難波の祈り

[9210] 浪花の祈り  堂島薬師堂
 関西最大の面積と言われる本屋のジュンク堂が入っている堂島アバンサの北東側に宇宙基地とも見える金属製の丸い建造物があります。堂島薬師堂と言います。

 由緒 西暦593年、推古朝の頃の史料に「東は玉造に四天王寺をつくり、西の方洲の中に御堂を建立」の記録があると言います。

 延宝三年(1675年)の『芦船別』と言う文書に、「聖徳太子が四天王寺創建時に、建築用材の運搬船が暴風雨で難破、洲の中に流れ着き、お堂を建てた。」との記述があり、これが薬師堂の起源と言われています。

 海上を航行する船からこのお堂がよく見えたところから、薬師堂のあるこの島が「堂島」の地名になったとも言われています。

 お堂には、薬師如来像・地蔵菩薩像・弘法大師像など仏像四体などが祀られています。薬師如来像は室町時代の作、弘法大師像はもっと古いそうです。

 薬師堂の隣には女神である「水かけ弁天さま」が祀られています。水の都大阪と近辺の水商売の守護神と言えるでしょう。

コメント
  593年と言えば推古元年で、『日本書紀』では、「この歳、始めて四天王寺を荒陵に造る。」とあり、上記の記事は『紀』とは幾分違っていますが、当初は玉造に造られたとしているのは興味深い所です。平安初期の『暦録』に玉造創建・荒陵移転説が記載され、後に定説と成りつつありましたが、実際の創建は推古元年荒陵とする考え方が有力に成っているようです。
 
 小生も移転したのかもと思っていましたが、玉造は聖地として場所であり、わざわざ移転する理由が見られないこともあります。

 堂島薬師堂と弁天さまは画像掲示板に載せました。

[9211] Re[9210]: 浪花の祈り  堂島薬師堂  佐々木 2008/07/31(Thu) 00:22 [Reply]
万葉集に出ていないかと思い調べてみました。
 薬師には「菅の獅子舞」や「菅王子」などの「菅」がキーワードと象徴されると思いまして紹介致します。
 2819問答歌 
おしてる難波菅笠置き古し後は誰が着む笠ならなくに
 0619大伴坂上郎女怨恨歌一首 
 おしてる 難波の菅の ねもころに 君が聞こして 年深く 長くし言へば まそ鏡
磨ぎし心を ゆるしてし その日の極み 波の共 靡く玉藻の かにかくに 心は持たず
大船の 頼める時に ちはやぶる 神か離くらむ うつせみの 人か障ふらむ 通はしし
君も来まさず 玉梓の 使も見えず なりぬれば いたもすべなみ ぬばたまの
夜はすがらに 赤らひく 日も暮るるまで 嘆けども 験をなみ 思へども
たづきを知らに たわや女と 言はくもしるく たわらはの 音のみ泣きつつ た廻り
君が使を 待ちやかねてむ
 
 当時どんな建築物だったのか少し興味のあるところです。

[9212] Re[9211][9210]: 浪花の祈り  堂島薬師堂  神奈備 2008/07/31(Thu) 09:46 [Reply]
> 万葉集に出ていないかと思い調べてみました。
>  薬師には「菅の獅子舞」や「菅王子」などの「菅」がキーワードと象徴されると思いまして紹介致します。

 
 佐々木さん、「笠」のヒント、ありがとうございます。

 難波の菅笠で有名なのが深江稲荷神社境内の笠縫神社。この付近の湿地帯で菅が採取できたのでしょう。菅笠は古くは専ら貴顕の用に供されたようですが、後世には一般人の伊勢参宮などに携帯されたようです。
 万葉集で菅を歌ったのは男女の愛を歌ったものが多そうです。菅の根が長いことは人の寿命の長さ、恋の長かれと祈る呪力があったのでしょう。なるほど、薬師に繋がりますね。

 四天王寺の玉造説否定の補強ですが、物部氏は概して平地好きの氏族のように思えます。例えば河内の拠点の八尾、大和の天理史付近など。また、5の倍数好きで、北方の騎馬民族の流れを汲んでおり、草原にいた民で、また騎馬を得意とするなら平地が戦いやすいとの思惑があったのでしょう。

 玉造は丘になっています。そこより現四天王寺の場所の方が平地で、物部の難波の邸宅に相応しい立地に見えます。

[9213] Re[9212][9211][9210]: 浪花の祈り  堂島薬師堂  佐々木 2008/07/31(Thu) 20:23 [Reply]
 神奈備さん 小生の補足の補足まで、痛み入ります。

> 四天王寺の玉造説否定の補強ですが、物部氏は概して平地好きの氏族のように思えます。例えば河内の拠点の八尾、大和の天理史付近など。また、5の倍数好きで、北方の騎馬民族の流れを汲んでおり、草原にいた民で、また騎馬を得意とするなら平地が戦いやすいとの思惑があったのでしょう。

 物部の5の倍数好きは、かなり前に聞き覚えはありますが、何のことでしたか。
 物部氏の分布をみると、平坦で豊富な水がある、比較的四方見通しがよいところに居るようですが、孫子の兵法をわきまえていたように思えます。

[9214] Re[9213][9212][9211][9210]: 浪花の祈り  堂島薬師堂  神奈備 2008/08/01(Fri) 08:20 [Reply]
>  物部の5の倍数好きは、かなり前に聞き覚えはありますが、何のことでしたか。
>  物部氏の分布をみると、平坦で豊富な水がある、比較的四方見通しがよいところに居るようですが、孫子の兵法をわきまえていたように思えます。


『旧事本紀』から

防衛として天降り供へ奉る。
天香語山命など32柱がお供したとありますが、瓊瓊杵尊の五伴緒と瓊瓊杵尊降臨時活動の思兼神の子の二神は、饒速日尊にお供は疑問。32神−7神=25神。

五部人を副へ従と為して天降り供へ奉る。
笠縫部等の祖など

五部造、伴領と為て天物部を率て天降り供へ奉る。
二田造など

天物部等、二十五部人、同じく兵仗を泰びて天降り供へ奉る。
二田物部など


扶余族も5を単位とするそうです。

[9215] 浪花の祈り 神明宮  神奈備 2008/08/01(Fri) 20:59 [Reply]
 浪花には朝日・日中・夕日を冠にする神明宮がありました。浪速三神明です。現在も姿を変え、場所を変えて鎮座しています。

 朝日神明宮は熊野古道の坂口王子社(中央区神崎町)の対角にある南大江公園に鎮座していましたが、後に此花区春日出中に遷座しました。

 日中神明宮は朝日神明宮の元地の北側に鎮座しており、現在は古い埋め立て地である鶴町の中央公園に遷座しています。新開地に由緒のある神社を遷す、いいやり方だと思います。

 夕日神明宮は西天満神明宮とも難波神明宮とも呼ばれました。現在は露天神社内に小祠が西を向いて鎮座しています。

 この夕日神明宮は、日本七神明の一とされています。露天神の由緒から日本七神明をリストアップ。

東京芝神明宮 東京都港区の芝大神宮
京都松原神明宮 下京区の五条通りの朝日神明宮
京都東山神明宮 山科区の日向大神宮
加賀金沢神明宮 金沢市野町の神明宮
信濃安曇神明宮 長野県大町市の仁科神明宮
出雲湯殿山神明宮 鶴岡市神明の伊勢両宮 or 山形市錦町の神明神社・・? 出雲は何だ!?
夕日神明宮

 この七神明の選択基準は頼りないことですがよくわかりません。仁科神明宮は神宮に習って20年遷宮を仁科氏が滅びる戦国時代まで行っていたようです。

[9225] 浪花の祈り 天(あま)の探女(さぐめ)  神奈備 2008/08/05(Tue) 16:49 [Reply]
 アマノジャクのルーツの女神。

 万葉集 巻三 二九二
 録兄麻呂(ろくのえまろ)が歌四首(よつ)  近江朝の人
 久方の天(あま)の探女(さぐめ)が岩船の泊てし高津は浅(あ)せにけるかも

 遠い天上からやって来た探女の石船が着いたという高津は浅瀬になってしまった。

 奈良時代末には難波堀江も土砂で浅くなってしまい、遣唐使船が座礁したと云います。


 『続歌林良材集』津の国の風土記にいう
 難波の高津は天稚彦が天くだった時、天稚彦についてくだった神、天(あま)の探女(さぐめ)が、磐船に乗ってここまで来た。天の磐船が泊まったというわけで、高津というのだ、と。云々。

 先の石船や磐船は、神の乗り物である船を云うのであって、石で出来た船と云う意味ではありません。要は、海上を航行して来たのです。

『続歌林良材集』は17世紀央の書物であり、上記引用は古代の風土記の逸文とするには疑問があると、『大阪市史』では述べています。

 
 『古事記』では天若日子、『日本書紀』では、天稚彦とされる神で、国譲りを促すべく、高天原から大国主のもとに差し向けられたおそらくは美男の神がいます。
 天(あま)の探女は、天若日子に付き添って共に浪花にやって来た侍女・乳母・スパイのような役割の女神だったのでしょう。
 『日本書紀』では、何故か、天の探女を国神としています。

 国譲りの推進役のはずの天若日子はいっこうに復命もせず、天上から雉子名鳴女なる鳥神を様子を見に派遣、この時に、天の探女は天若日子をそそのかして鳥神を矢で射殺します。おかげで、天上の高御産巣日神がその矢を投げ返して天若日子の胸に命中、天若日子は死んでしまいます。

 天探女命は美濃国武儀郡(岐阜県美濃市)の
 大矢田神社摂社華堂神社(はなどじんじゃ)「下照姫命 櫛名田姫命 天探女命」
 誕生八幡神社「應神天皇 天探女命」
 に祀られています。何故、美濃か、これは後ほど。

浪花の祈り 天の探女と比賣古曽神  神奈備
 天探女命の乗ってきた磐船は現在は土中に埋まってしまっているようです。江戸時代の『摂津名所図絵』には、産湯稲荷(小橋公園)、磐船山、味原池、姫古曽神社などが鳥瞰図的に描かれています。所が現在、磐船旧蹟の石碑は、少し北側に当たる天理教阪府分教会の敷地内に置かれています。

 その『摂津名所図絵』には、磐船こそ、比賣古曽大神の御正躰也、磐舩土中に蔵(かく)れ満しましいる、よって比賣語曽(姫蔵)と言うとあります。ここでは比賣古曽神=天探女としています。さらに、比賣許曽神社の祭神を下照比賣命とし、「大巳貴命の御女にて天稚彦命の妻、味耜高彦根命の妹なり、亦の名稚国玉媛或は天探女とも號す。」としています。 

 天探女に加えて比賣許曽神と下照比賣神とが登場して来ました。摂津国東生郡では、比賣許曽神とは渡来系の赤留比売神であり、鴨氏の下照比売神となっているのが混乱の元なのです。
 
 少し整理をしておきます。
 『古事記』(仁徳記)に、昔のこととして、天の日矛についての記載があります。新羅の国の王子だった天日矛が、日光で懐妊した女が生んだ赤玉を手に入れます。これが美しい乙女に変わり、妻にします。妻がよくつくしてくれるのをいいことに心奢って妻を罵ります。妻は「私は汝の妻になるような(程度の低い)女ではない。吾が祖の国に行く。」と宣言、難波に留まったのです。「比売碁曽の社に坐す阿加留比売と言う神です。」との注が続いています。

 『日本書紀』(垂仁紀)に、よく似た話が載っています。「都怒我阿羅斯等が手に入れた白い玉がきれいな娘になったのですが、ちょっとしたすきに娘はいなくなり、難波に至って比売語曽社の神となった。」とあります。

 記紀からは比売許曽神とは、半島で赤玉や白玉が変じた女神のことで、一つの名は阿加留比売と言うことがわかります。

 所が、平安時代の10世紀初めにまとめられた延喜式神名帳に、摂津国東生郡に比売許曽神社の名が載っています。その延喜式の臨時祭では、比売許曽神社一座亦号下照姫とあるのです。比売許曽神を下照姫とも言うとあるのです。

  それより半世紀早くの貞観元年に摂津国従五位下勳八等下照比女神従四位下としたと出ています。難波生国魂神・下照比女神・坐摩神の順で書かれているのです。この下照比女神は東生か西生と見るべきで、川部郡とは読みにくいところです。平安時代には難波の比売許曽神は下照姫となっています。

 鴨の女神である下照姫が渡来系の阿加留比売であるはずはないのです。阿加留比売は住吉郡の式内社の赤留比売神社に祭られています。比売許曽神社の祭神を阿加留比売命としているのは間違いなのです。
 
 現在の三光神社の地は姫山と言われます。おそらくはこの山に下照姫が祀られていた所、鴨氏の力が衰えて来た5世紀頃に多くの渡来人がやって来て、ここに阿加留比売を逢わせ祀ったことがあり、やがて二神は習合していったというか、下照姫の名が忘れ去られたということがあったのでしょう。

[9230] Re[9229]: 浪花の祈り 天の探女と比賣古曽神  佐々木 2008/08/06(Wed) 17:24 [Reply]
> 天探女命の乗ってきた磐船は現在は土中に埋まってしまっているようです。

 磐座が上町台地に多いので、物理探査の資料を確認してみました。
 少し信じがたいのですが、地形的には上町台地は千里山の島熊山から連続する台地でした。また上町台地で岩盤が露出していてもおかしくはないようです。
 岩を誰が持ってきたのか関心があったのですが、どうもそのあたりに岩盤があったのでは考えるべきなのかもしれません。

[9232] ツヌガアラシトとアメノヒボコ  とみた 2008/08/07(Thu) 11:17 [Reply]
ツヌガアラシトとアメノヒボコは同一人物でしょうか。

ツヌガアラシトは、日本海沿岸を通り、角鹿(敦賀)へ、角の生えた人となっていますが、牛の角か天冠か。

意冨加羅の王子なら、金官伽耶で慶尚南道。金海地方です。

こちらは皇子が牽く牛を村役人にとられて食べられた代償に、白い石をもらってそれが若い女性に変じた。

アメノヒボコは新羅の王子。慶尚北道の出、今の慶州でしょう。

こちらは、沼のほとりで女が、日光に感精して赤い玉を産んだのを牛を牽く男が、見つけて大切に保管していた。王子がその男に出あい、牛殺しと疑われた男は許しを得ようと赤い玉を差し出した。それが若い女性に変じた。王子は瀬戸内海を通り、但馬に着く。

二つの話は似ているようでもあり、似ていないようでもある。若い女性が逃げてきて王子がそれを追ってきたことと、難波のヒメコソ神社は共通。

両方とも牛に関係がある。殺牛儀礼に関係するかも知れません。

一方は越前気比であり、他方は但馬出石である。

日本海には何れにせよ、新羅と深いつながりがある。

越前の九頭竜川の支流の日野川は元の名が、叔羅川(シラキ川)でその源流には、信露貴山(シラキ山)がある。新羅神社や白木神社もあるでしょう。

九頭竜川流域には丸岡や永平寺町の松岡古墳があり、松岡の二本松古墳出土の天冠は大伽耶のものと酷似している。九頭竜川河口部で交易を盛んにした三尾氏などの豪族が栄えその墳墓が丸岡や松岡にあるのでしょう。大伽耶は4世紀末までは意冨伽耶を意味し、5世紀半ばから北西の高霊が栄えてこちらが大伽耶と云われます。大伽耶の天冠には角見たいな枝がある、金銅(金メッキ)冠で二本松の天冠に似ている(これは5世紀後半の墓です)。敦賀に上陸した角のある人と関係があるかも知れません。

因みに、丸岡は継体天皇のお母さんの振媛の里です。

敦賀の越前一宮の気比神社は、元々はツヌガアラシトを祭神としていたのを、律令時代になって文武天皇が702年に、ツヌガアラシトを摂社の角鹿神社に移し、気比神社には、神功皇后と仲哀と応神を祭ることにした。

この動きは文武?が、紀伊の日前や国懸神社を分社したのと似ている神社政策と思いますが如何でしょうか。

ところで、気比神社にはアメノヒボコをどこか摂社にでも祀っていましょうか??

[9235] Re[9232]: ツヌガアラシトとアメノヒボコ  神奈備 2008/08/07(Thu) 15:45 [Reply]
> この動きは文武?が、紀伊の日前や国懸神社を分社したのと似ている神社政策と思いますが如何でしょうか。

 『続日本紀』大宝二年(702)文武天皇の時で、伊太祁曽・大屋津比売・都麻津比売の三社を分ち遷す」とある記事のことを言われているのだと思います。

 地方の有力な神社に対する中央からの干渉、例えば、皇室の祖先神を祭神にとか、神々を分遷して勢力を削ぐとか、色々なことが行われたことでしょう。国造達の独自の力を削ぐ政策の一環だったのかも。

 紀の国では、元々名草郡にあった須佐神社を在田郡に遷したと思われ、かつその御子神達の伊太祁曽神などを分遷させています。


>  少し信じがたいのですが、地形的には上町台地は千里山の島熊山から連続する台地でした。

 ネットで見ていますと、約40万年前〜20万年前は地殻の六甲変動の最盛期で、断層によって、六甲や生駒山地が出来たそうです。千里は地下に深所の花崗岩体の隆起によりでき、この隆起は豊中市島熊山付近を頂点として南の上町台地、和泉の線に行われているようです。
 地下の深い花崗岩が上がってきたということですね。

浪花の祈り 天の探女と御伽草子  神奈備
 天の探女が祀られている神社は浪花にはなく、岐阜県美濃市(美濃国武儀郡)に二社あることは前に紹介しました。
 大矢田神社摂社華堂神社「下照姫命、櫛名田姫命、天探女命」
 誕生八幡神社「應神天皇、天探女命」
 
 これは、高天原の方針<葦原の中つ国は倭が御子の統治する国>に基づいて、多くの荒ぶる国つ神に方針を受け入れさせるため、先ず天の菩比の神が派遣されたのですが、大国主の神に媚びつい返事もよこさないありさま。

 続いて、天津国玉の神の子天若日子が遣わされたのです。天若日子は大国主の娘の下照比売を娶り、八年も高天原に返事もしていなかったのです。
 
 天若日子の様子を探りに来た雉子名鳴女なる鳥神が天若日子の家の前の湯津楓の上にとまって天つ神の命令を言いました。天の探女は天若日子をそそのかして鳥神を矢で射殺させてしまいます。その矢が天上に届き、天上の高御産巣日神がその矢を投げ返して天若日子の胸に命中、天若日子は死んでしまいます。

 天若日子の葬儀の席に現れた下照比売の兄である阿遅志貴高日子根が天若日子によく似ていたので、親兄弟は生き返ったと思い、取りすがったのです。死人と間違えられたと怒った阿遅志貴高日子根は喪屋を切り伏せけっ飛ばしてしまいます。それが落ちたのが美濃国の藍見河の河上でした。長良川の上流ということ。

 美濃国には天若日子と下照比売が国作りを行い、人が住めるようにしたとの伝承を持つ神社(上神神社)も鎮座しており、天若日子一族が移り住んだとの伝承が残っていたのでしょう。天の探女も一緒に来ているようでほほえましいことです。

 室町期に出来たと思われる御伽草子の中に瓜姫物語があります。天の探女が悪役で登場しています。

 瓜から生まれた実に美しい娘が守護の嫁になることを耳にしたアマノサグメが娘と入れ替わっていい目にあおうとして、瓜姫を高い木の上に縛り付けて、自分は瓜姫の着物を着ておさまっていました。
 瓜姫の嫁入り行列が高い木の下を通った時、上から瓜姫の声が聞こえ、アマノサグメが入れ替わっていたことがばれたのです。
 アマノサグメは大和国宇陀のへのはしに連れていかれ、足や手を引き抜かれて捨てられたのです。アマノサグメは細かい塵になって消えてしまったので、世の中は静かになったそうです。
 またアマノサグメの血に染まって、薄の根もとは赤く、花の出始めも赤く、いろづいているとかいうことです。

御伽草子の中に天稚彦物語もあります。これは後ほど。

浪花の祈り 阿加留比売と豊宇可乃売  神奈備
 阿加留比売は天日矛命の為に、「種々(クサグサ)の珍(タメ)つ味(モノ)を設けて、恒にその夫に食はしめき。」と『古事記』に記載があります。さらに「阿加留比売は逃遁(ノガ)れ度り来て、難波に留まりぬ。天日矛、難波に到らぬとする間(ホド)に、その渡し神塞(サ)へて入れざりき。」と書かれています。

 阿加留比売とはさほど出来が良いとは言えない夫の天日矛から逃げてきた女人として描かれています。何故、彼女は神として祭られたのでしょうか。むろんひとりぼっちで来たのではなく、お付きの巫女さん方を引き連れての神としての来訪でしたのでそれなりに祀られたのでしょう。
 そのポイントは、阿加留比売には、大気都比売の神や保食神の雰囲気を感じるのです。御餞神と言える所が神らしい神だったのでしょう。


 天日矛を塞えぎった難波の渡しの神とは、住吉の神以外には考えられません。

 現在の住吉大社の第四本宮には神功皇后が祀られていますが、MADOKAさんの熱心な主張の通り、かっては赤留比賣命神が祀られていたとしてもいいと思われます。『古事記』に、天日矛を塞へぎったとあり、住吉大社の第一本宮から第三本宮が東西に並び、その南側に第四本宮が置かれ、いかにも「北の国からやって来た天日矛を渡し神が塞へて入れざりき。」の形容がピッタリするからです。

 視覚的なのもではなく、もう一つの理由は『住吉大社神代記』には、子神として赤留比賣命神の名が登場していることです。赤留比賣命神は住吉三神とは何ら関わりがなく、神功皇后は天日矛の血をひいていても、赤留比賣命とは何も関係がないのです。皇后の祖先神からからやっと逃げおおせた女神なのです。

 さて、住吉大社の第四本宮の比売神を神功皇后とするにあたってそれまで比売神であった赤留比賣命神は現在の平野区平野東の杭全神社摂社の赤留比賣命神社に遷されたのです。

 さて、話はころっと変わって:−
 『摂津国風土記逸文』によると、「稲倉山。昔、止与[口宇]可乃売神は山の中にいて飯を盛った。それによって名とした。またいう、 昔、豊宇可乃売神はいつも稲倉山にいて、この山を台所にしていた。のちにわけがあって、やむをえず、ついに丹波の国の比遅(ひぢ)の麻奈韋(まなゐ)に遷られた。

 この話は現在伊勢神宮外宮に祀られている豊受大御神は元々摂津にいて、それから丹波に遷ったと言うことです。

 稲倉山なる山は現在の摂津の範囲には見あたりませんが、北摂津地域の丘陵地帯は上代より猪名野・稲野といわれており、北摂に稲倉山があっても不思議ではありません。
 また、「飯を盛った」と言う所からは飯盛山としますと、兵庫県三田市や四条畷市あたりと思われます。

 住吉大社に祀られていた赤留比賣命神は豊宇可乃売神として丹波に地に祀られて行ったのでしょう。それは船木氏によって遷って行ったのです。同時に赤留比売神社が設立されてこちらにも祭ったのでしょう。

 『住吉大社神代記』に「船木等本記」の記載があり、住吉大社創建の頃には船木氏は重要な役割を果たしていたのでしょうが、その後の大社の歴史には登場していないようです。津守氏との主導権あらそいに破れたのかもしれません。基本的に船木氏とは日神を祭る役割があったのです。住吉大社に於いて船木氏の祀る日神とは赤留比賣命神であったのです。神功皇后に替わったので、お役ご免となったのでした。

 船木氏は比売許曽神社に祀られていた赤留比賣命神を奉じて丹波の国の比遅の麻奈韋に遷ったのです。丹波では赤留比賣命神を豊宇可乃売神として受け入れたのです。『丹後国風土記逸文』には、「竹野の郡舟木の里の奈具の社においでになる豊宇賀能売命」との表現があります。

 赤留比賣命神は今や豊宇可乃売神として伊勢の外宮の祭神となっています。

[9254] 浪花の祈り 天若日子  神奈備 2008/08/11(Mon) 11:14 [Reply]
 『古事記』に、天照大神が「葦原の中つ国は、我が御子の知らさむ国」と言い、忍穂耳をさしむけようとしますが、中つ国は荒ぶる神々が多く、どの神を遣わして平定しようかと相談がありました。

 先ず、天菩比の神を遣わします。この神は忍穂耳らと共に天照大神と素盞嗚尊との誓約で生じた神です。しかし三年たっても報告がありませんでした。

 次ぎに差し向けたのが天津国玉の神の子の天若日子でした。『紀』では天稚彦と書きます。高天原で機を織っている稚日女とは対の存在のようです。七夕の彦星の匂いがします。
 
 天若日子は天津国玉の神の子ですから稚国玉と呼ばれたのでしょうが、この神名は天若日子の妻の下照姫の別名とされています。天若日子を貶めようとする者がわざと間違えて書いたのでしょう。下照姫は大国主命の娘で鴨の女神です。

 天若日子は下照姫と結婚して高天原への報告は行わず、さらに返事を促しに来た雉の鳴女を矢で射て殺します。その矢が高天原に届き、高木の神が矢を投げ返しますと、天若日子の胸にあたり、天若日子は死んでしまいます。これが『記紀』の筋書きです。ただ、『紀』の本文は天若日子は新嘗(にいなえ)の行事の後で寝ていた所へ矢が返って来たとしています。

 新嘗祭りは天皇が五穀の新穀を天神地祇に勧め、自らもこれを食して、その年の収穫を感謝する祭儀のことで、今日で言えば勤労感謝の日になっている由緒深い祭儀と言えます。

 天若日子は中つ国では天皇位に相当する人物として行動していたようです。高天原にとっては許し難い行動と映ったのでしょう。
 後に持統天皇と呼ばれる高天原広野姫は、我が子草壁皇子をさしおいて、大津皇子が人心を掌握してしまっていることを見て、「生かしてはおけない、殺せ!」との憎悪の念を燃え上がらせたのです。

 大津皇子の処刑後、妃の山辺皇女は髪を乱し裸足で走り出し殉死しています。夫の天若日子の死に悲しみ、下照比売の泣き声が天にまで響いた様を思い起こします。

 大津皇子の姉の皇女大来は伊勢から戻り、大津皇子の屍を二上山に移し葬る時、二上山を眺めて「うつそみの人なる吾(あれ)や明日よりは二上山を我が兄(せ)と吾(あ)が見む 万葉巻一 一六五」と歌うのです。天若日子の葬儀に味耜高彦根命が現れ、喪屋を美濃へぶっ飛ばした後、下照姫が歌う様を連想するのです。

 天(アメ)なるや 弟棚機(オトタナバタ)の 項(ウナ)がせる 玉の御統(ミスマル) 御統に 穴玉(アナダマ)はや み谷 二(フタ)渡らす阿治志貴(アヂシキ) 高日子根(タカヒコネ)の神そ

 さて、天若日子の死後、下照姫の兄の迦毛の大御神とされる阿遅須伎高日子根命が登場します。稲作が終わり収穫祭の後には、秋も深まり、鴨が飛んでくる季節には麦蒔きが待っています。迦毛の大御神の登場となるのです。


 『記紀』によりますと天若日子は返し矢で死んでしまいますが、近江や美濃には別の伝承が残っています。

 近江  彦根市三津町 勝鳥神社の由緒から
 天稚彦命が出雲の国から東方へ征伐に出陣された時事代主命らとともに三津に立ち寄られた。美濃の国での戦いで亡くなられた天稚彦命のなきがらを下照姫命の兄が三津にほおむり勝鳥石をたてたと語り伝えられている。

 近江  滋賀県犬上郡豊郷町 天稚彦神社の由緒から

 神代の昔、天稚彦命は神々と共に当地にお立ち寄りになった時、風光明媚な日枝の庄を大変称賛されたので妃の下照姫命が天稚彦命の御遺体を此の地に葬られたのが創祀の始まりと伝えられている。

 美濃 美濃市笠神 上神神社の由緒から
 下照姫命は大国主命の娘神にして、天照大神の御命令を奉じてお降りになった天稚彦命の妻となり、御二人力を合わせて中津国の御平定に大きな御功績残され、この里にお住居になつた神です。

 畿内と近江・美濃、これは壬申の乱の主戦場です。偶然でしょうが、大津皇子の活躍した地域です。天若日子の伝承が語られているのは面白い。

 天津国玉の神と稚国玉、やはり天武天皇と大津皇子を想起します。

 折口信夫の「死者の書」と言う小説に、大津皇子の霊が歴代の藤原氏の美女を誘惑するお話がありませが、その中に天若日子が語られます。「天若日子こそは、天の神々に弓引いた罪ある神。其すら、其後、人の世になっても、氏貴い家々の娘御の閨の戸までも、忍びよると申しまする。」これを天若(アマワカ)みこと言うとあります。

 折口信夫は御伽草子の天稚彦草子(15世紀)などをイメージしているのです。

 長者の娘に大蛇が求婚する。上の娘二人は死んでもいやと断るが、末の娘は承諾する。末むすめはが大蛇の頼みでその頭を斬ると立派な若者になる。若者は我は天稚御子と名のり、二人は幸福に暮らす。ある時男は天に昇るが、その留守に姉娘たちのさかしらで禁を破ったために男は帰ってこれなくなる。女は一夜(ひとよ)ひさごを伝わって天に昇り、首尾良く男に尋ね逢う。しかし男の父親は鬼で、種々の試練を受けることになったが、男から与えられた咒宝によって切り抜ける。二人は父の鬼に許され、七夕・彦星として年に一度逢うことになった。

 稚日女、弟棚機(オトタナバタ)、七夕・彦星のお話も七夕にからんでいるのは偶然ではないでしょう。

 難波に縁の天津国玉の神と稚国玉ですが、古社に祭られている気配が無いのが寂しい所です。難波には神武以前の歴史があり、一つは物部氏の歴史であり、さらにそれ以前の天若日子の降臨と鴨族の難波開拓の前史があったのです。鴨族は祭祀氏族ですが、その頃には神社の形ではなく、恐らくは石山の磐座に神の降臨を願って祭祀を行っていたのでしょう。
 これが難波坐生国咲国魂神社の創祀と言えるのでしょうが、創建年代は神代としか言い様はないようです。天若日子の父神を天津国玉神と言いいます。天孫族の派遣の国魂神のネーミングでです。これこそ難波の開拓神として、国魂とされる程に奉じられ称えられた神と言う忌みでしょう。
 即ち、難波坐生国咲国魂神社の祭神に天津国魂神はふさわしい。また天若日子には稚国玉また咲国魂の名を贈り功績を称えたものと思いたいところです。

浪花の祈り


弥生前半

畿内に鴨族が出現 南九州に華南から天孫族渡来
小形銅鐸 五円玉の色、太陽の光を反射させる。淀川流域の微高地の長柄や八尾市亀井遺跡
葛城の名柄遺跡から銅鐸と多紐細文鏡が同時に出土 銅鐸・銅鏡は太陽祭祀用のよりしろ

河内の日下の草香から登る太陽への信仰    下照姫<高姫
小形銅鐸の埋納 天孫族、出雲に天穂日、難波に天若日子を派遣。天若日子、天上からの矢で死。

弥生後半

物部(饒速日尊) 大和を虚空見つ日本(ヤマト)の国と命名
大型銅鐸の祭祀と埋納

古墳

九州の倭国王の崇神天皇が東征・畿内を制圧 日本は小国、倭の并す所となる。その号を冒す
新唐書 漢の倭の奴の国の末裔の倭国が畿内の日本国を併合。権力の東征を示す。
応神天皇の東征を言っているのかも知れない。
前期中期の古墳は日当たりの良い場所に築かれた 太陽信仰
古墳:埴輪、子持勾玉、臼玉、管玉  再生。 長原:土馬:水霊信仰

領土拡張 日高見国の東遷 大倭(奈良) →常陸(日高見道:茨城) → 陸奥北上川(岩手)



景行

日本武尊の命名 熊襲の首領も日本国を知っていた。大和であった。
武内宿禰巡視 東に日高見国がある。蝦夷が住んでおり、土地は肥沃で広大である。征服すべきである

秀吉

小田原征伐の目的 関東日の本までの置目 (奥州地方まで差配する) 


浪花の神々

比売許曽神社(鶴橋) 現在の三光神社(玉造)の地が姫山と呼ばれ、当初ここに下照姫が祭られた。

生国咲国魂神社(生玉) 大坂城の大手門付近に鎮座。天津国魂神とその子の天若日子(稚国魂)を祭る。
後世に八十島祭りが行われる。 大津皇子は二上山に祭られた。毒を制する。

阿遅速雄神社(放出) 阿遅鋤高日子命を祭る。葛城の鴨の地とは水路でつながっている。


磐船神社(大坂城) 物部の遠祖の饒速日尊を天照御魂神として祭っていた。饒速日山頂に遷座。

  守屋敗北後、 饒速日山頂から石切神社と大和長弓寺の登弥神社に神霊は降されたと言う。

磐船神社(交野市) 饒速日尊降臨伝説の地。

磐船神社(久留米市) 棚機神社とも姫社(ひめこそ)とも言う。祭神は饒速日尊と千千姫。

坐摩神社(渡辺) 元、石町に鎮座。はじめ住吉大神はここに祭られたと言う。(神代記)

  坐摩神社は大和高原の都祁水分神社の場所からの遷座と思われる。

赤留比売神社(平野) 元、住吉大社の摂社。また住吉大社第四本宮の神か。(MADOKA説)

  比売碁曽と混乱 古事記:天之日矛から逃れて難波の比売碁曽の社に坐す神。

住吉大社 天之日矛が難波まで追いかけて来たが、渡の神、塞へて入れざりき。北側に筒男神三柱の社。南に比売神。

大阪天満宮 大将軍社は難波宮の方位の神。星神。祓いの神。淀川と大和川の穢れを取り除く神。



浪花の太陽神

朝日神明社
(春日出中) 南大江公園が元の鎮座地。朝日の名からは日下が想起される。下照姫が本来の祭神か。
下照姫は天若日子が死んでから高姫となる。日下から日高見への生まれ変わり。

高天原から葦原中国に派遣された天穂日は天照大神の御子、同じく派遣された天若日子は天国玉神の御子。
共に大国主にすり寄ったのは同じだが、生かされるか殺されるかの差は血脈の差にあるようだ。
大津皇子が殺されたのは持統さんの皇子ではなかったから。高市皇子は先に死んでいる。


日中神明社(鶴町) 内平野町に鎮座していた。天照大神を祭神とする。
河堀稲生神社(天王寺区大道)鎮座地は昼ヶ丘と言われたが、現在は夕陽ヶ丘。

夕日神明宮(露天神境内) 西天満に鎮座していた。夕日は天若日子をあらわすのかも知れない。死んで後に阿遅鋤高日子命の生まれ変わる。
高日子は日高見に通じる。日上。朝日の神。



四天王寺の神々
乳守布袋 西大門から入り、南側に布袋堂。真っ黒で、乳房が巨大な布袋尊。おうば様と称する。
紙衣佛 萬燈院なる朱塗の堂宇。本尊は千手観音だが、右手の紙衣佛(五百羅漢の一)が人気。
石神祠 南無大聖牛王尊と言う。石で彫られた牛。深夜、寺の全僧侶が異国風の儀式を行う。
椎寺薬師堂 北門の近く。耳疾治癒祈願。
鳥居 昔の日本三鳥居の一。鎌倉八幡、京都八阪に次ぐ。
元三堂 元三大師は合格祈願の神
歯神 東門に元歯神。道之長乳歯神はイザナギの帯から生じた神。
願成就宮 守屋祠。四天王寺建立に物部の民を使役、これを守屋公が許した。
 以上