神奈備掲示板 くず 特集
適当に選別しました。これは重要と云うログがあればお知らせ下さい。


 

  setoh 桃尾の妄想 H13.3.4

 石上神宮の後背地は都祁から柘植への広大な土地で、焼き畑農作が行われていたと思われます。
布留(ふる)の地とは焼き畑を特徴とする「火」の地と考えることができます。ゆらゆらとふるえるのは炎です。火です。『三代実録』に、貞観九(867)年に「大和国に令して、百姓石上神山を焼き、禾豆を播くことを禁止せしむ」とあります。(稲作以前 佐々木高明 NHK)その頃まで、石上神山では焼き畑が行われていたと云うことは、布留氏と「火」の民とは同じ民であったといえましょう。

そうすると「日の谷」の名を持つ伝承の地は「火の谷」「布留の谷」ということでしょうか。銅鐸でも出土するのかも。


 

   香具 Re[683]: 桃尾の妄想  H13.3.5 

>布留(ふる)の地とは焼き畑を特徴とする「火」の地
>ゆらゆらとふるえるのは炎
>布留氏と「火」の民とは同じ民
>「日の谷」の名を持つ伝承の地は「火の谷」「布留の谷」

『布留=火』説、スゴイです!斬新!。そういえば、大和では古代のみならず近世までも焼畑が続いていたという記述を読んだことがあります。盛大な「火」は、また天に昇る龍に見たてることもできますね。(炎の昇竜に慈雨を祈願する例があればいいのですが。)
[652]でkokoroさんが石上神宮の特質を@宗教性、A演劇性、B人工性、C水場を用いた景観設計と纏められたご指摘に続き感銘を受けました。感動が止まらない面白さです。

先日、桃尾の滝の北方にある『大国見山』の山頂に登ってきました。
巨岩が累々と重なっていました。天理市をはじめ大和平野が国見できます。山頂の祠から一番よく見えるのは、石上神宮でした。神宮の本殿禁足地の裏、台形の段で祭儀を行なった場合は特によく見えるのではないでしょうか。神宮の禁足地から山頂を遥拝したかもしれません。そしてこの山頂で火を焚いたら、近隣の平野部一帯からも目立つだろうと思いました。
天理市に限らず、桜井市など近隣の地図を見ると、『国見』とか『鳥見』の名がつく山がいくつもあります。『鳥見』の意味が気になるところです。

布留川上流の集落の神社について『天理市史』から抜粋します。
 内馬場町 春日神社(旧無指定村社)祭神:春日四神 境内社:玉垣神社・白鳥神社
 滝本町  石上神社(旧無指定村社)祭神:石上大神 境内社:春日神社・八幡神社
 長滝町  九頭神社 祭神:建御名方神 境内社:白山神社
 苣原町(ちしゃわら) 九頭神社(もと吉田神道直轄) 祭神:建御名方神    境内社:火産神社・蛭子神社・琴平神社 境外末社:須賀神社
 下仁興町 九頭神社(旧指定村社)(古くは葛神社とも)   祭神:建御名方神  境内社:白山神社・八雲神社
 上仁興町 四社神社(旧無指定村社)   祭神:天照皇大神・一言主神・住吉三神・息長帯姫命・熊野大神   境内社:厳島神社・金刀比羅神社
 藤井町 三十八神社  祭神:三十八柱大神  境内社:八雲神社
 竜王山頂 竜王神祠  柳本町の祠、田町・藤井町の祠
ご祭神に関して、雨乞祈願の記録が多いので本来は農耕に関する竜神・水神信仰ではないかということです。しかし、九頭神社が天理ダムより奥に扇状に三社が広がっているのが面白いです。また、石上・春日神に対して建御名方神であるのも何か意味があるのでしょうか。 『九頭』も気になります。・・・長い書き込みで失礼致しました。

神奈備の備考
九頭龍神社レポート BY KAGさん
滝本町  石上神社 ななかまど  神奈備
長滝町  九頭神社 神奈備
苣原町 九頭神社 神奈備
下仁興町 九頭神社 ZOUさん 神奈備


 

   setoh お−い ミナカタさん H13.3.5

 

> 炎の昇竜に慈雨を祈願する
慈雨を祈願すべき水神である滝に日が射し込めば、虹となって昇竜が出現します。
八剣神社の由緒で、kokoroさんの御紹介の『石上振神宮略抄』の日の谷についての「桃尾滝の上流に、八ツ岩と呼ぶ巨石があり、この伝承にあてている。」との見方は正鵠を得ている感じですね。日の滝の上流の日の谷の八ツ岩、スバリですね。香具さんやkokoroさんが行かれておられるように小生も早々に行って自分の目で見たいものです。

それにしても、
苣原町(ちしゃわら)、長滝町、下仁興町の九頭神社の祭神が何故建御名方神なんでしょうね。大宇陀町牧の九頭神社の由緒に建御名方神を久須斯神というとあります。
山辺郡都祁村藺生1の葛神社(式内社出雲建雄神社の論社)の由緒には、都祁地方には九頭・国津を称する神社が多く、国津神を祭神とし同時に祀雨神ともなっている。とあります。国津神の代表神としての建御名方神でしょうかね。出雲建雄神とは倭武尊に殺された出雲建ではないでしょうね。建御名方神でしょうかね。
健御名方ファンの てつあにぃ の出番ですね。

神奈備の備考
葛神社 神奈備


 

   kokoro Re[698]: くず H13.3.8

 

「奈良県史 神社編」で僕が数えたところ、合祀社も入れて奈良県内には28社のクズ(九頭、九頭竜、葛、屑(←ママ)、国栖、国樔)神社がありました(結構、大変でした。好きじゃなくっちゃできないですね)。このうちタケミナカタ神を祀っているクズ神社は以下の5社があり、最多でした(ABCは、香具さんが685で紹介されたもの、Dは686でsetohさんが紹介されたものです)。
  A九頭神社…天理市下仁興町垣内四一
  B九頭神社…天理市苣原町山内三七六
  C九頭神社…天理市長滝町長滝三〇一
  D九頭神社…宇陀郡大宇陀町牧字宮ノ尾三二〇
  E九頭神社…宇陀郡菟田野町上芳野
 他のクズ神社のご祭神は以下の通りでした。
  @天手力男命(以下「タジカラオ神」)…4社
  A九頭神、九頭大神、久斯之神等…4社
  Bタカオカミ神…3社
  C衝立舟戸神と道友神…2社
  D石穂押別命(以下「イワオシワケ命」)…2社
  E竜頭大神、天照大神、天忍穂耳命と栲機千々姫命、正勝吾勝々速日と天忍穂耳命と栲機千々姫命、気咲戸主命と天津児屋根命、天児屋根命とタカオカミ神、出雲建雄神、不明…1社
 これを見るとクズ神社というのは、諏訪神社や春日神社なんかと違い、特定のご祭神が決まってないみたいです。また、分布しているのは奈良県南部から東部にかけての山間部で、西部とか盆地の平野部にはないようです。それからまたsetohさんの言う通り祈雨神の性格があります(配祠されたものも含めると、祈雨神のタカオカミ神を祭神とするものが4社あるのはそのためでしょう)。

 一方、奈良県下でタケミナカタ神を単独でお祀りする神社は10社だけで、しかもこのうちの5社は九頭神社なわけですから、この神様をお祀りすること自体が比較的珍しい上にその半分がクズ神社である、ということになります。しかも、距離的に離れた天理市と宇陀郡の双方にあるので局所的な流行とも言えず、どうもこれらのご祭神がタケミナカタ神であるのは深い理由があるみたいです。
 さて、ひとまずミナカタさんはおくとして、僕的にはクズ神社の祭祀の源流は2っだと思います。1つは長野県の戸隠神社の創祀伝承からの附会で、ここのご祭神のタジカラオ神は天岩戸をこじ開けるだけでは気が済まず、下界にブン投げてそれが今の戸隠山になったそうで、その後、ここの地主神の九頭龍神に迎えられて鎮座しました。上記の通り、奈良県下でタジカラオ神をお祀りするクズ神社は4社あり、タケミナカタ神の次に多いという結果となっております。そして、戸隠神社には祈雨神としての性格が顕著なんです(奥の院に池があって日照りの時はそこの水を持って帰るらしいです)。クズ神社の祈雨神としての性格は、ここから説明できるかなと思います。

 2つ目の祭祀の源流は、こっちが本流かと思うのですが、吉野郡にある5社のうち3社が国栖神社、国樔神社なので、クズという神社は「吉野の国栖」と何か関係がありそうだというものです。この吉野の国栖は東征の途次、神武天皇が吉野で出会った岩を押し分けながら出てくるイワオシワケ命というしっぽのある国津神の子孫です(風邪ひきさんが飲むトロ〜リ甘いのとは関係ないですよ)。このイワオシワケ命は上記3社のうちの2社のご祭神です。
 戸隠神社の九頭龍神と吉野の国栖を橋渡ししなければならないですが、結局クズというのは吉野の国栖の専売特許ではなく、元々大和王権が山地に住む先住民族を指していった普通名詞だったのではないでしょうか。だから、大和だけではなく、例えば北陸の九頭竜川流域なんかにもクズの人たちがいたのではないでしょうか。
 彼らが同じ系統の民族であったかどうかは分かりませんが岩を祀る習俗をもっていて、それが大和王権側から見てすごく印象的なので、そういう風習のある人たちを特にクズといったのではないでしょうか。僕の知る範囲でもクズ神社には岩石がルイルイしているのが多いようですし、また、クズ神社の鎮座している近くに例えば「大岩神社」というのがあったり、巨岩のある神社があったりというケースも大変多い気がします。また、吉野郡の国栖の本拠地周辺は巨岩祭祀の痕跡がある神社の宝庫です(その中には式内川上鹿塩神社の論社2社も含まれています)。それからまた戸隠神社の背後には岩窟があり、しかもそこから戸隠山の岸壁が始まっているそうです。

 岩石を祀る磐座祭祀は古代では決して珍しくなかったでしょうけど、むしろクズの人たちは岩そのものを祀ったのではないでしょうか……僕の見た桜井市にある2っのクズ神社には「これでもか」というくらい岩があり、それを見たときそう感じたのを思い出します。フェティシズム(物神崇拝)です。つまり、クズ神社にある岩石はヨリシロとしての磐座ではなく、岩がそのまま神様だったように思います。神観念はフェティシズム→霊魂→人格神(アマテラス、オオクニヌシ等)という発展をとげたとし、それぞれの段階を縄文→弥生→古墳の各時代にあてる考えがあるみたいですが、それでいくとクズの人たちは縄文なわけです。
 クズ神社の祭神になっているタケミナカタ神、タジカラオ神、イワオシワケ命の3神はいずれも岩と関係があるという共通点を持っています。まるで岩の話が出てくる古事記の神様を勢揃いさせたみたいです。クズの人たちが原始的な物神崇拝から岩石を祀ったのだとすれば、後で神社になったときそこに祀る人格神が見あたらなかったとしても無理はありません。しょうがないのでこうした岩に関係のある神様を附会したのではないでしょうか。特にタケミナカタ神は国津神の代表選手ですし、人気があるので附会される機会が多かったのではないでしょう。また、クズ神社の祭神がバラバラで統一性がないのもそこから説明できます。ただし、以上が石上神宮の祭祀とどう関係するのは不明のままですが…。

 setohさん、香具さん、習志野のてつさんいかがでしょうか。紋次郎さん、締め付ける金輪は出なかったのですよ。それにしても…、うわ〜っ長いっっ。ごめんなさいっ。




 

   kokoro Re[709][705][698]: くず  H13.3.10

 

前回の「698くず」について補足します。奈良県に土地勘のない人はつまらないかもしれないので、後はもう今回でこの話をお終いにします。

 奈良県のクズ神社、28社の一覧は以下の通りです(祭神の高オカミ神の「オカミ」は、本当は「雨」という字の下に「口」を横に3っ並べてさらにその下に「龍」と書くのですが、ウ〜ン出ません。※マークで「○○神社境内社」としてあるのは合祀されてその神社の境内に祀ってありますよという意味です)。以下、特に断らない限り出典は「奈良県史 5 神社」です。
 1 国栖神社(?)    奈良市南田原町字天満一四一五 ※天満神社境内社
 2 九頭神社(天手力男命)奈良市広岡町字林ノ垣内二二一
 3 九頭神社(天手力男命)奈良市西狭川町八九四
 4 九頭神社(九頭神)  大和郡山市小泉二三三三    ※小泉神社境内社
 5 九頭神社(建御名方神)天理市下仁興町垣内四一
 6 九頭神社(建御名方神)天理市苣原町山内三七六
 7 葛神社 (竜頭大神) 天理市南六条町コモイケ三七四 ※杵築神社境内社
 8 葛神社 (葛大神)  天理市荒蒔町法田一九四    ※勝手神社境内社
 9 九頭神社(建御名方神)天理市長滝町長滝三〇一
 10 九頭神社(正勝吾勝々速日天忍穂耳命・栲機千々姫命)桜井市下字九頭  神奈備
 11 九頭竜神社(天忍穂耳命・栲機千々姫命)桜井市倉橋字森本 神奈備
 12 九頭神社(九頭大明神)桜井市萱森字弥寿垣内
 13 九頭神社(高オカミ神)山辺郡都祁村南之庄字垣内四八五 ※国津神社境内社 神奈備 ZOUさん
 14 葛神社 (出雲建雄神)山辺郡都祁村藺生字上の宮一
 15 葛神社 (気咲戸主命・天津児屋根命)高市郡阪田七三六
 16 葛神社 (天照大神) 宇陀郡榛原町山辺三字杵湯川 葛神社
 17 屑神社 (衝立舟戸神・道友神)宇陀郡大宇陀町嬉河原字宮ノ前一七四
 18 九頭神社(衝立舟戸神・道友神)宇陀郡大宇陀町宮奥字宮谷四一六 ※亥神社境内社
 19 九頭神社(建御名方神)宇陀郡大宇陀町牧字宮ノ尾三二〇
 20 九頭神社(建御名方神)宇陀郡菟田野町上芳野
 21 九頭神社(高オカミ神)宇陀郡室生村無山字宮山五四二
 22 九頭神社(天児屋根命・高オカミ神)宇陀郡室生村多田字南浦三七〇
 23 九頭神社(高オカミ神)宇陀郡室生村下笠間字モリ七五二 九頭神社
 24 国樔神社(石穂押別命)吉野郡吉野町入野字宮ノキク一四二
 25 国栖神社(久斯之神) 吉野郡吉野町色生字宮ノ前四八三
 26 葛神社 (天手力男命)吉野郡大淀町鉾立字宮山五三 ななかまど
 27 葛上神社(天手力男命)吉野郡大淀町岩壺字谷ノ宮六六八 ノリチャン
 28 国栖神社(石穂押別命)吉野郡下市町阿知賀一六九四

 それから、もう一度見直して以下の4社が落ちていたのに気が付きました。
 29 国樔八坂神社(速須佐之男命・石穂押別命)吉野郡吉野町南大野字竹ノ鼻一六七
 30 久須斯神社(大木上之神)吉野郡吉野町三茶屋字庵垣内一四三
 31 葛上白石神社(道俣神・岐戸神)吉野郡吉野町千股字上垣内七一四
 32 元葛上神社(道俣神・岐戸神)吉野郡吉野町千股字上垣内七一四 ※葛上白石神社境内社

 また、別名がクズ神社だったり、あるいは、かってはクズ神社だったという神社も見つかりました。とりあえず僕が見つけた範囲では以下の3社ですが、これは探せばもっと見つかりそうですね。33が戸隠神社で祭神がタジカラオ神とタケミナカタ神であるのが注意を引きます。

 33 戸隠神社 (天手力男命・建御名方神・御年大神)桜井市横柿字宮ノ谷四一九 ※旧名「九頭神」
 34 高オカミ神社(高オカミ神)桜井市萱森字清水山(九頭神山)七六二 ※旧名「九頭神社」
 35 高オカミ神社(高オカミ神)桜井市和田字宮山一六四 ※別名「九頭大明神」

 こうして名前が変わってしまったというのは、結構速い時代にクズという神様がどういう神様だか誰にも分からなくなっていたということではないでしょうか。ただし、そうした中でも、どうもクズの神様は祈雨神で岩石に関係があるらしいという観念だけが長く保たれてきた感じがします。

 以上の中で磐座があるのは、僕に分かっている範囲では10、11、12、33だけです。現地に行けばもっと見つかるのかもしれませんが思ったより少なかったです。
 僕が行った桜井市の2っの九頭神社というのは11と12で、行ったのは6〜7年前です。いずれも本殿がありません。11はボロボロの木の鳥居があって、あとは注連縄をしたご神木と岩石だけという神社でした。磐座の石組みは日本庭園のご先祖様と考えられていますが、確かに何となくセンスを感じさせるものもあります。しかしここの磐座はただ石が並べてあるという感じで、しかも付近にこの磐座の一部だったと思しき岩石が学校の花壇の縁石(だったと思うのですが…)等にたくさん利用されていました。とにかくむやみに石が多いのです。それを見て「ヨリシロではなく岩フェチでは?」と感じた次第です。また、33は比較的近い場所にあり、しかもかって現在地よりも660m下方の巨岩の上にあったと何かで読んだ覚えがあります。ここは探しに行ったのですが見つかりませんでした(ただし、付近からの見晴らしだけはチョー素晴らしくって、山辺の道や箸墓一帯が一望になるおススメの穴場です。ぜひカメラをお忘れなく)。12は瑞垣の中に本殿の代わりにいくつかの岩があるという神社でしたが、一番、驚いたのは拝殿左手のバカデッカイ岩の露頭でした。

 「吉野郡の国栖の本拠地周辺」の「巨岩祭祀の痕跡がある神社」については『奈良県史 5 神社』や吉野郡各自治体の郷土史、あるいは『式内社調査報告 第二巻 京・機内2 大和A』『日本の神々 4 大和』の「川上鹿塩神社」の項をご覧下さい。

 その他にも調べていて、19がある宇陀郡大宇陀町の上竜門地区には、祭神が磐押開命で背後には巨岩が屹立している岩神社をはじめ戸隠神社が2社ある等、色々興味深い発見がありましたが長くなるのでこの辺でやめます。興味のある方は調べてみて下さい。

 習志野のてつさん、ごめんなさい。締め付ける金輪は見つかってました。うっかりしてました。それにしても三内丸山を見ても、縄文ってあれだけ豊かだったのにどうして弥生化したのでしょうか。まぁ気象とか経済活動とか小難しい理屈はいくつも考えられそうですが、「オラァ縄文の方が楽しいが若い衆が弥生にしたいって言うんならしょうがあんめぇ、勝手にしろっ。だけど岩神様とお柱様をお祀りするのだけはオラ、ゼッテェ止めねぇかんなっ!!」という縄文様がいたのかもしれません。それが人格神になってミナカタ神が登場したのでは!?←失敬しました。

 山浜さん、岩の話、本当に勉強になりました。ありがとうございます。

 setohさん、都祁村に国津神社が多いというのは示唆的ですね。気が付かなかったです。それにしても海人のネットワーク、タカクラジのネットワーク、太陽の道のネットワーク………古代を探索している途中、こうしたネットワークが現れると袋小路にならないでいつも必ず別の系へ送り届けられる感じがします。そしてその度に興奮を覚えます。

 室生村の海神社(中野)から北へ4〜50分歩くと古大野というところがあり、神明神社があります(もちろん祭神はアマテラスです)。ここはアマテラスが笠縫村から伊勢へ遷座する際に休息した場所と伝えられ、神社は後に伊勢神宮から勧請したといわれています。神社の手前の小川は五十鈴川で、入り口の傍らにある清泉は天の真名井です(泉の中には神座石らしきものがあります)。神社背後の山は岩戸山といい、拝殿の後ろから石段を登ると木製の瑞垣があって、その中は幾分崩落しているものの、扉のような形をした岩の露頭があるだけで本殿はありません。箱庭のようなあまり大きくない神社ですが周囲の高燥な雰囲気と相まって、行くと身も心も洗われる気分になります。しかし今では僕はこの神社が、もともとクズの人たちの聖地で、祭神も九頭竜神かタジカラオ神だったのでは、と考えています。それが岩戸に似た磐座と倭姫命の伝承への附会から神明神社になったのではないでしょうか。境内の石段や石灯籠には年記と共に「雨降」の語があり、雨乞いが成就したので寄進したらしいことから祈雨神としての性格もうかがえ、クズ神社との類縁姓を感じさせます。この推測が正しいとすれば、海人とタカクラジ(磐座)と太陽の道のネットワークがたまたまこの小さな神社で交錯したのだと思われます。




 

   kokoro 石上神宮とクズ H13.4.8

 

以前、香具さんの調査で石上神宮の東部、布留川上流域に九頭神社が3社鎮座しているというご指摘がありました。それに対し僕は、クズ(国津クニツの転訛でしょうか?)は石フェチだった等の珍説をここにカキコした次第です。けれども、クズと石上神宮の祭祀がどう関係するかは結局、分からずじまい。その後、setohさんから静岡県小笠郡大須賀町にフルとクスの合体神社、古楠神社「布留楠天王」があると親切なメールをもらったこともあり、ずっと気にかかっていたところです。そこでもう一度、これを考えてみます。

 『古事記 上』応神天皇の条で、吉野の国栖(クズ)たちが、オホサザキノ命(即位前の仁徳天皇)の腰につけている大刀を見て次のような歌を歌います。
 「品陀(ホムタ)の 日の御子 大雀(オオサザキ) 大雀 佩(ハ)かせる大刀 本剣 末ふゆ ふゆ木の すからが下樹の さやさや」
 講談社学術文庫版の同書P222の次田真幸先生による現代語訳は次の通りです。
 「ホムタノ(応神天皇)日の御子であるオホサザキノ命の帯びておられる大刀は、本の方は鋭い剣で、末の方には霊威がゆれ動いている。冬の枯木の下に生えた木のように、さやさやと揺れていることよ」
 はっきり言って、これでは意味が分かりません。それは訳者自身も意識しているらしく、注のなかでふゆ≠ェ呪的な観念の濃厚な難解語であるとし、訳出が難しい原因がこの語にあることをそれとなく示唆しています。そこで、ふゆ≠ニこの歌について、もっと説得的な折口信夫の解釈を紹介します(ここで引用した折口論文は全て中公文庫『折口信夫全集 第二十巻 神道宗教篇』に収録されてます。以下、ページ数は同書のそれです。≠ナ表記したのは原著では傍線あるいは傍点となってます)。

 まずふゆ≠フ前にふる≠ゥら。
「昔から鎮魂に二通りの意義がある。遊離したたましい≠しずめる≠ニ言う内存的なるものと、外来魂が来触して密着せるものを身体に固く着けて置くことがそれである。これ(※後者)を古くはたまふり*狽ヘみたまふり≠ニ言った<後略」『劒と玉と』P232〜233。
「それぞれの威霊をつけることを、古語ではふる≠ニ言った。その魂を身に鎮定せしめる方法をたまふり≠ニ言う。鎮魂の第一義である。」『日本古代の國民思想』P166
 そうして、ふる≠ヘふゆ≠ノ転訛するとしながら以下のように説きます。
「ふる≠ネる語もら″sからや″sへ発音が転じてふゆ≠ニなると共に、意義にも分化を起こして増殖の意味を持つようになった。すなわち、内在魂の分割を意味するようになってきたのである。」『剣と玉と』P231

 続いて、「たまふり≠フ際に用いる道具<中略には数多くのものが用いられていたものと思う。その中で我々の忘れてならないものは剣である」『同』P233とした上で、この国栖の歌を引き、
「この歌はまず、大雀(オオサザキノ)尊に刀身の幾枝にも岐れたまじっく≠フ剣を捧げ、それに託して国栖族の守霊を附着せしめて奉ると言った意味のものであるらしい。
 剣には石上神社神宝の七枝剣のごとき変形の剣があるが、これは刀身が分かれて七っになっており、それに鞘をはめるようになっている。
 かように大雀尊を祝福せる剣は、七さや≠ナあるか九さや≠ナあるか分からないが、ともかくその歌詞によって、股のあった剣で股になった鞘を有していたに相違ない。そしてこの剣をもって大雀尊を祝福し、大雀尊に剣を佩かせる言義を附けながら鎮魂をおこなったのである。」『同』233〜234としています。
 吉野の国栖がこの歌を天皇に奏上するのは、大和王権に対する服属儀礼なのですが、それについてはここで深入りしません(興味のある方は講談社学術文庫『古事記 中』P223〜224の解説、折口『原始信仰』P208をご参照下さい)。いずれにしても、遅くとも7世紀の後半以前に、吉野の国栖が「七枝剣」のような股になった剣を用いてたまふり≠行ったらしいことがここから伺えます。

 もう一つ付け加えると、石上神宮のある天理市に八剣神社という神社があります(田井庄町西浦)。この神社のご祭神である八剣神について、『石上振神宮略抄』という本に興味深い記事があります。「夜都留伎(ヤツルギ=八剣)の神はヤマタノオロチの変身であり、そのご神体は八っの比礼(ヒレ)がある小刀子である。そのため八剣の神という。神代の昔、出雲のヤマタノオロチは胴体が一つで頭は八つあった。スサノオが剣を抜いて八段に切断したところ、八っの身に八つの頭が取り付き、小蛇となり天に昇って水雷神となり、聚雲の神剣となって、布留川上流の日の谷に降臨して鎮まったのが当社の八剣神だと伝える」というものです。

 以上のうち僕が強調したいのは、@吉野の国栖が、七枝剣のように刀身が股になった剣を用いてたまふり≠行っていたこと、A布留川上流域には九頭神社が3社も鎮座しており(天理市下仁興町垣内、同市苣原町山内、同市長滝町長滝)、上代にクズ民族のコロニーがあったと推定されること、B八剣神の降臨した日の谷も布留川の上流域であり、しかもそのご神体は八つの比礼のある小刀子≠ナ、刀身が股になったフォルムをしていたらしいこと。したがって吉野の国栖が奉斎していたような形をした剣であること、C八剣神は水雷神であり、祈雨神である九頭神社と類縁性を感じること、D刀身が股になった剣として七枝剣が実際に石上神宮に伝世していること、等です。
 さらに補足すれば、石上神宮では古来、布留川上流域を聖域として観念していました。古代の布留郷の範囲も考えあわせると、3っの九頭神社のある布留川上流の全域が、古代において石上神宮の神域だったのではないでしょうか。この地域に鎮座している神社のうち、古いものは、石上神宮と祭祀面で連続性を感じさせることが多いからです。

 ここからどういう結論を導くかはまだ整理が必要でしょうけど、僕は奈良県東南部の山地に多いクズ神社(九頭神社、九頭竜神社、国樔神社等)を奉斎していたのは、大和王権からクズと呼ばれていた人々であり、クズは何も吉野の国栖の専売特許ではなく、もっと勢力に広がりがあってクズ神社はその痕跡と考えています。したがって以上の@〜Dから少なくとも刀身が股になった剣によるたまふり≠介して石上神宮の祭祀にクズ民族の人たちが関与していた可能性が高いと思うのです。

 ところで、石上神宮の第二相殿のご祭神である布留御魂(フルノミタマ)は現在、大阪の神社にあって、石上神宮が返還を請求しているという話をこのホームページのどこかで読んだ気がするのですが、setohさんご存じでしたら神社の名前等を教えて下さい。


 

   [1067]  小川のほとりの社  [香具] 05/14

奈良県天理市、布留川上流の九頭神社(三社)の現地訪問を行いました。
(内訳)内馬場町:春日神社。苣原町:八頭神社、九頭神社。
下仁興町:九頭神社。上仁興町:四社神社。長滝町:九頭神社。

三つの九頭神社に関しては、
  1。各社とも布留川支流の上流部、小川の横に鎮座している。
  2。旧村社であるが、通常の村の鎮守とは何か印象が異なる。
    いわゆる、春日さんや住吉さん、八幡さん、天神さんなどを
    祭りましたという印象ではない。だから諏訪さんなのか?
  3。しっかりとした拝殿があり、村の宮座が継続しているようだ。
  4。各村への入口になる道には、榊や藁束、御幣を括り付けた
    厄除けの縄が路上高くに差し渡している。
  5。周囲の木立が印象的。山林志向は明確に感じる。
  6。本殿地として、石垣で築き上げ瑞垣を設けている。
  7。しかし、拝んでいるその先に、容易に山を意識できる。
    特別な降雨祈願のための聖地が在るように思える。
    水源地への祭祀かな?
  8。以上をまとめて、山・木・川・水源のキーワードを示す。
という、一般的な所感しか得られませんでした。力量不足です。
以下は、各社について。<・・・>は、天理市史で確認した内容です。
(1)春日神社 天理市内馬場町平畑
   祭 神:<天児屋根命、武甕槌命、経津主命・姫大神>
   境内社:<玉垣神社、白鳥神社>
(2)八頭神社?、須賀神社?
   天理市苣原町のバス亭の向い。
   神社名、祭神名、由緒など、判りませんでした。
(3)九頭神社(その1) 天理市苣原町山内
  祭 神:<建御名方神>
  境内社:5つの小祠が並んでいた。
  ・事代主命。
  ・金刀比羅大神。
  ・奥津比古大神、奥津比メ(口扁に羊の旁)大神
  ・拾羅大神
  ・天照大御神、春日大御神、鹿島大神
この中で、奥津比古大神、奥津ヒメ大神、拾羅大神がわかりません。
(4)九頭神社(その2)  天理市下仁興町垣内
  祭 神:<建御名方神>
  境内社:<白山神社、八雲神社>・・・祠はひとつだけ確認。
  本殿がなく、玉垣で囲った御本地に神木を祭っていた。
(5)四社神社  天理市上仁興町ドヤマ
  祭 神:天照皇大神。 一言主大神。
      住吉大神。 熊野大神。
  境内社:厳島神社 市杵島姫命
      金刀毘羅神社 崇徳天皇
(5)九頭神社(その3) 天理市長滝町長滝
  祭 神:<建御名方神>
  境内社:<白山神社>・・・未確認。
  本殿の祠のすぐ後ろには、2mx3mほどの磐がありました。

初夏の山村田園地帯はすばらしい風景でしたが、国道25号線の産廃トラックだけは恐怖を覚える弾丸走行でした。それに沿道の夥しい砂利やゴミは目に余ります。
婆さんたちは怯えながら、田畑への道を急いでいます。 何とかならないものかな。




 

   [1071]  布留川上流の3っの九頭神社  kokoro  05/15 

香具さん、メールありがとうございました。ナ、ナ、ナ、ナント!!僕も実は、香具さんが現地に行った翌日の5月13日に、石上神社及び布留川上流の建御名方命を祭神とする3っの九頭神社に行ったんですよ。一日ずれていたら絶対、どこかでお会いしたはずです。

>一般的な所感しか得られませんでした。力量不足です。
 またまた、ゴケンソンを〜。三坂神社の立地についての分析とか、僕は香具さんの投稿はいつもさえていると思いますよ(ヨイショじゃないです)。

>各村への入口になる道には、榊や藁束、御幣を括り付けた厄除けの縄が路上高くに差し渡している。
 これは勧請縄です。オスとメスがあって、下流側にあるのがオスです。オスとメスはぶら下がっているイチモツで見分けがつきますよ。

>(2)八頭神社?、須賀神社?
>   神社名、祭神名、由緒など、判りませんでした。
 何かで読んだ非常に不確かな記憶なのですが、それによると素戔嗚尊がヤマタノ大蛇を退治した時、切り落とされた8っの頭が飛んできて、それが落ちた地点に祀られているから八頭神社だったような…。この説話は八剣神社の祭神の説話と似ていますね。

>(3)九頭神社(その1)   天理市苣原町山内
僕が行ったときは当番らしいおじさんとその娘さんが、境内の清掃をしていました。おじさんの話ですと、苣原チシャワラと下仁興シモニゴと長滝の九頭神社は、例祭が同じ日付で(ただし『天理市史』では苣原→10月15日、下仁興→10月15日、長滝→10月日12なのですが)、その日は石上神宮の神主さんが来て苣原→下仁興→長滝の順番で祭祀を執り行っていくそうです。おじさんは去年の例祭の時、たまたま当番だったので苣原での役目を終えた神主さんを下仁興まで車で送ったそうです。僕が「ということはこの3っの九頭神社は関連性があるのでしょうか?」と聞いたらその通りということでした。また、「石上神宮と3っの九頭神社は関係があるのですか?」という質問には、3っの九頭神社は石上神宮の子供に当たる神々なのだそうです。したがって、3っの九頭神社が石上神宮と祭祀面で連続性があるという観念が、今でも地元に残っていることは確かです。そして、この3っの九頭神社が互いに関係があるというのは、石上神宮を扇の要にして、そこに拡がる同一信仰圏のものと捉えるべし、ということと思われます。
 「この神社の御神体は何ですか?」と聞いたところ、例祭の時、本殿の扉を開いて御神体を露出させるそうですが、鏡だということです。この方の印象では銅鏡らしいとのこと。そして、扉を開いてこの鏡がお姿を現すと同時に、その神主の方が、ものすごく気合いの入った「おおーおおー」という大声を出すそうです。どうやら石上神宮側でもこの鏡を非常に神聖視していることがお話から推察できました。
 香具さんのメールにもありましたが、この神社の拝殿にある額には「惣社九頭神社」とあります。この惣社≠ニ付く意味は、神主が祭祀する順番が苣原→下仁興→長滝であることから察して、他の2っの九頭神社を総括するような、九頭神社のなかの惣社という意味も知れません(祭祀の順番は、単純に大きい集落順に過ぎないのかもしれませんが)。そして、もしもそうであるとすれば、この神社が特に他の2っの九頭神社よりも格が高いのはこの鏡の存在によるものと思われます。古い時代の伝世鏡だとすれば、いったいどのくらい古いのでしょう。

>(4)九頭神社(その2)   天理市下仁興町垣内
>  祭 神:<建御名方神>
>  本殿がなく、玉垣で囲った御本地に神木を祭っていた。
 この御本地の左後方に、伐採した木の枝が捨てられていて分かりずらくなっていましたが、石で囲った湧水源がありました。集水升も設えてあって、御本地前方の長方形の池には、この集水升から塩化ビニール製のパイプで水を引いるようです。現在では、チョボチョボくらいの流れでしたが、付近に杉林が植林される以前の、原生林に覆われていた頃は相当の水量があったと思います(各地で話に聞くのですが、杉というのは保水能力の低い植物で、大量に広葉樹林を伐採して代わりに杉を植えると、尺イワナがいたような沢も枯れてしまうらしいです)。この神社は谷のなかにありますが、山上から沢が流れてきています。しかし、拝殿よりも奥ではこの湧水の水と沢の水が混ざらないよう、両者の間に幅5メートルくらいの細長いマウンドを作って、峻別していました。前者を聖別するためでしょう。

>(5)九頭神社(その3) 天理市長滝町長滝
>  祭 神:<建御名方神>
>  本殿の祠のすぐ後ろには、2mx3mほどの磐がありました。
 僕は、この岩は磐座と考えて差し支えないと思います。というのも、@ご指摘の通り、この岩が本殿の直背後にあること、A付近に同じような岩は特になかったので人為的に搬入された感じがすること、B本殿の載っている壇の周囲は石製の瑞垣が巡らされていましたが、この岩が本殿に接してあるため、そこだけ瑞垣が途切れていること。周りにはまだスペースが充分あるので、適当に社殿の軸をシフトすればこの瑞垣が岩に邪魔されずにこの壇を囲むことはそれほど難しくないはず、それにもかかわらずそうしないのは、意図的なものを感じさせること、C本殿の載っている壇へ登る石段が、拝殿とこの壇の間にスペースが充分ないため、一番下の段がないまま竣工されていること(この石段は、正面が拝殿にすぐ接しているので、横から入らないと登れません)、の4っです。@ABはこの岩がかって御神体として神聖視されていたこと、Cはこの神社にはある時期まで本殿がなく、拝殿からこの岩を拝していた、しかし、その後、岩と拝殿の間に無理矢理、上記の壇を築いて本殿を建てた可能性を示唆しているように思われます。
 ただし、近くの畑で作業中のおばあさんに、「あの岩はかっての九頭神社の御神体ではないですか?」と聞いたところ、「そんな岩があるなんて知らなかった」とのこと。「何かあの神社についていわれ等はありませんか?」と聞いたところ、「こんな小さな集落のお宮だからいわれなんていわれても…。もっと古い人なら知っているだろうけど」とのこと。このおばあさんがどう見ても80歳は越えているので、思わず「おばあちゃんより古い人がいるの?」とツッコミを入れると、「そうね私より古い人はおらんくなったね」というので二人で爆笑してしまいました。

 香具さん、くれぐれもお怪我に気をつけて!





 

   [1072]  Re[1071]: 布留川上流の3っの九頭神社  [香具] 05/15

kokoroさん、毎度お世話になります。時間差オフ会みたいですね。
あのルートは車道が整備されているので、自家用車で行くと余裕楽々のコースです。
私の場合は、(昔の人達の健脚度)と(現代の道路の整備状況)を差し引きして、
ちょうど古人のペースに相当できるかなと思い、歩いてみました。

> >各村への入口になる道には、榊や藁束、御幣を括り付けた厄除けの縄が路上高くに差し渡している。
>  これは勧請縄です。オスとメスがあって、下流側にあるのがオスです。オスとメスはぶら下がっているイチモツで見分けがつきますよ。

ありがとうございます。勧請縄を見たとき、ブレア・ウイッチを思いだしました。
私は日頃の潔斎が出来ていないせいか、神社内では誰にも会えませんでした。
それでも、各村ごとで60年前の美少女達から親切に道を教えて頂きました。
この縄についても尋ねてみたのですが、『カンジョカケやったかな〜?年2回掛け替えるけどな〜。テンリシシに載っとるデ。』と、逆に突っ込まれました。ウウッ、ここで『天理市史』が出てくるとは・・・。
『村に悪いモンが入ってこんように、昔からのならいやな。』との話しに、『もうすでに悪いモンは、入りまくってまんがな!』と産廃トラックを指さしました。
苣原町の勧請縄は国道25線上に掛けてありましたね。その下をトラックは爆走。

>その日は石上神宮の神主さんが来て順番で祭祀を執り行っていく・・・
『石上神宮の神主さん』は尋ねても、いつもソッケないか、ノラリクラリでしたが、あまり外部から干渉されたくないからかな?一度、正攻法で正面突破を試みましょう。

>おじさんは去年の例祭の時、たまたま当番だった・・・
宮座が厳格に続いているのですね。

>3っの九頭神社は石上神宮の子供に当たる神々
>3っの九頭神社が石上神宮と祭祀面で連続性がある
>石上神宮を扇の要にして、そこに拡がる同一信仰圏のものと捉えるべし、
>どうやら石上神宮側でもこの鏡を非常に神聖視している
石上神宮の重層性を解体していく手掛かりのひとつですね。
今後のご検証も愉しみにしています。




 

   [1091]  Re[1090]: 石上神宮と建御名方神  [習志野のてつ]  05/20

> 布留川上流域の3っの九頭神社のご祭神が建御名方神・・・ ←ビックリ
 香具さんの話で頭が混乱中。

> 祟りをなす荒ぶる神を・・・子孫が祭る          ←納得
  でも建御名方神は特別なタタリ神ではない。力は強いが、疫病とも雷とも縁がない。非常に穏やかな神格(?)の持ち主である。
  龍と化し、出雲の神々の集まりに出た時、集会のその建物の上を、八重に巻いた。なを且つ、尻尾はまだ諏訪にあった。余りの巨大さに、神々は怖れ、10月出雲神有月会議に出席しないでくれと頼んだ.
  この逸話は建御名方神を祭る一族の強大さを物語る(と思う)。
  また、建御名方神が信濃に進出したとき、モレヤの神と戦った。モレヤ神を破ったが、その子孫は神長官・守矢(洩矢)氏として、建御名方神と共生している。先日話題の佐奈伎(さなぎ)もそのまま守っている。
  弥生時代的対立・抗争・虐殺(←日本武尊は各地でダマシ・虐殺)ではなく、縄文的融和・協力・優しき・荒々しさを感じる。現代の共生の心だ。
  千曳の岩を片手で鞠のように扱う恐るべき力。イザナミを防ぐために、イザナギが千曳の岩で、サカを塞ぐが、やっと扱っている印象を受ける。建御名方神は カルガルト 扱う。気は優しくて力持ち(金太郎か)なのだ。
  以下「神奈備」抜粋
  連れている上古信濃国開拓の三大古族即ち諏訪神社を中心とする諏訪族と穂高神社を中心とする安曇族と、国の南端に位置して開拓にあたった阿智族・・・逃亡しても建御名方神を信頼する人々がいる。

  安曇族は天皇家にとって、米国海兵隊のような、水陸両用戦闘部隊だった。
  阿智族は参謀本部隊、諏訪族は武田信玄に滅ぼされるまで、信州で名族として栄えた。それぞれ強力な一族だが、一部は建御名方神に従った。

> では、なぜ九頭神社の祭神が建御名方神なのか?・・・     
> では、なぜ祭神として附会されたのかということです。・・・
> 荒神谷遺跡の東・北・西に、遺跡を囲むようにして建御名方神を祀
> る神社が6社もある・・・まさに荒神谷遺跡を守るようにして6っの
> 神社が3方を囲んで・・・埋納された大量の青銅器を守っていたわけです。

 ムムゥ〜 「うなって判らず。心自ずから神成」(駄蛇レは誰じゃ)
 
 そもそも建御名方神は、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が祭って、普及した可能性が大きい。また坂上田村麻呂は阿智族だとの未確認情報も有る。しかし、それだけで現在の様に多く祭られるとはとても思えなかった。なにか夜明けの兆しが見えた気がする。
 香具さん、kokoroさん。大変なヒントをありがとう。



[1090]  石上神宮と建御名方神  [kokoro]  05/20

 布留川上流域の3っの九頭神社のご祭神が建御名方神なのは、最初に香具さんが指摘された事実ですが、やはり大変な発見だと思います。九頭神社の祭神が建御名方神であること自体が奇異であるだけでなく、合祀社等も含めて奈良県内で同神を祀る神社が10社しかなく、この神様を祀ること自体が珍しいので、さらにその意義は深まると思います。
 では、なぜ九頭神社なのか?僕は、これらの九頭神社の謎を解く鍵が剣にあると思います。古墳時代のある時期、大和朝廷が、制圧した各地域から神宝類を徴発し、それらが石上神宮に納められたのはまず間違いないと思いますが、その中には武器が多く、特に剣が多かったと推察されます。現に石上神宮の第三相殿に祀られているフツシミタマは出雲、あるいは吉備からもたらされたとされています。こうした剣は被征服地域の人たちが祀っていたものであるため、祟りをなすものと考えられ、腫れ物に触るように扱われていたことでしょう。よく古代人は、祟りをなす荒ぶる神を、山中の清浄にして幽遠な山紫水明の中で祀って鎮めた、といわれます。布留川上流域の3っの九頭神社もかってそんな場所だったと思わせる立地でした。そしてこれらの九頭神社は、こうした荒ぶる神であった諸国の剣を、石上神宮の祭祀氏族であった物部氏が、神宮の祭祀に関係の深い布留川の上流域で国栖の人たちに祀らせた遺跡ではないでしょうか。
 しかし、どうしてわざわざ国栖の人たちに祀らせたのか? 4月8日の『石上神宮とクズ』でカキコしましたが折口信夫によれば、『古事記』応神条にある吉野の国栖の歌は、大嘗祭の時、彼らが剣を用いて国栖族の守霊を大王につける服属儀礼を表現しているそうです。とすれば、少なくとも7世紀に、国栖の人たちには剣を用いる祭祀の権威がある、という観念があったとみてよいでしょう。こういうのは一種の職能のようなもので、ある集団に適当な祭祀能力があるとみられれば、権力者は荒ぶる神の祭祀を直接やらないで彼らに任す、ということが古代においてはあったようです。一例として、崇神朝において、三輪山の神が猛烈に祟って国内が乱れたとき、河内国の美努村から大田田根子を招聘して、この神の祭祀を一任したケースがあります。
 では、なぜ九頭神社の祭神が建御名方神なのか?ひとつの答えは以前カキコしたとおり、大和のクズ神社に多い祭神には、他にイワオシワケノ命やタジカラオノ命がありますが、建御名方神と共にこれらの神様は『古事記』『日本書紀』の説話で岩に関係しています。そしてクズという神社自体やその近くに鎮座する神社に岩石を祀った痕跡があるものが多いため、これらの神社に祭神として附会されたのでは、ということです。
 しかし、それでは石上神宮の祭祀と建御名方神がどうして関係しているのか説明がつきません。そのためにというわけでもありませんが、最近になって出雲との関係を考えています。布留川の上流域にはヤマタノ大蛇が素戔嗚尊に退治された時、切り落とされた8っの頭が飛んできたという伝承が、香具さんの探求されている日の谷や八頭神社に残っています。前者の場合、その8っの頭が8っの小蛇になり、天に昇って水雷神となり、ヒレが8っある聚雲の神剣に取り付いて、桃尾の滝上流の八石という巨岩に降臨した、となっています。ここでも剣が出てくるわけですが、その一方、出雲で剣というと草薙剣か荒神谷遺跡ですよね。森浩一先生のご著作で読んだのですが、荒神谷遺跡について福島一夫氏という地元の方が『女首長に後事を託す』という論文を書いているそうです。そこに山が連なる南側以外の、荒神谷遺跡の東・北・西に、遺跡を囲むようにして建御名方神を祀る神社が6社もあるという事実が指摘されているそうです。森先生の本には、遺跡と神社の配置を示した地図も載っていますが、まさに荒神谷遺跡を守るようにして6っの神社が3方を囲んでいます。天津神への国譲りに最後まで抵抗したと『古事記』にある建御名方神が、埋納された大量の青銅器を守っていたわけです。ここからどういう結論を出すにせよ、布留川上流域に出雲や剣に関係ある伝承が濃厚に伝わっていて、付近に建御名方神を祀る神社が3社あるという事実と何か響き合っているように思われます。
 ただし、荒神谷遺跡周辺の6社の中に波知神社という式内社があったので、『式内社調査報告』で調べたところ、寛文2年に付近に点在していた神社を合祀し、その中に諏訪神社があったので配祠神として建御名方神の名前が出てくるらしいです。したがって建御名方神は本来の祭神ではないと思われます。もちろんその場合でも、波知神社の付近に諏訪神社があったという事実は残ります。ただし、僕はこの福島氏の論文をまだ直接読んでいませんが、こういう場合、島根県内なら島根県内で建御名方神を祭神とする神社が、全部で何社あるのか調べてあればとても参考になると思います。県内にそうした神社が少なければ少ないほど、その発見の意義は深まると思われるからです。

 setohさん、素晴らしいオフ会ですね!こんなすごいオフ会は神奈備以外考えられないのではないですか。仕事がなければ何としても駆けつけたいです。




 

   [1127]  Re[1090]: 石上神宮と建御名方神  [香具]  05/23

マルヤさん、大いに笑わせていただきました! さて、ちょっと遅くなりましたが、
kokoroさんを始め皆さんの、ご投稿で大いに刺激されています。
>布留川上流域の3っの九頭神社のご祭神
これがなぜ建御名方神なのか、行ってはみたものの見当がつきませんでした。
『九頭神社』→『九頭』→『九頭龍』→『龍神』の展開も自信がありません。まだ発音、『九頭』<『くず』(国栖、葛)のほうに惹かれています。(逆かな?まさか、九頭から>国栖、葛はないですよね)。インドのナーガ像は一身多頭のコブラが、扇のように頭を広げていますが、あれが『九頭龍』のモデルでしょうか。中国の絵では多頭の龍を見かけた覚えがありません。『龍神』→『水神』・水・川の象徴はどれぐらい昔まで溯れるのか、あるいは始めからワンセットとして登場したのか、中国の龍は日本の龍神と同じような捉え方だろうか、などなど・・・。そもそも、龍体とか蛇体の神について、まだしっくり腑に落ちていません。
こんなことをグルグル思いながら、ほっつき歩いてきました。

神戸でテレビのロケによく使われる港の見える岡があります。諏訪神社が鎮座しているので、この辺を諏訪山と呼んでいます。この諏訪神社は、再度山への登り口、これから山中に入っていく処です。当然、谷川も近くにあります。(行ったことはないですが)信州諏訪も山国と湖のイメージを持っています。福井県武生市、ここもなかなか山国ですね!神話では、諏訪から外に出ないと誓った建御名方神ですが、各地に勧請されています。その中で、海沿いの鎮座地はあるのでしょうか、やはり山の関係でしょうか。えべっさんと対称的なのかなと考え始めました。

>これらの九頭神社の謎を解く鍵が剣にある・・・
>荒ぶる神であった諸国の剣を、石上神宮の祭祀氏族であった物部氏が、
>神宮の祭祀に関係の深い布留川の上流域で国栖の人たちに祀らせた遺跡
>国栖の人たちには剣を用いる祭祀の権威がある

いつもながらkokoroさんの鋭いアフターケア!ただ行きっぱなしだけの私には、とても参考になります。神宝、依り代、ご神体としての剣ですよね。本によると、剣を龍体・蛇体の象徴とみる意見もありますし、五行説から金→水の相生を説く記述もどこかで見ました。
 しかし、私には『蛇を斬る剣』のイメージがあります。フツノミタマの『フツ』を、鋭利な剣が物を斬るときの音から由来するという説もありますが(信じちゃいません)、フッと、あるいはプツッと斬るイメージはロープのような細長いものを思い浮かべます、独断と偏見でしょうか。剣は、蛇を払ったり断ち斬るのに有利な器械のような気がするのです。
ひょっとしたら、龍を鎮め制御する神器として剣があるかもしれません。
 布留川が山中から平野へ流れ出す処、首根っこを押さえるように石上神宮があり剣の大神が鎮座するのも『暴れるなよ、暴れると使うぞ』というような象徴としての抑止力的な呪具の祭祀でしょうか。平野部の入口に氾濫を押さえる剣、山中の清流沿いに流れを増幅させる鏡、源流が湧き出す処に雫のような勾玉を・・・ではあまりに妄想ですね。

>イワオシワケノ命やタジカラオノ命、建御名方神と共に・・・岩に関係
>石上神宮・・・出雲との関係

出雲にも行きたいナ〜という気持ちは一杯ですが、とりあえず初瀬川沿い『大和の出雲』に行ってきました。巻向山にある『ダンノダイラ』と呼ばれる遺跡?です。『鳴神』HPのSINさんから教えていただいた処です。
 JR巻向駅から国道169号線巻野内交差点を渡り、三輪山と穴師の間の「車谷」を通り笠山荒神へ向う「大和高田桜井線」を「辻」へ向い登っていくと、右手の三輪山と巻向山の間の谷沿いに別れ道があり、『奥不動寺』の案内看板が見えます。そこを右に折れて、山中を道沿いに進むと、『真言律宗 巻向山 奥不動寺』に至ります。明治期までは出雲地区の集落の代表者が、まずこの寺へ登り、お参りする御札を頂いてから、『ダンノダイラ』へ向ったということでした。
 そこは、巻向山の南側(出雲地区側)の斜面にテニスコート程度の杉林の平坦地があり、ところどころに1mほどの磐が散在していました。ダンノダイラの天壇跡とおぼしき処から少し先に、しめ縄を張った磐座、中規模のドルメン?があります。これが出雲地区の祭祀の中心だそうですが、まだ不勉強。磐の上からは、杉木立に遮られながらも、初瀬川沿いの街並みが遠望できました。今回は場所を確認に行っただけで、調査も整理もできていません。時機をみて再度行こうと思います。
 巻向山側から見る、三輪山の裏面はなかなか荒々しい森の深さを見せています。素人でも躊躇する雰囲気です。ダンノダイラ周辺も面白いですが、登山途中の三輪山と巻向山に挟まれた道も結構、濃さを堪能できます。

>布留川の上流域、八頭神社
ここはなんだか古墳のような感じに見えましたが、kokoroさん、いかがでしたか?

布留川上流を抜けると福住地区『氷室神社』があるのですが、ひとまず都祁方面まで進んでみようと思っています。天理市『八剣神社』は都祁と関係あるようですし、都祁を闘鶏と書く本もありました。たしかにニワトリを闘鶏にしますが、日の出を告げる鶏だから『ツゲ』なら判るのですが・・・。石上神宮になぜあんなに鶏がいるのだろう。都祁と関係するのだろうか?
クズ・イズモ・ツゲ・・・・エンドレスだぁ〜!!
setohさん、またまた妄想の落書きが長くなりました、済みませんです。




 

   [1153]  Re[1127][1090]: 石上神宮と建御名方神  [kokoro]  05/27

香具さん> 布留川が山中から平野へ流れ出す処、首根っこを押さえるように石上神宮があり剣の大神が鎮座するのも『暴れるなよ、暴れると使うぞ』というような象徴としての抑止力的な呪具の祭祀でしょうか。
 これは国譲りの時、出雲の伊耶佐イザサの小浜に下り着いたタケミカズチとフッツヌシが、波頭に逆さまにして差し立てて、オオクニヌシに国譲りを迫ったという十拳剣のことを連想しますね。そうして、『日本書紀』の物語を真に受けたとすれば、この剣こそはフツノミタマであり、タケミカズチから神武天皇の手に渡って、現在では石上神宮にある訳です。してみると布留川上流域の九頭神社群に建御名方神が祀られているのは、この連想が石上神宮の祭祀へ逆流したということなのでしょうか。あるいは、逆に石上神宮の祭祀が『日本書紀』に影響しているのでしょうか。建御名方神を祀る九頭神社は、天理市だけでなく宇陀郡にも2社あることを考えると、前者は否定される気がするのですが…。

香具さん> >布留川の上流域、八頭神社、ここはなんだか古墳のような感じに見えましたが、kokoroさん、いかがでしたか?
 香具さんも、あの小さな神社の背後にある丘陵が気になりましたか?僕もそうなんです。古墳であるという考えは思いつかなかったですが、祭祀遺跡で昔は禁足地だったのではないか、という感じを受けております。とにかくあの尾根は気がかりです。
 あるいは丘陵自体は非凡な地形ではなかった気もします。むしろ周囲の環境とあの丘陵のプロポーションの構成が、ただならぬ雰囲気を感じさせたのかもしれません。八頭神社の周囲、特に前面は田圃等になっていて山間部にしてはわりと開放的な空間になっていたと思います。デコかボコかでいえば凹的の感じの空間です。そしてその中にまさに古墳のように凸的なあの丘陵があり、その突端に八頭神社があるわけです。僕は、社地に入っても後背地が気になって、思わずあの丘陵に登ってしまいました(←猿みたいな奴です)。もちろん磐座らしき岩石の露頭≠ニかはナンにも見つからなかったです。タハハ、残念!

setohさん> 葛と中州の民は取引を円滑に行うべく、布留川出口に取引所兼倉庫をつくることとなった。商取引は神前で行う習わしで、そこに神が祀られた。
 これはきっと、天理市石上町に石上市イソノカミイチノ神社があって、付近に古代の市があったと推定されていることを踏まえているのでは?『日本の神々』の同神社の項にも、そういう話が載っています。しかしこの著者は恐らく、水運で淀川を遡ってきた物資が集積された市として捉えていると思います。上流域の物資もさかんに搬入されたという視点は新しいものですね。
 ご存じと思いますが、三輪山の麓にも海石榴ツバ市という市があって、日本書紀に名前が出たりしますが、和田萃先生はやはり淀川と初瀬川の水運にだけ言及しています。しかし、初瀬川をさらに遡れば九頭神社が多い桜井市の上之郷地区があり、ここからクズの人たちが葛とか材木を下流の海石榴市に出していたかもしれません。葛というと今ではお菓子みたいなものばかりですが、かっては良質な炭水化物(と思いますが)としてさかんに取り引きされたのでは。クズの人たちの主力商品だったのでは。そうして、現在の葛餅とか葛切りはその遠い名残りでは。

 習志野のてつさん、マタギの風俗や坂上田村麻呂についてのご教示、たいへん参考になりました。例の地図はどうでしたか。ぜひ、ご感想をお聞かせ下さい。


 

   [1156]  須波の神・水内の神・建御名方・海人族  [風来坊]  05/29 

 

 日本では古来より、山の他、巨岩、大樹、滝、清水、森などの自然物や、風、雨、雷などの自然現象も神として崇めています。稲を育む大地そのものを信仰の対象として祀る信濃の生島足島神社(上田市下之郷)は古くから知られています。
 信濃で最も早く史書に名が出ているのは「須波の神」と「水内の神」です。日本書紀の持統天皇五年の条に、「八月二十三日使者を遣わして、竜田の神、信濃須波の神・水内の神を祭らしむ」と記されています。竜田神は大和に鎮座する風の神で納得できるのですが、同じ時に、天皇はわざわざ使いを出して須波・水内の神を祭らしたのは何故でしょう?記録には勅使が遠い信濃に遣わした例は、天武天皇十三年二月の条に「三野王小錦下釆女臣筑羅等を信濃に遣わして、地形を看しめたまう。是の地に都をつくらむとするか」と言う奇妙なことが記されており、その後に度々竜田の神を祀る記録があります。信濃に特別な関心があったのでしょうか? 須波は諏訪の古名で須波神は、諏訪大社だろうと推測できますが、水内神は水内郡内に鎮座する神だろうと思われますが、特定できていません。

『諏訪神社旧記』には「御名方刀美神が、出雲より逃げて州羽湖に至った時、洩矢神が入国を拒み、御名方刀美神は藤枝、洩矢神は鉄輪を持ってお互いに相争ったが、ついに御名方刀美神に屈服して、洩矢神はこの地を奉献し、それからは御名方刀美神から祭政の命を受けた」とあります。『大祝信重解状』『諏訪大明神絵詞』にも同様の話が載っており、諏訪の地は洩矢神(守矢神)の所領であったとしています。諏訪の土着神が出雲から来たタケミナカタと諏訪の地の領有を争って戦ったという伝承は、『古事記』神話の話だが、タケミナカタが出雲から来たと即断はできない。タケミナカタについて、松岡静雄は海人族宗像氏の「ムナカタ」の訛音であろう(日本古語大辞典・語誌)とし、村松武雄はタケミナカタの「竜蛇形」を宗像系海人族の信仰と見る(『日本神話の研究』第1巻)古事記神話のタケミナカタは信濃に海人族が居たことの逆説明ではないかとし、志摩や伊勢の海人の居住地にタケミナカタ信仰の多いことを指摘している。『伊勢国風土記』逸文は、伊勢津彦神が天孫に伊勢の国を譲って向かった地が信濃国とある。同様の話は『倭姫命世紀』にも書いてあり、本居宣長は『古事記伝』で、タケミナカタと伊勢津彦の伝承の類似から伊勢津彦はタケミナカタの別名と見ている。日本書紀の持統天皇五年の条の記事は、風神としての須波神を祀ったもので、諏訪明神に「風の祝」と言う祭事があること、伊勢津彦が風神であり、伊勢津彦の住む外宮の神体山高倉山の隣の高神山にある神社の祭神がタケミナカタであることを傍証としている。

タケミナカタの「タケ」は「建」で「荒ぶる神」の尊称、「ミ」は「御」で敬称、「ナカタ(名方)」が神名。「神名帳」には阿波国名方郡の多祁御奈刀祢神社、信濃国諏訪郡の南方刀美神社二座が見える。大和岩雄氏は「阿波(徳島県)の名方郡の南に接する勝浦郡、那賀郡、海部郡を総称して南方と言う。御名方の意であろう。諏訪の神が南方刀美と言われ、諏訪南宮と言われるのも、阿波の南方と無縁ではなさそうである」と指摘している。また、南方の勝浦郡に事代主神社があり、諏訪神社の下社は八坂比売と事代主を祀っている。名方郡には八坂比売と似た名の天石門別八倉比売神社が見える。伊自波夜比売神社も見え、吉田東伍は「信濃諏訪神系の建御名方命の御子出速雄命の女に出速姫命あるは、伊自波夜比売神に由あり」(大日本地名辞書)として、この神を諏訪神の御子神としています。建御名方の「名方」は名方郡のタケミナカタトミ神を奉じた海人族が伊勢、尾張を経て信濃に入って諏訪湖の辺で祀ったと推測します。諏訪には古くから信仰されていたモリヤ神はミシャグチ(御左口)と呼ばれる巨木、巨岩に降りてくるナイーブな自然神を統括する神で、ミシャグチ神を奉斎する村々の連合体を統括するミシャグチ祭政の長が、後に上社神長になる守屋氏だったようです。そしてこの守屋氏が祀る神に乗っかったのがナカタ神(神名帳に載る御名方刀美神社)ではないでしょうか。



[1158]  信濃の海人族  [風来坊]  05/29

 阿波国名方郡に和多津美豊玉姫神社、天石戸別豊玉神社があり、記紀は豊玉姫を海人の女としています。またワタツミは綿津見神、少童神としていずれも安曇連の祖とされている。阿波国名方郡に安曇氏が居たことは『三代実録』に「阿波国名方郡人正六位上安曇部粟麿」が宿祢の姓を賜ったと見える事から、安曇氏が名方郡を支配していた郡領級の一族と推測できます。『新撰姓氏録』には、安曇宿祢は海人綿積豊玉彦命の子、穂高見命の後裔とあって、信濃国安曇郡に安曇部真羊、安曇部百島の名が見える。「神名帳」は安曇郡に穂高神社、川会神社(祭神は海人綿津見神)、更級郡に氷鉋斗売神社(氷鉋斗売は綿津見神の子、宇都志日金析命か?)、埴科郡に玉依比売神社(豊玉比売の妹神)が見られます。また、小県郡には海部郷があり、他に海野、塩田、塩川、塩尻など海に関わる地名が多い。童女郷もワタツミを連想します。また小県郡には生島足島神社があり、生国・足国とも書き摂津の海人氏族が祀っていた神だという。「神名帳」には摂津国東成郡に生島足島神を祀る「難波坐生国咲国魂神社」が見えるが、信濃国造(金刺舎人、他田舎人か)が6世紀後半頃に政治的要請(王権勢力の浸透)から国造の所在地である小県郡に生島・足島神(国土生成と発展の神)を祀ったものと推測できます。
 生島足島神社について「建御名方富命が諏訪の地にお出でになるとき、此の地にお留まりになって二柱(生島神・足島神)の大神をお祭りされ、米粥を煮て供せられたというから、諏訪神より古い神様である」と村沢武夫氏は「信濃の伝説」で、ナカタ神は生島足島神より後であると主張しています。小生の妄想ですが、生島足島神を思うと手長足長族を連想します。手長足長は「山海経」に見え、神武天皇記に登場する土着民ですが、諏訪地方にも手長足長伝説があって、後に諏訪大社造営の棟梁が此の神を祀り、立川流彫刻などに残っています。また、手長足長神を祀る神社が尾張にもあって、立川流と伴に尾張の山車などにその痕跡を伺えるように思うのですが…。
 諏訪大社下社は小県・伊那を通る東山道と安曇から来る道の交点にあり、下社の大祝が金刺舎人氏であること、祭神の南方刀美神と伴に祀られている八坂刀売神が安曇系の神であり、安曇氏と深く結びついている。また、下社の春・秋宮の造営に東筑摩郡と南北安曇郡が関わっていることも下社の性格を表しています。安曇郡の川合神社の社伝には「建御名方命の妃は海人の女なり」とありワダツミ神、タケミナカタ、ヒメ神を祀っている。これらのことから、タケミナカタと海人系要素を否定できない。信濃国造は多(太、意富、大)氏と同祖系譜を持ち、この系譜には肥君、阿蘇君、大分君、筑紫三宅連、伊予国造と言う氏族があり、安曇氏も筑紫を本拠地とする。また、伊勢船木直、尾張丹波臣、島田臣なども信濃国造と同祖であることから、信濃国造の性格が推察できます。




 

   [1164]  安曇系海人と建御名方神  [kokoro]  05/30

setohさん> 建御名方命の物語の形成は安曇族の信濃入りの後からかもしれませんね。
 これは示唆的です。例えば、過去ログH13.3.7のsetohさん『御柱と梯子』に、
> 諏訪大社の由緒から
> 古くからある信仰には雨や風を司る竜神の信仰や、水や風に直接関係のある農業の守護神としての信仰が著名です。また水の信仰が海の守り神となり、古くからある港の近くには必ずと言っても良い程にお諏訪さまがお祀りされております。
 とありますが、水の信仰が海の守り神となり≠ニいうのには、論理の飛躍があると思います(祈雨神と航海神の混同)。むしろ、諏訪信仰の源流に安曇系海人による祭祀の古層があって、それが古くからある港の近くには必ずと言っても良い程にお諏訪さまがお祀りされて≠「ることと関連している、という方が自然な気するのですが。

setohさん> 阿波の国のお隣の海に小豆島があり、ここにも安曇がいても不思議ではなさそうですが、『記』では、この島の名前を大野手比売と言うとあります。福井県武生市池泉町に、式内社須波阿須疑神社が鎮座、由緒に大野手比賣命、建御名方命は上古の鎮座とあります。
 これはスッゴイ発見ですよ!さらに神奈備延喜式神名帳の越前國を引用すると
> 須波阿須疑神社3座[スハアスキ] 延喜式
> 須波阿須疑神社[すはあずき]「倉稻魂命、大野手比賣命、建御名方命、太田命、大己貴命」大野手比賣命、建御名方命は上古の鎮座、この地の開発の祖神である。霊亀二年、倉稻魂命大杉の梢に影向さる。
 なななななななななななんと!4番目の祭神が太田命ではないですか!!太田命については『日本の神々4大和』「多神社」P200で大和岩雄氏が、『住吉大社神代記』に舟木連の祖とある大田田命≠ニ同一人物であると論証しておられます(須波阿須疑神社は三座とあるのだから、4番目の祭神は本来の祭神じゃねーだろ!、という鬼のようなツッコミはお止め下さい)。舟木連は多氏と同族ですが、安曇系海人との関連を感じさせる氏族です。うーむ、こうしてみると安曇系海人によって先行される建御名方神という着想は、調査すればもっとイロイロ出てくるかもしれません。

 ということで、唐突ですが滋賀県の神社でこの着想を試してみました。なぜ滋賀県?といぶかる方もおられるでしょうが、湖西地方に安曇川という地名が残っていることからも分かるとおり、琵琶湖沿岸にはかって安曇系海人が多くいたからです。資料として『滋賀県神社誌』を使用しました。この本に掲載されているのは1439社の神社であり、滋賀県内の神社は大部分、網羅されております。ただし、合祀社はこの数に含まれておりません。
 さて、この1439社から諏訪神社を抽出します。その結果、出てきたのが以下の7社です。
  @諏訪神社 建御名方神 大津市田上関津町
  A諏訪八幡神社 誉田別尊 長浜市春近町
  B諏訪神社 建御名方神 近江八幡市小舟木町
  C諏訪神社 建御名方神 近江八幡市馬淵町
  D諏訪神社 建御名方神 甲賀郡土山町市場
  E諏訪神社 南方刀美命 蒲生郡蒲生町稲垂
  F諏訪神社 建御名方神 高島郡安曇川町北舟木
 そして、この7社の鎮座地をよーく見ると…、
 ピンポ〜ン、ア・タ・リ〜!
 Fは安曇川町の舟木に鎮座してるではあ〜りませんか。ここはかって舟木村とよばれ、近世直前まで船大工が多かった土地柄です。また、この地に隣接して新旭町太田に、近江国高島郡の式内社、大田ヲホタノ神社の論社である大田神社があり、その境内社の六所船魂大明神は住吉三神を祭神としています。『日本の神々』の橋本鉄男氏は、大田神社の本来の祭神は後者だったと推定しておりますが(現祭神は天押日命)、さらに続けて、近隣の安曇川町青柳にあるもう一方の論社、太田神社が、船魂神として大田神を祀っていることなど揚げ、オオタという地名が上記の「大田田命」を連想させ、舟木の地名とあいまって当地に舟木連が居住した可能性を示唆しております(詳細は『日本の神々5山城・近江』P366の「大田神社」の項をご参照下さい)。
 Fは由緒に「創祀年代不詳であるが、明応六年(1497年)佐々木能登守造営す、旧諏訪八幡宮と称す」とあります。明応六年に造営≠ニ分かっているのに創祀年代不詳≠ニはコレ如何ニ?ですが、滋賀県の神社にはしばしばあること。社殿が造営される前はヒモロギとして樹木等を祀っていたのです。古社とみてよいでしょう。
 詳しい説明は端折りますが、@Dは由緒を調べると中世の勧請らしく、あまり古い神社ではありません。ただし、鎮座地の地名、関津∞市場≠ヘ交通の結節点を思わせ、中世期の諏訪信仰について示唆するものがあります。
 Bは、鎮座地の小舟木町という地名がたいへん気にかかるところですが、由緒を調べると、当初、富塚大明神という名前だった神社が、江戸期に諏訪神を勧請して今の社名になったとのこと。うーん、残念!!もっと創祀が古そうなら面白かったのに。ただ、もしかすると江戸期に安曇川町舟木の人たちが移住し、それで小舟木と呼ばれるようになったのが、この地名なのかもしれません。そしてその時、Fを分祀したのがBなのでは。
 ACEは由緒からいうと何となく古そうです。Aは「往古当社鎮座地に老杉あり、祠宇を建築し、御諏訪杉の樹霊を奉祀して、諏訪八幡と称した」、Cは「由緒不詳なれど、康和四年(1102年)社殿修復すとある文書現存す」、Eは「創祀年代不詳。延宝4年の社記によれば、上古祭神が信濃国より来て、鬼塚の鬼神を征討されて古池に奉斎す」とあります。なお、Aの祭神は現在、八幡神の誉田別尊ですが、由緒から言って当初の祭神は建御名方神だったと考えてよいでしょう。
 というわけで、『滋賀県神社誌』にある1439社のうち、古社らしい諏訪神社はACEFの4社だけ。そのうちFは安曇系海人の遺跡らしい安曇川の最下流、かつ舟木連とも縁がありそうな舟木という地区に鎮座しております。はてさて、これは偶然なのかそれとも深い意味があるのか?皆さんのご賢察や如何に。チョンチョ〜ン(お騒がせいたしました)。

 以上の部分まで書いてきたところに、風来坊さんのカキコで多氏系の舟木氏のことが示唆されているのを拝見し、思わず歓声をあげてしまいました。
> 信濃国造は多(太、意富、大)氏と同祖系譜を持ち、この系譜には肥君、阿蘇君、大分君、筑紫三宅連、伊予国造と言う氏族があり、安曇氏も筑紫を本拠地とする。また、伊勢船木直、尾張丹波臣、島田臣なども信濃国造と同祖であることから、信濃国造の性格が推察できます。

 風来坊さんはじめまして。すばらしいカキコですね!僕なんかが全然、知らない先人の研究をエッセンスだけ的確に紹介して、しかも偏らず、様々な説にバランスよく目配りするのは誰にでもできることではないと思います。伊勢志摩の建御名方神についても、よい資料があれば以上と同様な調査をやってみたいです。


 

   [1397]  無題  [kokoro]  07/04

 

 setohさんと香具さんによる都祁村の神社レポを読んだ方なら、都祁村には国津神社という神社がいくつか鎮座していることに気が付いたでしょう。例によって最初に指摘したのはsetohさんでしたが、この国津神社という神社は、クズ族や九頭神社と関係があると思われます。そして、この国津神社について語る際、言い落とすことのできないのが三重県名張市南部から伊那郡美杉村西部及び奈良県宇陀郡御杖村東部にかけての地域です。というのも、setohさんが作成された『クズの神を祀る神社(さらサイト今年の3月にご鎮座)』によれば、全国の国津神社の約半数がこの地域に集中しているからなのです。合祀されたもの等も拾うとそのリストは以下の通りとなります(ただし、AKLOは後述する六箇山郷からはやや外れています)。
(神奈備ホームページの『クズの神を祀る神社』、『名張の歴史』等により作成)。

【現存するもの】
 @國津神社「大己貴命」 名張市滝之原
 A國津神社「大名牟遲神」名張市青蓮寺
 B國津神社「大己貴命、事代主命、蛭子命」名張市上比奈知
 C國津神社「大國主命」 名張市奈垣
 D國津神社「大國主神」 名張市布生
 E國津神社「大己貴命」 名張市長瀬
 F上長瀬國津神社「建速須盞男命」名張市上長瀬
 G國津神社「大國主大神」一志郡美杉村太郎生
【合祀されたもの】
 住所は合祀前のものです。
 H國津神社「不明」名張市下比奈知 ※Qに合祀
 I國津神社「不明」名張市神屋 ※Cに合祀
 J國津神社「不明」名張市布生 ※Dに合祀
 K國津神社「不明」名張市美旗中村 ※美波田神社(名張市新田)に合祀
 L九頭神社「不明」名張市東田原  ※美波田神社(名張市新田)に合祀
【今はないが記録に残るもの】
 M國津神社「不明」名張市上長瀬
 N國津神社「不明」名張市中知山
【以前、国津神社の名前で呼ばれたことのあるもの】
 O乎美祢オミネ神社「素戔嗚尊など諸説あり」名張市桂
 P名居ナイノ神社「大己貴命、少彦名命、天児屋根命」名張市下比奈知
 Q御杖ミツエ神社「久那斗神、八衢比古神、八衢比売神衢」御杖村神末
※ OPQは式内社です。Oは記録により、かって九頭明神という名前だったことが判明。Pは江戸期の棟札により国津大明神≠ニ呼ばれていたことが判明。同じ理由でQは國津大明神≠るいは九頭大明神%凾ニ呼ばれていたことが判明。なお、Hは古来よりPの奥の院として崇敬されており、祭祀面で連続性があったもよう。

 これらの国津神社が分布する地域(名張市下比奈知シモヒナチ、上比奈知、滝之原、奈垣ナガキ、布生フノ、長瀬、美杉村太郎生タロウ、御杖村神末コウズエ等)は、現在では2県3市町村に分かれているものの、中世以前は六箇山ムコヤマ郷と呼ばれ、一つの地域でした(伊賀国で伊勢神宮領)。
 さて、この六箇山郷の国津神社について調査していたところ、国津神社とクズ族について次の示唆的な本を見つけました。
・『名張の歴史』中貞夫著(上巻は昭和35年、下巻は同36年刊)
 国津神社とクズ族のことは上巻の第一編第三章「先住種族」に出てきます。アウトラインを述べると、弥生文化を起こした渡来人にテンソン族、イズモ族、辺境族があり、辺境族とはエゾ、ツチグモ、クズ等のことである。辺境族はイズモ族の亜流で、山で生活しているうちに生活様式が本家のイズモ族と異なってきてしまった一族である。弥生時代の名張地方には盆地部にイズモ族が、六箇山郷には辺境族が居住していた。同郷に鎮座する国津神社郡はクズ族の遺跡である。クズ族とは本拠地である奈良県吉野郡から御杖村の神末越しに侵入してきた辺境族なのだ、というのがその説の骨子です。テンソン族・イズモ族という言葉はいささか観念的ですし、辺境族はイズモ族の亜流と見なすより、先住の縄文的生活者と見なす方が自然な気もしますが、とにかく無類のおもしろさです。以下、本書の記述の順番通りにその内容を紹介します(以下、後日のカキコに続く)。

香具さん> この布留街道沿いでは東を向けば、石上神宮に遥拝することになるのですが、山麓の神宮よりも長滝町の山頂付近が印象的に目に映ります。ちょうど3つの九頭神社が鎮座する山間部です。その向こう側は都祁の高原地帯となります。
 いや〜、いいですね。この感覚。こういうの大好きです。足を運んで同じ光景を目撃しなければ人生を損する、という気持ちになりますよ(笑)。

泊瀬女さん> イイネ、イイネ!
 泊瀬女さんのものであると同時に僕たちのものでもある、そのような願望が実現したとすれば、神社への愛が無媒介的に溢れた奇跡のような書物になってしまうのではないでしょうか。そしてそれを手にしたとき、僕たちはその僥倖への感謝を、筆者達にささげればよいのか、それとも神社そのものにささげればよいのか、きっと迷うことなるでしょう。
 個人的にはフィールドワーク向きにポケットサイズで、ビニール製の丈夫なソフトカバーの付いた本だと嬉しいです。『式内社調査報告』や『日本の神々』は重すぎてしばしば旅行を拷問に変えます。また、新潮文庫に付いているような紐製のブックマークを2〜3本付けるようお願いします。それだけで資料価値倍増です。それから、後ろの方に何ページか白紙ページが付いていて御朱印帳になる、というのもいいかもしれません(←勝手に決めるんじゃねーよ)。
 内容については、setohさんと玄松子さんが筆を執る以上、神の恩寵が約束されているも同然です。しかし、適宜、紋次郎さんの語源分析コーナーの開設、また出雲大社のような縁結びの神様の項での、泊瀬女さんによる恋愛講座コーナーの開設を断固要求します。



[1396]  ちょいと寄り道  [香具]  07/04

紋次郎親分。長滝町の滝、まだ見てないです。次の冬場にトライ予定。
二階堂地区の広さ? 地蔵堂を中心に1km四方でしょうか。佐保川と大和川の合流点まで溯上してきた船から陸に上がり、下ツ道を南北に行くか、山之辺に向い布留街道を東進するか、といった土地だったのではないでしょうか。

  石上神宮の神剣渡御祭で、神田神社にお渡りになる神剣は、六尺程の柄の先に錦の袋に包まれた広鉾のようなスタイルでの行列でした。三国志演義で関羽が振り回しているタイプです。本当の御神宝の神剣がお出ましになるわけでは無かった様です。祭り自体は、早乙女が田植えの所作を行う農耕のお祭りでした。
  石上神宮から西へ歩いたのは、布留町堂之垣内にある厳島神社について、『良因寺の鎮守として勧請されたものであろう』としか判らなかったので、他に徘徊先を求めたのでした。その途中、二階堂地区で気付きましたのは、盆地中央に『杵築神社』という名前の神社が多いナということです。もっとも数でいえば、春日社や天満宮の方が圧倒的に多いのですが。

天理市周辺の杵築神社(たぶん村社クラス?)
   ・大和郡山市 山田町
   ・大和郡山市 馬司町
   ・生駒郡安堵町 窪田(2箇所)
   ・天理市 南六条町 コモイケ
   ・天理市 中町 宮西
   ・天理市 二階堂上ノ庄町 ババワキ
   ・磯城郡 川西町 吐田
   ・磯城郡 三宅町 屏風
   ・磯城郡 三宅町 但馬
   ・磯城郡 田原本町 今里
   ・磯城郡 田原本町 矢部(杵都岐神社)
   ・高市郡 明日香村 小山
地図を眼ン玉スキャンしただけなので、漏れは有ると思います。
杵築といえば出雲大社でしょうか?なぜ『出雲神社』にしなかったのだろう。
地元の方の御意見を伺いたく投稿致します。


 

   [1400]  Re[1397]: 無題  クズ神、構造線、丹生  [Setoh]  07/04 

 

 ハンドル名を「テェタレ」さんと言う構造線にお詳しい方が、構造線の片側にクズ神、もう方側に丹生の神社が分布しているのでは、との指摘をされていました。名張の辺りは北側に当たります。また川上の若宮八幡から丹生大師、吉野方面は南側に当たります。言われてみれば、その通りで、これが紀ノ川へ出ますと、丹生が勧請されて紀ノ川の両岸に分布しているのですが、筒香、富貴、天野と名だたる丹生神社は南側、クズはどっちかと言うと北側か南側か微妙な所ですがね。要細部調査ですね。
構造線についての「テェタレ」さんのメモが下記にありました。
http://www16.u-page.so-net.ne.jp/wb4/tehtale/majour_fault.htm


 

   [1406]  国津とクズ2  [kokoro]  07/04

 

 昨日のカキコ『国津とクズ』の続きです(『無題』になっていますが、名前を入れ忘れました)。中貞夫氏の著書『名張の歴史』にあるクズ族についての記事を紹介します。

 まず筆者は、クズ族について次の『大和志料』にある記事を引用した上で、その生態の説明から説き起こしています。
「国樔。一に国巣・国栖に作る。古、国樔と称する土人ここに居る。因て地名となし、その方面を国樔庄と称す。 <中略> 土石をうがち穴居せるものなり。故に土籠(つちごもり・ツチグモと略称し土蜘蛛の字を用う)、また土巣(くにす・クズと略称し国樔の字を用う)とも称せり(『大和志料』)」
 「これによると、まだ穴居生活の遺習をのこしていたようで、クズの語源も土巣(くにす)という穴居の有様から出ているらしい。とにかく文化的にかなりな後進性がうかがえる(『名張の歴史』上巻P16)」

 続いて『日本書紀』で神武天皇が東征の途次、吉野に巡幸したとき井光イヒカ(吉野の首部の始祖)、磐押分イワオシワクの子(吉野の国樔の始祖)、苞苴担ニエモツの子(阿太の養鵜部の始祖)に出会った条を引用し、「ここには三っのグループが出ているが、そのうち国樔と称するものだけがクズ族ではなく、同じクズ族が吉野地方のあちこちにそれぞれ別の部落をつくり、独自の首長をいだいて割拠していたとみるべきである(同書P16)」とした上で、六箇山郷のクズ族について次のように説いています。
 「このクズ族の一部が、なんらかの事情で東に向かって移動をはじめ、後世の中街道沿いに曽爾村の南端を通って御杖村に出で、神末の地に一応の本拠を定めた。そしてここから更に太郎生川・比奈知川(※これは同じ川のことで、名張盆地に下るとさらに名張川になります)に沿うて下向し、沿岸の太郎生・国津・比奈知の線まで進出して、ここにクズ部落を確立するにいたった。 <中略> そしてこの場合、私たちの想定のもととなっている根拠の一つは他でもない、国津神社の分布なのである(同書P17)」
 なかなか魅力のある仮説です。

 だが何故、国津神社の分布がクズ族の遺跡と考えられるでしょうか?
 「神末の御杖神社も古い棟札には、「国津大明神」の銘があり、またこれはきわめて重大なことなのだが、「上之宮九頭大明神」の銘もあって、国津明神が九頭明神とよばれたことを示している。『大和志料』も「御杖神社。御杖村神末にあり、俗に九頭明神と称す」と、はっきり書いている。だから国津神社イコール九頭神社ということになる(同書P17)」
 補足すると、かって国津神社とも九頭神社とも呼ばれていた、という神社は御杖神社だけではありません。例えば、都祁村の南之庄と甲岡にある二つの国津神社は、江戸期の棟札や記録から、かって九頭大明神と呼ばれたことが判明します。また、紀伊国名草郡の刺田比古神社と志摩神社にも、九頭大明神と国津大明神の棟札や石灯籠が残っているようです(『玄松子の記憶』のそれぞれの神社の項を参照させていただきました)。このような例はもっと調査すれば出てきそうです。ただし、刺田比古神社、志摩神社及びOPQは式内社なので、創祀の頃から国津神社あるいはクズ神社と称していたとは考えにくく、いくぶん保留が必要と思われます。

 続いて筆者は、「敏感な読者なら九頭神社の名称からして早くもクズ族との間に何らかの関係を連想されるに違いない。 <中略> しかし、その結論にたどりつくまで、もうすこし歴史的推理の道を追うことにしよう(同書P17)」として、P19でイズモ族と辺境(クズ)族という概念を用いて、これを論証していますが、やや循環論法に陥っているキライがあり、紹介は省きます。いずれにせよ、クズ神社がクズ族の遺跡である、というのは春からのこの掲示板の流れで了解が得られていると思われるので、ここであらためて論証する必要はないでしょう。

 さらに続いて、@〜Qのもとになった国津神社リストが掲載され、これらの神社の鎮座範囲が、そのまま前述の六箇山郷に該当している点を指摘した上で、このように「六箇山郷が後に一体のものとして把握せられたその背景には、共通の文化・信仰・慣習・風俗等によって結ばれた生活共同体が相当期間つづいたという事実が推論される。そして、この事実を裏面から立証するのが、前述のような、国津神社の特殊な分布である(同書P19)」として、この地域がもともとクズ族の居住地域であり、その伝統が長く残っていた可能性を示唆しています。

 ではどうしてクズ神社は国津神社になってしまったのでしょうか?
 「国津神社の祭神は前述のようにオオナムチノミコト=大国主命となっている。さすれば、これは国つ神≠フ代表であって、もともとイズモ族の始祖神だ。 <中略> だが、私たちの想察によれば、国津神社の祭神をオオナムチノミコトとしたのは後世の付会であって起源的には、クズ族が始祖神として信仰するクズ神をまつったのが初まりなのだ。 <中略> 国津神社は九頭神社・葛神社の文字が示すとおり、クズと読むのが本来的なのである。 <中略> クズ神社に国津の漢字があてられたのが、そもそもまちがいのもとだった。国津と書けばクニツと読むのがしぜんであり、クニツと読む以上、国つ神を連想するのがこれまたしぜんで、すでに国つ神が設定された以上、その代表オオナムチノミコトが登場してくるのは当然だろう(同書P19)」
 つまり、クズ → クニツは音韻転訛なのではなく、クズに国津≠当て字した結果、そのような訓みが生じた、という訳です。それはそれで説得力のある意見に違いないと思いますが、それだけではなく、以下のような文化心理学的問題も考慮すべきでしょう。すなわち、どんな文化も生命力が失われてくると、当然のことながら安易で紋切り型なものへと堕落します。中氏のいうクズ神も江戸期ぐらいになり、クズ族の文化がほとんど摩耗してしまうと、ポピュラーで誰でも知っている国津神の大己貴命=大国主命へと一元化されてしまったのではないでしょうか。

 中氏の本の論旨はだいたい以上のとおりです。下手な紹介で著者のユニークな語り口や情熱が伝わらなかったおそれが強いですから、機会があればご一読をすすめます。

紋次郎さん> 国津はコウヅと発音されたことはありませんか?地元の人々のくちの端に残ってないでしょうか。
 都祁村史、都介野村史、名張市史、名張の歴史、桜井市史等を調べてみましたが、国津神社はクニツ神社としかなっていませんでした。しかしながら、こういう文献資料でクニツと訓がふってあったとしても、実際に現地で地元の方々が声を出しているのを聞くまで断定は控えねばならないでしょう。国津神社がコウズと発音されるのは、僕の直感では、かなりあり得る気がするのです。以前、『常世論』かなにかで谷川健一先生が、三重県上野市の御墓山オハカヤマ古墳について、「現地住民はオーハカヤマと発音している。オウの墓。つまり多氏の遺跡なのだ」と仰っているのを読んで、目からウロコ状態になったことがありました。活字文献上は必ずオハカヤマになっている古墳です。
>発音こそいのちたらめ、諾々です。


 

   [1465]  Re[1422][1406]: 国津とクズ2   [kokoro]  07/15

 

setohさん> この意味が分かりにくいんです。和歌山の例でいきますと、『志摩神社の場合、不明となっていた式内社の所在を元和年間(1,615-24年)に確定する際、中之島にあった小祠六所の一つであった「九頭明神」を志摩神社に定めたと言う。』とあり、クズ神社が志摩神社とされてはいますが、さりとて式内志摩神社の名前が創建時にクズ神社であったとは考えにくいという理解でよろしいのでしょうか?

 スルドイ質問ですね。これはそういう意味です。もっとつっこんで書くべきでした。そこでクズ神社とクズ族について、これまでの調査で受けた感じをもとに、手前味噌ながら少し僕の考えをカキコしてみます。

 総じて僕はクズという言葉が蔑称か、あるいはそれに近いことばであったと考えています。だから、クズ神社をクズ神社≠ニ呼んだのもクズの人たち自身ではなく、彼らの文化に共感のない別系統の人たちだったと思うのです(もちろんクズの人たち℃ゥ身も自分たちをクズと呼んだことはなかったでしょう)。また、3月10日の僕のカキコに載っているクズ神社リストを見れば分かるとおり、クズ神社という神社は祭神に統一性がありません。そこでも書いたことですが、祈雨神らしいとか岩石と関係があるらしいという観念は保たれていたものの、早い時代にクズ神社で祀られている神がどういう神なのか、誰にも分からなくなっていた感じがします。それに、これは調査したときの実感なのですが、郷土史等でクズ神社の沿革を調べていても、ほとんどのものが由緒不明で伝承等が不十分なのです(都祁村南之庄の国津神社は例外です)。
 こうしたことから、僕はクズ神社は地主神として信仰されていたものの、その祭祀を執り行っていたのは、非常に古い時代を除くと、クズ族とは直接、関係のない人たちだった、という気がしてならないのです。つまり、クズ神社はクズ族の末裔の人たちがずっと祀ってきたのではなく、断絶があり、結構、早くから彼らとは違う文化を持つ人たちが祀ってきた、と思うのです。そして、その断絶によりクズ族の文化はかなり昔に失われたという気がします。
 森林について原始林を一次林、一次林が消滅した後に生えたものを二次林と呼ぶようですが、これに習って最初にクズ族がクズ神を祀った信仰を一次信仰とすると、こうしたクズ族とは違う文化を持つ人たちによるクズ信仰は二次信仰となります。ではどうして一次信仰によるクズ族の信仰が廃れ、二次信仰によるクズ神社が生じたのでしょうか? そう考えると僕はどうしてもクズ族を征服した人たちが、祟りを恐れ、地主神としてクズ神を祀ったのがクズ神社なのだ、というストーリーを連想してしまいます。例えば、長野県にある戸隠神社の奥社には九頭龍社という摂社がありますが、そこの祭神の九頭龍は沼地に住んでいた地主神で、戸隠神社の祭神、手力男神が降臨した際、その住地を明け渡したと伝えられています。この伝承は、当該ストーリーによってよく解釈できるでしょう。また武力による征服ほど強い契機でなかったとしても、文化的帰順、人口の激減、混血、忘却等の原因もありえます。
 最初の問題に戻ると、僕は式内社の多くが創祀が古墳時代にさかのぼると考えています。そしてそれくらいさかのぼればクズ族の一次信仰はまだ生きていたと思うのです。したがって、クズ族の神を祀る神社がクズ神社と呼ばれることもなかった、と考えたわけです。現に吉野の国樔の本拠地に鎮座する式内社で、その氏神とされる川上鹿鹽カハカミノカシホノ神社(現在、吉野町南国樔と樫尾に論社2社が鎮座しています)は、クズ神社という名前ではありません。
 ただし、式内社で創祀の頃からクズ神社≠ニ呼ばれた神社はないと思いますが、クズ族が祭祀に関わっていた式内社は、川上鹿塩神社以外にももっとある気がします。例えば7月4日のカキコで紹介した式内社、名居神社と御杖神社は六箇山郷に鎮座し、かって国津神社と呼ばれたことが判明しているので、こうした神社であった可能性があります。特に名居神社は、名張市下比奈知にあった国津神社(現在は名居神社に合祀されています。7月4日の僕のカキコ、『無題』では御杖神社に合祀されていることになっていますが、これは間違えです。スミマセン)を奥の院とする伝承があり、そこには神聖視された岩があることは注目して良いでしょう。また、御杖神社は何となく倭姫命のイメージが強いですが、由緒については意外と分かっていない感じがします。これもクズ族による祭祀が、その源流だったのではないでしょうか。それから全国的にフセ神社という式内社が8社ありますが、これもクズ→クゼ→クセ→フセとの音韻転訛でクズ族と関係がある可能性があります。

 以上、僕がクズ神社についてこれまで調査して感じた早い時代にクズ族の文化は滅んでおり、この神社の信仰は二次信仰ではないか≠ニいう印象を伝えたかったのですが、うまくいったかやや不安です。意見等があれば歓迎します。
 ただし、クズ族の中でも吉野の国樔はここで言っていることが当てはまらないのでやや別の扱いが必要な気がします。というのも、古事記の応神天皇条にある記事から、彼らが大嘗祭の時、服属儀礼で祭儀に参加していたことが分かり、少なくとも八世紀まで自分たちの文化の独立性を保っていたことが判明するからです。
 とはいえそれは大和王権に服属したなかにおける相対的な独立にすぎません。逆に言うと、吉野の国樔は大和王権に服属したから、その文化が滅ぼされないで済んだと思われます。クズ神社の分布をみると現在の奈良県の吉野町だけではなく、宇陀郡の各市町村、天理市、都祁村、桜井市、三重県の美杉村等にまで広く分布しています。つまり、これからいって吉野の国樔は、クズ族の中の一部族にすぎないのです。このうち宇陀郡は神武東征の際、天皇がこの地域の在地勢力から抵抗を受けた物語が記紀にありますから、この地域のクズ族は大和王権に対し従順ではなかったのかもしれません(別に神武東征が史実であったと考えているわけではないですが、物語のもとになった何らかの事実があったと思われます)。いずれにせよ、結局、クズ族で正史に名を残したのは大和王権に帰順した吉野の国樔だけでした。このため、クズ族といえば吉野の国樔が本家本元であるというのが決まり事みたいになっていますが、それは記紀の大和王権中心史観がねつ造したイメージなのです。したがって、その先入観は捨てる必要があります。

 六箇山郷について補足すると、ここは外からの情報が入りづらい地域で、古い文化が残りやすいそうです。ここに数年前、行ったことがあります。名居神社やいくつかの国津神社を見て、赤岩尾神社という柱状節理の奇岩を御神体とした、拝殿だけで本殿のないものすごい神社を見てから、帰る前に比奈知ダムの湛水池にかかる赤岩大橋という橋から、遠く神末の方を望んだ時のことです。そのころはまだ、クズ族のこととかは何も知らなかったのですが、何かほのぼのとした感じと悲哀感が入り交じったような独特な雰囲気を感じて印象的でした。


 

   [1471]  Re[1466]: クズとクリル  [kokoro]  07/16

 

 僕の7月4日のカキコ、『国津とクズ2』について、大三元さんにはやや誤解があると思うので、これに答え少し自分のカキコを補足します。

> クズと読むように書かれる国栖とかクヅと読むべきと思われる国津が日本語では異なる音韻なのが「外来語」を写したもの、と理解することで矛盾しなくなるように思われます。

 ここではまず、国栖はクズ、国津はクヅと訓むと思われるが、その音韻上の違いが無視されているというご指摘があり、続いてその矛盾は、国栖と国津は、 kur という「外来語」を写したもの、と理解することで矛盾しなくなる≠ニ理論的な解決方法まで示唆いただいております。クズと kur との関連については、興味深い説だとは感じますが、知識がないので何も言えません。ただ、国津はクヅと訓むと思われる≠フ部分については誤解だと思います。僕も中貞夫氏(『名張の歴史』の著者)も国津をクヅと訓むとは言っておりません。

 「国津神社は九頭神社・葛神社の文字が示すとおり、クズと読むのが本来的なのである(『名張の歴史』P19)」

 国津の訓みはクズなのです。
 その証明として中氏は、御杖神社の古い棟札の表記に、九頭明神≠ニ国津明神≠フ2種類がみられることを指摘しています。僕自身も、都祁村の南之庄と甲岡にある国津神社や紀伊国名草郡の式内社、刺田比古神社と志摩神社の棟札や石灯籠に、やはりこの2種類の表記が見られることを補足しました。これだけの例を揚げることができれば、国津≠ヘ本来、クズと訓んでいたことは明らかです。また、国津神社の現在の訓みはすべてクニツ$_社ですが、これはもちろん、当て字した国津≠ゥら生じたことは説明を待たないでしょう。いずれにせよ国津の訓みはクズかクニツだけです。クヅはありません。また、以上の内容は『国津とクズ2』と完全に重複しています。詳細はそちらをどうぞ。
 ただここで、なぜクズ神社に国津神社≠ニ当て字したのか僕の考えを新たに補足します。クズ→国津という当て字は確かにやや無理があります。大三元さんが問題を感じられたのも、この不自然さに対してだったと推察します。これに対しては、一つの回答は音だけにとらわれてはならない、だと思います。つまりクズという音だけを考えて国津という当て字をみると、クニツや(実際にはなかったものの)クヅという訓みと勘違いされやすく、あまり上手な当て字とはいえません。しかし意味についても注目する必要があるわけです。クズ族の神は国津神だという観念があったのは確実です。したがって、クズ神社のクズに、国津≠ニ当て字するのは意味的には正解となり、音的にやや不自然でも、やはり上手な当て字なのです。しかしながらそのために、国津神社の国津を、クズではなくクニツと勘違いした後世が、祭神もクズ神ではなく大国主命や大国魂神とする混乱が生じました。
 ただ僕はここで、クズに国津と当て字した先人について、いくぶん弁護の必要を感じます。たぶん深読みのしすぎでしょうが、その人はクズに国津と当て字して、初めからクニツ$_社と訓ませる気だったのかも知れません。なぜ彼がそうしたかったかといえば、昨日のカキコでも書きましたが、クズという言葉には蔑称のニュアンスが感じられるのです。したがって、その人は、クズ神社という名称を改める必要を強く感じていたのではなかったでしょうか。
 蛇足ですが、setohさんはよくご存じだと思いますが、宇陀郡大宇陀町嬉河原に屑神社という神社があります。クズ神社のクズ≠ヘさまざまな表記がありますが、これは最もひどい例と思われます。しかも郷土史等をいくら調べても、どうしてこの字を当てたかまったく記事がないのです。そうしたことの解釈は皆さんにお任せしますが、とにかく、クズ族の文化が何らかの暴力にさらされていたことは間違いないと思います。


[227] Re[216]:   クズの語源 参考にならんカネ     kokoro [Mail] 2001/07/28(Sat) 02:36 [Reply]
 紋次郎さん、アマカネ! 暑中お見舞い申し上げます。旅行・出張ですっかり遅くなってしまいましたが、7月16日の『クズの語源 参考にならんカネ』へのレスポンスです。

> クズ(どんな字だったか忘れました)は宮廷の楽士を勤めていたという記録があるのでしょうか?いや、風説でもいいのですがネパール語 KUSLE は楽士です。末尾の LE には馴染みがありません。LI(人)の変化態とみていいでしょう。

 『国栖の翁』という伝承をご紹介します。
「昔、大海皇子が吉野山におられると、ミルメ・カクハナなどが、不意に山を襲うた。皇子は敏くそれを察し、夜中に山を落ちて、国樔の川辺をさまよっておられた。敵はたちまちその後を追って、皇子に迫った。
 川には橋も舟もなかった。皇子は進退きわまった。ちょうどその時、ひとりの漁翁が川舟に乗って現れた。皇子は急に言葉をかけて、漁翁に頼まれた。漁翁はうなずいて、とっさにその舟を河原に伏せて、皇子をおおい、船底にはぬれ着物を引っ張っておいた。
 やがて敵がかけつけて、翁に皇子のゆくえをなじった。そこへまた付近の犬が一匹出てきて、鼻をクンクンといわせながら、しきりに舟のまわりをかぎ始めた。これではならぬと思って、翁は相手の大将ミルメ・カクハナのすきをねらって、一撃にこれを打ち倒した。
 手下どもは、この勢いに恐れて散り散りバラバラに逃げうせた。
 こうして、翁は皇子の危難を救い、付近の和田の岩屋に案内して、粟飯にウグイの魚をそえてさしあげた。すると、皇子はウグイの片側だけを召し上がり、残りの片側を水中に投じて、いくさの勝敗を占われた。魚は勢いよく活きて水中をはねまわり、皇子の戦勝を予示した。
 皇子は大いに喜び、一首の歌をよまれた。
    世にいでば腹赤ハラカの魚の片割れも
      くずの翁がふちにすむ月
 腹赤の魚とはウグイのことである。この魚は、産卵期になると、腹が赤くなるからということである。
 皇子は、他日帝位についたら、これをシルシに持って参上せよと仰られて、錦旗と鼓胴とを翁に賜わった。それで翁は、その後大和浄見が原の宮に参上し、勅によって歌曲を奏し、桐竹鳳凰の装束と御製とを賜った。
 その御製に、
    鈴の音に白木の笛の音するは
      国栖の翁がまいるものかは
 その後、恒例として代々参内しては歌曲を奏していたが、いつとはなしにそのことが絶えた。翁の子孫はこの典礼の湮滅することを憂えて、寿永四年(※ただし、寿永は1182〜84年まで)正月、新たに地を占って社を営み、天武天皇を祭り、毎年正月十四日、古曲を奏して現今におよんでいるという(高田十郎氏他編『大和の伝説』)」

 これをみるとクズの人たちが歌曲をよくしたことが伝わってきます。また、新たに地を占って社を営み、天武天皇を祭≠チたというのは、おそらく吉野町南国栖にある浄見原神社のことと思われます。当社の由緒も紹介します。
「南国栖、吉野川の右岸断崖上に鎮座する旧村社で、天淳中原瀛真人天皇(天武天皇)を祀る。毎年旧正月十四日伝国栖翁の末裔の人々によって国栖奏が奉納される。国栖奏とは石押分の末孫の翁筋の人々が朝廷の大儀に御贄を献じ、歌笛を宮中の儀鸞門外で奏した故事に則ったもので、舞翁二人、笛翁四人、鼓翁一人、謡翁五人の計一二人で奏上する。当日の神セン(←センは食<wンに巽≠ニいう漢字ですが、出ません)は腹赤の魚(うぐい)、醴酒(一夜酒)、土毛(土地の特産物としての根芹、山菓(木の実)・栗・かしの実)、毛瀰(かえる)である。
 岸壁に建つ神殿は、神明造一間社。石灯籠のうち享保五年(一七二〇)の刻銘のものが古い。国栖奏の第四歌に
かしのふに、よくすをつくり、よくすにかめる、おほきみ、うまらに、きこしもちをせ、まろがち
と歌う(『奈良県史5神社』P626より)」

 また、関連がみとめられる、吉野町窪垣内の御霊神社の由緒も紹介します。
「窪垣内集落の東端の高地に鎮座する旧無格社で、国栖翁の祖、権正政国を祀る(『吉野郡史料』)という。明治の明細帳には祭神不詳とある。この地方では国栖奏発祥の古跡と伝えている(『奈良県史5神社』P625より)」

 ところで、この伝承は、吉野の国栖について非常に示唆的であると思われます。ミルメ・カクハナが登場する前段は、いうまでもなく、壬申の乱前夜の政治状況を背景にしているとみてよいでしょう。そしてその場合、その内容を真に受けたとすれば、挙兵までの一時期、吉野宮で生活していた大海人皇子が、吉野の国栖の援助と保護を受けていたことを示唆すると思われます。あるいは、そもそもが大海人皇子が吉野宮に入られたのも、彼らを頼ってのことだったかも知れません。
 『日本書紀』天智天皇十年十二月三日の天皇崩御の記事の中で、殯モガリに際して流行した童謡ワザウタが3っ紹介され、その1つは次のようなものです。

  赤駒アカゴマノ、行憚イユキハバカル、真葛原マクズハラ、何伝言ナニノツテコト、直吉タダニシエケム
【訳】赤駒が行きなやむ葛の原、そのようにまだるこい伝言などなされずに、直接におっしゃればよいのに。

 以上の訓み下しと現代語訳は宇治谷孟氏訳の『日本書紀(下)』P241によりますが、同書は訳注で、この歌について「近江方と吉野方の直接の交渉をすすめるものか」としています。とすればあるいは赤駒が行きなやむ葛の原≠フ葛≠ヘ、大海人皇子周辺にいた吉野の国栖勢力のことを揶揄する懸け言葉になっているのかもしれません。
 また、『古事記』の応神条で吉野の国栖が、大雀オホサザキノ命(即位前の仁徳天皇)に、紋次郎さんが懸け言葉が多いとして注目された先がササけた剣を褒める♂フを奏上していますが、折口信夫はこの奏上について、大嘗祭における、吉野の国栖の服属儀礼だったとする興味深い説を述べています(『原始信仰』等)。この説はなかなかに説得的な感じがするのですが、とすれば恒例として代々参内しては歌曲を奏していた≠ニいうのは、単なる宮廷儀礼に際してだけではなく、代々天皇の大嘗祭においても行われた可能性があります。そしてその場合、『国栖の翁』の伝承によれば、この慣例は天武天皇の御代から始まったことになります。
 さて、記紀では、この応神条の国栖の歌と東征の途次、神武天皇が吉野の国栖の祖、石押分之子に出会う話が吉野の国栖の記事の全てだと思いますが、これらを真に受けると、天皇家と吉野の国栖の交流は、弥生時代終末期に開始され、古墳時代中期も盛んであったことになります。しかしむしろ『国栖の翁』の伝承の方がより真実を伝えていて、吉野の国栖と天皇家との交流は、大海人皇子が吉野宮に居たときに始まる、と考えた方が自然ではないでしょうか。
 『古事記』応神条にある国栖の歌の記事は、前後の文脈と関連があまりなくて、何か唐突な感じがします。また、神武天皇が石押分之子に出会う記事も、『古事記』の場合はともかく、『日本書紀』の場合は東征のさなかに、わざわざルートから外れた吉野に天皇が物見遊山で出かけて行ったように書かれていて、やはり違和感があります。『日本書紀』のこの説話は、どうも吉野の国栖や井光のことを話に出したいために、強引に東征の話に挿入されたと考えると実に納得できます。こうしたことから、記紀の神武条や応神条にある吉野の国栖の記事は、逆境で雌伏していた時期の大海人皇子を支えた吉野の国栖を、記紀編纂の際、天皇家がその功績を認め、彼らの由緒を深めるために作られたのではなかったでしょうか。
 また、逆の見方をすると、吉野や宇陀地方に入ってからの神武東征の記事には、壬申の乱における大海人皇子の行程の記憶がかなり混入しているのかもしれません。もっとも、これは先人の誰かがすでに言い出していることかもしれませんが。

 

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神奈備にようこそ