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[2635] Re[2634]: どっちもどっち  玄松子 2002/02/28(Thu) 23:02 [Reply]
> > 流れてきた縄文人もいるのではないでしょうか。
> 縄文文化は、異常なくらい均一化された文化です。

じゃ、「ツチグモ」と呼ばれた人々は縄文人なのでしょうか。弥生人なのでしょうか。
縄文人が主な担い手だった時代の文化は均一かもしれませんが、
その裔たちの渡来と考えるとどうでしょう。

と、書きながら、仮定に仮定を重ねても、仮定でしかないのでしょう。←…と思います。

[2634] Re[2631][2630]: どっちもどっち  習志野のてつ [Mail] 2002/02/28(Thu) 22:34 [Reply]
> 一万年前から暮らしている縄文人の他に、
> 流れてきた縄文人もいるのではないでしょうか。
縄文文化は、異常なくらい均一化された文化です。
 大きな民族流入が有れば、文化的不均一が生じます。
 流入があっても小さいのではないでしょうか?

> 縄文人はモンゴロイド?
 縄文人も弥生人もモンゴロイドですが、弥生人は
 酒が飲めない遺伝子を一部に持つ新モンゴロイドで、
 縄文人は全員酒が飲める古モンゴロイドと云われて
 ます。例の遺伝子仮説です。

[2633] Re[2629]: どっちもどっち  マルヤ [Mail] [Url] 2002/02/28(Thu) 22:32 [Reply]
>  『古事記』久米歌
> 忍坂の大室に到りたまふ時に、尾ある土雲八十建その室にありて待ちいなる。
> これはマルヤさんの言われている「古代吉野三族の内」の一でしょうか。
はい、そう思います。葛城族(鴨族)も国栖と同族の系譜と小生は考えています。
「また葛城邑に、赤銅の八十梟師(あかがねのやそのたける)がいます・・・」という記事もあり、この土蜘蛛は鉱山従事者の感があります。
御所市葛村朝町は巨勢(古瀬)氏の本貫の地で、巨勢氏の生業は銅の採鉱・精錬だったといわれます。
古代部族は様々な利害関係で混血し同化し同族化して、そしてまた、様々な利害関係で支族分裂して、敵対するようになっていったこともあったのではないでしょうか。

[2632] Re[2627][2626]: どなたか教えて  マルヤ [Mail] [Url] 2002/02/28(Thu) 21:40 [Reply]

神奈備さん、こんばんは。
> 大倭帯日子国押人命は第六代の孝安天皇のことです。母親は尾張の娘。
そういうことでしたか。日本書紀でいう「日本足彦国押人」と同じなのですね。
快刀乱麻、いつもながら大抵の縺れた疑問は、ほぐしてもらえそうです。
他のヒントも自分でも調べるための糸口になりそうです。ありがとうございます。

[2631] Re[2630]: どっちもどっち  玄松子 2002/02/28(Thu) 21:02 [Reply]
>  やはり弥生人が外来種では?縄文人は一万年も暮らしていたのですから。

一万年前から暮らしている縄文人の他に、
流れてきた縄文人もいるのではないでしょうか。

南米インディアンも日本人も、モンゴロイドというのを聞いたことがあります。でも、違うかも。縄文人はモンゴロイド?

[2630] Re[2629]: どっちもどっち  習志野のてつ [Mail] 2002/02/28(Thu) 19:52 [Reply]
> kokoroさん> D.記紀等の文献から、大和朝廷からみてクズ族が、
> 珍奇な習俗をもつ異族として捉えられていた感じがすること、つまり
> 彼らは外来の民族であった可能性のあること

 やはり弥生人が外来種では?縄文人は一万年も暮らしていたのですから。
 縄文時代の竪穴式住居は、1m程地面を掘り下げ作ります。寒い地方では、
より深く掘り下げます。更に屋根の上に土をかぶせると、冬暖かく夏涼しい
家になります。弥生人は、この家を見て,『穴に住んでいる』と表現したので
はないでしょうか。
 掘り下げた家から出て来る人を、馬鹿にして穴に住むと表現したのではな
いでしょうか。また、一般的に弥生人よりも縄文人のほうが、身長の割に手
足が長く毛深い。このことを含め『土蜘蛛』と差別的表現を使い、襲い、殺
し、略奪する事を正当化した。←…と思います。

[2629] どっちもどっち  Setoh 2002/02/28(Thu) 17:20 [Reply]
kokoroさん> D.記紀等の文献から、大和朝廷からみてクズ族が、珍奇な習俗をもつ異族として捉えられていた感じがすること、つまり彼らは外来の民族であった可能性のあること

確かにkokoroさんが指摘されるように:ー
『常陸国風土記』茨城郡
「昔、国巣(土地の言葉ではツチクモ,ヤツカハギという)山の佐伯,野の佐伯があった。いたる所に土の穴倉を掘って置き、いつも穴に住んでいた。(中略)狼の性と梟の情を持ち、鼠のごとく隙をうかがってかすめ盗む。

 『古事記』久米歌
忍坂の大室に到りたまふ時に、尾ある土雲八十建その室にありて待ちいなる。
これはマルヤさんの言われている「古代吉野三族の内」の一でしょうか。

ご指摘のようにクズの珍奇な習俗が出てきます。

 しかし神武天皇の后を求める際の大久米の顔ですが、「大久米の命の黥(サケ)る利目(トメ)を見て、奇しきと思ひて。。」とありますが,天孫族も国津神の娘から見て、奇妙に見えています。
丁度雄一さんが指摘されている入れ墨で,南方の習俗のように見えます。

 神武天皇の後継者争いで,当芸志美美の命が建沼河耳の命に破れますが,この時に神武東征に付いてきた久米氏や中臣氏は建沼河耳の命に味方をして勝ち残ったのでしょうが,当芸志美美の命に味方した氏族もいたはずで,彼らはまさにクズの地域に逃散したのでしょう。珍奇な習俗を持ち込んだのは天孫族かも知れませんね。歴史には野蛮人が文明国を侵略する例はまま見られます。

[2628] 龍について  雄一 2002/02/28(Thu) 12:49 [Reply]
魏誌倭人伝に倭人の風習として、みずち(コウリョウ:水中に棲む)を恐れその害を避けるために、体に入墨をする・・・。確か書いてあるはずですが?ご確認ください。
尚、龍より「みずち」で探したほうが探し易いでしょう。
みずちには「み」は水、「つ」は「の」、「ち」は霊の意とあります。
雷をいかずちと呼ぶと、「厳つ霊」の意とあります。かみなりと呼ぶと、「神鳴り」の意になるようです。大辞泉:小学館より
最後に雷にも、水雷・火雷と種類があるようです。参考までに書いておきます。

[2627] Re[2626]: どなたか教えて  Setoh 2002/02/28(Thu) 11:55 [Reply]
大倭帯日子国押人命は第六代の孝安天皇のことです。母親は尾張の娘。
宮は御所市室の八幡神社,陵は御所市玉手の孝安天皇社の所とされています。
マルヤさんの天満神社とあわせた三社が奈良県での孝安天皇を祭神とする神社です。
ついでですが,妃は和邇氏の祖の天足彦押人命の娘の押媛です。
ヤマトタラシヒコと言う仰々しい名前ですが,入り婿だったのかも。
二番目のヤマトタラシヒコは景行天皇で丹波の娘が母親です。
実在したらしい天皇ではヤマトタラシヒコは舒明天皇で天智天武の父親です。

佐宇加身神社
「佐宇」のつく神名は佐々宇良毘古,毘売
「宇加」は宇加御魂神,若宇加之売命や豊宇加之売命
「加身」は出ず。
???

[2626] どなたか教えて  マルヤ [Mail] [Url] 2002/02/28(Thu) 10:16 [Reply]
以下の二つの神社、よく判りません。

●龍池神社 /五條三在字長曽
 五條市史で調べると祭神は竜池大神といい、11社も摂社があるのですが、そのうちの佐 宇加身神社の祭神の佐宇加身神、これもよく判りません。
●天満神社 /御所市冨田字小走
 御所市史で調べると祭神は大倭帯日子国押人命とある。

この二つの神社、いずれも通りがけに立ち寄り、後で調べたのですがよく分かりません。
天満神社の方は、JR和歌山線「葛駅」、古瀬の丹生谷のすぐ近くです。
社名のごとくもちろん菅公もお祭りしています。
どなたか何かご存知の方、教えてください。

[2625] 国栖に思う  マルヤ [Mail] [Url] 2002/02/28(Thu) 09:45 [Reply]
国栖(国主、国巣、国棲、国樔、久須、葛) ”くず”は、記紀では古代吉野族の井光、磐押別、苞苴担のうち、磐押別の子といわれています。
古代吉野三族の内、井光と磐押別はいわゆる「尾生る人」で、この日本列島先住の渡来人ではないかと小生は思うのです。大陸から渡り来た犬祖伝説を持つ「犬戎」の子孫の一部ではないでしょうか。
採鉱を生業とした彼らは、狼(又は犬)を崇拝していたと思われます。彼等にとって狼は大神と同義だったことでしょう。

一方、龍を尊崇する部族はやはり大陸にいました。
漢の高祖はその母が龍と交わって生まれたと云われ(あるいは自称し)ました。この漢の高祖を崇拝した天武天皇もまた、龍の申し子を自称したそうです。
そのようなことから、むしろ天孫族のほうが龍を尊び祭ったのではないかと小生は思うのですが如何でしょう。
ただ天皇家と吉野族との密接な関係から、彼らは氏上(このかみ)の社に、タカオカミ、クラオカミなどのオカミ神を祀り始めた(天武朝以降か?)ことはあったと思います。

[2624] クズと古代世界  kokoro [Mail] 2002/02/28(Thu) 01:59 [Reply]
・2月26日の『「龍」「女神」「ワニ」「海」』のつづきです。

6.龍族と海
 龍族の仲間は世界的な分布がみられます。こうした世界各地の龍、あるいは龍もどきが集められた『龍のファンタジー』(カール・シューカー著)を読んで感じたのは、洋の東西を問わず、彼らに海を住処とするものが多いことです。『旧約聖書』のリヴィヤタン(リヴァイアサン)、アッシリア・バビロニア神話のティアマト、メキシコのケツァルコアトル、北欧神話のヨルムンガンドル等々は海を住処にし、あるいは海からやって来ます。また、仏典『大智度論』の一節には、「大龍王の大海より出でて、大雲を起し云々…」とあります。古い時代の龍族には、海棲生物である、との観念があったことが伺えます。

7.アンドロメダ型の神話
 アンドロメダ型とよばれる神話のタイプがあります。英雄が怪物を倒して、生け贄にされかかった乙女を救い、2人がむすばれる、というような型の神話です。例として、ペルセウスとアンドロメダ、聖ゲオルギウスと龍、イングランドのダラム州に伝わるラムトン・ワーム等々があげられます。
 アンドロメダ型の神話で英雄に退治される怪獣は、しばしば海棲生物で、海からやってきます。例えばペルセウスの場合それは、カシオペアの無礼に怒った海の王、ポセイドンが海の底から呼び出した、ケトゥスと呼ばれる巨大な蛇龍です。
 我が国にも典型的なアンドロメダ型神話があります。素戔嗚尊による八俣大蛇退治がそれです。八俣大蛇自体には海との特段な関係はありませんが、この神話の前身とも言われる「出雲の恋山」には、オロチの代わりに海からやってくるワニが登場します。こうしたことは、6との共通性を感じさせ、アンドロメダ型の神話に、古い時代の龍族の伝承が関係していること示唆します。

8.「八俣大蛇」と「出雲の恋山」
 「八俣大蛇」と「出雲の恋山」を比較すると、共通点も多いですが、相違する部分も少なくありません。最大の違いは、前者は英雄が登場するのに、後者にはそれがないこと、前者のオロチはおぞましく邪悪なのに対し、後者のワニはそうした雰囲気がないこと、だと思います。
 ここからは、僕の勝手な空想・妄想です。本人もそのことは自覚しているので、ご批判はお手柔らかに。神話に登場するおぞましい怪物は、滅ぼされた民族の古い神々が零落したもの、との説があります。おぞましい怪物は、アンドロメダ型神話にもしばしば登場しますが、それを考えるとき、かって地上のどこかに、王族の女性司祭が海から訪れる祭神を祀るような信仰があった気がします。この信仰をもっていた民族は、他民族からの征服等によって滅びたのでしょう。しかしながら、その神秘的な信仰が歴史に深い印象を残し、海から来る祭神は邪悪な怪獣に、女性司祭はその被害者に置き換えられて、アンドロメダ型の神話の中に記憶されなかったでしょうか。また、その場合、怪獣を倒す英雄は征服民族の美化された自画像なのです。
 したがって征服・被征服という契機が、素朴な「恋山」から「八股大蛇」を生み出すのであり、「ワニ」→「オロチ」、「玉日女命(女性司祭の神格化)」→「奇稲田姫(オロチの被害者)」といった変質は、出雲が大和に征服された時、起こったと思われます。記紀にある八俣大蛇の物語が、『風土記』にないことも示唆的です。
 なお、何らかの形で海から訪れる怪物と女神が登場する神話一般は、ヨーロッパ、中近東及びアジア各地に見られ、時間的にもバビロニアの時代から『千と千尋』まで系譜が続きます。その震源の深さは、計り知れません。

9.クズと龍
 英雄も登場せず、海から遡ってくる生物がおぞましくも邪悪でもない「恋山」は、八俣大蛇神話の原型であるとともに、アンドロメダ型神話一般の古い形態を伝えるものであり、さらに「海中他界から訪れる祭神とその女性司祭」という古い信仰を伝えるものである、として話を進めます。
 我が国では、こうした「恋山」型の神話は出雲と竹生島に、そして僕の推測では室生に、ありました。そしてそれらの地域には、同時に、龍神信仰が認められます(八俣大蛇も龍の一種とみなせば)。とすれば、「恋山」型の神話がその形跡だと僕が推測している「海中他界から訪れる祭神と女性司祭」の古い信仰が、それらの龍神信仰の原型ではなかったでしょうか。
 また、それらの神話の同族が世界各地に分布する以上、おそらくそれらの「恋山」の神話や信仰は我が国オリジナルではなく、上代に別の場所からもたらされたと思われます。それは、どういう人たちによってもたらされたでしょうか。出雲と竹生島のある湖北地方は、古代に半島系の渡来人が多かった地域です。したがって、彼らは朝鮮半島を経由して我が国に来た感じがします。ただし、彼らの神話と同族のそれが、世界中に分布している以上、半島は通過地点に過ぎない感じがしますが…。
 出雲と竹生島に「恋山」タイプの神話を伝えた人たちのことは、それ以上、僕には分かりません。しかしながら、室生の場合、

 @.クズ神社の分布圏と龍神信仰の分布圏がかなり重複すること
 A.クズ族の始祖・岩押分子は、中国西南部で生活していた哀牢夷と呼ばれる集団と同じく、龍神を意識したらしき扮装していたこと
 B.中身の検討はともかくクズリュウ≠ニいう語が存在すること
 C.@〜B等の状況証拠から、クズ族と龍神との関係が推測されること
 D.記紀等の文献から、大和朝廷からみてクズ族が、珍奇な習俗をもつ異族として捉えられていた感じがすること、つまり彼らは外来の民族であった可能性のあること

等を勘案すると、それがクズ族であった感じがします。
 記紀を読むと、吉野の国栖は神武天皇に早々と帰順したことになっているので、クズ族と大和朝廷の関係は、比較的良好だったと思われます。このために、彼らの祀った龍神のプロトタイプ(おそらく「海中他界から訪れる祭神と女性司祭」が何らかの形で関係していた)は、おぞましい八俣大蛇のような怪物に変質しないで澄みました。そうして、彼等による古いタイプの龍神信仰の聖地だった室生に、平安初期になって密教系の善女龍王が習合されていった、と思われます。

[2623] ちょっと補足  玄松子 2002/02/28(Thu) 00:41 [Reply]
最近の、自分の書き込みを読み直すと、「イチャモン」ともとれる印象なので、ちょっと補足。

龍という想像上の生物のイメージと、それに対する信仰が広範囲に渡っているのは興味深いことです。それが、仏教普及の影響でないのなら、なおさら。
でも、あの特異な概観は、偶然各地で創造されたとは思えません。
ということは、
・龍のイメージを背負った文化・信仰・民俗が、ある時期、どこかから伝播した、
・あるいは統治・支配した、
・あるいは各地の原始龍信仰と習合したのではないでしょうか。

クズ族が、”もし仮に”、他と違う特殊な龍信仰であったとするなら、
・クズ族自身が、龍信仰の伝播者なのか、
・龍信仰のグループに統治/支配された時期があるのか、
・もともとの信仰(蛇、ワニ、…)が、龍の皮をかぶったのか、
それらを考察することは、クズ族の出自、性格、歴史を浮き彫りにする作業に直結します。

ということで、興味津々。
ゆえに、注意深く、示唆に富む考察を期待しているのです。

[2622] でっかい神様  香具 [Mail] 2002/02/28(Thu) 00:19 [Reply]
金刀比羅神社、参詣して始めてファンになったのです。
 それまで俗化して爺婆の手垢にまみれた有名な観光地、としてしか意識していませんでした。でもそれは木を見て森を見ず、いや麓を見て山頂を仰がず、だったのです。
 まず山麓に直行せず、悠然と山(何という山名でしたか?)を眺められる処で一服し、金刀比羅さんのいます山を見ました。とても印象深い山容です。
 麓の宿に着いたのが夕方だったので、お土産屋に目もくれず、急いで参道を駆け上がり・・・無理無理、這い登り、四脚門まで。(ここで左手を見ると、建物の間から隣りの山が見えます。一見してピラミッド!を思い浮かべる稜線。)
 長い長い参道でしたが、この門から先が、まだ長い! しかし、手水舎の向いにある大きな御由緒書を読むと、ここは『・・・大物主大神の行宮跡・・・』なんだそうです。例によって不勉強なままの現地入りなので、却って感心。この山全体が、瀬戸内を抑える為の大事な要塞と考えると、境内の広大さも、参道の長さも納得できるサイズです。
 『クンビーラ云々・・・』という説明が書いてあったかもしれません。しかし、記憶というか印象に薄いのです。相変わらず、アバウトで、ええかげんです。
 いくつもの摂社、末社に会釈しながら本殿に急ぎますと、昇殿参拝の終了時刻でしたが、なんとかお願いできて、ハアハアと息を切らしながら受付けをしました。
 全身汗でビッショリ濡れたまま拝殿へ登ると、二人の巫女さんが私の前に坐し、柏手を打ち深々と礼をされます。人に拝まれたのは初めてなので、また出てくる汗をタオルであたふたと拭う始末、返礼まで頭が廻りません。
 すると、ご神職がニッコリと現れて親切に案内されました。お土産の灘の清酒を献奉して坐所に着くと、ご祈祷の始まり。朗々と朗々と・・・GOODです。
(大きい!巨きい!頭を垂れていても感じれる心地良い空間。高く深く広く久しく、それでいてすぐ側に満ち溢れている温かい気配。)
 ご神前の御幣?も、背丈ほどもある大きなもので、祝詞が終わると、ご神職が両手で抱えあげて、ひれ伏す我が両肩にかざします。我が巨体ですら、ふんわりと包まれているようで、感動的。大物主大神なのです、なるほどファンが多いはずです。頑張って登ってきて昇殿参拝して、『ヨカッタ〜』と大満足。お神酒を頂き、丸金マークの杯もお土産に頂き、木の御札と、黄一色のお守り。ジャパンですねェ。
 本殿での参拝が済んだら、さらに奥宮へと登りました。途中、さらにいくつもの摂社・末社を過ぎて奥宮へ。それでも山の頂上ではありません。通常のルートはここまで。この先はたぶん禁足地なのでしょう。崖に彫られた天狗のレリーフも見れました。この頃はデジカメを持っていなかったのが残念です。本殿のみならず、たくさんの摂社・末社も興味深いものでした。奥宮への参拝も、ぜひお勧めしたいところです。
 翌早朝にも再び本殿まで登り、気持ち良い境内散策を堪能しました。ご神職、巫女さんも親切な方々という印象、もう一度、参詣したい神社のひとつです。
 しかし・・・現地ではワニやドラゴンをイメージしたり連想するものに、気づきませんでした。勉強不足丸出しのお気楽な温泉旅行!

[2621] Re[2620][2618]: 「龍」「女神」「ワニ」「海」  玄松子 2002/02/27(Wed) 21:33 [Reply]
追加。

> 「金毘羅」はサンスクリット語のクンピーラの漢訳で、ガンジス河の鰐を神格化した名という説があります。爬虫類のワニですね。

中国に入って、金毘羅はワニの一種で蛟竜と漢訳されたそうです。(『学研 仏尊の事典』)

[2620] Re[2618]: 「龍」「女神」「ワニ」「海」  玄松子 2002/02/27(Wed) 21:31 [Reply]
>  九頭竜さんとは「讃岐の金毘羅さん」のことだそうです。

「金毘羅」はサンスクリット語のクンピーラの漢訳で、ガンジス河の鰐を神格化した名という説があります。爬虫類のワニですね。

[2619] Re[2618][2616][2613][2611][2594][2593]: 「龍」「女神」「ワニ」「海」  Setoh 2002/02/27(Wed) 21:25 [Reply]
> ナギナミ神のモデルと玄松子は「2550」で指摘されていることで十分でしょう。

ナギナミ神のモデルと玄松子さんが「2550」で指摘されていることで十分でしょう。

と訂正いたします。失礼致しました。 m(_ _)m

[2618] Re[2616][2613][2611][2594][2593]: 「龍」「女神」「ワニ」「海」  Setoh 2002/02/27(Wed) 21:17 [Reply]
kokoroさん うらやましい記憶力です。
 『源平盛衰記』によれば、此剣(石上神宮の神霊)を布留といふ事は、布留河の水上より一の剣流れ下る。此剣に触るるものは、石木共に伐砕き流れり。 下女、布を洗ひて此河にあり、剣下女か布に留まりて流れ遺らず。則ち神と祝に奉る。故に布流大明神と云ふ。

 この程度で「八箇岩に降臨した神剣と女神の繋がり」とはなかなか言えにくいのでは。
それよりも蛇神である大陸の伏羲と女□(女 渦の旁)がナギナミ神のモデルと玄松子は「2550」で指摘されていることで十分でしょう。

 ところで,面白い話があります。役行者開基の天台修験大寺院「神峯山寺」(大阪府高槻市)がある「神峰山のお山」(寺山)は、地元では「九頭竜さん」と呼ばれてます。九頭竜さんとは「讃岐の金毘羅さん」のことだそうです。あかねさんが某掲示板で指摘されており,他でも確認できましたが,こうなると総元締めの大物主神が登場して来て,竜頭蛇尾となるんでは勿体ない話ですが・・・。

[2617] Re[2616]: 「龍」「女神」「ワニ」「海」  玄松子 2002/02/27(Wed) 10:05 [Reply]
>  この辺については、『「龍」「女神」「ワニ」「海」』の続きで最終的に回答します。

単純な疑問なのですが。
「ワニ」と「海」というキーワードは独立した要素ではないと思います。ワニが登場すれば当然、海がその背景に考えられますよね。逆に、山に住むワニであれば、その特異性を問題にしても良いと思いますが。別のキーワードとするより、「ワニ」の部分でしょう。

「龍」と「ワニ」というキーワードですが。

> 3.出雲の恋山…「ワニが阿伊の村にいる玉日女命を恋い慕って…八伎大蛇の本拠地…オロチを龍の一種と見なせば、

この文章は、ワニ伝説の地は、八伎大蛇の本拠地だから、ワニと龍の関連性が見えるということでしょうか。

> 4.竹生島…大阪湾から数丈の長さがある大蛇が、宇治川を遡ってきて…都久夫須磨神社の祭神は龍神であるとも云われ…大阪湾から遡ってくる大蛇をワニと等価と見なせば

この文章は、結局、オロチ=ワニとみなせば、ワニと龍の関連性が見えるということでしょうか。

論旨の仮定が、前提となっているような印象なのですが、僕の理解不足でしょうか。

[2616] Re[2613][2611][2594][2593]: 「龍」「女神」「ワニ」「海」  kokoro [Mail] 2002/02/27(Wed) 01:29 [Reply]
setohさん> 弥生絵画の龍とされる像も要検討と言うことでしょう。

 龍が線刻された弥生土器の写真は、『龍の起源』(荒川紘著・紀伊国屋書店)P143に載っています。これは最近の本なので、大きい書店なら店頭にあると思います。稚拙なものですが、僕には龍に見えます。大阪の池上遺跡のものは、井戸からの出土で、龍=水神という観念がこの頃からあったことを示唆します。

setohさん> ワニはサメ,サヒで剣につながりそうですね。「大蛇は身を変え 天に昇り神剱となって布留川の上流八箇岩に天降り」と言う八剣神社の伝承も自然に耳に入ります。
setohさん> このあたりの伝承からは女神のイメージは出て来にくい所ですが,白山姫や戸隠の弁天さんをおもうと室生龍穴をして女神とすることは考えられますね。

 八箇岩に降臨した神剣と女神の繋がりは、以下の伝承によって示唆されます。降臨の後日談です(『石上振神宮略抄』に記載あり。また、石上地方の口碑ともなっているもよう)。以下、記憶で書きます。

「日の谷の八箇岩に降臨した神剣は、その後、蛇のようにクネクネ泳ぎながら、布留川を下っていった。その時、触れるものがあるとスパッ、スパッと斬られた。そして剣は、石上神宮の巫女が、川で洗濯していた布の中に入ると、そこで留まった。そこでその剣は神宮の東の山の麓(出雲建雄神社の鎮座している場所)に祀られることになった。また、剣が「布」の中で「留まった」ので川の名前が「布留川」になった。」

 この伝承は、「川遡る」VS「川下る」の部分だけベクトルが違うものの、『出雲国風土記』仁多郡条の「恋山」と同タイプの神話だと思います(以下参照)。地名起源説話であるところも似ています。
 ・出雲の恋山 … 「ワニ」 →「川遡る」→「玉日女命」 →「岩で塞がれて停止」
 ・布留川   … 「泳ぐ剣」→「川下る」→「神宮の巫女」→「布の中で停止」
 これもまた、布留川上流域と出雲との関連を感じさせる状況証拠のようです。これはsetohさんのカキコを読んで今、気が付きました。

玄松子さん> それは、龍に変質した「何か」なのか。
玄松子さん> その「何か」とはなにか。
玄松子さん> あるいは、当初から「龍」を祭祀していたのか。

 この辺については、『「龍」「女神」「ワニ」「海」』の続きで最終的に回答します。タイトルは『クズと古代世界』で、明日の投稿を予定。毎度、長くなって申し訳ない。

玄松子さん> 出雲や竹生島も、クズ族なんですか?

 誤解されやすい書き方でしたが、これは出雲や竹生島にもクズ族がいたという意味で書いたのではないのです。ただ、それらの地方の伝承等をあげ、「女神」「海から来る神」がセットになっている神話の型があり、そういう型の伝承の伝わる地方には、龍神信仰が認められる傾向があることを示唆したかったのです。 

[2615] 太子の祖母・小姉君の正体  ピンクのトカゲ [Url] 2002/02/26(Tue) 21:59 [Reply]
2月2日の2499及び2500のつづきです。
「捜聖記」によれば、「丹後資料叢書」の『丹後舊事記』では、用明即位二年、穴穂部皇子(アナホベノミコ)が、蘇我馬子に狙われ、丹後の間人村(タイザムラ)に逃れたこと及び間人村は、太子の母・間人穴穂部皇女(ハシヒトアナホベノヒメミコ)の領地である旨を記載する。
太子の母・間人穴穂部皇女は、書紀欽明二年三月条で欽明を父に堅石姫(キタシヒメ)の同母妹・小姉君(コアネノキミ)を母として、産まれたと記載される。
同条で小姉君の同母姉の堅石姫は、蘇我大臣稲目宿祢の娘と記載される。
そして、小姉君の同母姉・堅石姫と欽明の間には、太子の父・用明や推古が産まれている。
堅石姫は、蘇我大臣稲目宿祢の娘とされるから父は、蘇我稲目である。
しかし、堅石姫の母についての記載はない。
また、同条では、小姉君を堅石姫の同母妹とすることから、小姉君の母と堅石姫の母は同一人物となるが、この記載だけでは、小姉君の父は、誰であるか不明である。
母を同じくする姉妹の姉が姫で、妹は、君である。
小姉君の父は、蘇我稲目ではないのではないかという疑問が生じる。
一方、古事記は、間人穴太部王(間人穴穂部皇女)の母を岐多志比売命(キタシヒメノミコト)の姨(オバ)の小兄比売(オエヒメ)とし、岐多志比売命を書紀と同様に稲目の娘としている。
蘇我稲目の娘の岐多志比売命の姨ということになれば、岐多志比売命の父・稲目の姉妹か岐多志比売命の母の姉妹ということになる。
古事記も書紀と同様に岐多志が、「比売命」の尊称がつけられているのに対し、小兄は、「比売」と格が下げられている。
考徳の皇后となった天智の同母妹も間人皇女である。この間人皇女と天智は、男女の関係にあったとする説がある。
書紀は、間人を泥人(ハシヒト)と表記し、泥部は、ハズカシベノミヤツコと訓むようであるから、泥人は、土師人(ハジヒト)であり、恥人(恥知らずな人)の意である。
古代においては、同父の兄妹(姉弟)の関係は、許されていた。木梨軽皇子と衣通姫も同母であった故の悲劇である。
上宮記は、多米王(田目皇子)が、用明の死後、穴穂部皇后(間人穴穂部皇女)を娶り、佐富女王(サホノヒメミコ)を産んだと記す。
多米王(田目皇子)は、書紀用明条で用明が蘇我稲目の娘・石寸名(イシキナ)を嬪として産まれたとされる。田目皇子(タメノミコ)は、太子の異母兄弟であり、間人穴穂部皇女の継子である。
一方、古事記は、多米王(田目皇子)の母を意富芸多志比売(オホギタシヒメ)とする(注:古事記敏達条で敏達と推古の子に多米王の名が見えるが、書紀同条では、田眼皇女とする)。
古事記は、この記載に続けて、「庶妹間人穴太部王(間人穴穂部皇后)を娶り、産ませる子・上宮厩戸豊聡耳命(後略)」と記載する。
考徳の后・間人皇女は、同母兄の天智との関係が疑われている。それゆえ天智は、間人皇女の死後、即位したとする説がある。
一方、間人穴穂部皇女と多米王は、継子の関係であるが、恥人、すなわち、恥知らずな人の意の間人が冠せられている。
間人穴穂部皇女の母は、小姉君(記は、小兄比売)、父は、欽明である。一方、用明の母は、堅石姫(記の表記は、岐多志比売命)、父は、欽明である。つまり、用明と間人穴穂部皇女は、同父異母兄妹である。
旺文社「古語辞典」【継・庶】の項は、「同父異母、異父同母の兄弟姉妹の意を表す」とする。
用明と間人穴穂部皇女は、同父異母兄妹であるから、庶妹とは、用明の同父異母妹の間人穴穂部皇女を指すと考えられる。
しかし、間人には、同母兄弟と通じた恥人の意があり、その間人を間人穴穂部皇女は、冠しており、夫・用明の死後、継子・多米王と通じている。
古事記は、「この天皇(用明)、稲目宿祢大臣の娘・意富芸多志比売を娶り、産ませる子・多米王。庶妹間人穴太部王を娶り(後略)」と記載する。
庶妹間人穴太部王は、多米王の庶妹とともとれるのである。

間人穴穂部皇女の父は、欽明であり、多米王の父は、用明であるから、同父異母姉弟(兄妹)ということはあり得ない。
一方、間人穴穂部皇女の母は、小姉君(記は、小兄比売)であり、多米王の母は、石寸名(記は、意富芸多志比売)であるから異父同母姉弟(兄妹)ということもあり得ないように思える。
しかし、小姉君あるいは小兄比売は、固有名詞というより普通名詞に近い。
また、書紀は、間人穴穂部皇女の母・小姉君の同母姉を堅石姫(キタシヒメ)と記載する。
そして、古事記は、堅石姫を岐多志比売命(キタシヒメノミコト)と表記し、小兄比売は、岐多志比売命の姨(オバ)としている。
小姉君あるいは小兄比売の実名が石寸名(イシキナ)あるいは意富芸多志比売だとすれば、間人穴穂部皇女と多米王は、異父同母姉弟(兄妹)ということになる。
小姉君と堅石姫の関係について、書紀欽明二年二月条は、堅石姫は、蘇我稲目の娘であり、小姉君を堅石姫の同母妹とする。また、石寸名については、用明元年条で蘇我稲目娘としている。小姉君=石寸名とすれば、堅石姫も小姉君=石寸名も父を蘇我稲目とし、母も同じ同父母姉妹ということになる。
しかし、堅石姫の同父母妹の本名に「君」どころか石寸名と尊称がなぜついていないか疑問が残る。
一方、小兄比売=意富芸多志比売とすれば、古事記欽明条で小姉比売は、岐多志比売命の姨とするから、意富芸多志比売は、岐多志比売命の父又は母の姉妹ということになる。
また、用明条では、意富芸多志比売を稲目の娘としている。
古事記の一連の記載から意富芸多志比売は、蘇我稲目の娘の岐多志比売命の姨であり、岐多志比売命の父・蘇我稲目の娘ということになる。
この関係が成立するためには、蘇我稲目が実母と関係し、産まれた子が、意富芸多志比売である場合及び岐多志比売命の母方の祖母、つまり、稲目が自分の妻の母と関係して産まれたのが、意富芸多志比売である場合が考えられる。
意富芸多志比売が、蘇我稲目の娘の岐多志比売命の姨であり、岐多志比売命の父・蘇我稲目の娘という関係が成立するためには、上記の二例が考えられるが、前者の稲目が実母と関係したというのは、到底考えられない。
とすれば、後者の岐多志比売命の母とその母、つまり、岐多志比売命の母方の祖母とその娘(岐多志比売命の母)を稲目が娶ったと考えるべきである。
書紀では、小姉君を堅石姫の同母妹とするが、これだと小姉君と堅石姫は、同父異母姉妹ということになる。
古事記は、書紀の堅石姫を岐多志比売命、書紀の石寸名を意富芸多志比売と記載する。書紀風に記載を改めれば堅石姫命と大堅石姫である。
その名から意富芸多志比売(大堅石姫)の方が、岐多志比売命(堅石姫命)の方が年上のように思われる。
つまり、稲目は、岐多志比売命の祖母=意富芸多志比売の母を娶り、意富芸多志比売が産まれ、その後、岐多志比売命の母との間に生まれたのが岐多志比売命であったと推測される。意富芸多志比売の母を娶り、意富芸多志比売が産まれ、その後、岐多志比売命の母との間に岐多志比売命が産まれた。岐多志比売命の母は、意富芸多志比売が産まれたとき、まだ幼なかったのではないかと考えられる。

稲目が、稲目と意富芸多志比売の娘(岐多志比売命の母=稲目の実娘)を娶り、岐多志比売命が産まれたとは考えれらない。
稲目は、意富芸多志比売の母(未亡人)を娶り、その後に、その未亡人(?)の連れ子(岐多志比売命の母)を娶り、岐多志比売命が産まれたと考えるのが自然である。
つまり、稲目は、何らかの事情がある未亡人(?)と、その連れ子を引き取り、その未亡人(?)との間に娘(意富芸多志比売)をもうけ、その未亡人の連れ子(岐多志比売命の母)が、成人した後、その連れ子(岐多志比売命の母)と通じ、岐多志比売命を産んだと推察される。
これなら、岐多志比売命と意富芸多志比売は、父を稲目とする同父異母姉妹ということになる。書紀の小姉君は、堅石姫の同母妹とは、異なるが、書紀の記載は、何らかの手が加えられたのではないかと考えられる。
小姉君(大堅石)と堅石姫の尊称の違いを考えれば、小姉君(大堅石)も堅石姫の母と同様に堅石姫の母方祖母の連れ子であったかもしれない。つまり、小姉君(大堅石)は、母と一緒に引き取られ、稲目の娘とされたのではないかと考えられるのである。

『丹後舊事記』は、用明即位二年、穴穂部皇子が、蘇我馬子に狙われ、丹後の間人村に逃れたとする。
書紀は、用明二(五八七)年四月に、用明が崩御し、同年六月七日に馬子が御炊屋姫(推古)に穴穂部皇子及び宅部皇子(ヤカベノミコ)追討の命を出させ、穴穂部の屋敷を囲ませ、穴穂部皇子を殺し、翌日、宅部皇子を殺したと記載する(記には、記載なし)。
『丹後舊事記』の記載は、用明即位二年に穴穂部皇子が馬子に狙われ、丹後に来たと書かれている。この記載からでは、用明二年の何月に穴穂部皇子が丹波に逃れてきたかわからないが、穴穂部皇子が馬子に狙われとは、馬子が、穴穂部皇子追討の命を炊屋姫に出させたことを意味するように思われる。つまり、『丹後舊事記』は、暗に穴穂部皇子は、用明二年六月七日に殺されずに丹波に逃れた旨を主張しているわけである。
また、「捜聖記」によれば、「丹後国竹野郡誌」が引用する『丹哥府志』に物部守屋の反逆により太子の母・間人穴穂部皇后は、竹野郡の日崎近くの大浜里(現間人村)に逃げた旨を記載する。
『丹哥府志』にいう物部守屋の反逆は、用明没後からはじまり、やがて、馬子との抗争に発展する。
書紀は、既に述べたように守屋の軍勢が三度騒ぎを起こした翌月、穴穂部皇子が、殺され、その後、馬子と守屋は、全面抗争になり、同年七月、守屋が敗れ、その翌月、崇峻が即位する。
『丹哥府志』の間人皇后の丹後への逃避も守屋の反逆によりとされることから、『丹後舊事記』の穴穂部皇子の丹後への逃避とリンクして考えるべきである。

穴穂部皇子、記紀では、姉・間人穴穂部皇女と同様、間人(書紀の表記は、泥人)が、冠せられている。書紀一書では、泥人穴穂部皇子の別名を住迹皇子(スミトノミコ)と伝える(古事記は、別名を須売伊呂杼(スメイロド)と記載する。)。
泥人穴穂部皇子は、書紀用明元年五月条で異母姉・御炊屋姫(推古)を犯そうとしたとされる。
異母姉妹と通じるのは、タブーではない。間人穴穂部皇子が、同母姉妹と通じていれば、当然、その記載が書かれているだろうが、その記載はない。
穴穂部皇子に間人を冠する理由は、見当たらない。
一方、多米王は、同母姉の間人穴穂部皇女と通じている。多米王には、間人を冠する理由がある。
『丹後舊事記』で、用明即位二年、穴穂部皇子が、蘇我馬子に狙われ、丹後の間人村に逃れたとされる穴穂部皇子は、多米王ではないか。
穴穂部皇子は、生前は、住迹皇子と呼ばれており、後に間人が冠せられたのではないかと考えられる。
上宮記は、間人穴穂部皇女と多米王は、用明の死後、結ばれ、佐富皇女(サホノヒメミコ)をもうけたとする。
間人穴穂部皇女と多米王は、小姉君(大堅石)を母とする異父同母姉弟(兄妹)である。
『丹後舊事記』は、間人村を間人穴穂部皇后の領地であるとし、『丹哥府志』は、間人穴穂部皇后は、竹野郡の日崎近くの大浜里(現間人村)に逃げたと記す。間人穴穂部皇女と丹波の関りを考えると、間人穴穂部皇女の母・小姉君(大堅石)の存在が重要になる。出自不明の小姉君(大堅石)意外に丹波(丹後)の関係があるとは思われない。
また、『丹後舊事記』は、用明即位二年、穴穂部皇子が、蘇我馬子に狙われ、丹後の間人村に逃れたとする。そして、この穴穂部皇子は、多米王だと思われる。
間人穴穂部皇女と多米王は、丹後の間人村に逃げたのである。そして、上宮記が記載するように、その後、佐富皇女をもうけている。
二人の逃れた先は、丹波(丹後)であり、二人の間の子の名は、佐富皇女である。佐富(サホ)、狭穂彦、狭穂姫の「サホ」である。日下部氏及び丹波道主家ゆかりの「サホ」である。
間人穴穂部皇女と多米王は、丹波道主家縁と考えられ、太子の母・間人穴穂部皇女も、丹波道主家と関わる可能性がある。

[2614] Re[2613]: 「龍」「女神」「ワニ」「海」  玄松子 2002/02/26(Tue) 12:51 [Reply]
一般に、市杵島姫命は、弁財天と考えられていますが、これは仏教側の本地垂迹による意識改革の結果ですね。本来は別のものです。弁財天は宇賀神とも習合している場合もありますから。


> 奈良時代以前の「龍」は「蛇」「大蛇」であって「おろち」の意味だったのでしょうね。

「龍」という概念は、かなり高度な文化意識下でイメージされるものではないでしょうか。手があり、角があって、玉を持っており、それぞれに意味があります。逆に蛇は、シンプルな自然物です。

霊視・幻視・錯視の別はともかく、一般に「見える」と言われる物体の形は、それほど複雑なものではないのではないかと思います。
通常は、丸い形、あるいは、それが流れて帯状になったものでしょう。光の玉もその系統かもしれません。
人は、あるものを見た場合、知っているイメージのメタファとして、それをとらえます。帯状の「見える」ものは、蛇ととらえても不思議ではありません。蛇は、山野にも河川にも人家付近にも見られる馴染みのものですが、その容姿は特徴的ですから、それに神性を感じても不思議ではありません。
純粋に蛇をトーテムとしていたところに、龍の概念を導入するのは容易だと思います。市杵島姫命を弁財天としたように、蛇を龍としたのではないでしょうか。龍とした時点で別のものに変質したといえないでしょうか。

ということで、
玄松子さん> クズ族の「竜」とはなにか。
という疑問が出てきたのです。

それは、龍に変質した「何か」なのか。
その「何か」とはなにか。
あるいは、当初から「龍」を祭祀していたのか。

kokoroさん> 我が国で平安初期以前に生息していた龍族としては、一般的に、道教起源の「青龍」、密教起源の「八大龍王」「善女龍王」、八伎大蛇も龍の一種とすればこの大蛇、等々があげられるでしょう。仮にクズ族の祀ったクズリュウという龍がいたとして、彼はこれらとは系統を異にする龍だったと思われます。

と書かれていたので、質問したのですが。
出雲や竹生島も、クズ族なんですか?

[2613] Re[2611][2594][2593]: 「龍」「女神」「ワニ」「海」  Setoh 2002/02/26(Tue) 11:24 [Reply]
> >  よろしい。僕なりの回答をしましょう。

この意気、すばらしい。

若干のコメントです。
古事記には龍(龍の古漢字の竜)の文字は出てきません。
万葉集には地名(龍田)、人名にはそこそこ出てきますが,それ以外には次の一句のみ。
 巻一六 三八三三 
[題詞]境部王詠數種物歌一首 [穂積親王之子也]
[原文]虎尓乗 古屋乎越而 青淵尓 鮫龍取将来 劒刀毛我
[訓読]虎に乗り古屋を越えて青淵に蛟龍捕り来む剣太刀もが
[仮名]とらにのり,ふるやをこえて,あをふちに,みつちとりこむ,つるぎたちもが

鮫龍(みつち)のみです。奈良時代以前の「龍」は「蛇」「大蛇」であって「おろち」の意味だったのでしょうね。九頭龍神を密教以前とすると,前に話題になった八伎大蛇と同じ意味になりますね。日の谷に降臨した神を九頭神社は祭神としていると考えることができます。弥生絵画の龍とされる像も要検討と言うことでしょう。

 ワニはサメ,サヒで剣につながりそうですね。「大蛇は身を変え 天に昇り神剱となって布留川の上流八箇岩に天降り」と言う八剣神社の伝承も自然に耳に入ります。

 このあたりの伝承からは女神のイメージは出て来にくい所ですが,白山姫や戸隠の弁天さんをおもうと室生龍穴をして女神とすることは考えられますね。

[2612] Re[2608]: カモもカミ  玄松子 2002/02/26(Tue) 00:25 [Reply]
> 神出中学校横の神出神社鳥居付近は赤そうですね。この写真下さいな。

この鳥居、「住吉鳥居」ですね。珍しいです。
「住吉鳥居」は、住吉大社に代表される、角柱を用いた鳥居です。住吉大社以外にはなかなかないものです。目の保養になりました。

[2611] Re[2594][2593]: 「龍」「女神」「ワニ」「海」  kokoro [Mail] 2002/02/26(Tue) 00:03 [Reply]
玄松子さん> 「なぜクズ族が龍の祭祀」をするようになったのかが、焦点ではないでしょうか。
玄松子さん> 他で信仰されている竜神と同じ(あるいは同源)なのか、独創なのか。
玄松子さん> クズ族の「竜」とはなにか。

 よろしい。僕なりの回答をしましょう。

1.「龍」と「女神」
 室生龍穴神社の現祭神は、高オカミ神ですが、かってのそれは善女龍王という龍神でした(『三代実録』貞観9年8月)。また、室生村三本松の海神社(豊玉姫命)、同大野の海神社(豊玉姫命)、同向淵の堀越神社(豊玉姫命)、榛原町赤埴の白岩神社(須勢理姫命)も、かっての祭神が善女龍王だった形跡があります。これらは、明治初期の神仏分離の際、仏教系の善女龍王を、我が国古来の高オカミ神や豊玉姫命に改変したようです。なお、三本松の海神社や白岩神社には、祭神を龍穴神社から勧請したという伝えがあります。
 榛原町荷阪の式内社、味坂比売命ミノサカヒメノミコト神社は、かって龍穴神社への途御がありました。「龍神大明神」の記銘をもつ石灯籠もあり、祭祀面で龍穴神社と関係のあることが伺えます。
 榛原町山辺三に鎮座する葛神社の現祭神は、天照大神です(豊耜入姫命と倭姫命を祀っていたのが、中古、誤って現祭神になったという口碑あり)。
 こうしてみると次のことに気が付きます。善女龍王は善女≠ニある以上、女の龍と思われますし、そのほか、上記の室生龍穴神社と繋がりのある神社の祭神には、圧倒的に女神が多いのです。室生近辺の龍神信仰には、女神の観念がまとわりついているように思われます。

2.「龍」と「女神」と「ワニ」と「海」
 上記した神社郡の祭神中、注目すべきは豊玉姫命です。その1)で書いたように、三本松の海神社等では、神仏分離の際、善女龍王を廃して、この祭神が祀られるようになったといいます。したがって、豊玉姫命は明治以降の新しい祭神である感じもしますが、調べてみるとこの女神を祀る龍神祠は、室生以外の奈良県内にも多く分布しています。『奈良県史 5 神社編』では、合祀社も含め、奈良市に2社、大和高田市に1社、都祁村に1社、明日香村に1社、それぞれ豊玉姫命を祀る龍王神社(龍王社)がありました。恐らく、いつの時代にか、室生龍穴神社から勧請されたのでしょう。ここから、豊玉姫命が龍神であるという観念は、かなり古くからあった感じを受けます。
 しかし、ではなぜ「善女龍王」と「豊玉姫命」が等価になるのでしょう。一見、両者は、女神であるという以外、繋がりが何もない感じがします。が、恐らくsetohさんが指摘しているように、まずワニと関係していることが、この女神が善女龍王に比定される理由なのです。
 それからまた、豊玉姫命は海の女神です。室生においてこの神を祀る2っの神社が「海神社」なのは、海が強く意識されたことの現れと思われます。以上の分析から、ここで「龍」「女神」「ワニ」「海」を室生における龍神信仰のキーワードとして抽出します。
 蛇足ですが、古代におけるワニは鮫です。

3.出雲の恋山
 「龍」「女神」「ワニ」「海」を用いて、ほかの地域の伝承を掘り下げてみます。『出雲国風土記』仁多郡条は、恋山の地名起源説話として、以下を載せます。
「ワニが阿伊の村にいる玉日女命を恋い慕って、川をのぼってやってきた。その時、玉日女命が石で川を塞いだので、会うことが出来ないまま慕っていた。だから、恋シタイ山という」
 仁多郡は高天原を生われた素戔嗚尊が降臨した鳥上山等があり、八伎大蛇の本拠地です。上記の伝承は、『風土記』には記載のない八伎大蛇神話の前身だったとも言われますが、オロチを龍の一種と見なせば、ここに「龍」「女神」「ワニ」「海」が揃います。

4.竹生島
 琵琶湖に浮かぶ竹生島には、次のような伝説があります。
「竹生島周囲の湖底には大ナマズがいて、島を廻っていたが、大阪湾から数丈の長さがある大蛇が、宇治川を遡ってきて島にいる人間を呑んでしまう。その大蛇が岸の大きな松に、尾を巻き付け、首を伸ばして水を飲んでいるところを、大ナマズが喰い付いて引っ張ったので、その松の木は根から覆っている云々」
 竹生島は式内の都久夫須麻神社があり、祭神は地主神の浅井姫命であるとか、市杵島姫命であるとかいわれます。また、当社の神宮寺、宝厳寺は弁財天を祀る寺院です。つまり、竹生島は女神の島なのです。また、この島に上陸すると、龍神の祠が多いのに気が付きます。都久夫須磨神社の祭神は龍神であるとも云われ、全体に濃厚な龍神信仰が感じられます。大阪湾から遡ってくる大蛇をワニと等価と見なせば、ここでも「龍」「女神」「ワニ」「海」が揃います。

その5)
 1〜4を総合すると、「龍神」「海からやってくる神」「女神」という系譜をもった神話の一タイプがあり、室生の龍神が豊玉姫命に比定されたのは、この地方にもこうしたタイプの神話が過去に存在した可能性を示唆していないでしょうか。とりあえず、『室生村史』の「伝説」の項を調べましたが、そうしたことを思わす伝承はみつかりませんでした。しかし、室生寺の祭祀の影響を受け、龍穴神社の龍神信仰が強い密教色に染まる以前は(「善女龍王」は空海が唐からもたらした龍神)、この地方にも上記の出雲や琵琶湖のそれのような素朴な神話が伝えられていなかったでしょうか。そうして、善女龍王のことを豊玉姫命とみなすことに、こうした古い信仰の痕跡がわずかに残っているのでは。

☆ つづく。

[2610] Re[2609]: 宿題できませんでした(T_T)  Setoh 2002/02/25(Mon) 13:24 [Reply]
> > 三輪曳綱
ZOUさんお手数をおかけいたしました。曳綱ですから直感的には拝殿前の庭に登る所の石柱に綱を張っている所かも。

他のカンナリの聞こえる場所をレポートします。カンナリは怪力乱神ですから物理的とか地形的発想ではない場所だそうです。

宗像大社中津宮
参道から五歩ほどのところ。石段前の池から。
奥の村営牧場になっているところに、「浄ノ山」という神奈備があって,ガラスがパリンパリンと砕け散るようなカンナリ。

佐田大社
外参道のアスファルト道で、何本目か小さな灯篭を両脇に見る所

鴨高田神社
鳥居の下

出雲大社
発掘現場の所で今は無理だそうです。


[2609] 宿題できませんでした(T_T)  ZOU 2002/02/25(Mon) 00:50 [Reply]
神奈備さん、みなさん、こんにちは。

三輪曳綱についてですが、私の方では残念ながら確認できませんでした。
大神神社で神職さんに聞いてみたのですが、「十数年三輪にいるが曳綱というのは初耳」とのことでした。また拍手の響きについてもご存知ないご様子。
とりあえず、本社でも狭井神社でも、標柱のところで拍手を打ってみましたがそれらしい響きは聞こえませんでした。

ということなので、どなたか確認された方がおられましたら、お教え頂ければ嬉しいです。

[2608] カモもカミ  Setoh 2002/02/24(Sun) 18:39 [Reply]
神出中学校横の神出神社鳥居付近は赤そうですね。この写真下さいな。

『井上筑前の守ホームページ』 によりますと、弥生の絵画に龍の絵があるそうです。
また『ペギラさんの古代の謎へ』では,銅鐸と加茂地名との関連を指摘されています。
 カンナリ現象が話題になりましたが,鴨の神の阿治須岐高彦根神は雷神の要素を持っています。
『「山海経」海内東経』に、雷沢の中に雷神あり。龍神にして人頭なり。とあります。

 これから考えますと鴨の神は龍神でもあると言えます。泊瀬女さんも立ち寄られた天落神六社権現には阿治須岐高彦根神が祀られています。この神社の鎮座地は大和川上流にあたり,九頭神社やタカオカミ神社などが多い地域の要の位置とも言えます。
 鴨族の奥宮のような高天彦神社の前の山に土蜘蛛の墓が作られているように,鴨族は大和先住の民で土蜘蛛則ちクズの民であったようです。神統譜では阿治須岐高彦根神は大国主の子供です。出雲族と言うのでしょう。
 天孫族が大和平野を征圧した時点で、平野の出雲族は四方八方にそれこそ蜘蛛の子を散らすように散りました。彼らは雷神・龍神信仰を持っていったのです。特に同族の多い摂津、紀伊、大和山岳地帯へのがれたのでしょう。葛城のクズの民はある程度天孫族と妥協をして存続したのかも知れません。葛城もクズ族の拠点と言う意味があったのかも。
 
『井上筑前の守ホームページ』 http://inoues.net/yamataikoku/ruins/karakokagi.html
『ペギラさんの古代の謎へ』 http://homepage1.nifty.com/moritaya/kodai.html

[2607] Re[2606][2605]: 丹土  香具 [Mail] 2002/02/24(Sun) 13:35 [Reply]
途中に面白い酒屋を見つけ、試飲、試飲と重ねて、登る前から調子がハイに。
昨日は暖かく、景色もボーッと霞んでいましたので、山の撮影は諦めました。
雄岡山、雌岡山の山容は、可美真手命神社あたりから眺めると素晴らしいのに、神社が無くなると寂しいですね。酒屋で時間とお金を浪費してしまい、可美真手命神社に立寄らなかったのが残念です。他の神社は、山中のいくつかの小祠を含めて拙アルバムに載せています。

[2606] Re[2605]: 丹土  Setoh 2002/02/24(Sun) 11:29 [Reply]
香具さんと遇会は出来ませんでしたが、昨日の土曜日に神出町と押部谷町を歩いていました。
神出町報告はHPをご覧下さい。

押部谷町の日吉神社の隣の石材屋さんの石置き場で可美真手命神社参道と彫った石柱が横たわっていました。よく見ると底のほうにコンクリートが付着しており,納入予定品ではなく,現地から引き上げて来たように感じました。
可美真手命神社は播磨国明石郡の式内社である物部神社の後裔社とされている由緒ある神社で,近くの住吉神社の元社とも言われています。小山の上に小さく鎮座しており,参詣途中で見かけた石柱が片づけられたと言う事は、どうやら住吉神社の境内に遷座したものは合祀されたのでしょう。実は確認はしていません。また一つ由緒ある神社が消えたような悪い予感がします。
www.kamnavi.net/mn/kinki/umasima.htm

[2605] 丹土  香具 [Mail] 2002/02/24(Sun) 02:20 [Reply]
茶山は雌岡山の西に繋がる小さな丘、山王神社の裏山でした。
最明寺大日堂のところに『茶山』とありました。
赤っぽい地面が丹土や朱砂ならば、雌岡山の神出中学校横の神出神社鳥居付近にも、雌岡山東麓の梅園入口付近、山中の白玉大明神の参道付近等、あちこちで見れました。
雄岡山でも赤っぽい土がよく判ります、しかもねっとりして粘土みたいな印象。
これが丹土や朱砂だとすると、子供の頃に再度山系でも見かけたような気が?
相対的に土の色は明るい茶色と思って育ち、他所の土地へ行って黒い土や白い土を見て、びっくりしたものです。丹土と朱砂は、同じものなのですか??

[2604] Re[2601][2595][2591][2592]: 雨と貴  Setoh 2002/02/23(Sat) 21:41 [Reply]
福島様 ご無沙汰いたしております。
>素盞嗚尊とは、『朱砂王』
福島様は素盞嗚尊に金属精錬の王の意味を見出されておられました。
朱砂の女神の丹生都比売神は後世の勧請社はともかく古社は概ね川の上流が多いように感じています。その川の下流に五十猛命を祭る神社が有意差を持って多いのではないかと思っています。採掘と精製の役割,もしくは採掘精製と燃料供給運搬護衛の役割分担かと。
で、五十猛命を素盞嗚尊の荒魂と考えますと,『朱砂王』は考えられる事だと思います。


[2603] Re[2600]: カンナリって?雷親父?  Setoh 2002/02/23(Sat) 21:40 [Reply]
神奈備山に坐す神が応答しく下さる特殊な音を言います。
葛城古道の風の森峠に近い神社では社務所の前、拝殿の前などで柏手をうちますと、木霊ではないような音がかえってきます。こう言う音が聞こえる現象を言います。
この神社の場合には聞こえる人は御祭神の末裔に限られるそうですが,小生の遺伝子にも一滴は入っていたようです。
なお,修練によっては犬とか、琴とか、狼とかの声がもどったりするそうですが,小生は修練をしていませんので,神様がそのまま打ち返してくれる音しか聞こえません。

 これは宗教的な意味をこめた解説文とご理解下さい。


吉備津彦神社でよく聞こえた泊瀬女さんなら、高○神社でも十分聞こえますよ。

[2602] Re[2599]: たっちアウト!  Setoh 2002/02/23(Sat) 21:37 [Reply]
高齢の小野田名誉宮司さんとはゆっくりお話をさせていただいた記憶があります。ホームページへの紹介の事はご存じで,「テレビで紹介してくれてありがとう。」とおっしゃっておられました。残念ながら,禰宣の方とはお目にかかっていません。
名草の平野を拓いた川を宮井川と言い、二つの式内社がこの河口の平野に鎮座しています。

[2601] Re[2595][2591][2592]: 雨と貴  福島雅彦 [Mail] 2002/02/23(Sat) 01:50 [Reply]
> 宿題になりました。播磨国風土記の解説文からとったもので,茶山の訓、詳細な場所、丹土の確認はおこなっていません。近々調べにまいります。
> …丹生山より朱砂が多な山が雌岡山や麓の茶山であったなどが芋蔓になって・・・。

 この記述を拝読して、『陳寿(匿名)』氏の説を思い出しました。
≪素盞嗚尊とは、『朱砂王』ではないか≫とする物でした。

[2600] カンナリって?  泊瀬女 2002/02/22(Fri) 23:40 [Reply]
カンナリってどういう現象ですか?
有名な高鴨神社にはまだ行ったことがないので、よく分からないのです。
ある場所で柏手を打つと響くということですか?それともこだまのように音が戻ってくるのかしら。
私は柏手が下手で「ベシャベシャ」って音が出てしまいます。いつも「これじゃ、神様が出てきてくれないなァ」と思います。
備前の吉備津彦神社で、自分の柏手がとても良い音に聞こえて嬉しくて、社務所でそのことを話したら「この神社の拝殿の床は石張りだから、音がきれいに聞こえる」とのことでした。


[2599] ありがとうございました  たっちー 2002/02/22(Fri) 23:03 [Reply]
宇賀部神社の「禰宜」の宮井さんは、僕の親戚かもしれません。
どういった方かご存知でしょうか?

[2598] 明石海峡冬景色  香具 [Mail] 2002/02/22(Fri) 22:51 [Reply]
と、いうことで、ですね。帰りは175号線を下って、バスでJR明石駅前へ。
そこから徒歩で浜側へ歩き、すぐ『魚の棚』市場です。
 さて、この近辺でおいしい明石焼屋はどこか?・・・全身センサーと人生経験を活かして探して下さい。見事ヒット!すれば、タコ焼きと明石焼きの違いに滂沱の涙が溢れることでしょう(イヤホンマ)。お土産にはアナゴの白焼きとか、切り身の味噌漬け(超美味)を探してみて下さい。ちなみに正月の焼き鯛はここ魚秀から取り寄せています。
 ついでに、明石城下の都市計画は、宮本武蔵の設計だとか。兵庫県立図書館は明石城公園の北側にあります。最近やっと直接貸出をはじめてくれました。宅配便可だそう。
 どこからの帰りって?・・・雌岡山でんがな!
春になれば『ゆほびか』なる海峡の景色です。のたりのたりかな。

[2597] Re[2596]: 雨と貴(&[2589])  玄松子 2002/02/22(Fri) 20:55 [Reply]
訂正です。

> 「柏手が響く」という案内は、最近も見ました。

見たと記憶していましたが、撮影した写真や資料には見当たりませんでした。
「記憶違い」の可能性大です。思い込みかもしれません。
長野に住んでいるので、春には確認に行ってみようと思いますが。
訂正しておきます。

[2596] Re[2591]: 雨と貴(&[2589])  玄松子 2002/02/22(Fri) 09:28 [Reply]
> 玄松子様が書いておられた、「戸隠神社・奥社」とは、今現在の社の事でしょうか。

「柏手が響く」という案内は、最近も見ました。

> 今、ああいった形で建てられたのは、土砂崩れよけの避難所のようなものではと、私としては感じております。

もともとあった岩窟を、コンクリートで補強したのだと思ったのですが。
「補強」したのであれば、昔から、「響く構造」だったといえるとでしょう。
普通の岩窟とは、違う響きなのかもしれませんが、僕にはわかりませんでした。

[2595] Re[2591][2592]: 雨と貴  Setoh 2002/02/22(Fri) 08:54 [Reply]
> 赤滝の地名の由来は、赤い水(丹の水)が流れる事からでしょう。
明石は赤石で同じ様な意味だそうです。赤穂はどうなんだろう。
> 茶山は「ちゃやま」ですか、「さやま」ですか。
> 丹土まで確認してませんでした。素人でも判るのですか?
> 茶山は山王神社の裏の辺のことでしょうか?
宿題になりました。播磨国風土記の解説文からとったもので,茶山の訓、詳細な場所、丹土の確認はおこなっていません。近々調べにまいります。
神戸市の山田の丹生山明要寺の創建譚に紀の国粉河寺の創建譚と同じく童男行者が出てきたり、また伽藍建築の場所決めに独鈷(金剛杵)を投げる話があり、これは空海の高野山の話に似ているので調べていましたら,丹生山より朱砂が多な山が雌岡山や麓の茶山であったなどが芋蔓になって・・・。

[2594] Re[2593]: クズと龍  玄松子 2002/02/22(Fri) 08:18 [Reply]
> > つまり、龍はクズの専売なのかどうかが、知りたいのです。
>
>  カキコ全体の中で、この質問だけは意図が掴めなかったのですが、とりあえず率直に回答します。龍はクズ族の専売ではないと思われます。また、その必要もありませんし、これまでの僕のカキコでも、そういう書き方をしたつもりはありません。


玄松子> つまり、龍はクズの専売なのかどうかが、知りたいのです。
玄松子> 他でも信仰していた龍を、クズも信仰した場合もある、ということはないのでしょうか。

この2つの質問は同じものですよね。ということで、


> > 他でも信仰していた龍を、クズも信仰した場合もある、ということはないのでしょうか。
>
>  そういう可能性はあります。しかしその場合でも、ではなぜクズ族が龍の祭祀を受け入れるようになったのか、という問題は残るでしょう。

「なぜクズ族が龍の祭祀」をするようになったのかが、焦点ではないでしょうか。
他で信仰されている竜神と同じ(あるいは同源)なのか、独創なのか。
クズ族の「竜」とはなにか。

> 総じて僕は、道教や密教によってもたらされるより以前から、クズ族は我が国で龍神を信仰していたのではないか、と考えています。

道教のもたらされた時期とは、いつなのでしょう。
道教は、大陸の習俗全般ですから、大陸から渡来した人々がその影響下にあることは必然ですね。

[2593] Re[2573][2571]: クズと龍  kokoro [Mail] 2002/02/22(Fri) 02:31 [Reply]
 遅レス、すいません。

> 毎度、長いので…

 これでも一太郎でA4を2ページに収めようと努力しているんですが…(← その基準がすで長っげェーんだよ)。

> クズの民と龍は、「九頭龍」というキーワードにおいて密接な関係になるのではないでしょうか。
> 「九頭龍」(※という語)以外に、この関係を示したものはあるのでしょうか。

 「九頭龍」という語は、確かにクズ族と龍神に関係のあった状況証拠とみなしてよいでしょう。しかし、では、クズ族と龍神の関係は、この言葉の上だけからしか推測できないか、というとそうではありません。両社に関係がある状況証拠としては、クズ神社の分布圏と龍神の伝承や龍神を祀る神社の分布がある程度、重複していることがあげられると思われます。以下、ゴチャゴチャ書きますが、僕自身の整理のためのメモです。読み飛ばして下さい。
 奈良県近辺でクズ(九頭、葛、国津等々)神社の分布が顕著な地域は、

 @奈良市の狭川地区
 A布留川上流域
 B都祁地方
 C初瀬川上流域
 D桜井市の多武峯地区
 E宇陀地方(菟田野町、大宇陀町)
 F室生村の笠間川流域
 G名張市から美杉村にかけての名張川流域(六箇山郷)
 H吉野の国栖地方

 等です(http://www.kamnavi.net/jm/kuzukami.htm参照)。このうち、これまで僕が調べた範囲で龍神信仰が認められたのは以下の通りです。

 A付近には、日の谷の八伎大蛇の伝承や日の谷の龍王社があります。また、龍王山が龍の頭部に、桃尾付近がその胴部に、菩提山が尾に該当し、三輪山の神がその頭部を押さえているという龍神伝承がありますが、これも近接しています(『式内社調査報告 第三巻 P1013参照』)。
 Bにある都祁村南之庄の国津神社(都祁村やG等ではクズ神社と国津神社の混同が見られるため当該国津神社も本来、クズ神社であった可能性が高いです。去年7月4日頃のカキコ、『国津とクズ』『国津とクズ2』参照)の本殿背面には龍神の彩色があります(setohさんのレポートhttp://www.kamnavi.net/as/yamanobe/tugekuni1.htmの写真や6月5日にこの掲示板に掲載された香具さんのレポート[1220] 『山遊記その2』参照)。また、都祁村藺生には、字上の宮に葛神社、字小松に竜王神社、字下藪に竜王神社跡があり、クズ神社の信仰と龍神の信仰が非常に近接しています。
 総じて都祁村は、クズ神社が多く鎮座するとともに、都祁山口神社の裏山にある御社尾という磐座は、そこに水分神が白龍となって降臨したという伝承がある等、濃厚な龍神信仰も感じられ、クズと龍神に関係があったことを特に感じさせる地域です。
 C付近の龍神の伝承としては、猿沢池にいた龍神が室生龍穴神社に移動する途中、桜井市笠の笠坐神社(通称は笠荒神)境内にある池に立ち寄ったという伝承があります。
 F付近のうち、室生村無山と多田の九頭神社は、巨視的に見ると1月10日の『クズと龍』というカキコのその3≠ナ紹介した龍神の飛行ルート、小倉壇→向淵→龍穴神社¥繧ノ載ってきます。このルートはまさに龍の道≠ナ、向淵の堀越神社(豊玉姫命)及び海神社(豊玉彦命)、大野の海神社(豊玉姫命)及び龍神祠(九頭龍王を祭神とします)、三本松の海神社(豊玉姫命)等、その上に龍神に関係のある神社が集中するのは極めて興味深いです。
 H付近には、国栖付近が龍の頭部に、宮滝がその胴部に、下流の楢井が龍尾に該当する、という龍神伝承があり、国栖には淵を龍神として祀る小さな祠があります。『懐風藻』の中臣朝臣人足の五言「吉野宮ヨシノカリノミヤに遊ぶ」に、「智水龍楼啓く チスイリュウロウヒラク」とあり、宮滝にあった吉野宮を龍の楼閣とよんでいます。宮滝の北には、吉野と大和を分かつ竜門岳、竜在峠があります。

 @DEGについても、もっと調査すれば龍神信仰が認められるかも知れません。とにかく、文献で調べた印象でも、実際に旅行した印象でも、奈良県下でクズ神社が鎮座する地域は、同時によく龍神が祀られているというのは、僕の率直な感想です。

 ですから、意味のない仮定ですが、仮に「九頭龍」という語が日本語になかったとしても、上述の状況証拠からクズと龍の関係は推測できたように思われます。また、奈良県下では、クズ神社と龍神に密接な関係が見られるにも関わらず、「九頭龍神」を祭神とする神社がほとんどありません(僕の去年3月10日のカキコ『くず2』のリスト参照)。これはクズ族と龍神の関係が「九頭龍」という語から発生したのではなく、もともとクズ族と龍神に関係があったために、「九頭龍」という語が発生したということを示していないでしょうか。

> これは、一般的な見方なのでしょうか。
> 「尾がある」=「龍」というのは、不自然な発想に思えるのですが。

 これは多分、一般的な見解ではありません。とはいえ、僕の勝手な発想であるかというとそうではなくて、1月10日の『クズと龍』というカキコで引用した、森浩一先生の『日本神話の考古学』中の一節に基づいています。つまり、「尾がある」扮装は、「かってチベット東部にいた哀牢夷という集団の習俗」を介して、「龍」と結びつきます。もっとも、『後漢書』にある中国西南部と、記紀の吉野を関連させて考えることが自然かどうかには、議論の余地が残るかもしれないですが…。しかし、これもクズ族と龍に関係があることの状況証拠とみなしてよいと思っています。

> つまり、龍はクズの専売なのかどうかが、知りたいのです。

 カキコ全体の中で、この質問だけは意図が掴めなかったのですが、とりあえず率直に回答します。龍はクズ族の専売ではないと思われます。また、その必要もありませんし、これまでの僕のカキコでも、そういう書き方をしたつもりはありません。
 我が国で平安初期以前に生息していた龍族としては、一般的に、道教起源の「青龍」、密教起源の「八大龍王」「善女龍王」、八伎大蛇も龍の一種とすればこの大蛇、等々があげられるでしょう。仮にクズ族の祀ったクズリュウという龍がいたとして、彼はこれらとは系統を異にする龍だったと思われます。

> 他でも信仰していた龍を、クズも信仰した場合もある、ということはないのでしょうか。

 そういう可能性はあります。しかしその場合でも、ではなぜクズ族が龍の祭祀を受け入れるようになったのか、という問題は残るでしょう。伝承や神社の分布からみると、奈良盆地東部から東南部にかけての龍神信仰とクズ神社の分布の混交は著しく、非常に根の深いものが感じられます。かりにクズ族の龍神信仰が余所から移植されたものだとしても、何かそれをしからしめる理由がなかったでしょうか。
 総じて僕は、道教や密教によってもたらされるより以前から、クズ族は我が国で龍神を信仰していたのではないか、と考えています。彼らがどういう系統の人たちだったかはよく分かりませんが、昔、僕自身も考えていたような「縄文的生活を送っていた先住民」というのは当たっていなかったような感じがします。龍神信仰をたずさえて、大陸方面かどこかから日本にやってきた不思議な人たちだった可能性がなきにしもあらず、のような気がします。

 setohさんがクズ族に係る龍神の系統として以下の2っを指摘しています。
  ・白岩神社 → 須勢理姫命(素戔嗚尊)→ 蛇 → 龍
  ・海神社  → 豊玉姫命       → ワニ→ 龍
 今後、榛原町にある白岩神社の伝承を糸口に、これを掘り下げてみたいと思います。

☆また、長くなって申し訳ないですっ!!

[2592] Re[2590]: 降臨伝説  香具 [Mail] 2002/02/22(Fri) 00:07 [Reply]
> 神戸市西区の雌岡山には丹土が露呈しているそうで,
> その麓には茶山という小山があるそうです。

スンマセン、丹土まで確認してませんでした。素人でも判るのですか?
茶山は山王神社の裏の辺のことでしょうか? 宿題になりましたね。

 神戸市民にとって、神出といえば葡萄狩りのイメージがあります。雌岡山は250mもない低い山なのですが、雄岡山とともにその稜線の描くシルエットが『とてもカンナビ!』していて、季節ごとに眺めに行くので愛着を持っています。
 明石川沿いに南からアクセスするのも面白いですし、神戸電鉄の押部谷駅を下りて東側から見る稜線も、三輪山に似て感動的です。
 ここに素盞鳴命、奇稲田姫命の神様が降臨されて、多くの神々をお生みなされたから『神出』という地名だそうですが、周囲には古神とか五百蔵などという地名もあり、ふもとを歩いていると『出雲』という姓の標札を見かけたことがあります。
 神戸市といっても摂津ではなく、ここはもう東播磨で、西には印南、南は明石です。すぐ北には三木市志染町。あかねさんのエリアでしたね。
 付近一帯は農業や畜産関係なので大歳神社をよく見かけます。六甲南麓に分布している神社とは系統が異なるのが実感できました。明石川沿いは遺跡が多く、弥生時代から拓けていたところだったようです。雌岡山には古墳時代の群集墳とか、平安〜鎌倉時代の窯跡群があるそうです。いつでも行けると思っていたせいか、手持ちの写真がありません。今度『山笑う』季節になったら撮影して投稿します。雄岡山・雌岡山は、オッコーサン・メッコーサンと呼んでいます。

[2591] Re[2590]: 雨と貴(&[2589])  ひふみ 2002/02/21(Thu) 23:53 [Reply]
いつも、楽しく拝見させて頂いております。家族で風邪を引いている間に、あっという間に話題が増えていて、読むだけでも一生懸命です。

奥吉野黒滝村の丹生川上神社下社から、少し離れておりますが、赤滝という場所があります。
主人曰く、丹生川上神社の水源地になるはずだと言う事です。
神社のあたりは、天川村方面に抜ける途中の笠木からの川と、赤滝からの川の合流地点になるだろうとの事でした。
赤滝の地名の由来は、赤い水(丹の水)が流れる事からでしょう。(たしか、マルヤ様の出されているYosinoWebで読んだような)
ところで、神出神社は、雌岡山にあるのでしょうか、茶山の方でしょうか。
又、茶山は「ちゃやま」ですか、「さやま」ですか。又、誰がお祭りされているのでしょうか。教えて頂けると、有難いです。

玄松子様が書いておられた、「戸隠神社・奥社」とは、今現在の社の事でしょうか。
今、ああいった形で建てられたのは、土砂崩れよけの避難所のようなものではと、私としては感じております。
幼少の頃より何度もお参りした奥社は、もっと神社らしい神社(?)でした。ご存知とは思いますが、あそこは、立て替えても立て替えても、戸隠山よりの土砂で社が埋まってしまうので、ああいうコンクリートで囲うような形になったように思います。
やはり、元々は龍神ということでしょうか。

[2590] 雨と貴  Setoh 2002/02/21(Thu) 16:25 [Reply]
 神戸市西区の雌岡山には丹土が露呈しているそうで,その麓には茶山という小山があるそうです。どうやらここも辰砂が多いようです。(余談ですが,頂上の神出神社は面白い神社のようです。)
 茶山と言う名の山にも要注意です。和歌山には今のところ見当たりませんが、吉野辺りではどうでしょうか。
 また丹土のことをアメ色と言うそうです。アメの登場はいつ頃か尻ませんが,これが雨、天に通じて,丹生神が祈雨神とされたのかも。また天からはワカヒルメやアカヒルメと訓まれた天津神の稚日女尊と同じ神と見なされたのかも。

今年は宍道湖一周の旅でカンナリ探しでも。

[2589] Re[2588]: のたりかな  玄松子 2002/02/21(Thu) 09:13 [Reply]
戸隠神社・奥社でも、「柏手が響く」という案内がありました。
ここは、少し岩窟状になっているので、ホールのように反響するのでしょう。

> 高鴨神社、大神神社,宗像大社中津宮,出雲大社,佐田大社。

それぞれの神社の境内(周辺)のどこにあるか、情報はないのですか?

宗像大社中津宮は、海岸そばの丘の上ですから、参道の階段あたりか、裏の真名井あたりが響きそうです。
佐太大社の場合は、反響する場所がないような気がします。
出雲大社も、どこにあるんでしょうか。疑問です。後方の山にある八雲の滝の洞穴でしょうか。

[2588] のたりかな  Setoh 2002/02/21(Thu) 08:24 [Reply]
宮井さん 御神水を汲む井戸ですね。
大きい本屋さんに宮井平安堂。
神職さんでは海南市の宇賀部神社の禰宣さんが宮井さん。
ここの神主さんは小野田さん、ルバング島の本家。
http://www.kamnavi/net/ki/city/nagusa.htm

カンナリのある神奈備
高鴨神社、大神神社,宗像大社中津宮,出雲大社,佐田大社。
大国主神からみで、祭祀場として慎重に選ばれたのでしょうね。
現地で柏手を打ちまくって探して見ましょう。

[2587] Re[2583]: 春の夢ですね  香具 [Mail] 2002/02/21(Thu) 02:06 [Reply]
> 山がこちら側に凹になっているのかな,と思っていますが,

 拝殿の奥、三つ鳥居の向こう側、『大宮谷』ですね。以下は妄想・空想として・・・、
近くで見るよりもJRの踏み切りあたりから御山をみると、【山がこちら側に凹になっている】・・・つまり、拝殿は浅い谷の入口にあるように見えます。
 手水舎から石段を登った拝殿前の境内(巳の神杉のある)は、築きあげて整地された土地のような感じです。大神神社の拝殿の両横に井戸があり、向って左側は勤番所からの渡り廊下から、右側は神宝社から見えました。『大宮谷』の伏流水が湧いているのかもしれません。
 狭井神社も同様に浅い谷の入口にあり、片方に御神水の汲み所があり、反対側には井戸となっています。こちらの方が判りやすい(見えやすい)です。
 拝殿すらも無かった時代は、どのような祭祀空間であったか?・・・檜原神社も思い浮かべながら妄想できますが、檜原神社と異なるのは『浅い谷』の斜面がもっと手前に迫っていることや、水(小川あるいは湧水)があったのではないかと考えています。そういう意味では、大神神社拝殿も狭井神社拝殿も地形は似ていると思います。
 似たような地形がもうひとつ。貴船社の横、出雲屋敷跡と呼ばれる処も(現在は何もありませんが)すぐ近くに山ノ神遺跡があり、昔は祭祀を行なった土地でしょう。
(貴船社の横奥からの登り口はもちろん立入禁止、危険です。)

[2586] Re[2571]: オカミさん時間で・・・  香具 [Mail] 2002/02/21(Thu) 01:00 [Reply]
kokoroさん、毎度ボチボチです。
 いまだ、ナーガ(多頭コブラ)とロン(龍)がどのように混交されてしまったのか、ヲロチがいつの間にドラゴンと同様にされたのか、ごちゃ混ぜでした(たぶん今も)。
わが単頭の中では『九頭』と『龍』と『高オカミ』が三角関係というか、三竦み状態で解決されていません。(ぜんぜん白山まで追いついていない)
 山辺から東の山中に入ったところ、小夫、瀧倉、和田、芹井、白木、萱森と初瀬川沿いの集落に高オカミ神社が点々と散在しています。このあたりは九頭神社ではないのですね。しかし、高オカミ神社なのですが、石灯篭などには九頭大明神と彫ってあったりします。北の布留川水系が九頭神社:建御名方大神で揃っているのと対象的です。室生は、九頭神社で高オカミ神。もっと東の都祁や名張にいけば国津神社で大国主命です。(これはクニツだから別に考えるべきでしょうか)
『高オカミ神は雨乞いの竜神だ』と言われるとそれまでですが、この近辺で、九頭『龍』神または神社というのは少ないようです。(高市の天津石戸別神社が九頭龍明神となっています)
 机上では判らないので『高オカミ神社とは何か?』と現地を見るべき宿題になりました。(貴船まで広がりそう!ま、ユックリやります。)

【神奈備サイト、クズ神社、白木の高オカミ神社】参考にしました。
http://www.kamnavi.net/jm/kuzukami.htm
http://www.kamnavi.net/as/sirakikuzu.htm

 直接の関係は無いのですが、福井県の九頭龍川水系にも『日の谷』という大きな谷があるそうですね。
 そういえば先日訪問した京都北山山中の大森集落にも歩いていると『サンバレーオオモリ』というキャンプ場がありました。大森は東西に流れる川に沿った幅の広い、明るい谷間の地です。東西が開けているので、谷といっても日照時間がとても長い、『サンバレー』・・・日の谷、なんとなく納得してしまいました。
 天理市の布留川源流の日の谷も東西に沿っていました。われわれは源流へと狭い地域へ遡りましたが、逆に田圃跡のあった谷幅の広いほうを探索したほうが、『日の谷』の中心だったかもしれません。

[2585] 突然ですが・・・  たっちー 2002/02/20(Wed) 23:25 [Reply]
僕の何代か前は和歌山県の神社の神主さんだったそうです。
「宮井」姓だったということ。
それぐらいしかわかりません。あと、今は社自体ないみたいです。
「宮井」姓の父方の親戚は今神戸に住んでいます。
これだけのことしかわかりません。
戦後の弾圧で消えたのか、、はたまた、他の理由があったのか。

社を鎮めなかった祟りか、親戚の不幸ばかり耳にします。
なにか情報があれば返信よろしくお願いします。



[2584] Re[2583]: 春ですね  玄松子 2002/02/20(Wed) 23:10 [Reply]
> ほかに 宗像大社中津宮,出雲大社,佐田大社などもあるそうです。

マジですか。どのあたりにあるんでしょうか。

[2583] 春ですね  Setoh 2002/02/20(Wed) 14:48 [Reply]
> 「スサノオは男体では薬師如来、女体では十一面観音で現出する」
setohは寡聞にて承知していません。

> お神酒をいただく時、柏手するんですか?
伊太祁曽神社の宮司に教えてもらったのですが,盃を受け取る前に一拍手をするようです。物を頂く時に手を合わせるのと同じことでしょうね。

> コの字形に建物
山がこちら側に凹になっているのかな,と思っていますが,はっきりとはわりません。
他に玄松子さんが紹介されておられる備後国葦田郡 甘南備神社
ほかに 宗像大社中津宮,出雲大社,佐田大社などもあるそうです。

[2582] Re[2578][2576]: 大神神社昇殿参拝  ZOU 2002/02/20(Wed) 01:03 [Reply]
> 三輪曳綱の場所については・・・

申し訳ないですm(__)m これについては知りませんでしたので、今度行ったときに確認してみます。とりあえず階段を上ったところで柏手を打って見ましょう。
なんとなく、狭井神社の方にもこういうのはありそうな気がしますね。

[2581] Re[2576]: 大神神社昇殿参拝  泊瀬女 2002/02/19(Tue) 23:59 [Reply]
香具さんの大神神社昇殿参拝のレポート楽しく読ませていただきました。私も昨年思いがけず昇殿参拝させていただきました。その感想は香具さんと似ているので笑ってしまいました。
まず、参集殿と祈祷殿の立派なこと。巫女さんの神楽舞の美しかったこと。きれいな巫女さんに見とれていたら、足がしびれて「では、拝殿にどうぞ」といわれたのにしばらく立ちあがれず、困ったこと。
拝殿では頭を下げていなくてはいけないのに、三つ鳥居が見たくて奥を覗きこんでいました。柱がツルツルに光っていたけど、帳が下りていて鳥居の奥は見えないのね。
拝殿は非常に居心地の良い空間で「今度来るときは座布団持って来たいな」って・・・
座布団はね、二つ折にして枕にするのよ。拝殿で寝そべったらどんなに気持ちが良いだろうなんて、私もとんでもないこと考えていましたよ。
ところで、お神酒は濁酒でしたか?清酒でしたか?
私はお酒が飲めないので、エイッと飲み込んでしまってお酒の記憶がないんです。粒があったということなら濁酒でしょうね。
お神酒をいただく時、柏手するんですか?知りませんでした。
今度、大神神社に行ったらまた昇殿参拝させていただこうっと。

[2580] 典拠をご存知ないですか?  杜康 2002/02/19(Tue) 23:08 [Reply]
どなたか以下のことについての典拠をご存知ないでしょうか?
「スサノオは男体では薬師如来、女体では十一面観音で現出する」
もしご存知でしたらご教示ください。

[2579] Re[2578][2576]: 大神神社昇殿参拝  香具 [Mail] 2002/02/19(Tue) 22:49 [Reply]
玉串奉奠って、なかなか慣れないものですね。そう何度も経験ないですが。
代表には体格で選ばれたような気が・・・・。

> > 粒の残るお神酒を頂き
> この時には一柏手ですね。

お神酒を頂く前ですか?頂いた後に一柏手でしょうか?
意地汚くグイグイあおって、のこった粒を指ですくっていましたから、柏手なんて思いもよりませんでした。(反省・・・猿並みでんな)

> 三輪曳綱の下でもカンナリ・・・

拝殿を中心にコの字形に建物が建っているからでしょうか??
階段を上りつめたところで柏手を打っている人を見掛けた記憶がないですね〜。

[2578] Re[2576]: 大神神社昇殿参拝  Setoh 2002/02/19(Tue) 15:20 [Reply]
> ゲッ!玉串奉奠の代表者!?
すばらしい幸運です。香具さんの人徳,精進,体力の賜物ですね。
> 粒の残るお神酒を頂き
この時には一柏手ですね。

所で,大神神社も階段を上りつめた三輪曳綱の下でもカンナリが聞こえるそうですね。
三輪曳綱の場所についてはZOUさんに確認して頂いている最中です。

[2576] 大神神社昇殿参拝  香具 [Mail] 2002/02/19(Tue) 00:30 [Reply]
またまた、ずうずうしくも長々と失礼いたします。
 晴れ渡った清々しい土曜日に大神神社へ参拝してきました。何度も参拝し、御山へも登拝しているのですが、今回は初めての昇殿・正式参拝でした。
 ご承知の通り、大神神社には本殿がありませんので、建築物は、まず正面の拝殿、向って右隣りは勅使殿(現在修築中)、左隣りは勤番所(受付)、その奥が神饌所。
受付けから渡り廊下を渡ってさらに北側の新しい建物が、参集殿、祈祷殿、儀式殿と順につながります。

 コンピューター管理の受付カウンターで、御祈祷を申し込むと「番号は?」と聞かれました。『菊花紋に三本杉』のネクタイピンをしていたので、崇敬会会員と思われたみたい。「まだ入会してないですが」と応えて手書きで住所氏名を用紙に記入。隣では、お婆さんがご家族の憑き物落としを相談に来ていました。コンピューター化されていても伝統は活きているのですね〜。(「撫で兎」は受付所の玄関内に居てました。)

受付で薄紫の襷?を手渡されて、参集殿で待つようにとの指示。15畳が2室続きの広い控え室には、大勢の人達が待っていました。(あれ?他の人の襷は白いな??)そうしていると、スピーカーから次々と名前が呼ばれて、祈祷殿へ移動するようにとのことです。

参集殿から祈祷殿への渡り廊下には、手水鉢がありここで手を洗って進みます。
平成9年に竣功した祈祷殿は、檜の香りも芳しく、太い柱、高い天井、広い大きい綺麗!さりげなく目立たないように工夫されて照明・音響設備や空調設備も完備。畳からも温もりが伝わってきます。畳の下に床暖房が?足の関系で、座れない人には椅子も用意されています。御簾の前の鏡も、直前に座しているご神職の肩幅よりも大きい直径でした。
 殿内には、赤ん坊から老人まで、総勢50人ほどが集まっています。愚生は、なぜか巫女さんに誘導されて、ぐるりと迂回し一番前へ座らされてしまいました。

 太鼓の音でご祈祷の始まり。まずは祓い幣を振るご神職からして、朗々たる美声に堂々と落ち着いた挙措、ゆったりと祓って頂き、次のご神職と交替。
 深々と礼拝の後、なんと約50人分の祝詞奏上が手抜きもなく始まりました。厄払い、初宮参り、病気平癒、家内安全、商売繁盛、転居の方位除け、長寿安泰、・・・。我が名も真ん中あたりで出てきました。
 この数の祝詞を息を乱さず一気に猛スピードで読み上げていきます。へたな坊さんの読経よりはるかに早い。しかも、よく通る御声ではっきりと発声し、まったく聞き苦しくありません。す、凄い!プロでんな〜、揚々とこなしています。

 しかし、それ程のスピードにしても、この人数分では長くなります。こんな次第とは想像していなかったので、不覚にも正座で着座したまま。座っているこちらの方が発汗、両足とも痺れに痺れた状態。シマッタ!横目で隣りを見ると足を崩していますが、今さらモソモソと動くわけにもいかず、最後まで耐えました。
 気合の入りまくった祝詞奏上が終わり、ご神職が悠然と退座。でも、我が足は痺れきっているので、胡座に崩そうと動かすことも出来なかったのです。

 ご神前は続いてお神楽に移り、二人の巫女さんが鈴を振って舞います。よく揃った優雅なお神楽が終わると、はじめのご神職が玉串をひとつ持ち、我が前に差し出されました。
ゲッ!玉串奉奠の代表者!?薄紫の襷も、この座所も、これの為の目印だったのですナ。
 ありがたく玉串を受け取ったものの、足が痺れて跪坐(つま先を立てた正座)になりません。膝を立てて進む膝行ができないので、ブザマながら、もそもそと両膝を着いて台の前まで進み、玉串を捧げました。このときの手捌き(奉げ方)は判っているのですが、いつも神前では舞い上がってしまい満足にできません。
 そこから二拝二拍手、背後の人達も調子を合せやすいように、意識して大きく動作するのですが、二拝めの頭を上げる頃には、フライングの柏手をされる方々もいて、焦ってしまいました。大神様への祈念なんて、どっかへ跳んでしまいます。礼拝ぐらいユックリ慌てずに行いたいものですね。ここまでで前半はおわり、後半は拝殿(重要文化財)に移動して御祈祷の仕上げです。

 途中の控え室では、ツノカクシで被った花嫁さんが親族に囲まれて幸せそうに微笑んでいました。和風はビューティフルですナ。拝殿への渡り廊下にも手水鉢が2ヶ所あります。禁足地そのものは三つ鳥居に繋がる瑞垣により見えない構造です。三つ鳥居そのものも拝殿の奥正面なので、よく見えませんでした。
 しかし、拝殿の向こう側には、ずっと座っていたくなるような、静かな優しい落ち着きが漂っていました。

 拝殿は、江戸時代の建物(四代将軍家綱公が再建とか)、年代の賜物か、田舎の旧家に帰ったような心地よさです。また、不自然さはなかったですが、廻り縁の廊下との仕切りがガラス戸で、面白い趣きでした。正面両側の神饌物を献る御棚には、今の季節、リンゴがたくさん献上されていて甘い香りがしています。
表の参拝客さえ気にならなければ、この拝殿でゴロリと横になり昼寝をすると、何十年来ぶりの熟睡ができそうな感じでした。(そんな不敬なことは許してくれないでしょうが)

 さて、50人ほどの参詣者は拝殿の部屋の入口で、金色の御幣を手渡されます。みなさん揃ったところで3人ずつ順番に、禁足地に向かった拝殿中央のご神前へ、その御幣を立てて仕上げのお祈りをしていきます。
 拝殿の向こうが空間というのは石上神宮と同様、この礼拝は親しみのあるものでした。一連の御祈祷はこれでおしまい。粒の残るお神酒を頂き、御札と撤饌を受け取り拝殿を退出。(おさがりは、粟おこしでした。)
帰宅してから、頂いた木箱入りの御札をみると大きすぎて、神棚の社に入りません。仕方なく元の木箱に入れてミニ社の横に並べました。御札もなかなか風格があります。

昇殿しての正式参拝は初穂料がいりますが、それ以上の価値があると思います。また、宗教的心情に拘らなくても、伝統的習俗を体験したり、歴史的建築物に入れたりという経験、環境の維持という観点にも立てますネ。機会がありましたら(たまには)昇殿参拝で、楽しい?一時を過ごそうと思っています。(変人かもナ〜)

[2575] Re[2574]: 地震について  なにがし [Url] 2002/02/18(Mon) 22:42 [Reply]
南海大地震がおきるのかも。実家が心配。また、地元の神社も心配です。小さな神社で現在神主さんもいないから壊れたら復活できないかも。
地元は岩盤が強いから大丈夫とは思いますが。地震の無いことを祈っています。

[2574] 地震について  960 [Mail] 2002/02/18(Mon) 21:18 [Reply]
本日TVで現在和歌山県龍神村と奈良県十津川村付近の県境で群発地震が多発していて阪神大震災前の猪名川町での群発地震の発生と似通ったところがあると伝えてましたのでそちら方面のみなさんお気をつけ下さい。

[2573] Re[2571]: クズ龍と密教  玄松子 2002/02/18(Mon) 17:49 [Reply]
毎度、長いのでよく読めていないのですが。

>記紀には、吉野の国栖の祖である石押分之子は、龍を意識したらしい尾のある扮装をして神武天皇を出迎えた、とあります。

これは、一般的な見方なのでしょうか。
「尾がある」=「龍」というのは、不自然な発想に思えるのですが。

クズの民と龍は、「九頭龍」というキーワードにおいて密接な関係になるのではないでしょうか。
「九頭龍」以外に、この関係を示したものはあるのでしょうか。
つまり、龍はクズの専売なのかどうかが、知りたいのです。
他でも信仰していた龍を、クズも信仰した場合もある、ということはないのでしょうか。


高松塚の壁画にも龍は描かれていますね。四神なので、たぶんに中華的ですが。

[2572] クズの民と九頭神  Setoh 2002/02/18(Mon) 16:20 [Reply]
kokoroさん,こんにちは。クズの民と九頭神との関連、前進させましたね。
龍穴とは龍脈が平地に出た所で地の気が出ているそうですね。鎮座地の室生のムロもまた熊野の牟婁を思わせるなぞめいた名前です。

室生龍穴神社に須勢理姫命が祀られていましたが,この姫も素盞嗚尊と共に根の国ににいたようで,ここも根の国の気が地上に出る所だったのでしょう。時々九龍神社の祭神として素盞嗚尊があらわれるのも根の国の気との関連があるのでしょう。単に国津神の代表神だけではなさそうですね。

室生村に海神社が少なくとも二社あります。どちらも龍穴神社からの勧請ですが祭神は豊玉姫命になっています。こちらはワニの系統見たいですね。

九頭神を祀る神社は摂津、大和、紀伊など大和周辺に集中しているのも不思議な事です。

[2571] クズ龍と密教  kokoro [Mail] 2002/02/18(Mon) 02:09 [Reply]
 信州の戸隠神社の縁起には、九頭龍神が出てきます。『阿裟縛抄諸寺略記(1275年頃)』の記事を引用します(むろん現代語訳)。

「嘉祥2年(849年)の頃、学問行者が飯綱山で7日間、西の大獄に向かって祈念し、独鈷を投げた。その飛んでいく先を尋ねると大きな石窟があった。そこに籠って法華経を誦していると、南の方から生臭い風と共に九頭一尾の竜が出てきて言った。『ここで法華経誦をしているのはどなたですか。私はこの寺の前別当ですが、仏に献ぜられた財物を流用着服した罪で、こんな身になっています。ここへ来て法華経を誦する人がいると、いつも出てきて聴聞するのですが、害心はないのに、みな私の毒に当たって死んでしまいます。今度ばかりは、ありがたくお経を聴聞できて、これで私も成仏できるでしょう』そう言って竜は岩窟の中に身を隠してしまった。行者は大磐石をもってその前を封じた。竜を戸で隠したから戸隠寺というのである(『日本の神々9信濃・飛騨・美濃』P279)」

 加賀白山にも開山にあたり、九頭龍神が姿を現したという伝承が残っています(http://www.kamnavi.net/as/yamanobe/simonigo.htmのテキストの下の方を参照して下さい)。こうした山岳修験道と関係が深い密教系の霊地に、地主神として九頭龍神が出てくるのはなぜでしょう。
 奈良県宇陀郡室生村の口碑に、以下のものがあります。

「この竜穴(※室生の龍穴)に善達竜王が住んでいた。竜王は初め奈良の猿沢池にいたが、采女(うねめ)が身を投げたので、死穢をきらって春日山の香山(こうぜん)に移った。ここにも死人が絶えないので、室生の竜穴に来たという。室生の高僧 賢憬ケンキョウ(※ケンケイとルビする本もあります)僧都が、竜王の生身を拝みたいと竜穴深く入った。すると、奥に竜宮があり、朱簾の中から御光がさして机の上に法華経一巻がのっていた。一人の男があらわに「何用か」と問う、「竜王の生身を拝したい」と答えると「ここでは狭くていけない、竜穴の外で会おう」といわれた。僧都が穴の外に出て待っていると、三〇〇メートル離れた所の水面に衣冠を着けて腰から上を現した。僧都が地に伏して拝んだ。間もなく竜王の姿は消えた。そこに竜王の像を刻んでまつったのが、今の竜穴神社である(『室生村史』P607)」

 この口碑は室生龍穴神社の起源説話です。しかしこの神社の神宮寺として開山された室生寺のそれとしても示唆的です。ここで室生の高僧≠ニある賢憬は、当時の興福寺の大僧都で、もちろん実在の人、天平勝宝7年(746年)に鑑真和上から受戒しており、苛烈な宗教心の持ち主として知られていたようです。室生寺の起源については古代史の本でよく、不明な点が多い、という趣旨の文を見かけます。が、とりあえず現在では、山部王(即位前の桓武帝)が病に伏せったとき、浄僧5人が室生山中で祈祷を行ったところ平癒したため、賢憬が命を受けて8世紀末に開基したというのが定説になっているようです。
 さて、僕はこの室生村の口碑が、最初に引用した『阿裟縛抄諸寺略記』にある戸隠神社縁起の原型だった思うのですが、どうでしょう。二つの伝承は、僧侶が地主神らしい龍と出会うのがきっかけで、それぞれ龍穴神社と戸隠神社という霊地を開山するに至った、というシチュエーションが共通していますし、法華経と洞窟が登場するディテールもよく似ています。

 日本で龍が盛んに信仰されるのは密教の伝来以降といわれ、空海が平安京の神泉苑で善女龍王を勧請して雨乞いをしたあたりを嚆矢とするようです。しかしながら、ではそれ以前は全く信仰されていなかったかというと、そうではありません。広く信仰されていたとは思えないものの、日本に龍がやって来たのはもっと古く、例えば龍神の線刻がある弥生式土器が、大阪にある井戸の遺跡から出土したりもしています。つまり、局地的な龍の信仰は、空海が唐から密教を持ち帰るよりはるか以前からあった訳です。そうして、こうした密教伝来以前の龍神信仰の1つにクズ族によるそれがなかったでしょうか。1月10日に『クズと龍』でカキコしたように、僕はクズ族に龍神の信仰があったと考え、奈良盆地の東部から東南部にかけて濃厚に感じられる龍神信仰は、ほぼ同じ地域に分布していたクズ族の信仰の名残であると考えています。記紀には、吉野の国栖の祖である石押分之子は、龍を意識したらしい尾のある扮装をして神武天皇を出迎えた、とあります。つまり、彼らは密教が伝来するよりも、少なくとも1世紀早く龍神の信仰を持っていたように思われます。
 クズリュウ≠ニいう語は本来、このクズ族が祀っていた龍神を、密教の教典や法華経にある龍神(善女龍王や八大龍王等の龍神)と区別するために、造られた言葉ではなかったでしょうか。密教系の霊地に言い伝わる九頭龍神が、仏法の守護者というよりも、国津神的な地主神の相貌をしているのもそれで説明がつくように思われます。クズリュウのことを仏典にあるナーガとして解釈することは、本地垂迹思想を援用すれば容易であったはずです。とすれば、クズ族が祀るクズリュウの聖地である室生の地に、龍穴神社の神宮寺として室生寺を構えたのは、賢憬がかなり意図的に行ったことではなかったでしょうか。
 賢憬について少し補足すると、彼は奈良時代の高僧のほとんどそうであったように、単に宗教家というだけではなく、大教養人でありました。例えば桓武帝のブレーンとして、京都の地相を見て、新しく造る平安京のプロデュースを行ったりもします。彼は地理に明るく、恐らく地誌的な興味も持ち合わせていたでしょう。出身が尾張だったので、故郷から伊勢街道を抜けて畿内に戻る途次、室生近辺も通過したと思われます。そしてその際、クズ族による古いクズリュウの信仰がそこにあるのを見聞し、強い印象を受けた可能性があります。また、さっき引用した室生村の口碑の前段は、1月10日『クズと龍』のカキコで、僕が都祁村の伝承として紹介したものと同工異曲ですが、猿沢池は賢憬が大僧都を務めていた興福寺のすぐ南にある訳ですし、同カキコで示唆したように龍がたどった道筋付近にはクズ神社が多く見られます。この伝承は、彼が意図した本地垂迹思想によるクズリュウ解釈と何か関係があるように思えてなりません。
 それはともかく、クズリュウとは本来、クズ族が祀った龍神のことであるとしたら、戸隠神社には地主神としてこの龍神の伝承があるのですから、彼の地にもクズ族がいたことになるのでしょうか。室生寺周辺を含む奈良盆地東部の山間には、クズ神社の濃密な分布があります。恐らくこのクズ神社の分布圏は、そのままかってクズ族が生活していた範囲と重複するのでしょう。ところが、戸隠神社周辺にはこのようなクズ神社の分布が見られないのです。むしろ、神仏混淆の頃、戸隠山勧修院顕光寺と称して、戸隠寺が比叡山の末寺になった際、やはり天台系密教の寺院であった室生寺に伝わる、上述の室生村の口碑が移植された、そう考えた方が自然な気がします。
 白山も台密による神仏混淆の霊地です。白山を開山した泰澄が出会った九頭龍神もまた、同様に室生から伝播した可能性があります。白山がある加賀にもクズ神社という神社はあまりないようです。九頭竜川という河川があるのでかってクズ族がいた感じもしますが、この名前は、崩れ易いのでクズレ川と呼んでいたのを、加賀藩の儒者が九頭竜川と当て字したものらしいです。卓抜な当て字だったので、後世、こちらの方が地名として残ったのでしょう。ただし、この地域にクズ神社がないのは、白山信仰の隆盛の波に飲まれ、かってクズ神社だった神社の多くが白山神社になったせいである可能性もあります。多少、議論の余地は残されます。

 出発点に戻ると、室生龍穴神社の祭祀の源流が、クズ族によるクズリュウ信仰であり、この神社の鎮座地は同信仰の聖地だった、というのは僕の推測です。全く通説ではありません。さきほどの室生村の口碑で賢憬が遭遇した龍も、普通の龍であったように伝承されており、クズリュウ≠セったことにはなっておりません。しかしながら、戸隠や白山の九頭龍神の伝承が、室生から台密を介して移植されたものとすれば、この推測を間接的に支持することになります。
 文化のドーナツ化という有名なセオリーがあります(正式名称は違うかもしれません)。畿内等、かって我が国の政治・文化の中心だった地域でもはや見られない習俗等が、日本列島の北と南で同時に発見される場合を説明するものです。その場合、かって朝廷等で行われた古い儀礼が周辺に伝播し、中央で廃れてからも地方では行われ続けたとみなし、発見された場所が北と南で離れていればいるほど(例えば鹿児島と青森で発見された場合等)、中央で行われた時代が古かったとする考え方です。つまり、池に投げ込まれた石とその波紋とのアナロジーなのですが、なかなか示唆的です。ドーナツとは言えないまでも、室生村の口碑が、戸隠や白山における九頭龍神の伝承のオリジナルとすれば、本源地ではすでに失われてしまったクズ族の伝承が、別天地で生き延びたとみなせます。

 賢憬については、『室生村史』にある堀池春峯氏の「室生寺の創建(P65以下)」を参考にしました。

☆☆ 話変わって…
 古い時代の丹生信仰に、「ニホ」という語が関係していた遺跡として、近江国伊香郡の式内社、丹生神社(論社が2っあります)の古社地、丹保野山及び丹保高山があります。いまでも祭礼の日にはそこから赤土を取って来るとともに、付近を流れる丹生川から清水を汲んできて神前に供えてから、両者を混ぜ合わせ、神主以下氏子の額に神印を押し、息災安穏を祈念するそうです(『日本の神々5 山城・近江』等参照)。

[2570] Re[2569]: 簡単な質問をします。  玄松子 2002/02/18(Mon) 00:28 [Reply]
質問の意図が不明だけど。

> 2 神社で身を清める水が出る所は、竜の口それとも蛇口?

今は、蛇口の場合が多いなぁ。本来は川や海ですね。
寺は竜の口が多いのかな。あまり行かないので知らないけど。見たことはありますね。

[2569] 簡単な質問をします。  雄一 2002/02/17(Sun) 17:36 [Reply]
神社に関する簡単な質問をします。
1 神社に奉納する灯火は、竜灯それとも蛇灯?
2 神社で身を清める水が出る所は、竜の口それとも蛇口?
答えは辞書に載っています。
きょうから二週間程忙しいので、お暇を頂戴します。

[2568] Re[2566][2565]: 蚩尤(しゆう)は兵器を造る トントントン  Setoh 2002/02/17(Sun) 17:31 [Reply]
> 蚩尤は、牛じゃないですか?あるいは、羊か。
> 少なくとも、鉄頭の「獣身」だと思いますよ。
三つの前提を置いたのですが、最も弱い所をキチット突いて来やはりますね。ありがとうございます。(^-^;
蚩尤の絵を見ますと,牛か羊のように見えますね。
参照 http://www.kamnavi.net/as/yamanobe/anasi.htm
それで状況証拠しかないのですが,並べてみましょう。(..;)
1.蚩尤の漢字 蛇を長虫と言う。蚩には虫=蛇の要素が入っている。
2.蚩尤の祭祀 山東半島の西,この地域には蛇龍をトーテムとする氏族が住んでいた。
3.蚩尤の文献 『山海経』大荒北経 蚩尤は兵器をつくって黄帝を伐つ。そこで黄帝は応竜をしてそれを冀州の野に攻めさせた。応竜は水をたくわえ、蚩尤は風伯と雨師をまねき、暴風雨をほしいままにした。
−蚩尤と風伯と雨師とは同類と思われる。すなわち水神・蛇神のたぐい。−

雄一さん,万葉がお好きでしたら,飛鳥坐神社や酒船石の近くに万葉文化館があります。水曜日がお休みです。
http://www.manyo.jp

[2567] 光栄ですの答え  雄一 2002/02/17(Sun) 13:01 [Reply]
泊瀬女さんの文の最後が光栄で終わっていたので、「光栄です」と題名をつけました。
和歌は三輪山の近くを流れる初瀬川(泊瀬川)で詠まれたものです。詳細は泊瀬女さんに
訊かれたらよいでしょう。話を戻しますが、龍を蛇だとすると八大竜王は八頭の蛇となり
酒を好むのもわかります。それ故、「参道に蛇はでるか」とお尋ねしました。
退治された蛇が三輪山に祭られて、退治した方のスサノオ尊が手向神社(反抗する者)に
祭られのは合点がいきません。
尚、手向神社は倶梨伽羅不動のそばにあります。

[2566] Re[2565]: 蚩尤(しゆう)は兵器を造る トントントン  玄松子 2002/02/17(Sun) 12:24 [Reply]
> 蚩尤は蛇神信仰を基礎に鉄を加えた神である。

蚩尤は、牛じゃないですか?
あるいは、羊か。
少なくとも、鉄頭の「獣身」だと思いますよ。

[2565] 蚩尤(しゆう)は兵器を造る トントントン  Setoh 2002/02/17(Sun) 11:21 [Reply]
蛇神から龍神へ進化した。
蚩尤は蛇神信仰を基礎に鉄を加えた神である。
また龍神の最高峰は黄龍でまた龍王である。
すなわち 蛇(銅)<蚩尤(鉄)<黄竜 と並べることができる。
 大和の青垣の山々と龍蛇神との関係は以下の通り。
三輪山(国津神) 蛇神 崇神天皇を恫喝し祀らせるが統治権は崇神天皇
穴師山(渡来神) 蚩尤 =天日矛が国津神の伊和大神や葦原志挙乎命とバトル
竜王山(天津神) 竜王 =黄竜,黄帝は蚩尤と戦い殺す 垂仁天皇は日矛将来の宝ものを献上させる
この北側に布留山(石上神宮),もっと北に御蓋山(春日大社)これらをどう考えるかは別にして、王権の発展が山々の名や祭神に痕跡を残して北上している様子がうかがえます。


[2564] つい、嬉しかったので・・  雄一 2002/02/17(Sun) 09:14 [Reply]
すいません。きのう図書館で、いつも目に浮かぶ石段のある神社について、調べてきました。神社の名前は手向神社です。祭神を見てうれしくなり、きのうはその祭神の名前で書き込みをしました。混乱したようですね?
万葉歌の末尾は「待たじ」です。意味としては、「私がお迎えに参ります」となります。
三月に奈良の神社を参拝することに決めました。地理に不慣れなので、アドバイスをしていたたければ幸いです。

[2563] Re[2561]: 光栄です  Setoh 2002/02/17(Sun) 07:37 [Reply]
スサノオウさん こんにちは。
「光栄です」とはどう言う意味でしょうか?
所で引用の万葉歌、末尾が「待たい」とは「待たず」ですか?
この歌が何故三輪山に関係するのでしょうか?


[2562] Re[2560][2510]: 大伴氏と紀氏は同族?  Setoh 2002/02/17(Sun) 07:21 [Reply]
狭手彦さん>共闘もないのでは。
『日本書紀』雄略紀対新羅から
  雄略天皇九年三月
  紀小弓宿禰,大伴談連ら四卿を大将として云々。
   戦勝後紀小弓宿禰 大伴談連等と会う。
   戦で、大伴談連と紀崗前来目連が戦死、紀小弓宿禰は病没。
  雄略天皇九年夏五月
   紀小弓宿禰の子の紀大磐宿禰は父の死を聞いて新羅に向う。
   蘇我韓子宿禰などと仲違いして、帰還。
   天皇、大伴室屋大連に「大伴卿紀卿、同じ国近き隣の人」と言う。


[2561] 光栄です  スサノオウ 2002/02/16(Sat) 18:20 [Reply]
私が好きな三輪山に関係する和歌を載せておきます。
万葉集巻2.90番
君が往き 日長くなりぬ 造木の
迎へを行かむ 待つには待たい

[2560] Re[2510]: 大伴氏と紀氏は同族?  狭手彦 2002/02/16(Sat) 16:48 [Reply]
> なにがしさん>大伴氏と紀氏は同じ(同族)とみれば
> 拠点,居住地,勢力の伸張,働き具合など,双方は連動しています。
先祖を同じくする部族とは、考えにくいのでは。たどりやすい奈良時代以後の記録で、両氏共血縁関係に
ふれた記録をきいた事もないし、両氏共武門貴族としての役目を果たしたわりには、共闘もないのでは。
「勢力の伸張」面では、大伴氏は雄略朝の室屋からでしょうが、雄略朝での紀氏出身の活躍者は誰だったでしょうか。



[2559]   オンコの木もあら  ヤギシリ 紋次郎 [Mail] [Url] 2002/02/16(Sat) 08:45 [Reply]
 アララギの正規和名は「イチイ(正一位の錫杖を作る木)」。
 これを東北六県では大略“オンコ”と呼称します(会津では赤木)。
 とりわけ、ヤギシリ島に自生している「焼尻オンコ」は、葉が密生している部分は密生
するが、全体としては大幅に枝葉を落としながら、幹肌赤く、うねりながら天を目ざして
成長します。これをひと呼んで“昇龍のオンコ”と発しやす。
 ♪ コッミャッーシャるな。ニクマレ紋もそろそろ昇天の期節にござんしょうて‥‥。

         ……………………

 ミナシャン風邪の期節。風邪の対策は万全かナ? 
※ 人間の体内に仕かけられている時計は、夜10時〜朝4時は睡眠にセットされています。
  これを無視して夜ふかしを続けると、抵抗力がガックリ落ちて風邪どころか10年・15
  年後にはガンとなります。身体は確実に反能することをお忘れなく。

※ 1日5回、イスラーム教徒のように神を拝む必要はありませんが、ビン入りで販売されて
  いるビタミンC(アスコルビンサン)をビニール袋で携帯して、これを耳かき1杯ぐらい
  づつをできるだけ5回ぐらいに分けて飲みましょう。そのとき水は飲みません。
  大汗をかいた後は身体を拭くだけではなく、必ずビタミンCを摂りましょう(夏も)。

※ 福島さんからの情報です。咽喉のうがいは“紅茶”がいいそうです。このとき免疫(?)
  の関係か、うがいした液は飲みこむそうです。

※ 「あ、風邪ひいたかナ?」と、思ったその直後からの20分が勝敗の分かれめです。
  5分おきぐらいに咽喉をうがいします。うがい液はアストリンゴゾルをお奨め。
  このとき小児用綿棒で鼻の奥もうがいしたほうがいい。掌で液を汲みこれを片ほうづつ
  鼻穴に吸いこむ技術は、日ごろから修得しておくと、こういうときには便利です。

※ 風邪とどう取り組むか‥‥。もうちょっとだけ深く考えて主体的に決意することこそ、真に有効です。マルヤさン、二度と風邪などお召しになられやせんよう。

[2558] 蛇もおだてりゃ天に昇る  Setoh 2002/02/15(Fri) 20:47 [Reply]
竜巻も面白い。竜の起源に松の木もある。要するにトーテム中のトーテムじゃなかろうか。
玄松子さんの言われる竜の個々のパーツの動物をトーテムとしていた氏族の統一後にできたトーテムならまし。祖神の上に祖神を重ねていく,物部の遠祖の饒速日尊も竜かも知れない。

[2557]   まだまだ ああた  気高き 紋次郎 [Mail] [Url] 2002/02/15(Fri) 19:29 [Reply]
 竜巻がある。
 大多数のアフリカ土民は、こっち側の我々みたいには怖がらないのでシマツに困る。

 瀬藤ドン;「虹が龍」ならば、虹の発音はわが日本列島には13種ぐらいあってい
づれも微差近似の発音が並んでいる。そのひとつは朝鮮語にもあった。
 それらの中心となる発音は、ニジではなく「のじ」でした。
 そうすると、昔日の表日本海以西に見られる「ノー」地名は、ぐぐぐ〜っと龍へ接近
してくる。NO-O は“龍神”です。
 虹は「ムシ」が作ったもの‥‥という民間伝承も、今は意味不明ながらも「ナガ・ムシ
(蛇)」を介して ALL RIGHT になりそうだ。

 大蛇のハナシ‥‥。白髪八千丈‥‥シナ人の言うこた信じられんナ。どでぇ何食って生
きていたというのか‥‥。

[2556] Re[2555][2554]: 竜頭蛇尾なお話  Setoh 2002/02/15(Fri) 15:56 [Reply]
> 大ハマグリ
無理矢理開けさせて見た出雲大社のご神体の話にあったような・・・。

『山海経』海内東経に雷神の絵がのっています。
雷沢の中に雷神あり。竜身で人頭,その腹をたたく。
砂漠の民は星空をながめていろいろな動物をイメージしたようですが,雷光をながめて竜を思ったのかもしれませんね。

[2555] Re[2554]: 竜頭蛇尾なお話  玄松子 2002/02/15(Fri) 14:16 [Reply]
> 「蜃」は龍のランクで,龍ー咬ー虹ー應または蜃(しん) とあり,龍の下層階級の名にもでてきます。どういうものでしょうね。蜃 四足、翼あり,気を吐いて海市(蜃気楼)を為す ですが。

蜃は、大ハマグリと言う説のほうが一般的だと思いますよ。蜃気楼は、「貝櫓(かいやぐら)」とも呼ばれますが、海底の大ハマグリが出す気によって生じるやぐらですね。

[2554] Re[2550][2549]: 竜頭蛇尾なお話  Setoh 2002/02/15(Fri) 09:54 [Reply]
> 駱駝(頭)、鹿(角)、鬼(目)、牛(耳)、蛇(頭頂)、蜃(腹)、鯉(鱗)、鷹(爪)、虎(掌)。
ラクダですか。シルクロードのイメージですね。
「蜃」は龍のランクで,龍ー咬ー虹ー應または蜃(しん) とあり,龍の下層階級の名にもでてきます。どういうものでしょうね。蜃 四足、翼あり,気を吐いて海市(蜃気楼)を為す ですが。

 さて,三輪山にかかる虹,ZOUさんが,神奈備別荘にアップしてくれました。見事な写真です。ご覧下さい。

 所で龍の目撃譚,アガ。
 黒龍江省での目撃譚
 チチハルのモンゴル自治区で1944年に色は黒、長さ20数m,胴はは大人の腰と同じくらいの太さ、頭に角はなく,額には30cmの一本のノコギリ形の角。7ー8本の髭。が横たわっていたのを多くの人に目撃されたそうです。夜の内にいなくなったとか。
 流石、黒龍江省ですね。
 
神社聖地の画像は http://res9.7777.net/bbs/kamnavi/

[2553] 無題  気高き 紋次郎 [Mail] [Url] 2002/02/15(Fri) 09:01 [Reply]
 Tといえば釧路市では有名な共産党の幹部です。
 釧路は図書館などが並ぶヌサマイの丘から東北へ続く高地があり、T氏の家はその高地に
あります。
 T氏はかなりアイヌ語を研究してるそうですので、「トコタン」の解釈などで意見を訊き
たく、押しかけて行ったことがあります。もう20年も前もことです。
 その庭さきから、ちょうどいい大きさで東の方にハルトリ湖を見おろすことができます。
 話が一段落したとき、T氏が「オレは龍を見たよ」とキリだしました。

 それを初めて見せつけられたときには、びっくりして「龍は実在する!」と思ったそうで
す。気をつけて観察していると、5月の中旬、朝11時ごろに現れるそうです。
 空気に段層が生じ、これがキラキラと輝きながら透明で連続したイリュージョンが湖面か
らたち昇り、さながら巨大な蛇の渦となって上空へ消え去るそうです。

 これを話すときのT氏の顔は真剣でした。彼が「100%物理現象だ」と割り切って考え
ているとはとても思えない表情でした。
 21世紀初頭人‥‥。政策面で共産党の主張に贊同できる‥‥までは解るが、果してどこ
まで「唯物弁証法的人間」になれるのか‥‥、そんなことを考えながら根室への道をとばし
ました。
           ……………………
            ※ 瀬戸内っつァん、アマカネ。『花と龍』‥‥いっぺんは書きたかった標題
              でしたじゃ。ばってん、ありゃどげなん物語りな? どて カネ。
              おらナ〜〜ンも知らんとばナ。「先生」じゃなかっち言うたろが。
            ※ フィリピンには“龍”という言葉はありません。
              ピグミー社会には神も心霊も龍もありません。
              

[2551]   場所ちがい 『 花 と 龍  2 』  気高き 紋次郎 [Mail] [Url] 2002/02/14(Thu) 21:14 [Reply]
イヤァ〜〜ッ すまねぇ。
 アレッ? おらは誰れに「スマネ」と言ってんだろか。
 まァいいや、マルヤさんにしとこ。

 わえ「ほにゃらか」で、『花と龍・2』の記述をサボってんでんがな。その冒頭まっさき
に書きたかったことは、「龍は人類が共通に認識できる神だった」ということでした。
 典型的齟齬の現象として、現代人は共通認識ぬきで「神」なる語彙を遣い、あげくの果て
はコロし合いをくり返しています。
 古い時代、龍は雷とともに直接五感にキャッチできる実在者だった‥‥、そうしかなりま
せん。
「雷が共通認識できたことは解るが、なんで龍がわれわれの五感に直接的に、しかも同じイ
メージとなるのか?」という賢紋が返ってきそうですが、まあ聴きなはれ。

 赤ん坊は産まれるとすぐに、オッパイを上手に飲みます。飲む方法を知っていますよネ。
 その一種の反能方法がなんらかの形で赤ん坊の(脳)細胞にインプットされていることは
全員が認めるところでしょう。ウ・ウ・ウ‥‥全員が認めても全員が錯覚していることも考
えられますが、ここは“それ真理だ”としてくださいな。

 現代人は“修行”をして精神文化に深まることができますが、その修行とは言語を断つこ
とが基本です。
 そして修行した大多数の人々は精神世界で龍を観ることができるのです。
 すなわち、われわれの先祖がお猿さんだったころには言葉数は僅少で、食事終えたあと
は、ただひたすらにボケ〜ッとしていたのでした。このボケ〜ッとしていた時間に古い時代
の記憶が、くり返しくり返し蘇って次世代の細胞へ受け継がれていったのでした。
 古い記憶‥‥。この場合は、肉食恐竜から追われた恐怖の記憶です。

 ですから、龍と蛇はちがいます。しかしアゴの下にウロコがあったり、頭部が似ています
ので錯覚したのでしょう。
 泊瀬女さん、貴女は怖がっているのは恐竜のはず。性根を据えてニラミ返してごらんなさ
いヨ。香具さんに言わせると蛇はとても可愛いもんだそうですよ。

[2550] Re[2549]: 竜頭蛇尾なお話  玄松子 2002/02/14(Thu) 20:23 [Reply]
>  龍は何から構想されたのでしょうか。

「本草綱目」では、龍は9種の動物の混合だそうです。
駱駝(頭)、鹿(角)、鬼(目)、牛(耳)、蛇(頭頂)、蜃(腹)、鯉(鱗)、鷹(爪)、虎(掌)。
玄武同様に、キマイラということですね。霊獣ですから。

中国の草創神である、伏戯と女媧は、蛇体ですね。イザナギとイザナミのモデルとされていますね。

[2549] 竜頭蛇尾なお話  Setoh 2002/02/14(Thu) 17:08 [Reply]
 讃岐の金刀比羅宮の祭神は大物主神となっており,三輪明神と同じです。
ご承知のように金毘羅神はインドのガンジス河の「わに」の神格化したクンピーラとされています。クロコダイルの特殊進化したものだそうです。
『日本の神々2』によると,岡田米夫氏は「金毘羅神→龍神→海神→大物主神」との変化を推定されておられます。海神が入っているのは「海を光して依り来る神」だからだそうな。
 これでいくと、ワニ→龍→海蛇→蛇と変化したことになるのですが,逆さまとは言いませんが,素直にはいそうですか、とも頷けません。正体が蛇とされる大物主神は元々龍であったことになり,その前にはワニと言うことですね。
 漢訳仏典ではヒンドウー文化圏の蛇であるナーガを龍と訳しているそうです。東南アジアではナーガは水神として崇敬されているそうです。
 龍は何から構想されたのでしょうか。地中のイメージの蛇と天空を翔る龍とはどうも結びつきにくいように思います。その間にワニが入っているのでしょうかね。ワニには手足がありますし。 
 龍には二種類あって,ワニからと蛇からと,と言うことでしょうか。
 龍には階級もあり,虹は龍、咬(こう,ミズチ)につぐランクの龍の一種で、メスの龍だそうですね。三輪山に虹がかかる,泊瀬女さんにお似合いの実にロマンチックな景色ですが,実はあれは蛇なんですよ。大和の住人の方、三輪山と虹の写真、お持ちじゃないでしょうか。

[2548] Re[2546]: 困ったぞ?  泊瀬女 2002/02/13(Wed) 21:54 [Reply]
私にヘビの話をふらないでェ〜。異常な位ヘビが嫌いなんです。
三輪山には白いヘビがいるそうですよ。日下倭人さんが三輪山に登られた時、見たそうです。奥様がすっ飛んで逃げたとか。
ヘビは寒い時期は出ません。今頃の季節は安心して山でも藪の中でも歩けますね。
私は三輪山には昨年の3月に登りました。前日に降った雪でとても美しい景色でした。
三輪山にはヘビの伝説が深くからみついていますが、そんなにウ蛇ウ蛇いるわけではないのでは・・・。特に大神神社の参道は、参拝の方がひきもきらず、といった感じで多くの人が行き交いますので、ヘビのほうが恐がって出ては来ませんでしょ。

ヘビは恐いけど、神社には行きたい。古い神社には大抵ヘビのいそうな石垣やら藪があります。5月から10月頃は、恐怖におののきながら神社巡りをしますが、今まで本格的にヘビに出会ったことはありませんね。

泊瀬女は地元の者ではありません。相模の国の住人です。大和が大好きですから、地元民と思われて光栄。

[2546] 困ったぞ?  雄一 2002/02/13(Wed) 18:18 [Reply]
みなさんのお話を参考にすると、神話の中に出でくる龍は、蛇である可能性がたかいですね。今年は時間があれば、奈良か京都の神社の参拝に行こうと思っていましたが、蛇に関する書き込みを読んでいるうちに困ってしまいました。参道に蛇がよくでそうな大神神社
に寄るべきか?どうか。
そこで、泊瀬女(地元の方?)さんにお尋ねしたいのですが、大神神社の参道にはよく蛇がでるのでしょうか。私は蛇が苦手なので、よく見かけるようであればコースから外そうと思っています。

[2545] Re[2540]:   「鳥は居れ」の「居」を「座」とすれば   マルヤ [Mail] [Url] 2002/02/12(Tue) 20:47 [Reply]
紋の伯父貴、こんばんは。お説はいつも読ませてもらってます。
本日は、病み上がりなので早めに帰ってきました。

> マルヤさん、おらのパソコンはEメールでの送信機能もぶっ壊れて、昨夜讃えのことばを
> 直接に伝えることができなくって残念でした。
>  「鳥は部下」‥‥はモーレツな掘り出しですじゃ。どこのどなたさんが言いだしっぺかを、> ぜひぜひお教えアマカネ。

お褒めの言葉うれしいですが、もちろん私の言い出しっぺではありません。
そしてどなたが言い出した説かも定かではありません。
私が見た(読んだ)のは、「全国神社名鑑」/全国神社名鑑刊行会編 そこの記事に、その他の鳥居の起源の説と共に書かれていました。
また本日、あさひや書店の神道コーナーでの立ち読みで、「鳥居」とタイトルのついた単行本でも同様の記事を見ました。著者名/出版社は忘失しました、すみません。

[2544] 情熱の蛇族  マルヤ [Mail] [Url] 2002/02/12(Tue) 20:25 [Reply]
>  マルヤさん ご快気おめでとうございます。お風邪はお腹にきませんでしたか?
ありがとうございます。その通りです。トイレの回数が増えて・・
>  蛇の交合は神秘的なもので畏敬の念を持って見られていたのでしょうね。
もちろんです!その情熱的な愛の交換ぶりに圧倒されましたけれど。
>  吉野祐子さんの本の写真は勧請縄の雰囲気ですが,丁度,神奈備別荘にZOUさんが桜井市の素盞嗚神社のお綱祭りの写真を掲示してくれましたが,ここの太さは出雲の神社の注連縄を想起します。
ほんと、圧倒的な太さですね。私も出雲大社の注連縄を思い出しました。

吉野裕子さんの本の写真は、二本撚りだし細いですね。それに蝮ではなさそうです。
>  福島雅彦様が 99/11/3 に書き込みをしていただきまして,印象に残っている三本撚りの注連縄についてですが,二本撚りの細い縄から,太く、また三本へと発展したのかも知れませんね。
三本捻りで思い出しましたが、蛇族殿御のお道具は対になっていて二本あるのでしたね。
あの情熱からすれば女御二体、計3体の三つ巴・三つ撚りは可能でしょうね
ああ、また不謹慎なはなしになりそ・・・。

[2541] zip探偵団  Setoh 2002/02/12(Tue) 17:29 [Reply]
2月16日放送のzip探偵団,伊太祈曽が登場します。
関西では8チャンネル午前10時からです。

[2540]   「鳥は居れ」の「居」を「座」とすれば   気高き 紋次郎 [Mail] [Url] 2002/02/12(Tue) 09:30 [Reply]
マルヤさん、おらのパソコンはEメールでの送信機能もぶっ壊れて、昨夜讃えのことばを
直接に伝えることができなくって残念でした。
 「鳥は部下」‥‥はモーレツな掘り出しですじゃ。どこのどなたさんが言いだしっぺかを、
ぜひぜひお教えアマカネ。

 古代には「穴」がさかんにでてくることはミナシャンお気づきのとおり。この「アナ」と
「トリ」がセットになっている。正確には「トリ」ではなくって「トリヤ」。
 先日激震があったイランの「アナトリア地方」は、ギリシャで「東」という意味として残
っていたために、それが語源だとカン違いされ、処理されてきましたが、実際はアナとトリア
が夫々別に語彙機能を果してきたのでした。
 アナトリアは8000年前、世界で初めて金属精錬技術が開発された地方として注目されます。
 
 ついでにいうと、こんなのまでが、発音はそのまま変わらず意味だけが社会のうごきに応じて
大小の変化をとげている。‥‥ここが 今おらが神名などの解釈で大いに蹉跌(さらなる飛躍?)
しているところです。
 
 「イ」は堀井令以知さんの掘り出しによれば「座」です。「トリ」はネパール語では「組・群
・集団」です。
 “鳥”の語源はバスク語に TXORI(鳥)がありますので一概にはいきません。
 
 むかし、殿さまは「くるしゅうない、近うよれ」といいました。「くるしい」も「近い」も
ネパール語に類似があります。
 神さまの前には「下人」が近付くことはタブーだったはずです。この説は正鵠を衝いている。

 では、なぜ陰門が柱なのか‥‥これから先は『ほにゃらか.掲示板』がいいようで。
 
  陰を気高くする;http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/yakbbs.cgi

[2539] Re[2538][2537]: 注連縄の起源  Setoh 2002/02/12(Tue) 09:13 [Reply]
 マルヤさん ご快気おめでとうございます。お風邪はお腹にきませんでしたか?

 蛇の交合は神秘的なもので畏敬の念を持って見られていたのでしょうね。
 吉野祐子さんの本の写真は勧請縄の雰囲気ですが,丁度,神奈備別荘にZOUさんが桜井市の素盞嗚神社のお綱祭りの写真を掲示してくれましたが,ここの太さは出雲の神社の注連縄を想起します。
 福島雅彦様が 99/11/3 に書き込みをしていただきまして,印象に残っている三本撚りの注連縄についてですが,二本撚りの細い縄から,太く、また三本へと発展したのかも知れませんね。

 熊野市の花窟神社の神事は勧請縄の古い形とも言われますが,ここは海岸であった所に意味があったのだろうと思っていますが,海岸と神社の間を国道が通っています。JRは奥のほうのトンネルを通っています。ここの場合には破壊とまでは言えないのかも。

[2538] Re[2537]: 鳥居の起源  香具 [Mail] 2002/02/11(Mon) 21:35 [Reply]
> ●中国の門柱、「華表」がその起源ではないかとする説。

「華表」そのものを詳しく知らないのですが、私は『牌楼』を見て鳥居に似てるナーと思います。真ん中に扁額のあるところなんかネ。また、三輪の三ツ鳥居の写真を見ても、ますます『牌楼』を彷彿とさせるナーと思いました。
もっとも、年代的にも、由来的にも鳥居のルーツにはならないでしょうが。
(時代と場所とを越えて似たものを造るものだナ〜、という感想です。)

[2537] 鳥居の起源  マルヤ [Mail] [Url] 2002/02/11(Mon) 16:48 [Reply]
鳥居の起源ですが、
●古代インドの垣門トラーナ(torana)がその起源ではないかとする説。
●中国の門柱、「華表」がその起源ではないかとする説。
●朝鮮半島の紅色の門、紅箭門がその起源ではないかとする説など。・・・おもしろいと ころでは
●庶民や部下を「鳥」といい、この門のところで鳥は入れてもらえず、「鳥は居れ」とい われたからとか、
●天照大神を岩戸からお出まし願うため、長鳴鳥を横木にとまらせ鳴かせたことからとい ろいろあって面白いですね。

話は少し違いますが、注連縄は明らかに蝮(あるいは蛇)の交合そのものですね。
「蛇」 日本の蛇信仰 吉野裕子著/講談社学術文庫  に交合の写真が出ていますがまったくそっくりです。

[2536] Re[2503]: 鎮守の森と鳥居  マルヤ [Mail] [Url] 2002/02/11(Mon) 16:18 [Reply]
風邪で一週間ほどくたばっていましたら 、いつもながらこの掲示板には興味深い書き込みが一杯。ひと通り読むだけで大変でした。神奈備山に穴を穿つなどは言語道断。なんとか地元の人には特に奮起してもらいたいものです。
書き込みのタイミングがずれてますがご勘弁ください。

>  ついでに鳥居ですが,春日大社へ参詣する人々の多くは道に迷ったとの962年の記録があるそうで,この頃までは神社に鳥居がなかったのでは、と推測しています。鳥居は意外と新しいもの、とすれば,南方のよく似たものとか半島のソッテとは違う起源かも知れませんね。
>
鳥居の起源については、様々な説があると思います。どの形をして「鳥居」というか?にもよると思いますが、かなり古いのではとも思えます。

古代、各部族は自分達の聖域または祭祀場所に垣をめぐらせ、その入り口のしるしとして掘建ての柱を二本立てた。そしてその補強のため横木を渡して固定するようになった。・・・・・
とすれば、これはもう立派に「鳥居の原型」になるのではないかと思います。
神社建築やその様式、祭祀の規定などについては大まかには、天武朝以降に定まってきたのではないでしょうか。もっとも現代我々が目にするような様式になるには、更にもっと時代が下がらなければならなかったとは思います。
さて「鳥居」の朱色ですが、邪気や悪霊祓いの色としてかなり早い時代から、この入り口のしるしの柱や梁に丹が塗られていたのではないでしょうか?
丹の字が鳥居の形に酷似しているのでそんな気がしてなりません。

[2535] 文忌寸祢満の墓誌  なにがし [Url] 2002/02/11(Mon) 11:03 [Reply]
setoh様
題名の件インターネットで見つけましたのでコピー致します。
>火葬墓に伴う紀年銘のある最古の墓誌は、「慶雲(けいうん)四年」(707)の文忌寸禰麻呂(ふみのいみきねまろ)のもので、ガラス壺蔵骨器と金銅(こんどう)壺の外容器が出土している。

>この裏付けとなる文献については小生は寡聞にして知らなかったのですが、
木氏の著書より口語訳の部分を書きますと
「昔から、胡の馬は北風の吹く方向に向かって故国をしのび、越から飛来した鳥は南の故郷をおもうて、南の方角へつきでた枝に巣をかまえるといわれている。西に沈んだ太陽は再び東の空にかえって昇り、東にゆける雲はまた、西にかえって空をゆく。ものにおいてもこのようであるのに、どうして人の心にもそうした道理がないといえましょう。昔の人から聞き及んでいるのに、私の先祖の太遣馬(たけま)宿禰はあなたの国の祖である大名草彦の末裔であるとの事。この故に一度お目にかかりたいものと、かねがね思っておりました。・・・」この後はsetoh様のサイトの文章につながって行きます。

>山奥に住吉神社の不思議・・・
住吉大神の痕跡が紀ノ川の南北に残ってそうですね。そういえば筒香あたりに昔天皇(どの天皇かわかりません)が逃げてきて一時住んでいたと書かれた本を見たことがあります。もし文忌寸氏の氏神としての存在であったなら、天皇といっしょにこの地を離れる時に一緒に持って行ってる場合も考えられるので、残りにくいかも知れません。ただそれを語り継いでいるのが住吉大社神代紀だと言うことになるかも知れませんね。

[2534] Re[2533]: 住吉大社神代紀  Setoh 2002/02/11(Mon) 10:20 [Reply]
> 佐伯の先祖が紀の国の祖神の大名草彦の末裔である
この裏付けとなる文献については小生は寡聞にして知らなかったのですが、凄いお話です。
佐伯と大名草彦命がつながるとすれば次の二つのケースが思いつきます。ご批判を仰ぎたいと思います。

1 天道根命は紀氏の祖すなわち大名草彦命は四世の孫になりますが、佐伯氏である空海の讃岐国に天道根命を祀る神社が鎮座しています。

高家神社(血の宮) 香川県坂出市高屋町878(讃岐 阿野)
祭神 天道根命、崇徳天皇、待賢門院
由緒 往古ここに高家首の一族が居住し、遠祖の天道根命を奉斎して氏神とした。
里人には森の宮とも奉称され貞観九年(八六六)従五位下を奉られている。
崇徳天皇は長寛二年(一一六四)九月十六日白峰で御葬祭奉仕の途次、高屋村阿気の地で御棺を休め奉った時俄に風雨雷鳴があり、葬祭の後村人畏んで天皇の神霊を当社の相殿に奉斎し、御棺を駐め奉った台石も社内に納めたので俗に崇徳天皇血の宮とも称えられている。

式内社の高屋神社が香川県観音寺市高屋町稲積山2730に鎮座していますが、祭神については不詳ですが、刈田郡に紀伊郷があったそうで、紀の国や紀氏との薄くない関連が認められます。

空海の佐伯氏と紀氏との親戚関係、状況証拠としてはあいそうですね。

2 「ほにゃらか」で紋氏が
* ナグは龍または蛇。
* 「サ」には神・王の意味があるかもしれない。この辺は末決着。
* ナグサは「ナグ・フサ」だった可能性大。それに従うなら「龍・蛇」となる。
と解読されています。要は蛇のナーガが名草(なぐさ、なぎ)の語源になっているかどうかの見極めの話です。
蛇とはなにか、夜刀の神です。山を夜刀の神の領域とする棲み分けの話がありますが、夜刀とか蛇とかは先住民(縄文人?)の事をさしている可能性があります。大名草彦命とは先住民の神もしくは総称かも知れません。
また佐伯ついては、三輪の山の近くから追われる話がありましたね。「其の、神山の傍に置らしむる蝦夷は、中国に住ましめ難し。是今、播磨・讃岐・伊豫・安芸・阿波、凡て五国の佐伯部の祖なり。」空海が好物の知識に通じていたのはルーツが蝦夷(先住民)であるからとの説もありました。
同じ、夷ではないか、との呼びかけかも知れませんね。


山奥に住吉神社の不思議
大和国吉野郡の波寶神社は住吉神社と言う名前ではないのですが、祭神は住吉大社と同じで、また丹生っぽさもありますね。大和国吉野郡と言っても十津川村の住吉神社には住吉三神と天手力男尊が祭神で由緒は判らないのですが、この山奥に住吉神社は不思議です。川上村東川にも住吉神社が鎮座。
マルヤさんがお詣りされたとお話のあった南河内の天野の近くにも住吉神社があります。マルヤさんのHPによれば 神社のあるこの辺り一帯は広い高台となっていて天野、天原、高天原といわれたそうです。
和歌山では紀の川の北側に相賀八幡神社が鎮座、天手力男意気続々流住吉大神の後裔社を名乗っています。
どっかに痕跡が残っているのでしょうね。

[2533] 住吉大社神代紀  なにがし [Url] 2002/02/11(Mon) 00:05 [Reply]
setoh様
住吉大社神代紀読んで見ました。多くの方が神代紀の成立は天平3年(731年)であるのは疑問とされていたのに対し正しいとされておりました。でも「丹生祝本系帳」と同様、原本が残っていない。また、日本書紀との類似部分が多く、田中氏は日本書紀からの引用と書かれている部分もあれば、日本書紀が神代紀を引用したと書かれている部分もあり、最終的には日本書紀が神代紀を参考にして書かれ、その日本書紀を参考にして神代紀に捕捉をいれたためそのように類似点ができたのだろうと書かれていました。その成立が天平であるならば、日本書紀成立後11年ほどのちに神代紀が書かれたことになり、そのようなものを津守氏が見れるのかとの疑問からそう解釈されたようです。
神代紀の成立がいつかと言う問題はさておき、また日本書記との類似部分もさておいて、その他の部分については全て受けいれられるかどうかは分かりませんが、津守氏の伝承として考えると、放ってはおけない内容だと思います。そういう意味で神代紀は非常に面白く、非常に重要な古文書であると思います。

話は変わり、神代紀の天手力男意気続流住吉大神のところの部分ですが、
「紀伊国伊都郡、丹生川上社(天手力男意気続流住吉大神)
 右は、毒(あしもの)、九国領にみち、貢調らしめざる時、文忌寸材満、調伏らむことを祈請みて御神社を祭り、子孫伝えて氏神となす。」
田中氏の注釈には文忌寸材満は「忌寸は天武天皇八色姓の第四位にて、それ以前の人にあらざる事明らかなり。恐らくは文忌寸祢満にて、日本紀に根麿、続紀に尼麿にも作る人物ならむ。その墓誌もあり。壬申年の将軍なり。果て然らば「毒」とは古事記序の「凶徒」即ち大友皇子の勢力を指せるか。但し「九国」を九州とせば合わず」とあり、壬申年の将軍であるから、壬申の乱が672年であるから、この頃に伊都郡の丹生川上社に祭られたと言うことになります。伊都郡のまた神代紀に天野の地名も出てきますが、これが河内長野の天野か伊都郡の天野かがはっきりしません、文忌寸でいけば伊都郡の天野の気もしますし、住吉の四至からすると紀ノ川以北なので河内長野の天野の可能性もあります。また、神代紀には「・・・「吾が山を巡検む」と宣り賜ひて、即ち御馬に乗り賜ひ、油笠を着たまいて、兄(せ)の山(伊都郡)より葛城嶺・生駒山に馳せ至り賜ひて・・・」とありますので、その活動範囲と考えると紀ノ川以北と見るべきか???
ちょっと道がずれますが、この丹生川上社がもし、吉野の丹生川上神社下社のことで、地理的に近いことから伊都郡と間違ったか、あるいは昔は紀国伊都郡に含まれていたかであったとしたら、神代紀は丹生川上神社3社の内、下社が正当な丹生川上神社である証拠となり非常に重要な古文書となると思います。木国筒川藤代之嶺とありますからかなり可能性は小さいかも知れません

[2532] 無題  なにがし [Url] 2002/02/10(Sun) 19:35 [Reply]
setoh様
「弘仁七年直後 空海から紀伊国に在住の有力な人への書状」について、高木氏の「弘法大師の書簡」あるいは「空海と最澄の手紙」で読んだ見ました。あて先が分からない事、もう1つは佐伯の先祖が紀の国の祖神の大名草彦の末裔であると言うことが見られます。木氏は昔書かれた「弘法大師の書簡」では、これは紀州の大伴氏あてとされておりましたが、最近の木氏の著書「空海と最澄の手紙」では紀州の某氏あてに変わっていました。前者では大伴氏と断言されていたのですが、後者では大名草彦のつながりから、最近では紀直氏、丹生氏あてに出されたものとなぞらえる声もあると書かれおりました。しかし、この手紙の内容だけでは大伴氏なのか紀氏なのか、丹生氏なのか分かりません。紀の国の祖神の末裔とされているだけですから、同じ先祖なので協力してほしいとの事でなければ、他の氏族もありうることになるかと。個人的には紀氏かなあと思ったりしてるのですが。
あと、上記の本で見つけたのですが、日本紀の貸し借りについての手紙もありました。と言うことはこの800年代には空海に関係する人は日本紀を見ている可能性があると言う事も分かりました。 

[2531] 無題  なにがし [Url] 2002/02/10(Sun) 19:02 [Reply]
地元の神奈備山にトンネルを掘るとはひどい話ですね。地元の方々はどう感じておられるのでしょうか?どうにかならないものですかね。コースを変えるとか。

[2530] Re[2524]: 出雲の神名火山,仏教山を救え!  April [Mail] 2002/02/10(Sun) 13:21 [Reply]
トンネルと言えば、橿原神宮の地下にも敷地を掠めるように地下道を掘る事がきまったらしいです。
参拝客にさえ迷惑を掛けなければ良いということになったそうですが、橿原神宮に関して宮内庁がおれるとは予想外でした。だんだんと聖地が軽んじられる時代になってきたようです。
また、沖縄では風水的な破壊が2カ所ありました。
一つは沖縄の一宮と言える波之上宮。この神社の裏に海があり、神様が海から来て海に還る典型的な形ですが、この神社と海の間に道路が出来てます。結果、神様の通る道に垂直に水龍が通る形になってます。
沖縄は鉄道が無い分、道路網が発達していて波之上宮の隣に道路を造る必要は無いはずです。
これは意図的な破壊だと思えます。
もう一カ所は世界遺産に登録されたセーファーウタキ。ここは今でも神聖な場所ですが、観光客を入れることで聖地の破壊を狙ったとしか思えません。

天津系の社について軽んじ、国津系の社の破壊を試みるという感じで一体何を考えているのかさっぱり分かりませんが、悪い時代になっていくという気がして仕方がないです。

[2529]   男子たるもの‥‥    おいぼれ 焼尻紋次郎 [Mail] [Url] 2002/02/09(Sat) 19:29 [Reply]
 男子たるもの、何歳まで生きられるか。
 要衝の急を衝くべし。
 要衝の急は森首相の「日本は神のくに」発言周辺にあらいしょ。
 いまからでも遅くない。ただちに連隊に復帰せよ(二・二六事件より)

[2528] Re[2527][2526][2524]: 出雲の神名火山,仏教山を救え!  Setoh 2002/02/09(Sat) 17:11 [Reply]
> > この仏教山には、昔、曽只能夜神社・韓国伊大氏神社があったんですね。
そうです。『古事記』では大己貴神が鎮座とも読めまし、国造祖神とも言われていますね。
> 島根県民ではない、よそ者の私たちに何かできることはないのでしょうか?
島根の知り合いにメールを送って注意を喚起してあげて下さい。
代議士、参議院議員、県会議員などは特に効果があるのかも。
よろしくお願いいたします。

[2527] Re[2524]: 出雲の神名火山,仏教山を救え!  泊瀬女 2002/02/09(Sat) 15:41 [Reply]
島根県民ではない、よそ者の私たちに何かできることはないのでしょうか?

[2526] Re[2524]: 出雲の神名火山,仏教山を救え!  玄松子 2002/02/09(Sat) 13:51 [Reply]
> 今、出雲国出雲郡の神々の坐す山、祖霊の静まる山=神名火山=である仏教山のドテッパラに穴をあけようとする企てが進められています。

この仏教山には、昔、曽只能夜神社・韓国伊大氏神社があったんですね。

[2525] Re[2520]: 錆び付いたデータベース箱をゆらゆらと  Setoh 2002/02/09(Sat) 10:42 [Reply]
[2496]なにがしさん> C伊都郡かつらぎ町三谷の竃門氏の竃門の姓の始まりは、三谷の竃門神社(奥津彦奥津姫)の神主であった大伴常家からで、常家は丹生総神主家の養子となっています(1280年ごろ)。
[2520]なにがしさん> 竃門氏の伝承では「竃門を名乗るもよし丹生を名乗るもよし」とあるそうです。大伴は名乗ってはいけなかったのかなあと疑問は多く出てきます。

そうですね。13世紀も終わり頃とは言え、田舎では名字は大切にされていたのでしょうか。大伴氏では余所者だとの印象が強かったのかも。大伴でないことは骨を埋めることを意味したのかも。

竃門か丹生か,丹生なら自然ですが,何故この頃になって竃門なのでしょうか。天野で丹沙蒸留のため竃門と云う時代がたとえあったとしても,この頃にはやっていなかったようですね。それこそ文献ゼロと思いますが。
そうすると竃門は道教で云う司禍神=人間の行いの記録をし,罪の軽重・多寡によって寿命を決める神を思い出します。請われて養子に来たのでしょうから,逆に身を慎めとの教えだったのかも。

[2524] 出雲の神名火山,仏教山を救え!  Setoh 2002/02/08(Fri) 20:37 [Reply]
大和の神奈備山の三輪山を突き抜けるトンネルを掘るという話があれば大和の人だけではなく全国の人々が身の毛もよだつ程吃驚してしまうでしょう。それから、その工事を中止させるべく全力を尽くすはずです。
但し、島根県人だけは素知らぬ顔をしているはずです。なぜなら:ー
今、出雲国出雲郡の神々の坐す山、祖霊の静まる山=神名火山=である仏教山のドテッパラに穴をあけようとする企てが進められています。
山陰自動車道を通すためです。どうやら国土交通省だけではなく、島根県までがそれを認めているようです。
島根県の観光パンフレットをご覧になったことがおありでしょう。「神々の国」をキャッチフレーズにしている自治体です。
その神の坐す神名火山にトンネルを掘ることが進められています。
小泉改革の腰が抜けて止まっていた工事が進み出すようです。島根選出のAなる参議院のボスがからんでいるとか。
島根県は、国土交通省のは神をおそれぬ行為、神を侮蔑した行為を認めることで、他の県の人々を欺く行為を行おうとしているのです。
言うこととやることなすことの違いが極端な県が島根県だと全国に平然と宣言して居座る行為に見えてしまいます。
心ある島根県人よ! 立ち上がって仏教山への穴開けをやめさせて、山陰自動車道を迂回させましょう。

[2523] Re[2522][2521]: 韓国宇豆峯神社の鳥居  nick [Url] 2002/02/07(Thu) 11:27 [Reply]

> 「両部」とは真言の金剛と胎蔵のことですが、神仏習合の神社には多く見られる形。
>ただ、その足の多さで強度が増すので、系統とは無関係に用いられている場合も多いようです。
>多くは地域性に依存します。大工が同じ、あるいは同一グループだからそうなります
ね。
>国宝級の物や、特別の来歴があるもの、特色を出したいという要求と財力があるものは別ですが。

確かに御指摘の通りかもしれません。
当地のような田舎において、昨今の氏子の絶対数が激減では改修する財力にも
底をつくでしょうから、低価格で頑固な構造にと。。。

拝殿などにもその傾向は多々見受けられますが、しかし何か手がかりがないと
先へ進めませんし、、、
その点、玄松子さんのサイトは、分類の対象として貴重なデータベースですね。
また、お邪魔させて頂きます。

[2522] Re[2521]: 韓国宇豆峯神社の鳥居  玄松子 2002/02/07(Thu) 08:09 [Reply]
> 当地、鹿児島神宮は、宇佐神宮系の「八幡型」とは多少異なっています。
> 私は一応「正八幡型」と呼んでいます。

一般に「両部鳥居」「四脚鳥居」と呼ばれるものとは違うのでしょうか。
両部鳥居は各地にありますが、霧島周辺では、霧島東神社や東霧島神社などにも見られる形・彩色ですよね。
「両部」とは真言の金剛と胎蔵のことですが、神仏習合の神社には多く見られる形。ただ、その足の多さで強度が増すので、系統とは無関係に用いられている場合も多いようです。
話題の丹生都比賣神社も、この両部ですね。

鳥居や社殿などの神社建造物は、祭祀の系統によって違う場合もありますが、多くは地域性に依存します。大工が同じ、あるいは同一グループだからそうなりますね。国宝級の物や、特別の来歴があるもの、特色を出したいという要求と財力があるものは別ですが。

[2521] 韓国宇豆峯神社の鳥居  nick [Url] 2002/02/06(Wed) 23:43 [Reply]
今年の課題として、「鳥居の型」から神社系統の分類を
試みようと考えております。

当地、鹿児島神宮は、宇佐神宮系の「八幡型」とは多少異なっています。
私は一応「正八幡型」と呼んでいます。
詳細は、次の写真を御覧ください。

http://rekishi.hayato.com/

隼人系の神社とおぼしき所はこの形態のようです。

面白いことに「韓国宇豆峯神社」も正八幡型なのです。
豊後勢が勧請したと云われるこの神社がですよ。
また、ここから勧請した剣神社は「神明型」です。
こちらは、鉄ポール製で近年建てられたもののようで、細工の過程で
簡単で頑丈な構造の物にしたと想像しています。

どのような過程で変化したのか、それとも当初からのものか。
当地は、明治の廃仏毀釈運動で資料が壊滅状態、
なかなか確証が得られません。

現状調査を踏まえ、氏子の皆さんから聞き取り調査をしながら
分類に努めようと考えます。
また、多方面でご教示お願い致します。

尚、今月末、自宅のサーバーを稼働します。
その調整のため従来の"hayato.com"は休止致します。
御迷惑をお掛けしますが次のミラーサイトを御覧ください。

1."hayato.com"ミラーサイト

http://home.hayato.com/

2.歴史探訪:

http://rekishi.hayato.com/

3.縄文遺跡:

http://jomon.hayato.com/

4.初午祭

http://uma.hayato.com/

5.登山情報:

http://yama.hayato.com/

6.福祉情報:

http://wel.hayato.com/

[2520] 本日の疑問  なにがし [Url] 2002/02/06(Wed) 23:40 [Reply]
ふと思ったのですが、setoh様は三谷の竃門神社見られたでしょ。もともと丹生総神主家の屋敷があそこです。竃門神社がもともとあそこにあったとしたら、丹生総神主家の敷地内に竃門神社があって、その神主が大伴氏となるのですが、他人の家の中の社の神主が他人ってことがあるのかと思いました。どんな関係があったのかと。それと、大伴常家が丹生総神主家に養子に入るのですが、どうして姓を竃門に変えたのか(但し公には丹生ですが)。普通なら丹生のままでいいし、変えても大伴だと思うのですが。竃門氏の伝承では「竃門を名乗るもよし丹生を名乗るもよし」とあるそうです。大伴は名乗ってはいけなかったのかなあと疑問は多く出てきます。
紀氏、大伴氏、丹生氏の関係がイマイチはっきりしない今日このごろです。紀氏とは豊耳などなどで繋がっているとしても、大伴氏との関係が全くつかめておりません。

いつも思うのですが、setoh様に聞くと、すぐ回答が返ってくるのを見ると、生きた神社大辞典あるいは古文書館って感じですよね。いろいろなところの文献から引用などが出てくるのが、まるでドラエモンの四次元ポケットみたいです。それでは。

[2519] Re[2517]: 稲荷  Setoh 2002/02/06(Wed) 21:38 [Reply]
> 超久しぶりの稲荷シリーズですねぇ。

いやほんと。稲荷、熊野,丹生などの祭祀は台密、東密に深く絡んでいますね。難しい。

『鎮守の森は蘇る』−社叢学事始− 思文閣出版 上田正昭、上田篤編 を読んでみましたが,基本を環境浄化に置いているようで,これでは大きい境内地を持つ神社はそれなりに評価・保護を受けられる野かも知れませんが,ほとんどの神社は逆に存在価値を問われてしまいそうです。小さい敷地の神社の運命や如何となります。
社叢学そのものは結構なことでしょうが,環境だけではなく,信仰、地域の共有の広場・集いの場などの意味を強調したい気がします。

[2518] 追伸  hin [Url] 2002/02/06(Wed) 21:06 [Reply]
山尾幸久氏は、ワニ氏を「太陽信仰をもつ
朝鮮系鍛冶集団」としている。
また、土蜘蛛の居住地とされる地は、
尾張連、物部連、ワニ臣にかかわる地である。
土蜘蛛の地には、祝がいて,祝は、シャーマンであり
「羽振り」→フイゴ、タタラにかかわる。
まつろわぬ首長を祝・羽振りと書く。
まつろわぬ者とは、征服者の「マツリ」に参加しない者をいう。(あっつ、
ご存知ですね失礼)

ちゃんちゃん。

[2517] 稲荷  玄松子 2002/02/06(Wed) 21:04 [Reply]
超久しぶりの稲荷シリーズですねぇ。

[2516] 地名にぐぐ、、ときちゃうな  hin [Url] 2002/02/06(Wed) 20:27 [Reply]
愛知の尾張氏は、名古屋より北西部の地のワニ氏と結んで大きくなりました。
愛知県の知多半島もワニ氏です。
ワニ氏は、製塩にも長けています。

「水の女」
丹波道主王の娘の5人の高妃がその例ですが、
丹波道主王は彦坐王の子。
彦坐王は、ワニ臣の遠祖ハハツ命の妹ハハツ媛と開化天皇の間に
生まれた。石神神宮の神宝管理にかかわった
大中姫は、丹波道主王の娘ヒバス姫を母としている。つまり母方は
ワニ氏。
『ヒレ』を織るタナバタ姫のイメージ(神妻)は
布留川の大中姫かも。
石神の神宝、アメノヒボコの神宝の半分がヒレ。
死者を生き返らす呪術は、ヒレをフル 大祝(はふり)の役目。
石神の祭祀に、ワニ氏がかなりかかわっていたとみられる。
また、布留スクネは、小野臣やワニ部臣と同族。



ところで、砥石岳拝見!非常に興味持ちました。
また、
地名にも

だって、名古屋には、大江、氷室が目と鼻の先で、地名で現存しています。
以前に御話しした、氷上姉子神社の”氷上”と氷川も類似してます。
またミヤズ姫も 宮津の地名に類似。
なんだか びびびっと来ますね。たんなる偶然かも^0^

さて、急に九州にとびますが、筑後川の
高良神社の高良山高隆時縁起に
当社五姓氏人として

丹波 俗体大宮司職、法体座主職
物部 大祝
阿曇部 小祝
草部 下宮二勾当
百済 百済別当

と書かれているそうです。
大宮司は、紀氏が丹波氏になったとし、
物部は中央の物部ではないが、物部アラカヒの子孫、
水間(沼)君系で筑後川の土着氏族。
草部は、日下部のこと、遠祖は物部氏と同族かとみられる。

(漢字を変換するのが 面倒でカタカナにすんません)




[2515] 『丹後国風土記残欠』  Setoh 2002/02/06(Wed) 10:15 [Reply]
日出倭さん,ありがとうございます。日出倭さんのHPに出ていました。
http://www5.nkansai.ne.jp/users/oushiama/special-1/09-hikoimasu/09.htm

それにしても、『丹後国風土記残欠』は多くのものを含んでいますね。

丹後の土蜘蛛の頭領は「陸耳御笠」(風土記),「玖賀耳之御笠」(古事記)と呼ばれていますが,これは式内社で言えば、山城国愛宕郡の久我神社[クカ],出雲国神門郡の彌久賀神社[ミクカ]に関連しているとすれば,出雲・丹後・丹波・山城に勢力を張っていた豪族だったかも知れません。

日子坐王は大和、山城から近江、丹波,美濃方面に勢力のある王のようで,この勢力は陸耳御笠を滅ぼして勝ち取ったことが『古事記』などに反映しているのかも。

海部氏はその頃どう言う存在だったのでしょうか。日本得魂命は舞鶴市の田口神社、三重県上野市の高倉神社などの祭神ですが,具体的な活躍としては,降伏しようとした陸耳御笠を攻めた話が『残欠』に出ていますね。名前負けのような・・。

話は変わりますが、驚いたことに,「丹生」の意味があるのか問題になっていた「爾保」が『残欠』にありますね。
大三元さんの http://www.dai3gen.net/tango.htm から引用します。
【爾保崎と名付ける所以は、昔、日子坐王、勅を奉じて土蜘蛛を逐いはらう時に、持っていた裸の剣が塩水に触れて錆びた。そこへ、ニホ(鳥)が並び飛んで来て、その剣に貫き通されて死んだ。これにより、錆が消えてもとに戻った。それで、その地を爾保と云う。】

ここでのニホは鳥ですが,鳥の血とすれば赤いし,金属を磨くのに丹砂が役に立つ(?)とすれば,爾保=丹生の資料と言えるかも。

[2514] 元伊勢「2511」  960 [Mail] 2002/02/05(Tue) 21:27 [Reply]
Setoh さんよく超マイナ−な砥石岳をご存知ですね!
ビックリしました。
元伊勢とはご指摘のとおりです、もう一つの元伊勢の峰山町の比沼眞奈為神社はご存知ですか?
12月に天河神社に行きましたけど、真名井神社の方が霊気が漂っていました、霊感のある友人が写真を撮ると写真の1/4が火の玉でした、少し脱線しましたけどよろしくお願いします!
籠神社の隣の大谷寺の息子は友達です。

[2513] Re[2507] エビス神  日出倭 [Mail] [Url] 2002/02/05(Tue) 20:50 [Reply]
>和邇と海部、どうつながっているのでしょうか。

日子坐王(ひこいますのきみ)で繋がると思います。
日子坐王は本来和邇氏の司祭する日神であるとの説がありますが、この日子坐王
は丹後風土記残欠によると土蜘蛛退治のために官軍を率いて丹後に攻め込んでい
ます。このとき協力したのが日本得魂命(海部氏8代)でした。

伝説によると、四道将軍のひとり丹波道主命の父は日子坐王とされています。

ただ、海部と和邇の蜜月関係は、あまり長くは続かなかったみたいですね。

[2512] Re[2511]: みなさん初めまして  Setoh 2002/02/05(Tue) 20:20 [Reply]
> > みなさんのような知識はありませんが、よく話題に出る丹後に住んでいます、自分の家が元伊勢と元伊勢を結ぶ延長上にあることが分かりました。

120さん、いらっしゃい。
元伊勢と元伊勢 籠神社と皇大神社のことでしょうか。
大俣嶽の嶽神社、大俣檀の檀神社、大俣梅谷の木戸神社は神体山としていないのでしょうか。

[2511] みなさん初めまして  960 2002/02/05(Tue) 19:54 [Reply]

みなさんのような知識はありませんが、よく話題に出る丹後に住んでいます、自分の家が元伊勢と元伊勢を結ぶ延長上にあることが分かりました。
そして近くには下記のHPの投稿したピラミッドがあります!
http://plaza14.mbn.or.jp/~taizan/nippon/jpn007.html 

  

[2510] 大伴氏のルーツは熊襲?  Setoh 2002/02/05(Tue) 17:38 [Reply]
なにがしさん>大伴氏と紀氏は同じ(同族)とみれば
拠点,居住地,勢力の伸張,働き具合など,双方は連動しています。
同族とは,共通の祖神を持つ氏族とすれば,紀氏の祖の四代前の香都知命となります。伊弉册命の死因の神です。あまり語られない遠祖ですが,この神を遠祖としている所からは,何時の時代にか,兄弟分の杯をかわしたのかも。

 さて,丹生神ですが
『二十二社注式』に、天武天皇白鳳四年(675)に丹生川上神社を創立とあります。
『続日本紀』に,天平宝字七年(763)丹生川上社に雨乞いをしている記事が見えています。 

なにがしさん>F粉河寺に大伴氏が丹生明神を勧請。
 高野山より早く,粉河寺は宝亀元年(770),(狩人)大伴孔子古の創建と伝わる古寺で,西国三十三所観音巡礼の三番札所です。延暦年間に上丹生谷村の丹生明神を勧請とあり,これが現在の粉河産土神社のようです。この伝承が信用できるとしますと,お寺が出来るとその後に明神を勧請する習慣があることがわかります。
 『丹生大明神告門』には,「御杖さしたまひ」と言う言葉で,丹生明神の鎮座順が記載されています。この記載は天野を一番目にしていない所から,ある程度信用できるものと考えることができます。順序として,とびとびに書きますが、川上水分之峯,天野原,名手村丹生屋乃所と現れてきます。
 名手村丹生屋乃所とは上丹生谷村のことと思われます。そうすると770年以前にはこの丹生神は鎮座していたことになり,必然的に前に天野には丹生明神は鎮座していたと言えますね。
 空海は知っていた?

nickさん>隼人のお祭は次の通り 3/10:韓国宇豆峯神社
お知らせありがとうございます。そそられますね。

[2509] Re[2508]: 蛭子神社の「鍵引き」  nick [Url] 2002/02/05(Tue) 16:01 [Reply]
自己レスですが
ここの祭神は「蛭子」一尊です。
一時期(江戸)この地方の五社大明神として祭られたことも
あるようですが、、
島津が、当地、国分に「舞鶴城」を築城する時の鎮護としたようです。
その当時もやはり一神です。

同じ大明神でも福山の場合2〜30の神を祭っている所もあるというのに
不思議です。
当地の場合、「多神崇拝」は、火山の噴火や地震、それに台風、集中豪雨、山崩れ等が
多発した現れだと考えますが。。。

私も以前、「海幸山幸の絵巻物の模写」がどこかにあったはずだがと
試しに、「蛭子」で検索したら「神奈備」のこのページへ飛びました。(~_~)
それからちょくちょくお伺いするように(~_~)
図書館でも得られない貴重なデータを公開して頂き感謝しております。

しかし、「徐福」にしろこの神話のルーツにしろ進展がありません。(~_~)
何かでないかな〜。。。

[2508] 蛭子神社の「鍵引き」  nick [Url] 2002/02/05(Tue) 13:57 [Reply]
例年、今ごろ行われます。
今年は、いつやるのか今確認しています。
主役は子供ですが、少子化で、最近、集まらない。。
皆、塾や習いことで多忙とか。。。
可哀想なものです。。。。

当地のお宮には、昭和天皇もお見えになったようです。

大阪のえびすさんとは大違い。。ですが。。

金筋竹 というものが自生していますが、最近、こちらも数が少ない。

[2507] エビス神  Setoh 2002/02/05(Tue) 09:56 [Reply]
玄松子さん>傀儡師が諸国を布教して歩いたこと
 ありがとうございます。その傀儡師って海人部の民だったとか。

日出倭さん>籠神社では彦火火出見尊を摂社蛭子神社の祭神
 面白いお話です。エビス神とは海人部でつながりますね。

 エビス神にはその名前からも異邦神の雰囲気が漂いますが,異郷から来臨して幸をもたらす客神と言うことでしょう。
 諾冉二神の子の蛭子神、事代主、彦火火出見(山幸彦),土左右衛門、海から拾った奇形石などがエビス神に当てられますが,面白いことに名前とは反対に山幸彦(=彦火火出見尊)は海で妃と幸運をつかんで来ますから、エビス神とされたのでしょうか。事代主は何故でしょうね。出雲では客神だったのかも。
 所で,若狭彦神社の近くにも和邇街道が残っているとか。大和・近江の豪族の和邇氏は妃を輩出する役割があったようで,これは降臨後の天孫の妃が海人族の娘である物語に反映しているのかも知れません。近江から若狭はすぐです。
 和邇と海部、どうつながっているのでしょうか。
 聖徳太子のお婆さんの小姉君(欽明天皇の妃)が海部氏の出と言うのもまんざらではないですね。

[2506] 韓国宇豆峯神社のお祭  nick [Url] 2002/02/05(Tue) 09:32 [Reply]
鹿児島県国分、隼人のお祭は次の通りです。

今月、来月の「お田植え祭」や「初午祭」スケジュール

2/24:祓戸神社
3/1:天御中主神社
3/2:止上神社
3/3:鹿児島神宮「初午祭」
3/10:韓国宇豆峯神社

国分市役所文化振興課より御連絡頂きました。
ありがとうございました。

電話:0995-64-0926

なお、国分市役所は0995-45-5111

腰痛のコルセットを外して、ぽかぽか陽気に誘われ、出かけました。
何と、韓国宇豆峯神社のお宮には蜂が巣を。。。
何度とってもすぐ作るそうで、、、

この近くの昔の城跡にも登ってみました。久々にいい汗を。

[2505] Re[2502]: 無題  日出倭 [Mail] [Url] 2002/02/05(Tue) 03:07 [Reply]
若狭で恵比寿となると、一点気をつけなければならない問題があると思います。
若狭一宮の若狭彦神社の祭神は、名前の通り若狭彦ですが、この神様の別名は
彦火火出見尊です。
お隣丹後一宮の籠神社では、彦火火出見尊を摂社蛭子神社の祭神として祀って
おり、養老年間までは彦火明命ではなく彦火火出見尊を主祭神として祀ってい
たというのです。

初めて若狭彦神社へ赴いたときに大変驚きましたが、ひょっとしたら彦火火出
見尊が恵比寿に転じたのかも知れません。

[2504] Re[2502]: 無題  玄松子 2002/02/04(Mon) 22:27 [Reply]
> 最初は、陶津耳大神であったものが、恵比寿神とつながったのは、若狭の漁労との関係がないでしょうか。

Setohさんが指摘したように、「西のカミさん」と呼ばれていますよね。恵比寿信仰の拡大は、兵庫県の西宮えびす神社の戎舁(えびすかき)と呼ばれる傀儡師が諸国を布教して歩いたことが、その要因だとされていますから、その「西宮」の名が残ったのかもしれません。
あるいは、単純に「末野の西はずれ」ということかもしれませんが。

[2503] 鎮守の森と鳥居  Setoh 2002/02/04(Mon) 21:20 [Reply]
 大阪の千里に国立民族博物館があり、この中に東南アジアの稲倉が置かれています。これは伊勢の内宮階段の左側にある社(御稲御倉)とほとんど同じ形でした。神社建築は本格的な稲作の民が持ち込んだようです。
 社叢学会発足の契機となった上田正昭氏などの共著の『鎮守の森は蘇る』と言う本が出ています。一読をおすすめします。
 また、社叢を守ることについては南方熊楠の『神社合祀に関する意見』が玄松子さんのHPに掲載されています。http://www.genbu.net/tisiki/jinjya.htm
 『鎮守の森は蘇る』の中で,天津神(天孫系)が先に社殿を作り、それまで磐座磐境祭祀であった国津神も社殿を作り始めたのではとの指摘をしていました。
 天津神の住まいのような社殿を建てたとする出雲の杵築神社は天津神系と国津神系の文化の習合と考えられると指摘しています。

 ついでに鳥居ですが,春日大社へ参詣する人々の多くは道に迷ったとの962年の記録があるそうで,この頃までは神社に鳥居がなかったのでは、と推測しています。鳥居は意外と新しいもの、とすれば,南方のよく似たものとか半島のソッテとは違う起源かも知れませんね。


[2502] 無題  村田 2002/02/04(Mon) 10:35 [Reply]
玄松子さん、Setohさん有難うございます。

>須部神社の名や、末野の地名が示すように、陶(スエ)に関わりのある祭神であったはずで、合祀されている陶津耳大神が本来神ではないでしょうか。

末野には、相当古い窯跡が幾つも見つかっています。末野集落の田んぼを耕しますと、今でも陶器のかけらが出てきます。また、窯跡の発見に因んで「須恵野焼創作館」を作り、陶芸家の方が在住し、須恵野焼を行い、陶芸教室を開いています。
ですから、陶(スエ)と直結しています。

「陶津耳大神が本来神」はご推察の通りだと思います。今度、宮司さんに話を聞いて見ます。

最初は、陶津耳大神であったものが、恵比寿神とつながったのは、若狭の漁労との関係がないでしょうか。

上中町の奈良時代は、膳の臣とのつながりが言われており、若狭の魚や野菜を都に送っていますので、その段階で恵比寿神が加わったのではないでしょうか。
恵比寿さんと鯛ですが、若狭では鯖やカレイになるのでしょうね。

尚、私の出身集落は明治の廃仏会釈の時に、神道に替えてしまいましたので、祖霊のお祭りは神道です。(遠江の国、磐田郡旧田原村です。)

これからも宜しく。

[2501] Re[2498][2497]: 若狭の恵比寿神社について  Setoh 2002/02/03(Sun) 16:28 [Reply]
 玄松子さん、恵比須大神社の件,ありがとうございます。
 ここは「西のカミさん・えべっさん」と呼ばれているようです。東はどこなんでしょうね。

 所で,崇神記で,三輪の祭祀のために探し出された大田田根子の「僕は大物主の大神、陶津耳の命が女、活玉依比売の子」と名乗る所の陶津耳命のことです。
 この陶津耳命を祭神とする神社は珍しいですね。式内社では須部神社と土佐国香美郡の大川上美良布神社が出てきます。
 昨年末に大阪堺市の陶荒田神社へ参詣しましたが,ここも活玉依比売まででした。陶津耳命は若狭に本拠があって,泉州に招聘されたのかも知れません。
 偶然かも知れませんが、陶荒田神社にも立派な戎殿もあり、陶器戎(とうきえびす)さんとも呼ばれているようで、陶津耳命とエビスカミとがくっついています。何故でしょうね??

 所で、この陶荒田神社の摂社に玉の緒神社「天御中主命」が鎮座しています。
 鎮座の由緒や合祀の記録にこの神社名は見えないのですが、節分の前日に石上神宮で玉の緒の祭礼が行われ,K氏,M女史ともども参列の機会を得たのですが、これは11月22日の鎮魂祭と陰陽の関係にある霊振りの祭礼だとの解説が宮司さんからありました。なかなかに神秘的な雰囲気で,また納会も楽しいものでした。

[2500] 捜聖記について@  ピンクのトカゲ [Url] 2002/02/02(Sat) 20:03 [Reply]
昨年末一二月二八日に席亭・瀬藤さんが「捜聖記」という小説を紹介していた。丹後王国の章があるということで読んでみました。席亭の紹介のように、四天王寺が所蔵するという聖徳太子真筆なる「未来記」をめぐる小説である。「未来記」は、「太平記」で楠正成が、閲覧したとされるが、その真偽は量り兼ねる。小説は、フィクションであるが、広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像は、百済仏ではなく、新羅仏であるなど検討に値する著述もある。「捜聖記」は、蘇我の血を色濃く引くとされる聖徳太子は、実は、丹後籠神社に縁があるとしている。丹後籠神社となれば、丹波道主家とも関わり、穂国の祖・朝廷別王とも当然関わりがあることになる。「捜聖記」は、聖徳太子が丹後(丹波)と関わりがあるとする理由について、聖徳太子の母方の祖母にあたる小姉君の名に注目する。書紀によれば小姉君は、蘇我稲目の娘とされ、欽明の妃の一人である。また、太子の父・用明の母・堅塩媛は、小姉君の同母姉にあたり、蘇我稲目の娘である。つまり、書紀によれば、太子は、母方父方ともに蘇我氏と繋がることになる。因みに古事記は、小姉君を堅塩媛のオバとする。「捜聖記」は、堅塩媛が「媛」なのに対し、小姉君が「君」であることから、小姉君は、稲目の養女ではないかとしている。そして、丹後の間人(タイザ)町に小姉君の娘、つまり、太子の母の間人穴穂部皇女(ハシヒトノアナホベノミコ)が逃れて住んでいたとの伝承から、間人穴穂部皇女の母・小姉君が丹後に関わりがあり、その縁で太子の母は、丹後に逃れたのではないかとしている。間人穴穂部皇女が、丹後に逃れたか否かについては、いずれ検討するとして、太子の母の系譜を検討してみる。
書紀が、小姉君の姉とする堅塩媛は、一三人の子を産み、その中に太子の父の用明と、推古がいる。一方、小姉君は、五人の子を産み、太子の母・間人穴穂部皇女のほか、崇峻(泊瀬部皇子)や蘇我馬子と物部守屋の抗争の折、守屋が担いだ間人穴穂部皇子(別名・天香子皇子)がいる。穴穂部、泊瀬部の兄弟で思い浮かぶのが安康(穴穂部天皇)と雄略(大泊瀬稚武天皇)です。書紀允恭条で允恭と忍坂大中姫の子として記載されている。

中公新書刊・森博達著「日本書紀の謎を解く」という本がある。同書によれば、書紀持統五(六九一)年九月四日と翌六年一二月一四日に唐人・続守言と薩弘烙が賞揚されたとする記載は、持統五年八月条の大三輪氏をはじめ一八氏の墓記を上進させたとの記載を受けたものであり、両名に書紀の撰述を促したものとする。
そして、両名は、これを受けて、続守言が、巻一四の雄略紀から、薩弘烙が、巻二四の皇極紀からの述作を担当したが、続守言は、巻二一の崇峻紀の終了間際で倒れた。薩は、巻二七の天智紀まで完成させ、文武四(七〇〇)年に死去したとする。
そして、同書は、慶雲四(七〇七)年四月一五日に山田史御方に学士としての功績に賞揚が出されていますが、これは、神代から安康までの撰述の必要が生じたことから、その述作を促すためのものとしています。
そして、和銅七(七一四)年二月一九日に紀朝臣清人と三宅藤麻呂に国史撰述の詔勅が下り、大宝二(七〇二)年の持統の死去にともない巻三〇の持統紀の撰述が計画され、その述作を清人が、全体の潤色及び加筆並びに続守言が執筆できなかった巻二一の巻末を藤麻呂が担当したのではないかとしている。
森氏は、漢文の誤用から以上の結論を出している。そして、神代から安康を担当した御方は、唐への留学経験がなく、倭音と和化漢文で述作されているとしている。

以上から書紀の巻一〜一三(神代から安康)の編纂は、慶雲四(七〇七)年にはじめられるわけで、既に持統は、死去しているわけです。つまり、書紀の巻一三(允恭、安康条)は、不比等一人の意思が投影されているわけです。
巻一四の雄略条では、允恭天皇の第五子と書かれているだけです。安康については、眉輪王に殺されたことが書かれているだけで安康の出自は、示されておらず、暗殺の真相についても、眉輪王の父の敵だからという理由しか書かれていません。
崇峻(泊瀬皇子)についても小姉君と欽明の第五子と記載されており、書紀崇峻条では、崇峻が、漢直駒に暗殺されている。
書紀の巻一四〜二三を担当した唐人・続守言は、巻二一(用明・崇峻)の終了間際に倒れたとされる。巻二一の残り部分については、三宅清麻呂が担当し、その作業は、和銅七(七一四)年にはじめられたとする。つまり、巻一三より後に編纂がされたのである。
そして、巻一三及び巻二一の崇峻暗殺については、不比等の意思が強く投影されている。

上宮記は、太子の異母兄弟の多米皇子が、父・用明の死後、太子の母・間人穴穂部皇后を娶り、佐富姫(サホヒメ))を産んだと記載する。古事記によれば、間人穴穂部の姉の子が、多米皇子とする。
太子の母・間人穴穂部皇后は、太子の父・用明の死後、継子で甥の多米皇子と結婚したわけである。
間人の名は、天智の同父母妹にも見える。考徳の皇后・間人皇女である。天智が母・斎明が死去した後、七年も即位しなかったのも、間人皇女と天智が関係していたからという説がある。間人皇女が死去したのが、天智四(六六五)年、二年後に間人皇女は、母・斎明と合葬された。天智即位は、その翌年である。
間人は、どうも近親相関者あるいは密通者の女性につけられた名前のように思える。
また、太子の母も太子と太子の妃の一人・膳部夫人とともに合葬されている。

考徳は、乙巳の変で天智と鎌足が蘇我入鹿を滅ぼした後、天智の母・皇極(斎明)が、退位し、皇位につくわけです。
考徳は、皇極の同母弟で間人皇女の叔父にあたるわけです。
乙巳の変の後、都は、飛鳥から難波に遷都されるわけですが、その八年後の白雉四年、皇太子・中大兄(天智)は、都を大和に戻すべきだと主張します。
考徳は、それに反対するわけですが、結局、難波に置き去りにされて翌年、亡くなります。
間人皇女は、兄・天智に従い大和に帰るわけです。
乙巳の変で蘇我入鹿を滅ぼした後も天智は、皇位につかず、皇太子でいるわけです。
そして、自分の妹を叔父の考徳の皇后にするわけです。
いわば、間人皇女は、政略結婚の犠牲になったわけです。
太子の母・間人穴穂部皇女が政略結婚の犠牲か否かは、断定できませんが、
上宮記によれば、夫の用明の死後、継子で古事記の記載によれば、甥にあたる多米皇子と結婚しているわけですからその可能性がなかったといえません。
間には、真中の意味があります。それをハシ=端と読ませている。
考徳の諱は、軽皇子です。同母妹・軽大朗皇女(衣通姫)と密通したとされる木梨軽皇子も軽皇子なわけです。
もう一人、軽皇子というと後の文武がいる。不比等は、文武に自分の娘を嫁がせ。外戚としての地位を築くのである。
同じ軽皇子と呼ばれた考徳と文武は、政略結婚の道具とされた男としての共通点がある。

近親相関者と言うことになれば、木梨軽皇子と衣通姫が思い浮かぶ。
木梨軽皇子は、書紀允恭条で、安康(穴穂部)、雄略(大泊瀬稚武)の同父母兄弟とされ、書紀允恭二三年条に木梨軽皇子を皇太子に立てたが、木梨軽皇子は、翌年、同父母妹の軽大朗皇女(衣通姫)と通じ、衣通姫が、伊予に流されたと見える。
また、安康即位条で、允恭が允恭四二年に亡くなり、その葬儀が終了した折、皇太子(木梨軽皇子)が、婦女に暴行を働いた。それで、群臣は、安康についた。木梨軽皇子は、安康を滅ぼそうと兵を挙げたが、形勢不利と見て、物部大前宿祢の屋敷に逃げた。安康は、物部大前宿祢の屋敷を囲み、木梨軽皇子は、自害したと記載される。
この記載で思い出されるのが、敏達の殯宮に間人穴穂部皇子が入り、敏達の皇后・炊屋姫(推古)を犯そうとしたの書紀用明条の記載である。
これが、物部守屋と蘇我馬子の構想のきっかけとなり、物部守屋が穴穂部を担ぐことになる。
太子の父・用明は、五八六年一月に即位するが、翌年、四月死去している。
馬子は、その年の六月、穴穂部皇子の屋敷を囲み穴穂部は、殺され、七月には、守屋を滅ぼしている。翌年即位するのが、穴穂部の同母弟の崇峻である。
一方、安康(穴穂部)は、木梨軽皇子を滅ぼし、皇位につくも、眉輪王に暗殺され、雄略(大泊瀬稚武)が、皇位につく。
また、間人穴穂部皇子と崇峻(泊瀬皇子)の長兄・茨城皇子は、異母姉妹の磐隈皇女(推古の同母姉)を犯したと書紀欽明二年条で記載される。
この木梨軽皇子、安康(穴穂部)及び雄略(大泊瀬稚武)と茨城皇子と間人穴穂部皇子及び崇峻(泊瀬皇子)の関係に類似点を見ることができる。
古事記の欽明、用明条には、これらの記載が出ていない。つまり、書紀欽明及び用明の記載は、和銅七(七一四)年以降に三宅藤麻呂の手により加筆されたものと考えられる。

「捜聖記」では、太子の母・間人穴穂部皇女と丹後(丹波)の関係として
丹後の間人(タイザ)町の間人穴穂部皇女が蘇我馬子から逃れ間人町に住んだという伝承を挙げ、間人(タイザ)は、退坐の意味ではないかとしている。そして、間人穴穂部皇女の母・小姉君は、蘇我稲目の養女であり、後の丹後一宮・籠神社に出自を持つのではないかとしている。
これはあくまでも推測であり、決定的な証拠に欠けるから小説(フィクション)として書いたのである。
間人穴穂部皇女の同父母兄弟に間人穴穂部皇子、泊瀬皇子(崇峻)があり、この諱は、安康(穴穂部)、雄略(大泊瀬稚武)の同父母兄弟にも共通している。
記紀によれば、安康(穴穂部)、雄略(大泊瀬稚武)は、允恭を父、意富本杼王の妹・忍坂大中津姫を母とする。
上宮記逸文によれば、意富本杼王及び忍坂大中津姫は、本牟津別王の孫とされる。
本牟津別王、穂別の祖・朝廷別王の別名であり、丹波道主家の正当な後継者である。
ここで、丹波と穴穂部の繋がりが出てくるのである。
記紀は、忍坂大中津姫は、允恭との間に木梨軽皇子、長田大朗女、境黒彦、安康、軽大朗女(衣通姫)、八瓜白彦、雄略、橘大朗女、酒見朗女を産んだと記載する。
古事記は、允恭の死後、木梨軽皇子と妹の軽大朗女(衣通姫)の密通を群臣が知り、安康(穴穂部)についた。木梨軽皇子は、物部大前宿祢の屋敷に逃げたが、屋敷を囲まれ殺されたとする。
一方、書紀允恭二三年条は、長子の木梨軽皇子を皇太子にした。木梨軽皇子と軽大朗女の密通が発覚したが、木梨軽皇子は、皇太子であるため、処罰できず、軽大朗女を伊予に流した。允恭の葬儀が終了した後、婦女に暴行を働いたため、安康(穴穂部)についた。木梨軽皇子は、物部大前宿祢の屋敷に逃げたが、屋敷を囲まれ殺されたとする。一書では、木梨軽皇子は、伊予に流されたとする。
古事記は、木梨軽皇子が、同父母妹の軽大朗女(衣通姫)と密通したことから、群臣が安康(穴穂部)についたとしている。
しかし、古事記安康条は、弟・雄略の妻に大日下王の妹・若日下王を迎えようと使者を遣わしたが、使いの虚偽の供述を信じ大日下王を殺し、大日下王の妻の長田大朗女を皇后としたと記載する。書紀安康元年条では、若日下王を幡梭皇女とする。また、幡梭皇女は、書紀履中元年七月条で履中の妃とされる。
安康は、大日下王の妻であり、しかも同父母姉の長田大朗女と関係しているのである。
また、安康が雄略の妻に与えようとした幡梭皇女は、履中の妃であり、履中は、記紀で、允恭の兄とされる。
さらに、書紀は、安康は、生前、皇位を履中の子・市辺押磐王に継承しようとしていたとし、雄略は、市辺押磐王を騙まし討ちにして皇位についている。
なお、書紀允恭七年一二月条は、忍坂大中津姫の妹を衣通朗女とし、允恭は、衣通朗女を妃にしたと記載する。

[2499] 捜聖記についてA  ピンクのトカゲ [Url] 2002/02/02(Sat) 20:01 [Reply]
古事記は、木梨軽皇子が、同父母妹の軽大朗女(衣通姫)と密通したことから、群臣が安康(穴穂部)についたとしている。しかし、その安康は、同父母姉の長田大朗女を后にしている。それに対して、群臣は、異を唱えていない。
安康と長田大朗女は、同父母姉弟ではないのではないかとの疑問が生ずる。
記紀によれば、木梨軽皇子、長田大朗女、境黒彦、安康、軽大朗女(衣通姫)、八瓜白彦、雄略、橘大朗女、酒見朗女は、父を允恭、母を忍坂大中津姫とする同父母兄弟姉妹とされる。
ここで、安康が、眉輪王に殺されたことを雄略が、境黒彦及び八瓜白彦に告げたときのことを思い出して頂こう。古事記は、二人は、驚きもせずにいた。雄略は、兄弟(安康)が殺されても何とも思わないのかと言って殺している。一方、書紀では、雄略は、兄達(黒彦と白彦)を疑い問質したところ、黒彦達は、雄略に殺されると思って黙っていたため、雄略は、殺したとする。
古事記の記載から黒彦及び白彦と安康が、同父母兄弟とは、考え難い。さらに、書紀の記載を加味すれば、眉輪王が、安康を殺害することを黙認していたともとれる。
眉輪王は、長田大朗女の子である。書紀の記載から長田大朗女と黒彦、白彦は、関係が深かったと思われる。
つまり、長田大朗女と黒彦、白彦が同父母姉兄弟であった可能性は高いが、長田大朗女、黒彦、白彦が安康と同父母姉兄弟であった可能性は、低い。
記紀によれば、安康、雄略、それに、長田大朗女、黒彦及び白彦の父は、允恭とされ、母は、忍坂大中津姫である。そして、忍坂大中津姫は、上宮記で本牟津別の孫とされる。
一方、允恭は、仁徳と葛城襲津彦の娘・磐之姫の子とされる。
允恭の同父母兄弟には、履中、反正がいる。異母弟には、大日下王がいる。長田大朗女は、父・允恭の異母弟・大日下王の妻になっている。
履中は、羽田矢代宿祢の娘・黒姫を后とし、市辺押磐王を産んでいる。この市辺押磐王は、雄略が、騙まし討ちにしている。書紀は、雄略が、市辺押磐王を殺害した理由を生前、安康が、市辺押磐に皇位を継承すると言っていたからだとする。
記紀は、大日下王の妹・若日下王(書紀は、大日下王の妹・幡梭皇女とする。)を雄略の妻に迎えようと記載するが、書紀履中元年七月条に履中が、幡梭皇女を妃にしたと記載する。
安康は、履中の未亡人・幡梭皇女を弟・雄略の妻に迎え、その履中の遺児で従兄弟の市辺押磐王を皇位継承者に望んでいたことになる。
反正の后は、津野朗女であり、津野朗女は、古事記では、丸迩許碁登臣の娘とし、書紀では、木事(許碁登)臣を大宅臣の祖とする。
安康の父とされる允恭は、本牟津別王の孫・忍坂大中津姫を后にしている。
允恭の同父母兄の履中は、大日下王の妹・幡梭皇女を妃にしている。
日下その名から日下部連祖・狭穂彦が思い浮かぶ。
そして、もう一人の同父母兄・反正の后・津野朗女は、大宅臣の祖・木事臣である。大宅で浮かぶのは、「彦狭島の東漸と砥鹿神社」の庵原の大宅氏が浮かぶ。
反正は、津野朗女を后とし、津野朗女の妹・乙姫を妃とし、四人の娘をもうけたとする。
書紀は、雄略は、反正の娘を娶ろうとしたが、断られたため、安康が、若日下王(幡梭皇女)を娶るよう幡梭皇女の兄・大日下王に使者を遣わせたとする。
そして、安康は、大日下王の妻・長田大朗女を后としている。
履中から雄略までの五代の天皇は、本牟津別、日下部等、丹波(丹後)と繋がりがありそうな娘を皇妃にしているのである。

雄略に騙まし討ちにされた市辺押磐王には、意祁王(仁賢)、袁祁王(顕宗)の二人の皇子がいた。
古事記によれば、市辺押磐の二人の皇子は、山城の狩羽井(現京都府相楽郡)まで逃げたところを、目に刺青をした山城猪甘(ヤマシロノイカイ)に助けられ、播磨国に逃げる。
古事記神武条で伊須気余理比売(イスケヨリヒメ)が大久米命を見て「黥ける利目」と言ったと記載する。この「黥ける利目」は、目の刺青を指す。
魏書東夷伝え倭人の習と伝える・黥面は、この「黥ける利目」を指すのであろう。
また、書紀履中条は、即位前に同父母兄の住江中王に襲われるが、この住江中王に荷担した
淡路の野島の海人・安曇連浜子は、恩赦により目に刺青を入れられて、死罪を免れたと記載する。倭人は、海人の習俗をもっている。安曇連浜子は、死罪を減じられて刺青を入れられたのではなく、元々目に刺青を入れていたのではないかと考えられる。
さらに、履中五年九月条に河内の飼部(ウマカイ)を伴って淡路に狩りに出かけたとあり、飼部らの目に刺青がされていると記載している。
海人だけでなく、猪甘=猪飼や飼部=馬飼も目に刺青を入れていたことになる。
意祁王、袁祁王は、後に仁賢、顕宗として即位するが、古事記顕宗条は、二皇子を発見したのは、山辺連小盾とするが、書紀では、二皇子を発見した山辺連小盾を播磨国司山辺連の先祖・伊予久米部小盾とする。
二皇子を助けた猪甘は、目に刺青を入れていた。そして、二皇子を発見したのは、山辺連小盾であり、書紀は、山辺連小盾を播磨国司山辺連の先祖・伊予久米部小盾とする。そして、古事記神武条によれば大久米命も目に刺青を入れているのである。
二皇子を助けた猪甘いと、二皇子を発見した伊予久米部小盾は、関係があるのではないかと思われる。
一方、書紀顕宗条は、二皇子を連れて逃げたのは、日下部連使主であり、逃れた先は、丹波与謝郡であり、その後、播磨国明石郡に行ったとする。そして、袁祁王、意祁王は、丹波小童と呼ばれたという。
古事記は、狭穂彦を日下部連の祖とする。
二皇子の父・履中の母は、葛城襲津彦の娘・磐之姫である。また、二皇子の母は、葦田宿祢(羽田矢代宿祢)の娘・黒姫である。二皇子及び市辺押磐王と日下部連との関係はうかがえれない。
しかし、二皇子は、日下部連使主に助けられ、丹波与謝に逃げ、その後、播磨明石郡で匿われ、丹波小童と呼ばれている。
書紀履中元年七月条は、履中が、大日下王の妹・幡梭皇女を妃にしたと記載する。
二皇子の母は、実は、大日下王の妹・幡梭皇女でないのか。だとすれば、日下部連使主が、皇子を助けたことも納得がいく。大日下王と日下部連使主は、関係があると思われるからである。
しかし、履中の異母弟・大日下王の母は、日向諸県君牛諸井の娘・髪長姫とされ、父は仁徳である。
大日下王と丹波及び日下部との繋がりはなさそうである。

「継体天皇とうすずみ桜」という本がある。著者は、小椋一葉、サブタイトルに「古代秘史『真清探當證』の謎」とある。
タイトルの通り継体天皇についての本である。サブタイトルの『真清探當證』は、小椋氏の説明によれば、昭和初年に愛知県一宮市の土川健次郎氏が発見したものであり、物語の舞台は、尾張一宮・真清田神社(マスミダジンジャ)、父を殺害された袁祁王、意祁王の二皇子は、幼年期から青年期にかけ尾張で過ごし、継体は、袁祁王(顕宗)の子とする。
また、発見者の土川健次郎氏は、日下部連遠裔を名乗っている。因みに尾張一宮・真清田神社の祭神は、天火明命である。
記紀は、継体を誉田別王(応神)の五世孫と記載する。
小椋氏の著書「継体天皇とうすずみ桜」は、本の顔とも言うべき見開きページに日本書紀の系図を載せるが、継体を応神の六世孫とするなど杜撰なものであり、『真清探當證』の原文を載せてないなど、かなり信頼性に欠けるものであるが、手詰まり状態から敢えてこれを引用する。
記紀は、継体を彦主人王(ヒコウシノミコト)と振姫の子とする。一方、『真清探當證』では、振姫を彦主人王の娘とし、袁祁王(顕宗)が、振姫を娶り、産まれた子が、継体だとする。
彦主人王は、記紀では、誉田別王の四世孫とされているから、彦主人王の娘の子ということになれば、継体は、誉田別王の六世孫となる。
聖徳太子の時代に書かれた上宮記逸文では、誉田別王とせず、本牟津別王とする。
継体が本牟津別の五世孫であり、袁祁王(顕宗)の母を幡梭皇女と仮定すれば、袁祁王(顕宗)は、四世孫、市辺押磐王は、三世孫、幡梭皇女は、孫となる。
また、書紀顕宗条は、二皇子を手引きし、丹波与謝に逃がすのも日下部連使主とする。
袁祁王、意祁王の二皇子が、本牟津別の四世孫であれば、これも納得がいく。

幡梭皇女が本牟津別の孫とすれば、履中及び允恭は、どちらも本牟津別の孫を娶ったことになる。
また、履中及び允恭の同父母兄弟の反正は、彦狭島ゆかりの大宅臣の祖・木事臣の娘・津野朗女を娶っている。
彦狭島は、伊予、庵原及び下野に鎮座する砥鹿神社と関りがあり、三河一宮・砥鹿神社の神官は、本牟津別王=穂別の祖・朝廷別王の裔・草鹿砥氏である。
つまり、反正も本牟津別―日下部氏に関係する娘を娶ったことになり、同父母兄弟とされる履中、反正及び允恭は、日下部氏縁の娘を娶っていることになる。
また、書紀履中条によれば、履中は、自身の大嘗祭で酒に酔って、同父母弟の住江中王に殺されそうになる。そのとき履中は、同父母弟の反正をも疑っている。
これらのことと後世まで妻問婚を考慮すれば、履中、反正及び允恭が、同父母兄弟というより、履中、反正及び允恭の娶った日下部氏縁の娘が同父母姉妹でないかとの疑問も生じる。
幡梭皇女、津野朗女及び忍坂大中津姫が同父母姉妹とすれば、津野朗女の父・木事臣は、上宮記逸文で本牟津別の子とされる若野毛二俣王ということになる。となれば、大宅臣の祖・木事臣も本牟津別王縁ということになり、伊予、庵原及び下野に鎮座する砥鹿神社と関係する彦狭島=伊予皇子自身も本牟津別縁となる。
また、大日下王の子・眉輪王も本牟津別王の四世孫ということになる。
眉輪王とともに雄略に殺された黒彦及び白彦は、忍坂大中津姫の子であり、黒彦及び白彦も本牟津別王の四世孫ということになる。
雄略及び安康の父・允恭は、病弱を理由に皇位継承を拒否するも后の忍坂大中津姫に推戴されて皇位を継承している。忍坂大中津姫―日下部氏により皇位を継承したということである。
そして、安康は、市辺押磐王に皇位を継承させることを望んだという。当然、忍坂大中津姫―日下部氏の意志が働いていたであろう。
とすれば、やはり市辺押磐王の母は、幡梭皇女と考えられるのである。
安康暗殺は、雄略の妻に幡梭皇女を迎えようとしたことに端を発している。
書紀安康条は、雄略の妻に幡梭皇女を迎えようとしたのは、反正の娘達を雄略の妻に迎えようとしたが、断られたからだとしている。
記紀は、雄略と后・幡梭皇女の間の子を記載しない。雄略の跡を継いだのは、円大臣の娘・韓姫との子・清寧である。
円大臣は、眉輪王が、雄略に問質され、逃げた先であり、円大臣は、雄略に屋敷を囲まれたときに娘・韓姫を差し出し、その後、眉輪王らとともに死んでいる。古事記は、雄略が円大臣の屋敷を囲んだとき、この屋敷の中に私の許婚の娘がいるはずだと言っている。
古事記は、雄略は、最初、反正の娘を妻に迎えようとしたとする。そして、反正の娘の一人に円朗女(母は、津野朗女)がいるのである。
円大臣の娘・韓姫と反正の娘・円朗女と関係があるのではないか。
円大臣を書紀は、葛城円大臣としているが、眉輪王が逃げた先であること及び反正姫の娘・円朗女の関係から葛城氏との関係は、薄く、むしろ、日下部氏と関係があるのではないかと思われる。なお、書紀履中二年一〇月条は、円臣が、平群木菟宿祢らとともに国事を執ったと記載する。

聖徳太子の時代に書かれた上宮記は、応神の五世孫とせず、丹波縁の本牟津別王の五紀の孫とする。継体といえば、聖徳太子の曽祖父にあたる。その曽祖父にあたる人物を本牟津別王の裔としている。また、以上見てきたように記紀の履中―雄略の記載は、欽明―崇峻頃の事跡が投影されている(その逆もありうる)のではないか。

[2498] Re[2497]: 若狭の恵比寿神社について  玄松子 2002/02/02(Sat) 17:19 [Reply]
> 福井県遠敷郡上中町末野(すえの)に恵比寿神社があります。通称『若狭ゑびす』として知られ、近江や若狭の商売人の寄進を広く受けています。
> しかも、奈良時代の創建とのことです。

式内・須部神社のことですね。『神社名鑑』にも載っています。

> 奈良時代の創建ということですが、『恵比寿』神は創建当時からの神様でしょうか。
> また、若狭ゑびすと通称されるようになったのは、どんな経緯からでしょうか。

伝説では、養老2年(718)桜樹の下に、宝鏡があらわれ、婦人に託宣し「われは、恵比寿三郎。社殿を建立せよ」ということで、創建されたということです。
が、これは後世の付会とされています。
須部神社の名や、末野の地名が示すように、陶(スエ)に関わりのある祭神であったはずで、合祀されている陶津耳大神が本来神ではないでしょうか。

[2497] 若狭の恵比寿神社について  村田 2002/02/02(Sat) 16:17 [Reply]
突然ですが、書き込みを致します。

このサイトは「るいネット」の「厳選○サイト」で読ませえてもらっています。全国の神社に大変お詳しい方々がおられますので、前から気になっている点を質問させて頂きます。

福井県遠敷郡上中町末野(すえの)に恵比寿神社があります。通称『若狭ゑびす』として知られ、近江や若狭の商売人の寄進を広く受けています。
しかも、奈良時代の創建とのことです。

今宮戎や西宮神社が恵比寿さんとして大きな神社であるのは、中世から近世にかけての商売先進地ということで分かりやすいのですが、若狭の小集落の一角に相当大きな恵比寿神社があるのが、何とも不思議です。

若狭から京への街道としては、『鯖街道』があり、上中町には『熊川宿』が有名ですが、末野集落はそれとも離れています。

神社名鑑には福井県(若狭、越の国)がありませんが、お願いは以下の2点です。

奈良時代の創建ということですが、『恵比寿』神は創建当時からの神様でしょうか。
また、若狭ゑびすと通称されるようになったのは、どんな経緯からでしょうか。

恵比寿神社の宮司さんからお話を伺ったらいいのですが。宜しく。

[2496] 丹生都姫と大伴氏  なにがし [Url] 2002/02/02(Sat) 13:24 [Reply]
setoh様
>この新編武蔵風土記とは江戸時代の編纂のものですか。
すみません。これは太田亮著「姓氏家系大辞典(第2巻)」(角川書店)の丹治氏のところからの引用です。そこに「新編武蔵風土記稿・・・」とありました。

>天野と高野、なにか高天原を分けたような命名ですね。
全く気付きませんでした。そういえばそうですね。何かあるのかも知れませんね。

>天野に丹生都比売神を持ち込んだ氏族を大伴氏と見ることは十分考えられますね。
私もsetoh様の考えに興味を持っております。私も調べないと行けないのですが、以下に書きます事がすべて筋の通るような考えに行きつかないかなあと思っています。
@丹生氏の玉津島と丹生都姫神社との間での浜下り神事。
Aあと丹生氏の神事で、丹生都姫の紀氏草の宮へのとぎょ。
B紀氏が国造新任で都に行った帰り、丹生酒殿神社に参るという風習。
C伊都郡かつらぎ町三谷の竃門氏の竃門の姓の始まりは、三谷の竃門神社(奥津彦奥津姫)の神主であった大伴常家からで、常家は丹生総神主家の養子となっています(1280年ごろ)。
D三谷郷榊山酒殿大明神由緒(1756年)には丹生都姫のところで「(丹生都姫は)神武天皇の御宇大和国丹生の川上に化現したまいて、紀伊国伊都郡三谷郷榊山に降臨したまう、この所に行宮を造り奉崇敬、崇神天皇の御宇天野に鎮座・・・天野総神主先祖道臣命神勅を奉り、丹生の川上にて祭祀をいたし、三谷へも相倶に降臨し・・・」とあります。
1756年の作なので全部信用できないかと思っており、また丹生総神主家に大伴常家が養子に入った以降の作なので、大伴氏的表現に変わっている可能性あります。しかし、大伴氏と丹生都姫とには何か関係があったことは間違いないのではと思っております。
また、「(奥津彦奥津姫は)丹生大明神酒殿社に降臨したまう時の守護の御神なり」ともあります。
E丹生氏は神主に昇進するとき竃門神社の前にてその儀式を行います。
F粉河寺に大伴氏が丹生明神を勧請。
G邦光史郎著「朱の伝説」(集英社)には「1255年、大伴能直が豊後に下向した。乗船が台風で難破、丹生大明神の導きによって難を免れることにより・・・」とあります。

以上@ABは丹生都姫神社誌、CDEはかつらぎ町史より。
丹生都姫と大伴氏には関係ありそうです。ただ紀氏との関係の方が強く残っているように感じます。でも、大伴氏と紀氏は同じ(同族)とみれば、つながりそうな気も・・・(−−;)。そう言えば、空海が高野山を開くときに、紀氏に協力の依頼の手紙を出しているとか。それには「佐伯は大伴と親戚なので、紀氏とも親戚となります。親戚のよしみで協力してほしい」というような手紙が残っているとか。何の本だったかなあ?

[2495] Re[2494]: 天手力男意気続々流住吉大神  Setoh 2002/02/02(Sat) 10:19 [Reply]
山城国葛野郡の式内大社に伴氏神社が鎮座しています。
論社に京都府京都市右京区龍安寺住吉町の住吉大伴神社 祭神は住吉神、玉津嶋神、大伴氏祖神となっています。
ここに住吉神、玉津嶋神の名があるのですが,大伴氏とのつながりを示しています。
先ず住吉神ですが,『日本書紀』継体紀に大伴大連金村 住吉の宅に居りて・・と隠居の地は住吉で,住吉大神の祭祀と無関係とは思えません。茅淳の海の豪族だったのでしょう。
紀の国の玉津嶋神社は式内社ではありませんが,聖武天皇が和歌浦へ御幸の時、明光の浦と名をつけて,祀りを絶やさぬようにとされた古社で,衣通姫を祭神としています。衣通姫はおそらくは大伴氏の庇護の下で茅淳の宮におられました。大伴氏は紀の国にも居て、『日本書紀』雄略紀に大伴談連が紀岡前来目連とともに新羅で戦死の記事が見えます。大伴氏は玉津嶋神社の祭祀と関わっていると見られます。
住吉神と玉津嶋神は後世、共に和歌の神として崇敬されましたが,一方、神功皇后を祭神の一にするなど,大いに共通点があります。大伴氏祭祀も共通と言えるでしょう。

 天野の丹生都比売神社の祭礼に玉津嶋神社がいかにも元社の如く深く関わっていることなどを思えば、九世紀末から十世紀末頃に住吉大社の神主であった津守氏によって伝わる古伝承をまとめたとされる『住吉大社神代記』に,住吉大神の部類神として紀伊国名草郡丹生都姫神が出てくるのは,玉津嶋神社のことを指しているように思えます。天野に丹生都比売神を持ち込んだ氏族を大伴氏と見ることは十分考えられますね。

なにがしさん>新編武蔵風土記には「丹生明神は紀伊国名草郡高野山の麓に坐す」とある。
この新編武蔵風土記とは江戸時代の編纂のものですか。

余談ですが,天野と高野、なにか高天原を分けたような命名ですね。


[2494] 天手力男意気続々流住吉大神  なにがし [Url] 2002/02/01(Fri) 22:55 [Reply]
神奈備様
「住吉大社神代記」に主題の神の宮があるところとして紀伊国伊都郡丹生川上が上がってますよね。また、部類神として紀伊国名草郡丹生都姫神ともあります。「住吉大社神代記」の書かれた年代を調べないといけないのですが、これからすると、
@この書かれた当時、伊都郡に天手力男意気続々流住吉大神が、名草郡に丹生都姫が祭られていたように思えるのですが、と言うことは神奈備様のおっしゃるとおり、この時代以降に丹生都姫が伊都郡に入ってきたこととなります。この時代はいつごろになるのか?応神天皇のころなのか?丹生都姫と紀氏との関係もさらに気になるところです。
Aこの記より、書かれた当時には、伊都郡には丹生川が存在していたと言うことが分かります。これ何かのヒントにつながらないかと気になっています。
Bまた新編武蔵風土記には「丹生明神は紀伊国名草郡高野山の麓に坐す」とありますから、もしかしたら、今の伊都郡・名草郡と昔の伊都郡・名草郡の境が違う可能性もあるのかなあと思わされました。



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