青草掲示板ログ平二十四年 四月〜六月 2012.4〜6
多に蛍火の光く神、及び蠅声なす邪しき神有り。湯嶽神・菊嶽神の集い。
素人のひらめき、力はないが騒がしくなかなか従わない、一寸の草木にもある五分の魂の発露を!
 青草談話室

[6500] Re[6499][6498][6497]: 邪馬台国の位置〜投馬国  琉球松 2012/06/30(Sat) 09:56 [Reply]
 名護博教授は、掲示板で「桃太郎」について、以下のように書いています。沖縄の視点で考えると示唆的だと思いますがどうでしょうか。

*** 桃太郎の「桃の実物」が存在することに気付いている人はあまりいないのではないか。弧帯文石(弧帯石)とか亀石などと呼ばれている楯築遺跡にある遺物がそれです。その表面は沖縄の巻き貝由来の文様。すると「赤椀(赤銅)の世直し」を適用すると、その中味は???・・出雲の神。その桃が割れて生まれてくる太郎とは???***

[6499] Re[6498][6497]: 邪馬台国の位置〜投馬国  琉球松 2012/06/27(Wed) 10:12 [Reply]
 神奈備さん、大三元さん

 前田さんは著書『桃太郎と邪馬台国』で、馬琴の『燕石雑志』を引用されてますね。
 *** 鬼が島は鬼門を表せり。これに逆するに、西の方申(さる)酉(とり)戌(いぬ)をもてす。これを四時に配するに、西は秋にして金気殺伐を主ればなり。その意いと深し。且鬼島は南島の総名なり。***
 つまり、桃太郎に従う「猿・雉・犬」を「申・酉・戌」に対応させて、西の方向を意識していますね。
 
 仮に、その目線が奈良のものだとすると、「鬼」も「猿・雉・戌」も大阪湾以西を対象としているでしょうか。中央政権に逆らう勢力はどの地であろうが「鬼」ですしね。
 ただ、その「鬼」を退治するのに同族?の者を刺客とするやり方は、現在でもありうる事で、「犬」は隼人の可能性もあるでしょうか。

 それと、曲亭馬琴の言う「鬼島は南島の総名なり」は、古来「キカイが島」と総称され恐れられた奄美沖縄をも指すはずで、時代によっては南島を敵視する場面があったのでしょう。鬼門の方向である関東〜東北地方はすでに平定された後の段階かも。

 これはどうでしょうか。イリ王朝による反転攻勢?。。。旧邪馬台国派(開化&奄美沖縄)に対する掃討作戦?。。。"狗奴国" の巻き返し?。。。そうすると「ヤマトタケル」や「タジマモリ」もその先兵にも思えます。

[6498] Re[6497]: 邪馬台国の位置〜投馬国  神奈備 2012/06/25(Mon) 19:01 [Reply]
>  イイですね〜、こういう視点は必要だと思います。文献は建前で伝承は本音でしょうから、おとぎ話などのオリジナルを追求すればイイと考えますね。

 著者の前田晴人さんは、書物から受ける印象は、柔軟な頭脳と言う感じです。
 『古代女王制と天皇の起源』2008年 邪馬台国の卑弥呼は、迦具夜比売のこと、など。

[6497] Re[6496][6495][6494][6493][6492][6491][6490][6489][6488][6487][6486][6485]: 耶馬台国の位置〜投馬国  琉球松 2012/06/25(Mon) 14:46 [Reply]
 「当摩・当麻」を「たぎま」と読むのであれば、「たひま・たいま・とうま」もOKでしょうね。
 少なくとも、琉球方言の感覚では大した差はないんですよ。
 これはたぶん、聞く人によって採用される文字に違いが生じるんでしょうね。

 神奈備さん、『桃太郎と邪馬台国/前田晴人(講談社現代新書)2004 』。。。手に入れましたよ〜。
 イイですね〜、こういう視点は必要だと思います。文献は建前で伝承は本音でしょうから、おとぎ話などのオリジナルを追求すればイイと考えますね。
 この場合、日本本土と琉球圏の決定的な違いは、やはり男女の逆転なんですよ。アマテラス(アマミキヨ?)にはこれからも踏ん張ってもらいたいものです(笑)。

[6496] Re[6495][6494][6493][6492][6491][6490][6489][6488][6487][6486][6485]: 耶馬台国の位置〜投馬国  ツ打三ツ個ウ 2012/06/24(Sun) 14:28 [Reply]
ほぉ、梅雨が明けましたか。こちらはまだグズグズしてますね。

>  これって「鳥の羽」なんて意味はあるんでしょうか? 一般地名だとすると山ほど見つかりそうです。

「鳥の羽」とは無関係でしょう、と思ってます。「トバ」という音を漢字を借りて表記しただけでしょう。戸羽、砥波、土羽、などが見つかります。

>  『魏志』の倭人伝に出てくる地名も、あるいは文字に意味はないでしょうから厄介です。

そうですね。漢字の音だけを宛てたものでしょうね。

>  「当摩・当麻」も、意外に「鳥羽」かもしれませんね。

「たぎま」と読むのが本流(原点)かと思ってます。

[6495] Re[6494][6493][6492][6491][6490][6489][6488][6487][6486][6485]: 耶馬台国の位置〜投馬国  琉球松 2012/06/24(Sun) 13:37 [Reply]
 大三元さん、沖縄県は梅雨明けで、ティダ(太陽)カンカンですよ〜。そちらは雨の被害などないでしょうか。

。。。「鳥羽」っていう手がありますね。
 これって「鳥の羽」なんて意味はあるんでしょうか? 一般地名だとすると山ほど見つかりそうです。
 『魏志』の倭人伝に出てくる地名も、あるいは文字に意味はないでしょうから厄介です。

 「当摩・当麻」も、意外に「鳥羽」かもしれませんね。

[6494] Re[6493][6492][6491][6490][6489][6488][6487][6486][6485]: 耶馬台国の位置〜投馬国  大三元 2012/06/22(Fri) 21:03 [Reply]
琉球松さん

「投馬」:「とま、とば」なんかも考えてみますか。代表的な漢字表記は「鳥羽」かな。
(伊勢志摩以外にも結構あります)

[6493] Re[6492][6491][6490][6489][6488][6487][6486][6485]: 耶馬台国の位置〜投馬国  琉球松 2012/06/22(Fri) 16:48 [Reply]
 大三元さん、同感です。

 残念ながら、文字の使用が遅れた地域では厳密な解釈はむずかしいかもしれません。
 ただ、琉球圏の文字使用には本土の僧侶のアドバイスが入っていますから、ある程度の意味解きは可能でしょうけど。

[6492] Re[6491][6490][6489][6488][6487][6486][6485]: 耶馬台国の位置〜投馬国  大三元 2012/06/22(Fri) 15:43 [Reply]
琉球松さん、ども。

>  乙類甲類の区別があいまいになって以降のことではないでしょうか。

そういうことだろうと思うのですが、そうすると琉球の文献で上代日本語を考えることに一定の制約を課さねばならないな、と。。。

[6491] Re[6490][6489][6488][6487][6486][6485]: 耶馬台国の位置〜投馬国  琉球松 2012/06/22(Fri) 15:32 [Reply]
 大三元さん、久しぶりです。

 「きよ・久(ク)・姑(コ)」なんですけど。
 琉球圏の文献に記される文字は、乙類甲類による厳密な分類は適応できないのではと考えます。これは言語学者の指摘でもあるんですが、なにか適当にその辺の文字もみつくろっている感を持ちますね。
 乙類甲類の区別があいまいになって以降のことではないでしょうか。
 ですから、どの文字が採用されていようが、たんに音を表しているに過ぎないと思います。

 「アマミキヨ・アマミク・アマミコ」は「あまみ人」で、現在の音は「アーマンチュ」。。。意味としての「子」は「くわ」と表記されていて「クァ」に近い音ですね(PCでの表記は不可かも)。

[6490] Re[6489][6488][6487][6486][6485]: 耶馬台国の位置〜投馬国  大三元 2012/06/22(Fri) 12:16 [Reply]
琉球松さん 神奈備さん

この一連興味深く拝見しています。思いついた勝手ヨシナシゴトを投入させてください。

・投馬:トウマ と読むのは二重母音を嫌った奈良朝日本語には相応しくない。
    3世紀の日本語、は判っていないのでナントモ断言できないけど
    倭人伝の日本語(らしきもの)を判っている最古の日本語状況で
    判読するならば トウマ は無さそう。
・但馬:多遅麻国とも書かれるから タヂマ の三音節。
    余談ながら「タチ」が柑橘類の名称で、タヂマモリの話とつながる、と
    解しています。
    http://www.dai3gen.net/tachi.htm
・不弥国:NHKBSの『邪馬台国ミステリー』では「ふや国」と呼び、
    テロップにもそのように書いてあった。これで番組全体を不信感で
    見てしまった。(そんなら卑弥呼は「ひやこ」か、とNHKにメールして
    いるが返事は来ない)。
・きよ・久(ク)・姑(コ):倭人伝の「觚」は甲類の「こ」なので「子」の意味に
    採ることは可能。乙類の「こ」は「きょ」に近そう(許、虚など)「木」など
    の意味をとるが「子」の意味にはならない。
    琉球では「こ」が「きょ」にもなる(アマミコ・アマミキョ)ので
    「あまみ子」なのか、違うのではないか、と長らく悩んでます。
・次男「剣を抜いて海に入り鋤持神となる」と浦島子:
    これらは北方の伝承と同根のように窺えます。
   http://www.dai3gen.net/shachi.htm
・玉クシゲ:三国史記の高句麗地名の研究から「古斯(コシ・クシ?)」=玉
    と理解可能。「け」は「笥」=箱 だから クシゲは「櫛」を入れる「箱」
    と解されているが、「玉を入れる箱」の可能性もある。

[6489] Re[6488][6487][6486][6485]: 耶馬台国の位置〜投馬国  琉球松 2012/06/21(Thu) 13:49 [Reply]
 神奈備さん

 『桃太郎と邪馬台国』のご紹介、ありがとうございます。
 「コ」は官についてますから接尾美称辞なんでしょうね。首里王府の文献には「きよ・久(ク)・姑(コ)」などと表記されていて、島々村々の神歌では「テルコ・ナルコ」など神名についていますから、もともと「キュ」に近い音だったのではと推測しています。

 そうなると、「浦島児・浦島子」は財産も権力もないただの漁師とは思えなくなってきます。彼は乙姫様に唐突にスカウトされる設定なんですけど、これもどうなんでしょうか。
 それと「玉手箱」ですよね。もともと「玉クシゲ」でしょうから "箱" と見なす必要もなく、中国的には「玉(ギョク)」かもしれません。

 以前、山口県の土井が浜遺跡に行った際に、ミュージアムの松下館長が語ったことを思い出しますね。
 そこの弥生人は中国大陸に向いて葬られているのは明らかで、彼らにとっての常世国は魏かもしれませんが、弥生人の腕には沖縄産貝輪がはめられていますから、たんに海を向いているとも考えられます。スクナヒコナがやって来る方向でしょうか。
 また、多くの弥生人が亡命?除福集団の末裔だとすれば、なおさら中国への憧れは薄いかもしれません?

 "玉手箱は魏王から預かった卑弥呼への土産" だとすると、やはり銅鏡と考えたほうが妥当ですね。
 しかし、「見てはいけない」とか「年をとる」というのは、なにか反体制的な注意事項にも思えますから、邪馬台国とクナ国との緊張関係を表現しているでしょうかね。

 前田晴人さんの著書、ぜひとも手に入れたいですね。奄美沖縄の太陽信仰との関係も探れそうです。

[6488] Re[6487][6486][6485]: 耶馬台国の位置〜投馬国  神奈備 2012/06/21(Thu) 09:27 [Reply]
> ただ、「但馬)」からは「タジマモリ」を連想しますし、遥か遠くの常世国って『魏志』の倭人伝から探れるでしょうか?

 すばらしい着眼点だと思います。 

 前田晴人著『桃太郎と邪馬台国』に、浦島太郎の話と邪馬台国とからめる論考があったように記憶しています。

 伊都国と副官を 泄謨[魚篇に瓜] せつぽこ しまこ など と言う。 
 投馬国の長官を [兄の口が凹]馬[魚篇に瓜] じばこ しまこ など と言う。

 「しまこ」とは、丹後国の浦島太郎 即ち 浦島児 で、竜宮城が魏の首都の洛陽の城 、乙姫からの玉手箱は魏王から預かった卑弥呼への土産、に比定した見方となっています。

 タジマモリの場合には、非時香実 が 土産の銅鏡 かも。卑弥呼の長寿も鏡のおかげだったか。

[6487] Re[6486][6485]: 耶馬台国の位置〜投馬国  琉球松 2012/06/20(Wed) 11:26 [Reply]
神奈備さん、ニフェーデービル(ありがとうございます・沖縄方言)。

 NHKBSの『邪馬台国ミステリー』では、魏の政治的都合で "〜でなければならない" って感じで邪馬台国を記しているとする説だったでしょうか。
 冷戦時代のアメリカ&ソ連とキューバの位置関係みたいですね。

 となると、現代人もまんまと騙されているのでしょう(笑)。
 陸行、水行、方位をそのまま素直に解釈すれば、邪馬台国奄美大島説、徳之島説、沖縄島説になってしまいますが、これは残念ながらありえないですね。

 ただ、「但馬)」からは「タジマモリ」を連想しますし、遥か遠くの常世国って『魏志』の倭人伝から探れるでしょうか?

[6486] Re[6485]: 耶馬台国の位置〜投馬国  神奈備 2012/06/20(Wed) 09:35 [Reply]

>「投馬国=但馬国」説もありますね。

 名前としては違和感はありません。
投馬国の戸数は5万戸となっています。3世紀の但馬、どうだったのでしょうか。そこからの距離や方向は何とでもなるかも?

 この前、NHKBSで邪馬台国ミステリーと言う番組で、渡邊義浩先生が、倭国の位置を呉の国の東側にあり、魏と親密な国が横にいるように思わせるように書いた可能性を指摘されていました。その為に、方向と距離を遠くし、南になるようにしているとのこと。

 確かに、230年に、呉孫権が諸葛直を遣わして、夷州・亶州に至る道を探させたが見つからなかったとの記事があります。まんまと騙されたのかも知れません。

[6485] Re[6484][6483][6482][6481][6466][6465]: 耶馬台国の位置〜投馬国  琉球松 2012/06/19(Tue) 09:58 [Reply]
 今でも「福耳」って言いますけど、中国道教の観念でしょうね。
 布袋とか恵比寿様に繋がるんでしょうか。

 谷川健一さんは、"耳族は中国南部の海人" と書いていますが、「耳(海人文化)と目(銅鐸圏)の結婚」とした場合、耳は目ではないので銅鐸(出雲)ではないわけで、つまり「ミ・ミミ」は出雲以外に求めたほうがいいのでしょう。
 これは、出雲が倭国連合に参加する "国譲り" とも解釈できるでしょうか。小競り合いはあったでしょうけど、だいたい平和的な結婚と見たほうがイイですよね?

 神奈備さん、「投馬国=但馬国」説もありますね。響きとしてはこちらの方がビビッとくるんですけど、今度は水路、陸路の案配がちぐはぐで道に迷ってしまいそうです(笑)。

[6484] Re[6483][6482][6481][6466][6465]: 耶馬台国の位置〜投馬国  神奈備 2012/06/18(Mon) 20:28 [Reply]
>  「天忍穂耳・神八井耳・手研耳」などは皇統でしょうから、出雲より吉備説?に分があるように思いますがどうでしょうか。神武系の「稲」との関わりもあるでしょうかね。

 『肥前国風土記』五島に、大耳、垂耳 と言う酋長が住んでいたとあります。隼人系かもしれません。

 神武さん±4代の皇統にミとかミミが多いのは、南方海人系の女性の子供だからではないでしょうか。

 ミミは耳でしょう。鹿児島では耳輪をした人形が出土しているように、耳の大きい人が尊敬されたようです。三国志の劉備玄徳さんは大耳君と呼ばれたそうです。
 谷川健一『青銅の神の足跡』に詳しい論考があります。

 出雲か吉備かですが、投馬国から「南の邪馬台国までは水路十日、陸路一ヶ月」ですから、吉備の場合は邪馬台国は東海地方から関東にあることになります。
 これが出雲からですと、敦賀辺りに上陸して大和まで丁度よさそうな案配です。

[6483] Re[6482][6481][6466][6465]: 耶馬台国の位置〜投馬国  琉球松 2012/06/18(Mon) 11:47 [Reply]
 神奈備さん「みみ」って何なんでしょうかね。
 文字どうり「耳」と解釈しても、なんか迷路に入ってしまいます。

 「天忍穂耳・神八井耳・手研耳」などは皇統でしょうから、出雲より吉備説?に分があるように思いますがどうでしょうか。神武系の「稲」との関わりもあるでしょうかね。

 ただ、琉球方言での「ミ」の響きは「穴」を連想しますから、女性を表しているのか、銅鐸や貝輪の空洞部分なのか。。。などと考えがグルグルと回ってしてしまいます。

[6482] Re[6481][6466][6465]: 耶馬台国の位置〜投馬国  神奈備 2012/06/17(Sun) 19:28 [Reply]
 投馬国の官職名は、弥弥(みみ)、弥弥那利(みみなり)と『魏志倭人伝』にあります。

 吉備で「みみ」がつく人は、御耜友耳建日子のみ。

 出雲では、『出雲風土記』に波多都美(ハタツミ)や支自麻都美(キジマツミ)など「ミ」の付く人物が記されています。また『古事記』の出雲神話に出てくる須賀之八耳(スガノヤツミミ)、鳥耳(トリミミ)、美呂浪(ミロナミ)、布忍富(ヌシトミ)などがあります。

 出雲は吉備よりは多いように見えます。出雲の資料の残り方が多いこともあり、一概にはいえないでしょうが・・・。

[6481] Re[6466][6465]: 耶馬台国の位置〜投馬国  琉球松 2012/06/16(Sat) 10:29 [Reply]
 「投馬国」について、意見を伺いたいのですが。。。

 「不弥国」までは九州で、「邪馬台国」が奈良だとすると「投馬国」は瀬戸内海の旧吉備地方では?と考えていますがどうでしょうか。
 
 しかし「投馬」の読みが「トウマ・トマ・ツマ」などとすると、地名からは推測困難になってしまいます。せいぜい「当摩・当麻(タウマ?)」くらいなもので、なんとも証拠立てができません。
 岡山、広島、香川の皆さん、なにかヒントはないでしょうか。

[6480] Re[6479]: ありがとうございました  神奈備 2012/06/15(Fri) 19:15 [Reply]
> 神奈備さまにご提案したい内容があるのですが170号線の最北端、高槻市から枚方市・寝屋川市・四条畷市・大東市・東大阪市・八尾市・柏原市・藤井寺市・羽曳野市・富田林市・河内長野市・貝塚市・熊取町への最南端にかけての「国道170号線沿いに祭祀されている有力寺社仏閣霊場めぐり」というテーマで巡礼紀行というのはいかがでしょうか。

ご提案ありがとうございます。
高野街道沿いとするのなら歴史的な意義があるのかもしれませんね。

[6479] ありがとうございました  国道170号線 2012/06/14(Thu) 19:46 [Reply]
>  東高野街道は河内湖の湿地を避けて生駒山裾を南に直線的に通る道筋で、平安時代の始めの頃に開通した街道のようです。北から南への道筋はここか河内湖の西側しか道はなかったのでしょう。
>  大阪は宗教都市と言われますが、寺社が比較的多く鎮座しています。特に
>  すでに鎮座していた寺社もあったのでしょうが、道筋に寺社ができていくこともあったのでしょう。
>  河内湖の西側の熊野古道も参詣道として、もっと遅くにできていった道筋です。寺社が多いようです。
>  妙見さんが多いかどうかは承知しておりません。
>
ご返答いただきありがとうございました。
神奈備さまにご提案したい内容があるのですが170号線の最北端、高槻市から枚方市・寝屋川市・四条畷市・大東市・東大阪市・八尾市・柏原市・藤井寺市・羽曳野市・富田林市・河内長野市・貝塚市・熊取町への最南端にかけての「国道170号線沿いに祭祀されている有力寺社仏閣霊場めぐり」というテーマで巡礼紀行というのはいかがでしょうか。

[6478] Re[6477]: 国道170号線は「妙見街道?」妙に妙見神社がおおいのですが「東高野街道」に接しているからでしょうか  神奈備 2012/06/14(Thu) 15:20 [Reply]
 東高野街道は河内湖の湿地を避けて生駒山裾を南に直線的に通る道筋で、平安時代の始めの頃に開通した街道のようです。北から南への道筋はここか河内湖の西側しか道はなかったのでしょう。
 大阪は宗教都市と言われますが、寺社が比較的多く鎮座しています。特に
 すでに鎮座していた寺社もあったのでしょうが、道筋に寺社ができていくこともあったのでしょう。
 河内湖の西側の熊野古道も参詣道として、もっと遅くにできていった道筋です。寺社が多いようです。
 妙見さんが多いかどうかは承知しておりません。

[6477] 国道170号線は「妙見街道?」妙に妙見神社がおおいのですが「東高野街道」に接しているからでしょうか  国道170号線 2012/06/13(Wed) 20:52 [Reply]
マピオンなどでたどっていれば気が付くのですが高槻市から貝塚市まで延びている外環状線の内狭い旧道の方をたどっていくと石切神社・瓢箪山稲荷神社など、また道明寺天満宮や黒田神社(いずれも藤井寺市)喜志の「美具久留御魂神社」など名だたる神社が縦に揃っています、また「野崎観音慈眼寺」や「水間寺」や古墳などまた「成田山・瀧谷不動寺」などが沿道にそっています。やはり水分(みくまり)などもからんでいるかもしれませんがこうも170号線沿いに有名神社・仏閣がおおいのはなにか要因が絡んでいるからでしょうか。

[6476] Re[6475][6472][6471][6470]: 殉死者の立棺  琉球松 2012/06/10(Sun) 12:07 [Reply]
 神奈備さんへ

 思いつきで、こじつけでもありますが、以下のような対応関係が成り立つかもしれません。

 長男五瀬命「祭祀王・戦争中の死」→「クナ国との闘争中の死」
 次男「剣を抜いて海に入り鋤持神となる」→「男王即位による混乱」
 三男「波頭を踏んで常世国に行く」→「ワダツミ国との往来?・南島の鮫神?」
 神武「執行王・大和で皇位につき祭祀王」→「壹与の即位」

 「祭祀王」→「女性による太陽信仰」
 「殺される王」→「稲作農耕?・再生観念?」
 「鬼道・呪術・医薬」→「倭国乱のストレス障害に対処する心療内科」

[6475] Re[6472][6471][6470]: 殉死者の立棺  神奈備 2012/06/10(Sun) 11:04 [Reply]
>  神奈備さん、どうなんでしょう? 神武兄弟は「卑弥呼」の3つの、あるいは4つの側面を表しているように思えるんですけど。南島からの思いつきなんですが。。。

神武兄弟
長男五瀬命 祭祀王 戦争中に死ぬ
次男 剣を抜いて海に入り鋤持神となる
三男 波頭を踏んで常世国に行く
神武 執行王 大和で皇位につき祭祀王

さて卑弥呼の機能とは
 祭祀王
 殺される王
 鬼道
 呪術
 医薬

どのように結びつくのか、よくわかりませんが・・・
 

[6474] 住吉セミナー  神奈備 2012/06/08(Fri) 19:19 [Reply]
6月11日(月)14時30分〜16時
神功皇后と高句麗好太王碑ー三韓征伐の虚像と実像
荊木美行 皇學館大學
場所 住吉大社 吉祥殿

[6473] Re[6472][6471][6470]: 殉死者の立棺  神奈備 2012/06/06(Wed) 19:04 [Reply]
とりあえず、明日、吉備に行って、楯築墳墓とか鯉喰墳墓を見てこようと思っています。

[6472] Re[6471][6470]: 殉死者の立棺  琉球松 2012/06/06(Wed) 10:04 [Reply]
 神奈備さん、こちらも苦し紛れです(笑)。

 文献資料はほとんど出尽くしているでしょうし、これからは考古学の出番なんでしょうね。
 原田大六さんの説を批判しても、それで決定的な事が言えるはずもなく、まだまだですよ。

 神奈備さん、どうなんでしょう? 神武兄弟は「卑弥呼」の3つの、あるいは4つの側面を表しているように思えるんですけど。南島からの思いつきなんですが。。。

[6471] Re[6470]: 殉死者の立棺  神奈備 2012/06/06(Wed) 09:17 [Reply]
>  大和岩雄さんは、著書『箸墓は卑弥呼の墓か(大和書房)2004 』で、原田説を批判的していて以下のように書いています。

 骨は残らないでしょう。立棺は箸墓の森の中にも沢山あるのではないでしょうか。(苦し紛れ)

 それより径100歩とは直径80m程度とすれば、サイズがあわないのが気になりますね。


[6470] 殉死者の立棺  琉球松 2012/06/05(Tue) 15:05 [Reply]
 大和岩雄さんは、著書『箸墓は卑弥呼の墓か(大和書房)2004 』で、原田説を批判的していて以下のように書いています。

*** 多数の奴婢が殉葬されたと文献資料は記すので、箸墓古墳を卑弥呼の墓にしたい原田大六は、箸墓古墳出土の特殊器台(原田は「円筒方器台」と書く)を、「殉死者の立棺」とする。だが特殊器台に人骨が入っていた例はないから、立棺ではない。もし立棺だとしても、多数出土しているわけではないから、殉死者の「百餘人」に合わず、原田説は成り立たない。しかし原田は、文献資料の殉葬記事を採りあげているだけ、まだ良心的である。多くの卑弥呼の墓を箸墓とする説は「經百餘歩」はとりあげても、「奴婢百餘人」の殉葬はまったく無視している。***

[6469] Re[6468][6467][6466][6465]: 耶馬台国の位置〜箸墓  神奈備 2012/06/05(Tue) 09:28 [Reply]
 魏の使者が和解のすすめを持ってきています。その頃、卑弥呼が死んでいます。休戦状態だったのでしょう。

 確かに乃木大将夫妻の殉死はお家でおこなったようです。これは自発的。権力側の強制で殉死さされる場合は、一種のショウでしょうから古墳の上の円筒埴輪に入れただろうとの原田さんの見解に同意できます。ククリヒメと呼んだとか。

[6468] Re[6467][6466][6465]: 耶馬台国の位置〜箸墓  琉球松 2012/06/04(Mon) 11:50 [Reply]
 神奈備さん、"多くの殉死" なんですけど。

 この証拠は、近畿でも発見されないんじゃないかと思いますね。卑弥呼の墓が見つかったとしてもです。
 殉死は、かならずしも「あの方のお側」である必要はないわけで、まあ勿論、近くでお供したいのが本心でしょうけど。
 狗奴国との闘争中の急造の墓の周辺に、明確な殉葬跡があるとは思えないんですけどね。
 
 それと吉備ですね。この地は神武が大和へ入る再出発の地ですよね。「円筒埴輪」や「特殊器台」の模様の起源でもありますが、沖縄諸島産ゴホウラ製貝輪のほぼ東限でもあります。

 ところで、「ストーンヘッジ」と絡むわけではないですが。。。
 ロンドンの「ウエストミンスター寺院」では王の即位式が行われますが、ここは同時に歴代王達の墓でもあるようですね。なんかも凡人類的な感を持ちますし、前方後円墳建設の目的もこれに近いでしょうかね。

[6467] Re[6466][6465]: 耶馬台国の位置〜箸墓  神奈備 2012/06/04(Mon) 10:36 [Reply]
 卑弥呼は径100歩余の塚に葬られたようです。その時多くが殉死しています。それらしい塚が九州からは見つかっていないようです。

 吉備の墳墓によくある大型の筒型土器は、殉死予定者の手足を縛って入れる容器だと原田大六さんは言われています。鬼に捧げる犠牲。それを塚の回りに立てる。残酷です。関係者は見ていられないでしょうね。

 円筒埴輪は吉備の墳墓に現れ、大和に伝わったようです。この段階で台与が大和に入って、死後に箸墓古墳に葬られたと考えられます。
 大和への入り方は、人質として連行されたのか、凱旋将軍として乗り込んだのか、果たしてどちらでしょう。

[6466] Re[6465]: 耶馬台国の位置〜箸墓  琉球松 2012/06/03(Sun) 10:37 [Reply]
 「不弥国」までは九州で、問題はそこからですよね。「投馬国」は瀬戸内海のどこかでしょうか?

 ただ、卑弥呼は狗奴国との闘争中に死亡しているようですから、"女王の都" は九州内で、壹与(二代目卑弥呼?)の都は巻向ではと考えています。
 とすると、箸墓古墳は壹与の墓で、卑弥呼(初代)は後から合葬されたんじゃないでしょうか。長髄彦との闘争で死に至った「五瀬命」は卑弥呼(初代)の死を暗示しているように思えますがどうでしょうか。ホトを破られて死亡した百襲姫(三代目卑弥呼?)も箸墓に、つまりは3人、または4人の女性の陵が箸墓ではないかと。。。

 この古墳の発掘が進めば、鍬形石や車輪石、直弧文など、"沖縄" がザクザク出てくると思いますね。

[6465] 耶馬台国の位置  神奈備 2012/06/03(Sun) 09:00 [Reply]
耶馬台国の位置についての論議が多くあります。

魏志倭人伝の耶馬台国への行き方は
対馬→一大→奴国→不弥国まで来て
 水路で二十日で投馬国 さらに南の耶馬台国まで水路十日陸路一ヶ月
と言うように見えます。
 九州内の地続きは不弥国までで、そこからは水路ですから、投馬国と耶馬台国は九州内ではなさそうです。

 次に、一大率が伊都国に置かれていることです。
魏志倭人伝では、伊都国に一大率を置き、諸国を監視、国々は畏れている。とあります。耶馬台国が九州内にあれば、何も伊都国に官を置く必要はないでしょう。これから見てもやはり九州外と思われます。
 畿内に都があったので、九州に太宰府がおかれたことと同じことでしょう。

[6464] Re[6463][6462]: 無題  琉球松 2012/06/02(Sat) 23:12 [Reply]
  神奈備さん、助け舟どうもです。フガラッサ(ありがとうございます・与那国島方言)。

 今ですね、BS朝日のサタデーシアター『まぼろしの邪馬台国』を観てるんですけどね。画面は熊本県「長目塚古墳」のシーンです。
 女王国の所在地よりも、ついつい吉永小百合にピントが合ってしまいますが(笑)、今城塚古墳とか古代人が盛った土に触れてみたいものです。

[6463] Re[6462]: 無題  神奈備 2012/06/02(Sat) 08:00 [Reply]
> 神奈備さんへ
>
>  下の投稿でご迷惑をおかけしているでしょうか。
>  削除したほうがよろしければお願いします。

迷惑などと、とんでもないことです。
まっとうな議論だと思います。
高槻の今城塚古墳はほぼ確実に継体陵とされていますが、発掘しても継体陵との証拠はなかったようですし、渡来人だったということもなかったようです。
宮内庁はなにをびびっているのかなと思います。


[6462] 無題  琉球松 2012/06/01(Fri) 13:44 [Reply]
神奈備さんへ

 下の投稿でご迷惑をおかけしているでしょうか。
 削除したほうがよろしければお願いします。

[6461] 古墳の発掘  琉球松 2012/05/19(Sat) 15:58 [Reply]
 "一切のタブーを排して究明"。。。これは宮内庁にもお願いしたいものです。

 天皇陛下は、国民が望むならと、了解していただけるものと信ずる。

[6460] Re[6459]: 「南京」の真実  琉球松 2012/05/08(Tue) 22:09 [Reply]
 これは賛同に値します。

 "一切のタブーを排して究明" 。。。これが歴史の目であるべきですね。

[6459] 「南京」の真実  神奈備 2012/05/08(Tue) 18:52 [Reply]
河村たかし名古屋市長発言を支持し「南京」の真実を究明する国民運動賛同署名に御協力をお願いします。
お名前・ふりがな・メールアドレスを記載するだけですから、簡単です。
賛同署名呼びかけ人代表は、渡部昇一先生です。
  ↓
http://ws.formzu.net/fgen/S44191616/


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 私は、日本国民の一人として、以下の認識と取り組みに賛同し、私の責任において、ここにその意思を表明いたします。

 河村たかし名古屋市長は、平成24年2月20日、中国共産党南京市委員会の代表に、「南京で戦闘はあったが南京事件はなかったのではないか」と
語るとともに、「討論しつつ仲良くしていきたい」と提言しました。



一、河村市長の発言は、自己の見解を率直に述べつつもこれを押しつけず、討論を求めた妥当なものであり、この発言を支持します。

二、河村市長に対し、この発言の故に加えられている圧力や脅迫に強く抗議し、言論の自由を守るためにたたかいます。

三、南京市政府が姉妹都市交流を中断し、中国政府も制裁をほのめかしているのは極めて不当であり、これに抗議します。

四、日本政府は、中国の持ち出す「歴史認識」への屈服が国益を害してきたことを認め、今回の中国側の不当な対応に抗議すべきです。

五、日本政府は、「民間人の虐殺があった」とするような特定の認識に立つ政府見解を撤回し、判断を国民の間の研究と議論に委ねることを求めま
す。

六、昭和12年、南京陥落後に本当にあったことを、一切のタブーを排して究明し、「南京」の真実を明らかにする議論と言論を国民的に巻き起こします。


[6458] 福岡県◯藩  生田淳一郎 2012/04/17(Tue) 16:32 [Reply]
多美さん、この認識は多美さん個人の見解によるものなんでしょうか? それとも同じことを理路整然と主張する誰かさんが別にいらっしゃるのでしょうか。
 いずれにしても一億二千万人いる日本の中にこのような見解の主が一人でもいらっしゃることは、とが(科)(・・・・・後述の鼻削ぎ事件に関与)を持つ身にとっては、まさに地獄でホトケ、ホッとできる一瞬があります。
 しかし、この「幕末は既に時効」との主張は、国際社会の常識ではどうかと思うんですよ。日本人はじつに悪いことを周辺外民族にやらかしているんです。特に隣国の朝鮮とのあいだには。
 多美さんは「耳寺、「鼻寺と呼ばれている京都の寺のことをご存じでしょうか。
 秀吉は日本朝鮮に向けて日本国挙げての倭冦を二度やりましたが、事件はその第二次出兵とき、「秀吉が喜ぶだろうから」という理由でどこかの藩兵がやらかしたのです。
 鼻塚ではひとぎきがわるいので、その後耳塚に改めたらしいのですが、日本人たちは朝鮮人とみたら赤ん坊の鼻まで削ギ落として行ったそうです。
 ここまでものエゲツないことをやれるニンゲンは咸臨丸の最後をメチャクチャにした連中と同一野郎たちだと思うのです。
 小生が「福岡県の◯藩だ」と書いたところ多美さんは「それを腹蔵なく表明せよ」とおっしゃるが、事態はカンタンには行きませんよ。それを書くことはいともカンタンですが、それをやったら、それこそ石つぶてが飛んで来るので、その末裔たちは街を歩けなくなりましょう。ここは武士のなさけが有効のようです。 
 どうして小生の福岡県◯藩が知りたいなら石母沢寛の『勝海舟』全六巻の 五〜六巻を読んでみてください

[6457] 無題  生田淳一郎 2012/04/15(Sun) 18:56 [Reply]
 わがパソコンが脳震盪を起こしたことと、眼がわ〜るくなったことで、文字配列に支障を来たし皆しゃんには多大な迷惑をおかけしています。スンマッシェン。

[6456] Re[6453][6452][6451][6450]: 観音マスク・ミロク・マスク     生田淳一郎 2012/04/14(Sat) 16:15 [Reply]
> 多美さんん


>興味を持つと、多いな石を投げ込む癖があります。
● 小石がないときには、気の早い江戸っ子は屋根に登って瓦を剥いで瓦をぶっつけました。
 工夫好きなヤツは腰ひもを二つ三つ繋いで下駄に結びつけて投げました。こうすると投げた度に下駄を失わずに済み、カミさんから叱られないで済むわけです。

 幕末、ええじゃないか踊りが流行ったときにはひと抱えもありそうな鉱石を分限者の門の中にドッシーーンと投げこんで「あなたの庭には金塊が降りました」と紙ぎれに書いて知らせるのです。すると投げ込まれた家では身代を尽くして近辺の衆に酒をふるまわねばなりません。
 そういうあてずっぽうな「集合自我」みたいなところへ凭れかかって生きて来られた日本民族はじつに幸運だったと思います。
 ひとを信じることができる基盤が用意されているのです。成文法みたいな契約々々の社会ではなく、自然法、人情がそのまま通用

>
> 小生、顔色を窺う癖があります、
>
> それも、意図的に、小石をぶつける癖があります、
>
> さらに、興味を持つと、多いな石を投げ込む癖があります。
>
>
> > 福岡県の o藩だと当たりをつけています。あの咸臨丸の最後をメチャクチャにしたエゲツねぇサムライたちです。あすこんニキ(九州弁 ; 場所)にはアクのつよいのがいっぱいいるんです。
>
>  お願いがあります、幕末は既に時効と思われますので、
>
>  ○藩、ではなく、はっきり指摘して頂きたいと思います、
>
>  福岡県の大藩、黒田・小倉・久留米???

[6455] 江戸の街の石つぶて     生田淳一郎 2012/04/14(Sat) 10:10 [Reply]
カネ貸しや質屋のオヤジに、いったん「あいつは因業ヂヂィだ」といううわさがたつと、ヂヂィたちは安心して街を歩けなかったそうですね。いつどこから石つぶてが飛んでくるか分かったもんじゃないからだそうです。
 そこで駕篭に乗る。駕篭に石つぶてを飛ばしたヤツは、こんどは篭屋から狙われるってぇ仕組みです。
 むかしの人は栄養価の低いたべものを食していたので 43〜45才ごろから老後のことを考えて身体を使わなくっても楽して稼げるカネ貸しや質屋業を選んだのでしょう。そのぶんだけ、駕篭屋が増えるという仕組みで・・・・・・。
 いっぽう、目に一文字もない文盲でも身体さえシッカリしていたら、江戸ではSの日から食ってゆけた。駕篭かきをやればいいんです。

 それにしても、小生が分らないのは、なぜサムライたちのあいだで覆面が葉経ったかということです。
 天下堂々として倫理観に満ちみちていたサムライが、なぜ覆面を拒まなかったのでしょうか。
 サムライの子女もおこそ頭巾をして顔を隠しました。

[6454] Re[6453][6452][6451][6450]: 観音マスク・ミロク・マスク     生田淳一郎 [Url] 2012/04/13(Fri) 17:23 [Reply]
>図的に、小石をぶつける癖があります、
>
> さら。
>
>
> > 福岡県の o藩だと当たりをつけています。あの咸臨丸つよいのがいっぱいいるんです。

ひょっとしたら、多美さんの通学路もボタ山だったのかナァ
ワエラの国民学校当時の通学路は梯形型ボタ山の肩を縫う道でした。小石ならいくらでもある。まままあの大きさの石を拾って力いっぱい投げると谷底の火葬場のトタン屋根に当たってグワ〜ンと鳴り響く。すると鉄のセセくり棒を持ったオヤジがナニやら喚きならら急な坂を上がってくる
 ガキ共はそれをひややかに見おろして「バァカ、オヤジのバァカ」、「カソバのオヤジ、オマエが死ね」と罵り騒ぐ。
 オヤジの真っ赤な顔が目の前に来たとき「逃げレェ〜〜。
>



[6453] Re[6452][6451][6450]: 観音マスク・ミロク・マスク     多美 2012/04/11(Wed) 19:37 [Reply]
生田さん

小生、顔色を窺う癖があります、

それも、意図的に、小石をぶつける癖があります、

さらに、興味を持つと、多いな石を投げ込む癖があります。


> 福岡県の o藩だと当たりをつけています。あの咸臨丸の最後をメチャクチャにしたエゲツねぇサムライたちです。あすこんニキ(九州弁 ; 場所)にはアクのつよいのがいっぱいいるんです。

 お願いがあります、幕末は既に時効と思われますので、

 ○藩、ではなく、はっきり指摘して頂きたいと思います、

 福岡県の大藩、黒田・小倉・久留米???

[6452] Re[6451][6450]: 観音マスク・ミロク・マスク     生田淳一郎 2012/04/11(Wed) 15:43 [Reply]
>
> > ● 多美さん、ひと様の名前の由来や意味について詮索するのが小生のわ〜るいクセです。しばし忍苦のおつきあいのほどを。
 まずネパール語的に考えると末尾に I が来るので多美さんはやっば女性ということになら。
 アイヌ語的に考えると杖刀人・・・・・・、すなわち男性とならァ〜。
 杖刀を持つ人からちょっとだけ飛躍して、アイヌ語の mutbe’(身につける物)にたどりつき、ここで オオナムチの mut-i が浮上。アリガサマリョータ。

 mut というアイヌ語には「それを身につけるだけの資格ある者が身につける」という概念規制が大いにはたらいているようです。
 結婚式とか貴賓招待の場だとか、総かお見せなどの改まったときに先祖から伝わっている goods を身につけて 一家のじまんにするわけです。辞書によっては、武器という訳もあるかと思います。
 西洋系言語では na の次に動詞が来た場合、「その動詞をしない」という意味となりますが、この場合のオオナとは「王の物」という具合に気軽に考えたほうがいいかと思います。
 すなわち、オオナムチとは三種の神器を保管している家柄の長男ぐらいの意味だったのではないでしょうか。
 むかし、武家では領主から拝領した盃や短刀、刀を家の名誉として子供たちに受け継がせる風習がありました。ここまでは良い。がしかしそれが本当に間違いなく受け継がれているかを意地汚く監視する役目の者がいたり、定期検査の制度があったそうです。
 検査のとき拝領物に少しでも瑕疵があったり、紛失していたりしたときには、誰かが切腹したり家が
断絶となりました。ここまでアクドイことを思いついたり遂行するのはどこのナニ藩だったでしょうか。ここは日本の恥部。断じて見逃せにはできません。小生はこういうことをやるのは福岡県の o藩だと当たりをつけています。あの咸臨丸の最後をメチャクチャにしたエゲツねぇサムライたちです。あすこんニキ(九州弁 ; 場所)にはアクのつよいのがいっぱいいるんです。

[6451] Re[6450]: 観音マスク・ミロク・マスク     多美 2012/04/10(Tue) 19:25 [Reply]

> ● 夕方、競馬場からあふれ出てくる男たちの顔は、皆一様の顔をしています。

最終レースまでいる人々は、ほとんど「負組」でしょう、一部の勝者は最終レース前

に帰ります。と、思います。

> ● 競馬に狂った男を知っていますが、目と目のいちばん近いところの距離は 5ミリぐらいしかなく、自ら奇形を演じていました。

 飲む打つ買うの三点セットに狂うと、同じ様な人相になるようです、ね。

[6450] 観音マスク・ミロク・マスク     生田淳一郎 2012/04/10(Tue) 15:31 [Reply]
人間に限らず、動物の顔も、何らかの内面性を象徴的に表現しているのじゃないかと思いたくなります。
 その眼で見ると牡は勇ましく雌は柔和な佇まいを見せます。
 人間が神概念を取り込み、 それを常時希って暮らしていたら、その神が人相に現れるのではないでしょうか。 
● 夕方、競馬場からあふれ出てくる男たちの顔は、皆一様の顔をしています。
● 競馬に狂った男を知っていますが、目と目のいちばん近いところの距離は 5ミリぐらいしかなく、自ら奇形を演じていました。
 あたり障りがすぐに出る人相学は、なかなかに普及しませんがほとんどの皆しゃんも人相にはあんまし深入りしないところでお暮らしのことかと拝察します。

 「観音マスク」という標題で、ここにも二つ三つ書かせてもらったことがあります。
 観音マスクをしている人は実際にいるのです。
 高校生のときの学級写真ですが牟田という女の子のところでハタと目が止まりました。まぎれもない観音マスクです。
 本人さんは十数年も前に他界していますのでモンダイにはなるまいと思われます。希望者にはコピーをさしあげますので連絡してください。18才の写真ですので溢れんばかりの若さに輝いていますが、大輪の蓮の花が今咲いたばかりといった風情です。

 今年正月、十余年も放置していたからといって、設置薬品業の男性が拙宅にきました鼻眼眉にみごとな彫り込み線(?)があります。
「ふるさとはどこですか」と尋ねたら「岐阜」だということでした。
 こうなるともう、観音マスクではなくって「ミロクマスク」と言い直さねばならなくなりました。
 でも、観音だのミロクだのと日本語ばなれした学術用語はすんなりとは頂けませんね。
 そうすると仏画師とか仏面師たちは自然に放っておけばいろいろと変化を呈する人間の顔を、日ごろよくよく観察して、「これだ!」と思える顔にめぐり遭ったときにすかさず写生して自分のハコの中に仕舞い込んだのではないでしょうか。
 誰が見ても「いい顔」というものも、現実にあるとおもいます。

[6449] ドンの語源    生田淳一郎 2012/04/09(Mon) 12:23 [Reply]
神奈備 ドンありがとうございました。 下[ 6488 ] は神奈備ドンから運転代行みたいにして、投稿代行をやってもらったのでした。 小生のパソコンは 4回もゴチンゴチンと落としたので脳震盪を起こしているんです。
 ドンの呼称はスペインで流行りましたが、首領、親分をいうドンの起源がタジク語にもありそうです。・・・・・・で、何がどこでどう起源となったものやら。
  タジク語で話、会話、言葉は gap いいますだ。ところが gap -don となると全体が形容詞になって「話しのじょうすな」という意味の形容詞になってしまいます。では、don とは「じょうずという意味かというと、さに非ず。じつは don とはうつわ(器)のことなんです。namak は塩ですが、namakdon は塩をいれる容器です。siex は黒色ですが siex don はインクびんです。
 そうすると ドンブリという日本語は、これと関係があるでしょう。ドンブリのブリはいまいち分かりませんが、そのうちタジク語とかロシア語で意味が割れることでしょう。
 肝煎りドンとか過丁稚ドンとかのドンもタジク語とかロシア語で割れる日もそう遠くはなさそうです。
 日本では武将や領主のうつわの大きさがさかんにうわさされましたが。それが習慣になったのは ドンという言葉の持つ響きとひろがり(他概念との繋がり)がそうさせたものだと思われます。
 あー、神奈備ドンの鼎の軽重を問うような、そんな畏れ多いこっちゃ断じてごわはんど。

[6448] 毛虫眉 7  生田淳一郎 2012/04/07(Sat) 21:29 [Reply]
 原発事故と地震で有名になったいわき市ですが、25年ほどまえ、旅籠の横に理髪店があったので散髪してもらいました。
 店主がいうには、ここら一帯の男は剛直なヒゲが多い。顔にシャボンをつけてカミソリを斜めに当てると切れるといったもんじゃなく、他店との競争もあるので、ヒゲの根を一本々々掘るようにして剃るのだそうです。
「これじゃ、東京などと較べると 10倍も手間ひまがかかります」と云っていました。
 弥生時代にツルンとした顔の朝鮮人が毛人を追い詰めて行ったというのは庶民の常識でしょうか。
 とにかくいわき市とか岩手県には毛人にはこと欠きません。


 じつは、東北震災を日本復興のチャンスにして起死回生の偉業をなし遂げれるグループとか人びととは、ぐる〜〜っと見渡すかぎり、日本にはこの毛虫眉のおじさんたちしかいないんです。


 社会が野蛮状態から起ち上がり、文明にすすむとき、その勢力の中核となって来たのは意地と人情の「ニラミのおじさん達」であったことを想いうかべてみてください。政府のもとの行政府((<3>))では一歩も前進はありません。
 世界中から寄せられた義援金は、今、どんなことになっていましょうか。陸前高田市ではようやく 7万円の支給があったといいます。


 気仙沼、陸前高田、大船渡あたりで、親分衆が三人集まって自らを「ニラミ衆」だと自称したときこそが本当の復興元年です。
 「いまの日本は野蛮状態ではない、リッパな文明国だぞ」との認識不足の反論が聞こえて来そうですが、国会もNHKもイテキから乗っ取られた今の日本・・・・・・、野蛮状態でなくってナンでありましょうか。

[6447] √ ツキが出たでた 月がでたよいよい   生田淳一郎   2012/04/06(Fri) 11:41 [Reply]
vv みなしゃん、おめでとさんにござんす!!
 とうとつ・・・・・・、まったく唐突に「ツキ」にめぐまれやした。
 星でいうたら一等星なみにキラキラキラキラと古代日本語を写すtタジク語の、その中でも現代のどの言語が「ててご(父語)」というに相応しいのかをちょっと追いかけたらロシア語臭いことが分かりました。そのロシア語でツキ moon はアイナというそうでんす。
AINA の語形を開音前に戻すと AIN となる。
 
 ayn といえば世界のあちこちで鏡じゃんけ、法律、礼儀じゃんけ。

 アイヌに紙ひとえの近接発音です。M / N を考えると へんなメシ盛り女のいるアイマイやど。ネパール語 AIMAI は女のこと。
 ピリピノ語も「太陽よりも弱い」にひっかけて「女」が出来ていた。

 シナ語の「円(エン)」は満月の◯だったか・・・。

 むかしから人びとは月を見ながらいろいろと想いを巡らせたことがわかります。
 悟ったときの心境とは満月が「沼」に写る姿だそうです。「沼」の語源探索には欠かせない視野かと思われます。

 ところで、小生が生まれ育った稲築町。なんかこう、日月が夫婦となって世界じゅうを廻る縄文神話の水旅の終着点を謂っているみたい。


 みなしゃんも、ロシア語辞書を読みはじめませんか? 
 夢中・至福の 1年間がつづくことウケアヒです。 あ、『ロシ語パスポート』だけは買わないほうがいいヨ。

[6446] Re[6445]: 「靱」  神奈備 2012/04/04(Wed) 19:17 [Reply]
 靱地域は秀吉の時代には雑魚場市場とか海産物問屋が多くできており、魚の販売が盛んでした。秀吉が巡視した際、商人が『やすい、やすい』と威勢のよい掛け声で魚を売っていたのを聞き、『やすとは靱(矢を入れる道具)のことじゃな。』と言ったのが地名になったとの伝承があります。
 地域の人は「靱」の文字に何故かこだわります。

[6445] 「靫・靭・靱」  多美 2012/04/04(Wed) 18:14 [Reply]
「靫・靭・靱」

・・・・延喜式群馬郡伊加保神社名神大とある次に椿名神社小とある。

其祭神の異同が知れ難いから、潮音和尚は仮に二社同神と憶測して、

伊香保温泉の因から元湯彦(もとゆひこ)など、出鱈目を駢べ、之を十巻旧事紀に

ある彦湯支命(ひこゆきのみこと)の別名だなどと託言したが、

此方は彦靭の意味で、矢筒の靭(ゆき)を名乗とした武名である、温泉の湯元彦で

はナイ。

大正5年「上毛及上毛人」の記述の一部、タイトルは「春名の神を満行権現と変名

した秘密史」です、読んでいて面白い表現“伊香保温泉の因から元湯彦など出鱈

目・・・・此方(本家旧事本紀)は彦靭の意味で・・・・、

靫・靭・靱=細長い筒の様なもの?


ウツボ公園のウツボは?

満行権現から靭になった次第です。


[6444] 毛虫眉  6     生田淳一郎   2012/04/04(Wed) 14:22 [Reply]
 25年ほどまえ、東北に 3年つづきの凶作がありました。その 2年めの夏dす。
ミシン改造の営業所として使っていた六畳二間のアパートに三人で寝ころんでいたとき、アベちゃんが「マスター(高橋稔のこと、)、とかなんとか言うても人間は死んでしまうなぁ、マスター、どう思う?」と率直な質問をやり始めました。
 マスターはシに強いアクセントをつけて「ショーがネェヨ」といいました。
 そしてすぐに「死んだらなぁ〜〜ンにもナラン」と二度いいました。この「死んだらなぁ〜〜ンにもナラン」には「生きていてもなんにもナラン」が裏貼りされているのですが、センスのいいアベちゃんはそれを十分に分に感じ取ったことと思います。
 今じゃぁ マスターは 8年前に死に、アベちゃんは5年前に死にました。なァんにもならんのが朝から夜までゴロンゴロンとしています

[6443] 毛虫眉 5     生田淳一郎   2012/04/02(Mon) 20:25 [Reply]
自分が死ぬのがまったく怖くないという動物ばなれしている司馬遼太郎さんの異常神経は生まれつきではなく、後天的なものだと思います。なぜなら、小生も53歳のある日、似たり寄ったりの経験をしたからです。
 それまでの小生はものごころがついた 13歳からず〜っ毎日、自分という現象が dar-dar(驚・恐)で、その自分が死ぬなんてぇいうことは、破天荒もいいところで、水爆を 100ヶ爆発させてもまだ足りないぐらいに rar-tar でした。それが・・・・・、高橋稔と知りあいになり、根源的なことを話題にする暮らしをつづけたせいか、 53歳のある日、ふと気がつくと、 tar-tar はひとつには程度の問題で、そんなには怖くはないようになっていたことに気がついたのでした。それは恐怖感がまったく無くなったというのではなく、それは先に書いたように「程度の差」と表現したほうがふさわしいです。司馬遼太郎さんのように「まったく無い」は、いわばこれは「底抜け」で、別ワクを感じます。
 また、司馬遼太郎さんの恐怖ばなれはもしそれが先天的なものであったら、そのような異常心情を醸しだすのはD.N.A分子の異常配列が原因なはずですので、胎内にいた段階で母胎の白血球群から「異分子」のマークが付けられて無事出産にはなっていなかったことが推察されます。
 しかし、ここでこうして司馬遼太郎さんに斯かる神経異常が現われたという事実は、その拠ってきたメカを解明してゆけば、宗教戦争の過熱ぶりも収まり、青年僧に不要な座禅組みなどを強要するなども大幅に質を変えるものとなりましょう。
 この福音は小さく見積もっても聖書やお経の数百万巻ぶんに相当する。
 ま、オレが睨んだかぎり、ここは踏み誤らせることはないでしょう。山崎正和さんに喰らいついてでもオラァ、やったるでぇ〜〜! 

  ところで、火事場のバカ力というのは「筋肉に嵌められていた一種のカムが外れるようなことで起こるそうです。普通の暮らしでは筋肉は 650キロぐらいしかセットされていないのに、火事だ!という声を聞いたらmカムが外れて 100キロの重さも持てるそうな。このことは催眠術・催眠学でも容易に確かめられますので共有して下さい。
 この司馬遼太郎さんの「底抜け体験」は、暮らしの成り行きの場で、ふと「踏み外したり、ひっかけた」ような事態のよって引き起こされた心理現象だと思います。
 こういう事件は想定できないでしょうか。
・・・・・司馬さんが 50歳前後のとき、モンダイを抱えた司馬さんが「そのモンダイのカムのまわりをうろつき始めた。ところが司馬さんの着物からは紐が出ていて、その紐の先にはフックがついている。
 そのフックの先がカムにあけられている穴にカポッとファックした。
 歩けないので司馬さんがすこし力をいれて引っぱった・・・・・・ら、カムが底抜けになって以前の体制が機能しなくなった・・・・・とか。

 小生が生まれ育った稲築町には未発掘の土壙が二つ残っていて、そこには「力石」という考えかたが伝わっています。敵が攻めてきてどうにもならぬときは、土壙の天井の一角を棒とボンコシハンマ―で突き壊すのです。すると天井部分と壁が土砂ごと落ちてきて先祖の財宝も埋もれてしまうのです。


神奈備掲示板、写真掲示板、過去ログ集




神奈備ホームに戻る