神奈備掲示板の案内とログ

神奈備掲示板

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掲示板のログ(平成十四年 七月)お名前の敬称は省略しています。

更新 H14.8.1

[3198] 暑中お見舞い申し上げます。  Setoh 2002/07/31(Wed) 14:33 [Reply]
伊太祁曽神社の「輪くぐり」祭に参詣いたして来ました、夜店60店補、23年間続くカラオケ大会の会場もあり、大いに賑わっていました。小さい子供達のゆかた姿で親に手をひかれて、目を輝かしている姿は何時みてもいいものです。

ついでに豊鋤入姫巡幸の濱宮(濱宮神社とも言う)へ参詣してきました。鳥居からの正面に丸石が祀られていました。前回参詣時には見逃していたようですが、某女さんが参拝されてお後、教えていただきましたので、今回は見つけることができました。紀北の丸石、珍しいものです。

で、豊鋤入姫が天照大神の御霊代とともにの発端が崇神紀に記されています。さらに楡山神社さんのHPの掲示板にその件がでていました。
楡山神社さんのHp http://homepage3.nifty.com/nireyamajinja/index.htm

神奈備掲示板は偽の神域ですが、楡山神社さんの掲示板は本物の神域ですので、以下のような不敬的書き込みは遠慮して、当方に書きました。

楡山神社さん> 「可同床共殿」とは、皇位にあるお方に限って鏡との同床共殿を許可

『日本書紀』崇神紀:天照大神と大和大国魂を崇神天皇の宮で祀っていたが、この二神が同じ祭壇で祀るのは畏れ多いとのことで、天照大神を笠縫村邑へ遷し豊鋤入姫に祀らせ、大和大国魂をヌナキ入姫に祀らせたとあります。
すなわち
1.それまでは崇神天皇自信で二神を祀っていた。
2.天照大神と大和大国魂は並斉できないので、天照大神を宮殿から出した。
3.大和大国魂を引き続き宮殿内に置いたが、ヌナキ入姫に祀らせた。
と言うことと思われます。
これから、「崇神天皇は祭政一致をやめて、政務一本となり、祭事は皇女たちにゆだねた。」ことと
「大和大国魂を大切に思い、手元に置いた。または崇神天皇は天照大神の子孫ではない。」
が推理されます。
というか、『日本書紀』の作為として、崇神天皇の事績全体を創作したのか、何らかの伝承が残っていた上に、さらに天照大神の祭祀話を割り込ませ、伊勢で祀られている由緒の端緒を記したものかもしれません。
いずれにしても、『記紀』での崇神天皇の扱いは、神武天皇と会わせて初代天皇になる、天皇の位についた年齢は天武天皇と同じで、無理矢理奪った皇位とか、『記紀』の作者達も不可思議な物語を書いたようです。


[3197] Re[3196]: 消えた湖伝説  Setoh 2002/07/30(Tue) 13:13 [Reply]
今宵は伊太祁曽神社で「輪くぐり」の祭典が行われます。

> 鳥越憲三郎『大いなる邪馬台国』は読んでませんが、湖説に言及しているのでしょうか。

鳥越さんの著作物からは、氏が山と国中が湖であったとの認識は感じられません。湿地であった、弥生遺跡の発掘がされていない、との文言はありますが・・・。
しかし磐船での降臨伝承とは、海から川を経て湖へ遡上していったと素直に考えてもいいですね。

> むかし湖だったという伝説は各地
ありがとうございます。
堰になっている所を蹴っ飛ばす神と鍬鋤を持って切り開く神がいるのも面白い所ですね。『出雲国風土記』の国引き物語もロマンですね。地方版国生み物語り。

縄文海進の逆の海退の頃の伝承とすれば、いかにも古い話ですね。口伝だけで時間を超えて伝わっると言うことがあったのでしょう。

このような伝承は諏訪湖付近にもあったような気がします。瀬戸の水門は円山川河口でしたか、天日矛命の話でも伝わっていたようですね。
『平成祭礼データ』だったかどうかですが、 饒速日尊が一族を率いて、丹後か但馬の山に降りたって、山を取り除いて湖を耕作地に変えたような伝承があったような記憶がありますが、今の所見あたりません。

> 「県別御祭神トップ20」「県別神社名トップ20」
昔の国名(丹後とか)でくくれれば一層地方色が鮮やかになるのかもしれませんね。
前に素盞嗚尊と天照大神の関係を県別にみたことがありますが、順位相関では反比例だったように記憶しています。



[3196] 消えた湖伝説  yanase [Url] 2002/07/30(Tue) 00:09 [Reply]
  続けて失礼いたします。
神奈備神社名鑑の矢田坐久志玉比古神社の次の一文が気になっています。
> 標高70m、大和平野が湖だった頃には良い港だったのかも知れない。
「海原は鴎立ち立つ」という舒明天皇の国見の歌からしても、やはり海でしたか。鳥越憲三郎『大いなる邪馬台国』は読んでませんが、湖説に言及しているのでしょうか。神社名鑑の文脈ではF氏も唱へているようですが、鳥越氏のものなら読んでみたいと思います。
 むかし湖だったという伝説は各地にあるようで、平成祭データの由緒書などから、拾い出してみました。

(1)横手盆地
(2)福島盆地
 福島市〜鹿島神社「古昔、信夫郷が湖沼であった時、僅かに水上に出ていた鹿島山上に常陸国鹿島神宮より蝦夷経営のため分祀勧請した」
(3)伊奈良の沼(群馬県東南端〜)
 板倉雷電神社「ここは奈良時代、万葉集に伊奈良(いなら)の沼と詠まれた大湖のあった所で、雷電の社はこの湖水に浮かぶ小島に鎮座し、昭和の初め干拓がなされるまでは水郷風景さながらでした」
(4)椿湖(つばきのうみ)千葉県
 八日市場市〜水神社「下総の国に椿湖(つばきのうみ)と呼ばれる、太古以来神秘の水をたたえた霊湖がありました。今から三百余年前の寛文年間に、この湖を干拓して農地をつくろうとはかり、」
(5)甲府盆地
 佐久神社 蹴裂明神 向山土木毘古王「甲斐の国の中央部は一面の湖であり、この湖水を疏導する為土地の豪族苗敷に住める六度仙人(去来王子)姥口山に住める山じ右左辨羅などの協力を得て南方山麓鍬沢禹の瀬の開削により水を今の富士川に落とし多くの平土を得、住民安住の地を確保した」
(6)長野県犀川流域 竜の子太郎伝説
(7)伊賀の湖沼
 上野市〜愛宕神社「満々と水を貯えていた伊賀の湖沼は(第三紀古琵琶湖層群の一部)は地殻の変動をくり返すうちにだんだん水位がさがり先ず最初に南宮山(伊賀一ノ宮)が現われ、次いで朝日嶽(愛宕山)が出現して伊賀の国原が生み成されたといわれます」
(8)京都盆地
 綾戸國中神社「素戔嗚尊が山城の地、西の岡訓世の郷が一面湖水のとき、天から降り給い、水を切り流し國となしその中心とおぼしき所に符を遣わし給うた」
(9)巨椋の池
(10)亀岡盆地(京都府)
 亀岡〜桑田神社「往古この地方は湖なりしを、亀岡市矢田町鍬山神社の祭神と共に、自ら鍬鋤を持って保津の山峽を切り開き、山城の地に水を流して亀岡盆地を干拓されたと大日本史の神社誌に見られる」
(11)豊岡盆地(但馬)
 豊岡市〜小田井縣神社 国作大己貴命「大神は大昔、この豊岡附近一帯が泥湖であって、湖水が氾濫して平地のないとき、来日岳のふもとを穿ち瀬戸の水門をきり開いて水を北の海に流し、水利を治めて農業を開発されました」
(12)阿蘇谷
 阿蘇神社 健磐龍命「大湖水であった阿蘇火口湖を立野火口瀬より疎通し阿蘇谷の内に美田を開拓せられ、住民に農耕の道を教えられた」

[3195] Re[3194][3193]: 天比理刀当ス  yanase [Url] 2002/07/27(Sat) 20:09 [Reply]
> 十六代 色淵 かれが初めて后神を祀った場所は、
既に初代の天富命が安房の洲崎に初めて后神を祀った伝承があるので、
> 大和国の本貫の地であろう。
とも読めます。まさか「個人的には初めて」の意味ではないと思ひますが。

さて、天比理刀当スは主に千葉県に祭られる祭神ですが、どんな神さまがどんな地域に多く祀られてゐるのか、といったことを、平成祭データから集計を取って、
「県別御祭神トップ20」「県別神社名トップ20」
といったリストを作ってみたら面白いと思ふので、そのうちやってみたいものです。

[3194] Re[3193]: 天比理刀当ス  玄松子 2002/07/27(Sat) 00:26 [Reply]
> > 天富命より十六代後に、正五位上・神祇大副だった色淵   かれが初めて后神を祀った
> 「初めて」とは、十六代以前には祀らなかったといふことでせうか?

さて、どうでしょうか。『式内社調査報告』にはそのようにかかれていましたが。
祀られていなかったのか、記録がないだけなのか。
あるいは十六代という数字に信憑性があるのか。
神話から歴史に移行する時間の記述には、その程度必要だったのかもしれません。

[3193] Re[3192]: 天比理刀当ス  yanase [Url] 2002/07/27(Sat) 00:15 [Reply]
 私などはどうも物語的発想で、「神を迎へる水辺の巫女」のイメージで見てしまふといふか、安房にゐた人々がいかに天太玉命を受け入れたかをイメージしたわけです。安房の洲崎とか笠沙岬とか、受け入れる場所も岬と決まってゐるのではないかと。
 しかし大和にも少なからず祀られてゐたといふことで。「足どりが見つからない」といふのは平成祭礼データの話ですから。
 天比理刀当スとは、古語拾遺にも見つからなかったのですが、どんな事蹟の神様かよくわかりません。忌部についてはあまり勉強してませんが、忌部の和幣を最初に織ったのはやはり天太玉命の母神(万幡千千……)なんでせうが、后神たちは何をしていらっしゃたかとか。

> 天富命より十六代後に、正五位上・神祇大副だった色淵   かれが初めて后神を祀った
「初めて」とは、十六代以前には祀らなかったといふことでせうか?

[3192] 天比理刀当ス  玄松子 2002/07/26(Fri) 22:30 [Reply]
ちょっと古い話題ですが。

yanaseさん> 江戸時代まで主人神社の神に天比理刀当スがなかったとすると、大和にはこの后神の足どりは見つからないことになります。
yanaseさん> 天比理刀当スは3県以外では品川区と横浜市に各1社のみ。
yanaseさん> この后神はやはり安房国の神なのでせうね。

洲崎神社に関して『式内社調査報告』を見ていたら、こんな記述がありました。

(要約)『斎部宿禰本系帳』『安房忌部家系』によると、天富命より十六代後に、正五位上・神祇大副だった色淵というものがおり、「大刀自天比理刀淘蜷_奉斎」とある。かれが初めて后神を祀った場所は、大和国の本貫の地であろう。

ということで、大和に天比理刀当スを祀ったようです。
また、源頼朝が崇敬(横浜に勧請?)し、さらに太田道灌が江戸城付近(品川?)に勧請したという記述もありますね。

[3191] 疋野神社と波比岐神  Setoh 2002/07/25(Thu) 16:02 [Reply]
疋野神社とは熊本県玉名市、昔の肥後国玉名郡日置郷に鎮座する式内小社です。
祭神は波比岐神とされ、玉名地方の豪族日置氏の氏神神社だったそうです。

波比岐神は大年神の系譜に出てくる神で、大年神と天知迦流美豆比売との間の第五子神。祈年祭の祝詞に登場。この神については『日本の神々3』坐摩神社に詳しいのですが、家庭の神、宮宅出入りの場所の守護神、勢神宮内宮の守護神の屋乃波波岐神、Y字型の木俣の神、御井神とも考えられています。
Y字型の木俣の神、すなわち神社の屋根の千木のことで、家屋の守護神と見ることは可能です。
千木のある家屋は大きい家屋でその守護神とすれば大屋彦神の名が浮かんで来ます。大屋彦神は五十猛命の別名とされており、植樹の神、木の神でもあり、兵庫県養父郡大屋町鎮座の式内社の御井神社の祭神を大屋彦神とする説もあるようです。

志賀剛氏の『日本の神々と建国神話』によりますと、波比岐神を「フイゴ」の神と見ておられます。

「ハヒフキ」が「ハヒキ」となったそうで、疋野神社の鎮座地は古代に製鉄業が盛んで、この地にふさわしい祭神だとしています。この地の古代豪族日置氏が製鉄を支配していたそうな。

疋野神社の近くの船出古墳から出土した鉄刀に「作?刀者伊太□書者張安也」との銘文が見つかっています。刀を作る者が伊太□神に祈念しつつ作業を行ったのでしょう。伊太祁神すなわち五十猛命を作刀神としていること、波比岐神を祀る疋野神社が鎮座していること、大屋と製鉄、この二重の意味で波比岐神を五十猛命と見なすとこは可能かと考えています。

参考にさせて頂いたHP
「宝賀さん老樹紀之房間」  http://users.hoops.ne.jp/shushen/
「疋野神社」  http://www.fsinet.or.jp/~hikino/ 
「玄松子さん疋野神社」  http://www.genbu.net/data/higo/hikino_title.htm


[3190] 無題  yanase [Url] 2002/07/25(Thu) 01:20 [Reply]
[3187] 訂正
天児屋根命は春日には祭られますが、鹿島ではありません(大間違)。
ひつじの問題は、じっくり資料など検討して再リポートいたしたく存じます。
養蚕のことに触れない貫前神社研究もあるようですので。

[3189] Re[3187][3185][3179]: ひつじ←経津主  Setoh 2002/07/24(Wed) 17:41 [Reply]
横道へチョット

> 和歌山県那賀郡打田町の西田中神社は、通称を「羊の宮」というのですが、石巻市の零羊崎神社と関係するような記事も見ました。祭神15柱のうち経津主神はありますが、豊玉彦命はありません。

 紀の国の神社の名前が登場しました。
『和歌山県神社誌』から
羊之宮社伝によれば、陸奥国牡鹿郡零、羊崎神社の由。武勇の神を祀り戦場守護の神。厩戸皇子の軍布陣のおり、朝敵退治の御祈願ありしに、当郡三宅の里にありし敵軍へ空中へ羽無矢飛び落ち、敵陣即座に破れたり。その矢を祀り羽無宮と称す。

西田中神社の祭神の豊玉彦神の名は見えません。所が山の中の海神社、吉野に比べれば海に近いのですが、式内社の海神社が近くに鎮座、祭神は豊玉彦命、古くは熊野に祀られていたとの伝承かあり、陸奥国からこられたのであれば、二社に分けられたのかも。

天正年間に紀の国の神社は大半焼かれており、古文書はほとんど残っておりませんので、由緒など不明社が多いのは残念です。
ところで、豊臣秀吉の豊は葛木二上神社の祭神の豊布都霊神の臣との意味だそうです。二上神社の近くに大坂があり、大坂城石垣の詰め物にする土の産地の名にちなんだとか。豊臣と大坂の地名譚。青草行き話。


[3188] 忘れられている星たち  hvhy [Mail] 2002/07/24(Wed) 00:46 [Reply]
中国では「四神」という考え方が非常に古くからありました。
この考え方において「西」は「白虎」です。二十八宿で言えば、
「昴」が真西と考えられていた。また「昴」は「牛宮」に属する。(※「牛宮」は「牡牛座」です)

ところが、西方の人は「牛宮」のことを「トゥラァ」と言っていた。
で、中国の「白虎」即ち「虎」を「トゥラァ」と言うことにしました。
もちろん「虎」を「トゥラァ」と言う(読む?)のは、我が国の話です。

>「ひつじ=経津主」とは妙なことを言い出したものですが、

以下は従来とは別の観点から「ひつじ=経津主」について考えてみたものです。
「経津主」が「布都御魂」かどうかは別途議論が必要ですが、今ここにおいては、
そうであると仮定してしまいます。その場合、「経津主」即ち「十掬剣」と言える。

したがって、「十掬剣」が「羊」かどうか?という問題に置き換わります。
ここで古事記の基本構造(下記URL)を一覧にしたものを見て頂きますと、
「十掬」〜「十九」〜「婁」(Asvini)ですが、実は「婁」は「羊宮」に属する。(※「羊宮」は「牡羊座」です)
少なくともこの脈絡により、「十掬剣」が「羊」に譬えられる可能性はあります。

#「経津主」が「ひつじ」と読めなくもない点まで踏まえれば、(※「宮主」が「美夜受」という話は既述)
#「妙なこと」とは必ずしも言えなくなってくるように思います。
#さらに「十九」であるところの「男浅津間若子宿禰」というのは、
#「新良」(新羅)との繋がりが古事記にはっきりと書かれています。
#たしか群馬県の「多胡碑」も「新羅」との関連が議論されてますよね。

http://www.platz.jp/~hvhy/mat.html

[3187] Re[3185][3179]: ひつじ←経津主  yanase [Url] 2002/07/23(Tue) 22:01 [Reply]
上州でなくても品陀和気命(応神天皇)の后に「宮主矢河枝姫」とあったので、やはり同じ日本なのですね。

「ひつじ=経津主」とは妙なことを言い出したものですが、安中市〜富岡市の磯部、鷺宮、貫前神社(トミ岡)、丹生川は4〜5kmの範囲にあり、その中ほどの安中市中野谷にじつは羊神社があります。
 名古屋市の矢田川べりにも羊神社がありますが「火」の神をまつり「辻町」という場所にあります。上州の羊太夫が滞在した伝承もあるようです。川の上流2kmほどのところが矢田町です。矢田といえば、矢田皇女(八田若郎女)は、宮主矢河枝姫の娘さんでした。「宮主」で上州につながった、というより、stohさんに代参していただいた矢田でつながったわけです。

 富岡市は近代日本を支えた養蚕と紡績産業のメッカを自認する都市で、それがために周辺地域の古代史などは機織技術や帰化人の足跡を追うことが中心でした。中世の「神道集」でも貫前の神は機織の神とされてはいました。しかし古代関東の中心地が、これだけでは困ります。多胡碑(711年)の羊太夫も帰化人とする説が強く、その根拠は書紀に天平神護2(766年) 新羅人193名に吉井連の姓を与へて移住させたとあるので帰化人が多いのだといった論のようです。この記述だけでは移住の年代はずっと後です。

安中市の羊神社の祭神は天児屋根命で、鹿島の神です。宮城県石巻市の零羊崎(ひつじざき)神社(祭神・豊玉彦命)では、ヒツジとはカモシカのことなのでこれと関係するかもしれません。西日本ではヒツジとは牛鬼のことらしい。
和歌山県那賀郡打田町の西田中神社は、通称を「羊の宮」というのですが、石巻市の零羊崎神社と関係するような記事も見ました。祭神15柱のうち経津主神はありますが、豊玉彦命はありません。
 なかなか立証への道は険しいのですが、経津主神が最初に上州へ入った安中市鷺宮は、南の丹生川からは少し遠く、北の柳瀬川に近い地です。同じ名の川は、全国に点在しますが、梁を瀬に打ったためだけの名なのかどうかです。

※ 羊の名の一族が経津主神を祭ったという意味で、羊太夫=経津主神ではありません
※ 「真金吹く」の用例は万葉集14東歌1例(丹生)のみ。古今集で「吉備の中山」1例
※ 建御名方主vs経津主の話など、平成祭礼データの由緒書は、未知の神話の宝庫です

[3186] 高家は大屋?  Setoh 2002/07/23(Tue) 20:50 [Reply]
玄松子さんが高家神社、高田神社をアップされています。
安房国高家神社>天道根命、紀伊忌部氏祖の彦狹知命の子。
高田神社>鎮座地の太江(タイヘ)は、郷名高家(タカイヘ)の訛り。高地にある家々という意味らしい。

『播磨国風土記』高家(たかや)の里
里の名を高家と言うわけは、天日槍命が「この村は、高いことでは他にまさっている」と仰せられた。だから高家という、とあります。
平凡な地名説話かとも思いますが、讃岐や安房の高家神社からは祭神の天道根命が忌部氏系のように伝わっているようで、これでは天道根命が紀氏の祖神と言うのがどうやら怪しい話にもなりかねません。
それでも天道根命は高天原から鏡を奉じ、また神武東征時にも同様の事を行ったと伝わっており、祭祀をもっぱらにする氏族の一員でも不思議ではありません。

一方、神奈備としては現在も紀氏が斎祀る紀の国の一宮日前国懸神宮の国懸神を天日槍命ではなかろうかと推測しており、すなわち天道根命とは天日槍命の別名ではなかろうか、と疑っているのです。高家と言う地名説話にわざわざ天日槍命が登場しているのも無関係ではないからかと。

暑いので、頭が伊吹山の毒、ぼちぼちかんがえまっさ。

【参考】他の高家神社
宇佐市大字下高家 高家神社 田心姫命 湍津姫命 市杵嶋姫命
神奈川県三浦市 高家神社 磐鹿六雁命
似た名前では
羽曳野市古市 高屋神社 饒速日命
宮城県亘理郡亘理町 高屋神社(こうやじんじゃ)天之御中主神
愛知県江南市 高屋神社 軻遇突智命

さらに進めると大家神社、大屋神社と五十猛命を祭神とする神社に行き当たります。

また高野山も視野にはいってくるのかも。

[3185] Re[3179]: ひつじ←経津主  Setoh 2002/07/23(Tue) 18:44 [Reply]
邪馬台国は上州か

>  「とじ(刀自)←とぬし(戸主)」から類推すると、「ひつじ ← ひつぬし」となります。

矢田坐久志玉比古神社の御旅所で妃神が祀られている主人神社(ぬしと ぬすと)をyanaseさんに教えて頂きました。
何故、「主人」が妃であるのか、ここは上州ではないぞ、と思っていましたが、主人とは今で言う主婦だったのかも。
そうすると「主」に「女」の意味、もしくは「女であらずば人にあらず」の時代があった?

大国主、大物主は男神に違いなさそうで、やはり「人」が女。あ!青草だった。

[3184] 「倭は国のまほろば」云々  hvhy [Mail] 2002/07/23(Tue) 11:10 [Reply]
国文学などで「上代」と言っている時代は、どういう時代かと言うと、
「駱駝」が渡来したり、上流階級は「蘇」を食べていたような時代です。
日本列島の歴史と言うのならば、それは古事記・日本書紀の以前からある。
その意味で、古事記などから「以前からある日本列島」を見ようとするのは、
ちょっと無理があります。例えば「大国主」は古事記で馬に乗って登場します。
いわゆる大和政権の以前を思わせる存在にして、馬に乗って登場するのですから、
その全体が描く時代をそれほど古く見積もることはできません。以上は前置きです。

***

古事記の説話の中で有名な箇所はいくつかありますが、「倭建」の説話も、
(映画になることでも分かる通り)そのひとつです。特に感動を呼ぶ場面は、
その「倭建」が「能煩野」で国を偲んで歌を謡うところです。その冒頭を引用。

>夜麻登波、久爾能麻本呂婆、多多那豆久、阿袁加岐、夜麻碁母禮流、夜麻登志宇流波斯
>(倭は……国のまほろば……たたなづく……青垣………山隠れる………倭しうるわし)

古事記は「ヤマト」を一貫して「倭」と表記していますので、
「夜麻登」を「倭」とするのは当然。問題は「国のまほろば」。
ここで「まほろば」とは、いったい何を言っているのでしょうか。
以下はこの点に絞って書きます。「まほろば」とは何かの一点です。

***

最初に渡来氏族の雄である「東漢氏」にまず注目してください。
いちいち例は挙げませんが、しばしば「東漢」を「倭漢」に作る。(※日本書紀など)
「東」でも「倭」でも「ヤマト」と読む。このことは認められます。
ということは、素直に考えるなら、「倭」は「東」ということになる。

ところが、「東」を意味する「purva」というサンスクリット語を、
「保留波」と音写している経典があります。何時からかはともかく、
日本においては「まさに〜」「本当に〜」の意味で「真〜」と付ける。(※「真〜」の用法は別途検討)
例えば「真赤」「真四角」「真心」「真北」など。以上を踏まえるなら、
件の「まほろば」の「ほろば」は、サンスクリット語の「purva」でしょう。
「倭は国のまほろば」とは「倭は国の真東」という意味。そう考えられます。

#例えば、記の「佐久久斯呂、伊須受能宮」の「佐久久斯呂」を、
#皇太神宮儀式帳は、「佐古久志留」にも「佐古久志呂」にも作る。
#倭名鈔は、「久留多」(黒田)と読み、「布久呂」(福留)と読む。
#というわけで、「保留波」という表記と「本呂婆」という表記を比べ、
#「留」と「呂」では音が違う。などと論を立てるのは無意味です。注意。

***

古代への郷愁を誘う名場面。そこで謡われる歌に、
サンスクリット語が用いられている。しかしながら、
古事記や書紀の編纂は8世紀。仏教の伝来はそれ以前。
「上代」というのは、オリジナル日本の時代ではなくて、
つまりは「駱駝」が渡来したり、「蘇」を食べていた時代。
「上代の文学」に外来語があっても何の不思議もありません。

[3183] Re[3182][3181][3179]: ひつじ←経津主  Setoh 2002/07/22(Mon) 15:49 [Reply]
> 「真金吹く 吉備の中山 帯にせる 細谷川の 音のさやけさ」

吉備の中山とは、吉備津神社の鎮座している所ですが、ここには高品位の朱砂の産地ですが、鉄の気はみじんもないそうです。(『古代の朱』松田寿男著)
ついでに「帯にせる細谷川」と言うほどの川は見あたりませんね。
もっともこれは元歌とされる
「大君の 三笠の山の 帯にせる 細谷川の 音のさやけさ」
の春日大社付近もそれらしい小川はありますが、存在感不足。
やはり、三輪山を囲むように流れる初瀬川が帯にする、との形容に似合いますね。

枕詞はかかる言葉は変遷するのでしょうが、同じ様な意味の言葉の冠とも言えるのでしょうか。吉備=丹生が登場して来ました。これは気比との謎を解明する手がかりになりそうですね。大ヒント、アガ。

[3182] Re[3181][3179]: ひつじ←経津主  習志野のてつ [Mail] 2002/07/22(Mon) 09:47 [Reply]
> むかし香取の経津主命が、諏訪の建御名方命と、上信国境の荒船山で戦った。
> そのとき経津主命の陣地は、安中市鷺宮(磯部温泉の南)にあったといふ。
> 経津主命は「抜鉾(ぬきほこ)の神」の名で磯部氏らによって鷺宮の地にまつ
> られた。今の咲前(さきさき)神社の地である。抜鉾の神は、のちに南へ遷って、
> 貫前(ぬきさき)神社(富岡市一ノ宮)の神となったといふ。

 建御名方が先住で、経津主への抵抗勢力だったのでしょうか?
 経津主とは、一度出雲で争って、決着が着いたと思っていました。
 建御名方ファンとしては、復活、活躍はうれしい限りです。

> 真金吹く丹生の真朱(まそほ)の色に出て、云はなくのみそ。あが恋ふらくは 万葉集
 「真金吹く」は、下記の歌にもあるように、吉備だけの枕詞だと思っていました。
 「真金吹く吉備の中山帯にせる細谷川の音のさやけさ」
 しかし、金属精錬一般または丹生(水銀精錬)に掛かる枕詞、だった訳ですね。

[3181] Re[3179]: ひつじ←経津主  yanase [Url] 2002/07/22(Mon) 01:15 [Reply]
> 群馬県南西部
の関連する伝説についての以前の私のメモからの抜書です。主として咲前神社由緒から。

 むかし香取の経津主命が、諏訪の建御名方命と、上信国境の荒船山で戦った。そのとき経津主命の陣地は、安中市鷺宮(磯部温泉の南)にあったといふ。経津主命は「抜鉾(ぬきほこ)の神」の名で磯部氏らによって鷺宮の地にまつられた。今の咲前(さきさき)神社の地である。抜鉾の神は、のちに南へ遷って、貫前(ぬきさき)神社(富岡市一ノ宮)の神となったといふ。貫前神社には経津主神と姫大神がまつられてゐる。姫大神は養蚕と機織の神ともいふが不明で、かなり古い神であるらしい。
 貫前神社の裏を丹生川が流れ、上流に丹生湖があり、丹生村もあった。この地方を詠んだ万葉歌もある。
 真金吹く丹生の真朱(まそほ)の色に出て、云はなくのみそ。あが恋ふらくは 万葉集

[3180] Re[3179]: ひつじ←経津主  なにがし 2002/07/22(Mon) 00:59 [Reply]
> 群馬県南西部の吉井町に「日本三古碑」に数えられる「多胡碑」があり、・・・富岡市の丹生川近くの貫前神社へ、祭神の経津主命が移ったという話もありますので。

多胡碑といえば多治比の名前が刻まれていますよね。それと丹生川。ちょっと気になりました。

[3179] ひつじ←経津主  yanase [Url] 2002/07/22(Mon) 00:49 [Reply]
群馬県南西部の吉井町に「日本三古碑」に数えられる「多胡碑」があり、土地の豪族の名として「羊」の文字が刻まれます。地元では「羊太夫」とも呼ばれ、和銅の改元のもとになった埼玉県秩父地方の銅を見つけて管理したといわれます。
 「とじ(刀自)←とぬし(戸主)」から類推すると、
 「ひつじ ← ひつぬし」となります。
更に「ひつぬし←経津主」となるかどうか。

付近の安中市磯辺温泉に近い鷺宮の地(咲前神社)から、富岡市の丹生川近くの貫前神社へ、祭神の経津主命が移ったという話もありますので。

[3178] 葛木二上神社の宮司さん  Setoh 2002/07/19(Fri) 19:25 [Reply]
Mさんのご紹介で葛木二上神社第五一世宮司さんにお会いできました。某女性神職さんといい勝負か。小生は煙の渦巻きの中。

葛木二上神社の御祭神は大國魂神 豐布都魂神の二柱で、それぞれ大和神社と石上神宮へ勧請されたとのことです。神社と集落に伝わる口碑では「二上山の噴火のこと」も伝えられているようで、悠久の太古から人々が住んでいた地域のようです。
二上山はサヌカイトの産地で、刃物向きの石器素材を産出し、列島では人々が住んだ古い土地と言うのはそうかも知れないと思わせるものがあります。

磐船とは地上へ吹き出した磐を言う。これは先日の矢田大宮でも天磐船の説明に、天降ってきた舟の欠片かもしくは地下から吹きあがった磐との話がありましたが、そのような捉え方は最近二度も耳にしました。
従って、豐布都魂神(饒速日尊)が降臨したのが二上山であるとのことを言われていました。同社に伝わる祝詞には、「天の安川の川上の岩屋」と言う表現があり、この岩屋は雌岳を河内の方へ下りていくと現在は仏像が彫られている垂直の岩のことで、これは河内の川上の哮峰となっていったとか。
で、饒速日尊降臨の哮峰とは二上山のこと、と述べておられました。

瓊々杵尊は日向の二上の峰、饒速日尊は大和の二上山となりますね。仲がいいのか悪いのか。

なお葛木二上神社の本殿横に磐座がありました。相当な霊気を出しているとのことです。

「日本人は質素節約の民」寺院ができるまでは神祭りは磐座でやっていた。これが本来の姿、ここは、これは理解できました。

[3177] Re[3176]: 神社にて「アーメン」  玄松子 2002/07/19(Fri) 08:30 [Reply]
> 与太話を一題 
>  キリスト教に帰依したはずの南米のある地方で、宣教師が怪しい
>  祭祀の跡を発見した。

神社境内に、おかしなものを埋めていく人々が居ます。深夜に境内に入り、自分たちの信奉する何かを埋め、祭祀を行っていくようです。
また、御神木に五寸釘を打ち込んで行く人も。

自分たちが祭祀の場を作って、自分たちの神を祀るのはかまわないかもしれませんが、他の境内、聖地、神域に勝手に持ち込むのは迷惑でしょうね。

「神社がそこにできるずっと以前から、そこで祭祀を行っているのだ」ということはあるかもしれません。

[3176] Re[3175]: 神社にて「アーメン」  習志野のてつ [Mail] 2002/07/18(Thu) 13:14 [Reply]
> 宗教の違いというのは、人間の大きなテーマです。
 同意見。大賛成です。
> 国津と天津の争いは、当時は凄惨なものだったと想像できます。
> 配慮と認識、そして覚悟のいる行為かもしれませんよ。
 おっしゃる通りだと思います。
 神話世界でも、騙し合いを含む、ドロドロしたものを感じます。

 三本柱鳥居は、キリスト教(ネストリウス派=景教)の影響、と書いてる
 人は結構います。こうした主張をする人は多分ご自分の目では見ていない
 のでしょう。あるいはグラサンをしてみてたかな〜。
 
与太話を一題 
 キリスト教に帰依したはずの南米のある地方で、宣教師が怪しい
 祭祀の跡を発見した。地元の祭っている人達に糺した。 答えは
 「おら達は、もちろんキリスト様を信じてお祭りしている。でも
 ここでは、ユダ様をお祭りしてるだ。あの偉いキリスト様だって
 ユダ様のために磔にされたでねーか。こんなちっぽけな村、ユダ様
 がお怒りになったらひとたまりもねー。だからユダ様のお怒りに触
 れないように、お祭りしてるだー」

この感覚、おなじ多神教系モンゴロイドとして、納得できます。
多神教系とは、自然の恵み豊かな所に暮らす、程度の意味です。
インドネシアでは、なぜイスラム教が盛んなのですかねー。
バリ島やガムラン音楽に、よりインドネシアへの親しみを感じます。

[3175] Re[3171]: 神社に行って「アーメン」  玄松子 2002/07/18(Thu) 09:19 [Reply]
> ドサクサに紛れて勝手発言
> 神社に行って「アーメン」はありえると思います。

宗教の違いというのは、人間の大きなテーマです。
ユダヤの聖地で、イスラム教を唱えると大変なことになるのは、紛争しているからでしょうか。
キリスト教内部でも宗派間の争いは、国を分けるほど。
国津と天津の争いは、当時は凄惨なものだったと想像できます。
配慮と認識、そして覚悟のいる行為かもしれませんよ。

[3174] Re[3172]: 宮司さんに話を聞くこと  のりちゃん [Mail] [Url] 2002/07/18(Thu) 09:19 [Reply]
> ああ言えばこういうとの不毛の知恵比べの様にも思える部分も何か見え隠れいたします。これは終焉に近いシグナルですね。

仲裁役、ありがとうございます。
[3170]の発言、まったく不毛な内容ですので、もし見苦しいとお思いになりましたら、
ばっさり消してくださいませm(__)m
無視するのもどうか、と考えて書いたのですが、内容のある文章ではありません。

そもそもは、玄松子さんの琴線に私が不用意に触れてしまったのが始まりのようです。
その点については、私にぶしつけな部分があったのだろうと、思います。
それについて、申し訳ありませんでした、と、お詫びいたします。

[3173] Re[3172]: 宮司さんに話を聞くこと  玄松子 2002/07/18(Thu) 09:13 [Reply]
> 神社の方にそういう誤解を受けることをおっしゃったことがない、と玄松子さんは、何度か繰り返してらっしゃるようですから

「誤解を受けることを言ったことがない」なんて、どこにも書いていません。


> これは終焉に近いシグナルですね。

そのようですね。終わりにしたいと思います。
判断は、経緯を見守っていただいた皆さんに委ねましょう。

[3172] 宮司さんに話を聞くこと  Setoh 2002/07/18(Thu) 08:56 [Reply]
東の玄松子さん、西ののりちゃん、共に神社紹介のすばらしいHPの発信をされておられます。
そのお二人が宮司さんに話を聞くと言う日常のありかたから「一訪問者と神社・その関係者とのあり方」で大いなる論議が行われており、見るものにとって興味のある所もありましたが、ああ言えばこういうとの不毛の知恵比べの様にも思える部分も何か見え隠れいたします。これは終焉に近いシグナルですね。


 お二は共に真摯な態度で神社関係の方々と触れあっていることはよくわかります。さらにお二人のHPへの表現は神社由緒の所は出来るだけ公表されている由緒、文献に準じて公平になされておられ、敬意を表すものです。このあたりはどうも神奈備は要反省です。

 のりちゃんの神社紹介HPはその後半部分が真骨頂で、面白いテーマを取り出してお考えを述べておられます。ここは楽しみの一つですが、該当神社との関係の薄そうなネタが登場したり、いささか若さを暴露した表現があったこともありました。
 従って、還暦に近い人間から見ますと、このように神社参拝を続けられて、ゆくゆくは一層高い崇敬の心をお持ちになる方だと、楽しみにもいたしております。

 玄松子さんのHPについては、皆さんよくご存じの通りで、実に鮮やかに神社像を浮き彫りにされる表現力には舌を巻きます。余談ですが、司馬遼さんは「石段を上り広庭に出て社殿の周りに木々が生えている」ふつうの神社の風景でも、見事に表現されます。お互い、こう言うレベルに達したいものです。玄松子さんは神奈備より遙かに近いレベルに達しておられます。

>宮司に話を聞くこと
 で、神社の方には、こちらから素直な心で、疑問に思っていることをぶつけてみれば、何らかの応答はあるものです。少しは事前勉強は要りますが、後は年の功の厚顔でやってしまいますのが神奈備の態度です。宮司さん方は専門に勉強されている上に、一介の訪問者の知り得ないことを氏子さんや崇敬者さんから色んな資料などの提供を受けておられるので、やはり奥の深い所があります。大いに聞き出す、インタビュアーのテクニックを身に付けたいものです。

[3171] 神社に行って「アーメン」  習志野のてつ [Mail] 2002/07/18(Thu) 08:38 [Reply]
ドサクサに紛れて勝手発言
神社に行って「アーメン」はありえると思います。
@神社に参拝して、胸の前で手をすりあわす、仏閣での参拝の形式をとっても
 怒られない。(お寺で拍手を打つと怒られそうです)
Aキリスト教の三位一体の象徴としての三本柱鳥居(との主張)
 墨田区向島の三囲神社(日本橋三越の屋上に分祀)には、三本柱鳥居と、三本柱
 鳥居様*のものが有ります。どちらも三本の柱の真中に、井戸もしくは水をたた
 えるかの如きものが有り、大事なものはその中心と思えます。
 三本柱鳥居をキリスト教のシンボルかの如く唱える人がいます。
   その人達は【神社でアーメン】するかもしれない  
 ずいぶん昔、私もそうした本の紹介をカキコしました。
 いまの考えは、「三本柱鳥居はキリスト教とは全く無縁」です。
 キリスト教に詳しいわけではありませんが、「GOD」よりも偉い、もしくは
 「GOD」が守るべきものがあるとは、考えられないからです。

 *三本柱鳥居とは、上から見ると正三角に三本の柱を配置した鳥居。三囲神社
 では、二箇所の内、片方は上に屋根があるため、〜様と名付けました。屋根は
 三角錐形ではなく円錐形です。三本柱鳥居といわず、三角鳥居と表現したほう
 が判りやすい。

私見ですが、三囲神社に坐す神が、「キリスト教の影響だ」と云っている人々に、
≪神罰を下す≫ことはないと思います。日本の神々のこうしたやさしさが、私は
好きです。

[3170] Re[3169][3163]: 宮司に話を聞くこと  のりちゃん [Mail] [Url] 2002/07/18(Thu) 08:33 [Reply]
おはようございます。

> ですから、その発言の真意をうかがうために、「神社に行って「アーメン」もあり、ということですか。」と質問させていただいたのです。
> それに対しても「私は、いいと思います。」という返事でしたね。

「誤解を承知で言えば〜でもありえますか?」という文章で、でしたね。
「私は、いいと思います」ではなく、「それがあり得るならば、私は、そう考えても
いいと思います」ですよね。
切り取り方によってかなり印象が違ってきますが、わざとですか?

と、こんな風に反論していけばいいのですが、もうこれは喧嘩じゃないですか?
掲示板で話す内容ではなくなっていていると思うのですが、どうでしょう?
玄松子さんが私の信仰に対する考え方を不遜だと思われるのはかまいませんが、喧嘩
を掲示板で見せられる方は、かなりいやなものがあると思いますが、どうでしょう?

> このような質問は、「たとえば・・・の場合」という仮定の上での質問ですから、その事象のおこる可能性の多少は関係ないのではないでしょうか。
> 「もしあなたが男だったら」という事象はありえませんが、質問としては成立します。

それに対する回答は昨晩のものを読んでいただけませんでしたか?

> 思いませんでした。
> ですから、失礼と感じさせてしまったことに対して、謝罪させていただきましたが、足りませんでしたか。

ならば、神社の方に「失礼です」と言われたときも、そのようにお答えください。
と、私は申しているのです。
神社の方にそういう誤解を受けることをおっしゃったことがない、と玄松子さんは、
何度か繰り返してらっしゃるようですから、「普通の人間に対しても、失礼だと誤解
される表現は謹まれた方がいいと思います」と申しているわけですが、前後の文章を
お読みくださいませ。

[3169] Re[3163]: 宮司に話を聞くこと  玄松子 2002/07/18(Thu) 07:39 [Reply]
> >考えることに許可は、いらないでしょう。
> という玄松子さんの言葉通りです。
> 参拝者が信じられることに許可はいらないでしょう?

ですから、その発言の真意をうかがうために、「神社に行って「アーメン」もあり、ということですか。」と質問させていただいたのです。
それに対しても「私は、いいと思います。」という返事でしたね。

> クリスチャンの方が、神社でキリストを称える言葉を発することはないでしょうから。

このような質問は、「たとえば・・・の場合」という仮定の上での質問ですから、その事象のおこる可能性の多少は関係ないのではないでしょうか。
「もしあなたが男だったら」という事象はありえませんが、質問としては成立します。


> その質問を失礼だとは思わなかった、とおっしゃるのでしょうか?

思いませんでした。
ですから、失礼と感じさせてしまったことに対して、謝罪させていただきましたが、足りませんでしたか。

[3168] Re[3165][3158][3152]: 「比呂比売」と「粟国」  yanase [Url] 2002/07/18(Thu) 00:37 [Reply]
hvhyさん> 「母親の妹を娶る」というモチーフ

貴種の乳母は母の妹がなり、貴種と乳母とはやがて聖なる婚姻をなす。
これは古代の貴種の婚姻の常態であり、折口信夫の主要なテーマの一つです。
折口の処女作の『古代研究』は母の妹に捧げられてゐるのですね。
確か永井路子といふ人に、源実朝と公焼の対立を乳母の一族どうしの対立と見た本があったと思ひます(鎌倉時代の乳母になる人は古代とは違ふようです)。

[3167] 発言に関して  のりちゃん [Mail] [Url] 2002/07/18(Thu) 00:36 [Reply]
> > >まさか、その「大きな声ではいえない」話を、サイトや掲示板で、全世界に発信しているということはないですよね。
> この一文を、「失礼な質問」と受け取られたのなら、申し訳ありませんでした。お詫びいたします。
> 書いてあることは書いてある通り。それ以上でも、それ以下でもありません。
> そういう意味のことは、何回か書いたと思います。

そうですね。
よくよく考えられて、質問されたほうがいいと思います。
質問手に悪気がなくても、受け取り手が悪意に受け取ることはよくあります。
それは、神社の方や氏子さんとの会話でもあり得ることですから。
それ以上でもそれ以下でもなくても、受け取り手の感じ方を想像したほうがいいと
思います。
そうでなくても上げ足を取ろうとする人はいますから。

逆に言えば、日常会話でも、神社の方や氏子さんに対するのと同じくらいの気の回
し方をした方がいいと思います。
神社の方や氏子さんに対しても、私に対するような、質問をされるのでしょうか?
よく読めばわかるはずだ。とおっしゃるのでしょうか?
その質問を失礼だとは思わなかった、とおっしゃるのでしょうか?
以上です。

[3166] Re[3156]: 代参レポ  yanase [Url] 2002/07/18(Thu) 00:13 [Reply]
setohさん> 何故に、天太玉命が選ばれたのかは記録が残っていないようです。

氏子にとってよほど不本意だったので廃棄したのでせうか。
明治時代も天磐船の石の前での祭事は継承されてゐたようにも見受けられます。
『大日本地名辞書』は明治33年初版ですが、天太玉命はまったく出てこず、吉田東伍といふ人は大した人です。もっとも、少しでも記載があれば、平成祭礼データの主人神社の御祭神について、すんなり受けとめてゐたのですが。

 <以下、[3154]職名と敬称についての補足です>
私はサラリーマンではないので、社長や部長の職名が敬称であるとは、あまり感じません。しかし、課長や部長になりたい、課長と呼ばれるようになってうれしい、といふ人の多い組織では敬称と感じるのだと思ひます。
現代の大きな神社法人でも同様で、権禰宜から見た禰宜は「部長」のような存在で、「宮司」も敬称のように使はれる場合があり、この大神社の語法が外部やマスコミで採用される場合がありうるといふことです。

[3165] Re[3158][3152]: 「比呂比売」と「粟国」  hvhy 2002/07/18(Thu) 00:10 [Reply]
>仁徳天皇の后の八田若郎女(矢田皇女)の母(応神天皇后)に
>  丸迩之比布礼能意富美の女 宮主矢河枝比売
>とありますので、わに氏を通して矢田の名も出てきます。

そうですね。その点に関しては、「太玉」と同一視されるところの
「沼名倉太玉敷」の兄が、「八田王」(箭田珠勝大兄皇子)である点。
これも要注目です。また「宮主矢河枝比売」の子に「宇遅能和紀郎子」。
そして「太玉敷」と「比呂比売」の間の子に「宇遅王」。なんていうのも。

#「太玉敷/比呂比売」が「邇藝速日/三炊屋媛」なら、
#「宇摩志麻遅」〜「味師内」(ウマシウチ)〜「宇遅王」
#といった繋がりも見える。「味師内」は「尾張連」の系統。
#然らば「宮主矢河枝比売」の「宮主」は「美夜受」でしょう。

「丸邇」(ワニ)に注目なさったのは、話を非常に発展させます。
というのは、「母親の妹を娶る」というモチーフは幾つか出てくる。
最も有名なのは、もちろん「鵜葺草葺不合」が「玉依毘売」を娶る話。
ところが「日子坐」が「袁祁都比売」を娶るのも同じ。であってみれば、
「意祁都比売/袁祁都比売」が「丸邇」(ワニ)の系統と書かれることと、
「豊玉毘売」が「八尋和邇に化りて」出産した話が有機的に繋がってきます。

[3164] 「勾股弦」の「勾」  hvhy 2002/07/18(Thu) 00:07 [Reply]
http://www.os.rim.or.jp/~arion/light1/light.cgi

上記の掲示板[1111]と[1118]と[1119]に、表面は別人として書き分けてあっても、
「比呂比売」「豊御気炊屋比売」「三炊屋媛」は同体であることを書きました。
ここで付け加えますと、「遂に太子彦人皇子の像と竹田皇子の像を作りて厭ふ」。
そう日本書紀に出てきます。これも「比呂比売」「豊御気炊屋比売」を繋ぐ糸です。

一般に「比呂比売」は非蘇我系、「豊御気炊屋比売」は蘇我系と言われるにも拘らず、
これが同体である意味合いについては、必要があれば補足しますが、とりあえずここで
鵜呑みにして頂くと、「神社では天比理トメをして御炊屋姫のこととして」いるのも合点。
「御炊屋姫」は旧事紀の表記。日本書紀で言うところの「三炊屋媛」(鳥見屋媛)ですよね。

#もちろん神社の方は、「御炊屋姫」をお祀りされる時に、
#それを「推古天皇としても描かれている人」などとは、
#つゆぞ思ってらっしゃらないでしょう。そのことと、
#文献が何を表現しているかは、切り離すべきです。

[3163] Re[3162][3160]: 宮司に話を聞くこと  のりちゃん [Mail] [Url] 2002/07/17(Wed) 23:35 [Reply]
> 『参拝者が信じる神様が、その神社におられる、と考えていい、と、私は思っています』という発言が、「氏子さんや宮司さんの信仰をおろそかに」している印象を受けました。

>考えることに許可は、いらないでしょう。
という玄松子さんの言葉通りです。

参拝者が信じられることに許可はいらないでしょう?
と思います。

> また、以下の記述も、ありえてはいけないと思います。
> > 誤解を承知で言えば、クリスチャンの方が、本当に神社に、自身が信じる、「アーメン」を唱える神様がいらっしゃると思えば、神様はそこにもいらっしゃると言っても私は、いいと思います。

この質問は質問自体が愚問であると思います。
クリスチャンの方が、神社でキリストを称える言葉を発することはないでしょうから。
これははっきり「いいがかり」だと感じました。
口には出しませんでしたが。それがまずかったですね。
ただ、神社は神聖な場所だということで、クリスチャンの方が、もしも、ここにキリ
スト教の神様が降臨されると感じるならば、その感覚を否定するものではありません。
ただし、それを、その神社の氏子さんや宮司さんに認めて欲しいと言うつもりもあり
ません。

> 考えを尊重するべきだという主旨の発言を続けています。
> 見せていただけるもの、聞かせていただけることを拒絶するという意味の記述はしていませんし、言及もしていません。

私も同じです(笑)
ですから、なるべく、神社の方とお話をしたいと願っています。

[3162] Re[3160]: 宮司に話を聞くこと  玄松子 2002/07/17(Wed) 23:18 [Reply]
> >まさか、その「大きな声ではいえない」話を、サイトや掲示板で、全世界に発信しているということはないですよね。

この一文を、「失礼な質問」と受け取られたのなら、申し訳ありませんでした。お詫びいたします。
書いてあることは書いてある通り。それ以上でも、それ以下でもありません。
そういう意味のことは、何回か書いたと思います。


> 例えば、天太玉命を祀っている当時の、久志玉比古神社へ行って、「本来、この神社
> の祭神は、ニギハヤヒですよね?」といえば、失礼になりますか?


天太玉命として祀り直しをしている神社であれば、やはり失礼ではないでしょうか。

> 氏子一同、その当時のご祭神に対して「違う」と感じていたから、上申したわけですよね?

氏子一同の「違うという感じ」は、「上申」という行動で明確にされています。それ以前は、例が悪いかもしれませんが、隠れキリシタン状態であったかもしれません。上申するにしても総代で話し合いが行われた結果。部外者の立ち入る問題ではありません。


> 私は氏子さんや宮司さんの信仰をおろそかにしたり、否定していい、と言ったつもり
> はないのですが、言い方が悪かったでしょうか?


『参拝者が信じる神様が、その神社におられる、と考えていい、と、私は思っています』という発言が、「氏子さんや宮司さんの信仰をおろそかに」している印象を受けました。

また、以下の記述も、ありえてはいけないと思います。
> 誤解を承知で言えば、クリスチャンの方が、本当に神社に、自身が信じる、「アーメン」を唱える神様がいらっしゃると思えば、神様はそこにもいらっしゃると言っても私は、いいと思います。


> 玄松子さんは、そういうお話を聞かずに、神社の方や氏子の方の考えを尊重せずに

考えを尊重するべきだという主旨の発言を続けています。
見せていただけるもの、聞かせていただけることを拒絶するという意味の記述はしていませんし、言及もしていません。

[3161] Re[3159][3157]: 宮司に話を聞くこと  のりちゃん [Mail] [Url] 2002/07/17(Wed) 22:40 [Reply]
玄松子さんは、神社でお話を伺うとき、その場その場で雰囲気が違わないですか?
その時々で、許されることや、いけないといわれることがありませんか?
神社の方がいけない、といわれることは、尊重しますし、普通はいけない、と言われ
ること、例えば、ご神体を見ることも、神社の方が「見せてあげる」と言われれば、
拝見します。
神社の方や氏子さんとの会話の中で、よいこと、悪いこと、はわかってきますよね?
そして、よいこと、悪いことは、その氏子さんや神社の方によって、それぞれ違いま
すよね?
玄松子さんは、そういうお話を聞かずに、神社の方や氏子の方の考えを尊重せずに、
「これはいけない」「これは失礼」だと、決めるのですか?

[3160] Re[3159][3157]: 宮司に話を聞くこと  のりちゃん [Mail] [Url] 2002/07/17(Wed) 22:23 [Reply]
では、ぶっちゃけて話しましょうね。

>まさか、その「大きな声ではいえない」話を、サイトや掲示板で、全世界に発信しているということはないですよね。

などという発言、ちらりとみて、関西人の私は、
「ん?ノリツッコミされてるのか?」とまず、よい方に思います。
ノリツッコミならば、「そんなわけあるか〜い!」でオチますね。
しかし、これが、本気で心配してらっしゃるならば、「そんなわけあるか〜い!」で
は、喧嘩になります。
しかし、この質問は、私の頭の程度が低いんじゃないか?というような質問にもとれ
るわけで、お会いしたこともない、ちゃんとお話したこともない方にそういう失礼な
質問をされる覚えはないため、何か違う意味があるのだろう。と想像します。
そこで、あ、もしかして、どこぞで、失礼な態度で質問をぶつけている参拝者を御覧
になったりして、失礼な態度で聞かれているかどうか、を心配されているのか?
と、思ったわけです。
つまり、深読みしたわけですね。

これで、答えになりました?
「そういう失礼な質問をされるということ」
が、「そういう話っぷり」です。
・・・というと、喧嘩ごしに見えるでしょう?
それで、話をぼかしました。それがいけなかったようです。

> 祭神は、その根本の存在です。
> Setohさん> 氏子一同が元の祭神に戻してほしい旨上申
> するほど大切な存在。

については、全く否定しません。
というか、祭神が大事でない、と、私も言ったつもりはありません。
私の書き方が悪いかもしれませんが、「ここにこういう祭神が祭られていませんでし
たか?」と聞くことと、現在の祭神を否定することとは同じではないと思います。

始めに戻しましょう。
>その方々に対して「本当は・・・」「本来は・・・」と聞いたことがありません。

ですよね?
例えば、天太玉命を祀っている当時の、久志玉比古神社へ行って、「本来、この神社
の祭神は、ニギハヤヒですよね?」といえば、失礼になりますか?
氏子一同、その当時のご祭神に対して「違う」と感じていたから、上申したわけです
よね?
何がなんでも、氏子さん一同が、現在の祭神に対して「のみ」信仰している、という
前提は必ずしもなりたたないと思うのですが、いかが?

私は氏子さんや宮司さんの信仰をおろそかにしたり、否定していい、と言ったつもり
はないのですが、言い方が悪かったでしょうか?

[3159] Re[3157]: 宮司に話を聞くこと  玄松子 2002/07/17(Wed) 21:24 [Reply]
> この話題、ひっぱっちゃってすいません。

大事な話だと思ったので、話題とさせていただきました。
ご迷惑だったでしょうか。


> これで答えになっていますか?

この答えとは、
> > どの文章をさして「お話のしっぷり」とおっしゃっているのでしょうか。
についての答えということですね。

> > それを、問題・迷惑・不遜だと考えていないわけですね。
> とわざわざおっしゃるということは、話しっぷりを問題にしてらっしゃるのか?
> と思ったわけです。

どの部分から「話しっぷり」と思うのか、分かりません。
「わざわざ」書いたからですか?
どのように「話す」かは問題にしていませんし、そのような書き込みもしていないつもりです。

そこで祭祀に携わっている方や氏子の方々は、浄財を募り「真摯」に信仰をしているわけです。パレスチナをみるまでもなく、信仰がどれほど大事な問題か、おわかりだと思います。
祭神は、その根本の存在です。
Setohさん> 氏子一同が元の祭神に戻してほしい旨上申
するほど大切な存在。

社殿の写真をとっていただけで、不愉快だといわれたことがありますよ。

[3158] Re[3152]: 「比呂比売」と「粟国」  yanase [Url] 2002/07/17(Wed) 20:50 [Reply]
setohさま、貴重な御報告有り難うございます。
埼玉の中山道沿ひに住んでますと、排他性はまったくない代はりに氏子たちの熱中も少ないもので、むづかしいものです。

hvhyさん> 「比呂比売」〜「意祁都比売」〜「大宜都比売」〜「粟国」

良いヒントになりました。古事記に
  開化天皇の后に 丸迩(わに)臣の祖、日子国意祁都命の妹、意祁都姫命
とありますね。
仁徳天皇の后の八田若郎女(矢田皇女)の母(応神天皇后)に
  丸迩之比布礼能意富美の女 宮主矢河枝姫
とありますので、わに氏を通して矢田の名も出てきます。

[3157] Re[3155][3150]: 宮司に話を聞くこと  のりちゃん [Mail] [Url] 2002/07/17(Wed) 20:48 [Reply]
この話題、ひっぱっちゃってすいません。

> どの文章をさして「お話のしっぷり」とおっしゃっているのでしょうか。

こちらこそうまく言えてないのですが、つまり、私は、神社側の資料以外の内容につ
いてお話することについて、不遜であるとか迷惑であるとか思ったことはなかったし、
今も思っていません。
神社で社務所の方や宮司さんの会話も普通の会話と同じで、一方的に進むものではあ
りませんよね。
特に私には、たいした知識はありませんから、宮司さんのお話を聞きながら、気にな
るところを質問する、という形で、話が進むことが多いです。
体外は話はかなり膨らみますから、神社からいただいた資料の中の話題だけでは納ま
りません。
その中で、本来の祭神はどなただったか、などという話をすることもありますが、そ
れが不遜だと言う考えが理解できなかったので、

> それを、問題・迷惑・不遜だと考えていないわけですね。

とわざわざおっしゃるということは、話しっぷりを問題にしてらっしゃるのか?
と思ったわけです。
もちろん、この質問に対する答えは、「考えてたら、その質問はしません」ですね。

ただ、宮司さんによっては、不遜・迷惑だと考えられる方もおられるかも知れません
から、そういう話題を控えることもあります。
でも、一人合点である種話題をタブーにしてしまうこともないと思います。
ので、私は、そういう質問を、雰囲気を見て、「します」。

また、「何を言っておるのだ?という顔をされる」という表現がまずかったかも知れ
ませんね。
不愉快な顔をされる、という意味ではありませんでした。
「そんなわけあるかいな」という顔をされる、と表現すればよかったでしょうか?

これで答えになっていますか?

[3156] 代参レポ  Setoh 2002/07/17(Wed) 19:53 [Reply]
 矢田坐久志玉比古神社へ参詣してまいりました。
 当地区の氏子さんの中に宮座が残っており、饒速日尊、降臨の際に防衛[ふせぎまもり]として天降り供へ奉った三十二の供奉衆の子孫であるとの強い伝承が残っているようです。
神社境内に「舟人神」と称する天磐船の石(磐船の欠片、または天磐船の降りた際地下から盛り上がってきた磐とも)とされる場所があり、宮座の人々は毎年この磐に縄を巻き付けて互いの出自を確かめ合うとの事です。
このような土地柄ですから極めて排他的で、一度氏子を離れた者は二度と氏子には復帰できないし、ましてや新参者は氏子にはなれない様です。

 さて、宮司さんをつかまえて、単刀直入、主人神社の祭神は天比理刀メ命、従って本社祭神は天太玉命でしょうか?とやってみました。

概略以下の様に説明がありました。詳細は追ってHPで。
 
 まず、本社祭神は、明治維新時、長髄彦に関係していてはまずい、とのことで、天太玉命に切り替えたとのこと。この時代は未だ南朝の影におびえていたようで、これは戦後処理までありましたね。

従って、長く特高の監視が続いていたようで、格も県社留まり。
 また何故に、天太玉命が選ばれたのかは記録が残っていないようです。江戸時代以前は櫛玉饒速日尊であったとされていますが、文献資料としては延喜式神名帳以後の記録はないようです。
『神社調査書』の原稿が神社にあり、明治四十五年氏子一同が元の祭神に戻してほしい旨上申し、許可され、以後櫛玉饒速日尊に復帰とのことです。

 主人神社(別名久志玉媛神社)については「本社祭神の妃神」として伝わり、「氏子地域に災難が降りかかった際、身を挺して地域を救った神」として篤く崇敬され、上古は氏子中より抽籤により子女一人を巫女として供したと、明治二十四年の古老の話が収集されています。
 先ほどの排他的風土と神の具体的神徳が伝えられていつことからは、到底遠国より勧請した神とは思えないとのご意見でした。で、御炊屋姫を祭神とされています。
 『平成祭礼データ』に天比理刀メ命としている理由は不明。神社では天比理刀メ命をして御炊屋姫のこととしています。別名からも久志玉媛とするのが正解でしょう。

 現在の宮司さんは今年2月から一種の再建の為に赴任、子息は皇學館在籍だとか。
 のりちゃんの名前も記憶。大いに将来に期待されていましたよ。

[3155] Re[3150]: 宮司に話を聞くこと  玄松子 2002/07/17(Wed) 18:14 [Reply]

文章がまずいせいか、話がうまく伝わっていないようです。
「言い方を問題にしている」と感じられたのは、僕の書き込みのどの部分でしょうか。


> どうも、玄松子さんのお話のしっぷりは、「こういう話であるはず」という言い方を
> 問題にされてるように感じますが、違いますか?


どの文章をさして「お話のしっぷり」とおっしゃっているのでしょうか。

玄松子> それを現地で、口にして、宮司にお聞きするかどうか、が主題でした。

この一文でしょうか。

[3154] Re[3141][3140]: 安房神社の后神、「宮司さん」の呼称  yanase [Url] 2002/07/17(Wed) 17:34 [Reply]
10件以上の前の話題です。

『大日本地名辞書』では「矢田神社」の名だったので見落としてましたが、引用の史料ではに天太玉命はないようです。また矢田へ代参とは恐れ入ります。

玄松子さん> 「宮司」と言う言葉は敬称でしたでしょうか?

 「宮司」の職名は、戦前までは旧県社以下の地方の鎮守社にはありませんでした。官国幣社以上ですから、たぶん関東などでは「宮司様」と呼ぶ以外にはあり得なかったかもしれません。関西では「さん」に関東以上の尊敬を込める場合があるのでわかりませんが……。現在の「宮司さん」といふ呼び方は、従来の「社司さん」「神主さん」の流れからくるものと思ひます。

 「宮司さん」といふ呼び方が耳に心地よいのは、地域社会の長い慣習によるものと思ひます。村に一人しかなく、その意味では「産婆さん」「大工さん」と同じで、「さん」は省き難くなります。親しみをこめた表現でもあります。「宮司」は敬称ではなく、一般には限りなく一人の人を示す言葉だと思ひます。
 他人に対しては「父が申すには」と言ひますが、氏子は「八幡さまの宮司が」などとは言ひません。この「父が申す」といった類の敬語の体系は、明治以来の文法学によってあまりに複雑なものとされてしまひましたが、表現主体の観点からのみ個人と個人の関係だけを見て量的に積み上げてしまったきらひがあります。神に対してあるいは祭などの場で各自がどの位置にあるかを考へれば、もっとすっきりした図式になるはずなのです。祭の場を想定すれば、見物人にしかすぎない人に対して格段の敬語が使はれることはないわけです。今の敬語は「〜させていただきます」の乱用など、いかに謙譲の態度の自分であるかを主張することだけに関心が行き過ぎてゐるとも思ひます。

 吉行淳之介のエッセイで「彼は社長さんから社長に昇格した」といふ一文があったのを憶えてゐるのですが、どうも「赤ちょうちん」風から「高級バー」風になった、恰幅がよくなったといふニュアンスでした。そのような宴席の場もあると思ひます。しかし赤ちょうちんの方が良いといふ人もあります。

 NHKのアナウンサーが各地の祭を報道するときに「宮司が、宮司により」と言ふのに違和感を感じる人も多いと思ひます。もともと各地の祭は、全国報道の対象ではありませんでしたから、その基準のないところへ持ってきて観光協会などのプッシュが増えてゐるのではと思ひます。報道では「神職により」で良いと思ふのです。
 基本的には地域社会の慣習の問題ですが、必ずしも「さん」を省く語法が広まって行くとは思ってゐません。こちらのサイトで基準を設けるのは、setohさんの学識の深さによるものと敬意をもって受けとめてゐます。


[3153] Re[3151][3150]: 宮司に話を聞くこと  のりちゃん [Mail] [Url] 2002/07/17(Wed) 13:32 [Reply]
> 【みなさんは、その社の「本来の神」とか「本当の神」という話をするのでしょうか。】
> という意味以外にありません。聞き方は問題にしておりません。
> やさしく聞くとか、激しく聞くとか、宮司が寛大だとか、宮司が短気とかも関係ありません。

なるほど。
それでは、その質問に対する答えは、
「します」
だけでよかったんですね。
長々と失礼しました。

[3152] 「比呂比売」と「粟国」  hvhy 2002/07/17(Wed) 13:32 [Reply]
第30代即ち「三重」であるところの「沼名倉太玉敷」は、
「三重」〜「三×三」〜「九」という脈絡から、実のところ、
第9代の「若倭根子日子大毘毘」に重なる。仮にそうであれば、
それぞれの子供である「忍坂日子人」と「日子坐」も重なります。(※古事記の独自伝承)

#難読地名と言われる「間人」(タイザ)。
#「人」を「ザ」と読むこれが例になってる。
#「多坐弥志理都比古」の「多坐」というのは、
#「多」(地名?)に鎮座するという意味ですが、
#これを「多人」と読み、「多の人」と理解しても、
#「多の人」は結局のところ「多」に鎮座しますから、
#不都合ありません。どっちに理解しても変わりません。

ならば、それぞれの母親については、どう書かれているか。
「忍坂日子人」の母は「比呂比売」(廣姫)。これに対して、
「日子坐」の母は「意祁都比売」。ところが古事記の神代巻に、
「粟国は大宜都比売と謂ひ」と出てくる。どういうことでしょう。

兄弟を表わすパターンとして、「大…/小…」という例と、
「意…/袁…」という例があります。このことを踏まえれば、
「意祁都比売」は「大宜都比売」(大気津比売)に他ならない。
本当にそうならば、問題の「比呂比売」は「粟国」と結ばれます。
「粟国」「安房国」は別です。しかし「忌部」の伝承を信ずる限り、
そもそも「安房」は「粟」から移動したことに由来する名前ですから、
「比呂(比理)比売」が「安房」や「粟」に祀られているという現実は、
「比呂比売」(大宜都比売)を「粟国」とする古事記の記述に一致します。

#古事記が示す「比呂比売」〜「意祁都比売」〜「大宜都比売」〜「粟国」
#という繋がりが現実の祀られ方と一致している。そういう話をしています。
#逆に言うならば、今に至るまで「比里刀口羊」が祀られているという現実が、(※「口羊」は一字)
#古事記(あるいは日本書紀)の中身を本当に読む材料を提供しているわけです。

[3151] Re[3150]: 宮司に話を聞くこと  玄松子 2002/07/17(Wed) 13:28 [Reply]
> どうも、玄松子さんのお話のしっぷりは、「こういう話であるはず」という言い方を問題にされてるように感じますが、違いますか?


【みなさんは、その社の「本来の神」とか「本当の神」という話をするのでしょうか。】
という意味以外にありません。聞き方は問題にしておりません。
やさしく聞くとか、激しく聞くとか、宮司が寛大だとか、宮司が短気とかも関係ありません。

> 一般の資料について全く「口に出す」べきでないとしたら、かなりできるお話が限定されてしまいます。

「一般の資料」の定義がわかりませんが、神社由緒にあることをお聞きすればよいのではないでしょうか。
他は、お祭りの話や、土地の伝承、氏子の方々の話など、話題に困ることはありません。


> > 「参拝者が信じる神様」がいるということは、神社に行って「アーメン」もあり、ということですか。
>
> 誤解を承知で言えば、クリスチャンの方が、本当に神社に、自身が信じる、「アーメン」を唱える神様がいらっしゃると思えば、神様はそこにもいらっしゃると言っても私は、いいと思います。
> が、実際問題、そういうこと、ありえますか?

あってはいけないと思っています。

[3150] Re[3148][3139]: 宮司に話を聞くこと  のりちゃん [Mail] [Url] 2002/07/17(Wed) 13:15 [Reply]
> まさか、その「大きな声ではいえない」話を、サイトや掲示板で、全世界に発信しているということはないですよね。

あははは。
いや、オフレコでしていただいたお話は、オフレコのお話としています。

> それを、問題・迷惑・不遜だと考えていないわけですね。

宮司さんが、ということですね?
それは、どうでしょうか?
不遜である、と感じられたかも知れませんね。

> それを現地で、口にして、宮司にお聞きするかどうか、が主題でした。

なるほど。
これは私に限っていえば、ですが、例えば、
「本にはこう書いてあったけど、あなたの説明は違う、おかしい」と言うようなこと
を言ったことはありません。
そうではなく、「今現在のご祭神は、この方ですが、本来、他の神様が祀られていた
というようなことはありますか?」というような質問ならします。
口に出すにしても、出し方というのがありますから、例えば、
「こういう話があるけれど、どう思いますか?」という出し方と、
「こういう話のはずだ。」という出し方では、違います。
どうも、玄松子さんのお話のしっぷりは、「こういう話であるはず」という言い方を
問題にされてるように感じますが、違いますか?
一般の資料について全く「口に出す」べきでないとしたら、かなりできるお話が限定
されてしまいます。
口に出すときに、相手に敬意があるかどうか、を問題にすべきじゃないでしょうか?

> 「参拝者が信じる神様」がいるということは、神社に行って「アーメン」もあり、ということですか。

誤解を承知で言えば、クリスチャンの方が、本当に神社に、自身が信じる、「アーメ
ン」を唱える神様がいらっしゃると思えば、神様はそこにもいらっしゃると言っても
私は、いいと思います。
が、実際問題、そういうこと、ありえますか?

[3149] 「率川宮」と「率川神社」  hvhy 2002/07/17(Wed) 13:15 [Reply]
第30代即ち「三重」であるところの「沼名倉太玉敷」は、
「三重」〜「三×三」〜「九」という脈絡から、実のところ、
第9代の「若倭根子日子大毘毘」に重なる。その都を古事記は
「春日之伊邪河宮」、書紀は「春日之地」の「率川宮」とするが、
ここに今でも「率川神社」があって、「三枝祭」が行なわれている。

ところがいわゆる神武の父であるところの「鵜葺草葺不合」は、
九進法において、第9代の「若倭根子日子大毘毘」に重なります。
「葺草」は「カヤ」と読むが、注意すべきは、古事記の「三枝」を
書紀が「福草」に作る点でしょう。つまり「葺草」も「福草」も同じ。

さらに加えて古事記は「櫛八玉神、鵜に化りて」云々と記す。
「鵜」を介して「櫛八玉」と「鵜葺草葺不合」が繋がるのです。
「邇藝速日」と「登美夜毘売」の結婚は、少し前に触れましたが、
「沼名倉太玉敷」と「豊御気炊屋比売」の結婚の焼き直しですから、
「太玉敷」〜「大毘毘」〜「葺草」〜「櫛八玉」〜「櫛玉饒速日」と、
このような繋がりが見えてきますね。この繋がりがもし首肯されるなら、
第9代の「大毘毘」の都だった場所なのに、「大毘毘」そのものが祭神に
なっていないことも、「三枝祭」が行なわれることも、特に不思議ではない。

#以上の書き込みの意図は、第9代の天皇の都だったとされる場所に、
#「三輪山」に繋がる神様が祀られ、「三枝祭」が行なわれる点に関し、
#どうしてそのようなことになっているか、その脈絡を提供するものです。
#もちろんこれ以外の脈絡に関し、それを否定するものでは毛頭ありません。

[3148] Re[3139]: 宮司に話を聞くこと  玄松子 2002/07/17(Wed) 12:28 [Reply]
> 宮司さんによっては、「ん〜〜、あんまり大きな声ではいえないけどね」と、

まさか、その「大きな声ではいえない」話を、サイトや掲示板で、全世界に発信しているということはないですよね。


> 何を言っておるのだ?という顔をされることもあります。

それを、問題・迷惑・不遜だと考えていないわけですね。



> 神社を、「神のおられる場所」と考えるならば、参拝者が信じる神様が、その神社におられる、と考えていい、

考えることに許可は、いらないでしょう。
それを現地で、口にして、宮司にお聞きするかどうか、が主題でした。
「参拝者が信じる神様」がいるということは、神社に行って「アーメン」もあり、ということですか。

[3147] 「宮司」  のりちゃん [Mail] [Url] 2002/07/17(Wed) 12:20 [Reply]
尊称なのかどうか、辞書ではわからなかったのですが、
やはり、これからは、親しみをこめて、「宮司さん」と呼ぶことにしたいと思いま
す。

[3146] Re[3143]: 私見あれこれ  玄松子 2002/07/17(Wed) 12:08 [Reply]
「話を聞く」ことが前提の話なのですが。

> 私見3:「行ったら分かった」だけでは冗談と同じですが、「行ったら分
> かった。理由は××」と根拠を示せば、一つの意見になると思います。

「一つの意見」なのだ、という認識が大事だということですね。


> どうも具体的イメージとして考えにくいような気がします。

多分、これが訪問の一番の理由でしょうね。

[3145] Re[3143][3139][3138]: 私見あれこれ  Setoh 2002/07/17(Wed) 10:30 [Reply]
習志野のてつさん>「宮司」も同様ではないでしょうか。尊称ではあります
setohはのりちゃんにお詫びしなければなりません。尊称ですと「宮司」でいいようですね。m(__)m

> 玄松子さんのおっしゃるように、「行ったら分かった」は危険ですが、
> 「行ってお話を聞いてみよう」ってのは、よいことなように思います。

参詣してわかることはままあります。正しいかどうかではなく、一つの考え方として、社頭掲示、宮司さんや氏子さんとの会話から得るものはあります。
setohは、参詣すると、例えお話が聞けなかったとしても、その神社について一生懸命に考える気持ちが増してくるように思います。逆に参詣していないと、どうも具体的イメージとして考えにくいような気がします。


[3145] Re[3143][3139][3138]: 私見あれこれ  Setoh 2002/07/17(Wed) 10:30 [Reply]
習志野のてつさん>「宮司」も同様ではないでしょうか。尊称ではあります
setohはのりちゃんにお詫びしなければなりません。尊称ですと「宮司」でいいようですね。m(__)m

> 玄松子さんのおっしゃるように、「行ったら分かった」は危険ですが、
> 「行ってお話を聞いてみよう」ってのは、よいことなように思います。

参詣してわかることはままあります。正しいかどうかではなく、一つの考え方として、社頭掲示、宮司さんや氏子さんとの会話から得るものはあります。
setohは、参詣すると、例えお話が聞けなかったとしても、その神社について一生懸命に考える気持ちが増してくるように思います。逆に参詣していないと、どうも具体的イメージとして考えにくいような気がします。


[3144] 「比理」について  hvhy 2002/07/17(Wed) 10:08 [Reply]
過去ログに入っていると思うので、クドクド述べるのは避けますが、
少なくとも古事記の範囲、推古天皇あたりまでは、自分たちの先祖を
月の運行(二十七宿として知られるもの)に準えて表現したものでして、
その命名の題材はインドの『シャールドーラカルナ・アヴァダーナ』及び
これの翻訳をベースにアレンジが加わった『摩登迦経』『舎頭諌経』等です。

西洋占星術において12星座をエレメンツで分類するのと同じように、
月の運行による占術にも「九曜」(七惑星に「計都」「羅喉」が加わる)
という考え方が古くからありますが、これは数学で言う「九進法」でして、
例えば第3代の「師木津日子玉手見」と第30代の「沼名倉太玉敷」の場合、
「玉手見」に対して「太玉」、「師木」に対して「敷」(シキ)という具合に、
共通する名辞が盛り込まれていたりします。この他の命名原理としてもうひとつ、
中国で「勾股弦」(三四五)として知られるいわゆる三平方の定理があるのですが、
さしあたり天皇の系譜は、九進法で循環する系譜になっている点を認識してください。

-----------------------------------

こういう循環の最も分かりやすい例は、去年の「五月」も今年の「五月」も、
「五月」は「五月」に変わりない。といったことでしょう。天皇以前の神様も、
天皇の系譜も、そのようなものとして(記・紀では)表現されています。よって、
神代に出てきた神様と、歴史時代(として描かれてる)に出てくる神様たる天皇が、
ちょうど「五月」は「五月」に変わりないように同じものを意味するのは珍しくない。

以上のことを踏まえれば、「忌部」の祖として描かれてる「天太玉」が、
「沼名倉太玉敷」に重なるとしても、さほど驚くことはないと思われます。
注目すべきは、「沼名倉太玉敷」が娶った女に「比呂比売」がいることです。
件の「比理トメ」の「トメ」は、しばしば女性を表わす言葉です。したがって、
「トメ」の部分に拘らない限りにおいて、「比理トメ」は「比呂比売」でしょう。

#例えば元興寺伽藍縁起并流記資財帳を見ると、「阿末久爾意斯波羅岐比里爾波」
#と出てきます。これは古事記で言う「天国押波流岐廣庭」に間違いありませんね。
#古事記の「比呂比売」を書紀は「廣姫」に作る。中国の古音で「里」「理」などは、
#「ロ」に近い音を持っていたのです。「比理トメ」の「比理」は「廣」と思われます。

[3143] Re[3139][3138]: 私見あれこれ  習志野のてつ [Mail] 2002/07/17(Wed) 08:24 [Reply]
> 実際のところ、神社の方にお話を伺っていても、いろんな信仰のあり方があることを
> 感じます。神社を、「神のおられる場所」と考えるならば、参拝者が信じる神様が、
> その神社におられる、と考えていい、と、私は思っています(もちろん異論もあると
> 思います)
 ≪伴信友は『神社私考』で、本居宣長の意見を引きながら、神名帳の社号
(ヤシロノナ)はそのまま神の名と受け取ればよい…「知られぬをしひても
とめて、あらぬ神となさむよりは、たゞその社の号を、神の御名としてあら
むこそ、古の意なるべきを、社の号のみにてはとらへどころなきがごと思ふ
は、近き世の俗(キタナ)き心にこそあれ」≫ 
  又引き『日本廻国記 一宮巡歴』川村二郎・河出書房新社・昭和六二年

私見1:「俗(キタナ)き」と云われると、いささか辛いものがあります。
ただ、現在の氏子や神職さんが考えている、その神社や祭神の有り様を、
いわば傍観者があれこれ云うことについては、一定の遠慮が有ってしかる
べきです。(自戒を込めつつ)
私見2:京都の人は、「天皇」ではなく「天皇さん」と呼びます。関東で、
この表現は一度も聞いたことはありません。親しみを込めてのことだと思い
ます。「宮司」も同様ではないでしょうか。尊称ではありますが、親しくな
ると「宮司さん」。社内では「課長」、社外からは「××課長」「課長さん」
飲み屋に行くとみんな「社長さん」

> 玄松子さんのおっしゃるように、「行ったら分かった」は危険ですが、
> 「行ってお話を聞いてみよう」ってのは、よいことなように思います。
私見3:「行ったら分かった」だけでは冗談と同じですが、「行ったら分
かった。理由は××」と根拠を示せば、一つの意見になると思います。

[3142] Re[3130][3129]: 徳島県若杉山の辰砂  siyu [Mail] 2002/07/17(Wed) 07:33 [Reply]
> 住所はこのあたり。アプローチはmapionなどで見てください。
> 徳島県那賀郡鷲敷町大字仁宇 丹生八幡神社
> 徳島市阿南市水井町奥田
以前から仁宇について読みで丹生との関連を予想していましたが
やはり丹生八幡神社がありますか。

> 写真掲示板に松田寿男著『古代の朱』の阿波丹生谷のメモを掲載しております。
> 写真をクリックしますと、原寸図が出ると思います。
ありがとうございました。写真を開きました。阿波丹生谷の様子が分かりました。

> また市毛勲著『朱の考古学』に詳しい記事がありますので、メールにてご住所いただければ、コピー郵送いたします。
ご親切にありがとうございます。こちらの書店で入手したいと思います。

現地探訪の夢が膨らんできました。
目的地の近くに温泉地はないでしょうか。泊まりかけ(家族同伴)で行きたいと
思います。ちなみに当方は瀬戸大橋を通り四国に入ります。(マイカー)
参考になる探訪行程があれば教えてください。

[3141] Re[3140]: 安房神社(天太玉命)の后神  玄松子 2002/07/17(Wed) 00:32 [Reply]
> 矢田の神については、明治期だけが違ったといふことですね。

明治以降は、正式にニギハヤヒ命とされてたということで、
創祀期は、太玉命だったかもしれないし、ニギハヤヒ命だったかもしれません。
主人神社の祭神が、明治期に決定・新設されたものか、以前からそうだったのか。
もし、以前からだとすると、太玉命説が捨てがたいものになるかもしれません。

> 当面は埼玉から奈良まで出かける予定がないのが残念です。
瀬藤さんが代参されるそうです。待ちましょう。


ところで、柳瀬さんは、
> 「宮司」と言う言葉は敬称でしたでしょうか?
どう考えてます?

[3140] Re[3136][3131]: 安房神社(天太玉命)の后神  柳瀬 [Url] 2002/07/17(Wed) 00:20 [Reply]
 setohさま、玄松子さま、のりちゃんさま、有り難うございます。
矢田の神については、明治期だけが違ったといふことですね。
江戸時代まで主人神社の神に天比理刀当スがなかったとすると、大和にはこの后神の足どりは見つからないことになります。
 ちなみに二神をまつる3県の神社数は次の通りです(平成祭データ)。
        千葉 徳島 奈良
 天太玉命   15 18 13
 天比理刀当ス  7  1*  1  * 后神比理能売命(山崎忌部神社)
 天比理刀当スは3県以外では品川区と横浜市に各1社のみ。
この后神はやはり安房国の神なのでせうね。
「刀vは安房神社のHPで使用されるコードですので、採用させていただきました。
当面は埼玉から奈良まで出かける予定がないのが残念です。

 ことの起りは、埼玉県比企郡に数社ある淡洲神社(あはす、またはアワス)について、式内・伊古乃速御玉姫神社(淡洲明神、比企郡)、阿波須神社(千葉県市原市)と辿ったのですが、大和へは行き着けませんでした。

[3139] Re[3138]: 宮司に話を聞くこと  のりちゃん [Mail] [Url] 2002/07/16(Tue) 22:49 [Reply]
下手な文章で書くと、不遜な文章になりそうなので、なるべく慎重に書きます。
が、言葉が足りなかったらごめんなさい。

実際のところ、神社の方にお話を伺っていても、いろんな信仰のあり方があることを
感じます。
神社を、「神のおられる場所」と考えるならば、参拝者が信じる神様が、その神社に
おられる、と考えていい、と、私は思っています(もちろん異論もあると思います)

自分のサイトでは、「願い事別」で神社を区分してしまっている私ではありますが、
いくら、「願雨の神様」を祭神とする神社であっても、神社に遣えるかたがたが、そ
の神様を、恋愛の守護神と思い、お遣えされているのならば、その神様は、恋愛の霊
験を持つ神様である、とも思っています。
参拝する方が、その神様を受験の神様と信じてお祈りされるならば、受験の霊験も、
持ち合わされると思います。

ただ、神社を、歴史の資料の存在する場所と考えるならば、客観的な資料が存在する
かどうか、は、大きなポイントですね。

私は、厚顔にも、「本来は」と聞いてしまうこともあります。
もちろん、お話の流れにもよりますし、宮司さんの雰囲気にもよるのですけれど。

宮司さんによっては、「ん〜〜、あんまり大きな声ではいえないけどね」と、にんま
りして、お話してくださることもありますし、何を言っておるのだ?という顔をされ
ることもあります。

もちろん、現地でお話を聞いたことだけを信用するのは危険です。
でも、聞いたことで必ず何かの発見に繋がるとも思います。

私は「正史」を読んだことはないので、どれくらい、強引な説なのかわかりませんの
で、なんともいえません。
でも、
「なんとか自分の説に強引に引き寄せよう」とお話を聞くのと、
「こちらの神社の方はどのような気持ちでお遣えしておられるのかな?」という気持
ちでお話を聞くのとでは、違ってきますよね。
玄松子さんのおっしゃるように、
「行ったら分かった」は危険ですが、
「行ってお話を聞いてみよう」ってのは、よいことなように思います。

でも、これって、いろんな神社でいろんなお話を聞ける、大阪に在住してる人間だか
ら言える、贅沢なことなのかも知れませんね。

[3138] 宮司に話を聞くこと  玄松子 2002/07/16(Tue) 22:13 [Reply]
神社に参拝して、話を聞くことは多いのですが、みなさんは、その社の「本来の神」とか「本当の神」という話をするのでしょうか。

神社祭神に関しては、多くの学者や郷土史家が、さまざまな説を出すことがありますが、神社あるいは氏子の方々は、現在祀られている神を、選択し、信じ、祀っているのではないかと思うんですよね。
僕は、その方々に対して「本当は・・・」「本来は・・・」と聞いたことがありません。中には、明らかに付会と思われる話もありますが、それは、その方にとっては真実なわけですよね。信仰の前提条件。
参拝時には、その話を尊重しなければならないと思います。
が、それを根拠に史実などを導くことにはリスクがあると認識しておくべきだと思います。某原田氏のように、「行ったら分かった」というだけでは危険だとおもうのですが。

[3137] Re[3135][3134][3133]: 安房神社(天太玉命)の后神  のりちゃん 2002/07/16(Tue) 21:52 [Reply]
> ただ、『大和志料』では、天明玉・天太玉と、玉作の祖神としているので、両説あったのは事実です。

ありがとうございます。
栞にも追メモしました。
こうやって教えていただくと、一つの資料だけじゃなく、いろんな資料を見て、検討
することの大事さというのがわかりました。
私は、一つの資料だけ見つけて、満足するところがあったようです。
ありがとうございました。

>Setoh 様

すいません。
「宮司」という言葉を「先生」と同じような感覚で使っていました。
役職名ですから、「宮司」と呼ぶのは失礼にあたるかも知れません。
(○○宮司、ならOKかもしれないですね)
これからは、Setoh さんに倣って、「さん」をつけるようにしますm(__)m

[3136] Re[3131]: 安房神社(天太玉命)の后神  Setoh 2002/07/16(Tue) 20:54 [Reply]
櫛=太 か?
ともに神威の強いものにつける敬称と理解すれば、太玉命は櫛玉命となりとすれば、矢田坐久志玉比古とは太玉命であっても不思議ではなさそうですね。
御旅所の情報は神社の創始を伝えるものかも知れないほど重要かも。ましてや「主人神社」と言う名前も気にかかります。

延喜式神名帳大和国高市郡に、太玉命神社4座[フトタマノ](並名神大。月次新甞。) 櫛玉命神社[クシタマノ](並大。月次新甞。)と順序よく並ぶのも、暗示的ですね。

[3125] hvhyさんに、「忌部」も「物部」の系統、と書かれておられるのですが、共に祭司氏族ゆえ武具も製作、その為に製鉄も行ったでしょうし、これをして系統と言えるのかどうかです。
ただ、『先代旧事本紀』には、饒速日尊天降に際し防衛として天降り供へ奉る氏族の中に、太玉命(忌部首等の祖)、天児屋命(中臣連等の祖)の名が出ています。これは信用できない後付け説話と思いますが。

ただ、「トミ」と言う言葉に注目しますと、天富命、中臣連が入っています。神名には他にも「トミ」は多いようですが。
櫛や太に加えて、豊や富も神威の強いものにつける敬称とすれば、この言葉で括るのは怖いですね。

のりちゃん > 参拝して、お話を伺ってはいかがでしょう。
アドバイスあsりがとう。早速にでも、各位の代参をいたしましょう。ところで、「宮司」と言う言葉は敬称でしたでしょうか? 神奈備は宮司さんと言うことにしています。

[3135] Re[3134][3133]: 安房神社(天太玉命)の后神  玄松子 2002/07/16(Tue) 19:49 [Reply]
つづき。

> 『式内社調査報告』によると、「神社明細帳によると大正2年まで」という意味の記述がありますが、これは間違いということですね。

明治四十五年『明治神社誌料』でも、ニギハヤヒとなっているので、やはり間違いかも。
ただ、『大和志料』では、天明玉・天太玉と、玉作の祖神としているので、両説あったのは事実です。

[3134] Re[3133]: 安房神社(天太玉命)の后神  玄松子 2002/07/16(Tue) 19:43 [Reply]
> この神社のご祭神が、天太玉命であったのは、明治の廃仏毀釈の運動のころから、明治34年までの間だけだったそうです。

『式内社調査報告』によると、「神社明細帳によると大正2年まで」という意味の記述がありますが、これは間違いということですね。
江戸時代は、東明寺の僧が管理していたようです。

[3133] Re[3132][3131]: 安房神社(天太玉命)の后神  のりちゃん 2002/07/16(Tue) 19:08 [Reply]
> 矢田坐久志玉比古神社の主祭神は大正2年まで、
> 天太玉命でしたから、そのためじゃないでしょうか。

ちょうどこの間、矢田坐久志玉比古神社に参拝して、宮司にいろいろお話を伺ったと
ころなので、微訂正させてください。

この神社のご祭神が、天太玉命であったのは、明治の廃仏毀釈の運動のころから、明
治34年までの間だけだったそうです。

柳瀬さん、
とすると、矢田坐久志玉比古神社の祀り替えをするときに、主人神社のご祭神を勧請
したという可能性も考えられないかな?と、思います。
そうすると、この二つの神社の関係にも興味がでてきますね。

主人神社は参拝したことがないので、詳しくはわかりませんが、現在、矢田坐志玉比
古神社は、宮司が常駐されています。
神社や神様について、氏子さんに資料をお配りになったり、とても熱心に、神様のこ
とをお伝えしてくださる方でした。
もし、可能ならば、参拝して、お話を伺ってはいかがでしょう。
きっと何か発見があると思います。

[3132] Re[3131]: 安房神社(天太玉命)の后神  玄松子 2002/07/16(Tue) 18:41 [Reply]
> ロ羊命……

この書き方はナイスですね。


> 奈良県大和郡山市矢田町の主人神社(ぬしとじんじゃ)の主祭神であることがわかりました。矢田坐久志玉比古神社の御旅所とも聞きますが、詳しく御存じのかたはいらっしゃいませんか?

主人神社に関しての詳細は、他の方に任せますが、
矢田坐久志玉比古神社の主祭神は大正2年まで、
天太玉命でしたから、そのためじゃないでしょうか。

[3131] 安房神社(天太玉命)の后神  柳瀬 [Url] 2002/07/16(Tue) 14:25 [Reply]
 あることから、安房の安房神社(天太玉命)の后神の天比理刀ロ羊命……
(千葉県南部の洲宮神社や洲崎神社などに祀られ、東京の品川神社もこの神です)
を調べましたところ、 奈良県大和郡山市矢田町の主人神社(ぬしとじんじゃ)の主祭神であることがわかりました。矢田坐久志玉比古神社の御旅所とも聞きますが、詳しく御存じのかたはいらっしゃいませんか?

 私見では、あらゆる文化的なものは、必ずしも中央→地方といふ経路をとりません。上代に地方から都へのぼった采女のように、地方の女神も中央に祀られた可能性があり、それは中央の中央たる基盤の確立でもあります。
 天太玉命は、子孫の天富命が阿波から安房へ移住したときに安房神社に祀られたとされ、神話時代の神ではあります。しかし、神さまには年齢はありませんので、安房へ来てから新たな后神を迎へることもありうるわけです。

[3130] Re[3129]: 徳島県若杉山の辰砂  Setoh 2002/07/16(Tue) 10:17 [Reply]
住所はこのあたり。アプローチはmapionなどで見てください。
徳島県那賀郡鷲敷町大字仁宇 丹生八幡神社
徳島市阿南市水井町奥田

写真掲示板に松田寿男著『古代の朱』の阿波丹生谷のメモを掲載しております。
写真をクリックしますと、原寸図が出ると思います。
また市毛勲著『朱の考古学』に詳しい記事がありますので、メールにてご住所いただければ、コピー郵送いたします。

[3129] 徳島県若杉山の辰砂  siyu [Mail] 2002/07/16(Tue) 06:28 [Reply]
本題からそれますが、四国の徳島県若杉山で古代に朱製造した遺跡があるとのことで
興味があります。機会があれば現地を見たいと思います。
誰か若杉山への道順等を教えてください。

[3128] Re[3127][3123]: 「印波郡」について  Setoh 2002/07/15(Mon) 09:27 [Reply]
Yさん、こんにちは> 埴生郡磯部郷

千葉郡の寒川神社の由緒書きの中に「馬加村の磯部、磯出祭」と出てきますね。

以下『和名抄』によります。
上総、下総に埴生郡の名が見えます。
下総の香取郡に礒郷あり、埴生郡には磯部郷の名は見えず、麻在(麻佐)の郷名が見えますね。
千葉郡に物部郷、印幡郡に言美郷がありますね。言美はトミ。

さて、下総には經津主大神を祀る香取神宮が鎮座、いずれにしても物部の跋扈した地域のようです。

[3127] Re[3123]: 「印波郡」について   2002/07/15(Mon) 01:06 [Reply]
千葉県成田市の北部、利根川に近いところに「磯部」というところがあります。
旧 埴生郡磯部郷で、「埴生、丹生」と「磯部」のセットでして、ここの地名が『白鳥伝説』に出てたかどうかわかりませんが、鳥を追って鉄を作った物部の人たちのことです。
「鳥見」というのは、そういう意味があったんですね。
天孫本紀には「物部印葉連」という名があるそうですが。

[3126] 青草 Re[164] 決め手にかける祀ること の遷座  Setoh 2002/07/14(Sun) 21:37 [Reply]
> 祀られない神は、存在するのでしょうか。
誰か一人が祀れば、祀る側の人間全てに対して存在するのでしょう。祀らなければ存在しないなら、荒神・暴神を祀らねば、祟りもない?とはいかないでしょうね。

> 巫女や神職が重要な役割
天日槍が巫女を追いかけた神話は、「祀られない神は、存在しえない」との認識の上でしょうね。

[3125] 「物部」と「忌部」  hvhy 2002/07/14(Sun) 19:48 [Reply]
詳細に踏み込むと嫌われる面もあるので、ちょっと大雑把に書きます。
第二代天皇である「神沼河耳」やその兄である「神八井耳」というのは、
これは当たり前の話ですが、「大物主」(邇藝速日)の孫に当たるのです。
「大物主」の孫に始祖を求めたという意味で、自分が「意富臣」である人は、
その意識のなかに「大物主」を戴いていたでしょう。また「太神社」の立地も、
やはりこういう観点(三輪山を射程に入れる観点)からこそ、よく理解されます。

ところが「邇藝速日」と「登美夜毘売」の結婚は、よく記・紀を吟味してみると、
「沼名倉太玉敷」(敏達)と「豊御気炊屋比売」(推古)の結婚の焼き直しであり、
実は「邇藝速日」〜「太玉敷」〜「布刀玉」(太玉)は同体です。(※布都御魂も?)
仮にそうであるならば、「麻賀多神社」の祭神であった「太玉」(香取文書による)は、
これ即ち「邇藝速日」ですから、印旛郡の「鳥見神社」の祭神の話にそのまま繋がります。
日本書紀で「佛法を信けたまはずして」と描かれているのが件の「沼名倉太玉敷」(敏達)。
「美和之大物主」の代名詞が「神」。自らが「神」(美和)なら、「不信佛法」も当然のこと。

#律令期以降、王権祭祀を主に担っていたのは「中臣」「忌部」なわけですが、
#いわゆる蘇我氏が全盛の時代、これに対抗していたのが「中臣」「物部」です。
#「物部」の系統には「石上氏」もいますが、また「忌部」も「物部」の系統です。
#表向きはともかくも、「大物主」を祀らなければ、王権祭祀は成立しなかったはず。
#ならば、(大物主の後裔である)「物部」が王権祭祀の役を外れるわけがありません。

[3124] 千葉の鳥見神社  玄松子 2002/07/14(Sun) 00:16 [Reply]
千葉に何社の鳥見神社があるか、正確にはわかりませんが、『平成祭データ』では19社(印旛郡だけでも16社)。その祭神は、すべて饒速日命です。
奈良に、
等弥神社(http://www.kamnavi.net/mn/nara/tomi2.htm
登彌神社(http://www.kamnavi.net/mn/nara/tomi1.htm
とあり、こちらの祭神も饒速日命と考えられ、登彌神社では、登美饒速日命と記されています。

「青草」にでました遠見岬神社に関しては、祭神は天富命。遠見=富ではないかということですね。

[3123] 「印波郡」について  hvhy [Mail] 2002/07/13(Sat) 23:36 [Reply]
話題に出てたように記憶するので、少しメモとして書きます。
千葉県の印旛郡には、「麻賀多」「宗像」「鳥見」の各神社が、
集中的に分布しています。これは実は「忌部」という線で繋がる。

「忌部」の本拠地たる本拠地は「阿波」ですが、(※他にもあるが)
特に「名方郡」に注目して下さい。「忌部」に縁の深い神社に混じり、
「多祁御奈刀弥神社」というのがあります。祭神は「建御名方」ですね。
「建」も「御」も美称なら、そもそも郡名の「名方」は「建御名方」関連。

ところが梁塵秘抄に「諏訪」と「南宮」を同体とする説が出てくる。
おそらく念頭にあるのは、「御名方」〜「南方」〜「胸方」の繋がり。
古事記の神名は単に「建御名方」で、後ろに「トミ」は附いていません。
でも神社では、しばしば「……トミ」という名前ですね。であってみれば、
まず「宗像」「鳥見」の両者は「多祁御奈刀弥神社」の線から理解できます。

その「多祁御奈刀弥神社」が鎮座しているのは「忌部」のテリトリー。(※大雑把な話)
現在はそうなってませんが、香取文書のなかに「麻賀多神社」の祭神を、
「太玉」とする記述が見られます。「太玉」は当然ながら「忌部」の始祖。
これで「印旛郡」の「印旛」を「忌部」と切り離して考えるのは難しいです。
むろん件の「多祁御奈刀弥神社」が存在していなければ、今の話は成立しない。
が、神名帳に載る古社ですから、なぜ「阿波」にあるのか考える余地はあります。

#ここで述べたことの半分ぐらいは、
#『日本の神々』で考証されています。

------------------------------------------

話は変わりますが、律令期に入ってから、祭祀と言えば、(※ここでは王権祭祀の意味)
「中臣」「忌部」だったわけです。しかし古事記を見ると、
「僕は汝命を扶けて忌人と為りて仕へ奉らむ」と述べるのは、
「神八井耳」です。この「神八井耳」は「意富臣」の始祖です。
古事記の成立は(謳い文句を信じたとして)8世紀の前半ですが、
その8世紀の前半において、「意富臣」はどうしていたのでしょう。(※王権祭祀との関わり)

通説においてそんなことは言っておりませんが、これは、
「意富臣」と「忌部」を分派(ないし親戚)と考えるなら、
疑問が氷解します。「忌人と為りて」という表現の「忌人」。
やはり「忌部」と結びつけて読むのが素直ではないでしょうか。

大和の国中には「多坐弥志理都比古神社」が鎮座している。
東に「三輪山」、西に「二上山」というロケーションですが、
ともかく「太神社」とも書かれていた。(※寄進帳などの資料)
これをたまたま「太」であって、意味はないと見るのも見方です。
が、ここで積極的に「太玉」との関連を想像してみるのも見方です。

#出雲(特に東部)へ目を移すと、忌部玉作遺跡と意宇郡は、
#まあ隣ですね。仮に「意宇郡」が「意富臣」に関連するなら、
#少なくとも出雲において、地縁?はあったと十分に考えれます。
#ところが国造本紀では、なんと「印波国造」の「伊都許理命」が、
#「神八井耳」の後裔に位置づけられている。こういったこともあり、
#印旛郡は少なくとも或る時期、「意富臣」の勢力圏だったと言われる。
#しかし、分布している諸々の神社は、どうやら「忌部」繋がりなのです。

[3122] Re[3120]: 神田明神のことなど  玄松子 2002/07/13(Sat) 12:59 [Reply]
> 神社は過去の遺跡ではなく、今現在の信仰と祭りによって支へられてゐるものなのですから。

たしかにそう感じます。

われわれのような素人・よそ者が、興味本位に祭神についてあれこれと想像・空想することは非常に楽しいことではあり、自由に行われて良いこと。
ですが、「本来はXXXだ」「○○に違いない」と特定し、決め付けるのは、傍迷惑ですね。

[3121] Re[3120]: 神田明神のことなど  Setoh 2002/07/13(Sat) 09:38 [Reply]
柳瀬(埼玉)さん
> 神社は過去の遺跡ではなく、今現在の信仰と祭りによって支へられてゐるものなのですから。
この気持ちは決して忘れてはいけませんね。ありがとうございました。

神田明神について、[3117]で
> 明治天皇参拝時、大己貴命、少彦名命を主祭神としたと言いますね。
と書きましたが、これは間違いでした。お詫びいたします。
『日本の神々11』により、神田明神の祭神変遷をまとめておきます。
創建 天平二年(730)神田の地の鎮めとして大己貴命を祭った。
徳治二年(1307) 首塚から平将門を合祀 
明治七年(1874) 常陸国大洗磯崎神社から少彦名命の分霊を勧請。
   明治天皇御参拝の一月前に少彦名命を急いで勧請、平将門を摂社に遷す。
昭和九年 摂社の将門の霊を相殿に戻した。

神紋は「なめくじ巴紋」と言うそうで、将門の呪いの印だとか言われます。
尾長左三つ巴に似ていますね。 http://www.genbu.net/sinmon/index.htm 文様の巴紋参照

[3120] 神田明神のことなど  柳瀬(埼玉) [Mail] [Url] 2002/07/13(Sat) 02:15 [Reply]
 神田明神の由緒にある「八所御霊の例に倣い」……「八所御霊」とは例の早良親王などのことですね。平将門の祭神問題は徳川時代の初めに解決してゐたことが、明治の初めになってたぶん地方出身の役人か誰かによってむしかへされて、大論争となったのでせう。([3117]の引用ではお手数をかけました)
 京都福知山市の御霊神社の由緒には「御霊神社の祭神は保食神であって元来食物を主宰し給う神を祀ったことから五穀豊饒商売繁昌の神として崇められて来たのである。しかしこの本社を御霊神社というのは、明智光秀を祀ったことに由来している。」とあります。神社や氏子も認め、歴史も確かに証明するものなら良いのですが、ベストセラーの本を書く人などで、無責任にあちこちの神や仏を怨霊だと決めつけて歩く人があります。「歩く」と書きましたが、かういふ人は自分の足ではあまり歩かないかもしれない。関東では屋敷の中に稲荷様などを祭る家が多いのですが、他人の家の神さまを云々するのには(特にこの件の問題では)配慮が必要です。「お前のかあさん、でべそ」といった水準の悪口に聞えてしまひます。神社は過去の遺跡ではなく、今現在の信仰と祭りによって支へられてゐるものなのですから。
 古事記の話では、伊吹山の神が猪の姿で現はれたとき、倭建命はただの神の使ひの猪だと思って軽蔑した言葉を吐き、これが「言挙げ」であると古事記に書かれます。神の名はわからなければわからないでいいのに、わかったやうなふりをしてはいけないといふことでせう。
 前回の書き込みでは、文章が長すぎて最後を端折りました。一部の固有名詞の間違ひとともにお詫びいたします。

[3119] 【宣伝】です   2002/07/12(Fri) 11:57 [Reply]
> なお、神社本庁編集の『平成祭礼データ』(¥2万円)はNECのMS−DOSでしか動かなかったのですが、Yさん、Gさんの技術で、DOS/V、WINDOWSでの操作できるようになり、誠に使いやすくなりました。ありがたいことです。

ここにあります。→ http://www.ne.jp/asahi/matu/gen/sai/
CDを持っている方は、一度お試しください。

[3118] Re[3113][3112]: 御祭神名の扱ひ  玄松子 2002/07/12(Fri) 11:36 [Reply]
> >  あるいは昔から本当の神の名をお上に届け出ることにはばかりがあったので、
> >  表向きの神の名と本当の祭神が異なる場合もありました。…
> >  東京の神田明神の祭神もこの例に近いといふ人もあります。
>  神田明神の祭神について大変興味があります。もう少し詳しくご説明いただけますか?

習志野のてつさんが聞きたいのは、表向きの祭神ではなく、「この例に近い」祭神のことですよね。僕も聞きたいし。

[3117] 神の名  神奈備 2002/07/12(Fri) 09:23 [Reply]
> 敦賀の気比の神が応神天皇と名前を交換したといふ話では、神の名はあったやうです。

そうですね。神功皇后へのご託宣でも神の名を尋ね、答えています。
伊奢沙和気命と品陀和気命とのお話ですが、「イササ」は天日槍の将来したイササの太刀や国譲りの談判のイササの浜と同じような名前で「実名」かどうかは疑問と思っています。また「イササ」には国譲りとか権力交替に絡む意味があったのではと思っています。
品陀和気命の誉田も地名のようにも思えます。
また「名前を交換したといふ話」はあるのですが、これは実現したのか、それともすぐに元の名前に戻ったように思われなくもなく、古代の謎の部分ですね。

> 習志野さまには、特定の神社の祭神については、とりあへずは「平成祭礼データ」などを参照してください。

とりあえず『平成祭礼データ』から、引用しておきます。なお、神社本庁編集の『平成祭礼データ』(¥2万円)はNECのMS−DOSでしか動かなかったのですが、Yさん、Gさんの技術で、DOS/V、WINDOWSでの操作できるようになり、誠に使いやすくなりました。ありがたいことです。

神田神社(かんだじんじゃ) <通称>明神さま(みょうじんさま)
101 東京都千代田区外神田2ー16ー2
【祭神】大己貴命 少彦名命 平將門
【例祭】1月1日 歳旦祭 1月15日 成人祭 2月節分 節分祭 4月1日 崇敬会参拝行事 4月3日 祈年祭 5月14日 献茶祭 5月15日前の土曜日 大祭 5月15日 例祭 9月15日 敬老祭 9月彼岸中の1日 将門塚例祭 11月1日 七五三詣 11月25日 新嘗祭 12月23日 天長祭 毎月1日1・15日 月次祭

御創建の由来

当社は社伝によると聖武天皇の天平二年(七三〇年)の創建という。
はじめ武蔵国豊島郡江戸芝崎(現在の千代田区大手町将門塚周辺)に宮居が定められた。
年移り約二百年後、桓武天皇六代の皇胤なる平将門公が俵藤太に討たれ、その御首は京都に運ばれ東の市に晒された。やがて党類これを奪いかえり塚を築いて葬った所が、当社を離れること百歩の地であったという。
次いで延慶二年(一三〇九年)には将門公の霊を相殿に祀り、神田明神と名付けこの地の守護神にされた。
天正十八年(一五九〇年)徳川家康公は三河から江戸に移り幕政の地と定め大規模な城下の造成工事が開始された。
そして元和二年(一六一六年)に当社は現在地に遷座し、江戸城の艮鬼門の守護神となり、二代将軍秀忠の命により桃山風の豪華な社殿が築かれた。
これより歴代将軍の尊崇厚く、江戸総鎮守として面目を一新した。
寛永三年(一六二六年)烏丸大納言光広卿が当社に参拝され、将門公が天慶の乱で朝敵とされたことを八所御霊の例に倣い、国家鎮護の社として勅免の沙汰が下り、神田大明神の勅額を賜った。
また明治元年には勅祭社に准ぜられ、同七年には明治天皇が御親拝された。
以上

明治天皇参拝時、大己貴命、少彦名命を主祭神としたと言いますね。

[3116] Re[3115]: 神の名など  玄松子 2002/07/12(Fri) 07:34 [Reply]
僕も私見を。

> 最近玄松子さんのところで見た神社では「おなり」といふ川の神が元の神の名前らしいのですが、瀬織津姫といふ記紀の神になってゐる(よくある例です)。

この名は、伝承の一つということですね。他の伝承では、別の名かもしれません。

一神教のように唯一絶対の神が存在する国と違い、日本のように八百万の神が存在する国では、かならず神の名はあったと考えるのが、やはり前提だと思います。
名前がなければ、区別できませんからね。

ただ、その名前は、万人に共通ということはないでしょう。ある人はA、別の伝承ではBだったかもしれません。

しかし、神社として成立し、集団として神を祀る形態が整うと共通認識として、一つに決めないとややこしいことになります。
とりあえず、幾つかの説の中から選択し、一つの神名を決定するのではないでしょうか。ひょっとするとこの時点で、創造されるかもしれません。

その後、神社の変遷の中で、その集団が別の集団にかわる時、あるいは集団の質が変わる時、正しくその名が継承されない場合があるのかもしれませんし、記紀にある神名へ変わる可能性もあるでしょう。
明治の政策は、集団の「質」を大きく変化させましたね。

[3115] 神の名など  柳瀬(埼玉) [Mail] [Url] 2002/07/12(Fri) 00:50 [Reply]
 葛城説は、とくに支持といふわけではなく、最近の旅行で、石上神宮の門前町よりも、やはり葛城の風景に郷愁を感じたといふ経緯がありましたので。

 「神の名」についてはむづかしい問題です。こんなことも考へました。
 敦賀の気比の神が応神天皇と名前を交換したといふ話では、神の名はあったやうです。言霊(ことだま)といふ考へでは、あらゆるものに名前があることを前提にしてゐますが、自然物の名とその神の名とどちらが先に成立したかはわかりません。あるいはたとへば海の呼び名がいくつかあって、そのうち最も言霊の力の強いものが神の名とされたかもしれない。ハレの場でもないのに神の名を口にすると、一種の「言挙げ」のようになって、言霊の力を弱くする可能性がある。敬意を表現するために遠まはしな呼び方をしますが、同じ言葉に馴れてくると敬意が感じられなくなって別の呼び方を採用し、名前が入れ替ったようにもなる。最近玄松子さんのところで見た神社では「おなり」といふ川の神が元の神の名前らしいのですが、瀬織津姫といふ記紀の神になってゐる(よくある例です)。古代の天皇には多くの別名があり、どれが実名なのかは、ほんとのところはわかりません。実名と呼べるものは一つも記録されなかったかもしれない。
 ただハレの場で神の名とともに神話を語る語り部は、古代にあっても物語を忘れないためには日常的に言葉を反芻したものと思ひますので、setohさんを始め、現代の語り部の皆さまには、大いに語っていただきたいと思ひます。

 習志野さまには、特定の神社の祭神については、とりあへずは「平成祭礼データ」などを参照してください。

[3114] Re[3112]: 御祭神名の扱ひ  Setoh 2002/07/11(Thu) 15:01 [Reply]
柳瀬(埼玉)さん、御祭神名について、ありがとうございます。
> 葛城王朝説については、神武天皇に関して別として、記紀の記述との矛盾も少なく、ある程度広く受入れやすいもの
鳥越先生の葛城王朝説は『記紀』と『魏志倭人伝』にそっての記述ですから矛盾は少ないですね。高天原は葛城山(現金剛山)の高天で、そこから降ってきて展開、その葛城王朝は狗奴国であって、邪馬台国であった物部王朝を倒した云々、ががいささかすんなりとは受け入れにくい説では、と言うことです。
鳥越説はともかく、磯城の豪族が葛城に統合されたのか、葛城が磯城に押さえられたのか、多分、大和外部の先進技術を持った新勢力が平野をまとめて統合したのかも。

所で、欠史八代の内の何代かは伝承としてその存在が伝わっていたのではないでしょうか、クンタキンテのルーツ探しでも十代前のご先祖の名前は記憶されていたように、これは崇敬心もあるのでしょうが、血の濃すぎるのを避ける知恵だったのかも。
そのような意味で、崇神以前も実在、と言えるように思います。

> 神様の実名
神様に実名は存在したのか、神様とは、ここいらが分かりにくいところです。
地名(熊野坐神)、普通名(山神、海神、海童神、大山祇神)、実名(菅原道真)、などで、実名で存在していたのか人間であって、泉や滝や機能を神として祭った際には、その神の実名はなかったとは言えないでしょうか。

[3113] Re[3112]: 御祭神名の扱ひ  習志野のてつ [Mail] 2002/07/11(Thu) 07:32 [Reply]
>  本来は、神社を祭る氏子たちは、みだりに神様の実名を口にしてはならないもの
>  でした。…社長を姓名で○山○夫さんとは呼ばずに肩書で呼ぶと思ひます。
 全く同感です。大変示唆に富んだお話をありがとうございます。
ただ、私見を少し。【本当に「忘れてしまう」ことがあるのかな〜。】
東京電力の社長だった、平岩外四(ひらいわがいし)さんが、あるとき社員が誤記した
「平岩外四名」(ひらいわほかよめい)に激怒。結果その社員はとんでもない閑職にと
ばされたという話があります。本当は「祭神の名前を知っていても云わない。」ではな
いでしょうか。

> 江戸時代ごろまでは、何十年も口にしなかったりすると忘れてしまふことがありました。
 この部分については疑問を感じます。

>  あるいは昔から本当の神の名をお上に届け出ることにはばかりがあったので、
>  表向きの神の名と本当の祭神が異なる場合もありました。…
>  東京の神田明神の祭神もこの例に近いといふ人もあります。
 神田明神の祭神について大変興味があります。もう少し詳しくご説明いただけますか?

[3112] 御祭神名の扱ひ  柳瀬(埼玉) [Mail] [Url] 2002/07/10(Wed) 21:27 [Reply]
 7/9の葛城王朝説については、神武天皇に関して別として、記紀の記述との矛盾も少なく、ある程度広く受入れやすいものと思ひましたが……。万葉歌ではありませんが、残念(今ぞ悔しき)です。
  葛城の高間の茅野、とく知りて標(しめ)挿さましを。今そ悔しき   万葉集1337
 さて少し前の話題の御祭神についてコメントさせてください。

 本来は、神社を祭る氏子たちは、みだりに神様の実名を口にしてはならないものでした。天皇陛下の御名前(漢字の「仁」のつく御名前)を普段は申し上げてはならないのと同じです。会社員のかたも社長を姓名で○山○夫さんとは呼ばずに肩書で呼ぶと思ひます。
 江戸時代ごろまでは、何十年も口にしなかったりすると忘れてしまふことがありました。しかしこれは氏子の不信心に原因があるのではないわけです。明治維新に至り神社明細帳に全ての神社と祭神名を登録することになりましたが、氏子はただ「山の神だ」としかわからず、そこで知識のある人が漢字だけで書かれた古事記といふ本から「大山祇神」の文字を拾って届けたなどといふ例は少なくないらしいのです。
 あるいは昔から本当の神の名をお上に届け出ることにはばかりがあったので、表向きの神の名と本当の祭神が異なる場合もありました。福知山市の御霊神社の今の由緒に、さう書かれます。東京の神田明神の祭神もこの例に近いといふ人もあります。ちなみに氏子の祭る神を権力者が強要した例がきはめて稀なのは、古い神の祟りを恐れるからです。
 末社の祭神とはいへ、担当の宮司が知らぬのは不勉強極まりないといふ明治以来の考へもあって、平成祭礼データなどでは地方により一部に無理な報告もありました。むしろ大きな神社は堂々としたもので、山口県防府市の玉祖神社では、祭神二座のうち一座を今も不明とし、御供物などは常に二座ぶん供へるといひます。

[3111] 前津  Setoh 2002/07/10(Wed) 20:38 [Reply]
天日槍に関して前津見(マヘツミ)もしくは前津見(サキツミミ)と言う名が出てきます。
ひとつは、天日槍が出石に定着した際に、「但馬の俣尾の女、名は前津見を娶して・・・。」と」『古事記』にあります。出石近くの但馬國糸井郷に佐伎都比古・阿流知命神社があり、サキツの訓がよさそうです。

吉備には前津屋(サキツヤ)と言う名が出てきます。
雄略天皇の時、小女や小鶏を天皇とし、大女や大鶏を己(前津屋)として争そわせたりして、物部の兵士に殺されています。

と、ここまでは古典を見たらわかるお話。
で、共語の”前津”について、思いあぐねております。

[3110] ランドスケープ・1  香具 2002/07/10(Wed) 20:23 [Reply]
 雄岳(517m)、雌岳(474m)の二つのピークを持つ二上山は、それほど高い山ではありませんが、そのラクダの背のような独特の稜線のために覚えやすく、見付けやすい山です。
 そのために神戸からでも、ビルに邪魔されないような小高い丘に登ると大阪湾を挟んで見ることができます。先日は須磨海岸からも確認できました。
 古代でも、瀬戸内を西から船で帰って来て、明石海峡を過ぎる頃には、遠く二上山を見つけることができたことでしょう。河内や大和で生活していた人には、故郷のシンボルとなったかもしれません。(もちろん生駒山系もはっきりと見えます)
 葛城山や金剛山のほうが倍以上に標高が高いのですが、遠くからは漠然とした山脈のため、特徴のある二上山のほうが判りやすかったりします。

 今春、近鉄南大阪線に乗る機会がありました。このルートは二上山の裾野をグルッと廻り込んで進みます。車窓にはパノラマ画面のように二上山が迫ってくる、とても贅沢な風景でした。感激請け合い、ぜひお勧めの電車です。(有名な古墳群の中も通りますヨ)
 さらに、山之辺の檜原神社から見た二上山に沈む夕陽の構図は有名ですね。このフタコブラクダは石上神宮からもよく見えるのですが、もっと北上して奈良駅付近や法隆寺あたりでは、山のピークが重なってしまい判らなくなりました。(見えますか?)

 天理市の竜王山から明石大橋が見えるということですので、今度機会があれば、明石海峡から竜王山山頂が判るか確認したく思っています。あれ?神社の話しにつながりませんでしたね。<(_ _)>

[3109] Re[3108]: 十代以前の天皇のことで  Setoh 2002/07/09(Tue) 17:02 [Reply]
>  おはつにお目にかかります。
柳瀬さん こんにちは。

東の山ノ邊道と西の葛城古道は大和の古代を物語ってくれる素晴らしい道です。実際の所、往古の道跡は判明していないのですが、
道標がついており、歩いてみますと本当の道だと思えてきます。
それはともかくとして、”高天”と言う地名が残っていますが、高天彦神社の名に関連するでしょうから、平安時代にはそのような地名だったのでしょう。
そのわりには鳥越さん以前に、この地や地名に注目した方には行き当たっていません。『和漢三才図絵』にも、「高天彦神社在高天山」とそっけないですね。

葛城古道は何度か歩きましたが、いかにも古代の王朝の拠点だったのではとの思いは募ってくる土地柄です。大和国中とは巨勢の丘で隔たれ、南は紀ノ川から紀伊水道につながり、ひとつの勢力を築くのにはよさそうに感じます。

柳瀬さん>神社の由緒書に取り上げられるといふことは、地元の圧倒的な支持があってこそと思ひますが、いかがでせうか。
葛城王朝説は少なくとも地元の人々が支持しないと、誰が支持するか、という説ですね。

柳瀬さん>神武天皇は熊野でなく和歌山から吉野川沿ひに大和へ入ったともいひますが
和歌山にこのような伝承が残っているかどうかについて、伊太祁曽神社の奥宮司さんと話し合ったことがありますが、彼ですらも聞いたことがないとのことでした。
大和攻略にはすぐに思いつくコースの一つですが、それだけに防衛ラインもしっかりしていたと言うことでしょう。

柳瀬さん>樹齢数百年と思はれる社前の巨木が倒れてゐました。残念といふほかありません。
猿の腰掛けがあったケヤキの古木ですね。おっしゃる通り残念ですね。高天彦神社も徐々に整備されてきて、かってのいかにも古社、と言う雰囲気を取り戻すのに少し時間が要るのかも。

[3108] 十代以前の天皇のことで  柳瀬(埼玉) [Mail] 2002/07/09(Tue) 12:21 [Reply]
 おはつにお目にかかります。
 津田説の話題から十代以前の天皇のことで、鳥越憲三郎の葛城王朝説を思ひ出しました。高天彦神社など奈良県葛城地方のいくつかの神社の由緒記(平成祭礼データ)には「葛城王朝」の言葉が頻繁に出てきます。ときどき由緒書は観光目的で書かれる場合もありますが、この場合は「昔から伝承があった。わが意を得たり」といった印象の書き方でした。神社の由緒書に取り上げられるといふことは、地元の圧倒的な支持があってこそと思ひますが、いかがでせうか。鳥越氏は神武天皇は熊野でなく和歌山から吉野川沿ひに大和へ入ったともいひますが、地元のかたはどんな評価をされてゐるのでせう。
 昨秋、御所市の高天彦神社を参拝したところ、台風かなにかで樹齢数百年と思はれる社前の巨木が倒れてゐました。残念といふほかありません。

[3107] 無題  Setoh 2002/07/09(Tue) 09:37 [Reply]
みえこさんに以下のことを教えてもらいました。某神社の宮司さんのお話かと。

葛木二上神社の「十種祓詞」に(前略)饒速日命は天磐船に乗りて 河内國の河上の哮峯(この「いかるがみね」は斑鳩ではなく二上山のこと)に天降り坐し給ひしをその後大和國山邊郡布留の高庭なる 石上神宮に遷し鎮め斎き奉り…とあるんですね。
で、饒速日命が天磐船で二上山に飛来して、石上神宮に飛んでったということなんですと。
以上

> 河内國の河上の哮峯は斑鳩ではなく二上山のこと

哮峯の発音ですが、いかるがみね または たけるがみね ですね。

哮峯の候補地はいくつかあります。生駒山の磐船神社(交野)やその近くの大阪府民の森星田園の山、また生駒の北の草香山(饒速日山)、小生は宝山寺の山かとも考えています。ほかの南河内の平石の磐舟神社もそのように言われています。平石は二上山の西側すぐですから、表題の説があっても不自然ではないですね。
「河内國の河上」とは今の大和川上流か天野川の上流でしょうね。二上山付近には河内からの川がなさそうですが・・・

哮峯をいかるがみねと訓むと、「斑鳩」は候補地であっても不思議ではありませんね。ここは大和川上流ですね。斑鳩は物部守屋を滅ぼした蘇我氏や聖徳太子のにおいが強くて物部の聖地とは考えにくかったですね。そう言えば江戸城を皇居にしていますね。目からうろこポロポロ。これはよい話を聞かせていただきました。
「斑鳩」のどこでしょうかね。いずれにしろ、大和への第一歩の白庭山に比定されることもある矢田坐久志玉比古神社に近いのも面白いですね。

>石上神宮
布留の高庭は石上神宮から東へ行った桃尾の滝の近くに地元の方の説明板があり、白庭山説が書かれていました。石上神宮と物部との関係ですが、祭祀に拘わった訳で、祖霊を祭っていたり、氏神ではなかったと言うことも言われます。現に和爾氏なども祭祀氏族の一ですね。

[3106] 吉備(きび)と蛇(へび)  Setoh 2002/07/08(Mon) 21:49 [Reply]
「はぶ」が「へび」になる変化があるなら、「へび」が「きび」にならんだろうか。
平群は紀氏の拠点で、今でも旧家に紀さんが多く見られます。ヘグリはキグリでキクニ(紀国)だったのかも。

ヘキヘキせんとお次の方。

[3105] Re[3102]: 無題  玄松子 2002/07/07(Sun) 13:50 [Reply]
横から。

> > > 津田説否定の十分な論拠が整ってから、神々について考察すべきでは?

どうして、津田説を否定しないと、神々について語れないのかを聞きたいですね。


> > 戦後の古代史学は、津田左右吉の学説、つまり、「日本書紀」の崇神天皇以前は神話的叙述とみなし、

この掲示板で、崇神以前を「神話だから・・・」と切り捨てた発言があったのだろうか。

[3104] Re[3102][3094][3093]: ものの見方と掲示板  Setoh 2002/07/06(Sat) 11:25 [Reply]
> どう云う事か、もう少し具体的におっしゃって下さい。
具体的とは以下のようなまとめでお願いいたしたいと言うことです。
> 最近、高城修三氏は果敢にも津田説批判された。
人まかせではなく、良い子君説でおお願いします。
下記のようにまとめていただければ幸甚です。
第一章 津田説の概要とその本質
第二章 津田説批判の概要と反批判
第三章 津田説についての自身のご見解
第四章 歴史学における今後のあるべき議論の方向
第五章 ホームページ付属掲示板上での歴史議論のありかた

なお、第五章については席亭のスタンスは以下の通り。
津田説を含めて各学説について「十分な論拠」云々は、学問としては重要なんでしょうが、ここはホームページの掲示板で、権威・反権威に頼らず、自分の頭で考えて、自由闊達、ブレーンストーミングの場と心得ています。この中から課題、探求のヒント、などを得ていただければよろしいかと。したがって間違いは許されます。但し、嘘(小生がさる田舎の寺で発見した『紀伊国の古風土記』の室町時代の写本によれば・・・など)とか人の考えの引用したものを自己の考えとするなどは許されません。

なお付け加えれば、神奈備掲示板は神社についてのさまざまな情報提供、参詣報告、行きたい神社、神社から見た地域や歴史などなどをメインとしています。
やはり歴史の流れの中に神社が創祀され、存在してきました、逆に今となっては神社が歴史を物語ることも大いにあります。

[3103] Re[3102]: ものの見方  習志野のてつ 2002/07/05(Fri) 23:15 [Reply]
> 戦後の古代史学は、津田左右吉の学説、つまり、「日本書紀」の
> 崇神天皇以前は神話的叙述とみなし、それ以後は史実とみなす見
> 解が大半の学者達に見られ、現在でも教科書等で見受けられます。

[神話的叙述]と云うのは、=歴史的事実を含む=との意味でしょうか?
当然私見ですが、「神話的」との言葉は、一部分は真実=記述の通り
と云うことである。と考えています。

「神武東征」は、何らかの歴史的裏付けがあるものと、信じます。

[3102] Re[3094][3093]: 無題  良い子君 2002/07/05(Fri) 15:53 [Reply]
> > 津田説否定の十分な論拠が整ってから、神々について考察すべきでは?
>
> どう云う事か、もう少し具体的におっしゃって下さい。
>
> 戦後の古代史学は、津田左右吉の学説、つまり、「日本書紀」の崇神天皇以前は神話的叙述とみなし、それ以後は史実とみなす見解が大半の学者達に見られ、現在でも教科書等で見受けられます。最近、高城修三氏は果敢にも津田説批判された。

[3101] 天皇、吉備、日矛の世代と武内宿禰  平群の闇その六  Setoh 2002/07/01(Mon) 14:24 [Reply]
神々は年代世代を超越しているのだが,強いて出現の世代を比較してみましょう。
 
ーーーー徐福到来
ー孝安ー孝霊ーー孝元ーーーーー開化ーー崇神ーーー垂仁ー景行ー日本武尊ーー仲哀ー応神
ー孝安ー大吉備諸進命
ーーーー孝霊ーー大吉備津彦命ーーーーー吉備津彦ーーーーー吉備武彦ーー吉備穴戸武媛ーーー御友別
ーーーー天日槍ー但馬諸助ーーー日楢杵ー清彦ーーー田島間守ーーーー・・ーー神功皇后

注 吉備武彦の末娘の兄媛は応神天皇の妃,『古事記』では日楢杵,清彦は兄弟のようだ。
『古代氏族系譜集成』によると,大吉備諸進命ー大吉備津彦命とつながる説もあるとか。

吉備津と日槍とは同じ意味ではと青草話を書きましたが,大吉備諸進命と但馬諸助(母呂須玖:記)とのつながり(=同じ)との説もあるようで,吉備と日槍すなわち気比との関連はここからも出てきます。
播磨国の氷河の前で吉備国をことむけた旧地ともされる日岡神社(式内) http://www.kamnavi.net/en/harima/hioka.htm の祭神は天伊佐々彦命,この神は吉備津彦命ともされ,また気比神宮の伊奢沙別命と同神ともされています。天日槍に通じます。

吉備の勢力が出雲を征圧、さらに日本海を北上して越(古志)地方を征圧していった故の気比だったのかも。なお若狭彦神社の社家は笠氏で吉備の末裔に連なります。

吉備津彦命は鬼退治の鬼のモデルとなった百済の王子の温羅の名の吉備火車の名をとる前は五十狹芹彦命と云う皇子だったと記紀にあります。崇神王朝の「五十」系の皇子ですが,景行王朝の「足」系に大和の王権を追われた五十瓊敷命を想起します。「五十」系を大和から追い出したのかも。応神登場時の忍熊王の追放もこの一環かも。忍は O-sip で「五十」とのこと。
気比神がまたまた応神天皇と名を交換するのですから,温羅と応神とはつながってきます。

 応神=仁徳説がありますが,仁徳天皇の名は応神天皇の子と武内宿禰の子が同じ日に生まれ,かたや木菟(ミミズク)かたや鷦鷯(サザキ)と云う鳥が産屋に飛び込んできたのを瑞兆として鳥の名を交換して大鷦鷯尊また平群木菟宿禰と名付けたと云う。応神天皇にからんで二度の名前の交換があり,武内宿禰が絡んでいるのも面白い。筑紫の王たらんとした(かも知れない)武内宿禰,伊都国の五十迹手と重なって見えてきます。天日槍の末裔で,忍熊王を逃がしてやり,赤子を差し替えて王権簒奪を謀ったのかも。


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