石の余談

[1287] 石の余談 1  神奈備 2005/06/16(Thu) 21:41 [Reply]
 石と言うと、ひとつは柳田国男の『石神問答』と飛鳥の石像物が思い起こされ

る。石神問答の石神とは、シャクジと読み、社宮司、赤口、将軍、などの境の神

のことであって、そのご神体が石であってもそれはたまたまであって、石の神の

意ではない、ことを訴える手紙のやりとりである。飛鳥の石像物は素材が石であ

ってそれゆえ今日まで保存されてきたものであって、石を神仏と見なした人工物

ではない。それは丁度、神社の狛犬のようなもの。

 飛鳥の開拓は蘇我氏とその配下であったような東の漢と呼ばれた渡来系の人々

によるものであった。飛鳥に宮殿を置いた最初の天皇は継体天皇の皇子であった

安閑、宣化天皇のようであるが、本格的には崇峻天皇、推古天皇の時代以降。

 飛鳥坐神社の元社かも知れない酒船石は丘の上にある謎の石として名を馳せて

います。近年、その丘の北川の下に亀形石槽が発見された。また酒船石の丘は人

工の丘で、天理砂岩が積み上げられているとのこと。この丘を石上山と称したの

ではないか、との見解が和田翠氏は岩波新書『飛鳥』で述べている。天理市豊田

の石上山の石を運んできて築いた丘だからと言うこと。これを運んだるーとを、

狂心の渠と呼ぶ。この渠は何も天理市から明日香村までの13kmも造られたの

ではない。天理市からは船で布留川を下り大和川に入り、寺川、米川を上って香

具山の西まで運んでくる。ここからは渠を掘って、高低差35mを約1kmで酒

船石の丘の北川まで上っていったとの推測。この辺りにはその痕跡が残っている

と言う。

[1291] 石の余談 2  神奈備 2005/06/18(Sat) 22:27 [Reply]
 飛鳥川を利用できれば、少しは楽だったのかも知れないが、水量がすくなく、

とても石を乗せた船を通すどころではなかった。現に川底に石を置いて渡れてい

たようだ。しかし狂心の渠の上流として飛鳥川の支流から水を取ったのだろう。
 このようにして、飛鳥は石と水の都であった。

 有間皇子の謀反事件は、斉明天皇や中大兄皇子が牟呂の湯に行幸中に蘇我赤兄

が有間皇子にそそのかすのであるが、その理由に「長く渠を穿りて、公粮を損し

費すこと」「舟に石を載みて、運び積みて丘にすること」をあげている。有間皇

子としては父の孝徳天皇が捨て置かれての憤死を見ており、復讐かたがた皇位を

奪おうとの思いがあったはず。

 孝徳天皇の幼名は軽皇子、これは加羅の皇子、母は百済系の阿倍倉梯麻呂の娘

の小足媛、その間に出来たのが有間皇子、閼丸(光の皇子、安羅)であって、彼

らは今来の有力な皇位継承者の氏族であったのだろう。

[1292] 石の余談 3  神奈備 2005/06/19(Sun) 20:52 [Reply]
 さて、話は熊野の有馬に跳ぶ。『日本書紀』伊弉册尊、紀伊国の熊野の有馬村に祭る。これは産霊信仰ではなく仏教の影響で原初修験道の影響の台詞。もともと、花窟神社の伝承として、「土俗、此の神の魂を祭るには、花の時には亦、花を以て祭る。又、鼓、吹、幡旗を用て歌ひ舞ふて祭る。」とあるのは地域の産霊信仰であったはず。伊弉册尊は持ち込まれたお話で、地域の氏神のお話。

 有馬については、出雲からの移動の伝承が残っている。「渡来人が出雲から入りこみ、出雲の炭焼きを業とする集団で、縄文晩期に大挙して紀伊に移住した。」という伝承である。また、「朝鮮半島から出雲東部に渡来した有馬氏がスサノオ信仰を持ち、これを紀伊に伝えた。」とも言われてる。
 また、和歌山県御坊市熊野(いや)に鎮座する熊野神社(いや)の由緒書きに、「往古出雲民族が紀伊に植民する際にその祖神の分霊を出雲の熊野より紀伊の新熊野に勧請する途中、『当社に熊野神が一時留まりませる』ということが当神社の由緒になっている。」とある。百済辺りからの渡来人の入植には上記のような伝承で語ったのであろう。

[1293] 石の余談 4  神奈備 2005/06/20(Mon) 20:15 [Reply]
 花窟神社に縁の産田神社と熊野本宮大社では、同じ巫女舞が伝承されていたと

いうが、これはどうやら、有馬から本宮に祭祀が伝わっているとのこと、即ち有

馬一族の拠点が本宮にもあったと想定される。

 伊勢・志摩(二見浦)、熊野有馬(花窟)、熊野神邑(神倉)、熊野本宮(船

玉社)と磐のネットワークでつながっているが、斉明〜持統朝の頃は、未だ大和

の王権から見ていると、油断のならない海人の連中であったようだ。それゆえ、

神武さんを熊野経由にしたり、高倉下を称えたり、持統さんがわざわざ伊勢まで

行ったり、サービスに努めているようだ。

[1294] 石の余談 5 最終  神奈備 2005/06/21(Tue) 17:46 [Reply]
 有馬皇子の反乱の戦略はもろくも崩れたのであるが、それは本質的には彼はボッチャンだったことにつきるのであるが、以下、その戦略を想定して見よう。

 『斉明紀』或本。「先ず、宮を燔き、五百人を以て、一日両夜、牟婁津を邀へて、疾く船師を以て淡路国を断らむ。牢圄なる如くならしめば、其の事成し易けむ。」とある。
 軍略とは、淡路島からの援軍を遮断、田辺湾北側を封鎖、が主である。この五百人は難波からの兵と言うよりは、熊野本宮辺りの有馬皇子に縁の兵であろうし、淡路島との連携を断つのも熊野水軍であったと思われる。飛鳥の宮を焼くことは、都に混乱を招くことでもあったのだろうが、謀反挙兵の合図であったと考えられる。各地には二日程度で連絡出来たのであろう。

 所が、蘇我赤兄あたりにうっかりと謀反の意志を伝えることで、まんまと失敗に終わる。白浜に連行されると言うよりは、斉明天皇、中大兄皇子らは急遽引き返して来る。藤代坂で落ち合い、有馬皇子以下を絞殺するのである。藤代は熊野への入り口と見なされていたのではなかろうか。後に鳥居が出来、これより南は熊野の神々の領域となる。その萌芽があったのかも知れない。

 万葉集は、有間皇子の歌を二首載せている。
家にあればけ笥に盛るいい飯を草枕旅にしあればしい椎の葉に盛る
(家にいたならば、茶碗に盛るご飯であるが、旅の途中であるので、椎の葉に盛る)

磐代の浜松が枝を引き結び、まさきくあらばまた帰り見む
(海岸の松の枝に願い事を書いた紙を結び、運が良ければ帰りに見ることができよう)

これらの歌は捕まって連行される間に歌ったとされているが、そうではあるまい。囚人が祭りをしながら連行される、というほど牧歌的な状況ではなかったのではと思う。