浪花の鯉の物語 続編

[2731] 続浪花の鯉の物語1  神奈備 2007/02/09(Fri) 16:32 [Reply]
 難波地域に古墳がいくつか存在しています。まさに上町台地の尾根筋にも多くの古墳があったものと思われていますが、その後の上町台地の開発や市街化で破壊されてきたのでしょう。四天王寺に豪壮な長持形石棺があるのですが、ここは荒墓と呼ばれていた土地です。古墳の上に築かれた寺院だったと思われます。
 現在でも確認されている古墳がいくつか残っています。
 難波では4世紀の古墳は見あたらず、5世紀代に100m超の古墳が作られていますが、6世紀になりますと殆ど作られなくなります。

 5世紀は倭の五王の時代であり、古市、中百舌鳥古墳群の被葬者が推定されるのですが、難波の古墳は倭の五王のものではなく、その関係者の古墳であったのでしょう。

 倭五王が南朝の宋に献使朝貢しましたが、畿内からも九州からもどこからもそれらしい遺品は出土していません。安東将軍・倭国王等の称号は得たようですが、まさか手ぶらで帰ってきたわけでもあるまいし、不思議なことです。ただ、伝応神天皇陵、伝仁徳天皇陵など傑出したサイズの古墳が河内和泉地方にあり、ここの勢力が倭国王であった可能性は高いようです。

 同時に五王の名として、讃・珍・済・興・武と一文字であるのは、倭国の王らしくない名前に思われます。邪馬台国の時代でも卑弥呼・卑弥弓呼・難升米など、推古天皇の頃には姓は阿毎、名は多利思比狐、阿輩雉弥などです。

 しかし、福島雅彦さんはこれらを職掌名とされており、倭の五王は倭國の伝統として「氏・姓」を隠していると指摘されています。『隋書』以前の中国正史には倭王(倭女王)の固有名詞は壹與(台与)以外には登場していないとされているのです。
 姓は阿毎、名は多利思比狐、阿輩雉弥=天帯彦大王、微妙な所です。


[2734] 続 浪花の鯉の物語2  神奈備 2007/02/10(Sat) 19:47 [Reply]
 ここらで、『日本書紀』に現れた難波について追ってみましょう。
 (1)神武天皇即位前紀 まさに難波碕に着こうとするとき、速い潮流があって速く着いた。よって浪速国とした。また浪花とも言う。

 (2)垂仁天皇二年 大加羅国の王子、都怒我阿羅斯等が見つけた乙女が逃げ失せたので、王子は海を越えて日本にやって来た。乙女は難波に至って比賣語曾社の神となった。

 (3)景行天皇二七年 日本武尊が熊襲を平らげて帰国。難波に至るころに、柏渡(かしわのわたり)の悪い神を殺した。淀川のカッパか? 仁徳皇后が柏の葉を投げ捨てたゆえ。大伴家持 「船いだす沖つしほさい白妙に かしわのわたり浪高く見ゆ」

 (4)景行天皇 『播磨国風土記』(賀古の郡)景行天皇が摂津の国の高瀬の済(渡し場)に来て、河を渡ろうとした時、紀伊国生まれの渡し主の小玉は「私は天皇の召使いではないと渡し賃を要求し」、弟縵をせしめているお話です。

 (5)神功皇后摂政元年 忍熊王が軍を率いて待ちかまえていた。武内宿禰には皇子を抱いて紀伊水門に行かせ、皇后はまっすぐに難波に向かったが、船が海中で回って進まなかった。

 (6)応神天皇十三年 日向の髪長媛を桑津邑に安置(はべら)した。

 (7)応神天皇二二年 春 天皇は難波においでになり、大隅宮に居られた。秋 天皇は淡路嶋で狩りをした。。是嶋は難波の西にある。

 (8)仁徳天皇即位前紀 漁師は鮮魚の献上品を菟道宮にお届けした。菟道稚郎子は「自分は天皇ではない。」と言って、返して難波に奉らせた。大鷦鷯尊はまた返して菟道に奉らせた。そうこうしているうちに魚は腐ってしまった。

 (9)仁徳天皇元年 難波に宮を造り、高津宮と言った。仁徳天皇十一年、宮の北部の野を掘って、南の水を導いて、西の海に入れた。(難波堀江と言う)。

 (10)仁徳天皇十四年 猪飼津に橋を渡した。小橋と言った。 

 (11)仁徳天皇三〇年 天皇は皇后の居ないことを知って、八田皇女を召して大宮に入れた。皇后は難波の渡りに着いてこれを聞き、取ってきた三つ柏を海に投げ入れた。葉の濟(’かしわのわたり)と言った。

 (12)仁徳天皇六二年 遠江国の大井川に流れ着いた木で船を造った。南海を巡って難波津に持ってきて御船とした。

 (13)履中天皇即位前紀 仲皇子が太子(履中天皇)の宮を焼いた。逃げ出していた太子は河内國に到り、埴生坂で目覚めた。難波の方が燃えているので驚いた。・・・ 太子は瑞歯別皇子に難波に帰って仲皇子を殺せと命じた。

 (14)允恭天皇四二年 允恭天皇がなくなったので、新羅の王が多くの調の船に多数の楽人を乗せて奉った。船は難波津に泊まってみな麻の白服を着た。難波から京に至るまで、泣いたり舞ったりした。

 (15)清寧天皇即位前紀 大伴大連に助命を受けた漢彦は難波の来目邑の大井戸の田を大連に贈った。

 (16)仁賢天皇六年 女が難波の御津にいて泣き声をあげていた。

 応神天皇と仁徳天皇は同一の天皇との説があります。それはともかく、応神天皇以降継体天皇の前の天皇までを河内王朝、また顕宗・仁賢天皇を播磨王朝とする説もありますが、河内・和泉の大古墳から見て河内に王権があって勢力を張っていたのはまぎれもない事実でしょう。『記紀』には河内の大王が国土を支配するにあたって八十島祭を行ったようなことは一切出ていないが、生国咲国魂神社が上町台地北東端に鎮座していて、大八州之霊を祭っていること、また国生神話が難波の海からの風景との関わりの強いことから、八十島祭の原型や国生神話が河内王朝の頃から形成されてきたことを示しているようです。

 また神功皇后の伝承では、忍熊王を追いつめていって淀川を遡り、近江に至って殺しています。近江でのことは壬申の乱の反映かも知れませんが・・・。淀川の制川権を確保し、また大和西南部の葛城氏の支援もあって大和川の制川権を握り、大和の東部、北部の勢力を抑えたのでしょう。

 仁徳紀に難波津、難波大津、難波御津、桑津、高津、猪飼津が出てきます。
 難波御津は御津八幡神社、桑津は桑津天神社、高津は高津高校、猪飼津は比売許曽神社の鎮座地の近くではないかと考えられています。難波津はいくつかあったのでしょう。難波大津もよく分かっていません。

 八十島の出来る状況 これは写真掲示板に掲載です。


[2735] 続 浪花の鯉の物語3  神奈備 2007/02/11(Sun) 17:02 [Reply]
 『日本書紀』に現れた難波について更に追ってみましょう。
 (17)継体天皇六年 任那四県の割譲の了承について、物部大連麁鹿火を勅使として、難波館に出向き、勅を百濟の使いを伝えようとしたが、割譲の責任を問われると拙いので麁鹿火の妻が止めた。

 (18)安閑天皇元年 難波屯倉と钁丁(くわよぼろ:人夫)を宅媛に賜った。

 (19)安閑天皇二年 県犬養大連に「牛を難波の大隅嶋と媛嶋の松原に放って、名を後世に残そう。」と言った。

 (20)欽明天皇元年 難波の祝津においでになった。

 (21)欽明天皇十三年 蘇我稲目に百済王が奉った仏像を礼拝させたが、後に、国に病がはやり、若死にする人民が多かった。長く続いて手だてがなかった。物部大連尾輿と中臣連鎌子とが仏を祀るゆえと奏上した。仏像を難波の堀江に流し捨てた。(=ここから上陸した大和に運ばれた。)

 (22)欽明天皇二二年 難波の大郡に諸国の使者を案内するときに、新羅の使者を百済の後に置いたので、新羅の使者は怒って帰ってしまった。

 (23)欽明天皇三一年 許勢臣猿と吉士赤鳩を難波津から出発させて、船を佐々波山に引き上げさせ、高麗からの使いを近江の北の山に迎えさせた。

 (24)敏達天皇六年 百濟國王は使いの大別王らに、經論若干卷、律師、禪師、比丘尼、咒禁師、造佛工、造寺工の六人を献上した。これを難波の大別王の寺に安置した。

 (25)敏達天皇十二年 日羅を難波の館に訪ねさせた。また阿斗桑市に住まわせたが難波の館に移した。

 (26)敏達天皇十四年 蘇我馬子が仏を祀ったので国内に疫病がはやったとして寺を焼き、残った仏像を難波の堀江に捨てた。

 (27)崇峻天皇即位前紀用明天皇二年 物部守屋大連の近侍の捕鳥部萬は百人を率いて難波の守屋宅を守った。百済川沿いにあって、原四天王寺が営まれたとの説もあります。

 (28)推古天皇元年 この時、始めて四天王寺を難波の荒陵に造った。

 (29)推古天皇六年 難波吉士磐金が新羅から帰って鵲二羽をたてまつった。それを難波杜に放し飼いにさせた。(生魂神社と見られています。)

 (30)推古天皇十一年 新羅を討つ将軍になった當麻皇子は難波から出発した。

 (31)推古天皇十六年 大唐の使人裴世と下客十二人は妹子んみ従って筑紫に着いた。大唐の客のために難波の高麗舘の近くに新しい館を造った。六月、客たちは難波に泊まった。九月、客たちを難波の大郡でもてなした。

 (32)推古天皇二一年 難波から京に至る大路を設けた。(竹田街道?)

 (33)舒明天皇元年 大伴大連金村は住吉宅に隠居。

 (34)舒明天皇二年 難波大郡と三韓館を修理した。

 (35)舒明天皇四年 唐の使者高表仁らが難波津に泊まった。

 (36)皇極天皇元年 高麗の使者が難波津に泊まった。諸大夫を難波の郡に遣わして、高麗国の奉った金銀等を点検させた。高麗と百濟の客を難波の郡で饗応された。五月、百濟の調使の船と吉士の船が難波津に着いた。

 (37)皇極天皇二年 難波の百濟客の舘と民家が火災で焼けた。六月、百濟の朝貢船が難波津に着いた。大夫たちを難波の郡に遣わして百済国の調と献上物を点検させた。

 (38)皇極天皇三年(六四四)三月 豐浦大臣の大津宅倉でフクロウが子を産んだ。

 (39)物部、蘇我、大伴  それぞれ難波や住吉に邸宅を持っていた。

 (40)皇極天皇四年 何もないところから猿のうめくような声が聞こえた。古い本に、京を難波に移し、板蓋宮が廃墟となる兆しであるとした。

 また、河内王朝の頃の5世紀後半に難波津の側の高台に倉庫群が造られています。その頃から連綿として難波津は対外折衝の地であり、外来客の留まる地であったようです。発掘では前期難波宮以前の柱穴も出ているのですが、朝鮮三国の館などには比定は出来ていないようです。

 欽明天皇元の難波祝津は難波津と同じ場所であったのですが、祝津と言うからには、神霊を受ける八十島祭の場や仏像の上陸地(捨てる場所でもある)と云う聖地の要素があったのかも知れません。
 

[2736] 続 浪花の鯉の物語4  神奈備 2007/02/13(Tue) 08:21 [Reply]
 『日本書紀』に現れた難波について(その三)
 (40)孝徳天皇:大化元年 都を難波長柄豐碕に移した。老人等は「春から夏にかけて鼠達が難波の方に向かった。遷都の前兆だった。」と。

 (41)孝徳天皇:大化二年(六四六)正月 子代離宮においでなった。−或本に言う。壞難波狹屋部村の子代屯倉を壊して行宮を建てたとある。

 (41)孝徳天皇:大化二年(六四六)二月 飛鳥に戻った。九月、蝦蟇行宮においでなった。

 (42)孝徳天皇:大化三年(六四七)小郡(上町台地の西の建物)を壊して小郡宮を造った。

 (44)孝徳天皇:大化四年(六四八)四年春正月、拝賀の礼があった。この夕、天皇は難波碕宮においでになった。

 (45)孝徳天皇:白雉二年(六五一)味経宮(あじふのみや)で二千百余人の僧尼を招いて一切経を読ませた。天皇は大郡より新宮に遷る。難波長柄豐碕宮と号す。

 (46)孝徳天皇:白雉三年(六五二)秋九月、豐碕宮の造営はが完了した。

 (47)孝徳天皇:白雉五年(六五四)冬十月、皇太子は天皇が病疾であることを聞き、皇極上皇、間人皇后、大海人皇子、公卿等を率いて難波宮に赴かれた。天皇は崩御。

 孝徳天皇は「仏法を尊び、神道を軽ろんず。」とあり、これは生国咲国魂神社の神木を伐って宮殿の材料にしたということで、生国咲国魂神社の鎮座の古さを知ることができます。

 孝徳天皇の難波宮を前期難波宮と呼んでいます。天皇は子代離宮、蝦蟇行宮、小郡宮、難波碕宮、味経宮、新宮(難波長柄豐碕宮)と移動しています。難波長柄豐碕宮は言い表せない程立派だったと言います。孝徳天皇(軽皇子)は飛鳥しか知らない中大兄皇子などとはレベルの違う国際人だったのかも知れません。なぜならば、宮の新しさ立派さだけではなく、乙巳の変での「韓人が鞍作を殺した。」の韓人だった可能性があるからです。
 大化二年に大化の改新の詔を発す。土地、統治の仕組み、戸籍、税などの改革です。尤もこれらの改革は天智天皇の業績とも考えられています。それはともかく難波に都すると言うことは、始祖王的存在の仁徳天皇の治世にあやかっただけではなく、旧態依然の飛鳥の勢力とは一線を画すること、また国際的な情報を多く得ることを志したのであろう。孝徳天皇を捨て置いて飛鳥に帰った中大兄皇子(天智天皇)や藤原鎌足などは百済救済のために唐と高句麗との連合軍に戦いをいどみ、大失敗をするのを見ると、国際情勢に暗かったとしか言いようがない。秀吉程度。


[2737] ご無沙汰しております!&御案内(*^0^*)  MADOKA [Url] 2007/02/14(Wed) 00:16 [Reply]
ぜーーぜーーやっと追いついた(=0=)
長きの冬眠 写真別荘はすぐみれたのですが、神奈備、青草の過去ログが見れず、ご無沙汰しておりました。どんたくさん!はじめまして、まったく知らず御無礼しましたm(==)mなるほどと思いました。どんたくさんは銅鐸に造詣がお深いと神奈備さんから受けたまわっております!銅鐸の件でお伺いしたいことあり&銅鐸のことについての書き込み期待しております(^^)
またよろしく!

神奈備さん
浪速の鯉の物語 こういうふうにまとめていただくとありがたいですね 謝謝。
ちなみに考徳天皇を祭る唯一の神社は大阪市北区豊崎の豊崎神社です。ここと天皇の宮所?にしかお祭りしてません。この豊崎神社が発行している豊崎だより?は秀逸 文献的価値あり?またここの宮司はまあインパクトのある人でした!明治維新の壮士そのものの風体。かわった人でした。考徳天皇が神様を軽んじたとされていることに憤りを感じておられ、めんめんと語られます。かいつまんでいうとようは、考徳天皇の時代 常世の神騒動がひんぱんに 起き(いまでいうところの統一教会騒動かオーム事件新興の現世利益を宣伝する神。常世の神を祭ったらこんないいことがあったなどと民を惑わすものが多くでて問題となっていた そのことに断罪をくだしたのが考徳天皇 それがなにかすりかわっているらしい。生玉の杜を守ったのは考徳天皇 で神を手厚く祭った天皇である! このあたりは豊崎だよりを参照ください)また豊崎神社は難波の宮の古地。板葺きの宮なのだ!えらい先生が上町台地説をとったからみんなそっちになってしまった。残念なことに証拠が出せない、ここは海が近いので土に塩分が高く古代の土器が出てもその場でボロボロになる。ときどき、どこかの重要な神社から?線を引くとここを通過するこここそ板葺きの宮だという人が現れる。一ついえることは、垂水から難波の宮へ竹の筒で水を流した(水道?)という記録があり、距離があって誰も信じないが、垂水とここはピッタリ場所が合うんだ!と熱く語っておられました。あーいう宮司さんにはエールを送りたいものですね(*^0^)/

[2738] Re[2737]: ご無沙汰しております!&御案内(*^0^*)  神奈備 2007/02/14(Wed) 21:21 [Reply]
> ちなみに考徳天皇を祭る唯一の神社は大阪市北区豊崎の豊崎神社です。

孝徳天皇を祀る神社が他にありました。
兵庫県伊丹市御願塚4-10-11 南之神社

> また豊崎神社は難波の宮の古地。板葺きの宮なのだ!えらい先生が上町台地説をとったからみんなそっちになってしまった。

明治時代まではそのように思われていたようです。

戸田繁次氏著 戸田次郎氏蔵 稿本 長柄郷土誌
http://homepage.mac.com/ryomasuda/Saigoku/Nagara/LIB/Nagara/index.html
 惜しい事には明和九年(1772)に豊崎神社が炎上して孝徳天皇の御衣と傳へる、上古の金襴一片を残すのみとなって古文書をすっかり焼失してしまった。
昭和八年二月大阪史蹟調査會と趣味の考古学會によって、長柄本庄豊崎方面一帯に亘って調査した事があったが、何等得るところがなかったといふ。

確かに、法円坂付近の宮跡は難波宮跡でしょうか、これを難波「長柄豊崎」宮と言う説得力のある説明には出くわしていません 。


[2739] 続 浪花の鯉の物語5  神奈備 2007/02/15(Thu) 07:14 [Reply]
 『日本書紀』に現れた難波について(その四)
 (48)斉明天皇元年(六五五)難波の朝で蝦夷をもてなした。

 (49)斉明天皇六年(六六〇)難波宮に行幸。(筑紫へ行くため。)七年崩御。

 (50)天武天皇元年(六七二)壬申の乱

 (51)天武天皇八年(六七九)龍田山と大坂山に関所を置いた。難波に羅城を築いた。

 (52)天武天皇十二年(六八三)都城・宮室は一ヶ所だけではなく、二〜三ヶ所あるべき。難波に都を造る。百寮の者はそれぞれ難波で家地を賜るように願えと命令が出た。

 (53)朱鳥元年(六八六)正月 難波大藏省から失火、宮室全焼、兵庫職のみ焼け残る。

 前期の難波宮は焼失。構造は南から朱雀門、朝堂院、内裏と一直線上に並んでいた。建築物は掘建柱形式で、屋根は板葺きであった。内裏南面門の東西を八角形の楼閣でかざるり、大陸の式の宮殿建築思想が入っていると言う。また宮殿の東端付近で大規模な門を構えた楼閣風の建物跡が発見された。皇族達が生駒山に輝く夕陽、河内湖に写る月影、難波津を行き通う船の舳先の篝火、これらを眺めながらの宴会も行われた。飛鳥とはスケールの違う宮であったようだ。

 (54)持統六年(六九二)四月 親王以下すべての有位の官人に難波大藏の鍬を賜う。

 (55)文武三年(六九九)正月 難波宮に行幸、翌月藤原宮に還る。

 (56)文武天皇:慶雲三年(七〇六)九月 難波に行幸。翌年六月崩御。

 (57)元明天皇:和銅三年(七一〇)始めて都を平城に遷す。難波宮より奈良京に移御。(『扶桑略記』

 (58)元正天皇:霊亀元年(七一五)即位。養老元年(七一七)二月 難波宮に行幸。続いて和泉宮。

 (59)聖武天皇:神亀元年(七二四)即位。神亀二年(七二五)冬十月 天皇は難波宮に行幸。

 (60)聖武天皇:神亀三年(七二六)十月 藤原朝臣宇合を知造難波宮事とする。後期難波宮の造営開始。

 (61)聖武天皇:天平四年(七三二)九月 石川朝臣枚夫を造難波宮長官とする。後期難波宮の完成。

 (62)聖武天皇:天平十六年(七四四)二月 都を難波宮と定める。

 (63)聖武天皇:天平十七年(七四五)八月 難波宮に行幸。九月 朕ははこの頃病気がち。

 (64)太上天皇(聖武):天平勝宝八歳(七五六)難波の堀江のほとりに行幸。夏四月 太上天皇のお体が不調。五月 崩御。

 (65)孝謙天皇:天平勝宝二年(七五〇)正月 大郡宮に帰る。

 (66)孝謙天皇:天平勝宝八歳(七五六)二月 難波に行幸。

 (67)延暦七年(七八八) 和氣朝臣清麻呂、河内国と攝津國之堺に川を掘り、荒陵の南から海へ通そうとするもならず。

 (68)延暦七年(七八八)九月 水陸に便のある長岡京に都を遷す。難波京の建物は移された。

 前期難波宮の焼失から半世紀、再び宮が造営された。前期宮と殆ど重なった配置。

 天皇の即位二年目に難波に行幸するケースが目立って来ます。大嘗祭の翌年。どうやらこれは八十島祭との祭祀と関係がありそうです。

 欽明天皇元年に難波の祝津に行幸の記事があり、それも祝津としているのは、八十島祭の原型のようなことが行われた可能性があります。6世紀始め頃のことです。

 文武天皇、聖武天皇、太上天皇(聖武)は体調が悪いと難波に行幸しています。天平十七年の時には回復しているのですが、天平勝宝八歳の時にはなくなっています。ここにも八十島祭の姿が見えます。

[2740] Re[2738][2737]: ご無沙汰しております!&御案内(*^0^*)  神奈備 2007/02/15(Thu) 20:02 [Reply]
> 確かに、法円坂付近の宮跡は難波宮跡でしょうか、これを難波「長柄豊崎」宮と言う説得力のある説明には出くわしていません 。

難波長柄豊崎宮の神奈備流解釈。

長柄は住吉大神が鎮座する長峽と同じく、上町台地を言うのだろう。
豊崎は御崎の意。
難波の上町台地の御崎の宮。

[2741] 長柄橋と八十嶋祭り  MADOKA [Url] 2007/02/16(Fri) 05:03 [Reply]
神奈備さん
>孝徳天皇を祀る神社が他にありました。
兵庫県伊丹市御願塚4-10-11 南之神社

これは知りませんでした!
で。?なんでここに 孝徳天皇が祭られているのでしょうか? 近つ飛鳥の孝徳天皇稜もげせませんが 本来なら上町台地に御稜があってしかるべきかと。。上町台地の難波の宮の付近に天皇を祭る神社が多いのは全国的にみて大阪の特徴だと 大阪城博物館の北川さんもおっしゃてましたが。。もともとこのあたりに古墳がかなりあったと私が思う根拠でもありますが。。。置き去りがいやだったんで、奈良に帰りたかった?なら平城京の側であるはず。。

>戸田繁次氏著 戸田次郎氏蔵 稿本 長柄郷土誌

これは非常に有難かったです謝謝(^^)
実は私の古代史の入り口は小学生の時、難波の宮遺構の発掘の新聞記事を片手に発掘現場を一人で訪ねていったことに始まり。後年長柄地区が本来の天皇祭祀場所ではないか!と凄く執着して調査したことがあるんで思い入れが強いんです。

>豊崎は御崎の意。
難波の上町台地の御崎の宮。

私は大阪のシュリーマンと呼ばれた 山根徳太郎氏を私は尊敬していましたが、長柄説が消えた功罪はおおきかったと思う。

私は政治は現難波の宮 祭祀は豊崎神社の板葺きの宮だったと思う!!!

この根拠に一番関わりがあるのが 長柄橋伝説!
なんでかというと 一つに長柄橋のところで、昭和30年代?ぐらい?に銅鐸と家型はにわの発掘例がある
銅鐸はボストン美術館蔵

もう一つは日本一有名な人柱伝説
橋にこだわって調査中ですが。。橋は古代において非常に呪術的意味が強い!&天皇が橋を架けるということはそれを制する力があることを示す行為でもあるということ

長柄橋が暴れ川の淀川の力で橋桁だけになった期間は長い。。。ところがそれが長く難波の名所として。貴族がたびたび長柄橋跡を訪ねて たびたび歌を詠んでいる。これが非常に不思議なんだなあ。。これは呪的意味あいの強い橋跡で呪的意味あいで歌を詠んでいるという解釈が一番妥当と思われる。
それが日本一有名な人柱伝説として語り継がれた?

今回 改めて
豊崎神社(淀川大橋と長柄橋の間に位置する) 
長柄橋位置を確認したところ重要な発見が!(*0*)

現在 発掘調査例として八十嶋祭り遺構としての最有力候補 南吹田5丁目の五反島遺跡との関係です!

五反島遺跡が八十島祭りの遺構として最有力な根拠は 天皇の祭祀において最も最高位の人型 金銀の人型の発掘と竃の発掘です!
水野さんの講演で知ったのですが、天皇にとって竃は非常に重要なものだったらしい。天皇は自ら食べるためのご飯を炊く竃と 祭祀する神に供える御飯を炊く竃と天皇の切った御髪を入れる竃と天皇の切った爪を入れる竃 最低4つは持っているとのこと。髪と爪は何故?? 天皇の髪と爪は分身!御神体の一部ってことよ!! 有名な井上親王の天皇呪そ事件っていうのはこの天皇の竃から髪と爪を持ち出して呪そしたらしい!!いまでもオカルトサイトの恋愛奪還グッズに相手をイメージした人型のクッションに相手の髪の毛を入れて呪そするグッズがあるのよねえ!つまりそれほどかようにそれを保存する竃というのは天皇にとってもっとも身近で重要な祭具ということです!で竃のミニチュアの発掘例は他にもあるらしいですが 五反島遺跡は実物が発掘された!これは天皇にとって一世一代の祭りであったことを意味するのではないかということで 八十嶋祭り遺構の比定地に!!

で今回 五反田島遺跡の場所を探してビックリ!!
なんと!!東淀川区西淀川区の大きな島を挟んで神崎川の向かいに五反田島遺跡がある!!
それは豊崎神社 現長柄橋 の場所はその方向を指示しているとしか思えない場所であったということです!!!

大発見!!(*^0^*)

MADOKA説
政治は現難波の宮 祭祀は豊崎神社の板葺きの宮!
難波の宮の祭祀場所板葺きの宮は八十嶋祭りに関連する!! どないだ(^0^)

[2742] Re[2741]: 長柄橋と八十嶋祭り  神奈備 2007/02/16(Fri) 14:49 [Reply]
>> 兵庫県伊丹市御願塚4-10-11 南之神社
> これは知りませんでした!で。?なんでここに 孝徳天皇が祭られているのでしょうか?

この神社の由緒は未だ調べていません。その内に。


> 政治は現難波の宮 祭祀は豊崎神社の板葺きの宮!

 難波の宮との間に難波堀江がある川向こうの豊崎神社は、天満砂堆の上に鎮座しています。現在の標高は2m。恒久的な宮を造る場所ではなかったでしょう。湿地帯、波打ち際、蓮根畑、ムツゴロウの跋扈する場所のイメージは鶴橋付近と同じですね。


> 五反島遺跡が八十島祭りの遺構として最有力
 これは面白い遺跡です。『延喜式』の八十島の神祭の準備すべき物品は金銀人像、鏡、玉など後に残るものも多く、それらの一部でも出土すれば楽しいですね。準備すべき物品には竃は入っていないのが残念。


ついでに大阪市内の現在の標高を。カシミールから。

法円坂  27m  難波宮
四天王寺  9m
豊崎神社  2m
御津八幡  7m  港
五反田遺跡 3m  水辺の祭祀跡
産湯稲荷  9m
JR鶴橋駅 2m
森ノ宮駅  2m
 

[2743] 難波八十嶋はココ!  MADOKA [Url] 2007/02/17(Sat) 02:08 [Reply]
神奈備さん
>難波の宮との間に難波堀江がある川向こうの豊崎神社は、天満砂堆の上に鎮座しています。現在の標高は2m。恒久的な宮を造る場所ではなかったでしょう。湿地帯、波打ち際、蓮根畑、ムツゴロウの跋扈する場所のイメージは鶴橋付近と同じですね。

とーぜん!(^0^)だから祭祀の場所なんですよ!
祭祀にとって重要な場所に恒久的に人が住むのは無礼では!だってそうじゃないですかー神奈備山も大事な祭祀場所は対外禁足地!水辺の大事な祭祀場所も同じじゃないでかね?!神が降りる仮宮が本来でしょうがーー!!現在の神殿つくりは仏教の寺に対抗するために発展した経緯がある。奈良の春日の古地図でも大仏殿は書かれていても春日はあの広大な敷地に部分的場所に神地と書かれただけで神殿が描かれていない。。結構神殿は新しい形式。
出雲大社も昔は湿地滞 水際の湿地滞は神が降臨するという考えは古代人ははっきりもっていたとおもいます!イワクラ祭祀のように。。
で。今回の豊崎神社 長柄 と五反田島遺跡にはさまれた淀川と神崎川の間の西淀川区 淀川区 東淀川区の神崎川と淀川に挟まれた中州地帯はいまでも御弊島 加島 姫島 歌島他今でも島の名前が多い地区。(前に書いたことがありますが)つまり
神奈備さんの嫌いな!(=0=)
神奈備さんが絶対認めない!(±0±)
私の好きな 神功皇后&あかる姫伝説がある地区
&この地に大隅宮跡 
&有名な 江口 神崎の遊女伝説がある。江口、神崎の遊女は仏教に先祖供養をうばわらた時代 みこさんが大量リストラ??にあい 遊女に落ちぶれた?主に住吉のみこさんだったらしいという話もある。
住吉といえば八十嶋まつりの関係の深い神
で。たびたびいいますが ココこそが難波八十嶋です!
五反田島遺跡&豊崎板葺きの宮&長柄橋伝説はそれを表しているとおもいますね!

鏡も出土しています!!
『水にうつる願い』ーより
「五反島遺跡(吹田市)出土銅鏡」(市指定有形文化財)[写真3]. (ごたんじまいせき しゅつどどうきょう). 平安時代のはじめ、天皇が即位した次の年に行う八十島祭に使われた鏡。 ...

私としては 姫島を問題にしたときも 神奈備さんと同じ理由で 有名な0メートル地帯なんで無視されましたが、今回のことで確信(*^0^*)

ココ以外で 難波津で淀川沿いで島の名前がたくさんある地区は無いと思いますね 住吉信仰関わりからいっても! 八十嶋祭りの北祭は佃島の田蓑神社という記録もあるのですから

淀川河口を特定することはむつかしいですが 
大川は旧淀川ですが相当河口は動いている 大川だけで八十嶋祭りの祭祀場所を限定するのはむりだと思います もう少し大きい範囲で考えナイと
神崎川も掘られてますが 本来このあたりにも何度か河口が動いたことがあって掘りやすかったのだとおもいます。その証拠というか ここが源平時代の淀川河口の港(大物の浦)であったのが機能しなくなったのは土砂で埋まっていったからです。もともと 川の土砂で埋まった土地とかんがえられる。

まっ私としては満足(^^)
風呂屋取材をかねてまたこの地を洗ってみます!
皆さんも 地域取材には風呂セット持参をお勧め!
なぜか?
歴史のフィールドワークに
地域の古老の話は欠かせません!
調査地域の銭湯はその地域の古老のたまり場!
ごっそりいるんだわ!! 地域取材には風呂屋!
私がせっせっと巡っている原因でもあーーる^^

[2744] 続 浪花の鯉の物語6    神奈備 2007/02/17(Sat) 09:23 [Reply]
 難波の東生郡と古社
 東生郡 郷 古市、郡家、酒人、味原、余戸
 大阪市内の谷町筋の東側の地域で、上町台地の頂上より若干西から東側となります。
 @難波坐生國咲國魂神社二座、A比賣許曾神社、B阿遲速雄神社
 @は難波大社とも呼ばれ、現在の略称は生國魂神社と言い、元々は上町台地の北東端付近(大阪城付近)に鎮座していました。大坂城築造時に四天王寺の北側に遷座しています。祭神は生島神・咲国神で、宮中の神祇官西院に祭られる二十三座の神のうちの生島巫の祭る生島神・足島神と同じ神であったと考えられています。『古語拾遺』では生島の神は大八州之霊です。八十島祭りでは住吉大社より大きな役割を持っていたようです。

 現に『住吉大社神代記』には八十島祭のことは記載されていません。

 『摂津国風土記逸文』八十島  堀江の東に沢がある。広さは三・四町ばかりで、名を八十島と言う。(以下略)

 この堀江とは難波堀江のこと、上町台地の東側に広がる河内湖に点々と浮かんでいる島々を八十島と呼んだことが判ります。
 東生郡に鎮座している生國魂神社は河内湖での島々を生み出す神秘な力を神と見て祀ったのでしょう。初期の八十島祭りはそのような力を首長のものとする呪術的な祭儀だったものと思われます。

 Aの比賣許曾神社は東成区東小橋に鎮座、現在でも韓国人朝鮮系人が多く住んでいる地域になります。この神自身も新羅の国から来た女神とされ、渡来人が祭った神とされていますが、近世に創建されたと『大阪市史』は見ています。高津神社の摂社が式内社だったのでしょう。

 Bの阿遲速雄神社は葛城鴨族の味鋤高彦根命神の御子神とされる阿須伎速雄神を八十島の地主神として祭っているようです。当地は河内湖の淵の高台であり、河内湖には大和葛城からの水が流れ込むわけで、神霊が流れ着いたような伝承があったのかも知れません。すなわち、鴨族の淀川付近への移動。

 東生郡に拠点を持っていた氏族では、『播磨国風土記』に面白い話が載っています。景行天皇が摂津の国の高瀬の済(渡し場)に来て、河を渡ろうとした時、紀伊国生まれの渡し主の小玉は「私は天皇の召使いではないと渡し賃を要求し」、弟縵をせしめているお話です。紀氏の一族が河川をおさえていたと見ることができます。

 物部大連守屋の館が難波にあり、捕鳥部萬がこれを守ったと『崇峻天皇即位前紀用明天皇二年』に記載されています。物部氏は大阪城の場所に磐船神社を祀っていたとの伝承もあり、上町台地の北に勢力を持っていたと見ていいのでしょう。

 難波と言えば渡来系の難波吉士の集団が住み着き、外交や屯倉の管理をしていたとされます。


[2745] 続 浪花の鯉の物語 7    神奈備 2007/02/18(Sun) 08:27 [Reply]
 難波の西生郡と古社
 西生郡 長溝、安良、伏見、槻本、宅美、讃楊、雄伴、三野、津守、郡家、駅家、余戸

 上町台地谷町筋の西側や天満砂堆、難波砂堆など

 坐摩神社 当社は大坂城建築時、天満橋南詰辺から現在地に遷座しています。水と宮殿の安寧を守る神のようです。式内社はこの神社一座、これは東生郡や住吉郡と比べても地域として新しいゆえの歴史の浅さにその因がありそうです。

 宮中の神祇官西院に祭られる二十三神を祀る巫四人の中の一人に坐摩巫がいます。当地に住む都下国造の童女で七歳以上のものが任じられます。都下とは『仁徳紀』に出てくる菟我野のことで難波堀江の北側の地です。北区兎我野町。
 八十島祭には関わっていないようです。『古語拾遺』では座摩の神は大宮地之霊です。

 吉士集団に加えて、三宅連氏が住み、やはり屯倉を管理していたのでしょう。渡来系。
 一方、難波津を中心とする海運には安曇連が活躍したものと思われます。北区野崎町に小字でアドエがあり、安曇寺もあったようです。都下の東隣。 


[2746] 続 浪花の鯉の物語 8  神奈備 2007/02/18(Sun) 20:53 [Reply]
難波の住吉郡と古社
 住吉郡 住道・大羅・杭全・榎津・余戸

 式内社は十五社を数えます。
 @住吉坐神社四座、A大依羅神社四座、B草津大歳神社、C中臣須牟地神社、D神須牟地神社、E楯原神社、F須牟地曾祢神社、G止杼侶支比賣命神、H赤留比賣命神社、I天水分豊浦命神社、J努能太比賣命神、K大海神社二座、L多米神社、M船玉神社、N生根神社
 式内社が多いのは、上町台地の付け根にあたり、比較的平坦な台地が広がっており、五世紀には開発が進んだ地域で、また住吉津や榎津などの港を含み、また河内中央部を東西に結び、大和への交通の便も良かったことによるものと思われます。

 津守氏は西生郡の南部から住吉郡の中央部に分布している中心氏族です。住吉大社を祭るとともに、大海神社を氏神としていました。依羅屯倉に関係する氏族です。依羅には他に諸氏族の公倉(おおやけ)もあったようです。Fの牟地曾祢神社を祀った氏族は物部系の住跡物部と見なされています。渡来系では田辺史、式外社で田辺西ノ神、東ノ神が鎮座していました。

 難波地域には郡としては百済郡がありましたが、式内社はなく、郡も消滅しています。百済王氏一族が居住していたのですが、洪水など多く、交野に移住していったようです。

[2747] 上町台地北端〜周辺の低地古代遺跡  いこまかんなび [Url] 2007/02/18(Sun) 21:52 [Reply]
こんばんわ、
海抜2m付近の低い所でも、地下5mくらいの所から古墳時代〜鎌倉時代の遺跡がでるところもあります。地盤沈下や当時の海面の高さや潮の干満などを考えることも必要なようですが、新淀川周辺や上町台地周辺の砂堆一帯には、驚くような遺跡がまだまだいっぱいあるかも知れません。
ビル街の建設現場では、何か出てきても、わからないままの所も多いでしょう。興味ある遺跡を少し拾ってみました。

(1) 豊崎神社境内遺跡 北区豊崎6丁目 
1983年5月、標高2.5m前後の境内下約1mから古墳時代前期の土師器甕・壷(タタキ目を持つものあり)が出土

(2) 遺跡名未確認、1988年11月 御堂筋と堺筋の間、中央区平野町3丁目の地表下2m、TP+0mから弥生末期甕・鉢、9世紀の土師器・須恵器・無釉陶器・緑釉陶器・隆平永宝1などが出土

(3) 高麗橋遺跡? 中央区高麗橋1丁目、現地表下3.5m下の砂層より出土、5〜6世紀の土器に混じって韓式系土器(甕・平底鉢)が出土

(4) 山口遺跡 1927年、東淀川区崇禅寺の伝中島惣社近くの下水工事で地下2mから、弥生時代末期〜古墳時代前期、大型壷形土器、弥生時代の竪穴式住居跡・古墳時代前期の大溝、平安時代の遺構・遺物が出土、弥生土器は在地産のほか、近江系・東海系・吉備系・山陰系の甕を含む。庄内期の土坑から鉄製の素環頭太刀、埴輪(5世紀末)が出土した。

(5) 五反島遺跡 吹田市南吹田5丁目
南吹田下水処理場の建設に伴い昭和42年6月発見、弥生時代〜鎌倉時代、地下5〜6mで出土、旧神崎川の河床、8,500・の発掘、
朝鮮半島製の陶質土器・軟質土器・須恵器・土師器(圧倒的に布留式土器、瀬戸内・東海の土器含む)、鉄劒、平安時代の堤防遺構・歴史時代の須恵器は播磨系が多い、平安時代の土師器は日常容器の他、大型の竈が目立つ、「栗家」・「田中」・「龍」・「西」・「大月(明)」などの墨書がある緑釉陶器・舶載磁器も含む、鉄製刃先を装着した農具や武器・馬具、平安時代の鉄鏃・馬具・鎌・刀子・古墳時代の鋤先、白銅鏡(瑞花双鳳双麟鏡)なども出土。
住居跡は確認されていませんが、河岸に5世紀を中心とした集落が存在したようです。
また平安時代の多量の土器や金属製品・鏡など「河道に投棄されたように出土したこれら特殊な遺物は、ほとんどが神祗祭祀の祭料に関係する資料と考えられています。」つまり「八十嶋祭の関連資料とする考え方が有力です」と見ているようです。但し、このような祭祀遺跡は他にも発見されるかも知れませんが。
参考 わが町吹田市の文化財
http://inoues.net/osaka/suita_gotanda.html?

[2748] Re[2747]: 上町台地北端〜周辺の低地古代遺跡  神奈備 2007/02/19(Mon) 17:14 [Reply]
> 海抜2m付近の低い所でも、地下5mくらいの所から古墳時代〜鎌倉時代の遺跡がでるところもあります。

いこまかんなびさん、貴重な情報ありがとうございます。
八十島祭は「浪花の古代史研究会」の発足以来の大きいテーマだそうで、その姿に一歩一歩近づいていきたいと思っています。第四日曜日夕刻です。お時間ができましたら是非ご参加下さい。

> 五反島遺跡
> 「河道に投棄されたように出土したこれら特殊な遺物は、ほとんどが神祗祭祀の祭料に関係する資料と考えられています。」つまり「八十嶋祭の関連資料とする考え方が有力です」

長暦元年(1037)の八十島祭は住吉の神人たちが暴力をもって祭場を熊河尻から住吉代家浜に移す事件があってから海を西にした祭場の配置となったと『古代祭祀の史的研究』で岡田精司氏は述べています。

熊河尻は淀川河口だそうで、古い鎮座を自称する住吉神社が幾つか鎮座しているようです。

八十島祭の場所は転々と移動しているのかも知れません。
当初は東の河内湖の島々を大八島之霊とした。難波の生国魂神社が舞台か?
続いて、淀川河口付近の島々とした時代が来る。この頃が五反島付近。
更に尼崎との境界付近の島々。住吉神社が幾つか鎮座。
次ぎに難波砂堆へと移動。御霊神社とか。
住吉の神人がのしてくるようになった。

 八十島祭について記載のない『住吉大社神代記』ですが、これは住吉大神の由緒を記載する文献であって、住吉神が何をしたとか、御利益について述べたものではないので、あたりまえのことでしょうが、その中に住吉神の子神として、座摩神、生国魂神、田蓑島神、開速口姫神、長柄神(不明:難波か?)などが出てきます。これらは八十島祭に関わった神々の一部です。住吉の神人が暴力を振るう根拠となっているのかも知れません。

[2749] Re:[2747]・[2748] 上町台地北端〜周辺の低地古代遺跡  いこまかんなび [Url] 2007/02/19(Mon) 22:04 [Reply]
>八十島祭の場所は転々と移動しているのかも知れません。

古地理的感覚の発想なんですが、>>祭祀場所の移動>>、そうかもしれませんね。
日下江の入口〜旧淀川・三国川などの河口に近い所では、流路が大きく変わったり、河筋に囲まれた多くの島々や洲も形が変わったり消滅することも多かったかも知れませんし。
さらに妄想を加えれば、清浄なる海水の流入する入江〜河口、それに何故か上町台地の突端、それと東方の生駒山の上から昇る太陽の光りと力を受けることができるという地理的な位置関係などが必須条件だった???のかも知れません。
八十嶋祭は、国をおさめる天皇となるためには必用な、心身を浄め祓い神のように絶大なパワーを得るための神事だったのでしょうか。河底の土器などは体内の穢れを詰めて流したものなのかも知れません?。

>> 海抜2m付近の低い所でも、地下5mくらいの所から古墳時代〜鎌倉時代の遺跡がでるところもあります。

自分ながら、この海抜は低過ぎますわ。海抜3m以上はありますかね。青草。

[2750] Re[2749]:[2747]・[2748] 上町台地北端〜周辺の低地古代遺跡  神奈備 2007/02/20(Tue) 18:10 [Reply]
>八十嶋祭は、国をおさめる天皇となるためには必用な、心身を浄め祓い神のように絶大なパワーを得るための神事だったのでしょうか。河底の土器などは体内の穢れを詰めて流したものなのかも知れません?。


 禊ぎと言えば住吉の神ですが、住吉の神はは八十島祭の祭神ではないようです。
 生魂神社の祭神である大八島之霊が八十島祭の祭神で、天皇の衣類を水端で振るのは、所謂鎮魂と言うのか、大八島之霊を天皇の身につける呪術的儀礼と考えられます。統治の正当性の保証と言うよりは、おっしゃるようにパワーでしょうね。

 尚、岡田精司氏によれば、禊ぎ・祓いは祭の準備過程で行われるものであり、神道では禊ぎ・祓いの儀式を祭と呼ぶことはないそうです。

[2751] 続 浪花の鯉の物語 9 終  神奈備 2007/02/21(Wed) 20:10 [Reply]
 八十島祭は文徳天皇の即位に伴う嘉祥三年(八五〇)が文献上で初見で、鎌倉時代の後白河天皇の元仁元年(一二二四)を最後に廃しされています。
 平安時代の形態は、女官が祭使となり、御衣を納めた筥を奉持して御巫らを従え、船で難波津に下向して祭るものであった。祭使は御衣の筥を開き、琴の音に合わせて海に向かって御衣を振る儀礼であった。
 この祭儀が古い起源を持つものと考えられている理由いくつかあります。
 巫女や女官を中心とした祭儀。
 文武天皇から光仁天皇までの奈良時代には八代七人の天皇のうち六人が大嘗祭の翌年に難波に行幸。
 『文徳天皇実録』に「向摂津祭八十島」とあり、八十島を対象とする祭儀。

 新たに即位した天皇が難波の海に臨み、大八州之霊を身につける即位儀礼の一環。

 6世紀初頭、欽明天皇元年に難波の祝津に行幸していますが、祝津との表現が祭儀との関わりをしめしており、この時代にある程度の儀礼となって来たのかも知れません。難波祝津については尼崎の難波に鎮座する熊野神社の境内に祝津宮跡と刻印した大きい石が置かれていて、いかにも「ここだ!」と主張しているようです。環・難波津研究会(庭田まどか代表)の圧力で最近できたのかも。昭和5年にはその石はなかった。ただ、「環・難波津」とはいいネーミングであり、大阪湾の半円形を北東に押し込んだ場所に想定される環が難波津での八十島祭の祝津の場所の移動の軌跡と見ることができそうだ。

 東の河内湖の島々を大八島之霊としたのだから、難波の生国魂神社が舞台だったと思われます。
 河内湖が徐々に浅くなり、美しい雰囲気を失ったので、淀川河口付近の島々から大八島之霊を呼び寄せた時代が来るのです。この頃が五反島付近。
 更に尼崎やここと大阪市との境界付近の島々。住吉神社などが幾つか鎮座。
 次ぎに難波砂堆へと移動。御霊神社とか。このあたりまで来ると住吉の神人がのしてくるようになった。
 このような環の動きは考えられます。

 話を戻します。さて八十島祭は何故難波の海であったのか、ですが、『摂津国風土記逸文』に八十島として、「堀江の東に沢がある。」と出てきます。河内湖が徐々に埋まって来て国土が生成されてくるのが大八島之霊の仕業と見たのでしょう。5世紀には八十島祭の萌芽があったと考えて不自然ではないようです。まさに河内王権の時代となります。生駒山から登る太陽が河内湖の島々と湖面をキラキラと照らす、太陽信仰としての海の彼方から来る太陽神を身につける儀式があったのかも知れません。
 その後、河内湖が大きく埋まってしまい、東の湖面が輝く様を見ることができなくなって、今度は西をむいての夕陽信仰に切り替わったと思われます。四天王寺西門の夕陽など。そのことが難波の西の淡路島を中心とした国生み神話が形成されていった由縁と考えることができます。



神奈備にようこそ