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[2742] 安閑天皇の関連  hvhy 2002/03/31(Sun) 13:37 [Reply]
まず思いつくところで言うと、滋賀県のどこやらに
「安閑(アヅミ)神社」があること。古いかどうかは
よく知りませんが、この読み方は見落とせないでしょう。

さらには「軽」(カル)即ち「銅」との関連で、
現在まで香春岳の麓あたりに「勾金」なる地名が
残っていることも、やはり見落とせないでしょうね。
安閑の都をここに比定する人もいます。(九州王朝説)

#古代においては母系をよく見る必要がある。その意味では、
#皇后であった「春日山田皇女」(山田赤見皇女)も重要です。
#この名前に含まれる「赤見」(アカミ)は「朱」(アカミ)か。
#伝安閑天皇陵からペルシャ・グラスが出土してるのは有名ですね。
#現物は上野の東京国立博物館。正倉院のペルシャ・グラスそっくり。

[2741] Re[2740]: 安閑天皇について  Setoh 2002/03/30(Sat) 11:18 [Reply]
 あかがねさん,こんにちは。
 安閑天皇は『百済本紀』の「辛亥年、日本天皇、太子、皇子、倶に薨ず」の太子にあたるそうで,継体王朝の後継で,欽明天皇側との抗争を指摘する方もおられます。大王の後継争い,大海人皇子や南北朝を思い出します。
 
 吉野に逃げ込んで,つまるところ,敗北したと言うことでしょうか。この時代に御霊信仰があったのかどうかですが,聖地吉野での憤死となれば神として祭り上げることはあったのかも。

 また,勾大兄皇子とよばれていたそうで,この勾(マガリ)は一説には「真+カリ(銅)」と解釈され,吉野の金峰山とは結びつきやすかったとこもあったのでは。例えば金山彦神の再来とか。

 安閑天皇を祭神とする神社は全国区で170社ほどあり,地域では愛三岐,四国、大阪兵庫が若干目立つようです。また金峰神社、御(三)嶽神社、吉(芳)野神社など社名にも特徴があるようです。
 金峰山蔵王権現の本山からの勧請社が多いのでしょうね。

 神奈備からも「何かご存知の方いらっしゃらないでしょうか?」とお願いします。

[2740] 安閑天皇について  あかがね [Mail] 2002/03/29(Fri) 22:22 [Reply]
 大変ご無沙汰いたしております。
 時々覗かせていただいてはいたのですが、相変わらずのレベルの高さについて行けず、次第に覗き専門の失礼な状態へと堕してしまっておりました…。
 さて、こないだの四連休を利用して奥多摩から甲斐国へと抜けるドライブというか小旅行に行ってきたのですが、その時に立ち寄った東京都は青梅市の武蔵御嶽神社の御祭神のうちの一柱にも「廣國押武金日命」こと安閑天皇の名がありました。

 私の実家は大阪府美原町なんで広国神社や伝安閑天皇陵の近くの高屋神社に祀られているのは知っておりました。その時も天皇が祭神とされていることにちょっと違和感を感じてはいたのですが、ま、ローカルなことなのかな。程度に片付けておりました。
 が、武蔵もこんなとんでもない山奥で再会し正直驚いてしまいました。

 ネットで調べてみると結構全国に散らばっているようです。
 広国神社のような鋳物師関連、或いは吉野の金峯山のような修験関係。なんか関係がありそうななさそうな、もやもやした感じです。正直、治世のエピソードの良く伝わって来ないこの天皇がどうしてこんなに広い範囲でもてはやされるのか。

 何かご存知の方いらっしゃらないでしょうか?

[2739] 播磨国風土記から  Setoh 2002/03/29(Fri) 22:17 [Reply]
賀毛の郡 三重の里
三重というわけは,昔一人の女があった。筍を抜いて布を以て包んで食い,三重にいて起つことができなかった。
 吉野裕氏の注釈では 三重 水辺,水家と同義で川屋(厠)のこと,厠にいて足を三重に曲げた姿、厠で筍を生んだ丹塗矢伝説の一類,椅座分娩の姿としている。

 三重 勾 分娩 水 方向を指しているのかも。


賀毛の郡 雲潤の里(うるみ)
雲潤とよぶのは,丹津日子の神が「法太皮の下流の流れを雲潤の方に越えさせたいと思う」といった時に、大水の神が辞退していうには,「私は獣の血をもって田を耕作している。だから河の水は欲しくない」といった。
 
 丹津日子 丹生都比売神を連想させる名です。水神、稲作の神を思わします。

[2738] 日本最初の創建  Setoh 2002/03/28(Thu) 22:24 [Reply]
保田與重郎氏の「天降言」には、丹生都比売神社の創建はことのほか古で、正応六年(1293年)の太政官符には「日本最初の創建にあらずや」と記されているそうです。

[2737] 大辞林(国語辞典)  三省堂 2002/03/28(Thu) 18:07 [Reply]
「勾」は直角三角形の短辺、「股」は長辺、「弦」は直角に対する斜辺〕和算で直角三角形の三辺のこと。

[2736] Re[2735]: 「三重勾」について  hvhy 2002/03/28(Thu) 15:33 [Reply]
「九」を「9」の意味で使うことが一般化したため、
改めて作られたのが「勾」なんです。それだからこそ、
中国では「三平方の定理」を「勾股弦」と言う。つまり、
「勾」なる漢字には「3×3」の意味がそもそも含まれる。

>勾は,倭建命の足が「三重(ミヘ)の勾(マガリ)
>の如(ゴト)く」と三に折れる様や,〜

この話は、水銀中毒で足萎えになった話とか、
いろいろ言われます。それは当然そうとしても、
「勾」が「三重」(3×3)であることも表わす。
そこで「9」(3×3)という数に注目してみると、
天皇の代数では、第9代、第18代、第27代が該当。(←九進法で)

・第18代「蝮之水歯別」
・第27代「広国押建金日」(勾大兄皇子)

特にこの両者を比べてみれば、「蝮」は「蛇」ですから、
まさに「勾」は「蛇」ということになります。このことは、
「美和(三勾)之大物主」が「蛇」であることにも符合する。

#「蝮之水歯別」の「蝮」は、本居宣長の訓読の影響で、
#「タヂヒ」と訓じられてますが、それ以前の標準訓読は、
#実は「ミハラ」でした。これは「Bharani」(胃)に通じる。
#「Bharani」(胃)と「蝮之水歯別」の関係は以下URLを参照。
#表示の乱れを直しました。(http://www.platz.jp/~hvhy/mat.html

[2735] 曲がったことはあかん。人間の屑やんけ。  Setoh 2002/03/27(Wed) 17:27 [Reply]
> 男女交合で宿った胎児が「勾玉」(玉は魂?)なんでしょうね。

万葉集巻五ー八三八 梅の花散り乱(まが)ひたる岡びには鴬鳴くも春かたまけて
この歌のマガヒには混合するという意味があり,マガには交合の意味がくみ取れます。

 交合の成果が胎児で勾玉がそのイメージと言うことは,魔物が近づかぬようにする呪いとしての呼称として糞子のようなものとも考えることができそうです。逆に強烈な生命力のシンボルとなった。

 所で,勾は,倭建命の足が「三重(ミヘ)の勾(マガリ)の如(ゴト)く」と三に折れる様や,安閑天皇の宮が勾(マガリ)の金箸宮(カナハシノミヤ)があり,ここは現在の曲川町に比定されているのですが,蛇のくねっている姿でもあり,勾玉と蛇神との親近性を思わせます。
 それが一言主神曰くの「吾は悪事(マガゴト)も一言(ヒトコト)、善事(ヨゴト)も一言、言ひ離(ハナ)つ神」の「凶」「禍」を思わす強烈な生命力,豊饒の神へと王権の中で位置付けられたのでしょう。

 勾玉は,蛇神、九頭、豊饒、非王権(非鏡),非武門(非剣)につながっていったと言えないでしょうか。そうすると次は八剱神社や建御名方と九頭神とは本来は無関係だったのではないかが成り立ちそうですね。

[2734] 丹生暦と加茂氏について  三碧星 2002/03/25(Mon) 20:18 [Reply]
 伊勢ノ国文庫の三碧星です。今日は仕事が終わってから、閉館まで図書館にいました。
勢和村史と、多気の住宅地図を読んできました。地元の強みですね。

 まず、住宅地図からは、丹生の周辺に賀茂という家を発見することは出来ませんでした。勢和村の電話帳を調べたくても、蔵書が無かったので不可能でした。

 気を取り直して勢和村史を読んでみると、賀茂氏はどうやら神宮寺近くの小寺山に知行を与えられたそうです(手続きの誤りで即召し上げられたそうですが)。
 小寺山には、今では溜池がありますが、これは天明元年(1781)に造成されたものとか。この周辺に、陰陽道らしき神社も寺も見当たりませんでした。

 ちなみに賀茂氏の屋敷は、「さゑん」という丹生の北の郷にあったそうですが、この当主の名前は「西川 (木編に及ぶ)太夫」とあります。

 「では、賀茂氏は西川に名前を変えたのか?」と思い、西川の名前を地図で探しましたが、一軒しか見つからず、私もその家の近くを通ったことがありますが、失礼ながら何百年も続く名家とは・・・・

 面白いことに、伊能忠敬の伊勢測量の際、紀勢町錦浦で宿泊する忠敬を賀茂杉太夫(西川じゃないし)が訪ねたそうですよ。

 とりあえず、今回はここまでで。週末は、桜咲く丹生を訪ねるつもりです。

[2733] 引っ越します  hvhy 2002/03/25(Mon) 09:04 [Reply]
お言葉に甘え、蝿声なす掲示板のほうに移動させて頂きます。
ご高配どうも有り難うございました。m(_ _)m >Setoh 様

[2732] Re[2731]: 蠅声の復活  桜左近 2002/03/25(Mon) 04:19 [Reply]
Setohさん、ご配慮ありがとうございます。

ほにゃらか掲示板の続きとしてせいぜい活用させていただきます。
自分も書き込みながら、「神奈備」のキャラとは何か違う・・という印象は持っていました。

#ということでhvhyさん、二次会に行きましょうや・・・

[2731] 蠅声の復活  Setoh 2002/03/24(Sun) 21:30 [Reply]
hvhyさん こんばんは。お願いがあります。
やはり,「蠅声なす掲示板」を継続することにしますので,貴殿のテンポの速い書き込みはこちらにお願いしして頂きたいのです。
「神奈備掲示板」は発足以来、多くの方々に支えられてまいりました。それなりに役割を果たして来た物と自負もしております。勿論hvhyさんの書き込みは神奈備の追求すべき課題の範疇ではありますが,少なくとも席亭setohのレベルを遥かに越えてしまっております。到底気の利いた応答は出来ません。
 同じ失礼をさせて頂くなら,せめて「神奈備掲示板」以外でのことにしたいのです。
 誠の勝手なお言い分ですが,よしなにご配慮をお願いいたします。

[2730] 「麻具波比」と「Magha」  hvhy 2002/03/24(Sun) 14:16 [Reply]
>【B】日本書紀の「八坂瓊之曲玉」の「曲玉」という部分は、
>「マガタマ」と読まれることを前提に書かれたと思われるが、
>ならば「曲」を「マガ」と読む読み方は何時からあったのか?
>「星」(Magha)の形状を「河曲」とか「曲河」とか記している
>『摩登伽経』や『舎頭諫経』が、その問いに対する糸口を与える。
(発言[2704]より引用)

>共に「Ketu」という意味で「婁」(Asvini)と「星」(Magha)は同一視される。
>その一方、「牟婁」(ムロ)は「勾」(マガ)である。これらを踏まえるならば、
>「勾玉」の「勾」(マガ)は「Magha」という言葉に由来するとの仮説に導かれる。
(発言[2728]より引用)

こうして並べてみて言えることは、やっぱり「勾玉」の「勾」(マガ)は、
ナクシャトラの「Magha」(その漢訳が「星」)から来ている可能性が高い。
ということです。「美斗能麻具波比」の「麻具波比」も関連語彙と思われる。

#「まぐはふ」という動詞の連用形から名詞化したのが、
#この「麻具波比」(まぐはひ)と考えられます。しかし、
#「まぐはふ」という動詞は、実際には確認されてないので、
#古語辞典には載っておりません。おそらく想像されることは、
#「Magha」〜「南」〜「朱雀」〜「丹塗矢」〜「月」〜「突く」
#という結びつきの故に、「麻具波」(Magha)が「性交」の意を
#持つようになった。ということ。(密教的な要素が背景にある?)

[2729] Re[2722]: 熊野神社、勧請について Re[2726]: 暦  Setoh 2002/03/24(Sun) 13:54 [Reply]
> はらやんです。
> 神主?の補助的役割をもってたらしいのです。中世期から江戸期にそういう身分は存在したのでしょうか?
江戸時代後半に記された『紀伊続風土記』に伊太祁曽神社の「中古神職」として下記ように職名が羅列されています。
神主 大禰宜  禰宜 御神楽坐 神子 嚴子 神頭 

また伊太祁曾社役人之名 譽太(ヨタ) 一人 大禰宜一人 行事一人 權行事一人 妻譽太一人 御琴引人 權禰宜ー人 火焼一人 内人一人 案主(アズ) 一人 定使一人

とあり,これらが常勤であったのか,祭祀時に指名されたのかは知りませんが,現在でも神主補佐のような職務はありますね。


習志野のてつさん > 『多気郡勢和村丹生の賀茂家』
暫く時間を下さいな。

[2728] 「勾」とは?  hvhy 2002/03/24(Sun) 13:13 [Reply]
古事記の「目弱王」、書紀の「眉輪王」が「月」、
特に「三日月」(剣)を意味することは書きました。(ほにゃらか参照)
「眉間」(みけん)という言葉がある。このことから、
実は「三輪」「眉輪」は同じ。その由来は「三勾」です。

#「勾」は一回転、「三勾」は三回転ですが、
#これは「二十七宿」。即ち「月」の運行です。

ところが「三輪山」は「御諸山」とも「御室山」とも書く。
「三輪」の語源は「三勾」だから、「諸」も「室」も「勾」。
したがって、「牟婁」(ムロ)=「室」(ムロ)=「勾」です。

>KETUを持つ祭神は他には御食津神,大宣都姫神があり,尻→糞→食物の連鎖が考えられますね。
>禍津神らしい素盞嗚尊(古事記)や月夜未神(日本書紀)が大宣都姫神を殺すのですが,
>勾玉は三日月もあり,と言うことが出そうですね。

ここで言われる「大宣都姫神を殺す」というモチーフは、
「美和之大物主」が「ホトを突く」という話に全く重なる。
その突く「丹塗矢」(男根?)が「三日月」(剣)であり又、
男女交合で宿った胎児が「勾玉」(玉は魂?)なんでしょうね。

#共に「Ketu」という意味で「婁」(Asvini)と「星」(Magha)は同一視される。
#その一方、「牟婁」(ムロ)は「勾」(マガ)である。これらを踏まえるならば、
#「勾玉」の「勾」(マガ)は「Magha」という言葉に由来するとの仮説に導かれる。

#「星」(Magha)は「四神相応」の考え方において「南」に位置づけられる。
#即ち「朱雀」(朱鳥)。その色は「丹塗矢」の色。この点も無視できません。

[2727] Re[2726]: 暦  なにがし [Url] 2002/03/24(Sun) 10:33 [Reply]
> 多気郡勢和村丹生
全然関係無いんですけど、書道家の榊莫山先生ってこのあたりのご出身の様ですね。先日空海を主人公にした、榊獏山著「空海書韻」というのを読んだんですが、そこに書かれていました。

どんな暦か見てみたいですね。やはり水銀と何か関わりのある内容なのでしょうか?

[2726]  習志野のてつ 2002/03/24(Sun) 09:44 [Reply]
年度替りが近いので、暦(こよみ)について調べてました。

 平将門(柏原天皇の五世の末孫)が自ら「新皇」と名乗った
このとき、文武百官を定めたが、暦博士は立てられなかった。
暦は大変難しく、力及ばなかったためだそうです。

鎌倉・室町時代に地方暦があり、明治初期まであったそうです。
「三島暦」=伊豆の国・三嶋大社
「鹿島暦」=常陸の国・鹿島神宮
「丹生暦」=三重県多気郡勢和村丹生村の賀茂家の暦
「伊勢暦」=伊勢の国・伊勢神宮
「薩摩暦」=鹿児島市の繁華街天文館の発行
      天文台の正式名称「明時館(めいじかん)」
この中で「丹生暦」というのは、和歌山、三重で有力だったそうです。

『多気郡勢和村丹生の賀茂家』とは、どのような家でしょうか?
どなたかお教え下さい。

[2725] Re[2724]: 主宰神>桜左近さん  hvhy 2002/03/24(Sun) 01:47 [Reply]
酔っぱらいつつも、早速のご返答ありがとうございました〜。
いわゆる「九曜」のうちの「計都」の「Ketu」だったんですね。
分かりました。ちなみに件の『Sardulakarnavadana』の段階では、
まだ「宿」と「九曜」の対応という考え方はないです。ないですが、
「九進法」の萌芽は見られるので、それが「宿」と「九曜」の対応に
昇華されていったものと考えられます。(但しどの段階かは未確認です)

1(尾)10(星)19(婁)……「計都」←これが「Ketu」
2(心)11(柳)20(奎)……「水星」
3(房)12(鬼)21(壁)……「土星」
4(氏)13(井)22(室)……「木星」
5(亢)14(参)23(危)……「羅喉」←これが「Rahu」
6(角)15(觜)24(虚)……「火星」
7(軫)16(畢)25(女)……「月天」
8(翼)17(昴)26(斗)……「日天」
9(張)18(胃)27(箕)……「金星」

#ここに挙げた数字は、インドの宿の順番でなくて、
#日本の天皇の代数ですから、その点ご留意ください。

いわゆる『宿曜経』より時代が下る『七曜攘災決』では、
「計都」の別名として「豹尾」や「蝕神尾」が出てきます。
この「計都」について、「彗星」(尾を持つ星)とする説と、
「羅喉の尾の部分」とする説がありますが、どっちにしたって、
「尾」(Mula)「星」(Magha)「婁」(Asvini)が「Ketu」ならば、
発言[2718]の「シリ」「ケツ」の話は、訂正の必要はなさそうです。

[2724] Re: 主宰神>桜左近さん  桜左近 2002/03/24(Sun) 00:26 [Reply]
どうもです(何がだ?)(^^;

> その意味で、「Ashwiniの"LORD"はKETU」と書いてるものがあるかどうか。
> そこが一番肝心です。出典に関し何か出てましたでしょうか?>桜左近さん

これは英語で書かれたNaksyatraの解説には定番として使われている語彙です。例をあげると・・
http://www.tatanova.com/docs/astrology/astro_nakshatra.htm
http://www.vedicfuture.com/nakshatra1.asp
をご覧ください。

#少し前に某オフ会から帰ったばかりの酔っぱらい(私が)ですから、ぶっきらぼうで失礼します。

[2723] 花見のお知らせ  Setoh 2002/03/23(Sat) 22:53 [Reply]
与乃登さんのグループからのお知らせ

音楽仲間達と花見をいたします。
場所は天満橋と天神橋の間の大川公園で空いているところ。
たぶん、天満橋寄りの場所になると思います。
時間は12時から日没までボチボチです。
楽器を弾いているのですぐに分かると思います。
原則みんなも持ち寄りです。用意はいたしますが。

お暇でしたらお寄り下さいませ。
たぶんすいているでしょうからゆっくりだろうと高をくくっております。
いろんな仲間内が来ると思いますので
お手すきでしたら気にせずお越し下さいませ。

[2722] 熊野神社、勧請について  はらやん [Mail] 2002/03/23(Sat) 22:45 [Reply]
はじめまして。はらやんです。
教えて欲しいのですが、私の本籍(淡路島津名郡津名町王子)に
熊野神社から勧請された神社があります。はっきりした記録はないのですが、
明治までは神道を守ってたらしく、神主?の補助的役割をもってたらしいのです。
中世期から江戸期にそういう身分は存在したのでしょうか?
今、自分のルーツを探しているのでよろしくお願いします。

[2721] 「乾闥婆」について  hvhy 2002/03/23(Sat) 20:49 [Reply]
>ガンダルバァ(Gandharva)はヴェーダに出てくる神で、

さらに加えて、ほとんど同じ名前の神様が
ゾロアスター教の聖典『アヴェスター』にも
出てきます。仏教においては、どういうわけか
〈脇役〉になってしまう。理由や経緯は不明です。

#「乾闥婆」を中心に描いた「童子経マンダラ」も
#あるにはありますが、いささかマイナーな存在です。

[2720] Re[2719]: 主宰神>桜左近さん  hvhy 2002/03/23(Sat) 20:41 [Reply]
インドにはインドのナクシャトラがあって、これを漢訳する際に
直訳したのが『舎頭諫経』、中国の二十八宿の名前を援用したのが
『摩登伽経』です。この「援用した」ことにより、混乱が生じました。
(※例えば、中国古来の「牛」は山羊座、『摩登伽経』の「牛」は琴座)

古事記(や日本書紀)には、『摩登伽経』『舎頭諫経』のみならず、
そこに出てくる宿のインド名も取り込まれてる。このことを鑑みれば、
インドのナクシャトラを典拠とした風に見えますが、中国の二十八宿と
区別がついていたかどうかは不明です。(検証すべき問題ですね、これは)

・『Sardulakarnavadana』……Gandharva(ガンダルヴァ)
・『摩登伽経』……記していない(遺脱か?)
・『舎頭諫経』……香神
・いわゆる『宿曜経』……乾闥婆

それぞれの書物は「婁」の主宰神をこう記していますが、
ナクシャトラについて触れる書物はこれに限りませんので、
桜左近さんの[2711]を読んだ時、いずれかのインドの書物に
「婁」(Asvini)の主宰神を「Ketu」としているものがあると
私は理解しました。が、[2719]を読んで、分からなくなりました(^^;

>インドのAshwini(中国の「婁」に対応)
>の"LORD"がKETUだと書いてあるので、

同じ宿に対して、『摩登伽経』『舎頭諫経』『宿曜経』で主宰神が
食い違うケースも見られます。「乾闥婆」とか「香神」とは全く別の
主宰神が他の書物に記されている可能性は、実際のところ幾らでもある。
その意味で、「Ashwiniの"LORD"はKETU」と書いてるものがあるかどうか。
そこが一番肝心です。出典に関し何か出てましたでしょうか?>桜左近さん

[2719] 主宰神 Re[2718]: 無題  桜左近 2002/03/23(Sat) 17:47 [Reply]
hvhyさん>「婁」の主宰神のインド名が「Ketu」なら、(桜左近さん[2711]参照)

どうもこの辺のゴチャゴチャ(中国語、サンスクリット、日本語、英語)した語彙相互の対応が良く分からないために、私の用語が正しくないかも知れません。

インドの1宿Ashwini(中国の16宿「婁」に対応)の"LORD"がKETUだと書いてあるので、このLORDが中国の「主宰神」に当たるか思ったわけです、が、どうも別物のようですね。下のサイトでわかりました。
http://www1.odn.ne.jp/~haa98940/syuku3.htm
少し引用すると・・・
>「『婁宿』は既に説明した『馬頭』だ。主宰神は『乾闥婆(ガンダルバァ)』だ。『舎頭諌経』では『香神』だ」

ガンダルバァ(Gandharva)はヴェーダに出てくる神で、面白いのは例の人面蛇神Nagaを最初のうちは圧迫していたのに、Nagaの妹の色仕掛けに会って最後はNagaに滅ぼされてしまうという、トホホの神です。(笑)

#ということで、少し訂正(^^;

[2718] 無題  hvhy 2002/03/23(Sat) 13:12 [Reply]
>「若御毛沼」は第1代の天皇。これが天皇の「本」(モト)。
>この「本」(モト)の意味を「Mula」という言葉は持っている。
>「先」(サキ)に対し「本」。また「前」(サキ)に対し「後」。
>つまり「本」(モト)は「後」(シリ)でもある。どういうことか。
>「本の毛」=「後の毛」=「尻の毛」=「尾」(Mula)に他ならない。

これは「ほにゃらか」で書いたもの。(ほにゃらか[749]参照)
第1代は「尾」で、第19代は「婁」。(照応表を参照)
然るに九進法で「1」も「19」も同じ。
「婁」の主宰神のインド名が「Ketu」なら、(桜左近さん[2711]参照)
どういうわけか日本語において同じところを、
「シリ」とも「ケツ」とも言う意味が判明する。

1……10……19【本=後】……「Ketu」
2……11……20
3……12……21
4……13……22
5……14……23
6……15……24
7……16……25
8……17……26
9……18……27【先=前】……「???」

「???」と書いたところには、例えば、
「鵜葺草葺不合」の「葺草」(福草)等が
相当するだろう。「先」=「前」=「福」だ。

#第9代の天皇の都は「春日之伊邪河宮」だが、
#その遺称地には現在も「率川神社」が鎮座する。
#そして「三枝祭」が行なわれる。この「三枝」は、
#「鵜葺草葺不合」の「葺草」(福草)と同じだろう。

[2717] 「允恭」は「婁」(Asvini)  hvhy 2002/03/22(Fri) 23:52 [Reply]
日本書紀は「薊瓊(Asvini)入姫」の子供を、
「池速別」と「稚浅津姫」としているのですが、
実は「薊瓊入姫」「稚浅津姫」は古事記ではこう。

★書紀:「薊瓊(Asvini)入姫−−稚浅津姫」

★古事記:「阿邪美能伊理毘売−−阿邪美都比売」

第19代の天皇「男浅津間若子宿禰」の名辞を眺めると、
「稚浅津姫」と同じ「浅津」を負う。そうであってみれば、
「男浅津間若子宿禰」の「浅津」も「Asvini」由来でしょう。

#「間」そのものが「M」(メム)で、
#第19代の天皇に当たることは述べた。

[2716] 「間」は「M」  hvhy 2002/03/22(Fri) 23:50 [Reply]
書紀の「有間皇子」の記事。数字の「19」だけでなく、
「未及成人」は、要するに「子供だ」と言っているわけで、(hvhy[2713]の引用文)
そこのところにも注意が必要です。またまたアラム語ですが、
「OLYM」(アリーム)なる語に「子供」の意味があります。

#仮に「OLYM」が「有間」だとすると、
#「間」は「M」(メム)ということになる。
#この「M」は第19代の天皇に照応してます。
#(http://www.platz.jp/~hvhy/mat.html参照)
#「家津御子」の「御子」は「有間」(OLYM)???

[2715] MAHAでした  桜左近 2002/03/22(Fri) 20:52 [Reply]
すみません。
マハ・ポーシャやマハトマのマハはMAHA(偉大、大きい)でした。
MAHAとMAGHA、辞書で確かめればよかったんですが・・・

[2714] 「久須毘」について  hvhy [Mail] 2002/03/22(Fri) 20:18 [Reply]
「熊野」を名前に負う神様(人物)というのは、
少なくとも古事記では「熊野久須毘」に限ります。
「久須毘」は他所で「夫須毘」と書かれたりもする。
では、この「久須毘」とか「夫須毘」とかは何なのか。

【A】古事記の「熊野久須毘」の別名として、
日本書紀は「熊野大角」を載せる。「大角」は
「アルクトゥルス」で、二十八宿の「亢」に同じ。

【B】「黒子」を意味する方言に「ふすべ」がある。
「ふすべ」の仮名表記として「夫須毘」は可能な範囲。

【C】古典文学大系は「大角」を「オホクマ」と訓ずる。(←他の別名も踏まえて)
アラム語の「AWKMA」(オークマ)の意味は「黒い」。

以上を鑑みれば、「久須毘」とか「夫須毘」とかは、
方言に残る「ふすべ」そのもの。という可能性が高い。
即ち「黒子」(黒子のようなもの?)が「久須毘」です。
「大角」(アルクトゥルス)を「黒子」に見立てたのかな?

#「御大」(ミホ)の例から、「大角」は「ホスミ」と読めます。
#「ホスミ」「フスビ」は音の変化と言って、言えなくありません。
#しかしながら、アラム語の「AWKMA」(オークマ)を考えれば、
#「黒い」という意味を介して、「大角」と「夫須毘」が結びつきます。
#書紀編者の念頭には、「AWKMA」という言葉があったと思われます。

[2713] 「婁」と「有間皇子」  hvhy [Mail] 2002/03/22(Fri) 19:30 [Reply]
古事記に内在するところの二十八宿と天皇の照応で、
「婁」は第19代の「男浅津間若子宿禰」なんですが、
その「19」は、九進法では「10」や「1」に等しい。

ここで「間」の用字に注目すると、古事記の場合は、
「男浅津間若子宿禰」に限る。また日本書紀の場合は、
「御間城入彦五十瓊殖」と「雄朝津間稚子宿禰」に限る。
ところが、「御間城入彦五十瓊殖」は第10代の天皇です。

天皇に準ずるというか、天皇になる可能性があった、(←「ように書かれている」の意)
そういう位置づけの人物だと、「有間皇子」がいます。
「有」(アリ・アル)が「一」(アル)を示すに加えて、
日本書紀は「有間皇子」を「19」に積極的に結びつける。
のみならず、この人物は件の「牟婁」にも縁が深いわけです。

>或本に云はく、有間皇子曰はく、「先づ宮室を燔きて、五百人を以て、
>一日両夜、牟婁津を邀へて、疾く船師を以て、淡路国を断らむ。
>牢圄るが如くならしめれば、其の事成し易けむ」。
>或人諌めて曰はく、「可からじ。計る所は既に然れども、徳無し。
>方に今皇子、年始めて十九。未だ成人に及らず。
>成人に至りて、其の徳を得べし」。

「有間皇子」が「19」に因縁づけられているのは、まさしく、
「間」を負う「男浅津間若子宿禰」が第19代たる点に呼応する。
である以上、これは《述作において設定した年齢》と考えられます。
それだけでなく、また「牟婁」なる地名に含まれる「婁」についても、
二十八宿の「婁」から取った可能性が濃厚。「婁」のインド名というと、
「Asvini」ですが、日本書紀には「薊瓊(Asvini)入姫」とも出てきます。
「阿曇」は「安閑」(勾)で、「瓊」は「玉」なので、「薊瓊」は「勾玉」。

[2712] Re[2711]: [2694]: 「香」について  Setoh 2002/03/22(Fri) 12:13 [Reply]
 神奈備別荘(神姉どうしてるん)のほうで,熊野に坐す方から「大峰山脈、巨大な龍が臥しているように見えてきます。」とのコメントを頂いております。
熊野は牟婁郡で,
桜左近さん>普通「婁」の主宰神KETU
とあるのに吃驚しています。熊野坐神社の祭神は家津御子(KETU-MIKO)と言います。
KETUを持つ祭神は他には御食津神,大宣都姫神があり,尻→糞→食物の連鎖が考えられますね。禍津神らしい素盞嗚尊(古事記)や月夜未神(日本書紀)が大宣都姫神を殺すのですが,勾玉は三日月もあり,と言うことが出そうですね。

[2711] Re: [2694]: 「香」について  桜左近 2002/03/22(Fri) 06:39 [Reply]
>二十八宿の「星」のインド名は「Magha」なんですよ。
>また『舎頭諫経』は「婁」の主宰神を「香神」とする。

ええと、私は二十八宿のインド名⇔中国名の対応の実態が良く分からないので、つまらない疑問だったらすみません。(^^;
MaghaはNakshatra(二十八宿)の10番目で、意味はオウムで有名になったマハ・ポーシャとか、マハトマのように「大きい」とか「偉大」(それから私が言及した「匂い、香り」など)だと思いますが・・・maghaに「星」の意味はありますか?。

『舎頭諫経』については全く知らないので、以下は何とも頼りない話になります。(^^;
普通「婁」の主宰神KETUは「聴覚」→「物知り」に関連するといいますね。更に余談をいえば、インドの古典(昔話)では龍が神の怒りに触れて胴体の真中からスパッと切られ、残った下半身がKETUとなりました。あるいは日本語の「尻=ケツ」の語源と考えられなくもない(少なくとも私は考えている!)。
#『舎頭諫経』の「香神」の解釈にサンスクリットの「香り、匂い」がお役に立ったとは光栄?ですね。(^^)?

#いやぁ、知らない語彙ばかりで難儀しておりますよ。(笑)

[2710] 訂正および勾玉について  ペギラ [Url] 2002/03/21(Thu) 23:56 [Reply]
銅鐸に関して砂製鋳型と書きましたが、
考古学的には土製鋳型が一般的でしたので訂正いたします。

勾玉について、梅原猛著「神々のるざん」で
>縄文末期の昔から、玉の産地の場所として知られていた
>越の国の小滝川下流の硬玉は、当時、とりつくされて
>数少なくなっていたのであろう。
>古墳時代に入ると、硬玉製の勾玉はほとんどなくなり、
>碧玉製の勾玉がそれに代わってきた。
とあります。
考古学的に本当なのか調べていないのでわかりませんが、
碧玉の産地として出雲をあげていて、
銅鐸にしても、古墳時代の勾玉にしても、
出雲はやはり、切っても切れない関係にあるのかも。

[2709] Re[2708][2705][2695]: 勾玉と銅鐸の関連かな?  Setoh 2002/03/21(Thu) 21:51 [Reply]
 ペギラさん,素人の銅鐸論におつきあい,ありがとうございます。
> 特に、紀伊の銅鐸の状況は奇異です。
 紀伊の銅鐸が謎を解くキイかもしれませんね。
 紀の国は今ではミカンと梅の産地の南の方に大型銅鐸が集中しています。
上古の農耕は平地ではなく,焼き畑だったのかも。
南紀の特徴は須佐之男尊の源郷(松前説)とか熊野樟日神などの本拠地。
阿波にも大型銅鐸が出ています。ここは忌部氏の拠点だった。

 神体である勾玉(曲玉)は移動用もしくは個人用の呪具で,固定的には銅鐸やその音で降臨する磐座・磐境とか神木が呪具だったのでしょうね。
 忌部氏の『古語拾遺』には三種神器ではなく,二種で,鏡と剣ですよね。忌部氏にとっては勾玉はもはや神器ではなく,禍玉と思われていたのでしょうか。大禍津日神にはこれを鎮める直日神が必要だった。「おおみたから」ではないまるろわぬ人々の祭器の勾玉は忌部氏は認めず、ましてや銅鐸おやですね。

[2708] Re[2705][2695]: 勾玉と銅鐸の関連かな?  ペギラ [Url] 2002/03/21(Thu) 15:26 [Reply]
>   銅鐸は神になった。
>
そうですね。(^-^)
聞く銅鐸たちは、神社の鈴のように、
神様を呼ぶようなものだったかもしれませんが、
見る銅鐸たちは、神になっていたのかも。

>  大型銅鐸(W型)> これらの地域の特徴、共通点に何があるのでしょう。
> 1.大和からの周縁部にあたる。
> 2.『先代旧事本紀』では物部系国造の存在を示している。
> 遠江 久努國造,遠海國造
> 三河 参河國造
> 紀伊 熊野國造
> 3.近江には物部や伊香郡なる地名

このあたりの謎はいつまでたっても糸口もつかめないです。
それまで銅鐸製造の中心地であった大阪湾岸から、
近郊に撤退したようにも見えますが、
石製鋳型から砂製鋳型に製造方法が発展したので、
鋳型の原料の石の産地より砂の産地に移動したというのもありえるかも。
大型銅鐸に関して遠江(三遠式)の技術が
近畿式にも組み込まれていく課程が推測され、
三遠式が衰退したあとも近畿式は残っていた可能性も指摘されています。
ということは、近畿地方から三遠地方へと西から東へ衰退したのではなく、
先に三遠地方が衰退し、近畿地方に戻ってきたということになります。
こんな説を目にすると、頭の中がゴチャゴチャになってパニックです。(笑)

特に、紀伊の銅鐸の状況は奇異です。
農耕の祭器が有力説なのに、
特別に農耕地がたくさんあるとは思えない所からの多くの出土。

物部と銅鐸の関係は、なにかありそで、なさそで。。複雑です。(-_-;)

[2707] Re[2706]: 勾玉と曲玉・・・とんでもない間違い  hvhy [Mail] 2002/03/21(Thu) 00:33 [Reply]
その平凡社世界大百科事典とやらの記述は、
面白いといえば、面白いですね。というのは、
単に「古事記」と「書紀」を逆転してしまった
誤植に近い間違いなのか、そうではない間違いか、
そこのところが微妙ですから。どっちなんでしょう。
仮に誤植に近い間違いだとすると、こうなりますよね。

>《古事記》は勾玉と記し,《日本書紀》は曲玉の
>字を用いる。はじめ曲玉の字をあてたが,曲には
>曲直などの熟語にみるように悪い意味もあるの
>で,勾玉に改めたという説が有力である

「日本書紀」に「曲玉」とあったのを、
「古事記」で「勾玉」に改めたという説。
そういう説があるかどうか。あったとして、
それが有力かどうか。ちょっと分かりません。

[2706] 勾玉と曲玉・・・とんでもない間違い  桜左近 2002/03/20(Wed) 21:55 [Reply]
平凡社世界大百科事典のマガタマの項に「古事記は曲玉で、日本書紀は勾玉」とあった、と書きましたが、どうもおかしい・・・ことに気がついた。何はともあれ、参考のために引用します。

>湾曲した体の一端に近く緒をとおす孔をうがった
>玉。湾曲した形を〈まがたま〉と名づけたのであろ
>う。《日本書紀》は勾玉と記し,《古事記》は曲玉の
>字を用いる。はじめ曲玉の字をあてたが,曲には
>曲直などの熟語にみるように悪い意味もあるの
>で,勾玉に改めたという説が有力である

これは全く逆ですね。古事記が勾玉で日本書紀が曲玉。
本居宣長のせいじゃないです。(宣長さんごめん!)

えらく高価だったこのCD-ROM版の辞典はミスが多いし、Windows98までしか対応してないとか、問題ありすぎ。今は絶版になったので、もうサポートも終りだそうです。
今のパソコン買い換えたら使えなくなってしまうのか(怒)

[2705] Re[2695]: 勾玉と銅鐸の関連かな?  Setoh 2002/03/20(Wed) 21:35 [Reply]
こんばんは。ペギラさん。おこしやす。

  銅鐸は神になった。

 大型銅鐸(W型)の出土数をペギラさんのHPから拾いました。多い順に
遠江 27
近江 22
紀伊 14
三河 11
その他となっています。偶然に発見されるもので,以下のことを論ずるのは怖いのですが・・

これらの地域の特徴、共通点に何があるのでしょう。
1.大和からの周縁部にあたる。
2.『先代旧事本紀』では物部系国造の存在を示している。
遠江 久努國造,遠海國造
三河 参河國造
紀伊 熊野國造
3.近江には物部や伊香郡なる地名

 銅鐸は祭器であったのが大型化して見る銅鐸となったことで神となってしまった。それまでの勾玉を神としてこれを祀る祭器が大きい顔をして神の地位を簒奪したのである。これをやってのけたのが物部ではなかろうか。物部は天孫(鏡族+剣族)に基層の民(勾玉族)の連合に征圧されてしまい,銅鐸は日のめを見ることがなかった。ついでに小型銅鐸も一緒に葬られたと考えることができます。


[2704] Re[2697][2694]: 「香」について  hvhy [Mail] 2002/03/20(Wed) 14:13 [Reply]
>(50)500タウ……10御真木入日子印恵……「星/危」

>(41) 50メム……19男浅津間若子宿禰……「婁/参」

これは古事記自体が内在的に示している照応ですが、(http://www.platz.jp/~hvhy/mat.html参照)
二十八宿の「星」のインド名は「Magha」なんですよ。
また『舎頭諫経』は「婁」の主宰神を「香神」とする。

#いわゆる二十八宿について記された古いものに、
#『摩登伽経』や『舎頭諫経』があり、これに加え、
#かなり新しいものに『宿曜経』(8世紀)等がある。
#ここで『摩登伽経』と『舎頭諫経』については、共に
#『Sardulakarnavadana』の漢訳とされる。(概説書参照)

さらにまた、この「星」(Magha)の形状について、
『摩登伽経』は「河曲」、『舎頭諫経』は「曲河」、
としております。以上から次のことが見えてきますね。

***

【A】「Magha」に「匂い・香り」の意味があるなら、(桜左近さん[2697]参照)
「星」は「婁」の主宰神(即ち香神)にそのまま照応。
である以上、そもそも『Sardulakarnavadana』において、
既に「九進法」の構造が盛り込まれている可能性も大きい。

#『宿曜経』の段階になって「三九の秘法」と言われるものが
#出てくる萌芽は『Sardulakarnavadana』に既にある。という話。

【B】日本書紀の「八坂瓊之曲玉」の「曲玉」という部分は、
「マガタマ」と読まれることを前提に書かれたと思われるが、
ならば「曲」を「マガ」と読む読み方は何時からあったのか?
「星」(Magha)の形状を「河曲」とか「曲河」とか記している
『摩登伽経』や『舎頭諫経』が、その問いに対する糸口を与える。

#アラム語の「MGLH」(巻物)「MGR」(放り投げる)、
#「MGD」(果物)「MGWΣA」(拝火教のマギ)などなど。
#即ち「MG」(メム・ギメル)で始まる言葉も検討する必要あり?

(※古事記の「八尺勾聰之五百津之御須麻流之珠」については別項で)

[2698] どうかな?  雄一 2002/03/20(Wed) 13:33 [Reply]
ニ神で神生みした神は外国の神、イザナキ命が一神で神生みしたのは国津神。
それ故、国造の祖が多いと思います。外国の神が国津神を封神したのは磐戸の中。
磐戸に神の名前がついているのはその為です。(しめ縄を磐戸に張って国津神を
出さないようにした。)
国津神は魂(たま)の状態でいると思います。(それが身に入ると身魂となり、
その状態が大和魂)では、どうして出したらいいのでしょうか?

[2697] Re[2694]: 勾玉と曲玉  桜左近 2002/03/20(Wed) 05:30 [Reply]
こんばんわ

> 『古事記』の成立年代をいつ頃とお考えですか。
> 仰々しくない分『古事記』の方が早いそうな気がしているのですが・・・。

斜めから失礼します。(^^;

「マガタマ」の漢字表記について。
平凡社世界大百科事典の「マガタマ」の項を要約すると「古事記では曲玉だったが、曲は”曲直”などの悪い意味があるので日本書記で勾玉にしたという説が有力」とあります。しかし、古事記の原文をあたってみたら「勾」の字が使われています(天の石屋戸)。そしてそれをわざわざ「曲玉」にしたのはどうやら本居宣長らしい・・ということ位まではわかりました。
考えてみると、これは古事記と日本書紀の編纂時期(どちらが先か)に関わる重要なヒントらしく思えます。こうゆう所で頼りになるのは、何といっても古事記の達人hvhyさんですね!。(^^)
#サンスクリットにMAGHA(匂い、香り)があります。

[2696] Re[2686]: 印象だけですが  香具 [Mail] 2002/03/20(Wed) 01:03 [Reply]
勾玉について、簡素ながら、とても判りやすい資料がありました。
  石川考古学研究会代表幹事、河村好光氏による講演要旨『ヒスイ勾玉の誕生』
http://www.pref.toyama.jp/branches/3041/kawamurakouen.htm

 博物館や特別展などでいろいろな勾玉を見ましたが、今までで一番印象に残っているのは、石上神宮で拝観させて頂いた11個の硬玉勾玉です。
 翡翠といっても、それぞれの勾玉で、ある箇所は淡く、またある箇所では深い緑色をした変化のある模様でした。この斑具合が、とても奥床しいのです。
 最小は長さ1.8cm、最大は5.3cmで、3〜4cm程度のものが多かったです。5cmを越える勾玉というのは、なかなか迫力があります(重そうでしたし)。
 これに釣り合うほどの風格のある人物は、少ないことだろうと思えました。例えば、謀略をもって政権と祭祀権を簒奪した人物が、これらの勾玉で装飾しても、不似合いな様子が周囲の者達に判るようなものです。
 勾玉のほうで、身につける人を選ぶという気品がありました。ずっと眺めていても見飽きることのない勾玉でしたが、これは古事記にでてくる、あの玉なのでしょうか?
さすがに禁足地出土の御神宝。現在は重要文化財として、大切に管理されています。

 間近で見ていると、勾玉の頭の部分には、孔から放射状に溝が4本程刻まれて、反対側の
孔に続いているのが判ります。勾玉の頭部を何分割かしている感じです。この溝の意味合いは不明です。丁字頭(ちょうじがしら)というそうですね。
 勾玉には、有名なC字型の他に、E字型とか、子持ち勾玉とか、突起のある勾玉、いろいろあるようです。昨今、アクセサリーとして販売されている勾玉の多くが、古代のデザインとは異なる巴形というか陰陽魚形なのは残念です。もう少しC字型のような実物に近づけて欲しいナと思っています。

 石上神宮の宝物庫では、勾玉の隣りに、碧玉製の管玉がたくさん保管されていました。サイズ・色合い・形状は、だいたい2個ひと組み。ひとつの勾玉を左右から挟むように管玉をつけるので、勾玉1個と管玉2個で、まずは1セットなのですね。このセットをずらりと繋げていた様子が、今春のNHK『聖徳太子』のドラマ中で見れました。

 それにしても、勾玉といい、管玉といい、その製作技術は凄いですね。石の研削、研磨加工も、縄文時代からずっと受け継がれてきた、ハイレベルな工業だと思います。
ぜひ博物館で実物の勾玉を、じっくりとご覧頂きたいものです。(管玉が欲しい・・・)

[2695] 勾玉と銅鐸の関連かな?  ペギラ [Url] 2002/03/20(Wed) 00:36 [Reply]
こんばんは。Setoh さん  ペギラです。おじゅまします。

勾玉と銅鐸というククリではありませんが、
建御名方と沼河比売
神八井耳と神沼河
諏訪と多氏系
といったところに現在吸い込まれています。
過去ログに山盛りあるネタかもしれませんが、
諏訪およびその周辺には鉄鐸というものが現存しており、
多氏系の支配にも関わらず、祭神に建御名方という変な姿。

この建御名方は古事記特有の登場人物と言っていいかもしれません。
(先代旧事本紀にも出現しますが。)
出雲国風土記ではミホススミです。
美保から逃げたから「美保進み」なんていったら、
世間から石を投げられそうですが、私の最初の印象です。

鉄鐸と建御名方と沼河から、
銅鐸と勾玉にたどり着けるものがありそうな、なさそうな?

[2694] 無題  Setoh 2002/03/19(Tue) 20:30 [Reply]
福嶋さん こんばんは。
 ひすいの歴史は縄文中期まで遡るそうで,翡翠勾玉は実にうつくしいそうで,見つめていると自然の輪廻のシステムを感じるそうです。これが自然の魂と崇められ、縄文人がカミとしたものでしょう。
 おっしゃる通り『記紀』では,天照大神は完全武装して全身に勾玉を付けて素盞嗚尊に対抗しましたが,天照大神が縄文のカミとも思えず,これは倭国の基層の民を味方に引き入れて縄文でもなく,天孫でもない素盞嗚尊と対抗したという神話ではと思っています。

 銅鐸は『HP:古代の謎へ「銅鐸」』http://homepage1.nifty.com/moritaya/kodai.html
にもペギラさんが謎解きをされているのですが,素盞嗚尊や物部系の縄文と天孫支配の間をぬった一族の奉戴するもので,基層でもなかったので埋められて保管されていたのもが,そのまま埋没してしまったのかも。素盞嗚尊や大国主命はともかく,物部系は中途半端な支配者だったのかも。


hvhyさん こんばんは。setohはこの方面ではコメントを差し上げる力はありませんので,ご覧頂いている方々によしなにお願いいたします。
hvhyさん>書紀の編纂のほうが先行していた可能性が高いとすると
『古事記』の成立年代をいつ頃とお考えですか。
仰々しくない分『古事記』の方が早いそうな気がしているのですが・・・。

[2693] Re[2686]: 勾玉と銅鐸  福島雅彦 [Mail] 2002/03/19(Tue) 01:19 [Reply]
>  銅鐸と勾玉の関係は何かあったのでしょうか?
>    勾玉を祀るための道具が銅鐸?
>    拝殿前の鈴のようなもの?
>    それとも全く別世界のものだったのでしょうか?

※全くの、主観的想像ですが…。
≪勾玉≫は、卑彌呼、天照大神の首にリング状に掛けられていそうな気がします。
 稲作の神格化の為のステータスシンボル的な物⇒稲刈り用の刃物(石器から鉄器)ではないでしょうか。
≪銅鐸≫は、その図柄が稲作に関係がある物ばかりではないかと疑っています。
・渦巻き紋⇒豊かな水利、我田引水というくらいに貴重な水、後世に在っても水争いで殺人事件にまでなっていますから…。
・蜻蛉、蟷螂、スッポン⇒稲の害虫を捕食する天敵⇒農薬が無い時代には害虫駆除の百万の味方。
・狩人の鹿狩り図は、稲を食べる害獣退治か?。
※豊作祈願の祭器であり、農奴達の作業開始、休憩、昼食、作業止め!の合図にも使われたか?。
 以上、福島雅彦が想い付くままでした。

[2692] 「吉備」と「尾張」の関係  hvhy [Mail] 2002/03/19(Tue) 00:42 [Reply]
こんにちは。蝿声なす掲示板のほうに、と思ったのですが、
なくなるとのことですので、こちらにお邪魔させて頂きます。

桜左近さんから、サイクリックな構造を古事記に持ち込んだのは
太朝臣安萬呂かどうか、というご質問があったように記憶しますが、
そもそも天皇の代数に関しては書紀と古事記で共通です。である以上、
同じサイクリックな構造が書紀にも入っています。書紀の編纂のほうが
先行していた可能性が高いとすると、由来を安萬呂に求めるのは無理です。
ただ古事記は、意味不明の系譜をたくさん載せることによって、その構造を
よりクロースアップする形になっており、その意味での工夫は安萬呂の腕です。
全体を設計したのは、天文学や暦法、各国語に通じた人間だったと考えられます。

#構造の全体像については、ビジュアルな表現を考えたらどうか、
#とのご意見を香具さんから頂きましたが、まず間に合わせとして、
#骨格となる部分を数表に致しました。以下のURLをご覧ください。
#(http://www.platz.jp/~hvhy/mat.html)(表示の乱れはありますか?)

***

ここで「吉備」についての考察を。数価表(逆順)を見ると、
「張」「箕」はいずれも九進法で「9」。また「尾」は「1」。
したがって「箕尾」(キビ)も「尾張」(オハリ)も「1」です。

#九進法では、「543」→「5+4+3」→「12」→「1+2」→「3」。
#つまり九進法の数字に直すには、一桁になるまで足してやればいいわけですね。

ところが「箕」に位置づけられている「広国押建金日」(安閑天皇)と、
「尾」に位置づけられている「建小広国押楯」(宣化天皇)は兄弟であり、
その母は「凡連の妹、目子郎女」(尾張連草香の娘)。「尾張」の系統です。
このように系譜を作ったのは、「箕尾」「尾張」の関係を念頭においてのこと。

#「国押」を負う「安閑」「宣化」「欽明」は、
#いずれも継体の子供で、この意味合いにおいて、(※天皇の代数とは別に直系系譜も問題)
#3人とも「箕/角」の位置と見なされます。一方、
#「大倭帯日子国押人」もまた「国押」を負っている。
#その「孝安」は「角/箕」の位置です。(照応表参照)
#「孝安」の母は「余曾多本毘売」。即ち「尾張」の系統。
#いわゆる諡号が法則的に作られてることが明確に伺えます。

小さな字名は別として、「△△国」といった類は、
ある段階で、その時代の政治的要請?などに従って
作られたわけです。有史以来、国と国の境が存在して、
それぞれに国の名前があったとか、そういう話じゃない。
「箕」とか「尾」とか「張」とかの星宿に由来する命名は、
例えば「地」は「天」の対応物というような思想があるなら、(※統治する側に、という話)
特に不思議ではありません。有り得る命名の方法と思われます。

[2690] Re[2688]: 「ロード オブ・ザ リング」  Setoh 2002/03/17(Sun) 22:58 [Reply]
小人族のコロポックルには蕗の下の人や竪穴に住む人の意があるとか。
ちいさいと竪穴がいいとの理屈はないですよね。

万葉の貧窮問答歌は竪穴ではなさそうですが、この家族には竪穴の方が良かったのでは。なんて思うことがあります。

[2688] 「ロード オブ・ザ リング」  習志野のてつ [Mail] 2002/03/17(Sun) 14:52 [Reply]
「蠅声なす掲示板」のほうがふさわしいような、一応神話話。
いまおおはやりの映画「ロード オブ・ザ リング」は見ましたか?
主人公「フロド・バギンズ」は、ホビット族(小人族)です。
「バギンズ」の住んでいる家は、土で覆われています。
屋根に土をかぶせた竪穴式住居に住んだのは、縄文人だけではなく、
弥生人もけっこういたようです。ホビットもそうとは!笑えました。

作者J・R・R・トールキンは、コーンウォールの出身です。
コーンウォールの有名人といえば「ホレイショ・ホーンブロワー」。
言わば日本の鞍馬天狗?小説上の人物です。最後には提督にまで上
り詰める海軍軍人で、イギリス海軍・帆船・その操作・海戦などに
ついて、実に詳細に書かれています。ハヤカワノベルズで出ていま
したが、最近見かけません。寂しい。
ホビット族のなかに「ホーンブロワー家」が出てきた時も笑えました。

[2687] マッキーはストライキ?  マルヤ [Mail] [Url] 2002/03/17(Sun) 00:55 [Reply]
寂しい紋じゃ、伯父貴の言葉が掲示板に踊らん日が続いて・・・。
毎日毎日紋の伯父貴にどつかれて、マック君も故障したか。いや、ストライキかいな。
ワイはお陰はんで、伯父貴の処方箋を守ってます紋で元気でっけど、紋の伯父貴は今ごろどないしてはりまんねんやろな。どなたはんか知りはれしまへんやろか?
そや!ほかの人の為にもなるやろ、もう1回「紋の処方箋」書いとくわ。

●ピロリ菌をやっつけるには、ココアが良い、珈琲をやめてココアを毎日飲むこと。
 (胃の調子悪いのは、ピロリ菌のわるさかもしれへんねんて)
●風邪を予防するには、ビタミンCを補給すること。

あんさんらもまあ一回続けてみなはれ、調子よろしでっせ。

[2686] 勾玉と銅鐸  Setoh 2002/03/16(Sat) 20:19 [Reply]
 巨大なものも微少なものも同じ形、と言うのがフラクタルと思っていいでしょう。例えば三陸海岸の地図とその海岸の岩の一部とかが相似形ということ。
 さて,勾玉ですが,一体何の形でしょうか。魚,胎児,釣り針,獣牙,三日月などの説があるようです。日本列島、新潟県、川の洲など国土のイメージが思われます。則ち勾玉は国土の魂で,人格神としては,大国玉神,大国主神となるんでしょう。
 従って,八千矛の神の名で越後の沼河比売のもとに翡翠を求めたのでしょう。勾玉は国土のフラクタルであったと言えましょう。
 三種の神器とは鏡、剣、玉で,王権、武力、生産の象徴だそうですが,国津神がこの地を支配していた頃には玉が王権の象徴だったはずで,それが零落して三番目の生産の神になっています。

 神器とは何でしょう? 神そのもの,神の依り代,今で言う御神体でしょうか。
 三種の神器には,銅鐸は入らなかったのは何故でしょう。
 銅鐸と勾玉の関係は何かあったのでしょうか?
   勾玉を祀るための道具が銅鐸?
   拝殿前の鈴のようなもの?
   それとも全く別世界のものだったのでしょうか?

[2685] 英国と香港  Setoh 2002/03/15(Fri) 18:29 [Reply]
蠅声なすでのてつさん>神話・伝承の世界
てつさん>『古事記・日本書紀を歩く』 林豊 著 JTBキャンブックス 1995  P10 
てつさん>昭和46年に兵庫県教育委員会が発行した沼島の民俗調査報告書によると、
てつさん>海外からやってきたと考えられている古代海人族は、…彼らにはタブーが
てつさん>あって、直接大陸や本土に上陸せず、何よりもまず拠点とすべき小島を探
てつさん>したという。…」

五十猛命の足跡をたどってみますと,
対馬壱岐と九州
隠岐と出雲石見
佐渡と越後
などといかにもそれらしいのですが,確認できましてありがとうございます。
台風の軌跡上に神社が分布すると言う話よりは信憑性が高そうです。

[2683] イザナギノ命について  雄一 2002/03/13(Wed) 17:46 [Reply]
本来、男神(イザナギノ命)のみで神生みする行為は、罪を犯す事だと思います。
しかし、それを知っていて神生みしたのでしょう?(途中になっている国生みの為にも)
その結果、イザナギノ命自身も根堅州国に行く事になったと思いますが。

[2682] 初春の小旅行報告  Setoh 2002/03/12(Tue) 20:34 [Reply]
揖保川を遡って見ました。香具さんから予備知識として,山々の姿は不自然だと聞いていましたので,観察してみました。
姫路市近辺(揖保川沿いではありません) 対岸の四国の香川県高松氏の西側の山々とよく似ていて,神奈備型の三角形の山が多く見えます。意識的に三角形に削ったのかも。
祝田神社の鎮座する林田(揖保川沿いではありません)辺りから,山々は削ぎ取られているように見えます。
揖保川沿いの山崎辺りからは,徹底的に削ぎ取っています。恐らく現在の道路工事の比ではないすざましい光景だったと思われます。巨人の仕業のように見えた事でしょう。標高200m−300m程度の高さの山々が上の方から幅の広い筋のように表面を削ぎ取られているのです。

 この作業は鉱物資源の採取と精錬でしょう。
 想像するに、川下の禿げ山の採取し易い鉱物資源の豊富な山肌を削り取り、下のほうへ落とす。
 二つか三つ上流の山の木々をとことん伐採し,放置する。放置して置いて燃えやすくなった木々を燃料に,精錬を行い、純度の高い金属を取り出す。土を見ただけですが,銅ではと思いましたが、どうでしょうか。
 木々がなくなったら,山をひとつ上流にシフトする。勿論禿げ山になっているので,削ぎ取りやすい。このようにしてどんどん上流に行く。
 山に木々が復活するのを待って,(百年か二百年後)この作業を繰り返す。
 これをやられれば,ほとんど保水能力はゼロ,稲作は不可能に近かったのでは。
 八伎大蛇に稲田姫が喰われるのを防いだ素盞嗚尊の存在を感じる揖保川の風景でした。
 初春の小旅行報告でした。

[2681] Re[2680]: 古事記について  Setoh 2002/03/12(Tue) 19:51 [Reply]
1.素盞嗚尊は伊弉諾尊単独で誕生しているのに何故、母のいる根の国に行きたいと泣いたのか?
3.山城の八坂神社に祀られている八柱御子神の八島篠見神、五十猛神、大屋比売神、抓津比売神、大年神、宇迦之御魂神、大屋毘古神、須勢理毘売命の中に女神が混じっています。誰と誰でしょう?

[2680] 古事記について  雄一 2002/03/11(Mon) 23:50 [Reply]
古事記における問題点は、男神と女神の間に生まれた以外の神が存在することでしよう。
特に泣沢女神に始まり須佐之男までは、イザナミノ命とイザナキノ命が苦労して共に生みき14島・35神に比較して安易に生まれているように感じます。
その問題点を以下に記します。
1 イザナキノ命は「なぜ始めから一神のみで御子神を生まなかつたか?」
2 それらの神の多くは国造の祖であるのに、14島・35神には一神もいないのか?
3 根堅州国の須佐之男の娘に須勢理毘女がいるのに出雲の須佐之男の娘にいないのか。
4 高天原を追放された須佐之男は「なぜすぐに根堅州国に住まなかつたのか?」
以上のことは、これまでに私が書いてきたことにも関係があります。
答えについては、明日書かせていただきます。

[2679] 知多半島報告−3  習志野のてつ [Mail] 2002/03/10(Sun) 17:27 [Reply]
以前一度紹介しましたが再度。
愛知県知多郡東浦町緒川に入海神社があります。
境内一帯は、「入海貝塚」(いりみかいづか)であり
縄文式土器の一典型、「入海式土器」が出ています。

当時緒川に居住した穂積氏忍山宿弥命(ホヅミノウジ
オシヤマノスクネノミコト)を訪ねた。そして、その娘
の弟橘比売命を妃として、同伴し東征(蝦夷征伐)に向
ったと云われる。
http://club.pep.ne.jp/~t.mizuno/root_miz08_1.html

亀山市のHP、市の概要、歴史では、
忍山神社の祀官忍山宿弥(オシヤマノスクネ)の娘弟橘媛
が、日本武尊の妃となり…と書かれています。
http://www.city.kameyama.mie.jp/gaiyo/rekisi.html

こんな話もあります。
日本で最初に恋文を出したのは日本武尊。相手は弟橘姫命
http://www.tokai.yusei.go.jp/kameyama/page23.htm

・日本武尊が、死にそうになって行った先は、亀山能褒野
実は弟橘姫命の実家だったから。 ←私説

・穂積忍山は、一家を挙げて日本武尊に賭けた。
結果は弟橘姫の犠牲はあったものの、見事成功
本人も息子も相模の国の国造になっています。
相模国二之宮・川匂(かわわ)神社のHP
http://www.mars.sphere.ne.jp/kodaino-kaze/sagami/jinja/kawawa.htm

[2678] 無題  Setoh 2002/03/10(Sun) 14:31 [Reply]
hinさん,熊野水軍のお話、ありがとうございました。よくわかりました。

所で弟橘姫はどこから日本武尊に同行していたのでしょうか。尾張の美夜受姫の家に入り込んだ時には,美夜受姫は弟橘姫に遠慮してお断りしたなんてことはないんしょうね。
 弟橘姫は穂積氏の姫で,穂積氏の祖は饒速日尊の四世孫の大水口宿禰命です。で,大水口宿禰命を祀る神社を日本武尊のコースから探してみました。by『平成祭礼データ』
奈良県 見当たらず。
三重県亀山市野村町 忍山神社
愛知県稲沢市矢合町 鈴置神社
   中島郡平和町 内荒神社
静岡県見当たらず。
神奈川県 見当たらず。
尚、滋賀県甲賀郡水口町の水口神社は式内社で本拠地かも。大水口宿禰命の母親が淡海川枯姫で近江です。

 橋を造る時の人柱にされて泣きながらとか知恵を絞って回避する話がありますが,もし,乗船前に生け贄にするのであれば,人身売買か人さらいで,連行したのかも。

[2677] Re[2671]: 風上  習志野のてつ [Mail] 2002/03/10(Sun) 08:10 [Reply]
> …遣唐使が唐で娶った女とその母親を…海中に捨てています。

 「天平宝字七年(763)渤海使節を送った帰りの船に便乗して遣
唐使として行った学生(がくしょう)高内弓(こうのうちゆみ)が帰っ
てくるときに海が荒れた。そうすると高内弓の現地妻と幼児、さ
らに乳母を一緒に海に放り込んでいますね。もう一人僧侶も海に
投げ込まれ、のちに船の責任者が処罰されている。」『ヤマトタケル』
尾張と美濃の英雄伝説・P207・森 浩一・1995年・大功社

この本はとても興味深い事に、その直前に走水(はしりみず)の、
渡海について以下のことも記しています。
「…横須賀の久里浜から千葉の金谷へ行くところはかなりきつい・・・
三浦市を中心に約20の洞窟があり,弥生から古墳時代にかけての卜骨、
占いの骨がものすごく出て来る。日本では…壱岐の原の辻遺跡につい
で2番目に多い…明らかに殺された人間、解体された人間の骨が出て
くる。…動物の解体の方法と同じ順序で、解体された骨が出てくる。
だからおそらく海を渡る前に…人間を殺して犠牲にするような…
非常にきつい海ではないか…」
実は走水神社近辺の伝説では、弟橘姫は船出の前に、岸から海に飛び込ん
でいます。神社のすぐ目の前の岩場に、「御座島」と云うのがあり、
御座島 ⇒ 日本武尊と弟橘姫命が別れを惜しんだ場所。とされています。
地元の人々の(人間を殺して犠牲にしていた時代の)記憶が、弟橘姫の話に
投影されているのではないかと思います。詳しくは下記HPに
http://www.mars.sphere.ne.jp/kodaino-kaze/sagami/jinja/hashiri.htm


[2675] 熊野水軍から  hin [Url] 2002/03/08(Fri) 22:07 [Reply]
5年ほど前に調べて書いた幼稚なものがあります。
熊野水軍から、九鬼水軍、そして、知多半島の千賀水軍にいたる
近世の要約です。間違いもあるかもしれませんが
ご興味ある方、どうぞ。古代史のページにすいません。

[2674] 参拝について  雄一 2002/03/07(Thu) 22:27 [Reply]
大神神社には三月に参拝します。詳細はメールでSetoh様にお送りしてありますのでご確認ください。(約束通りに行きますので、宜しくお願いします。)

[2673] Re[2672]: 伊加里姫社  Setoh 2002/03/07(Thu) 22:08 [Reply]
日出倭>舞鶴地方はかつて笠郡(ウケノコホリ)
日出倭さん,ありがとうございます。「笠」はウケ,豊受のウケ,漢字の間違いですか?

水銀産地に丹生神社がない!三重の足見田神社に日本武尊が祀られていない!!

話は変わりますが,日本武尊の名はご存じ小碓の命。石臼は鉄鉱石をつき砕く精錬の道具でもあり,どうやら尊は金属精錬に関係する神ともいえそうです。
 足が三重になる話は水銀中毒のイタイイタイ病を思わせます。足見田神社の鎮座する四日市市水沢(すいざわ)に水銀鉱山がありました。

http://www.milai.pref.mie.jp/mie-lib/sisetu/tiiki/refe/kouzan.html
「三重県の鉱山」と言うHPから
(2) 水沢鉱山
 四日市市水沢町の宮妻峽を上ったところにあり、古代には芦田郷と呼ばれ芦田音の集団が住み水銀を掘っていたといわれている。その当時、鉱害はあったようで、「あしみだ」の名は「足痛」からきていると云われている。水沢村史(明治20年)によると数十年前に採掘したが廃鉱になったが、明治6年に再び採掘されたが、続かなったと記されている。品質はすこぶる良いと記されている。
 鉱床は、マグマが上昇し冷やされたれた時に地表付近で辰砂と自然水銀ができた。

とあります。しかしここ辺りには丹生神社や丹生都姫を祀る神社は見当たりません。地図を見ていますと四日市でも少し東の伊坂町に丹生水神がありますが,残骸かも。

[2672] 伊加里姫社  日出倭 [Mail] [Url] 2002/03/07(Thu) 20:43 [Reply]
私の記憶が確かならば、丹後の伊加里姫社は現在舞鶴市の笠水神社に合祀されて
いたと思います。当地では水に関係した女神は罔象女命に習合されることが多い
ようです。

舞鶴地方はかつて笠郡(ウケノコホリ)と呼ばれていましたが、「笠」を「カサ」
と誤読したことから加佐郡となりました。1871年の廃藩置県の際、加佐郡一
帯を治めていた田辺藩は、紀伊や山城の田辺と紛らわしいとの理由で田辺の地名
を使うことを許されませんでした。やむなく田辺城の美称である舞鶴を地名にし
たのですが、地名選定時の候補には笠水もあったそうです。

[2671] 風上  Setoh 2002/03/07(Thu) 14:48 [Reply]
 名前を忘れてしまったのですが,遣唐使が唐で娶った女とその母親を帯同して日本への帰路に嵐に遭遇しました。
 女を乗せているからでしょうか,人身御供として海の神に差し出したのか,女達を海中に捨てています。この時代においてもこの様な事が行われていたことを考えますと,日本武尊はやはり弟橘姫を海に捨てたのでしょうね。いやがる姫を荒れ狂う海へ突き飛ばす,これは男の風上におけまへん。とも考えられますね。

[2670] 天下の奇祭・珍祭  習志野のてつ [Mail] 2002/03/06(Wed) 23:30 [Reply]
知多半島ではないですが。
愛知県丹羽郡で三月に二つの豊年祭が行われます。
扁之古(へのこ)祭と宮於祖々(おそそ)祭です。

田縣神社[タアカタ] と大縣神社[オホアカタ](名神大)は例の如く
神奈備神名帳 http://www.kamnavi.net/en/owari.htm#niha

● 三月十五日に近い日曜?、犬山市大県神社・姫の宮於祖々(おそそ)祭
犬山市大県神社は尾張二の宮。
● 三月十五日、小牧市の田縣神社で扁之古(へのこ)祭
田県神社にチン座する大男茎形(おおおわせかた:男性の性器)
これを見て、触って「野も山もみなほほえむや田縣祭」
毎年新たに檜で作成し、長さ2M、太さ60CM
それを厄年の男達が400kgの御輿にして担ぎ、練り歩く。
田縣神社社務所 TEL 0568-76-2906 詳しい写真下記
http://bonn.cool.ne.jp/garou2/tagata.html 

[2669] Re[2665][266*]来島  桜左近 2002/03/06(Wed) 15:36 [Reply]
Setohさんどうもありがとうございました。

>古座川の河口沖に九龍島(くろう島)がありますよ。明治初期までは黒島の名。
>熊野水軍の根拠地だったとのこと。弁財天を祀る九龍神社が鎮座しているそうです。お隣に鯛島。

偶然とは恐ろしいものですね。(笑)
古座といえば、沖縄のコザ市(今は無い)も同じ漢字を使うのかどうか興味が湧き、調べたことがあります。ま、種子島に熊野神社があるように、古代から熊野の人は航海術に優れていたので。ところが、実際はイヤハヤ・・・でした、下記のURLを参照してみてください。

http://www13.big.or.jp/~msk/tisen/90/90121.html

[2668] 知多半島報告2  習志野のてつ [Mail] 2002/03/05(Tue) 22:27 [Reply]
知多半島の先端は、羽豆岬です。ここに羽豆神社があります。
神奈備神名帳(玄松子さん[2661]ありがとう)によれば
 羽豆神社[ハツ] リンク 羽豆神社
 羽豆神社[はづ]「建稻種命」白鳳年中創建。知多半島の先端
 に鎮座、周辺はウバメガシの林。
 愛知県知多郡南知多町大字師崎字明神山2
    http://www.kamnavi.net/en/owari.htm#tita

海を隔てた三河の国に幡豆(はづ)郡
三河の国、幡豆郡吉良町は、吉良上野介(きらこうずけのすけ)
で有名です。ここにも羽豆神社があります。
またまた神奈備神名帳(いつも大変お世話になります)
 羽豆神社[ハツ]
 幡頭神社[はず]「建稲種命」建稲種命は日本武尊東夷御征討か
 ら帰途海上で御薨去、御遺骸この岬に着かれたのをお祭りした。
 愛知県幡豆郡吉良町大字宮崎字宮前60
   http://www.kamnavi.net/en/mikawa.htm
いずれの神社も海に面した高台に、まさにそこに有るべき
存在として鎮座。地元の人々の崇敬も厚い感じです。
伊勢から東への海路と伊勢湾の海上交通を押さえ、
日本武尊の軍に協力した、尾張水軍の力を、強く感じました。

[2667] 井光神社  マルヤ [Mail] [Url] 2002/03/05(Tue) 20:15 [Reply]
吉野古代三部族のひとつ井光族の祖神、井光(井氷鹿)を祀る井光(イカリ)神社が、吉野郡川上村にあります。小生の下記の頁に写真がありますので、よろしければご覧ください。
http://www5.ocn.ne.jp/~miyosino/yosinoji2_003.htm

[2666] Re[2665][266*]  大三元 [Mail] [Url] 2002/03/05(Tue) 18:05 [Reply]
瀬藤さん、レスありがとうございます。
>しかし,白雲別命や豊水富・光井女の神名は丹後には見つかりませんでした。
えぇ。古くから式内ではないようですが、丹後風土記残欠には「伊加里姫社」があり、丹後国内神名帳の「正三位 伊加利比売明神、従五位上伊加利明神」に対応しているようです。(海部穀定著『原初の最高神と大和朝廷の元始』p420)。
祭る人がいなくなって(吉野系の人がいなくなって?)神社もなくなっちゃったんでしょうかねぇ。

[2665] Re[266*]  Setoh 2002/03/05(Tue) 08:47 [Reply]
左近さん,古座川の河口沖に九龍島(くろう島)がありますよ。明治初期までは黒島の名。熊野水軍の根拠地だったとのこと。弁財天を祀る九龍神社が鎮座しているそうです。お隣に鯛島。

大三元さん,ありがとうございます。笠水彦命を祀る笠水神社は舞鶴市公文名に鎮座しています。しかし,白雲別命や豊水富・光井女の神名は丹後には見つかりませんでした。丹後では豊宇気神に席巻されちゃったのかも。日出倭さんに探して頂きましょう。
 奈良では當麻町長尾の長尾神社が水光姫命、白雲別命を祭神としています。なぜ吉野ではないのかが不思議ですが,當麻町には倭文の名を持つ神社が鎮座、丹後との共通項かも。

[2664] 九龍島は間違いでした  桜左近 2002/03/05(Tue) 03:09 [Reply]
申し訳ありません。
九龍島は私が地図に書き込んだ字でした。
水軍のことを調べていたときに、九鬼氏の熊野水軍の横に「×くるしま(九龍島か)」とメモしたものを、今回「九龍島」の場所と勘違いしてしまいました。クルシマとは云うまでもなく、来島氏の伊予水軍のことです。
大変お騒がせしてすみませんでした。お詫びして取り消します。

[2663] Re[2662][2654]吉野連  大三元 [Mail] [Url] 2002/03/05(Tue) 00:04 [Reply]
ごぶさたしてます。久しぶりに興味のある話題があったので・・・

> > 吉野連 加彌比加尼之後也。(中略)有光井女、(中略)妾是自天降來白雲別神之女也。名曰豊御富。(神武)天皇即名水光姫。今吉野連所祭水光神是也。

そっくりさんが、丹後風土記残欠にあり、それについて一文を掲載しておりますので、ご参考までに。

http://www.dai3gen.net/tango_yosi.htm

[2662] Re[2654]吉野連  マルヤ [Mail] [Url] 2002/03/04(Mon) 22:28 [Reply]
>  マルヤさんのご先祖かも知れない吉野連です。
> 吉野連 加彌比加尼之後也。(中略)有光井女、(中略)妾是自天降來白雲別神之女也。名曰豊御富。(神武)天皇即名水光姫。今吉野連所祭水光神是也。
>  女神をこよなく愛する気持ち,ご先祖からのDNAでしたか。
>  水光とは水銀にピッタリですね。

この吉野連の旧姓は首で、「日本書紀」天武天皇十二年十月己未条に「・・吉野首・・・賜姓曰連」あるように天武から連の姓を賜った地名のもとづくもののようですが、この吉野首は井光(井氷鹿)族の裔ですが、かれらが斎祀った神はSetohさんの言われる水光の女神だったようです。
このミヒカ姫は、またの名を豊御富(トヨミホ)といい、「新撰姓氏録の研究」佐伯有清著に以下のように書かれています。

豊御富の「豊」は豊穣の意で美称。「御」は接頭語で「霊」(ミ)と同根である。ここでは神の「もの」を表わす語。「富」は「トミ」と読まれているが「ホ」(穂・秀)と解すべきではあるまいか。とすれば豊御富は豊かな植物の穂、もしくは稲穂を意味する神名となり、水神の名としてふさわしい。

やはり、ふくよかで魅力たっぷりな女神のようです。

[2661] Re[2657]: 知多半島報告1  玄松子 2002/03/04(Mon) 21:36 [Reply]
> 神奈備神名帳(勝手に名付けてすいません)

アイコン付いてますよね。 http://www.kamnavi.net/en/index.htm

[2660] Re[2659]: 雲、九龍島、九鬼  桜左近 2002/03/04(Mon) 21:29 [Reply]
Setohさん> この「雲」はお空にポッカリと浮かぶ雲でしょうか。
>おそらくは嵐を呼ぶ黒く速く低く飛ぶ雲でしょうね。龍は雲を興します。

辞書には「cloud」とのみあり、どちらか分かりかねます。が、多分黒雲でしょうね。
NAGAスネヒコかな?。参考までに書くと、IZAは「lord, master etc.」です。

和歌山の地図をみて、熊野の沖に「九龍島」という島があり、もとは熊野水軍九鬼氏の
本拠地だったことを知りました。命名が比較的新しい島なら関係ないかもしれませんが。
もう一つ教えていただければありがたいことがあります。
古事記で、「石押分の子」が「吉野のクズの祖」とあり、同じように尾が生る「井氷鹿」
のほうは「吉野首等の祖」などと、細かく分かれているようです。その一方で常陸国風土記
にもクズ(国巣)が出てくるようですし、何かクズの定義みたいなものはないのでしょうか?

[2659] 無題  Setoh 2002/03/04(Mon) 18:33 [Reply]
桜左近さん>このNAGAに「鮫」とか「雲」の意味もあるのは興味深い。
この「雲」はお空にポッカリと浮かぶ雲でしょうか。おそらくは嵐を呼ぶ黒く速く低く飛ぶ雲でしょうね。龍は雲を興します。

玄松子さん>鯉が滝を登って龍になるという石です。
子供の頃「甍の波」の意味がわからなかったことを思い出しました。滝は柱,鯉は錦蛇でしょうか。
大陸での龍神崇敬は民間信仰と仏教(仏法を護持する機能もあるとか)とどちらが早かったかはわからないようですが,日本に入って固有の蛇信仰と結びついたのでしょうね。
蛇と虹が対なら龍とオーロラと言う説がやはりあるそうです。オーロラはビデオしか見ていませんが,龍は綺麗との観念があったのかも。

習志野のてつさん>開囓神
面白いですね。出雲の熊野大社の摂社の伊邪那美神社に合祀されています。この摂社はそれこそ近辺の神々を33座も祀っています。石見の邇摩郡に冠神社と言う神社がありここにも飽咋之大人神と言う名前で祀られています。熊野も山の方です。海に近い所では速佐須良姫命がその役割を果たしたのかも。

[2658] 鯉魚石  玄松子 2002/03/04(Mon) 13:58 [Reply]
金閣寺に行くと、北側の通路に、鯉魚石というのがありますね。
中国での「登竜門」の故事によるもので、鯉が滝を登って龍になるという石です。

魚と滝のイメージが龍なのか。ふと思いました。

[2657] 知多半島報告1  習志野のてつ [Mail] 2002/03/04(Mon) 11:54 [Reply]
先月友人と先月知多半島巡りをしました。
知多半島のほぼ中央部に、愛知県知多郡阿久比(あぐい)町があります。
  神奈備神名帳(勝手に名付けてすいません)によれば、
阿久比神社[アクヒ]  http://www.kamnavi.net/en/owari.htm#tita
阿久比神社[あぐい]「開囓神」愛知県知多郡阿久比町大字阿久比北下川49

開噛神(あきぐい)とは?と調べてみると、飽咋之宇斯能神
(あきぐいのうしのかみ)、のことでした。
イザナギが、「黄泉」の国(死者の世界)から妻イザナミを連れ返そうと、
そこに行って、帰ってきたとき、つまり「黄泉帰った=よみがえった」とき、
死の汚れを祓うため、禊ぎをした。この「禊ぎ祓へたまひき」最初に色々な
持ち物を投げ捨て、なかで、投げ捨てた御冠(みかがふり)から生まれた神
=飽咋之宇斯能神(あきぐいのうしのかみ)。諸々の罪穢れを、大きな口を
開けて飲みこむ神です。冠=帽子を、いつも大きな口を開いていると見たて
たようです。 でも何故こんな所に?
 阿久比町は,知多半島で唯一、海に接していない町なのです。
疑問の深まる旅でした。
散歩のために、この辺の地理などを解説するHP
http://www.geocities.co.jp/Outdoors/7812/Walking/Agui/orange01.html


[2656] Re[2651][2650]: 観自在  香具 [Mail] 2002/03/04(Mon) 11:23 [Reply]
> ここで、着目すべきことは、天界・地獄という垂直方向の世界観との関係ですね。
> ジャックと豆の木やバビロンの塔は、この分類ですね。
> 龍もこの世界観の産物?

今となっては、産物というより混合物?・・・始まりはどうだったのでしょうね。
天壇を設けて天帝を祀るのは天子、もとは天帝でなく祖霊でしたか。
地獄の観念は、もっと後からのような気もします。
もっとも龍の上下運動については、中華街で見る龍踊りの影響です。(^^)

[2655] Re[2639][2638][2637]: なぜ足すの?  桜左近 2002/03/04(Mon) 05:42 [Reply]

斜めから失礼します。(^^;

>  イザナミ命と眷属神で九蛇神。

なるほど・・Setohさんはイザナミ命は「蛇神」と理解されているわけですね(おまけの眷属神とは単に動物霊みたいなものですから)。
となると、谷川健一さんの著書「日本の神々」(岩波新書)に≪イザナキ(ナミ)の「ナキ」はサンスクリットのナーガ(蛇)の変形だ≫とあるのが意味を持ってきます。イザ(Iza)は同じサンスクリットで「支配者」という意味であり、またナーガ(NAGA)は「顔は人、蛇の尾を持つ」デーモンだそうで、土雲(尾を生やした人)との関係が気になります。
NAGAは地下(根?)の国に住む。このNAGAに「鮫」とか「雲」の意味もあるのは興味深い。

#久しぶりの書き込みでうまくないかも。(^^;

[2654] Re[2653][2652]: 無題  Setoh 2002/03/03(Sun) 21:57 [Reply]
猛烈な台風とともに稲妻が光る。海は荒れ狂い・・・,五十猛大神様のお怒りかと人々はおそれおののいた。と言うイメージでしょうか。

話はコロッと変わりますが,『新撰姓氏録』に女神を祖神とする唯一の氏族が掲載されているのを最近知りました。『馬・船・常民』網野善彦、森浩一両氏の対談集です。学術文庫。
 マルヤさんのご先祖かも知れない吉野連です。
吉野連 加彌比加尼之後也。(中略)有光井女、(中略)妾是自天降來白雲別神之女也。名曰豊御富。(神武)天皇即名水光姫。今吉野連所祭水光神是也。
 女神をこよなく愛する気持ち,ご先祖からのDNAでしたか。
 水光とは水銀にピッタリですね。

[2653] Re[2652]: 無題  玄松子 2002/03/03(Sun) 18:44 [Reply]
>
> ♪ここは串本向かいは大島♪に雷公神社と言う神社が鎮座しています。五十猛命を祭神としていますが,雷神の要素を探して見ないといけませんね。

これ、知りませんでした。面白いですねぇ。
枝分かれしながら地上に向かう稲妻は、天に逆さに生えた「樹木」と見たのでしょうか。
それとも、落雷が主に樹木に落ちるため、雷神は木に降臨するというイメージなのか。
あるいは、その音響の猛々しさから五十猛命なのか。
考えれば、可能性はまだまだありそうです。


肥前の與止日女神社の神使は、ナマズで、海から川を遡り、與止日女神のもとで数日滞在するそうです。この辺りもツチグモが跋扈していた地域ですね。
山間部の閉ざされた世界と、開かれた海洋民との唯一の交流は、川ですね。

[2652] 無題  Setoh 2002/03/03(Sun) 18:14 [Reply]
玄松子さん>中国では雷を雷公というそうで、紀元前の『楚辞』や『雲仙雑記』にも登場します

♪ここは串本向かいは大島♪に雷公神社と言う神社が鎮座しています。五十猛命を祭神としていますが,雷神の要素を探して見ないといけませんね。

『楚辞』や『三皇本紀』にはどうやら九頭の大蛇や龍が記されているそうで,「クズの神を祀る神社」の冒頭に掲載しておきました。残念ながら原本を直接引用したものではありません。

 九頭龍は日本が縄文時代をやっている段階で,大陸では語られていたはずです。また大和高原などにいたクズの民におそらくは蛇神信仰があったとして,後世、クズの民が九頭龍と出会った際、これこそ我らの神と取り入れたのかも。

 話は変わりますが、八伎大蛇の物語の原型を戀山伝承に求められたkokoroさんの慧眼に敬意を表します。これとよく似た話が播磨にもありますので,紹介しておきます。

『出雲国風土記』 「ワニが阿伊の村にいる玉日女命を恋い慕って、川をのぼってやってきた。その時、玉日女命が石で川を塞いだので、会うことが出来ないまま慕っていた。だから、恋シタイ山という」

『播磨国風土記』穴禾郡安師の条「伊和の大神は安師比売神を娶ろうとして妻問された。その時この神は固く辞退して許さない。そこで大神は大いに怒って、石を持って川の源をせき止め,三形の方に流した。」

神様がふられる話,ちょっと面白いですね。他にも話があるんでしょうね。

[2651] Re[2650]: 観自在  玄松子 2002/03/03(Sun) 14:23 [Reply]
>  巨大な柱状まで発展できるでしょうか。

雲間から差し込む陽光の神々しさ。 竜巻の脅威。 巨木の霊性。
柱状の持つ神聖さは、現実社会でも体験できるものではないでしょうか。

ここで、着目すべきことは、天界・地獄という垂直方向の世界観との関係ですね。
ジャックと豆の木やバビロンの塔は、この分類ですね。
龍もこの世界観の産物?

[2650] Re[2614]: 観自在  香具 [Mail] 2002/03/02(Sat) 23:50 [Reply]
 龍のモデルとして以前TVで揚子江ワニが紹介されていました。Z状に鎌首を擡げて、雨雲の方を向いて啼くそうです。これは龍の形象としてのモデルですね。
 龍の持つダイナミックなエネルギーとしてのモデルは、雷や瀧、氾濫する河川、竜巻、渦巻などがあったのでしょう。

 蛇と龍を比べたとき、龍には、天に昇り海に潜る、上下昇降の様子が印象にあります。身のうねり方も縦に上下するような絵が多いようです。
 それに対して蛇は、草を掻き分けて進んだり、水面をスルスルと泳いだり、大地に密着した水平な運動です。身のうねり方も横へ『蛇行』します。イメージは似ているようで、運動の仕方は異なるみたい。
 ということで、自然に実在する動物と、観念の産物を比べるのはおかしいですが、龍には天と地を結ぶ、橋渡しのような縦の運動を思ったりしています。

 さて、玄松子さんのNo.[2614]のご投稿から、

> 霊視・幻視・錯視の別はともかく、一般に「見える」と言われる物体の形は、それほど複雑なものではないのではないかと思います。
> 通常は、丸い形、あるいは、それが流れて帯状になったものでしょう。光の玉もその系統かもしれません。

 カスタネダ的かもしれませんが、大切なことが書いてあるように思いました。巨大な柱状まで発展できるでしょうか。真に『観る』ことは難しいのでしょうね。

[2648] Re[2647][2645][2627][2626]: どなたか教えて  マルヤ [Mail] [Url] 2002/03/01(Fri) 23:40 [Reply]
福島さん、こんばんは。さっそくありがとうございます。

> 横から失礼します。
> 『天の八衢(あまのやちまた)』、天の日子番の邇々藝の命が天降ります時に居た所。
> ですから、『やちまたひこ・やちまたひめ』では?。

あ、そうですね。「衢」の字はチマタと訓むのですね。
「ヤチマタヒコ、ヤチマタヒメ」ですね。ありがとうございました。

[2647] Re[2645][2627][2626]: どなたか教えて  福島雅彦 [Mail] 2002/03/01(Fri) 23:24 [Reply]
> ○正しくは、佐宇止加身神社(佐宇止神社とも)です。【止】が抜けていました。
>  祭神は佐宇止加身大神で、●八衢彦大神 ●八衢比売大神 ともいう。
> と「五條市史」を見直して見つけましたが、それでもこの神はよく分かりません。
>  ヤクヒコ、ヤクヒメとでも読むのでしょうか?
> 所在地は、五條市三在町645 龍池神社境内。
> JR和歌山線の北宇智駅と五條駅の中間位で国道24号線沿いにあって、すぐ横には宇智川が流れています。

横から失礼します。
『天の八衢(あまのやちまた)』、天の日子番の邇々藝の命が天降ります時に居た所。
ですから、『やちまたひこ・やちまたひめ』では?。

[2646] Re[2641]: 春です。  マルヤ [Mail] [Url] 2002/03/01(Fri) 22:56 [Reply]
瀬戸内さん、こんばんは。
昨秋は「香椎宮」のすばらしい写真を提供くださってありがとうございました。

> 春が来ました。自然の営みに驚きを感じます。
> 神様に感謝 感謝

もうすぐ啓蟄。本当に春ですね。
小生は50歳を過ぎたくらいから「感謝」の気持ちがやっと芽生えてきたような気がします。
それまでは仕事と遊びに夢中で、特に感謝ということも考えずにやってきたようです。
今は自分のPCの前の壁に、
「祈りとは、今日一日を感謝し 今日の一日を反省して 明日への希望を誓うことです」
と紙に書いて貼ってあります。
遅すぎて恥ずかしいことですが、人の気持ちなどが幾分か分かるようになって、少しは大人になってきたかな?と思っています。

[2645] Re[2627][2626]: どなたか教えて  マルヤ [Mail] [Url] 2002/03/01(Fri) 22:27 [Reply]
神奈備さん、お尋ねした下記の社名、間違っていました。すみません。

> 佐宇加身神社
> 「佐宇」のつく神名は佐々宇良毘古,毘売
> 「宇加」は宇加御魂神,若宇加之売命や豊宇加之売命
> 「加身」は出ず。
> ???

○正しくは、佐宇止加身神社(佐宇止神社とも)です。【止】が抜けていました。
 祭神は佐宇止加身大神で、●八衢彦大神 ●八衢比売大神 ともいう。
と「五條市史」を見直して見つけましたが、それでもこの神はよく分かりません。
 ヤクヒコ、ヤクヒメとでも読むのでしょうか?
所在地は、五條市三在町645 龍池神社境内。
JR和歌山線の北宇智駅と五條駅の中間位で国道24号線沿いにあって、すぐ横には宇智川が流れています。

[2644] Re[2642]: 人が想像する雷は、いろいろ  玄松子 2002/03/01(Fri) 21:28 [Reply]
> > 雷→龍というのは、よくわからない。いつ頃の発想なのか。古代からなのか。
> 4世紀初期に書かれたと思われる『「山海経」海内東経』に、雷沢の中に雷神あり。龍神にして人頭なり。とあります。

「山海経」『大荒東経』に登場する雷獣は、一本足の牛です。

同じような龍身・人頭の鼓が登場しますが、これは山の神ですね。
龍そのものとして登場する応龍は雨神です。東・西・南の神々は双龍を乗り物としており、龍は神の一部、神の象徴と考えられています。

中国では雷を雷公というそうで、紀元前の『楚辞』や『雲仙雑記』にも登場しますが、その姿は太鼓を叩く力士。
東晋代の『捜神記』の霹靂の頭は猿。
唐代の『投荒雑録』の雷公は猪頭に身体は麒麟。『唐国史補』の雷公は豚。
元代の『三教捜神大全』では、鶏の形。
というふうに、もう、いろいろですね。(大修館書店 『中国神話伝説大事典』)

[2642] Re[2640][2637]: 蛇神の履歴書  Setoh 2002/03/01(Fri) 20:16 [Reply]
> 雷→龍というのは、よくわからない。いつ頃の発想なのか。古代からなのか。
4世紀初期に書かれたと思われる『「山海経」海内東経』に、雷沢の中に雷神あり。龍神にして人頭なり。とあります。もっと古そうに思いますが,神奈備は文献も勉強も不足で。

『古事記』に龍の文字はないと「2613」で書きましたが,序文に竜がありました。訂正します。
飛鳥の清原の大宮に大八州御しめしし天皇の御世に○<「既」の下に「旦」>(オヨビ)て、潜竜元を体し、○<さんずいへんに「存」>雷期(センライキ)に応じき。
角川文庫の現代語訳 飛鳥の清原の大宮において天下をお治めになった天武天皇の御世に至っては,まず皇太子として帝位に昇るべき徳をお示しになりました。

 教養が邪魔をして意味がわかりにくいのですが,竜と雷とが出てきます。この共通点。
1.嵐を呼ぶ。2.婉曲している。3.少子部連スガルが捕らえた神(ひとつは蛇ですが)

 稲妻を動物の仕業とすれば竜のようなものを発想したのかも。

[2640] Re[2637]: 蛇神の履歴書  玄松子 2002/03/01(Fri) 15:01 [Reply]
> 縄文と弥生の架け橋か 素盞嗚尊。 次の根の国の支配者,金属文化の要素も。
>  素盞嗚尊は尾に天村雲剱を持つ八伎大蛇を蛇の韓鍬の劔で退治する。
>  強力な渡来系蛇神。劔は蛇の象徴になる時代か?
>  素盞嗚尊は根の国で葦原色許男に通過儀礼を施し大国主神とする。

スサノオは、蛇を退治した英雄。
土着の蛇族を、渡来の牛族(牛頭天王)が退治したと見た方が、神話的には面白い。
大陸における、龍の象徴・黄帝と、鉄の牛・蚩尤の抗争の歴史の影響と見るとさらに面白い。

牛族のスサノオは、やがて、蛇族のオオナムチに権力を譲る。中国も禅譲の時代に入ったのか。あえて抗争を行わず天命に准じる。その後、オオナムチも天孫へ譲る。このあたりの権力の移動方法は、中華的神話の発想で語られている。実際はわからないけど。

ところで、
蛇→龍という発想は、理解できる。
ワニ(鮫)→ワニ(爬虫類)→龍も。
雷→龍というのは、よくわからない。いつ頃の発想なのか。古代からなのか。

ところで、
龍の敵対者・牛を神使とする道真も、雷神。
これはまったく根拠の無い後世の付会だとされていますが、
龍=雷はどうなんだろう。雷信仰そのものは、古代から存在していたとは思う。

[2639] Re[2638][2637]: なぜ足すの?  Setoh 2002/03/01(Fri) 13:55 [Reply]
> メデューサの姉妹(ゴルゴン3姉妹)には、ステンノ(sthenno)ってのが居ます。スサンノって読むと、怒られるのか。
ゴルゴンステンノ→牛頭天王??

 イザナミ命と眷属神で九蛇神。
 イザナミ命は根の国を素盞嗚尊にまかして,天岩窟から天照大神として再生するんでしょうね。

伊邪那美命言さく、「愛しき我がなせの命かくせば、汝の国の人草、一日に千頭絞り殺さむ」とまをしき。ここに伊邪那岐命、詔りたまはく、「愛しき我が汝妹の命、汝然せば、吾一日に千五百の産屋立てむ」とのりたまひき。

(問題2)この頃の人口はどの位だったでしょう。

 一日に1000人が死ぬと言うことから一年に365千人死ぬと言うことです。生まれるのは548千人。平均寿命を30年と想定しますと,人口は365*30=10950千人と言うことになります。

【解題】 この内女性が半分の5470千人,出産可能年齢の女性は30%として1643千人
547/1643=0.33。則ち,三年に一人のペースで子供を産むことになり,上記仮定に無理はありません。このペースで人口は増え続けると,42年〜60年で倍になりますね。

[2638] Re[2637]: なぜ足すの?  玄松子 2002/03/01(Fri) 10:27 [Reply]
九尾の狐は、狐から9本の尾が出てるわけで、十尾とは解釈されません。

> 『古事記』黄泉国のイザナミ命の姿
>    蛆たかれころろきて、頭には大雷居り、胸には火雷居り、腹には黒雷居り、
>    陰には析雷居り、左の手には若雷居り、右の手には土雷居り、左の足には
>    鳴雷居り、右の足には伏雷居り、并せて八の雷神成り居りき。
> 【算数の問題】:八雷神とイザナミ命と合わせれば,全部でいくつの神でしょうか?

イザナミの8パーツが、雷神に化身したということじゃないですか。
イザナミは、八雷神の合体メカだった、という印象。

この部分は、ギリシャ神話のメデューサのモチーフの変形かもしれない。
メデューサの姉妹(ゴルゴン3姉妹)には、ステンノ(sthenno)ってのが居ます。スサンノって読むと、怒られるのか。

[2637] 蛇神の履歴書  Setoh 2002/03/01(Fri) 09:40 [Reply]
縄文蛇神の写真を別荘にコピーしました。

縄文時代? 先に移住してきた民,大地母神。
 これはイザナミ命に通じ,黄泉の国に隠れる。根の国。埋葬のイメージ。穴。室。
『古事記』黄泉国のイザナミ命の姿
   蛆たかれころろきて、頭には大雷居り、胸には火雷居り、腹には黒雷居り、
   陰には析雷居り、左の手には若雷居り、右の手には土雷居り、左の足には
   鳴雷居り、右の足には伏雷居り、并せて八の雷神成り居りき。
【算数の問題】:八雷神とイザナミ命と合わせれば,全部でいくつの神でしょうか?
 イザナギ命は大石で根の国の出入り口に蓋をする。
 磐境の起源を語るとすれば面白い。蛇は根の国の使者か?自在に行き来できる。

縄文と弥生の架け橋か 素盞嗚尊。 次の根の国の支配者,金属文化の要素も。
 素盞嗚尊は尾に天村雲剱を持つ八伎大蛇を蛇の韓鍬の劔で退治する。
 強力な渡来系蛇神。劔は蛇の象徴になる時代か?
 素盞嗚尊は根の国で葦原色許男に通過儀礼を施し大国主神とする。
 
国土開拓の大国主神
 大穴遅命で,穴のイメイジがある。出雲大社の神奈備山の洞窟には蛇。
 大国主命と少彦名命とで国作。少彦名命が去り、大物主が登場。
 
国譲り
 『日本書紀』一書に曰く
 大国主命の住むべき日隅宮を造営。
 帰順した首渠は大物主神および事代主神なり。
 事代主命の去り方はワニを思わせる。同時並行的に天孫族にもワニの血は注入されていく。
 
海神
 ワニは海神で,この辺りから大型の蛇神としての龍神の原型が出来ていくのでは。

この履歴書では入社は出来ませんね。やっぱりね。

[2636] Re[2635] :どっち?  習志野のてつ [Mail] 2002/03/01(Fri) 09:21 [Reply]
> 「ツチグモ」…は縄文人なのでしょうか。弥生人なのでしょうか。

 [2630] にカキコした様に、神体特徴、住居の状況は縄文人です。
 ただこれを攻撃する人々(ヤマトタケル)は古墳時代人で、矛盾が
 生じます。
 
 考古学では、弥生人との接触が始まったと思われる頃、石の鏃が、
 急に大きく、大量に出るようになる。大型の生き物(=人間)を
 対象にしている。この時点で争いがあった。次に弥生人と縄文人が
 そこそこ平和に共存しだした頃、古墳時代人征服があった。
 この時の特徴は馬です。『この二つの国内の征服戦が、神話に記述
 されている』が、私の立場です。今のところ、仮定です。

 文字に依る記述をする以前は、時間が螺旋的に流れ、現代の様に
 単一直線上に一律に流れているとは、感じていなかったのでは、
 と思いますが,これも仮定ですね。



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