神奈備掲示板の平成12年12月ログ


掲示板のログ(平成十二年十二月)お名前の敬称は略させて頂きます。
更新 H12/12.31    過去ログへ

 setoh 真朱の姫神 H12.12.31

おほみそか かくにとさけと にぶつひめ いたけ神との ロマンス思ふ
マルヤさん、これからの展開楽しみですね。 
>「天河神社神占『吉』」と書かれ、「八十の木の種を播き植えて繁る野山も神の功し」とあり、「比> みくじにあふ人は五十建の霊をしんじんすべし云々・・・」と神占文に示されている。このおみくじ
> には、はっきりと天河神社と書かれているのである。
これは小説より奇ですね。この神社の祭神に五十猛神が坐のでしょうか?
伊太祁曽神社の古文書には和銅六年(713年)五十猛命、大峰釈迦嶽等から山東の地に降臨したとするものがあります。 釈迦嶽は天河神社からは10km以上離れていますね。


マルヤ 吉野にようこそ 良いお年を H12.12.31

 しばらく書き込みを止めて「モノ語り?」を書いていました。50枚ばかり書きましたので私のホームページに本日掲出します。タイトルは【真朱の姫神】(まそおのひめがみ)としました。続編は1月10日。以降は10日毎に追加・更新する予定です。
 今年始めたインターネットで神奈備のファンになって以来、この掲示板では様々なことを教わり、ありがとうございました。来年もどうかよろしくお願いします。
それでは皆様、どうぞ良いお年を。 


焼尻紋次郎 気高き男たちの群 みかど と 門松 H12.12.31

わが家もブンカ(分家のこと)がすすんで歳の晩にいるのは末子だけになった。
その末っ子とおヘマがきのふ買い物に出て門松を買ってきた。
おヘマが「お父さん(おらのこと)、夜に門松を立ててもいいものかしら」と訊いてくるので「そんなことあるもんか、どうせ足を切られた松じゃないか」と言ったとたんにおらのアタマに電球の灯が点った。

 kado は kat-au(ネパール語での「切ってもらうこと・足きり」)の古代癖音での kad-au にちがいない。古代では第二子音が濁音化するのだ。これは朝鮮語のクセでもある。
 今年10月、ホームページ『かむなび』の胸を借りて、和歌山市の郊外にある伊太祁曾神社のイタキソの意味を分析し、おら並みになんとか納得できる意味を摘出できた。
 そのとき、柱とは「足を kii ⇒ 切る」を設定したときはかなりな冒険だった。
詳しくは  http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/kambbs.cgi ⇒ 『紋次郎ほっつきある記』
ところがその後、伊那谷の高遠藩がでたり、同じ伊那谷にタギリがあったことを思いだしたり、山窩の伝承のなかに「タギリひめ」があった。整理していうと ta-kii ta-kat-au ta-giru ta-kiru という推移の跡がたどれたのだった。

 そういえば、家の前に二本の松の木を“植えている”家はない。門松の松の木は足を切られることに古代の偏執(文化)があったのだ。門松とは門にとりつける松ではなく、ハナシは逆「門をカドという」のは “kad-au 松”とか“足切られた……の kad-au”のほうが先に造語されたと置くのが本筋だ。

 同時におらは、いままで考えていた「みかど(帝)」の語源に疑問を持った。帝を mi(神・尊身)ka(の)do(=to 、門) 或いは mi cad(祭り)、mi *kad(雷……*印は推定形)などとしていたのだった。
 だが、ミカドとは mi kat-au が基本だろう。
 南北朝時代、吉野の山伏たちがデモをかけたとき、ご神体の柱を都大路で引き回したので、ミカドがことのほか怯えたとある。この現象こそ「ミカドとは mi kad-au 」であることを証明しているのではないだろうか。

 思えばシナ大陸に初めて統一国家を造った秦の始皇帝のブレインは諱信という宦官(去勢された官僚)だった。伝えられるところによれば、劉邦その人はそんなには利口ではなかったという。いつの世でも世紀を大きく動かすのは組織のなかのNO.2である。
 去勢とは睾丸を切ると解釈されているが、人間の場合は柱そのものを切ることだったのではなかろうか。柱を切ったら男は神になる……そう信じ(偏執)られていたにちがいない。

 おらは足を失った。おらはおらなりに未熟な神カネ。「気高さ志向」なのら
  かむなび 精神文明の牙城 ; http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/youibbs.cgi


泊瀬女 変わり者 H12.12.29

年内に何とか出雲の旅報告を終わらせようと思ったのですが、どうにも気が乗らない。神社にお参りしたときの楽しい気分にならないと書けないみたいです。1年間夢中で神社巡りをしていて当然のことながら仕事を随分サボりましたので、ここに来てドッとしわ寄せがきたらしい。公私ともに忙しくて気持ちがザワザワしています。
そこで、先日伊勢の倭姫宮に行った時のお話を。
倭姫宮の神官さんは谷分さんとおっしゃる方で、倭姫さまを非常に敬愛しておられるようです。倭姫ご巡行のお供をしたという五大夫の生まれかわりではないかと思う位。とっても面白い方です。その方がね、おっしゃった。「神社巡りをしたり、神社のことを調べたりしているのは変わり者だ」って。「変わり者でなければ、神社に楽しさなんて感じないよ。そういう僕も十分変わり者、ワッハハ・・・」と笑って「でもね、千年、二千年前の人は神様と一緒に生きていたから、神社に来たり神様に祈ったりするのが当たり前だったんだ。そして幸せを感じて楽しかったんだね。だけど、今の世では変わり者・・・」
神奈備のお仲間もみんな変わり者?
変わり者バンザイ! 変わり者の皆様、良いお年をお迎えください。


 kammer 良いお年を! H12.12.29

これから出張で31日まで仕事をして、そのまま実家に帰ります。
書きこみは1/3に帰ってきてからまたみさせていただきます。
毎年初詣は1日午前2時ごろに丹生都姫神社に行っていたのですが今年はお昼ぐらいに行こうかと思っております。お昼の丹生都姫神社をみるのは小学校以来でしょうか。
みなさま、1年ありがとうございました。また来年もよろしくお願い致します。

それではみなさま良いお年を!


 setoh 金毘羅さんと海上交通 H12.12.29

>瀬戸内さん  金毘羅さんと海上交通
面白いテーマですね。単に問題を投げかけるだけではなく、ご自身の考察を先ずお示し下さい。地理的に恵まれておられるようだし。

瀬戸内さん 焼尻紋次郎さんからも宿題が出ていたのでは?
* 大きい夫と書いて「まへつ君」‥‥。おらに腹案あれど、まんずは瀬戸内っつぁんの存念をお聞かせくだせぇ。

 投稿される方々はそれなりに相当の下調べや努力をされています。だからこそ、玄松子さんがYOU−I掲示板で言われるように「過去ログ」がそれなりの価値を持ってくるのです。

 管理人としては皆さんの相当の下調べやご努力に敬意を表します。


 soramitsu_yamato re:三輪若宮の磐座  H12.12.28

山浜様 ありがとうございました。
狭井神社の水がおいしいのも花崗岩帯のおかげでしょうね。


 瀬戸内  金毘羅さんと海上交通 H12.12.27

讃岐国(さぬきのくに)狭岑島(さみねのしま)にて-----------
0220 玉藻よし 讃岐の国は    国柄(くにから)か 見れども飽かぬ 神柄(かみから)か ここだ貴き
途中省略(管理人)
私の父親は、昔 森繁久弥がヨットから流した樽を拾って金毘羅さんに奉納しました。
もう 35年ぐらい前の話です。樽には5千円入っていました。
当時の5千円は、かなりの値打ちだと思います。

金毘羅さんが 海上交通の安全にあまり 関係あるとは思えないのですが江戸時代からの 風習でしょうか。よく わかりません。


山浜 Re: 三輪若宮の磐座 H12.12.27

> ペグマタイトなのでしょうか? 
> また、狭井神社にいく途中のものは黒でこれもかわっていました

実際見てみないとわかりませんが、地質図では三輪山周辺は黒雲母花崗岩となっており、花崗岩地帯であればだいたいペグマタイトは産出します。また、三輪山の北西から南東にかけては、帯状にはんれい岩(黒御影)が出るようですので、soramitsu_yamatoさんが見られたのはその可能性があると思います。


 setoh 淡々と  H12.12.27

> ノーテンキにルンルン
このうちの ノーテンキ に近い也。


泊瀬女 ありがとう H12.12.27

三輪山の件でお尋ねしたら、たくさんの方からご教示いただきました。
この掲示板だけでなく、メールもいっぱいいただきました。ありがとうございます。
こうなったら、山登りは嫌い・・・なんて言ってられなくなっちゃいました。三輪山登山ではなく登拝っていうのね。
万葉集の歌もたくさん教えていただいて、ありがとうございます。
この歳で、勉強して行動して、頭も体もけっこう大変だけど楽しいのね。
泊瀬女、がんばるわ


 soramitsu_yamato 三輪若宮の磐座  H12.12.27

来年は蛇年というのもあって昨日大神神社にお参りにでかけました。
時間が無くて登頂はできなかったのですが、人も少なくすばらしい霊気をあびることができました。若宮(おおたたねこ)神社の誕生石という磐座は、他の磐座と異なり大きな石英や雲母の結晶が走っておりペグマタイトなのでしょうか? 
また、狭井神社にいく途中のものは黒でこれもかわっていました 石に詳しい方教えて下さい。


焼尻紋次郎 気高き男たちの群 出稼ぎ ・ シマ荒らし H12.12.27

シマ(ネパール語 ; simana……境界)荒らしカネ。
☆ サラセッセ、[434] に ★「山登りですが、たんたんと登ればその内に頂上付近の高宮に」とあるが、この「たんたんと」とは別表現をするとどーゆーことカネ。すこし詳しくお教えあれ。近畿の方言ならむ。じつは天理教教祖の中山ミキさんのくちグセでした。擬態語なので朝鮮語に残っているかもしれない。

☆ [434] の瀬戸内っつぁん、庶民向けにフリガナふってくれち、おおきに。わかり始めると次のワカランが顔をだして、問題点がハッキリします。
* 「任けらるる」は「MAK-E られる」ですよね。山窩関係の本で知ったばかりです。原意は「MAK……身内の一族」。エゾの豪族だった安藤さんをエゾ管令に指定して「身内」に取り込んだ。こんなことが重なって「まく=任命する」という概念が派生せしものならむ。そのまた原意原音は「みとのマグアイ」のなかにあった。
* 「神の OBAS える」。「おわす」への移行形。*BAS =神 これで出た、あがあが。⇒ はし(ら)、間人
* 「うたげ」……一見「歌と KE(たべもの)」みたいだが、この GE は 「*GAW(歌)AU-HI 」という原形  から発達したものと思われます。この用例多し。
* 大きい夫と書いて「まへつ君」‥‥。おらに腹案あれど、まんずは瀬戸内っつぁんの存念をお聞かせくだせぇ。

 こたえは下記へねげぇやす。
  かむなび 気高き野郎の館 : http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/youibbs.cgi


 玄松子 re:Mt.三輪 騒動  H12.12.26

> 途中の磐座に酒や卵が置いてある事もあります。酔っぱらわないようにね。
これ、本当は禁止なんですよ。供物も置いてきちゃ駄目です。
また、正月三ヶ日など、登拝禁止日がありますから、注意が必要です。
http://www.oomiwa.or.jp/c01/c01_03.html
ここに心得などが出てます。


 setoh Mt.三輪 騒動  H12.12.26

 山頂の磐座の写真を掲載していて、山中にはカメラ持ち込み禁止(当然撮影禁止)であることを、玄松子さんはじめ親切に注意してくれた方がおられました。下手な絵でごまかしました。これ三輪山騒動。

 山登りですが、たんたんと登ればその内に頂上付近の高宮に行き着きます。途中の磐座に酒や卵が置いてある事もあります。酔っぱらわないようにね。30〜40分程度。降り20分。
 狭井神社で水を貰っていけばいいでしょう。入山料約300円、タスキもかけます。
 小生は一回目は高宮でお終いでしたが、二回目は詳しい方がおられまして、奥津磐座の場所を教えて貰いました。高宮に向かって左横の道を進み、道なりに行きますと、奥津磐座があります。ここが真骨頂です。
 大神神社の二の鳥居のすぐ北側に柿葉寿司と素麺の美味しい店があります。名前ど忘れ。狭井神社を出たところの売店の食事もわるくはありません。

親切な神奈備亭主から
万葉巻七 一〇九五
原文 三諸就 三輪山見者 隠口乃 始瀬之桧原 所念鴨
読み 三諸つく三輪山見れば隠口の泊瀬の桧原思ほゆるかも
仮名 みもろつく,みわやまみれば,こもりくの,はつせのひはら,おもほゆるかも
訳文 神様を祀ってある三輪山を見ると隠口の泊瀬の桧原を思い出す


泊瀬女 三輪山は? H12.12.26

どなたか、大和・三輪山の山頂に登った方はいませんか?
もちろん、正式に狭井神社から。大神神社には何度か行っていますが、三輪山には登っていません。山登り、本当は嫌いです。でも、この際そんなことも言っていられないので、おヘビさまの出ない時期に挑戦しようかなと・・・
三輪山に登った方、どんな様子かレクチャーしてくださいませんか。
エゲレス語なんか使ったら、また紋次郎さんに叱られるかな・・・


焼尻紋次郎 気高き男たちの群 マスラオ の 語源 H12.12.26

《 マスラオの語源 》
 おらはいま、あえて“ネパール語ざんす”の偏執をとっていますので math(上、上のほう)-ra(強調末尾辞・または ……の)と分析しています。o は男でしょう。
同じネパール語でも「英雄」の意味も懸詞されていることも考えられます。詳しくは下記の殿堂で。ただし、あと2〜3日待っちやっちおくんなせぇ。
 かむなび オトコの殿堂 ; http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/youibbs.cgi


 瀬戸内  さしでがましいですが H12.12.26

前略 余計なことですが (多少 間違っているかもしれませんが お許しください。)
大夫(ますらを)は友の騒きに慰むる心もあらむ吾(あれ)そ苦しき
ますらをは,とものさわきに,なぐさもる,こころもあらむ,われぞくるしき

敷妙の枕動きてい寝らえず物思(も)ふ今宵早も明けぬかも
しきたへの,まくらとよみて,いねらえず,ものもふこよひ,はやもあけぬかも

 (ますらを)大夫 益荒雄 勇士 丈夫 武士 健男
日本語は幅が広いです。
紋次郎先生 マスラヲは、何からきてますか?
日本男児 常にマスラヲの意気込みを持ちたいです


 setoh re:泊瀬女騒動って?  H12.12.25

> Setohさん 泊瀬女騒動って何?
ゴッドファーザーやゴッドジジイまでが登場して万葉集まで引っぱり出しての一連のストーリィをそのように表現いたしました。これは大変失礼な言葉を使ってしまいました。 m(_ _)m 

おわびの印に万葉巻十一から
  大夫は友の騒きに慰むる心もあらむ吾そ苦しき      二五七一
   敷妙の枕動きてい寝らえず物思もふ今宵早も明けぬかも 二五九三


泊瀬女 泊瀬女騒動って? H12.12.25

Setohさん 泊瀬女騒動って何?
私、何か騒動を起こしました? 本人は相変わらずノーテンキにルンルンしてますが・・・
もし、何かご迷惑おかけしていたら、遠慮なく注意してください。


 setoh  H12.12.25

 海岸の石で思い出しましたが、南紀熊野の海岸には穴の開いた小石があるそうです。普通は見つからないそうですが、熊野本宮にお参りして念じてからおもむくと見つかるそうです。という嘘のような本当の話です。

 少名彦那は金属を含んだ粉末を神格化したものとか、徐福が帯同してきた童男童女であるとかいろいろ、イメージで云えばゲゲゲの鬼太郎の親父見たいなもの、どうも穴掘りなどの肉体労働には不向きでは。

 渡来人9:従来人1の混血割合が骨格から推定されているとのこと。そうすると300万人ぐらいですかね。

 式内社にならなかった理由のひとつに、殆ど寺院化している、もしくは、僧侶が祭祀を牛耳っていた様な所は、神社とは認識されていないようです。吉備津神社の場合はどうだったのでしょうかね。


山浜 海岸の石 H12.12.24

「伊射波神社のある加布良古岬の海岸には美しい石がでるが持ち帰ってはいけない」。という話があるようですが、たしかに!あの付近、緑泥片岩に蛇紋岩、石英の塊などきれいな石がごろごろ。あのあたりは三波川帯か??伊太祁曽神社のあたりもそうなんですよね。古い地層の上に立つ神社はなんかすごいですね。


山浜 ご報告 H12.12.24

泊瀬女さん、こんにちは、伊射波神社行って来ました。鳥羽についたのは朝10時頃でしたが、レンタカーにするかタクシーにしようか考えていたら、ちょうどバスが来たのでそのまま乗りました。最初に宮司さんのお宅に伺い、行き方などを教えていただき、その足で神社へ向かいましたが、確かにすごい道ですね〜。「泊瀬女さんが言っていた危なそうな所というのはここか?」などど自問自答しつつ、海岸の鳥居の前に到着。そこから胸突き八丁ですが、あっという間に登ってしまいました。実は前日、信貴山の空鉢護法さんまで登ったもので、それに比べれば少し楽な気がしました。なんせ空鉢さんの場合、たださえ坂がきついのに水まで持ってあがらないといけませんからね。
神社はひっそりとしていましたが、いいお天気でおまけに海風に木がざわめく音がなんともよかった。平成13年11月3日までに遷宮を終わらせる予定だそうです。社務所の記帳には「いい汗かきました」の文字がいっぱい。
いろいろ写真を撮ってみましたが、玄松子さんの撮られた写真の構図が一番いいようです。やっぱりすごいなあ。


習志野の てつ Re: 丹生神社 H12.12.24

kammerさん
> 丹生神社には大きく3つ?の分類ができるかと思います。丹生都姫ですか?
千葉県 習志野市 谷津にイマス丹生神社は、丹生都姫です。setohさんの
おっしゃるとおりです。setohさんは大阪にお住まいなのに流石ですね。
丹生神社 由緒 として、次のことが書いてあります。
『此の神社は丹生神社と申しまして御祭神は丹生都比売神で和歌山県伊都郡 かつらぎ町に鎮座しております丹生都比売神社の一の宮(此の神社は四宮あ ります)の御祭神の御分霊を江戸時代の承応四年(西暦一六五四年)に勧請 このところに奉斎され〜以下略』
私見ですが、江戸が発展してきて、魚を食べる人口が増え、それを対象に和 歌山から漁師が渡ってきたので、丹生都比売神も勧請したのだと思います。
> 岡山にもおられたことがあったのですか。
仕事の都合で2年おりました。岡山駅と後楽園の間 弓之町でした。

〉丹生祝氏は犬飼、?、吉備国? すいませんsetoh さんとkammer さんの話にはついていけないのですが一言
吉備津神社にイマス吉備津彦は桃太郎伝説のモデル?とされていますが、 吉備津神社の駐車場に犬飼毅元首相の銅像が有ります。その銅像は5M近く ある立派なものですが、吉備津神社をまっすぐ見上げています。まさに家来 が、見上げるようにです。これを見て『ああ、犬飼家は吉備津彦に従って、 =桃太郎に従ってきた家来なんだ』と思いました。又吉備津神社は北に向かっ て立てられており、出雲方面を睨んでいるような気がしました。西北には 鬼の城(キノジョウ)も有ります。吉備津神社は吉備津造りと云う独特の 建て方をしています。一見の価値はあると思います。


nick  籠神社 系図  隼人、神話伝承探訪 H12.12.23

そういえば以前、歴史読本辺りであったなと、引張出しましたらこちらでもちゃんと考証を。(~_~)
こちら(隼人)としては、「天孫降臨」や「海幸、山幸」は1箇所だけで、、、と。
ちょっと複雑ですが、、
東征を考えると、、、別に、伝播したと、、、当然でしょうか。。
また、いろいろ勉強させて下さい。


 setoh  年の瀬 H12.12.23

大阪はパソコンの前に居るのがもったいない日よりです。年賀状です。
さて、神社関係者の方の中で「稲には昔から、12の神様がいらっしゃるそうだが、その名前を知りたい」との質問が出ていて、今のところ答えなしです。どなたかご存じありませんか?

 さて、千葉の丹生神社の祭神は丹生都比売神となっています。
埼玉は丹生氏の一派丹党こと丹治氏がこの地域に勢力を持ち、鎌倉以降、祖神を勧請したとのことですね。最近の祭神では丹生都姫、埴山毘賣命、罔象女、丹保都姫命などさまざまです。

 丹生の話ですが、角川選書の「気と道教・方術の世界」坂出祥伸さんに呪符と煉丹術などのことがでており、竈門の神も登場しています。小生は丹生を調べる目的ではなく「気」を勉強してみようと思って買った本です。余談ですが「気」で人を倒す、これは科学では説明しにくい事項でしょうが、それは「気」がおかしいからではなく、科学がおかしいと言うべきでしょうね。

 話が飛びますが、泊瀬女騒動いらい万葉集にご注目ではないのですが
巻四の柿本朝臣人麻呂の詠める
み熊野の浦の浜木綿(はまゆふ)百重なす心は思もへど直(ただ)に逢はぬかも  四九六
にあるように南紀に多い大柄の花ですね。


 kammer 丹生神社 H12.12.23

>てつ様
>地元の鎮守の神様が、丹生神社だったもので、
丹生神社には大きく3つ?の分類ができるかと思います。1つは丹生都姫、1つは罔象女命など、もう1つは関東にある丹治を丹生明神として祭っている丹生神社です。丹治家影を丹生明神として祭っているのは、ほとんどが武蔵七党の丹党の支配地だったかと思います。そちらの丹生神社は丹生都姫ですか?
岡山にもおられたことがあったのですか。どのあたりですか。私も岡山市に4年住んでまして、食料品は近くの御野ショッピングセンターで買い物してました。ちかくに岡山大学があります。吉備国三野県がこのあたりでしょうか?

>setoh様
>「美野国乃三津柏又濱木綿」
これは三津柏また浜木綿は美野国産と言う事でしょうか?三津柏はわかるのですが、はまゆうとはどんなものなのでしょうか?飯盛る器として頂いたのですから、飯をうけるものと言うのは分かるのですが。
setoh様の情報から推測しますと、犬黒比と狩場明神は同一人物ではないと見たほうがいいかもしれませんね。丹生祝氏は犬飼、狩場明神、犬黒比は同一とみているようですが、もしかしたら、時代とともに変化して同一と解釈してしまっただけで、実はもともとは別別の人物だったのかも知れませんね。ちなみに、吉備国の三野は県ですから美野国は書き間違いと解釈しないといけませんね。また美野が美濃国であるとしても美濃はよみは「みのう」だったような気もしますし。そんなことより、もし、丹生祝氏文が作り話だったらって思うときもあります。


泊瀬女 出雲・幻想の旅 4 H12.12.22

斐伊神社はいわば元氷川ともいえる神社です。埼玉県・大宮市の氷川神社は武蔵国一の宮ですが、出雲の斐伊神社から分祀されたとか。当然、ご祭神はスサノオ様とイナダヒメ様。神社のすぐ前を木次線の線路が横切っていて、神社前の踏み切りは車では渡れません。グルーっと遠回りしなければなりません。鉄路にヤマタノオロチを想像するのは斐伊神社へお参りする前に、すぐ近くの八本杉(スサノオに退治されたオロチを埋めたとの伝承がある)を見てきたからかもしれません。

斐伊の名を 持たす社や スサノオが 武蔵の荒野 守る基(もとい)と

おろちとや 討たれしものの あわれなる 八本杉に しぐれてぞおり

来次神社は木次の町をひかえているせいか、古格で立派なお宮です。
木次の町は斐伊川の堤の桜並木がみごとです。春、花の頃来たらどんなに美しいことでしょうか。

しぐれ来る 高き石段(きざはし) かけ登る 来次の社 深(しん)といまして

三屋神社は三刀屋の町を一望する高台にひっそりと鎮座しています。三刀屋は御門屋社とも呼ばれ、オオナムチ命の館があったとも政庁だったとの説もあるそうです。ということは、嫡妻であったスセリヒメ様もここに住んでいたのでしょうか。オオナムチ命は立派な方だったのでしょうが、回りに何人の女性がいたのか・・・夫があちこちの女性のもとに通うのを、スセリヒメ様はどんな気持ちで見ていたのか。彼女はスサノオの娘として優しく誇り高く、そして夫を深く愛していたと思います。嫉妬深い妻として名を残していますが、私はスセリヒメ様の悲しみを思います。オオナムチとスセリヒメの歌のやりとりを何かで読んだことがあります。夫が「そんなにヤキモチを焼くのなら吾はどこかに行ってしまうよ」というと、妻は「私はいつまでも待っています」と応える。一途な愛を寄せる妻に夫の態度の何たることか。

三刀屋にぞ いませる人の 悲しみは 斐伊川春の 花にいやせめ


習志野の てつ PS H12.12.22

書き込んで反省
ダイダラボッチは大男なのに金属関係者でした。これ つぶやき−5 とします。


習志野の てつ つぶやき 数語 H12.12.22

つぶやき−1
記憶に定かではないけれど、だれかの本で『伊勢の外宮は、神様を祭る神官の家で、だからこそ、外宮を見下ろす位置に、多賀の宮がある。』と読んだことが有ります。岡山で云えば吉備津神社と吉備津彦神社、鹿島神宮に対する香取神宮、諏訪の上社に対する秋の宮、等がこれに当たるのでは?

つぶやき−2
スクナヒコナが鉱山・金属関係の神−−白雪姫の七人の小人は、ツルハシ持ってたし山に行って金属掘ってたなー やはり背が小さい方が穴掘りには向いてるのかなー

つぶやき−3
吉備津神社は何故延喜式神名帳に入らなかったのだろう

つぶやき−4
人類はたった一人のアフリカで生まれた女性からの子孫だ。人類の最初の女性−アフリカ生まれのイブ いわゆる ミトコンドリア・イブ−仮説が本当なら、大昔500〜600万年前は人類の言葉はたった一つしか無かったのでは?

つぶやき−5
縄文人が最大で30万人程度だったら、弥生時代、古墳時代はいったいどの程度の人口だったのだろう?

どなたでもご意見ください 教えて下さい よろしく。


 瀬戸内  H12.12.22

結局のところ 記紀の神社を この時代まで綿々と 保たせたのは八幡系の力が大と思うのです。
8世紀に、記紀の神社は 滅亡寸前までいったのを 救ったのが八幡といえるのではないでしょうか。 


nick re:nickさん HP H12.12.21

setohさん
たびたびお調べ頂いてありがとうございます。これからまた近くの社寺を探訪しようと思います。どうもありがとうございます。


 setoh  nickさん H12.12.21

泊さん 古代九州の新羅王国
谷川さん 日本の神々1九州 に記載されています。


nick re:2 HP H12.12.21


setohさん>国分市姫城に 稲荷神社が一座鎮座しているのを見つけました。
setohさん>ここですね。
setohさん>祭神はおっしゃる通り「稻倉魂命 合祀 天之御中主神、高おかみ神」とsetohさん>なっています。
setohさん>国分市清水に 天御中主神社があり、北辰さあ と呼ばれているようですsetohさん>が、これを 妙見神社と称されているのでしょう。

おっしゃる通りこれも「妙見信仰」のようです。
これに関しては、当方のページでも記載しております。
地元では「ほっしんさ〜」と呼びます。北斗七星 を指します。

また、私がお尋ねした「稲荷神社」の方は、なぜか「おみょんさ〜」と呼ぶんですね。「お妙さま」のことでした。だから同じように「妙見信仰」で。
後、1箇所、その名もずばり「妙見神社」というのが国分市の外れにあります。
昨日、図書館で調べましたら、やはり「妙見神」でした。

鹿児島各地にこの信仰が広まっているようで、、、代表格が「金峰山神社」結構、興味がわいてきます。
そうそう、私の住まいは、この「稲荷神社」の近くで「氏子」です。(~_~)

それと、もう一つ、鹿児島神宮や霧島6社権現を始めとして、この地の神社は祝詞で「狗吠(くわい)」を唱えます。これこそ「隼人の犬鳴き」にほかなりません。
(最近の若い神主さんは、このことをご存知ないようで。。)
どうもありがとうございました。


nick re: HP H12.12.21

setohさん
ご多忙のところ早速の御回答ありがとうございます。
720年前後平定統治のために宇佐の新羅系がきたことは大方一致するところのようです。
ご指摘の神社や風習等からして推察されます。

>さて、妙見信仰は仏教と結び妙見菩薩として祀られましたが、これは新羅系渡来人が>持ち込んだ物のようです。(出典忘却)
この出典先がいつの時代かが判明すれば私のもやもやも少しは。。。
当地のこれらの神社は、720年以前は、多分に「隼人」の守護神を奉っていたのではと推察しているのですが。。
神仏習合のどの頃の時代か、その背景を今後探ってみたいと考えます。ありがとうございました。


 setoh   H12.12.21

 nickさん、てっきり隼人町と思って探していました。
国分市姫城に 稲荷神社が一座鎮座しているのを見つけました。ここですね。
祭神はおっしゃる通り「稻倉魂命 合祀 天之御中主神、高おかみ神」となっています。国分市清水に 天御中主神社があり、北辰さあ と呼ばれているようですが、これを 妙見神社 と称されているのでしょう。

>nickさあ 稲荷/貴船/妙見
と云う事ですが、一般常識で言いますと、明治末期の神社合祀とすれば、近隣の神社の祭神が寄せ集められたことになります。妙見温泉と姫城が近隣でしたら、そこにあった神社が合祀された可能性もあり得ますね。ここらのことは地域の歴史を調べたら何か出るのかも知れませんね。

 さて、そんな単純な話を持ち出せと云う意味での書き込みでないことは承知しております。稲荷/貴船/妙見のつながりの意味ということですね。
 九州の妙見宮では熊本県八代市妙見町の白木山に鎮座している八代神社(妙見宮)がよく知られています。ここの由緒書きによれば、「南北朝に、神主側は伊勢神道をとりいれ、伊勢外宮の豊受大神とを同体異名の神とし、伊勢外宮を妙見宮の本地とする本地垂迹説に発展した。」と出ています。稲荷/豊受/妙見はつながります。

 さて、妙見信仰は仏教と結び妙見菩薩として祀られましたが、これは新羅系渡来人が持ち込んだ物のようです。(出典忘却)福岡市西区西浦の白木神社は妙見山に鎮座しています。福岡市西区金武字妙見崎に五十猛神社(妙見宮)が鎮座。前述の八代神社は白木山に鎮座しています。白木神も新羅系渡来人によって持ち込まれたと見ていいでしょう。これらの祭神は五十猛命で、国分市の式内社で五十猛命を祭神とする韓国宇豆峰神社が鎮座していますが、この地にも新羅系渡来人が来ていたのでしょう。
 五十猛命は「木の神」「浮き宝(船)」の神です。木船の守護神です。貴船神ですね。


習志野の てつ 改めて ご挨拶 H12.12.21

改めて 神奈備の森を作ってこられたに皆様にご挨拶。
現在 千葉県習志野市 谷津 に住んでます てつ と申します。
以前は岡山に住んでおり、その昔徳島にも住んでました。
地元の鎮守の神様が、丹生神社だったもので、調べてみようと気楽に検索。入ってみたら掲示板があり、これまた気楽に11月27日に森に突然乱入、失礼しました。神奈備の歴史を見てビックリしてます。焼尻紋次郎さんこと生田潤一郎さん 本まで出されていたんですね。setohさん 玄松子さん 泊瀬女さん 他 多くの皆さんの森を育ててきた努力敬意を 表します。これからもときどきおじゃまします よろしく。
〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜
日の本 下総の国 習志野は谷津 ラムサール条約により保護された谷津干潟のほとり
谷津鎮守たる丹生神社の氏子 非総代 てつ


クマリ・泊瀬女 伊射波神社について H12.12.21

山浜さん 伊射波神社に行くの? たいへんだヨー。玄松子さんのHPを見てたから、覚悟してはいたけどあんな一の宮は初めてです。一の宮はたいてい交通の便はまあまあで、遠いところでも車で神社の前まで行けるでしょ。この神社は歩かなくては行かれません。
それにしても、先達とはありがたいもの。玄松子さんのレポートがなければ、私なんか伊射波神社にはお参りできなかったわ。玄松子さんありがとう。
山浜さんはレンタカーですか?鳥羽から安楽島(あらしま)までは良い道が通っています。安楽島の道のつきあたりに公民館があります。バスの終点もここ。公民館の右の細い道を入ってもう少しは車がはいれます。右手に旅館があって左手は会社の寮みたいのがあります。このあたりで車を置いて後はただ歩くだけ。道は細いけど、時々「一宮」とある小さな道標があるし、一本道なので迷わないと思います。道の所々に棒が立てかけてあって、最初は気がつかなかったけど、これは杖にする棒でした。杖はあったほうが楽です。途中2カ所ほど海の見える所があって、きれいです。2回目の海の見えるところに鳥居があるけど、ここで安心してはダメ。ここからの登りがきついです。雨でぬれていたら気をつけてね。きっとすべります。鳥の声と突然飛び立つはばたきの音でびっくりさせられますが、それもいいものよ。道にはやぶ椿が落ちていたり、かわいい赤い実があったり、そういうのを自然の贈り物として眺めながら行くと楽しいです。山登りの苦手な私が何とか生かれたのですから大丈夫。玄松子さんは夏にこの神社に来たのよねェ。それは大変だったでしょ・u「Αw)。ヘビやら蜂やら出そうだもの。それから、今は日が短い季節だからくれぐれも明るいうちに行ってくださいね。暗くなったらあぶない場所もありますよ。
この神社にお参りする人は、地元の人はともかく玄松子さんくらいかと思ったら、けっこういるみたいね。ものずきが・・・社務所のノートをみたらたくさんの人が署名してたわ。ちなみに私は書かない。玄松子さんらしい名前もなかったみたい。公民館の近くに宮司さんのお宅があるみたいですが、私はバスの時間が迫ってたのでお尋ねしませんでした。


nick re:妙見 HP H12.12.21

setohさん>nickさん、同じ市内、隣町、近くに稲荷神社、最近地元 いったいどこでしたっけ。
鹿児島国分です。
当方の「神話伝承探訪」の天孫降臨神話を辿って、、に少々記載を。
宜しくお願い致します。


山浜 伊勢・志摩旅行どうでしたか? H12.12.20

クマリ・泊瀬女さん こんにちは
伊勢・志摩に行って来られたのですか、私も24日に伊射波神社に行く予定です。
来年の遷宮に向けて神社には材木が置かれているそうで、来年にはきれいな伊射波神社が見られるとか?しっかしすべての神社をまわってしまったという行動力にはただただ、感心するのみです。私なんかせいぜい3〜4社が精一杯。
伊射波神社どうでしたか?クマリ・泊瀬女さん今回の旅行であこがれの月読さんにもお会いできたのでは?


クマリ・泊瀬女 反省してます H12.12.20

暮れも押し詰まったこの時期に伊勢・志摩に行っていました。いいかげんにしろよ・・と反省。伊勢も志摩も何度か行っていますが、神社巡りを思い付いたのが3年前の伊勢への観光旅行の折りですから、その時は神社巡りの意識はありませんでした。別宮のことも、伊勢125社のことも知らず、ご朱印も頂いていませんでした。ですから、今回は別宮にもちゃんとお参りして、神社巡りのきっかけを与えてくださった倭姫宮にお礼と報告をするのが目的でした。落ちついてゆっくりと伊勢・志摩を廻ろうと思い、3泊4日と時間もたっぷり取りました。賢島の某有名ホテルでランチをとろうとか、鳥羽の水族館にも行こうかナとか計画をしていましたが、伊射波神社に行くのが大変で、優雅な気分は最初からフッ飛んでしまい、ブチ切れたあげく又やってしまいました、狂乱のみやめぐり。外宮・内宮、すべての別宮。摂社・末社手当たり次第。来年廻るつもりだった倭姫ゆかりの神社も伊勢周辺はほとんど行ってしまった。そして自己嫌悪に陥って反省。
月読宮では散紅葉のあまりの美しさにうっとり、内宮に朝参りに行った帰り、津長神社の階段で見た宇治橋の真上に上がる朝日が銀色に見えて唖然として(冬至には宇治橋の中央に日が昇る)、倭姫宮では思わず泣いちゃったり、相変わらずドタバタとかけずり廻ってあちこちで感激してバカみたいと反省。倭姫ご巡幸の跡については、じっくりと勉強しなければいけないと反省。

setohさんのおっしゃったゴッドジジイがもうひとつの名前をつけてくれました。クマリちゃん。インドの少女の生き神様ですって。嬉しいけど恥ずかしいジャン?!。
クマリの名前で掲示板に書き込めとキョーハクされましたので一度だけクマリ・泊瀬女の名前を使います。ネッ!紋次郎さん・・・


 setoh  紀の国の名産物 H12.12.19

嫉妬深い女神を探していましたら、たまたま仁徳天皇の皇后の葛城の石の日売(紀では磐之媛)が出てきました。例の反正天皇の母親です。
まず、吉備の黒日売が船から下ろされて歩で追いやられます。
 また、皇后は木の国に御綱柏を採りに行きます。これを船に積んで難波に帰ってきました。おりしも、吉備国児島の仕丁が、遅れていた倉人女の船に遇い、仁徳天皇が八田の若郎女にご執心を御注進する物語があります。仁徳天皇との別離に発展します。

「美野国乃三津柏又濱木綿」ですが、上記物語と一般常識で考えると紀の国の名産物でもありますね。岐阜の美濃とは思いにくいですね。
 吉備の人に、黒日売、倉人女などの名前が出ています。
 また牟宣都の君の祖を押黒の弟日子といい、こちらはどうやら美濃ですね。草木は人ほどには移動しませんね。


 kammer 石口の瀧 H12.12.18

>setoh様
>三谷村石口瀧とはどこのことでしょうか。
私も正確には分からないのですが、榊山の裏の方に瀧らしきものがあったかと思います。一度確認してみます。
「三谷の瀧祭り」『まず祭礼初日の十日、三谷にて滝祭りが行われる。「紀伊続風土記」によれば、惣神主以下の社人すべてが天野を下り、三谷の大川(紀ノ川)にて禊ののち、「酒殿の社前に詣でて神拝し、次に石口の滝に至り滝祭す」とある』と丹生都姫神社誌にあります。

>「長谷ノ原爾忌杖刺給比」
告門が空海以前の成立とすれば、宮本の百合野社は出てこないと思います。
百合野については皮張大明神縁起並びに祭礼由来記(かつらぎ町史より抜粋)に由来が載っています。「・・・犬山師宮内太郎家信与尊号す、大師初登山の昔真土峠に至りて一人の猟属に逢り、・・・その神(家信=高野明神人体と現し給う)人世をさり給ひし時大師の化導にて百合草野に葬り奉る、・・・遊猟を翫好とし獣皮を付テ戯具に備ふ、よりて皮張・皮付・或は狩場の明神とも拝み奉る、・・・」

>小説の種に使えませんかな?
おもしろそうですね。なんかいままでの疑問が解けてきたような気がし、前が開けてきたような気がします。


 setoh  小説の種 H12.12.18

kammer さん 丹生酒殿神社の見所のご紹介ありがとうございます。神社は調べてから詣でるのがやはり良いですね。 丹生総神主が祝詞を奉じたという三谷村石口瀧とはどこのことでしょうか。酒殿神社社殿裏山の榊山の麓に瀧はあるのでしょうか。
さて、丹生大明神告門(神奈備の丹生都姫神社に掲載中)に「長谷ノ原爾忌杖刺給比」とあるのは大黒人すなわち狩場明神にからんだ聖地のイメージのように思えますが、大師や宮本の百合野神社は流石に出てきませんね。

 「品田ノ天皇奉給物淡路ノ国三腹郡白犬一伴・・」とあります。どうして淡路なのかと思っていました。この前のマルヤさんアカガネさんの書き込みで丹比が出てきました。淡路の三原の産宮神社は反正天皇の誕生の淡路宮跡ともされます。また河内の丹比神社境内にも伝承として反正天皇の誕生の際の産湯の井戸がありました。
墨江の中つ王の反乱の際、倭の漢の祖の阿知の直が履中天皇を救い出しています。反正天皇は巧みに墨江の中つ王を殺します。
吉備の勢力が(淡路や葛城と組んで?)仁徳王朝を倒して、履中政権を作った物語でしょうか。紀ノ川から大和への入り口を押さえるべく、官憲(これを犬という)がその地に派遣されたとか、この話、小説の種に使えませんかな?

nickさん、同じ市内、隣町、近くに稲荷神社、最近地元 いったいどこでしたっけ。


nick HP H12.12.18

こんにちわ
最近地元の「いっがんさ〜(石神様)」をおっかけて野山を走り回っています。
そこで2、3不明な点がありますのでご教示頂けたらと。。。
近くに稲荷神社がありますが、ここの祭神が次のようになっています。
稲荷/貴船/妙見
どうしてこのように3系統を祭るようになったのかまたその背景はどうだったのかお知恵を。
一応各神社のページがありますのでそれなりに由来は判ったのですが伝播経路、その背景がつかめません。
尚、妙見に関しては、同じ市内に「妙見神社」があり隣町には「妙見温泉」という地名があります。
この妙見温泉にも昔は「妙見神社」が存在したらしいということですが宜しくお願い致します。


マルヤ 吉野にようこそ H12.12.17

kammerさん、こんにちは。
私の「小説もどき」に対する書き込みは、私を励まして戴いているようで嬉しいです。
私は勉強不足で、setohさんやkammerさんのように緻密な裏付けがなく、的確な論証ができません。それで自由に考えを(あるいは思いを)飛翔できる小説風にと思ったわけです。
物語はフィクションですので、自由な発想から展開していきたいと思っています。
稚拙な文章で先輩諸兄に笑われるかも知れませんが、予定通り新年一月よりやってみます


 kammer お参り H12.12.17

こんにちは。
私のいなかでは、昔(子供ができたときでしょうか(?))お参りをするときは竃門神社→薬師堂→丹生酒殿神社の順に、つまり神仏神と仏を間に挟んで(真中にして(?))お参りをしたと聞きました。今はそんな風習は残ってないようですが。ちなみに、このようにしてたのはこのあたりの限られた地域だけのようです。何か意味があるのでしょうか?
みなさまの周りではどうですか?


焼尻紋次郎 気高き男たちの群 神の系統 IN 出雲の末裔たちのサンカ H12.12.17

ワァ〜〜イ、おれも神様の縁戚系統書くモンネ〜。
 サンカの伝承によれば、礼法制度はヒムカタヒメが王様だった時代にアジスキタカヒコネ、アメノイクタマ、アメノミクダリの三大臣の手によって制定されたという。
 うち、イクタマ、ミクダリの二大臣は紀記には顔を出さない。

* アジスキタカヒコネは、オオクニヌシとムナカタ神社のタキリ姫との間に生まれたとされる。
* ta-kii / ta-kir / adhin(支配)-st(最高) ta-kat 。……ネパール語
  ……『甦った伊太祁曾神』 http://www.kamnavi.net/you-i/itake.htm
* 三大臣……三本柱。三本足カラス。三位一体。秦(カミナリ)氏
 これ以上書いたら「言語の領域」に入るわな。節度日尻の紋次郎カネ

  言語の神域 ; http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/youibbs.cgi
太田とオオタタネコの語源 ; http://www.todoland.co.jp/waga/nisiwa.html


 kammer 阿智と丹治 H12.12.17

阿智と丹治との関係について、竹内様の「闇の日本史」というHPに次の記述がありましたのでご紹介致します。
「吉備国の鉄産地・阿賀郡には丹部郷(たちべ)を根拠しした丹治氏がいた。丹治氏は平安京造営の時 大内裏 北方山門の中の一つ「建智門」の普請い役に当たっている。阿賀郡は哲田郡と接している。今では倉敷市の阿智町には阿智神社があり、・・・」
やはり、倉敷→蔵吉なのか。丹生祝氏文の三野国は備前国かもしれませんね。


 まつもと  ルーツを求めて H12.12.16

初めまして。実家のルーツをネットにちらばる情報から辿っている者です。
私の祖父の実家は和歌山の龍神村というところで、そこの豪族であった玉置氏の臣下四天王の一人の松本というのが私の祖先であります。
先祖を辿っていくうちに、神道に日本人の精神があるものと実感しまた紀の国が古代史と神霊に満ちている土地であることを知り、改めて憧憬の想いが馳せております。
それに併せて、神武天皇が上陸する前の彼の地はどのような土地だったのか、誰を祀っていたのか、ということも探っております。
その道すがらみなさんにご意見を賜ることもあろうかと、先ずはご挨拶いたします。宜しくお願いいたします。


 setoh  厩戸王子と馬子 H12.12.16

1世紀   原始基督経(景経) インド、中国に伝わる
  (使徒トマス52年インドから中国へ)
1〜2世紀 大乗仏教成立、法華経完成
  (基督経、バラモン経、ゾロアスター経の影響)

卑弥呼の時代以前に大陸にまで基督経が来ていましたので、日本にも伝わっていたとしても不思議ではありませんね。大陸の先進文化の吸収には熱心だったでしょう。
 物部氏の旧約聖書 対 聖徳太子の新訳聖書 の構図という話は承知しておりません。


 kammer  坂上氏 H12.12.16

>文治建久頃当社人の連署に坂上氏の多きの此縁によれるなるへし 
文治建久といえば1100年代。800年以降和歌山県橋本市を本拠地とする坂上氏の勢いは強く、丹生都比売神社への影響も大きかったことがこの記述からうかがえます。高野山に丹生明神を勧請したのが坂上氏であると言われているのはこのあたりもあるかもしれません。そう言えば実家の近所の人が、かつらぎ町三谷の山の上に坂上田村麻呂の墓があると言ってたとか。

setoh様、いつか丹生酒殿神社にもおこし下さい。かつらぎ町三谷のおすすめポイントは1)丹生都姫が最初に鎮座した土地、丹生祝氏の本拠地である 2)丹生都姫が榊も手にして天下った所から名付けられた榊山(酒殿神社社殿裏山) 3)鎌八幡神社(酒殿神社社殿裏) 4)巡寺八幡講の絵(五来重著「空海の足跡」(角川選書)に一部写真が載っています) 5)竃門神社(天野丹生神主、丹生惣神主とも代替わりにはここで昇進の儀式を行った;竃門氏の敷地内;入り口すぐ近くなので見ることは可能) 6)薬師堂(丹生祝氏屋敷(現竃門氏屋敷)が未申に長かったので空海が立てたとの伝承あり。竃門氏の屋敷と道を挟んで反対側にあり。戦後竃門氏の所有から三谷地区の所有に変わっていますので自由に撮影可能)。
残念ながら丹生酒殿神社には大した物は残っていないと思います。丹生都姫神社焼失後に、酒殿神社の古文書、品物はほとんど丹生都姫神社に移したようです。


 kammer  re:備前国三野郡 H12.12.15

> 「犬甘藏吉は阿智使主と共に来朝し後に備前国三野国から天野に入ったようです。」と思われる根拠は何ですか。
>  いわゆる二次資料ということになるのでしょうが、紀伊続風土記の注釈です。
★すみません私の勉強不足でした。まだ読んでませんので、和歌山に帰ったとき、今は時間がないので行けませんが、機会があれば県立図書館に行って見てみます。

> 「蔵吉は阿智使主の後蔵人と見ゆえたる人にて応神天皇廿年阿智使主と共に帰化せしむを同二十二年の事当社へ寄せるたまへるなるへし 文治建久頃当社人の連署に坂上氏の多きの此縁によれるなるへし 三野国は備前国三野郡なり 牟毛津は氏なり 記紀姓氏録等に見えたり」とありました。
★壬申の乱で活躍した身毛津(むげつ)氏は美濃国ですが、活躍した時期に住んでいたのが美濃で、もしかしたらそれ以前は備前で住んでいたのかも知れませんね。また、蔵吉と言う人の部下に丹治氏がいた可能性も考えれるかと。また、丹治氏は結構移動がおおいのではと感じていますので、時代時代でどこにいるかが重要ですよね。大阪にいたときがあれば、奈良にいたときもあり(丹治家義)、家信の子供(丹治氏嫡男武信)は埼玉秩父に移住し、のち丹治氏は武蔵七党の丹党に。

> 丹生大明神告門には「美野国乃三津柏又濱木綿奉給(ミヌノクニノミツカシハマタハハマユフヲタテマツリタマヘリ)」 とありますね。小生は理解が出来ていないのかも知れませんが、蔵吉人と加志波・波麻由布は同列に並ぶものとお考えでしょうか。
★丹生大明神告門では「美野国三津柏、又浜木綿」、丹生祝本系帳(氏文)では「美乃国美津乃加志波、波麻由布」となっています。蔵吉人と加志波・波麻由布は同列とは考えておりません。

>  次は揚子江辺り??。
そうですよね、丹生津姫をたどれば中国ですからその可能性もありますよね・・・。いえいえ、今の会社にいる限りは海外に転勤になることはありません。中国は香港に親会社の支店があって現地の方が担当してますので。でも会社が変われば・・・。揚子江のあたりは寒いですかね?転勤の辞令が出ても行きません。日本が一番。でも中学のころは中国は物価が安いので、何百万かお金をためて、中国に移住。のんびりと仕事もせず自然と戯れることを少し考えた事はありますけど。


 setoh  備前国三野郡 H12.12.15

「犬甘藏吉は阿智使主と共に来朝し後に備前国三野国から天野に入ったようです。」と思われる根拠は何ですか。
 いわゆる二次資料ということになるのでしょうが、紀伊続風土記の注釈です。
「蔵吉は阿智使主の後蔵人と見ゆえたる人にて応神天皇廿年阿智使主と共に帰化せしむを同二十二年の事当社へ寄せるたまへるなるへし 文治建久頃当社人の連署に坂上氏の多きの此縁によれるなるへし 三野国は備前国三野郡なり 牟毛津は氏なり 記紀姓氏録等に見えたり」とありました。

「蔵吉人・加志波・波麻由布」
丹生大明神告門には「美野国乃三津柏又濱木綿奉給(ミヌノクニノミツカシハマタハハマユフヲタテマツリタマヘリ)」 とありますね。小生は理解が出来ていないのかも知れませんが、蔵吉人と加志波・波麻由布は同列に並ぶものとお考えでしょうか。

 次は揚子江辺り??。


 ラムセス3世 突然ですが H12.12.15

初めまして。 突然で失礼ですが、以前読んだ本で物部氏は「旧約聖書」を信じていたと書いて有ったのです。 聖徳太子との戦いは「ヤハウェ=旧約聖書」対「イエス・キリスト=新約聖書」という構図だったというのです。
 当方歴史も宗教もよく知らないのですが、なんで日本に聖書が出てくるの分かりません。 


 kammer  狩場明神について H12.12.15

>setoh様
>丹生祝氏文によると・・・。狩場明神とされる犬甘藏吉は阿智使主と共に来朝し後に備前国三野国から天野に入ったようです。 1)信用性に掛ける部分がある。丹生氏の子孫の名前がたくさんでてくるが、ほとんどが丹生氏の系図に存在しない名前である。多くは地名である。
2)狩場明神に関する記述と思われる部分が、地名、名前ともどこなのか、だれなのか、分からない。例えば、美津の加志波、波麻由布とはどこなのか?この伴の犬飼である蔵吉人、三野国にある別牟毛津、犬黒比とは誰なのか?
私の分かる範囲で推量しますと、犬黒比は犬2匹つれ弓矢を持っていたとの記述から、空海を高野山に導いた狩場明神であると思われます。長谷宮の丹生神社に大黒人が丹生都姫といっしょに祭られており、その近くの毛原宮は丹生狩場神社と言うことと、犬黒比(いぬくろひ)→いぬくろひと→犬黒人→大黒人の変化があったのではと推測できることを考えると、犬黒比=狩場明神、であると思います。三谷郷榊山酒殿大明神由緒にも高野大明神のところに「或者狩場大明神又者犬飼神・犬黒神」とあります。
次に犬黒比(狩場明神)は誰なのか?これは丹生祝氏系図より丹生家信で、丹治氏からの養子で、いままで書きこみしましたように宣化天皇の後裔丹治家義の子です。これは丹治氏の系図と一致してます。であれば、丹生祝氏文の牟毛津は丹治家義となります。しかし、ここから推量がとまってしまう原因が「蔵吉人・加志波・波麻由布」が断定できない事です。三野国が美濃なのか備前の三野なのか、これを解明するキーは丹治家義、家信がどのような土地を変遷してきたかになると考えています。私が今推量できるのはここまでです。
ところで、setoh様が「犬甘藏吉は阿智使主と共に来朝し後に備前国三野国から天野に入ったようです。」と思われる根拠は何ですか。それによっては私の推量は一歩前進あるいは方向修正できるのではと思いますので、非常に興味津々な部分です。

最近運命を感じるような気がしている事があります。それは私が引っ越すところには丹生祝氏に関連していると思われる地域の近くに引っ越していると言うことです。多分気のせいですけどね。例えば、初めての引越しが岡山市(setoh様の言う備前の近く?)で、そう言やあ近くの地名が御野でした。その次が大阪府南河内郡、仕事場が美原町(丹治氏関連)。その次が北九州市で、1時間車で走れば大宰府天満宮。ここには竃門神社(祭神は応神天皇:玉依姫)があります(奥津彦奥津姫を祭ってはいませんが、丹生都姫と玉依姫が同一と言う説もあり)。その次が山口県(現在)。仕事で広島市に週の半分行くのですが、お得意様のマツダ殿本社工場のすぐ近くにある爾保姫神社とめぐり会いました。そして、広島には毛利元就の居城である多治比猿掛城があり、丹治氏との関わりが気になる土地であります。まあ、この流れで行きますと次は、愛知県(美濃も営業範囲)か埼玉県(丹治氏の末裔である丹党の本拠地)近くへの転勤があるのでしょうか。寒がりなので、できれば暖かいところの方がいいのですが。

>マルヤ様
丹生族を題材にした小説読ませていただきました。みた瞬間「やられたあ〜」と思いました。実は私も同じようなことを考えていたのです。丹治家信と丹生照千代とのラブストーリーです。名前は実名をそのまま使って、家信の出生地がわからないので、家信の舞台を仮に大和国志摩庄(丹党について聞いた情報より)にして、大和と紀伊という距離の壁を乗り越え(あるいは丹生都姫の導きにより(運命的な))、また家信が嫡男でありながら丹治氏を離れて照千代のところにきたところまでを、ラブストーリーとして考えていました。それ以後は今まで書きこみしてきたとおりで、丹生家信は空海を高野山に導き、密教を守護することを約束し、小河内郷皮張村でなくなりここで葬られ、後に空海より狩場明神として祭られる事になるのですが、このあたりはラブストーリーとしてはおもしろくないので書かないつもりでいました(過去形)。
で、マルヤ様とかぶるので、ラブストーリーを書くのはやめよっかな?と思います。真似するようでいやですし、まあ書くのもめんどくさくなってきたのもあるんですがね。
それだけに、自分がめんどぐさがりやでできなかった事を、マルヤ様がされるので、今後のマルヤ様が書かれる話の展開を楽しみにしています(ワクワク)。まあめんどぐさがり屋だから、未だ自分のHP作成も始められないんですがね。
長々とすみませんでした。ちなみにこれを書くのに2時間かかってしまいました。みなさんはどれくらいの時間で書きこみされるのですか?私の場合文章力がないので時間がかかってしまうのですが。


 setoh  阿智さん その2 H12.12.15

 丹生祝氏文 狩場明神とされる犬甘藏吉人は阿智使主と共に来朝し後に備前国三野郡から天野に入ったようです。
 備前国三野郡とは今の岡山駅の北側で
 石門別神社「天津石門別命」、伊勢神社、内宮(ともに豊鋤入姫がらみ)、豊受気神社、天野八幡宮「稚日女尊など」、尾針神社「天火明命」(この社は伊福部氏が祭ったと思われる)などが鎮座しています。
 また岡山市上阿知に春日神社があり摂社に阿知神社「天表春命」があります。

 丹生大明神告門に那賀郡赤穂山乃布気云所と出てきます。備前から蔵之助の赤穂はすぐです。ここを経由して那賀郡にと想像をたくましくしますと、赤穂郡の式内社はそれなりに雰囲気がありそうです。鞍居神社は赤穂郡上郡町金山地字金山という所に鎮座しています。赤穂は豊受大神とも由縁が感じられますし、秦河勝の大辟神社も見えます。


 setoh  古代の世間は狭いもの H12.12.15

突然の阿智さんの登場、すごいサジェッションだった。
丹生祝氏文によると
1.丹生祝氏の祖に血速魂命の名が見え、これは中臣氏租の津速魂命のことで、天児屋根命は三世孫となっています。
2.また豊耳命の名が出てきます。紀国造の系譜につらなります。
3.さて狩場明神とされる犬甘藏吉は阿智使主と共に来朝し後に備前国三野国から天野に入ったようです。

 倉敷の阿智神社は、宗像三神を祭神とし、神功皇后に由緒を求めており、阿知使主は地名のゆわれとしています。また鎮座地は備中であり備前ではありません。隣接しているとは言えます。
 最近「丹生」「狩場」が大きい話題となっていました。瀬藤としては紀氏や日前國懸神宮と飛鳥の檜隈(ここに於美阿志神社が鎮座)との関係を見ていましたが、どうやらこのあたりで、古代の世間は相当に狭いのではないかと思えるようになりました。


玄松子 玄松子の記憶 その他の栗栖 H12.12.13

伊勢国多氣郡に式内「佐伎栗栖神社」というのがありました。現在は、畠田神社に合祀されているようです。ここは、「志貴連」「栗栖連」の祖神ニギハヤヒ・ウマシマジを祭神としていると調査報告にあります。ただ、「神名帳考證再考」では、栗栖は厨園(クリソノ)の訛で、ワカムスビとしています。合祀前は、須賀神社の相殿だったそうです。


泊瀬女 出雲・幻想の旅 3 H12.12.13

「言葉、ことば、コトバ・・・」これはハムレットのせりふ。言葉って不思議ですよね。言葉によって幸せにも不幸にもなる・・・と私らしくもなく哲学的になっちゃて。日本には言魂という考え方もあるし、まっ本当にはよく分かっていないのですが。
最近、頭にいろいろな言葉が次々と浮かびます。その言葉をメモしていると歌になっちゃうんです。時々、変な和歌みたいのを書きますが、お許しを。文法も文字使いもメチャメチャだと思いますが、大目にみてください。
神原神社、すぐ側を流れる赤川の改修工事で社殿を移転する際、偶然竪穴式古墳が見つかり、副葬品の中に景初三年の銘のある三角縁神獣鏡が見つかったそうです。古墳石室は平たい石を組みあげたもので、神原神社の境内に復元されています。石室を覗いてみましたが内部は結構広くて、ここにヒミコの鏡を抱いた(表現は正確でないかも)誰かがたぶん千年以上眠っていたのかと思うとまたまた空想の世界へと心が飛びます。まわりに誰もいなかったので、石室の中に入ってみたい衝動にかられましたがやめました。
神原神社そのものは移転したためか、さっぱりとしていて神秘的な感じは全くありません。小さなお社です。出雲の神社は小さくてもしめ縄だけはびっくりするほど大きい。

いにしえに ひみこの鏡 抱(いだ)きおりし その輝きや いかにとぞ問ふ

銅鐸の かがやき思い その音をも いにしえの人 何か祈らむ


焼尻紋次郎 気高き男たちの群 出足をくじくようだが…… H12.12.13

オレ、喋ってもいいカネ。 ことばのことが出ているハンデ。
★ 生(フ)が基本で……
☆ このへんからほぐれて行くな、こりゃ。「生=フ」と置くは邪道なり。「生=ブ」である。原音 ; 「生=UB」 。

★ 先輩の方から以下のことを聞きました。
☆ それがイカン。先輩が知るもんか。知ってたら今のような、こんな現実はなかっただろうに。

☆ KUR を始発点に置いたは、さすが永年の研鑽のタマモノならまし。KUR はまっ先に「鳥」です。わざわざウソはつかんので、少しはオレの言うこと記憶に留めおかれたし。人々、シャーマンだとの解釈も附随する。
 だが、一般的に言えることは、瀬戸内海でクルとクロ(黒)とがダブっていることを背景にして、ここは「KUR = 黒」なるべし。インドでは黒い石の神様 SARINGAR がいる 。久留島海峡カネ。

★ 国巣、国栖、クズ、石を指すクリ、グリ
☆ KUR から出発したんだったよなぁ。KUR は KUZ , GUR (小石)とはまるで違うと見なければならない(とっつきの最初は)。

★ (SUは)動物のすみかに
☆ あり得る。が、決定打にこと欠く。ここは下衆のカングリ……の「SU = 衆」であろう。倭人は長音を嫌った。

☆ 総じて……、カラス文化に密接にかかわる KUR ではなかろうか。

  かむなび ことばの旅籠 ; http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/youibbs.cgi


 setoh  こんどは真面目に紀の国の栗栖について  H12.12.13

 玄松子さんから八尾神社(栗栖神社)の由緒を教えて貰いました。物部系の栗栖連の齋祀った神社だとのことです。小生も詣でているのですが、優雅にも鶯に気を取られておりました。
 栗栖の話は饒速日命が天神から授けられたという十種の神宝が神社の紋になったものを「十種紋」と称すると物部の末裔の神職さんから聞いたことが発端でした。薩摩の島津の丸に十の字にからめての話はクルスの十字架にまで及ばしましたが、残念ながら不発に終わりました。

 こんどは真面目に、紀の国の栗栖から再出発してみたいと思います。さて、先輩の方から以下のことを聞きました。
 紀南文化財研究会発行、真砂光男著「熊野地名考」に「栗栖の名義をめぐって」の章があり、それによると
1、必ずしも栗林からとは限らないとし、
  イ、国巣、国栖、クズによる(九頭もそうだろう)
  ロ、石を指すクリ、グリと州スによる 川の屈曲点など
 栗など植生地名は生(フ)が基本で栗生、栗田、栗原を使う栖、巣は動物のすみかに使われる。(ことが一般的?)

2、紀伊半島では、大小字名で熊野川流域44、紀ノ川15
日置川4など特定地域に集中している。姓は和歌山市93、新宮43、田辺40、白浜30、上富田・本宮18、吉備15と原郷からの人の移動を指摘している。
 中辺路、大塔、熊野川、那智勝浦、北山などがクルス地名を伝承する町村としている。
 現地を考え合わすに、栗の木の林であるとの説はここでは当てはまらないようだ。   以上

 なお、奈良の都に柿の木を植えたように、栗の奨励は持統7年に「詔して天の下をして桑梨、栗等を勧め殖え令む」とあるようです。飢饉対策でしょうね。
 タイ国のタマリンドのようなものですね。これは今ソースのトロ味に使われています。


 瀬戸内   H12.12.13

冬 本番 今の私の心境 下記 一首 (単身赴任 深酒進む。健康に悪し。)
大伴宿禰家持が歌一首
沫雪の庭に降り敷き寒き夜を手枕(たまくら)まかず独りかも寝む

先の土曜日 12月9日 箱崎宮にお参りに行きました。 JR箱崎駅からの参道は、実にあじわいのあるものです。 紫陽花の季節もいいですが 冬枯れのこの時期の木々の様子も風情があります。 初冬の古社には人影もまばらですが 心いくまでお参りできます。 箱崎宮は来年 たしか御鎮座1080年との事。ただいま改修費用を募っています。 わずかな金額ですが 賽銭箱に入れました。
八幡宮が、何故 この地に鎮座されたのか 書物等で調べましたが 諸説あり その中に 方生会に適した土地というのもありました。 日本に八幡宮が一番 多いのは神仏習合が 人々に歓迎されたのが一因かもと思います。(素人の浅はかな 独り言) 八幡宮は、仏に支配された神の社か よく わかりません。
かの大神比義の比義も古代朝鮮語では、なにか意味があることばでしたが失念しました。


 setoh   H12.12.12

http://www.tk.airnet.ne.jp/ponta/roots/database/tenson4.htm
の古代豪族系図集覧によりますと、以下のように出ています。

八意志兼命 ━━ 天表春命 ━━━ 阿豆佐美命 ━━ 加彌夜須命 ━┓
(天児屋根命?)                          ┃
       ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
       ┗ 伊豆氏命 ━━━ 阿智別命 ━━━ 阿智山祇命 ━┓
       ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
       ┣ 味見命 [秩父国造祖]
       ┗ 味津彦命[信濃阿智祝祖]
知恵の神様として例えば和歌山の
かつらぎ町の蟻通神社では祭神を思兼命とし、田辺市では天児屋根命としています。泉佐野市では「祭神は詳ならざれども、社傳には大名持命なりと」としています。 それぞれよく似た由緒が語られています。

 過去の掲示板の内容にていて
神奈備 index の上部掲示板釦の下の説明とログをクリックして下さい。


泊瀬女 出雲・幻想の旅 2 H12.12.12

アマカネ・・・という言葉がわからなくて、前の書き込みを見ていたら夢中になって読みふけってしまいました。この掲示板面白いですね。
神社巡りからは少々はずれますが、出雲は空想を誘う遺跡が多いので、まずはいくつかの遺跡を見学に行きました。
加茂岩倉遺蹟は1996年農道工事の際に39個もの銅鐸が発見された場所です。神庭荒神谷遺蹟とは違って途中の道も整備されておらず、ただの工事現場みたいで「ここ」といわれなければわかりません。何につけてもその場所に行ってみるというのが、最近の私の持論なので、削り取られた土の山(としかみえない)の細い丸太を組んだだけの階段を登って行ったら、上で作業をしていた人とバッタリ顔を突き合わせる格好になってしまって、むこうもびっくりしたみたい。遺蹟を見学するための施設を建設中でした。
地名は加茂だし、周辺には磐座とも思える大きな岩が散見され、古代にはそれなりの聖なる土地だったようです。出雲南部では松江と尾道をつなぐ高速道路をはじめとしてあちこちで工事中。山を削り、谷を埋めて道路を作る。自然を壊して・・・よそ者が文句を言える筋ではないけれど、少なからず悲しい思いは残ります。こんなに掘り返していたら、何か古代の貴重な物が又出てくるかもしれない、そんな場所です。
荒神谷・岩倉その他の遺蹟からの発見物は、レプリカも含めて風土記の丘の資料館で見る事ができます。この資料館は一見の価値ありです。
加茂岩倉〜荒神谷〜意布伎神社〜韓竃神社〜猪目洞窟が一直線上に並ぶという説、銅の鉱脈、銅剣・銅鐸・銅矛。空想・幻想を誘いませんか。思考すること、空想することって楽しいよね。世間でこんなこと言ったら変人と思われるだろうけど、神奈備のお仲間なら分かるでしょ。


習志野の てつ 阿智さん H12.12.12

神奈備の 森のなかへと 歩みこし あまりの深さに しばし佇む
さまよえる習志野の てつ です

レベルが低くて申し訳ないと思いつつ、好奇心がおさえられない。
数ヶ月以上前の色々な話は、どうしたら見られるのですか?

●実は私、以前岡山市に住んでおりました。
その時何度か倉敷に遊びに行きました。もちろん大原美術館にも遊びに行きました。その美術館からすぐ、歩いて5分程の小高い山に、倉敷総社=阿智神社があり、ふもとの地名は阿知でした。神社の由緒で渡来人であること等が記載されており、初めてだったので興奮しました。

●此の度 延喜式神名帳 信濃の国で以下の文拝見、大変感激してます。
阿智神社[アチ]安布知神社[あふち](延喜式神名帳 信濃国 から)

●奈良の 於美阿志神社 感激して読みましたです
質問:阿智さんと八意思兼命(オモイカネ)どんな関係でしょうか?


 setoh   H12.12.12

武蔵二の宮金鑽神社の方から教えて貰ったことがありますが、五行説で神社が勧請された可能性はあるようで、この金鑽神社の周辺に幾つかは残っているそうですが、メモが見当たらず、具体的な名前がわかりませんが記憶では今城青坂稲實**神社なんかがそうであったと思います。ただこれも伝承で、明確に五行説によったものとは断定しにくいようです。

丹生神社の祭神が「大和的変化」をなしたかどうかは、五行説よりは素直に
1 山奥が丹生と関係があり、従ってそこを流れる川が丹生川と呼ばれた。
2 丹砂資源が枯渇した故、山間を開発しての農業などに従事し始めた。
3 水銀は「みずがね」で、水と金と両性があった。 m(_ _)m


マルヤ 吉野へようこそ  H12.12.11

古代ヤマトでいう【丹】とは硫化水銀(朱)、四塩化鉛(丹)、褐鉄鉱、赤鉄鉱、酸化鉄(赭)をいい、
【丹生】とはその産地のことで、丹の生産・精錬を主に生業とする部族を【丹生族】と私は表現したいと思います。この丹生族の中心部族を私は井光と考えています。
 吉野連の祖は井光の宗女・豊御富(水光姫)・・・神撰姓氏録・大和国神別17条吉野連・・・らしいですがこの豊御富は、紀直の祖・豊耳の先祖でもあります。前出の大山源吾氏によると、豊耳は後に紀国に移り住み紀伊丹生氏の祖になったと言います。
 私は丹生氏の出自はよく分からないのですが、井光を中心とする丹生族の内の一族(例えば丹生都比売神社の祝家)が後に丹生氏を名乗ったのではないか(天武朝時代か?天武十年九月条に氏上の記事)と思うのです。その時代この丹生氏は丹生都比売を奉祭するだけの氏族になってしまっていたのでしょう。紀伊といえば紀井とも考えられます。
 採鉱や精錬のことですが、古代は輸送の都合もあり、採鉱と精錬は同じ場所(すぐ近く)で同系の部族が行っていたと思います。金・銀・銅・水銀は大体同じような鉱脈にあるといい、鉄は日本であれば何処の山(あるいは川や海辺の砂鉄)にでもありますが、勿論それぞれの含有率は地域によって大きな相違はあるはずです。
 時代を経るに従ってより高い生産性を求めて分業化し、あるいは専業化して、より含有率の高い鉱石を全国に求め、そして支配氏族も分派していったのではないでしょうか。
例えば鉄は出雲地方、水銀は伊勢、銅は吉野というように。
 ところで鉄器の使用は私たちが考えている(学校の歴史で学んだ)以上に古いようです。鉄はすぐ酸化して考古学的な証拠が残らないためらしいですが、一説によるとBC1000年前以上には使われていたそうですね。


玄松子 玄松子の記憶 むしかえし H12.12.11

完全に無視されているようですが、むしかえします。
たとえば、竜田の風神は、飛鳥の都の北西に祀られています。
風は「木気」なので、風を鎮めるためには、「金剋木」により、金気の方位「北西」に祀ります。さらに、あまり「金気」が強すぎても問題になるので、「火剋金」により、火気の日時「丙戌」の日に祀ります。このように五行では、2重3重の相剋・相生を用いて、対象に迫ります。方位・時間の要素を絡めるのも重要です。
「金生水」だから、金神から水神、というのはあまりにも直接的で、考えにくいのです。

確かに説明不足であったかもしれませんが、質問の本質を見失うほどの不足ではなかったと思います。それを逐一、加筆・修正し、肝心の質問には答えず、最後に、「ヒントは丹生大明神告門にあります」というのは、大変失礼ではないでしょうか。
これは、「知りたければ丹生大明神告門を読みなさい」と同義であり、情報を共有しようとする姿勢ではありませんよね。


マルヤ 吉野へようこそ  H12.12.11

setohさん、神奈備ファンのナビゲーターとして、軌道修正してもらったり、ヒントを出してもらったりとファンとして感謝感謝です。
「穴太」についての記述、とても興味深いものがあります。高橋和己の「邪宗門」以来、おにファンなので又丹波へ行きたいと思っています。その時に小幡神社へ行ってみます。アメノヒボコといえば神功皇后を思い起こしますが、「大和史」によると磐余若櫻宮の比定地は御所市蛇穴(サラギ)ですがこれも穴ですね。ちなみに桜井市谷には若桜神社というのがあります。

 kammerさん、補足感謝。
以前にアドバイスいただいた丹生氏菩提寺・丹生寺(たんじょうじ)の件、kammerさんのご指摘の通り、丹生院(たんじょういん)の間違いでした。私の古いメモが出てきて、
高野山・丹生院:丹生都比売神主家・丹生家ゆかりの寺、清浄心院(しょうじょういん)内に有り。と書いていました。今は単属の寺としては存続していないのかも知れません。私も機会を見つけて高野山を訪ねたいと思っています。 


焼尻紋次郎 気高き男たちの群 ご あ ん な い  H12.12.11

いま YOU-I 掲示板で「鈴木・熊野・物部」がおもしろい。
 ことばのふる里 ; http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/youibbs.cgi


 setoh  三柱神社 H12.12.11

丹後には三柱神社と言う神社が33座はあります。中でも竹野郡丹後町の間人谷の上、間人宮の谷、間人宮の下にもそれぞれ鎮座しており、祭神は稚産霊神、倉稲魂神、保食神となっています。
間人皇后に付いていった東漢直駒(を祖先とする者)が神社を建立したそうです。
 また舞鶴市には6座あって火産霊神、奥津彦神、奥津姫神が祭神となっており、大和の橿原と同じ祭神です。別の系統ですね。竈門神社の祭神にも同じ組み合わせがありますね。
空海を考えるには聖徳太子も考えに入れる必要があるのでしょうかね。


 setoh  穴太? H12.12.11

愛知県葉栗郡木曽川町大字玉の井穴太部 加茂神社 玉依姫命 賀茂別雷命 → 火明命と同神か
三重県員弁郡東員町穴太 神田神社 品陀別命
滋賀県大津市穴太町 高穴穂神社 景行天皇の宮跡  石工集団 → 火明命を祖とするか
京都府亀岡市曽我部町穴太宮垣内 小幡神社 開化天皇
大阪府八尾市宮町 穴太神社 間人皇后の誕生地 → 丹後

名前の雰囲気は天日槍集団のような気がするのですが、火明命からは丹後のイメージですかね。


kammer  産鉄 H12.12.10

出張から帰ってきたら書きこみがたくさんで読むのが大変でした。汗だく(^^;)
>丹生氏が産鉄していたという記述がどこかにあるのでしょうか。
マルヤ様が言われているのは真弓常忠著「古代の鉄と神々」(学生社)からでしょう。ここでは鉄の古語としてタタール、サヒ、ソホ、サナ、シノ、ニフ、ニブ、ヒシ、ヘシなどなどがあげられております。真弓氏の本には古代の鉄の生産は『考古学者山本博氏著「古代の製鉄」より、露天タタラは弥生式土器を焼成する程度の熱度で、タタラ炉を築いて特殊な送風装置を設けなくても、野辺にて精錬できると言うことであった』とあります。鍛造の鉄です。弥生時期中期以降鍛造品が多いとの事。丹生氏との関わりについては、真弓氏は「犬」とは鉄のありかを求めて歩く一群の人々の呼称と考えておられ、空海を高野山に導いた狩場明神事犬飼の神と、これらの地域に筒香(つつこ)や藤代といった露天タタラや鉄穴流しに関わる地名が残っていることから丹生氏は産鉄をしていたと見られているようです。
古文書で丹生氏が産鉄していたと言う記述はなかったと思いますが、昔は大事なものは隠し、近寄らせなかったと思われますので、していたとしても記述は古文書で残っていないと思います。口伝ですね。丹生氏のミステリーな部分はどうも口伝であるため、今となってはほとんど資料が残ってないことでしょう。近寄らせない方法としては、妖怪のうわさを流すことですね。一つ目小僧なんか。子供を池など危険なところに近づけさせないようにするためにオバケや妖怪の話をしたのも同じだと思います。

>鉄と水はいつも隣り合わせです。
鉱山は穴を掘ります。ですから、深くなれば水脈にあたることもあり、そのときは穴に潜っていた人達は逃げ切れず死んでしまいます。戦後でも炭坑なんかであったようです。多くの人がなくなっているようです。ですから、もしかすれば、鉱山師の神は、金属がたくさんみつかりますように祈る神であり、水による災害がないように祈る神でもあるのかも知れません。

丹生都姫がかつらぎ町三谷ではなく天野に祭られたのか?地元で聞いたところ、丹生都姫はもと三谷にいたが、ここでは誰かが北から攻めてきたときには紀之川を渡ればすぐなので危険である。そこで南の山に登ったところ、山頂からはよく紀ノ川一帯がみえ、もし敵が攻めてきても、ここからなら敵が山を上る間にどこまででも逃げれるだろう、と言うことでそこから少し降った天野に鎮座したのだそうです。いわゆる古老曰くです。事実はわかりませんが、なるほどと一瞬思ってしまいました。でも、丹生祝氏が三谷に残ったのはなぜか、疑問が残ります。

>多治比
多治比、丹比、丹治どれも同じ部民だったと思います。丹生氏に養子にきた丹治家信(狩場明神)は大和国から来たようですが、もとは大阪の丹比郡だったと思います。丹生と丹治との関係も気になっています。広島には爾保姫神社(丹生都姫)が黄金山にあり、すぐ近くに比治山があります。また毛利元就で有名になった広島の猿掛城は多治比猿掛城というらしく、広島は気になる県の一つでもあります。


焼尻紋次郎 気高き男たちの群 聞き捨てならねぇ H12.12.9

アマカネ
「筒香のほうで」とはナンですカネ。聞き捨てならねぇ。
 直訳したらツツカ……「星・鳥」がニョキッ……じゃんか。
 星の偏執もスゲェなぁ。がだ、失われた舟……輸送……そのむかしの江南「蛋民」の文化もスゲェもんだった筈。
 アレッ? 神様以外のことは、ここでは書いちゃァならねぇんデ・シ・タ・カ。
  かむなび 言語のキャビン; http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/youibbs.cgi


 setoh   H12.12.9

紋>初瀬女の姐さん いい名前ェ アマカネ。  あっしゃ「初瀬ミミ」とやったんだが、
此処だけの話だったはずのゴッドジジイがおりました。アマカネ。

パーリ語やMORIで思うのは諏訪の守屋山や物部守屋ですね。聖徳太子や間人皇后、秦氏、三角鳥居、などとユダヤとの関係を書いてある本は面白いですね。
そういう中で、バール神はヒッタイトの守護神七頭の竜と戦ったとのことで、素盞嗚尊を思わせますね。

>丹生都比売
筒香のほうでは天照大神が降臨したとされる岩があるそうです。こうなると丹生都比売は天照大神と同神です。記紀などを知らない地元の人々でもお伊勢さんは知っていたのでしょう。女神なら天照大神と素直に信じていた所に「古老曰わく」「地元に伝わる古伝では」と知恵者がのっていくこともあったでしょう。
記紀の逆流で地域伝承が出来ていく例は素盞嗚尊の大蛇退治でも、多く語られ始めたのは江戸時代だそうで、伝承の地が作られ碑などが建っていったのは、神武聖跡探しをやった戦前を思わせますね。


玄松子 玄松子の記憶 H12.12.9

一部訂正しておきます。
> 体制・為政者が、というよりも、生活の変化や、水銀の枯渇など、水銀の神を祀る必然性を失った、各神社が、それぞれに変化していったとは考えられませんか。あるいは「記紀」に載らない神を奉じていた人々が、「実はこの神は、記紀に登場するXXXなのだ」とする可能性はありませんか。
これは、すでにマルヤさんが、「大衆に迎合したのでしょうね。」とおっしゃっていることと同じかもしれませんね。神社側の自発的な「迎合」ですね。


玄松子 玄松子の記憶 H12.12.9

言葉が足りなかったようで、かなり誤解されてしまいましたが、
> >「土生金」ともいいますよね。金属の精錬は、火、風、土など五行
>  ところで「五行」には「風」はなく、木・火・土・金・水のみで、
上記の「五行」は、「万物」「自然」という意味で用いています。また、「風」を持ち出したのは、製鉄の神を信奉している所では、「風」も神徳の重要な要素だからですね。五行説が「水に特化」させるほどの効力があるとは思えない、という意味ですね。

> ○丁寧にいうと、「丹の採取・採鉱や精製と、鉄などの金属精錬と関わり・・・」の表現になります。また同系の部族が特定の地域でこれらの仕事に携わっていた可能性が高いと私は考えています。何が主産物で何が副産物かという問題でもあると思うのです。 
ですから、その「思う」根拠を聞いています。
誤解しないで欲しいのですが、否定しているわけではありません。ただ、水銀と鉄では、鉱物資源という以外に技術としての共通性は薄いのではないかとも思います。また、他の鉱物資源を採取する人々もいたはずですよね。また、丹生氏が産鉄していたという記述がどこかにあるのでしょうか。

> ある時期(応神朝前頃か)体制側が「国つ神」だった丹生大明神を「天つ神」側に引き入れるため、アマテラスの妹格として格上げしたようです。爾来、ニウツヒメを名乗りワカヒルメと同神とされたと思います。
体制が、ある場所では「水の神」に、ある場所では「織物の神」に、その都度理由をつけて、変革させてということでしょうか。
体制・為政者が、というよりも、生活の変化や、水銀の枯渇など、水銀の神を祀る必然性を失った、各神社が、それぞれに変化していったとは考えられませんか。あるいは「記紀」に載らない神を奉じていた人々が、「実はこの神は、記紀に登場するXXXなのだ」とする可能性はありませんか。


マルヤ 吉野へようこそ  H12.12.9

>「土生金」ともいいますよね。金属の精錬は、火、風、土など五行のすべてが絡んだものだと思います。水だけに特化するのはどうなんでしょうか。
○ この場合は「金生水」だけに限って言いたかったのです。つまり時の為政者が金の神を祀る部族に水の神を祀らせる場合、方法論はどうだったのかと考えたわけです。きっと五行説を持ちだし、初めは併祀させ後にすげ替えたのではないかと。
 ところで「五行」には「風」はなく、木・火・土・金・水のみで、「四大」には地・水・火・風、「五大」に地・水・火・風・空でしたね。

>丹砂・水銀 と 鉄は製造方法等に、かなりの違いがあると思うんですが、古代では同一の集団が、両方を担当していたんでしょうか?
○丁寧にいうと、「丹の採取・採鉱や精製と、鉄などの金属精錬と関わり・・・」の表現になります。また同系の部族が特定の地域でこれらの仕事に携わっていた可能性が高いと私は考えています。何が主産物で何が副産物かという問題でもあると思うのです。 

>丹生都比売は、稚日女尊ともされています。稚日女尊は高天原の斎服殿で神衣を織っていた女性です。その意味で「織物の祖神」とされたんじゃないでしょうか。
>それとも、マルヤさんがおっしゃるように、最初に織物があり、そこから、稚日女尊とされるようになったんでしょうか?
○オオヒルメの妹のワカヒルメのことですね。なるほどワカヒルメは織物の祖神と言えると思いますが、丹生都比売は織物とは元々関係ありません。ある時期(応神朝前頃か)体制側が「国つ神」だった丹生大明神を「天つ神」側に引き入れるため、アマテラスの妹格として格上げしたようです。爾来、ニウツヒメを名乗りワカヒルメと同神とされたと思います。このあたりのヒントは「丹生大明神告門」にあります。


玄松子 玄松子の記憶 Re[361]: 鉄と水 H12.12.9

> 鉄と水はいつも隣り合わせです。五行説で云うところの金は水との関係で、「金生水」
「土生金」ともいいますよね。金属の精錬は、火、風、土など五行のすべてが絡んだものだと思います。水だけに特化するのはどうなんでしょうか。

> 水の神が必要となったからでもあると思います。
こちらの理由だと思いますが。

> 丹や鉄などの金属精錬と関わりがあると思いますが如何でしょう。
古代関連は、ほとんど知識がないのですが、
丹砂・水銀 と 鉄は製造方法等に、かなりの違いがあると思うんですが、古代では同一の集団が、両方を担当していたんでしょうか?

> 丹生都比売神社の略記では、(糸織からの連想で)織物の祖神と説明がありますが、これは違うことを承知の上で大衆に迎合したのでしょうね。
丹生都比売は、稚日女尊ともされています。稚日女尊は高天原の斎服殿で神衣を織っていた女性です。その意味で「織物の祖神」とされたんじゃないでしょうか。
それとも、マルヤさんがおっしゃるように、最初に織物があり、そこから、稚日女尊とされるようになったんでしょうか?


マルヤ 吉野へようこそ   鉄と水 H12.12.9

鉄と水はいつも隣り合わせです。五行説で云うところの金は水との関係で、「金生水」つまり相生の関係で金は水を生むと捉えます。吉野地方の地主神(山王)は金精明神と云われます。またの名は丹生大明神ですね。この金属の神はこの地方では全て龍神などの水の神に替えられています。天河弁財天社も水の神、弁財天女(サラスバティ)になってますね。農耕(特に水稲栽培)が奨励され始め、水の神が必要となったからでもあると思います。
 ところで丹後国風土記、天女伝説比治里・比治山頂の真名井のヒジは鉄の古語だそうです。これも水とつながっていますね。丹比(丹治比、丹比治)となると丹や鉄などの金属精錬と関わりがあると思いますが如何でしょう。
 真弓常忠「古代の鉄と神々」だったか?によりますと「サ・シ・ス・セ・ソ」は全て鉄に関係があるといいます。
それに「依」・・・泉や沼の意味
  「糸織」・・・鉄の泉の意味
そして「豊」「誉」「品」・・・プン・ポム・プムでやはり精錬に係わるそうです。
 丹生都比売神社の略記では、(糸織からの連想で)織物の祖神と説明がありますが、これは違うことを承知の上で大衆に迎合したのでしょうね。


Jo-Ei HP そしもり H12.12.8

牛頭ですからバアル教だと思うのですが、いかがでしょう??


焼尻紋次郎 気高き男たちの群 初瀬と偉人輩出の構造 H12.12.8

初瀬女の姐さん いい名前ェ アマカネ。
 あっしゃ「初瀬ミミ」とやったんだが、やっぱちょとキツすぎた。「初瀬女」はいいや! 初瀬女はいい。

 サラセッセから長谷地方の枕言葉が「こもりく」だと教えてもらったときには、まだパーリ語のことは知らなかった。
ところがパーリ語で初瀬〜都祁地方が、ナガスネヒコの拠点だなどと判り、考えも進展した。
 KO はパーリ語系の童神。MORI はふた通りに解釈できる。一つは「MO(くに)・LI(ひと)」だが、もう一つは「MA(目)MOR(山) ⇒ 護る」。KU はカ・キ・コと共につらなる「場所」のことだと思う。
 童神を信奉するくに人の土地、童神が護る土地……「こもりく」 。
群馬県渋川市の北10キロに「こもち(子持)山」これあり。チ=霊。 ならば、「童神信奉のくに人の土地」が正鵠をえていると言うべけむや。

 高遠藩は松平容保の血を産んだ里だとわかった。会津の殿様・松平容保公は幕末、孝明天皇がもっとも気を許された方で、気高さ志向」では第一人者だった。明治維新とはこのお二人を抹殺することから始った。ブタ・ニンゲン主義の展開である。
 「ケネディ大統領が最高に尊敬した上杉鷹山は秋月藩の血である。高遠も秋月も逃げ城である。初瀬も都祁を含めた逃げ城だった。
 なにか、逃げ城構造の地形と偉人の輩出には密接な関係がありはしないだろうか。
 かむなび 言語ひじり ; http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/youibbs.cgi


泊瀬女 出雲・幻想の旅 1 H12.12.8

出雲・幻想の旅の1日目は、はからずも遺跡めぐりとなりました。まず神庭荒神谷遺跡に。駐車場も完備され、公園のようです。遺跡へ向かう途中に大賀ハスの池があり、花の頃にはさぞやきれいだろうと思います。1984年に銅剣、銅鐸、銅矛がザクザク出た時には、考古学に知識のない私でさえ唖然としたものです。レプリカが置かれ、発掘当時の様子が分かるようになっています。神庭荒神谷とはぴったりの地名と思っていましたが、本当はサイ谷と呼ばれていたとか。
サイとはどんな意味か、紋次郎さん分析してみてください。
整然と並べられて埋められていた大量の剣。迫り来る敵を察知したある部族が、いつかまた、宝物を神々の前に備える日を確信して一時的に隠したのだろうと・・・

神の庭 荒神谷に 隠りし剣 語れぞかしと 風に問ふ時
かみのにわ こうじんだにに かくりしつるぎ かたれぞかしと かぜにとふとき


泊瀬女 こもらずの はつせめ H12.12.8

瀬戸内さん、そうなのよ。その歌なのよ。神奈備の人に良い名前を付けてくださいとお願いした時、万葉の歌をいくつか教えていただいて、その中で一番心惹かれた歌が
泊瀬女の 造る木綿花 み吉野の 滝の水沫に 咲きにけらずや
この歌です。泊瀬女・・・いい名前だと気に入って、すっかりその気になっていたのに。
こもらずの はつせめ だって。ムッとした直後、お腹が痛くなるほど笑っちゃいました。A.I.改め泊瀬女の枕詞は「こもりく」ではなく「こもらず」にいたしましょうね。
Setohさん 悪い神様のこと教えてくださってありがとう。諏訪大社・上社前宮で味わった足元から恐怖感が這い上がってくるようなイヤーな気分、気になっていたんです。玄松子さんや山浜さんが諏訪に行った様子だったのでどんなだったか聞いてみようと思っていました。だってタケミナカタ様やヤサカトメ様には、結構好意を持っているんですもの。近いうち、もう一度諏訪に行って確かめて来ましょう。こもらずの泊瀬女、こもっているとイライラしちゃう。これからもがんばるよン。


焼尻紋次郎 気高き男たちの群 エベレストの神の目・卍を写した京都大文字焼き  H12.12.8

ソシモリ(牛頭)……so = 牛 si(の・之) mori(頭)。
 山が頭だという考え方は、sagar(空の)matha(額)……math(頭)……のサガルマタ(エベレスト山)にあります。この math は卍の目を持っていて人々の暮らしぶりを見「マ・MOR=I」しているのです。
 京都・大文字の「大」は 「*dho(目)-ai(強調末尾辞)」からおこった代用品だったことでしょう。
 遭難で有名な谷川岳の麓、とうげに「どあい(土合)駅」これあり。峠にはサイの神が dos(咎めだて)する。 

* 牛は神様です。ネパール語では牛を go といいますが、これは英語の God と同根でしょう。ゴズメズ(牛の頭・目の頭)というときの「ゴ」にもなっています。
  一方、牛は「ソ」とも呼ばれていた……。これ、伊太祁曾神社の「曾(神)」ならまし。

     ……………………………

 「足を切ってもらう神」……という、妙な神様があったのです。それは柱そのものが神様だったからです。
 遮光器土偶、カトマンズ(ネパールの主都)、信州・高遠(たかとう)町……そして加藤さん。
 玄さん、「ちかとう」を教えていただきあがあが。ta-kat-au の ta を chi(霊)に変えて、その土地の固有性を強調したかったのでしょう。これ、あっしが「有難うございます」を「あがあが」と言うが如し。

  かむなび ことばの戦艦 ; http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/youibbs.cgi


あかがね Re[351]: 丹波と丹比 H12.12.7

> 私見による地名と姓氏、丹波について少々。
> 丹生・・・丹羽・・・丹波・・・丹波・・・丹波
> ニウ   ニウ   ニハ   タンバ  タニワ
>      ニハ   タンバ

 この間出てきた、いにしえの丹比郡に鎮座する田坐神社の祭神は依羅宿弥(よさみのすくね)、呉服漢織(くれはあやは)、豊宇気毘売(とようけひめ)神です。鎮座の由来を見ると渡来してきた呉服漢織を殖産の神として祀った・・・となっていますが、織物と豊受大神の組み合わせを見ていると丹波と関係あるのかと思ってしまいます。
 丹比(あるいは多治井)も丹波と関係ある地名なんでしょうか。
 ・・・と思って調べてみると、丹比神社を奉斎していた丹比氏は丹波の出であるらしい。丹比神社にはタジヒノミズハワケこと反正天皇も祀られている。反正ってどう「正」に「反した」んでしょおね。謎は謎を呼ぶ・・・(というか話題がずれていく)。


あかがね Re: H12.12.7

>  あかがねさん、田坐神社の件、ありがとうございます。一度詣でてみようと思います。近くには宮司さんが写真家の布忍神社もありますね。
どういたしまして。布忍神社ってやっぱし、近鉄布忍駅の近くですか?知らなかったです。setohさんって大阪の方なんですか?

> 独身の人は髪結いさんを探して・・。
カリスマ髪結い、探しましょうか・・・。趣味は趣味、仕事は仕事って事ですかね。


 瀬戸内   H12.12.7

前略 瀬戸内です。
創作 能力が乏しいものですから。
万葉集より
泊瀬女(はつせめ)の造る木綿花み吉野の滝の水沫(みなわ)に咲きにけらずや
いい歌と思います。


 setoh   H12.12.7

 小泉芳孝さんの『稲作民俗の源流〜日本・インドネシア〜』の御紹介ありがとうございます。だいぶ前に出版社にメールしたのですが、虫でした・・。知りたかったのは、神社以前の祭祀の定義です。物理的には建物の有無でしょうが、より根源の神祭りと稲作との関係を示しているのかななどと想像しています。ホームページも労作ですね。

 あかがねさん、田坐神社の件、ありがとうございます。一度詣でてみようと思います。近くには宮司さんが写真家の布忍神社もありますね。
 こういうことばっかし調べて飯を食べる道があれば
独身の人は髪結いさんを探して・・。社会人をやっているから、逆に集中できるし、マイペースになれる所もありますね。

 マルヤさん、小説の構想見せていただきました。楽しみですね。
 開化天皇を主祭神とする式内社は丹波の小幡神社が唯一だそうです。開化天皇と、近江の三上祝がまつる天之御影神の娘息長水依比売との間に生まれたのが丹波道主命ですから、丹波と息長氏(とすれば丹生氏)にも関係が見いだせますね。
 地名の穴太の里も気に懸かりますね。アノウですね。
大阪の八尾に穴太神社があります。旧若江郡にあって、安康天皇の設けられた御名代部の一つ穴穂部の地にして、聖徳太子の生母、間人穴穂皇后の誕生地であり、成人された地で、その産土神だそうです。間人皇后もまた丹後にゆかりがあります。


マルヤ 吉野へようこそ  丹波国と丹生 H12.12.7

私見による地名と姓氏、丹波について少々。

丹生・・・丹羽・・・丹波・・・丹波・・・丹波
ニウ   ニウ   ニハ   タンバ  タニワ
     ニハ   タンバ

逆にすると羽丹・・・羽仁・・・埴・・・・土師
     ハニ   ハニ   ハニ   ハニシ 

丹波に縁の有名人物(特に、丹波国桑田郡曽我部村穴太宮垣内)現在の亀岡市内
 ●円山応挙 (上田姓)
 ●上田喜三郎(出口王仁三郎)
 ●上田正昭氏(現役の歴史学者・もと京大教授) 


マルヤ 吉野へようこそ  ツタンカーメン H12.12.7

籠神社・奥宮に真名井神社が有り、そこの羽衣伝説と同じ8人の天女伝説が、亀岡にもあります。このうち7人の天女は天に帰って北斗七星、残った一人は豊受神(伊勢・外宮)となるが、この神は北斗の第8星(ソヘ星)で現在の北極星とその位置が入れ替わる(ポールシフト?)という・・・
そのような話を丹波出身の、元一流企業社長と話をしているとき、この元社長が何かに感応して歌い始め、私に伝授してくれたのが以下の歌です。

【ツタンカーメン預言歌】
 ツタンヤ ツタンヤ ツタン ヤヤヤヤ ヤオー オオオオオオオー
 七つの星が北に起こり 七つの星が八つになるときに 
 地が揺れまわり 地が揺れ海持ち上がって 山越えるとき 
 大和の国に大いなる船 空より降りて 
 助くる日そこにあれば山すべて動き 
 汚れたる大地を をーーーーーー オーーー
 清める波来て 山をむしり 崖を落とし 地の底にーー 
 悪しき土塊を その割れたる赤き土の火の間に投げ込む
 海狂うて叫び 風鳴いて走り 夏の空に火の花を咲かすとき 
 冨士山動き その日がその周りの町 全て海の底にはいるとき
 神 初めて雲に乗りて降りてくる その時もはや
 悪しき魂の人皆 消えて消えて消えて消えて消えて収まる日
 地こそ神の降り来る清らかな地になれば 二度と汚すこと許されじ
 山に登れ 苦しき人よ手あげて船に乗れば 
 愛しき男優しき女 賢き子供たち 全て五億の数に有れば
 うれしい嬉しの国 その新しき国そのままの 形ある国に連れられて 良き思い 
 清らかな魂と 健やかなる身体仕上げて
 神の国に降りる日 神様と共に働きを待つ
 日暮れて 暗き闇有れば 星七つ空に舞いて 舞い舞いて散る 
 闇の夜 無くばよし 昼の昼の時続く新しき地の上の 
 神の国こそ此の地に現れる日近し
 うれしやな ヤマトに平和また再び来たれば 
 桜 桜 桜の花が咲き
 白き衣 全ての傷跡に覆いたれば嬉しい
   ヤン ヤン ヤン  ヤヤヤヤヤン ヤン

元社長によると、「ツタン」はツターンで星のこと、「カーメン」はカルマで業のことだと言われます。音声をお伝えできない(テープで残してありますがインターネットでの音声の付け方が私には今のところわからない)のが残念です。


 setoh   H12.12.7

返歌
こもらずの はつせめめぐる かむなびの もりのかみがみ めをぱちくり

Jo-Eiさん > 浅学ものの勝手な思いつき
ご謙遜を。ご自身がどう発想されるかが大切だと痛感しています。ありがとうございます。
所で、高麗にそのような風習か遺物が残っているのでしょうか。


玄松子 玄松子の記憶 Re[331]: 高遠の怪 H12.12.7

>  高遠藩……。蔭に隠れたような町だが、去年も今年もNHK大河ドラマに登場した。名のある武将が流される土地柄でもあったらしい。
「高遠」は、「たかとう」と読むのでしょうか?
諏訪大社上社境外摂社に「千鹿頭神社」があります。「ちかとう」あるいは「ちかと」と読みます。贄を狩る狩猟神ですね。
有名な話ですが、諏訪大社「御頭祭」では、鹿の頭を75個、神前に供えていました。この鹿頭の中に必ず耳が裂けたものがあり「高野の耳裂鹿」といわれています。


Jo-Ei HP 狛犬 H12.12.6

浅学ものの勝手な思いつきなのですが、高麗(こま)犬ってことはありませんか?


泊瀬女 出雲・幻想の旅 序 H12.12.6

今年は、3月に出雲パート1の旅、5月に隠岐への旅、11月に出雲パート2の旅と3回も出雲空港を使いました。上空から見る出雲の国はそれはそれはきれいです。
出雲へ行くと私は幻想モードに入ってしまいます。空想、想像限りなく。
そこで泊瀬女、名付け親・神奈備の管理人に贈る一首。

神奈備の 人の告らしし 五十猛が 植えたまひける 木々のゆたかに


泊瀬女 奈良・吉野をかけめぐり 4 H12.12.6

奈良・吉野のレポート完了する前に出雲に行ったり、京都に行ったり。精神的にちょっとメゲたりで、中途半端になっていました。遅ればせながら。
吉野の旅の最後は吉野山でした。桜の名所吉野山も10月中旬の平日ではほとんど観光客も見かけません。吉野山の奥、金峯神社は恐い位静かでした。ここでは、吉野山 峰の白雪ふみわけて 入りにし人の後ぞ恋しき 静御前の歌が浮かび、源義経はここから山を越えて行ったのかと・・・
吉野水分神社にも人影はなく、なぜかのんびりした気分でお庭のしだれ桜や大きなしゃくなげの木を見て、花が咲いている風景を想像したり。なんかいいね、この神社。吉野水分神社は女性の宮司さんがいらっしゃって、お花の手入れの話を聞いたり井戸端会議みたいでした。「桜の季節にこの神社の門のところから周りをみたらさぞいいでしょうね。朝早く来たらどうかしら」と聞くと宮司さんは笑って「朝、門を開けるとカメラを持った人が何十人も待ち構えてるわよ」ですって。吉野水分神社からタラタラ歩いて勝手神社、吉水神社とお参り。途中のお土産屋さんで吉野古代雛というかわいいお雛様を買いました。お土産屋さんの御主人がお茶とお菓子をごちそうしてくれて、ここでもひとしきり世間話をしてしまいました。「ぜひ、桜の頃に吉野にいらっしゃい」とすすめられました。
また、タラタラ歩いて吉野神宮へ寄ってみましたが、神社の人もいなくて寂しいなァと。
これで、奈良・吉野かけめぐり狂乱の旅が終わりました。最後の日は気が抜けてしまったのか、緊張感のないお宮めぐりでありました。


 setoh  ? 神様は H12.12.6

昔の人々は霊感が強かったのでしょうね。原始の時代には危険がいっぱい、これを生き延びて進化までしたんですから。ちょっと文明が進むと希少価値にまで衰えたのでしょう。だから卑弥呼が女王になったのでしょう。
 さて、神社には悪い神も混在しているとのことで、御託宣を聴こうとしていたら、先ず悪いほうがいたずらをしにくるそうです。これを真に受けてはいけません。本当の神様の声が聞こえるまでねばる必要があるそうです。
 泊瀬女さんは諏訪大社・上社前宮で悪い方の神に脅かされたんでしょう。蛇に逃げ、悪神に逃げ、足腰の鍛錬になりますね。
 大阪の南の難波八坂神社に面白い話がありましたので、採録しております。
 http://www.kamnavi.net/it/kinki/nanbaya.htm
 以上、掲示板に書いたのですが、??書いた本人が半神半祇です。


焼尻紋次郎 気高き男たちの群 : [341]での 忘れもの H12.12.6

☆ sikari はネパール語で「狩人」という意味です。sikar は「猟」です。日本語の「鹿」は狩りの対象となる動物だからこう呼ばれたのでしょう。
  ネパール語 sikhar は「頂・頂上」という意味です。すなわち神様が降臨される場所。鹿が神の使いだとされるのは、これに因ることだと見られます。
☆ マタギはマタタビのことは、マタタンブと言っていた筈です。このマタタンブが風衣(かざころも)のマタタビに似ているところから、マタタビという発音へと切り代わったと思います。
☆ 女を断ったあと、直前には水ごりをかぶって身を清めて(実は匂いを消して)マタギに入ります。
☆ イカガシコオとは ik(1)akha(目)si(士)ko(の)o(神・男)で金属製錬……片目神です。
  金属製錬士は長期間、鉱物を求めて奥山にわけ入り蛙などを食べながらガンバりました。
☆ マタギの語源……gi は人です。沖縄のチュラカーギ(男女ともに見目麗しいひと)の gi です。このごろ韓国の教授が「蔑称での人だ」と言ったそうですが、この教授は周辺言語は当たっていないことと、見受けられます。
  “マタ”はサガルマタ(エベレスト山)にある神の刻印……卍模様の神の mata(目)だと思います。
  今の解釈では「 sagar は空、そしてマタは matha(額)」となっているのですが、もっと古くは、いまオセアニアに広く散在し、それぞれの氏族が目を謂っている mata で、これは大規模な氏族移動を写している語彙の一つだと見受けられます。
 かむなび 言語考古学の砦 ; http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/youibbs.cgi


焼尻紋次郎 気高き男たちの群 失せもの と またたび H12.12.6

マタギの頭領はシカリと呼ばれます。北海道にはあちこちにシカリ・ペツがありますが、このシカリをアイヌ語で解こうとしたら「本スジの・曲がっている」となって分析不可能です。即ち、シカリはアイヌ語に入っていません。
熊とりも主要ななりわいだったアイヌ語に「シカリ」がないということは、由々しい大問題です。
また、マタギの山(忌み)ことばの中に多くのアイヌ語がある……ということは、秋田〜岩手県北山岳地帯にいたプレ・アイヌが北進して今のアイヌ民族の主要構成員になったということを証明しています。

 雪の中でクルマの鍵をなくしたら、それは大変です。マタギが雪のなかで失せものをしたら、即刻いのち取りです。
そういうとき、マタギは股間からわがイチモツを取出して、これ見よがしにガニ股でそこらじゅうを歩き回ります。そうすると不思議に失せものは見つかるそうです。
 これは山の女神がスケベ−なので、喜んで神通力で失せものをみつけてくれるからです。

 この女神は物部の先祖神の一つとなったイカガシコオ命の嫁さんだと小生は踏んでいます。即ち醜女(シコメ)なんです。ですからイカガシコオからも愛想をつかされて山のなかに一人で棲んでいて男ひでりに身を焼いているのだと睨んでいるのです。だから、山の神のきげんをとったり、願いごとをするときには、村びとは魚のオコゼを捧げます。オコゼ……それはもう、ふた目とみちゃいられない醜い顔をしています。山の女神はそれをみて、自分の醜女ぶりを忘れて気嫌がよくなるのでしょう。

 股旅もののマタタビは別に示した通り風衣です。しかし、蔓の実・ゴロニャンのマタタビは別の語源のようです。
 このマタタビはアイヌ語にはいって 「mata(冬)tamb(チンチン)」と呼ばれています。 tamb はタンブ(秋田)とか、広くダンベ−というのと同根です。
 マタギが山にはいるときには、このマタマビの実を股間近くにつけて行ったと思うのです。「女神さまよ、わがイチモツはこんなに小さいのです。どうかとり憑かないで無事に里に帰してください」……。
 また、マタギに行く前は夫婦のまつりごとを10日ほど断つといわれています。女の匂いをつけて山にはいると、女神からヤキモチをおこされて災難に遭うからです。
 マタギの tamb がアイヌ語に入って mata tamb (マタタビ)となったのでしたが、アイヌ語の mata(冬)は「猟(マタギ)のし易い季節」から転意したものでしょう。
 かむなび ことばの王国 ; http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/youibbs.cgi


山浜 Re: 神様は? H12.12.6

泊瀬女さんこんにちは
> 恐くって逃げた時もありますよ。諏訪大社・上社前宮でのこと。
私の場合、諏訪大社本宮でレンタカーの鍵を落として青くなりました。「前日に香取神宮に行ったのが悪かったのか?」とか考えていたら、大国主社の前に落ちていたり不思議なことがありますね。神様のせいにしてはいけないという典型的な話です。
前宮では風がすうーと吹いていってとても気持ちよかったです。社務所の方となんか神社巡りの話で盛り上がって、私は歓迎されたのかなと思いました。神様の気配は分かりませんけど、出会う人の様子を神様の気持ちとして見ることにしてます。
泊瀬女さんのお話は神様に対して親しみが感じられてとても和みますネ。それも大事なスタンスなのではないでしょうか(あまり神社に詳しくない私が言うのもなんですけど)


マルヤ 吉野へようこそ  H12.12.5

小生のホームページ、化粧直しをしました。
パソコンそのものがまだよく分からず、ページの更新もままなりません。何とかアップロードしましたが、思うようには出来ませんでした。
 来年からホームページで「小説もどき」を書いてみたいと思います。更新はそのための御案内です。今回は飛鳥物語(仮題)として「あらすじ」のみ掲出しています。ご批判やご助言を戴ければとても嬉しいです。


 setoh   H12.12.5

紀伊続風土記には名草郡中之崎村の名は見えません。中之島村は秋月村の隣にありますが・・
佐伯神社については紀伊国名所図会、続風土記ともに由緒は記されていません。山崎神社は 0736-62-2401 です。宮司さんは兼務で三浦さんと言い 0736-62-2433 です。


あかがね Re: 田の神について H12.12.5

こんばんは、setohさま。
> 延喜式神名帳 河内国丹比郡に田坐神社があります。現在は柴籠神社の摂社になっていますが、元の鎮座地でも田坐神社として祀られています。字面からは「田の神」と思われますね。
 田の神様については全く存じませんが、田坐神社のことは存じております。前もどこかで触れたかもしれませんが、私は現在は茨城県におりますが生まれ育ちが南河内なもので帰郷するたびに地元の式内社等を回ったりするのでこの神社にもいってみたことがあります。
 近鉄南大阪線河内天美駅から徒歩15分ほどの、住宅地の中にある小社です。式内社巡りをする人か、地元の人でないと絶対に縁はないでしょうね。
 境内にあった説明では、呉服漢織(くれはあやは)の神その他が祭られており、どうも渡来系の殖産興業の神を祭る社のようです。
 田、田坐、田井城などは単なる地名という事になってるみたいです。(要調査)
 田舎に帰って、こういうことばっかし調べて飯を食べる道は無いでしょうかね?


 kammer  マルヤ様 H12.12.5

風炉の件ありがとうございました。
文芸春秋社「もう一つの万葉集」って面白そうですね。今度読んでみます。


 kammer  佐伯氏 H12.12.5

>setoh様
>祀神は室屋大連公で、佐伯宿祢大伴宿祢の同祖道臣命七世孫の室屋大連公を佐伯氏が祀ったとあります。
これはいつごろ祀られたか分かりますでしょうか?丹生と大伴の関係の手がかりを探しているのですが全くみつかりませんので、ちょっとしたことでもきっかけがあればと思っているのですが。ちなみに、寛文年間(1660年ぐらい)に佐伯勝重女が丹生氏に嫁に来ております。年代ちかいですか?

どなたか教えて下さい。
丹生氏の系図において秀嶽禅師と言う人のところに「住報因寺此寺有元名草郡秋月村領神領内今迂チ(←?)同郡中之崎村也牌主名日前住当山秀嶽因公首座禅師寛永十五年八月二十七日迂化」とあります。何が書かれているのでしょうか?どなたか漢文の強い方教えて頂けませんでしょうか。また、名草郡中之崎村は今のどこになるのでしょうか?「迂化」ってどういう意味でしょうか?
まことに私的な質問ばかりで申し訳ないのですが、どなたかご存知でしたらよろしくお願い致します。


 setoh  田の神について H12.12.5

> 各地にある情報
と漠然としていて応答しにくいのですが、ひとつ
延喜式神名帳 河内国丹比郡に田坐神社があります。現在は柴籠神社の摂社になっていますが、元の鎮座地でも田坐神社として祀られています。字面からは「田の神」と思われますね。

同じく、紀伊国名草郡に静火神社が鎮座していますが、これは火結神を祀るとされていますが、深い所にひいた樋(水を通すもの)の守り神ではないかとの解釈もあります。 そうすると田の神ということになります。近くに朝日という地名が残り、これは浅い樋と見られています。

大和国城上郡の穴師坐兵主神社はその昔は巻向山頂に鎮座していました。春になると山の神が田の神になるべく山を下りられるとのことで、その日を4月8日とし、里人は山に入らないそうです。山城国愛宕郡の八坂神社も田の神となったことを示すお旅所が残っているそうです。


A.I.改め泊瀬女 神様は? H12.12.4

神社にお参りしても神様がいないと感じる事ってありますね。何かシラッとした感じでね。確かに神前がワイワイしている時が多いけど、ここには本来神様はいないのではないかと感じることもあります。反面「よくきたね」と言われた気がする時、神様に肩を抱かれているように感じる時もあります。神様がいらっしゃるのに冷たく無視される時といろいろです。恐くって逃げた時もありますよ。諏訪大社・上社前宮でのこと。 以前報告した丹生川上神社中社でお祭りに遭遇した時には、広場で大騒ぎしている男達の輪に中で神様も一緒に楽しそうに走りまわっているのを感じました。 これは私の主観で、決してシャーマン的体験ではありませんがね。
どうも、最近私は神社や神様に対して非常に情念的になってしまってきて、戸惑っています。この掲示板のお仲間は皆さん冷静に神社や神様を考察して討論しているのにね。 私も冷静なつもりだったけど、神社巡りを始めて3年あまりの間、いろいろな体験をして、なんかねェー。自分のスタンスに少々迷っているのかもしれません。


玄松子 玄松子の記憶 神様は? H12.12.5

> いわゆる観光地は私には合わないみたいです。
「光り在るところに陰が在る」といいます。
東京の繁華街でも一歩路地へ入れば生活の匂いがします。華やかな喧騒の場所にも必ず、かならず、スコーンと抜けた場所があります。そういう場を見つけることも、また楽しい。


nick ホームページ 田の神について H12.12.5

地元鹿児島の「たのかみ:たんかんさ〜」をおかっけてます。
各地にあるようですが情報をどなたか教えて頂ければありがたいです。
宜しくお願いします。


 setoh  神様は祭りの日にはいない。 H12.12.4

大阪天満宮は商店街や住宅の密集地帯ですが、この近所にお住まいの某神社の宮司さんは朝目覚めると天満宮に神様がいるかいないかが判るそうです。あ!今日はいる。お参りしてこよう。あ!今日はいないな。そう云えばお祭りの日、うるさいからどっかに行ったんでしょう。
 静けさが漂う神社なら、神様がいてくれるのでしょうね。


A.I.改め泊瀬女 疲れた H12.12.4

仕事で京都に行ってました。仕事はテキトーにこなし、さて、どこに行こうかと・・・ 急な事だったので、下調べもなしでした。京都の紅葉は例年より2週間遅れているとのことで、昔みたいにアンノン族(若い人はこの言葉知らないでしょう)に戻り東福寺に紅葉見物に行きました。人ごみは嫌いなので、朝9時に行ったのに結構人がいた。紅葉はきれいでしたよ。仕方がないから宇治に行ってみました。宇治も人は多かったけど橋姫神社、県神社、宇治神社、宇治上神社とお参りして宇治川沿いをほっつき歩いていました。 京都市内に戻る途中、木幡で降りて許波多神社をのぞいてきました。行きの電車の中から見て「あの森は何かある」と目星をつけていた所にちゃんとあった。この神社はよくわかりませんね。あちこち紅葉はきれいでそれはそれで楽しみましたが、疲れました。吉野や出雲で非常に楽しい思いをしてきたので、いわゆる観光地は私には合わないみたいです。心に響いてくるものが感じられないのです。
いっそ松尾大社に愛しい月読様のお姿を拝しに行けば良かった・・・


玄松子 玄松子の記憶 檪谷神社 H12.12.4

「檪谷神社」拝見しました。なんとも目に眩しいページですねぇ。
嵐山は、四季それぞれに美しいですが、やはり「紅葉」の季節が一番でしょうね。


山浜 建御名方神 H12.12.4

ちょうど建御名方神が話題にあがっておりますが、奇しくも12月3日に諏訪大社に行って来ました。
上下4社あるので、全部まわると1日がかりでした。上社の前宮に行った時おもしろいことを聞きました。
どうも上社のあたりでは一番始めに神様が降臨したのが前宮だというのです。前宮の御祭神は八坂刀賣神ですが、看板を見るとミシャグチ神と書いてありました。 名前からして古そうですね。そのため本宮の拝殿は前宮方向を向いているとのこと。このような話はあちこちにありますね。
とてもおもしろかったです。


 setoh  忌部氏など H12.12.3

> 天皇家東遷の随身氏族でないでしょうか
> 太玉命神社の坐す大和武市郡忌部ではないでしょうか。
この二つを矛盾なく理解ようとすると、東遷前は忌部氏ではなかった。大和で忌部氏を名乗ったということになりますね。本貫とは難しいですね。

 忌部氏っの祖神を祀る式内社の祭神に天児屋根命が割り込んでいるように見えます。

> 物部氏の祭祀官僚
物部氏が祭祀を司っていたのでは。物部の祭祀官僚とは何をしていたのでしょうか。


狭手彦 ホームページ Re wajinさんへ H12.12.3

wajinこと日下倭人さん、こんにちは。
> お時間おありの折、お立ち寄りください。 
出雲族の関東への移動 http://www07.u-page.so-net.ne.jp/jf6/t-segawa/kantou.htm
を、拝見いたしました。記事序段の「タケミナカタの逃走ルートはほぼ解明されている...能登半島の入口石川県羽咋市の南隣、志雄町付近に逃げ...」
ですが、志雄町付近のタケミナカタを祭る神社名を教えて頂けませんか。
私見では、羽咋市の南辺でなく、北辺に坐す能登一宮(気多神社)が、出雲族の痕跡ではと解していたのですが。(記憶では、祭神は大国主命)


狭手彦 ホームページ Re 忌部氏の本貫っていったいどこ? H12.12.3

>忌部氏の本貫っていったいどこ?
素直に、太玉命神社の坐す大和武市郡忌部ではないでしょうか。
阿波麻殖郡忌部や讃岐多度郡や備前和気郡伊部などは、部民の地ではないでしょうか。
朝廷の祭祀官僚であるからには、天皇家東遷の随身氏族でないでしょうか。
この観点の阻害点は、天孫降臨随従の天児屋命を遠祖とする中臣氏の存在ですが、中臣氏は物部氏の親近性からみて、元来は物部氏の祭祀官僚ではなかったのでしょうか。


小泉芳孝 -KOIZUMI ホームページへようこそ-  かぐや姫の里 稲作民俗の源流 H12.12.2

『稲作民俗の源流〜日本・インドネシア〜』自費出版のお知らせ
内容:私が民俗調査したのを一冊にまとめて全国主要書店11月下旬発売!
古代駅制・山本駅と『竹取物語』では、京田辺市が「竹取物語の発祥地」とし発表。神社以前の祭祀〜オハケと御仮屋〜では、京都祇園祭「三条御供社」のオハケ、例祭の古式神饌〜京都・奈良・滋賀を中心に〜では、 秘儀の特殊神饌を紹介。南山城、山本の宮座と講。神々の島 ”バリ”の民俗儀礼。民俗の宝庫・トラジャの民俗など紹介。
出版社「文理閣」FAX 075−351−7560
bunri@mbox.kyoto-inet.or.jp。
 内容詳細は、 koizumi@mb3.seikyou.ne.jp まで。詳細送ります。
 URL http://hb3.seikyou.ne.jp/home/koizumi/
 ところで、私の、メルマガやホームページのURLで、掲示板を4つほど設置しましたので、のぞいて何か書き込んでくださいね・・


焼尻紋次郎 気高き男たちの群 紋次郎ぢぢぃの老婆心 H12.12.1

おととい、S が久しぶりにアソビに来た。
そして「紋ちゃんにはキチガイやペテン師みてぇな親友がいるので、不思議だった」と言うた。

 このことばはあっしにとって、まさにグッド・タイミングだった。
 それは乗り越えねばならない“一般人とあっしとの乖離の理由”の入り口を語っていた。
 その個人がキチガイやペテン師になる前は、みんなオギャ〜と泣いて生まれた同じ姿なのだ。オレはその出発点からそいつらの成長過程を踏まえて、見てきたつもりだ。
 一方、S は「言いくるめの集団形成」や「ドロボー経済」の目に馴れてしまって、この社会での常識人の目を得て、そこから「こいつとはつきあえる」だの「つきあえない」だのを決めていたのだ。
 かむなびのみなさんはとうに分かっていらっしゃることかと思うが、老婆心ながら申し上げたいことは、「神社や歴史を見るには絶対に“現代から溯行した目”で以てしてはならない」……です。

 みなしゃんが訪れるほとんどの神社の始発は、鳥神・童神・柱崇拝の氏族で、○○のミコトなどはなかったのだ。そこを集団形成・金属製錬によるおカミの風をうけて「わが集落にも中心となる神のヤシロをつくるべ」という気運が生じて、最初は見よう見まねで楠の下へ堀立て小屋を建てて、安置する神の名にはベロがよくついてゆけないような上層階級用語の神名をつけたはずだ。この認識……まちがっていたら、蹴潰してけれ。
 神社の歴史はたかだか1600年間だが、われわれのいのちは複数細胞となってこのかた10億年間、大地は45億年の時間を刻んでいる。ことばは少なくとも140万年。

 かむなび ことばの祠 ; http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/youibbs.cgi


てっちゃん  丹の件、ありがとうございまいした。 H12.12.1

>瀬藤さん
情報ありがとうございました。ここのサイトに載っていましたね。
いろいろと勉強になりました。
他にも何かございましたらお教えください。
よろしくお願い申し上げます。


 setoh  「丹」の価値 H12.11.30

「丹」の価値
については、お粗末ですが、下記にいささか。
http://www.kamnavi/ny/minzoku.htm
所で、卑弥呼が魏に丹砂を献上したり、もらったりしているそうですが、卑弥呼の時代に開発されていた丹砂鉱山は宇陀と阿波だそうです。そのころから交易の範囲は広かったようですね。


マルヤ 吉野へようこそ  万葉集 H12.11.30

「万葉集」は読むたびに面白さが広がりますね。そして又分からないことが増えていく感じです。丹生に係わる歌もいくつかあります。「記・紀」なんかと同じ一つの史書とも言えると思います。
 文芸春秋社「もう一つの万葉集」では大変興味深い、新解釈をしていますね。イ・ヨンヒ女史の本は他にも数冊ありますが、みんな面白いですね。日本語のルーツについて改めて考えさせられます。以来ハングルに興味を持ちました。


マルヤ 吉野へようこそ  H12.11.30

kammerさん
>「風炉」ってどれくらいの大きさですか?
大山源吾氏によると、竈位の大きさで、「ハソウ」・・・(瓦偏に旁は泉と書く)を乗せるための竈のようなものらしいです。
現存する風炉はありませんが「ハソウ」は器高が15センチ前後の花瓶か壺のような形状で、膨らんだ胴部に2センチくらいの穴があいているものですが、これは現存しているそうです。
 ・・・松田壽男「丹生の研究」にも写真が出ています・・・・・
 氏は「証類本草」巻四水銀の項を引用して、「山の中より朱砂を採って、炉を作りハソウを乗せ朱砂を入れ、火を入れれば煙は上に飛び、少し白く濁った水銀が下にたまる」全くその通りのことが丹生川周辺のあちこちで行われていたに違いがない・・・とその著書にも書いておられます。
先日のsetohさんのメッセージで云われていた「水銀蒸留釜」とこのハソウは形状が違うようだし、年代もハソウは古墳時代と推定されているので、私の解釈間違い、同じものではなさそうです。


てっちゃん 「丹」って? H12.11.30

お久しぶりです。
このサイトのテーマでもっとも基本的な事をお聞きして恐縮なのですが
一説によると「丹」の交易権のために天孫族(ニギハヤヒや神武)は大和を目指したとありますが果たして「丹」はどのような重大な価値があったのか?
とこのような疑問を抱いています。「丹」そのものの機能もよく解っていないのですが他のサイトでお教えいただいて大体解りました。
そこで「丹」の関係の神社を扱っているこのサイトでも伺ってみようと思いました。
不勉強なようで恥ずかしいのですがどなたかお教えいただければ幸いです。


 setoh  祈雨は H12.11.29

 山浜さん、こんばんは。
> 「断層を探す際には神社を探す」
確かに、葛城の古い神社なんかそういう感じですね。神社は地震で壊れやすいと言うことになりますね。

鉱脈や水脈が通っている所に獣道ができるそうです。人間も獣道を利用して、エネルギーの多い場所で神祀りをしたようです。後世には、ダウジングロッドで鉱脈(のある所水脈もある)を探し、井戸を掘ったそうで、弘法大師はその技術に長けていたようです。「昔の人の方が実は科学的だった」と言えますね。

玄松子さん 「断層では電気(電磁波)が発生するため、人の脳に影響を与え」るのであれば、この逆も言えるのかも。それが祈祷ということでしょうかね。


玄松子 玄松子の記憶 断層 H12.11.29

断層上に聖(霊)的施設が点在するというのは、「レイライン」と呼ばれるものです。イギリスのストーンサークルなどが有名です。
阪神の震災時の報道でももありましたが、断層では電気(電磁波)が発生するため、人の脳に影響を与え、幻視・幻聴をおこすというのをテレビでやっていましたね。
人が物を見、感じるということは、脳内の電気信号になるわけですから、同様の刺激があれば、無いものが見え、感じられるというのは、ありえる話です。その刺激に対する個体差が、シャーマンと凡人をわけるのかもしれません。


山浜 断層と神社について H12.11.29

こんにちは
たしかに神社と断層は密接な関係にありますね。
私の大学時代での講義では「断層を探す際には神社を探す」ということがありました。断層が発生すると断層面は破砕され断層粘土ができるので、水を通しにくくなり、断層面より上流側では地下水がダムアップされ湧水が発生します。この湧水を手水として利用したことから、神社は断層上に多くある事になります。
時間の都合でじっくり見れませんでしたが、福島県の八槻都々古別神社周辺にはカタクレサイト(断層圧砕岩)があるようです。
また、春日大社の葉室宮司さんの書かれた本には、神社が断層上にあるのは断層から上がってくるエネルギーを利用するためだとあります。これは断層面にはアルファー線などが上がってくるので、このことを言っているのではないかなと思いました。それを利用した断層推定法もあります。
なにか、測定器などのない昔の人の方が実は科学的だったのではないかと思うこともありますね。
このごろはEC計などを懐中に忍ばせて、湧水や地下水を引いている手水の電気伝導率などを計っております(笑)

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