青草掲示板ログ 平二十六年 一月〜一二月 2014.1〜12
多に蛍火の光く神、及び蠅声なす邪しき神有り。湯嶽神・菊嶽神の集い。
素人のひらめき、力はないが騒がしくなかなか従わない、一寸の草木にもある五分の魂の発露を!
 青草談話室

[9724] Re: 九州熊本の北岡神社と「うたの木」 神奈備 投稿日:2014年12月 8日(月)21時04分
言蛇さんへのお返事です。

> 「やすみしし 我が大君の 食す国は
>     大和もここも 同じとぞ思ふ(万葉集0956)」
>
 我が大君の 食す国 とは、大王の支配地域のことです。


 最近、蝦夷について勉強しようと思っています。

 天皇が支配する理由として、そこの人民は化外の民ではなく、王化されている国民であると持ち上げて,服従させ、税金を取り立てる。
 このような民と対照的な存在として、蝦夷なる存在を創作したのでしょう。
 唐に対しても、倭国も化外の民から朝貢を受けている帝国であることを宣伝できるという利用価値があったのでしょう。
 東北に住んでいた人々を蝦夷と称したのですが、蝦夷はまとまっていたわけではなく、唐への説明にも、従順な蝦夷を熟蝦夷、従わない蝦夷を荒蝦夷、津軽に住んでいる人を都加留とあります。



[9723] 九州熊本の北岡神社と「うたの木」言蛇 投稿日:2014年11月29日(土)14時05分
「やすみしし 我が大君の 食す国は
    大和もここも 同じとぞ思ふ(万葉集0956)」

神奈備さまこんにちわ、九州熊本みやげの馬さしとレバさし・辛子蓮根です。
投稿できる記事のネタは多くあるのですが捌くのが追いつかず申し訳ない(汗

北岡神社の祭神は健速須盞嗚尊と奇稲田姫、
所在地は熊本市西区春日1丁目8-16です。
鳥居の脇には夫婦楠が鎮座しています。

「うたの木」はJR熊本駅から徒歩3分、北岡神社と向かい合う形で営業中。




[9722] 生田神社・包丁塚 言蛇 投稿日:2014年10月14日(火)00時33分
「語り継ぐ からにもここだ 恋しきを
   直目に見けむ 古へ壮士(万葉集1803・田辺福麻呂)」

生田神社の包丁塚。
卵のようにもみえますし、女陰石のようにもみえます。
皆さん包丁はきちんと手入れされていますか?
いま一度ご確認を・・・




[9721] 中央卸売市場北部の妙見宮 神奈備 投稿日:2014年 9月15日(月)20時49分
福島区野田地区の北西部の住宅街にひっそりとたたずむ妙見宮
市場繁栄の守護神として今日も多くの信者さまのお参りがあります。





[9720] 聖徳太子の実像 神奈備 投稿日:2014年 7月19日(土)21時25分
聖徳太子の実像   塚口義信先生 古代を偲ぶ会  の講演から

『日本書紀』巻二一用明天皇元年(五八六)正月壬子朔◆元年春正月壬子朔。立穴穗部間人皇女爲皇后。是生四男。其一曰廐戸皇子。〈更名豐耳聰。聖徳。或名豐聰耳。法大王。或云法主王〉是皇子初居上宮。後移斑移斑鳩。於豐御食炊屋姫天皇世位居東宮。總攝萬機行天皇事。
 厩戸皇子(以下、聖徳太子)は、斑鳩にいて、東宮につき、国政を全て執り行って、天皇の代行をした。

『日本書紀』巻二二推古天皇元年(五九三)四月己卯《十》◆夏四月庚午朔己卯。立厩戸豐聰耳皇子爲皇太子。仍録揶政。以萬機悉委焉。
 推古天皇は、厩戸皇子(以下、聖徳太子)を皇太子として、一切の政務を委任した。

 ● 聖徳太子は一切の政務を委任されている。特に皇太子は外交を任されている。

『隋書 倭国伝』 開皇二十年(600年 推古八年)、倭王、姓は阿毎、字は多利思比孤、号は阿輩?彌、遣使を王宮に詣でさせる。上(天子)は所司に、そこの風俗を尋ねさせた。
 王の妻は雞彌と号し、後宮には女が六〜七百人いる。太子を利歌彌多弗利と呼ぶ。

 ● 明らかに倭王は男である。推古天皇ではない。

『隋書 倭国伝』
 既に彼の都に至り、その王、裴世清と相見え、大いに悦び、曰く「我、海西に大隋、礼儀の国ありと聞く故に遣わして朝貢した。我は夷人にして、海隅の辺境では礼儀を聞くことがない。これを以て境内に留まり、すぐに相見えなかった。今、ことさらに道を清め、館を飾り、以て大使を待ち、願わくは大国惟新の化を聞かせて欲しい」。

 ● 倭王は裴世清と直接言葉を交わしている。女なら女とわかるだろう。やはり倭王は男だ。


『宋書』倭国伝
 元嘉二十年(443年)、倭国王済の遣使が奉じて貢献、再び安東将軍、倭国王とする。
 元嘉二十八年(451年)、使持節、都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東将軍に旧来のように加叙し、併せて上る所の二十三人を将軍や郡太守に除した。
 済が死に、世子の興が遣使を以て貢献してきた。
 世祖の大明六年(462年)、詔に曰く「倭王の世子の興、奕世(累代)忠を掲げ、外海に藩を作り、王化を受けて境を安寧し、うやうやしく貢職を修め、新たに邊業を嗣ぐ、宜しく爵号を授け、安東将軍、倭国王にすべきなり」。

 ● 倭王は当時の大王であるが、済の世子の興も、倭王として扱われている。大王でなくともいい。


 ●● 推古天皇から一切の政務を任されていた聖徳太子が、ここでは、倭王、として扱われている。相談にあずかっていた馬子ではない。  これが塚口先生の結論でした。



[9717] 無題 豆たぬき 投稿日:2014年 7月 3日(木)10時27分
有名な各地の岬を結んだら、、、その線上、交点には有名寺社や霊山がいっぱい。
方位方角のラインと共に重要ポイント(基準点/国土の有り様を示す。また、海路の要衝を示唆する)
丹後半島最北端の経ヶ岬。現在も巨大な灯台並びに最重軍事要施設が置かれる要所。
霊ライン上も重要基点。
岬を示唆するライン上には大体?海に関係した神仏が配置されていますな?
、、、弁財天連合会/厳島神(/天照大神荒魂)、金比羅神、エベッサン連合神会(蛭兒、事代主、少名彦那、鵜葺草葺不合命、、、)、伊弉諾尊/伊弉冉尊(弁財天)、住吉神、大山祇神/大綿津見神(大海神)、猿田彦神(海神)。船玉明神連合会)

南海方面は足摺岬、佐田岬(各地)、室戸岬(洞窟に最重要な天神地祇を祀る程の要所)、蒲生田岬、日の岬(和歌山県)、潮岬、大王岬(大王の名称は重要。伊勢神宮の立地他に関わる)、立石岬(夫婦岩)、伊良湖岬、知多半島の南端の岬(失念)
赤穂岬(イワ津姫神社。岩礁を御神体と為さる。、、、弁財天)。
古の日本海軍旗艦ほかは赤穂岬の神霊を畏み敬って御前海上で最敬礼の右三旋回を行っていた由。(三回廻ってワン!)
宮島の厳島神社のご祭礼のクライマックスは御前(社殿)の狭い船溜に漕ぎ入れた手繰り舟(手栗は天香語山命。テグリは最高神)を乗船する頭屋の若い衆が苦労惨憺して右三旋回させる事(当然ながら辺りは由良かす舟の飛沫で一面水浸し)
ヒフミユラユラ、、、
、、、海の神には自船を右三旋回が最敬礼?。(漏れ聞く某皇大神社の秘伝古式拝礼作法にも、、、)
ヒフミ(火風水)ユラユラ


[9716] >Re: 独り言、、解除(祓い清め)と招福の神。 豆たぬき 投稿日:2014年 6月19日(木)16時28分
蘇民将来の伝説も来訪神(武塔神。素戔嗚尊)が解除(祓い清め)をして下さる。
と言ったところがより古い?棚機津女の信仰との類似性が拝察されます。
期日は不明ながら七夕祭りを七夕盆と言って先祖祭祀をなさり風習が残る事や、
七夕祭りと習合した事、夏越の大祓と日取りが近い等を勘案すると、旧暦の6月晦日〜七月7日辺りかも。
そういえば、祇園祭もいわば解除の祭。(大疫病神(と共に大福神)に疫病神を解除して貰う)


[9715] 独り言、、解除(祓い清め)と招福の神。 豆たぬき 投稿日:2014年 6月19日(木)16時09分
日本神話の事ある毎にチラチラ顔を覗かずのが今は七夕祭りのメルヘンに押しやられた上古日本の重要事であった棚機津神の信仰と祭儀。
巫女が最高神、天照大神(と同等)になれた(と言いくるめた)カラクリ(原理原則)もコレ
(例えて言えば、現在の日本国憲法は占領軍事機構から押し付けられたとは言え手続き上は明治欽定憲法の原理原則の手順に則って修正、改訂されて発行。、、、)
祓い清めの原型もコレ。
来訪神(七福神、エベッサン他)が福の神と信仰される原型もコレ
神様の捧げ物に幣帛が用いられる源泉もコレ?(麻布以前には葛の蔦の甘皮から繊維を拵えてつむいだ糸から衣服を拵えていた由(日本最古の糸は葛から))
斎宮が川近くの野々宮に忌み籠もるのもコレ?
斎宮(王)が神妻とされる所以の源泉もコレ?


[9714]  たなつもの  神奈備 投稿日:2014年 6月15日(日)20時48分
 田の神は刈取りが終わると山へ戻るそうです。田の神の発生は山だったということかも。

 阿波古事記のHPに「平地の畔が壊されたらそこを直せばいいが、棚田の場合には、破壊が上の田から下の田へと順々に波及していく。」ということが指摘されています。
http://park17.wakwak.com/~happyend/kojiki/awa/awa_05.html#Anchor-45

 「畦はなち」の罪とは、畔を壊すことですが、これが天津罪という大罪に数えられるのは、田とは棚田であった時代が圧倒的に長かったことを示しているのかも。

 これから考えますと、水稲の始まりは山中の段々畑風の棚田からといえそうです。水が流れること子であれば、水の制御は平地に比べて極めて容易にできます。たなつものが米を現すのは上記のことからでしょう。



[9710] 角のある狛犬 言蛇投稿日:2014年 6月 6日(金)14時30分
「犬上の 鳥籠の山なる 不知哉川
  いさとを聞こせ 我が名告らすな(万葉集2710)」

神奈備様こんにちは、今週は但馬の国を周遊していましたよ。
写真は但馬一の宮神社、出石神社の狛犬です。

ここの狛犬には角が付いています。
但馬の国の銅鐸の出土数はすくなく、出雲大社の文化とは距離を置いているようです。





[9709]無題 豆たぬき 投稿日:2014年 6月 4日(水)22時15分
>NHKの新日本風土記と別の番組で興味深いものが偶々続けざまに放送が有りました。
京都府の丹後地域の宮津には、日本最古の繊維で紡ぎ機織って拵える布、衣服が僅かに伝統工芸として継承されています。いわば神代からの布、神様方やご先祖様方が実際に身に付けていた衣服と言えます

原材料は春頃の葛。その甘皮を削いで大変な労力と工程を経て繊維を取りだし紡いで拵えた糸。

他方、同じ製法と作業工程を経て衣服を拵える伝統を有するのが北海道のアイヌ民族。
原材料は白樺の樹皮の甘皮に変わっていますが手順や工程、機織り他ほとんど同じ製法。


葛は龍蛇神のトーテム。神聖視されていた物。蛇の地膚?のような樹感とクヌクネと巻き付く様は正に龍蛇のよう。





[9708] 無題豆たぬき 投稿日:2014年 6月 4日(水)14時15分
淡路島は徳島藩にとって打出の小槌、金を産む重要な領地でした。
徳淡路島の米は堂島の米相場では常に一等米にランクされて高値で売買されていました。
方や徳島本藩の阿波国は米の出来が今一よろしくない(不味い)として余り高くは売れません。
そこで、淡路島産の米を高値で売り抜いて、代わりに安い今一な米を買い付け藩内に広く流通させてその差額、差益が藩財政の重要な収入源となっていた。とか。
淡路島全体の公称石高は五万石程度(実際は遥かに上回る)。徳島藩の公称石高の約四分の一程度。
一石は一両に換算され一両は10万円〜五万円(時代により)
仮に10万円(米相場で変動)として、23万石?を掛け合わせたのが徳島藩の公称の総収入かつ年間予算。時代が下る程にインフレ等で実質収入はかなり目減り
淡路島の僅かな中山間地域にはどこもかしこも天空に伸びる程に棚田が切り開かれ
ここはおおむね粘土質で滋味豊かな土壌から栽培収穫される米は今も昔も粘りけがあり味の良い事で知られています(鮎原米。小田米など(地域名)が特に)。
淡路島の米を集積し積出港が播磨灘側の江井の港。
往時は淡路島の富の8割が江井に有ると迄言われ回船業等で財を成した豪商が軒を連ねていました。
この江井地区(旧一宮町域)はもうひとつ重要な産品の線香の主要な産地(今なお国産線香の7割を生産。ほとんど国産線香は有名ブランドや下請け他にOEM供給)。
また、瓦産業も盛んで国内有数の産地。
こんなオイシイ淡路島を徳島藩が手離す筈はありません。
あっ、そういえば淡路島の三つの海峡(海上交通の要衝。軍事上も重要。神代に三つの海峡を抑えた勢力が近畿、瀬戸内海を平定したと思われる)をほぼ掌握していたのも徳島藩。

稲田氏は外様大名の家老に甘んじていますが(元々美濃辺りで野盗紛いの蜂須賀党の兄弟分)その知行地は脇町(藍の有数の産地。豪商が居並びウダツの街並みで有名。脇城の城代)と淡路島(洲本城代)の石高は一万石を遥かに超え大名並み(江戸では準大名扱い)。

別件ですが、淡路島と徳島に特異な数多ある社日搭、祠(5角形の石塔(バリエーションあり)に天照皇大神、宇伽魂神、大国神。少名毘古那神、大宮能売神。(ラインナップにバリエーションあり))の信仰を持ち込んで広めたのが美濃出身の蜂須賀氏と言われています。(元々は濃尾地方の土着信仰だとか)



[9707] Re: 星糞 時空少女 投稿日:2014年 5月13日(火)23時31分
庚さんへのお返事です。

星信仰!素敵な研究テーマですね☆彡

「星糞」=黒曜石を加工した時の屑(剥片)
「月糞」=玉髄化した巻貝の化石

かな。

「石の長者」と呼ばれた木内石亭が全国の奇石・珍石を紹介している本に、
「尾張風土記に尾張國玉置山に一石あり。赤星の落る處也。梺に星池といふあり。星常に此池に宿ると。怪石一ツあり。星の化せし石也と。今猶、時時、星、此山に落るといへり。」
とあるのですが、この「玉置山」「星池」がどこなのか、研究・調査の途中で分かったら教えて下さいね☆彡



 [9706] 星糞投稿日:2014年 5月12日(月)21時40分
皆様がお話している最中に失礼します。
時折こちらを拝見させていただいてます。皆様難しくて私のような素人はちんぷんかんぷんです。
そんな私自身は天津甕星を中心に星信仰についていろいろと考えています。
今回は星糞についてご意見をいただきたくてお邪魔します。

星糞と言えば黒曜石、長野や静岡に採掘跡やらが残っていますね(ついさっき知ったことですけど)。
黒い石に光沢、かつて人はそこに夜でも見たのでしょうか。
問題はここからですが、星糞はどうも流星のことも意味していたようです。
青森や佐渡にホシクソ、沖縄のホシヌクス。和漢三才図会では「陸奥、出羽に星が落ち、あまた処にものがあり、星屎(ほしくそ)と名づけた」。
諸国里人談では「信濃の国の岩村山のあたりに、春、田を耕すと土中から出てくる石がある。色は薄い灰色、水晶に似た感じである。大きなものはまれで、ふつう火打石のかけら程度の、角が尖った石だ。このあたりは、よそに比べて流星が多い土地である。流星がとりわけ多い年には、この石もまた多い。これを「星糞」という。」
これを機に星屎で調べるとどうやら広範囲で言われていた模様。
(千葉や茨城の方言であることも一応確認)

星糞、黒曜石と流星。この因果は偶然なのでしょうか。
信濃、すなわち長野は黒曜石の産出地。その地で流星が多く流れるときに取れる石。
この両者に星糞と名付けた人々は同じ人々だったなのではないでしょうか。
黒曜石を採掘していた人たちの心にはその黒さと光沢に夜を思いました。そして見上げれば流星。彼らは自分たちが採掘しているそれを夜から落ちてくるものと思ったのかもしれません。
彼らにとって流星とは黒曜石でした。だからこそ同じ名で呼んでいました。
時代は銅、鉄文化へと変わっていき黒曜石は廃れていきました。それでも彼らが名付けた星糞は、文化の波に飲まれつつもかろうじて残存しました。

日本は古来、星信仰が存在しないとまで言われていましたが黒曜石と流星に因果が存在するならば、採掘者たちは星を信仰してたのではないのでしょうか?
そして銅、鉄に流れていくさなかで黒曜石の採掘者たちもそちらに流れていったかもしれない。
ならば、星信仰もまた銅、鉄の採掘と製鉄を行っていた人たちにとって、黒曜石と同様に星から落ちてきたという意識があったのだろうか。

天津甕星、香香背男はそのラインから生まれた神なのではないだろうか。ここから完全に妄想でございます。
五部人の天津赤星と天津麻羅、妙見信仰と鉱山、斎之大人と言われたかもしれない剣の神(フツヌシ)と星の神(天津甕星)。
カカセオのセは鉄の古語に現れるサ行の言葉たちの仲間?

以上でございます。
後半は推測にして妄想です。
もし黒曜石と隕石が関係あるならば、天津甕星と香香背男の母体である星神は隕鉄にして鉄の神様だったのではないでしょうか。
鉄の占有にあたって強い影響を持っていた星神が朝廷は疎ましかった?

もし先に話題となっていたなら失敬、勉強不足です。


[9704] Re: [9693]洪水伝承 豆たぬき 投稿日: 2014年 5月11日(日)22時53分
神奈備さんへのお返事です。

>  昨日のウガネットのお話から。
>  人間の始まりを洪水で殆どが死に絶え、生き残った兄妹が人類の祖となったというのが、一般的なパターンようです。ノアの洪水伝説もその変形でしょう。
>  日本の場合は、イザナギ・イザナミ二神による国生みで始まるのですが、洪水伝説は書かれていません。『日本書紀』に採録されている、「一書第二」によりますと、イザナギ・イザナミを生んだ神として、沫蕩尊(あわなぎのみこと)の名が出てきます。「一書第二」を伝えた氏族(神社)では、洪水伝承が伝わっていたのを、アワナギの神としてそっと伝えたのかもと思いました。

>泡(沫)那芸尊は、、中世の円融天皇の御代の認識(留学僧のチョウネンが宋の朝廷に提出した日本歴代王の系図によれば)では、(尊号は全て『尊』)
伊弉諾尊の前代の大王。伊弉諾尊の次代に素戔嗚尊 。素戔嗚尊の次に天照大神尊 。
その始祖は天之御中主尊。

何となく直感は古く見せかける為に数代分を名を替えて繰返しているような気がするのですが、、、

勘注系図によれば、天之御中主尊=国常立尊=神魂命=(天照)豊受大神=伊弉諾尊=高木神=天照皇大神 。

最新の科学的研究では、、、
現在地球上に存在する人類は全てホモサピエンスの単種のみと分類されています。
ホモサピエンス(御先祖様方)は約20万年前に東アフリカで分化発生して以来15万年程は東アフリカ地域から出る事なく平穏に棲息してその全人口は(食料事情により)二万人程度を維持(『エデンの園』に比されるかと)
ところが、約5万年前のある時期に急激な気候変動(インドネシア列島辺りの大火山帯が超巨大噴火によると言われる)による寒冷化(大量の噴煙が大気圏に滞留して太陽光線を遮っての噴火の冬。核爆発や隕石落下等でも同様)に
見舞われたことで急激に食料事情が悪化〜困窮した事で正に絶滅の瀬戸際に晒され(多くの動植物が枯渇、絶滅)
僅かに生き残った一団(数十〜100人未満とされる)が正に自らの生き残りを賭けて故郷の東アフリカを離れて新天地を求めて遥かな旅へと旅立った(出アフリカ)。云々。

この寒冷化〜氷河期が温暖化に転じたのが約15000年前頃。
寒冷化した〜氷河期(数万年間)には今より海面は最大で100mも低く多くの大陸棚や内湾、内海は概ね陸地だったと考えられています。
東〜南シナ海、インドネシア近海はスンダランドと言われる大平原。日本列島も陸続きで日本海は平原と巨大湖沼
温暖化に転じた時の気温上昇は正に急激なもので大量に堆積していた氷床氷河が正に一気に溶け出して各地でメガ大洪水をお越しながら
その流れ出した水は地球規模で急激な海面上昇をお越した。とか。

地球環境の温暖化と寒冷化の最大の要因として近年の天文学と地球考古学とのコラボから、
太陽系が天の川銀河を運行する際に銀河中心部〜伸びた腕(渦巻き)部分に突入(寒冷化)と離脱(温暖化)の周期性(17000年周期)との関連性が明らかに 成ってきています。
地球上の過去の大絶滅の周期、時期とも一致。


[9701] Re: [9698] Re: [9693]洪水伝承 言蛇投稿日:2014年 5月 7日(水)14時49分
沖辺行き 辺を行き今や 妹がため 我が漁れる 藻臥束鮒(万葉集625)」

神奈備さま、こんにちわ。
端午節句をむかえましたが関西の子供たちは元気そうでなによりです。
これからいよいよ田植えで忙しくなりますね。

>  いずれにしても、カウントに入っていない人々が大量にいたことになりますね。
>国栖と呼ばれる人々など・・・。
>

琉球やオセアニアですと島が異なればそこは別の神話圏の扱いですから、一神教の洪水伝説と違って
洪水くらいでは人類は滅亡しませんよね、洪水が起きなかった島の人たちはそのまま生き残ります。
岡山県灘崎町にある彦崎貝塚の縄文時代前期(約6000年前)の地層から、稲の種化石が大量に見つ
かっていますが、縄文時代の稲作は水田耕作と異なる上に縄文人に稲作が普及しなかったこともあっ
て洪水はあまり伝承されなかったみたいですね。稲作の伝達と言う点で長江文化圏との交流が深そう
に見えるだけに興味深いところです。

日本に伝わった稲の品種はジャポニカ米、インドネシア周辺のスンダランドが起源と言われていてこれは文字通り海の底でよかったでしょうか?



[9699] Re: [9698] Re: [9693]洪水伝承[9695]  琉球松 投稿日:2014年 5月 5日(月)23時07分
"「1000人殺す」「1500の産屋を造る」" 。。。

 「千」は、中国でも沢山との意ですから、「大勢(あるいは全員)」でいいんじゃないでしょうか?
 そうすると「1500」は、たんに「それ以上」というこにになりそうです。

 あんなに愛おしい存在だったイザナミが、多量の金属製武器を出産すことによって、『魏志』の倭人伝に言う「倭国乱」に陥ったのではないかと。。。
 そんなイザナミと縁を切る決断(禊)をし、乱を克服したいイザナギとしては、さらに多くの努力を要すると考えたでしょうか。

 (大河型)洪水伝説は、あちこちに分布していますが、琉球圏のそれはたぶん(津波型)で、東南アジアから流入したと思います。薩摩半島以北に痕跡が薄いのは、削除されたか「海幸山幸」に微妙に残っているのでしょう


[9694]  出雲大神宮言蛇 投稿日:2014年 4月30日(水)14時03分
豆たぬきさんへのお返事です。
先週、豆たぬきさんの仰られた京都亀岡の出雲大神宮に出かけてきました。

祭神:大国主命、三穂津姫命
所在地:京都府亀岡市千歳町出雲無番地
電話:0771-24-7799
FAX:0771-25-3832

由緒書きには・・・
《『丹波国風土記』によれば、「奈良朝のはじめ元明天皇和銅年中、大国主命御一柱のみを島根の杵築の地に遷す。すなわち今の出雲大社これなり。」と記されて。
よって当宮に古来より元出雲の信仰があります。》
とのこと。

写真は出雲大神宮入り口と真名井の水、亀岡の麦畑に月読橋です。
豆たぬきさんさんは「はだしのゲン」を読まれたことがありますか?
青々とした麦畑をみたら私は、ふと、「はだしのゲン」を思い出しました。

バラの花のプリンス・ドゥ・モナコを贈ります、これでかわいい狸の化粧の出来上がり♪



[9693]洪水伝承 神奈備 投稿日:4月28日(月)11時05分
昨日のウガネットのお話から。
 人間の始まりを洪水で殆どが死に絶え、生き残った兄妹が人類の祖となったというのが、一般的なパターンようです。ノアの洪水伝説もその変形でしょう。
 日本の場合は、イザナギ・イザナミ二神による国生みで始まるのですが、洪水伝説は書かれていません。『日本書紀』に採録されている、「一書第二」によりますと、イザナギ・イザナミを生んだ神として、沫蕩尊(あわなぎのみこと)の名が出てきます。「一書第二」を伝えた氏族(神社)では、洪水伝承が伝わっていたのを、アワナギの神としてそっと伝えたのかもと思いました。



[9692] Re: 独り言、寝言、、 言蛇 投稿日:2014年 4月27日(日)13時44分
豆たぬきさんへのお返事です。

> 八幡さまって神様の中では後発組なのに、全国津々浦々各地域に蔓延。
> 更にはその土地や地域のかな〜り由緒ある神社。先輩の神様等を主座から退け脇社末社にしたりたり他所に追いやって
> 大概は最上級の場所にデーンと御鎮座坐すのも摩訶不思議な事。

九州は大陸先進文化・技術の流入地です、江戸時代もヨーロッパ文化・技術を長崎にいったん
留めて翻訳していきました。「流行り物」として女性たちに受けがよく結果、女神の関心を引
いて祀り上げられたのでしょう。

豆たぬきさんへ写真の狸を依代として差し上げます。横浜野毛山動物園のカナという狸です。
この狸でしたら病気も無いので安心です、動物になるのでしたらくれぐれも伝染病には気を
つけください。
#出雲大社の近くで白い狸が見つかったとのことですが、人間の匂いがプーンプン。
#ゴルフでもするのかな?

「足柄の 土肥の河内に 出ずる湯の
   世にもたよらに 子ろが言はなくに(万葉集3368)」



 [9691]Re: [9690] Re: [9689]八幡様琉球松 投稿日: 2014年 4月24日(木)18時09分
神奈備さん、どうもです。

 最近は、弥生中期と奄美沖縄との関係を探る一方で、沖縄戦時下の特攻作戦のあらましを振り返っているところです。
 特攻隊員とその掩護隊員の手記や、日米両軍の資料などをめくると、ほんとに気持ちが悪くなるほどに腹が立ちますね。

 願わくば、帝国陸海軍の特攻隊員や米海軍&海兵隊員の屍が眠る海底が「常世の国・ワダツミの宮」であって欲しい。
 目前に広がる奄美沖縄の海が、九州の倭人達にとっての憧れの宮であったとすればなおさらです。


[9690] Re: [9689]八幡様< 神奈備 投稿日:2014年 4月24日(木)14時57分
琉球松さんへのお返事です。

http://kamnavi.jp/log/ugahatiman.htm

 豊前国の延喜式内社 宇佐八幡について

軍神でもあり、女神でもあり、その懐に戻るのは、安らぎそのものでしょう。




[9689]八幡様 琉球松 投稿日:2014年 4月23日(水)12時21分
宇佐八幡宮の主祭神は「姫神」で、他の2神も古来から女神だったのではと推察しますね。
 北部九州で女性達が活躍した時代と言えば『魏志』の倭人伝に見える「倭国」などですが、神奈備さんは八幡の発祥に関して自説などお持ちでしょうか?

 こんな事を言うとお叱りを受けそうですが、去る大戦で戦死された兵達も官製社の靖国神社ではなく、各地方の軍神八幡様に祀るべきだったのではと。。。
 沖縄や奄美海域で散華された特攻隊員の多くが「南無八幡大菩薩」と唱えて出撃したと聞きます。
 女神の子宮(ワタつミ?)に帰るとの観念ではないでしょうか? 彼らが怨霊化するとも思えないですし。


[9688] Re: 独り言、寝言、 神奈備 投稿日: 2014年 4月21日(月)09時42分
豆たぬきさんへのお返事です。

> 日本書記だったかに、

 私ち昔、ょっと調べればわかることに、このような表現をして叱られたことがありました。ついでに日本書紀です。

 八幡様はお稲荷さんと並んで、全国での多さはトップクラスの神社です。

 古社では、欽明朝頃に建立という社伝を持っているものがあります。
 また、武門の神として、武士、鎌倉の源氏が奉斎し、各地の地頭が氏神として祀ったと聞いています。

 『平成祭りCD』で、神社名を八幡、由緒に創建時期らしい文字をいれて検索してみました。

欽明  20社
奈良  66社
平安  91社
鎌倉 162社
江戸 151社

と出てきました。概ね、創建年代の比になっていると思われます。




[9686]伊弉諾尊は祟る神。  豆たぬき 投稿日:2014年 4月14日(月)23時09分
日本書記だったかに、天下、朝廷皇室等によろしくない事が有った際に卜占して神意を伺うと、伊弉諾尊の祟りだとして度々淡路島の御廟(今の伊弉諾神宮では無さそう)に勅使がすっ飛んで行って丁重な鎮魂、慰撫の御祭をしていた云々。

////
神功皇后は淡路島岩屋の三対山(麓の洞窟は伊弉諾大神の幽宮伝承地)の山上、石屋神社に詣で征途の戦勝を加持祈祷なさった云々。
凱旋の際には再び石屋神社に参詣なさり奉賽(お礼参り)なさった。
、、、現在地に伊弉諾神社(神宮)は存在しなかった?

13代成務天皇は勅命を発して、淡路島岩屋の三対山石屋神社の伊弉諾大神を明石浦に奉迎遷座せしめて(明石)岩屋神社を創建せしめた。
その際、『御神体』の御座船を奉迎するに浦人等はご同船するのは畏れ多いとして泳ぎ従った。
(明石の岩屋神社の南北線は古代ののヤマトの結界か?寺社が数多鎮座坐す。)



[9686]諏訪市博物館企画展「地中探訪2」 言蛇< 投稿日:2014年 4月 1日(火)14時01分
「甲斐信濃 乙鳥のしらぬ 里もなし(小林一茶)」

神奈備さまこんにちわ。
諏訪市博物館の企画展「地中探訪2」に立ち寄ってきました、全部載せちゃうと博物館に出かける意味がなくなるので一部だけ抜粋報告します。
企画展では先年亡くなられた宮坂光昭氏の追悼展示もされていました。

写真1は博物館所蔵ネパール・ナラの森で御柱を採る神斧、パンチャルです。

先年は諏訪市内だけでも
 千鹿頭社遺跡
 福松砥沢遺跡
 昼タタエ遺跡
 大ダッショ遺跡
 穴場遺跡
 高島一丁目遺跡
 柳口周辺遺跡
 高島藩主廟所
 大和遺跡
 漆垣外遺跡
の発掘調査が行なわれました。

私個人は穴場遺跡(縄文時代中期)からガラス小玉が出土したのがとにかく目を引きました。(写真2・一番下)
中国大陸からの輸入品だとしたら、縄文人の交易範囲が日本列島の外に広がっていた物証になりますね。
弥生人のほうがある意味内向的だったのか??

もう一つ目を引いたのは福松砥沢遺跡、村外れに集積されていた黒曜石原石3Kg。(写真2・下から2番目)
貨幣的価値があるものを備蓄しておく習慣がこのころに始まっていることを示している遺構になります。

宮坂光昭氏がなくなったいま、藤森栄一氏の築いた諏訪考古学を誰が引き継ぐことになるのか、
「霧の子孫たち」の動向は眺めていて飽きませんね。
それではまた・・・


「年魚市 潟潮干にけらし 知多の浦に
   朝漕ぐ舟も 沖に寄る見ゆ(万葉集1163)」



[9685] >Re: またまた独り言、、、 言蛇 投稿日: 2014年 4月 1日(火)13時11分
「新しき 年の初めに 豊の年
  しるすとならし 雪の降れるは(万葉集3925:葛井諸会)」

豆たぬきさん、あけましておめでとうございます。本年も神奈備様をよろしく願います。
年末年始とにかく忙しくて、豆たぬきさんの書き込みを忘れているわけじゃないんだ。
ロシア語対応しなきゃいけないのに、フランス人が来るわ在日韓国人が日本人になりすますわ
で手が足りないんだー、とほほ・・
頼みのゲーマーたちは本当に外国語がくると逃げ出すのが大半だったよ・・・(汗


> 日本神話の冒頭、国生み神話の主人公、伊弉諾尊/伊邪那岐命。伊弉冉尊/伊邪那美命 。
> 清音にしてイサナキ、イサナミ。
> 恐れ多くも反転して拝読すると、、、
> キナサイ、ミナサイ、、、来なさい、見なさい。!
> 、、、さあさあ。これからおもしろ可笑しな奉納紙芝居が始まるよ!
> どなた様に限らず『来なさい、見なさい。』ンジャないと末代迄の損だよ!?
>
> 天沼矛(アマノヌボコ(天のヌチ))、、、下界に刺し下ろす(逆転させる)、、、反転すると『茅渟(チヌ)の海(天)』=現在の大阪湾!


こりゃいいねー、目からうろこが落ちる気分になりました。
髪(「可美」)は女の命ともいうけど、反転すると「美化」とも読めるようになります。


[9684] またまた独り言、、 豆たぬき 投稿日: 2014年 4月 1日(火)11時56分
日本神話の冒頭、国生み神話の主人公、伊弉諾尊/伊邪那岐命。伊弉冉尊/伊邪那美命 。
清音にしてイサナキ、イサナミ。
恐れ多くも反転して拝読すると、、、
キナサイ、ミナサイ、、、来なさい、見なさい。!
、、、さあさあ。これからおもしろ可笑しな奉納紙芝居が始まるよ!
どなた様に限らず『来なさい、見なさい。』ンジャないと末代迄の損だよ!?

天沼矛(アマノヌボコ(天のヌチ))、、、下界に刺し下ろす(逆転させる)、、、反転すると『茅渟(チヌ)の海(天)』=現在の大阪湾!



[9681]Re: 独り言、、、 神奈備 投稿日:2014年 3月21日(金)14時42分
>豆たぬきさんへのお返事です。

『日本書紀』では、「可美」は、諾冉尊が相手をほめるシーンに使われています。可美少男・可美少女と呼んでいます。「ええおとこ」「ええおんな」の意味でしょう。
 「カミ」と言う言葉は、目上、貴人、長官」など敬称の意味はあります。しかし、親しい相手に呼びかける時には使わないと思います。
 また、初期の神として、「可美葦牙彦舅尊」の名がでてきますが、『古事記』では、「宇摩志阿斯訶備比古遅神」と書かれており、語尾に神がついていますので、宇摩志はカミではなく、宇摩志と可美は共に神を称える言葉でウマシでしょう。

 巻三神武天皇即位前紀には、可美眞手命。〈可美眞手。此云于魔詩莽耐。〉とわざわざ注がついており、ここでも可美を于魔詩(うまし)とよませています。


『万葉集』には、多くの「可美」がでてきます。
 有名なのは、巻20の4380
[原文]奈尓波刀乎 己岐O弖美例婆 可美佐夫流 伊古麻多可祢尓 久毛曽多奈妣久
[訓読]難波津を漕ぎ出て見れば神さぶる生駒高嶺に雲ぞたなびく

 万葉では「可美」は、まさに万葉仮名で カミ と訓み、神・上・髪などを表します。全て可美はカミです。

『続日本紀』巻卅三宝亀五年(七七四)三月甲寅《十五》◆甲寅。授无位文室眞人古能可美從五位下。ここの「可美」は、カミと訓むのでしょう。

 日本書紀は720年に完成と言われており、編集されているので、原文から当時の漢文に書き直したものと思われます。
 万葉集はもう少し時代が下がって編集されています。この間に「可美」は「ウマシ」から、当初の意味が忘れられて「カミ」と読むようになったと思っています。



[9680] 独り言、、、豆たぬき 投稿日:2014年 3月20日(木)14時19分
宇摩志麻遅命。
可美眞手命。、、、普通に読んだらウマシマジとかウマシマデとは読めないよなあ。
ナチュラルにカミマテ?の内意かなぁ?
マデとかマジは尊称のムチ(貴)の転化(同子音内)クサイし
そうすると可美眞手は『貴き神』の意味合い鴨?
ウマシマジは善き貴人?


[9679] Re: あけましておめでとうございます神奈備 投稿日:2014年 3月 9日(日)11時41分
言蛇さんへのお返事です。

3月になりました。

3月8日の豊中歴史同好会は森岡秀人さんの「2013年の考古学界」という面白いお話でした。その中で、紹介されたのが、人類学者の片山一道氏『骨考古学』の書籍でした。

世界史(人類史)のタイムスケール

出来事          年代       日時
猿人類   最古の人類の出現    約600万年前   1月1日
原人類   ホモ・ハビルスの出現  約240万年前   7月1日
      ホモ・エレクトスの出現 約180万年前   8月中旬
      最初の「出アフリカ」  約170万年前   8月中旬
      ジャワ原人       約100〜50万年前 10月末〜11月下旬
      北京原人        約50〜20万年前 11月下旬〜12月中旬
旧人類   ネアンデルタール人   約15〜3万年前  12月20日過ぎ
新人    現生人         約10万年前    12月23日頃
      農耕の開始       約1万年前     12月31日6時頃
      文明社会の到来     約4000年前   12月31日16時頃
      西欧近代社会      約500年前    12月31日23時頃

われわれの時間に対する距離感は、近い時代ほど長く、遠いほど短く感じる。
人類の歴史を1年に例えると、文明の時代など、大晦日の何時何分にしか過ぎない。

という表が載っていました。
この僅かな時間に地球を汚してしまわないようにしたいものです。


[9678] Re: [9674]Re: [6973]Re: [6972]Re: [6971]Re: [6969]Re: [6968]朔旦冬至神奈備 投稿日:2014年 2月14日(金)16時57分
琉球松さんへ

 「ん」のつくものを食べると聞きますが、まったく意識しておりません。

 かぼちゃを南京というのでよろしいとか。

 和歌山名産のミカンも候補でしょうが、最近は消費が減っているようです。



[9677]Re: [6973]Re: [6972]Re: [6971]Re: [6969]Re: [6968]朔旦冬至 琉球松 投稿日:2014年 2月13日(木)09時34分
神奈備さん、ありがとうございます。

 いろいろと参考になります。
 倭国(日本?)には、言葉も含めて何かと2系統あるとはよく聞く話ですね。
 "紀北での風習は芋正月と餅正月の中間的なも" との指摘もそうなのでしょうか。
 「弘法大師」と餅との関係性は琉球圏では耳にしませんが、仏教の影響は皆無ではありませんから、ありうるかもしれません。

 ところで、沖縄諸島では冬至の日に「トゥンジージューシー(冬至雑炊)・雑炊と言っても少々硬め」を食して身を固めるのですが近畿地方でも行われているでしょうか?

画像は、那覇地方の「トゥンジージューシー」



 [6973]Re: [6972]Re: [6971]Re: [6969]Re: [6968]朔旦冬至神奈備投稿日:2014年 2月12日(水)010時50分
琉球松 さんへのお返事です。

 餅なし正月を特殊なものと考える傾向がありますが、おっしゃる通り、古層に属する風習なのでしょう。
 紀北での風習は芋正月と餅正月の中間的なものと言えます。黒潮にのってやってきた南方的民俗が残っていると言えます。
 ある方の勧めで、「イモと日本人」という本を見ているのですが、餅なし正月には、個別の事情でそうなったという事例があげられています。先祖が修験者を殺して金品を奪ったので、「餅を搗くと血が混じる。」、貧乏な時代を忘れないためにとか、通りかかった貴人(弘法大師など)に餅を与えなかったからと様々です。
 ハレの日には、おそらくはケの日も、古層というか本性がでるのでしょう。


[6972]Re: [6971]Re: [6969]Re: [6968]朔旦冬至 琉球松 投稿日:2014年 2月12日(水)09時21分
神奈備さんへ

 正月に雑煮を食する習慣は、やはり最近のもののようです。御馳走であれば何でもいいという事なのでしょう。
 一応、餅を入れたりはするんですが、久高島や加計呂麻島など古形を残す所では、いわゆる「餅なし正月」ですので、稲作以前の習慣のほうが伝統的なのかもしれません?

 餅が重要なのは、むしろ旧暦12月8日の鬼退治「鬼餅」のほうで、本土の「事八日」との繋がりがあるでしょうし、「針供養」を伴う民俗との関係でしょうかね。


[6971]Re: [6969]Re: [6968]朔旦冬至 琉球松 投稿日:2014年 2月11日(火)11時08分
神奈備さんへ

 琉球圏には雑煮の伝統はありません。
 まあ、日本復帰の前後あたりから「りっぱな日本人」になるために採用されたのでしょう。
 ただ、その中身はいい加減で、スパム入りやゴーヤーとかで節操がありません。

 雑煮に相当するものもありそうですが、島によって色々ですから調べてみますね


[6969]Re: [6968]朔旦冬至 神奈備 投稿日:2014年 2月10日(月)20時44分
琉球松さんへのお返事です。

 式年遷宮の20年については諸説がありそうですが、>中国由来でほぼ19年7ヶ月毎に訪れる「朔旦冬至」が起源<と言うのが神事ですから、有力な説明だと思います。他の木材の耐久度、技術の伝承などは後付の理屈のように思います。
 和歌山も南北に長いのでそれぞれ風習が違うのですが、紀北では、丸餅と里芋と大根で雑煮を作りますが、沖縄での雑煮はどのような雰囲気なのでしょうか


[6968]朔旦冬至 琉球松 投稿日:2014年 2月 9日(日)10時40分
昨夜は『NHKスペシャル・伊勢神宮〜アマテラスの謎〜』がありましたね。

 その中で、遷宮が20年に一度とするのは中国由来でほぼ19年7ヶ月毎に訪れる「朔旦冬至」が起源であろうと。。。
 これは説得力ありだと考えますがどうでしょう?
 冬至は年の始まりでしょうから正月で、持統朝頃に制定されたでしょうか。

 琉球圏では、冬至は生まれ変わりの日で年をとる節目ではないですから、「若水(孵水)」も本来はこの日だったのかもしれません。年をとるわけではないので女達は大喜びです(笑)



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