UGA ウガネット 武蔵の神々

1. 武蔵の国の国造
 埼玉県、東京都、神奈川県川崎市、横浜市の一部が武蔵国であった。

武蔵の国の郡

 『先代旧事本紀』の「国造本紀」には、「无邪志國造 志賀高穴朝(成務朝:4世紀後半)の世に 出雲臣の祖 兄多毛比命を国造に定め賜う。」とあり、邪馬台国時代から1世紀、武蔵国に地域を代表する豪族や王が出現していても不自然ではない。後世、その人物を国造と称したのであろう。
 6世紀前期の安閑朝では、笠原直使主が武蔵国造になるも、内輪もめを起こし、朝廷は物部氏を派遣して鎮圧した。それを契機に物部氏が関東平野に跋扈することになった。やがて、それら物部氏を束ねるため、物部直が置かれた。物部を名乗っているが、出雲臣と同祖、すなわち天穂日命を祖神としていた。欽明天皇の頃(7世紀央)、物部直が国造に就任した。
 8世紀中頃の恵美押勝の乱の鎮圧に 武蔵国足立郡領家出身の丈部直不破麻呂が功績をあげ、武蔵國造に就任した。武蔵宿祢の姓を賜る。物部直を圧倒。製鉄・鍛冶を配下に置いた。


2. 物部直が祀った神
  アラハバキ社、門客人神社、荒脛社、荒波々伎神社と書かれる神社がある。現在では殆どが本社ではなく、摂社や合祀されている。この神は津軽から奥州、関東、三河、出雲に分布している。以下、谷川健一著『白鳥伝説』からアラハバキについて引用する。

 神社の門に衣冠束帯姿で、脛巾をつけた二体の随身の木像があり、それをアラハバキと称しているところが見受けられる。アラは荒拷などのアラであり、ハバキは脛巾のことである。朝延の御門を守る衛士が脛巾をつけているところから起こった名であると考えられている。栗田寛は「阿良波婆伎」と題する論文の中で、『一宮巡詣記』の中の出雲の佐陀神社の図の中にあらはばきの門のあることを指摘している。佐陀神社の本殿には古くは隼人の木像が並べてあったと私は朝山宮司から聞いたことがある。隼人の犬吠えは宮門または天皇の行幸のとき、道の曲がりかどなどでおこなわれた。これが邪霊を払う呪術であったことを考えると、佐陀神社の本殿に隼人の木像が置いてあったのは、邪悪撃退のためのものであったと考えるよりほかない。あらはばき門というのも、それとおなじ役割をもっていたのであろう。

 アラハバキが門を守る仕事をするのは、宮門を守る大伴、佐伯両氏や豊石窓神、櫛石窓神と同様である。しかしそれだけでアラハバキの性格を言い尽くしたことにはならない。というのはアラハバキを神として祀り、それを門客人神としている神社がいくつもあるからである。門神というならばともかく、門客人神というのは、神社の門におかれた客人神ということであるから、随身または随神という脊属の神を指すのではなく、客分という身上の神であることは明らかである。この言葉は柳田、折口、中山などの指摘するように、地主神がその土地をうばわれ、後来の神と主客の立場を転倒させて、客神となったことを物語っていると思われるのである。

 そのことを次にみてみよう。

 アラハバキを神として祀る神社としては、埼玉県大宮市、もと武蔵国足立郡の氷川神社があげられる。今日でも、本殿の脇に門客人社が祀られている。『新編武蔵風土記稿』の足立郡の条には、氷川神社に摂社門客人社のあることを記載している。祭神は豊石窓、櫛石窓の二神であるが、古くは荒脛巾神社と呼ばれていたことを述べている。氷川内記が神職であったときに、神祀伯吉田家へとどけ出て、門客人社と改号し、テナヅチ、アシナヅチの二座を配社した。出雲国杵築の摂社に門客人社というものがあって、豊石窓、櫛石窓の二神を祀っているというから、門客人の名はこれにもとづくものであろう、と言っている。

 氷川神社の門客人社は今日でもテナヅチ、アシナヅチを祀るとされている。『新編武蔵風土記稿』には、孝昭帝のとき、出雲の氷(簸の川上に鎮座していた杵築大社をうつし祀ったものであるので、氷川神社の神号を賜ったと社記に書いてある、と述べている。それは武蔵国造が出雲国造と同族であるということを背景にした社伝で、『地名辞書』もそれにしたがっているが、氷川を出雲の簸の川としないで、『新撰姓氏録』に記載された氷連にあてる説もある。氷連はニギハヤヒの十世の孫の伊己灯宿爾の後とある。とすれば物部氏族である。『旧事本紀』の「天孫本紀」には五十琴宿爾とある。氷川神社の詞官が物部姓であることは、『神名帳考証』にも述べている。したがって、氷川神社を物部氏族の祀る神社と考えることもできる。氷川神社が出雲族の神社であるか、物部氏の神社であるかはさておくとして、氷川神社の神職が出雲の杵築大社にある門客人社の名をつけたことはたしかであろう。(氷は甲類 hi、簸は乙類 fi 神奈備注)

 問題は荒脛巾神社と呼ばれていたものをどうして門客人社というふうに名前を変えたかといぅことである。それはとりもなおさずアラハバキの神に客人神の性格があるからで、それ以外の理由は考えにくい。つまりアラハバキが地主神であったところへ外来の神がやってきてその座をうばったということが、そこにはほのめかされているのである。 中略

 アラハバキの神とは何か。

一、もともと土地の精霊であり、地主神であったものが、後来の神にその地位をうばわれ、主客を転倒させられて客人神扱いを受けたものである。
二、もともとサエの神である。外来の邪霊を撃退するために置かれた門神である。
三、客人神としての性格と門神としての性格の合わさったものが門客人神である。主神となった後来の神のために、侵入する邪霊を撃退する役目をもつ神である。 引用終わり
 
 武蔵には120社を越える氷川神社が鎮座しており、その内18社の境内に アラハバきを祀る摂社が鎮座している。   

大宮の氷川神社の門客人社


見沼の中氷川神社の摂社


3.丈部直が祀った神
 物部首が祀ったアラハバキ社に被せて、氷川神社を祀り、アラハバキをを摂社にして主神を軻遇突智神としたのは、新しい国造の丈部直・武蔵宿祢である。武蔵国足立郡領家出身の丈部直不破麻呂は、孝謙上皇・道鏡の時に起こった恵美押勝の乱の鎮圧に功績があったとして、武蔵国造の地位についた。製鉄・鍛冶を本格的に行い、火神の神霊を祀ったのである。
 氷川神社の祭神はやがて素戔嗚尊、櫛稲田比売、大国主命となって現在に至っている。

4. 女体社
 本社を女体神社と称する神社は全国で28社、その内、武蔵の国で16社、讃岐で3社、下総で2社となっている。
 さいたま市緑区宮本に鎮座する氷川女体神社は見沼田んぼの周縁部にある。他の女体社と比べて別格の規模を持っている。この神社の社叢は明治神宮の見本とされた程である。創建年代は崇神天皇の頃と伝わっているが、文献で確認できるのは、鎌倉時代後期までである。氷川神社の本社である大宮の氷川神社との関連は江戸時代にできあがったようである。
 埼玉県北葛飾郡鷲宮町の鷲宮神社には女体社が合祀されているが、この女体社は『新編武蔵風土記稿』に、「天正十五年(1587)法印円範建立す。」とある。他の女体社も元禄時代には鎮座していたようで、一定の地域に集中して鎮座しているのは、所謂流行神(はやり神)の現象として16世紀頃に勧請されたのであろう。鎮座地は河川の流域であるのは、女神である船霊を祀ったからである。

女体社は河川周辺に分布している。

5. 杉山神社
杉山社・杉山神社を名乗る神社は『平成祭りデータ』では、50社に及ぶ。武蔵の45社が鎮座、神奈川県が密集地である。
杉山神社の国史上の初見は『続日本後紀』で、「承知二年(838)武蔵国都筑郡枌山神が霊験あらたかなるをもって官社に列せられた。」とある。また延喜式神名帳には武蔵国四十四座の中に都筑郡一座(小社)として杉山神社が記載されている。
 『新編武蔵風土記稿』には都筑郡二十四社、橘樹郡三十七社、久良岐郡に五社、多摩郡に六社、計七十二社が記されている。
昭和十四年の『神奈川県神社写真帳』には、二十五社が記載されており、祭神について
日本武尊 十一社
五十猛命  七社
日本武尊・五十猛命  二社
その他素戔嗚尊、大己貴命、大山祇命など。
五十猛命は杉山の杉と植樹の神であることが結びついたのであろう。
日本武尊は東征伝説によるものか、タケル神連想で五十猛命からの変化か。
なお、『新編武蔵風土記稿』には、都筑郡茅ヶ崎の杉山神社の祭神を高御産巣日大神、天日鷲神、由布津主の三柱の神を祀るとしている。多摩郡(現町田市)の椙山神社は五十猛命としている。

杉山神社の分布


参考文献
『武蔵野古代史』森田悌 さきたま出版会
『小さき社の列島史』牛山佳幸 平凡社
『日本の神々11関東』谷川健一編 白水社

                               以上

                                                   

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