靖国問題への一つの意見の紹介 畏友足代健二郎氏が大阪日日新聞に載せた文 2006/04/25 靖国−「分祀」と「分遷」 靖国・A級戦犯の問題がいつまでもくすぶり続けている。
今回も(昨年十二月十三日付『澪標』同様)「ゴマメの歯ぎしり」だが、靖国神社さんには「いいかげんにしてくれ」と言いたい。
ことは今から二十八年前の昭和五十三年、時の靖国神社・松平永芳宮司の独断専行に端を発する。昭和天皇は松岡洋右(三国同盟を結んだ外相)がお嫌いで、彼
を含む(いわゆる)A級戦犯の合祀(ごうし)には不同意のお気持ちだったらしい。そのため前任の筑波藤麿宮司は合祀を保留して「鎮霊社」(昭和四十年創
建)という境内社に、同四十一年その霊を祭ったが、その跡を継いだ松平宮司は昭和天皇のご意向を無視して本殿への合祀を断行した、といわれている。(『侍
従長の遺言』『現代史の対決』などによる)
この(いわゆる)A級戦犯の人たちに対して、神社側ではB・C級の受刑者をも含めて「昭和殉
難者」と呼んでいる。わたしもその呼び方が一概に不当だとまでは思わないが、(そこで、以下『A級被告人十四人』などと仮称する)わたしのような凡人の感
覚からすれば、A級被告人の合祀は今次の大戦が昔話になるくらいまで、半永久的に保留しておくべきだった、と思う。幸い、この人たちを祭る「殉国七士廟
(びょう)」というものも立派に存在する。(三河湾国定公園・三ケ根スカイパーク・三ケ根山頂=標高三五〇メートル。昭和三十五年創建)
問題のA級被告人十四人のうち、この七士廟に祭られているのは東條元首相ら絞首刑になった七人だけである。刑期中に病死した五人、松岡元外相ら判決前に病
死した二人の人たちは七士廟には祭られていない。しかし、どうしても必要というなら適当な場所に奉斎すればよいのであって、戦死者を主たる祭祀(さいし)
の対象とする靖国神社に無理やり一緒に祭る必要はない。
では、すでに合祀してしまった十四人の霊をどうするか−。神社側では、「本来教
義・経典を持たない神道では、信仰上の神霊観念として諸説ありますが(=靖国神社見解)」(1)いったん合祀した霊魂は合体して不可分となるので、特定の
祭神だけを切り分けてほかの場所に移すということは神道の信仰上絶対にありえない(2)「分祀(ぶんし)」とはろうそくの火を別のろうそくに移すのと同じ
で、移しても元の火(霊)は無くならない−と言っている。
確かに「分祀」の一般的な意味は(2)の通りである。(全国の八幡宮・天満宮
などがその例)しかし、靖国問題の場合の「分祀」は、複数の祭神の一部を分離して別の場所に移す、すなわち「分遷」の意味で使われており、この「分遷」は
国史上に確かな例証がある(『続日本紀』大宝二年二月己未の例)。従って、「分祀」の意味をことさらに限定して論点をそらし、問題をこじらすべきではな
い。
そもそも勅祭社たる靖国神社の場合、祭神の増祀には勅裁を仰ぐ決まりとなっていた。戦後、独立の一宗教法人となったとはいえ、明治
天皇による創建という由緒を考えれば、一宮司や総代会の勝手気ままが許されるというはずがない。一般人ならともかく、神道を奉じる神職たる者が叡慮にそむ
いて合祀を強行するなど道に外れた言語道断の所業というべきであろう。
その結果が、今日の混迷につながっているのである。上記(1)の
信仰上の論理は一応理解できるとしても、合祀強行という出発点が正当性を欠いていたのであるから、ここは率直に合祀前の状態に戻すべきだ。すなわち、A級
被告人の神霊は新たな御霊代(みたましろ=御神体)を調製してそれに移し、境内の「鎮霊社」に復祀(=神霊を元の社に戻すこと)して丁重に祭ればよい。ほ
とんどの遺族も、多くの国民も納得すると思う。
(あじろ けんじろう 大阪市生野区鶴橋五)
文中の「この「分遷」は国史上に確かな例証がある(『続日本紀』大宝二年二月己未の例)」とは伊太祁曽三神の分遷のことです。
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