ウガネット 琉球


1. をなり神

 明治初期までの琉球は独立国であり、米国ペリーと琉米修好条約を締結していた。琉球王の姉妹や后が国家最高のの神官である聞得大君(きこゑおおきみ)になっていた。彼女を頂点とする地方の神職である祝々(のろ)までが神と称されていた。そこで今なお、一切の女人が、その兄弟等に、「をなり神」として崇められている。「をなり神」に「姉妹の生御魂」の義がある。妹の枕元を歩かない、けんかをしたら、兄がひっこむ、いいものをもらったら、まず妹にあげる、と言ったことが日常生活の中でおこなわれる。
 琉球では、兄弟のことを、ゑけり、姉妹のことを、をなり、と言う。ところが、兄弟姉妹のことを、をなり・ゑけり、と女性上位の表現になり。これは南島全体の共通した表し方と言える。
 柳田国男は、『妹の力』の中で、次のように記している。
 往古の祭祀祈祷の宗教上の行為は,肝要な部分はことごとく婦人の管轄であった。
 巫は女性であって、家々の婦女は必ず神に仕え、その中の最もさかしき者が、最もすぐれた巫女であった。これには数千年の根底がある。日本の男子にとって、未来に対する疑惑と杞憂とは、仏教やキリスト教では処理しつくすことができなかった。その欠陥を満たすべき任務は、太古以来同胞の婦女に属していた。
兄の寂寞を妹が慰めるのも、いわばこの民族の一続きの大いなる力であろう。


2. 久高島の例 以下しばらく<『をなり神の島』伊波普猷 から/B>

 故郷を離れる男子には、「をなり神」が終始つきまとって、自分を守護して呉れるという信仰があった。姉妹の項(うなじ)の髪の毛を乞うて守り袋に入れ、或いは手拭いを貰って旅立つ風習が行われていた。姉妹(をなり)のない時は、従姉妹(いとこをなり)なりのそれを貰って、お守りにした。
   琉歌。          意味
おみなりが手巾     (姉妹の手拭いは)
まぼるかんだいもの   (我が守護神なれば)
引きまわし給れ     (我を庇護し給れ)
大和までも       (日本に行ってまでも)


3. 普天間権現に伝わる民間伝承

 父と長男が支那に行った時の話。ある晩妹が睡眠中、大きな音をたててもがくので、一緒に寝ていた母が、なぜそんなことをするのかと、一方の手をつかまえて揺り起こしたら、惜しいことをした、二人の乗った船が、今嵐に巻き込まれたところで、右の手で兄さんを助けて、左の手でお父さんをつかまえようとするところを、手が動かなくなって、お父さんを助けることが出来なかったと言った。
 程経て支那に行った兄から手紙が来て、途中で船が難破して、自分は助かったが、父は溺死したとのことであったので、皆々びっくりしたということである。

 彼女は他家に嫁がず、家族以外の人に見られたことがなかった。ある時、妹の夫に姿を見られたので、普天間の洞窟に逃れて、後日神として祀られた。今に至るまで、旅立つ人が、普天間に参詣して旅行の平安を祈るのは、こういうことから来たのである。「をなり」が「ゑけり」と別れるのを悲しんで、結婚を忌避した消息を語るものである。
 2.3.の話は、伊波普猷著『をなり神の島』から引用。



4. 宮古島の船立御嶽の由緒 宮古島市平良

 神代に久米島按司という人に一人の娘がいた。兄嫁は邪険放埒な女で娘を邪魔に思い、按司にこの娘は毎夜しのんでくる男がいると讒言した。按司はこれを信じ怒って娘を小舟に乗せて沖に流した。これを見かねた兄は小舟に泳ぎ乗り、妹とともに漲水の浜に漂着、その夜の夢に神のお告げがあり、兄妹は船立の地に移り苫屋を設けて住んだ。
 里人の水くみや薪運びなどを手伝って暮らしていたが、やがて妹は住屋里かねこ世の主と夫婦となり九人の男子を儲けた。成人した子供達は祖父に逢いたいと思い、母を伴って久米島に行き、按司に対面した。按司は先罪を悔いて親子の愛を尽くし、黒がね・巻物を引き出物に贈って宮古島に返した。
 兄はこの黒がね・巻物を基に鍛冶屋を起こし、ヘラ・鎌などの農具を作ったので農業が発達し豊穣の世になった。万民飢えをしのぎ、安楽に暮らせるのはこの兄妹のお陰だとして、二人の白骨を船立山の納め御嶽の神として崇めた。

 この話は直接的には「をなり神」の話ではないが、兄を霊的にに妹が守るということは、兄が社会的に妹を守るという相互扶助の考え方があることを示しているように思える。

船立御嶽


5. 池間島の話

  宮古島の隣の池間島の若者が航海途中、にわかに風波が荒れ、船は水浸しとなった。陸の仲間達は一心不乱に祈った。天のぶなりや(妹)は白鳥となって船霊のひもろぎであるホンプー(本帆)の頭にとまった。すると風の神はちからを弱め、雨の神はその手をやすめた。宮古島や池間では、「をなり神」の信仰はないとされているので、上記の話は後世の作り話であるが、池間に兄妹婚がおこなわれていた。この作り話の背後には兄妹相姦とか兄妹神が現実に存在していたことは否定できない。
 兄妹相姦とか兄妹神は琉球に限らない。東南アジア一帯に見られる。琉球には兄妹相姦が現実に存在していたので禁忌はいっそう厳しいものがあった。兄妹間の性愛は哀切をおびるのはこれゆえである。「をなり神」信仰の根底に兄妹間の性愛があると見るべきだろう。


6. 古代日本の同母兄妹婚 記・紀から

○神世七代の後半四代の対の神々、七代目は伊邪那岐神・伊邪那美神である。

○若倭根子日子大毘々命(開化天皇)、伊迦賀色許売命を娶して、生みましし御子、御真木入日子印恵命、次に御真津比売命。二柱。所が、崇神天皇の段では、御真木入日子印恵命、大毘古命の女、御真津比売命を娶して生みましし御子、伊玖米入日子伊沙知命(垂仁天皇)とある。同母兄妹婚をごまかそうとしたが、失敗している。

○浅津間若子宿禰命(允恭天皇)が忍坂之大中津比売命を娶して、木梨之軽王、長田大郎女、穴穂命、軽大郎女、亦の名は衣通郎女、御名に衣通王と負はせる所以は、その身の光、衣より通り出づればなり。木梨之軽王と軽大郎女との性愛は有名な事件であった。

○穴穂命(安康天皇)が長田大郎女(大日下王の摘妻であった)を皇后とした。

○『日本書紀』巻二五白雉四年(六五三)是歳
是歳。太子奏請して曰く。願わくは倭の京に遷りたい。天皇は許さなかった。それで皇太子は皇祖母尊・間人皇后を奉じ、并せて皇弟等を率いて倭の飛鳥河邊行宮に居します。時に公の卿大夫・百官人等皆隨ひて遷った。天皇は恨に國位を捨てた。そうして間人皇后に送って曰く。
舸娜紀都該。阿我柯賦古麻播。比枳涅世儒。阿我柯賦古麻乎。比騰瀰都羅武箇。
 かなきつけ あが飼う駒は 引出せず  吾が飼う駒を  人見つらむか
 当時、「見る」とは、男女相会うとの意味があり、皇太子と皇后の仲を深く疑った。
 孝徳天皇の次に天皇になってもよい年齢(28)であったにもかかわらず、高齢の母親の斉明天皇を重祚させているのは、なかなか天皇になれなかった理由として同母兄妹の性愛を疑われていたとの見方がある。


7. ヒメヒコ制

 日本の女性は男性のもたない特殊な霊力をもち、巫女王、神の嫁、采女、斎王、遊女などの古代王権にかかわって来た。そして、王権と女性という問題の根底に本土のヒメ・ヒコ制や沖縄の「をなり神」の信仰がある。本土のヒメ・ヒコ制は『魏志倭人伝』に記述のある邪馬台国の卑弥呼とその弟の関係にまでさかのぼる。この二人は3世紀ごろに実在した人物。
 女性が霊力をもつと信じられたのは、神がかりによる特殊な予知能力をもつからである。つまり憑霊型の女性シャーマンである。故上田正昭氏の巫女王説では、日本の古代における巫女王として、卑弥呼、壱与、神功皇后、飯豊女王をあげている。全員、憑霊型の女性シャーマンと思われる。


8. をなり神信仰の歴史  『琉球文学』屋嘉宗兄 から

1) 村落時代(3・4世紀から12世紀)
 御嶽が兄弟達(村の指導的男子、村長)の信仰の対象であるのと同時に、一切の社会的活動は、これを中心に展開された。つまり神託と加護が、村長の日常生活の支えであり、祭祀をとりおこなうことによって保たれて北。この祭祀を司ったのが姉妹=をなりであり、その神託により政治を行ったのが、村長であった。すなわち祭祀摘主権はをなりが持ち、政治的主権は村長が持つと言う政教二重主権の形態がとられていた。ヒメヒコ制であり、ここに「をなり神」信仰を見ることができる。

2)按司時代(12世紀〜15世紀)
  按司とは村長から発達した形態で、村落の均衡が破れ、各村を束ねた太村長を按司と言う。祝女(のろ)は、按司の支配下にある各村落のをなり達を支配した祭祀的主権者で、按司の姉妹(をなり)が任じられた。  

3)王国時代(15世紀〜17世紀初期)
  第二尚氏時代の尚真王(1477〜1516)のときに。神女の組織化は完成した。中央集権を確立し宗教的統一により、それを維持しようとした。
 祭祀的主権者である聞得大君は国王の姉妹(をなり)から選択され、聞得大君を頂点とした大阿母志良礼(おおあむしられ)、その下に各村々に祝女(のろ)さらにをなりがいた。このことは、をなりの力がいかにおおきく政治におよんでいたかを示すものでありこの時代においても、政教二重主権の形態がとられていた。


9.勝連町の漁村の神歌

  『赤倭の世直し』名護博 現代語  勝連町は本島東側の半島の南部の町
 うーとーと うー尊        あー尊・あー尊いことだ
 いづがぎー あめーらわん   水掛け勧えても
 てだがぎー はくらって     太陽 掛け誇られて
 神のうんまりたちや       神の生まれ立たちは
 やまとのふそ(ん)のうたけ  大和の臍の御嶽
 うちなーならわん        沖縄だけになっても
 すぢがもとたてて        霊統の元をたてて
 うやの神はうんつけーしやびら 親の神におつかえしよう
 やまとからくだる        大和から降った
 あかわんのよーし       赤椀の世直し
 なかむらち うしゃくしゃびら 中盛らして御酌しよう
 やしろからくだたる      山代から降った
 くるわんのよーし       黒椀の世直し
 はたもらら うしゃくしゃびら 端盛らして御酌しよう
 『南島歌謡大成 沖縄編 上』

 自分たちの崇める神は大和の臍の御嶽のお生まれである、と言っている。これを唱える時、神女(のろ)達は匂玉を首にかける。匂玉を掛けるのは本土では古墳時代に終わっている。今、残っているのは沖縄だけである。古墳時代かそれ以前に伝わった神歌と考えられる。沖縄が崇める神はアマミキヨ(大和=天ノ宮)であろうが、シネリキヨと対の稲作の神である。何故、女神が大和から赴いたのかであるが、弥生時代末期までゴブウラやイモガイと言う貝が腕輪の材料としてもたらされていた。ゴボウラ貝は太陽の巻き貝と言われ、沖縄は常世の国だと思われていた。ここに赴いた女神は、ヒミコになった倭迹迹日百襲比賣命の妹の倭飛羽矢若屋比賣命が相応しかろうと考えているが証拠はない。


10. 沖縄紀行  平成7年12月

 ○斎場御嶽(セーファ御嶽)  本島
琉球神道第一の聖地、とされるのは、琉球神道の最高の神職聞得大君が就任儀礼である御新下(おあらおり)をする聖地であるから。御嶽の奥に三角形の空間の突き当たりがあり、三庫理(サングーイ)、右側がチヨウノハナの拝所とされる。三角岩をくぐると岩場があり、久高島がよく見える。昔アマミキョが天から降って久高島をつくったが、あまりに小さいので、沖縄本島に渡り、斎場御嶽をつくったという伝えがある。久高島と一体である。

 ○漲水御嶽(ツカサヤー) 宮古島
「人蛇婚伝説」がある。 下里南宗根の住屋に美しい娘がいた。蕾の頃に懐妊したので両親は怪しみ、問いつめると、名はわからないが、麗しい男子が夜な夜な忍んできたと言う。両親はその男を突き止めようと、長い麻糸の先に針をつけ、男が来たらこれを髪に挿すように命じた。
 翌朝、その糸をたどると、漲水御嶽のイベ(神霊の座素場所:祠)の洞窟の中だった。そこには大蛇が身を横たえており、針は首に刺さっていた。
 その夜、娘の夢に大蛇が現れ、「吾は宮古の島建の神である。守護神を生むために汝のもとにしのんだ。汝は三人の娘を生む。三歳になったら漲水御嶽に参れ。」と言った。
 娘達は三歳になり、漲水御嶽に連れて行った。娘達は大蛇にはいより、首・胴・尾に抱きついた。三人娘は御嶽の中に入って姿を消し、島守の神になったという。

 ○宮古島の北側の大神島山頂の磐座、大神山頂の神事
 大神島山頂の遠見台跡には登り口から木造の階段が延々と続く。
 巨岩があり、その下で神女が数名いて、神事を行っていた。また、頂上には木で約8畳程度の広場は作られており、北側にパンなどの供え物が並べられていた。トゥンバラと呼ばれ、海上の彼方の楽土ニライカナイから来訪する神の航海の目印になると言う。
 しばらくすると小雨が降ってきたがすぐやんだ。北側に虹が出た。 神女さん方があがってきて北を向いて並び、神事が開始された。宮古島に来て神女の神事の現場に行き当たるとは何という幸運か。約1時間に渡る神事の間、一人の神女が歌を歌うように祈りの声をあげていた。涙声になることもあった。多くの神々の名前を呼んでいたなかに不動明王の名もあった。トランス状態に入っているようだ。 航海安全と豊漁の神への願い事かと思われる。
 神事が終わると神女さん方は陽気に踊りを始めた。普通の老婆であり、おばさんであった。


斎場御嶽 三角岩


漲水御嶽 本殿とカジュマル


大神島 神事を行う神女達


参考資料
『琉球文学』屋嘉宗兄 近代文芸社
『をなり神の島』伊波普猷 東洋文庫
『妹の力』柳田国男 岩波文庫
『赤倭の世直し』名護博 ゆい出版


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