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[3100] Re[3099]: 赤玉青草目白黒  玄松子 2002/06/30(Sun) 19:49 [Reply]
> > 新潟では、佐渡方面(日本海)で、光り輝く玉が出現し新潟へ上陸したといい、これを「天灯」と呼ぶ。
> この伝承は度津神社と弥彦神社との関連で語られているものでしょうか?

北蒲原郡笹神村の旦飯野神社で聞いた話ですから、弥彦と直接に関係あるのかどうかわかりません。

漢字に拘るのは危険ですが、旦飯野神社の「旦」は朝日。光る玉が海からやって来る感じですね。
新津市にも旦飯野神社がありますが、こちらの字名は、もろに朝日です。


> > 天日矛は、葦原志挙乎や伊和大神ら、出雲系の神々と争った。
> これからいくと,伊和大神≠五十猛神となりますね。

ここは、普通に大己貴系と見ておきましょう。

[3099] 赤玉青草目白黒  Setoh 2002/06/30(Sun) 17:02 [Reply]
> 新潟では、佐渡方面(日本海)で、光り輝く玉が出現し新潟へ上陸したといい、これを「天灯」と呼ぶ。
この伝承は度津神社と弥彦神社との関連で語られているものでしょうか?

> 天道(てんとう)法師,天日矛
紀氏の祖神の天道根=天日矛,ではないかと。
「名草の神々−56−」から
『日本書紀』によりますと、仲哀天皇がおもむいた際に、築紫の伊都縣主の先祖、五十迹手(いとて)が出迎え、天皇はほめて「伊蘇志(いそし)」と言われて、これが伊都となまったと出ています。 『筑前国風土記』によりますと、この五十迹手は「高麗の国の意呂山(おろやま尉山(うるさん))に天から降ってきた日桙の末裔」と名乗っています。この伊蘇志臣と言う氏族は大和国にいて紀氏の祖神である天道根命の後也とされます。紀氏と同族です。

> 天日矛を奉じる人々に占領された地では、丹生を祀り
紀の国に丹生神社が多いのは,紀氏・天日矛・や五十猛命などの親近さ(新羅系)を示しているのかも知れません。
余談ですが,『亀岡市史』で、亀岡の式内社の項では,伊達神社の祭神五十猛命を高天原系と分類していました。素盞嗚尊が追われた際,一緒に樹種を持って新羅に天降った神ですから,純粋な出雲系ではなさそうです。『亀岡市史』の編集には上田正昭氏(亀岡穴太宮の小幡神社宮司)が関与されているようです。

> 天日矛は、葦原志挙乎や伊和大神ら、出雲系の神々と争った。
これからいくと,伊和大神≠五十猛神となりますね。

[3098] Re[3097]:青草[127]>>>> 見れば見るほど綺麗なカーブ。  玄松子 2002/06/30(Sun) 11:38 [Reply]
> 日本海に上陸の丹生系氏族は秦氏とか息長丹生氏だったのかも。ともに天日槍との関連がありそうです。

天日矛は、赤玉から生まれた姫を追って、日本へ上陸した。

日本海側には、光る玉に関する伝承が多い。
隠岐では、「神光」と呼ばれ、光の玉が出現し、漂流者を導き、あるいは災いとする。
新潟では、佐渡方面(日本海)で、光り輝く玉が出現し新潟へ上陸したといい、これを「天灯」と呼ぶ。

天灯(てんとう)。対馬で深く信仰されている天道(てんとう)法師は、
天日矛が追ってきた姫と同様、日輪によって妊娠した子。

天日矛は、葦原志挙乎や伊和大神ら、出雲系の神々と争った。
出雲勢力地である、出雲や越には、丹生神社がない。(ただし、似た名はある)
が、光る玉の伝説は、隠岐(出雲)や佐渡(越)に残る。

天日矛を奉じる人々に占領された地では、丹生と祀り、
対抗し打ち勝った地では、光玉の伝承となった。

かなり、青臭い話ですが。

[3097] Re:青草[127]>>>> 見れば見るほど綺麗なカーブ。  Setoh 2002/06/30(Sun) 10:45 [Reply]
日本海に上陸の丹生系氏族は秦氏とか息長丹生氏だったのかも。ともに天日槍との関連がありそうです。
市毛勲著『朱の考古学』によると,朱砂の採掘までは紀伊丹生氏は出来たようですが,精錬して水銀まで持っていく技術は上記氏族だったのではと指摘しています。当否は別ですが。彼らは日本海に上陸し,中央構造線沿いに進出したのかも。

丹沙の産地であったろう高野山の付近は紀伊丹生氏の本拠地だったのでしょうが,採掘跡が残っておらず,神社名と祭神以外に丹沙についての伝承も残っていません。そうとうに古い時代の露天掘りに近い丹沙の採掘で留まっていたのかも。
彼らは南九州から中央構造線沿いに丹沙をさがしつつ紀州にやって来たのでしょう。

[3096] Re[3095] : [3030]の自己レス  Setoh 2002/06/29(Sat) 17:35 [Reply]
> * 『日本の古代』「王権をめぐる戦い」
> * 『日本の古代』「海人の伝統」
読む度に新しい発見があるいいシリーズですね。

埴輪に替わって人身御供の風習は消えていったのでしょうか。

宗像三比売神をして洪水を鎮めるべく、川の中へ投げ入れた幼い娘達の名としていたのは原田大六氏の『銅鐸への挑戦』にあったような。これは氏の想像だったと思いますが。

神話としては,八咫大蛇と八稚女、大物主と百襲姫に残存し,めでたく神婚譚に発展。

万葉集巻二  和銅四年歳次辛亥、河辺宮人、姫島松原見嬢子屍、悲嘆歌
妹が名は 千代に流れん姫島の 小松か末に こけむすまてに

また,吉野川でやはり娘の水死体の歌か話があったようですが,これは事故かな。

[3095] Re : [3030]の自己レス  習志野のてつ [Mail] 2002/06/27(Thu) 11:41 [Reply]
6月7日付け [3030]で以下のことを書き込みました。
「森浩一さんの本で、三浦半島の東京湾側の祭祀跡の洞窟に、祭りに使われた
と見られる人骨が大量に出てくるそうです。つまり人身御供?  縄文の頃
の話なので、倭武の古墳時代とは余りに時代が違いますが、海の荒々しさは
同じだったのでしょう。」

出処判明しました。が、私自身の誤解もあったので、少し長いですが
再度書き込みます。

森浩一『関東の考古学』学生社、1991年4月
第7章P291、「三浦半島の卜骨」
海蝕洞窟…の中から、おもに弥生時代と古墳時代の墓が発掘されています。
…日本で出てくる卜骨の約半数が、あの狭い三浦半島に集中している…
 −ここでの卜骨は、主に鹿の骨を占いに使ったものでした。

同P294、「三浦半島の人骨」
三浦半島の卜骨の出る大浦山洞窟では、ばらばらに解体された弥生人の骨が
出ています。…出た十体の人骨を見ると規則的に解体されている。動物を解
体するのと同じ方法でやっている、外すべきところから骨を外し、頭蓋骨に
穴をあけて脳みそを出したりして、…
 −卜骨が出るのと同じ洞窟から、解体された人骨も出るーでした。
  又、縄文時代ではなく、弥生・古墳時代でした。

 今のところすべて又引きです
* 『日本の古代』(中央公論社)の第六巻「王権をめぐる戦い」
* 『骨から見た日本人のルーツ』岩波新書
* 『日本の古代』「海人の伝統」
* 『新・日本史への旅』(朝日新聞)の「東日本編」
また卜骨は、横浜市の「県立博物館」に並んでいるそうです。

[3092] Re[3091][3088]: 筑豊、吉備  Setoh 2002/06/26(Wed) 17:34 [Reply]
> 「吹く谷」で「福谷」。
>

姫社神社の立地。高梁川南岸,金山とされた麻佐岐山の北麓。
総社市秦の隣、秦には本殿を設けない式内社二社。
吉備の臍かも。
行かなくては。実は行ったことがない。

[3091] Re[3088]: 筑豊、吉備  吉備徐福 [Mail] 2002/06/26(Wed) 06:37 [Reply]
> 備中下道(岡山県総社市福谷)に姫社神社が鎮座,「比賣許曾神」を祭神としています。
福谷について興味があります。
鉄などを作るとき風(空気)が必要ですので″福″は吹くではないかと思います。
鉄鉱石・銅鉱石などからの製造で、かかすことのできない。「吹く谷」で「福谷」。

[3090] Re[3089]: 刀つくりの神→さなぎ  玄松子 2002/06/25(Tue) 22:52 [Reply]
> 『天目一箇神をして
> 雑(くさぐさ)の刀・斧及鉄(おのまたくろがね)の鐸
> (さなぎ)をつくらしむ』岩波文庫『古語拾遺』P19

この文章では、作ったのは鐸じゃないかな。
「くさなぎ」に通じる感じではありますね。

[3089] 刀つくりの神  習志野のてつ [Mail] 2002/06/25(Tue) 22:32 [Reply]
ときたま話題になった刀つくりの神、見つけました!

天目一箇神です。金属を溶かす炎を見て、眼をやられ、
目一つになる。ある意味当然ですが『天目一箇神をして
雑(くさぐさ)の刀・斧及鉄(おのまたくろがね)の鐸
(さなぎ)をつくらしむ』岩波文庫『古語拾遺』P19
また天目一箇神について〔筑紫・伊勢の両国の忌部が祖
なり〕同P15とも書いています。
雑(くさぐさ)の刀?筑紫忌部?です。

[3088] 筑豊、吉備   内海を照らす その五  Setoh 2002/06/25(Tue) 09:59 [Reply]
備中下道(岡山県総社市福谷)に姫社神社が鎮座,「比賣許曾神」を祭神としています。
神社の由緒書きから
祭神ひめこその神は鉄造りの神として浮上。ひめこそ神社は九州に二社、中国地方に一社、大阪に一社ありてアイアンロードとして取り上げられ古代吉備の国の製鉄の発祥と考えられる。ひめこその神は天文年間の古文書に現存す。以上
比賣許曾神は別名赤留比売命で,天日槍神が尻を追いかけた女神で,筑紫、豊から瀬戸内経由で摂津へ逃れたようです。天日槍神を祀る巫女神であり、天日槍神と同神ともできるでしょう。

この神は吉備に足跡を残しているのは社由緒のように”鉄”だったのでしょう。
備中一宮の吉備津神社の摂社に岩山社がありかっては生石大明神とよばれていました。巨石信仰のようで,吉備津神社の創祀にかかわっているのかも。
 この「生石」は天日槍が将来した神刀の「イササ太刀」が飛んでいったとされる淡路島(洲本市由良生石崎)の出石神社のまたの名前の生石神社と同じで,吉備と天日槍との深いかかわりを感じます。

 吉備児島はかっては島だったようで,その北側の岡山平野も浅海だったようで,いりくんだ湾が形成されていたようです。そのような湾を穴海と云うそうで,これは普通名詞なのか吉備付近でよばれたのか,言語音痴ゆえ判りませんが,”穴”はやはり,天日槍を祭神としているのではとされる穴師坐兵主神社を思い起こします。天日槍を奉じる氏族の支配した湾を穴海と云うと考えられないでしょうか。

 吉備津神社の創祀は加夜臣奈留美命,天日槍の後裔がいたと云う伊都国には秀麗な可也山がどこからでも見えるといっても過言ではありません。
参照 http://www.kamnavi.net/it/tukusi/maebaru1.htm
 また[3069]に記したように,伊都国の高祖神社,託杜神社の祭神を赤留比売命とする説があり,その神はまたの名を加夜奈留美命と云うのかもしれません。
賀茂の下照比売もでてくるのかも。

[3087] Re[3086]: 神社名と祭神  Setoh 2002/06/24(Mon) 20:35 [Reply]
祭神に関する見解ありがとうございます。

出雲の佐太神社には「祕説神」が四座鎮座しています。これは判っているけれど秘密と云う神でしょう。御神体に神名が書いてあるのかも。誰も見ることが出来ないとか。

海神社と云う式内社も散見されますが,茫漠とした海の神を祀っていて,綿津見,椎根津彦命,豊玉彦,住吉神、倉稻魂であろうと,要するに「海神」であればよかったとは言えないでしょうか。

 権力が登場して権力者の祖先を神とするようになってから,祭神についてうるさくなったので,原始の神社発生期には,あの山に坐す水神を迎えようといったようなものだったのでしょう。

いずれにしても,「名を知られる」ことは言霊的にも面白くないことだった,名乗っても普通名詞。
固有名詞「丹生家信」が「狩場明神」に,更に「高野明神」へ昇華していった。これも習合かと。

[3086] 神社名と祭神  習志野のてつ [Mail] 2002/06/24(Mon) 16:40 [Reply]
「依らしむべし、知らしむべからず。」
かつての為政者の方針です。同じことが、神社でも行われました。
つまり祭神を取り立てて宣伝しない。行き過ぎて、祭神不詳の神社
まで出てくる始末です。祭神の変更があっても、とくに一般民衆には
知らせずにいました。このため祭神の追加変更は比較的簡単でした。
一方神社名の変更は、皆に判ってしまうため、困難でした。
〔習合とは、半ば乗っ取られたこと〕ではないでしょうか。
青草話かとも思います。皆様のご批判を仰ぎたいと思います。

[3085] Re[3084][3083]: 狩場明神誕生  なにがし 2002/06/24(Mon) 01:41 [Reply]
> 『紀伊続風土記』では,”神の誕生”を宗教的表現でとらえていないないようですが,人間であった丹生家信の死亡時が即ち狩場明神の誕生とも理解出来ます。
> 狩場明神が祖霊となって高野の地主神である高野明神と習合したと云うことはありえますね。
>
setoh様。ありがとうございます。おっしゃられる通りなんです。

[3084] Re[3083]: 狩場明神誕生  Setoh 2002/06/23(Sun) 18:45 [Reply]
> 或は傳ふ此地狩場明神誕生の地なり
> 当時の婚姻制度は通い婚でしたっけ

通い婚で夫人の家で生む,と云うのは十分ありえると思いますね。
また,子供を実家で育てるのは大王家などにはしばしば見えますね。

『紀伊続風土記』では,”神の誕生”を宗教的表現でとらえていないないようですが,人間であった丹生家信の死亡時が即ち狩場明神の誕生とも理解出来ます。
狩場明神が祖霊となって高野の地主神である高野明神と習合したと云うことはありえますね。

[3083] 丹生酒殿神社  なにがし 2002/06/22(Sat) 23:41 [Reply]
setoh様
先ほどこちらのHPの丹生酒殿神社を見なおしておりましたとき、ふと思いついたことを。
1)摂社 祀狩場明神
と言うことは、今は高野明神ですが、紀伊続風土記の成立時は高野明神ではなく、狩場明神であったと言うことで、もしかしたら、この時代狩場明神から高野明神への変化が結構あったのかも知れません。
2)或は傳ふ此地狩場明神誕生の地なり 
今まで私も「これは誤やろ」と思っていましたが、ふと思ったのは、700年代出産は実家に戻ってやっていたとかあれば、この説は誤りにはならないと思いました。当時の婚姻制度は通い婚でしたっけ?確かこの当時は現在とは結婚制度などなどかなり違っていましたよね。可能性あるのかなあ?子供も母方の家で育てたと、TVで言っていた記憶があるのですが。
と言うのも、丹生家信(=狩場明神と言われている?人物)が丹治氏より丹生氏に養子にきた理由が「家信 丹生照元の甥にあたる故に丹生氏の養子となる」という古文書が残っています。照元の姉or妹が丹治に嫁にいっていたとして、出産の時に丹生氏の実家に戻っていたのであれば誕生の地がかつらぎ町三谷であると言うのは正解!当時そう言う風習なければ誤りです(恐らくは明日香村が誕生の地)。

[3082] 熊襲、吉備、紀伊 弾唱その四  Setoh 2002/06/22(Sat) 10:22 [Reply]
[3081]> 小生の見つけた神社は合祀前に丹生集落にあった丹生神社跡です。
吉備徐福さん,ありがとうございます。

青草[103]
玄松子さん> 熊襲=建日別、吉備児島=建日方別。
この指摘は素晴らしい。

日本の古代2『列島の地域文化』p321参照。
話は国生みの時代から古墳時代へ進み(戻り),瀬戸内海の海運の証として阿蘇山系の凝灰岩で造られた石棺の分布の話があります。

熊本菊池か大分あたりから船に積んででしょうが,石棺が
愛媛県松山
香川県観音寺
岡山市 造山古墳
岡山県赤磐郡
兵庫県揖保郡
京都府八幡市
大阪府藤井寺市
和歌山市 大谷古墳
から出てきています。この石は比較的柔らかく粘りがあるので石棺へ加工しやすかったそうです。新素材だったのか、出身地の石を使ったのか,いずれにしても運んだのは紀氏ではと推測されています。
使用地域も吉備児島,山城国綴喜郡,紀の国など,「キ」はキイワード,他の地域も紀氏の影が見えます。

玄氏の炯眼指摘のような熊襲と吉備とのより密接な関係ですが,吉備の鬼とされた温羅の妻の名が「阿曽女」と云う巫女だったとか。阿蘇山の火たき乙女のこという説がありますね。
阿曽荘とは岡山市足守のあたりでしょうかね。

[3081] Re[3078]: 岡山県井原市の丹生神社  吉備徐福 [Mail] 2002/06/21(Fri) 06:19 [Reply]

> > 井原の丹生集落にある丹生神社跡。
> ここは高屋の八幡神社の近くですか?

高屋小学校前の八幡神社には丹生集落にあった丹生神社を
合祀しています。
小生の見つけた神社は合祀前に丹生集落にあった丹生神社跡です。
この場所は八幡神社から高屋川を北西に遡ること約3.5`で山腹に丹生集落
があり、ここの集落地「東丹生」に神社跡はあります。
近いうちに再調査に行きます。

[3080] Re[3076][3075]: 吉備ー趣旨は違いますが  Setoh 2002/06/20(Thu) 22:51 [Reply]
> 金毘羅さんに手置帆負命は見つかりませんでした。
児島の由加神社と金毘羅さんとの共通は阿弥陀如来かも知れませんね。阿弥陀堂は若比売社となったとありますが,刺国若比売命とすれば祭神の母神かも。
 または祭神の子女のことかも。再び賀夜奈流美命が浮上してきますね。

なお,讃岐の由加神社について若干補足。
仲多度郡琴平町 春日神社摂社由加社「宇迦之御魂命」金毘羅さんに近いかな。
坂出市高屋町 塩竃神社摂社由加神社「稻倉魂神」
小豆郡内海町 荒魂神社摂社瑜加神社「宇迦之御魂神」
坂出市川津町 大宮八幡神社摂社瑜伽神社「瑜伽大權現」
忌部氏にとって愉快でない?

[3079] Re[3076]: 吉備ー趣旨は違いますが  玄松子 2002/06/20(Thu) 19:13 [Reply]
> 彦狭知命は、紀国造の祖(紀伊国忌部 の祖神)で、ペアになるのは
> 手置帆負命(讃岐国忌部等の祖神) になるはず。
> でも、金毘羅さんに手置帆負命は見つかりませんでした。

岡山市の興除神社の境内社に由加神社がありますが、祭神は、手置帆負命。
倉敷市の福田神社の境内社の由加神社の祭神は、手置帆負神と彦狹知神。

どっちでも良い、あるいは両方でも良い、そんな感じじゃないでしょうか。

[3078] 大和、吉備、出雲 談章その三  Setoh 2002/06/20(Thu) 16:44 [Reply]
Re[3073]
> 岡山県倉敷市あたりに丹治氏の痕跡。
『和名抄』によると,備中国英賀郡(アカ)に丹部郷がありました。赤丹。新見市ですから山の方ですが。

Re[3075]
> 吉備名称の発祥は「木見」からとの説があるそうです。
ありがとうございます。児島の由加神社の近くですね。交通の要所のようですね。
余談ですが玉野市広岡に五十猛神社が鎮座,すぐ隣が木目と云う処ですね。

> 井原の丹生集落にある丹生神社跡。
ここは高屋の八幡神社の近くですか?

所で,備中の吉備津彦神社の創祀は加夜臣奈留美命との社伝があるそうですね。この神は飛鳥川上流に鎮座する加夜奈留美命神社の祭神で,『出雲国造神賀詞』で,大穴持命が国土を天孫に譲って出雲の杵築へ去るに当たって、自らの和魂と子女の御魂を大和に留めて皇室の守護とすべき事を誓うのですが,その中に 「賀夜奈流美命の御魂を飛鳥の神奈備に坐せて」とある神のことですね。真偽はともかく,出雲族の吉備への進出(飛鳥経由?)の足跡のように見えますね。
なお,『神賀詞』では,阿遅須伎高孫根の命の御魂を、葛木の鴨の神奈備に坐せ、ともあります。

Re[3077]
> 奈良市に瑜伽(ゆうが)神社というのがあります。
この神社も「平城遷都に際し元興寺とともに奈良に遷された飛鳥の神奈備」と『神社寺院大事典大和紀伊』にありますが,「飛鳥の神奈備」とは,賀夜奈流美命に使われた言葉ですね。
ゾクゾクしますね。

[3077] 由加と瑜伽  玄松子 2002/06/20(Thu) 12:34 [Reply]
奈良市に瑜伽(ゆうが)神社というのがあります。
祭神は宇迦之御魂大神と豊受大神。「うか」のみたま、とよ「うけ」。
共に、御食に関連する神ですが、岡山の由加(ゆが)大神と関連ありませんかね。

[3076] Re[3075]: 吉備ー趣旨は違いますが  習志野のてつ [Mail] 2002/06/20(Thu) 08:32 [Reply]
趣旨は違いますが
> 瀬戸大橋線木見駅の付近。近くに、熊野神社や由加大権現があります。
> 井原の丹生集落にある丹生神社跡に由加大権現と関係する刻字が
> あり、木見も丹生も古代吉備発祥に関係しているのかも?
[3067] 気比、吉備、紀伊 談笑その一  Setoh
[吉備 岡山県和気郡和気町 由加神社に忍熊王命碑がある。]

 由加神社について
岡山で由加神社と云うと、普通は倉敷児島の由加神社になります。
瀬戸内海の対岸、香川の金毘羅さんと並んで、「両参り」として、
江戸時代までは大変栄えたそうです。御祭神?は、阿弥陀如来・
薬師如来・彦狭知命となっています。
彦狭知命は、紀国造の祖(紀伊国忌部 の祖神)で、ペアになるのは
手置帆負命(讃岐国忌部等の祖神) になるはず。
でも、金毘羅さんに手置帆負命は見つかりませんでした。

神奈備リンク・晴れの国ネット
由加神社
岡山県倉敷市児島由加山
http://www.harenet.ad.jp/okayama/jinjya/yugasan.htm





[3075] 吉備  吉備徐福 2002/06/20(Thu) 06:08 [Reply]
吉備名称の発祥は「木見」からとの説があるそうですが、
ご存知のお方は教えてください。
瀬戸大橋線木見駅の付近。近くに、熊野神社や由加大権現があります。
井原の丹生集落にある丹生神社跡に由加大権現と関係する刻字が
あり、木見も丹生も古代吉備発祥に関係しているのかも?

[3074] 丹治氏について  吉備徐福 2002/06/20(Thu) 05:58 [Reply]

 はじめまして、なにがし様。

> どちらかと言うと丹治氏といえば銅のイメージなんですが、丹生氏と親戚であったこと考えると朱も扱っていたかも?と思いまして。

丹治氏と丹生氏の関係について知識がありませんので、詳しく教えてください。

[3073] Re[3070]: 古代吉備地方の朱について  なにがし 2002/06/20(Thu) 00:11 [Reply]
> 古代吉備の朱についてお考えをお持ちの片はご教示をお願いします。
はじめまして、吉備徐福様。
うろ覚えですが、岡山県倉敷市あたりに丹治氏の痕跡がありませんでしたっけ?
どちらかと言うと丹治氏といえば銅のイメージなんですが、丹生氏と親戚であったこと考えると朱も扱っていたかも?と思いまして。

[3072] 気比、吉備、出雲 断章その二  Setoh 2002/06/19(Wed) 17:05 [Reply]
奧出雲で地方の新聞を見ていたら,福井のたいしたことでないことが比較的詳しく載っていたので,未だに出雲と北陸との親近さを感じました。
トンネルの仏経山(神名火山)に祀られていた曾枳能夜神社の祭神は伎比佐加美高日子命,この地方はキヒサの里と云うとあるのですが,伎比の里の神である高日子とも思われます。西出雲の豪族が斎祀っていた神ですが,この神を奉じて瀬戸内海へ進出したのが吉備の国を縄文から弥生に引っ張った吉備氏の祖先達だったのではないでしょうか。
玄松子さんの曾枳能夜神社 http://www.genbu.net/data/izumo/sokinoya_title.htm

○岡山県井原市井原に足次山神社が鎮座,以下に由緒。
 古代は「アスキ山」と呼んだが、今は「アスワ山」と呼ぶ。それで阿須波神と道主貴尊を祭神として、神紋は宗像大社と同じ「橿紋」である。しかし福井の足羽川の源流に須波阿須疑神社があるように、百済の神であった阿須波神を祭る理由はない。ここは吉備津彦尊が征服支配した吉備三国成立以前の国境であり、賀茂大御神の葛城王権と備後安芸以西の出雲王朝直轄地を分ける境界の神南備山(現在の天神山)に、≪阿須伎大御神≫を祭ったものである。ここは現在も岡山・広島の県境に位置している。

○岡山市四御神に大神神社が鎮座,その摂社に梨本神社があり,味須岐高毘古禰神が祀られているのもその名残かも知れません。

後に出雲は東出雲の勢力が西出雲を席巻していき,吉備は出雲とは疎遠になり,大和との関係を深めて行きました。吉備津彦が大和の皇子と位置づけられて吉備を征圧,また出雲の振根の討伐に派遣される物語にはこのような歴史が背景にあるのでは,と考えています。

吉備勢力の出雲侵攻の足跡は斐伊川上流沿いに鎮座する吉備津彦命を祭神とするいくつかの神社でしょう。比太神社、粟谷神社,飯石神社などです。
玄松子さんの飯石神社 http://www.genbu.net/data/izumo/iisi_title.htm

また『出雲国風土記』神門郡の条の署名に吉備部臣の名が見えます。

[3071] Re[3070]: 古代吉備地方の朱について  Setoh 2002/06/19(Wed) 09:58 [Reply]
吉備の徐福さん こんにちは。吉備に上陸伝説ありましたっけ。

> 楯築遺跡
白水社の『日本の神々2』に楯築神社が紹介されていますが,吉備津彦命が温羅と戦った際の楯にした岩境の神社で,遺跡もここですか。
吉備津彦命は,新山に城を構えて,石楯を築き・・・,の旧跡とか。
この「新山」って,なんと読むんでしょうか? 

[3060] ではじめましてさんが,「伊根町の新井崎神社は昔、「にうざき」と発音していたとの情報もあります。」と書かれていますので,「新山」は「にうやま」だったら,丹生山かも。

所で松田寿男『古代の朱』によると,備前一宮の吉備の中山付近は「高品位の朱砂の産地であるが,鉄の気は微塵もない」と記されています。そうしますと楯築遺跡出土の大量の朱とは地元で採取されたものかも知れませんね。

温羅真っ赤な髪、血が流れた血吹川、鯉、お釜,ついでに犬飼武の名、何か、丹生を思わせますね。

[3070] 古代吉備地方の朱について  吉備徐福 2002/06/19(Wed) 06:18 [Reply]
倉敷市の楯築遺跡から大量の朱(硫化水銀)が出土していますが
吉備地方の朱は何処から持ち込まれたのか?または吉備地方で生産
されたのか?
岡山県内の赤土(酸化鉄・弁柄・朱砂)は古代は朱生産に繋がっていたのか?
岡山県内には地名から朱に関係すると思われる井原の丹生があり、この地に隣接する地区の赤土は朱色が強いです。
古代吉備の朱についてお考えをお持ちの片はご教示をお願いします。

[3069] Re[3068]: 水銀朱  Setoh 2002/06/18(Tue) 16:09 [Reply]
ありがとうございます。記事によりますと,紀元前後の伊都国の王墓とされる前原・三雲南小路遺跡の北側の周溝(墓の周囲に巡らした溝)から出土した高さ約二十八センチの鉢で内部に水銀朱が最上部まで朱が付いており「あふれるほど朱が入っていた」珍しい発掘例だそうですね。

 このあたりは水銀の鉱床群がある地域と云われていますが,伊都歴史資料館の説明では採掘等の痕跡は無い、とのことです。(福嶋さん 神ログから)

 伊都国には丹生神社と云う名ではありませんが,福岡県糸島郡の高祖神社の祭神の高磯比メ神を丹生都比女命と見る方もおられます。また託杜神社の祭神の託杜メ神を丹生都比女命とする見解もあります。ついでですが,これらの神々を赤留比売神(天日槍が追いかけた女神)とする見方もあるようです。

水銀の鉱床群がある地域では高野山の近辺もそうですが,採掘等の痕跡はなく,本社の丹生都比売神社にも水銀についての話はないようです。

九州では佐賀県藤津郡や大分県に丹生神社が目立ちますが,古い採掘跡としては徳島県もそうです。奈良の宇陀のほうも古い産地だそうです。
卑弥呼の献上品に丹沙があったのですが,広い範囲での交易があったのでしょうね。

[3068] 水銀朱  玄松子 2002/06/18(Tue) 15:14 [Reply]
「弥生時代(紀元前後)の伊都国の王墓とされる、福岡県前原市の三雲南小路遺跡から出土した土器の内側に、赤色顔料の「水銀朱」が付着していたことが十七日、同市教委の調査で分かった。」
   −西日本新聞(http://www.nishinippon.co.jp/)より−

このあたりには、丹生神社はありませんね。

[3067] 気比、吉備、紀伊 談笑その一  Setoh 2002/06/15(Sat) 22:06 [Reply]
忍熊王を祀る神社
気比 福井県丹生郡織田町 劒神社 素盞嗚大神 (配祀)氣比大神 忍熊王。
吉備 岡山県和気郡和気町 由加神社に忍熊王命碑がある。

丹生都姫を祀る式内社
紀伊 伊都郡かつらぎ町丹生都比売神社 
備後 広島県比婆郡西城町 迩比都賣神社
気比 福井県三方郡美浜町 織田神社(式内社の仁布神社の論社)。

丹生姫と吉備津彦

但馬 美含 兵庫県城崎郡香住町 丹生神社 丹生津彦命 丹生津姫命 吉備津彦命
紀伊 在田 和歌山県有田郡吉備町  田殿丹生神社 丹生都比賣命 大名草彦命 (合祀)菊理姫命
紀伊 那賀 和歌山県那賀郡桃山町 丹生神社 丹生都姫命ほか  (合祀)吉備津彦命ほか
紀伊 那賀 和歌山県海草郡野上町 丹生神社 丹生津姫命,吉備津彦命ほか

吉備と気比,関連は深いようです。ただ全然まとまってきません。

[3066] Re[3064][3059][3058][3057][3056]:冠島の古代  Setoh 2002/06/14(Fri) 08:37 [Reply]
日出倭さん発信の凡海郷
http://www5.nkansai.ne.jp/users/oushiama/index.htm
に両島の近影が掲載されています。
このHPの大川神社の項で, 冠島から来た神の伝説と題して,(肉じゃがの材料を持参して?)豊受稲荷大明神の影向が語られています。

 また,冠島には老人島神社が鎮座、祭神は天火明命 日子郎女命とありますね。『丹後風土記残欠』に記されているようです。
また「目子郎女」(めこいらつめ)として,尾張海人の娘ともされています。日と目、一本違いで大違いのようですが,丹後と尾張の近さを示しているようです。

[3065] Re[3063]: 大宮町森本 大屋神社  玄松子 2002/06/14(Fri) 00:47 [Reply]
> 京都府神社名鑑と云うようなものはないうそうですね。

京都府神社略記 京都府神職会、昭11
「略記」なので、期待できませんが。

[3064] Re[3059][3058][3057][3056]:丹後の徐福  マルヤ [Mail] [Url] 2002/06/13(Thu) 23:21 [Reply]
> 履と冠,丹後の方ならお気づきでしょうが,湾内に無人島が二島あり,沓島と冠島と呼ばれています。
> 徐福さんはこの近くに上陸したとか。

徐福さんが上陸したという説は知りませんでしたが、沓島と冠島について以前に何かで聞いたことがあるように思い、以前のメモを見返していて見つけましたので書き込んでおきます。

皇道大本(大本教)の開祖出口なおが、国祖国常立命の神勅だとして、無人島の沓島(めしま)と冠島(おしま)を開いたと言います。
このことは大本の大番頭でもあった浅野和三郎の著作(所載は「近代庶民生活誌」R迷信・占い・心霊現象)にも出ています。それによると、
「出口なお」は王仁三郎と共に、舞鶴の大丹生屋(おほにふや)という船宿から船を出し、別に小島(こしま)大島(おほしま)とも呼ばれていたこの沓島と冠島に小祠を立てこの島を開いた事が書かれており、爾来大本の聖地になっていると云われます。
浅野和三郎は元海軍機関学校の英語教官で(前任の教官はたしか小泉八雲だったと思う)、大本の鎮魂帰神に惹かれて入信した人物です。

[3063] Re[3062][3061]: 大宮町森本 大屋神社  Setoh 2002/06/13(Thu) 22:04 [Reply]

> > 『全国神社名鑑』は、単立なら単立と書かれていますが、大屋神社に関しては、普通の神社と同様に、神社本庁包括とありますよ。

昨日時点の状況です。加盟神社は自らの費用よりお伊勢さんへの上納の重さにまいっているようですが、非加盟だと割り当てはないのかも。ただ神職の確保・教育に問題がでてくるとか。単立では紀の国では日前国懸神宮や淡島神社がそうです。

京都府神社名鑑と云うようなものはないうそうですね。

[3062] Re[3061]: 大宮町森本 大屋神社  玄松子 2002/06/13(Thu) 17:39 [Reply]
執念を感じました。

> > > > 大屋神社ですね。大宮町森本当城328。
>
> 京都府神社庁(松尾大社鳥居横)単立神社(神社本庁に加盟していない) だからわからない。 

『全国神社名鑑』は、単立なら単立と書かれていますが、大屋神社に関しては、普通の神社と同様に、神社本庁包括とありますよ。
『全国神社名鑑』が間違いということもあるでしょうが・・

[3061] Re[3053][3052][3051]: 大宮町森本 大屋神社  Setoh 2002/06/13(Thu) 16:06 [Reply]
> > > 大屋神社ですね。大宮町森本当城328。
> > 『式内社調査報告』第18巻、P422三重神社の項に、「三重神社大屋大明神」という棟札があったと記されている、その程度の情報しかありません。

京都府神社庁(松尾大社鳥居横)単立神社(神社本庁に加盟していない) だからわからない。 
大宮町教育委員会 祭神 木花咲耶媛,素盞嗚尊,不詳二座 うち素盞嗚尊と不詳一座は明治一七年他より勧請合祀とのこと。

[3060] Re[3059][3058][3057][3056]:丹後の徐福  はじめまして 2002/06/12(Wed) 09:16 [Reply]
> 素晴らしい構想ですね。実を結ばれることを祈念いたします。

ありがとうございます。協力してくださって本当に助かります。ここでもしっかり報告させて頂きます。

> 伊根町が有名ですね。やはり稲ですか。

はい。稲別命が地名の由来ということです。

> 履と冠,丹後の方ならお気づきでしょうが,湾内に無人島が二島あり,沓島と冠島と呼ばれています。
>
> 徐福さんはこの近くに上陸したとか。

伊根町の新井崎神社は昔、「にうざき」と発音していたとの情報もあります。中国では日本の「丹生」にあたる言葉として、「丹興県」という地があります。丹後町には丹生神社がありますが、その周辺には「道家」さんが多いのです。

やはり古代の名詞の読みは大変ですね。なにか便利なアドバイスなどあれば教えていただきたいのですが…。

[3059] Re[3058][3057][3056]:丹後の徐福  Setoh 2002/06/12(Wed) 07:53 [Reply]
> 豊受や稲、丹薬(丹生)、風水、道教等を帰納的に徐福に結んでいきたいわけなのです。
素晴らしい構想ですね。実を結ばれることを祈念いたします。

以下青草話。
伊根町が有名ですね。やはり稲ですか。

道教に関係あるのかどうかですか,漢の時代の“君子行”に
  
  瓜田に履を納れず李下に冠を正さず

と云うのがあり,ご承知のように「疑われそうなことはすんな」と云う諺です。
履と冠,丹後の方ならお気づきでしょうが,湾内に無人島が二島あり,沓島と冠島と呼ばれています。

徐福さんはこの近くに上陸したとか。

[3058] Re[3057][3056]: 教えてください。  はじめまして 2002/06/12(Wed) 02:41 [Reply]
> ところで、なぜ逆鉾神社について調べているのでしょうか、なぜ読みが必要なのでしょうか。

調べていただいてありがとうございました。

なぜ、調べているかといいますと、丹後半島の豊受に関するもの、稲に関するもの(倉稲魂等)は徐福に関係があるのではないかと一つ一つ洗い出していました。私は徐福は丹後半島に入ってきたのではないかと考えておりまして、その関連で調べていました。読みにこだわるのは、とにかく情報の少ない時代ですから、そういった観点からも徐福につながる何かがわかるかもしれないと思うからです。豊受や稲、丹薬(丹生)、風水、道教等を帰納的に徐福に結んでいきたいわけなのです。紀元前2世紀の遺跡が丹後半島加悦町に出ているのも興味があります。(日吉が丘遺跡)
神社に当たっていくのも中国民間道教が神道の基ではないかと考えるからです。

[3057] Re[3056]: 教えてください。  玄松子 2002/06/12(Wed) 01:24 [Reply]
> > 「逆鉾」という記述はありませんが、どこから出たのでしょうか。

『式内社の研究』第四巻に、「明治二十二年にすべて合併の話があり、京都府の許可により、諏訪神社に三谷・逆鉾の二社の神々をも合祀した」とありました。特別な読み仮名が付いていないので、普通に「さかほこ」でしょう。


> >愛知県に逆鉾社と云う神社がありますが、「さかほこしゃ」と読んでいますね。
>
> この逆鉾社は祭神はどうなっているのでしょうか?わかりましたら教えてください。

國常立命。


ところで、なぜ逆鉾神社について調べているのでしょうか、なぜ読みが必要なのでしょうか。

[3056] Re[3055][3054]: 教えてください。  始めまして 2002/06/12(Wed) 00:39 [Reply]
> 「逆鉾」という記述はありませんが、どこから出たのでしょうか。

宮津の丹後一宮の籠神社が「明治神社明細帳」を元に作成した資料から「逆鉾神社」との記述がありました。

>愛知県に逆鉾社と云う神社がありますが、「さかほこしゃ」と読んでいますね。

この逆鉾社は祭神はどうなっているのでしょうか?わかりましたら教えてください。

[3055] Re[3054]: 教えてください。  玄松子 2002/06/12(Wed) 00:26 [Reply]
> 諏訪神社に合併され、三重神社と改称したようです。

現社名は、三重神社なんですね。
『式内社調査報告』には、昔は、酒戸古大明神と呼ばれ、明治24年諏訪神社・三谷神社と合併し、諏訪神社の地に遷り、その際に三重神社と改称したとあります。

「逆鉾」という記述はありませんが、どこから出たのでしょうか。

[3054] Re[3053][3052][3051]: 教えてください。  始めまして 2002/06/11(Tue) 23:32 [Reply]
「逆鉾神社」についてですが、所在は大宮町三重とまでしかわかりません。旧与謝郡とのことです。祭神は豊宇賀能売です。(他にもあるようですが…)諏訪神社に合併され、三重神社と改称したようです。

ただ、読みに関してはやはり「さかほこ」と読むのでしょうか?

[3053] Re[3052][3051]: 教えてください。  Setoh 2002/06/11(Tue) 22:52 [Reply]
> > 大屋神社ですね。大宮町森本当城328。
> 『式内社調査報告』第18巻、P422三重神社の項に、「三重神社大屋大明神」という棟札があったと記されている、その程度の情報しかありません。

ありがとうございます。百聞は一見と云うことにします。

[3052] Re[3051]: 教えてください。  玄松子 2002/06/11(Tue) 21:06 [Reply]
> そそられる社名があります。御祭神などわかりますか?

大屋神社ですね。大宮町森本当城328。
住所しかわかりません。平成祭データCDにもありませんね。
『式内社調査報告』第18巻、P422三重神社の項に、「三重神社大屋大明神」という棟札があったと記されている、その程度の情報しかありません。

[3051] Re[3050][3046][3045][3044]: 教えてください。  Setoh 2002/06/11(Tue) 20:46 [Reply]
> > なお、大宮町にある神社庁登録の神社は、
> 富持、天神、住吉、菊岡、若宮、大野、皇大、大宮売、大屋、三重、三坂、愛宕、木積、霧宮、中原、三柱、高森、心木、三社 の19社です。by『全国神社名鑑』。

そそられる社名があります。御祭神などわかりますか?

[3050] Re[3046][3045][3044]: 教えてください。  玄松子 2002/06/11(Tue) 20:31 [Reply]
> 京都府大宮町にある「逆鉾神社」は何と読むのでしょうか?旧式内三重神社と伝えることまでは分かっているのですが…。

これ、詳しい所番地は分かりませんでしょうか。
現在、式内・三重神社としては、大宮町字三重に鎮座している三重神社が通説のようです。
『丹後旧事記』では「酒戸古大明神」とあり、近くに「酒戸古バス停留所」があるはずです。別名、酒殿大神、酒所神。by『式内社調査報告』

「さかほこ」と「さけとこ」。なにかありそうな社名です。

なお、大宮町にある神社庁登録の神社は、
富持、天神、住吉、菊岡、若宮、大野、皇大、大宮売、大屋、三重、三坂、愛宕、木積、霧宮、中原、三柱、高森、心木、三社 の19社です。by『全国神社名鑑』。

[3049] Re[3047]: 『平群』の語源に就いて  Setoh 2002/06/11(Tue) 20:01 [Reply]
福島雅彦さん、わざわざのお出まし、ありがとうございます。福島さんのHPを見せていただいておりまして、お礼を申し上げようとしておりました。

> 平群⇒日当たりの良い処。
大和の平群は生駒山と矢田丘陵にはさまれた谷沿いですが,生駒信貴山の東斜面は朝日のよくさす立地で,日当たりの良い処,と言えます。


奥野正男著『邪馬台国の東遷』から

博多湾     /
   −−−−−−/
        曾我
    平群    羽田
 背振山地
=======   I    (甘木)
        ==I基肄
(武雄) 巨勢   I葛木
    −−−−−+−−−筑後川        
  有明海

建内の宿祢の子供を祖とする氏族名が九州の筑後川以北に分布していることが紹介されています。
方法論として,平群の解釈はやはりこれらと同時に解決されるとすれば,朝鮮半島との関連を見ないといけないと云うことですね。

[3048] Re[3046][3045][3044]: 教えてください。  Setoh 2002/06/11(Tue) 19:57 [Reply]
> 京都府大宮町にある「逆鉾神社」は何と読むのでしょうか?
> 旧式内三重神社と伝えることまでは分かっているのですが…。

この神社の存在は知りませんでした。
住所とか御祭神がわかりましたら、教えて下さい。

愛知県に逆鉾社と云う神社がありますが、「さかほこしゃ」と読んでいますね。

[3047] 『平群』の語源に就いて  福島雅彦 [Mail] [Url] 2002/06/11(Tue) 18:00 [Reply]
御問い合わせ賜り、光栄です。ここに書き込んでも宜しいでしようか、と言いつつ…。

※結論から…
“해-꿰”(hae-ggwe)里⇒日、刺す、里(直訳)=日当たりの良い処。

 奈良の平群は東斜面、安房のは東が切り通しに開けた西に。
私が、畿内の古地名は高天原(浮羽)からの移転地名を疑っていますが…。
・明日香⇒夜明け
・橿原⇒樫ヶ平
・香具山⇒香山 etc.

 高天原に「平利山」が、東斜面に在ります。
「平具利」が、佳字二文字への改変で、成ったかと疑っていますが、残念ながら史料が在りません。

[3046] Re[3045][3044]: 教えてください。  はじめまして 2002/06/11(Tue) 17:42 [Reply]
> > 豊宇賀能 口羊 命は「とようかのびのみこと」とよむのでしょうか?
> 神社本庁発行の資料よりますと「とようかのめのみこと」と読むようです。

ありがとうございます。助かります。もう一つ教えていただきたいのですが、京都府大宮町にある「逆鉾神社」は何と読むのでしょうか?旧式内三重神社と伝えることまでは分かっているのですが…。

[3045] Re[3044]: 教えてください。  Setoh 2002/06/11(Tue) 17:19 [Reply]
> 豊宇賀能 口羊 命は「とようかのびのみこと」とよむのでしょうか?
神社本庁発行の資料よりますと「とようかのめのみこと」と読むようです。

[3044] 教えてください。  はじめまして 2002/06/11(Tue) 16:50 [Reply]
豊宇賀能 口羊 命は「とようかのびのみこと」とよむのでしょうか?

[3043] 焼く殺す=焼畑?  玄松子 2002/06/11(Tue) 08:55 [Reply]
フレーザーの金枝篇に、「トウモロコシの母」という女神の話があります。
トウモロコシに女装させ、女神として祀ることにより、トウモロコシの育成を祈願します。で、1年ほどして、その霊力が衰えた頃、その女神を焼き、新しい女神を作り直します。

金枝篇では、これは神殺しの系譜で、神の再生を意味していると説明していますが、古くなり衰えた神は、焼くなり煮るなり流すなりして、殺すというのが本質的なあり方なのかもしれません。
そこに稚い女神の登場する場所ができるということですね。卑弥呼も殺されたというのは青草かな。

[3042] Re[3041]:[3039]、[3040]  Setoh 2002/06/11(Tue) 08:26 [Reply]
花咲じじいの頃は焼畑は多かったのでしょうね。

遺体を埋めてそこへ木を植える。祖霊の宿る木だった。
周辺の木々よりその木が大きく育つことを発見,いや,焼畑の片隅をトイレとして使った。
そのあたりは豊作だった。施肥の概念が誕生。→青草話でっせ。

春日山の山焼きはその後に蕨などが生えて、それを男女が摘みに行くんでしたね。

[3041] Re:[3039]、[3040]  習志野のてつ [Mail] 2002/06/10(Mon) 23:42 [Reply]
> ハイヌウェレ型神話などを見ても思うのですが…
 大野説では、同じ話を、瓜子姫説話として、芋作農業での
民話としています。焼き芋を植えても芽生えません。
生(なま)のまま、バラバラにして埋める話になります。一方で、
焼畑農業は、「稗、粟」作が中心で、焼いて灰にしないと
焼畑じゃないわけです。ここでは輪作(植える作物を変える
農法)を行い、更に、休耕畑も用意します。中世ヨーロッパ
では畑を三区分にしましたが、四区分にしていたらしいです。
「糞尿を肥料と」するのは、更に次の世代、水田稲作ではない
でしょうか。単作(一種類=稲だけ)であるため、追肥を必要
とするようになるのでしょう。
 倭武が、蝦夷を奴隷(捕虜?)として連れ帰り、倭姫に献上
したけれど、乱暴狼藉(神聖なる山を焼いてしまう)のため、
各地に再度分散して住まわせた話があったような…。これは、
水田耕作=稲作農民から見た、野蛮な(風に見える)焼畑農民
に対する蔑視を表現している説、どこかで読んだ記憶がありま
す。このところ、頼りになる外部記憶装置(単なるノート)に
反乱をおこされ(紛失中)、話があいまいで、失礼致します。
 春日山の野焼きは、焼畑に関係有るんでしょうか?それとも
 ただ単に、青草をきれいに成長させるための、草焼ですか?
追肥ならぬ追記は青草掲示板にカキコします。

[3040] Re[3039]: イケニエという発想  玄松子 2002/06/10(Mon) 20:58 [Reply]
>  この物語は、穀物起源説話の死体化生神話に加えて焼き畑栽培の要素が入ってきています。灰の中からの発芽です。 更に言えば、糞尿を肥料としていた痕跡も感じられます。

花咲じじいも、死体化生&焼畑の名残なのだろうか。

[3039] Re[3038][3037][3036][3035]: イケニエという発想  Setoh 2002/06/10(Mon) 17:52 [Reply]
2万年前にアメリカ大陸に渡ってミシシッピ川へたどり着いた原人達は、ベーリング海峡を越えて行ったのか、また大海原を漂ってたどり着いたのか,その子孫かもしれないナチェズ族に伝わる話があります。(出典調査中)

ある女は、籠の上に立ち、股を開いて、身体をふるわせていました。そうするとガサゴソと音がして、籠はたちまちトウモロコシでいっぱいになりました。
 この様子を見ていた少女達は、「あんな汚いものを食べるのはよしましょう。女の大便を食べさせていたのね。」
 女は食事をととのえましたが、少女達は食べようとはしませんでした。覗かれた事を悟った女は言いました。
 「これが汚くて食べられないのなら、私を殺して、死体を燃やしなさい。そうすると夏になったら、その場所から、いろいろなものが生えてきます。それらを畑に植えなさい。美が熟すと美味しい食物になります。それを食べて生きていきなさい。
 少女達が言われた通りにすると、女の死体を焼いた地面から、夏になると、トウモロコシ、カボチャ、豆が生えてきました。

 この物語は、穀物起源説話の死体化生神話に加えて焼き畑栽培の要素が入ってきています。灰の中からの発芽です。 更に言えば、糞尿を肥料としていた痕跡も感じられます。

[3038] Re[3037][3036][3035]: イケニエという発想  習志野のてつ [Mail] 2002/06/09(Sun) 01:30 [Reply]
> > ハイヌウェレ型神話などを見ても思うのですが、
> > 普通の死体を肥料にするという発想はないのかなぁ。

大野晋さんは、死体バラバラ屠り物語を、芋作農業民の
 話だとしています。   Re[3028]   
 小芋を分けてそれぞれ植えると、大量の収穫がある。
 そうです。まさに「バラバラ屠り」まさに、南方
 芋作農民に良くある風習だそうです。
 埴輪が破壊されて埋められるのも、その影響でしょうか。

[3037] Re[3036][3035]: イケニエという発想  Setoh 2002/06/08(Sat) 22:35 [Reply]
> ハイヌウェレ型神話などを見ても思うのですが、普通の死体を肥料にするという発想はないのかなぁ。霊力のある女性なら、地母神としての機能も果たせるし。

直接食ってしまうと云うこともあったのかも。
地母神の血を受け継ぐとか。

[3036] Re[3035]: イケニエという発想  玄松子 2002/06/08(Sat) 22:24 [Reply]
ハイヌウェレ型神話などを見ても思うのですが、普通の死体を肥料にするという発想はないのかなぁ。霊力のある女性なら、地母神としての機能も果たせるし。
肥料という発想は、農業としては新しい気もするけど、経験的に知っていた可能性もある、と思う。あくまでも「思う」です。

[3035] Re[3034]: イケニエという発想  Setoh 2002/06/08(Sat) 16:27 [Reply]
> 橿原神宮のあたりの遺跡からは、「東北式土器」や「土偶」が見つかっているそうです。(ナガスネヒコ?)

面白いですね。ナガスネヒコの末裔の逆襲?


> 花の巌の御綱掛神事の綱は海の中までつなげたらしい

setohも参拝した時には花の巌そのものが海岸に接していると思いこんでいまして,海岸との間に道路があったのにはいささかがっかりでした。JRは奧の方のトンネルですのにね。
この御綱掛神事が大和に伝わったのでしょうか,大和の神社でも矢田坐久志玉比古神社,飛鳥川上坐宇須多岐比売命神社などに残っています。


> マレビトを神としイケニエにする

橋を架ける際の人身御供に通りがかった人をイケニエにすると云う話がありましたね。これは神としてのイケニエでしょうか,神への捧げものと云う事では?
マレビトは神として尊ばれたのは一つには情報でしょうが,新しい血の導入もあったとか。


> ひとつの大家族的集落でイケニエを出すというのは、夢見る母親としては、考え辛いのでした。

母親がイケニエになるしかない、と云うことになりますね。記憶で云いますが,『縄文の女神』とか云う本に,壊された土偶や,また記紀にある稚日女神や百襲姫の死に方を縄文の名残と見る見方があったようです。

[3034] イケニエという発想  ひふみ 2002/06/08(Sat) 02:33 [Reply]
洞窟に埋葬するというのは、海だけでなく山にもあるようです。
確か、大峰山系某所にある無双洞というのが、古代山人の埋葬祭祀跡ではないかと聞いた事があります。
そういえば、花の巌もそうですね。
あの巨石の頂上の洞に、イザナミノ命が埋葬されていると聞いた事があります。
御綱掛神事の時の綱につけられる花も、イザナミノ命の子供や姉妹がたむけた花がルーツだと地元の方に聞きました。
昔は、あの綱は海の中までつなげたらしいですし、これも常世の国へ送る意味があったのでしょうか。
今の日本仏教における祖先崇拝は、日本の神道から生み出されたものだろうとも聞きました。(確かに日本以外の仏教では、自分と先祖よりも、今の自分と前世・来世の自分に重きが置かれているようにも思えます。チベットなど特に。)

ところで、つかぬ事をお伺いしますが、縄文の遺跡からイケニエの祭祀跡が出てきた事例は、どのくらいあるのでしょう。
個人的思い込みですが、イケニエによる祭祀というのは、その社会にある程度の階級差が存在しなければ成し得ないのではないかと思えるのですが、どうなのでしょう。
又、マレビトを神としイケニエにするというのも、定着民族の思想のようにも思えるし。
今よりもっと暖かく、又、母系社会ではなかったのかと思われる縄文の時代において、ひとつの大家族的集落でイケニエを出すというのは、夢見る母親としては、考え辛いのでした。

余談ですが、今日たまたま見ていた奈良テレビ「大和の文化財」という番組で、橿原神宮のあたりの遺跡からは、関西ではここくらいにしかないという「東北式土器」や「土偶」が見つかっているそうです。(ナガスネヒコ?)
又、私事ですが、うちの母方の実家は北長野で代々蕎麦屋をしています。
祖父が、うちの先祖は諏訪から流れて来たと言っていました。
出雲から、流れ流れて・・・?
蕎麦は、米の作れない寒い荒れた大地でも、短期間で結構育ってくれるようです。
今いるこの地でも、昔は作ったらしいですし。


[3033] 無題  習志野のてつ [Mail] 2002/06/08(Sat) 00:00 [Reply]
お騒がせして恐縮です。とりあえず元ネタを探します。
かすかな記憶では、「生者を殺して祀ったと思える」だった?

> 建御名方は諏訪に蕎麦を持ち込んだ神 …いいですね〜♪
個人的にまさに「MY趣味」…根っから青草ですかねー。

[3032] Re[3031][3030]: 焼畑農耕 倭建命は焼畑普及員?  Setoh 2002/06/07(Fri) 16:58 [Reply]
> > 森浩一さんの本で、三浦半島の東京湾側の祭祀跡の洞窟に、祭りに使われた
> > と見られる人骨が大量に出てくるそうです。

南紀でも海岸の洞窟に埋葬する風習があったそうで,海の彼方の黄泉の国へ送り届ける祭礼がなされたのかも。
焼き畑の話に関連しますが,蕎麦は焼畑向きの作物だったそうです。
西日本のうどん 東のそば が麺食い嗜好ですが,出雲は蕎麦嗜好の地です。ズーズーと蕎麦を食うか。
ざるではないのですが,割り子そばはなかなかのもの,また茶色のそばは出雲人が東に持ち込んだとの説もあるようで,建御名方は諏訪に蕎麦を持ち込んだ神かも。
青草向きでした。

[3031] Re[3030]: 焼畑農耕 倭建命は焼畑普及員?  玄松子 2002/06/07(Fri) 10:36 [Reply]
> 森浩一さんの本で、三浦半島の東京湾側の祭祀跡の洞窟に、祭りに使われた
> と見られる人骨が大量に出てくるそうです。

その本を読んでいないので、感覚だけで書きますが、
海難死者(つまりドザエモン)を処分した場所(あるいは祀った場所)とかそういうことはないのでしょうか。
何もかも生贄と考えるのは、どうなんだろう。

祭祀のために殺したのか、死んだものを祀ったのか、あるいは死んだものを祀りに利用したのか。いろいろな可能性があるのではないだろうか。

海で死んだものを祀るというのは、特に珍しいことではないし。

[3030] Re[3029][3028]: 焼畑農耕 倭建命は焼畑普及員?  習志野のてつ [Mail] 2002/06/07(Fri) 10:27 [Reply]
> 倭建命征討譚には「火打」「御刀もちて草を苅」「向火」「焼津」と
> 焼畑民の習俗が出てきますね。   
 おっしゃるとおりですね。
 でも 個人的には、やはり米作普及員かと。
ただし、焼畑技術にも精通、「焼畑も詳しく知ってるけれど、稲作のほうが
いいよ」と説得して回った。東征とは云うものの、華々しく戦って勝った話
は無いですよね。地元に残された話では、木更津で激しい戦いがありますが、
正史(記紀)では出てこない。走水から海を渡るときでも、冠を地元に置い
ています。これはいわば渡し賃、又は水先案内料。決して受け入れられては
いないのです。『まーこんなにいいものをくれるなら、渡してやるべーか』
「冠」は、帽子ではなく、その人の権威権力の象徴です。身分を表します。
その冠を渡すなんて、よっぽど困っていたんでしょう。
森浩一さんの本で、三浦半島の東京湾側の祭祀跡の洞窟に、祭りに使われた
と見られる人骨が大量に出てくるそうです。つまり人身御供?  縄文の頃
の話なので、倭武の古墳時代とは余りに時代が違いますが、海の荒々しさは
同じだったのでしょう。

[3029] Re[3028]: 焼畑農耕 倭建命は焼畑普及員?  Setoh 2002/06/07(Fri) 08:02 [Reply]
芋の中でも「エグイモ」は猪の害は少なかったようですね。

古事記 東国征討から
かれ、ここに相武国に到りましし時、その国造詐りて白(マヲ)さく、「この野の中に大沼あり。この沼の中に住める神、いとちはやぶる神なり」とまをしき。ここにその神をみそなはしに、その野に入りましき。ここにその国造、火をその野に著けき。かれ、欺かえぬと知らして、その姨倭比売命の給ひし嚢の口を解き開けて見たまへば、火打その裏にあり。ここに先づその御刀もちて草を苅り撥ひ、その火打もちて火を打ち出でて、向火を著けて焼き退(ソ)けて、還り出でて皆その国造等を切り滅ぼし、すなはち火を著けて焼きたまひき。かれ、今に焼津(ヤキツ)と謂ふ。

以下,『山人の生業』日本の古代10 から
○ 北陸では焼畑を「ナギ」というそうで,これは「薙ぐ」の名詞。
○ 焼畑は上の方2/3程焼いてから、下から火をかけ,火と火を合わせて火を止める。
○ 焼畑の大敵は猪、猪の毛を焦がして猪除けをしたそうで,これを「ヤイジモ」などと呼んだ。(静岡大井川上流)

倭建命征討譚には「火打」「御刀もちて草を苅」「向火」「焼津」と焼畑民の習俗が出てきますね。

[3029] Re[3028]: 焼畑農耕 倭建命は焼畑普及員?  Setoh 2002/06/07(Fri) 08:02 [Reply]
芋の中でも「エグイモ」は猪の害は少なかったようですね。

古事記 東国征討から
かれ、ここに相武国に到りましし時、その国造詐りて白(マヲ)さく、「この野の中に大沼あり。この沼の中に住める神、いとちはやぶる神なり」とまをしき。ここにその神をみそなはしに、その野に入りましき。ここにその国造、火をその野に著けき。かれ、欺かえぬと知らして、その姨倭比売命の給ひし嚢の口を解き開けて見たまへば、火打その裏にあり。ここに先づその御刀もちて草を苅り撥ひ、その火打もちて火を打ち出でて、向火を著けて焼き退(ソ)けて、還り出でて皆その国造等を切り滅ぼし、すなはち火を著けて焼きたまひき。かれ、今に焼津(ヤキツ)と謂ふ。

以下,『山人の生業』日本の古代10 から
○ 北陸では焼畑を「ナギ」というそうで,これは「薙ぐ」の名詞。
○ 焼畑は上の方2/3程焼いてから、下から火をかけ,火と火を合わせて火を止める。
○ 焼畑の大敵は猪、猪の毛を焦がして猪除けをしたそうで,これを「ヤイジモ」などと呼んだ。(静岡大井川上流)

倭建命征討譚には「火打」「御刀もちて草を苅」「向火」「焼津」と焼畑民の習俗が出てきますね。

[3028] 焼畑農耕  習志野のてつ [Mail] 2002/06/06(Thu) 14:19 [Reply]
大野晋さんの『日本語の成立』が改題、改著
『日本語はいかにして成立したか』となりました。
中公文庫・2002年4月 ¥914(+税)

その中で、日本農業は、栽培植物が三段階の変化をした。
1. 芋
2. 稗、粟(ひえ、あわ)
3. 稲   
である、としています。  
2の雑穀栽培は、焼畑農耕だとしています。
・ご参考迄

[3027] Re[3025][3024]: 再度 50%killer   Setoh 2002/06/05(Wed) 08:39 [Reply]
 焼き畑は写真なんか見ますと結構な斜面でやっていますね。所が宮本常一さんの『日本文化の形成』などには,山中の平たい所が用地に選ばれたと書いてあります。動物を追い込んで,捕らえたのもそのような山中の比較的平地的な所のようですね。
焼き畑が山崩れや洪水を興す原因になるのは,山火事になってしまったとか,度を過ぎた耕地確保などがあったのかも。
また金属採取の為のカンナ流しも影響があったのが,八咫大蛇退治に出ているのでは。この場合には「村人の半数が殺された」どころではなく,7/10までが喰われていますね。
弥生時代以降でしょうか,淀川河口や紀の川下流の平地の形成が勢いつき,やがて治まるように思いますが,稲作の水耕栽培化と堤防構築だったとか,稲作偏重の土木大好き国家日本はこの頃からの伝統のようですね。

[3026]   チクシは千人ころし    クサ枕紋次郎 [Mail] 2002/06/04(Tue) 18:00 [Reply]
 「チ(千)KU∫(殺)」ではくにの名前にはならねぇ。
 筑紫の語源は「CHI(道)KUSH(貫く)i(場)」ならむ。
 それが「チ(千)KU∫(殺)」とも別語(タジク語系)で解釈できるところから
オミキのんだあげくに、こーゆー伝説がのこらいしょ。
 「あの峠にはナ、ひとを食う鬼がおるぞ」‥‥奴隷や農奴の逃亡を防ぐに効果あり。

 習ヨッちゃん、魚が灰分濃度の濃いのを食ったら、変なことになるんじゃなかろうか。
 壱岐だったか対馬だったか、大量のシバを海に入れるよなぁ〜。

 観光開発とやらで、川が赤い土を吐き出して、沖縄の海はあわれだ。

[3025] Re[3024]: 再度 50%killer   玄松子 2002/06/04(Tue) 10:49 [Reply]
> > やはり洪水対策ですね。  からの連想です。

洪水が説話の核だとすると、たとえば、
「村人の半数が殺された」という話はないのでしょうか。

通行人・旅人・往来の人々というのが、やはり気になります。
山姥のような人間や、集落があったということの方が面白いし。

[3024] 再度 50%killer   習志野のてつ [Mail] 2002/06/04(Tue) 07:32 [Reply]
もしかしたら、山に棲む焼畑作の人々と、平地の稲作の人々の対立?
最近読んでいる宮本常一さんの本にあった、面白い関連しそうな話
『空からの民俗学』宮本常一、岩波現代文庫、2001年、P176
「…今ひとつは山間地方で焼畑の多くおこなわれていたことも洪水をよび
おこしたのではなかったかと思う。…山肌があれるから、加賀藩などでは
しばしば焼畑を禁止した。加賀藩で焼畑の盛んだったのは白山麓であった
が、そこの住民の一部を能登半島へ移動させ、焼畑面積を縮小しようとは
かったこともあった。山の地肌がむき出しになると、どうしてもなだれを
おこしやすく、土砂の流出が目に見えて多くなる。」
江戸時代でさえこうした対立があったなら、古代はなおさらでしょう。
> やはり洪水対策ですね。  からの連想です。

[3023] Re[3022]: 徘徊中高年きまぐれものから  Setoh 2002/06/02(Sun) 22:18 [Reply]
建内の宿禰の父神とされる屋主忍男武雄心命も祭神としている近江の馬見岡綿向神社のことですね。
欽明天皇の時代の創建とか。蒲生氏の祖神とも。
> 湧いてくるノスタルジー
遺伝子に組み込まれた太古の記憶,神社と人の心との交叉する素晴らしさですね。

[3022] 書肆徘徊中年きまぐれ報  香具 2002/06/02(Sun) 17:23 [Reply]
『綿向神社の四季』
社信之 著、吉野晴朗 写真、東方出版
3,000円 ISBN4-88591-785-9

感激の1冊。綿向神社とその神奈備山の祭礼と自然を美しく写した写真集です。私自身は全くの余所者なのですが、この写真集を見ていて湧いてくるノスタルジーは何なんだろう?根無し草が抱く憬れに過ぎないですが・・・行きたくなるヨ。漂泊者やなァ〜。

(番外)
『四谷怪談 祟りの正体』
小池壮彦著、学研刊、1,800円 ISBN4-05-401644-8
 神社や古代史とは関係ないですが、コツコツと調べ上げる姿勢がいいですね。ラストへの展開には(ひそかに)感動しました。歴史を掘り起こすというのは、今の自己や社会を見据え続けることとの対話でもあるようです。

[3021] 皆様、ありがとうございました。  ひふみ 2002/06/02(Sun) 14:50 [Reply]
大変お騒がせいたしました。
おかげさまで、「不思議発見」のビデオ録画をしていらした方が見つかりました。
地元は、このシーズンの土曜日はとても忙しく、皆テレビや新聞など見ている暇がない程なので、半分あきらめておりました。番組見るのを、楽しみにしております。
なにがし様、玄松子様、Setoh様、お気遣いありがとうございました。

ところで、前鬼が出てきたそうですが、どうやら裏行場が映った模様。
ここが放映されるのは、もしかしたら初めての事かもしれません。
ちなみに、前鬼には五つの血筋がありました。
今、あの地で頑張っていらっしゃるのは、五鬼助さんだけです。
明治、大正くらいまでは、前鬼の村も人がもっといて、知る人ぞ知るという隠れ里だったそうです。こういう場所、全国にあるのでしょうね。

そういえば、日光の修験は、この地より渡った前鬼の民が広めたらしいと言う事です。
やはり黒潮にのって行ったのでしょうか。

[3020] Re[3018]: お願いがあります。  玄松子 2002/06/02(Sun) 06:53 [Reply]
どうでもよいことですが。

> もし、どなたかビデオ録画された方がいらっしゃれば、是非ダビングさせて頂きたいのですが、お願いできませんでしょうか。

これは、著作権侵害になり違法行為ですから、掲示板へは書き込まない方が良いでしょう。

[3019] Re[3018]: お願いがあります。  なにがし 2002/06/02(Sun) 00:56 [Reply]
ひふみ様
私ビデオ撮ってないんですが、今回個人的には結構おもしろかったですよ。是非どなたかビデオとられておればいいですのにね。
役行者の前鬼後鬼(字間違ってます?)の子孫が住む前鬼なる土地も出ていました。

[3018] お願いがあります。  ひふみ [Mail] 2002/06/01(Sat) 23:57 [Reply]
お久しぶりです。何やら色々あって、なかなか見る事が出来ないうちに、又たくさんの話題が・・。楽しませて頂いております。

ところで、あまりこのサイトにふさわしくないのですが、お願いがあります。
今日6月1日土曜日、午後9時よりの「不思議発見」という番組で「後醍醐天皇」が取り上げられ、吉野もだいぶ取り上げられていたようなのですが、見損ねてしまいました。
もし、どなたかビデオ録画された方がいらっしゃれば、是非ダビングさせて頂きたいのですが、お願いできませんでしょうか。
メールででもお返事頂けたら有り難いです。
よろしくお願いします。

(Setoh様、勝手な書き込みですみません。)

[3017] Re[3015][3014][3012]: 青草NOW 50%killer 1  Setoh 2002/06/01(Sat) 08:08 [Reply]
追記
『播磨国風土記を歩く』文:寺林峻を見ていましたら,やはり「鉄砲水が旅人の命を奪った」との題で,播磨国揖保郡の広山の里と枚方の里の半数殺しの話を取り上げ,現在の林田川(当時は意此川(オシ),圧川)の氾濫との見方です。
林田八幡神社が鎮座、五十猛命が配祀されています。

なにがしさん、明神岩ですが、他にも候補の磐があるような気がしてなりません。



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