠を創ってもらいましょう!

[5205] Re[5202][5200][5199]: 奈良時代の年俸  多美 2009/08/22(Sat) 11:39 [Reply]

>  有権者の10%程度がS会のトップの指図で投票行動をする、

宗教団体が時の権力に纏わりつくのは今に始まったことではないと思いますが、幸い日本では(過去に一度だけ大失敗しましたが)、門徒、キリスト教など人口の10%位までが普及の限界のようです。
日本は八百万の神々の国、日本人の魂がそれを阻止すのでしょう。

したがって≪S会≫もこれ以上の増殖はないのではないでしょうか。
また、そうあってほしいですね。

いずれにしても一神教はいけませんね。

[5204]  ラッパでは 統治不能が歴然とみえた   生田淳一郎 2009/08/22(Sat) 08:44 [Reply]
 下ではメーン・テーマが筆のいきおいで流れてしまいました。
 メーン・テーマとは、「なんで 180名が 60万人を制御・統御できたか」だったと思います。
 
 そこで儂は、「クマル・クマリがいた邪馬台国」の後をとった各地の豪族は、自分らが崇拝している神と、他氏族の神とのランキングがいちばん気になりだし、そこで紀記の二冊が出たものと、おもいました。
 自分らの“今”の資質のことではないのです。自分らを操っている神さまの資質のことです。
 そこに書いてある「自分らの神さまごと」が、他と較べて見劣りする場合には、当然にも、中央政府に対して強い突き上げの抗議が起ったことでしょう。

 豪族とは、儂が下記した○賀の殿様、及び、それに相当する実力者です。
 一連の、且つ十数種の「○賀集団」が来始めた段階では、もうわが日本列島は、まったくの野蛮状態ではなかったと思います。
 (おそらくシナ発の)これら○賀集団のもとには、いわゆるラッパ・野ぶせりの類いの存在は許されませんでした。筑豊の海賊は、この段階で崩滅させられた……と、置きます。
  ラッパ・野ぶせりの類いでは、「窯元単位だった“くに”」さえ長期経営はできません。
 神々の関係に「よしみ」が通じていることが平衡和平の基本だったはずです。

 では、「よしみ」とはなんだ?
 具体的には知らぬ同士が「ねぇ!」と云ってニッコリすることでしょう。初期では握る部分だけがえらく装飾された「蕨手刀」が、よしみの象徴として贈与されました。
 「よしみ」の「よし」が“神社”となっていることは、ほんとうです。それは水戸藩がお寺の代わりに 「△△よし」という神社を40も創設したことで明らかです。
 「よし」の語源は 「 i(神)・ os(支配する)・ i(ところ)」だと思われます。
 よしみの「み」は、ハッキリしませんが、ネパール語の mil-, mir-(会見する、調節する)が強烈に匂います。そのまま「 mi = 神(われらを支配する神)」かもしれません。

 クマル・クマリが同部族連合の象徴だったころは、クマル・クマリをとりまく周囲の神々は均一でした。だからクマル・クマリは一人でよかった。
 60万人が 180人のクマル・クマリを養っていたと看てはどうでしょうか。

[5203]   よしみを通じた関係     生田淳一郎 2009/08/21(Fri) 08:48 [Reply]
> おそらくは支配者は神に仕える身としての神通力を持っているものと思われていたのでしょう。
★ もちょっと煮詰めて「神通力を持っているものと思われていた」のところを「持っているにちがいない」にでけまへんか。
 更に絞りこんで、「持たないわけがない」→ 「持っているんだ」あたりにくると、信念を通りこして、信仰にならいしょ。

 子母沢寛さんの記述により、わしが剔出した幕末の徳川がたの英傑には突出した四名さんがいます。もちろん第一は勝海舟。それに実務派で勝海舟を見い出し rok-sewa(引上げ)した大久保忠寛(薩摩の大久保一蔵とはちがう)。図無しの神経と肚の持ち主の山岡鉄舟、これで三人め。この鉄舟を慶喜に推挙した高橋謙三郎政是(伊勢守)を加えて四英傑です。
 高橋謙三郎政是は鉄舟の嫁さんの姉の婿さんです。
 高橋謙三郎政是は、慶喜が謹慎している上野の山を中心としてイキマク旧幕府のサムライたちの暴発を睨みで抑えていた人物です。
 その「睨みと抑え」の中核にあったものは超能力を発揮する槍術です。
 勝海舟は高橋謙三郎政是の無私潔白さは前々から知っていましたが、上野山で慶喜さんの許で話したとき「日蓮さんを斬ろうとした瞬間にカミナリが落ちてきて、どうしても斬れなかったというが、こんなの本当にあったのだろうか」と質問したとき、高橋謙三郎政是は即座に「ある!」と答えました。
 翌早朝、勝海舟はアポなしで高橋謙三郎政是の槍術の道場へ押しかけます。
 そこで勝海舟は、槍を使って刺す俵あげで、間(ケン)や尺で計っての素朴的実在論の世界では説明のつかない事実をみせてけられた……という小説になっています。ウソ含みが許される世界・意識・領域(慾)です。ガハハハ
 
 じつは、勝海舟のおやっさんの小吉も勝海舟も高橋謙三郎政是も、ホッケ衆といわれた S学会会員だったのでしたが、現代のようには凝り固まってはいませんでした。
 勝海舟は、世間との照らし合せでは、若いとき剣を振りくりまわして気絶したとき、師承の島田虎之助が「神仏を体得した」と言ったを通用させていたようです。

 S学会は、わしがあれほどもがき苦しんだ「自我現象」に就いては、たったひとことも喋ることができなかった知的体系の持ち主集団です。
 あれで宗教もねえ紋だ(津軽弁?)

[5202] Re[5200][5199]: 奈良時代の年俸  神奈備 2009/08/20(Thu) 20:37 [Reply]
> その数は八世紀中葉でほんの百数十人ぐらいである。

 20人以上の兵力を動員するには天皇の裁可が必要だったようです。

 数少ない支配者階級で、五〜六〇〇万人の人間をよく支配できたものと思われます。おそらくは支配者は神に仕える身としての神通力を持っているものと思われていたのでしょう。だから民の上に君臨できたということ。

 丁度総選挙の最中ですが、あの気持ち悪い似非宗教団体(略してS会)なども怖い人々で構成する武力があるようですがあまりこれを表に出さずに、五〜六〇〇万人以上の会員をコントロールしているようです。古代専制君主的組織と言うべきでしょう。

 有権者の10%程度がS会のトップの指図で投票行動をする、これは民主主義の弱点をついた行為で、民主主義では望ましくない政治行動だと思います。投票率が低いとそのウエイトが益してくる、だから都議選で全員が通ると言う馬鹿馬鹿しいことが行われる。

[5201]   大君の へ にこそ死なめ   6 (完)   生田淳一郎 2009/08/20(Thu) 16:54 [Reply]
 多美さん、神奈備ドン、脇資料をどうもどうも。
 ほかの人びとも来始めたようなので、このへんで he の噺を完結させましょう。

 昔のサムライを考えるとき、彼らは、われわれと比較にならないほどに野蛮人だったことに気づかされ驚かされます。
 シナから来たらしい○賀の殿様といえど、ほとんど文字は知らず、正式外交文書を作るときには、朝鮮発の知識人に頼るよか手がありませんでした。
 とはいえ、彼らは海路と、この島のいちおうの大きさは知っていました。
 文字を知らないということは、文字を持っている文明国のシナに対して圧倒的な落差を感じながら、この国に住む者だけでも、感情的一体感を持ちたいという願いが凝縮して行った、と思います。それが「死なばもろとも意識」で、それが再び一種の島国根性として、へんなふうに爆発したのが、大東亜戦争ではなかったでしょうか。

 どだい、高級な思考は高級概念向きの語彙を必要とします。
 高級思考らしきものを辿ろうとすれば、近いところでシナ語、ちょっと遠いがサンスクリット語になります。だが人生は短い。よその言葉の字句解釈をやってるだけで一生は吹っ飛びます。

 和の五王あたりが持ち込んだ統治法は、この島国では、「(上下)一体感」となって結実したはずです。そしてそれは、いっしょに「信賞必罰」も。

 大東亜戦争で兵士が死を誓うとき「大君の he にこそ死なめ」と、本気になっておごそかに歌いました。こんなへんな語はよほどのことが無いかぎり「厳かな場」では歌われないはずです。
 牧師が両手をあげて「お〜お! 天にましますわれらが神よ!」といったとき、だれかがピ〜っとやるようなもんです。
 he とはネパール語の pes(賜与)の原義がわからなくなって、“兵”が強調されたり「辺」になったり、モノノベやしもべ(下僕)の be になったりしながら意転したものでしょう。
 でも、庶民は、この he に、いろんなこと云って溜飲をさげましたヨ。「なんじ臣民、臭かろう」なぁ〜〜ち。

[5200] Re[5199]: 奈良時代の年俸  多美 2009/08/20(Thu) 11:25 [Reply]
> 『万葉時代のサラリーマン』太田隆次著から



門脇禎二著「采女」中公新書73にこんなのがありました。

>第三章 平城京の采女
・・・・・
第一の点は、平城京はまさしく天皇と貴族の都であったことだ。奈良時代の日本の全人口は、五〜六〇〇万人と推算されているが、そのうち平城京の人口は、八世紀の中葉で約二十〜二五万と計算されている。人口だけならゆうに古代ローマの都市と十分に比べられる。しかし、このなかで、都市における俸給生活者を保証されていたのは五位以上の貴族だけであり、その数は八世紀中葉でほんの百数十人ぐらいである。他の人びと―六位以下の下級官人や一般の都市民は、生活の基礎をおのおのが出てきた農村にあった。逆にいえば、当時の大部分の人民が、都市に住む天皇とごく少数の生活を支えていたわけだ。日本古代の専制国家としての体制は、こういうかたちでなりたっていたのである。

[5199] 奈良時代の年俸  神奈備 2009/08/19(Wed) 17:32 [Reply]
『万葉時代のサラリーマン』太田隆次著から

 構成
  位田 実質私有地
  位封 実質私有民
  位録 繊維製品
  季禄 繊維製品と鍬

 上級貴族・諸王
    正一位  3.7億円
    正二位  1.2
    正三位  0.7
 
 中下級貴族・諸臣
    正四位  0.4億円
    従四位  0.35
    正五位  0.28
    従五位  0.15

 下級官僚    704万〜318万
 最下層     256万〜230万

[5198]   大君の へ にこそ死なめ   5     生田淳一郎 2009/08/19(Wed) 08:15 [Reply]
 現代のセールスマン管理は一人のトップが間違いなく部下を監視できる人数は、せいぜい 3名だとされています。経済や宗教などの諸般の意識がたてこんでなかった昔でも、せいぜい 4〜6名だったことでしょう。むかしの繪を見ても、馬に乗った殿様(と、呼ばれる者)の周りに 4 〜6人の足軽とか家人がいっしょに出陣しています。
 どの「家」にも馬がいたわけではありませんので、主人のまわりを 4〜6名がガードしていたとなります。as-kar というのは世界中に広くみられる軍隊用語で、普通、兵隊と訳されています。 as とは馬です。
 先日、家とユイ(結)が語源的に近いことをここに書きました。この単位が日本で永くつづいた家という単位だと踏んで宜しいでしょう。
  鎌倉期に博打が禁止されましたが、博打は立派な「身すぎ、世すぎ」のなりわいでした。ユイとか家から放れた家人は個人経営のバクチ打ちに身を落とすしか道はなかったのです。バクチ打ち……、夜は冷たい、こころは寒い。親分みたいなご仁に頼ったと見せかけて、結局は裏切らねばなりません。それはもう、厳しい世界です。片っ端から殺されていったことでしょう。
 そういった家人にとって、たったひとつの希望は、親方(御館)が自分に目をかけてくれているとの安心感です。家人はいつも直属の上司の顔色や目のうごきに一喜一憂して暮らしました。
 むろん、横のネットワークなど皆無です。横列の仲間がないところから、日本では友情が育まれることはほとんど無くなりました(司馬遼太郎)。友情どころか思想すら無くなったのです。ちょっとでも変わったことを云うと「おまや、何ば考えちょるとか!?」と咎められ、その場で斬り殺されました。
桎梏は“家”だけではありません。江戸期にはいると、これに“身分”が付加されました。江戸の街には 200の身分があったといわれています。インドには 2000もの階級があるそうですが、小生が持っているネパール語辞書には敬語は四つか五つしか載っていません。
 
 小生は『勝海舟』を何べんも何べんも読みかえしています。この本で著者の子母沢寛さんは、海舟の発言として「人間は肚の中にせきせぇせえ(赤誠さえ)ぶちこんでおきゃあ、それでいいんだ」と言わせています。最後の徳川将軍の慶喜からは長州との関係でコケにされたのですが、慶喜が江戸を去るときには、その方向に向ってカエルのように両手をついて肩ふるわせて泣いた、としています。天皇制を疑うなど、つゆほどもできなかったサムライだったと思います。
 坂本竜馬さんが斬り殺されたのは「メリケンじゃなあ、将軍様はピープルの入れ札で決まるんじゃあ」と喋りすぎたからだと小生は思っています。

[5197]   大君の へ にこそ死なめ 4     生田淳一郎 2009/08/18(Tue) 16:32 [Reply]
 かんじんの nuro(布)などには手が届かないままの推論です。ま、許されよ。
 片肺飛行でも、まず「飛び立つこと」が肝腎です。

 キ・キレ vs ヒ・ヒレ……の二語はキ・キレが古く、その次に高級布地のヒ・ヒレがあるようですが、ネパール語に残っている語彙で照射してみても、その原初のうちは、ナニがナニやら分らなくなっています。
★ 「栲」に対応してるようなのに dakha(木綿)があります。
★  pakhi-(毛布を頭からかぶる)という語があります。pa は頭です。khi が毛布……で、キ・キレはぶ厚い木綿をいうのだろうかと思わせるのですが、もともと、ネパール語の kh は中央アジアあたりでの x に相当するので、二ャンとも云えなくなります。
★ ところが、社会に階級が現れたあとの現象だとおもえる pahiri-(お着になる)という敬語があって、 hir が高級な着物……を匂わせています。

 時代が降ってくると切れ地には厚いのと薄いのとの双方があったとみるべきでしょう。トンボに関わるものであるかどうかは別として、アキツヒレは木綿よりも薄手で柔らかい布地だったとおもわれます。
 その二者を纏めて呼んだのが「ヒキ」だったと、小生は診ます。ヒキとは原反のことで、引き出物、水引きなどに入っているヒキです。今では反物を数える数詞が“疋”です。
 「水引き」とは「神(=殿様)のミイツを象徴した反物……下され物」だと思います。
 ○賀の殿様は、日頃、ムサ(武者)共にはみすぼらしい着物を着せておき、ムサが功労をたてたときだけに、ヒキを報賞品として与えたのでしょう。
 櫛引はよくある地名ですが、辞書は「櫛製造職人」としています。これ、ほんとうでしょうか。ネパール語の khus は幸福とか楽しみとか、喜びにあふれた内意です。そういった喜びにあふれる下し物が「櫛引」では?

 このへんで、藤原なんとかさんが大好きなニッポン・サムライの根性が奈辺にあったかを洗いだしてみたいと思います。
 大平洋戦争中、洗脳された日本兵は「大君のへ(辺)で死にたい」と、「海ゆかば」を歌って散りました。その「へ」とは、どういう経緯を経た精神性だったか……です。《続かないかも》

[5196]   大君の へ にこそ死なめ 3      生田淳一郎 2009/08/17(Mon) 08:31 [Reply]
 膂力といいますがその部分です。肩の両端を冷やすと病魔が入ってくると考えられていました。また、むかしの人はテコ(手きゃはん)をつけましたが、手のくる節の上 5cmのところも冷やしてはいけないところらしいです。
 次は股の両脇です。鵜飼いの漁師がつける腰蓑は、ちんちん隠しのほかに重要なはたらきを持っていたわけです。
 いよいよの原始人は、まずここを冷やさないように、蘆葦を巻き付けました。
 どこの祭りでも古代衣裳を纏って演出します。男鹿でも、オランダでも、スイス東部でも、ナマハゲは蘆葦を纏っています。蘆葦が尊重される所以です。悪魔たいじです。茅の輪くぐりです。

 どこのことばでも、ちがう概念なのに同じ音がいろいろ現れてくると、その語尾に r や l を添えて他と区分します。確定的ではありませんが、朝鮮語には l を添えるクセがあるようです。
 世界規模……といいたいところですが、少なくともAW(アジア・ワイド)では、布は phi とか phir といっていたのではないか……が、気にかかります。
 もちろん、ここのおネラは「あきつヒレ」の phir-e です。
 先まわしに言っときますが、ヒレ、キレの「レ」は -ra + -ai の強調末尾辞です。
 「あきつひれ」と聞いたら、みなしゃんは「アキツ=とんぼ」しか知らないので、その記憶にふり回されて「とんぼのハネのように、透明性がつよい絹製品だろう」という解釈が支配的です。しかし、そういうこと(絹・透)もあったかもしれませんが、小生はあえて「広島県の安芸地方に移住して来た呉の機織り職人が造ったヒレだ」と、置きます。
 アキとはもともと agri とおなじで農耕をいいます。その田んぼで湧いた虫がアキツです。aki が akri と、へんな r が立つのは、西洋人のただのクセってぇ紋です。そしてふたたび、第二子音濁化のクセで akri は agri に音転します。
 
 村山七郎先生はフィリピン・タがログ語を中心にして、*taphi(小布)を剔出されました。
 これは、更に「tak(栲)・phi 」と分析できないか……です。

[5195]  大君の へ にこそ死なめ 2     生田淳一郎 2009/08/16(Sun) 16:53 [Reply]
 昔の関東平野は広大な氾濫原でした。また海も内陸深くまで入ってきていた。稲作は山地寄りのところでしかできなかった。
 そこを、裸地帯を睨むようにして、(旧)関東平野の中心部に結城(ゆうき)市があります。「ゆうき」は結城紡ぎで有名ですが、この地で紡ぎなどをやりだしたのは、ぐっと時代が降ったのちのことらしいです。この結城の本店は毛のくににあったと言い伝えられています。
 栃木県の中央を流れる第一級河川の名は鬼怒川で、この川は江戸へ引いた運河始発点、野田市まで南下しています(ここから東に進めば銚子に着きます)。
 鬼怒川のキヌとは、もちろん当て字で、これは絹とも直接の関係はなく、小生は「キを nu(する)」と置きます。「ゆうき」のキ、鬼怒のキは、いずれも「着物」のキで、またキレのキでもあります。
 布(きれ)を「キ」と呼んだ時間と地域は、これまた広大だったことを匂わせています。
 おむつのことは、昔はムツキといいました。 mut とは小便で、赤ん坊の小便を吸収させる布がムツキです。陸奥の国に住んでいる睦毅さん、ごめんなさいね。
 そこで、紡ぎのゆうきを見ると、これは「キ(布)をゆう」と言っている……らしい。英語でいう to tie は結うのほか「きびる、くくる、むすぶ、しばる」などといいます。そのうちの「ゆう、きびる」は織物に関係ある“結び”ではなかったか……です。
 栲(タク)は、音からいって、樹皮をとんとんと叩いて広げたものを陰部隠しにするといったぐらいの程度のものが始源でしょう。その樹皮の長いのをニ三本合わせれ捩れば強い糸になることを知った原始人は、こんどはその紐を籠編みのようにして魚を掬うようになります。
 そしてその一方で、それを身体に当てると寒くないことを知るにいたります。

 初期の布はぶ厚く、タオルぐらいの大きさだったことでしょう。
 布にキ・キレがあったのですが、それと直接の関係があるかどうか……、「ヒ、ヒレ」という布があるのです。
 √ アキツヒレ、負いなめ持ちて 馬かえわがせ  《つづく》

[5194]   大君の へ にこそ死なめ     生田淳一郎 2009/08/15(Sat) 11:27 [Reply]
 ウオ〜ッとあがる拍手喝采のどよめきとともに「紋ちゃん(わしのこと)、それだそれだ、よくぞ見破った!」みたいな声が聞けるかと思ったが、やっぱ常識をハミ出すこと 3%ぐらいの、ほどほどにしておかないと、ウケがわ〜るいようです。

 ほんじゃ、こんなのどうだべ。
 武蔵七党というが、その頭目と目される児玉党とは「コ(卵 → 繭)玉」だったと置きます。
 すなわち、織田 --徳川連合の基盤が木綿とその糸玉にあったように、停滞しがちな農村に弾力的な刺戟を与え続けるかっこうの産業が金属精錬と木綿〜蚕業(機織り)であ〜る。
 ○賀の殿様は、そんじょそこらにゴロついているムサどもや神官(潜在戦闘要員)に、着物を着用させて、身分が一目でわかるようにした。
 ほとんど裸同然の身なりをしているのが、農民や奴隷だった。冬期の下層民はケモノの皮を着用していた。これが○賀の殿様たちが来る前の、初期の毛のくに(?)の産業構造で、平野部の大衆に、山塊で取れる毛皮を供給していた。
 機織りは関東にいつごろ導入されたのか、わしゃシラン。
 だが、底辺大衆の農民・漁民は木綿など機織りの着物を着るのを嫌った。そんな物を着ていると兵隊にとられるからです。人狩りが来て連れてゆかれても、裸でポヤンとした顔をしていたら、ムサも○賀の殿様も、武闘や戦争は諦めざるをえない。
 昭和 35年頃まで、九十九里浜の漁民はフルチン・フル△△で地引き網を曳いていました。
 「そんなの文化的じゃないのよ」と言うて聞かせたか、関東で最高の山岳密教の砦だった房総南部の鋸山の東にある千倉一帯はボタンドーロクと呼ばれる、へんな官製仕事着をお仕着せにされています。
 それでも関東のはだかは改まらなかった。
 それを脇から証拠だてるのが、江戸期の中古着商で、「江戸は将軍さまのおわす街だ、裸はイカン」というキッツ〜いお布れが出て、大量の中古着物が京都大阪方面からもちこまれました。「ほとんど裸」が許されたのは駕篭かきぐらいなもんだったでしょう。
 東京に並みいる百貨店は、この期に大儲けをした古着〜呉服商でした。この“呉”服に注ぎ目しましょう。《つづく》

[5193]  単音節のくにの名前      生田淳一郎 2009/08/14(Fri) 13:29 [Reply]
 みなしゃんがたの関心がケのくににきているを幸い、ぜひ書残しておきたいことがありますので、資料も構想(空想)の練り上げも未完成ながら、アップさせてもらいます。

 古代の人、神、氏族、くになどの入れ組み具合などについての教養ゼロな小生ですが、「ケのくに」を巡って、まず言いたいことは、「ケとはなにを意味しているのか」ではなく、単音節の「くにの名前」が目につくということを訴えたいのです。

 和の五王なども、パンフレットをちょっと読んだだけですが、そこで感じたことは、和の五王みたいなグループが「国造りのパターン」を、この日本列島に運んできたのではないか……でした。パターンとは洋裁に使うパターンで、「国とはこうしたスジに沿って造ればいい」という、マニュアルです。
 小生が追求しているネパール勢力は、「ムサ(武者)でござる」と威張っていても、文字は知らなかったと思います。文字を知らぬということは、威張ることはあっても納税組織をまだ持っていないということです。
 そこへ、シナから文字と統制組織を持った優れた軍団がやってきた……とおもうんです。
 その特徴は国の名前が単音節だということです。
 シナには呉にしろ楚にしろ、単節音です。どうしてそうなったかは別として、くにの名前を単節音にするのが、当時のクセではなかったか……です。
 和歌山県・紀の国の ki はツクバ山麓にもありました。大沼沢地を控えている古河(コガ市)は、一つの藩でした。このコガは朝鮮語で「親方」という意味もありますが、これを KO-ga と置いてみるとおもしろいものが浮上します。
 ga とは「くに」ではないか……です。
 上毛(上野)、下毛(下野)のカミツケ、シモツケは、今では上都賀・下都賀と、ga が機能しています。
 栃木県の「芳・賀」は広域です。宇都宮の西にある鹿沼市では宇賀神さんが大勢います。「ウ ・ga 神」が見えます。
 ここで思いなおして近畿方面に目を転じると伊賀甲賀とか、志賀、加賀藩など。
 北のほうへ目を転じると、多賀(城)、和賀(郡)。
 そうすると ga は駿河(天国の surga )の ga に通じ、チョカ・ギュウカ・画家などのカにも通じるようです。
 ネパール語の ghar はただの“家、家庭”ですが、gharan は王朝、gharane といえば「血筋が良い」となって、広域支配をバックに背負った概念のようでもあります。
 ghar は、放っておくと、末尾の r がとれて、ga になります。
 「○賀」には、その地方を領有支配しようとするシナ勢力という内意があった……みたいな……ような。

 こうして日本列島に勢力をえた「○ ga 」の支配者は、ムサ(武士)をテンから軽蔑し「くるしゅうない、もそっと近こうよれ」などと、威張っていました。
 ムサ(ねずみ musa)はムサ苦しいんです。 ムサの家では正月三ヶ日間、ネズミと言ってななりませんでした。

[5192] Re[5191][5188][5186][5184][5181]: 5世紀のヤマト王権と上毛野  神奈備 2009/08/13(Thu) 18:11 [Reply]
 古墳の築造年代には幾つかの説があるようです。

 『王権誕生』寺沢薫著(講談社)p259から。

 纏向の古墳のホケノ山古墳、石塚古墳などは3世紀前半のヤマト王権で築かれ、その縮小サイズの古墳が各地で造られています。
 浅間山古墳は2/3のサイズのようです。

 またp341には4世紀後半の前方後円墳の分布の中で、浅間山や前橋天神山古墳が紹介されています。

[5191] Re[5188][5186][5184][5181]: 5世紀のヤマト王権と上毛野  かたばみ [Url] 2009/08/13(Thu) 09:25 [Reply]
関東の古墳では装飾古墳に注目。
九州に装飾古墳がたくさんあるのは発祥がここだから、これに異論はないと思います。
次に多いのが関東で、近畿などの倍以上ある。
これはいったいなぜか・・

豊城入彦命や日本武尊も古墳を運んでいると思いますが、まだ大型古墳を作れるほどの豪族登場には到っていない。
古墳時代をもたらすのは雄略456-479。
関東の装飾古墳は雄略の一族が関東を支配し古墳文化を発達させたからだと考えています。

すなわち雄略は九州系譜の大王であって近畿系譜ではない。
近畿の古墳だけでは錯綜して見えにくいけれど、関東の古墳のありようと年代からこれが見えてくる。

こういう状況を包含できる大王系譜を再度(だいぶ前の図ですが、現在も考えは変わっていません)


仲哀356-360、応神386-402、仁徳402-434〜允恭439-454、安康454-456、雄略456-479と続く書紀系譜には大嘘が3つもある(^^;
1:応神が仲哀の子であるなんてのはだれも信じないと思います(^^;
2:安康と雄略も允恭(近畿大王)の子ではない。
3:ここから、仁徳も応神の子ではない・・がいもづる式に引き出される。

書紀系譜では仁徳の妃の矢田皇女は仁徳の妹です、兄妹の近親婚となるのですが・・
そうじゃない、書紀が仁徳を応神の子と書いたためにそうなっただけ。
仁徳〜允恭は近畿の大王の系譜。崇神、垂仁、景行、成務、仲哀(暗殺)・・(応神、九州大王)・・仁徳
大鷦鷯尊、大雀命・・仁徳に鳥がからむのは日本武尊の白鳥とのつながりを暗示するものとみています。

仁徳紀で民の竈から煙が立ちのぼったとあります、ではなぜ煙が消えていたのでしょうか。
寒冷とか飢饉の状況は見えません、戦による混乱以外には考えにくい。

仁徳402-434は応神大王に反旗をひるがえした近畿大王、仲哀暗殺で奪われた大王権の再興ですね。
(書紀の記述では大山守の謀反のお話がその残滓でしょう)
矢田皇女との婚姻は応神と仁徳との政略結婚であり、以降しばらく九州大王と近畿大王の並立(休戦)の時代となった。
休戦によって仁徳の民の竈から煙があがるようになったわけです。

雄略が装飾古墳を用いたのであれば、雄略は九州大王の系譜であるのは明らかと思います。
雄略の古墳が近畿にあるとするなら装飾古墳だと思いますが、雄略の墓は九州だろうなあ。

なーんて青草が関東の装飾古墳からひきだされてくるのであります。

[5190]  もいっちょ 巨大古墳  生田淳一郎 2009/08/12(Wed) 17:28 [Reply]
 かtばみさん、電話番号はもう書きませんのでお許しを。
 書いたらわ〜るいのは、そういう非常識の男に付合わせることになるからかナ?

 ですが、日本人……とくに知能犯はバカじゃない。「あ、こりゃパクられるかも」と思うんでしょうな。ネパール語 pakr-(捕まえる)。

 熊谷市から秩父に向ってはしると、すぐ右手に低い丘陵が道と平行して延々と連
なる。
 これは、ほとんど壊れた古墳だとおもわれますが、放りっぱなしにされているのでは? 氾濫原の中ですので、これが古墳だったら、そう古くはないと見込めま。

[5189] Re[5185]:   ヅ−ヅ−弁の系譜     かたばみ [Url] 2009/08/12(Wed) 12:17 [Reply]
電話番号を書くなどは絶対にやってはいけないことです。
オレオレ詐欺の絶好の目標にもなりかねません(私を装う奴もいるかも(^^;)
ただちに削除した方がよいでしょう。

[5188] Re[5186][5184][5181]: 5世紀のヤマト王権と上毛野  とみた 2009/08/12(Wed) 11:08 [Reply]
神奈備さん ようこそ上毛野へ

私も関東圏在住ですから、大いに興味を持っています。

> > そして雄略456-479の再びの出兵、稲荷山鉄剣のオホのワカタキル大王ですね。
> > 関東の古墳時代の登場。

サキタマ古墳群のうち稲荷山古墳が一番古いとされて、鉄剣銘の辛亥は471年説が動かないようです。

稲荷山古墳は荒川の東側、利根川の西側でしょうね。
埼玉県行田市です。群馬はすぐ北側です。

高崎ー前橋が利根川沿いです。

毛野国です。稲荷山古墳の豪族は、毛野国の豪族を牽制していたらしい。群馬は毛の国で高崎から東が東毛、西が西毛とすれば、大田天神山古墳は大田市で東毛です。
通説では、5世紀半ばの前方後円墳とされていますが白石太一郎さんは4世紀末から5世紀はじめに遡らせています。長持型石棺で畿内の大王墓に匹敵し
、近くの伊勢崎市にも長持ち型の前方後円墳があります。
>
>  上毛野には墳丘長が150m以上の古墳が西の富岡市から高崎市、さらに太田市へと東へ年代順にならんでいるようです。
>
> 白石稲荷山古墳−浅間山古墳−別所茶臼山古墳−太田天神山古墳
白石稲荷山古墳は西毛といえましょうか。
ここは藤岡市です。相撲壇と窯(埴輪製造)と土師神社があります。

土師氏がやってきているのしょうか。高崎の綿貫観音山古墳と保渡田八幡塚古墳にはたくさんの埴輪があります。

藤岡の近くには甘良郡があり多胡碑があります。秦とか高麗とかの苗字の人がいます。
> 浅間山山古墳で4世紀の終わり頃、次の茶臼山古墳は5世紀初めに築かれたようです。
>
>  荒田別へつながる首長達の古墳なのでしょう。

荒田別、巫別は上毛野君の祖とされて、応神の御世に、百済に派遣されて王仁を連れて来ますね。

応神の息子に三人いて、大山守、菟道(宇治)推郎子、大雀命です。そのうち、菟道を教えたのが王仁です。

因みに高崎の綿貫観音山古墳には近江の野洲の三上山下古墳と同型の半肉彫りの獣帯鏡が出ている。この鏡は百済の武寧王稜にも出ており百済との関係が気になります。




[5187]  チャ臼は別系統の言語での命名か     生田淳一郎 2009/08/12(Wed) 07:11 [Reply]
> 白石稲荷山古墳−浅間山古墳−別所茶臼山古墳ー太田
 イナリはドラヴィダ系の Narisingar(つのを持った神様)が意転して「稲」関係へ適用されたか? 千葉の成田山の裏にはイナリ神が祭られています。singar がつのです。
 「アサマ」は富士山や伊豆大島にもこの名前の神社が顔を出しています。火山を as と呼んだのも、かなり世界規模ですが、確信には至りません。どこの言語でしたか、アサマは砂や小石原の解釈をも許していました。調べたら、また分らなくなるのでヤ〜メタッ!
 オオタは「水神」では? oB (発音は ow)が水。

 茶臼は今のところ、まったく手がかりが掴めません。が、あちこちの渓流に見られる「銚子の滝」のとなりに位置する名前だと踏んで睨んでいます。
 遡上してきた cho(魚)が滝の落差で、それから上に遡上できずに、右往左往している場所……であることは、まちがいナシ。us はアイヌ語で、「くっついている」が原義かと。
 むかしの人びとはギッチョンなど喜んでたべていたはず。そういったなにか食べ物をチャと呼んだのではないでしょうか。
 チャには「刈る」があります。お爺さんは山へ柴刈りにいきましたが、その柴は暮らしの中ではどう利用していたのでしょう? 熊野の榊が第一等だそうですが、榊刈りがチャ(刈り)……かな?

 名前(苗字)には地方差が見られます。このへんにはコツガイさんなどいます。この「ガイ<カイ」あたりが「ケのくに」のケになったのか? など思案投げ首です。カイは雷神であり、アイヌの茅野茂さんや貝沢さん、大きくはカイ・蝦夷につながっているようよ。
 群馬県で目立つのが「類」を持った苗字です。“類”はシナ語ではないでしょうか。

[5186] Re[5184][5181]: 5世紀のヤマト王権と上毛野  神奈備 2009/08/11(Tue) 16:17 [Reply]
> そして雄略456-479の再びの出兵、稲荷山鉄剣のオホのワカタキル大王ですね。
> 関東の古墳時代の登場。

 上毛野には墳丘長が150m以上の古墳が西の富岡市から高崎市、さらに太田市へと東へ年代順にならんでいるようです。

白石稲荷山古墳−浅間山古墳−別所茶臼山古墳−太田天神山古墳

浅間山山古墳で4世紀の終わり頃、次の茶臼山古墳は5世紀初めに築かれたようです。

 荒田別へつながる首長達の古墳なのでしょう。

 なお、それより小さい古墳もそこそこあるようで、やはり4世紀初め、ひょっとすれば3世紀末には古墳が造営されていたのかも。


 それにしても古墳の名前に浅間山・茶臼山などが多いのはその形を浅間山などに似ていると言うことからのネーミングでしょうが、茶臼とは大きい円柱の上に小さい円柱が乗っているような姿、古墳はどう見ても茶臼には見えませんね。

[5185]   ヅ−ヅ−弁の系譜     生田淳一郎 2009/08/11(Tue) 13:56 [Reply]
 かたばみさん、足は丈夫なんでしょう? 
 このごろは連絡つけていませんが、今なら岩槻でヅ−ヅ−弁をしゃべる人物が生きているはずです。
 調査なさいませんか? 小生の電話番号は 048 882 4901 。但し、夕方の 6時ごろから晩酌はじめて酔っぱらっています。あとは、朝 6時からいつも電話の脇にいます。

 10年ほどまえに、遠野博物館所蔵の遠野方言集を見たことがあります。
 そのとき、遠野方言には、出雲〜九州弁がワンサと入っていることにびっくりしました。
 関東に残っているヅ−ヅ−弁は、東北と共通なものか、沖縄の伊計島〜宮城島〜平安座島に代表されるヅ−ヅ−弁なのか、ここは見極めが必要ではないでしょうか。
 東北のヅ−ヅ−弁はトルコに連なる「 i / u 通音」が基本で、沖縄のヅ−ヅ−弁は子音の崩れ(bh , dh , jh , kh のように “h”を伴う)があることが基本かと思います。
 どちらもキがチと入れ代わる音転を持っています。
 ここに焦点をあてれば、見極めは意外と、簡単だとおもいます 。
 遠野博物館所蔵の方言集は、明治期の人物が書かれたものでした。この人物の名前には“能”があったと記憶しています。沖縄語関係にもかなりの調査結果を遺されているようです。

 足が立たないと、あちこち行く必要がない。考えようによっては便利な紋です。ワハハ

[5184] Re[5181]: 5世紀のヤマト王権と上毛野  かたばみ [Url] 2009/08/10(Mon) 21:35 [Reply]
>さて、上記古墳の主として、白石先生はヤマト王権との同盟者との表現でした。

さらに突っ込んで、私は「血縁者」だと考えています。
その祖先は、まずは垂仁273-311の兄とされる豊城入彦命(毛野氏族祖)。
この系譜に荒田別、市入別、鹿我別などがあり、荒田別から上毛野、下毛野氏族が登場(系図綱要/太田亮)。

ついで日本武尊です。
日本武尊は関東において先住者(地元系あるいは出雲系とみえる)との間に「悪い評判」がありません。
景行311-333がいろいろな氏族から妃をいれて大量の子をもうけて「婚姻融和策」を採ったこと、その延長があるからだ、と考えています。
なになに別という人名が多数登場するのも、婚姻によって生じた分家の意だと考えています。

豊城入彦命と日本武尊に先行するのが、「天孫に制圧された近畿出雲」や東海出雲から脱出した人々。
伊豆の来宮神社の神人上陸伝承や、東京浅草の須賀神社の異人上陸伝承、隅田川の隅田川神社(水神社、浮島の宮)の水神が亀に乗って上陸など、高い文化の保有者の上陸を暗示する伝承はこれによるとみています。

http://www.asahi-net.or.jp/~vm3s-kwkm/tone/tone_yayoi.png
現在の江戸川のすぐ脇に上小岩遺跡があり多数の土器や漁労用の錘がでており弥生後期から古墳初頭の遺跡です。
ただし住居遺跡がでていないのが不可思議ですが、現在の江戸川によって消されてしまったものとみています。
ひとたび洪水があれば全滅するような場所に住むはずがないです。
(現在の江戸川は江戸初期に新規開削された川でそれ以前にここに川はなかった、の自論の状況証拠となってます)
上小岩遺跡にに住んだ人々、やはり出雲崩壊からの脱出者だとみています。


豊城入彦命や日本武尊の関東への出兵の目的はこれら出雲勢力残党の制圧にあった。
(日本武尊は諏訪へも向かうが制圧に失敗して帰郷の途中で死去)
当然ながら配下の兵や祭祀者、あるいは海運者と地元民の間に子もできたはずで、これらが後の関東の豪族の祖となった。
垂仁朝五大夫の十市根(物部氏)や中臣氏(大鹿島)の直系も少なからずあったはず。

これらの子孫、近畿王朝の血縁者が豪族となって関東支配の要になっていたと考えています。
ただし、応神仁徳時代では「近畿王朝の混乱」によって近畿王朝の支配力が弱まって、関東での独立勢力の様相を呈していった(後の平将門とか藤原三代の登場の源)。

そして雄略456-479の再びの出兵、稲荷山鉄剣のオホのワカタキル大王ですね。
関東の古墳時代の登場。
東京湯島の湯島天神、創始は雄略とされ手力雄命を祀ります。
なぜ湯島に武神を祀ったのか、独立機運の生じていた関東豪族と出雲系譜+蝦夷の抑えのためだとみています。
(武甕槌命は書紀時代の創作、雄略時代の武神は手力雄命だったとみえます)

下って正倉院の古文書「下総国葛飾郡大嶋郷」には甲和(454人)、嶋俣(370人)、仲村(367人)の三つの里が書かれており、ここに孔王部(アナホベ)の人名が少なからずあります。
アナホベは安康天皇の部民、やはり血縁者が支配者であったとみるところです。

[5183] Re[5177][5175][5168][5166][5162]: 皆既日食→ゴホウラ貝  かたばみ [Url] 2009/08/10(Mon) 21:30 [Reply]
ソウルや平壌のゴホウラ貝輪?がいつのどのようなものか知りませんが、弥生初期での半島南岸と九州北岸の関係は非常に複雑かつ柔軟だったとみえます。
これらは年代観を立てて相互を連結させて考えないとなにもできない・・

魏志韓伝に「辰王」(辰韓)が馬韓(半島西部)に移動と書かれています。
魏志韓伝の記述から辰王は地元民ではないとみえる・・秦滅亡時の脱出者(一種の降臨)と推定。
自論ではありますが、神武王朝以降(神武36-66〜懿徳92-105)と「新羅地域の朴氏系と昔氏系王朝」は親密(同系の赤色土器が出土)。
半島の伽耶(魏志韓伝における弁韓地域)は素盞鳴尊の追放先(^^; 出雲に親密な勢力の誕生。
(隣の新羅地域とは親密ではない)

あくまで私の年代観による流れからは、ゴホウラ貝輪が半島からでて不思議はありません(これらに同一文化(信仰)の流れがあるかどうか)。


護宝螺と直弧文・巴文/橋口達也/学生社をざざっと読んでみました。貝輪の出土地と年代確認がメインです。
ここでは貝輪を呪術とみる基本があるようですが、私は賛同しません。
(ただし南西諸島においてどうかは別です)
そういう使われ方もあったかもしれないけれど、なんだかわからないと祭祀だとか呪術だとかにする他はない・・(^^;

渦巻き文は縄文の遮光器土偶のいくつかにもあり、火炎土器にもみえ、銅鐸にもあり、はるか遠くのケルト文化でも使われています。
縄文とケルトの渦巻き文の多くは蛇が原形じゃないかな(森林文化)。

では、隼人の盾の文様、ふたつの渦巻きがつながってる文様(渦分つなぎ文)はなにか。
太陽ならふたつ並べる理由がみえないので太陽ではなく、切断した貝の2つの断面文様を並べたものとみておきます。
文様は形式としてだけ受け継がれもするので、その過程でなにがあるか、むずかしいところです。

弥生後期の南九州から出土する免田式土器のありように注目しています(同心円文様はあるけれど渦巻きはない)。
おそらくは倭国争乱の時代、情報の見えない南九州での貴重な情報になる、これを作ったのはどのような文化なのか。
沖縄県うるま市宇堅の宇堅貝塚(弥生後期)からも出ているようです。

[5182]  大きいことはいいことだ     生田淳一郎 2009/08/10(Mon) 09:35 [Reply]
  《 作りかけの巨大古墳 》
 すでに一二度ここに書いたかとおもいます。岩槻に出ているのは、未完の古墳でしょうが、いまいち注ぎ目してもらいたく……。
 小生が住んでいる埼玉県の中央部には、西北から東南へ三つの幹線道がはしっています。
 今はさいたま市になりましたが、旧大宮市というのは武蔵一宮の氷川神社があるところから、この名前がつけられました。
 三つの西北〜東南にはしる幹線の、中央をはしるのが、大宮--行田です。この中央幹線に点在する宿場町の名前をたどって観察しますと、ここが 708年に秩父の木毛から自然銅が出土して沸いた「さいたまブーム」のときに名付けられたことがわかります。さいたまとは 「sait(斉)tama(銅)」」でいづれもネパール語です。
 行田は、文字を刻んだ鉄剣が出た稲荷山古墳で有名です。その昔、行田は成田でした。成田市は千葉県にもありますが、双方とも「 nali(噴水)ta(所)」で、大川から暗渠で水を引いたことが判ります。
 この西北--東南幹線にほぼ直角にぶち当たるのが、 20キロの距離を持つ「春日部--大宮幹線」です。ここで訴える巨大古墳は「大宮 --春日部」の中間(それぞれ 10キロ)にある岩槻市にあります。この古墳もほぼ西北 --東南に向いていて、最長 1キロはあるのではないかとおもわれる大きさです。
 大宮から春日部〜野田へ東部電鉄が走っています。その岩槻駅を出て東南方向に歩けば、3分もしないうちに、小高い崖にぶち当たります。そこを更に南のほうへ行こうとしたら、シッカとした道が案内してくれますが、その道は曲っていて、前方後円墳のくびれそっくりなんです。
中央とおぼしき小高い所にお寺があります。
 西北部は、いまは広大な分譲墓地です。
 国道 16号線や、周辺の畑地の畦も「あっただろうと予想される底辺」の直線に沿って平行して走っています。
 この古墳がある字は加倉いいますだ。加倉という地名は千葉の成田市にもあります。ホクラ(神庫)ではなくって、カ(神)クラになったのは、方言と看るべきでしょう。

  周辺豪族とヨシミを結んでおかないかぎり、永年に亘る古墳造築はできない相談でしょう。
 上に記した作りかけの古墳が作りかけになったのは、708年前後に、この「ヨシ(神社)ミ」が崩れたからではないだっしゃろか。

[5181] 5世紀のヤマト王権と上毛野  神奈備 2009/08/09(Sun) 09:15 [Reply]
「5世紀のヤマト王権と上毛野」と言う白石太一郎氏お話の中から。

 群馬県の太田市にある太田天神山古墳(前方後方)の大きさは210mあり、さらに二重の濠を持っているそうです。東方では最大の古墳。
 築かれた時期は5世紀の第一四半期(401〜425)。この頃に築かれた大きい古墳は以下の通り。

 大阪 上石津ミサンザイ古墳 360m 濠あり
 岡山 造山古墳 360m 濠なし
 奈良 葛城室宮山古墳
 奈良 佐紀市庭古墳
 群馬 太田天神山古墳 210m 二重の濠 もっと大きかったのでは。

 これらを築いたのは各地の豪族の首長であり、ヤマト王権の大王との同盟者だった。

 と言うようなお話を古墳側から出土した陶器やそれと伴に出た木材の年輪などから造営時期を推定したもののようです。

 上毛野の豪族としては、『日本書紀』応神天皇十五年に上毛野君の先祖の荒田別・巫別とあります。百済に派遣されています。古墳の主に該当しそうな人名は荒田別かも。

 さて、上記古墳の主として、白石先生はヤマト王権との同盟者との表現でした。
 同盟とは何の同盟でしょうか。ヤマトの王権を中心とした政権の構成メンバーと言うことなのでしょうが、例えば共通の敵があれば協力してこれにあたると言う軍事同盟なのか、半島から持ってくる鉄を仲良くわける鉄配分同盟なのか、お互いには戦争しないよと言う不戦同盟なのか、いろいろと考えられます。
 「共通の古墳」とは実に見事な同盟の証だと思います。

[5180] Re[5178]: 煤だらけの記憶に ショック  かっぽれ 2009/08/04(Tue) 14:19 [Reply]
生田さん
>だが、箱根はちがいます。「天井被いのない、水溜め装置」が、このハコです。これはインドネシア語の bak です。

ご存知のように、20世紀の初頭、インドネシアは「オランダ領東インド」として植民された歴史があります。この時、西欧文化とともにオランダ語の語彙も大量に流入してインドネシア語の中に定着しました。例えばこのオランダ語bak=「桶(天水桶、バスタブなど)、水がめ、箱(英語のbox)」⇒インドネシア語(・・・と私は思いますがね)。
それとも逆に、bakはインドネシア語からオランダ語に入ったというお考えですか?
もう少し詳しくお聞かせください。

Re:[5178]
>  これに追い討ちをかけてきたのが、 surga(インドネシア語) / sorga(ネパール語)の見間違い〜誤記憶です。へぇつくばって、謹んで訂正しますが、ネパール語はソルガであって、スルガではありません。

こちらはそんなに気になさる必要はありませんね。
古くはsvargaという形だったのが、⇒sarga ⇒sorgaという風に崩れてきただけですし、インドネシア語もsurga, sorga両方に綴ります。
svargaはもちろんサンスクリット起源ですが、ヒンドゥー教の布教とともにインドネシアにも天国・地獄の思想が入りました。

○天国: ネパール語 svarga ⇐ (サンスクリット svarga )⇒ surga インドネシア語
●地獄: ネパール語 narak ⇐(サンスクリット naraka )⇒ neraka インドネシア語
日本の「奈落」ももちろん同類ですね(仏教経由ですが)。


Re:[5176]
> 「夜があける」は、日本語では「アス」だとお思いでしょうが、ネパール語に現れている as は、どっちかというと「日没」です。いや、正確にいうと、陽が沈んで、こよみの上での日付けが「次の日」に変わることが as なんです。

「正確にいうと」とあるので、念のため少しコメントをつけますよ。
まず「日が沈む」意味のasという単語はないので、「ネパール語に現れている=語頭にasを持つ語彙」のことかと思います。
そこで、意味上関係ありそうな単語を辞書(三枝)から拾ってみますと、
@asta=1.(太陽、月などが)沈んだ 2.隠れた 3。荒廃した
A上の単語の動詞語形 astaunu
B同じく名詞語形 astacal

以上の3語彙しかありません。これらからasだけを抜き取って《こよみの上での日付けが「次の日」に変わることが as なんです。》というのですか?。ローマ字転写as-で始まる語彙は辞書上に120個もあるんですが。
もう少し説明をお願いします。

[5179]  えらい人とは     生田淳一郎 2009/08/02(Sun) 12:29 [Reply]
胸につかえていたものを書くだけ書いたので、スッキリしました。やっぱ庶民はバカがいいのれす。
 馬の背中に乗っかったコンコンきつねみたいに、解りもしない経済に乗っかって驀進する現代人は「ゆくえ知らず」になっています。

 それはそうと、えらい人とは坂村先生みたいな人です。もっと端的にいえば発明をしても特許を取らず、新しい見識での恵沢をみんなにタダで提供する人のことです。
 静岡県は富士山があるだけではなく、気候温和で、なんといっても魚が日本一にうまい。
 ここには、先史時代から優秀な遺伝因子が寄り集っているにちがいありません。

 姓名の名のほうは解りませんが、江戸中期かな? 原の宿に渡辺という仁がいました。
 ある日、小さな木をみつけて、これで紙を漉いてみたとろ、それまでとは比べ物にならないほどの優秀な紙に仕上げることができました。
 渡辺さんが偉かったのは、その技術を独り占めしないで、みんなに奨めたことです。その木は三椏(ミツマタ)と名前がつけられて、近在の四十数ヶ村に伝えられ、みんなが裕福になったそうです。
 みんなで生きています。いまの経済を支えている個人主義とか図結う主義はまちがった生きザマです。このへんに底辺からの起爆材がありそう。

[5178] 煤だらけの記憶に ショック  生田淳一郎 2009/08/02(Sun) 11:41 [Reply]
 高貴降霊者となって、のっけからショックくらってます。
 かたばみさんは、てっきり相模の住人だと思っていたが、ちがっていました。
 神奈備ドンに調べてもらったところ「ツカル神社」は、ひっかかりはありませんでした(これはもしかしたら砥鹿神社だったかもしれない……があって、まだ思いきることができないでいます)。とにかく、これには付属がついていて、「これがアイヌ語で tukar(手前)と判じられるところから、その地の青年達がアイヌ語を研究している」とのへんな記憶があるのです。
 どうも、オレには身勝手な思い込みのクセがあるのではないか、とのショック・反省です。

 これに追い討ちをかけてきたのが、 surga(インドネシア語) / sorga(ネパール語)の見間違い〜誤記憶です。へぇつくばって、謹んで訂正しますが、ネパール語はソルガであって、スルガではありません。
 こんな煤だらけ記憶を蓄積しているのは、オレだけなんだろーか。大多数のミナシャンは、これから老人に化されると思いますが、何かの参考に供せませんか。
 しかし、思いますに、こういう煤ボロ記憶は個の記憶総体の中にあって、必要な(一種の健康な)構成要素となっているのではないでしょうか?
 「哲学論議には定説は生まれない」には、こういった個別の“誤認?”が機能しているからこその事ではなかろうか……とも、思い当たります。

 いま、無数といってよいほどの検索サイトに恵まれています。
 狙いとする調査に困ったときには、多くの検索屋さんたち」が ボランティアで探してくれて、指導してくれるようになっているそうです。
 すると、ここの掲示板などで、そういった正しい見解へ導くものとは、キチンとした検索をやっているかどうかの視野だということになりましょう。その“キチン”を産み出す見識とは、「東大京大の一流学者の論旨である」へと収斂されるでしょう。

 インタネットがリードし、行きつく先の思念や社会は、すげぇことになるようです。
 「文化を運ぶ者は庶民である」。……どういうことになるのでしょうか。


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