靖國参拝

[7506] 靖国問題  神奈備 2006/06/14(Wed) 19:51 [Reply]
靖国問題への一つの意見の紹介
畏友足代健二郎氏が大阪日日新聞に載せた文
2006/04/25
靖国−「分祀」と「分遷」
 靖国・A級戦犯の問題がいつまでもくすぶり続けている。

 今回も(昨年十二月十三日付『澪標』同様)「ゴマメの歯ぎしり」だが、靖国神社さんには「いいかげんにしてくれ」と言いたい。

  ことは今から二十八年前の昭和五十三年、時の靖国神社・松平永芳宮司の独断専行に端を発する。昭和天皇は松岡洋右(三国同盟を結んだ外相)がお嫌いで、彼 を含む(いわゆる)A級戦犯の合祀(ごうし)には不同意のお気持ちだったらしい。そのため前任の筑波藤麿宮司は合祀を保留して「鎮霊社」(昭和四十年創 建)という境内社に、同四十一年その霊を祭ったが、その跡を継いだ松平宮司は昭和天皇のご意向を無視して本殿への合祀を断行した、といわれている。(『侍 従長の遺言』『現代史の対決』などによる)

 この(いわゆる)A級戦犯の人たちに対して、神社側ではB・C級の受刑者をも含めて「昭和殉 難者」と呼んでいる。わたしもその呼び方が一概に不当だとまでは思わないが、(そこで、以下『A級被告人十四人』などと仮称する)わたしのような凡人の感 覚からすれば、A級被告人の合祀は今次の大戦が昔話になるくらいまで、半永久的に保留しておくべきだった、と思う。幸い、この人たちを祭る「殉国七士廟 (びょう)」というものも立派に存在する。(三河湾国定公園・三ケ根スカイパーク・三ケ根山頂=標高三五〇メートル。昭和三十五年創建)

  問題のA級被告人十四人のうち、この七士廟に祭られているのは東條元首相ら絞首刑になった七人だけである。刑期中に病死した五人、松岡元外相ら判決前に病 死した二人の人たちは七士廟には祭られていない。しかし、どうしても必要というなら適当な場所に奉斎すればよいのであって、戦死者を主たる祭祀(さいし) の対象とする靖国神社に無理やり一緒に祭る必要はない。

 では、すでに合祀してしまった十四人の霊をどうするか−。神社側では、「本来教 義・経典を持たない神道では、信仰上の神霊観念として諸説ありますが(=靖国神社見解)」(1)いったん合祀した霊魂は合体して不可分となるので、特定の 祭神だけを切り分けてほかの場所に移すということは神道の信仰上絶対にありえない(2)「分祀(ぶんし)」とはろうそくの火を別のろうそくに移すのと同じ で、移しても元の火(霊)は無くならない−と言っている。

 確かに「分祀」の一般的な意味は(2)の通りである。(全国の八幡宮・天満宮 などがその例)しかし、靖国問題の場合の「分祀」は、複数の祭神の一部を分離して別の場所に移す、すなわち「分遷」の意味で使われており、この「分遷」は 国史上に確かな例証がある(『続日本紀』大宝二年二月己未の例)。従って、「分祀」の意味をことさらに限定して論点をそらし、問題をこじらすべきではな い。

 そもそも勅祭社たる靖国神社の場合、祭神の増祀には勅裁を仰ぐ決まりとなっていた。戦後、独立の一宗教法人となったとはいえ、明治 天皇による創建という由緒を考えれば、一宮司や総代会の勝手気ままが許されるというはずがない。一般人ならともかく、神道を奉じる神職たる者が叡慮にそむ いて合祀を強行するなど道に外れた言語道断の所業というべきであろう。

 その結果が、今日の混迷につながっているのである。上記(1)の 信仰上の論理は一応理解できるとしても、合祀強行という出発点が正当性を欠いていたのであるから、ここは率直に合祀前の状態に戻すべきだ。すなわち、A級 被告人の神霊は新たな御霊代(みたましろ=御神体)を調製してそれに移し、境内の「鎮霊社」に復祀(=神霊を元の社に戻すこと)して丁重に祭ればよい。ほ とんどの遺族も、多くの国民も納得すると思う。

 (あじろ けんじろう 大阪市生野区鶴橋五)

文中の「この「分遷」は国史上に確かな例証がある(『続日本紀』大宝二年二月己未の例)」とは伊太祁曽三神の分遷のことです。
[7520] Re[7506]: 靖国問題  神奈備 2006/06/22(Thu) 19:53 [Reply]
『続日本紀』文武天皇大宝二年二月己未条には、当伊太祁曽神社に関する初見記事。

二月二十二日、この日、伊太祁曽・大家都比売・都麻都比売をそれぞれの地に分け遷した。(原文 是日。分遷伊太祁曾。大屋都比賣。都麻都比賣三神社。)

延喜式神名帳に紀伊国名草郡の神社として上記記事に関連の神社があります。

伊太祁曾神社[イタキソ](名神大。月次相甞新甞。)
大屋都比賣神社[オホヤツヒメ](名神大。月次新甞。) 
都麻都比賣神社[ツマツヒメ](名神大。月次新甞。) 

それぞれ一座です。神社名からも明かなように、それぞれの神々が分けて祀られています。分けられる以前は、まとめて祀られていたのです。

現在の伊太祁曽神社には本殿の左右の脇殿に大屋都比賣と都麻都比賣とがそれぞれ祀られています。摂社の扱いで、本殿には五十猛神一柱です。

要するに、分遷と言う事例はあったのであり、これを否定することは出来ません。

分遷を靖国神社に当てはめて、東条以下の兵を戦地に送り出した者達と送り出されて戦死した者とを分けることは可能とする説があり、まっとうなものと思われます。靖国神社もちゃんとした神道系の神社であれば、分遷の可能性を認めるべきでしょう。

ただ、歴史の浅い、かつ神社庁に加盟しておらず、教義がはっきりしない靖国神社と鎮座(分遷後)1300年を経た伊太祁曽神社とを比較するのは伊太祁曽神社に失礼にあたる話であります。

靖国神社から発せられるメッセージからは、この神社は多分一つの神道系の新興宗教の団体と見なしていいのでしょう。現在の宮司が出来ないと言えばできないのであり、出来ると言えばできるのであると言う存在なのでしょう。

本来祀られるべき英霊達は東条さんと一緒を喜んでいるのでしょうか。東条さんらがいることで昭和天皇は参拝されなくなりました。今上天皇も参拝されていません。英霊達はそれでもいいのでしょうか。
[7521] Re[7520][7506]: 靖国問題  nick [Url] 2006/06/23(Fri) 14:23 [Reply]
靖国神社と云えば、上京して真っ先に参拝に
行った神社です。
母の兄弟3名が戦死しておられるので、母の依頼もあって
先ずお参りしなければと。
明治神宮は、それから5年位後ですから、
田舎から上京しての感慨は如何程かは。

当地には、「天孫降臨」の祭神を祭祀している霧島神宮がありますが、
当初は高千穂の峯山頂付近にありましたが、数度の噴火や
火砕流で遷座を余儀なくされ、文明16年(1484):
長尾山に遷座の後東西に分けられ東社が霧島東神社
西社が現在の霧島神宮に遷座されました。

「純粋な気持ち」で慰霊・参拝が出切ることを
遺族の方々も熱望されているのでは。
[7522] Re[7521][7520][7506]: 靖国問題  神奈備 2006/06/23(Fri) 17:35 [Reply]
> 「純粋な気持ち」で慰霊・参拝が出切ることを遺族の方々も熱望されているのでは。

 nickさんがおっしゃる通り、靖国神社にまつわるモヤモヤを晴らしたいものです。

私 が足代氏の投稿を紹介させて頂いたのは、神道上の問題としての分祀(分遷)が出来る−伊太祁曽神社の先例がある−と考えるのにもかかわらず、靖国神社サイ ドは出来ないと突っ張っているのが問題であること、またどうやら昭和天皇の意向を無視して東条氏らの合祀を強行したようであり、それでは市井の足代さんを 応援しようとの気持ちからです。
決して中韓のご機嫌とりをしている訳ではありません。はっきり言って嫌いな国です。

 昭和十一年 から五十二年間の長きに渡って昭和天皇の侍従をされた徳川義寛氏の『侍従長の遺言 昭和天皇との50年』(岩井克己 聞き書き・解説。朝日新聞社、一九九七年二月)と言う興味深い書物があります。この書籍が三流のレベルの資料なのか一級の資料なのか、評価は分かれるのか も知れませんが、昭和天皇の戦犯合祀に関する御意向が伝えられています。「戦犯合祀の問題は筑波藤麿氏に任せておけば安心だ。」と言うことでした。差し止 めておられたのです。

 現宮司が合祀の相談に来られた時、慎重な扱いを求めたようですが、伝わらなかったのです。『朝日新聞』一九九五年八月十九日の記事では、「筑波さん(前の宮司)のように、慎重な扱いをしておくべきだったと思いますね」と徳川義寛氏は語っておられるようです。

 天皇の意向を無視して合祀を行った結果は、御親拝(天皇が参拝すること)の記録にくっきりでています。

昭和40年10月19日 天皇陛下御親拝 臨時大祭
昭和44年10月19日 御創立100周年年記念大祭 天皇・皇后両陛下御親拝
昭和50年11月21日 天皇・皇后両陛下 終戦30年 御親拝
昭和53年  宮司交替
昭和53年11月    合祀 発表は昭和54年 4月

この年以降、御親拝は途絶えた・・・・

昭和61年昭和天皇御製
このとしの この日にもまた 靖国の みやしろのこと うれひはふかし

御製は明らかに靖国問題にお悩みだとのお気持ちの披露です。

私は総理大臣が靖国神社に参拝されることは悪いこととは思いません。そのかわり、中韓の指導者と民衆とに討論会を開いてでもおのれの考えを訴えるべきです。「何故、参拝はいかんと言うのか判りませんね−」との、己は頭が悪いと言う台詞しかいえないようでは困ったものです。

[7523] Re[7522][7521][7520][7506]: 靖国問題  nick [Url] 2006/06/23(Fri) 18:14 [Reply]
田舎では氏神神社の境内に一際巨大な石碑「招魂碑」があります。
日露戦争にしろ先の大戦にしろ没年を拝見すると皆さんお若いです。
私は母と姉を1週間前の6月17日鹿児島の大空襲で亡くしました。
姉は小学校3年生でした。その僅か2ヵ月後が終戦でした。

そのような方々の礎で今日がある事を忘れてはならない、
「命」を粗末にする当世のヤングの風潮には疑問を禁じ得ません。
[7524] 靖国問題 終わり  神奈備 2006/06/25(Sun) 11:51 [Reply]
 靖国神社の祭神は二百五十万柱の霊が一つの同じ座布団に座っている。それを引き離すことはできません。これが分けられないとする論理なのです。足代氏は、この論理をまやかしと言います。

神様の数は柱で数えるもの。
座 は延喜の時代に現れた概念で、「奉幣の座数」であり、それが現在ではあいまいに使われています。座と言うものに、神道上何ら規定がなく、適宜使っている。 靖国神社の場合には二百五十万柱に一座で奉幣も一座分だろうと思います。これは人間側の都合で行っていることで、二百五十万柱それぞれに奉幣してもかまわ ないのです。従って座が一つだと言う事と、分祀・分遷とは無関係なこと。分遷の可・不可は、神座の数が単数か複数かというような物理的な条件によるのでは ない。由緒の問題、信仰の問題なのだ。
靖国神社が神道の神社であるならば、おそらく、この論が正しいのでしょう。

面白い論があります。靖国神社が分遷を認めたら、英霊の子孫が左翼の場合、分遷を要求してくるようになり、収集が着かなくなり、やがて靖国神社の存立を脅かすことになる。従って認めるべきではない。
まだ、素直な気持ちの発露と言えます。英霊やその子孫より神社が大切だとする本末転倒の論ですが、まかり通っているようです。

神奈備掲示板に相応しくないテーマですので、これにて靖国神社問題は終わります。質疑応答する気もありません。

 


神奈備にようこそ