川の物語

[3631] 川上の霊威  神奈備 2008/02/25(Mon) 17:48 [Reply]
 『古事記』には、須佐の男の命が出雲の肥の河上の鳥髪という地に降りたら、箸がその河を流れ下ったとあります。河上に行くと足名椎と手名椎とが櫛名田比売を中に泣いていました。
 河上に二柱の古い神がいたということと、箸という食物をして外と内をつなぐものが流れてきたのも川上の霊威と言えるのかも。

 垂仁天皇の皇子である五十瓊敷入彦命が茅渟の兎砥川上の宮にいる時、剣一千口を作り、石上神宮に納めたと『日本書紀』にあります。宮の場所は和泉国日根郡と思われますが、川上と称するような程の川で鉄がとれそうだとしますと、多奈川港に流れている東川という川で、この上流に犬飼谷という地名があります。犬飼は産鉄民の頭領。ここに宮があったとは思いにくい程の隠居場のような所ですが、ひょっとしたら隠棲していたのかも。
 岬町に鍛冶屋谷なる地名の場所があり、褐鉄鉱(水酸化鉄)が採取されていました。これで剣を作ったのでしょう。

出土した褐鉄鉱は宝樹寺(別な化石寺)に陳列されています。
http://www.kamnavi.jp/en/izumi/fuke.htm

[3635] 川上の霊威 二  神奈備 2008/02/26(Tue) 12:01 [Reply]
 石上神宮に茅渟の兎砥川上に縁の剣一千口が納められたのですが、さらに石上神宮の神が布留の御魂ですが、この謂われについて、『源平盛衰記』には次のような話があります。
 「石上神宮の神霊を布留というのは、布留川の水上より一の剣が流れ下って来、此剣に触るものは石木共に伐砕されて流れた。下女が布を洗っており、剣下女か布に留まりました。だから神として祝に奉献。故に布流大明神と云ふ。」です。


 天理駅の西側に式内夜都伎神社の論社とされる八剱神社が鎮座しています。社の由緒には「神代のむかし素盞男命が八岐の大蛇を退治されたとき、大蛇が身を変え天へ昇りて水雷神となって神剣に扈従して布留川上の日の谷に天降り臨幸して鎮坐す。 貞観年中に八剣神としまつられた、もと村社で五穀豊穰神霊退散招神の守護神として尊れている。」とあります。

 布留川の上流はまさに霊威の巣窟のようです。

[3640] 川上の霊威 三  神奈備 2008/02/27(Wed) 14:47 [Reply]
 金春禅竹の手になる『明宿集』に、秦河勝の誕生譚が記載されています。

 推古天皇の時代に泊瀬川に洪水が起こり、上流から一つの壺が流れ下って来ました。人々は不審に思い、磯城島の辺りで拾い上げてみると、壺の中にはたった今生まれたばかりの赤子が発見されました。その子供は大人の口を借りて「僕は秦の始皇帝の生まれ変わり」と述べたとあります。

 泊瀬川の源流は三輪山の背後をなす大和高原の小夫・白木の付近とされています。桜井市白木につきましては、『大和の原像』の中で小川光三氏が、「新羅の王子天日矛が、ここに新羅城を築いた。」との伝承を紹介しており、末裔の秦氏が登場してくるのも不思議なことではありません。
 また、国中が水没していた頃でも、この大和高原には古くから人々が居住し、縄文的といいますか、古層の神を祀っていた地域と思われます。云ってみれば大和国中の後戸の神が鎮座していたということ。

 さらに、赤子が拾われた磯城とは、シキであり、国中と高原との境とでもいう地で、その奧に後に長谷寺が出来、十一面観音像が鎮座するこの世とあの世との境とも見なされたのでしょう。

 川の上流、秦河勝の誕生譚から見えることは、その霊威の源泉は縄文的古層の神の鎮座地であると云うことが言えそうです。

 
 川の上流から現れる古層の神としましては、建角身命の娘の玉依日売を孕ませた賀茂川を下ってきた丹塗の矢のお話が『山城国風土記』に載っています。丹塗の矢となったのは先に三輪の大物主神もそうでしたが、これらは古層の神々であって、大和に出来つつある王権は古層の神々との協調をしながら、自らの立場を維持して来たのでしょう。

 天皇家の祭祀には、芸能者と職人とが不可欠であり、彼らの神は宿神と呼ばれる古層の神々であったのです。天皇家が宿神を取り込んだ制度を持ったことが天壌無窮の秘訣なのかも。

[3644] 川上の霊威 四  神奈備 2008/02/28(Thu) 11:02 [Reply]
 神武東征譚の後半に吉野の丹生の川上で、五百筒真坂樹を根こじにして諸神を祭りました。

 その前には神武さんは宇佐に上陸しました。宇佐側では川のほとりに宮を造ってお迎えしました。これは川下の出来事です。続いて、崗の水門に行きましたが、ここは遠賀川の河口、後も瀬戸内海の川下に寄りながら、河内の草香邑の白肩に行きました。ここで長髄彦に攻撃されて兄の五瀬命が傷つくのですが、長髄彦は奈良盆地にいるのですから交野に流れている天野川か大和川の上流にいたことになります。最後には長髄彦は敗れ去ります。

 土蜘蛛の一人であった長髄彦と同じく、『景行紀』には、九州の土蜘蛛を征伐したお話が出てきます。下記は征伐された土蜘蛛の名と居住地です。
鼻垂 菟狭川上 、耳垂 御木川上、 麻剥 高羽川上、 土折居折 緑野川上、青 鼠石窟 稲葉川上、白 鼠石窟 稲葉川上。

 土蜘蛛の存在は川上の霊威の一つの要素であったのでしょうが、天皇家の威光はそれをも上回っていたとの説話なのでしょう。

 日本武尊は熊襲の川上梟帥を殺します。これも川上の霊威が天皇家に敗れたといえるのでしょう。

 川上の霊威は政治的・軍事的には天皇家に敗れますが、祭祀的には背後で手を握って、天皇家を支えると云う構造が見えてきます。

[3651] 川上の霊威 五  神奈備 2008/03/01(Sat) 19:54 [Reply]
 海人である安曇族の一部が信濃に居住していました。安曇郡と云う地名があり、式内社の穂高神社「穗高見命、綿津見神、瓊瓊杵尊」が鎮座、由緒によれば、安曇氏はエゾ地開拓の兵站吉を設けるべく大和朝廷により派遣され、この地に定着したものとされます。

 ネット探索からは、信州大学名誉教授の坂本博さんの著書『信濃安曇族の残骸を復元する』によると、安曇族は西暦500−600年この安曇野に入ったとあるようです。古墳時代後期です。

 継体天皇就任から100年間、推古天皇の頃までですが、この間、九州での磐井討伐、敏達天皇の時にエゾの親分のアヤカスを召喚して三輪山の天皇霊に忠誠を誓わしています。また蘇我物部戦争もあり、ようやく大和朝廷の力が全国版に踏み出した頃と言えるでしょう。
 それにしても、この頃に安曇族を大和朝廷が信濃に派遣したとか、朝廷自身がエゾ地開拓云々はいかがなものでしょうか。

 昨年、千曲川沿いの柳沢遺跡から銅戈が見つかっています。これは主に北九州から出雲など日本海側に分布するものです。時代は弥生時代です。誰が銅戈を信濃に持ち込んだのでしょうか。安曇族が有力ではないでしょうか。

 では、安曇族は何を目的として信濃川・千曲川を遡っていったのでしょうか。千曲川沿いには褐鉄鉱が採取されたようですし、何よりも鮭の遡上があり、大量に獲れたものと思います。薫製とか塩漬けとか干物にするなどして備蓄食糧として打って付けだったのでしょう。

 千曲はチ:精霊 クマは隠ると見れば、まさに鉄資源と食糧の供給する川の上流だったのでしょう。

[8778] 川上の霊威 六  神奈備 2008/03/03(Mon) 14:33 [Reply]
青草に連載中ですが、流れと違うネタなので、青草話ですが、こちらに。

 今東光著『毒舌日本史』の中で、和尚が春日大社の水谷川宮司から聞いた話が載っています。
 「不比等は天智天皇の御落胤だと云うのです。それは皇室には常識として伝わっており、紀元は2600年に近江神宮を造営する際、その仕事を近衛文麿公に命じたのは藤原氏の後裔だからと云うことだ。

 春日大社の宮司は現在も藤原氏の末裔がつとめています。だいぶ前の宮司さんが水谷川というのも、面白い。即ち、春日大社の摂社に水谷神社(みずや)と上水谷神社が鎮座しています。上水谷神社は春日山頂に鎮座しており、禁足地の中のようです。水谷神社の横を流れる水谷川はその春日山から流れ出て来ています。水谷川とは春日大社とは切っても切れない関係があったのでしょう。水谷神社の祭神は素盞嗚尊、櫛稲田姫、大己貴命となっていますが水神であったとされています。。

 春日大社が鎮座した平城京も藤原京と同じように下水の排水効率が悪かった上に、平城京は水の入手も簡単ではなかった。佐保川・水谷川・能登川など、何れも春日奥山を水源とした川のみであり、とてもじゃないですが、豊富ながあったとは思えません。今でも奈良公園の周辺には溜め池が幾つか見られます。

 平城京では良い水が手に入らないこともあり、遷都百年を待たずに長岡京に遷都となったのでしょう。

、水谷神社の祭神の櫛稲田姫からの発想ではありませんが、現在は三重県である櫛田川上流の飯高町大字赤桶に鎮座する水屋神社付近までを昔は大和国の範囲でした。水屋神社の西方約700メートルのところには「閼伽桶(あかおけ)の井」があり、「旧記・古文書」の類によりますと、この「閼伽桶の井」の神水を二振の桶に汲み、貞観元年(859)11月9日より春日大社への奉納を始めたそうです。

 春日大社は遅ればせながら神祭りに使用する清水すら遠くから運んだと云うことです。これでは平城京は川上の霊威に守って貰うことなど期待できない訳で、早々の遷都となったのでしょう。平安京では曲水の宴など、川上から盃を運ぶ鳥形の船など流して優雅に歌を交わしたようです。神泉苑には常時きれいな水が沸き出していたようです。

 平安京の水を司ったのは貴船神社です。余談ですが奧宮は丑の刻参り、中宮にあたる結社は磐長姫を祀っており、縁結びの神だそうです。

[8779] 川上の霊威 七  神奈備 2008/03/04(Tue) 10:01 [Reply]
 貴船神社の創建譚に尼崎の貴布禰神社に着いた神が黄色の船に乗って淀川・賀茂川・貴船川を遡ったとあります。そうしてその神は大和は吉野の丹生川上神社(上社)から吉野川・紀ノ川を辿って大阪湾に出たようです。その吉野の丹生川上神社上社は、白鳳四年(676年)国中の大和神社の別宮として雨師明神を遷した社と伝わっています。

 近年、大滝ダムを造るため、水中に没する丹生川上神社上社を山の上に遷座させました。その跡地を発掘しますと縄文時代の祭祀跡など、実に古くからの聖地であったことが判明しました。まさに川上の霊威そのものです。

 遷座後、ある神職さん http://yonoto.com/ とこの神社を訪問しましたら、ア!、神様ガオラレル!! ついてきてくれたのだ。とのことでした。私にはわからない世界があるのですが。

 その大滝ダム、どうやら大滝ムダになりそうな気配が漂っています。あちこちで地滑りが起こっており、水をためることが出来ないのです。十分な調査もせずに約4000億円を投じて、予定通りのダムが出来たとしても下流域の洪水対策にはならない土木工事だったようです。
 引っ越しを余儀なくされた住民や神様はとんでもない迷惑をこうむり、国民一人あたり3600円の無駄をしたのでした。これが国交省の仕事です。

 移転前の丹生川上神社で「聖なる光」の写真家の奧聖さんが撮ったものには、空中を舞う光と云うのかぐるぐる廻る虹のようなものが写っていました。これも私にはわからない世界。
http://www.iwabue.com/media/kourin/kourin.html

 いずれにしても、自然破壊、川上の聖地をつぶしてムダなダムを造る、このような行為にたいしての神の怒りがほとばしったように思われました。

[8780] 川上の霊威 八  神奈備 2008/03/05(Wed) 16:07 [Reply]
 和歌山県橋本市の隅田八幡に保存されていた国宝の「人物画像鏡」が今は東京国立博物館におかれています。鏡の銘文は「癸未八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿遺開中費穢人今州利二人等取白上同二百旱作庫此鏡」です。
 解読には色々な説があるようです。癸未の年で西暦383年、443年、503年。443年なら意柴沙加=忍坂=允恭皇后のこと、503年なら男弟王=継体天皇などです。

 継体天皇は北陸からやって来て大和に入るのに苦労したようですが、実は忍坂(桜井市の南部)にとっくに入っていたのだとの説もあります。忍坂は息長氏の拠点ですから、なしとは出来ないのかも。以下、継体天皇への進物として。

 銘文の中の斯麻は嶋王のことで、百済の武寧王となります。継体天皇と同年代の人。
 王   生誕   就任  死去
 武寧王 462−502−523
 継体帝 450−507−531(『日本書紀』)
 継体帝 485−   −527(『古事記』)

 武寧王の誕生の物語はいささか異常といわねばなりません。『日本書紀:雄略五年』「百済の加須利君(蓋鹵王)が弟の軍君昆伎王を倭国に人質として派遣する際、一婦人を与えて、途中で子が生まれれば送り返せと命じた。一行が筑紫の各羅嶋(かからのしま・加唐島)まで来たところ、一児が生まれたので嶋君と名付けて百済に送り返した。これが武寧王である」妊婦の場合、いつ頃出産の予定かぐらいはわかるはず、百済から僅かの距離の筑紫で出産、途中で子が生まれることは承知の上のはず、武寧王の出自を隠すための下手な作り話。

 継体もその出自に疑問の出る天皇です。その不明な二人が同じ時期に百済と倭国の王になっています。そこに底通するなにかがあるのでしょう。武寧王は継体天皇のことを男弟王と呼んでいます。男弟はヲオト、袁本杼はヲホド、似て非なる発音、これは素直に弟の王の意味で、継体天皇は武寧王の弟だったのかも知れません。盃をかわした兄弟かも。

 百済から任那の四県の領土割譲を依頼され、継体天皇はこれを認めています。これ以来、任那の人心は倭国から離れ、結局、倭国は半島での拠点を失うことになります。倭国の王としては国際的見地もない田舎者との評価でしょうが、実は確信犯として百済に割譲してしまったのでしょう。義兄弟の言い分を受け入れたのでしょう。義兄弟のお陰で天皇位になれたとの思いがあったのかも知れません。


 筑紫君磐井が新羅と手を結んだので、百済の要請もあったのでしょう、磐井を攻め殺して、九州をも配下に入れることで、西日本をほぼ制圧できたのでしょう。

 百済の歴史は北の高句麗からの圧迫で首都をどんどん南へ移転して来ています。最後には白村江の戦いで百済・倭国連合が敗れて消滅します。
 百済の首都は最初は漢江の南(ソウルの南)、次に錦江流域の熊津、更に錦江沿いの泗ヒ(さんずい扁に比)と遷都を繰り返しています。

 面白いには継体天皇の都です。最初は河内の樟葉宮、次に筒城、更に弟国となっており、淀川沿い、木津川沿い、淀川沿いと動いています。本格的な水運が可能な河川の側に都を造る、この考え方は大和の国にいた大王には発想が出来なかったのです。継体ならではと言えます。百済の考え方と同じです。

 今回のお話は、川上の霊威と云うことではなく、河川の流域の宮のお話でした。

[8783] 川上の霊威 九 川下の祓い  神奈備 2008/03/07(Fri) 21:00 [Reply]
 日本武尊が熊襲を征伐して帰って来たとき、難波に着いた時、柏の渡にいた悪神を退治しています。この柏の渡ですが、日本武尊の時代にはその様に呼ばれていなかったのです。難波堀江の出口と云った所でしょうか。

 柏の渡の名前は仁徳天皇の皇后の盤之媛が宮中での酒宴である豊楽をするために紀の国の熊野の御崎に行き、そこ御綱柏を採って難波に帰ってきたのですが、仁徳天皇は皇后の留守をいいことに八田皇女を召したのを知って怒り千万、採ってきた柏を海に投げ捨てたので、葉済(かしわのわたり)と云ったとあります。

 柏の葉は『丹生大明神告門』に、応神天皇が美野国の三津柏や濱木綿(はまゆう)を丹生神に奉ったとの記事があるように、祭祀に重要な役割のある植物だったのでしょう。これを難波堀江に捨てるのは穢れの中に放り出すと云うことです。二度と使えないものとする意味があると思います。


 難波の掘江は仁徳天皇の時代に、河内湖の水を大阪湾に流すために掘られた運河です。現在は大川と云い、天神橋・天満橋・淀屋橋がかかっている大阪市内を流れる川です。この運河が開けたことで、難波の地は一挙に便利になり、その後高津宮・二度にわたっての難波の宮がおかれました。

 難波の堀江はその後上流から流れてくる土砂で段々浅くなってきて、運河とか港の機能を十分果たせなくなって来て、淀川の中流の長岡に遷都して行きました。

 難波の堀江は仏像の捨て場になりました。『日本書紀:舒明天皇紀』では、仏教が伝わった直後に国に疫病が流行り仏像を捨てたとあります。穢れたものの上陸の地であった難波堀江に捨てて、韓半島に帰れということだったとか。

 難波の堀江は異国の文化の上陸地でもあり、穢れの上陸地でもありました。また、大和や山城で生じた穢れたも流れ着く場所でした。物理的にも汚れが流れてくる場所です。

 古代からの祭りに八十島祭があります。難波の地で天皇の力をアップするための祭りです。これは難波坐生国咲国魂神社を中心とする祭りでした。この神社は大坂城を造る際、4km程南の現在の地に遷座しています。東面して建立されています。この東面はおそらくは大坂城大手門の地にあったときもそうだったものと思われます。なぜなら方角を変更する必然性は見あたらないからです。

 神社は東向き、祈るのは西方、すなわち難波の海なのです。海は難波堀江を出た所で、すでに穢れは祓われているのです。川下・河口にいる神は瀬織津姫神、速秋津姫神、速佐須良比賣神、氣吹戸主神などの祓いの神々が鎮座、海にはもはや穢れはないのです。その海にまさに多くの島々が出来つつあったのです。そのパワーを天皇に付着させるのが八十島祭りです。

 川下・河口の役割は穢れを祓うことですが、海からやって来た船の底には蠣などの海のものが付着しています。これを川水の所へ曳航しますと、蠣などは船から離れて行きます。これが逆には淡水の生物は海水では生きて生けませんから同じように働きます。古代の人々はこれらも穢れと認識して河口の機能を利用していたのでしょう。

[8786] 川上の霊威 十 河童  神奈備 2008/03/11(Tue) 15:49 [Reply]
 川の話には河童は付き物でしょうが、筑紫の地行浜には海にも河童がいるようです。ここは古代の海人族の安曇氏の拠点である志賀島が目の前にあり、その祖である安曇磯良は遠く宮城県の神社でお河童様として祀られています。

 宮城県加美郡色麻町の磯良神社は通称お河童様として、河童の生息地の伝承の碑が立っています。この色麻町には播磨の飾磨の射楯兵主神社から勧請した伊達神社が鎮座していますが、兵主神のお姿は見えないようです。

 兵主神は漢の高祖が祀った蚩尤(シユウ)のことです。
http://kamnavi.jp/as/yamanobe/anasi.htm

 これは見かけには河童でもあり、猿でもあり、傀儡の人形のようでもあり、児童のようにも見えます。河童のことをヒョウスベとも言いますが、兵主部とでも書くのでしょうが、実は兵主神でもあり、傀儡の祖神の磯良でもあるのでしょう。

 安曇と河童との繋がりのわかりやすい例は登山のメッカである上高地の明神池畔に穂高神社の奥宮が鎮座、また梓川には河童橋が架かっていることです。

 海神は小童神とも記されます。間際らしいのですが、通底しているようでもあるお話。小童は「こわっぱ」と発音されて、河童に近いようですし、大工が木屑で人形を作って命を吹き込んでこれを小童として下働きに使い、工事が終わったら、小童を川に捨て、それが河童になったとも言われます。

 実際には河童が男の子に擬せられるのは、昔は男の子はしばしば水死することが多かったこともあり、河童に引き込まれたとか、河童になったと言われたのでしょう。

 福岡県久留米市大字瀬下町の水天宮には、安徳天皇が祭神として祀られています。河童は水天宮の眷属と言われます。

 青森県西津軽郡木造町に水神信仰があり、水虎様と呼ばれているようです。ここには亀ヶ岡遺跡があり、遮光式土偶が出土しています。ひょっとしたら遮光式土偶も河童のイメージかも。

[8790] 川上の霊威 十一 大和川  神奈備 2008/03/13(Thu) 10:05 [Reply]
 古代、河内湾・河内湖に流れ込んで大阪平野を形勢してきた河川は淀川と大和川でした。

 淀川は三本の川が同じ場所で合流すると言う世界でも珍しい川です。琵琶湖から流れてきた宇治川、伊賀から山背街道を北上してくる木津川、丹波から嵐山の景観をつくって流れてくる桂川の三川です。

 淀川の表記に澱川が使われていました。ゆっくり流れて澱んでいるようだからと言う説もあるようですが、勝馬に賭ける男達の慕う女神を祀る與杼神社に因んでいるのではと思われます。式内社の與杼神社は佐賀郡河上神(与度日女神)を勧請したとされていますが、一方夢のない話としては此の地に古くから住んでいた大与等某という住民の祖神を祀ったとの説があるそうです。

 河内湾は縄文時代大阪の上町台地の北や東に広がる瀬戸内海につながる湾でした。神武東征物語の河内湖の進み方や退散の仕方はどうも縄文時代の湾を思わせる記述のように見えます。

縄文 

弥生 

古墳 

 この河内湖に流れ込んできた土砂は主に淀川から来たようです。伊賀・近江・山城あたりが徐々に開発されて来て、土砂が流れて来て、河内湾は北側から埋まって来たようです。

 大和からの土砂の流れは少なかったようで、河内湖の南側はなかなか埋まって来なかったようです。

 大和川は大和国中を通って信貴山南麓の竜田大社の南側の狭い所を経過し、亀の瀬と言う浅い場所を過ぎて河内に流れ込んでいます。この経路は見れば見るほど不自然な気がします。普通には流れそうでない山中を通っているように見えます。JR大和路線の経路です。これは自然でない何かの力が働いて流れを造ったようにしか見えないのです。

 近鉄大阪線の経路の長尾街道が本来の流路であったのかも知れません。この場合には大和にも広い大和湖があったのでしょう。
 現在の大和川の大和側には石器時代の遺跡は出ていないのですが、近鉄大阪線の大和側の下田や狐井には遺跡があります。


 河内湖から舟で大和に行くことが考えられますが、亀の瀬辺りでとてもじゃないですが、通れないようです。さらにこの前後では14m程の落差があり、水は急な流れだったようです。

 推古天皇の時代に裴世清が難波津についてから飛鳥に行っています。裴世清が迎えられたのは海石榴市の路上です。飛鳥に入るのに三輪山の麓の海石榴市と言うのはいささか遠回りです。何故、海石榴市となったかですが、一つは頑張って大和川を遡り、その上流の初瀬川を辿って来たのか、ゆったりと淀川を遡って木津川経由、奈良坂は歩いて越えてと佐保川・初瀬川と言うルートだったのでしょう。 

[8794] 川上の霊威 十二 飛鳥川上  神奈備 2008/03/14(Fri) 12:34 [Reply]
 明日香は日本の故郷と云われている地です。古代には宮が置かれ、また重要な事件が起こった地域です。この明日香村を北西から南東へ流れている川が飛鳥川であり、その上流部分を稲淵川とも云います。

 飛鳥川の周辺から東側は広い山地となっています。西側は平地と丘陵地と言えるでしょう。この飛鳥川の上流に稲淵と云う地名があり、ここの神奈備山とされているミヤヤマ山頂に式内社の飛鳥川上坐宇須多伎比売神社が鎮座しています。元々は飛鳥坐神社が鎮座しており、これが現在地に遷座した後に、後裔社として祭られたとも云われています。

 飛鳥川上坐宇須多伎比売神社(以下「臼滝神社」と略します。)を中心として川上約600mと川下約1kmにオツナカケとよばれる藁を使った勧請縄を川に渡します。綱を架けるのは神々を勧請することです。
 
稲淵(川下)の男綱 
栢森(川上)の女綱 http://www.7kamado.net/den_yamato/asuka_ina.html

 これは所謂「道切り」と云われるもので、正月行事として、村に悪霊が入らないとか、豊作の祈願とか、また川を通って来る霊への信仰、男女と云うことで神婚幻想、上流から流れ来る「福」を留め置く、地域から「福」が流れ出さないようにすることなど、目的については多岐に渡るのでしょう。

 男綱は写真で見るように藁で男根らしいものを付け、女綱は臼状のものを付けています。

 642年、皇極天皇は南淵(稲淵の一部)の川上で、跪いて四方を拝して祈ると、雷鳴がして大雨が降ったと『日本書記』にあります。面白いのはその前に蘇我入鹿が百済大寺に僧を多く招き、発願したら、小雨が降った程度だったので、天皇が直々に雨乞いを行って、大いに成果があったとしています。


 天武五年に、「南淵山、細川山は草木を切ることを禁ずる。また畿内の山野も云々。」と禁令がでています。この頃も旱魃多かったようで、水源地の保護をさせているようです。ムダなダムより遙かに安上がりで効果的な処置です。大いに先人の知恵に学びたいものです。

 話をオツナカケに戻しますが、桜井市の江包と大西にもオツナサンとよばれる神婚神事があります。江包の素盞嗚神社と大西の御綱神社「稻田姫命」の祭で、ツナを担いで練って歩き、オヅナ・メヅナを合体させる神事です。これには次のような伝承があります。上流から流れてきた二体の神をそれぞれすくいあげて祭り、二人が蛇体となって合体・結婚をして頂くようです。

オツナサン http://www.7kamado.net/otunahan.html

 大和にはノガミ系のツナ祭りがあります。例えば御所市の蛇穴の野口神社の「野口祭」です。蛇綱引汁掛祭で、5月5日に蛇綱引祭のみ行われています。稲藁で約10m程の蛇体を作り、これを当地各戸へ巡幸する祭りです。

野口神社 http://www.7kamado.net/noguti.html

 明日香村は吉野への通路です、神仙郷・常世の吉野路への道筋です。その道の飛鳥川上に入って行く所に橘の大字があります。ミソギの聖地だそうです。近鉄大福駅の北の小墾田宮から真南に大路が延びていますが、これは橘街道とよばれています。この道は南西に曲がり、中ツ道に合流し、飛鳥川沿いに吉野につながっています。

 明日香村の川上も聖地ですが、そこを入口としている吉野は究極の聖地と言えるのでしょう。

[8800] 川上の霊威 十三 貴志川  神奈備 2008/03/17(Mon) 17:23 [Reply]
 高野山の西の花坂付近が源流。花坂は貴志川の谷間の集落で鼻底の地名であった。岬底であって、此の地に諸山の尾岬が集まっているのでそう呼ばれたそうです。北から続く高野街道と南西遙かの神野市場からの高野街道の合流点です。面白いのは弘法大師は牛を嫌ったので、花坂から高野山へは馬に荷物を負わせたそうです。花坂には鳴川神社が鎮座、祭神は高野御子神等です。

 貴志川はさらに長谷庄に流れます。ここは貴志川の北側に平地が広がり、丹生神社(旧丹生高野両大明神社)が鎮座しています。長谷宮とも云います。『丹生大明神告門』に、「長谷原爾忌杖刺給比」とある長谷のことです。この神社の社地を楮皮杜(ちょひのもり)と言いい、孝元天皇の時、武雄心命(日本書紀では武内宿禰の父親)が来て当地の楮の皮で紙を漉く事を教えたと言う伝説によると言われています。武内宿禰の出自が紀の国だと云う主張の根拠になりそうですが・・・。

 丹生神社の境内に観音堂があります。これは大和の長谷寺の観音の末木で作られたと伝えられています。長谷は高野山領ですが、地名は長谷寺から頂いたのかも知れません。

 貴志川は次ぎに毛原に流れています。明神垂迹石があります。丹生明神の垂迹。途中に笹の瀬には弥生遺跡があります。毛原には丹生狩場神社が鎮座、村の東北の貴志川内に立石があり、近くの祝詞石から祝詞をあげるそうです。末社に犬飼明神社があり、犬甘籬津姫社のことと、高野山の資料にあるそうです。
 
 貴志川は西に流れて、鎌滝と云う所に行きます。川底に甌穴があります。丸い穴のことです。丸石が出来るのでしょう。この穴を地元では釜と云うようで、これが地名になったそうです。

 貴志川は同じく高野山の西側を源流とする真国川と神野庄で合流します。旧美里町・野上町を通り、海南市に流れて行きます。美里町に神野庄があります。この庄は平安時代後期の鳥羽院を本家としていたので、院の熊野御幸に際して雑事を負担したようです。荘民達は丹生明神垂迹の地と伝える蛇岩を拝して、遠く近露や滝尻王子の地までカンバン方式的に供御御菜・菓子・酒・薪・飼料を届けるように要求されていたのです。

 海南市に流れてすぐ、川の北側の段丘上に溝の口遺跡があります。これは縄文時代後期から末期の遺跡がでています。配石遺構や宮滝式の土器などと弥生時代の遺跡などが出土しています。また(『古代遺跡と神山紀行』井上香都羅著)によれば、南の黒沢山を頂点にした神奈備山が三重に重なっている場所だそうです。

 貴志川は西向きの流れが北東向きに変わります。木津なる地名があり、水運の歴史を思わせます。貴志川町に入ると国主淵(くにし)と云う深い淵があります。神蛇が潜むと云われます。その左岸に大国主神社が鎮座、八十神達に追われて五十猛神のものへ行こうとした大国主命が当地を訪れたのを由緒としたとされます。

 貴志川町は紀州明日香と呼ばれるように、遺跡や古墳の多い所です。次ぎに貴志川町と桃山町の境界を流れ、紀の川に合流します。桃山町は昔の荒川庄で、崇神天皇の妃の一人になった遠津年魚眼眼妙媛がいて、その親である荒川戸畔の居住地が桃山町です。崇神・妙媛の皇女の豊鍬入日売命が創建した神社が三船神社とされ、その元社が現社地の東約3kmの稲村明神社で、ここが荒川戸畔の拠点だったのでしょう。

[8805] 川上の霊威 十四 伊太祁曽神社の前を流れる和田川  神奈備 2008/03/19(Wed) 21:27 [Reply]
 山東荘から吉礼、岡崎を通り、神宮郷から海に流れています。

 伊太祁曽神社の南東3km付近の和歌山市黒岩にある大池が最上流の水源地。黒岩邑には田の中に1.6m程の黒石があります。昔は妊婦が小石を投げて石の上に止まれば男子、落ちれば女子と言い伝えられました。『続風土記』によりますと黒岩には聖御前社「蔵王権現、若宮八幡、天照大御神、弁財天、熊野権現」や小祠である里神・山王權現社・天神社がありました。文政六年(1823)伊太祈曽と水争いをしています。

 和田川は北上して、南畑を流れます。東西は山々で、谷間ですが、若干広い地域。里神社・大将軍社・気鎮社が鎮座していました。

 川は更に北に流れて、大河内の北側で北西に曲がります。もはや谷間ではなく、山東盆地の南東の隅になります。東に松茸の産地だった鶏冠山(とさか)があります。八王子社二座・若宮・里神社がありました。ここは石を投げれば瀬藤さんにあたると云われる地域です。

 大河内から伊太祈曽に和田川は西に流れます。数十年前、境界に木の橋が架かっており、トラックが通った際、折れてしまって転落したことがあります。伊太祈曽は山東盆地の中心にあたります。

 往古、山東盆地は入海でした。現在、伊太祈曽で海抜8m程度、その西の吉礼で3m〜5m、この吉礼に縄文前期の貝塚があります。伊太祈曽で和田川と合流する永山川があります。また永山川に北から平尾川が合流しています。

 永山川は伊太祈曽から東3kmの大池を水源地としています。大池は那賀郡との境界になります。大池については、新義真言宗の覚鑁上人が山東平野東部は灌漑用水が少なく、村人を叱咤激励しつつ渓谷に池を造ったとの伝承があります。この大池には先土器の遺跡があり、ナイフ型石器がまとまって出土しています。サヌカイト製です。また縄文時代中期の土器片が出ています。

 大池から流れる永山川は永山に流れます。里神社・牛神社・天神社が鎮座していました。次ぎに木枕(こまくら)と山東中の境界を流れます。木枕は高句麗からの渡来人が居住した故の地名とする地元の方もおられます。ここに丹生四所明神・里神社・講庭神社「夷の神」が鎮座していました。現在は覚鑁上人の創建とされる足守神社が鎮座しています。この神社の西方の低い台地上に四基の円墳があります。このように山東盆地には小規模な古墳が散在しています。

 木枕の南を山東中と云い、江戸時代は中と云う地名でした。ここには牛神社・牛頭天王社・里神社・弁財天社・回神(めぐり)が鎮座。永山川はここから伊太祈曽北部を西流します。

 平尾川は山東盆地の北部の水をかき集めて南流し、平尾で永山川に合流します。ここは熊野古道が通り、平緒王子社が鎮座していました。また、伊太祁曽神三神分遷で都麻都比売神を祀ったとされる妻大明神社の論社が鎮座しています。他に産土神社・弁財天里神社・妙見社・牛神里神社・キシヤウ森明神社が鎮座していました。

 それぞれを合流して和田川は吉礼に流れ出ます。山東盆地から和歌山平野へ流れるのです。

 山東盆地には縄文時代以前から人々は営みをしていました。旧石器時代や縄文時代を営んだ人々は所謂アイヌ人と同族だったのではと思われます。アイヌは自らをカイと称したようです。(小林国太郎氏)大河内の東に鶏冠山がありますが、なだらかな山で別にトサカを思わせるものはなにもありません。鶏冠はカイと云う発音だったのではと思っています。鶏冠井と云う地名が向日市にありますが、訓はカイデです。カイはアイヌの痕跡ではないかと思います。鶏冠山の東側の貴志川に加伊多橋がかかっていることが実に薄い傍証・・・

 紀州には圧倒的に出雲系の神々を祀る神社が多く、アイヌの次ぎにやって来たのは、海の彼方からやって来た素盞嗚尊を奉する人々、出雲からやって来た五十猛命を奉ずる人々などだったのでしょう。

 紀州にはクマが付く地名や人名が多いのですが、このクマは稲の意味もあったとのこと。稲作をこの国に持ち込んだ人々も山東盆地に現れたのでしょう。紀の川や和歌山市内、伊太祁曽神社に九頭明神が祀られていましたが、これは水神でもあるので、稲作の民が祀ったのかも知れません。

 さて、山東盆地の中心の伊太祈曽には伊太祁曽神社が鎮座、先ほどから示しています各地の神社で明治末期まで残っていた神社を殆ど吸収してしまっています。明治期の伊太祁曽神社の宮司は神社合祀に賛成していたようです。合祀された跡がどうなったのかですが、大河内には名前の不明な小祠が鎮座していましたので、一度丁寧に回ってみたいと思っています。

 さて、言語に詳しい方々がもったいなくも当サイトの掲示板に来て頂いていますので、イタキソの解釈を小林国太郎氏の『伊太祁曽神社由緒記』等から紹介いたします。

イタキソとは
小川琢治  アイヌ語で「物を云う岩」の義
ポインタフスキー 調伏のために祈る
ポインタツキフル 魔法者
その他 カンボジア語で 顔に絵の具を塗った人
などがあるそうです。

 伊太祁曽神社の東側の音羽山山麓に6〜7世紀の山東古墳があります。
横穴式の円墳で、天の岩戸と呼ばれています。これは江戸時代、伊太祁曽の神を日出喜孫大明神と称して、祭神を手力男命と見なした動きがあったからのようです。
 
 吉礼には貝塚があり、また吉礼の都麻都比売神社付近には弥生集落遺跡があり、土器は後期のものが出土しています。吉礼大明神社・妻津姫神社・五十猛神大屋津姫神社。また弁財天社・牛神社・川御前社が鎮座していました。

 吉礼から岡崎荘に流れます。先ず小手穂(おてほ)があります。弘法大師御手掘と云う井戸があり、これが小手穂となったそうです。八王子社。

 次ぎに森と云う地域に流れます。ここは『雄略紀』九年三月、「紀の小弓の宿禰、蘇我の韓子の宿禰、大伴の談の連小鹿火の宿禰等に 勅して新羅を伐せたまふ條に是夕大伴の談の連及紀の崗前の来目の連皆力闘面死す」とあります。この崗前の来目の連の居住地とされています。
 清寧天皇即位前紀には城丘前来目宿禰が登場、星川皇子の叛乱に組みして焼殺されています。壬申の乱の際には紀氏は大海人皇子側についたのですが、来目連は大友皇子側に与したようで、その後裔は不明です。

 次は西なる地名の場所。十二社権現社は西熊野神社として鎮座しています。後は弁財天社。

 いよいよ川は名前の元となった和田に流れます。和田地名は瀬戸内海北岸から大阪湾、紀伊半島西部を経由して熊野本宮付近から北山川を遡って奈良三重の県境を北上し、吉野川の川上から奈良盆地へとギッシリ続いています。海人族の足跡そのものでしょう。椎根津彦(珍彦)の一族と思われます。
 和田付近は海岸だったのでしょう。ここには竃山神社が鎮座、生駒で長髄彦から矢傷を負わされた神武天皇の兄の五瀬命が祀られています。他には式内大社の静火神社・天霧神社・中言社などが鎮座。

 更に南西に流れて坂田から田尻に到ります。田尻は名草山の北麗でやはり中言明神社・岩御前社等が鎮座しています。現在はこれから和歌川に合流していますが、往古は田尻付近はすでに海だったのでしょう。