神奈備掲示板の案内とログ

神奈備掲示板

神奈備掲示板、あさもよし掲示板 過去ログ

掲示板のログ(平成十三年十一月)お名前の敬称は省略しています。
更新 H13.11.30


[2221] ミニオフ詳細  [Setoh] 11/29

12月1日(土)
 天理駅前11時20分集合(弁当持参)
    バス 天理駅11:32発→苣原11:59着(520円)
 苣原町 八頭(須賀)神社(昼食)・九頭神社 参拝
    徒歩 苣原→仁興(約30分)
 下仁興町・九頭神社、上仁興町・四社神社 参拝
    徒歩 上仁興→仁興口(約15分)
    バス 仁興口15:03発→石上神宮前15:20着(390円)
 石上神宮 昇殿参拝・境内詳細案内
    徒歩 石上神宮→天理駅(約15分)
 天理駅 17:00頃解散


[2220] 神奈備 日の谷前夜祭オフ会のお知らせ  [Setoh] 11/28

12月2日(日)に「日の谷」の探検を予定している人々がおられます。

 従って,下記の通り臨時オフ会を予定しました。
 日時 12月1日 午後から夕刻
 場所 天理駅近く
 詳細 ご関心のおありの方,連絡下さい。

 注  さらにご希望の方には翌日にバクチ場の日の谷探検にもどうぞ。ただし出発は早い時間ですよ。


[2217] え〜〜 ふだん記 はイランかね  [焼尻紋次郎] 11/28

 いまから20年ほどまえ、八王子の橋本義夫というひとが「ふだん記」ということを思い
たちました。それにはいろいろ特徴がありますが、その骨子は……、

* 学者とかモノ書きといわれる人々ではなく、一般庶民が暮らしのなかで感じたことを、
 へたに書きあってお互いに読もう。
* そして、書き重ねたことをもととして、できたら各人がすくなくとも一冊の『自分史』
 を本にまとめよう。
* 各地方の主催者は「独立するが孤立しない」。年にいちどは集まろう。

 などということでした。
 地方グループは季節ごとに「手記集」みたいなスタイルで印刷物を発刊しました。

  しかし、せっかくの橋本義夫さんの思い立ちも、折しも始った高齢化の波に襲われ、原
稿あつめに苦慮する地方主催者はついついヒマなとしよりを頼ったために、「ふだん記」は
老人ホームのようになって、生気を落とし社会の片隅に押しやられました。
 ただ、出版社の儲け主義が便乗して『自分史』だけが残っているという現状です。

 橋本義夫さんの狙いはそんなことではなかった筈です。
 文化を最終的に受け止めて担うのは“生活者”です。

 不肖は、その橋本義夫さんの遺志を、できるだけ間違いなく継いで、更なる発展を狙いな
がら次の若者へバトンタッチを計るつもりです。
 おおかたの意欲的参加をお待ちもうしあげます。
 へたに、書きましょう。ただし、乱雑に書けば損をするのは「あなた」ですので、此の点
だけは自戒しましょう。「 I.T ふだん記」はチャットではありません。

 ふだん記・ニッポン;http://www69.tcup.com/6928/fudangi.html


[2216] 熱田と石上  [Setoh] 11/28

『新撰姓氏録』布留宿禰から
柿本朝臣と同祖、天足彦国押人命七世孫、米餅搗大使主命の後男の木事命の男、市川臣。
市川臣は大雀天皇(仁徳天皇の高津宮)御世、倭(大和)に達して、布都努斯神社を石上郷布留村高庭の地に賀しまつり、市川臣を神主と為したまえり。

 この天足彦国押人命とは孝昭天皇と尾張氏の世襲足媛命の子で,粟田一族の祖でもあります。で,京都市東山区粟田口鍛治町に鎮座する粟田神社の由緒では,「往古、人皇五代孝昭天皇の皇子天足彦国押人命を祖とする粟田一族がこの地で、鉱物を穿ち、粟瓜を主食として生活をし、神を祀っていた。
 中古、熱田神宮が奉祀されるや熱田の社人として一族もろともに移り、土地の名を残すのみとなった。粟田の臣の産土と云われている由縁である。」と出てきます。

 粟田一族を熱田に呼んだのは尾張の血ということでしょうかね。


[2215] Re[2213][2209][2205]: チョチ チョチ アワワ  [S.Setoh] 11/28

> 住吉三神は精錬神に思えてならない
 『日本書紀』から住吉大神が神功皇后に神託をあたえ、自らの名を告げる言葉は美しいので紹介しておきます。日向国(ひむかのくに)の橘小門(たちばなのをど)の水底(みなそこ)に所居(ゐ)て、水葉(みなは)も稚(わかやか)に出(い)で居(る)神、名(みな)は表筒男(うはつつのを)、中筒男(なかつつのを)、底筒男(そこつつのを)の神有(ま)す。
 若布などの海藻と金属、栄養分の金属??

 住吉を祀った氏族は船木氏や津守氏ですが祖神としていたわけではありません。
 船木氏の本貫の地は伊勢の船木で佐那県造が奉じたのが天手力男神だそうで多気郡多気町大字仁田に佐那神社が鎮座しています。佐那はサナ,仁田はニタと読み,金属風地名です。
 津守氏の祖神は大田田命、神田田命で,タタラがらみのようです。<


[2214] 我に妄想癖あり  [マルヤ] 11/27

書き込み[表]が乱れたらご勘弁ください

         (愛人)武内宿彌or住吉大神か    愛人は誰?
(相殿=夫婦神)      ‖              ‖
アマテラス(変性男子)ー神功皇后(変性男子)ーーーーーー持統天皇(変性男子)
タジカラオ(変性女子)ー仲哀天皇ーーーーーーーーーーーー天武天皇
(夫婦のタタラ神)   (暗殺さる?)         (暗殺さる?)

歴史を知らない人間の愚説だとおわらいください


[2213] Re[2209][2205]: チョチ チョチ アワワ  [マルヤ] 11/27

アナログからADSLに変えました。
そしたら、この2・3日回線が切れたり(通信不能)で散々でした。この辺りはローカルで通信状態は良くないそうです。でもなんとかNTTさんがチャンネルを変えたり、努力をしてくれて何とか通信できるようになりました。
時々切れたりはしますが、速い速い!もう画像の送受信も苦になりません。かなり満足しています。
そんなことで書き込みのタイミングがずれました。

> 所で住吉大神はどの氏族の祖神とはなっていない珍しい神様だとか。
> 強いて言えば不倫による応神天皇のパパ

住吉神社神代記の”密事”のことですね。

>                       息長帯日売
>                         ‖
> 大帯日子(景行)ー若帯日子(成務)ー帯中つ日子(仲哀)
>
> 住吉大社の社殿の配置
>                        姫大神
>  上筒男命   ー 中筒男命   ー 底筒男命
>
> これから,祭神を各天皇に割り当てていました。
> そうすると天皇家の祖神となりますね。

こうして割り当てられると、興味が出てきます。そんな見方もあるのですね。

> またこの三代の天皇は大和には落ち着いておらず、マルヤさんの書かれているように「住
吉大神の各地巡行の物語」があったと言えますね。

あかまつよしこ氏の小説では、カナヒコといわれたカナサキの神(後の住吉大神)がアマキミからナカクニ(畿内)のクニカミ(国司)任じられ各地をを巡行する物語になっていますが、
私は、表・中・底筒男の住吉三神は精錬神に思えてならないのです。。
前出の神代記にもある『丹生川上天手力男意気続々流住吉大神』『天手力男雄気長足魂住吉神』という神名にもなにやら金属精錬師?の陰が見えるように思います。
また、天手力男が住吉神と異名同神だとしたら天皇家の祖神と云えるのではないでしょうか。
つまり、タジカラオはアマテラスの相殿神で夫婦神と云えるのではないかと思うからです。    


[2211] そのとき おまえは 赤裸  [焼尻紋次郎] 11/26

 日本書記の記述……『イニシキのみこと、チヌのウトのカワカミの宮に居(マ)しまして
剣一千口(イチチヂ)を作る。因りて其の剣を名づけてカワカミの部(トモ)と謂ふ。亦の
名は裸伴(アカハダカトモ)と曰ふ』

イニシキ…… IN-I ( NOT さん)、すなわち否定辞=タブー、神聖。IG- と同じ。
シキはシ(強い)KI(神・男)。五島〜諫早文化を継承したことを懸け言葉した。
   イに「五十」をあて字したは、当時の SAIT SAIT 偏執による。
チヌ ……… 茅萱の野
ウト ……… ウ(原っぱ)ト(所)。善知鳥(うとう)に懸け言葉。
   善知鳥(うとう)はカラスに似た黒い水鳥。鼻に二つの大きなイボをつけている。
カワカミ……カワ(皮)カミ(職人)
マス …… ネパール語 ; BAS(住む、泊まる)
チヂ …… チ(刀のこと) ヂ(ネパール語 ; 柱)。柱(神)から剣神への移行が見られ
   て興味あるところ。「チブリ」の表現もあって、文字づらに惑わされて「千」と解釈
   し易いところ。ここは「たった1ヶ」の剣。
トモ …… トモ(五島列島、朝鮮に残るトゥングモ……意味は“友”)すなわち、ここで
   いう“部”は「グループ」のことだが、TOMーI (宝物)と懸け言葉した。
   ピグドン偏執の富永の富などは「オオヤマツミ」のツ(竜)ミ(神)と懸け言葉。
   TOM-O の末尾の O は神である。 O は剣のこと。

アカ …… 「今から言うことは“神”であるぞ」との宣言コーナーを前置させている。
   ネパール語 AKHA は目であり,「メ」とは神である。
ハ ……… 「大(朝鮮語)」または「くに(ネワール語)< PA 」
ダカ …… TAKAT(権力)

 アイヌ語 TOM(輝く)、TOMBI(宝物)。TOMBI は *THVMB(祖形、柱)に似いちゅ
う。
 「赤裸」を見て、真っ裸だと勘違いしたご仁ばかりだろう。兎さんも皮を剥がれて赤裸。
 『青銅の神の足跡』の著者;谷川さんもタタラ踏みの職人が丸裸になった様子を想像な
すった。しょうがないよなぁ、この本出されたのは 1979 年のこと。あっしゃ『ネパール語
との対比一覧表』は5年まえに届けました。ただし、虫が哭いててらぁ。

  日進月歩の「ほにゃらか」;http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/yakbbs.cgi


[2210] Re[2208]: 禁足地  [ZOU] [Mail] [Url] 11/26

> アルバムに石上神社を掲載しました(1〜2週間程度の予定)。
> 今なお『女人禁制』の厳粛な聖地でありますので、そこのところ厳守の程、宜しくお願い致します。土地の方々にご迷惑が及ぶそうです。

KAGさん、拝見しました。磐坐群は圧巻です。
相変わらずの行動力には脱帽です。「太陽の道」の西側の重要な部分を押さえたことになりますね。スゴイ!
次は東側でしょうか?


[2209] Re[2205]: チョチ チョチ アワワ  [Setoh] 11/25

ホツマの国とは東国と言うことだそうですね。
所で住吉大神はどの氏族の祖神とはなっていない珍しい神様だとか。
強いて言えば不倫による応神天皇のパパ
所で著者も書名も忘れたのですが、大阪の高校の先生でしたか,
住吉三神について面白い説を出されていました。

天皇の系列
                       息長帯日売
                        ‖
大帯日子(景行)ー若帯日子(成務)ー帯中つ日子(仲哀)

住吉大社の社殿の配置
                        姫大神
 上筒男命   ー 中筒男命   ー 底筒男命

これから,祭神を各天皇に割り当てていました。
そうすると天皇家の祖神となりますね。
またこの三代の天皇は大和には落ち着いておらず、マルヤさんの書かれているように「住吉大神の各地巡行の物語」があったと言えますね。


[2208] 禁足地  [香具] 11/25

 奈良県天理市布留町の石上神宮、ここの『禁足地』について確認の投稿をさせて下さい。 この神宮の境内、楼門の前の道を奥に進み、イチイガシの巨木のある角を曲がって小川を渡った処、脇に布留山の奥に伸びる小道があり、道の入口には注連縄と『立入禁止』の標示があります。じつは、この奥を『禁足地』と思われる参拝者もいらっしゃる様子ですので、僭越ではありますが、参考のために書き込みました。

 この小道の奥は、布留山の襞に分け入る、小さな谷になっています。その谷に祓戸社の小祠があって、その前には禊祓い用のプールが設置されています。毎年、夏場にはここでご神職の方々が禊祓いの研修をされるそうです。そういう意味から、業務用?スタッフ専用?の為、一般参拝者の方々は『立入禁止』と、ご遠慮願っている処のようです。もちろん管理上の注意も行き届かない藪の中ですので、立入無用を守って頂きたい場所でもあります。

 そして本来、石上神宮の『禁足地』というのは、楼門を潜って中にある拝殿の、そのまた奥にある、石の瑞垣で囲われた、44.5mX29.5mの四角い土地で、北の布留川岸へ張り出し台地状になっています。ここに本殿があり御神体の『神剣布都御魂』が奉斎されています。この禁足地が『石上布留高庭』または「御本地」「神籬」(ヒモロギ)と称えられていたそうです。近世には、この中央に高さ約85cm、東西約8.6mの高まりがあり、そこに「かなめの木」と呼ぶアカメモチ一株が植っていたとパンフレットに記載されています。明治になるまで、この地中深くに『神剣布都御魂』が祀られていた処です。この禁足地内は分厚い苔が絨毯のように地面を覆い尽くしている庭地ですが、普通に参拝しても拝殿に遮られて、本殿も禁足地もほんの少ししか見えません。

 このように『禁足地』(本殿)と『立入禁止』(祓戸社)とは、全く異なるのですが、禁足地が見えないだけに、別にある『立入禁止』の小道の先を、禁足地と思われる方は多いようです。まあ、布留山そのものが禁足地と言えば禁足地ではあるのですが。

 さて、奈良の石上神宮とは全く異なるのですが・・・・。

アルバムに石上神社を掲載しました(1〜2週間程度の予定)。
今なお『女人禁制』の厳粛な聖地でありますので、そこのところ厳守の程、宜しくお願い致します。土地の方々にご迷惑が及ぶそうです。
http://photo.goo.ne.jp/user/ixtlan


[2207] 爾保姫神社  [なにがし] [Url] 11/25

本日広島市の爾保姫神社に行って来ました。七五三で神主さん忙しくHPのアドレスを教えて頂きましたので記載致します。

http://www.hicat.ne.jp/home/nihohime/

この付近には地名に黄金山、比治山、丹那などの地名や竃神社、穴神社などもあり、何か鉱山師と関係があるのかなあと思ったのですが、この土地はすぐ海のところだったようで、どうも関係なさそうです。


[2206] 無題 [習志野のてつ] 11/25

群馬県:上野国へ 群馬県立歴史博物館のHP の東山道解説
http://www.edu-c.pref.gunma.jp/kyoui/grekisi/index.htm
とても面白いです。_Mも巾の有る高速道路?クイズ面白いですよ。


[2205] チョチ チョチ アワワ  [マルヤ] [Url] 11/24

久しぶりに地元の氏神、住吉神社(河内長野市小山田町)へお参りしました。
そして社務所で「住吉大神」とタイトルのついた本を買わせてもらいました。
この本が刊行されることを、名誉宮司の西野祥圓氏にお聞きして、待っていたからです。
著者は、和歌山出身の短編小説家、あかまつよしこ氏で、この住吉神社へお参りを続けておられたと聞いていました。

読んでみると、カナヒコといわれた若き日の「カナサキの神(住吉大神)」の各地巡行の物語ですが「ホツマツタヘ」がその底本といいますか、モチーフになっているようでした。
20年程前、この「秀真伝」ほか何点かの、いわゆる古史古伝の類いを読んだことがあるのですが、改めて興味が出てきて「ホツマツタヘ」とその続編の二冊を図書館で借りて読み直してみました。
そしたら、う〜ん・・おもしろい。日本の古代語を考えるうえで参考になると思い直しました。
やはり漢字の伝来以降、日本人は漢字の持つ意味に縛られすぎてしまっているかも知れません。

「住吉大神」あかまつよしこ著/文芸社 
「ホツマツタヘ」松本善之助/毎日新聞社
「続・ホツマツタヘ」松本善之助/毎日新聞社


[2204] Re[2203]: 織田上総介信長  [Setoh] 11/24

古東海道。駅道ですかね。


[2203] 織田上総介信長  [習志野のてつ] 11/24

なぜ信長は上総介(かずさのすけ)を称したのか?

かつて各国は「大国」「上国」「中国」「下国」の4つの等級に分けられて
いました。 大国のなかでもさらに特別な位置に3ヶ国が置かれていました。
上総・常陸・上野の3ヶ国です。これらの国は親王(皇族)の任国とされて
いました。
つまり「介」は次官であるが、実務は「守」(かみ)の役割を担っていた訳。
でも何故この三ヶ国だけが、特別扱いなのでしょうか?
蝦夷対策だけとは考え難い。いったい何故なのでしょうか?


[2202] Re[2200]: 『モロ』でしたでしょ  [香具] 11/24

> 木々の間から三輪山,またもろに石上神宮,大和平野、二上山と
> いささか霞ただよう小春日和でした。

天理市滝本町の大国見山の山頂から見る、石上神宮、布留の高庭は、まさにこの山頂から見ることを意識しているかのような、演出的な配置ですね。神宮側から見ても、山頂はそんなにはっきりと呼応しているように思えないのですが、山頂から望むとドラマチックですらありました。ここに立って眺めたとき、石上神宮の空間的広がりが一挙に体感できて、布留川上流域や布留街道への延長も、容易に妄想できたのです。『朝廷の武器庫』以上の意味合いを汲ませる景色ですね。山頂までの登りはきついですが、その甲斐のある眺めです。

先日の新聞に、龍王山の山頂から、明石海峡大橋が見えると報道されていました。
ついでに海も見えるのだろうか?興味津々。

今日は、龍田大社へ行ってきました。さすがに紅葉もきれいですね。七五三で賑わい。
拝殿で参拝していると、本殿側から澄んだ心地よい『風』が吹いてくるのです。夕暮れ間際だったので撮影できなかったのですが、今度は弁当持参で昼時に訪ねたい神社でした。
(神奈備神社も岩瀬の杜(小さな記念公園でした)も三郷駅からすぐでしたね。)


[2201]  ククノチ姫も黒かった [焼尻紋次郎] 11/23

 瀬藤ドン、よく気がついた。削除タノム。
 桜どん、あがあが。ミナシャンぜひ神名をこの調子で追いかけやしょう。

 シュメール語は“インド諸語”には入ってないんやろ? その辞書の紹介もアマカネ。

 シュメール人に特別な発声クセがないかぎり、KUKKU は KURKU に還元できるとおもう。
 ただし、ククリヒメの「ククリ」は「みそぎ」にかかわる刀(ネパール語 khukuri)
 ……だから「オトコ・ヒメ」だと思う。
 ♪√ コケコ(ネパール語 ; KUKHURA)か鳴くまて……やめとこ、ホーホケンキョぞな。


[2200] 激しいあくび その二  [Setoh] 11/23

 インド爺型流行性感冒かね。 
> 堀井令以知さんや吉野裕子さんなど、狭い日本だけでの使用例から帰納させての意味割り出しだったんでしょうけど、やっぱ、だいたいに於いて○○にしてかかったほうが本筋だっしゃろ。
 謙虚を以て尊しの神奈備は先達をバカにしないよ。紋氏も先達だよ。

 前に香具さんが登拝した大国見山へ行きました。桃尾の滝を過ぎてどんどんと登ります。頂上付近には磐が多く、中には穴が穿たれた石があり,烽火の際の油を入れた穴だそうです。
 木々の間から三輪山,またもろに石上神宮,大和平野、二上山といささか霞ただよう小春日和でした。
 年内にはバクチ場の日の谷の八つの磐座へ行ってみたいですね。


[2199]  Re[2198]:インドもおまえを待っている  [桜左近]  11/23

> すでにお伝えしましたが、インド語総覧 ;
> http://www.hindunet.org/hindu_history/sarasvati/html/alphaseq1.htm
>
> に出てくる言語種の記号は
>  http://www.hindunet.org/hindu_history/sarasvati/dictionary/0000LANG.HTM
>  で調べると、それが何語であるかがわかります。

 突然割り込みで失礼します。
 ほにゃらか掲示板で紋次郎さんから上の具体的使用例を示せという要望がありましたので、ためしに「NABI」探しをやってみます。まず、下の書き込みの
http://www.hindunet.org/hindu_history/sarasvati/html/alphaseq1.htm

をクリックすると目次画面になるので「-n 5070- (430kb.) 」を選んだとします。
Nで始まる言葉がぎっしり詰まっていてビックリしますが、ここではやはり検索でしょう。Windowsでは「Ctrl+F」キー、マッキントッシュでは「コマンド(アップル)+F」キーを押し、検索窓に「NABI」と打ち込んでEnter(またはリターン)キーを押すと次々に拾ってきます。初めにでるのは
The Prophet: nabi_ Prophet; Muhammad as the Prophet (W.) (U.Ta.Te.Ka.) (Ta.Ka.lex.)

 NABIは預言者、預言者モハメドとあり、その後のカッコの中は言語の種類の略記号ですから、
http://www.hindunet.org/hindu_history/sarasvati/dictionary/0000LANG.HTM

をクリックして表の中から探すと、U,TA,TE,KAはそれぞれウルドゥ、タミル、テルグ、カンナダ語だとわかります。(W.)の意味は今のところ不明。

 え〜、こんなところですが、つまらないオマケをつけます。(笑)
シュメール語で穀物倉庫をKILAなどといいます。KIが場所でLAは量るとか上げるという意味で、穀物を量ってから倉庫の棚に上げたと考えられます。KIKUKKUは、KIプラスKUKKU(暗い)で「暗い場所」、KINAはKIプラスNA(ベッド)で寝室、KINA・・AKA(する)でセックスのこと。


[2198]  インドもおまえを待っている  [焼尻紋次郎]  11/23

すでにお伝えしましたが、インド語総覧 ;
http://www.hindunet.org/hindu_history/sarasvati/html/alphaseq1.htm

に出てくる言語種の記号は
 http://www.hindunet.org/hindu_history/sarasvati/dictionary/0000LANG.HTM
 で調べると、それが何語であるかがわかります。

 狭い日本にゃ棲みあきた、なも。


[2197]  おまえはクラのなかで 待っている  [焼尻紋次郎]  11/23

 おらは永いあいだ(20年以上)言語学者を軽蔑して、その言うことには強い不信感を抱
いてきました。ところが、ミナシャンから感化されてココロスナオかね。
 ことしの春に堀井令以知さんの『語源大辞典』から400語彙を抜粋。そこに「クラは
谷」とあるのです。

* カマクラ……むかし、茶わんなどは自分の村で焼いていた。それぞれが、必要な物を思
  いおもいに造型して、窯に入れた。
  三日か四日、交替で窯に薪くべたあと、村じゅうに「カマクラァ〜〜」の声が流れた。
  カンカンカンと、板など叩いてけっこう「あなカマ(うるさい)」だった。
  「クラ」は日本では「開ける」となったのではないかと、思っています。
  あっしが10歳ごろ覚えた「スワ・カマクラ」の表現、レッキとした本に出ていたヨ。

* 蔵、倉、庫は「CURA(保存米)と KURA(事物・物語り)」から、漢字をとり入れなが
  ら、日本固有の使用が定着して行ったものと見受けられます。

* 冬場……余熱で暖ッタカメッチャカの窯の内部は、こどもたちの楽しい“語らい”の場
  だったことでしょう。それ見る親のこころも暖ッタカメッチャカね。

* ややこしいことに、峠を「クラ」とも言いました。これは“山ぐに日本で発達した神の
  座”みたいですが、原郷はヒマラヤ。「タクラ・マカン」かね。
  神=貴人。そのクラ(座)のイ(場所・座)は「クライ(位)」。

堀井令以知さんや吉野裕子さんなど、狭い日本だけでの使用例から帰納させての意味割り出
しだったんでしょうけど、やっぱ、だいたいに於いて○○にしてかかったほうが本筋だっ
しゃろ。
 凹 は堀井令以知さんによれば「低い」で。この割り出しはネパール語と一致します。

>「何かを内包するもの」の概念が「クラ」。それは神かもしれないし、米かもしれない。
★ 「何かを内包するもの」……ということばは、「ひたい中央上部にある第三の目偏執」
  に触発されて「豆のさや」を利用して KHOS と呼ばれました。音転したのか KHOL(行
  李)ともなっています。KHOS の末尾の S がとれて、これに事物の KRA(開音されて
 KURA とも)がついた語形で表現されるのが KHOKRA(木の洞のなかに何にもない)で
  した。これは、日本語 HOK(祭る)の語源だと思います。アメノヒボコかね。
  「ヒの神」こそ、ヒメたらめや。この語形のどこに“オナゴ”がおらいしょ。

   21世紀・ことばの原郷 ; http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/yakbbs.cgi


[2196]   Re[2193]: ♪√ きっとおまえは インドで待っていえくれる  [Setoh] 11/22

>  いろんな氏族がいたわけだよ。混同もあったさ。しかし、古い時代になればなるほど、い
> ちおう、目は「マ」、神は「メ」だったんじゃないのかなぁ〜。
『古事記』に目は幾つか出てくる。
神功皇后のシーンに「目の炎燿く・・」にふりがながふってあるが、「めのかがやく」となっている。しかし索引は「ま」の所にある。
物部目は「め」だね。

まなじりかね。目くじらかね。


[2195] Re[2194]: 倉は?  [玄松子] 11/22

自己レスです。

> 誰かが昔云ったかもしれませんが、倉・蔵・庫は立ってるし、カマクラももっこりしてる。磐座(イワクラ)も。「位」などを想像すると台状のものを連想しませんか。

何処かで見た記憶をたよりに本棚をあさったら、「隠された神々」吉野裕子 にありました。
「クラ」はV字型のことだそうです。凹も凸も「クラ」らしい。

庫 や カマクラは、穴と見れば凹だが、外から見れば凸。
僕には、その形状よりも、中にある存在に「クラ」と印象がある。「何かを内包するもの」の概念が「クラ」。それは神かもしれないし、米かもしれない。
実は、「クマ」にもそんな印象があるのですが。

もひとつ。
数詞ではじまる神々。天一柱(天比登都柱)、天一根。


[2194] 倉は?  [玄松子] 11/22

> * 古代日本語「クラ」だけで「谷」、語源未詳。「暗い」は誰が言うたんやろ、

クラオカミ・タカオカミ、クラミズハ・ミズハノメと対比すると「クラ」は谷間だと思うんですが、本当ですか?

誰かが昔云ったかもしれませんが、倉・蔵・庫は立ってるし、カマクラももっこりしてる。磐座(イワクラ)も。「位」などを想像すると台状のものを連想しませんか。


[2193]  ♪√ きっとおまえは インドで待っていえくれる  [焼尻紋次郎] 11/22

 金属精錬のやりかたが統一されたからこそ、広域日本がうまれ、その金属精錬の神へ新た
な名前が必要となって、体制側はイカガシコオなどを廃止して「アマノマヒトツ」をでっち
あげた。
 傍らに「ハツクニシラスという天皇様が二人もでた事実」がある。これは「統一・KU事・
聖長」と解せられるから、金属精錬技術が二度にわたって広域に広がったことを意味する。

 かなり国家体制が整いつつあったこの時代でも、体制側は目を「マ」と発音させていた。
これ、新しいメルクマールならめ。
 いろんな氏族がいたわけだよ。混同もあったさ。しかし、古い時代になればなるほど、い
ちおう、目は「マ」、神は「メ」だったんじゃないのかなぁ〜。
 日本だけだよ。目を「メ」というのは……。世界規模では MATA です。
 そして「女」も世界規模では「マ(mat)」だった。しかし、熊本〜北九州〜宇佐にはメメ
コがある(豊後はボボ)。この勢力が中央に移動したから、見えなくなっちまった。
 
★ 「ひと・つ」の語源は「総ての」で、ネパール、アイヌに共通。「つ、ち」の数詞語も
  ネパール語にあります。

> 数詞は先に来る。
★ ルソン島に入って支配階級になった氏族の素性洗い出しが先決。ここは頑強な形容詞後
  置形です。
  イヤァ〜桜さんタシュケテェ〜〜。
  ホーント、ホント。結論はすぐ出るでぇ。みんなにもやりかた、おせぇたげる。


[2192] Re[2190]:「一目ぼれ」も両目で見る。  [Setoh] 11/22

> > この「一言」は、一つの言葉(One Word)ではないんじゃないでしょうか。
武士に「二言」はないとか。
数詞先行は先進国の言語だったようですね。


[2191]  激しいあくび  [焼尻紋次郎] 11/22

 東京は王子駅ちかくにある音無川は、熊野を起源としたんやったんカネ。行者のミナシャンは、
日頃から食べ物や腹冷えに気ぃつけていたんやなぁ。アイヌ語そっくりの川名ですた。

 九州のメメコ……二番めのメが「目」だと惟ふ。遮光器土偶の目。KHOS (さや、蔵)という考
えかた。サンスクリット語 ; マタハリは天の目(太陽)。マタギもヒマラヤの堆積水成岩に見ら
れる卍の目だと惟ふ。役職の目(サカン)、大目付、目明かし、額中央上部の隠された目。

 とにかく日本の神さまヒメだらけ。ちょっと譲ってこれを「女」としたとき、足きり宦官の偏執
は入っていなかったのだろうか。宇佐の三女神のうち二柱の名前には「足切った」が入っていた。

* 英語 ; URINE(発音はユーリン、エデン語;水・すること)。MAL(もの、事)が動詞化した。
* 古代日本語「クラ」だけで「谷」、語源未詳。「暗い」は誰が言うたんやろ、ひょっとしたら
  黒姫と繋がってるのかもしれんなぁ。……ク・ク・黒姫げなち。
* 素っ裸……「はだかる」からの忌み。「赤裸」も金属精錬士偏執になんかあったよなぁ。


[2190] 「一目ぼれ」も両目で見る。  [玄松子] 11/22

> 一言主大神であって,言一主大神ではない。数詞は先に来る。

この「一言」は、一つの言葉(One Word)ではないんじゃないでしょうか。


[2189] 一つ目小僧は男児  [Setoh] 11/22

「め」は女神か?然り。
雄略天皇と狩りを行った葛城の神の名は一言主大神であって,言一主大神ではない。数詞は先に来る。
以下、屁也。天目一箇神と言う鍛冶神とされる神の名だが,普通,天一箇目神とするほうが数詞先行でなじみやすいと思うのだが,何故、目一箇か?
 一箇目(ひとつめ)とやると女神と間違うから。


[2188] Re[2186]:水は飲め ひるざけ飲むな  [Setoh] 11/22

> 爺続き 
地続きのことを「お隣」と言う。武蔵国では便所の意味。ここへは素裸で入ってはいかんらしい。尤も,紀の国では盲目神らしいから素裸でもばれないかも。
昔は厠は水洗で,小川の側に作られたので川屋だそうだ。高野山の宿坊が今でもそうです。
便所の神の一つが水波能売(みずはのめ)命であり,伊弉册尊が火の神の迦具土の神を生んで神避(かむさ)りする前に,尿(ゆまり)に成れる神の名は云々と『古事記』にある。


[2187] Re[2186]: 水は飲め ひるざけ飲むな  [玄松子] 11/22

>  あっしゃ「神名で『○○ヒメ』とある場合、それは女性のヒメではなく、半分はオトコ
> だ」と唱え続けてきましたが、それを証拠だてるひとつが「ミズハノメ」で、おしまいの
> 「メ」だけの使用は「ヒメ」になるいっちょ手前の現象だと思えるのです。

天若日子(アメノワカヒコ)をそそのかした天探女(アメノサグメ)=アマノジャクとする話がありますね。アマノジャクは通常男です。アマノジャク+女という感じでしょうか。

罔象女(ミズハノメ、彌都波能売)は、ミズハの女ということでしょ。クラミズハ(字忘れ)という神は、谷あい(暗い所)の水神ですが、これはひょっとすると男かもしれません。

ウズメ、ヒルメ、「メ」のつく神は、「女」だと思いますよ。


[2186]  水は飲め ひるざけ飲むな  [焼尻紋次郎] 11/22

 なんでもかんでもネパールとかネワ−ルとか、あのへんの言葉と関係させて日本の神さま
の名前の意味を探ろうとするあっしの姿勢には、かなりのお方が眉ねを寄せていらっしゃる
かとおもいます。
 しかし、これには深ァ〜いワケではなく、極めて単純なワケがあるのです。すなわち、明
治の文明開化いらいの百余年間、日本の言語学者が語源追求をまったくしなかった……ただ
それだけの事情ですじゃ。

 今は、どんなことでも鵜の眼鷹の眼で探している段階です。方法的に今は「関連がある」
と看做す段階ですのでアマカネ。
 しかし、的はしだいに絞られてきました。

 あっしゃ「神名で『○○ヒメ』とある場合、それは女性のヒメではなく、半分はオトコ
だ」と唱え続けてきましたが、それを証拠だてるひとつが「ミズハノメ」で、おしまいの
「メ」だけの使用は「ヒメ」になるいっちょ手前の現象だと思えるのです。
 では「ミズハとはなにか」と訊かれても答えは「オラシラン」だったのでした。

 ところが「ほにゃらか」には桜左近氏が現れて、優秀なインド語辞典のサイトをみつけ、
いま片っ端から、従来の不明な語彙が急スピードで解明されつつあります。
 ネワ−ル語の pa に國の意味があるというのです。
 ミズハは「水國」すなわち「水木・水城」などと同じことだと看做していい。そうなん
だ。それにちがいないのだ。……という段階なんですた。
 
 瀬藤ドン、旅ゆけば、としよりはついつい水分補給がおろそかになる。
 ひるざけやめてミズハノメ、なも。ところでこの神様、どこで出て来たんやったカネ。
  べったりヂ続き ; http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/yakbbs.cgi


[2185] [2181]ひのもと [中世のお遍路さん] 11/22

石碑が発見された という件から出発する内容だったと記憶しています
中央 と書いて、ひのもと と読む町があるという例が、番組で紹介されていたと記憶しますが・・・
[2179]で、‘多くある‘は、間違いです。まれな例として、こういう読み方をする土地があるのかを探そうとする、という内容でした。

ぽすたるガイド では見つかるわけもないし−中央と言うぐらいだから下2桁は00だろうしーうそカキしたのか冷や汗もので、泥沼にはまってさらに墓穴を掘っている感じ。


確か交差点の標識のローマ字や、町名の標識看板(町角の家の塀等に付けてあるもの)を映して、漢字が中央で、振り仮名が ひのもと と示したシーンと。
土地の古老の話として、ひのもと と読んでいたが、行政上の理由で ちゅうおう と読むようになった土地の例とがあった。
中世の官人が「住めば都」の意味合いでそう読んだのではないか、と言う解説が謎解きとして入っていた。
このような記憶があります。

つまり、枕詞ではなく、土地の名前の読み方として考えるべきものであって、飛鳥や春日のようには捉えられるものではない。
当て字 当て読み のよもやま話しが主旨だった?????

なお、日下で ひのもと の読み方が有るというのも、別の例としてこの番組の中で紹介していたように記憶しています。
お騒がせしました。


[2184] 磐座と水気  [Setoh] 11/21

 六甲も生駒も磐座の多い山です。この秋に立て続けに両方を歩きました。
 六甲は越木岩神社と保久良神社,生駒は岩戸(磐船)神社と聖天さんです。違うんですよね。
 六甲は南向き,燦々と日の当たる中腹の磐座,生駒は一つは川沿い,一つは中腹ですが,水っぽいと言うか流れと湧き水があります。やはり水っぽい方が感じとして神の依りつくように見えます。
 三輪山の磐座,石上神宮には磐座は記憶にないのですが,桃尾の滝の近くの石上神社などの磐座と比べると滝の近くの水っぽさがよりよい雰囲気を醸し出しているように思います。
 神社参詣の雑感でした。


[2183] ポコペン あがあがアジュネ [焼尻モンチロ] 11/21

 ケンシ.ニチパ、ウリしこしシテたアジュヨ。
 ニチパのホぺみたね。ニャンとにャンとエチプトコやてたあじゅちゃないか。
 アイヌコみたあと、ミナシャンミナシャン ヨショのコトパ見るヨロチね。
 オジェ、アンチンチテ オッチヌてきるね。

 オマエ・ポコペン、チナコチテジュのことあじゅか? チョウコ・コオン(上古呉音)
ニポコとモヤモヤあじゅしょ。
 ちとのとこキタラ、おエメナンパ書くのことヨトチ。


[2182] ロム人 [ぽこぺん] 11/21

ユニークな言語学的アプローチを
されているHPです。おもしろいと思いまして御紹介。
http://www4.justnet.ne.jp/~kenji99/japanese.htm

いかがでしょうか。


[2181] Re[2180]Re:[2179]: 枕とヒムカ  [Setoh] 11/20

>中央(ひのもと)と読む地名の特集
「日本(ひのもと)中央」と彫った石碑が青森県上北郡東北町から出ているそうですが,漢字の読みに弱い神奈備ですので,念のための確認ですが,中央をヒノモトと読むということではないですよね。

庭続きの紋を覗くと,ウマシマジって、これ何だったカネ。とあります。
ヒノモトからウマシマジを連想すると言うのは,神様にもめっぽう強くなってきた証です。物部氏の祖とされる神で,『日本書紀』には可美真手命と出てきます。『古事記』では宇摩志麻遅命となっています。しかし,可美から甘美に,更に宇摩志と誤読されて来たとし,元来は神真手命ではなかったか,との説もあります。これは今置いておきましょう。

 近畿の地名に,ヒムカ、ヒュウガがあったのかどうかは,オラシランが,有名な草香,これを日下と書き、ついにはヒノモトの読む場所がある。まさに可美真手命を祭神とする石切神社が鎮座している。


[2180]  ヒ  ム  カ  [焼尻紋次郎] 11/20

 お遍路さん、あがあが。やっぱ系統的にスジひっぱってやらなならんですね。
 チュ−オーというのはどうみても、こりゃシナ語ですよね。その文字をヒノモトと読み習わし
ていた識字インテリ層がかなり永いあいだいたということですよね。

 ここをカキコするまえに下の「ほにゃらか」で、少し遍路しました。その後ひっくり返って
つらつら思いめぐらしていたら、前々からひっかかっていたヒムカとヒノモトが急接近です。

 また、NO には「身体」の意味があったことに思いあたったばかりでしたが、NO こそ「中央」
ではなかったか……と、振り回されています。ヒ・ノ(中央) MOTO < MUT(土地)です。
 小生の屁○○では、ヒムカは神社が神社になるまえの呼び名です。ひょっとしたらヒノモト
もこれかもしれません。と、いうのも「ヒ」はわれわれが知っている「日」だけではないから
です。
 あー、岩手のウノスマイ川の意味が、またわからなくなった。いや、一歩前進……かな?
   ことばのお遍路さん ; http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/yakbbs.cgi


[2179] [2166]>枕詞  [中世のお遍路さん] 11/20

>磯城=しき? 磯城津皇子=しきつのみこ
>磯城島=敷島(しきしま)>> 大和の枕詞。
>大和の東側に多い?
「飛ぶ鳥の明日香」を、単に「飛鳥」で、あすかと読むようになった別の例として。。。。
「 日の本中央」というのがあります。中央に掛る枕詞です。中央(ひのもと)と読む地名の特集が、NHKで放送されたのを覚えています。:「言葉の歳時記」。
東日本が多かったような気がします。

しきしま と読み習わしていたので、寛永図にも、寛政図でも特に書き込まなかった。桂川系図だけがどうしたものか書き込んでいた>間抜けなカキコミでした。


[2178] 無題 [なにがし] 11/19

紋次郎さま
>暴れものの KAWA(渡りカラス)がやってきて、
その解釈おもしろいですね。また現実的にも思えますので、その線の可能性のほうが高そうですね。さすが。m(_ _)m


[2177] Re[2175][2145]無題−神前饗応  [Setoh] 11/19

> 近江の鮒鮨と同系のものでしょうか。

 同系と思います。
 鮒鮨は鮒をつけ込みつつ、飯を隙間にいれていく感じですが,馴れ鮨は,頭無しのサンマの姿鮨のようにサバ,サンマで作り、シュロと言う竹の葉に似たものでぐるぐる巻きにして桶につけます。10日程で浅馴れ,もっと長いと本なれと言います。これは飯も黄変してきます。
富山には鮭の馴れ鮨があるようです。

> 漁労民の神餞
魚,海藻などです。鮑、するめなど,神様は好物でしょうね。

 謙虚にも「屁理屈」と言おう。
 百済は十済国からの出世国のようですね。10人の忠義の志を称えたとか。
 ひょっとしたら,辰韓(後の新羅)は五十韓,これを上回ろうとした企てだったり。


[2176]  八つあたり 紋キリ節(ぶし) [焼尻紋次郎] 11/19

 ★ 風呂から帰るとき『古代朝鮮語と日本語』を持ってきました。
 やっぱありました。昭和49年講談社刊、キムシカ著 P478 「いそ(五十)」と SUJN
が並んで書かれてあります。
 キムシカさんからはモノノベ解釈のとき MON で騙されたような結果になっていますので信
用ならねぇが、福島さんからの通報で、現代朝鮮語に SWIN(五十)がみられるそうですの
で、いまいちど騙されてみようかぁ〜いう気になった。教育のコツは騙されることとか。

 「50+50=幸せ・吉兆」は外せない観点。「錫・鈴木・五十鈴川」などは、この朝鮮
語 su とパーリ語の SUSU(童神)の合成概念だっしゃろ。いや、パーリ語の SUSU そのも
のが 50+50 の偏執で成立していたかもしれない。

★ KOKOROさん、すがらの「SU」も朝鮮、日本、沖縄にみられる「鳥」です。
 雀のことを「すがら」と言った方言も考えられますね。朱雀はものすごい強執です。
 ホムタ天皇の剣がささけだっているとか、そのささけだっている剣をなんとかして鞘に収
めるなどのワイワイ騒ぎは、このウタだけで言われてきたことでしょうか? もしそうなら
これは考え直さねばならないと思います。
 おらがやった解釈には、剣が七支刀のようになっているとか、その「鞘」などは、どこに
も出ていないからです。

★ なにがしさん、暴れものの KAWA(渡りカラス)がやってきて、当たるを幸い、メノコ
どもとチ(刀)斬った……とする解釈、どな。
 キルには「タンカきる」などの「モノ言う」のほか、契約もありますね。しかし、これら
は男女のチギリとは別語源みたい。 TIK とは……ここは神域、想像カネ。

★ 福島さん、おらが子供のころ、朝鮮人のまねをして「アイゴ、ちょんぎった!」と叫ん
でいましたが、「ちょんぎる」とは朝鮮語でどういう意味ですカネ。

★ 香具さん、ささけだったはりがね(ハリは鉄という意味!)をより合わせたみたいな剣
……いちど抜いて、また鞘に戻す。そういう細工は可能なんですカネ。

★ ウマヤドの「ド」、アモリ、出羽のガッサン……。ただいま「ほにゃらか」で桜が花咲
いた。ああ、チョイナ・チョイナ  http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/yakbbs.cgi


[2175] Re[2145]無題−神前饗応  [狭手彦] 11/18

>「ネコジャラシ」という「えんころぐさ:狗尾草」をご存じですか。稲科の雑草ですが,やはり穀物が採取できるそうです。水野裕・森浩一『空白の古代史』によりますと,明治十年代には丹波の陸田でつくられていたそうです。
初めてききました。やはり稲田に混生するえのころぐさの類種なのでしょうか。
>穀物類では米への依存度はさほどではなかったのでしょうね。
身分階層と東西により大違いだったのでは。民の大多数であった農民層は、江戸期までは、
今では雑穀と蔑視される方が主食で、米穀は年貢として巻上げられるものだったのでは。
かつ東日本では、たかだか200年程度前の江戸後期でも大飢饉にみまわれていたのですから。
>和歌山に「なれ鮨」と言う酢を使わない鮨があります。実に美味しいものです。
近江の鮒鮨と同系のものでしょうか。発酵鮨も南方海洋民系でしょうね。これに対し糠漬と浅漬の如く対蹠的な、酢を使う江戸前寿司はせいぜい江戸期発生の新参ものでは。

神事の際の神への饗応食物は、農耕民は酒と赤飯即ち原始陸稲だったでしょうが、漁労民は何だったのでしょうか。


[2174]  おチャの子サイサイ 屁でとんだ  [焼尻紋次郎] 11/18

 おらも屁○○流でお相伴やるべ。ミナシャンも退屈したら遠慮なしであくびこきなされ。
 KOKORO さん、國樔のうた……やっと解けたみたい。

 本文 ; 『品陀ホムタの 日の御子 大雀オオサザキ 大雀 佩ハかせる大刀 本剣 末ふゆ ふゆ木の 
 すからが下樹の さやさや』

* 途中、本剣とあるは「ほむた」の「ほん」をうけて握り手が MOTO(太い)の剣(つるぎ)
* ささぎの“ギ”が樹にかかってくる。
* ホムタは HOK(祭る)の *MUKH(中央) TA(神・ひと)。天皇とは斎祀がメーン。
  日の御子といっても、この「ヒ」にはいろんな意味が懸け言葉されている。剣の御子でもある。
* すずめ(雀)のことをササギと言っていたのだろうか? ミソサザイはおいしそうな鳥だ。
  ネパール語; SASAK(支配者)は、一般土着民には「ササ」となって聞こえていたはず。
  第二子音濁化のクセで「ササ」は「サザ」となる。ササギの GI は「ひと」でもある。
* 「ふゆ木」は、クソヂヂィ流で言うと「大王のミイツがふる(霊力の発揚)こと」。
* 「末ふゆ」の「末」は、本(もと……天皇)から末(民)へ(霊力が)降ることを内包。    「ふゆ木」は天皇を「そのようなミイツを垂れたまう木」に譬えての木。
* スガラには多くの懸け言葉があった。
  國樔の「ス」。
  S(強調接頭辞) + ukara(われわれ人民) ……ウイルタ語にもXARA(同胞)あり。
ガラはネパール語でも「小鳥」……その恵みぶかい樹の恩恵に預かる小鳥。
  sukh(幸せ・健康・うま酒)
* 下……*SI(強力)TA(神……ここは天皇)。シタキは拠るべき大きな樹。
  「(人民が)慕う、親しむ」も懸け言葉されている。
* さや、さや……ネパール語的にいえば SAIT-ILLO だが、慣用によって SAI-IYA 。すなわち
  「瑞祥・いや増す」ということ。また「その樹の下にいれば安易これかぎりなし」を謳った。
 これまでの解釈は、「さや」といえば刀の鞘しか連想できなかったし、「ささ」といえば、先っ
  ぽが「ささケだつ」しか連想できなかった。そういう狭い日本語の範疇内でコップの中の嵐をく
  りかえすだけだったにすぎない。

 こう見てくると、ありゃ、最も難解と言われた句が、現代人にもわかるじゃないか。
 これ、どういうことなんだろうか? やっぱ「屁○○」ではなかったと惟ふぜ。
 ダレダ、尻でアクビこいた奴は。


[2173] Re[2161]: お知らせ  [香具] 11/18

 鎮魂祭、石上神宮では『みたまふりのまつり』と読んでいます。
魂の力を振るい起こし再び活発にさせる、という意味だそうです。その魂は『天皇霊』とか。
しかし、この場合は個人の天皇陛下のみをさすわけでなく、日本国の活力を象徴する意味での天皇霊と捉えたく思います。日本の公的な側面についての活力、伝統や文化、風土・気象などの自然も含めて。(というのは、一般庶民の個人的な『たまふり』を願う祭りが、『玉の緒祭』として2月の節分前夜にあるからです。)

:鎮魂祭について神宮のパンフレットから無断で抜粋します。
『当神宮の特殊神事で、新嘗祭の前夜、午後五時より斎行します。まず、鎮魂と関わりの深い宮中八神と大直日神とを祀る摂社天神社・七座社の例祭を斎行し、引き続いて本社拝殿にて鎮魂祭を奉仕します。神代の昔に饒速日命が豊葦原中国に天降られる時、天津神から授けられた「天璽十種瑞宝」(あまつしるしとくさのみずのたから)には起死回生の霊力が宿っていて、「一二三四五六七八九十」と唱えながらゆらゆらと振ると、死んだ人でも生き返ると伝えられてきました。この十種瑞宝は饒速日命の御子宇摩志麻治命から神武天皇に奉られ、天皇御即位の年の十一月、天皇・皇后の御為に大御寿命(おおみいのち)の長久を祈られた時に用いられました。これが鎮魂祭のはじめです。第十代崇神天皇の御代に、十種瑞宝が布都御魂剣と共に当神宮に祀られてからは、宮中と当神宮で連綿と斎行されてきました。鎮魂祭では、祝詞奏上ののち灯火を滅し、浄闇の帳の中で招魂の秘儀が厳粛に執り行われます。』

 ここにもあるように、まず楼門南側、出雲建雄神社の北隣りに鎮座される摂社天神社・七座社の例祭が先に斎行されます。これを知らずに拝殿の前で、じっと待っていると、楼門の外で祭礼の太鼓が聞こえてきて慌てたりしました。
 その例祭を終えてから、拝殿へと舞台が移り、鎮魂祭が始まります。境内には篝火が焚かれて、雰囲気満点?・・・拝殿の中には氏子代表や崇敬会代表の方々が居並びますので、新参者としては昇殿を遠慮しました。境内にパイプ椅子が並べられるのですが、参列者が多くて数が足りないので、どうしても、ご老人達に席を譲り立ち見になってしまいます。
すると・・・、寒いのです、足元から冷えるのです。もし、はじめて参列される方は、ブーツなど足元の寒さに耐える工夫をお勧めします。結構、時間の長いお祭りですから。

 拝殿内では、わずかな灯火のみで儀式が進行していきますので、立ち見では判りづらいもどかしさがあります。それでも、普段経験しない薄闇の中での斎行には十分な雰囲気が醸し出されています。
 クライマックスには、境内も含めてすべての灯りが消された闇の中での秘儀が行われます。100人以上の人々がじっと息を潜めて覗うその時間、5分か10分か・・・時間の感覚が無くなりかけた頃、神前でパァーッと一つの灯りがともり始めます。まさに起死回生、魂振りの呪力を感じさせる演出でした。ちょうど弱々しい冬至の太陽が、陰のピークを乗り越えて、輝きを再生し始めるイメージです。あかりが灯ったときに参列者の輪に、はれやかな安堵の表情が広がっていくのを実感しました。大晦日の夜中から新年を迎えた時の雰囲気と似ています。
 儀式が終わり、宮司さんが神様の御魂代を大事に抱えて、お供のご神職が提灯で足元を照らしながら禁足地内の本殿に消えていく姿は、まるで一幅の大和絵のような情景でした。見ていて思わず「Oh!Japan!」と嘆息。今年は、都合がつかず参列できないのが残念です。

 鎮魂祭は神宮の特殊神事ということで、参列者も近隣の氏子のみなさん、崇敬会の方々、代々の篤信家を中心に集まってこられます。一般参列の方々へも良識的態度で臨まれることを期待される、厳粛な祭礼でした。むしろ秘祭ですね。
(夜店が出て賑わうような、いわゆる、お祭りではありません)


[2172] お詫び  [中世のお遍路さん] 11/17

>みどりやま文庫
こんな間違いをするなんて。。。
1 もちろん、紅葉山文庫です。
2 「呈譜」 だったのであります。
紅葉のごとく頬染めて・・・・


[2171] 「あてずっぽう」と タマ(霊) [焼尻紋次郎] 11/17

 あらま、そうでした。[2166] には「屁○○」とあります。こんごキをつけて「屁○○」に
しますのでカニしてクタシャイ。
 だどもよぅ、ここ1500年ぐらいの先祖たちも悪いんだ。「あてずっぽう」とは、もとも
とは舟の「当て山」であり、たしかな目安のことだった。ネパール語 ; tuppo は尖、頂上。

 お詫びにタマ(霊)の語源
  中公新書刊『日本語に探る古代信仰』P156 ではタマが二音節であることに注目して、
「これは外来語だろう」と叙べている始末です。クソヂヂィにしては、まぁよくできました
と褒めてあげねばならないところでしょうか。
 されどアイヌ語の RAM , RAMA , RAMAT(こころ)との引き合いも出さず、いい気なも
んです。

 出雲では道ばたでの出会いの挨拶は「きのふはだんだん」「先日はだんだん」から始りま
す。これ英語の THANK やドイツ語の DANKE(あが)と同根。
 豊後浄瑠璃には「だんな、だんな、だまんねぇ早よからなにごつかえ」が出てきます。
「だまんねぇ」とは「ダム・ある・ない」で、結局「肝(ダム)が潰れて・ない」というこ
とで、古代人はこころが肝臓のなかにあると考えていたことがわかります。
 沖縄では「いいえ、そうではありません」を、短く「アラン・アラン」といいます。すな
わち「ある・ない」と、もってまわった言い方をするのですが、 これは汎世界的傾向ではな
いでしょうか。ネパール語では CHAINA(○○ではない)といいますが、CHA は普通の「あ
る・そうです」という意味で、これに INA(否)がついて、ぜんたいの意味は“否”なんで
す。
 大分や土佐では大笑いをしたときには、苦しい息の下から「たまるか・たまるか」を連発
しますが、これは「タマ(霊)がまだ消えないで、あるか」と言っているのです。標準語で
の「タマラン」と同じです。
 長くなりますので、きは「ほにゃらか」読んでくれたらダンダン。


[2170] おひさしぶりです  [三碧星] 11/17

 うう、やっぱりレベルが高い対話がなされてますね。
 伊勢ノ国文庫の三碧星です。

 ますます勉強不足を実感してます。ROMして、これからも勉強させていただきます。
 すごく貴重な情報を投稿していらっしゃる皆さん、これからも頑張ってください。


[2169] 石城の中の無霊  [Setoh] 11/17

庭続きと称する紋をくぐると「瀬藤どんのあてずっぽう推量」と言う言葉が出ている。
そのあてずっぽうに輪をかけて見よう。
割り切れば,崇神と磯城の三輪明神,垂仁と布留の石上神宮,どうやらセットで語られています。
この呪術王朝は北の「石」,南の「磯」をテリトリィとしたのでしょう。
石=磯,イソがイシとなり,イシのイがとれてシが残る。あてずっぽうその2。
磯城を「シ+キ」と分解して「シ」の「キ:土地を表す」とやると,敷島の場合,島が重複で,これは承伏できん紋ね。これは各地域を仕切るのシキでは? あてずっぽうその3。
なお「シキ」は信貴山,河内の志紀,また肥後天草の「志記」,武蔵の「志木」など各地にあるようです。


[2168] Re[2163]: 布留の伝説  [香具] 11/17

毎度、ご無沙汰しています。このお話しは天理市史の中にも採用されていたような気がしますが、多分、能の『布留』が元になった説話だろうと思います。観阿弥(または世阿弥)の作品だったのでは?・・・中世に作られた物語りのようですね。もっとも、当地にはその元ネタが在ってのことでしょう。能に詳しくないので、このへんで失礼します。


[2167] Re[2163]: 布留の伝説  [なにがし] [Url] 11/17

横からすみません。

> 『昔、布留川の上流から一振りの剣が流れてきた。・・・

勝手な空想ですが「布留川の上流から一人の暴れん坊がやってきて、近寄るものは切って行っいき、だれも手に負えなかった。そころが、ある女性と出会い一目ぼれしまとわりついた。そしてその女性の言うことだけは聞くようになりおとなしくなった。その暴れん坊死後、その魂がまた暴れないようお祭りした。」なんちゃって。実は伝説ではなくもっと奥深い実話があったりして・・・。勝手ななかんぐりでした、すいません<(_ _)>


[2166] Re[2162]: [2150]磯城:しき、の読みについて  [Setoh] 11/17

 中世のお遍路さん、ありがとうございます。
磯城島で敷島(しきしま),これは大和の国への枕詞でしたね。
はるひの春日,とぶとりの飛鳥,・・大和の東側に多い?
読み方は屁理屈しか付けられない一つなのかも。
その屁理屈として,元々の地名は「しき」だった。そこに崇神垂仁の五十王朝が誕生し根城を構えた。これを五十城と言った。好字令で2文字に改めた際、磯城としたが,地名は「しき」のままだった。
とか。


[2165] かむなび NOW  SIK BHUL [焼尻紋次郎] 11/17

>中世のお遍路さん、おはつ‥‥。お詳しい! むかしなら“系図屋”でメシが食えましたね。
 これらをジーっとみつめると、おらのこころは、先日でたアシハラのシコオとか、地名の
 色麻……木村シゲなり、楠木正成などの人名……これらは「磯城と平戸」のシキシマ・ヤマト
 に集約され、そのまえの 予想される「諫早古代ポリス」へと、導かれます。
 ところで、ヒマラヤ地方に同一発音、同じ意味で「ヘンロ」があると、横浜の建林賢司さんが
 言っていますが、 おききになったことはおありではありませんか? ご本人は高齢ですので
 電話でお邪魔することは、遠慮しているしだいです。

>ZOU さん、近しぶりですね。BHUL というのはひとつには朝鮮の「ふいご」です。これが支笏湖
 方面の胆振になったのは「イフキ」成立の事情とおなじだと思えます。
 「発音はそんなにも変らないで、内意のほうがどんどん変化した」のが古代語の特徴でしょう。
 HUL は日本語化されるときフルとも「フツ」ともなります(剣の名)。
 出雲と山口県大島ではフクロウのことをフルツクと呼んでいるのです。このフルツクはネパール
 語では BHUL-KA(KA は鳥)です。ただし、BHUL には過ちの意味がありますのでアマカネ。

 ウソはつかない「ほにゃらか掲示板」; http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/yakbbs.cgi


[2164] [2162]訂正  [中世のお遍路さん] 11/17

磯城津皇子:しきつのみこ です。ひこ が入らないです。
皇胤系図では、磯城津彦玉手看。 磯城津彦命。振り仮名無し。
親王を、ひこ と呼ぶのは古来からなのか。ひめみこ、ひこのみめ 。


[2163] 布留の伝説  [ZOU] 11/17

『昔、布留川の上流から一振りの剣が流れてきた。触れるものは石でも木
でもみんなスパッスパッと切った。それが川端で洗濯していた一人の女の
布にまといついて留まった。それを神として祀ったのが布留の明神、現在
の石上神宮のはじまりで、布留の地名もそこからきたのであろう。』

ある本(観光ガイドみたいの)に載っていたんですが、出典などはわかり
ません。

「一振りの剣」というのは「フツノミタマ」とは思えませんし、
なんなんでしょうね。ちょっとヘンなお話でした(^_^;)


[2162] [2150]磯城:しき、の読みについて  [中世のお遍路さん] 11/17

ご無沙汰しています
磯城津皇子:しきつひこのみこと。の例として。
寛政重修諸家譜 第21 中原氏 桂川 の項の冒頭文にありました。
恐らく、吉田凡舜の「中原系図 書写、家康に渡す:;慶長2年4月26日」舜旧記 第一 88頁 が、関わりがあるのかと思います。
共に、続群書類従完成会

みどりやま文庫収蔵本となり権威付けられたものであって、歴史的考証や、根拠を確認した読み方なのかはわかりません。また、その後の送り仮名かもしれません。
何しろ「神君家康公の収蔵せる所との相違有り」ということで、系図を書き換えた中原諸家の混乱の多くが、吉田凡舜の写本に関わるように思えてならないのであります。
その系図の多くが、「諸説云々」「異説これ有り」として、西暦900年代以前を記すということから、訂正を強いられたとも思えるのです。このような中で、読み仮名を記しているのが、桂川家系図だけだとしたら、しき と言う読み方の怪しさが感じられはします。
加えて「十市」の読み方として、とうち、とおち、とういち、が有ります。因みに私の叔母達は、といち、であります。
今の桜井市南部でしょうか、とうち郡と言う読み方が正しいのだとは思いますが。
華族要覧の、押小路家(男爵)系図を辿ると、十市県主やらというように、物部氏の系図となります。東京堂出版:;宮廷公家系図集覧 137頁より
ここで諸家(中原:押小路本家を除く押小路分家、嫡流家であった六角家の分家、平田、志水、八田)が、自ら分家としている系図で見ると、安寧帝の第3皇子 磯城皇子の後、十市宿禰の祖として、中原姓の諸家の系図があります。これは、凡舜の系図による影響ではないかと考えています。そして、押小路家のみが、太政官府にて明治を迎えたため、他の中原諸家とは違う系図となっているのだと思います。
経緯としては乱雑な見方では有りますが、しきのみこと の読みの根拠として一例お知らせさせて頂きます。
なお、崇峻帝の定世親王(号 中原親王)の、近江中原氏とは流れが違います。
中原姓は、二つの流れがあるようです。


[2161] お知らせ  [Setoh] 11/16

  ◇◆◇  文化講座「三輪山セミナー!」  ◇◆◇
    http://www.oomiwa.or.jp/frame/f04.html
『三諸山の神 ―国作りの神話から― 』
日 時 : 11月24日(土)14:00〜15:30
場 所 : 大神神社 大礼記念館 新館2階
演 題 : 「三諸山の神 −国作りの神話から−」
講 師 : 武庫川女子大学教授・文学博士 和田 嘉寿男先生
費 用 : 資料代200円
問合せ : TEL 0744-42-6633 三輪山セミナー係

   ★ 特に興味のあります方は、連絡の上、参加ください。
とのことです。



  ◇◆◇  石上神宮 「鎮魂祭!」  ◇◆◇   
身体健康を願い魂を「ふるい起こす」祭り。やみの中で行われる儀式も・・・
日 時 : 11月22日(木) 17:00〜
場 所 : 石上神宮 (天理市布留町)
交 通 : 天理駅より苣原行きバスで石上神宮下車すぐ
問合せ : TEL 0743-62-0900 
のようです。


[2160] 忍者  [ヒン] 11/15

よせば良いのに・・・
またまた、すみません。むか〜し、書いた忍者の歴史の
簡単な紹介です。昔なんで、細かく、おかしい点など
あるかもしれませんが、まあ、晩秋の夜長にどうぞ♪


忍者と言えば 『ハットリ君』そう、伊賀の服部氏です。
聖徳太子の在世当時から、伊賀に定着し、太子の諜報間
として活躍しました。

服部氏は 名前の文字からも 推測されますように
呉服部の支族で、4世紀半ばに日本に帰化した渡来系の
人々です。原祖は 太秦氏→秦氏。紡織の技術と散楽を
日本に伝えました。散楽とは 中国西域に発達した歌舞音曲の
事です。伊賀の服部の郷に定着し、敢国神社(服部氏の氏神)
の楽手、祭事の奉仕者として、神社に雇用される一面、
朝廷の命を受けて、紡織の業を伝えました。時代を降りて
農を生業となし、土豪化して行きます。

秦氏は 日本の各種の芸能、香具師の組織と 深い関係が
あり、服部氏も こうした組織と密接な 繋がりを保っていました。
これが 諜報間に多いに 役立ったわけです。

※ さて、日本で最初に忍者を用いたのは?

そうです。聖徳太子が 大伴細人と言う人物を諜報間と
して側近においたのが はじまりで、彼を 『志能便(しのび)』
と 言いました。

忍者第2号は 670年天武天皇の多胡弥と言う側間です。

他にも 諸説色々ありますが、吉備真備が 公式に 仏教を
伝達する前に、渡来人によって、孫子の兵法が 輸入され
それと同時に 忍術の元も始まったようです。



  古墳時代に 朝鮮半島から、大集団で渡来人は
  日本にやってきました。実に大和朝廷の支配層の1/3
  が 渡来人とよばれる 移住者でした。

服部氏が 当時、山伏の王国だった 近江国
甲賀郡の飯道山及び、伊賀国阿山郡49所在の
空海開基の僧坊にたむろする 修験僧達から
武芸、兵法をならったのが 忍術の始まりです。

では 山伏(修験道)とは何ぞや!

修験道とは 本質的には 宗教では ないとする
説が あります。
日本古来の神道と仏教が ミックスされたもので
神仏不二の信仰です。
しかも、当時、上流社会の限られた人々の
仏教を 民衆の中に布教させて行ったもので、
大衆庶民の立場にたった 考えでした。その為
主権者と常に対立する 運命にありました。
山伏は 何時も、官兵と戦はねばならず、小を持って
大を防ぐ闘争でした。その為、中国兵法の応用に
慣熱して行きます。孫子の兵法は 数万、数十万の
大軍によるものですので、山伏は 狭い日本の地に
あった 兵法に変えていったようです。
また、武術も発達しました。
中国と違って、個々の兵の持つ殺人技術の如何が
勝敗を左右するのが 日本です。
その為、人と戦う武器として、金剛杖が 改良されました。
中国の杖術+日本の棒術が 発達し、古神道の気合が
これに 付加されました。

◆ 修験道の3つの力
   
   気合術・催眠術・医療法・・・日本古来の神道の伝統に
   仏教がもたらした中国の新知識を加味して 想像された
   もの。  『探湯(くがたち)』・・熱湯に瞬時手を入れても
   火傷しない。『火渡り』など。 

修験道の祖は 役行者小角(えんのぎょうじゃおづぬ)
です。彼のお話は 次でがんす!

 

<役小角(えんのおづぬ)・役行者>

7世紀末から8世紀初の呪術師。
賀茂氏の一族である役氏の出身で、
奈良盆地の南の葛城山に住み、そこで
修行し 特殊な呪力を身につけた。
その術によって、鬼神を使役し、水を汲ませたり
薪を採らせたりした。もし 言う事を聞かなければ
呪力で 縛りつけられ身体の自由を奪われる。
弟子の韓国広足(からくにのひろたり)が、呪力を
ねたんで「妖術で民衆をまどわしてる」と讒訴。
ついに 伊豆へ流刑。小角は 純然たる平民です。
7月7日に亡くなったとされています。

<修験道の精神>  和魂思想(和を最上の道とする)
 
当時の仏教は 哲学的で難しく、貴族の
都市型伽藍仏教でした。
しかし、仏教は 国民生活を向上させるための諸制度や
医薬学、土木建築技術、殖産法を伴って渡来しました
ので、国民生活向上の為に是非とも必要でした。

この外来文化は 決して難しいものでない、庶民の悩み
を 救う現世的な宗教である。・・・これを、民衆に
納得させるには 現在的な力を示さねばならない。
山中における 厳しい精神と肉体の錬磨、訓練の結果
生まれる奇蹟(気合術・催眠術・医療法)を 里にでて
民衆に顕示する事が 仏教の布教の一つと解したのです。

また、貴族達の伽藍建立が流行する中、多くの人民は
苦役と重役に窮亡し多量の流民が生まれ、
修験道は それらを傘下に入れて大きく
膨張して行きました。

<行基の登場>668〜749年

官寺に入り、道照和尚について仏教を学び、伽藍仏教に
飽き足らず、大衆の中に入っていった僧。
神仏不二の思想に同感。本地垂跡説を唱え、修験道の
教えを 今度は 逆に、貴族や朝廷にまで 浸透させます。
これによって、80年にわたる、民衆と政府との戦いは
終焉し、修験道は 公認されました。(藤原氏の賛同を得る)
そして、大仏殿建立の原動力になって行きます。

<密教と修験道>

伝教、空海が出現し、天台・真言の密教の布教が
始まります。山伏らは 彼らを助け、技術も惜しみなく
提供しました。また一方、山伏らは 伝教、空海の新知識
(土木・医薬学・殖産法・易学)の影響を受けます。→三密一致。
陰陽思想も吸収し、山伏達は やがて 荘園の確保と
発展の為に置いた 僧兵に広がりました。

<山伏兵法が産み出した忍将>

・金太郎さん!! ・・・源 頼光は 鞍馬八流と言う
              山伏兵法を学び、その家来の
              一人が 坂田金時。

・源 義経、八幡太郎義家・・鞍馬八流 
・平将門
・藤原純友 など 

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

私の時代劇のイメージから、伊賀と甲賀は 
敵同士。黒衣裳が 伊賀で、待ち伏せしている
のが 灰色の甲賀か 風魔。

ところが 調べますと、甲賀も伊賀も同一伝書、
同一兵法を用いて、しかも 事あるごとに
盟約を結び、敵対してない事が わかりました。
もともと、古代において、両地区の区別がなく、
地続きで、後年、行政区が 別れたところです。
地図を見ても、近江の甲賀と 伊賀の上野や
名張一体は 繋がっています。
つまり行政権のちがった両地区に、同じ
言葉の同じ人種が住んで、同じ事をして
一方を甲賀流、一方を伊賀流と 読んだに
過ぎないらしいです。強いて言えば、
甲賀53家、伊賀49流というところの違い
だそうです。

しかし、伊賀は 東大寺の荘園が ほとんどで、
残りわずかな地に地侍達が ひしめき、一方の
甲賀は 佐々木家が守護として 君臨してきました。
地侍は 家人として 従属していましたので、
その国情は 大きく異なっていたようです。

いずれにしても 甲賀と伊賀が 親類縁者も
多く、仲良しこよしとは 知りませんでした。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

よもやま話し。

東京在住の方は よく御存知でしょうが、
『上野』と言う地名、家康の信任の厚かった
藤堂高虎の 居城とした 『伊賀上野』から
とったものらしいです。江戸城築城と 都市計画を
立てたのも 高虎です。また、現上野あたりの
藩邸用地を 賜って住んでいました。そこに
あった池に 『不忍池』と名づけました。
(忍者は いないよ!とわざと訴えてる?)

同様に 伊賀上野に行くと、広小路・向島
田畑・赤坂・車坂・馬苦労・相生・愛ゴと
東京と同じ地名があるそうです。

伊賀と言う地名が つく所は そこに
忍者が 召し抱えられていた証拠だそうで、
彦根の伊賀町。隠語で、大垣の栗屋町。
→クリ→イガ(伊賀)。岡崎の伊賀町。
東京の四谷伊賀町。神田甲賀町。麻布笄町
(コウガ・イガの隠語で、こうがい町)

かの有名な 服部半蔵は 徳川家の
隠密頭。江戸城半蔵門前に邸宅を与えられ
職務に従事。有事の時に、半蔵をして守らしめる
門、半蔵揮下の隠密共の通用門から 半蔵門
と 命名されたらしいです。

有名な 服部半蔵は 服部半蔵正成。父は 服部半三保長。
この2人は できた人でした。ところが 息子の服部半蔵正就は
不祥の息子で、なんと 彼に対する不満から、隠密団が 
日本最初の大ストライキを やってしまいました。で、
とうとう、隠密頭も罷免させられてしまいました。(終り)



[2159] 醤(ひしお)  [ヒン] 11/15

どこやらのHPで、寿司の話が出ていたので、
ずっと前に自分のHPに抜粋した、醤油の話を載せます。お暇なとき、
覗いてください。
http://village.infoweb.ne.jp/~fwif4861/syuuyu.htm
醤油、納豆、もち米つながっていますよね。アジアは一つ!!
アジアでも、もち米を好む地区と、そうで無い地区があるしね。
これがやがて、寿司文化にもつながって行きます。
神社に関係ないけど、いいかな?ごめんなさい^0^


[2158]  にぐらっと わらった 紋次郎  [焼尻紋次郎] 11/15

 SWIN(朝鮮語の五十) が出てきて、アイヌ語の蝿を MUS といわれたんじゃ、紋ちゃんはここ
にカキコすることにならいしょ。

 まず朝鮮語の五十の SJIN という語形……これはついさいきん「ほにゃらか」に取りあげたと
ころです。そのときは「どこかで見た」と書きましたが、おらの拙著『衝撃のネパール語』にも出
していますので、たしか……出典はキムシカ著『古代朝鮮語と日本語』だとおもへけらくも、今、
その本は 2メートルも先の本箱の中にあります。近々調べて報告すべぇ。

 アイヌ語とされている MUS は MOS のまちがいではないだろうか? 
 瀬藤ドン、「発音ちょっとまちがや、てぇへんだ」のいい実例だ。こんご紋チャンには漢字の読
み方を懇切ていねいに教えてね。
 MOS はポルトガル語 MOS(蝿)と同一です。調べてませんが恐らくはスペイン語もそうなって
いるはずです。
 いっぽう、蝿は「ハイ・ムシ」のムシが省略された語形で、このハイは南方のフェ−(魚)と同
根で「魚にタカる(福島さん!)ムシ」がその語源だと思われます。
 ときどき話題にするビルマ・ボド語群ラ−ルング語の魚は「ハイナ」ですばい。
 沖縄の「ふぇーかじ(南風)」……南風がたつと俄然、魚の食いがよくなって釣れるワ釣れるワ
 
 アイヌ語、ポルトガル語の MOS と日本語の「虫」とは同根といえるでしょう。ではなぜ日本語
のほうに O から U の交替がおこったか……。それは「飛んで火に入る夏の虫」という慣用が作用
しているから。*MU 、MUS に「炎」が言えます。
 ムスヒとは護摩焚きなどの聖火を謂うんじゃないだろーか。「ムスブ」は“握る”を基本として
「掌握」、「生成」へと移行した概念だと思いまっせ。
 ムスヒとムスブ……これも「ハチオンいっちょまちがや、いのち取り」……ワッカルかな?
 古代人も混用してるかもしれん。気をつけて見て行きましょう。
 
  秋田〜津軽に「にぐらっとわらう」ということばがあります。RA は強調末尾辞。これ、どん
な[わらい]だとおもいますか? 例の NIG が入ってる。 下へ感想をお寄せください。
  にぐらっと「ほにゃらか」 ; http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/yakbbs.cgi


[2157] 助け舟  [ピンクのトカゲ] 11/15

福島さん
助け舟ありがとうございます。
歳とかそっちですもんね。
五〇歳まであと八年か
覚えとかなきゃいけないな


[2156] Re[2154]: O-Ship  [福島雅彦] [Url] 11/15

> Setohさん
> O-Shipは、漢語ですよね。
> 最近、使ってないから、「いつつ」が「タソ」だから、五十だとなんでしたっけ?
> 固有語の方

横合いから失礼します。
“쉰”(swin)⇒五十、の事ですか?。


[2155] Re[2154]: O-Ship  [S.Setoh] 11/14

> Setohさん
> O-Shipは、漢語ですよね。
そうですか。

いつ 伊都 i-tu ta-s∧s
いそ 五十 i-iso sujn
五十は崇神とか垂仁の和風名に出てきていましたね。


[2154] O-Ship  [ピンクのトカゲ] 11/14

Setohさん
O-Shipは、漢語ですよね。
最近、使ってないから、「いつつ」が「タソ」だから、五十だとなんでしたっけ?
固有語の方


[2153] Re[2151][2150][2146]: 速  [Setoh] 11/14

ピンクのトカゲさん>HPに書いたたる
そうです。祟っているんです。畑井弘著『古代倭王朝論』から引用して十市御縣坐神社の所で書いているのです。
五十は朝鮮語ではO-Ship,これはいいんですが,『日本書紀』で,「押媛について葉江の女長姫、一に云う、十市県主五十坂彦女五十坂媛也」の引用から,「五十」は「押」としていますが,それでは「坂」は消えてしまったのか?「押」と「長」とはどうなんだと,この説には興味ありですが,疑問には思って来ているんです。

>磯城は、イソキとも読めますね。
ありがとうございます。そうです。キは訓読みでしたね。どうも漢違いでいけまん。


[2152]  よるが長いですなぁ  [焼尻紋次郎] 11/14

 としぃとってくると、KOKORO さんの精力にはカナワンあるが、そこはほれ、おらなりに
めくら蛇の怖じずのインチキ要領で名前だけを詮索すべぇ。

  《 八の比禮小刀子 》 
 まず感じたのは、刀子の発音は「トウス」なんだろうか。刀自は「トジ」と短い。だから
「トス」と読めたら久留米の北の鳥栖市に急接近できるが……。オウス、キヨスのようなス
ではないか……、クルスの「ス」にも通じそう。そのとき意味はどうなる? ちょと保留。
 次に「なんで「小」なんやろ、この小は KO(の)じゃなかろうか」ということでした。
 「八つのひれ」とは秦氏の八つの神宝と対比されているらしい。「魚のひれ」のように本
体から突き出た小部分としてのヒレも考えられるも、ここの比禮は祭具だと思われる。
 クソヂヂィの解釈は、例によって「ヒレは霊力の活動」。
   
  《 名古屋 》…… NAG(蛇神)、YA(神)

  《 八剣 ・夜都伎 》
 ヤツルギがなぜ夜都伎に変ったか。「る」はただの「の」だったから、も考えられるが、
一般論からいうと「八」は「多くの」ぐらいの意味で、実際にはそんなに多くも神剣がな
かったからでは? ヤツギには 1 夜のつとめ(晩酌) 2 柱神 が前々からあった。
 「八」がヤマタのオロチ斬りに因む偏執なら、本当の意味の「YA・MAT(土地)……へ
び」が分からなくなったからだろう。
 ヤツは現代朝鮮語の「浅い」に関係する「沼沢地」のこと。ため池になる前、そこも沼沢
地で、別系の呼び名でその沼沢を呼んでいたのでは?

  《 沖縄・出雲・諏訪……と ミズチ 》
出雲大社では毎年 1 M ぐらいの海へびを捕らえてイオマンテ(いのち送り)やってます。
諏訪は邑知地溝帯と糸魚川を通過してたどり着く。モノノベの「モリヤ」はイスラエルにも
インドにもいた氏族名だった。そして諏訪にも!
 
 河岸を変えたが宜しいようで ; http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/yakbbs.cgi


[2151] Re[2150][2146]: 速 [ピンクのトカゲ(桃色蜥蜴)] 11/14

>  磯城県主の「磯城」は不思議にもシキ,シギと読まれますが,磯には音,訓で「シ」はありましたかいな。「磯城」はキキかキジョウかいそしろですね。
>
Setohさん
磯城は、イソキとも読めますね。だから、五十坂彦とも繋がる。
自分のHPに書いたたると思いますが


[2150] Re[2146]: 速  [Setoh] 11/14

> setohさん
> 速日となれば、磯城県主・黒速の速とも繋がりますね。

ピンクトカゲさんの穂国 http://www.joy.hi-ho.ne.jp/atabis/  > 日本書紀神武の条は、弟磯城、名は、黒速を磯城県主とすると記載する。黒速の「速(HAYA)」は、「葉江(HAE)」と音韻の変化で容易に変わる関係にある。「速」は、磯城県主の世襲名・葉江と関係するわけである。

アイヌ語のgenさんのhp http://www.dai3gen.net/kosi03.htm から
 磯城県主の名前に神武紀には「黒速」というのがあり、欠史8代后妃の出自では「葉江」となっており、「速」は「ハヤ」とも読まれようが「ハエ」と等価,アイヌ語でハエ(蝿)は mus という。つまり、アイヌ語(<縄文語)を介するとハエ、とムス、が結ばれるのである
 速日、と「ムスヒ」は同じ語か、という展開が開けそうだ。

とありますね。

と云うことで「黒速」=「葉江」は一致ですね。
 所で「葉江の長姫」と来ると、言語に強い方々なら,海の蛇姫と理解されて,磯城県主は海人族であろうと考える訳です。磐船に乗ってやってきた饒速日尊や長髄彦を連想しますね。

 磯城県主の「磯城」は不思議にもシキ,シギと読まれますが,磯には音,訓で「シ」はありましたかいな。「磯城」はキキかキジョウかいそしろですね。


[2149] 神社による古代史 番外編 『インテルメッチョ♪ 国栖の歌』  [kokoroMail] 11/14

 『神社による古代史』番外編です。
 熱田神宮境内の佐久間灯籠のある場所からやや南に、徹社トオスノヤシロという奇妙な名の社が鎮座しています。現在では木立の中にあまりにもひっそりとたたずみ、「あつたさん」の参拝客は足も止めずに前を通り過ぎるだけですが、場所から言って神宮の末社と紛らわしいこの社は、実は八剣宮の末社なのです。と・お・す・の・や・し・ろ=Aしかしそれは、刀子のやしろ≠ナはなかったでしょうか。そして、とすればこの社は、『石上振神宮略抄』に「夜都留伎の神は八伎大蛇の変身にて神躰は八の比禮小刀子なり」とある八の比禮小刀子≠ニ何か関係があるように思われてなりません。

 大正4年の『名古屋市史 社寺編』には徹社について次の記事を載せます。
「境内末社に徹神社あり、水内ミズチ大神とも称す。天照皇大神の和魂を祀る(『祭神記』『鎮座次第』)。『熱田宮略記』『名所図会』等には祭神を建御名方神となす、恐らくは誤れるか(P155)」
ここでは祭神について「天照皇大神の和魂を祀る」とする一方で、「建御名方神となす」との異説も紹介されており、この異説については「恐らくは誤れるか」と曖昧にコメントされているわけです。しかし、むしろこれは逆ではないでしょうか。持統天皇紀5年8月23日の条に、「使者を遣わして、竜田風神、信濃の諏訪、水内社などの神を祭らせた」とあります。この記事の水内社≠ノついては、一般に信濃国水内郡の式内明神大社「建御名方富命彦神別タケミナカタトムノミコトヒコカミワケノ神社」を比定するのが定説です。当社の祭神は建御名方神であり、そして徹社は「水内大神とも称す」とあることから、おそらくこの社の祭神もまた建御名方神であると思われます。これに対し、「天照皇大神の和魂を祀る」の方は、単なるもっともらしい祭神の附会ではなかったでしょうか。
 このことを布留川上流域との繋がりで考えてみると、香具さんが発見したとおり、当該地域に鎮座している3っの九頭神社は祭神として建御名方神を祀ることが、直ちに想起されます。ちなみに、奈良県というのは諏訪神社を祀る数が全国で最も少ない地域です。県別の諏訪神社勧請数を表わした『日本の神々9信濃等』P148の表によれば、全く勧請社のない沖縄県を除くと、奈良県は全国で1番諏訪神社の少ない県となります(2社だけ)。したがって奈良県下でこの祭神を祀る神社というのはかなり特殊であり、それにもかかわらず、布留川上流域にはそれが3社も鎮座しているのは、この地域が祭祀的に極めて特色ある地域であることを示すと思われます(僕が『奈良県史5神社編』で調べた範囲では、建御名方神を祀る奈良県の神社は、他に宇陀郡の九頭神社2社と布留川上流域の九頭神社3社があるだけでした)。では、この3っの九頭神社と八の比禮小刀子≠ノは何か関係があるでしょうか。
 以前もこの掲示板で紹介したことがありますが(『石上神宮とクズ』H13.04.08、併せて参照していただけたら幸いです。http://www.kamnavi.net/log/yumv0104.htm)、応神天皇記で吉野の国栖が、オホサザキノ命(即位前の仁徳天皇)の腰につけている大刀を見て次のように歌います。
 「品陀ホムタの 日の御子 大雀オオサザキ 大雀 佩ハかせる大刀 本剣 末ふゆ ふゆ木の すからが下樹の さやさや」
 この歌は超難解で有名ですが、折口信夫による興味深い解釈があります。
「この歌はまず、大雀(オオサザキノ)尊に刀身の幾枝にも岐れたまじっく≠フ剣を捧げ、それに託して国栖族の守霊を附着せしめて奉ると言った意味のものであるらしい。
 剣には石上神社神宝の七枝剣のごとき変形の剣があるが、これは刀身が分かれて七っになっており、それに鞘をはめるようになっている。
 かように大雀尊を祝福せる剣は、七さや≠ナあるか九さや≠ナあるか分からないが、ともかくその歌詞によって、股のあった剣で股になった鞘を有していたに相違ない。そしてこの剣をもって大雀尊を祝福し、大雀尊に剣を佩かせる言義を附けながら鎮魂をおこなったのである。」(中公文庫『折口信夫全集 第二十巻 神道宗教篇』所収の『剣と玉と』P233〜234)
 折口によると、吉野の国栖がこの歌を天皇に奏上するのは、一族の守霊を大王に付ける服属儀礼なのですが、それについてはここで深入りしません。いずれにしても、その解釈に従えば7世紀後半以前に、吉野の国栖が七支刀のような股のある剣を用いて、呪術的な祭儀を行なったことになります。古代には、こうした変わった形の剣がたくさんあったとも思えないですが、その中で確実に存在するのは石上神宮の七支刀です。このため吉野祐子先生は『仁徳天皇と石上神宮七支刀』(『陰陽五行と日本の天皇』所収)でさらに一歩推し進めて、この歌の剣が七支刀であると断定しています。が、しかし、むしろそれは八の比禮小刀子≠ナはなかったでしょうか。「八の比禮小刀子」が「ヒレが8っある小刀子」だとすれば、形態的にこの小刀子もまた股のあった剣≠ノ該当しそうです。また、七支刀は神功皇后摂政前紀にある百済からの献上品とされていますが、そのような剣がどうしてクズ族に結びつくのかは、上掲の吉野先生の著書を読んでも今ひとつハッキリしません。これに対し、八の比禮小刀子の伝承がある布留川上流域には、当該3っの九頭神社が鎮座しており、この地域を介して両者は結びつくわけです。しかも、この3社中、長滝町にある九頭神社は、夜都(留)伎神社の上社とされる「長滝町日の谷の龍王社」が鎮座する「飛び火山」の麓に鎮座しており、山上の社を祀る里の宮だったと思えなくもありません(クズ族には龍神の観念がまとわりついているため、両者は異質な信仰ではないのです)。したがって僕は、この国栖の歌が八の比禮小刀子≠フ祭祀と何か繋がりが在ると思うのです。
 ただし、記紀を真に受けるとクズ族による歌の奏上があったのは、応神天皇の時代ですから5世紀代となり、これに対し夜都伎神社で八の比禮小刀子が祀られていたのは7世紀後半と思われますから時期が合いません。けれど僕は、クズ族と天皇家の付き合いは、記紀にあるとおり神武天皇や応神天皇の頃に開始されたのではなく、実際には天武天皇が彼らを宗教面で重視した7世紀後半がその端緒だったと思うのです。これについては、吉野町南国栖に鎮座している浄見原神社の伝承『国栖の翁』にもとずいて、以前『ほにゃらか掲示板』で論考したことがあります(『 Reクズの語源 参考にならんカネ』H13.07.28、http://www.you-i.org/setoh/log/yak107.htm)。この伝承の内容は記紀に全く見られないものですが、まさに神社の側からの正史に対する異議申し立てであり、実は『神社による古代史』というアイデアもここから思い付いたものです。
 少し補足します。クズ族が布留川上流域で八の比禮小刀子の祭祀を行った理由ですが、『神社による古代史E』等でカキコした鬼門に木気≠ナいうと、彼らには龍の観念がまとわりついており、龍が「木気」の象意であることと関係があると思います。さらに、後述するとおり夜都伎神社には龍神の観念があるのもこうしたことと関係するのではないでしょうか。
 また徹社の祭神について論考した際に、信濃国水内郡の「建御名方富命彦神別神社=水内社」のことを話に出しました。この神社が水内社と呼ばれたのは水内郡の地名によるものでしょうが、しかしまた「蛟ミズチ」と掛詞になっており、このため当社が祈雨神であるとする説もあります。これについては『日本の神々9信濃等』所収の大和岩雄氏『諏訪の神と古代ヤマト王権』P175部分をご参照下さい。蛟は子供の龍や子蛇としてイメージされ、水の霊(チ)とも解される水神です。『名古屋市史』によれば、徹社もまた「水内ミズチ大神とも称」していたとあるため、この社もやはり蛟と関係があるのかもしれません。しかしそうだとすればこのことは夜都伎神社の上社が「長滝町日の谷の龍王社」に比定されることや、『石上振神宮略抄』の夜都伎神社縁起で八つの子蛇≠ェ出てくることを連想させます。また水神といえば、もともと夜都伎神社には水神の神格があったと思われます。本来の式内夜都伎神社は、天理市乙木町にある現夜都伎神社ではなく、竹之内町の十二神社でした。それが江戸期に乙木村が夜都伎神社の社地を竹之内村の溜池と交換した際、十二神社と改称されたのです(なお、現夜都伎神社は交換後、乙木村にもとからあった春日神社を「夜都伎神社」に改称したといわれます)。社地を交換とは驚きですが、交換したものが溜池であったのは、この神社に水神の観念があったことを示唆すると思われます。
 なお、信濃繋がりで押すと諏訪湖畔では、湖を介して諏訪大社と八剣神社と葛井神社が結びついています。各地にある八剣神社という神社は由緒を調べると大体そんなに古くはなくて、ほとんどは戦国期以降に八剣宮を勧請したものですが、諏訪湖畔(ただし、今は遷座して湖畔にはないですが)の八剣神社は例外的に古そうです。他にもいくつか思い付いたことがありますが長くなるのでこの辺で止めます。

☆ ということで、今ひとつ確証が足りないものの、どうも僕は徹社は、八剣宮と夜都伎神社に繋がりがあることの痕跡だという気がしてならないのです。この目立たない境外末社は、遠い昔にはるばる布留川上流域から、夜都伎神社や九頭神社を勧請したものではないかしらん?


[2148] Re[2145]: 修験といえば  [ひふみ] 11/13

現在、代々大峰にお参りに来ている講はその職業等聞くと、忍者のみならず、海人や商人などあって、修験者達が日本を裏でつなげていたのではないかという説もうなずけたりして。
明治になって、修験道廃止令が出たのもそのへんからでしょうか。
源義経が、修験者の格好で東北まで逃げ延びたのもそのルートなのでしょう。
私としては、修験道はその当時の新しい知識や信仰をかりた、縄文的宗教なのではと感じているので、縄文ネットワークが存在したのではと思ったりしています。
ちなみに、日光修験は前鬼の子孫が行って開いたのが始まりです。
(ちょっと、神奈備からはずれてしまいました。)


[2147]  静かにして高らかなり おのれの足きりの宣言  [焼尻紋次郎] 11/13

 紋ちゃんにしちゃぁ、えらくドロ臭くねぇことォぬかしやすぜ。

 おらは、ここんとこ、「気高さ志向」の中核とか、その因ってきた必然がワカランかった。
 だがネ、加藤宝喜(喜八郎さん)著『波動の極み』たま出版刊 P158あたりを読んでいたら、
ワカッタ。仏教じゃぁ「背骨ピ〜ン」が出てこないのら。
 「背骨ピ〜ン」は柱偏執に支えられてきた精神伝統だったのら。
 いまから先、200年間ぐらいは世界の指導的理念は、この「気高さ志向」であって宜しいし、

また、それしかない。
 この「それしかない」を宣言するとき、人間はピ〜ンと背骨を伸ばすのダ! だが……静かに。
 加藤宝喜著『波動の極み』あさって発売 \1300.-

 紋次郎の尻あいじゃ言うたらトコトン質問できるよ。おらにも質問してね。


[2146] 速  [ピンクのトカゲ(桃色蜥蜴)] [Url] 11/13

setohさん
速日となれば、磯城県主・黒速の速とも繋がりますね。


[2145]   無題  [Setoh]  11/13

ヒンさん>忍者を調べて行くと、秦氏や服部氏、など芋づる方式に浮かび上がってきて結構面白いです。で、修験道とも密接に関係しています。
 秦氏の力量の源泉だったと言うことでしょうか。
 修験の行者の卵が山から伊賀側に転落した者が忍者に,大和側に残った者が行者になったとか,伊賀側の神職さんがおっしゃっていました。

狭手彦どん>納豆やちまき
習志野のてっちゃん> 当時の稲作は、水を扱う技術が低く、不安定でした。
 稲作の到来と鉄器との関係などを説いていた学者さんが多かったように思いますが・・。
 発酵食物も渡来なども考えると雲南方面もさもありなんでした。和歌山に「なれ鮨」と言う酢を使わない鮨があります。実に美味しいものです。是非お食べください。
 焼き畑で稲作が行われ始めたようで,畑の中の平たい処なんかに水が貯まっていて,そこがよく育ったのを観察して水耕になったんでしょうかね。
 
 ところで,「ネコジャラシ」という「えんころぐさ:狗尾草」をご存じですか。稲科の雑草ですが,やはり穀物が採取できるそうです。水野裕・森浩一『空白の古代史』によりますと,明治十年代には丹波の陸田でつくられていたそうです。穀物類では米への依存度はさほどではなかったのでしょうね。

桜左近さん>ニギ 「にぎる(握る)」と「にぎわう(賑わう)」
ありがとうございます。テルテル坊主の思いつきからの悪のりでした。
処で饒速日ですが,NIGIを「日の光」とすると「日の光が勝れている日」と言うことですかね。よく似た名前に,勝速日、桶速日などかありますが,速日への修飾をしているに過ぎないようにも思われますね。


[2144] にぎにぎ  [桜左近] 11/13

 席亭さま、その節はいろいろとありがとうございました。

 ネット上の著作権は難しい問題ですね。一応、出版社や新聞社などのメディアは「一切の引用を禁ず」と、宣言しているのですが誰もまともに受け取ってはいません。JRが、「電車に乗るときは携帯電話の電源を切れ」というのと同じくらい非現実的な要求だと思います。が、世の中には暇で口うるさい人がいて、当事者でもないのに「規則を守れ!」と乗り込んできたりします。
 先日ある言語関係のサイトで、アイヌと非アイヌの間で「アイヌとは何か」というまじめな議論が交わされていました。ところが掲示板の管理者が前触れもなくいきなり「ネチケット違反」で非アイヌの発言を削除したのです・・ちなみにこの管理者はアイヌ語の(自称)研究者。当然議論の当事者双方から「理由は何か?説明してください」と要望もあったのに完全無視、とぼけて済ますつもりらしい。(笑)

 おおっと、この掲示板にふさわしくない話題で失礼しました。

>処で,江戸時代に「役人の子はニギニギをよく覚え」ってありますね。これ権力を持つ者の本質でしょうね。

 私のシロート考えでは、ニギには二通りの全く異なるルーツがあるような気がします。なぜなら、「にぎる(握る)」と「にぎわう(賑わう)」が同根とは考えにくいからです。一方に紋次郎さんが饒速日のニギと解明したインド語のNIGI(日の光)があり、他方「握る」の系統のニギニギがある。ここでまたシロートの聞きかじり情報でまことに信頼性に乏しいのですが、シュメールの楔形文字でNIG(文字)が「お宝、財産」、NIGI(言葉)が「住む」を表すそうです。NIGはNINDAと読む説もあり、この場合「パンを入れる箱」、どちらにしてもニギニギ関連でしょうね。詳しくは下記のサイトを参照してください。

http://www2.4dcomm.com/millenia/wstag.htm

 シュメールといえば、このSUMERがスメラミコトのスメルだという説もあり(某おにさぶろうさん)、まさにカオス!。


[2143] 「こっちサ来ゥ」の コウノトリ  [焼尻紋次郎] 11/12

 おらが注目したなぁ熱帯ジャポニカの九州での分布にござんした。やっぱサイトバルから
霧島の東一帯を分布地帯として描いていた。その当時から、北部ー西部九州は海賊がのさ
ばっていたにちげぇねぇ。
 九州には沢がつく地名が1ヶ所もない。大集団ないし横の連絡が発達していて、台湾アミ
語系渡来民は片っ端から殺されていたのだ。

 八代から球磨川をまっすぐのぼり詰めた山岳地の稲作では田んぼの畦にちょんまげを結っ
たような竹を立てる。これが南國のどこに繋がるのか、興味が湧くのはおら一人やろか。

 善光寺の裏からまっすぐ西へ20 キロ走ると鬼無里(キナサ)。鬼無里にかかる前に道はし
だいに高くなり、つぎに下り坂となるが、その脇の沢の名前が「品川」。
 寒冷地の稲(シネ)作が高地から始ることを雄弁物語りカネ。

 明治2年に置かれた七戸藩は香川県よりも広く、犬猿の仲だった南部藩と津軽藩の緩衝を
狙ったものだった。おらはそのときの殿様の孫と文通していただ。
 黒潮は金華山沖から東に外れてゆく。おまけに岩手山からじつに冷たい風が吹きおろして
くる。その反対に津軽は稲作技術が発達していて、反当たりの収穫が南部藩よりもはるかに
よかった。これが両藩のいがみあいの原因だった。
 
 瀬藤ドン、鸛だが「かふのとり」とふりがな振った形跡はないカネ。甲府に気がかかる。
 鷺のアタマの羽は古代船長ウルサグのアタマの羽に似いちゅうので、サギの名が定着した
……は○○さんの説だった。
 黒カニシにうち克ったのが朝鮮〜シナ系のコウノトリを中心においた白い鳥の勢力だっ
た。なら鉄っちゃん、稲作の前に金属精錬での白黒対決があったと思うよ。
 ところで、コウノトリは関東などではあんまし聞かないが、北限はどこだろう。
 子供の魂を運んでくるのがコウノトリ。堀井令以知さんによれば「コウ」は相手の魂を呼
び寄せることだという。これは世界的なタマシイの運び屋と一致する。


[2142] Re[2140]: RE:2137 NHK  [習志野のてつ] 11/12

> NHKスペシャル 「日本人はるかな旅(04)イネ、知られざる1万年の旅」
> の方が私には興味深いものでした。… ←私も同感です
> 日本の民俗・民族起源は雲南地方が有力と習ってきたのが、放送では遺伝生
> 物学と考古学面から、稲作伝播は縄文期のBC4000期で起源は揚子江中下流域
> (陸稲は熱帯JAPONICA種は中流域、水稲温帯JAPONICA種は下流域)と考証…

私は稲作に関心を持っていますが、一番感心したのは以下の部分でした。
『熱帯と温帯のジャポニカを混植(近くに混ぜて植える)すると早稲(わせ)
が発生。このことが当時(BC1世紀頃)の最北端での稲栽培を可能にした。』
聖徳太子の「和をもって尊しとせよ」をまさに体現したような話です。

当時の稲作は、水を扱う技術が低く、不安定でした。このため一枚の田は小さく、
2〜3u程度でした。さらに台風がきても致命的にならない様に、植える時期を
わざとずらしました。
ところが、植える種の品種も変えていたとは! すばらしい工夫!

その後水扱いの技術が進み、低地での比較的大規模な開発が可能となる。
この時は、新規に土地を開発した低地の住民が、高地の住民に勝つ。
日本武尊が川上タケルに勝つ。これは(海幸、山幸同様に)一つの象徴か?
縄文人が水田を作る時、灌漑のしやすい湧き水周辺で行ったのでしょう。

以前にも一度書き込みましたが、現代でも治水に功あったものは祭られる。
千葉県千葉市検見川に鎮座する検見川神社には、治水に使われたポンプが
摂社の横に、祭ってある。東国にいると、開拓神の有り難さが、判ります。

昔この辺りは葦しか生えとらん湿地(葦原中津国)だったんじゃ。
ところが…様のおかげで 今ではこの通り、沢山の稲穂の実る豊かな
土地(豊葦原瑞穂の国)になったんじゃ。

風土記逸文に、餅を的に矢を射る話が出てくる。餅は白鳥と化し飛び去る。
残された長者の家は没落。以降その地は全く不毛となりました。つまり白鳥
は稲=米そのものの象徴でした。日本武尊も死後白鳥と化し飛び去る。
『日本武尊は稲作普及委員』説の補強です。尚ここで書いている白鳥は、
若山牧水の「白鳥は悲しからずや…」の白鳥(シラトリ)=白鷺(シラサギ)
の可能性が高い、鶴やハクチョウではない、そうです。


[2141] 次々に新しい発見が  [ヒン] 11/12

何かの文章で読んだのですが、
森浩一先生でも、自分の論文を
半年に一度は書き換えねばならぬほど
研究のスピードが速くなってる。
と あったと記憶しています。
一昔前なら、一つの論文で一生貫くくらいの感覚
でしたが、これからは 違いますね。
よく、ぼおおと、している私は、ますます時代遅れに
なりそうです。


[2140] RE:2137 NHK「聖徳太子」  [狭手彦] 11/12

>時代考証をまあ、よくやってると、暖かく見てあげましょう
11/10 19:30-22:45 NHK総合ドラマ「聖徳太子」は、私には別の面で驚きでした。
時代劇では、摂関時代以前は取り上げないという暗黙放送規制はなくなったのかと。
私の記憶では、1976年放映の10世紀上半期(風と雲と虹と)が、今までの最古でした。
(主役の吉永小百合が、未だ20歳代だった記憶が)。あとは'93,4年頃放映の11世紀の
前九年役を扱ったものくらい(題名を思い出せない)。
それなら継体朝等の激動の6−7世紀を、今後もぜひ取上げてもらいたいものです。

閑話休題、日本の民俗習俗の主因子であろう稲作伝播を取上げた同じNHKの11/11 21:00-21:50放映の
NHKスペシャル 「日本人はるかな旅(04)イネ、知られざる1万年の旅」の方が私には興味深いものでした。
稲作伝播は弥生期、また稲作をはじめとして納豆やちまきや歌垣類例から、日本の民俗・民族起源は
雲南地方が有力と習ってきたのが、放送では遺伝生物学と考古学面から、稲作伝播は縄文期の
BC4000期で起源は揚子江中下流域(陸稲は熱帯JAPONICA種は中流域、水稲温帯JAPONICA種は下流域)と
考証しておりました。
稲作伝播は弥生期との学習から、雲南から江南経由朝鮮経由の弥生農耕文化とそれ以前の縄文採取
狩猟文化の融合が日本民俗(=民族起源)と思いこんでおりました。90年代の三内丸山遺跡発掘例から、
縄文=採取狩猟文化は、崩れてきているようでしたが。
そう云えば、この「日本人はるかな旅」の8月だったか9月放映分では、日本人の形成因子への
南方の漁労民というか海洋民の関わりを、強調考証していました。確かに古事記が伝えるのは
海幸・山幸彦伝承であって、畠幸・山幸彦ではない。漢書の伝える倭人とはその時代の
朝鮮南部又は九州北部居住民なのだろうが、それは植民渡来者であってその故地は江南だったのかも。


[2139] Re[2135][2132]:あした天気にならいしょ  [Setoh] 11/11

今年は桜の紅葉が特に美しいですね。
桜左近さん,お隣さんでのネワール語の蘊蓄、拝読させて頂いております。

A子「ア」。B子「うふん」  これ宇野鴻一郎の著作権侵害でしょうか。
先にご投稿頂き,ご依頼により消去しました内容と,HPとを比べましたが,これは上記に似た程度でしたね。
 テルテル坊主の語源の説,ありがとうございました。
大陸の「掃晴娘(サオチンニャン)」なる人形
テレテレ法師、テリテリ法師、チヨチヨ法師、トモトモ法師などの呼び方があった。
テルテル坊主は明治以降の呼び名
そうですね。

処で,江戸時代に「役人の子はニギニギをよく覚え」ってありますね。これ権力を持つ者の本質でしょうね。
権力側の典型である天津神で,最初に高天原から葦原中国に降臨した神のフルネームが
天邇岐志国邇岐志天日高日子番邇邇芸尊
です。ニギニギを連想してしまいます。


[2138] しのび  [ヒン] [Url] 11/11

★さて、忍者の事を素人なりに
ほんの少し調べた事ありますが、
諸伝によると、聖徳太子が、初めて大伴細人という
志能便(しのび)を側近においたと言う事です。
聖徳太子が実在しないなら フィクションになりますが?!

その忍者を調べて行くと、秦氏や服部氏、など芋づる方式に
浮かび上がってきて結構面白いです。で、修験道とも
密接に関係しています。(根本が『孫子』の兵法なので)
伊賀忍者の奉祭している敢国神社には、スクナヒコナも奉られています。

★ところで、新羅の花郎ですが、八幡信仰に影響を与えているそうですね。
日本の一般修験道では、新羅の花郎集会が、「峯入」行者衆にあたり、
「花郎」は、「先達」という修験者に相当するらい。
原始八幡信仰の原型は、日神信仰とも深く係わっていますよね(いまさらでしょうが)。
猿丸大夫は、日神信仰を支える人々とつながっていますし、
小野氏、木地師ともつながっています。また、日神信仰と言えば、
日光感精神話を持つ、皆さんお馴染みの天日槍とも密接。
原始八幡信仰は 奥が深い・・・


[2137] 番組の主旨は?  [ヒン] 11/11

皆さんのように、歴史に詳しい方から見ると
昨夜の「聖徳太子」は、不可解な事の連続でしょうが、
物部とか、大伴とか、聞いても、ああ、教科書に出てたかな?
ぐらいの人には、かなり良かったと思います。
また、番組の主題が、歴史と言うより、
権力や力に抵抗しながらも、信念を貫く事の美しさや
困難さを訴えていたと、思う。
ビン・ラディの件もあるので、「和を持って尊し」を
世に訴えたかったのでは?
おいおい、あれじゃあ、モリヤが可哀想・・・とか
即位の礼がオカシイとか、まあいろいろありましょうが、
時代考証をまあ、よくやってると、暖かく見てあげましょう^0^


 聖徳太子の周辺のなまえ  [焼尻紋次郎] 11/11

★ きのふ、『聖徳太子』をみやした。今の若いモンは木槌で杭を打ち込むということの
  意味がワカランらしいのにはビックラこいた。槌をスローモ−で振り下ろして、杭の
  アタマをさも「痛くないように」撫でてんの。バックであげなバカタンが写っている
  のに、どうして撮影を中止しないのか。N H K はここまでチェック機能を失ってるのら。   ミナシャァ〜〜ン、N H K に視聴料払っちゃオエンぞな!
★ 「聖徳太子はいなかった」という主張が強うござんす。
  気をつけて見ていたらトジノイラツメという登場人物がいた。これは「女の美人」と
  いう意味だから、こういう固有名詞はありえない。
  ヤマトノアヤは「ヤマトに来たシナ人」。
  アナホベノミコは「足無し聖域の王子」……柱のなかにいる神だから、人間の形をとる
  ことはありえない。
  ハツセノベは「王の集団」……なんじゃこれ??
  日本にも新羅の花郎みたいな集団がいたのだろか。
  聖徳太子の若いころの呼び名はウマヤドだが、これはニックネームにしかならない。
  紀記にはほんとうの若いときの名前らしい呼び名はまったく書かれていないのだろうか。
  やっぱ、聖徳太子はいなかったとしか言い様がない。

  ウマコ(大・目・尊身)が仮に実在の人物だとしたら、上の現象は彼の生存期間ちゅう
  に支配階級用語のネパール語みたいなのが、どんどん失われて行っていたことを物語って
  いるかと思う。また、紀記編纂者がかなりなバカモンだったことも考えられる。
  ……いや、このような急場メッキの名前を書いておけば、「後世の風の中に誰かがきっと
  待っていてくれる」……と、謀ったのかもしれない。


[2135] Re[2132]:あした天気にならいしょ  [桜左近] 11/10

初めまして、よろしくお願いします。

 てるてる坊主の由来について、ウェブ上にいろいろありましたので紹介します。

http://members.tripod.co.jp/huameizi/text02/qingniang.htm
http://www.isacnet.co.jp/i/zatugaku/zatu214.html
http://www.zenken-net.or.jp/journal/journal200106.htm

 坊主についてネワール語ではbosa(呼ぶ、唱える)があり、「天気にしておくれ!」にぴったりかと・・


[2134]  一つ目神の系譜  1 [焼尻紋次郎] 11/10

 三河のピンクさんのカキコに「小坂井」という地名があるのをみて、「もうこれ以上は逃
げまわるわけにはいかない」を直感しました。
 小坂井はわが親友エットクソが棲む佐賀市近くの、最大のチクシ・福岡県小郡市にありま
す。ここには6世紀に建てられた若宮神社があって注目させられるところです。
 秋田の東奥には小坂鉱山があり、もうひとつ東へ山をこえた戸来(ヘライ)村にはお世話
になっている小坂さんがいます。
 なんとはなしに、いつのまにか「日本語でございますよ」と、すまし顔をしているこの小
坂井、小坂……考えてみましたがいっこうに解りません。
 そこでパーリ語辞典に相談をもちかけてみました。すると KOSA に「蔵庫、箱、まゆ、包
むもの」の意味があるじゃありませんか。これだ!と思いました。これに KA(場所)がつ
けば「小坂」です。
 しかし、ここは小坂と小坂井が同時に解決されねばなりません。「場・場」の連続はない
筈です。

* I は「座」 * AKHA は眼。
 そして、パーリ語 KOSA の語形は、原形は KOS だったことを示します。インド系 ○○S
は日本語化されるときには KO となっている筈(蚕のコ)。そしてこの動きはインド内部に
も興っていて KUMAR が パーリ語で KOMAR(A)になったのも、ここが力点だった……。
 こういう色つきパラピン紙が7〜8枚重なったあと、透けて見えるのは「額中央の第三の
眼」じゃあ〜りませんか! KOS(包まれ隠された)AKHA(眼)が基本概念となって、あ
とは附随概念を派生させた古代の巨大偏執でした。
 第三の眼が古代カニシの強執であったことは10年前から分かっていたことでしたが、そ
れが極東で何と発音されていたかは、アリマ、イクマ、イクメ、イカガ、アリアケ、イカケ
といろいろ掴んでいたために、「小坂」は一種の死角だったのでした。

 ただいま『ユー・アイ掲示板』がたてこんできましたので、続きは老人プレケアの先駆者
もと、沢内村村長の太田祖電さんの『碧祥寺・掲示板』にカキコします。
 紋次郎のほか、だれも書いていませんので、ミナシャンも遠慮せずにいらしてください。
 
 碧祥寺・掲示板 ; http://www81.tcup.com/8109/hekishoji.html



[2133] Re[2129]: 神社の不確定性原理   [ZOU] 11/10

私も大変興味を持っている「大和の原像」が出てきたのでカキコです。

春分の日に三輪山からの日の出がどう見えるかと思って、多神社に行って
行ってみたんです。多神社は三輪山頂から真西にあるのですが、日の出は
三輪山の山頂よりやや右側からでした。これは三輪山の標高のためです。

石見鏡作神社は夏至の日の入り方向にあり、逆にいえば、三輪山頂からの
冬至の日の出が見られる場所といわれていますが、実際のところは、やは
り上記と同じようなズレがあるんじゃないかと思います。

「日本の神々4」には、春分・秋分に三輪山頂からの日の出が見られるの
は、田原本町味間の須賀神社だと書かれています。この神社は、三輪山頂
からの東西線よりやや北側にあります。

で、須賀神社に確認に行きたかったのですが、今年の9月23日は、朝起
きられませんでした(T_T)
冬至の明け方(今年は12月22日)に石見鏡作神社に行きたいと思って
るんですが・・・朝は寒そうですし・・・(^_^;)

余談ですが、興福寺の阿修羅像は、戦いの神ながらやさしい表情の像とし
て知られていますよね。
小川光三さんがこの阿修羅像を、お寺のお堂を想定した照明で撮影してみ
ると、そこには厳しく鋭い、まさに戦いの神としての阿修羅が現れたそう
です。やはり光を扱う写真家なんですね。

リンク工事完了しました。今後ともよろしくお願いします。


[2132]  あした天気にならいしょ  [焼尻紋次郎] 11/09

 ♪√ ああ、嵐呼ぶよな夜がふける カネ
 『かむなび』席亭ドンの痔論のひとつ「タカマガハラは淡路にあった」への判決がまもなく
下ろうとしています。

 テルテル坊主……GOOGLE 出してみた……までは、ナンとかよかったのでしたが、関連項目が
8000もあって、メンくらって逃げて帰りました。
 たしかに、ネパール語 TEJ には「明るさ・輝き」があって、-J は「こと、こと柄」ですので、
日本語の「TE る」とドンピシャです。しかし、「ほにゃらか」[393] でかなり成功裡のもとに
分析できたように、TER には「言うことをきく」という意味があるのです。
 √あした天気にしておくれ……の歌は明治以降になって改めて作詞作曲されたのかどうかを
GOOGってみようとしたのでした。キカイ・オンチはイカン、キカイ・オンチはイカン。
 テルテル坊主は晴天のねがいだけだったのでしょうか。おらには「オレのいうこときけ」で、
ねがい一般を叶えさせるマジナイだったような気がするんだがのし。
 
 ♪√ ああ、浪の音にも 血がさわぐ http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/yakbbs.cgi


[2131] てるてる坊主  [Setoh] 11/08

 日神信仰とか太陽祭祀の目的とは難でしょう。
 人類が猿の頃から太陽は四季の巡りと朝夕の循環を刻んできた規則正しい天体です。遺伝子に組み込まれているのでは。そうすると冬至の日にこの復活を祈るって言いますが,冬至だと判っていたレベルになって,なお祈るのかな。それが信仰と言えばそうですが・・。。

 太陽神として天照大神、天照御魂神、海部氏の祀る火明命,尾張氏と物部氏の共通の祖先と思える天照國照彦火明命饒速日命がいます。
 天照國照彦火明命饒速日命に「明日天気になーれ」と祈って,てるてる坊主のネーミングになったんでしょうか。明日小雪が舞うのか晴れるのか,この方が切実ですね。

 ぺぎらさん,ありがとう。一度錫のジョッキィでビールでも。


[2130] 金属ネタ  [ぺぎら] [Url] 11/08

Setohさん、すいません、
いつまでもこのネタで引っ張って申し訳なく思っておりますがご勘弁を。
たまゆらさんの錫に関してのお話で、
錫というものが現代のどんなものかと言えば、ハンダという例が分かり易いかと。

このハンダは錫鉛合金メッキというやつで、本当に重宝する金属なんです。
しかし軟弱金属でして、
分かり易い例というか例えとして、まったく違う金属ですが
アルミ一円玉と考えていただければいいと思います。
これを如何にすれば頑丈なものになるかと加えた金属が銅です。
そして青銅器になるんです。分かり易い例で10円玉ですね。
こんな手間暇かかる合金よりも鉄の方が簡単だとわかると
古代では錫の需要は激減していくのです。
これには強力な火力を生み出す技術ができての話です。

そして古代人の努力が無になってしまうのが、鉄だったんです。
これは現代兵器へと延々と続く物語の始まりなんでしょう。

まったく薄弱な私の知識ですいません。。


[2129] 神社の不確定性原理  [Setoh] 11/07

 小川光三さんの『大和の原像』という興味深い本があります。
ここで三輪山頂から等距離のポイントとして以下の組み合わせが載っています。
 北に兵主神社 南に玉烈神社
 東西に春日神社
 夏至の日の入りに石見鏡作神社,冬至の日の入りに神武陵,神社で言えば東大谷日女命神社
 また三輪山山麓にも多くの神社が鎮座していますが,どうも西側に偏っているようです。東側は巻向山など山地になっていますね。
 神社は移動することがありますので,創建時の場所に現在まで鎮座している保証がない場合もありますので,どこまで追求できるか,ですね。

兵主神社 http://www.kamnavi.net/as/yamanobe/anasi.htm
玉烈神社 http://www.genbu.net/data/yamato/tamatura_title.htm
石見鏡作神社 http://www.kamnavi.net/mn/nara/iwamika.htm
東大谷日女命神社 http://www.genbu.net/data/yamato/higasiootani_title.htm



[2128] Re[2117][2111]: 気になることが  [たまゆら] 11/07

> 錫は盲点でした。この種の問題は,ぺぎらさんと言うことで,問い合わせて見ました。

ありがとうございました。
べきらさんのお答えも参考になりました。
そこで、新たにお尋ねします。

もしも、錫の原子構造をモチーフに、中心を仮に三輪山としたら、その外側に三重の円を描きその円の上に22箇所の特定場所を描いたならば、なにか出てくるでしょうか?
モノとしての錫でないとしたら・・・の、1つのお遊びですが、なにか思い当たるものはないでしょうか?


[2127] Re[2121]: 錫について  [たまゆら] 11/07

錫のお話ありがとうございます。
大変参考になります。そこでもう少し詳しくお尋ねしたいのですが、
錫の特徴は、加工しやすいということだと聞きましたが、それ以外にどういった分野で
利用されているのでしょうか?
また、化学的に錫と銅が混じったときは、どんな連結をするのか絵的に分かると嬉しいのですが・・・。
もし御存知でしたら教えていただけませんでしょうか?


[2126] Re[2116]:「へっつい」 と 亀  [たまゆら: 11/07

>  このうえはぜひ、『かむなび別院』の掲示板を張っていただいて「かむなび NOW 」を
> 続けていただきたい紋ですが……どうだっしゃろ瀬藤ドン。

突然のお話で、驚きました。なにせ、掲示板と名の付くものにカキコしたのも、初めてだったのです。とてもとても掲示板を張るなど無理です。
「五十」やら「すず」もここ1ヶ月以内で、急速に散らばっていたモチーフがリンクし始めたという中での書き込みでしたから。
もともと、数字や象徴、幾何学、天文といったような分野から、疑問的に拾い出していたものを、神話、伝説など考古学的に結び合わせるというような話ですので、いきなり関連付けが飛びますから、自分でも追いきれず「塩漬け」状態で何年か眠っていることも、珍しくありません。(昨今は、リンクに時間がかからなくなっているようですが)つながるときは、突然にやってきます。しばし、こちらの掲示板で勉強させてくださいませ。

> ご記念にもういっぺん「ほにゃらか」します。“ IS ”はお預け状態です。ぜひお
> 力添えください。

リクエストにお答えして。
is なかなか難しいです。元来、3つの子音が欲しいところなのですが・・・
izz という単語(iは喉の奥を閉めた音)であれば、力、名誉、名声という名詞が。
同じつづりでアッザと発音した場合、動詞で、力強い、高貴である、稀である、貴重である、困難である、という意味が出てきます。
あまりぱっとしないような感じですよね。また閃いたら調べてみます。


[2125]   ウヒャァ− みてござったか  [焼尻紋次郎] 11/07

 ウヒャァ−、こっパ(恥)ずかしい。
 「カモネギ」っちゅうのはあっしのカキコになにかかかわりえぇのあるこってござんしょうか
いね。もしそうなら、どぞどぞ。こんなこたぁ、だれが調べたってぇ同じ紋がでまさぁ。
 ここ、『かむなび』には金属器にまつわる話題が登場することしばしばざんす。金属精錬が現
れてこのかた、人間様の意識だとかありようがグワラァ〜〜ッと変ったンですよね(神様がいよ
いよ神様になったシィ〜……アッ、いけねぇ)。
 Url が書いちある。ショーチュ−の酔いが醒めたら押しかけて行こうかなぁ〜〜。
 瀬藤ドンよ、いいもの発明しちくれちあんがとヨォ〜〜!! あ、パソコン作ったなぁ、ビル
ゲイチさんじゃったカネ、マッキントッシュさんじゃったカネ。
 おら、まだ酔っぱらっちゃいねぇどォ〜。  午後7時。


[2124] かもねぎ  [ペギラ] [Url] 11/07

>ねぎら
うわぁ、鴨がネギ背負っての「かもねぎ」だ!(笑)
鴨フェチとしてはうれしい(変)  これ頂こうかな!

紋次郎さんご指摘の鳥取の錫ですが、かなり可能性薄いです。
岩美あたりに銅はあるようですが、錫までは無さそうです。
「トリ」の方ならば、常陸国東茨城郡高取というのが、錫あるんですが。
これでは駄目ですよね。

錫産地の畿内追加ですが、続日本紀に丹波産も出ているようで
どうも和知の錫のようです。


[2123]   追 伸  [焼尻紋次郎] 11/07

 ネパール語の TOTA の最初の T は激音です。日本語化される前はトッtでしょう。
 これに人を意味する LI がつくと「トッツリ」ですけんど……。
 この TOT にパーリ語のクセの -A がついたのが TOTTA と見受けられます。
 アイヌ語には TOT あたりは見られませんが、火薬とか破裂にはネパール語に似た
 語彙があります。
 アイヌ語の KUMA(大轟音)は熊野に響くので、ニラみつけています。熊野の祭り
には洞穴で大爆発音があるのデシタね。ここを覗いた者は死ぬといわれている……。


[2121] 錫について  [ぺぎら] [Url] 11/06

錫について瀬藤さんより質問を頂き、
改めて青銅器においての錫の重要性を痛感しております。

錫なくして青銅器無し。
銅鐸等の青銅器にはとても重要な金属であり、
安定度が高く、精錬のし易さは他の金属の比ではないといったところですが、
いかんせん、国内錫は少なく、日本のような新しい?地表ではむつかしそうです。

中国青銅器の発展地長江近辺では、雲南、広東あたりに鉱脈があり、
他のいろんな要因もプラスされ青銅器文明が大きく発展したのがうなずけます。

錫、鉛の少ない日本には、鉄の文化はとても都合がよかったと思います。


[2119] Re[2118][2115][2107][2106]: 不思議な丸石  [マルヤ] 11/06

Setohさん、習志野のてつさん、ありがとうございます。
丸石の件、私は不思議でなりませんでしたが、書き込みを読ませていただくと、なるほどそんなものかと思います。いろんな生成(形成)の仕方があるんですね。
甌穴(オウケツ)ですか? いやぁ、知りませんでした。ありがとうございました。


[2118] Re[2115][2107][2106]: 不思議な丸石  [Setoh] 11/06

>甌穴(オウケツ)は流れの急な川や海にあります。
>中にある石は、真円です。歪んでいると壊れるらしい。
良い話しですね。ありがとうございます。

所で前にもカキコしたのですが,神武天皇の呼称で
東征出発 神倭伊波礼毘古命
熊野大和 神倭伊波礼毘古命
     (布都御魂を入手)
     天つ神の御子
     (八咫烏の登場)
久米歌  天つ神の御子
 となっています。途中で代名詞の「かれ」もあります。
一つは,布都御魂を手に入れたから「天つ神の御子」となったこと,更に天つ神の御子とは日の御子だから案内に八咫烏が登場したとすれば, A=B も成り立ちそうですね。

 ついでにもうひとつ。
 海の案内はフナトの神,道の案内は猿田彦,山の案内が八咫烏と言えましょうが,山は尾根か谷を行きます。谷に似合うのはクラオカミ神です。ここで等式二つ
 クラ=暗・黒=烏
 オ=ウ=烏
 どうやらクラオカミ神と八咫烏神とは異名同神だった。浪速のテイでした。



[2117] Re[2111]: 気になることが  [Setoh] 11/06

> 石上神宮あたりで「錫」が絡んでいる場所はないでしょうか?


錫は盲点でした。この種の問題は,ぺぎらさんと言うことで,問い合わせて見ました。
古代の謎へ「銅鐸」http://homepage1.nifty.com/moritaya/kodai.html
上記のぺぎらさんによりますと,下記の通りでした。
畿内は兵庫県養父郡明延鉱山銅15%と錫5%を始めから含有する銅錫鉱脈ぐらいで銅鐸の錫含有量の少なさが国産銅使用に近づくのではとも思っています。
等々考えると古代国産錫は、ほぼ皆無でしょう。
錫、鉛をいかに少量ですませれる青銅器銅鐸を作るかが、後期銅鐸作者たちの課題だったと思います。
とのことでした。以上

大和では吉野宇陀に中央構造線が通っていますので,銅、水銀などは採取できていたようです。

さて,アラビア語については『ほにゃらか』に書き込みました。
紋覚上人の http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/yakbbs.cgi です。


[2116] 「へっつい」 と 亀  [焼尻紋次郎] 11/06

たまゆらさん、やりましたね!
「ほにゃらか」では『かむなび』の語源をめぐって、さいきんいちど「これは!」というの
が出たのですが、言い出しっぺが「すみません」と言い出してふにゃらかになっていたので
した。
 このうえはぜひ、『かむなび別院』の掲示板を張っていただいて「かむなび NOW 」を
続けていただきたい紋ですが……どうだっしゃろ瀬藤ドン。
 「五十文化」などについては、かなり自信ある線をもっていまして、すでにカキコ済みで
すけど、ご記念にもういっぺん「ほにゃらか」します。“ IS ”はお預け状態です。ぜひお
力添えください。

※ 瀬藤ドンが別の用件でおEメールくれたんですよ。そこにチョロッと「太陽の黒点」が書
  かれてました。なぜ太陽の中にカラスがいるか……はこれだと思います。
  サンカも毎朝おてんとさんを30秒ほど「ア−」と言いながら見つめていました。これ
  をやると、近眼老眼には関係ない生涯をおくれるそうです。
※ 玄松っつぁん、3本の偏執……「三本足の亀」……!! これですよ、これ! 
  大亀がいて天地の底を支えているという発想も、2万年ぐらいの歴史をもっていること
  でしょう。へっついは「竃(へ)つ(の)対」で、竃をカメというじゃないすか。
  安寧(アンニョン)ハシムニカ、安定がいいのれす。
  あー、シナ語が出はじめてきたナ。
※ 堀井令以知さんによれば、むかし、足は「あ」だった。
  なぜ、アシになったかについていろいろ「ほにゃらか」しましたが、やっぱ「ハシラ」
  が決定的だったと思います。ハシラは日本民族にとって神そのもので、ハシラの末尾の
  “ラ”は強調末尾辞で意味はないのら。
※ 丸い黒っぽい石……もインドに偏執がありました。玄松っつぁんにサイト教えてもらった
  ことがありましたね。
  
  漂流筏インチキ号 ; http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/yakbbs.cgi


[2115] Re[2107][2106]: 不思議な丸石 [習志野のてつ] 11/06

> 丸石の出来上がり方ですが,…なかなか真円にはならない…
> 海岸で寄せては返す波に洗われて丸石になる …
激流に流されカモメが飛んだ … と紋兄ィ風に
甌穴(オウケツ)は流れの急な川や海にあります。
中にある石は、真円です。歪んでいると壊れるらしい。

五島列島の小値賀(オジカ)島に、直径40cm程の
甌穴に有った石が取り出され、保存展示してあります。
真円です。 珍しいが祭られてはいません。

玄松子さん:三本足ありがとうございます。紋兄ィの宿題に
山海経などを調べなければと思っていた所でした。


[2114] Re[2112][2105]:♪√ 今し父の矢、母の矢の……  [玄松子] 11/06

僕も訂正。

> B:太陽に住む烏で、
> C:3本足
> B=Cは容易の推論できますが、その場合、カラスの色は黒じゃなくなります。

後漢時代『論衡』に「日の中に三足烏がいる」。
前漢時代『淮南子』に「日の中に蹲烏(三足烏)」。
ということでした。2000年以上前からある中国の話。

ちなみに、中国では、月には三足の蟇蛙がいるそうです。
他にも三足虎・三足亀・三足鹿なども神話・伝説には登場します。


[2113] Re[2102]: 身度尺・訂正  [香具] 11/05

夜中に酔って投稿すると間違った虚偽を書き込んでしまいました。
以下、謹んで訂正致します。<(_ _)>

>『八掴・八握・八束』(ヤツカ)は拳を八個並べた長さ、
>つまり八回握りながらずらしていった長さで剣の柄の長さを表したりします。

ここでいう『剣の柄の長さ』というのがハッタリで、刀身の長さ、つまり切先から棟区(ムネマチ)までの刃が有る部分の長さが本当でした。どうも、鹿島神宮の巨大な太刀が妄想から離れなかったもので・・・。スミマセン。もっとも、八掴みもあれば、りっぱな太刀の長さです。ひとつかみ、10cm弱ほどでしょうか。失礼致しました。


[2112] Re[2105]: ♪√ 今し父の矢、母の矢の……  [玄松子] 11/05

> 玄松っつぁん、原典で突き止める……座標決めにはみごとな視角です。だが、太陽のなかにカラスが
> いるなどと発想する連中は「文字以前」の野蛮人じゃないだろうか。

根源まで遡れないでしょうが。
これまで、僕も含めて、以下のように思っていたんじゃないだろうか。
A:ヤタカラスは、
B:太陽に住む烏で、
C:3本足

で、ちょっと調べた結果、
A:「ヤタカラスは」、記紀に出てます。
B:「太陽に住む烏(カラス)」の話は『山海経』「大荒東経」に載ってました。ちなみに「湯谷」は「ようこく」で「温源の谷」
C:「3本足」の話は、『荊楚歳時記』『神異経』に載っているそうです。ただし、10個の太陽を射抜いたら、3本足の金の鳥(とり)が落ちてきた話。

で、A=B=Cって、どこから出たんだろう。
少なくとも、A=Cってのは普通に語られていますよね。
B=Cは容易の推論できますが、その場合、カラスの色は黒じゃなくなります。


[2111] 気になることが  [たまゆら] 11/05

度々お邪魔します。
今回このサイトを開くきっかけになったのは、島根の物部神社を調べようとしたところからだったのですが、時よろしく天理周辺の物部関連の話で盛り上がっていたので、スルスルとみなさんの話を読み耽っておりました。(東京もんの私には分からない地名とかあるのが難点なんですけど)

そこで、沸々と今まで眠っていた疑問が沸いてきたんですが、どなたか情報をお持ちの方は教えてくださいませんか。

ほにゃらかの方での「丹波」は銅を表す。ということを踏まえ、石上神宮あたりで「錫」が絡んでいる場所はないでしょうか?

なぜかといえば、イソが五十に絡めての話が出ていたと思うんですが、イソ、イセ共通するのが「五十」。数というのは意味を託しやすいので、地名なんかでも残りやすい(消されずに)ではないかと考えております。

そこから、いきなり思考の飛躍が起きまして、原子番号50番てなんだったかな〜?
と、調べてみたら「錫」だったんですよ。
青銅を作るには、銅に2〜35%の錫を混ぜて作るのだそうです。
鉄に水銀、銅に錫。
歴史的には弥生時代に青銅、鉄の両文化が入ってきたことになっているようですが、
島根にはたたらがあり、鉄を作っていた跡はあるようですが、青銅剣などの発掘品はあるんすが、製造あとは見つかっていないそうです。

錫つながりで、鈴も出てきたりするんですが、イザナギ、イザナミが富士山で子授かり祈願をしていたとき、天から五十の鈴または霰が降って来た。という話があるようなんですね。なんで50なん? と思っていたのもありまして、五十鈴川これも関連あり? と段々深みに入り込んでしまったようですが、ちょっと「すず」と「五十」の謎解きが頭の隅でくすぶり続けているんです。

タイムリーに引き当てた石上神宮も剣とのゆかりがあるようですから、全く無関係にも思われません。
古来、武器を手にしたものが、国を治めていた時代、錬金術ではないですが、強い武器を生み出すためには特異な場所を選ぶということもあったかも知れないと、考えています。
8つの石があるという話も、興味の引かれるところです。

日の谷の八つ石という巨石があるということですね。
錫石というのがあるそうで、錫の酸化物からなる鉱物。重要な原料鉱石である。正方晶系。柱状または粒状で、ダイヤモンド光沢、脂肪光沢がある。無色、褐色、赤色などがある。とあり、仮に八つの石がこの鉱石で、当時(いつのことだ?)光り輝いていたなら、ストーンヘンジのような利用法(天文? 通信?!)もあったのかもしれない。なぞと収集の着かない発想がどこまでも広がってしまうのでした。

残す意味のあるものが、普遍の意味をもってそこにある。という観点で考えると、
見えるものとして残されているものと、それに隠された本来の意味を繋げていくのは(あくまで推測の域を出ない部分も多いのですが)楽しいです。ちょっと変ったものの見方かもしれませんが、今後も、皆様のお話を参考にさせていただきたいので、よろしくお願いします。。


[2110] Re[2108]: アラビア語でカンナビとは [Setoh] 11/05

 たまゆら御前,こんばんは。興味津々のお話、ありがとうございます。
> kawn(カウン)
> nabi(ナビイ:イは喉の奥を閉めたような音)に分かれ、カウンは「宇宙、存在、発生」の意。ナビイは「泉、源」の意でした。
 この前飛び火山の竜王祠の前で、「神奈備の山と空とが溶け合う所を斎祀れ」と,神職さんが神の声を中言してくれていました。天空に通じるものがあるようですね。
 『消された星信仰』は図書館に返却中、また借り出して調べてみます。どうも南アラビアの方面を強調していた記憶があります。

 香良州神社について『三重県神社誌』によりますと,稚日女神の「生田の長峡から姉神の坐る伊勢の地に鎮まりたい」とお告げがあったそうです。
カラスは神功皇后の故事から「韓統」(カラスブ)がつづまったとも,海の荒れる所から「辛州」となったとかの説を紹介しています。


[2109] これもカラス  [たまゆら] 11/05

三重県津市から行ったことがあるんですが、香良州町にある香良州神社(からすじんじゃ)ってありますよね。天照大御神の妹を祭ってあるらしいんですが。なんぞ関係ありましょうや?


[2108] アラビア語でカンナビとは  [たまゆら] 11/05

皆さんこんにちは。
話の展開が早いですね。気がつけば、話はコロコロ転がりどこまでも・・・。
後で調べてみよ〜、などと思っているうちに、遥か過去のことになってしまいそうです。
さて、「ほにゃらか・・・」の方に書くべきか、こちらに書くべきか悩みますね。
二股かけられないので、とりあえずこちらに書きまする。

「消された星信仰」からのピックアップにあった一覧を、試しに紐解いてみました。
やり始めて、再び思い出しました。・・・これは標準語だろうか??
表記されているものと完全一致する単語が出てこないので、似たもの検索して、紹介されていたのと同一の意味が出てくるものもありました。それはまたほにゃらかのほうで、機会をもちたいと思います。

今後のため:アラビア語は、書き言葉はコーランに基づくので、万国共通の「フスハー」(正則アラビア語)が使われてているます。
一覧に出てくるアルファベット表記通りに引くと、出てこないものもあるんですよ。
(私の語根探しに問題がある場合も否定できませんが。使用辞書は第三書館の現代アラビア語小辞典、オックスフォードの英アラ辞典などです)

手元に、この本がもうないので分からないのですが、なにを参考にしたのか、書かれていなかったでしょうか? 方言(エジプト方言)などは、口語として全く異なる発音をしますので、この辺りのことはお手上げです。(各地に方言があります)

一つ、神奈備という音をアラビア語に当てたらどうなるか?
というのを調べてみたら、ちょっと面白かったので御紹介しましょうか。

kawn(カウン)
nabi(ナビイ:イは喉の奥を閉めたような音)
に分かれ、カウンは「宇宙、存在、発生」の意。ナビイは「泉、源」の意でした。

日本各地にある神奈備山信仰。なにを信仰の対称にしていたかの意味にも通じるものがありそうですね。

ついでに、カラスの話が出ていたので、「カラ」ですが、カラコルム山の「カラ」は黒だと聞きました。(何語かは知りませんが)アラビア語での黒は「アスワド」というのが色としての単語になります。
知り合いに、黒猫を飼っていて「クロ」という代わりに「アスワド」と名づけた人がいます。ちょっとおしゃれな感じではないでしょか!?


[2107] Re[2106]: 不思議な丸石  [S.Setoh] 11/05

 マルヤさん、「ウッディ木族館」の石の件、ありがとうございます。
丸石の出来上がり方ですが,河川を石がゴロゴロ流れてもなかなか真円にはならないようです。
海岸で寄せては返す波に洗われて丸石になる場合はあるようです。
また火山弾が火山灰や溶岩の中で保存されて風化されて現れるとこがあるそうです。


[2106] 不思議な丸石  [マルヤ] [Url] 11/05

Setohさん、こんにちは。
得体の知れない、丸い石があります。

場所は高野龍神スカイラインで竜神温泉へ行く371号線、「道の駅・竜神」のところ、「ウッディ木族館」という木製品の土産物店内の日高川側のテラスに展示されています。もちろん売り物ではありません。
大きさは直径50センチ位で、スズメバチの巣とそっくり。
7年程前に森林組合(この店は森林組合の経営)の人が村内の山中で見つけたものだそうです。
見つけたときは、土の中にほとんど埋まっていて、丸い一部分が少し出ていただけだったそうです。
不思議に思い掘り出してみると、ほとんど完全な球体で随分重く、6人がかりで必死に担ぎだしたといいます。重さは300kg以上あるらしい。

現物は鉄の玉のようで、全体に雨だれで侵食したような痕があり、見事な球体になっています。人工的な加工の後はまったく無く、石に詳しい人(学者ではない)に見てもらっても、「隕石でも無しよく分からない」と言うそうです。
私もためつ眇めつ、なぜ回してみましたが、黒褐色で不思議な色合いをしていてよく分かりませんでした。
鉄分を含んだ石のようにも見えます。

この掲示板をご覧になった竜神温泉の近くの方、一度調べていただけませんか。
私は3年ほど前にこの店で、この不思議な石を見て以来気になって仕方がなかったのです。
残念にもその時写したはずのカメラには、失敗して写っていなかったので画像はありません。
竜神道の駅、「木族館」TEL(0739)79-0567


[2105] ♪√ 今し父の矢、母の矢の……  [焼尻紋次郎] 11/05

 けさも4時ごろから 50M ぐらい先でカラスがけーけー啼いていました。ほなこつヤツらは真っ
暗なうちから騒ぎよりますなぁ。
 お蔭で小鳥たちが怯えてしもうて、寄りつかんごつなってしもうたばい。おらコマァル。

小雪さん、アマカネ。サイトのご紹介あがあが。
 1年ほどまえ、瀬藤ドンに「この際、物部系神社に儲けさせる手はないもんやろか」と相談したと
ですよ。そしたら「わえはゼニにはよわい」……んですって。だけんどグヤ爺ィね。物部のシンボル
とも言える三本足でアングロサクソンに儲けさせるなんち……。
 こうなったら高句麗壁画そっくりさんで旗作って、一社でも二社でもモノノベさんに儲けてもらお
うじゃんか、なも物作りの hin さん。

なにがしさん、「鉱山士と川」でど忘れしてました。カラスには KAWWA という別名がありました。
 これもネパール語です。
 ネパール語ばかり並べてすまんです。だが、瀬藤ドン、別系統での語源喋るご仁入れるのはいいが、その言語で日本語との類似語がどれだけでているかとか、そのご仁がそのほかのいろんな言語を
みる度量持っているかどうかの視点は外せまいよ。半年まえぐらいにチョロッとやってきた鬼平さん
がこのごろ、タミル語をみているという。そろそろモノ言えるころじゃないだろーか。
 
玄松っつぁん、原典で突き止める……座標決めにはみごとな視角です。だが、太陽のなかにカラスが
いるなどと発想する連中は「文字以前」の野蛮人じゃないだろうか。
ZOU さんが 聖王尭(ギョウ)の時代、夏王朝の時代と、とてつもなく古い時代のことを書いてくれ
ましたが、その偏執が仮に南方の島に飛び火していたら、こりゃもうどっちが古いともいえないよ。
 
 ♪√ 今し父の矢 母の矢の ひかりを降らす 真昼どき
    刈り干せ 刈り干せ 稲の穂を 

 だれだったか、あんがい島崎藤村あたりじゃなかったか、教科書にあった。
 矢となってひかりが降りてくる……こういう考え方も極東的偏執じゃないのだろうか。いやインド
的偏執かもしれんドォ。ひかりでマックロケのケじゃもんね。


[2104] 3本  [ZOU] 11/05

みなさまおせわになります。

>小雪さん

デビューしたてで長々とカキコするヤツですσ(^_^;


>紋次郎さん

それです。それそれ(^O^)/
一度に太陽がいっぱい出てきて、暑くて仕方がないから、弓の名手が射落
としたら巨大な3本足の烏が落ちてきたというお話ですね。
参照したのは吉野裕子氏の本の、中国の神話の解説部分です。気になる部
分を引用しますね。

「聖王尭(ギョウ)の時代、この世には天帝の子供の十個の太陽が、東海
の果て《湯谷》に住んでいた・・・・」
そして、このあと太陽を射る話へと続きます。

この《湯谷》が、日本語の《ユヤ》に近い発音だったとしたら、この話が
日本に入ってきたときに「ユヤ(熊野)」とつながったかもしれません。
まあ、私の想像ですが・・・(;^_^A


>玄松子さん、さすがスルドイ

3本足の烏が太陽に棲むという話は、中国の夏王朝の時代にさかのぼるそ
うです。なので、3本足の烏とヤタガラスはもともとは関係が無かったと
いうわけかも知れません。どこかでくっついたんでしょうね (^_^;)?


>Setohさん

吉野氏の本は「蛇」と「陰陽五行」が爆裂していてσ(^_^;気に入ってる
んですが、陽が奇数だっていうことがやはり解説されてました。
八卦で「|||」(3本の実線のヤツ)が陽の極ったものなので、烏の3本
足に関係があるとか。

奈良では勧請縄とともに、藁で作られた蛇の神事が多いのですが、「鍵の
蛇巻き」という物は、藁蛇と勧請縄の中間的な形をしていました。国中は
蛇フリークが多いか・・

丸石は見た事無いのですm(__)m

小夫天神社の近くのいかつい勧請縄、香具さんや小雪さんに見てもらいた
かったです。行ったときは撤去されてました(T_T)


[2103] Re[2102]: 身度尺追伸  [香具] 11/05

追伸です。今でも、あちこちの作業現場では、
『〜の長さを、はかって(測って)・・・』という意味で、
『〜の長さを、あたって・・・』という言葉を使います。
この『あたる』が当たる、つまり、咫(アタ)の名残ではないでしょうか。


[2102] 身度尺  [香具] 11/05

 『咫』(アタ)について、織本篤資著『ナイフの愉しみ』より抜粋します。
『咫とは、掌をいっぱいに開いたときの、親指の先から中指の先までの長さをいう。これは手首から中指の先までの長さにほぼ等しく、掌の幅の二倍に相当する。現在も生きている「寸」は、指二本分、五分は一本分と考えられる。大雑把にいえば、道具の適正なサイズを決定する方法として、まず一咫の倍数を基準に据える。次に半咫(掌サイズ)、一寸(指二本分)、五分(指一本分)・・・と、拡大ないしは縮小の修正を加えていき、最終的なサイズに辿りつく・・・これが日本での、昔からの道具のサイズを決めるやり方であった。』
 以下、その身近な例として、箸は一咫半、茶碗・汁椀の円周は二咫、鋸・金槌の柄は一咫半から二咫、等の最も使いやすいと昔からいわれている長さを挙げています。

 他の身度尺では、『尋』(ヒロ)などもありますね。手を広げるヒロです。
両手を左右にいっぱい広げたときの、右の中指の先から左の中指の先まで、そしてそれは、ほぼ身長と同じぐらいとか。外国でもフィートは足から、古代エジプトのキュビットは肘の長さからとか聞きました。
 つかむ動作からきた、『八掴・八握・八束』(ヤツカ)は、拳を八個並べた長さ、つまり八回握りながらずらしていった長さで、剣の柄の長さを表したりします。柄の長さと剣の刃の部分の長さのバランス上、柄が長ければ剣身も長いのであろうと想像させたりします。
 さて・・・、『八咫』(ヤタ)=『八』(ヤ)+『咫』(アタ)。
『咫』(アタ):掌を(対象物)に当てて採寸する一アタリの長さ。
つまり、ツカは棒状の掴める物の長さの単位、アタは平面的な広がりのある物で長さを測るの単位。後世、ちょうど尺を取るように、何回ツカんだか?、何回アタったか?

 仮に1咫が18cmとすると、八咫は144cm。まあ、それだけ大きいと言いたいところでしょう。もっとも、博物館で古墳時代の短甲の実物などをみると、中学生の体型ぐらいでないと窮屈なサイズですので、身度尺は時代ごとに変動するでしょうね。上記の織本氏の著作によると、身度尺は、あいまいなサイズというより『人間工学的サイズ』なのだそうです。・・・八咫烏論になんら貢献できませんでした。


[2101] Re[2099]: ケー おもしろか  [玄松子] 11/04

>   「ヤ……八」は美称というよか「多くの」でよかっちゃなかろか。タ(手)、ツカ(掴む)
>   サカ(部分?)は“尺度”やろなぁ。

たしかに。
『日本古代史「記紀・風土記」総覧』に、播磨国風土記に記されている「八咫剣・八咫勾玉」の解説で、「咫とは本来ものの長さを示す単位であるが…」として、「八咫とは大きな、見事な」と説明しています。
この「咫=単位」の真偽ですが、神器に関しては、正しそうですね。


[2100] Re[2099]: ケー おもしろか  [Setoh] 11/04

紋覚え>三本足で思い出すのは、三本鳥居です。秦氏とカラスの関係。
木島坐天照御魂神社の三柱鳥居,よくぞ出た!
 言語をやる人の資格に記憶力と音楽的才能は欠かせないようだね。小生は物覚えが悪いはかつ音痴だからアラビア語はたまゆら御前にお願いしたいですね。

 カラスは二本足が当たり前ですが,『稲と鳥と太陽の道:萩原秀三郎』に,陰陽五行思想の影響で奇数を聖数として三本になったとの解説がありました。朝鮮半島では前漢後期の高句麗壁画に太陽中の三本足のカラスが出てくるそうです。


ZOUさん> 私は奈良に住んでいるのですが、奈良県内でこのような神事
 南紀の習俗と大和の習俗とで似ているもの
 綱かけ 花窟神社のお綱かけ神事と香具さんお気に入りの勧請縄
 お的神事 串本の矢倉神社
 矢倉神社は元々本殿がなく,丸石を御神体とします。今日は(八尾の住人も気がつくめえ)大阪八尾で丸石を発見しました。
ZOUさん,大和で境内に丸石を置いている(祀っている)神社はございませんでしょうか。


[2099]  ケー おもしろか  [焼尻紋次郎] 11/04

 ミナシャ〜ン あがあが。ことばあそびは楽しいなも。

 おらは、今朝早く「ほにゃ」にここ当分での尻論……じゃなかったケツ論だしやした。
 きっかけは、「まちがいなくシナ語だったのが、和語(やまとことば)のスタイルをとって日本
に上陸した語彙」があまりにも少ないという事実でした。
 これ思いついたら月曜日まで待って、飯野睦さんにファクス流して教えてもらうのがアホくさに
なりました。

* ひふみさん、あがあが(皆の衆、以下同文よ)。ヤテラはシランカットッテン。ということは
  原形が IYA-TER で、サンカ語にはインドの造語法が入ってるという大事実を引き出してくれ
  はったんですら。
* 福島さん、邪馬台国には JAMAT(集会・あつまり)があまりにもピッタシなんやけどなぁ〜。
* なにがしさん、鉱山士は砕いた鉱石を箕でよりわけるために川のそばにいたと想います。
  カラスは「KHALA(川)衆」と懸け言葉されたのでしょうね。
* ならよっちゃん、シナでの習俗に、カラスのほかなにか「三本足」があるのやろか。
  シナではどこまでカラスを「太陽概念」が包みこむことができるんやろ?
  三本足で思い出すのは、三本鳥居です。秦氏とカラスの関係……瀬藤ドン、やってけれじゃ。
* 玄松ッつぁん、「めっちゃ輝いてる」−−相変わらずの斬り込みのスルどさ。おらも賛成! 
  だども、そういう語彙が手許にないので「 I-ATA(熱神)」となりやした。
  「ヤ……八」は美称というよか「多くの」でよかっちゃなかろか。タ(手)、ツカ(掴む)
  サカ(部分?)は“尺度”やろなぁ。

 あんましあがあがいうと、「ミナシャンがおらの応援で言葉考えてる」みたいなことになるなぁ。
 ねっけん、そっけんこと、あるせ。


[2098] ヤタカラスその2 [玄松子] 11/04

ところで、「ヤタカラスが三本足」って、なにに書いてあるんでしょうか。
古事記や日本書紀に見当らないんですが、僕が見落としてるんでしょうか。
熊野の烏が三本足で、それがヤタカラスと同一視されているのでしょうか。
だとすると、熊野「三」山と、関係ないですか。


[2097] Re[2090]: や・た・が・ら・す  [峰 小雪] 11/04

みなさんこんにちは(^_^)峰 小雪です。
ヤタガラスの意味語源探求、大変興味深く拝読しております。
そしてZOUさん、神奈備デビュ−おめでとう☆

話題のJFA(日本サッカ−協会)のエンブレムはこんなのです。ヤタガラスを選んだ
理由も付記されてますのでご参考まで。
http://www.jfa.or.jp/jfaprofile/pro01_j.html

今のJFAのマスコットもヤタガラスの兄弟で、ハ−フタイムには三本足のカラスが競
技場を歩き回ります。(その前は土偶と埴輪のペアでした…)

焼尻紋次郎さんへ

>  2年前はオンドリでしたが、次は三本足のカラスが「ワールド・リーグ」のシンボル
>マークだそうです。

それがね、さらに気持ち悪い変なキャラクタ−がマスコットなんです(^_^;)
2002 FIFA WORLD CUP KOREA/JAPANのマスコットキャラクタ−は、イギリスのどっかの会
社がデザインしたそうです。。画像が見たい方は、以下のURLをご参考下さい。下の方にあ
ります。
http://www.jawoc.or.jp/index_j.htm


[2096]  Re[2094][2093]: やたがらす  [なにがし]  11/04

>「ヤ族」との言葉、一般的ではないと思いますが、良く使われますか?
一般的ではないのではないでしょうか。本に書かれていただけなので、その説が正しいかどうかは私には分かりません。
 
>奇形の方向があって、3は難しい。鉱山とカラスの結びつきは無さそう。
人の説なので正確な解答はできませんが、私がこの方の説を次のように解釈しています。
神武東征のおり熊野より道案内したのがヤタガラスですが、その当時たまたま3本足の奇形児が生まれて、その人が見た目黒かったので、記紀でそう表現された、可能性もある、と言う程度だと思います。水銀鉱山では奇形が生まれやすいことからの発想でしょう。
ちなみに、鉱山とカラスをむずびつけようとするのは難しいかもしれませんね。上の説から考えると、記紀を書いた人の表現でカラスになったり違う動物で表現される可能性がありますから。黒い動物だったら何でも良かったのかもしれませんよ。修験者には鉱山師としての側面がありますが、かれらの験競べで「烏飛び」というものがあります。記紀の成立時期に修験者がいたかもありますが、鉱山師とカラスの結び付けは難しいですが否定もできないのでは。


[2095]  ヤタカラス  [玄松子]  11/04

八咫烏(ヤタカラス)の八咫は、八咫鏡の八咫と同じ字を用いますね。
三種の神器は、
・八握(ヤツカ)剣
・八尺(ヤサカ)瓊曲玉
・八咫(ヤタ)鏡
八(ヤ)は美称で、特別の意味があるようには思えないのですが、あるいは、八咫烏と八咫鏡の「八咫」は別の意味なんでしょうか。
「めっちゃ輝いてる」程度の意味じゃないのかな。


[2094]  Re[2093]: やたがらす  [習志野のてつMail]  11/04

オジャマします。
> @「ヤ族」説。ヤマタノオロチや土蜘蛛(足が八本で)から冶金関係に
>従事した人を表すのでは、との事です。ですからヤタガラスもヤ族かもし
>れませんね。
「ヤ族」との言葉、一般的ではないと思いますが、良く使われますか?
 
>  A水銀等の精錬従事者でその毒気によって奇形児が生まれ、足が三本
> あったのでは、と言う人もおられます。確かに山道には詳しいし、鉱山
> 師は色が黒そう。
  奇形の方向があって、3は難しい。鉱山とカラスの結びつきは無さそう。
 「山のカラスが泣いている」は無理筋でしょう。

  ヤタガラスについて直感的想像
@古代中国の考えでは、三本足の烏は、太陽の象徴
 天照大神は、太陽の司祭または太陽そのもの
 八咫鏡(やたのかがみ)は、天照大神の象徴として祭られる。
 八咫鏡の使い神もしくは八咫鏡そのもの
A八咫鏡、八尺勾玉のように大きく立派なものを「八」で表現する。
B夢殿は、八角形で宇宙を表現する。「宇宙に通じる」カラスの意味
 私的結論:これらのカラミアイ。 
 少なくとも三本足は、中国の影響でしょう。  失礼


[2093]  やたがらす  [なにがし]  [Url] 11/04

私には想像つかないので、他人の説(本等より)を紹介します。
@「ヤ族」説。ヤマタノオロチや土蜘蛛(足が八本で)から冶金関係に従事した人を表すのでは、との事です。ですからヤタガラスもヤ族かもしれませんね。
A水銀等の精錬従事者でその毒気によって奇形児が生まれ、足が三本あったのでは、と言う人もおられます。確かに山道には詳しいし、鉱山師は色が黒そう。
ヤタガラスについては想像つきませんが、なんか直感的には紋次郎様の分野のような気がしています。直感で生きるなにがしでした。


[2092]  Re[2090]: や・た・が・ら・す  [福島雅彦] [Url] 11/04

・三本足のの烏(からす)?
・九つの太陽?
・弥、八、邪、?
 
 以上のキーワードからの連想ですが…。
※三本縒りの注連縄は、在来倭人、帰還倭人、徐福の末裔の三極対立の倭國大乱が収拾した手打ちの名残りではないか、とする私の説を思い出しました。
烏(からす)は、『王』では内でしょうか。『素盞(製鐵)嗚(王)尊』だし…。
※九つ⇒九州の語源⇒狗邪韓国、對海国、一大國、末盧國、伊都國、奴國、不彌國、投馬國、邪馬臺國、が思い出されます。
※弥、八、邪⇒邪馬臺國(邪馬壹國)の意?。

以上、雑感でした。


[2091]  Re[2090]: や・た・が・ら・す  [ひふみ]  11/04

「ヤタ」というのは、サンカの言葉でいう所の「ヤテラ(弥や照らす)」から派生したのではないでしょうか。「ヤテラ」とは、「太陽」の意味だそうですし。太陽にカラスというのは、中国思想だったと思います。


[2090]  や・た・が・ら・す  [焼尻紋次郎] [Url] 11/04

 おらサッカーには興味ありませんが、来年の朝鮮との共同主催の「ワールド・リーグ」が始る前
までには、なんとか三本足のカラスの意味語源をつきとめたいと思ってきました。
 2年前はオンドリでしたが、次は三本足のカラスが「ワールド・リーグ」のシンボル・マークだ
そうです。

 ……だから……、あれは常陸風土記に載っているのではないかナ?
 とにかく、つくば嶺周辺の民話などを集めた子供向きの本に載っていた記事です。
 なんでも、空の九つの太陽が照り輝いて熱くてたまらんので、(だれかが)射おとしてみたら、
それはヤタがらすだった……と。

 ZOU さん、kOKORO さんのおカキコで、いよいよヤタガラスの核心に迫ることができそうな気が
してきました。
 ヤタがラスの「ヤタ」の意味がワカランのです。一般には「やた」は「大きな」と解釈されてい
るようですが、それでは語源分解が成りたちません。
 九つの太陽……九耀紋はシナです。そうすると、物部そのものもシナ色の濃密な存在……となっ
てきますね。
 小生には「モノ」の語源も分かりませんが、古代シナ語を追求している飯野睦さんは「モノの
語源は四つも五つも古代シナ語からでてくる」と言っておられました。
 モノノベは朝鮮にもいたことはタシカです。そして軍隊組織でもあった。

 嵐をよぶぜ ; http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/yakbbs.cgi


[2089]  Re[2085]: はじめまして  [kokoro]  11/03

 ZOUさん、アマカネ!

> 先日のkokoroさんの発言の中で、奈良県天理市の三十八神社に伝わる「鬼」と書かれた的を射る神事についてお書きになってましたよね。じつはあの部分、たいへん興味を持って読ませていただきました。

 ありがとうございます。

> 以前に読んだ本にあったのですが、関東地方の熊野神社を中心にして「オビシャ」という神事が伝わっているそうです。これは、3本足の烏が描かれた的を矢で射るというもので、主に正月にとり行われているとのことです。これの意味内容としては、中国の射日神話につながる太陽の復活儀礼だとか、陰陽五行思想によるものだとか、いろいろにいわれているようです。

 「オビシャ」の神事のことは初耳です。もちろん、意識して書いたわけもありません。が、それにしても! 仮説とはいえ、関東地方に中国の射日神話につながる太陽の復活儀礼めいた神事があるとは! 嬉しい驚きです。

 関東で日輪祭祀・射日・太陽の復活儀礼というと、『日本の神々11関東』にある「萩日吉神社」(筆者は千嶋寿氏)の弓立て神事関連記事を連想します(すでにご存じだったでしょうか?そうだとしたら謝ります)。それによると、当社の神体山である弓立山は、祭祀遺跡らしいある岩場から眺めると、冬至の日に山頂から朝日が登るそうです。この瞬間の写真も載っています。小さな白黒写真ですが大変に印象深いもので、弓立山の稜線がまるで引き絞った弓を横にしたもののように見え、そこでは山頂から登る「日の出の初光はまさに矢そのものということにな(P58)」るのです。弓立山の名称もこのことから生まれたと示唆されています。

ZOUさん> 私は奈良に住んでいるのですが、奈良県内でこのような神事が残っているというのを初めて知ることができました。

 お役に立てて嬉しいです。近々、ホームページお邪魔しますネ。


☆☆☆☆ 皆さんは桃色蜥蜴さんの『穂国幻史考』へ行きましたか。すごいホームページですよ。内容も興味深いし、ボリュームもあります。是非、ご訪問を。
http://www.joy.hi-ho.ne.jp/atabis/


[2088]  天神さまの美術  [Setoh]  11/02

 今日の午後,大阪天王寺公園のなかの大阪市立美術館で開催されている表題の展示会へ行って来ました。圧巻は天神縁起の絵巻です。特に北野天神縁起絵巻はなかなか現物を見るチャンスの少ない物で,是非皆さんもご覧下さい。それ以外の絵巻もあるようで,アメリカへ流れているものも里帰りしていました。御霊信仰の一種の菅公祭祀は平安時代も一〇〇年後の話ですが,やはり古代からの崇神観念も反映し,修験、仏教の影響も多々見られました。
 今日から12月9日までやっています。


[2087]  Re[2085]: はじめまして  [S.Setoh]  11/02

> Setohさん、みなさん、はじめまして。
> あちらこちらでKAGさんにお世話になっているZOUと申します

ZOUさん おいでやす。
ZOUさんのHPで,「宝山寺には神社が隠されている」に感銘を受けているんです。あのただならぬ神体山と宝山寺こそ饒速日尊が天降った饒速日山とか生駒山にあったという「上ノ社」の跡ではないかと,ずーっと思っていました。我田引水ですが,小生にとっては,有力な証言を得たような気がしています。

 登美彦のお話も面白いですね。大和には多くの登美彦がいて,派遣を争っていたとは,畑井弘『古代倭王朝論』の主張ですが,その上に志貴の王がいたとのZOUさんのHPでの説は興味津々です。

 所で、香具さんZOUさん,『天理市史』にさりげなく,「夜都伎神社の東方に字火谷がある」と書いてあるんですが,乙木村の小字を云っているような親近さで読めてしまうんです。火の谷は二つある? ZOUさん,「大和の地方史」,大いに期待しております。


[2086]  神様開発はことば開発から  [焼尻紋次郎]  11/02

たまゆらさん> 貴重な情報です。学者に任せていたので「言語による歴史開発」は江戸時
 代以降、ぜんぜん進歩していないのです。ぜひ、お力添えください。
 なぜそうなったのか、とか、どうすればいいのかなどハナシはいっぱいあります。わけて
も先日来、瀬藤ドンが「ほにゃらか」 http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/yakbbs.cgi
で報せてくれたアラビア語と日本古代語との類似語彙の層はただならぬものを含んでいるか
と思えます。
 いま、「ほにゃらか掲示板」では、ネパール語だけでなく、インド諸語へと視野が広がっ
ています。「言語による歴史開発」を現場で推進させるパワーは立場に捕われないシロート
衆によるものだと確信します。

ぞうさん> アマカネ。
 『かむなび』の末社の「ほにゃらか掲示板」では、秋田県由利郡の象潟(キサカタ)町の
キサが割れたばかりです。
 北九州と関東が同一イントネーションなんです。これは北九州から奈良に入った王族……
その末裔たちが関東に移住したことによる現象だとしか思われません。
 小生永年の疑問が奈良のイントネーションです。すでに奈良には大阪弁が侵入して、大幅
にイントネーションも崩れているかと見込めますが、奈良盆地のザイでは、まだ北九州・関
東と共通のイントネーションが残っているのではないでしょうか? 
 急ぎません。ゆっくりと睨みつけてくださればアマカネ。

 なお、ミナシャンにお願いこれあり。
 坂上田村麻呂は黄色い髭をたくわえていたそうです。黄色い髪とか黄色い毛を持つ種族は
どこでしょうか。なにか手がかりみたいなものをご存じのかた、お教えクタシャァ〜〜い。
  『かむなび』奥の院(チキ) ; http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/yakbbs.cgi



[2085]  はじめまして  [ZOU] [Url] 11/02

Setohさん、みなさん、はじめまして。
あちらこちらでKAGさんにお世話になっているZOUと申します(KA
Gさん、やって来ましただよん)。

Setohさん、先日はお疲れ様でした。ひょっとしたらと思って、私も
夕方石上神宮に行ってみましたが、やはりお会いするのは無理なようでし
た。って言ってもかなり遅い時間でしたので、まず無理だと思いながら行
ったんですが・・・(^_^;)

さて、このたびはリンクをありがとうございますm(__)m
こちらからもリンクを貼らせていただいてもかまわないでしょうか?

今まではずーーっとROMでしたが、今回とうとうカキコさせていただき
ました。いやあ、ここの掲示板の発言はレベルが高すぎて、私が発言して
もボロを出すだけかと、なかなかカキコできなくって(^_^;)

ともあれ、今回はお礼かたがた初書き込みでした。
今後ともよろしくお願いしますm(__)m


☆kokoroさんへ

はじめまして。
kokoroさんのご活躍はKAGさんからいろいろと聞いています(^-^)/

先日のkokoroさんの発言の中で、奈良県天理市の三十八神社に伝わる「鬼」
と書かれた的を射る神事についてお書きになってましたよね。じつはあの
部分、たいへん興味を持って読ませていただきました。

というのも、以前に読んだ本にあったのですが、関東地方の熊野神社を中
心にして「オビシャ」という神事が伝わっているそうです。これは、3本
足の烏が描かれた的を矢で射るというもので、主に正月にとり行われてい
るとのことです。
これの意味内容としては、中国の射日神話につながる太陽の復活儀礼だと
か、陰陽五行思想によるものだとか、いろいろにいわれているようです。

そしてこの神事が、場所によっては、「鶴亀」や「鬼」という字が書かれ
た的を射る、というように変形して伝わっていることがあるらしいのです。

私は奈良に住んでいるのですが、奈良県内でこのような神事が残っている
というのを初めて知ることができました。
kokoroさんが意識されていたかどうかはともかく、私にとってはとても興
味深い情報でした。ありがとうございましたm(__)m


初めて現れたのに、長々と失礼しました。
では(^o^)/~~~


[2084]  Re[2083]: アラビア語について  [Setoh] 11/01

 たまゆらさん,こんばんは。
「名草の巨石群」は小生も見たことがありませんが,「名草」では紀の国の名草,例の神武天皇に誅されたという名草戸畔という女酋についてはいくつか考えられます。
「扇動される」 長髄彦に扇動されて兄の五瀬命におそいかかった。偽書ッポイ『富士古文書』
「乱す、邪魔する」神武東征の旅を途中で邪魔した。『日本書紀』
 我ながら,コジツケのように思います。


[2083]  アラビア語について  [たまゆら] 11/01

はじめまして。。お邪魔します。
ここ半月くらい活気ある皆さんのお話に、乏しい知識では追いつけないくらい
濃いお話を読ませていただきました。凄いですね。
私も7年前から縁あって、元伊勢を皮切りに神社参りをしておりまして、
この神奈備サイトは何度かお世話になりました。(でも、掲示板を読んでいなかった)
と、それはさておき、時折見かけていた、「アラビア語によると・・・」という
お話が出ていたのが気になっていたのですが、今日、「消された星信仰」からのこと
だったと分かり、合点がゆきました。
私も読んだことがあります。
また、アラビア語も数年習ったことがあり、幾つか引いたことがあるんですが、
どの辞書で、どう引いたのか、私には良く分かりませんでした。
先ほど、さっくりとアラ日、英アラ、アラ英と、naghashaという表記に基づいて調べた
ところ、音だけで1番近いものにあったのが、「扇動される」という動詞がひとつあり、
shaではなく、くもった音のsaだと「乱す、邪魔する」という動詞が出てきます。
なぜ動詞かといえば、アラビア語は3語根といい、3文字を基盤として動詞があり、
それが変化して名詞やら何やらと単語が生まれてきます。
よって、数文字で切るとしても3+○○のように単純にはいきません。
かの本を書かれた元の単語を導き出すのはかなり大変だと思われます。

名草の巨石群については、勉強不足でよく分からないのですが、上記のような
源訳だった場合、意味がありますでしょうか?


[2082]  ありがとう [ピンクのトカゲ(桃色蜥蜴)] [Url] 10/31

瀬藤さん
リンク張って頂いてありがとうございます。
なにぶん色彩感覚と絵心に欠けたモノですみません。


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