掲示板のログ(平成12/5月) お名前の敬称は略させて頂きます。

ログ

更新 H12/5/30

S.Setoh  H12.5.30
 神観念、恵みと禍をもたらす自然の脅威、それを畏きものと捉え、万物には霊性が宿る、我々は万物と共生をしていく、と教えているのでしょうね。泉、川、水のない所に人は住めません。ランドマーク説、面白いですね。清水の湧き出す所を大切に祀ったのが始まりかもしれませんね。瑞垣ですか。
 祖霊を祀るのは、稲作などで、田畑の相続がからんで来た時代の産物かもしれませんね。
 首長霊を祀らせるのは、大きい権力の存在の登場でしょうね。国と国との戦いなんかあって、敗れれば生活圏を奪われると言う事で、首長霊をシンボルに力を合わせたのでしょうか。
 
 部族の統合見たいな事があると双方の首長霊の祖霊が架上されていき、物部の遠祖の饒速日命なんかが構想されていったのかもしれませんね。また中臣氏のようにその中から傑出した力を付けてくる氏族がいれば、祖霊ごと独立したりするのかも知れませんね。
 ゆかさんの物部と中臣、恩地神社と枚岡神社の関係がそれを示していますね。

ゆか  H12.5.28
こんばんは。
 神社めぐりをしてまだ一年ほどです。遠出はあんまりできませんので、主に近場を。
 まだまだわからないことだらけですが、行ってみて直感できることってありますよね。外れているかもしれませんが、中臣は物部の一支流と申しますか、同系統ではないでしょうか。
 物部氏が先に(たぶん弥生期から古墳時代初期)に渡来し、中臣は少し遅れてたぶん応神の頃に渡来したのではないか、いまおおよそそんなイメージで捉えています。
 まちがってたら遠慮なくご指摘くださいませ。
 今後ともどうぞよろしく。

山浜 H12.5.26
間違っているかもしれませんが、私の神道に関する考えを述べてみたいと思います。
みのりーさんがおっしゃっているように、自然崇拝の神と、人が神としてまつられている場合と2つあるということですが、どちらも、背後に見える人知を越えた力に対しての畏敬と感謝が基本なのではないかと思います。
前者については、自然の猛威や恵みに対する思いであり、後者は人がなした偉業に対する神懸かり的力への思いであり、特に後者は人間を一種の依代として見ているのではないでしょうか。でなければ、元ベイスターズの佐々木投手の右手をご神体とした「大魔神社」なんてものができるわけがありません。
神への信仰と、個人への信仰と取り違えていることがたことがいろいろ物議をかもす原因となっているのではないでしょうか?
湧水の調査などをすると、神社の周りにたくさんの湧水が見られます。社寺林が地下水の涵養域となって湧水が発生するからであり、神社はいわば湧水のランドマークであります。自然の恵みに対する驚きと感謝をこめてそのランドマークを人間が作ったものではないでしょうか?
そんなことを考えながら暮らしていると気持ちが楽になるように思います。どうでしょうか?
もちろん神話や神社のいわれなども好きですけどね。

みのりー  H12.5.26
神ってなんでしょうね?仏教の神と神道の神と違いがあるのかも知れませんが。
もともと日本固有の神って自然崇拝から始まっているか、人が神として祭られているかに別けられると思うのです。
私は自然崇拝の方に関心があるのですが。人間は自然の猛威によって生命を脅かされたり、また自然は人間の生活にとって欠かせない物であるから、自然を神として祭っている。生活と言う部分から見れば、太陽の神であり、水の神であり、穀物の神や、木の神、火の神であったりするわけです。その象徴として岩であったり、木であったりする。日、水、木、火などの神に対して後世名前がついたりする事もあるでしょう。神社ってその土地の民俗を象徴しているのかも知れませんね。
ちなみに、神社巡りでも、神社の御神木は?その周りの草木は?と言う所を見てみると面白い。そこに生息するはずのない草木があったりする。なぜ?。神社があって人が集まるのではなく、人がいるから神社がある。神社からその地域の民俗なんかも見えてくる事もありますよね。そんな神社なんかに出会うと楽しいですよ。もう一度地元の神社を見なおそうと思う今日この頃です。

S.Setoh H12.5.26
>「神のくに」発言・がまったく議論されない……。
焼尻さん、ここを訪問してくれる皆さんは、日本が神様に守られた良い国になってほしいと思ってるんですよ。だから神社に興味と関心を持っているんです。あの程度の上滑り発言でとやかく言うレベルはとっくに越えています。

 ついでですから、日本の神について一言。
 神の力がすごく衰えているように感じています。仏教伝来以降に、神も迷っている、仏様に救いを求めるなんて、おそらくは、仏教を取り入れた時の権力に、神を祀る連中がすり寄ったんでしょうが、それ以来、森を司ってきた主役の座は役小角の修験道、空海の密教に持って行かれたままですね。神々としては熊野権現などが熊野詣でで賑わいましたが、これも修験道などの力ですね。御霊神の菅原道真が出てきた程度が神道のやったことですね。
 現在まで、神道は1000年の惰眠をむさぼっています。鎮守の森にダイオキシンが降ろうが、村の聖地である水源地が産廃捨て場になろうが、神威は発動されていません。神と世をつなぐ神職に先ず目を覚ましてほしいものです。
 焼尻さん、このHPを高く評価して頂き、ありがとうございます。おおいに、我々を啓蒙して下さい。所で、大黒様の続きか第二編、待っています。


焼尻紋次郎  紋次郎さんHP H12.5.26
一国の総理大臣によって(たとえ彼がひょんななりゆきで総理大臣となったにしろ)「神のくに」発言があったのですが、この日本の中枢を担っているホームページのこの欄で、そのことがまったく議論されない……。
 皆の衆は、建築物としての神社が南向きとか、北向きとか……そーゆーことにしか 気(関心)がまわらないのですか。あ、そうですか。ふ〜〜ん。

S.Setoh H12.5.24
山浜様、ゆか様、みのりー 様、stan 様 情報ありがとうございます。
播磨国一宮 伊和神社、上野国一宮 貫前神社 も北向きだそうです。
この情報は河内松原の布忍神社の方からの問い合わせでした。HP出されています。
http://www02.so-net.ne.jp/~nunose/

stan  stanさんの「古代であそぼ」 H12.5.23
>山浜さん こんばんわ
北海道神宮、たしかそうです、円山の北北西麓にありますから。

>ゆかさん こんばんわ
若倭姫神社は参道が北向きですが社殿は西向、若倭彦神社はたしか南向です。

stan  stanさんの「古代であそぼ」 H12.5.23
あとで思い出すかもですが、とりあえず。アバウトな磁石ですので方位は正確さに欠けます。

・鹿島神宮、本殿・奥宮、神座は東向。
・二十三夜神社、茨城県潮来町。
・大宮市氷川神社末社稲荷神社:北、東寄り、埼玉県大宮市氷川神社末社。
・高太神社:東北東、群馬県富岡市下丹生(打越)
・牛倉神社:東北、山梨県上野原町(甲斐国)。
・諏訪上社本宮、諏訪市中州。
・諏訪上社前宮、茅野市宮川。
・佐瑠女神社、伊勢市宇治、猿田彦神社境内
・厳島神社、天理市田町、石上社行宮。
・高宮神社(神坐日向神社):北北西、三輪山山頂。
(・綱越神社、東だったかも?桜井市三輪。)
・御霊神社(みたま)、生駒郡安堵町笠目。
・常世岐姫神社(八王子神社)、大阪八尾市。
・土生神社、岸和田市土生町。
・指出森神社、北北東、大阪阪南市貝掛。
・厳島神社、和歌山県九度山町下古沢。
・蛭子神社、和歌山県粉河町、粉河寺門前。
・淡島神社、和歌山市加太。
・志筑天神、北西、淡路島津名町志筑?天神。

*誤謬ありましたら、よろしく。

ゆか H12.5.23
こんばんは。
 常世岐姫神社(八王子神社)はたしか北向きだったです。
 それと、若倭姫神社か若倭彦神社のどちらかもそうだったように記憶しています。大阪外環状から東の山に向ってどんどん上がって行って、お寺がありました。そのお寺のところから右に上がって、小さな祠でした。でも、式内社ですよね。
 もうひとつは、御所の春日神社。水越峠(いまはトンネル)を御所へ抜けて、名柄、室の交差点を東へ。右側に室大墓古墳があります。そのさらに東側。道路から右に鳥居が見えます。それを登って行きますので、ここも北向きだと思います。神社の名前は近所にお住まいの方にお聞きしました。

みのりー  H12.5.23
みなさん、はじめまして。
北向きの神社ですが、和歌山県伊都郡かつらぎ町三谷の丹生酒殿神社は北向きだと思います。小さい神社ですが。
天野の丹生都比売神社の遥拝所としての役割があるためだと思いますが。社が北向いているということで書かせていただきましたが、意味を取り間違えておりましたらすみません。

山浜 H12.5.22
大阪ではないですがものの本によると
北海道神宮がそうらしいですが??

S.Setoh H12.5.22
大阪の神職の方が北向きの神社をさがしておられます。
ご記憶のある方、教えてください。

福島雅彦 福島さんのHP H12.5.18
本殿?社殿?・済みませんでした。語彙の定義ガ曖昧でした。
 御祭神が鎮座ましますお社と言う意味で申しました。
御神体が、裏山ですので、当然、お社は無いと…。今度調べておきます。

山浜 H12.5.18
由豆佐売神社のこと有り難うございます。
この神社の真正面に湯田川温泉の元湯があります。
もし行かれることがありましたらゆっくりつかってみてはどうでしょうか?

玄松子 玄松子の記憶 H12.5.18
>新潟県中蒲原郡村松町5976番地
>日枝神社 摂社 粟島神社「少彦名命、大國主命、伎佐良妃命」

行き忘れてしまった!近くを通ったのに。

S.Setoh H12.5.18
 由豆佐売神社の祭神は由豆佐売神でしょうね。山間の温泉の女神にふさわしいお名前ですね。
 現在の祭神は、温泉だから大己貴命・少彦名命のコンビも祀られたのでしょうね。溝くい姫は確か神武天皇の妃に見初められた姫でしたね。遙か山形の地に祀られているんですね。やはり日本は天皇を中心とした神の国なんですね。  由豆佐売神は山形では、総社であったろう、
東田川郡藤島町大字上藤島字六所畑62 六所神社
鶴岡市大字青龍寺字金峰1-1 六所神社 等の
祭神に出てきます。金峯のほうの由緒は
 祭神大物忌神、小物忌神、月山神、出羽神、由豆佐売神、遠賀神で、草創詳かならざるも旧記によれば、弘仁三年秋田由利郡の地頭左近太夫家狂の創立と伝へられる。右は六所権現として、祇園、八幡、春日、加茂、稲荷、愛宕の六所を勧請し、本地は三如来、三菩薩、所謂薬師、弥陀、釈迦、勢至、観音、地蔵なりしが、明治三年神佛分離で、現在の祭神とした。 との事です。
 なお、福島県いわき市三和町に4座の御塚神社があり、「湯津佐姫命」を祭神としています。

S.Setoh H12.5.18
 27才の男性さん、下記にお問い合わせ下さい。
www.jinja.or.jp 神社オンラインネットワーク連盟のサイトに質問コーナーがあります。

 三輪山へのカメラの持ち込み、確かに駄目ってなっていましたね。玄松子さん、山下さん、ありがとうございました。HPから写真を取り除きました。


玄松子 玄松子の記憶 H12.5.18
>福岡県朝倉郡の神社『大神大明神』『大己貴神社』が起源であろうと。此方も裏山が御神体で、拝殿はあるが本殿は無く、遥拝所があります。
これは、筑前式内社の『大己貴神社』のことでしょうか。
そこなら、神体山を拝する拝所もありますが、本殿もあったと思います。

質問? H12.5.17
私は、27歳の男性です。
まず、下記の書き込む内容に際して、私は神道という言葉自体をあまり熟知できていない為、この掲示板の趣旨に合ってないことがあるかもしれませんが、いくつか質問します。
私の家は神道(三輪玉教?とか...)です。家には神棚が祭ってありますが、毎月1日に榊を取り替える程度です.
私は、このままほっておいて良いのどうかも判らなく質問です。
1.神道とは?。
2.神道を信仰する(信仰という言葉が正しくないかも)には、実際どうすればいいのか
具体的に教えて下さい

張華 H12.5.17
“납입”(nab-ip)=納入(ノーニュー)
この朝鮮語と同義語の古代倭語(?)は現在は死語じゃなくて、日常使ってるであろうと存じます。
もちろん朝鮮で納入を(nab-ip)と発音するようになったのは近世以降ですね。

山浜 H12.5.17
山形の由豆佐賣神社に行って来ました.
式内社で、しかも堂々とした社殿でびっくりしました。
御祭神は溝くい姫命・大己貴命・少彦名命でした。
(ああ、「くい」の漢字が出ません。木へん+音+戈)
湯の沢の神様のようなのですが、他の所にもいらっしゃるのでしょうか?

福島雅彦 福島さんのHP H12.5.16&17
神奈備の(なび)の語源
以前、このHPヘ最初にお伺いした時にも述べましたが…。
“??”(nab-ip)=納める。
この朝鮮語と同義語の古代倭語(現在は死語)であろうと存じます。
即ち、神(金属製品)を埋納した山、福岡県朝倉郡の神社『大神大明神』『大己貴神社』が起源であろうと。此方も裏山が御神体で、拝殿はあるが本殿は無く、遥拝所があります。
神奈備の(なび)の語源…追伸
『大神大明神』は、朝倉郡は、旧『三輪村』に在ります。
福島雅彦でした。

玄松子 H12.5.16
大神神社HPに以下のページがあります。
三輪山入山者の心得
http://www.oomiwa.or.jp/c01/c01_03.html

磐座写真
http://www.oomiwa.or.jp/c01/c01_02.html

S.Setoh H12.5.16
 山下さん、ご指摘ありがとうございます。
 知りませんでした。今度確認してみます。
 三輪明神から、掲載禁止の申し入れがあれば、それなりに対処しましょう。
 少し言い訳をさせてください。
 ある書籍には、チャンート写真が出ていますね。
 ついでですが、教え子を三輪明神の神官に送り込んだ先生は、彼に命じて、徹底的に探索させ、報告を受けるとの事、実際は殆ど丸裸にされているんでしょうね。

山下 H12.5.16
三輪山の奥津磐座は撮影してはいけません。
神体山の禁足地に相当する最も神聖な祭祀場であります。
狭井神社の入山登拝の注意書きを読みましょう。

焼尻紋次郎 紋次郎さんのHP H12.5.15
   神の語源
 あっしゃ、さきに神という概念を構成した因子に 1、カミナリ 2、上下の上 3、仕事人ともう一つあることを匂わせたままだった。
 上下の上だが、これもアイヌ語でka ; kam が上、上流であることを申し上げておく。
   また、kam(仕事)i (ひと)の kam はタガログ語の kamay(手)と同根であり、日本語では「かまう(いろう)」とか「カマイタチ」の kam となって紛れこんでいる。

 これらが、それぞれ何らかの関連があるのかどうかは不明である。しかし、これらが自然発生的にせよ、kam (神)という強烈なことばに近い〜或いは同一なために、激動の言語混成作用のなかをかいくぐって、現在まで生き延びてきたものであることは、容易に察しがつく。
 ところが、歴史の過程で死んでしまった「カミ」もあった。

 ま、聴いてけれ。
 宮崎県五箇荘で「うわあご」のことを「かまげた」という。秋田方言で同じくうわあごを「あげた」という。「かまげた」から「あげた」を差し引くと kam が残る。この kam は上のあごだから、2の「上」の kam と 同じじゃないか……と思われるかもしれない。
 しかし、大量の日本語との類似を吐き出すネパール語に cyapu(上あご)がある。またkhappar(頭蓋骨)の語彙も見られる。この *kap は英語ドイツ語のコップと同一である。
 長くなった。えんりょして、また続きをいつの日にか書こう。
 言っておくが、kam-o の末尾の o も神である。kamo は朝鮮系の神様だとされているが、朝鮮にかぎらず、どこでも発生しやすい語形であることを強調しておきたい。

S.Setoh H12.5.13
 明治以前は賀茂朝臣の姓(かばね)を継承していた家の出の方の話を転載します。
出雲では神産巣日神を「神魂神・カモスかみ」と今でも呼び、鳥取県側に分断された大山(ダイセン)の高天原に鎮座する天地創造神としています。
大山のちょうど西方、米子市から南に当たる会見町の天満山は、出雲神話で因幡の白兎を助けた大国主尊が同族の八十神(経津主はこの仲間ではありませんよ Setoh)に焼き殺されて一度絶命したとされる手間山です。
出雲の「神在月神事」は全国から神様が出雲に終結して縁結びの会議をするという伝説です。
これはモンゴル帝国でも「クリールタイ」といわれる年一回の首長会議と集合祭礼で、元帝国ではヨーロッパ平原からシベリア・ベトナムまでのモンゴル部族首長が北京郊外のテント村に集まったという騎馬民族特有の習慣です。
農耕経済が安定し、土地所有と同族相続を確定する封建制度が実施される段階になって、日本にも氏姓制度が発生し、神魂族は賀茂族となったのです。
「かも=かみ」でいいんでしょう。
度津神社、いい雰囲気みたいですね。

玄松子 玄松子の記憶 H12.5.12
隠岐の神社を調べていたら、賀茂那備神社というのがありました。「かもなび」と読み賀茂大神を祀っているようです。
「かも=かみ」でしょうか。
「かもなび=かんなび」なんでしょうか。
あるいは、「なび」に何か意味があるんでしょうか。

玄松子 玄松子の記憶 H12.5.12
>古朝鮮の建国神話には、殷王族の忠臣箕氏(きし)
>天皇家の姓を「姫」と言い、
面白い。
太公望に助けられ、殷王朝を倒して周を起したのは、姫氏です。
また、殷王朝最後の暴君、酒池肉林で有名な紂王の幼名は季子(きし)。
短い音は想像力をそそる。
度津神社だけですが、アップしました。

oneeven H12.5.12
To S.Setohさん
>出雲の国譲りで、大国主と談判をした神です。
そうなのですかー。
すいません、大国主は兄弟いじめにあった後、兎を助けて、(確か良き妻を娶って)後々幸せになった・・・くらいにしか覚えていません。いかんな。国譲りというと・・・あの「いじわる兄弟」の一員なのでしょうか。>経津主 だったら一寸嫌だなぁ(^^;。
話は違いますが、私はどうしても「オオクニヌシノミコト」と言ってしまうんですが、「命(ミコト)」は敬語・・・というか尊称なのですね。
ふと思ったのですが、経津主は、自身が剣なのでしょうか?それとも、「剣の為」(剣自体を保護する,又は剣を扱う者の技量を高める)の神なのでしょうか?・・・・・・神の事とて(日本神道に限らず)、そんなぐじぐじと細かい分類などするべきではないのかもしれませんんが(^^;。
ご教示、有り難う御座いました。 乱文失礼。

S.Setoh H12.5.12
久々に「くし」について
   古朝鮮の建国神話には、殷王族の忠臣箕氏(きし)は人徳高く、敵であった周王朝から半島に封じられることになった。檀君建国後1,500年のことである。箕氏が封じられると檀君は隠れ、山神となった。
 素盞嗚尊が高天原を追放された時、雨の中で蓑笠をかぶり宿を求める話があります。蓑と箕は同じ意味です。
 紀の国の豪族は紀氏です。秘密系図は素盞嗚尊から記されているそうです。
 稲田姫、そうです。大蛇退治のヒロインですね。櫛稲田姫といいます。「きし」が訛って「くし」、素盞嗚尊の奥さんですから素尊の姓の「きし」を付けたといえないでしょうか。
 くし=紀氏 がでました。
 まお、天皇家の姓を「姫」と言い、「き」と読んだようですね。素盞嗚尊は天照大神の弟とするのも、根拠がない訳ではないですね。

S.Setoh H12.5.12
経津主はフツヌシと読まれています。
出雲の国譲りで、大国主と談判をした神です。剣の神ですね。 千葉県佐原市香取1697の香取神宮に祀られています。
奈良の石上神宮の祭神の布都御魂とはこの時の剣とされ、後に神武東征の時熊野の高倉下に渡され危難を救ったとされます。
草薙の剣、日本武尊が焼かれそうになったとき、危難を救っていますね。これは、素盞嗚尊が大蛇退治の時手に入れたものとされています。三種の神器の一つです。熱田神宮ですね。
有名な剣に関わる神社はここの例では三つとも神宮と呼ばれていますね。王権は剣からだったのでしょうね。
ツムカリ 聞いたような気がします。カリは剣の事で、神の語源との説もあります。神々しい剣岳、いかにも神々がいそうですね。御神体にも多いのではないでしょうか。
剣は魔除けの意味もあったのでしょう。後世まで武将が剣を神社に奉納しています。

oneeven H12.5.12
剣の神について質問です。
皆さん、始めまして。oneevenと名乗っている者です。
ちょっと教えて頂きたいのですが、剣の神として、
布津主(読みは・・・わからない)
という神は居るのでしょうか?
又、他に剣の神として有名な神、ご存知でしたらお教え下さい。
他にツムカリという神が居たような居ないような・・・(ひょっとして仏教とごっちゃになってるかもしれません. 浅学な為ご容赦下さい・・・(--;)
乱文失礼。

まさ H12.5.11
ご無沙汰しております。
引っ越しのメールありがとうございました。リンクを張り替えましたのでお知らせします。
なお、現在サーバーの調子がおかしいため、
ミラー(http://blackcomet.tripod.co.jp/
でご確認ください。
なお、物部の子孫情報追加。
(唐松神社宮司の物部長照氏の祖先?)「陸奥話記」「扶桑略記」など平安時代の文献に物部長頼という人物がでてきます。
(前九年の役のあたり)「陸奥大目」に任ぜられたとかって出てきますので、地方小役人だったのでしょう(笑)


S.Setoh H12.5.11
 遅れた神様
若狭彦の神は奈良東大寺二月堂のお水取りに関係します。ここの神様は点呼に遅れてきたので云々と伝えられていますね。
丹生姫も呼び出されたのに出遅れて着の身着のままで駆けつけたとの説話が残っています。
安曇の磯良神は顔に靫がついて醜いので出遅れていますね。

ゆか H12.5.9
> 夜の筒香へいかれましたか。
 いえいえ。昼間です。空気がとても澄んでいて夜は星がきれいなんだろうなぁ〜と。
 渓谷沿いの細い道は夜は怖いでしょうね。
> 遠敷とは丹生の意
 たしか「おにゅう」と読むのでした。
 対馬海流に乗って北部九州の海洋氏族がここを通って湖西の方へやって来たんだろうと思います。滋賀、志賀、安曇川などにその痕跡が残っているのではないかと思います。
 きょう清水の舞台から飛び降りたつもりで『新撰姓氏録の研究(本文篇)』を買いました。古事記の上つ巻と対照してみようと思って。…骨折しそうです。

S.Setoh H12.5.8
桑原様 投稿ありがとうございます。このHPの主宰の瀬藤です。
かって、「藤原氏の祖は藤原不比等であって天児屋根命ではない。」と出典を記さずに書いたところ、「お前は全国xx社(数は忘れましたが)を敵にまわすのか!」と言うメールを頂いた事があります。
 出典は今東光氏の『毒舌日本史』で
春日大社の先の宮司さんは、藤原氏の祖先は天兒屋根命でもなければ鎌足でもない。不比等であると言っておられる。不比等は天智天皇の子であるが、鎌足の子として育てられたとのことである。 従って不比等以後の藤原氏は、その祖先を不比等においている。鎌足がその長子である定慧を出家させたこと、藤原氏がこの神社にお参りしていないこと、壬申の乱では近江朝にくみしたにもかかわらずそれ以降も皇室の信任があつかったこと、藤原氏が皇室に準ずる扱いを受けた事等が、その事から全て合理的に説明できるのである。
 藤原氏の末裔である近衛文麿公が近江神宮造営を担当されたのも、皇室内部での常識として「不比等は天智天皇の御子である。」ことは今日まで伝わっているのである。
と出ていました。
 また、春日神社は確かに数は多いのですが、奈良の春日大社系でなく、物部系の春日神社もあるそうですね。藤原京以南の春日神社を結ぶと、物部の大臣の絵になるそうですね。この出典は某TY放送と『大和の向こう側:室伏四畔氏』です。
 物部の末裔の方は奈良広瀬神社の樋口宮司さんもそうですね。おうちに饒速日命を祀る祠があるそうです。

桑原成吉 H12.5.8
追伸です。
明治時代の戸籍については、80年を超えるものは処分するような自治体があるらしいです。
はら戸籍で調べられるだけ江戸時代に近いものが、系図の下調べとしては必要となるようです。
続群書類従刊行会 かんえいしょけけいふずしゅう 吉川弘文館 このあたりです
このHPの人たちは出典を記さなくてよい人たちが多いようです。
それにしても。身体障害者差別の言葉や、外国人差別の言葉は、物部の末裔として許せない。
この文面が、削除されませんように

桑原成吉 H12.5.8
芝原様へ
芝の姓は、藤堂高虎の子孫であると、教わりました。
つまり武家藤原氏です。ですから、中臣氏となりますので、天児屋根命であります。

玄松子 玄松子の記憶 H12.5.7
久しぶりです。
4・29〜5・6の8日間、佐渡・新潟を回っていました。
レンタカーの総走行距離が1900Km弱なので、1日平均200Km走っていた事になります。
さっき帰ってきたので、まだ、整理がついていないのですが、参拝神社数もかなり多くなりました。
新潟の神社では、ほとんど、本殿が見れません。多分、雪対策なのか、本殿は建物や囲いの中、あるいは拝殿と一体になっています。
地元の神社だけ見ていたのでは気づかない、神社の地方色を感じます
。 また、福岡と違って、朝がむちゃくちゃ早いです。5時にはもう十分明るくて撮影可能です。ということで、神職のおられない神社には、5時過ぎに参拝することもありました。
それから、Yahooの掲載カテゴリを変更していただきました。紹介文もちょっと増やしていただいたようです。

てっちゃん H12.5.6
瀬藤さん神谷神社の件ありがとうございました。
白峰山のふもとと言ったのは錯覚でたまたま白峰寺からおりてきて寄ったので勘違いしたようです。
神域は鬱蒼としていて巨石なんかもあり荘厳な雰囲気がありました。
ただし境内は時間が遅かったために中は門が閉まって見られませんでした。

S.Setoh H12.5.6
ゆかさん、夜の筒香へいかれましたか。丹生都姫が祀られた伝承の地ですね。

若狭彦、若狭姫神社の祭神を丹生都姫神とする説があるんですよ。
丹生広良さんと言う丹生都姫神社の社家の方が『丹生神社と丹生氏の研究』と言う本を書かれていますが、これにそのように書かれていました。 本は和歌山の立図書館ですので、記憶にたどりますが、鎮座地が若狭国遠敷郡であり、遠敷とは丹生の意で、そこの一宮だからと言う理由だったようです。小生は今でも半信半疑ですが。

「白髭神社の祭神は総じて猿田彦」とは、本州ではほぼ言えるのでしょうが九州では武内宿禰が出てきます。何となく皇孫のガイド役みたいな共通点でもあったのでしょうか。

そう言えば、大阪市平野区には杭全神社の摂社になっている赤留比売命神社(式内社)や建御雷男を祀る独自の社伝を持つ楯原神社があり、息長氏のにおいがしても不思議ではない地域ですね。

S.Setoh H12.5.6
てっちゃんの投稿に「白峰山のふもとにある神谷神社」とありました。
讃岐阿野の式内社に同名の神社があります。 坂出市神谷町621の神谷(かんだに)神社が当てられています。 これでしょうかね。地図を見ましたが白峰山と言う山が見あたりませんが・・・。
平成祭礼データCDの由緒書きは以下の通り。
当社は坂出市神谷町621に鎮座しており、火結命,奥津彦命,奥津姫命をお祭りし併せて春日四柱大神を合祀している。
弘仁三年五月庚申に、弘法大師の叔父の阿刀大足は、阿野郡鴨部郷のはん米地二千石を領した時、春日四柱を相殿に勧請して再興したと云われる。
延喜武神名帳に讃岐国阿野郡神谷神社と記してある。
三代実録には、貞観七年十月従五位上、同十七年戌申に正五位下を授けられたと記載してあるが建保七年二月の本殿棟木墨書銘に正一位とあり、これより光正一位の神階が授けられたと考えられる。
肇祀は古代であって不明。旧郷社。三問社流造りの本殿は明治三十七年八月、古社寺保存法により国宝に指定されたが建築年代が明らかで且つ当初の古材を残す三間社流造りの日本最古の社殿として昭和三十年二月には文化財保護法により改めて国宝に指定されている。

ゆか H12.5.5
 瀬藤様、ご丁寧に転記いただいて恐縮しております。有り難うございました。

   三月十九日に丹後へ行って参りました。籠神社および真名井神社、奈具神社(宮津の方です)、若狭彦、若狭姫神社、鵜之瀬神社、鯖街道を通って湖西の白髭神社。
 籠神社の方が、「祭神の豊受大神」と「豊宇賀能賣命」は違うとおっしゃっておられましたが「そうかな〜??」。後者から創造発展させたものが前者だと思いますけど。
 若狭彦、若狭姫神社の祭神は、彦火火出見と豊玉姫。対馬の和多都美神社と一緒ですよね。これは収穫でした。
 湖西の白髭神社の祭神は猿田彦でした。白髭神社の祭神は総じて猿田彦なんでしょうか?

 後日、紀州の「上筒香、中筒香、下筒香」にも行って参りました。地元の方は「つつこ」と言っておられました。丹生社が二社。どうも、筒之男の「筒」とは関係なさそうです。
 星がとてもきれいなところだと思いました。ここの「筒」は星かもしれません。
 筒之男の「筒」は、対馬の「豆酘」ではないかと思います。

 息長氏のことで。
 大阪市平野区喜連西四丁目のお寺の境内に「息長沙濔王統尊霊」と書かれた石碑が建っています。前の道を偶然通っていてじつはビックリしました。
 建御雷男を祖神とする息長家代々の尊霊と八大龍王を合祀、そんなことが書かれていました。
 そうすると、近くに杭全(くまた)という地名がありますが、古事記にある倭建の命の子、息長田別の王の子、杙俣(くひまた)長日子の王の「杙俣」と関係するんとちゃうかなぁと思いました。

 先日、常世岐姫神社について、「藍染め」と書きましたが、これは「茜染め」の間違いでした。謹んで訂正いたします。

てっちゃん H12.5.4
讃岐に行って来ました。
おひさしぶりです。
4/29から5/3まで四国香川を旅行をしてきました。
ほとんど観光と讃岐うどんの旅だったのですが5/2に訪れた白峰山のふもとにある神谷神社がよかったです。
なにかこの神社についてご存じの事があったらどなたかお教えください。

ゆか 天手力男意気続々流住吉大神発見 H12.3.15  ←書き込みの発見の大遅れです。失礼しました。
 こんばんは。標記の件、今日まで全然気がつかなくて。どうも有り難うございます。瀬藤様が行かれてから、私もぜひ行ってみます。「御幸辻」の近くのようですね。とっても、うれしいです。\(^o^)/

 先々週の日曜日、誘われて枚岡神社所蔵の古文書の展示を見てきました。江戸期以降の木版の印刷ですが、「新撰姓氏録」があったので、ぱらぱらと捲っていると、
「常世連 燕国王 公孫淵之後也」
「額田臣 伊香我色雄命之後也」
「大市首 任那国人 都怒賀阿羅斯止之後也」
 などとありました。おんなじことですが、「日本輿地理志畿内部河内国」には、
「常世連 出自燕国主公孫淵」。
 八尾市と柏原市の境のところに「八王子神社」がありますが、常世岐姫神社(式内社)のこと。八尾市教育委員会の説明板では、赤染人足13人に常世の姓を賜ったとあります。藍染めの技術を持った人たちのようです。

焼尻紋次郎 紋次郎さんのHP H12.5.2
 《大黒様ものがたり 31 》 ★ 潜在モザイク語彙観

 これから大黒様に密着している袋をバラしにかかります。
 そのためにはホーホーと啼くフクロウをバラさねばなりませんが、そのためには言葉……語彙というものが、どのような側面を持っているのかについて、またまた“前提条件の解説”です。
 『衝撃のネパール語』の103ページで、小生は「潜在モザイク語彙観」という言葉を使いましたが、ここの説明がハチャメチャだったために、あの本の焦点がぼけてしまいました。
 小生は約10年間「へたに書きましょう」を合い言葉とした「ふだん記」の会員になっていました。そのお蔭で、想念を発表するクソ度胸だけができたのはよかったのですが、それをほかの人にスンナリと説明する技術のほうはサッパリできないままでした。
 でも、ひと様や世間さまの胸をお借りして、日頃のテーマをまとめると、その結果は自分の進歩を如実に把握できます。なにも書かなければ進歩は「変化」であり続けるのです。
 ひとは常に五つか六つのテーマを気にしながら生きているものです。それを原稿用紙でいうなら6〜8枚ぐらいにまとめるのです。その作業を続けたあと、3〜4ヶ月経ったところで読み返してみます。するとそのとき、未熟だった自分に気がつくと同時に“進歩している自分”にも気がつく……というメカになっています。
 『衝撃のネパール語』の原稿〆きりのあとも、小生はあちこちのご仁の胸をお借りして、湧きつづける想念をまとめてきました。
 ここ1年間ぐらいサラセッセのミムネを借りたのでしたが、サラセッセが提供してくれる資料が、これまた大飛躍を促進してくれたのでした。

焼尻紋次郎 紋次郎さんのHP H12.5.2
 《 大黒様ものがたり 30》   ★ 柱と学級崩壊

 アマとナカをとりもつものには、日月、鳥、山頂、柱があった。山頂には目には見えない眼がついていて、頂きの真上に降りてきている目にはみえない柱が神のヨリシロだった。
 人間もまっすぐ背骨を立てれば神霊は神体に降りて来る……。
 この考えを見聞きして、現代人はウソだと決めつけるだろう。だが、ここには奇妙な真実がある。アゴを引き、背骨をまっすぐ立ててこころを静める時間帯を毎日1時間も持てば、内蔵神経関係の病気はよくなる。
 塾経営をしているわが友人の黒沼氏は、生徒の姿勢……とくに背骨をまっすぐ立てることをうるさく言って、学習効果を高めている。
 ある統計によれば、頬杖ついたような崩れた姿勢と、背骨をまっすぐ立てたときの姿勢では、記憶量が1,6〜1,8倍もの違いを得られるという。
 日本人は正座できる。今なら正座の習慣をとり戻すことができる。
 不登校の子供には、正座、瞑想をさせて自分という現象を見つめさせてはどうだろうか。
 イスの上に立ち上がって騒ぐ子供は写真を撮って、親に1回なんぼの罰金を払わせたらどうだろうか。授業を始めるとき、5分間の黙想の習慣を作ったらどうだろうか。
 密教、修験道、ヨガなどでは人体の神経叢をチャクラと呼び、どこにどのようなチャクラがあるか、どう開発するかのノウハウを蓄積している。
 チャクラは元々は「王・座」だったが、これがサンスクリット語に入って「神のなかの王」となっていた。

焼尻紋次郎 紋次郎さんのHP H12.5.2
 《大黒様ものがたり 29 》   ★  三本足

 「あいつァ言うこといっこうにきかん」……という場合のイッコウもネパール語的だ。コウは katau の-au である。へば(津軽弁)「いっ」とはナニか……。ネパール語では icc- となっているが、これなんざは 人間がお猿さんの段階から言い続けた咆哮語のひとつだろう。
 iss-au けんめい……なども同じで、シャカリのこと。igg の形をとったのが熊本イゴッソー。ikk- の形では「いっこく者」。
 この*icc-に似ているのに kitt がある。果たしてなんらかの意味をもった語頭の“k”なるものがありうるのかどうか……オラシラン。屹立の*kitt は極東に広く分布していて「まっすぐ立つ・キッと立つ」という意味である。精査すると世界語の位置を占めるのかもしれない。
 ひょこッとしたら北野天神あたりは kitt-ta か……。
 日本語のキ(木)はアイヌ語ではニ(木)となる。そのアイヌ語で屹立したチンポをニィッという。だらんと下がったチンポは「ノゥ」と、別語であらわす。
 イノチの源……チンポ崇拝。そのチンポは kitt でなければ“柱”ではない! 
 一本足の基本は天地を繋ぐ柱だったが、その柱概念を人体に例えた。背骨こそ柱だが、その柱の神のエキスがイノチ子として屹立したチンポから奔り出る。

 コラッ(ネパール語で kora は鞭)「チンポだなんておゲレツね」と言うヤツはだれだ!
 アマゾンのジャングルにも、アフリカにも陰部をぜんぜん隠さない氏族がいる。陰部を隠すなどとは、片よった文明のありかたの一つにすぎねぇ。文化とは偏執ということである。
 ひとは「本来の居場所」から離れれば離れるほど、そこに「文化」を感じる。
 身体にイケナイからこそ、深酒やるし、タバコを吸う。バイクでカミナリをやる。

S.Setoh H12.5.1
玄松子さんは、佐渡ですね。小生は紀州の向かいの阿波です。阿波は海から日が出るんですよね。
玄松子さんのHPに蔵書の一部が紹介されていますね。すごい質と量ですね。そこへ「式内社調査報告」24巻が加わるのですか。
古書ですが、京都で年3回古書市が開かれます。
春  5月1日−5日  京都市勧業館 平安神宮の南西すぐ
夏  8月11日−16日 下鴨神社
秋 11月 1日−5日  百万遍知恩寺


焼尻紋次郎 紋次郎さんのHP H12.5.1
 《大黒様ものがたり 28 》    ★ 足を切ってもらうこと

   kat は世界語……英語のでは cut。ネパール語で 材木はkath と謂う。man も 世界語で「心」、mandir はヒンズー教の寺。「材木・寺」の合成でできたのがカトマンズ(ネパールの主都)だが、「カトマンズとは一本の木で支えられた寺という意味である」が語り伝えられている。これにはワケがあった。katau- という語彙があってこれは「差し引くこと・切ってもらうこと」という kat がらみのミョーな意味を持っている。
 今でも山の神から柱をいただくときには「この木を柱(神)にさせてください」と希望するシルシとして、神官がオンドリ・マークを背に刻んだ鋸(のこ)をその木に打ち込む。光を呼び込むカラスではなく、光あふれる朝を謳いあげる鳥のニワトリだった。これも世界中のカニシの習わしだった。そのあと、神(となる)木の足を切る。
 人間も神の一部なのだが、足が二本もあるのはケシカラん。一本足こそ気高いのだ……この意識が世界じゅうを駆け回った。
 人類が傘というべんりな高級道具を作れる段階に入っても、この偏執(文化)は続いていた。大きな一つ目でベロを出しているおばけは一本足だ。大きなヒトツメ……これも、じつは kat の一種で、これは「欠けた、欠乏」を意味する。飢饉をケガチ(東北)というのはこれ。
 katau- は日本では「加藤さん」になって定着した。
 遮光器土偶の足は殆どは切られた状態で出土している。
 先のサッカー・世界大会のシンボル・マークはオンドリだった。次のシンボル・マークは三本足のカラスである。それまでには、この意味を広く深く知らしめたいものである。

焼尻紋次郎 紋次郎さんのHP H12.5.1
  《大黒様ものがたり 27 》  ★ 鎚の語源

   www.kamnavi.net から逃げ出して河岸ィ換えやした。自分のホペで流すのがスジってぇもんでげしょうが、あっしゃ「転送」がでけんとですたい。
 そげなんわけで、26以下は「かんなび」ごらんくだせぇ。
 そげなんわけで、hatawdi のhata が雷⇒鎚となったが、鎚の誕生秘話をこれから……。
   日本語の「鎚」の周辺を見渡すと、関連を示す語彙は「イカズチ」しかない。このイカズチは i kad chi ……「i(神)kad(雷)chi(霊・刀)」でドンピシャ。chi は pi でもあって火・陽も内包する。ika-duchi ではないのでこのイカヅチは本来 ika-duti にバラすことはできないはずだが、そこは混成言語のアサマカサ。アイヌ語 ika(跳梁する)や鎚の派生語を生んだ。i-kad-ci を半分にチョン切ったのは類似発音の tutu(破壊)だろう。
 伝説のまぼろしの生き物……ツチノコは、もう捜さなくても、腑に落ちたこったろう。
 kad ち言いいきらん朝鮮人はkai (雷神)を造語した。kad-i(神)は鍛冶、加持祈祷などの普通名詞となった。
 博多の飯倉タクシーで名を売ったKTGグループのトップがヨカオトコの加地とっしゃん。
 博多のi- tutuーya(ネパール語 ; =日本語の“屋”)ではオオヤマツミの名を継承している大山たかっしゃんが頑張ってござる。やっぱ、こいつら、先祖が食うた食い物がチョー・ヨカったっちゃねーだろーか。
 博多には「筒井さん」という美人がいた。スパッと目鼻立ちの整ったゲルマン人みたいな美人だった。今、生きていたら……あ、もう60のババァだ。

玄松子 玄松子の記憶 H12.4.30
「式内社調査報告」24巻が、今日、届きました。
『よくやるよ』という感じですね。


発足以来のログです。
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