神奈備掲示板の案内とログ

神奈備掲示板

神奈備掲示板、あさもよし掲示板 過去ログ

掲示板のログ(平成十三年九月)お名前の敬称は省略しています。
更新 H13.10.1


1898 09/30 [ヒン]  失った文化財の重み

昭和20年5月14日、国宝名古屋城は、400機に及ぶ
B29の名古屋来襲によって焼け落ちました。御殿・天守・金鯱まで
すべて焼け落ちました。

5月17日、同じくB29の来襲により、熱田神宮の各種社殿も
焼け落ちました。


名古屋は、日本有数の軍需工場地帯(ゼロ戦、魚雷など生産)でしたので、
米国の標的にされました。とくに、熱田神宮周辺は、愛知航空機・愛知時計など
が隣接し、
6月9日には、10分間で
6000人の死傷者を出した(動員学徒の死傷者も多数含む)
名古屋空襲史上忘れることのできない日まで体験しました。

戦災で焼失した文化財は、
・熱田神宮海上門(旧本殿の正面、南門)
・熱田神宮春敲門(しゅんこう)東門
・熱田神宮長殿
・同鎮皇門(西門)
・同土用殿(昔は、草薙の剣を奉安した御神殿)

当時の中部日本新聞から(5月18日)

・名古屋市長談
17日未明名古屋来襲の敵機は畏れ多くも熱田神宮御本殿の
一部をも炎焼し奉るの暴挙を敢えて致しました、
誠に恐クの極みでありまして私は神前に額き只管御詫び
申し上げた次第であります。
醜敵機は先に伊勢の神宮、明治神宮に対し奉り今また
熱田神宮に対し奉り不敬不遜の行動をいたるに止まらず
去る14日の空襲には我名古屋市民が330有余年間朝に夕に
仰ぎ懐しんできた金鯱城をも烏有に帰せしめたのは痛恨悲墳の至りに
堪へません・・・略


バーミアンの石仏が爆破された映像を見た時も
悔しい思いを致しました。貴重な文化遺産を
なんとか後世に残してゆきたいものです。


1897 09/30 [なにがし]  補足

先ほど巫女に神がかったと書きましたが、本当に神がかったのであればそれは巫女にではなく、丹生総神主本人に神がかったのだと思います。
なぜなら、丹生氏には女性の入れない神の間と言う部屋があり、ここで祈りをあげお告げをする事があったようです。つまり丹生総神主がシャーマンとし丹生都姫?のお言葉を聞いていたようです。


1896 09/30 [なにがし]  無題

>setoh様
>高野の地主神が丹生都姫神を祭る状況になった,・・・
私の勝手な推測です。高野明神とは地主神ですが、これは祖先を高野明神としているのではと思っています。それがこのあたりの地域の人々の祖先を表すのか、丹生氏の祖先を表すのかはわかりません。ただ、丹生家信を狩場明神として祭り、狩場明神=高野明神ととらえる人々がいると言うことは、そう言う祖先によって守られ祖先を祭っているのでしょう。丹生氏は丹生都姫を祭っていましたから、自分達の神ですから、自分達の祖先のはじめの人と位置付けている可能性がありますので、そうなると丹生都姫は丹生氏の母神であり、イコール高野明神の母神となるのだと思います。
>丹生都姫神が真言宗を守る,
空海が高野山に来るとき狩場明神と出会い、巫女に神がかった丹生都姫により高野山を譲りうけると言った伝説があります。これの解釈はこうです。丹生家信と出会い、家信に真言密教の守護をおよび協力を申し入れ、家信はそれを約束します(丹生氏家系図より)。つまり、それを前述のような伝説に置き換わったのでしょう。丹生都姫を祭る丹生総神主に丹生都姫がおりてきて、空海に高野山を譲ったとしてほうが、村人達にも説得力があったのだと思います。つまり、空海と家信が作った話なのだと思います。このようなケースは後世何度か高野山と丹生総神主家との間にて話が出てきます。例えば同じ夢を見たから丹生都姫神社にさらに2神追加して祭ったとかですね。
そう言う状況を考えると、「丹生都姫により空海は守られているのだ、空海は丹生都姫に認められた人物なのだ」と村人に思わせる事により、地元民の協力を得ていったのだと思います。


1895 09/29 [Setoh]  無題

PCの調子が悪く,昨日(28日)の夜から今朝(29日)朝にいただいたメールは受信したものの、そこでPCがクラッシュというのでしょうか,異常停止しまして,そのメールを読むことができない状態です。もし覚えのおありの方がおられましたら再送お願いいたします。

なにがしさん> 高野山の力で大名草彦が丹生大明神の子供として、丹生明神の下に組み込まれた
こんばんは,成る程,そういう観点もありそうですね。
高野大明神をして丹生大明神の御子神とするのはどうなんでしょう。御子神とは巫女で神を祭る神とも考えられます。高野の地主神が丹生都姫神を祭る状況になった,丹生都姫神が真言宗を守る,これも高野山の影響かも。

気功人さん> 坂ノ市は海部氏が住みついたところ
佐賀関に椎根津彦神社が鎮座していますね。武位起命がタケイタテのモコトと読めるならなんとなく五十猛命を連想します。豊後国に当たるのでしょうが,丹生や五十猛命となると紀の国との縁浅からぬものを感じます。
 
上田充夫さん> 「豊日命」の説明に「母紀直智名曾女乎束媛命」と
「豊日命」,やはり豊ですか。景行天皇、大名草比古,何となく九州がにおいますね。


1894 09/29 [泊瀬女]  元伊勢について 6

崇神天皇58年、豊鍬入姫は倭の彌和の御室嶺上宮(みわのみむろのみねのうえのみや)に天照大神を遷し、2年斎き奉ると倭姫命世記にあります。そして「吾日足りぬ」と言われ、御杖代の任務を姪の倭姫命に託します。

御室嶺上宮とは三輪山頂と考えて良いのではないかと思います。
日本書紀には、垂仁紀25年3月10日の記述にあります。私は今年の3月10日に雪の三輪山に登りました。山頂の磐座群にも雪が積もっていて夢のように美しい光景でした。
豊鍬入姫が天照大神の御魂代を父から託されたのが崇神6年、彌和に到ったのが崇神58年、その間52年。当初12歳の少女だったと仮定して、豊鍬入姫は64歳になっています。
彌和での2年間、倭姫に様々な事を話し教えたのでしょう。
倭姫が旅立った時、豊鍬入姫は66歳。その後、どのように暮らし、いつ亡くなったのかは伝わっていません。現在の檜原神社が豊鍬入姫の隠居所だったのだとの説。ホケノ山古墳がお墓だとの説。お墓は上の郷にあるのだとの説。

ところで、崇神6年に倭大国魂の神の祭祀を託された渟名城入姫は、髪が抜け痩せて祭祀ができなくなってしまったとか。渟名城入姫はその後どうしたのでしょうかね。
JR桜井線・柳本駅から北に歩いて10分ほどの住宅地に渟名城入姫神社があります。小さな寂しい感じのする神社です。皆さん奈良に行ったら尋ねてみてください。


1893 09/29  [なにがし]  無題

>上田様
>「豊日命」の説明に「母紀直智名曾女乎束媛命」とかかれています。
紀氏と大伴氏にはそんな関係があったんですか。紀氏は紀伊国造に新任したとき都にいったのち帰りに丹生酒殿神社に参る風習があります。ここは丹生祝氏の本拠地にある神社ですね。古来丹生氏と紀氏は密接な関係が関係があったようですが、上田様のカキコからしますと、丹生氏との関係ではなく、大伴氏との関係で丹生酒殿神社に来ていた可能性もあったのかもと考えらされました。丹生氏と大伴氏はこの丹生酒殿神社のある地で共存しており、丹生氏より早くこの地に住んでいたと思われるからです。丹生氏と大伴氏も密接な関係でつながっていますが、紀氏よりもその関係は新しいと思っていました。見方を変えないといけないかもしれません。


1891 09/29  [上田充夫]  Re[1890]: 大名草比古について

> setohさま
> お返事ありがとうございました。私も名草神社の祭神名草彦、名草姫は個人の名前ではなく、名草を納めた王家の総称だと思います。多分、名草神社は大和朝廷軍の破壊により、祭神の記録を失ったのでしょう。智名曾については「古屋家系図」にも現れます。溝口睦子さんの書かれた「古代氏族の系譜」に大伴氏の系譜があり、その中で「豊日命」の説明に「母紀直智名曾女乎束媛命」とかかれています。他の豪族の系譜に現れるほどの名前であるのに、肝心の紀国造家に「智名曾」の名前が現れないのは不自然に感じられます。天皇家に対して、実名を記載するのがはばかられる事情があって「大名草比古」と表されたのではないかと考えています。この知名曾の時代に紀の国は激変があったのではないでしょうか。たとえば「倭大乱」とかね。


1889 09/29  [キッコーマン(気功人)]  邪馬台国の朱について
「邪馬台国の朱」の記事を拝見させてもらいました。
わたしの住まいは大分市の大野川の下流にありますが、
ここの高台には丹川(あかがわ)があり、地名は「丹生」
ですが、名前の通り土の色が赤く、かつて大きな古墳が
出土して、副葬品が数多く出たそうです。
そして、すぐ近くの坂ノ市は海部氏が住みついたところで、
りっぱな博物館まで存在します。
これだけでも不思議な縁を感じざろう得ません。
おまけにこの土地は、わたしと同姓の「内田」姓が数多く、
わたし自身との深い関係を感じております。

ちなみにわたしは宮崎県の都城出身で、祖先は漢王朝の末裔
として知られる秋月氏の筆頭家老として代々お仕えし、内田
の前は「衛藤」姓であったこと(450年前)が分かって
おります。
その前のことは古文書を見ないと忘れてしまいましたが、
戦国時代を乗り越え、江戸時代は飫肥の伊東家に代々仕えて
いたようですが、いつの間にか都城島津家にお世話になって
おります。
島津家は明治維新前に、島津家領内のお寺のすべてを廃寺に
してしまったので、文献がほとんど残っていません。

焼尻紋次郎さん、はじめまして。
沖縄の方ですか?
わたしはNHK朝ドラ「ちゅらさん」が大好きで、仕事を
忘れて毎日見ていました(^^ゞ

沖縄には五回ほど仕事の関係で行ったことがあり、今年の
12月にもうまく行けばタダで行こうかと思っています。
卑弥呼一族との関係で、沖縄の薬草に注目しています。
古代朝鮮語と沖縄の言葉、アイヌの言葉については未だ
不明ですが、出会いがあれば聞けるかもしれません。
先日、宮古島より「クミスクチン」とガアバの実をタダで
送って頂きましたが、ビジネスパートナーが宮古島の観光
をしてくれるそう。ただし、果たしてここまで足を伸ばせる
かどうかは未定です。

卑弥呼とは異なる能力者は当時は一般的に数多くいたと思います。
人数などは知りませんというか、どの時代に対して数えたらいい
か、移民の多い時代であったし、日本という概念が明確でないので
判断に困りますよね。
九州地方にどれくらいとか、部族がどれだけあったとかなると判断
しやすいかもしれません。
どちらにしても相当な霊力の消耗と時間を要するので、どこかパワー
のある山に出かけて精神を安定させないと導くのが難しいかと。

わたしが沖縄の言葉や発音を理解できないように、言葉の違いは
古代になればなるほど解読に時間がかかります。古代の言葉を
通訳する人がいませんので、意志疎通だけでも大変なんですよ。

岩塩を産するところは、たぶん古代においては神聖な場所であった
と考えられます。わたしはアルプスの山から採掘される2億円前の
岩塩を持っていますが、それから発する気のパワーは優れたもの
があり、手に持っているだけで病気を癒すだけの効果は十分に
あります。


[1888]  ひとつ出たホイのよっさホイのホイ [焼尻紋次郎]  09/29

 石上さん、有り難うございます。
 「ソホリ」がまぎれもない朝鮮にあった神……なんですよね。
 紹介いただいた対談には「フル=ホリ」があって、フツノミタマのフツを感じさせるなど、イミシンですねぇ〜。ジョバツ……なつかしい響きです。
 「ソ」という音は日本では沖縄と山口県が好きだと見ていました。前途洋々。
 朝鮮に伸ばした視野を、ついでにインドにまで伸ばして頂くとうれしいかぎりなんです
が……。

 石(イシ)という語彙は歴史の新しい段階で造語されたとの印象をうけるのはあっしだ
けでしょうか。イシが神さまに関係あるところから生まれてきたとすると、インド〜中東
では IS- だらけなんですよ〜〜。
 語頭の S が言えない連中は意外と多いもんで、S の前に発語のイを立てます。しかも S
は強調接頭辞ですので、意味を持たない IS- も横行するところとなります。
 ISWAR は神です。IS- は接頭辞ですのでこれを取っ払うと「諏訪」が出ます。
 IS- になにか「神様に近い概念」が発達してくると、語尾に O(神)をつけたら ISO
が生まれます。それがなぜ STONE になったのか……、ああ〜マッタクオラシラン。
 いまキナくさいアフガニスタンの北にタシュケント(またはタシケント)という街があ
ります。ロスケに強制連行された人が40年もまえに書いていましたが、タシュケントと
は現地の解釈では「石の多い場所」という意味だとか。こっちの「シュ(石)」のほうが
“直結スタイル”を感じます。

 キム・タルスさんに関してはニガい体験が二つあります。そのひとつ……、『古代朝鮮
語と日本語』で、MON に「もの」の意味があるとあったので、それを信じていたのでし
た。ところがつい最近、それは物部氏が朝鮮にいたことはタシカなので、そのことから同
氏が「MON=物」をデッチあげた……との結論に至ったことです。
 朝鮮の人々で日本語の起源を朝鮮語に求める論者のほとんどに“恨(ハン)”が底流れ
していて、正確な事実の写し取りが歪められている現実はイカンしごくです。

 「淡路には運河〜人工流路があったはずだ」と瀬藤師とやりあったことがありました。
 シデがでてきました。それを追いかけたところ、インドの岩塩を産する聖地の「シデ」
まで行った……ところで沙汰やみになりました。
 愛日はなんと発音するのでしょうか? 
 「ことば考え」はすぐに遊びに惰れますが、一つひとつが遺跡であることは事実です。
 こんご宜しくアマカネ(これニューギニア高地石器時代人の挨拶語です)。アマカネ。


[1887]  山口の氷上山と名古屋の氷上山に接点  [ヒン]  09/29

ある方のHPから、
おやおや、こんなに離れてるけど、山口県の氷上山と名古屋の氷上山に接点が
あるかもしれないのが、わかりました。
星の宮→星→妙見菩薩→北辰信仰→渡来人→製鉄氏族→多々良氏→大内氏
参考HP↓

http://homepage1.nifty.com/menjou-tei/History/Culture/Custom/yamaguti.htm


1886 09/28 [なにがし]  大名草彦

setoh様
>田殿丹生神社の祭神の由緒に「大名草彦命(高野大明神 丹生大明神の御子神) 」と出てきます。
田殿丹生神社が高野山の寺領であったかで少し状況が変わるかもしれません。紀氏と丹生氏は親戚であり、浜降りの神事などでは同列に座ります。しかし親戚でありながら日前宮と丹生都姫神社が紀伊一宮争いしたことがあります。その折丹生都姫神社は高野山の応援がありました。つまり、高野山の力で大名草彦が丹生大明神の子供として、丹生明神の下に組み込まれた可能性もなきにしもあらずか、と思われます。


1885 09/28 [ヒン]  松尾大社

先日、本屋で『ビジュアル日本史』何号だったか
忘れたけど、表紙に薬師寺蔵の神功皇后像という
像が表紙に写っていましたが、
これが、松尾大社の宝物館にあった、
女神像とそっくりで、びっくり。
松尾大社では、中津島姫命(市杵島姫命)ではないかと
していました。
映画『蔵』でも『女(おんな)がみさま』といって
映像に出演してました。

京都に行くと必ず「にしんそば」を食べるようにしてます^0^V
松尾大社内にある茶店(古い感じの方)の
「にしんそば」の『にしん』は、超でかい!!美味い!!
一度お試しください。

ビジュアル日本史の本の解説↓
http://www.deagostini.co.jp/com/product/vnr/vnrstock.html


1884 09/28 [習志野のてつ]  興奮気味

27日のニュースで流れた、長野市の3世紀の馬形金具。
ベルトのバックルで、朝鮮半島でも良く似たものが見つかっています。
これがあの建御名方命(タケミナカタ)さんの一族だったらすごい。

● 歴史と神話は近付いている。すごい。
素盞鳴尊が新羅から来たなら、馬と共に来た可能性もある。泥の船では
馬が暴れたら壊れてしまうから、無いかもしれない。建御名方は、大国
主の子だから、素盞鳴尊の子孫でも有り、馬に乗れたと考えたい。


1883 09/28 [石上佳孝]  無題

1881>焼尻紋次郎さま、こんにちは。

私自身は古代朝鮮史というのは全く素人なもので、ご参考になるかどうか分かりません
が、講談社文庫から「日本の中の朝鮮文化」(金達寿著)が発行されています。金氏は朝
鮮・慶尚南道出身で、10歳のころ来日され日大芸術学科を卒業され日本と朝鮮の古代
文化について幅広い著作を書かれ、故司馬遼太郎氏とも親交があったことが「街道を行く
」シリーズにも読み取れます。たとえば第3巻近江・大和編の石上神宮の七支刀の章に以
下のような記述があります。

つまり、布留の石上という布留は、朝鮮語ソウル・ソフル(徐伐)からきた京・都とい
うことで、いわば聖地という意味であった。では、石上のいそ(石)とは何かというと、
石上のいは新井白石のいう発語、接頭語で、このそもソフルのソ(徐)からきたもので
なかったかと私は思う。

そうしますと金氏の論によれば石上とはソ(京・都)のカミ(守・神)ということにな
り、(物部=もののふ=武士)の意味と良く符号することになりますね。そしてソのカ
ミといえば園神=曾富理神(そほりのかみ)=韓神となって新羅の神を指す言葉になり
ます。ことばの遊びと言ってしまえばそれまでですが、僕には古代朝鮮語には古代の謎
を解く鍵が隠されていると思います。

>1882 Setohさま、
偶然ですが、御霊神社は私が愛日小学校に通っていたこともあって、子供の頃遊び場に
していた場所の一つでした。僕自身はその奇妙な感じを感じたことはなかったのですが、
幼なじみの女の子に霊感の強い子がおり、あそこは気味が悪いので行きたくない、と言
っていたのを今思い出しました。今度機会があればおっしゃる場所に行ってみたいと思
います。宮司さんは医者いらずと言うことですが、僕らが暇なことは良いことですよ、
本当に(笑)。

先週末に京都・桂にある松尾大社に行ってきました。大山咋の神を祭る大社で賀茂社と
ともに京の守護神として有名な神社ですが、どうも京都の神社というののはりっぱな神
社も多いのですが、妙に観光ずれしている感じがして少し興ざめでした。むしろ摂社と
なっている月読神社の方が古式ゆかしい感じがして僕なんぞにはありがたい感じがしま
したがさてさてどんなものでしょうか。


1882 09/28 [Setoh]  無題

1873 泊瀬女さん> 8.長田吉備名方浜神社 和歌山県有田郡吉備町
> * 現在は田殿丹生神社の摂社、元地は長田の国主神社である
『紀伊続風土記』から
有田郡田殿荘長田村
國主明神社 境内周七十六間
村中内垣内といふにあり 境内に元文五年命ありて吉備名方濱宮といふ碑を立て禁殺生ノ碑を建てられる これ此時古跡を考ふる者建議する所にして下津野の吉備と此長田の名とを附会して牽強せるなり 考を失ふといふへし
 と記事が載っています。『続風土記』は本居宣長の子の本居太平などが撰したもので、随所に筆者の個性思考がほとばしっている面白い読み物です。

 ところで田殿丹生神社の祭神の由緒に「大名草彦命(高野大明神 丹生大明神の御子神) 」と出てきます。先に、
1860 上田充夫さん> 大名草比古命
の名前を出されていました。この大名草彦命が丹生大明神の御子神と伝わっていることは、紀氏の祖先の(豊耳?)が丹生氏から養子を迎えたとか、そういったことを伝えているのでしょうね。

1876 石上さん> 大阪市内のような雑駁な場所にある神社でも鳥居をくぐった瞬間に廻りの雑踏から隔離されたような感じ
 中央区に御霊神社と言う神社があります。ここもそのような雰囲気の神社ですが、特に本殿の北側の稲荷神社と大石の辺りは奇妙な雰囲気が漂います。昔この神社に奉職されていた弓削神社の宮司さん(この方は昭和8年から神職さん!、恐らく医者いらず)も同じ様なことをおっしゃっていました。
1866 気功人さん> 稲荷神社の狐は嫌いですが
同感です。この感じで増幅されているのかも。


1881 09/28 [焼尻紋次郎]  小夜の中山 あめが降る

 小夜の中山雨が降る……この紋句だきゃあボケどたまんなかにありやすが、この前とか後と
かをご存じのお方、お教えあれ。
 夕暮れから真夜中の中間時間が「サ」なんです。われわれの先祖たちは、モノが稔ってし
まった旬よりも、生気はつらつの「サ」をだいじにしたらしゅうござんすなぁ。
 或いはこれイザナギ・イザナミの「サ < jyan……いのち」との懸け言葉意識ならむ。

 石上さん、お早うございます。
 朝鮮の神様……まさに虚を衝かれた思いです。一つでも二つでもいいのです。
「これぞまぎれもない朝鮮の神だ」という発音がありましたら、ぜひお教えください。朝鮮の
神名をイモズル式に引き出す方法とか著作がありましたら、これもまたお教えいただければ幸
甚しごくです。

 キッコーマン(ウーマン?)さん、こんにちWA
いいおメガネ(神・眼)をお持ちでいいですね。自分には見えるのに一般人に見えない……
これをどう認めさせるかは、イライラするこったろうと愚紋に存じます。
 ところで、われわれは「ヒミコ」……と、ひとりだけ提示されると、そのヒミコ姐さんお一
人に意識が集中して、いつのまにかヒミコさんみたいなおひとは前にも後にも一人しかいな
かったみたいな判断に陥るようです。
 紋見によれば、このカキコの下のほうにもチイサコベだのコオ(子神)だのが顔を出してい
ますが、古代は童神・少年少女神がいっぱい詰まっています。更に紋考しますと、周囲を異民
族に囲まれていない氏族どうしのラン(戦争)を鎮める方策として祭政一致のステージでは、
今の天皇様のように「氏族統合の象徴」として「クマル・クマリ・コマラ・コマル」などの童
神が選出されます。
 おらは「ヒミコみたいなクマリ」はこの日本列島には通算735人ぐらいいたのではないか
と紋考しますが、ウンジュ(沖縄方言; 貴方様)のメガネには何人ぐらいの「準ヒミコさんた
ち」がみえましょうか?
 こんなの、愚問と思ったら愚答しないのがこの『かむなび』のヤリクチですのでアマカネ。

 カタワ、チイサコベ、穴門山、ナカタ等々は下の『かむなび・NOW』でほにゃ。
 http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/yakbbs.cgi
<>www.you-i.org


1880 09/27 [泊瀬女]  テレビ

NHK教育テレビ 9月29日(土)夜10時〜10時30分 放映予定
「国宝探訪」 出雲大社・宗祠本殿


1879 09/27 [習志野のてつ]  小値賀・神方古墳の発掘

小値賀島(五島列島の北に位置)日本武尊と弟橘姫の息子といわれる
「鴨一速王」が祭られる神島(こうじま)神社がある。
9月19日の長崎新聞に、小値賀・神方古墳の発掘概要が載った。
『同古墳は土を盛り上げた高塚式。中央に天井石と呼ばれる直径2メートル
の石がある。石室は、入り口の羨(せん)道と玄室から成り、奥行き約7.4
メートル、幅約二メートル。円墳、方墳の区別はつかないが、墳丘の周囲を
示す葺(ふき)石らしき集石も見つかった。
 石室は、中世までに盗掘されたとみられ、棺などはなかったが、鉄鏃(長
さ約5センチ)や鉄刀片(同約7.5センチ)、金環と呼ばれる耳飾り、須恵
器の破片数十点が出土し、築造時期が特定された。
 発掘調査は、同町教委が小値賀史談会に委託して初めて実施した。調査顧
問の小田富士雄福岡大教授は「五島列島に突如大きな古墳が造られたとみら
れ、大陸との関係緊迫化で大和朝廷が国境の島として位置付け重視した政治
的背景がうかがえる」と話している。』[2001年9月19日(水)]長崎新聞

この古墳は、鴨一速王を葬った古墳と私は考えています。
但し母親は大橘姫、つまり常陸の国に大和から行った姫
=景行天皇の采女=弟橘姫の姉ではないかとも。


1878  09/27 [キッコーマン(気功人)] 韓半島とのつながり

石上佳孝さん、Setoh様、皆々様、新参者ですがよろしくお願いします。

わたしがシャーマンや縄文人、アイヌ人の繋がりを韓半島の南部と関係
が深いと感じているのは、霊的な感性から来るものです。
韓半島南部だけでなく、中国の海岸線沿いもまた深く関係しており、
この事実は、4年前に韓国の歴史学者との会合したときにわたしの
啓示的推測がほぼ間違いないものと理解しました。
今から2000年前後の日本は、日本列島の枠に捕らわれず、韓半島南部、
中国大陸海岸部(上海近辺一帯)の広大な連合国家であり、日本には
幅広くアイヌ人が居住しており、シャーマンを中心としてそれぞれまと
まっていたようです。

中国の歴史は、民族の争いであり、民族が国家を納める度に、自分達の
都合のよいように歴史を改ざんしているため、中国の歴史を知る上では
韓国の古文書を見た方が、歴史的正当性は真実味があります。
韓国の歴史も日本同様に、単一民族の争いが中心であるため、意図的な
歴史的改ざんは少ないように感じるからです。

連合国家の基盤を統制するためには、かなり深い関係が必要であり、
そのためにシャーマンという有能な人材を派遣して信頼関係を深めたり、
稲作や漁業、情報伝達のノウハウを伝授したり、そしてもっとも深い
関係を保つために民族間の婚姻関係を通して血縁関係を利用したよう
です。

これらの内容はまだまだ序論ですが、詳細に関してはそのうちにPHP
出版の歴史街道などで記載したい考えています。実は3年前に原稿を
郵送して打ち合せをしたのですが、ストーリーがとても大き過ぎるので、
シリーズ化して欲しいという依頼がありましたが、ゆっくりまとめる
時間がないために、そのまま保留になったままです(^^ゞ

いつの日か、世の中に出したいとは思っていますが、わたしよりも優秀な
人達がたくさんいるので、のんびりやりたいと思っています。
わたしはほとんど書物を読む事がなく、いつも霊的直観力と直接その道に
詳しい方に話しを伺って自分の目で確かめるようにしています。

みなさんからの情報はわたしにとって宝であり、かけがえの無いものです。
それぞれの情報の共有こそ、歴史を紐解くもう一つのカギになります。
わたしも少しずつ、わたしが理解している範囲で情報公開をして行きたい
と思っていますので、よろしくお願い致しますm(_`_)m

わたしの直系の先祖は、代々大名に仕えたシャーマンの血筋であり、
360年前に有名な大名がわたしの先祖のためにりっぱな神社を
建立してくれています。
今も地元では縁結びの神として崇拝されていますが、場所がら地元の
人しか知らずにひっそりと休んでおられます。


1877 09/27  [石上佳孝] 韓半島とのつながり

キッコーマン(気功人)さん、卑弥呼のルーツを探しに済州島に行かれたとの
ことですが、私自身も日本の古代を研究する上で大陸、というより韓半島と倭
との関わりを調べなければいくらこちら側のことばかり調べていてもなかなか
突破口が開けないと思うのです。特に弥生時代から後は多少の時間の前後はあ
れ、今の日本人のご先祖のほとんどは韓半島から渡ってきている訳ですから、
出身地の違いが日本の古代政治に大きく影響を与えていると考えて何の不思議
もないと思います。まあこれは僕が畿内に住んでいるのでよけいそう思うのか
も知れませんが。
人気作家の金達寿さんが、素盞鳴など出雲系の神さまは新羅と関わりのある神
だと書いておられるのも、蘇我・物部の崇仏・排仏論争などを考える上で重要
だと思いますが、韓国・朝鮮の神さまが意図的にか無視されがちなのは残念な
ことだと思います。
個人的には、大阪などは天皇の正史書き換えにも関わらず民間レベルで相当程
度出雲系の神さまに対する信仰が残ったのだと考えております。



1876 09/27 [石上佳孝]  早速のお返事ありがとうございます。

Setoh様、峰様、早速のお返事ありがとうございます。

Setoh様、中性脂肪が多いとのこと、ご自愛下さいませ。Setoh様のおっしゃる神社の
パワーというのはやはり私も感じることがあります。もちろん、式内社のような名社、
古社と呼ばれるような神社は、昔から地域の人々に篤く崇敬されており、神域なども
大切に保存されてきたので、いわゆる神さびた雰囲気を良く残しているために、そう
感じられるのかも知れませんが、大阪市内のような雑駁な場所にある神社でも鳥居を
くぐった瞬間に廻りの雑踏から隔離されたような感じを受けることがあり、その地に
すんでおられたご先祖の「気」のようなものを感じることがあります。淡路の伊弉諾神
社もそういう雰囲気を良く残しておりますね。不思議なものです。

峰さま、はじめまして。峰様のお祖母さんも淡路でいらっしゃいますか。淡路は、例
の大震災があって、明石大橋がついて、花博があって、ずいぶん開けましたが、その
分古いものがずいぶんなくなって少し寂しい気もしますね。震災から5年経って、よ
うやく復興も一段落したと見えて最近では真新しい社殿や鳥居をあちこちに見かける
ようになりました。震災では相当大きな被害が神社やお寺にも出ていたものと思われ
ます。今私たちが見られる神社もこういったいくたの災害や戦火をくぐって生き延び
てきたのかと思うと、この国の人々の神々に寄せる思いが伝わって来るようです。

これからもよろしくお願い申し上げます。


1875 09/27 [ヒン]  星の宮の所在地

星の宮があったとされる、松炬島は、
往古文献に、以下のようにでてくるそうです。

張州府志               松炬島
熱田神宮本記             松炬嶋
熱田神宮御鎮座次第神躰本記 尾張誌  松(女へんに,后)島
尾張地名考 熱田神宮神典記      松雄島
平家物語               松子島
熊野三社手洗鉢            松巨島


炬は、かがりび。
松炬島と対岸の鳴海から
知多にかけての丘上に
湾を囲むように狼煙遺跡が発掘されているそうです。
船による外敵の侵入を知らせあう機能。

↓狼煙を解説したHP発見
http://www.f-jhs.fukuoka-edu.ac.jp/3-3/hp.html<>village.infoweb.ne.jp/~fwif4861/


1874  09/27  [kokoro] 神社による古代史D 『道場法師と二つの元興寺』

 9月17日の『神社による古代史C』の続きです。
 9月3日にカキコした『神社による古代史@』で僕は、『尾張志』にある記事を紹介して、八剣宮の創祀は平城京造営と関わりがあるのではないかといいました。そこで、今回からこの問題に取りかかろうと思います。
『日本霊異記』第1巻の第三〜第五に大略、次のような説話があります。
「【第三】敏達天皇の時代(572〜585年)、尾張国愛智郡片ワの里でのこと。農夫が田に水を引いていると雷が鳴り出し、子供の格好をした雷が落ちてきた。鋤で殴り殺そうとしたところ雷は、助けてくれれば子供を授けると言ったので、請われるままに、楠の舟に水を入れ、竹の葉を浮かべて与えると、水を得て空へ昇っていった。やがて生まれた子は、首に蛇が二重に巻き付いて頭と尾を後の方にたれていた。
【第四】この子はやがて大力の持ち主となり、10歳位になって皇居のそばに住んだ。その頃、皇居の東北隅の別邸に、ずば抜けて力の強い王がいた。別邸の東北隅にあった八尺立法もある大石を、家から出て中に投げ入れたところ、門を塞いでしまった。子供は、これを反対の方に投げ飛ばす力比べをしてこの王に勝った。彼が石を投げた場所には、子供の小さな足跡が、深さ三寸余りも地面にめり込んで残っていた。
【第五】やがて元興寺の童子となったが、その頃、この寺の鐘楼に鬼が出没、夜ごとに死人が出たので、鬼退治を申し出た。童子は鐘楼で鬼と格闘、髪をつかんで放さなかった。ついに鬼の方が負け、すっかり髪を抜かれて逃げ去った。血のあとをたどると、元興寺の悪い奴ヤッコを埋めた街の辻にたどり着いた。これにより、この奴の霊鬼が鬼の正体であったことが判明した。その後、成長した童子は、寺田に水を引くのを邪魔した諸王達を大力でこらしめ、その功績により僧となり、道場法師と名乗るようになった。」
 この一連の説話の中でも、特に【第五】の元興寺での鬼退治は、かって(あるいは今も?)非常によく知られていました。元興寺が訛ったガゴウジ≠ニいう言葉は、広辞苑に「@元興寺、A(元興寺の鐘楼に鬼がいたという伝説から)鬼の異称、B鬼のまねをして小児をおどすこと。がごじ。がごぜ。」とあるほどです。この『日本霊異記』にある元興寺は、飛鳥寺の名で知られている方興寺のことですが、しかし現在、この鬼退治の伝承は、奈良市中院町にある元興寺に伝承されています。屋根瓦や巻斗マキトと呼ばれる建築部材に飛鳥寺のものが使用されているなど、当該元興寺は飛鳥寺を平城遷都の際に移築したものなので、こうした混乱が生じたと思われます。
 さて、【第四】には道場法師と力比べをした力の強い王が、皇居の東北にある別邸に住んでいたとあり、しかも二人が力比べに用いたのは、この別邸のさらに東北隅にあった八尺立法の大石だったとあります。ここでは東北という方位が二重に出てきますが、東北は艮ウシトラにあたり、陰陽道や易学でいうところの鬼門です。『日本霊異記』の説話には登場しませんが、奈良市には、鬼退治で夜が明けて逃げ出した鬼を道場法師が追いかけると、鐘楼の東北の辺りにあった辻子でその姿を見失い、このため、その辻子を不審ヶ辻子と呼ぶようになった、という地名伝説があります。それからまた、追跡を逃れた鬼は不審ヶ辻子の東北にある鬼園山キオンサン(鬼隠山)へ逃げ込んだという伝承もあるようです(鬼園山は現在の奈良ホテル辺り)。ここには東北方向への偏執が感じられますが、これは道場法師に鬼門を鎮護する聖人という観念があったことのあらわれではないでしょうか。そうして同様に、彼がいた元興寺には平城京の鬼門鎮護という役割があったのでは。あたかも、平安京の鬼門鎮護のために延暦寺が、江戸城のそれのために寛永寺が造営されたという説があるように。ちなみに、僕が元興寺で買った絵馬には、道場法師と鬼とがそれぞれ表と裏に描いてあり、一緒にもらった紙に「厄除招福の御守護として出来ますれば丑寅(東北)の方向におかけ下さい」とありました。
 道場法師と元興寺には平城京の鬼門鎮護と関わりがあったとして話を進めます。実は、僕は元興寺と八剣宮の祭祀には、繋がりがあると考えているのです。元興寺という寺院は、奈良市だけでなく飛鳥時代の名古屋にもありました。この寺院の跡は、現在の中区正木町にあり、近年の発掘調査の結果、7世紀半ばの瓦等が出土して尾張でも最初期の仏教寺院と判明しております。現在では昭和50年に再建された寺がひっそりと建っているだけらしいですが、江戸期の『尾張名所図絵』には、広大な敷地に囲まれたかっての姿が残っているそうです。ところで『日本霊異記』には、道場法師が生まれたのは尾張国愛智郡片ワ里カタワノサトだったとありますが、この片ワ里(ワ≠ヘくさかんむり≠ノ糸≠ニ色=jは現在の同区古渡町付近だったといわれており、古渡町と元興寺跡のある正木町は隣りどうしで、ほとんど同じ場所です。尾張の元興寺については、沿革等、まだ不明な点が多いようですが、こうしたことから、道場法師の説話を介して、奈良と名古屋の元興寺には何らかの関係が推測できると思われます(これは別に僕が言い出した訳ではなく、谷川健一氏や森浩一先生の書物にもみられる考えです)。
 さて、名古屋の元興寺跡及び片ワ里は、八剣宮(熱田神宮)から北に向かって2〜3qの距離にあります。結構、近くなのです。とはいえ、「近いから、カンケーあんじゃん」ではだれも納得しないでしょうから、もう少し分析を続けると、実は道場法師の説話は、古代豪族、小子部連チイサコベノムラジと関連が深いとされているのです。雄略紀7年7月3日の条に、次のような話があります。
 「(雄略)天皇は少子部連スガルに詔りして、「私は三輪山の神の姿を見たいと思う。お前は腕力が人に勝れている。自ら行って捕まえてこい」といわれた。スガルは、「ためしにやってみましょう」とお答えした。三輪山に登って大きな蛇を捕らえてきて天皇にお見せした。天皇は斎戒されなかった。大蛇は雷のような音をたて、目はきらきらと輝かせた。天皇は恐れ入って、目をおおってご覧にならないで、殿中におかくれになった。そして大蛇を岳オカに放たせられた。あらためてその岳に名を賜い雷イカズチとした(※宇治谷孟氏の現代語訳『日本書紀』講談社学術文庫)。」
 この物語は、小子部連の始祖説話として知られるものですが、大和岩雄氏は『日本の神々4大和』「小部神社」の項でこの話と道場法師の物語に触れて、次のように述べています。
 「道場法師の話には、小子部連の始祖説話と同じく小子、雷、蛇が登場するから、柳田国男は同一氏族の伝える小子説話とみたのであろう。道場法師は雷神の子として尾張の国に生まれた小子である。この小子は頭に蛇を二まきにして、蛇の頭と尾を後ろに垂らしいた。<中略>雷神の子の道場法師が小子であることと、雷という名をもつ人物の姓が小子部連であることからして、小子と雷は一体である。」(P224〜225)
 文中、柳田国男の名前が出てきていますが、これは『雷神信仰の変遷』の内容のことで、ここで柳田は、「道場法師とその娘たち(※これも『日本霊異記』にある話で、片ワ里出身の道場法師の孫娘の力もちで体が小さかった力女のこと、勧善懲悪、中巻にあります)も、同じ小子部の一門であるが、<中略>これを記録に留めた日本霊異記の著者沙門景戒も、事によるとこの系統に属する人かも知れぬ」としています。ついでに言うと、『日本の神々4大和』「子部神社」の項は小子部連に関する実に優れた論考です。
 小子・蛇・雷が小子部連に関連の深いのは以上の通りですが、このことは、この氏族が手掌した呪術的な祭儀の雰囲気を伝えているような感じがします。それはともかく、前回のカキコの最後の方で、『石上振神宮略抄』の出雲建雄神社の由緒では、降臨した出雲建雄神が「小童」であったこと、「帝都を保ち」と言っていること、同じく夜都伎神社の由緒では、退治された八伎大蛇が「八つの子蛇」になったこと、それが「水雷神」と化したこと、について注意を求めておきました。つまり、小子・蛇・雷が全部登場している訳です。しかも、あまつさえ出雲建雄神は「帝都を保ち」と言っているので、宮城鎮護の祭儀も感じさせるのです。というわけで、僕は出雲建雄神社と夜都伎神社の祭祀には小子部連が関わっていたと思います。そうして、とするならば、この二つの神社と八剣宮には密接な関わりがあることは前回、説明したとおりなので、このことと小子部連を介して、奈良と名古屋の元興寺も八剣宮と関係があるといえそうです。さらにその場合、奈良の元興寺や道場法師に平城京の鬼門鎮護との関係があったとすれば、冒頭で言った、八剣宮には平城京造営と関係があるという話とも関係していそうです。
 3っだけ補足します。まず、『日本書紀』に、壬申の乱の際、不破の関で尾張国司小子部連サイチ(サイチは「金<wンに且≠ニいう漢字」と「鉤」)が二万の兵を率いて大海皇子に帰属したという記事があり、戦略的に大海皇子の有利を決定づけた重要な出来事だったらしいですが、これにより7世紀の尾張に小子部連が居住していたことが確実に分かります。おそらくそれは、片ワ里の辺りだった可能性が高いでしょう。また、出雲建雄神社と夜都伎神社の上社である日の谷は、『石上振神宮略抄』では都祁郷に属しているとあります。小子部連は神八井耳命カムヤイミミノミコトを始祖としていますが(『新撰姓氏禄』)、都祁を支配していた都祁氏も神八井耳命系で、両者は同族です。それから前回のカキコで僕は、大和国十市郡の式内小社、屋就神命神社を、『大和志』が八劒神と称した例について附会の説と思われる≠ニ書いてしまいました。しかし、当社は小子部連が祭祀していた式内大社、子部神社と多氏の祀った多神社の間にあり、前者とは約1q、後者とは約500mしか離れていません(ちなみに多氏も神八井耳命系)。こうしてみると、いちがいに附会の説と決めつけることはできない気もします。
 次回は八剣宮のことからはやや離れ、間奏曲としてクズ族のことを扱います。布留川上流域の3っの九頭神社や、吉野町南国栖にある浄見原神社等を扱う予定です。その過程で7世紀の陰陽道に基づいた呪術的作為について、触れていきたいです。
☆ 今回のカキコでは、名古屋の古渡にある元興寺等について、ヒンさんのホームページにある「歴史・神道関係」コーナーを参照させてもらいました。古代の尾張に興味を持った人がいれば、オススメです。
http://village.infoweb.ne.jp/~fwif4861/rekireki.htm



1873 09/26 [泊瀬女] 元伊勢について 5

元伊勢5番目の地は吉備の国。
崇神天皇54年、豊鍬入姫により吉備国・名方浜の宮に遷る。4年斎き奉る。と倭姫命世記にあります。
比定地、伝承地は
1.伊勢神社   岡山市番町
2.内宮     岡山市浜野町
         * 旧社地は現鎮座地の南の字神明にあったとのこと
3.穴門山神社  岡山市吉備郡真備町
4.穴門山神社  岡山市川上郡川上町
         * 赤浜宮ともいう
5.神明神社   総社市福井
         * 現在は総社に合祀されているらしい
6.今伊勢・内宮外宮 福山市神村

木乃国から吉備国への巡幸の途中に、それらしき伝承がないことから、吉備国を木乃国・吉備とする説があります。
7.伊勢部柿本神社 海南市日方
          * 海南駅の東に「大神宮遺跡」の碑があるが、明治40年のもの。
8.長田吉備名方浜神社 和歌山県有田郡吉備町
            * 現在は田殿丹生神社の摂社、元地は長田の国主神社である              と云われる。

豊鍬入姫の母の実家、荒河刀弁と吉備津彦との間に何らかの交流があるとすれば(setohさんご指摘)吉備の国への巡幸も唐突ではないでしょう。
紀の川河口あたりから吉備の国へ沿岸沿いに舟で行ったことも考えられますね。
岡山県、和歌山県の海南・有田方面はまだ行っていないので、何とも感じが掴めません。
何とか、年内には自分の目で確かめて来なくては・・・と思っています。大変だァー。



1872 09/26 [泊瀬女] 倭姫命ご巡幸

神社が好きな人なんて、よほどの変わり者か物好きだろうと思っていました。
ところが、最近その変わり者がけっこう多いいんですってね。一の宮巡りしている人や、元伊勢伝承地めぐりをしている人もかなりいるそうで・・・
そこで、これから『元伊勢伝承地巡り』をしようと思っている方達に、本を紹介します。

伊勢の神宮−ヤマトヒメノミコトご巡幸のすべて
定価は 本体1748円+税

この本は、きれいな写真も多く眺めているだけでも楽しい本です。
昭和63年から平成2年まで、大阪神社庁が主催して各地を巡拝した成果をまとめたものです。
大阪府神社庁に連絡すると送ってくれます。対応も親切ですよ。
大阪府神社庁の電話番号は 06−6245−5741

興味のある方にお勧めします。



[1871]  ホ ヒ ・ ホ ヒ   [焼尻紋次郎]  09/26

 ありがとう。
 HIN さん、10分おきにノドと鼻のうがいしなせぇ。うがい液はアストリンゴゾルがよかばい。
 くすりのんだら肝臓やられ、肝臓やられたらガンが生えてくるとですばい。

 ホとヒが接近してきました。この二つは同一だと置いてみると楽しさ10倍ばい。
 シロートの楽しみを展開させてもらいます。、途中廣島と四国近畿に異質がまぎれこんでいるが、大分県の豊から静岡山梨までが同一イントネーション地帯に入っていているので、あんがいここがホ・ヒの母体かもしれませんね。ホ・ヒはそれくらい古いものを感じさせます。


[1870]  おひかみさん  [ヒン]  09/25

何回もすみません。今、偏頭痛で、セデス飲んで寝ておきたんですが、頭ん中が、狂牛病状態のサクサクで、たびたび訂正します。ミヤズ姫は、建稲種命の妹です。創作された架空の人物ともいわれています。ところで、私は、紅白が終わったあと、それゆけー!!とばかりに、『おひかみさん』へ初詣にでかけます。おひかみさんとは、氷上姉子神社の事。(名古屋市緑区)ここに行くと、破魔矢から何からなにまで、熱田神宮の焼印なんです。出張所ってかんじ。だから、車も容易に駐車できない大神宮へえらい思いしてゆかなくても、同じ御札なのでここにしています。

しかし、地元の人に教えてもらって、毎年行くようになりましたが、『おひかみさん』と非常に親しまれ、大事にされていますので、信仰としてかなり往古からのものと推察されます。すみよしさん以外に○○さん、と親しまれている神社で、皆さんの近くにはどんな社がありますか?

下知我麻神社は、乎止世命の嫁はんを御祭りしてますが、尾張大印岐(おおいなぎ)と言う豪族の娘で、真敷刀俾(ましきとべ)と言う方です。

ところで、氷上は、延喜式以下の古代の文献には、火上とでてきます。また、漁民に日信仰が篤いし、日と氷は、同音なので日上とみることもできるという説もあります。火明(ほあかり)一族ならではですね。

氷上といえば、そうそう藤原の鎌足の娘,氷上娘(ひかみのいらつめ)がおるではないか!
丹波国の氷上郡氷上郷にちなむとされています。でもって、天武天皇の奥さんになられました。生まれた皇女が、但馬皇女。氷上郡と但馬国は隣接。但馬国造は、丹波国造と同族で、海部直の同族。それに、大海人皇子を育てたのは大海氏。大海人氏は、丹波国造と同族。

また、乎止世命は,製塩を生業としていたとされています。製塩は、大和の和珥氏配下の和珥部の得意技!もちろん海部系。和珥氏の始祖天足彦国押人命(あめたらしひこくにおしひと)の母は、尾張氏出身。

頭痛がなおったら、また・・・


[1869]  Re[1866]: はじめまして  [Setoh]  09/25

キッコーマン(気功人)さん、こんばんは。
> 卑弥呼(シャーマン)一族のルーツ調査を兼ねて韓国の済州島に
そうですか。小生もそのころソシモリツアーをやっていました。済州島の東の洞窟のある小島にある山が「ソシモリ」と呼ばれているとの説もあるようです。一度行ってみたい島ですね。
 シャーマンのルーツはやはり大陸になるんでしょうね。年代的にはどの位まで遡れるのでしょうか。
> アイヌ人と卑弥呼一族の繋がり
これは小生にははじめてお伺いする説です。アイヌと縄文人、卑弥呼と弥生人と言う感覚でしたから。
> 後日ゆっくり訪れます。
楽しみにしております。


泊瀬女さん> 笠の人と小夫の人は仲が悪いのだそうです。
面白い話です。伊勢でも内宮・宇治地区と神宮外宮・山田地区とは未だに不仲だそうです。天照大神さんも神威が高すぎて、一般庶民の動向には目が届かないんでしょうかね。


[1868]  Re[1858]: 尾張の話?  [Setoh]  09/25

 丹波国造本紀の籠神社祝部の系譜は尾張の海部氏尾張氏の系譜と殆ど同じくしています。さらに大和葛城の尾張氏や物部氏も同じ様な系譜を持っています。どこまで信じていいものかですが、嘘八百とも思われず、話半分としても、古代には幾つかの大きい氏族が祖先を共有していたと言うことですね。
 尤も、乎止世命、建稲種命は尾張特有の名前です。
 初代国造は乎止世命ですが、乎止世命を祭神とする神社は愛知県だけにしかなく、17社を数えます。また建稲種命を祭神とする神社は36社(うち愛知県26社)で人気があるようです。大名草彦命の妹を名草姫と名づけるなら建稲種命の妹のミヤズ姫は(建)稲種姫となりあの素盞嗚尊の細君の稲田姫を想起します。日本武尊と素盞嗚尊とはよく似ている((1)火雷神格を持つ巡行神 (2)農耕と製鉄 (3)荒ブル神から福神へ化生 (4)相聞と神婚 (5)草薙剣 )神です。偶然かも知れませんが、どちらかが記紀史局で構想されたのかも。


[1867]  Re[1860]: 教えてください  [Setoh]  09/25

上田充夫さん、早速ありがとうございます。
> 智名曾が大名草比古命と同一人物であり、名草姫はその妹
名草の豪族の女は殆どが名草姫と呼ばれたのではと思っています。名草神社の祭神の名草彦というのは智名曾であった大名草比古命かどうかには疑問があります。女神を祭神としている神社の場合、男神を構想して同祀(同衾?)することがあったのではないでしょうか。
伊太祁曽神社の摂社の丹生神社には丹生都比賣の本社である丹生都姫神社にも見えない「丹生津彦命」が登場しています。神を安らかにするための奉納したのではないでしょうか。

> 智名曾の名前が消されたのか
日吉丸が筑前守になっています。智名曾が名草の長になって、大名草比古と呼ばれたのでは。

所で、紀の国に関わる御投稿を頂いたついでに、余談。
『肥前国風土記』藤津郡の條に「纏向の日代の宮に天の下をお治めになった天皇(景行天皇)が行幸されたとき、この里の土蜘蛛を誅滅させようとして、侍臣の紀直らの祖穉日子(ワカヒコ)を派遣云々」と載っています。『国造本紀』成務朝に「紀直同祖の大名草彦命の児若彦命を葛津(ふじつ)国造に定め給ふ」とあります。
 この辺の記述は面白い内容を含んでいます。元々景行天皇的人物が九州にいたのではないか、と思われるのですが、紀直の祖までが藤津郡の平定に来ているということは、この辺に土地勘のある人物に違いなく、すなわち若彦命は九州育ちだったということで、その父親の大名草彦命も九州だった可能性がでてきます。
 紀の国に祀られている神々、特に五十猛命と丹生都姫命ですが、佐賀県の稲佐神社には五十猛命の上陸伝承があるやに聞いていますし、藤津郡には丹生神社が多く分布しています。また武内宿禰の生誕の地伝承も近くにあります。
 紀氏や丹生氏の東遷も充分考えられますね。


[1866]  はじめまして  [キッコーマン(気功人)]  09/25

豊の国の神社について調査していて、ここに来ました。
あたしは大分市内在住の36才の3人の子持ちのパパです。
HPに徐副の名前があったのがうれしかった。
稲荷神社の狐は嫌いですが、稲穂の神は日本の伝統に通じるので、本当は大好きなんですが・・・
今月のはじめに卑弥呼(シャーマン)一族のルーツ調査を兼ねて韓国の済州島に足を運んでいました。
沖縄のユタや青森恐山のイタコ、四国の巡礼などの形跡は、アイヌ人と卑弥呼一族の繋がりを探る上でとても重要だと感じています。
済州島では沖縄の石垣を感じ、その風景は阿蘇や霧島の風景を見ている錯覚を感じさせました。
「ああ、太古の日本の風景がここには存在するなあ」というのが、わたしの実感です。済州島のハルラ山は神々の山で、今でも山岳信仰がさかんなところです。

本日は時間がありませんので、後日ゆっくり訪れます。
でも、今日ここに来れたことは、きっと神の導くかもしれませんね。
ありがとうございました。


[1865]  訂正  [ヒン]  09/25

×→ミヤズ姫の父
乎止與命を奉った神社です(上知我麻神社)。下知我麻神社は、お母さん。
ではなくて、
○→建稲種命(たけいなだね)の父
乎止與命を奉った神社です(上知我麻神社)。下知我麻神社(しもちがま)は、お母さん。

本地垂迹(ほんじすいじゃく)、天津甕星神(あまつみかぼし)乎止與命(おとよ)、氷上姉子(ひかみあねこ)神社  松炬島は、読み不明、現在残ってない地名
尚、星の宮のご神体は、土甕らしい。


[1864]  オトコにも産のくるしみ   [焼尻紋次郎]  09/25

 タカマガハラから地上の世界(?)にアモなさるとき、偉ァい神様がその次に偉い神様たちに「あんたらが今から行くくにとは『トヨアシハラチイホアキミズホ』のくにですよ」とおっしゃったのでした。
 タカマガハラには鷹がとまっている高い柱(PHALAKA)という意味が隠されていました。『トヨアシハラチイホアキミズホ』も懸け言葉が隠されていましょう。

☆ アキには童神の AKI と農業の AGRI (= AKI )がかかってるみたい。
☆ アシハラには鉄の原材料になる葦と「アシ……ゆるぎ立つ出発」が懸かっている。
☆ アシハラのハラには柱・氏族のXARA・鉄 PHALAN の三つが懸け言葉になっている。
☆ ミズホという表現はイネと葦(とウシを養う茅萱?)……恐らく三つでしょう。
☆ チイホとはそのまま1500でいいのでしょうか。イホには別の意味を感じます。

 「トヨ」が判れば『トヨアシハラチイホアキミズホ』は大略わかるじゃあ〜りませんか。豊とい字をトヨと読ませたり、従来解釈の「トヨム(鳴りひびく)」の侵入を許したことがそもそもの間違いではなかったのでしょうか。
 たしかに……カム・ヤマト・イハレの KAM や スメラ には「有名な」という意味があることはタシカです。だからといってトヨミ(鳥神)という名詞を「トヨム」という動詞で解釈するなんざは……おっと……、叱られそう。

 豊の原意は今からおいかけ回すとして、これは原音「ホウ」が途中でトヨ(恐らくは鳥神)に変ったのではないだろうか。まだ持ち出すのは早いが神輿には「鳳」がとまっている。
 あっしのボケアタマにこんな疑念を誘発させたのが蜥蜴さんの「ホのくに」だったし、今回 HIN さんの「ホシ・カキコ」でした。

 「ホウ」とは「ホの男・ホの神」になります。
 蜥蜴さんは東三河の地名解釈にアイヌ語も援用なさっておられるとかですが、まさか「ホのくに」を「お尻のくに」とは解釈されてはいらっしゃらないと思います。
 「星」……と、漢字を見せつけられるとだれでも STAR を連想するのはあたりまえですが「ホシ」は「ホ神信奉の氏族」、「警護・士」とも解釈できます。
  あっしにゃいま、ホツマツタエの「ホ・マ」がわかりかけています。

 あっしは生まれ育ちは筑豊ですが、血は豊後(ぶんご)のホウざんす。豊はホウっておけないのです。
 豊橋は後世の人造地名だそうですね。でも稲荷で有名な豊川はいつごろつけられた名前だっしゃろ。
 ※ フクロウはイイトヨと呼ばれ「飯豊(いいで)」にも音転しています。
 ※ 日本語の「星」はギリシャ語と同根です。
 ※ 「ヒ」と「ホ」は、古代ではかなり“通音(どっちでもいい)”といえます。

 頼れるものはただひとつ。そんじょそこらに散らばっている地名、人名……そして神さまの名前だけです。どうかミナシャン、漢字よめない紋次郎にいっそうの御理解アマカネ。
 蜥蜴さん、hin さん、お教えはhttp://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/yakbbs.cgi で。


[1863]  小夫天神社  [泊瀬女]  09/25

小夫天神社は元伊勢・倭笠縫邑の伝承地の一つで、泊瀬川の上流部の山地に鎮座しています。
県道・桜井都祁線に面して「倭笠縫邑泊瀬斎宮旧跡伝承地」と記した大きな石碑が建っており、周りは明るく開けています。参道正面の神奈備の山は斎宮山で、麓に小夫天神社の朱塗りの美しい拝殿が見えます。石段を登ると小ぶりの石の鳥居があり、3メートルほどの石垣の上に朱塗りの本殿。境内は広くはありませんが清々しく全体的に優しい雰囲気です。
この神社は崇神天皇の皇女・豊鍬入姫が天照大神を奉斎したといわれる笠縫邑の伝承を持ち、天武天皇の皇女・大来(大伯)皇女が斎宮として伊勢に赴かれる前に1年半の間、潔斎をしたと伝えられる泊瀬斎宮、旧跡伝承地です。
桑山楢敏宮司さんが神職さんや地元役員さんまで引き連れて出迎えて下さったのにはツァーの面々もびっくり。社務所にはお神酒や飲み物まで用意していただいて、全員にお札を下さって恐縮。ここでちょっと面白い事(と言っては申し訳ないけど)がありました。
お祓いを受けて玉串を奉る時、笠から付いて来てくれた古老の細川さんに皆の代表でお榊をあげてくれるように頼んだところ、神社の隅にいた細川さんは困ったように後ずさりし、天神社の役員さんの間にシラーっとした空気が流れました。後で知ったことですが、笠の人と小夫の人は仲が悪いのだそうです。細川さんが笠の伝承をまとめた『笠山秘話』によると、笠と小夫の間では婚姻が禁じられていて、親類縁故すらないのだそうです。これは、もともと笠で守ってきた皇大神宮を崇神天皇の御代に豊鍬入姫をして、小夫に遷したことにより笠と小夫は不縁となったというのです。伝承は現代まで実際に生きているのです。


[1862]  Re[1859]: はじめまして  [Setoh]  09/24

最近サイバーテロですか、はやりそうなウイルスが出ていますね。下記のサイトから駆除ソフトがとれます。
http://www.symantec.com/region/jp/sarcj/data/w/w32.nimda.a@mm.html

上田充夫さん> 卑弥呼は和歌山名草の女王
はじめまして。いいですね。初期の大和王権は狗奴国の流れかなっと思っていましたので、磐余彦に誅された名草戸畔なんか似合いますね。もうすこし肉付けしていきましょう。面白くなりそうですね。お待ちしていますよ。


[1861]  ピンとも HIN とも 発音をお教えアマカネ   [焼尻紋次郎]  09/24

もう、ピンときましたか? なぁ〜〜んちおっしゃいますがネ。HIN さん.おらサッパリわからん。
 こーゆー質問書くと、瀬藤禎祥さんから「愚紋いうな」といつも叱られますが、ワカランものはワカラン。ワカランまま放っておくのはカキコ主に失礼じゃと、おら思うよ。故に愚問なり。

 つぎの発音教えてぇな。場合によってはアンタ(意味はわが親戚)の個人的な発音領域でもヨカ。

 本地垂迹、、天津甕星神、 上知我麻神社、乎止與命、建稲種命、氷上の里、氷上姉子神社 老後玉ひ松炬島、 氷上邑、ミヤズ姫の宅

 こんな愚紋を差し上げたこと、席亭の瀬藤禎祥師にはくれぐれもナイショにお願いします。


[1860]  教えてください  [上田充夫]  09/24

名草神社の社伝では祭神は「名草彦命、名草姫命であり名草彦は天道根命の五代の子孫でその妻の名草姫は紀国造である智名曾の妹」とありますが、先代旧事本紀では、智名曾は天道根命の五代の子孫となっています。また国懸神社宮司である紀氏の系図では天道根命の五代の子孫は大名草比古命となっています。私は智名曾が大名草比古命と同一人物であり、名草姫はその妹と考えていますがいかがでしょうか。しかしなぜ智名曾の名前が消されたのかはわかりません。ご存知の方教えてください。


[1859]  はじめまして  [上田充夫]  09/24

かなり前からこの掲示板のお世話になっている者です。卑弥呼は和歌山名草の女王ではないかと考えています。これからもよろしく。


[1857]  尾張の話?  [桃色蜥蜴]  09/24

ヒンさん
星崎は、取引先があるので、星の宮寄ったことありますよ。
ところでこれって尾張の話?
ミヤズ姫(宮津姫)でてくるし、氷上邑でてくるし、それに、天武天皇は、大海人だったし、丹波絡んできますね。
ヒンさん
この路線もう少し聞きたいです。


[1856]  星の宮  [ヒン]  09/23

星の研究をなさっておられる方がありましたが、
名古屋の南区に、星の宮と呼ばれる珍しい神社があります。

織田信長が、今川に勝ったあと、この地に、星崎城を
築城したので、現在は若干ずれた場所に移されています。
妙見菩薩の本地垂迹説もありますが、
一応、社伝には、創始が舒明天皇9年(637)だそうで、
祭神は、天津甕星神で、あの日本書記で嫌われてる神様です。

さて、現在の熱田神宮の別宮の八剣社の左手に
上知我麻神社があります。これはミヤズ姫の父
乎止與命を奉った神社です。下知我麻神社は、お母さん。
で、この2神は、現在も星の宮に奉られています。
といっても、非常に小さなどこにでもある
普通の村の神社程度です。
もう、ピンときましたか?
実は尾張の初代国造り乎止與命の館のあったところです。
息子の建稲種命と、大荒田の娘玉姫が結ばれ新居は、
対岸の氷上の里(現在の氷上姉子神社)に移り、国造りの役も
移されたそうです。
尾張地名考に縁れば、「景行天皇49年、草薙の剣は氷上邑に留まる、
その後ミヤズ姫老後玉ひ松炬島に社を建てこれを納む」とあり、
松炬島は星の宮の地。
尾張風土記に「草薙の剣はミヤズ姫の宅に奉安してあったが、
後、社地を定めて奉斎す、熱田神宮それなり」

また、星の宮の社紋は、北斗七星の先端に剣が描かれているらしい。
神皇正統記(著:北畠親房)には、「三種の神器が世につたわることは、
日、月、星が天にあると同じ、
鏡は日体であり、玉は月の精であり、剣は星の気である」とあるのも不思議。
また、星の宮には、隕石の伝説もあります。
偶然にも日本書記舒明天皇9年2月隕石と思われる記述あり。


星崎城が築城された為、星の宮自体には、古文書が残っていない。

以上、郷土史家で、代々星の宮の氏子総代をやってこられた方の
著書から抜粋しました。

※中世の妙見菩薩信仰から作創されたのかも
知れませんが、天武天皇はご承知のとおり
天文好きなので、何か道教の関係もあるのかもしれませんね。


[1855]  Re[1854][1849]: はじめまして  [Setoh]  09/23

峰 小雪さん> 神社めぐりをするようになったのは母方の祖母の故郷である淡路島を再訪してから
神奈備も何年も帰っていなかった故郷で伊太祁曽神社の奥宮司にお目にかかってからです。故郷と言うのかそこの氏神の社の土壌と遺伝子を共有しているように感じました。

峰 小雪さん> 石上さまも同じ「淡路島繋がりだぁ」
石上神社(津名郡北淡町任井舟木)現在も女人禁制の掟を守っています。日神祭祀の線上に鎮座しています。磐境信仰の跡があります。船木は『住吉大社神代記』によりますと「大八嶋の天の下に日神を出し奉る」とでています。 とありますね。スゴイ由緒を感じますね。

石上佳孝さん> 私の祖父の故郷は淡路島の群家(ぐんげ)という町
伊弉諾神社の南1km位の所ですね。上記の石上神社も淡路島では北部になりますね。野島海人に関連するのでしょうか。

神社のパワー
昨日、大阪側から金剛山に登り、御所方面へ降りて高鴨神社へ「天降り参拝」をしてきました。
鈴鹿宮司さんに色々とおうかがいしていましたら、昔からある神社(式内社など)は、人間で言うとツボの上に建てられており、磁場が強いとかイオンが多いとか、目には見えないエネルギーが多い場所(断層上?)で、パワーを感じ易いのでしょうと言われておりました。だから遷座先もそのような「場」であればいいのでしょうね。
熊野本宮大社はいかがでしたか?


[1854] Re[1849]: はじめまして  [峰 小雪]  09/23

>Setohさま

歓迎のお言葉ありがとうございます。とっても嬉しいです(^_^)
私は神社めぐりをするようになってまだ一年あまりと本当にビギナ−なので、いつも皆様のご発言を拝読して勉強させていただいております。実は、神社めぐりをするようになったのは母方の祖母の故郷である淡路島を再訪してからで…石上さまも同じ「淡路島繋がりだぁ」、なんて一人で喜んでおりました。私が好きな神社は、伊雑宮、熱田神宮、内宮の風日祈宮、三輪の狭井神社です。

瀬織津姫さま、下鴨神社の御手洗池では優しげな風情でしたが、佐久奈度で感じたのは、激しい大自然のパワ−!です。罪や穢れを抱き取って清らかさを再生させる女神さま…。

>佐久奈度神社神社は祓い神の瀬織津姫命を祭神としているんですよね。天ヶ瀬ダムの関係で、>水辺から丘の上に遷座しています。偏見かも知れませんが、遷座している神社のパワーっ>て弱くなっているように思えますね。

どう考えても佐久奈度神社は元々神社があった場所のほうが川の側ということもあってパワ−を感じますね。今は駐車場になってますが…。今、社殿が建っている場所は高台だけれど川にすら面してないので、清らかだと思うけど、弱いですね。。

それでは、どうぞこれからもよろしくお願い致します。。


[1853] 神社の増改築  [ヒン]  09/22

まもなく、あつたさんの本宮西に、
車のお祓いの社が完成します。
普通は、喜ばしい事なのかも
知れませんが、なんとなく私はいやですね。
異様に、新しく、異様に大きいのが
気になるし、本宮のすぐ左手という位置が
景観を損なっているように思います。
でもまあ、神社も霞食って生きてゆけないしね^0^


[1852]  悲願まで [焼尻紋次郎]  09/22

> 偏見かも知れませんが、遷座している神社のパワーって弱くなっているように思えますね。

☆ その「思える」受像機の開発と享受できるパワーが人類共有の財産になったらいいですね。
  お寺にはそういうパワーはまったく感じられませんかカネ。
  この質問に答える必要はないが「こりゃ愚紋じゃ」と思うと神さまのバチがあたるぞ。


[1851]   彼岸過ぎから  [香具]  09/21

> いいですね。ついでに白木の辺りまで探訪したいものです。

エッ、白木って、芹井と萱森に挟まれた、東を望むと貝ヶ平山(822m)。テヘッ?
小夫か滝倉か和田にベースキャンプを設けて1ヶ月ほど、コモリクしたい感じです。農協さんかミノルタさん協賛してくれないかナ。でも調査したいのは、歴史とも民俗とも、地理、宗教???なんとも決め難い、分類し難い分野ですね。日本学と云いたいところですが『新羅』とみると、もっと広く深い視野を持ちたいところです。

今回わが国が、米国からの謝辞を受けたのは世界中で最下位の順番だったそうですが、そのようなことに拘らず、世界にとって大切な宝を守り続ける国であってほしいです。一神教の方々が心を癒しに訪れる『日本の森や里山』を残すことも世界への重要な貢献かもしれません。
(・・・だから、こんな山中に産廃を捨ててほしくないなァ。目に余りますねん。)


[1850]  無題  [Setoh]  09/21

 連休明けの9月26日(水)に物部系神職さんお二人を交えての梅田の酒場での懇談会を予定しています。今のところ「神奈備」と「吉野」の「ようこそ」コンビが参加の予定です。
ご興味のおありの方は瀬藤までご連絡下さい。


[1849]  Re[1846][1848]: はじめまして  [Setoh]  09/21

香具さん> 私も巻向から笠まで歩いてみようと予定していますので参考になります。
いいですね。ついでに白木の辺りまで探訪したいものです。

石上佳孝さん、峰 小雪さん、いらっしゃい。
石上佳孝さん> 大阪で内科医、物部氏にまつわる苗字
中性脂肪が一桁多い神奈備としては心強い気分ですね。「物部氏とのつながりを感じさせる地名が残っており、神話伝承の多い土地柄です。」そうですね。淡路島は古代史の特異点のように見えますね。淡路島の物部の役割ってなんだったんでしょうね。また色々お話下さい。

峰小雪さん> 香具さま 佐久奈度神社、とてもダイナミックなパワ−を感じる場所でした。
香具さんからは、凄いダイナミックなパワ−を感じますよ。佐久奈度神社神社は祓い神の瀬織津姫命を祭神としているんですよね。天ヶ瀬ダムの関係で、水辺から丘の上に遷座しています。偏見かも知れませんが、遷座している神社のパワーって弱くなっているように思えますね。


[1848]  はじめまして  [峰 小雪]  09/21

皆様はじめまして。峰 小雪と申します。
以前からこちらのHPはずっとROMさせていただいていたのですが、このたび勇気を
持って、はじめて書き込みさせていただきます。浅学な私ではございますが、どうぞ宜
しくお願いいたします。

>kokoroさま
先日から熱田神宮に何度か参拝させていただく機会が多いので、大変興味深く拝読して
おります。また10月の始めに訪れようかなと思っていますので、ワクワクしてます…

>泊瀬女さま
実は私もその神社からご案内を戴いていて、行きたかったのですが一人での参加を躊躇
してしまいました。今になって行けばよかったと後悔しています…。小夫天神社に行き
たかったです。

>香具さま
どきどきの初カキコです。。先日訪れた佐久奈度神社、とてもダイナミックなパワ−を
感じる場所でした。どうして本殿は川に面してないのでしょうね!今、駐車場になって
いる場所にあった時の方が本来の姿だったような気がしてなりません。轟々と流れる川
の中瀬に行きたくて行きたくて仕方なかったのですがサンダルばきだったので断念しま
した(^^; 川にはいりたかったなぁ。。


[1847] 巴  [ヒン]  09/20

今、興味あるのは、実は瓦でして、
ふつうに歩いている時も
瓦をみるようにしています。
そんな関係から、自然『巴』のデザインにも興味もちます。
こちら様の↓の、ページは興味深いです。
http://www.genbu.net/sinmon/tomoe.htm
名前忘れたけど、北極星=太一の《一》が、変化したのでは?
という説も見ました.

桃色蜥蜴さん、弓道の時、やはり鞆絵は、使われますか?


[1846]  はじめまして  [石上佳孝] 09/20

 はじめまして、突然の書き込み、失礼させて頂きます。
私は石上と申す者で大阪で内科医をしております。
 このページは以前物部氏について調べていた時に気づき素晴らし
いページだと感嘆しいつか投稿してみたいものだと考えておりま
した。
 古代に興味を持ちはじめた理由は、私の苗字にあります。
ずいぶん以前に、石上太郎、孝太郎とおっしゃる民間の研究者の
方が「石上氏族の研究」と題する小冊子を、どこで調べられたのか、
私の父宛てに送ってこられ、それを読んで自分自身のご先祖
の事に興味を持ちはじめたのがきっかけで、以来古い神社・仏閣
などを折りに触れたずねるようになりました。
 もうお気づきの通り、私の苗字・石上(いしがみー古くはいその
かみ)は、物部氏にまつわる苗字で、先にどなたかの書き込みに
もありました、奈良・天理の石上神宮につらなるものです。尤も
私の祖父の故郷は淡路島の群家(ぐんげ)という町で、代々阿波・
徳島の蜂須賀家の剣術指南の家系であったと聞いております。
 面白いことに、この郡家の町は石上という名の苗字の人が大変
に多く、以前町の町内会の方におたずねしたところ、町じゅうで、
年に一度天理の石上神宮にお参りする、という風習があるそうです。
もともと淡路には、物部村など、物部氏とのつながりを感じさせ
る地名が残っており、おのころ島伝説があるなど、神話伝承の多
い土地柄です。また北淡町には石上(いわがみ)神社という、い
まだに女人禁制の社もあります。一度行ったことがありますが、
昔はやった巨石ー太陽信仰云々の由来を示す説明板が立ててあり
ましたが、素人目にもこれは山腹に造成された古墳の石室が表面
に露出したもののように見うけられます。石上に関連した権力者
の墓だったのでしょうか?ちなみに発掘調査されたような痕はあ
りませんでした。
 とりとめのない話を書き散らしましたが、今後ともこのページ
を楽しみにしたいと考えております。どうぞよろしくお願い申し
上げます。


[1845]  Re[1844]: 笠の伝承  [香具]  09/20

kokoroさん、一連のご投稿を興味深く拝読しています。
毎回、次の展開が楽しみで、ワクワクして待ってます
ひとシリーズの区切りがついたところで参加させて下さいね。ウズウズ・・・・。

泊瀬女さん、笠へ行かれたのですね!
私も巻向から笠まで歩いてみようと予定していますので参考になります。
続きを期待してます。ある意味で、都祁よりも秘境といえるのかな。

>その話をしてくれた笠の古老は・・・
細川 甫 氏・・・『笠山秘話』を執筆された爺さんでしょうか?
この方を訪ねようと思っているのです。

>笠の名物は蕎麦・・・美味しかったですよ。
場所は異なりますが、檜原神社の特製柿シャーベットは、まだ?


[1844]  笠の伝承  [泊瀬女]  09/20

三輪山・巻向山・竜王山などが連なる大和青垣の東、初瀬川上流の一帯は上の郷と呼ばれます。上の郷は神の郷であり、古い祭祀にまつわる伝承が多いと聞きます。
著書「大和の原像」で小川光三氏は「こもりくの泊瀬の国」「こもりくの泊瀬小国」とは上の郷あたりを指すのではないかと書いておられます。となれば泊瀬女としては何らかの縁を感じるわけで・・・
かつて、初瀬川の最上流部の笠・竜野・和田・滝倉・小夫の五村を小夫郷といい「古へは
笠縫邑と云へり」とのことです。
小夫(おおぶ)は多部で神八井耳命の苗裔の地とされます。
笠で有名な神社は笠山荒神社ですが、境内の雰囲気は寺院です。社伝には記されていませんが、ここは天照大神の皇居のあった・・・のだと土地の古老は言います。皇祖である天照大神がお住まいになった場所だから皇居。その話をしてくれた笠の古老は皇居を守っていた警備隊長の末裔なのだそうです。
飛騨の位山に生まれた天照大神は笠の地に移って来られ、織物を主とした産業を興し、特に一族の女たちが織るトンボの羽のように薄い縮れた美しい織物(秋津師々か?)は大陸にまで輸出され、その利は後の大和朝廷の基盤になった・・・と。
天照大神の本拠地であったから、笠の人は伊勢参りしなくても良いと云われているそうです。
この伝承を聞いて感銘を受けたある人形作家の方が、笠山荒神社の近くの丘の上に神社を建てました。神社といっても小さなものですが「大倭皇女宮」と名付け、先日「元伊勢伝承地巡り」ツァーの人達も参加して創祀のお祭りをしました。中央に天照大神、右に天之忍穂耳命と栲幡千千姫、左に皇女たち。皇女とは笠に住み、美しい織物を織った天照大神の一族の女性たちだそうです。ツァーの予定表に「大倭皇女宮」とあって、小夫郷にそんな神社があったかと調べてみたけど分かりませんでした。分からないはずですわね。
笠には興味深い伝承が多く伝えられているようで、ただ今、調査中。
笠山荒神社に着いてカメラを構えたらシャッターが降りない。前日チェックした時は大丈夫だったのに・・・結局、上の郷では写真が撮れませんでした。ということは「また、おいで」ということかな? ちなみに次の日になったら、シャッターは直っていました。変なの〜〜。
笠の名物は蕎麦、笠山荒神社境内でいただきましたが、美味しかったですよ。



[1843]  Re[1842]: たかし君  [Setoh]  09/19

 さすが『三河』の蜥蜴さん、ものづくりの「かよ」さん、おくわしい。かよさんには、05/02の[992] でも教えて頂きました。紋覚えの悪い年代で・・・
『東三河の古代金属文化を探る』これには丹生のことも触れていますね。
和歌山では「ツチダンゴ」で ゆうんよいしょ。
○「紀伊續風土記」物産一、《「古事類苑」、金石部五、玉石下、p323、神宮司庁、明治44年(1911)8月》による/なお、「国書総目録」によれば、「紀伊続風土記」の著者は仁井田好古、成立は天保10年(1939)
土殷*1(ツチダンゴ) 本草
那賀郡名手荘市場村、日高郡南部荘山田村、牟婁郡田邊荘鉛山村等に産す


[1842]  たかし君  [ヒン]  09/19

えっと、新型のComputerウィルス発生だそうです。皆さんお気お付けください。
知らない人の添付ファイルは、開かない!
>>昨日、22時ごろから国内のwebサーバへの攻撃、新種ウィルスの増殖が急激にひろがった。
 これらの一連の被害は、Nimda と呼ばれるウィルスのしわざによるものと思われる

★高師小僧 ・・・ もう少し探求してみよう!という方はお立ち寄りください↓

http://village.infoweb.ne.jp/~fwif4861/2001-9-19takasi.htm


[1841]  高師小僧  [桃色蜥蜴]  09/19

紋の旦那
酸化鉄が植物の根などに付着して、管状になったものです。
豊橋市高師町あたりで産出したことから高師小僧の名がつきました。
漢名だとドインケツ(字は難しかった)
東三河では、細葉(イヌマキ?)の実も高師小僧といいます。
なお、地名・高師は、高足等とも表記されます。


[1840] 『波動のきわみ』発売近し [焼尻紋次郎]  09/19

 『ユー・アイカラー』でのハイライト、加藤喜八郎さんが、このほど第二回めの校正
を終えられ、10月末に「たま出版」から『波動のきわみ』として発売されます。\ 1300

 カンナリ現象の側面とか、別観測かもしれませんね。


[1839]  高師小僧をお教えあれ   [焼尻紋次郎]  09/19

 高師小僧とはどういうもんですか? なぁ〜んもシランおらにお教えアマカネ。
 TO 「ほにゃらか」ね。起源が「高い・柱」に関係あると思えてなりまへん。
 朝鮮語 YAT は「浅い」だと聞いたことがあります。「ヤチ(沼沢)」は東北と北海
道の和人でも、今でもさかんに使われています。小さなうぐいに似た魚を「ヤチユ」と
いいます。 YU =魚 です。
 ヤチ(沼沢)は、どこまでアイヌ語といえるかワカラン語彙です。
 
 ヤツガレについてはおらが存念書きやす。


[1838]  ご教授感謝  [桃色蜥蜴]  09/19

さっそく祝園神社見てみました。
いろいろ見えてきました。
それと、メールで教えてくれた天白神、出典当たってみます。
私も、ちょっと、外れてるように思いますが、検討の価値はあると思います。
検討の上、掲示版使わせていただきます。


[1837]  Re[1835]: 青玉  [Setoh]  09/18

桃色蜥蜴さん> 河内青玉関連の神社
直接には出てきませんが、京都府相楽郡精華町の祝園神社の近くに、武埴安彦破斬旧跡の石碑が建っています。別に江戸時代には長髄彦説があったようです。


泊瀬女さん> 大神神社:三つ鳥居を覗き込んでいました。
よかったですね。檜原神社のと同じ様な形状でしたか?
鳥居の開いている所を蓋をしていりるのですから、神様が出てこれないように封じてあるとの説がありましたね。

ヒンさん> 古代にもどらなきゃ!
面白いですよ。鎌倉幕府までは古代と言ってもいいんでは。


習志野のてつさん、谷津の情報ありがとうございます。神社の話題は全部ローカルですよ。ろーかるをネットでつなぐ、これ神奈備掲示板の役割。
 これ本当はkokoroさんにサジェッションを頂きました。


[1836]  Re[1831]: 谷津は誰だ ヤツガレ?  [習志野のてつ]  09/18

> 丹生神社の「ニフ」については
> 「澤」と言う言葉は、朝鮮語で「ニフ」と09/01 でカキコしましたが
> 千葉県習志野市谷津に丹生神社が鎮座していますね。
> この谷津はヤツとよむんですが、おそらく昔は「澤」的な所…

 ヤツガレ、習志野市は谷津に住んでおります。
 神奈備さんのご明察通り、谷あいの地、習志野台地のはずれです。
 江戸の人口が増えて、「食料も増産、魚も取らなければ」とあの
 紀州から、漁師が大挙移動します。新しく村が出来、村に鎮守の
 神様が必要になります。そこで元居た地域の偉い神様を勧進。
 したのでは?と思っています。  今度まじめに調べてみます。
 こんなローカルな話題ですいません。

 ローカル話その2
 千葉県のほぼ真ん中に茂原市があります。小学校の遠足で行った時、
 農家の庭先で、天然ガスが出ているのを見学しました。昔からの湿地
 だったようです。ところがこの茂原市の中心街は、高師(たかし)と
 云います。昔は全く思い付きませんでした。今はあの高師小僧があっ
 た為にこの地名になった、と思っています。

 ローカル話その3
 明治6年4月29日、明治天皇は大和田原で行われた演習を天覧。
 この時一方の指揮をした篠原国幹少将の真に見事な指揮ぶりに感銘。
 「習篠原」(篠原に習え)という御言葉を賜った。この御言葉から
 『習志野原』と、明治6年5月13日に改名、「習志野」の故となった。


[1835]  青玉  [桃色蜥蜴]  09/18

宗像との関連で青玉が気になってます。
埴安彦の母は、河内青玉の娘(埴安姫)ってなってますが、河内青玉関連の神社を教えてください。


[1834]  泊瀬女、泊瀬でヘロヘロ  [泊瀬女]  09/17

先週、大和へ行って来ました。ある神社が企画した「元伊勢伝承地巡りの旅」のツァーに参加してみました。団体行動が苦手な私は神社巡りの旅はいつも一人ですが、この時期ヘビが怖くて一人で山奥の神社には行けません。それで団体旅行。
今回は“笠縫邑伝承地”数ヶ所をワイのワイのと大騒ぎで歩き回り、結構楽しい旅でした。台風の真っ只中に出かけたのに、大和はお天気が良くて暑くて。
1日目は檜原神社、笠山荒神社、小夫天神社、滝蔵神社とお参りして初瀬で泊まり。
2日目は大神神社で神楽奉納を拝見し、昇殿参拝。若くてきれいな巫女さんの神楽を拝見して、お祓いを受けながら横目で三つ鳥居を覗き込んでいました。だって大神神社の拝殿の下からでは三つ鳥居は見えないんですもの。神社企画の旅なので、良い思いもさせてもらいました。
飛鳥坐神社、秦楽寺境内の笠縫神社、志貴御県神社を廻ってツァー終了。
お天気にも恵まれ予定の神社巡りは無事終了と皆で喜んでいたら、上空に虹がかかりました。この「元伊勢伝承地巡り」は10年計画で全部廻るんですって。
解散後、私は奈良に居残り、3日目に多神社と周辺摂社、糸井神社。4日目には等彌神社、長谷坐山口神社、長谷寺、渟名城入姫神社と行って来ました。与喜天満宮はあの石段を登る気力がなく、泊瀬川にかかる橋の上からお山を拝して失礼しました。
もう、暑くて暑くてヘロへロでした。
飛鳥坐神社は見違えるほどきれいになっていました。以前この掲示板で書きましたが、吉野の丹生川上神社上社がダム工事のため移転し、旧社殿を移築して飛鳥坐神社を建てなおしたそうです。各神社の詳しいことは改めて書きます。


[1833]  神社による古代史C 「石上振神宮略抄より」  [kokoro]  09/17

 9月13日の『神社による古代史B』の続きです。
 まず、『石上振神宮略抄(享保5年写)』から、大和国山辺郡の式内社、出雲建雄神社の縁起であるAと、同じく夜都伎神社の縁起であるBを、それぞれ引用します。

●A「石上振若宮は出雲建雄神也、此神は日本武尊帯オビる八握剣の神気御名也、旧名天叢雲剣アメノムラクモノツルギ申、熱田祝部尾張連等掌ます神是也、天智天皇御世、新羅の僧道行ドウギョウ、件ノ宝剣を盗逃げしが、境を出る事不能、難波浦にすて帰りしが、国人宝剣を取り大津宮に献上する、天武天皇都を浄見原に遷さる時、大殿内に留座すか、朱鳥元年(686年)六月宝剣の祟に天皇病給い、熱田神宮え送り遣さる、其の夜、石上神宮神主布留宿邑智フルスクネオフチが夢に東の高山の末に八雲がのぼり其の中に神剣光を放ち国を照す、其剣の本に八ッの竜座す、明旦彼地に到て見れば霊石八箇出現す、小童に託して曰く我は尾張連女が祭れる神なり、今是地に天降りて帝都を保ち諸の氏人を守らしむ、宜ヨロシク敬ひ祭れよ、仍て神託の随に神殿を造りて神を斎い奉る。出雲建雄神と申奉る」

●B「夜都留伎の神は八伎大蛇の変身にて神躰は八の比禮小刀子なり。仍て八剣の神と申す。神代の昔出雲の簸谷の八伎大蛇は一身にて八伎あり尊(素戔男尊)剣を抜きて八段に切断し給しか八つ身に八つ頭か取付八つの子蛇となりて天へ昇りて水雷神と化為て聚雲の神剣に扈従して当国布留河上の日の谷(属都祁郷)に臨幸ありて鎮座す(八龍王八箇石是也)。」

 出雲建雄神社は現在、石上神宮の楼門向かいにある石段を上ったところにあります。『式内社調査報告』では、都祁村大字白石にある雄神神社等も論社としてあげていますが、いずれにせよ、祭祀面で神宮との繋がりを感じさせる神社です。夜都伎神社は、天理市乙木町宮山にありますが、もともとは、現夜都伎神社の東南、約500mのところにある十二神社が本来の当社であったようです(詳しくは、『式内社調査報告』等参照)。
 さて、Bの冒頭をごらん下さい。夜都伎ではなく夜都留伎=Aヤ・ツ・ル・キになっています。このことについて、『日本の神々4大和』は次のように述べています。
「現夜都伎神社の東方には『石上振神宮略抄』に「夜都留伎は水雷神で日ノ谷に鎮座する」とある「夜都留伎」神に比定される長滝町日ノ谷(火の谷)の龍王社があり、ごく最近まで乙木の人々は、旱魃のとき雨乞のために竹之内峠を越え、そこに詣でていたという。この龍王社を現夜都伎神社の上社的存在と考えるなら、「夜都伎」は本来「夜都留伎」であった可能性もある(「夜都伎神社」の項、P320)」
ヤツキがヤツルキである例としては、十市郡の式内小社、屋就ヤツキ神命神社を、『大和志』が八劒神と称した例があります。これは附会の説と思われますが、いずれにせよ、ヤツキ神はヤツルキ神であるという観念があったことが伺えます。そして、もしも夜都伎神社が夜都留伎神社であるとすれば、八剣宮と夜都伎神社の両式内社は、ともにヤツルキ神社であったことになります。両社には何らかの関係があるのでしょうか。
 前回のカキコで僕は、八剣宮の伝承等から、次の@〜Bを抽出しました。
 @八剣宮にある剣は草薙剣の表象で、八剣宮の祭祀は熱田神宮のそれを二重化したといえる。
 A天智7年の草薙剣の盗難事件と天武朱鳥元年におけるその返還に関係があるらしい。
 B八剣宮の八≠ヘ数詞であることを説明しようとするこだわりが感じられる。
@についてですが、まずAとBを比較します。ごらんのとおり、それぞれ7世紀後半の出来事と神代の出来事とされ、内容も当事者も違うために全く関係がない感じです。しかし、注意してみると両者には共通項も少なくありません。まず、祭神が剣に関係していることがあげられます。また、出雲が関係していること(Aの「出雲建雄神」、Bの「出雲の簸谷の八伎大蛇」)、神聖な八個の岩石がでてくること(Aの「霊石八個」、Bの「八個石」)もそうです。さらに、Bには祭神が降臨した場所が、布留川上流の日の谷≠セったとあり、そこには八個石≠ェあるとされます。Aには日の谷のことは出てきませんが、祭神の降誕した場所には霊石八個≠ェ出現したとあります。もしも、霊石八個≠ニ八個石≠ェ同じとすれば、出雲建雄神が降誕した東の高山の末≠焉A日の谷だったことになるでしょう。実際、『吉田神祗管領裁許状』(享保7年)という古文書に、「布留川上日谷山武尾大神」とあり、ここでいう武尾大神≠ヘ出雲建雄神社のことと思われるため、当社も日の谷と関係があるのは確かです。したがって、日の谷もAとBの共通項です。
 しかし、こうしてみると、出雲建雄神社と夜都伎神社は、同じ日の谷に降臨した祭神(神剣)を重複して祭祀していることになります。となると、@の、八剣宮による熱田神宮の祭祀の二重化と同じ事態が、ここにもみられることになります。しかも、夜都伎神社は夜都留伎神社と表記されている訳ですから、これは八剣宮に該当します。このアナロジーでいくと、出雲建雄神社の方が熱田神宮に当たる訳ですが、しかし、Aで降臨した出雲建雄神は、自分は「尾張連女が祭れる神だ」と名乗っています。つまり、熱田神宮の祭神と同体だと明言している訳で、ツジツマが合うのです。
 ★ 八剣宮 / 熱田神宮 = 夜都伎(夜都留伎)神社 / 出雲建雄神社
 Aについては、天智7年の草薙剣の盗難事件と天武朱鳥元年におけるその返還がAの中で出てきます。したがって、出雲建雄神社と夜都伎神社の祭祀にもまた、この事件が関係していると思われ、Aもまた両社に附合するのです。
 Bについては、Bの最初の方で夜都留伎神の御神体は、八の比禮小刀子(ヒレが8っある小刀子)≠ニされています。Bには八つ身に八つ頭か取付八つの子蛇となり≠ネどという文章もありますが、ヤツルギのヤ≠数詞の8とするB的なこだわりにおいて、八剣宮の伝承類と共通するものを感じさせます。とまぁ、長々と書いてしまいましたが、尾張と大和にあるこれら二組の神社に、非常に強い繋がりがあることは間違いないと思います。以後のカキコでは、これを前提にして考察を続けることになるでしょう。
 なお、僕は今出てきたこの「八の比禮小刀子」が実在すると考えています。しばらく先のことですが、八剣宮に祀られている宝剣とはこの小刀子のことで、もとは夜都伎神社にあったものを和銅元年に八剣宮に遷座したのではないか、という話を予定しています。
 次回は、祭祀氏族の面から八剣宮と出雲建雄神社及び夜都伎神社の繋がりについて考えてみるとともに、平城京造営と八剣宮の関係についても考えたいと思います。そこでは、Aで降臨した出雲建雄神が「小童」であったこと、「帝都を保ち」と言っていること、Bで退治された八伎大蛇が「八つの子蛇」になったこと、それが「水雷神」と化したことが、重要な手がかりとして大きく取り上げられる予定です。
☆日の谷という、この神秘的な場所については、この春に香具さんが探求されていました。日の谷について、Bでは、出雲で八伎大蛇がいた場所が簸谷だったことになっています(もちろん、記紀では簸の河上となっていて、簸谷は出てこないです)。したがって地名転移として捉えられているのが面白いです。


[1832]  中世の真清田社と一宮制  [ヒン]  09/17

またまた、中世の事は、書いていかんかも・・・
名古屋短期大学の上村喜久子先生の論文『中世の真清田社と一宮制』から引用。

ちょっと、私がアレンジしてカキコ・・・
愛知県の尾張には、真清田社と大県社と熱田社という大きな神社が
あります。これが、同じ海人族ながら3つの勢力に尾張氏が分かれている
あらわれです。
さて、古代の国家があたえていた神階は、
いつも熱田社一番。ついで、同率2位が、真清田社と大県社。
ところが、中世に入りますと
この順位が微妙に入れ替わります。
もう、国家が諸国の神社の面倒を見る時代が終わって
自分の経済的基盤は、自分でさがせ!の時代に入ったからです。
でもって、真清田社は、リッチな鳥羽上皇と美福門院の愛娘
八條院の所領「真清田社荘」に含まれ、その下請けみたいな
預領が(現地の支配権)、平氏になったわけです。
真清田社が一宮におどりでたのが、この平氏がバリバリの時だそうです。

史料に出てきたものとして
853年1、熱田 2、真清田社と大県社
859年1、熱田 2、大県社 3、真清田社
865年1、熱田 2、真清田社 3、大県社
1143年 「大県宮」を「二宮」と醍醐寺文書に出てくる
1165年 「一宮 二宮 熱田社」一宮 二宮 の名前が無いが、二宮を大県社
とすると、自然 真清田社が一宮になる。  
このように熱田社は、3位に転落。
熱田社は、源氏方でした。
また、各社領は、尾張国中に散在していて、
神社付近のみではありませんでした。
3社の社領も入り組んでいました。

・真清田社荘の領家は次々に変わっています。
祇園女御(白河寵姫)→池禅尼(平忠盛室)→平頼盛→光盛
→光盛女宣旨局→久我通相室→久我家領(京都の中流階級貴族)

・大県社 鳥羽上皇領 社務藤原伊通
社家:良峰氏・・・平氏と姻戚

・熱田社 白河上皇皇女上西門院領
社家勢力:大宮司藤原氏・・・源氏と姻戚
既に愛知郡を中核にしながら尾張全域にわたる勢力信仰圏を形成
皇室・国司の崇敬もあり、あえて国衙との結びつき不要

中世一宮制・・・国府に地理的に近い。国衙支配との関係濃厚。ゆえに
国司・在庁官人らの守護神。(伊藤邦彦氏説)


※こんな関係からか、現在の 真清田社を訪れても
熱田社とは、雰囲気が随分違います。

古代にもどらなきゃ!


[1831]  谷津は誰だ ヤツガレ?  [Setoh]  09/17

丹生神社の「ニフ」については
「澤」と言う言葉は、朝鮮語で「ニフ」と09/01 でカキコしましたが
千葉県習志野市谷津に丹生神社が鎮座していますね。
この谷津はヤツとよむんですが、おそらく昔は「澤」的な所(低くて水が溜まり、蘆(あし)や萩の茂った土地)だったのでしょう。
 一方、五十猛命の別名大屋彦命の妹神の大屋都比賣命は大谷津姫命と表現されることがあります。(群馬県太田市熊野町の熊野神社。)谷津の神という共通点がでてきました。
 五十猛命と丹生都姫を祭る神社の分布で、川上に丹生神、川下に五十猛命というのがありそうで、どうも無関係な神々とは思いにくい所です。共に、紀の国が本拠の神様ですから。


[1830]  Re[1817]: がんばってください!  [kokoro]  09/17

 ヒンさん、こんばんわ(おはようございます)。プレゼントありがとうございました。木曜日から日曜日まで旅行に行っていたので、レスが遅くなりました。

>アツタさんは、遠い昔、学生のころ学校帰りに毎日寄りました。

 アツタさん≠ニいういい方は、スミヨシさん≠ニか、オオミワさん≠ニ同じで、何ともいいですね。

>剣にゆかりのある神社なのに剣の匂いとか、戦いの匂いのしない神社なのも不思議です。

 僕もそう思います。公園のように開放的な感じですよね。僕の最も好きな神社です。都市計画法に則って整然と造られた住宅と広い道路の中に、神宮の大きな敷地があって、中にはいると嘘のように深い森があって、樹齢千年以上の巨木がいくつもあって、水が湧いていて…。都会の中にこれだけ自然が≠ニいう点では明治神宮も同じですが、歴史を感じさせる点ではかなわないでしょう。それと、やはり海に近い場所の雰囲気があるんですよね。

>kokoro さん、どんどん頑張って調べてくださいね。楽しみに読ませていただきます。

 がんばります。下のカキコはすごく参考になります。ありがとうございます。


[1829]  草薙剣  [ヒン]  09/16

ここは、古代史サイトなので
以下のカキコは不適切とは思いますが、kokoroさんに
プレゼント。
「米英軍占領下の名古屋」中西薫氏著:日本近代郷土史研究所刊から
抜粋してみました。ところどころ省略してあります。




名古屋の熱田神宮は、三種の神器の一つ
草薙剣が祭られていた関係で
戦時中は「武道の神様・軍国の大神様」として
全国各地から多くの人々の信仰を集めていた。

・・・戦地に出征する軍人の中で帯刀を
許されている高級将校たちの間では、
・・「弾除けの戦勝祈願」と称して古くなった軍刀や太刀
を熱田神宮に奉納するものが増加するようになった。
敗戦後の熱田神宮には相当量の軍刀や刀剣類が保存されていた。


それを察知した米軍の武装解除特捜隊は、
・・・軍刀のすべてを・・・没収した。
その数、約150口。米軍トラックに積み込まれて
持ち去られた。

特捜隊は、ご神体である草薙剣はじめ
由緒ある古代刀なども・・・強引に没収しよとうとした。
たまたま通訳官をしていた筆者の父が懸命に
なって、『熱田神宮が昔から大切に保存してきた
これらの宝刀類は、軍人の軍刀と
同一のものでない」ことを何度も当時の日本史や伝説を
引用して説明した。

・・「熱田神宮で永年にわたり保存されているご神体の
草薙剣は、『天むらくものつるぎ』とも呼ばれ日本人の
文化と伝統のシンボルになっている貴重な最高の
歴史的文化遺産であって、武装解除の対象になるような物件ではない。

もし米軍が三種の神器の一つである草薙剣を没収すれば
日本国民はもう黙ってはいない。
恐らく日本各地でゲリラ戦や大暴動が発生し、
再び日米双方でおびただしい数の死傷者が出る事は確実である。
・・・略」米兵に理解させようと必死の思いで補足説明を加えた。

・・・米軍には、「熱田神宮で保存されてきたご神体である
本物の草薙剣は、太平洋戦争の末期から戦火を避けるために
東京の皇居にお移しして、厳重につくられた地下壕で大切に
保管されている。その代わりレプリカなら保管しているので
進呈してもよい」と偽って伝えた。

これは予め米軍の手入れのあることを予測して、
すでに宮内省から愛知県知事に対して極秘命令が
だされていたからである。
それは昭和天皇のご意志として「熱田神宮の
神剣・草薙剣だけは、我が国の国体維持のために
何としてもまもらなくてはならない。
神剣の守護のためには、天皇御自ら我が身を
捨てて全力を傾注したい」と侍従長に漏らされていたためである。
・・・・非常手段として、通訳官にこのような偽りの
対応をさせたのであった。

米軍兵士は、立派なレプリカの草薙剣を見て
ますます本物の神剣を没収したがった・・・
地下室の奥まで入り込んで徹底的に捜査を実施した。

米第25師団は、この草薙剣を戦利品として
没収してボストン美術館で展示するため血まなこになって
捜査していた。
・・・大和民族の伝統文化遺産になっていた本物の
草薙剣は、日本人の面子にかけても米軍の手に
渡す事だけは絶対に阻止しなければならなかった。

疲れたのでまた後日へつづく


[1828]  くやしい  [桃色蜥蜴]  09/16

今日は、氏神の陰祭(旧祭)
惜しくも二番金
三番落として、射上げ落としてるから実質『金皆中』だったのに
氏神に扁額上げれませんでした。
くやしい
※金皆中→役弓全部当てたこと、金的のみは金的中


[1825]  Re[1821]: 桃色蜥蜴 さんに追いつくには30年早い  [Setoh]  09/15

ヒンさん> 億計王・弘計王の逃亡経路伝承地

意祁命、袁祁命は葛城の曽都毘古の血をうけており、かつ近江、丹後、播磨の方面から支援を受けています。息長氏も日矛の末裔です。
よく似たコンビの意祁都姫命、袁祁都姫命も姉妹で、彼女達が彦坐王から息長氏へつなぎ、やはり葛城の血がはいって息長帯姫の登場となります。

 葛城王朝が欠史八代であったかどうかは別にしても、大和の古い豪族である葛城氏と渡来系の氏族が手を組んで、王権の把握を行ってきたように見えますね。

ヒンさん> 日下部一族とも縁が深い

雄略天皇と葛城の一言主神の物語や日下部の家を焼こうとします。雄略天皇への抵抗勢力だったのでしょう。与謝から伊勢へ豊受大神を遷座したのも雄略朝で、別名大宣都比売神ですから、なんらかの関連があったのかも。

億計王・意祁命・仁賢天皇 と 弘計王・袁祁命・顕宗天皇 を祭神とする神社
 京都府与謝郡加悦町与謝 上宮神社「億計王」
 京都府与謝郡加悦町与謝 下宮神社「弘計王」
 神戸市西区から明石市方面25社には両王が祭られています。


[1824]  答えになっていませんが  [桃色蜥蜴]  09/15

狭手彦さん
答えになってなくてすみません。
そのあたりのことを地元のヒンさんに期待してるんです。私も
ヒンさん
昨日から田原は、傘鉾祭りですよ。
田原(渥美郡)になると地理的にも、砥鹿神社とは、関係薄いと思います。
やはり、砥鹿神社となると世襲神官の草鹿砥氏(狭穂彦末裔)と、その同族のトガリ氏です。


[1823]  Re[1818]: 真清田神社って  [狭手彦]  09/15

> 真清田神社やってくださいよ。期待してますよ。
桃色蜥蜴さん、初歩的な質問ですが、
尾張国一宮在の真清田神社と尾張国造尾張氏の熱田神宮とは、古代にはどのような
役割分担があったのでしょうか。
一宮市近辺には、尾張氏とは別系統の氏族が繁住していたのでしょうか。


[1822]  地名は民族のたからもの [焼尻紋次郎]  09/15

 市議会レベルでもまだ地名の意味が分かってない……由々しき大事件です。
 ボケは谷や傾斜地のボケでしょうか、四国のボケは有名ですよね。アチラは完全なネパール語系
語彙で意味はやっぱり「あっちのほう」です。TIRA(○○のほう)。
 日本列島には沖縄から北海道旭川までストーン・サークルが連綿として続いていますが、それら
しき地名すらないので、どんな氏族の群れがあったのか、手がかりも掴めません。
 ボケだろうとアチャラカだろうと、現代感覚に合わないからといって、消してしまえば永久に
「かけがえのない刻印」が失われます。イヤなら現代語のほうを換えてでも、地名は護るべきで
す。

 なお、下記「ほにゃらか」で、日本語講座ともいうべきカキコ尻ズをおっぱじめました。
 「日本語とは、朝鮮語とは、アイヌ語とは世界のなかでどういう位置を占めているのか」から
始めてなぜ紋次郎はネパール語なのか、その今後の展開はどうなるのか……等々をテーマにしま
す。質問、反論、大歓迎よ。
ほにゃらか・掲示板」; http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/yakbbs.cgi


[1821]  桃色蜥蜴 さんに追いつくには30年早い  [ヒン]  09/15

桃色蜥蜴 さん、億計王・弘計王の逃亡経路伝承地は、たまたま秦氏居住地と重複
するし、日下部一族とも縁が深いようですね。
この間発刊された『古代氏族三宅氏の研究』鳥海ヤエ子氏
は、田原藩三宅氏を中心に書いてありますが、
アメノヒボコを集団でなく、個人としてとらえていますね。
砥鹿神社と三宅氏の関係はどうでしょうか?

★たまたま見た、京都新聞から↓記事有り。
かぐや姫の里に近いのかしら??
京田辺市は十三日開かれた九月定例市議会の一般質問で、京田辺市田辺地域の地名「ボケ谷」「アチラ谷」について、「地名変更したい」との方針を示した。しかし、他の地域については「一律的な地名変更は適切ではない」と慎重な姿勢を示した。


[1820]  鶏と卵  [Setoh]  09/15

 神社の由緒とは難しいもので、藤原氏系の神主が就任すると、由緒の中に藤原氏や中臣氏の事柄が注入されたとか読んだことがあります。
 また某神社では神主さんからどう考えてもあの原田さんの『古代日本正史』からの引用としか思われない話を聞かされてうんざりしたことがあります。
 大和葛城の名神大社であった高天彦神社の由緒には、もともと葛城王朝などの言葉は使われていなかったのですが、最近は鳥越憲三郎さんの『神々と天皇の間』に記述された内容が、由緒書きの中にも反映して来ています。これが時間が経てば、高天彦神社の由緒から葛城王朝の存在を証拠立てるとこになったりするのかも知れません。


[1818]  ひんさんも頑張ってくださいよ。  [桃色蜥蜴]  09/14

ひんさんも
真清田神社やってくださいよ。期待してますよ。
おれ、砥鹿神社担当しますから
尾張と三河(俺は東三河の穂の国だけど)やりましょうよ。
kokoroさんも頑張ってください。


[1817]  がんばってください!  [ヒン] [Url] 09/14
kokoro さん、すごい勉強というか御研究ですね。
ほんとに感心してしまいます。
アツタさんは、遠い昔、学生のころ学校帰りに
毎日寄りました。・・・境内の中に『きよめ茶屋』が
あって、ぜんざいやら、お抹茶などいただいてました。(今なし)
剣にゆかりのある神社なのに剣の匂いとか、戦いの匂いの
しない神社なのも不思議です。kokoro さん、どんどん頑張って
調べてくださいね。楽しみに読ませていただきます。


[1816]  神社による古代史B 「神剣の二重化など」  [kokoro]  09/13

 理不尽な事件は衝撃的でした。我が国の経済に与える悪影響等、不安要因を数えだしたらきりがないでしょうが、今のところは、発表される犠牲者の数ができるだけ増えないことを祈ります。

 9月8日の『神社による古代史A』の続きです。
 八剣宮に祀られている剣については、前回、「目くらましの剣」や「生不動」等の説話を紹介しました。しかし、そのほとんどは史実として受け取るには無理があります。

「天野信景は、熱田神宮の概略を問答体で説明した『熱田神宮問答雑録』(一七〇四)の中で、八剣宮の御神体について、
 問、大宮固ヨリ寶劒ヲ安ス、何ニ依テ重テ新劒ヲ別處ニ奉ズルヤ、
との質問に、
 答、叡旨難知、例ヲ以テ云者大和國石上神社ハ、神宮御抄ニ依レバ、素戔嗚尊所持ノ霊劒ヲ安スル由シナリ、然ルニ日本紀ニ、垂仁天皇ノ時五十瓊敷命一千口ノ劒ヲ石上ノ宮ニ納メラレシ事有リ、八劒宮モ亦如此ノ例歟、(「神道大系」神社編『熱田』による)
と回答する。石上神宮で本来の御神体とは別に新しい剣が奉納された例は在るとはいうのだが、本当のところは「叡旨知リ難シ」、即ち全く分からない、としている(『八剣宮奇聞』P7)。」

 嗚呼、叡旨知リ難シカナ…。確かに、前回紹介した伝承等から八剣宮の創祀について、確実な答えを得るのは難しいでしょう。とはいえ、そこで言われていることからは、次の@〜Bが言えると思うのです。

@神剣の二重化
 八剣宮の祭祀に関する最大の謎は、「大宮固ヨリ寶劒ヲ安ス、何ニ依テ重テ新劒ヲ別處ニ奉ズルヤ」、すなわち、本宮に草薙剣が祀ってあるのに、なぜ重複して八剣宮で別の剣を祀っているかです。ところで上記の『熱田神宮問答雑録』は、本来の御神体とは別に新しい剣が奉納された例として、石上神宮の場合をあげています。しかしこれは例証として不適切ではないでしょうか。確かに、現在でも石上神宮では、第一相殿にフツノミタマ、第三相殿にフツシミタマ、と別の剣を祀っています。しかし、前者は国譲りや神武東征で活躍した剣、後者は素戔嗚尊が八俣大蛇を退治した剣で、同じ場所で祀られているということ以外、特に関係はありません。これに対し、八剣宮にある剣には、目くらましの剣の伝承に端的に現れているように、草薙剣のコピーであるという観念が抜き難くあるのです。つまりこの剣は、単に別の剣ということではなく、草薙剣の表象であり、八剣宮の祭祀は本宮における草薙剣の祭祀を二重化したものらしいのです。古くから八剣宮の祭神が本宮と同一であるとされてきたことも、こうした二重化の現れと思われます。

A天智7年の草薙剣の盗難事件と、天武朱鳥元年におけるその返還との関係
 八剣宮の伝承等には、天智7年の草薙剣盗難事件と、天武朱鳥元年におけるその返還のことがよく出てきます。前回のカキコで指摘した、盗まれることと盗まれたものを取り返すことへのオブゼッションです。明らかに、これらの事件と八剣宮の創祀とには、何らかの関係があると思われます。ただし、その一方、この関係は理解に苦しむものです。朱鳥元年における草薙剣の返還は、熱田神宮に還座したのであって、八剣宮に還座したものではありません。したがって、そのままでは@の神剣の二重化という事態は必ず生じないはずなのです。おそらくこのことは、八剣宮の祭祀について考える際、昔から人を悩ませてきたものと思われます。「生不動(七ふとう)」の説話で、道行による盗難の後日談が登場するのは、@の二重化を説明しようとして、史実にない物語を追加したのでしょう。
 ところでこれは余談ですが、草薙剣における盗まれることと、それを取り返すことへの偏執は、別の説話からも確認できます。そもそもこの剣は八伎大蛇を退治した時、素戔嗚尊が大蛇の尾から取り出したものです。ある意味でこれは大蛇からの宝剣の窃盗です。これに対し、井沢蟠竜の『公益俗説弁』に次のような奇怪な俗説が載っています。すなわち、安徳天皇は壇ノ浦で合戦に敗れ、祖母の平時子に抱かれて8才で入水した悲劇の天皇ですが、彼は八俣大蛇の化身で、入水したのは草薙剣を取り戻すためだったというものです。

B八剣宮の八≠ノついて
 八剣宮ハッケングウは式内八劒神社の遺存の社で、本来、その読みはヤツルキ神社でした。ヤが美称であることは広く知られています。したがって、八劒神社のヤ≠焉A美称の弥≠ナあると考えるのが無難です。しかしながら、これまで紹介した八剣宮に関する伝承等は、八剣の「八」は数詞で、八口の剣が祀られているとしたケースが多いのです。こうした俗説は、真に受け過ぎると危険ですが、何かこだわりのようなものを感じさせます。したがって、@やAほど重要な問題ではないかもしれませんが、八剣のヤ≠ヘ要注意です。
 なお、たいへん参考になる『愛知のやしろ』第19号(平成7年8月)所載の、大原和生氏作成が作成された「八劒神社(社)分布表」によれば、福岡県には実際に弥剣神社という神社が5社あります(『八剣宮奇聞』もこの事実を指摘します)。これらの弥剣神社が古社であれば、八剣のヤが弥であった痕跡と見なせるかもしれません。しかし、玄松子さんに調査をお願いしたところ、「福岡の「弥剣神社」は、柳川・大牟田など、福岡西部にあります。が、ほとんどが無格社で、由緒不詳です。唯一、柳川に村社がありましたが、その由緒も不詳となっています。創立は寛永17年とありますから江戸初期ですね。ただ、無格社の弥剣神社も含めて、祭神は素盞嗚尊です。周囲には八剣神社も存在しますが、祭神は素盞嗚尊ですね。北九州市周辺(福岡東部)に散在する八剣神社は日本武尊ですが、これらは熊襲征伐の古事によるものでしょう」と、行き届いた返事を戴きました。どうやら、福岡県の弥剣神社は式内社に匹敵するほど古くはないようです。

 次回はこうしたことを足がかりに、大和の式内社、出雲建雄神社と夜都伎神社の伝承からヤツルキについて考えていきます。
☆八剣宮に関する文献については、7月に訪れた熱田神宮宝物館内にある熱田文庫の職員の方々に相談にのってもらいました。ありがとうございました。


[1815]  Re[1814]: 丹波???  [Setoh]  09/12

文明の衝突を目の当たりにみるようなニュースですね。やはり多神教のほうが平和ですね。

> 丹波には、カニメイカズチっていうのもいましたよね。

 崇神天皇の後継ぎは垂仁天皇で、木の国の女の子の豊城入彦命が東国を治めるとことになりました。豊城入彦命の子は彦八綱田王ですが、父親より先になくなっていたような気がします。同じく、東国を支配しに行った倭武尊も父親の景行天皇より先になくなっています。共通点です。
また不思議なのは、豊城入彦命ー彦八綱田王ー・・の系列が東国を治めることになっているのに、わざわざ倭武尊が赴くのも不思議ですね。で、先に死ぬ、東国統治、と言う共通点から、彦八綱田王と日本武尊は同じ人物の物語だったかも知れません。八綱田は功があり、倭日向武日向彦八綱田と言われたと『日本書紀』であります。この名前からも倭武命、日本武尊を連想させます。

 所で出所を忘れたのですが、カニメイカズチさんも八綱田や倭武命と同一説がありましたね。


[1814]  丹波???  [桃色蜥蜴]  09/10

kokoroさん
尾張は、壬申の乱の折、天武側であったこと、また、天武は、大海人、その子は、クサカベであったことから丹波の海人と関係があったと思われます。
記紀の草薙の剣、どうも額面通りには、受け取れないのではと思います。
熱田社の記録から、真実が見えてくるのでは
瀬藤さん
かぐや姫情報ありがとうございます。
丹波には、カニメイカズチっていうのもいましたよね。


[1813]  Re[1806]: 国津神のゆくえ  [Setoh]  09/10

星はスバル 

> 星神等の国津神的な信仰の一部は、修験道や密教の中に埋没
昔ハレー彗星が来たときに大きい望遠鏡を買って南紀太地の保養所から覗いて見た事を思い出しました。一日目の夜はよい天気でよく見えたのですが、カメラをセットした翌日の夜は大雨でした。
また、世界の湿極と云われる日本の気候は秋や冬は星空はきれいに見えますが、年間を通じて星を楽しむのはあまりよい処ではなさそうですね。スバルの星数も地域によって違うように云われます。

 北斗七星で思い出すのは和歌山新宮の徐福公園にある不老の池の七柱です。徐福の重臣7人に例えられて和、仁、慈、勇、財、調、荘の文字が刻まれて、そこの石橋は北斗七星の形に渡されています。これは七重臣の墓が北斗七星の形に配置されているからだそうです。(新宮徐福協会発行「徐福」から)

 徐福は道士です。道教では朱書きの「北斗」は白刃を恐れず、負傷もしない魔除けでもあり、人々の生死を司る天の神のシンボルだそうですね。


[1812]  Re[1804]: 丹波  丹波の銅玉?  [Setoh]  09/10

なにがしさん> 丹波と玉依姫と関係なかったでしたっけ?

玄松子さんの賀茂御祖神社のページに次のようにあります。
日向国曽の峰に降臨した賀茂建角身命は、神武天皇を先導して大和の葛木山に宿り、さらに山代国岡田の賀茂に移り、その後、久我国の北山基に鎮座。
丹波国神野の神伊可古夜日売を娶り、玉依日子・玉依日売が生まれた。云々。引用以上。
丹波の玉依姫とは賀茂別雷命の母、賀茂別雷命の父は乙訓社の火雷神。

玉依姫とは玉に憑り来る姫神とか玉に依り来る神の託宣を聞く巫女の神格化されたものでしょうが、普通名詞でしょうね。この前多くの神主さん方と同行したのですが、中には土産物屋の「玉」に関心を寄せる方がおられました。じっと見ていると託宣が降りやすいようですね。

この丹波国神野の神伊可古夜日売とは垂仁記の、大筒木垂根王の娘・迦具夜姫とよく似た名前ですが、KAG(銅)矢or野姫すなわち銅姫と云えるなら、丹生都姫の側面もありますね。


[1811]  Re[1809]: 9月9日  [kokoro]  09/09

桃色蜥蜴さん> 九月九日っていうの何かありそうですね。天武の命日ですよね

 桃色蜥蜴さん、始めまして。これからもよろしくお願いします。
 ここで言われている9月9日は、『尾張志』で、多治比眞人池守と安部ノ朝臣宿奈麻呂等が勅使として八剣宮に宝剣を奉ったとされている日のことですね(話が見えない方がいたら詳しくは、9月4日の『神社による古代史@』を参照してください)。天武天皇の命日だったとは気が付きませんでした。この奉献が天武天皇の命日にされたと考えると、八剣宮の創祀は天武天皇の遺志と関わりがあった感じがします。このことは今後のカキコで、深く考えてみたいです。ありがとうございました。

 setohさん、お疲れさまでした。『ソシモリ・クマナリを訪ねて』、拝読しました。現地に、素盞嗚尊が五十人の兵士と妹を連れて出雲へ渡ったと云う伝承があるという話に驚倒します。それから、春川の牛頭山が比定されているのが古墳であることも面白いです。今後、素戔嗚尊を見る目が変わりそうです。


[1810]  二重の神奈備山  [Setoh]  09/09

半島は三角形の山が多いように思います。
その神奈備型の山からのラインが直交する処に古代の祭祀の跡と見るべき離俗山法住寺がありました。ソウルの王宮跡もそのような立地のように見えました。
もう一つは日本で生まれたとの伝承のある武寧王の古墳の立地は、神奈備山の真後ろにもう一つの神奈備山が見える処でした。
日本ではあまり見かけないような二重の神奈備山の祭祀形態があるのは面白いところです。


[1809]  9月9日  [桃色蜥蜴]  09/09

kokoroさん
九月九日っていうの何かありそうですね。
天武の命日ですよね。


[1808]  蘇途を目撃しました  [Setoh]  09/09

キムチ旅行から帰阪いたしました。
半島の南の方の田舎で、蘇途(柱の上に鴨の模型をのせてあるもの)を目撃しました。
南洋の鳥干と言うものと同じようですがこれは写真しか知りません。
ルーツがどこかは決められませんが蘇途は殆ど滅びていますが、日本では逆に鳥居に発展し、かつ形式が多様化のコースをたどったのかも。


[1807]  神社による古代史A 「八剣宮奇聞より」  [kokoro]  09/08

 9月4日の『神社による古代史@』の続きです。
 八剣宮については、いささか荒唐無稽なものも含め、伝承や附会の類が少なくありません。今回はそれらについて、辻村全弘氏の浩瀚な『八剣宮奇聞』(平成12年11月『あつた』第188号所載)を引用して紹介します。まず、八剣宮には盗難防止のため、草薙剣のダミーが祀られているという説話があるのですが、それから。

 「伊勢の外宮禰宜・度会行忠が著した『伊勢二所太神宮神名秘書』(一二八五)には、伊勢神宮と関わりの深い熱田の記述も見られるが、その中に、

 其草薙劒今在尾張國熱田社也。沙門道行盗−取之。赴異國。逢風雨不達先路。有霊威被送熱田社。自爾以降。造−加於劒七柄天 為八劒宮也。(『度会神道大成』前編による)

とある。盗難事件(kokoro※天武天皇7年にあった新羅の僧、道行による草薙剣の盗難事件のこと)があった後、草薙剣還座のおりに新しく七口の剣を造り加えたのが八剣宮だとする。これだけでは何のことだか分かり難いのだが、吉田兼右の注釈書『日本書紀聞書』(一五六七)では、

 ……其後チ劒ヲ七ツ打テ、熱田宮ニ籠メ玉フ。本ノ劒ニ可紛謀リコト也。已上本體ノ劒ト八ツ有ル也。故ニ其ノ宮ヲ八劒宮ト申也。(「神道大系」古典注釈編『日本書紀注釈 下』による)

と理由を説く。草薙剣に添えて剣を七つも置けば盗賊の目を欺けるというのである。古代エジプトのピラミッドで、墓泥棒に備え偽の棺や宝物を一緒に納めた事例なども連想してしまう。面白い話ではあるが、勿論、史実としての実証はできない。また、この説でも、草薙剣は他の七剣と同所、つまり八剣宮に奉安されていることになってしまう(P9)。」

 こうした目くらましの剣という説話は、かつてかなり世間に流布したらしく、江戸期の儒者、長久保玄珠(赤水)の旅日記『長崎行役日記』(一七六七)には宿で耳にした風聞として同様の話が載っています。また、内容は微妙に違いますが、『熱田草』(一六八六)や『熱田社伝』(成立年不詳)にも、それぞれ目くらましの剣の話がみられます。引用は控えますが、興味のある方は『八剣宮奇聞』をご覧下さい。
 それにしても、真偽のほどはともかく、こうした八剣宮に草薙剣のダミーが祀られているという説話の根強さは、僕に衝撃を与えます。それはこうした伝承を生んだ背景として、道行による盗難事件の記憶がオブゼッションとなり、長く尾を引いていたことを感じさせるからです。だがしかし、この盗まれることのオブゼッションは、実は盗まれたものを取り返すことへのオブゼッションと一対ではないでしょうか。というのも、八剣宮に別の剣が祀られている理由の説明として、正史にはない、道行による盗難の後日談を説くものがあるからです。

「『平家物語』の屋台本や百二十句本に収録されている「剣巻」(鎌倉時代成立カ)には草薙剣の伝来を記すが、盗難事件にも触れて、

天智天皇七年に、新羅の帝より沙門道行を渡して、「この剣を盗まん」とせしを、住吉の明神蹴殺し給ふ。なほ望みをかけしゆゑ、生不動という聖に七つの剣を持たせ、日本に渡さる。尾張の國へ着きしかば、熱田の明神蹴殺し給ふ。七つの剣、御剣にくわえて宝殿に斎はれけり。今の「八剣の大明神」これなり。(百二十句本・新潮日本古典文学集成による)

とある。正史のとおり、道行の窃盗は失敗に終わるが、「住吉の明神」に蹴り殺されたと記す。新羅へ向かう途中、暴風雨に妨げられたのを航海の神であり、神宮皇后の三韓征伐にも関わる住吉の神の神慮と捉え、説話的な制作がなされたのであろう。
 「剣巻」には、後日談として別の窃盗未遂事件があったことも載せる。道行を日本へ遣わしたのは新羅の帝であったのだが、あきらめきれない。再度、生不動という僧に七口の剣を持たせ尾張に盗みに遣わすが、熱田明神に蹴り殺されたされたと云う。七剣は取り上げられ、草薙剣と一緒に奉安された。それが八剣宮だとするのである。この説話では草薙剣も八剣宮に祀られていることになり、事実と反するのだが、盗難事件と八剣宮創祀の関係が巧く説明されてはいる。また俗説にある「八口の剣」の由緒も納得できるようになっている(P7〜8)。」

 この後日談の変奏で、ものすごく荒唐無稽な説話が『御伽草紙』の「熱田の神秘」です。

「しんらのみかと、つるきをはとりへすして、たうきようをはころしたまへぬ、はらをたゝせ給ひて、てんちくより、しようしんの七ふとうを、いのりくたして、日ほんこく、をしよせ、あつたみやうしんを、うちまいらせんとし給ふとき、みやうしん、このよしを、てんせう大しんへ、申させ給ふ、ちからをあはすへしとて、九万八千のいくさかみをもつて、御たゝかいありしかは、大みやうしんよろこひ給ひて、さて、七ふとうをうはひとり、七ふとうけんともとのけんにあひそへ、八けんのみやうしんと、ゆわゝれ給ふ、(「神道大系」神社編『熱田』による)」

 ここでは、生不動は人名ではなく、「しやうしん(生身)の七ふとう」で、道行の失敗にも諦めきれない新羅の帝が、祈祷によって呼び出した七体の不動明王とされ、この七ふとうが日本に押し寄せ、熱田明神を討ち負かそうとします。明神はこの危機を天照大神に伝え、大神は共に力を合わせようとて、九万八千の戦神をもって戦い、その結果、七ふとうを奪い取り、七ふとうの剣と草薙剣を合わせて八剣明神といったそうです。つまり七口の剣は、石仏等でおなじみの、不動明王が右手に持っている例のあの剣という訳です。
 なお、こうした不動明神のモチーフについて『八剣宮奇聞』は、「曾て神仏習合で、八剣宮の本地は不動明王とされた(『熱田宮秘釋見聞』・『熱田大神宮秘密百録』)。『平家物語』剣巻や『熱田の神秘』で「生不動(七不動)」が登場するのは、その影響からであろう(P11)。」と注釈しています。
 『八剣宮奇聞』によれば、八剣宮とそこに祀られている剣については、この他に、道行が自ら鍛え奉納した八口の剣(『雲州樋河上天淵記』)、日本武尊自ら鍛え奉納した八口の剣(『熱田大宮鎮座記』)、素戔嗚尊が大蛇を斬った十拳剣(『熱田大神宮秘密百録』)、十種神宝の八拳剣(『尾州神宮秘伝』)などの説があります。しかし、こうした説話のほとんどは史実として認めがたいでしょう。
 次回は、こうした中で八剣宮の伝承類からいえることを、僕なりに分析してみます。


[1806]  国津神のゆくえ  [ひふみ]  09/07

子供の夏休みが終わって、親子共々、夏休みボケから回復するのに、時間がかかってしまいました。気がつけば、あっという間に一週間過ぎていました。過去ログをまとめて読んでいたら、聞き覚えのある近所の神社(ここ山奥では、車で一時間くらいの距離は、みんな御近所です)がいっぱい出ていたので、嬉しかったです。楽しみがいっぱい増えました。ありがとうございます。

ところで、星神に関してですが、正直私も調べ始めたばかりなので、資料的にはほとんどないです。ある本には、日本には、月や星の信仰はなかった、月読命の伝承が少ない事やカカセオが悪神として書かれていたりする事が証拠だ、といわれている方もいるようです。ただ、記紀等がやはり、朝廷側からの記述である以上、そういう信仰がないとは、やはり言い切れないでしょう。
私としては、星神等の国津神的な信仰の一部は、修験道や密教の中に埋没、もしくは隠されたのではないかと思っています。江戸時代の隠れキリシタンのように。
ここ大和の地は、朝廷にあまりに近すぎ、体制に組み込まれない神々は、そう言う形で伝承されてのかもしれません。(熊野の地も、またしかり。)
主人は、修験道に興味があるのですが、その話を聞く度、そう感じられます。
役の行者や空海の出自を考えると、まるっきりない話ではないと思うのですが。
そういえば、余談ですが、大峰の奥駈道は一部重要な部分が、北斗七星の形をしています。奥駈けの伝承中にはないのですが、主人は、何度か歩くうちに気がついて、帰ってから地図で確認して驚いたそうです。ちょうど、北極星に当たる所に、高野山があったのですから。空海も、高野山以前に、大峰を歩いているから気が付いていたのでしょうか。


[1805] 「ソシモリ」の語源  [焼尻紋次郎]  09/05

 ドンがいないあいだ、みんなでワイワイおもろいことしてあそぼと画策しました。でももう酒は飲んだしィ、キツネまでつれてきてポンポコ囃しもやりました。
 考えてみると、このごろ小生はドンから叱られてばかりでした。ここはおとなしくおべんきゃうといきましょう。テーマは「ソシモリ」。

  ソシモリの語源 ; http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/yakbbs.cgi


[1804]  丹波  [なにがし]  09/04

丹波と玉依姫と関係なかったでしたっけ?以前丹波・玉依姫の話を聞いたような???
しばし、書きこみお休み致します。日曜には復帰致します(出張続きで、月曜広島泊、本日自宅、水曜東京日帰りでそのまま広島泊、木曜広島廻って大阪泊、金曜大阪で会議後淡路泊、土曜淡路廻って夜おそく帰宅しさらに仕事、日曜朝早くから野球の試合、多分死ぬかも?これが仕事ではなく観光で廻れたらと思う今日この頃であります)。
そんなこんなで、ご返事書かないといけない件が何件かあるのですがしばしお待ち下さい。ご容赦を<(_ _)>


[1803]  Re[1802]: ソシモリ  [習志野のてつ]  09/04

> 熱田神宮の摂社に曽志茂利社「居茂利大神」 という小祠がありました。
> ソシモリの名からは素盞嗚尊か五十猛命を祭神としている…

熱田神宮宮庁発行の『熱田神宮』と云う新書版の本が有ります。その本に
 よれば末社曽志茂利社『祭神は「居茂利大神」といい、素盞鳴尊の別名で
 ある』と明記されています。しかし不思議なのは、西面する南新宮社の摂
 社の位置にあって、南面していること。
 @「天子は南面す」とある様に、通常南面するほうが偉い
  もちろん熱田神宮の本宮も、別宮・八剣宮も南面です
 A南新宮社の「祭神は須佐之男命」としている事
  須佐之男命を素盞嗚尊が守るとの構図になってます。
 日本書紀では、「ミコト」でも、いと尊きを「尊」、それ以外「命」と
 書くはず。玄松子さん説=神名が違うのは別の神=か、よく分からない
 
 席亭いぬまに勝手に紹介、神奈備さんの曽尸茂梨(ソシモリ)考
 http://www.kamnavi.net/it/sosimori.htm 
 ソシモリを訪ねてのツアー帰ってきての変化・更新が楽しみ。


[1802]  ソシモリ  [Setoh]  09/04

kokoroさん、こんにちは。ゾクゾクするお話ですね。楽しみです。

熱田神宮の摂社に曽志茂利社「居茂利大神」 という小祠がありました。ソシモリの名からは素盞嗚尊か五十猛命を祭神としているのでしょうが、祭神名からは飯盛にも通じるような気がします。
玄松子さんのHP対馬にありますが、那祖師神社と言う、これまたソシがついている神社があり、祭神を曽尸茂梨、または素盞嗚尊、五十猛命とあります。ソシとは半島のソト、ソテとよばれる柱を立てて祭ったもので、モリとはその頂上であるとかの説があります。高い柱の所は一種の駆け込み寺のような役割があったようで、高天原を追放された素盞嗚尊についていった五十猛命はチャッカリ木種を持ち出しています。追っ手から逃れるには丁度よかったかと思っています。
 もうひとつは戦前に朝鮮総督府が神社をつくろうとした江原道春川に牛頭山という小丘があります。ソウルの東北百kmだそうで、ここには舟を作るのに良いとされた楠の木が生えているのかの確認をしたいと思います。

 と言うことで、明早朝から土曜日まで、ソシモリを訪ねてのツアーに参加して、またまた席亭はさぼりに入ります。


[1801]  神社による古代史@ 「八剣宮という神社」  [kokoro]  09/04

 今日から新学期!! 夏休みの自由研究の提出があります。僕の課題は「神社による古代史」。

 神社の由緒を調べていると、正史になかったり、あるいはそれとやや異なる伝承にぶつかることがあります。こうした伝承は宗教的な色付けがされていたりして、全てを真に受けることはできないものですが、しかし、いくばくかの歴史的事実がそこに含まれている可能性も否定できないのではないでしょうか。そうして、それらを正史の記述に対する神社の側からの異議申し立てとして積極的にとりあげてゆけば、「神社による古代史」という新しい事態が発生するものと思われます。しかし一体、「神社による古代史」は可能なのか。以下、八剣宮という神社を取り上げてその方法を試してみます。

 熱田神宮の一の鳥居を入ってすぐ左に八剣宮ハッケングウという神社があります。当社は、尾張国愛智郡の式内社、八劍ヤツルキ神社の遺存の社で、平安末期には正一位に進んで本宮と並ぶ崇敬を受けていました。現在でも別宮と称され、熱田神宮の多数ある摂末社において別格の扱いを受けています。祭神は、異説もありますが、古来から熱田神宮と同じ祭神であるとされてきました。ちなみに熱田神宮の祭神は正殿に鎮座している熱田大神で、これはヨリシロとしての草薙剣に憑依した天照大神のことです。また、相殿には天照大神、素戔嗚尊、日本武尊、宮簀媛ミヤズヒメ命、建稻種タケイナダネ命の五座を祀ります。いずれもこの名高い剣にゆかりのある祭神ばかりです。
 『式内社調査報告 第八巻 東海道3』P598にある当社の社伝を引用します。

「元明天皇の和銅元年(708年)九月に朝廷より熱田神宮に勅使が差遣され、西夷降伏の祈願がなされた。その際、新造の宝剣が奉納せられ、この時に八剣宮が奉斎されたという」

実を言うとこの社伝、最初はよく分からなかったのです。というのは、まず西夷≠ナす。西夷とは西にいる朝敵≠フ意であるとして、当時の西日本に、そのような勢力があったことは知られていません。また、仮にそのような存在があったとして、どうして名古屋の神社に西夷降伏の祈願をするのでしょう?
 元禄十二年(1699年)に熱田神宮が尾張藩へ提出した概説書、『熱田神宮旧記』に次の一節があります。

「別宮八劍宮
 天智七年、本宮神劍、依外賊之難、出邊境、竟奉移帝都、至天武朱鳥元年還座、造−建別殿、比草薙劍徳、祝八洲安國、稱八劍宮祭之、或曰、縁日本武尊東征、神劍留於尾張國、亦嘗撃熊襲國、東西太平所向無前、崇、其神威、拝−祭八劍宮」

 その内容は、「天智天皇7年に熱田神宮の草薙剣が賊による盗難を受けたが、天武天皇の朱鳥元年に返還された。その際、草薙剣に比すべき徳をもつ剣を別殿に祀り八劒宮と称した。八劒宮とは八洲(日本)安国にちなむ名前ともいう。(或曰≠ニして)日本武尊は東征の際、東の鎮のために草薙剣を尾張国に留めておいた。しかし、日本武尊は西の熊襲も討っており、その事跡にちなみ、西の鎮として八劒宮を祀ったと推定する。」というものです。
 さて、どうも社伝の西夷降伏の祈願≠ヘ、当該或曰≠ノよるのではないでしょうか。僕の調べた範囲のことですが、ここ以外の箇所で、八剣宮に関して西夷降伏の祈願≠示唆していそうな文献は見あたりません。もちろん、僕の知らない文献が存在する可能性もありますから、決めつける訳にはいきませんが…。とにかく或曰≠ェ西夷降伏の祈願≠フ根拠だとすれば、これは『熱田神宮旧記』の筆者が仮説のひとつとして紹介したものにすぎないのですから、絶対的にこだわる必要はなさそうです。とりあえず、西夷≠ノついてはそういうことにして先に進みます。
 社伝に戻ります。「元明天皇の和銅元年(708年)九月に朝廷より熱田神宮に勅使が差遣され<中略>その際、新造の宝剣が奉納せられ、この時に八剣宮が奉斎されたという」のもとになったのは、『尾張志』にある次の記事でしょう。

「大宮の南に坐す延喜神名式に愛智ノ郡八劒ノ神本國帳貞治元亀二本ともに正一位八剣名神とあるこれ也元明天皇の御代和銅元年九月九日勅命によりてあらたに寶劒を齋蔵奉りて多治比眞人池守安部ノ朝臣宿奈麻呂等勅使として参向てことさらにかく八劒神とたこへり祭り給へり」

 さて、この記事では、差遣された勅使の名前まで出ていますが、それは多治比眞人池守タジヒノマヒトイケモリと安部ノ朝臣宿奈麻呂アベノアソンスクナマロ等であったとあります。そして、これは極めて重要な記述なのです。というのも、同じこの二人は和銅元年の9月30日に造平城京司長官に任じられているのであります(『続日本紀』)。つまりこの人事が決定したのは、二人が八剣宮へ宝剣を奉ったわずか2〜3週間後なのです。これはチョット偶然で済みそうにありません。つまり、『尾張志』の記事を真に受けたとすれば、宝剣を奉ったことと、二人が平城京造営の最高責任者のポストに任じられたことが、何らかの理由によって繋がっていると思われるのです。
 この和銅元年9月頃というのは平城京造営の直前夜です。『続日本紀』のページをめくると、この頃にこのことと関連のある記事として以下の3っがあります。
@9月20日 元明天皇が平城ナラに巡幸してその地形を視察
A10月2日 宮内卿・正四位下の犬上王を伊勢神宮に遣わして幣帛を奉り、平城京造営の報告をした。
B12月5日 平城京の地鎮祭を行った。
 こうしてみるとこの時期、AやBにような平城京造営に関わる宗教的な儀礼が集中していたことが分かります。とすれば、八剣宮の創祀もそうした儀礼の一環だった可能性があるでしょう。こうした八剣宮と平城京造営の関連性≠ニいう問題は、かなり後になるかもしれませんが、また検討することになると思います。とまぁ、そういうことで、今後、連載というかたちで、この八剣宮の創祀について取り組んでいきたい思います。


[1800]  Re[1795]: 稚日女尊  [Setoh]  09/03

> 面白そうな神名が並びました。
> 若彦命という大名草彦命の子が、肥前国風土記・景行天皇筑紫行幸に登場します。

本当ですね。大名草彦命とは紀氏系図では、武内宿禰の母の山下影媛の父親である宇遅比古の父親の名前と同じです。
肥前国と基山のある国で、紀氏の和歌山以前の居住地の有力候補です。
こうなると、弟橘姫の沈んだ走水の海とはますます関門海峡が似合う名前らしく思われますね。

のりちゃん、ありがとう。カンナリを聞ける人はアジスキタカヒコネの神に関係のある人だけです、と聞きましたよ。


[1799]  瀬藤先生貴重な情報アリガトウございます。  [桃色蜥蜴]  09/03

足助八幡宮縁起の熊野云々
あれ、紀州の熊野って決め付けちゃいけなかったんですね。
丹波の熊野って考えれば、すんなり納得。
何で今まで気がつかなかったんだ。
目からウロコ落ちました。記念に身体に貼りつけときます。
桃色蜥蜴のウロコが一枚増えました。
それと、和泉の日部神社の情報もアリガトウございます。


[1798]  無題 [マルヤ]  09/03

>それはともかく、上記祭神名と由緒の祭神名から単純に「丹生川上=丹波之河上」となります。
>丹波とは丹生のことであったとなります。マルヤさんの昨年末の発想はズバリですね。
Setohさん
恥ずかしながら確たる裏付けがあって書いたのではないのです。
でもありがとうございます。

>>マルヤさん 鉄と水 (H12.12.9)>  丹生都比売神社の略記では、(糸織からの連想で)織物の祖神と説明があります。
 出典は忘失(小林惠子氏の著書だったか?)しましたが古代韓国語では 
「依(ヨリ)」・・・・・・・泉、 沼の意味
「糸織(イトリ)」・・・・・鉄の泉の意味---------があったとか。
文字だけで見れば織物と関係するように思われますが、丹生都比売の場合は織物よりも、金属に関係の深い神だと考えていました。


[1797]  Re[1795]: 稚日女尊  [玄松子]  09/03

僕も補足。

> 稚日女尊(ワカヒルメ)が織物を織っていた女神ですね。天照の子、あるいは妹とされていますが、部下あるいは分身という説もありますよね。

素盞嗚尊が機殿に馬を投げ入れた時。
『古事記』では、機織していたのは天照大御神で、死んだのは、天の服織女(ハタオリメ)。
『日本書紀』本文では、天照大御神が機織していて、驚き、身を傷つけたのも天照。
『日本書紀』一書(第一)では、機織していたのも、死んだのも稚日女尊。
『日本書紀』一書(第二)では、機織していたのは日神(天照)で、死傷者ゼロ。
『日本書紀』一書(第三)には、このシーンはない。

ということで、機織は天照大御神の本業かな。
この後、天岩戸隠れのシーンとなり、岩戸から出てくるわけで、天照大御神が傷つき、あるいは、分身である稚日女尊の死は、世代交代、再生を意味するプロットですね。


[1796]  Re[1794][1791][1790][1773]: のりちゃん  [のりちゃん]  09/03

> > アメノワカヒコというと、「七夕物語」を思い浮かべてします。
> のりちゃん、これもう少し解説がほしいですね。

失礼しました。
簡単に説明しますと、
「ある娘が大蛇の妻となるが、この大蛇は、アメノワカヒコの化身であった。
アメノワカヒコは、ある日天に帰ってしまうが、娘は追いかけていく。
いろいろな妨害にあった末、二人は再会を果たすが、二人の間を天川で分かたれ、年に1度
の逢瀬を許される」というのが、「御伽草子版」七夕物語です。
ここに、「織姫」など「機織」を示す言葉は出てこないのですが。

> ついでですが、カンナリ、同伴の方々も聞こえたといっていましたか?
> 聞こえない人もいるそうですが・・。

ええ。私も旦那もはっきり。
ただ、自分で叩いた音は判別しづらいですね。
自分で拍手を打つと、「耳」と、「体を伝う振動」で音を聞いてしまうので、「カンナリ」
なのか、「振動」なのかわからないのじゃないかと思います。

> >「ワカ」と名前につく2神が、神話上で亡くなったたった2柱の神である
> イザナミノ命、オオケツヒメの命、ヒコホホデミ尊も神話上でなくなっています。

これも書き方が悪いですね。
「黄泉の国へ向かわれた」「おかくれになった」などの表現でなく、「死んだ」という表現
をされた神様だそうです。
と確認してみたら、ウケモチの神は、「死んでいた」となっていますね。
カグツチもウケモチの命も純粋な「死」というより、再生のための「死」なのですが。
やっぱり「死」は「死」ですね。


[1795]  稚日女尊  [玄松子]  09/03

> > 絶命した女性の名前が「ワカヒメ」。ニュウツヒメの別名もワカヒメ、両方とも、織物に関係があるのですね。
>  丹生都姫を稚日女尊とする伝承はあります。織物を織っていた女神と同じ神に想定されているのではと思っていましたが、違う女神でしたか。たいした話ではないですけどね。

稚日女尊(ワカヒルメ)が織物を織っていた女神ですね。天照の子、あるいは妹とされていますが、部下あるいは分身という説もありますよね。

ちなみに、若昼女神(ワカヒルメの神)という女神は、大国主七世孫の布忍富鳥鳴海神(ヌノシトミトリナルミの神)の妻、天日腹大科度美神(アメノヒハラオオシナドミの神)の母、若筑紫女とも書かれます。
ついでに、若彦命という大名草彦命の子が、肥前国風土記・景行天皇筑紫行幸に登場します。
なんとなく、面白そうな神名が並びました。


[1794]  Re[1791][1790][1773]: のりちゃん  [Setoh]  09/03

> アメノワカヒコというと、「七夕物語」を思い浮かべてします。
のりちゃん、これもう少し解説がほしいですね。
ついでですが、カンナリ、同伴の方々も聞こえたといっていましたか?
聞こえない人もいるそうですが・・。

>「ワカ」と名前につく2神が、神話上で亡くなったたった2柱の神である
イザナミノ命、オオケツヒメの命、ヒコホホデミ尊も神話上でなくなっています。

> 絶命した女性の名前が「ワカヒメ」。ニュウツヒメの別名もワカヒメ、両方とも、織物に関係があるのですね。
 丹生都姫を稚日女尊とする伝承はあります。織物を織っていた女神と同じ神に想定されているのではと思っていましたが、違う女神でしたか。たいした話ではないですけどね。


[1793]  瀬藤先生ありがとう [桃色蜥蜴]  09/03

大いなる関心ごとの線から、もう一度、洗いなおしてみます。
貴重な情報ありがとうございます。
それと、のりChan
前に書き込みましたが、太田亮さんは、天白神と蚕影神は、同種の神としています。
参考までに
また、筑波の蚕影山神社の由緒に「各谷姫=かぐやひめ」出てきますが、これなんかも、丹波がらみなんです。


[1792]  Re[1790][1773]: あっしも酔っ払った 二  [Setoh]  09/03

setoh> なお丹波之河上とは丹波国熊野郡川上郷に当たるとされています。
これは本当かどうか?

彦坐王と関連のある丹生川とはどこか?

彦坐王を祭神とする式内社の分布は以下の通り。
近江国 4座
美濃国 2座
丹波国 2座
丹後国 2座
但馬国、能登国、出雲国、大和国、伊勢国、摂津国、和泉国 1座

 彦坐王は近江国を中心に丹波、美濃に勢力を持っていたようです。この地域の丹生川とは近江国を流れています。更に川沿いに式内丹生神社二座が鎮座しています。創建由緒は「天武天皇の時代に丹生真人が丹保野山に神籬を設けた。」とあります。
  丹生真人は息長氏の一族です。この地域は他に天日矛命に関連の神社が鎮座しています。
 と言うことで『天皇家と卑弥呼の系図』澤田洋太郎(六興出版)には、天日矛命の三代目の「斐泥」を彦座王と推測しています。彦座は日子坐とも書き「ひね」とも読めるとのこと。
また和泉に彦坐王を祀る式内社日部神社[ヒヘ](現在はクサカベと読む)がありますが、なにがしさんが紹介されている『謎の画像鏡と紀氏』の著者の日根輝己さんは和泉の出身で、渡来人の子孫を自認していました。

 なお、近江国伊香郡には式内大澤神社も鎮座しています。


[1791]  Re[1790][1773]: あっしも酔っ払った  [のりちゃん]  09/03

> 丹生都比売神社の略記では、(糸織からの連想で)織物の祖神と説明があります

天照大神の機屋で、スサノオのいたずらにより絶命した女性の名前が「ワカヒメ」。
ニュウツヒメの別名もワカヒメ、両方とも、織物に関係があるのですね。

昨日、高鴨神社の神職さんに教わったのですが、神話上で死亡した神様ってのは、ワカヒメ
とアメノワカヒコだけなんだそうです。
アメノワカヒコというと、「七夕物語」を思い浮かべてします。

ワカヒメという名前は、多分「若い女性」という意味でしょうが。
「ワカ」と名前につく2神が、神話上で亡くなったたった2柱の神であるということと、織
物と関係あるというのは、おもしろいような気がします。


[1790]  Re[1773]: あっしも酔っ払った  [Setoh]  09/03

マルヤさん 丹波国と丹生(H12.12.7)> 私見による地名と姓氏、丹波について少々。
丹生・・・丹羽・・・丹波・・・丹波・・・丹波
ニウ   ニウ   ニハ   タンバ  タニワ

 神社本庁発行の『平成祭礼データ』CDにはインプットミスなどがいささかありますので、注意が必要なんですが、美濃国方縣郡の式内社方県津神社[かたがたつ]の祭神の名前を「丹生川上摩須郎女命」 としています。またその由緒書きの中では「日子坐王 の皇子丹波道主命は、崇神天皇の朝命を奉じて、丹波(山陰地方)に赴かれ四道将軍 の御一人で、別名彦多都彦命という。その奥方が当式内社方県津神社 御祭神丹波之河上摩須郎女命、その御子日葉酢比売命又その御子五十瓊敷入彦命・・」と出ています。

桃色蜥蜴さんの大いなる関心事の「朝廷別王」も丹波之河上摩須郎女命の子でしたね。

それはともかく、上記祭神名と由緒の祭神名から単純に「丹生川上=丹波之河上」となります。
丹波とは丹生のことであったとなります。マルヤさんの昨年末の発想はズバリですね。

 なお丹波之河上とは丹波国熊野郡川上郷に当たるとされています。
 現在の熊野郡久美浜町には三谷宮本と言う地名があり、大森椿原神社「国常立尊」、また三谷小頃瀬には小頃瀬神社「祭神不詳」が鎮座し、由緒に元は小字山崎に鎮座と出てきます。山崎ー三谷ー宮本は和歌山の丹生酒殿神社周辺地名と一致します。

マルヤさん 鉄と水 (H12.12.9)>  丹生都比売神社の略記では、(糸織からの連想で)織物の祖神と説明があります
 七夕、棚機、たなばた → たんば → 丹生 なんて駄目かな・・


[1789]  タカクラジ・イナリ・カンナリ  [焼尻紋次郎]  09/03

 なにがしさん、けふ再びイナリについて書き、ついでにカンナリとタカクラジも
ほとんど決定的な分析がでました。
 「古語では R の濁音は D, で D の清音は R 」です。このこと、舌足らずデシタ。

  学者のネクタイをもぎ取る ; http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/yakbbs.cgi


[1788]  無題  [なにがし]  09/03

マルヤ様
「稲荷=鋳成り」は佐藤任・若尾五雄他著「真言密教と古代金属文化」(東方出版)に書かれてもあります。ちなみに、初めのころ買ったこともあり、私のお気に入りの一冊です。


[1787]  Re[1781]: 八尾の妖精(のりちゃん)、水の妖精(ニンフ)→(ニフ)ざんす。  [マルヤ] [Url] 09/03

> 丹生の大和系変化説がありますが、ミツハノメの水銀的変化、稲作的変化を丹生都姫とする見方も考慮しておく必要がありますね。

Setohさん、こんばんは。いえ、おはようございます。
今までそのことはまったく考えたこともなかったのですが、指摘されて良く考えてみると確かに確かにその見方は必要だと思います。
それと共に、稲荷神社(稲荷明神)はすなわち鋳成 (イナリ)だという、どなたかの説も思い出されて頭に残って離れていません。


[1786]  「カンナリ」現象  [なにがし]  09/02

そんなんがあるんですか?知らなかった。神社にいったらまず、そこにカンナリがあるか確認してみます。ちなみに、山口市の神社の石畳?はうぐいすばりです。解説には確か、石畳の前方の階段の空洞かなにかが影響して、足音や拍手がまるで京都のうぐいすばりのようなかんだかい音になります。


[1785]  Re[1782]: 八尾の妖精(のりちゃん)、水の妖精(ニンフ)→(ニフ)ざんす。 の前半  [のりちゃん]  09/02

今日は1日でかけて帰ってきたら、妖精に喩えられてた。
どちらかというと、妖怪になりたい私です。

> 紋ちゃん> 美人キツネに化かされる思うて逃げ帰りまいた。
> どう言う意味でっか。

馬のおしっこを「お酒」として紹介してるのがバレたか??
と一瞬びびりました(笑)

・・・というのは嘘ですが、最近、おいしいお酒を飲みすぎて、お酒で感動する機会が減っ
てしまったような気はします。
手ごろな値段のお酒しか買わないからし方ないんですけどね。

> いいご夫婦です。旦那の趣味がのりちゃんの趣味になったとか。

いえ、もともと神社訪問は私の趣味なんです。
旦那の趣味は「私」です。(爆弾発言?)

それはそれとして、今日は葛城山麓一帯を回ってきて、高鴨神社を再訪しました。
Setohさんに教えていただいた「かんなり」現象、体感しました!!
ほんとに少し場所を違えたら、「かんなり」が聞こえないんですね。ある地点だけ、聞こえ
るんです。

*「カンナリ」現象というのは、ある地点(場所は秘密)で、拝殿に向かって拍手を打つと、
1テンポ遅れて、木霊(ただし、実際に木霊が返ってくるよりずっと早い)が聞こえるんで
す。もし、風の森の高鴨神社に行かれたら、場所を捜して、体験してください。

また、おもしろい話も伺いました。
高鴨神社と、宗像大社では、宗像三女神を、「天照大神の娘」としているんだそうです。

・・・皆さんには周知のことでしたでしょうか?
ではでは。


[1784]  けむりは暮らしのアカだった  [焼尻紋次郎]  09/02

 舌たらずと舌あまり。
 何ゾ燕雀、鴻鵠ノ志ヲ知ラムヤ……これをエラァ〜〜いひとが解釈したら
「燕雀といえど鴻鵠の志を知ることは避けられない」と、こうなるが如し。

 MADHUR(心地いい)のままではまずいので A(反・非・不)のつぎに
MADHU を日本語流にマズ と置いて、次にひっくり返して「アズマし」に
した。
 「おい、タオル(どこにあるか)しらんか」に、「知ってるよ、オルタ
じゃねぇんだべ」と、返答するが如し。

 ♪√ 霧はながれて むせぶような波止場・・・煙りだったりして・・


[1783]  Re[1782]: 八尾の妖精(のりちゃん)、水の妖精(ニンフ)→(ニフ)ざんす。 の前半  [なにがし]  09/02

setoh様
> なにがしさん> のりちゃん様の趣味につきあってくれる旦那様いいご夫婦です。旦那の趣味がのりちゃんの趣味になったとか。

えええっ!!!!のりちゃん様のいきおいから、のりちゃん様がだんな様を引っ張っていってるとばかり思ってました。


[1782]  八尾の妖精(のりちゃん)、水の妖精(ニンフ)→(ニフ)ざんす。 の前半  [Setoh]  09/02

紋ちゃん> 美人キツネに化かされる思うて逃げ帰りまいた。
どう言う意味でっか。

なにがしさん> のりちゃん様の趣味につきあってくれる旦那様
いいご夫婦です。旦那の趣味がのりちゃんの趣味になったとか。


[1781]  八尾の妖精(のりちゃん)、水の妖精(ニンフ)→(ニフ)ざんす。  [Setoh]  09/02

「澤」の式内社の空振り的整理
武蔵国多磨郡 穴澤神社 清水の出る穴があった。水神と言える。
駿河国安倍郡 白澤神社 美和郷の地神とされるも水神澤女命との付会の説もある。
駿河国富士郡 桃澤神社 多くの澤があり百々澤との地名。
參河國賀茂郡 廣澤神社 広澤川側面山中に鎮座。祭神は啼澤女神ともされる。
近江国伊香郡 大澤神社「澤道彦命」かって大きい澤が存在していて地名となった。
出雲国仁多郡 三澤神社「阿遲須枳高日子根命」禊ぎの地でもあった。

マルヤさん H13/05/09> 大和・吉野には丹生神社や丹生川はありますが、ご存知のように例の丹生都比賣の大和系変化とやらで、丹生都比賣を祭祀している神社は一社もありません。そのすべてが、タカオカミ、クラオカミ、ミズハノメなどの水神(竜神)変わっています。とくに吉野においての丹生氏の足跡は、故意に消されたかのようでもあります。

丹生の大和系変化説がありますが、ミツハノメの水銀的変化、稲作的変化を丹生都姫とする見方も考慮しておく必要がありますね。

紋ちゃん> 「沢」がつく地名は九州にはありません。
九州の古代の豪族に水沼君がいます。三瀦郡(みずま)を拠点にしていて、後に宗像三神を祀ったようです。水沼の県主を猿犬神というそうですね。

 福嶋さん「耳納連山」も水沼君がらみですよね。


[1780]  親方タヌキよ レッツ・ナチ(踊る) ダンス  [焼尻紋次郎]  09/02

 遠野では木や台に「踊りあがる」を「なっちゃがる」いうだ。ネパール語 NAC- は「踊る」。

 ところで、ナチとか熊野方面はよその土地と較べて、霧が発生し易いんやなかでっしゅうか。
「結んで、開けた」のが修験道の本場……? このカングリ、成立せんカネ。
 “霧”が言えるんやったらモノスゲェ耳偏執がうまれ、朝鮮語が大歓迎されるようになる。

 熊野の語源で、見落としていたのが件の爆発音、アイヌ語に KUMA(大音響)があるだ。
 爆発関連の語彙はネパール / アイヌ語に見られる。火薬の歴史も古いが、そんなに古くもあ
んめぇ。 手がかりのひとつにはなら。

霧と耳と朝鮮語バンザイ・ムード ; http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/yakbbs.cgi


[1779]  ケツネも出てきて ポンピロリ  [焼尻紋次郎]  09/02

 なにがしさん、 めくら塞ぎ教えて戴きながら、以来ケツ礼しやした。
 お詫び、お礼がわりになりやしょうけぇ、あっしのバカのひとつ覚えのニャンとかぶし。
※ 日本語のサワ(沢)はいまのところ、台湾アミ語の SAWATS とのみ同根が見出せます。
  そして「沢」がつく地名は九州にはありません。福沢諭吉のように人名ならあります。
  あっしが育った稲築町の南に山田市があって、そこの山地に「熊ヶ畑」という地名があり
  ます。この“クマ”は台湾系(何語だったか?)では山地の畑という意味です。
  最初、屋敷や出外れにあったくなど神が、サイの神となって村境までゆき、それからとう
  とう峠にイマして雨降り量を管理するミ・クマリ様になるのですが、童神を山へ山へと追
  い上げた仕掛人は、この“クマ”(もうひとつ南方系の「雲」)ではなかっただろうか…
  ……これ、あっしのヤブニラミぞな。朝鮮語起源らしい地名はほにゃでごきげん。
 
 稲積さんにもケツ礼いたしやしたようで……。いやさね、まだそうとは決まったわけでもご
ざんせんのか、ござんすのか、漢字アレルギーのあっしにゃワッカラねぇんで……。
 この6月にまとめた堀井令以知さんの古語集パンフを読んでいましたら、なんとそこに、
「ニヒ、ニホ、ニュー、ミョウ、ニオ」の意味に「稲村、稲積み」があるじゃありませんか。
 稲積と書いてニホとかニューとかニオとか読むのでしょうか? 読んでもオカシくない雲行
きですね。イナヅミという発音が独り走りをやらかすと、安曇に化けてくるのでは?

 のんちゃんさん、なんべんもすまへんなも。おら、キツネに化かされたみてぇになった。
 日本語ってムズカシうござんす。
 おたくH.P.に行ったら風の國なんやろかぁ〜ちゅうて、入っていきやした……ら、なんもあ
らしゃいまへんがナ。美人キツネに化かされる思うて逃げ帰りまいた。

 語源無いものはない ; http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/yakbbs.cgi


[1778]  Re[1776][1770][1768][1761]:狸ばやしで ポンコロリ  [なにがし]  09/01

のりちゃん様
> 折角和歌山に行くなら、温泉も・・・
和歌山の龍神温泉は日本三大美人湯の1つです。もう二つは出雲とどこだったっけかなあ。
どうでしょう、車なら高野山→龍神スカイライン→龍神温泉→熊野あるいは伊太祁曽神社→白浜温泉→龍神温泉→熊野。
ちなみに私のお薦めは、太地町だったかイルカかシャチといっしょに泳げる(確かせびれにつかまって泳げたかと)ところがありますよ。「るるぶ」に載っていたと思います。


[1777]  Re[1770][1768][1761]:狸ばやしで ポンコロリ  [なにがし]  09/01

> 美人妻 のりちゃんのHPは
> http://www.kawachi.zaq.ne.jp/dpawe708/
> だよ。のりちゃんの掲示板は面白いよ。

掲示板だけでなく、神社に対するコメントの部分が非常に分かりやすく、女性らしいタッチで個性のあるHPだなあと、楽しく拝見させていただいてます。また、大阪らしく旦那さんとのボケ・ツッコミなんかもあり、ご夫婦のアツアツぶりとのりちゃん様のかわいさがうかがえるHPです。う〜ん、旦那様は幸せものだなあ〜。・・・でも、のりちゃん様の趣味につきあってくれる旦那様を考えるとのりちゃん様の方が幸せものなのかも?


[1776]  Re[1770][1768][1761]:狸ばやしで ポンコロリ  [のりちゃん]  09/01

> のりちゃんの掲示板は面白いよ。

もともと、おだてられればどこまでも木を登っていってしまうんですが、Setohさんに誉めら
れると、緊張しちゃいます。
でも、嬉しいです(^O^)

> 衣装の裾のはためきの如く優雅でもありました。是非参詣して下さい。

せっかく行くならじっくりゆっくり周りたいですね。
折角和歌山に行くなら、温泉も・・・とか考えだすと、計画倒れになるので、熊野三山に、
目的を絞りたいと思います。

> 古代の人々の足腰の強靱さは現代人の比ではないでしょうね。
> 五木寛之の新潮文庫『風の王国』を一度読んで見て下さい。秋の夜長にでも。

あはは。どうしよう。読まなければいけない本が一杯。
古代の人々の足腰。
距離だけでなく足場の悪さを考えたら、想像がつかないくらいですね。
ケイン・コスギもかくや???


[1775]  沢  [なにがし]  09/01

setoh様
●日根輝己著「謎の画像鏡と紀氏」(燃焼社)p127より
 『「くど」だけでなく、伊都郡は古代朝鮮語と思われる地名のたいへん多い所です。朝鮮半島から渡来した水銀採取者たちがたくさんいた名残りでしょうか。いちおう漢字があてられていますが、漢字や和音にそぐわない地名がたくさんあります。
 いぶり(飯降)、さや(佐野)、かせだ(笠田)、あにい(兄井)、ごせ(御所)、にう(丹生)、とうげ(東家)、むかそい(向副)、おうご(応其)、ごもう(胡麻生)、おおがの(大我野)、たるい(垂井)、こうぜ(河瀬)、このの(神野々)、なごそ(名古曽)、かね(河根)、すだ(隅田)。』
●「和歌山の研究5(方言・民俗篇)」(清文堂)p150〜151(宮本佳典担当)
『蛇は水源などの湿地にいるものであるが、天野には湿地祭祀として三沢大明神を祀る。三つの沢(湿地)には、一ツ沢神社、奥ノ沢神社、柳沢神社がそれぞれある。天野は湿地帯であり、天沼が転化したといわれるほど湿地が多く、「御遺告」に「其社廻有十町許澤」と天野大社について記述している。また「竃門家文書」には「青山四廻、其中有一澤、就於此造宮鎮座」とあり、丹生都比売を祀る天野大社が多くの沢のひとつを選んで造られたことを物語っている。天野の丹生都比売の信仰の根幹に沢信仰があり、天野には沢講が開かれ、天野大社と沢の祭祀を行うことがみられる。この沢講が丹生都比売明神を祀っていることは沢講が天野の祭祀集団であったことを物語っている。』

最後の方はともかく、天野は沢が多かったことはたしかのようです。丹生=沢につながりますでしょうか。基本的には天野に人がいつくようになったのは空海がきてからの事だと思われます。沢であったため生活するには大変な治水をしいられたようです。ですから沢講は沢にくるしめられた人々の沢への自然崇拝の表れでないだろうかと思っています。余談ですが、天野は盆地なので米はおいしいそうです。


[1774]  Re[1772]:みんなヨッパらって、コンポコリン  [のりちゃん]  09/01

> やっぱ、ワカランちゅうか、ケチつけるんじゃねぇっすよ。こころ落ち着けて読んでちょ。
>  
>  小川さんが先に死んだ。生き残った天野さんは「小川さんとはめちゃ仲よくしたんだから、死んで
> までもなんでつき合うのか」と言うそのくちの下で、小川さんに寄りそうようにしておっちんだ……
> というんですよね。

あ、一応、この現代語訳を紹介しておきますね。
「このときちょうど夜のような暗さとなって何日も経った。時の人は「常夜(とこや)行く」といったそうだ。皇后は紀直の先祖、豊耳に問われて、「この変事は何のせいだろう」と。一人の翁がいうのに、「聞くところでは、このような変事を阿豆那比の罪というそうです」と。「どういうわけか」と問われると答えて、「二の社の祝者(はふり)を一緒に葬ってあるからでしょうか」という。
それで村人に問わせると、ある人がいうのに、「小竹の祝と、天野の祝は、仲の良い友人であった。小竹の祝が病になり死ぬと、天野の祝が激しく泣いて『私は彼が生きているとき、良い友達であった。どうして死後穴を同じくすることが避けられようか』といい、屍のそばに自ら伏して死んだ。それで合葬した が、思うにこれだろうか」と。墓を開いてみると本当だった。ひつぎを改めてそれぞれ別のところへ埋めた。すると日の光が輝いて、昼と夜の区別ができた。」

「死んでまでもなんでつき合うのか」
ではなくて、
「どうして死後穴を同じくすることが避けられようか」
と訳しています。

> 同音衝突を避けて「A-DHU ましい(気持がいい)……津軽弁に残る」

あ、あづましぃって言う言葉聞きますね。
そうか・・・。あづましぃの「アヅ」なのかも知れないですね。


[1772]  みんなヨッパらって、コンポコリン  [焼尻紋次郎]  09/01

 のりちゃんさん、あがあが。手取り足取りしてもらっても、なかなか動けない身ざんすが……、
やっぱ、ワカランちゅうか、ケチつけるんじゃねぇっすよ。こころ落ち着けて読んでちょ。
 
 小川さんが先に死んだ。生き残った天野さんは「小川さんとはめちゃ仲よくしたんだから、死んで
までもなんでつき合うのか」と言うそのくちの下で、小川さんに寄りそうようにしておっちんだ……
というんですよね。
 戦争後にこんな歌が流行りました。♪√ひとり娘が 妹を連れて 井戸に飛び込み やけどした。

 おらが酔っぱらってンのかなぁ〜。ウンニャ、こんなこと言うたり書き残した連中のほうが酔っぱ
らってんじゃと、オラ思う。

 「まずい」という日本語は物凄く古くからあったと思われます。そこへ MADHUR(気持がいい)が
入ってきたんですよ、コリャ。同音衝突を避けて「A-DHU ましい(気持がいい)……津軽弁に残る」
が造語された前後に、「adhu(気持いい)NA(○○でない)HI or I(ことがら)」があったんで
しょう。
 「リクツ・ハチャメチャ」……が、アズナヒかもしれませんね。


[1771]  40やもめのピンクのトカゲ  [桃色蜥蜴]  09/01

『風の王国』ですか。
あそこから、サンカ入る人も多いみたいですね。
紋の旦那
あれ面白いよ。小説と現実違うの
紋の旦那、あれ感想書いてよ。
オレも同じ血筋として、紋の旦那の意見聞きたいよ。
俺もスタンス決めるに困ってるから
豊後のクズシリノカミお願ぇしやす。


[1770]  Re[1768][1761]:狸ばやしで ポンコロリ  [Setoh]  09/01

紋チャンょ。のりちゃんって親切だろう。
美人妻 のりちゃんのHPは
http://www.kawachi.zaq.ne.jp/dpawe708/
だよ。のりちゃんの掲示板は面白いよ。

のりちゃん> 那智の滝は女神の白い衣装のようでしたか。熊野にはでかけていません
衣装の裾のはためきの如く優雅でもありました。是非参詣して下さい。

のりちゃん> 古代の神々の足跡を追ってみて、彼らの体力に驚きます。
古代の人々の足腰の強靱さは現代人の比ではないでしょうね。
五木寛之の新潮文庫『風の王国』を一度読んで見て下さい。秋の夜長にでも。


[1769]  Re[1762][1760]: のりChan  [のりちゃん]  09/01

>  さて、那智の滝に丹生都比売が降臨したのではないか、との発想は滝の前で思いついたのですが、

那智の滝は女神の白い衣装のようでしたか。
熊野にはでかけていませんが、実際目で見る感想は、耳で聞いたり、読んだりするだけの感
想とはかなり違うでしょうね。

的外れなことを言いますが、古代の神々の足跡を追ってみて、彼らの体力に驚きます。

> アヅナヒが正しいと思いますよ。のりちゃん。

ぽりぽり・・・。失礼しました。「豆」ですもんね。


[1768]  Re[1761]: 狸ばやしで ポンコロリ  [のりちゃん] [Url] 09/01

> 「この世が闇になってしまうような大罪……」みたいな解説

そうなんです。
「夜の暗さが何日も続いた」「常闇に行く」と表現されてます。

>  だが、今回のミナシャンの反応拝むと、どうもトップ貴人の埋葬と関係あるのですか?

日本書紀の中では、トップ貴人の埋葬ではなく、「天野の神職と小竹の神職を同じ棺に埋葬」
したことが罪であるとなっています。
天野もしくは小竹神職がトップ貴人となんらかの関係があったかどうかまではわかりませんが。

>  原文周辺はどないなってまんねん。はぁ、ススキも穂を出し始めたころだっしょうけぇ。

私は現代語訳しか持っていないので、なにがしさんのHPから流用させてくださいね。

『南紀伊国に詣りまして、太子(応神天皇)に日高に会ひぬ。群臣と議及(はか)りて、遂に忍熊王を攻めむとして、更に小竹宮に遷ります。この時にあたりて、昼の暗きこと夜の如くして、すでに多くの日を経ぬ。時の人の曰く、「常夜行く(とこやみゆく)」といふなり。皇后、紀直の祖豊耳に問ひて曰はく、「是の怪は何の由ぞ」とのたまふ。時に一人のおきなありてもうさく「伝(つて)に聞く、是の如き怪をば阿豆那比の罪と言ふ」とまうす。「何のいひぞ」と問ひたまふ。こたへてもうさく「二つの社の祝者(はふり)を共に合せ葬るか」とまうす。因りて、むら里にとはしむるに、一人の人ありてまうさく、小竹の祝と天野の祝と、ともにうるわしき友たりき。小竹の祝やまひしてみまかりぬ。天野の祝、血泣(いさ)ちて曰く、「吾は生けりしときにうるわしき友たりき。何ぞ死にて穴を同じくする事無けむや」といひて、すなわち屍の側に伏して自ら死ぬ。よりて合わせ葬む。けだし是か」とまうす。すなわち墓を開きて見ればまことなり。かれ、更に棺を改めて、各異処にして埋む。すなわち日のひかりてりて、日と夜と別有り。』
となっています。


[1767]  Re[1766][1765]: 無題  [なにがし] [Url] 09/01

> 所で「澤」と言う言葉は、朝鮮語で「ニフ」らしいですね。
そうなんですか。おもしろい展開ですね。伊都郡と橋本市は朝鮮系の地名が多いそうです。
また、丹生都姫神社については本で「天野は昔澤が多く、その1つを選んで鎮座した」のような内容の文章を見た記憶があります。また調べて書名書きこみます。


[1766]  Re[1765]: 無題  [Setoh]  09/01

マルヤさん> それを恐れていては意見を交わすことが出来なくなるからです。
ありがとうございます。こちらこそ、席亭としてまた投稿者として、反省の多い日々です。

所で「澤」と言う言葉は、朝鮮語で「ニフ」らしいですね。沢とは広辞苑によると、低くて水が溜まり、蘆(あし)や萩の茂った土地を言うそうです。水酸化鉄のスズが採れそうです。また水耕栽培にも適地となります。丹生都比売の神格に稲、金属の神とありそうで、何か稲荷神を想像しますね。
澤のつく式内社は以下の通りです。現在の祭神に丹生都姫は見当たりません。空振りかも。
穴澤神社 東京都稲城市矢野口
白澤神社 静岡県静岡市牛妻
桃澤神社 静岡県駿東郡長泉町元長窪、静岡県沼津市青野
廣澤神社 愛知県豊田市猿投町小黒見
大澤神社 滋賀県伊香郡木之本町黒田
三澤神社 島根県仁多郡仁多町三沢


[1765]  無題  [マルヤ]  09/01

論議には多少の「不快感が伴う」場合があるのは致し方のないことかもしれません。
それを恐れていては意見を交わすことが出来なくなるからです。
Setohさんに反発した私でしたが、「そういう自分は人に不快感を与えたことはなかったのか?」と気付いて、今反省しています。


[1764]  Re[1763]: 瀬藤先生わかります。  [Setoh]  09/01

先生とよばれるほどの馬鹿ですが、小生は「瀬織津姫受け容れる」のに「抵抗」しているわけではありません。那智は多神教の地で、多くの神々が祀られて来たと推測しているのです。その中に丹生都比売もかっては祀られていたのではないか、そのルーツではなかったか、と考えているのです。
奪衣婆さんには未だお目にかかりたくないんですよね。もう少し勉強したいです。


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