神奈備掲示板の案内とログ

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掲示板のログ(平成十四年 八月)お名前の敬称は省略しています。

更新 H14.8.11

[3347] Re[3346]: 無題  Setoh 2002/08/31(Sat) 20:05 [Reply]
> 丹後のことを
> いろんなHPへ行ったのですがいいHPがありませんでした。

下記のHPなんか素晴らしいと思います。ほかにも素晴らしいHPがありますよ。


http://www5.nkansai.ne.jp/users/oushiama/index.htm
凡海郷 by 日出倭さん

http://www2.nkansai.ne.jp/users/bunchan/index.htm
京都府北部案内

http://www.joho-kyoto.or.jp/~tango/it/index.htm
丹後インターネット研究会

http://www.city.maizuru.kyoto.jp/rekishi/ayumi/kodai.html
舞鶴の横顔

http://www.dai3gen.net/
日本古代史とアイヌ語

[3346] 無題  早乙女屡菟 2002/08/31(Sat) 19:18 [Reply]
丹後のことを
もっとしりたいです!!
たとえば有名な場所や丹後の説明
いろんなHPへ行ったのですがいいHPが
あるませんでした。だからここで聞いたらと
おもったんですが・・・・いいでしょうか・・?
あるていどでいいんでもう一度言います有名な場所や
丹後の説明が知りたいです。明日もこようとおもいます・・
明日までにいろいろ書いて下されば嬉しいですv
期待してまっています。

[3345] 「伊夜彦」〜「熊野」〜「角」  hvhy [Mail] 2002/08/28(Wed) 14:00 [Reply]
「熊野」と言えば、神話から「高倉下」や「八咫烏」が連想されます。
ところが「鼎足」(三本足)は、二十七宿の「長息」ないし「胃」の形。

>・【三】……「房」「鬼」「壁」(第3代、第12代、第21代)
>・【六】……「角」「觜」「虚」(第6代、第15代、第24代)
>・【九】……「張」「胃」「箕」(第9代、第18代、第27代)

したがって「熊野」と「八咫烏」の関係は、「角」と「胃」の関係にパラレル。
仮に「熊野」(イヤ)が「伊夜彦」だとすると、以下の歌謡の背景も明快になる。

>『日本の神々』によると、
>万葉集巻16に
>「伊夜彦神の麓に今日らもか鹿の伏すらむ皮服(かわごろも)着て角附きながら」
>とあるそうです。(玄松子さんの書き込み)

むろん実際の光景を詠んでいるわけですが、「鹿」とか「角」とか云々しているのは、
「鹿頭」たる「觜」(二十七宿の)と、「角」(二十七宿の)が念頭にあるのでしょう。

>船山神社の伝説(http://isweb20.infoseek.co.jp/area/ienaga/iyahikodensetu/iyahikodensetu.htm
>ご祭神(伊夜彦)が船で来られたとき、ここ(玉神屋敷)に櫂を埋めた。
>社地の片平山の麓にある石を持って帰ると祟りがある。
>しかし、船山神社の御祭神は三代目天忍人命となっています。

「角」に当たるのは、第6代の天皇である「大倭帯日子国押人」だから、
実のところ「伊夜彦」と「天忍人」は同体異名。そのように考えられます。

[3344] 「角鹿の蟹」と「気比」の関係  hvhy [Mail] 2002/08/28(Wed) 11:09 [Reply]
>天忍人命は
>大和国葛下郡鎮座の葛木倭文座天羽雷命神社、加守神社に祀られています。
http://www1.kcn.ne.jp/~suseri/sizuri.html
>「忍人命は不合尊の誕生に際し、海浜に産室を建て、箒を持って傍に侍り、
>蟹を払い去ったと神と伝わり、産婆の神としてあがめられている。」との
>説明があります。付会でしょうが、不合尊に結びつけたのは何かあるのかも。

出産の時に蟹を掃くのは、南方の習俗と言われます。それはともかく、
「蟹」「忍人」「不合」の関係は、古事記にも見られます。以下の通り。

・【三】……「房」「鬼」「壁」(第3代、第12代、第21代)
・【六】……「角」「觜」「虚」(第6代、第15代、第24代)
・【九】……「張」「胃」「箕」(第9代、第18代、第27代)

九進法は言葉は厳めしいですが、麻雀の数牌を思い浮かべてもらえば、
理解しやすいはずです。3種類の数牌だけを円周上に並べれば二十七宿。
「一二三四五六七八九」「一二三四五六七八九」「一二三四五六七八九」
「萬萬萬萬萬萬萬萬萬」「筒筒筒筒筒筒筒筒筒」「索索索索索索索索索」
ここで「九索」(クゥソー)から「一萬」(イーワン)へ戻って回転する。
この場合、「一萬」が「神倭伊波礼毘古」で、「九索」が「広国押建金日」。

麻雀でも「三六九筒」(サブロークゥピン)などと言いますが、
九進法においても「三」「六」「九」は仲間と見なされるのです。
例えば「角」「觜」は共に【六】ですから、これは同値と言います。
ところが、例えば「觜」「胃」は【六】【九】ですから、仲間と言う。
「三六九」「一四七」「二五八」とあるが、結びつきが強いのはこの順。
というのは、「三+三=六」「三×三=九」というような関係があるから。
特に「三×三=九」という等式は、「勾股弦」の「勾」として意識されます。
「箕」に当たる「広国押建金日」が書紀で「勾大兄皇子」という名も持つのも、
「第27代」〜「三×九」〜「三勾」〜「美和」という脈絡の中に当然あります。

--------------------------

話を「蟹」に戻します。古事記で「蟹」と言えば「角鹿の蟹」ですね。
「觜」は「鹿頭」。要するに「鹿」だから、「角鹿」という地名は実は、
【六】に属する「角」と「觜」を、単に「角觜」と並べたものと言えます。

ところが、「角」に当たる第6代の天皇は「大倭帯日子国押人」。
その兄は「天押帯日子」(天足彦国押人)。ここに「押人」がある。
第6代の皇后は「姪忍鹿比売」です。天皇と皇后を合わせて「角鹿」。
即ち「角鹿の蟹」というのは、この【六】で「押人」(忍人)と繋がる。

「不合」即ち「波限建鵜葺草葺不合」は「箕」(キ)で、(※これが「五十猛」でした)
【九】に属する。ここで【六】と【九】は、いわゆる仲間。
後から説明しますが、なかでも「角」と「箕」の結合は格別。
「蟹」「忍人」「不合」が《セットで登場する》説話の由来は、
まさに「角鹿の蟹」と「気比」(箕)の結びつきの中にあります。

#以上をもし理解すれば、古事記における説話も、
#最初の「加守神社」の説話も、まったく同じもの、
#即ち二十七宿(九進法を内包)を背景とすることが、
#分かると思います。またさらに「加守神社」の伝承が、
#古事記・書紀と同じ程度に古いということも分かります。
#神社伝承というものが重要である典型的な例?と言えます。

[3343] Re[3339]: 「波限」は「名草」  Setoh 2002/08/28(Wed) 08:57 [Reply]
hvhy さん> 瀬藤さんが言われる「波限=名草」という説は、まったく首肯されます。
ありがとうございます。九進法的漢字の論述につきましては、当方の素養のなさから殆どチンプンカンプンでしたが、こと五十猛尊について記して頂き、九進法的漢字の部分はともかくとして、その論旨と結論につきましては、少しは理解が進んだのかも。もっとも、気の利いた応答は相変わらず出来るレベルではありませんので、悪しからず。


hvhy さん>では「息長帯比売」「五十猛」を繋ぐ糸は?…魏志倭人伝を見ると、「伊声耆」と出てきます。
伊声耆はイセキ、もしくはイサキ?、イサキならイタキと進める(「五十田狭」「五十狭狭」)と言うことですね。

「息長帯比売」「五十猛」を繋ぐ糸は『播磨国風土記』に渡韓を助けた神として五十猛尊や丹生都姫命が出てきますが、他国の文献の方が証拠力が強いと言うことですか。
『魏志倭人伝』の卑弥呼=息長帯比売説と符合すると言うことですね。

【海部系図】
天村雲命   
  ┣━━倭宿禰命、葛木出石姫命
伊加里姫

【系図解釈】
五十猛尊
  ┣━━武内宿禰、息長足姫
丹生都姫

のイメージですね。倭宿禰命を武内宿禰としたのか苦し紛れ。

神々の危機を助けるのは御子神や子孫神ではなく、親神や祖神が普通ですね。


息長足姫━イササ和気 で、これは 息長足姫━五十猛尊 と置き換えると、上記から

五十猛尊━息長足姫━五十猛尊 が導かれ、この関係は、日子穂穂出見━不合尊━日子穂穂出見 にありましたから、これも神話の系譜の特徴かも。

気比のイササ和気の登場、さすれば吉備、丹生と青草がまたつながりそうです。


[3342] 海部氏・勘注系図の神社調べ  Setoh 2002/08/27(Tue) 21:26 [Reply]
> イヤ彦でしょう
弥彦神社が本宮のようです。
ヤヒコでしょう、となります。「ヤ」を敬称とすれば「ヒコ」、男神と言うことですかね。
「イ」「オホ」を偉大なあたりと見ますと、:−
ヤヒコ → 「イ」+「ヤヒコ」 伊夜彦
ヤヒコ → 「オホ」+「ヤヒコ」 大屋彦 = 五十猛

五十猛命=天村雲命=天香語山命と考えられていたとすればヤヒコ神社の祭神が天香語山命と考証されて受け入れられたと言うことは無理なことではありません、弥彦神社の宮司さん著『おやひこさま物語』には神社近辺の弥彦神一族の伝承を多く拾い上げています。江戸時代から急遽作ろうとすればできるのでしょうが。

天香語山命の別の姿も蛇体だったことになります。

大屋都姫 大夜刀姫  大屋彦は出雲国岩木原神社では大屋都彦と言われます。大屋都彦は大蛇彦、これ天村雲命にふさわしい。



◇◇「海部氏・勘注系図」の神社調べ◇◇ 備忘録

◇「海部氏・勘注系図」倭宿禰命(中略)遷坐於大和國之時、娶白雲別神女豊水富命

倭宿禰命
天理市新泉町星山 大和神社(おおやまと)http://www.genbu.net/data/yamato/ooyamato_title.htm

これは大和神社が吉野の丹生川上神社の元社がとの話に符合しそうですが、

笠水彦命を祭神とする神社は
京都府舞鶴市公文名 笠水神社「笠水彦命、笠水姫命」しか近畿ではでません。
http://www.city.maizuru.kyoto.jp/rekishi/furusato/furu29.htm
笠の社名の神社で奈良県吉野郡西吉野村夜中 青木神社(通称 笠神さん) 祭神 不詳
が鎮座、ここは丸谷さんによれば神功皇后伝承のアズナヒの罪ゆかりの夜中の地す。

白雲別神、豊水富命を祭る神社は
大和国葛下郡 長尾神社「水光姫命、白雲別命」http://www.kamnavi.net/ny/nagao.htm
があります。由緒に
水光姫命
『新撰姓氏録』では「吉野氏の祖先で、天白雲別命の娘、豊御富登であり、水光姫の名は神武天皇が授づけられたもの」としている。長尾神社の社傳では「この水光姫命が、応神天皇の御代に当麻町竹内の三角岩に降臨され、子孫の加彌比加尼に命じて長尾に祀らされたものでお姿は白蛇であつて、今、神社の東北に藤をもつて覆われている御陰井の藤の花はそれである。
とあります。

HP木屋の資料館 丹波編に
藤森神社の名が紹介されています。舞鶴市京田字丸山に鎮座だそうで、祭神は五加里姫命とされています。『平成CD』には上記の住所には見あたらず、舞鶴市行永弥加宜に同名社があるようです。祭神は崇道天皇です。行永弥加宜と言う住所、行永は息長、弥加宜は御蔭でしょうが、長尾神社の祭神の子孫の「加彌比加尼」を思わせます。


◇「海部氏・勘注系図」此命(天村雲命)坐於日向國之時、娶阿俾良依姫命、生天忍人命、次生天忍男命、次生忍日女命

阿俾良依姫命は
京都府城陽市富野荒見田の荒見神社に祭られています。
http://www.kamnavi.net/mn/kinki/arami.htm

天忍人命は
 大和国葛下郡鎮座の葛木倭文座天羽雷命神社、加守神社に祀られています。
http://www1.kcn.ne.jp/~suseri/sizuri.html
「忍人命は不合尊の誕生に際し、海浜に産室を建て、箒を持って傍に侍り、蟹を払い去ったと神と伝わり、産婆の神としてあがめられている。」との説明があります。付会でしょうが、不合尊に結びつけたのは何かあるのかも。

対馬国下県郡の志々伎神社の祭神が豐玉姫命、天忍人命、十城別王命の三柱の一に現れます。
http://www.genbu.net/data/hizen/sijiki_title.htm
天忍人命は
伊予国桑村郡(愛媛県東予市)の周敷神社・藤原神社合殿 http://plaza22.mbn.or.jp/~kotaro_mil/essay/19990627.htm

土佐国香美郡(高知県南国市)の立田神社に天忍男命が妣賀奈知姫神と共に祀られています。

伊予国伊予郡(愛媛県伊予郡松前町)の高忍日売神社の祭神は高忍日賣神、配祀神に天忍日女命、天忍男命、天忍人命の三柱がそろいます。

伊予国は物部の匂うう地域です。

◇「海部氏・勘注系図」遷坐於丹波國之時、娶伊加里姫命、生倭宿禰命、亦名天御蔭命、次生葛木出石姫命、亦名角屋姫命

天御蔭命
近江国野洲郡の御上神社の祭神です。息長氏に付会関わりがあります。

葛木出石姫・角屋姫命
神名として『平成CD』『新撰姓氏録』には見えません。
葛木出石姫 いかにも名門葛城氏と天日矛一族の合成名のようで、神功皇后のイメージでしょうか。
角屋姫は都奴の臣の女とすれば武内宿禰の系統の木の角の宿禰につらなるのかも。




[3341] Re[3338][3329]: 天村雲について(大三元さん「武位起命」に触発されて)  大三元 [Url] 2002/08/27(Tue) 13:47 [Reply]
玄松子さん、お久しぶりにお話させていただきます。(^_^)

> ここに記されている、
> 「妹穂屋姫命、母佐手依姫命亦名・・・」
> の、佐手依姫とは対馬のことでしょうか。
> 天道日女などもあり、対馬を強く連想させます。

全く同感で、追いかけてみようと思ってます。
イヤ彦でしょう、とのレスもありがとうございます。そうですよね。。。(^_^;)

[3340] 「箕」とは何か?  hvhy [Mail] 2002/08/27(Tue) 13:06 [Reply]
古事記の「御大」(ミホ)という地名に注意するなら、
瀬藤さん引用の系譜の「穂屋姫」は「大屋津比賣」だが、
「五十猛」と「大屋津比賣」が兄妹だとすると、この線で、
「木国」の「大屋毘古」は「五十猛」の別名とも考えられる。

>乃ち木国の大屋毘古神の御所に違へ遣りき。爾に八十神覓ぎ追ひ臻りて、
>矢刺し乞ふ時に、木俣より漏き逃がして云りたまひき。(古事記)

「木」は必ずしも「手」ではないが、「俣」と「漏」に着目すれば、
まず「手俣より久岐斯子」であるところの「少名毘古那」が想起され、
「手俣より漏き」出でて成れる「闇淤加美」「闇御津羽」が想起される。(※ここに「クラ」が!)
何の因果か「闇御津羽」の「御津羽」は「蝮之水歯別」に名辞が結びつく。

それはともかく、「木神」の名前は「久久能智(ククノチ)神」。
ここで「久久能智」は一方で「九つ」を示唆するが、さらに加えて、
「木俣より漏き逃がして」云々という「大屋毘古」の神話も示唆する。
即ち「久久能智」の「久久」(クク)は、「漏く」(クク)という動詞。

---------------------------

ところが、「木」(キ)は「箕」(キ)に繋がるのだった。
「箕」が竹細工のものだったかどうか、それは分からないが、
この「箕」は、ともかく(穀物などを入れて)篩い落とす道具。
「木俣より漏く」ことは、「箕」を用いて「漏く」ことに繋がる。

「木俣より漏き逃がす」という神話の主人公「大屋毘古」は、
この脈絡において、「箕」(キ)ないし「木」(キ)に繋がる。
だからこそ「木国之大屋毘古」なのだ。前項の結論を確認すると、
「箕」〜「波限建」〜「名草の猛」(名草の五十猛)。である以上、
「五十猛」と「大屋毘古」は、「箕」というポイントで同一視される。

[3339] 「波限」は「名草」  hvhy [Mail] 2002/08/27(Tue) 13:00 [Reply]
ここで【九】に当たる天皇(あるいはその祖神)を列挙すると、
・「箕」〜「波限建鵜葺草葺不合」(第0代???)
・「張」〜「若倭根子日子大毘毘」(第9代)
・「胃」〜「蝮之水歯別」(第18代)
・「箕」〜「広国押建金日」(第27代)……別名「勾大兄」
天皇の系譜は要するに、二十七宿の上で蜷局を巻いているのです。

「大毘毘」の都は「率川宮」(古事記では伊邪河宮)でしたが、
今に至るまで「率川神社」では「三枝祭」が執り行われています。
書紀は「三枝」を「福草」に作るが、「福」も「葺」も「フク」で、
「三枝」〜「福草」〜「葺草」と繋がります。さらに面白いことには、
「張」の母字である「長」も、「箕」の冠の「竹」も、「タケ」と読む。
そこで「箕」を「タケ」と読み下せば、「胃箕」で「イタケ」と読めます。

#「胃箕」は「息」(イキ)とも読めるし、
#また「箕胃」は「紀伊」(キイ)と読める。
#このあたりになると、まあゴロゴロ合わせだ。

ところが「胃」は「長息」(息長)で、その形状は「鼎足」。
ここに「息長帯比売」とか「気長足姫」の由来があるのですが、
その御子の(元の)名前「イササ和気」は「五十猛」に通じます。(※[3334]を参照)
「猛」(タケ)〜「張」(タケ)〜「箕」(タケ)という繋がりで、
「五十猛」は「箕」即ち「波限建鵜葺草葺不合」に結ばれます。故に、
瀬藤さんが言われる「波限=名草」という説は、まったく首肯されます。

#「木国」に「名草」があるのは、(※だれが地名を設定した?)
#二十七宿の「箕」(キ)が「波限建〜」である点から理解される。
#たしかに「木国」の「五十猛」は「波限建鵜葺草葺不合」でしょう。

[3338] Re[3329]: 天村雲について(大三元さん「武位起命」に触発されて)  玄松子 2002/08/27(Tue) 11:39 [Reply]
> http://homepage2.nifty.com/YAJI/keizu.htm
> を参照しただけです。

ここに記されている、
「妹穂屋姫命、母佐手依姫命亦名・・・」
の、佐手依姫とは対馬のことでしょうか。
天道日女などもあり、対馬を強く連想させます。

[3337] 卑弥呼も妥協の産物  Setoh 2002/08/27(Tue) 09:43 [Reply]
[3325] hvhy さん > その「伊邪那伎」は「汝命は、高天原を知らせ」と言って、自分の「御頸珠」(御倉板挙、御クラタナ)を「天照」に賜います。「御クラタナ」の言い換えが「棚倉」(タナクラ)と、ここで仮に考えてみます。

伊勢国一志郡に加良比乃神社が鎮座、御倉板擧神を祭っています。

 柳田國男の『「イタカ」及び「サンカ」』を少し引用します。

 津軽にては婦人の神を祭る者を「イタコ」と呼べり。(中略)イタコの語原に関する自分の仮定説は左のごとし。イタコはアイヌ語のイタクに出づるなるべし。(中略)
 さらにこれを本邦の古典に徴するに『古事記』諾尊得三貴子の条下に即御頸珠之玉緒母由良邇取由良迦志而。賜天照大御神而詔之。汝命者所知高天原埃[土なし]。事依而賜也。故其御頸珠名謂御倉板挙之神とあり。御倉は神几にて祭壇の義なるべし。この板挙之神は古註に多那と訓めあれど義通ぜず。おそらくはイタケの神にして、姫神が神父を拝祀したもうに、この遺愛の物を用いたまいしことを意味するならん。また紀州の国幣中社伊太祁曽神も社伝には日前・国懸の二神斎祀の時に現れ来たまえりといえば、すなわち一種の斎の神なるべし。 (後略)

 この是非はともかく、御倉板擧から一つは

[3324] 大三元 さん> 「手栗彦=天香古山=棚倉孫」と理解しています。
が言え、もう一つは、「伊太祁曽神」が出てきます。天香古山=伊太祁曽神の補強かも。

[3331] yanaseさん > 奥州の棚倉の神が、八溝山の神だったとすると、「八溝山」の名は、八俣の大蛇を連想するので、大蛇の子はやはり天村雲剣です。

『陸奥国風土記逸文』に、日本武尊が八人の土蜘蛛を退治した話があります。黒鷲、神衣(かむそ)姫、草野灰(かやのはひ)、保々吉灰(ほほきばひ)、阿邪爾那(あざにな)媛、栲猪(たくゐ)、狭磯名(さしな)との名前です。土蜘蛛を射た矢は芽が出て槻の木になった。ここに正倉がある。

 八人の土蜘蛛と八岐大蛇、「八と退治」よくある話かも知れませんが、この土蜘蛛から剣は出ていませんが、槻の木も聖地の印だそうで、聖なるものが残ったとは言えます。
「ここに正倉がある。」とは面白いですね。何のことでしょうね。やはり棚倉のルーツ?

[3334] hvhy さん> #「箕」(キ)と「胃」(イ)の関係として捉えることが可能。
#ならば、「猛」は実は「鼎足」(三本足)を表わすことになる。

箕、素盞嗚尊を連想します。
猛、八咫烏の登場ですね。
五十猛尊は、妥協の産物神に思えてきますね。紀、忌部、海部、天孫、名草土民・・・ → 武内宿禰??。

[3336] Re[3333]: 天村雲について  玄松子 2002/08/27(Tue) 07:16 [Reply]
> 伊夜彦神じゃないですか。

『日本の神々』によると、
万葉集巻16に
「伊夜彦神の麓に今日らもか鹿の伏すらむ皮服(かわごろも)着て角附きながら」
とあるそうです。
また、「天香語山命」に関しては、延宝6年(1678)橘三喜によって、揮毫されたとも。

[3335] Re[3332][3331][3327]: 天村雲について  yanase [Mail] [Url] 2002/08/27(Tue) 02:33 [Reply]
> > 大蛇の子はやはり天村雲剣
言葉遊びの感はありましたが、弥彦の祭神の選定についての勝手な想像から来ました。

弥彦の旧社家の高橋氏。姓氏録の「高橋氏祖、彦屋主田心命」から手栗彦命を経由して天香語山命へ行ったようですね(地名辞書)。秋田の古四王神社の社家も高橋氏で、新潟県以北の日本海側の社家に多い姓らしいので、越や出羽のブロックで考へると大彦命説も。玄松子さん御指摘の「伊夜彦神」は、弥彦の分社に多いですが、弥彦村の弥彦神社は、「天香山命」なんですね。

> アヂスキが蛇体、とは
[3325]hvhyさん引用の歌
>天なるや、弟棚機の、項がせる、玉の御統、御統に、穴玉はや、
>み谷二渡らす、阿治志貴高日子根の神ぞ (古事記)
この歌などから折口信夫が言ったらしい。
「二渡ら」が二荒山の語源かどうかはわかりません。
福島県棚倉町に根渡神社(祭神 大己貴命 面足命)がありますが、福島県を中心に、

庭渡、二渡、三渡、鬼渡、見渡、海渡、子渡、樋渡、日渡、三谷渡

といふ名前の神社が多いのです。(平成CD 社名検索「渡」で出る)
祭神はちょっと見ると天村雲命が多いですが、オカミの神もあり、いろいろです。
チカツの次のテーマにしようとも思ひますが。

[3334] 「猛」〜「軻」〜「鼎」という線  hvhy [Mail] [Url] 2002/08/27(Tue) 02:14 [Reply]
>その前に、気がかりなのは「天村雲命 亦名天五十楯天香語山命」で、
>天五十楯は「アマノイタテ」で、これはずばり五十猛尊を思わせる神名です。(中略)
>「五十楯」は「伊達」「伊太テ」と同じであり、出雲では五十猛尊を伊太テ神としています。

その出雲では「韓国イタテ神社」というパターンが多かったような。
鹿児島の韓国宇豆峯神社の祭神が「五十猛」 なら、ここにも「韓国」。
「韓国」に縁が深いとすると、「手人韓鍛、名は卓素」も関係あるかも。
というのは、「卓素」(タクソ)は「イタキソ」の「タキソ」に似てます。

----------------------------

それより私が注目するのは、古事記の「伊那佐」という地名を、
書紀が「五十田狭」とか「五十狭狭」に作る点です。この変化は、
「タケ」(猛)が「サケ」(酒)に訛る可能性を示唆する。然るに、
「酒」を「ササ」とも言う。故に「五十猛」「イササ和気」が繋がる。

「イササ和気」と「品陀和気」が名前を交換したわけですから、
もともと「息長帯比売」の御子は「イササ和気」とも考えられる。
では「息長帯比売」「五十猛」を繋ぐ糸は?…魏志倭人伝を見ると、
「伊声耆」と出てきます。これも題材の一つではあったと思われます。

>胃有三星。形如鼎足。(摩登伽経)

>長息宿者。〜。其形類軻。(舍頭諫経)

しかし古事記や書紀の系譜の根底にあるのは二十七宿なので、
関連する文献を見ると、インドの「バラニー」に当たる月宿を
『舍頭諫経』は「長息」とし、その形状について『摩登伽経』は
「鼎足」としている。まさに「息長帯比売」(気長足姫)でしょう。

>90ペー……15品陀和気 ……「觜/胃」

>60ヌン……18蝮之水歯別……「胃/觜」

これは上記URLの照応表から抜粋したものですが、見た通り、
「胃」と「觜」は対をなす関係にある。即ちこの関係性において、
「息長帯比売」の御子が(名前はともかく)第15代に設定された。
そういう話。詰まるところ「息長帯比売」は「胃」(二十七宿の!)。

----------------------------

ところが「張」「胃」「箕」は九進法で同値です。そこで、
「箕」に注目してみると、『舍頭諫経』では「前魚」とあり、
「主於木天」とも「尼拘類樹皮師為食」とも出てくる。さらに、
「箕」(キ)が「木」(キ)に通じる点も、偶然とは思えません。

>前魚宿者。有四要星。其形類象。南廣北狹。尼拘類樹皮師為食。
>行十五須臾。而侍從矣。主於木天。(舍頭諫経)

「長息」(胃)の形状は「軻」とありますが、当時の知識人は、
この「軻」という字から「孟子」を連想する程度の知識はあった。
「猛」→「孟」→「孟子」→「軻」という連想をたぶん前提にして、
特に「猛」という表記を採用したのが、日本書紀ではないでしょうか。

#以上を鑑みれば、「木国」と「五十猛」の関係というのは、
#「箕」(キ)と「胃」(イ)の関係として捉えることが可能。
#ならば、「猛」は実は「鼎足」(三本足)を表わすことになる。

[3333] Re[3332]: 天村雲について  玄松子 2002/08/27(Tue) 01:20 [Reply]
> >  越後の弥彦山の神の名(天香語山命)も、江戸時代に記紀の神から考証されたとのことですが、天香語山命の別の姿も蛇体だったことになりますか。?
> ええ?!! カゴヤマが祭神というのはそんなに新しいことなのですかぁ。
> それ以前は、、、、分からないのでしょうねぇ?

伊夜彦神じゃないですか。
大屋彦命、あるいは大彦命とする説もありますが。

[3332] Re[3331][3327]: 天村雲について  大三元 [Url] 2002/08/27(Tue) 00:33 [Reply]
yanaseさん、ども

>  奥州の棚倉の神が、八溝山の神だったとすると、「八溝山」の名は、八俣の大蛇を連想するので、大蛇の子はやはり天村雲剣です。

短兵急に過ぎません?

>  棚倉の都都古別神社の祭神は味耜高彦根命で、やはり蛇体の神でした。

アヂスキが蛇体、とは何からでてくるのでしょうか?

>  越後の弥彦山の神の名(天香語山命)も、江戸時代に記紀の神から考証されたとのことですが、天香語山命の別の姿も蛇体だったことになりますか。?

ええ?!! カゴヤマが祭神というのはそんなに新しいことなのですかぁ。
それ以前は、、、、分からないのでしょうねぇ?

[3331] Re[3327]: 天村雲について  yanase [Mail] [Url] 2002/08/26(Mon) 22:35 [Reply]
大三元さんも、こんばんは

 天村雲命は、天香語山命の子であり、
[3324]   天香語山命は、棚倉彦の名もあった。
 奥州の棚倉の神が、八溝山の神だったとすると、「八溝山」の名は、八俣の大蛇を連想するので、大蛇の子はやはり天村雲剣です。
 棚倉の都都古別神社の祭神は味耜高彦根命で、やはり蛇体の神でした。
 越後の弥彦山の神の名(天香語山命)も、江戸時代に記紀の神から考証されたとのことですが、天香語山命の別の姿も蛇体だったことになりますか。?

 八溝山の北では金が採れたらしいですが、奈良の大仏鋳造のときに、陸奥で金が採れた場所は、宮城県遠田郡涌谷町のほかにも、候補地があると、昔なにかで読んだのですが、場所は忘れてしまひました。出羽のほうだったか ?

[3330] Re[3329][3328][3327]: 天村雲について(大三元さん「武位起命」に触発されて)  大三元 [Url] 2002/08/26(Mon) 22:27 [Reply]
setoh さん、早速にお知らせ下さりありがとう御座います。

> http://homepage2.nifty.com/YAJI/keizu.htm
> を参照しただけです。

わっ、全文がでてるんですね。凄い。籠神社の売店で、海部穀定著『原初の最高神と大和朝廷の元始』というのは買ってきたのですが、これには『海部氏勘注系図』の写真がでているものの途中で途切れたりしていて、全文を知らなかったのです。ありがとうございました。

[3329] Re[3328][3327]: 天村雲について(大三元さん「武位起命」に触発されて)  Setoh 2002/08/26(Mon) 21:13 [Reply]
> > 『海部氏系図』『海部氏勘注系図』によれば、下記のような系図が出来るようです。
> >
> > 始祖彦火明命 天香語山命娶穂屋姫命生天村雲命 孫天村雲命 亦名天五十楯天香語山命
> 全部チェックしたわけではないのですが、教えて頂くのが手っ取り早い、(^_^)
>
http://homepage2.nifty.com/YAJI/keizu.htm

を参照しただけです。籠神社の売店に『海部氏勘注系図』の解説本があったように思いますが、あまり値打ちが判っていなかったので、購入していないのです。

[3328] Re[3327]: 天村雲について(大三元さん「武位起命」に触発されて)  大三元 [Url] 2002/08/26(Mon) 20:31 [Reply]
setoh さん、こんばんは。

> 『海部氏系図』『海部氏勘注系図』によれば、下記のような系図が出来るようです。
>
> 始祖彦火明命 天香語山命娶穂屋姫命生天村雲命 孫天村雲命 亦名天五十楯天香語山命

済みませんが、これ↑は、どのようにして、こうなるのでしょうか?
全部チェックしたわけではないのですが、教えて頂くのが手っ取り早い、(^_^)

はい、世代の混乱も大いにあるようですので、目をカッと見開いてないといけないと思います。同じ人のことを違う家系では違う名前で伝承して来た、ということが大いにありそうに思えます。

[3327] 天村雲について(大三元さん「武位起命」に触発されて)  Setoh 2002/08/26(Mon) 13:24 [Reply]
『海部氏系図』『海部氏勘注系図』によれば、下記のような系図が出来るようです。

始祖彦火明命 天香語山命娶穂屋姫命生天村雲命 孫天村雲命 亦名天五十楯天香語山命

また
。。。。。。。。(日向)阿俾良依姫命【山城久世の荒見神社祭神】【】setoh注
彦火明命━天香語山命。。┣━━━天忍人命【不合尊の誕生時の神】
。。。。。。。┣━━天村雲命
。。。。。穂屋姫命。。。┣━━━倭宿禰命【椎根津彦、珍彦、大和国造祖】
。。。。。。。。(丹波)伊加里姫命【吉野の水銀、水神? 丹生津姫かも】
【穂屋姫命は高倉下命、穗屋姫が並び熊野本宮大社の摂社の祭神】

彦火明命━天香語山命【尾張氏の祖】
。。。。。。。。┣━━熊野高倉下【神武天皇を熊野で救済】
。。。。。大屋津比賣命【素盞嗚尊の御子、五十猛命の妹神】

彦火明命━建位起命━━宇豆彦命

五十猛尊(いたけ)おっかけのsetohとしては、建位起命の「タケイタテ」なる訓を尊重します。
要は、建位起命は五十猛尊のことかどうかを見てみたい訳です。
その前に、気がかりなのは「天村雲命 亦名天五十楯天香語山命」で、天五十楯は「アマノイタテ」で、これはずばり五十猛尊を思わせる神名です。『日本書紀』五十猛尊は素盞嗚尊高天原追放時、樹種を持って一緒に天降りしていますから、「天」の冠がついても不自然ではないとは言えます。「五十楯」は「伊達」「伊太テ」と同じであり、出雲では五十猛尊を伊太テ神としています。

これから天五十楯天香語山命の別名を持つ天村雲命は五十猛尊と同じ神といえましょう。
これには傍証があります。素盞嗚尊が八岐大蛇から取りだした刀を天村雲剣と称しています。天村雲剣は素盞嗚尊の御子神と言えますから、五十猛尊であっても矛盾はしません。

次に、五十猛尊の妹(細君か)に大屋津比賣命の名が『日本書紀』に見えます。三神樹種播布神話の所です。その大屋津比賣命は天香語山命の細君となっており、大三元さん曰く二重婚でなければ天香語山命と五十猛尊とは同じ神に見えます。親神と御子神とは同一神、神の世界の御子神とは新魂、荒魂とも理解できますから、このあたりの親子関係を一親等二親等などと人間の世界からギチギチに見ることもないでしょう。

 そうすると熊野高倉下とは、五十猛尊か、との疑問が出てきます。神武東征譚に紀の国の大神である五十猛尊のことが全然出てこないのが不思議だと思っていましたが、熊野高倉下が神武天皇を支援しており、本来なら天村雲剣を出してもいいところですが、別の剣にしています。これは何かありそうです。
熊野高倉下は新宮市のゴトビキ岩(天磐楯)の祭神ですが、この天磐楯とは殆ど天五十楯ですとは言語音痴ならでは言えることかもと思っていましたら、心強くも大三元さんが『武位起の名前について』で述べておられます。

 九州の東海岸を中心とした五十猛尊の系図があります。
素盞嗚尊      (setoh注)
五十猛命     
豊都彦トヨツ   豊の国
豊津彦トヨツ   豊の国
都万津彦ツマツ  宮崎県児湯郡妻町 五十猛命の妹神に抓津姫あり 都萬神社「木花開耶姫 神名帳考證には抓津姫」
曽於津彦ソオツ  鹿児島県国分市 韓國宇豆峯神社「五十猛命」
身於津彦ミオツ  日向市美々津町 神武天皇の船出の伝承地 立磐神社「住吉三神」
照彦テル
志津喜彦シツキ  鹿児島県曽於郡志布志町 枇榔神社「乙姫」
児湯彦コユ    宮崎県児湯郡 都農神社「大己貴命」
諸豆彦モロツ   宮崎県諸県郡 都城市 早水神社「諸縣君牛諸井」
宇豆彦ウヅ    
 
この最後のほうに宇豆彦が出てきます。丹波系図では、建位起命━━宇豆彦命 と実にあっさりと登場するのですが、上記では10代目です。五十猛尊の9代目までを祀った神社は見あたりませんので、すべて五十猛尊の名になって祀られたのか別の名でか消滅したのかでしょう。

 幻の、ウガヤ王朝を想起するではありませんか。
先に世代を無視するようなことを言いましたが、都合のいい所は世代感を採用させてもらいますと、神武天皇と倭宿禰命(椎根津彦)は同じ時期に活躍、その親神がウガヤ尊であり天村雲命であります。
 耳たこでしょうが、ウガヤ尊の名前の中のヒコナギサタケですが、彦名草武(猛)と考えれば、名草の猛神すなわち五十猛尊に相当すると出てくるのです。

 天村雲命は天上へ「水種」を取りに行っています。「木種」とセットで考えるべきことかも。また天上の水種ーそうですね、阿蘇山上の湖を思い起こします。
 
 以上、なんやかやの論理(非論理)からは当然のことながら、阿蘇の健磐龍命を引っ張りださずにはおけない大三元さんの気持ちに同感です。

[3326] Re[3325]: 「鍵」は「七夕」に在り  玄松子 2002/08/25(Sun) 17:17 [Reply]
仮定と断定の積み重ねで、全体の意味が良く理解できていませんが、具体的な箇所にだけ反応。


> #「倉板挙」が「タグリ」(唾)に関連づけられるのは、
> #「爾に水を飲まさずて、御頸の王與を解きて口に含みて、(※「王與」は一字)
> #其の玉器に唾き入れたまひき」という神話に見られる通り。

玉違いじゃないだろうか。


> #面白いことに、「阿遅金且高日子根」の母は「多紀理毘売」。

多紀理毘売は、玉ではなく十握剣から生まれた女神だったはず。

[3325] 「鍵」は「七夕」に在り  hvhy [Mail] 2002/08/25(Sun) 15:26 [Reply]
まず一方に「都都古」と「棚倉」のセットがあり、
一方に「綴喜」と「棚倉」のセットがあることから、
「都都古」〜「綴喜」〜「続」と結びつくわけですが、
「続」は「糸媛」。古事記の「糸井比売」を示唆します。

書紀は「櫻井田部連、男金且之妹、糸媛」と記す。(※「金且」は一字)
「金且」は「阿遅金且高日子根」(阿治志貴高日子根)に繋がりますから、
「都都古」〜「続」〜「糸媛」〜「男金且」〜「阿遅金且高日子根」ですね。

>天なるや、弟棚機の、項がせる、玉の御統、御統に、穴玉はや、
>み谷、二渡らす、阿治志貴高、日子根の神ぞ (古事記)

この歌に続いて、「天安河の河上の天石屋に坐す、名は伊都之尾羽張神、
是れ遣はすべし」と出てくるが、「伊都之尾羽張」に縁を持っているのは、
「伊邪那岐」しかいません。その「伊邪那伎」は「汝命は、高天原を知らせ」
と言って、自分の「御頸珠」(御倉板挙、御クラタナ)を「天照」に賜います。
「御クラタナ」の言い換えが「棚倉」(タナクラ)と、ここで仮に考えてみます。
この「御クラタナ」は、《王権の継承》としての「玉」である点に注意して下さい。
「続く者」〜「次ぐ者」〜「継ぐ者」〜「太子」(ヒツギノミコ)。だとするならば、
「続」(都都古)であるところの「倉板挙」(棚倉)こそ「太玉」との結論に導かれる。
以上を俯瞰すると、「阿遅金且高日子根」と「太玉」の結びつきが見えてくると思います。

#「倉板挙」が「タグリ」(唾)に関連づけられるのは、
#「爾に水を飲まさずて、御頸の王與を解きて口に含みて、(※「王與」は一字)
#其の玉器に唾き入れたまひき」という神話に見られる通り。
#面白いことに、「阿遅金且高日子根」の母は「多紀理毘売」。

---------------------------------

やはり思い出すべきは、ここにおいても「天皇は九進法」という点。
第3代の「師木津日子玉手見」と第30代の「沼名倉太玉敷」は同値。
いずれも「太玉」の異名。古事記は「阿遅金且高日子根」の「金且」を、
「志貴」(シキ)と言い換えている。どうして言い換えるのか理由がある。
「師木津日子玉手見」〜「沼名倉太玉敷」〜「阿治志貴高日子根」であれば、
言い換える理由は、この連関(「師木」「敷」「志貴」)が自ずと示している。

★★★★★←→★★★★★←→★★★★★
★二七九★←→★水月金★←→★486★
★一三五★←→★計土羅★←→★531★
★六八四★←→★火日木★←→★972★
★★★★★←→★★★★★←→★★★★★

この魔方陣の【三】に当たるのは、二十七宿のうち「房」「鬼」「壁」。
「鬼」のインド名を「Pusya」と言うが、これは「房」の訓読みそのもの。
それはともかく決定的なのは、(宿曜経等に見られる)月宿傍通暦において、
「七夕」(7月7日)が「房」とされること。最初に引用した歌を見てみよう。
単に「阿治志貴高日子根」が「頸珠」(倉板挙)に譬えられているだけではなく、
「棚機」という言葉で「七夕」即ち「房」(二十七宿の)を積極的に提示している。
その「房」が「師木津日子玉手見」であってみれば、驚くことはまったく無いだろう。
「阿治志貴高日子根」が「師木津日子玉手見」だとしても……。どれも「太玉」の異名。

[3324] Re[3318]: 都都古別神社と近津三社  大三元 [Url] 2002/08/25(Sun) 10:56 [Reply]
yanaseさん、こんにちは。

>   都都古別神社と近津三社
>
>  奥州一宮ともいはれる都都古別神社(つつこわけ-じんしゃ)は、福島県の南端の東白川郡棚倉町にある。茨城県から久慈川を遡って、福島県へ入ったところである。
>  祭神は味耜高彦根命(あぢすきたかひこね-のみこと)。配祀には日本武尊(やまとたける-のみこと)。日本武尊がこの地で蝦夷を平定したとの伝説もある。

陸奥風土記(逸文)八槻郷の条にある八人の賊をヤマトタケルが征伐したのが、この棚倉の地だ(八槻という地名もある)とされていて興味をもっています。祭神はお書きになったようになっているのですが、棚倉という地名は setohさんのサイトから、
 山城綴喜 棚倉孫神社「天香古山命 別名 手栗彦命」綴喜郡田辺町田辺棚
倉49 という神社があり、「手栗彦命が棚倉孫に転じたと言われている」
 (棚倉孫:たなくらひこ)
にヒントを得て「手栗彦=天香古山=棚倉孫」と理解しています。
「手栗」はまた「タグリ」とも読め、そうなると、イザナミがカグツチを生んでみまかるときに、タグリ(嘔吐)から生まれたのが「金山彦・姫」とあり、そのつながりから、福島の棚倉が天香古山か金山に結びつかないモノか、と思っておりました。

そうしたら、お書きになっておられるように、この地は金がでたようですね。面白くなってきております。ツツコ別(ツツコ・ベツで、ベツ=アイヌ語「川」か、とも疑っていますが、それはさておき)の元来にカグツチ・天香古山・金山彦あたりの伝承があれば、ばっちりなのですが、そうは問屋が卸さないようで・・・(^_^;)

[3323] Re[3320]: 神社の少ない県  yanase [Mail] [Url] 2002/08/25(Sun) 00:58 [Reply]
> 『三重県神社誌』 県経費  官国幣社費 2316円
官国幣社も当時は観光的な収入はなかったのでせうね。格式を重んじる神社ほど、講社などは持ちたがらなかったかもしれません。逆に言ふと、ここから収入を求めて観光化が始まったともいへます。宝物とか奥宮とか、見せてはいけないものまで見せるようになりました。
> 県社、郷社、村社などは郡費として計上
埼玉県では大した額ではなく祭礼の御祝儀程度でしたが、大正に入ってから、行政機構としての郡が廃止になりましたね。やっぱり合理化のためですか。

『埼玉県大里郡神社誌』によると、妻沼町のO神社が当時の一村一社を断行して57社を合祀してゐますが、この地方では例外的なものです。ですが深谷市の当時の郷社N神社でも大字の範囲で25社を合祀してゐますので、合祀のなかったところは、そんなにはなかったのではないでせうか。大字に一社に落ち着いたところはまあ良かったのだと思ひます。
 昔は、今の性道徳からかけ離れた祭礼も多かったですし、村の御神酒はドブロクと相場が決まってました。

 もう一つ問題だと思ふのは、明治初期の「上地令」といふ法令です。鎮守の森に線を引いて、建物がない部分を強制的に国有林としました。あとで大金を政府に支払って買ひ戻したといふ地域も多いのです。大正時代で4町歩が1万円くらゐでした。

[3322] Re[3321]: 無題  ひふみ [Mail] 2002/08/25(Sun) 00:21 [Reply]
そういえば、明日行われる丹生川上神社上社跡地での鎮魂祭も、発案者は美内さんです。
ガイアシンフォニーを創られている龍村仁さんもいらっしゃいます。
川上神社上社の宮司さんも参加されます。
各地から集められた聖地の水を、この地の龍神様にお供えするのがメインになります。
(確か、午後からだったと思います。晴れれば良いのですが。)

[3321] 無題  泊瀬女 2002/08/24(Sat) 22:06 [Reply]
企画展「倭姫命―倭姫宮ご鎮座80年記念」

会期:平成14年9月13日〜11月17日
会場:神宮徴古館
展示内容:1.倭姫命のご巡幸
     2.倭姫命のご功績
     3.倭姫宮のご鎮座

☆講演会(無料)
講師:漫画家 美内すずえ 
演題:倭姫さまの道
日時:9月28日(土)
会場:神宮徴古館新館2階

美内すずえさんは「ガラスの仮面」「アマテラス」などの作者として有名な漫画家です。神社巡り大好きで、話題・知識とも豊富なステキな方ですよ。

詳細は 
http://www4.ocn.ne.jp/~jingu-mu/

[3320] Re[3315][3312][3303]: 神社の少ない県  Setoh 2002/08/24(Sat) 18:55 [Reply]
> > 「神社の少ない県」の数字データは、口直しにもならず申し訳ありませんでした。
>
> とんでもありません。いろいろなことを思い起こす良い資料です。

自己レス
江戸時代には小祠や淫祠に類する社を一カ所に集めて寄宮と称したそうです。
寛文年中(17世紀後半)岡山藩では八ヶ村1541の小祠、六ヶ村で637の小祠を一ヶ所に集めて寄宮としたそうです。寄宮とは神捨て場だったのかも。
岡山の丹生神社二社などは不祥の淫祠として岡山市西大寺の芥子山の大多羅寄宮址が神捨て場です。

 明治末期にも合祀が奨励され、特に三重和歌山は整理激甚の県でした。最近アップした大杉神社に紹介した荻原神社は79社をまとめています。

京都は由緒のある(判っている?)神社が多く、合祀はほとんど行われなかったようです。

『三重県神社誌』によると、神社合祀には府県の予算的な理由もあったようです。官国幣社や招魂社の費用や幣帛料は国庫支出の県経費として計上されたようです。
官国幣社費 2316円  同幣帛料  25円  招魂社費 19円  同営繕費 25円
1円とは今の1万円程度。
その他に県社、郡社、村社などは郡費として計上されていました。
県費の節約圧縮が大きい目的だったようです。
また神社の木々の売却代は国庫かポッポに入ったのでしょう。


[3319] Re[3310][3309]: 城のちかと、埼玉のちかた  Setoh 2002/08/24(Sat) 16:12 [Reply]

>> 戦国時代の私的な城に一宮に近い存在の赤城明神を祭ることは、考へようによっては失礼な話です。
> 有力神そのものではなく、その御子とするのは、そういう理由かもしれませんね。

戦国時代とは言え、城は統治機関、公的な要素もあったのでは。
祭祀の理由は敵国からの攻撃からの防衛と一揆など内側の民百姓対策かも。
信仰心の私的流用となれば失礼な話と言えるのかも知れませんが、現在では神社参りは大抵私的に御利益に預かることですね。

また御子神ですが、遠慮してではなく、新しい魂、荒魂として、リフレッシュされた神のより強い神威を求めたのではないでしょうか。

[3318] 都都古別神社と近津三社  yanase [Mail] [Url] 2002/08/24(Sat) 13:59 [Reply]
3316:hvhyさんの神名に含まれる「かつ」については気になるところですが……
 私的な歴史散歩計画のために、事前に頭に入れておくべきことを、地名辞書などの記述から整理してみたものです。

  都都古別神社と近津三社

 奥州一宮ともいはれる都都古別神社(つつこわけ-じんしゃ)は、福島県の南端の東白川郡棚倉町にある。茨城県から久慈川を遡って、福島県へ入ったところである。
 祭神は味耜高彦根命(あぢすきたかひこね-のみこと)。配祀には日本武尊(やまとたける-のみこと)。日本武尊がこの地で蝦夷を平定したとの伝説もある。東山道とは別の道だが、奥州への入口の一つであり、その鎮護のために延喜式名神大社といふ高い格式を与へられたとも考へられる。古代の道が川沿ひを通ったとするなら、この地が重視されたこともうなづける。

  1、近津三社
 式内・都都古和気神社は、元は一社だったはずだが、現在は同町に同じ名の神社が二社あり、どちらも明治時代に国幣中社となった。近世まではともに近津宮または近津大明神と称し、下流の茨城県太子町の近津神社とともに近津三社と総称されてゐた。上流から、上宮、中宮、下宮と呼び分けられてゐた。福島県東白川郡・西白河郡や茨城県久慈郡の周辺の近津神社は、近津三社の分祀とみてよいだらう。
 中宮、下宮は、古代の駅の場所にあり、おそらく「道路守護の神」だらうと吉田東伍はいふ。
(一説に、崇神天皇の御代に肥前国松浦の近津から移された神ともいひ、源義家が奥州征伐のときここで千度勝たんと祈ったことから千勝大明神と字を改めたともいふ)。
 延喜式の白河郡には似た名の神社が三社ある。
  都都古和気神社(つつこわけ-じんじゃ)
  伊波止和気神社(いはとわけ-じんじゃ)
  石都都古和気神社(いはつつこわけ-じんじゃ)
 伊波止和気神社と石都都古和気神社を、上宮と下宮に比定する説もある。イハツツコワケの名は、イハトワケとツツコワケの二神を祀ったことに由来するのだともいふ。
 吉田東伍は、式内・伊波止和気神社は白河関の鎮護の神で、関山明神(今の磐戸別神社・白河市関山)のこととする。

 古事記では天石戸別神(あめのいはとわけ-のかみ)は、別名が櫛磐窓神または豊磐窓神で「御門神」であるといふ。
 古語拾遺には「豊磐間戸命・櫛磐間戸命の二柱の神をして、殿門を守衛らしむ。〔是並太玉命の子也〕」とある。忌部氏の祖ではある。
 現在の下宮・近津神社の祭神は、面足命、惶根命、級長津彦命である。

  2、旧地である社川の上流
 中宮の近くに鉄道の近津駅があるが、もとの近津村の名によるものだらうが、神社名の元となったとするほど古い地名ではないようだ。近津の名が、いつの時代からのものかは不明である。棚倉城は近津城ともいひ、江戸初期の寛永元年に、上宮の近津宮の社地の中に築城されたもので、上宮はこのとき少し北へ移設され、城の鎮守ともなった。上宮は、古くはさらに別の地にあったと言伝へられる。
 その地は久慈川をさらに北へ遡り、支流の社川(やしろがは)を西へ昇ったところの、西白河郡表郷町の三森(みもり)の地であるといふ。明治のころは金山村と言ってゐた。三森の少し上流の金山から南へ福島・茨城・栃木県境の八溝山(やみぞやま)へ向かふ一帯には、古代の金の発掘跡が三里に渡って広がってゐたといふ。金山は金の山、三森は神森、社川は宮のそばを流れる川、の意味だらう。東隣の釜子村の地名も金属の精練に関連する名かもしれない。
 社川は、久慈川の支流であると、地名辞書にある。ところが今の地図を見ると、社川は東から北へと流れ、阿武隈川へ合流してゐる。今の地図では久慈川の支流が棚倉町逆川(さかさがは)といふところで、社川に接してゐるような離れてゐるような描きかただが、元は社川は逆川から南へ流れてゐたらしい。「逆川」の地名の由来はよくわからないが、ともかくこの付近一帯は、東北地方の阿武隈川と関東地方の久慈川の、二つの川の水源地であることになる。
 三森にあった近津または都都古別の神は、水源地の神であり、金鉱の神であったことになる。「道路守護の神」とされたのは、上宮の地へ遷された後のことだらう。
 水源地の神への信仰は、生活農業用水のほかに、金属精練に関るものがあるのだらう。

  3、
 上宮は、足利義満の造営、天正年間白河城主関義親の造営、佐竹氏による修造、が伝へられる。中宮は、 白河を領し下野守護ともなった結城氏、常陸介の佐竹氏などの崇敬があった。佐竹氏以外は、下野国の藤原秀郷の後裔である。
 棚倉町の南の塙町は、古く常世郷といひ、棚倉城主の死を悼んだときの歌がある。
   白河の関もとどめず行く水に常世の里も名のみなりけり

[3317] [3316] の補足  hvhy [Mail] 2002/08/24(Sat) 12:04 [Reply]
>殺さえし迦具土神の頭に成れる神の名は、
>正鹿山津見神。〜 (古事記)

ここで「正鹿」は「マサカ」と読むのが普通ですが、これは、
「正哉吾勝勝速日天忍穂耳」の「正哉」(マサカ)に通じます。
「頭」と「正鹿」の組み合わせは、「鹿頭」を想起させるに十分。

#この連関の中からも、「忍穂耳」と「鹿頭」の繋がり、
#「忍穂耳」と「觜」(二十七宿の)の繋がりが見えます。
#仮に「忍穂耳」が「虚」(二十七宿の)ならば、もともと、
#「角」「觜」「虚」は仲間ですから、この繋がりは当たり前。

[3316] 「狐」と「近」  hvhy [Mail] [Url] 2002/08/23(Fri) 20:05 [Reply]
古事記・日本書紀を通じて「骨」のつく名前は、
「天之忍穂耳」(天忍骨)と「神大根」(神骨)。
こういう場合は、両者を繋ぐ糸(意図)が必ずある。

--------------------

「正勝吾勝勝速日天之忍穂耳」という名前で目立つのは「勝」。
これとペアになるのが「萬幡豊秋津師比売」(栲幡千千姫)です。
ところが上記のURLの照応表を見ると、「天之忍穂耳」は「虚」。
「角」「觜」「虚」は同値だから、「勝」は「鹿頭」と予想されます。
また「栲幡千千姫」の「千」が「角」を示唆しているようにも思われる。

一方において、「神大根」の別名を「八瓜入日子」と言う。
この「神大根」は「三野国之本巣国造」と「長幡部連」の祖。
宿曜経は「角」の形状を「長布」または「長幡」と記している。
ところが、実は「角」のチベット名は「Nagpa」。そうである以上、
「長幡」の湯桶読みが「Nagpa」に通じる点を無視できないでしょう。
即ち「角」〜「長幡」〜「神骨」〜「天忍骨」〜「虚」と繋がりますが、
「觜」もこの仲間なので、やはり「勝速日」の「勝」は「鹿頭」でしょう。

--------------------

「Nagpa」は「暗黒の空に雷鳴が轟く」というような状態を、
形容する言葉のようです。(※この点に関しては確認が必要)
ここで「雷鳴」は「稲荷」(イナリ)の神格に重なる。ならば、
「八瓜入日子」の「瓜」は「狐」を意識した表記かもしれません。
一方で「鳴く」(ナク)、一方で「鳴る」(ナル)と読む点に注意。
「狐」は「コンコン」と鳴く。この「コン」が「近」か?(…青草…)

[3315] Re[3312][3303]: 神社の少ない県  Setoh 2002/08/23(Fri) 18:32 [Reply]
> 「神社の少ない県」の数字データは、口直しにもならず申し訳ありませんでした。

とんでもありません。いろいろなことを思い起こす良い資料です。

明治維新直後の神社数は現在の約3倍程と記憶しています。やはふやですが・・。
人口は現在の1/4程、そうしますと人口あたりの神社密度は12倍、おそらくは今では考えられない程生活の中に神社がとけ込んでいたのでしょう。

 神社合祀をされて、しかしやはり地域(大字とか字)に氏神さんがほしいと復活している例もあるようです。
大和国忍海郡(北葛城郡新庄町)為志神社などがそうです。

また、合祀されずに残った神社ですが、あまりにかわいそ過ぎる神社もあります。
大和国葛下郡(北葛城郡新庄町)金村神社など。鶏小屋が本殿すぐにせまり、まるで養鶏場の一角に鎮座のように見えます。ごく近くには室町風の重文の本殿の博西神社が鎮座しその対比も極端。

合祀されたが元の地で祭りを続けている例も見られますね。

[3314] Re[3309]: 城のちかと(下記の補足)  yanase [Mail] [Url] 2002/08/23(Fri) 17:58 [Reply]
> 「其地赤城大明神 当城之鎮守ニ近戸大明神と奉祭度侯間」
 (既にある)「近戸大明神とともに」の意味かどうか、「と」の当時の一般用例を調べてみたいと思ひます。

[3313] 下記の補足  hvhy [Mail] 2002/08/23(Fri) 12:02 [Reply]
>諏訪の千鹿頭の祭神は、内県神(建御名方神の御子)ともされています。

祭神が「内県」とされた理由も、「虚」(ウツ)は「内」(ウツ)だから、
「角」「觜」「虚」を ‘セット’ と見るその脈絡から、そのまま導かれます。

[3312] Re[3303]: 神社の少ない県  yanase [Mail] [Url] 2002/08/23(Fri) 11:35 [Reply]
「神社の少ない県」の数字データは、口直しにもならず申し訳ありませんでした。

 当時、和歌山県と三重県の知事が、無神論者に近い一番の強硬派だったとの論述を読んだことがあります。昔の知事は、今と比べて遥かに強い権限を持ってゐたらしいのです。
 狙ひは、よく言はれるように、やはり材木です。
 ランクの上位にある県は、当時までよく古代の森が守られてゐた証拠なのですから、その意味では立派な県だったのではないでせうか。
 宮崎県が上位にあるのは、紀州の熊野周辺と似たところがあるためと思ひます。
 東北の福島県は関東並みの数字ですが、他は軒並み上位に来ます。秋田杉の産地の秋田県がランクが下がるのは、東北の他の県と違ひ、官軍でしたので、政府に遠慮するところも他県より少なかったためではないか、などと想像してゐます。
 埼玉県では県道を10キロも車で走らせれば、たいてい2つや3つの神社の森に出会ふのですが、そうでない県もあるんですね。

[3311] 「千鹿頭」と「近飛鳥」  hvhy [Mail] 2002/08/23(Fri) 11:33 [Reply]
いわゆる「千木」は見た目が「角」のようですが、
「干岐」(いわゆる王族)が被る「冠」も、やはり、
「角」が生えているように見えます。このあたりから、
可能性として「千」が「角」を表わすことは考えられる。

#せいぜい上記は可能性だが、ここで、
#「千」が「角」を表わすと仮定します。

----------------------

二十七宿が九進法を内包していることは、
宿曜経の「三九の秘法」からも明らかです。
その九進法で「角」「觜」「虚」は同値です。

・「觜」……その形は「鹿頭」「鹿首」(宿曜経、摩登伽経)
・「虚」……その形は「訶梨勒」「飛鳥」(宿曜経、摩登伽経)

そもそも「觜」のインド名「ムリガシラー」は、
「鹿の頭」という意味だから、「鹿頭」は「觜」。
ところが一方、「角」のインド名は「チトラー」で、(※漢訳では例えば質多羅)
しかも「チ」で始まる月宿は「チトラー」に実は限る。

偶然なのか何なのか「角」「觜」「虚」を並べると、
「千鹿頭飛鳥」→「近飛鳥」(チカツアスカ)となる。
また「胸」が「乳」なら、次のような連関も見えてくる。
「建御名方」〜「胸方」〜「乳方」〜「千方」(千鹿頭)。

-----------------------

以上を鑑みれば、一つの仮説として信州の「千鹿頭」は、
月宿の「角」と「觜」を念頭に置いたものと考えられます。
また、やはり「建御名方」とセットで見るべきものでしょう。

[3310] Re[3309]: 城のちかと、埼玉のちかた  玄松子 2002/08/23(Fri) 08:15 [Reply]
> 加須市の千方神社では六男の藤原千方ですが、系図を調べると秀郷の子に、千時、千国、千種、千常とあり、四男までです。

諏訪の千鹿頭の祭神は、内県神(建御名方神の御子)ともされています。
「うちあがた」=「ちかた」と見ることもできますね。
ちかた・ちかと を有力者の子(分身)として祀っているのかも。

> 戦国時代の私的な城に一宮に近い存在の赤城明神を祭ることは、考へようによっては失礼な話です。

有力神そのものではなく、その御子とするのは、そういう理由かもしれませんね。

[3309] 城のちかと、埼玉のちかた  yanase [Mail] [Url] 2002/08/23(Fri) 02:44 [Reply]
Re[3306]setohさんの資料は貴重です。
setohさん資料>「其地赤城大明神 当城之鎮守ニ近戸大明神と奉祭度侯間」
 これは、城の守護として強力なのでぜひ祭りたい、といふ意味ですので、埼玉県の深谷城の「智形明神」と同じ動機になります。この「近戸大明神」の意味は「衛神」であり、祭る位置によっては門神ですから、柳田国男のいふことに間違ひないわけです。
 資料の手紙の主が赤城明神を普段から信仰してゐたかどうかわかりませんが、とにかく城の強力な守護が必要だといふわけです。ただこれは村の氏子による勧請とは別に考へねばなりません。
 律令制のころは、国府の鎮守に国の最有力神を祭ることは当然でしたが、戦国時代の私的な城に一宮に近い存在の赤城明神を祭ることは、考へようによっては失礼な話です。戦国時代だから許された話で、ですから失礼と感じた村々では門神にふさはしい祭神名で祀り、あるいは有力神の祭神のまま祀られてゐる村もある、といふことだと思ひます。

 いくつかのコメントを拝見しましたが、「遥拝」といふ言葉の使はれ方は、世間のどこでもそうですが、あいまいさを拭ひきれません。(赤城神社の分祀は多いですが全てが近戸と称してゐるわけではないのですね)。「遥拝」は控へめな日本人ならではの慣習かもしれませんが、どこまで近づいても遥拝といふか、ラッキョウの皮のようなところがあります。私は「遥拝」といふ言葉は使はないのですが、論が横道にそれてもいけません。

 埼玉の例を紹介します。
 式内社田中神社ともいふ埼玉県大里郡川本町田中の知形神社の祭神は、武蔵風土記稿によれば思金命で、秩父神社の神ですからこれも地方の有力神です。明治以後、瓊瓊杵命となったのは、大都市の熊谷市の千形神社の影響と見るしかありません。
 入間郡越生町の梅園神社に合祀された近戸権現社は、武蔵風土記稿では、藤原秀郷本人といひます。加須市の千方神社では六男の藤原千方ですが、系図を調べると秀郷の子に、千時、千国、千種、千常とあり、四男までです。
 秀郷といへば、その名も近つ淡海にゆかりの人ですが、ムカデとチカツ社の関係といふのはどうでせう。
 地方では、よく同じ大字の同じ苗字でも系統が違ふといふ話も多いですから、ちかつ社にもいくつか系統があるように思ひます。
 ちかつ社の分布範囲からいふと、柳田国男の「石神問答」に出て来そうなのですが、出てないのは、ちかつ社の規模がどこでも決して小さくなく、村鎮守であったからなのだといへます。とにかく一つ一つ資料を探してゐる段階です。

[3308] Re[3305]  日雲 2002/08/22(Thu) 16:13 [Reply]
> 玄松子さん> ただ、「ちかX」が、近宮という普通名詞の意味でしかないとすれば、各社の個性は、土地ごとに、社ごとに違うのも頷けますが。
と記されておりますのに、私が、
> > 「諏訪の千鹿頭神信仰は、チカト信仰が諏訪風に変化したもの」
> > という可能性も、一応は考えておく必要があるのではないかと思われます。
と、わざわざ書いてしまいましたのは、私が見てきた限り、
「関東一円のチカ×神社は、諏訪の千鹿頭が渡ったものである(この場合、チカ×の原型は諏訪に一番濃厚に保たれている)」とするか、
「チカ×神社というのがあるが、これは音こそ似ているが、諏訪の千鹿頭とは違う。なぜなら、狩猟祭祀が見当たらないから」とするか、
このどちらかにおおよそ大別されていたからなんです(諏訪がらみチカ×がで語られる場合)。
つまり、いずれにしても「諏訪の千鹿頭神は昔から狩猟神だった」ということが、前提としてフィックスされている趣があったのですね。で、これに対して、必ずしも、そんなのは保障されたことではないだろうと。なので、
「ちかX」各社の個性が、土地ごとに、社ごとに違って来ても別におかしくないのは、それが近宮という普通名詞の意味だった場合に限らずとも(例えば、守矢神長官の系図にあるような「守矢神の孫」といったような人的存在であったりしても)、いいのではないでしょうかと、申し添えてみましたと言いましょうか(別に上記のように限ったつもりは全くお持ちでなかったかも知れませんが)。

> 「ちかと」というものが信仰と呼べるものであるのか、単なる普通名詞であるのか。
> 共通の「チカト信仰」とよべるものがあるのであれば、諏訪風に変化したともいえるでしょうが、個々に違うものであれば、普通名詞の「ちかと」が名前に付いたか、まったく違う「ちかと」であったか、ということになるでしょう。
同感です。
尤も、音が先行していたとした場合は、「千鹿頭」「血方」「近戸」と、当てられた字によって信仰のありようは変わり得るものですから(特に漢字表記が出来て以降に分社が作られる場合)、現在の各チカ×の信仰のありようのみを比較しても、そこから何が突き止められるかは不明ですが。
> 読み以外で、「ちかと」と呼ばれる各社の共通点はあるのでしょうか。
に関しましては、これは恐らく(少なくとも現段階では)ないのではないかと思われます。私が見た限り、チカ×の性格のみを取り上げた場合、それを抽出するのは非常に苦しい様子でした。
にも関わらず、私が、
> 物凄く楽しみにしております。是非!
と記させていただいたのは、

>いろいろな可能性を念頭においているつもりです。
> 結論を出すことより思索することに重心を置いていますから、研究している方が「XXXだ」とおっしゃられた場合、「そういうこともあるだろうが、違うこともあるかもしれない」となりますね。
> 「ちかつ」に関しても同様です。
というスタンスであられるのだろうからこそ、だったのです。一応、フェアを極力心がけているつもりではあっても、どうもやはり予断というものがつきまといがちで(例えば、下調べした際に「興味深そうなものがありそう」なところから出かけてしまうとか)……。
加えて、諏訪の千鹿頭については、「伝承に言われているように狩猟神だ」という前提を置かない、予断ゼロの視点から、分布や立地が調べられたようなことは、今まで一度もなかったのではなかろうか? とも……。
これは多様な視点からの見解が必要だろう、とういことで、勝手に期待を覚えてしまった次第だったのですが、勿論、これは私の勝手な話でありまして……。




[3307] Re[3303]: 神社の少ない県  玄松子 2002/08/22(Thu) 13:00 [Reply]
yanaseさん>  ●神社の少ない県と多い県(少ない県とは明治末に過度の合祀が強行された県)
yanaseさん> 1 和歌山 427  南方熊楠の合祀反対運動が起った県
yanaseさん> 2 大阪府 575

Setohさん> 和歌山を故郷とするsetohとしては、複雑な心境です。

大阪と和歌山の人口比(約8倍)を考えると、大阪在住のSetohさんはもっと複雑な心境になるでしょう。


[3306] Re[3303]: 神社の少ない県  Setoh 2002/08/22(Thu) 09:28 [Reply]
yanaseさん> 少ない県とは明治末に過度の合祀が強行された県
yanaseさん> 和歌山 427  南方熊楠の合祀反対運動が起った県

和歌山を故郷とするsetohとしては、複雑な心境です。
熊楠翁の反対運動が逆に官僚のやる気に火をつけたようで、翁の住む田辺で合祀の決起集会がなされています。
その時の神社側の動きの一例ですが、伊太祁曽神社の宮司さん(78才)に質問した所、自分の祖父は大いに賛成で、運動に加担していたようです。「合祀する側」と「合祀される側」、言い換えれば、大きい神社と小さい神社群との戦いでもあったのでしょう。伊太祁曽神社には合祀以前の祭神や鎮座地の記録の大半は残っていましたのがまだ救いです。

玄松子さん> 里宮は、山上あるいは遠方にある、「その地方の大社」を遥拝する場所なので、祭神は、その地方の「有力神」。

青草掲示板から転載
[218] 羊群声なく  神奈備 2002/08/17(Sat) 09:51 [Reply]
上野国勢多郡(大胡町河原浜)に大胡神社が鎮座、大己貴命を祀る。由緒を伝える古文書に、
「一筆致啓上侯 御堅固之段珍重 奉存侯然者其地 赤城大明神当城之 鎮守ニ近戸大明神と 奉祭度侯間其元 父子之中此方江 引越神祭奉 頼侯万事家来 (折紙)口上申入侯謹言 常陸介 天正十七年十一月九日 奈良原紀伊守殿」
要は、赤城神社を近戸大明神(大胡神社)として祭りたいとの趣旨。

遥拝する場所は、神をお迎えする訳ではないと言うことですね。
それでは足らずにお迎えしようとすると里宮となる、と言うこと。
上賀茂神社もそう言う歴史をたどったのかも。

[3305] Re[3304: ちかつ社研究の趣旨  玄松子 2002/08/22(Thu) 08:44 [Reply]
僕は、特に「ちかと」に関心があり研究しているわけではないのですが。

> 「諏訪の千鹿頭神信仰は、チカト信仰が諏訪風に変化したもの」
> という可能性も、一応は考えておく必要があるのではないかと思われます。

ですから、
玄松子> ただ、「ちかX」が、近宮という普通名詞の意味でしかないとすれば、各社の個性は、土地ごとに、社ごとに違うのも頷けますが。
と書いている通りです。ただし、「ちかと」というものが信仰と呼べるものであるのか、単なる普通名詞であるのか。
共通の「チカト信仰」とよべるものがあるのであれば、諏訪風に変化したともいえるでしょうが、個々に違うものであれば、普通名詞の「ちかと」が名前に付いたか、まったく違う「ちかと」であったか、ということになるでしょう。

読み以外で、「ちかと」と呼ばれる各社の共通点はあるのでしょうか。

> 粕川流域、特に近戸(地名)に鎮座の近戸神社などは、祭祀性格としては、日光男体山などを源流とする栃木の石裂信仰(星宮信仰またはオザク信仰=水神・開拓神信仰)とかなり類似しているのではないかと思うのですが……。

上野と下野の文化は多くの点で共通・混在しているようです。
赤城山と男体山の伝承も、似たものが多いのではないでしょうか。
それを開拓者の類似と見るか、修験道や仏教の影響と見るか、土着民の風俗とみるか、あるいは山岳民の存在によると見るかによって、帰結する結論も変わってきます。

僕は研究社ではなく、単なる参拝者でしかありませんから、いろいろな可能性を念頭においているつもりです。
結論を出すことより思索することに重心を置いていますから、研究している方が「XXXだ」とおっしゃられた場合、「そういうこともあるだろうが、違うこともあるかもしれない」となりますね。
「ちかつ」に関しても同様です。
玄松子> これは、「同じ」ことを否定しているわけではないのですが。
と但し書きしているのは、そういう意味です。

[3304] Re[3300][3299]: ちかつ社研究の趣旨  日雲 2002/08/22(Thu) 02:08 [Reply]
玄松子様> 近津、近戸と書かれる神社は、「近くに祀るお宮」と単純に理解できますが、千形、千鹿頭などと書かれる神社は、はたして同じ系統なのだろうか?
前橋市の近戸神社は、かつて「千鹿頭」と記していたとの伝えがあるそうです。その一例をもってイコールには出来ませんが、一応、念頭に置いておく必要はあることのように思います。
また、
「チカト神は赤城神の妹を嫁にもらった」
などという伝説などもあるようです。
> 特に諏訪の千鹿頭は、高遠などの地名との関連や、贄の供給など、個人的には特殊な神社という印象を持っています。
この神名は、生まれてすぐに千匹の鹿を捕らえたから、といったような伝説を語源とされているようですが、これで見ますと、「千鹿頭」という字義・表意が、伝説の発生より先に来ていたことは明らかです。
一方、漢字の渡来と諏訪におけるチカト神の存在とのどちらが早かったか、となると、恐らくは後者の方が早かったのではないかと思われます。すると、
チカト神(音)⇒千鹿頭神(漢字の当て字)⇒千鹿頭神の名の由来の伝説の発生
という順になりますから、諏訪における「千鹿頭」は、チカト神に対して狩猟祭祀の盛んだった諏訪地方ならではの好字として選ばれたもので、「贄の供給」などは、その後にゲン担ぎ的に託されたものかも知れない(栃木県の血方神社などは「血」の字から婦人の月水が連想され、女性の信仰が篤かったといいます)――つまり、
「諏訪の千鹿頭神信仰は、チカト信仰が諏訪風に変化したもの」
という可能性も、一応は考えておく必要があるのではないかと思われます。言い換えるなら、
「よしんば諏訪地方がチカト信仰の源流であったとしても、現在諏訪に残っているそれが、その本来の原型を伝えるものであるとは、必ずしも言えない」
となりましょうか。こうしたことも、一応、鑑みておく必要はあろうかと存じます。
> 隣県群馬の近戸は赤城の麓に分布しており、赤城の遥拝と理解できますが、
粕川流域、特に近戸(地名)に鎮座の近戸神社などは、祭祀性格としては、日光男体山などを源流とする栃木の石裂信仰(星宮信仰またはオザク信仰=水神・開拓神信仰)とかなり類似しているのではないかと思うのですが……。
因みに、日光男体山から鉄鐸(諏訪前宮の神宝)が出土したことなどをきっかけに、長野と栃木の郷土史家さん達の共同研究(?)のルートが出来て、70年代ごろには両地方の少なからぬ人達がチカト同源説を掲げていたようです(その後、説が否定されたとも、調査が進展したとも、いずれとも私には見当たりませんでした)。
> 諏訪の千鹿頭の分布はどうなのだろう。
> せっかく長野にすんでいるので、今度、その分布を調べてみましょう。
物凄く楽しみにしております。是非!

[3303] 神社の少ない県  yanase [Mail] [Url] 2002/08/22(Thu) 00:02 [Reply]
近津は福島県白川郡の都々古別神社の異称とするともっと古い時代のものかもしれませんが、今はまとまったことは書けません。
お口直しに平成CDの面白データシリーズです。

 ●神社の少ない県と多い県(少ない県とは明治末に過度の合祀が強行された県)

1 和歌山 427  南方熊楠の合祀反対運動が起った県
2 大阪府 575
3 北海道 601  もともと少なかったので本来はリストからはずすべき
4 宮崎県 655
5 青森県 730
6 山口県 743  政権担当者の出身県
7 香川県 775
8 鳥取県 827  面積・人口とも少ないので差し引いて見る必要がある
9 三重県 828  伊勢神宮の摂社などは数に入ってないがそれにしても少ない
10 岩手県 859
次 宮城県 963  東北も大変だったようです

10 茨城県 2468
9 長野県 2476
8 静岡県 2823
7 福島県 3047
6 千葉県 3161
5 岐阜県 3231
4 愛知県 3320
3 福岡県 3370
2 兵庫県 3847
1 新潟県 4787  一番多い県

[3302] 鳥羽展望台にまつわる神話・伝説への回答お礼  日下倭人 [Mail] [Url] 2002/08/21(Wed) 14:40 [Reply]
表題のことについてご協力をいただきたくお願いしたところ、早速Setohさん、泊瀬女さん、習志野のてつさんからお返事を頂戴いたしました。
有難うございました。この場をお借りし、心よりお礼申し上げます。

[3301] Re[3300][3299]: ちかつ社研究の趣旨  大三元 [Url] 2002/08/21(Wed) 14:24 [Reply]
近津(など)に就いてアイヌ語からの愚考、長くなるので、上記URLにあげました。

[3300] Re[3299]: ちかつ社研究の趣旨  玄松子 2002/08/21(Wed) 08:42 [Reply]
思わず、書きたかったことと違う趣旨の書き込みをしてしまった。ので、改めて。

近津、近戸と書かれる神社は、「近くに祀るお宮」と単純に理解できますが、千形、千鹿頭などと書かれる神社は、はたして同じ系統なのだろうか?
特に諏訪の千鹿頭は、高遠などの地名との関連や、贄の供給など、個人的には特殊な神社という印象を持っています。
ただ、「ちかX」が、近宮という普通名詞の意味でしかないとすれば、各社の個性は、土地ごとに、社ごとに違うのも頷けますが。

隣県群馬の近戸は赤城の麓に分布しており、赤城の遥拝と理解できますが、諏訪の千鹿頭の分布はどうなのだろう。
せっかく長野にすんでいるので、今度、その分布を調べてみましょう。

[3299] Re[3297]: ちかつ社研究の趣旨  玄松子 2002/08/21(Wed) 08:03 [Reply]
根拠が無いので、青草ネタかもしれません。

> 各地の祭神はさまざまですが大きく二種類の分類が可能で、一つは衛神・門神と解釈できる興玉命、猿田彦、手力男、面足命など、もう一つは東国各地の一宮の有力神です。

「ちかつ」を里宮・近宮と解釈すると、上記祭神も理解できませんか。
里宮は、山上あるいは遠方にある、「その地方の大社」を遥拝する場所なので、祭神は、その地方の「有力神」。
また、「その地方の大社」への参道の基点と考えると、門神的性格も帯びてきますし、yanaseさんが書かれた様に里宮の境界的機能も門神と説明できます。

勧請・分社ではなく、「遥拝」というニュアンスが重要な要素なのかもしれません。

[3298] Re[3283]: 鳥羽展望台にまつわる神話・伝説  泊瀬女 2002/08/20(Tue) 23:49 [Reply]
日下倭人さん、
> 「三重県の鳥羽展望台のある場所(国崎町字大岳)にまつわる神話・伝説など>ということですが、
同じ国崎(くざき)でも展望台のある場所から南に約2キロほどの地点に鎮座する海士潜女神社には倭姫命にまつわる伝承があり、合祀されている剣宮社には安徳天皇の宝剣の伝説があります。
鳥羽展望台の北・石鏡(いじか)は昔は陸の孤島といわれた場所なので、独特の風習があるようです。
2キロ離れていると、地区ごとに違った伝説・伝承を持っている可能性がありますね。
鳥羽展望台のある地区の神話・伝説となると心あたりはありません。


[3297] ちかつ社研究の趣旨  yanase [Mail] [Url] 2002/08/20(Tue) 23:02 [Reply]
 ちかつ、ちかと、ちかた社は、おそらく「ちかっさま」と呼び習はされてゐたものを文字で表記するときに、各地でずれが出たにすぎない可能性も高いのです。
 問題は、その中身、特に祭神に共通性があることです。
 各地の祭神はさまざまですが大きく二種類の分類が可能で、一つは衛神・門神と解釈できる興玉命、猿田彦、手力男、面足命など、もう一つは東国各地の一宮の有力神です。
 ここまでは柳田国男が言ってゐることから一歩も前には出てゐません。
 たぶん今後も出ることはできないでせうが、東国における門神の意義については、重要なテーマになると考へてゐます。
 東国武士との関係。人々が左衛門や右衛門といふ名を尊んで襲名してきたこと。殿下や閣下などといふ呼び名にある通り、建物の下の門番の人に言伝てをしておけば奥まで通じるといふ習慣。東国から京へ衛士として出仕し、美しい貴族の姫を妻にして故郷へ帰ったといふ昔話の多さ。その他、多方面から考へて行くことができます。
 関東各県は地方的な特長を最も失ひつつある地方ですが、その反省にもなります。一言でいへば「関東学」へつながるものです。
 創祀の時代は南北朝から室町初期、「ちかつ」の名の由来は、創祀にまつはる印象的な事実の記憶からきたもの、との予想を立ててゐます。ちょうど現在の大字が、村として定まったといはれてゐる時代の話で、神の側からの話ではなく、人々の信仰と村作りの話になると思ひます。
 以上が、私のこの研究の趣旨と目的です。
 A神=B神といふ式から神や神徳を一元化するものでは全くありませんので、誤解なきようお願ひいたします。

[3296] Re[3290][3285] [3288]  大三元 [Url] 2002/08/20(Tue) 17:11 [Reply]
日雲さん、

> 大三元様>カンラとはいつ頃から言われていることなのか、が大事だと思います。
> そうですね。非常に確かめ難いことではありましょうが……。

全くです。地名を調べてみても一体いつからその地名が使われていたのか、殆ど不明なんですよね。記紀・風土記の地名でさえ、8世紀よりは古い、という程度しか言えないわけですからね。神社の由緒書なども、ずっと後代になって書かれたものかも知れないとなると、とてもコワイというか慎重にならざるを得ませんね。

[3295] Re[3284]: 伊勢都彦命  玄松子 2002/08/20(Tue) 07:31 [Reply]
> 「ちかた」「ちかつ」「ちかと」と、確かに似た名前ですが、似ている=同じと判断するのは危険じゃないでしょうか。

これは、「同じ」ことを否定しているわけではないのですが。

・音韻の変化が「ありえる」ことと、「あった」ことは別物ですよね。「ありえる」ことは必要な条件ですが、十分ではないのではないかと思います。谷津と矢田が同じ語源なのかなぁ。
・「ちかつ」「ちかた」「ちかと」の祭神には違いがあります。一般に言われる「里近くに祀られた宮」として共通なのかもしれません。そういう意味で、櫛玉同様に普通名詞だと考えるのが自然ではないでしょうか。
櫛玉を、普通名詞なので、櫛玉が共通でも、同じ神と判断しないように、
> 興玉神は、東国の千形社(近津社、千鹿頭社)の神でもあったのです。
このように、共通の神、あるいは神徳と解することは「危険」ではないかと感じました。

[3294] 水源地としての山  yanase [Mail] [Url] 2002/08/20(Tue) 02:19 [Reply]
 連続ですが、里宮と奥宮について以前の説明不足を補った"まとめ"です。

 山に対する信仰の根源は、水源地への信仰だとは、秩父神社宮司の薗田稔氏も言ひ、歴史読本別冊「日本神社総覧」p152に氏の一文があります。里宮や奥宮のことも書かれてゐます。
 古代の実生活で最も重要な水、川の水は山から流れて来ます。火山であってもそれは変りありません。大和の三輪山を始め、山の神がしばしば蛇体で現はれるのも、水をもたらす神だからだといへます。相模の大山を始め、雨乞の対象となるのも山の神で、八大竜王などとも呼ばれます。大和三山は水源地とはいへず、大和の信仰は盆地周辺の山が主体です。山から直接湧き出す水は、霊水と讃へられますが、雨乞のために里人が山へ入ったとき、山頂近くなどで沼でも発見すれば、それは神の住み処と認識されるわけです。
 山の麓や裾野での祭祀が古形ですので、その位置に立派な社殿を持たない山の神社は、比較的新しい信仰であるか、修験の影響を受けたものと見ることができます。関東あたりでは三峰山が修験の時代のものであることは明白ですし、赤城山は古形を伝へ、大山は麓に元宮があります。三つの比較をしましたが、無論、新しいから価値が低いといふことではありません(この辺が書きにくかったので、以前にわかりにくい説明を書き込みました)。
 また本居宣長が山室山の中幅に墓所を定めたように、山が先祖の住む地だといふ認識も、横穴式古墳の時代からあります。

[3293] 似た言葉の検証法の一つ  yanase [Mail] 2002/08/20(Tue) 01:06 [Reply]
Re[3284] ちかと、ちかつ、ちかた、が、なぜ同じ言葉の訛りと言へるかの説明です。

 (1)国語の音韻法則の話は退屈なところもあるので、実例を示します。
 〜ヤト、〜ヤツといふ地名があります。ヤトといふ地名はアイヌ語の湿地帯を意味する言葉で、鎌倉その他ではヤツと発音します。そしてどちらも湿地帯の意味であることがほぼ定説になってゐます。したがって言葉の末尾のトとツは、訛りとして相通じ、チカトとチカツは同じと見てよいわけです。
 音韻法則を知らなくても、このような実例によって自分で検証することができ、これによって説得力を持たせることができるのです。

 (2)問題はチカタです。ヤタ(矢田)の地名がヤトの訛りかどうか少し前に調べたのですが、意外に実例が少なく検証できません。
 チカタ神社は、栃木県南部から埼玉県北部での名です。が、やはり埼玉県で祭神に加へられた藤原秀郷の六男の千方といふ人の名につられて変化したものと推定します。神さまは普通は「○○さま」と呼び、人格をもった存在として意識され、そのように訛ることがあります。実例としては、五郎と名のつく祭神名は、ほとんど御霊の転訛である、といふことが民俗学の定説になってゐます。
 チカタだけを別種とすると、分布図の中で、その地方だけポッカリ穴があいてしまひます。

 (3)チカト、チカツ、チカタの呼び名は、同じ地方内で混在して使用されることがほとんどなく、地方的な訛りと見ることができる。

 「櫛玉」は「奇魂」の意味の普通名詞と見るべきで、この意味の範囲を越えた共通性を認めるためには、別の史料が出てこないと、むづかしいわけです。

◆その他
 倭姫命世記の「吉雲建子」の「吉」は原本の誤字とされる字ですが、OCRで読みこんだまま訂正しませんでした。別の目的もあって、岩波日本思想体系から全文をテキスト化しましたが、ご希望のかたにはメール添付でお送りします。
 以前の「天柱屋姫」の「天」は「玉」のタイプミスです。

[3292] Re[3286][3283]: 鳥羽展望台にまつわる神話・伝説  泊瀬女 2002/08/19(Mon) 23:47 [Reply]
> 倭姫なら泊瀬女

とんでもないことを・・・
元伊勢については、豊鍬入姫関連の伝承地をある程度探訪しただけで、倭姫伝承地の探訪はまだまだ前途遼遠、いつになったら終わることやら・・・
海士潜女神社にまつわる伝承は倭姫命が伊勢に宮居を定めた後のお話なので、調べてもいません。
国崎・石鏡あたりの風習については後日青草に書きましょう。大したお話でもありませんがね
3291書き込みに失敗しました。お手数ですが消去してくださいませ。

[3290] Re[3285] [3288]  日雲 2002/08/19(Mon) 23:17 [Reply]
setoh様>「おおはざま社」とは「おおはざま」から勧請されて来たとすれば……
日雲>ちょっと追って調べてみます。
すみません、それらしきものがアッサリと見つかりました。磯辺九郷の中に、「迫間(はざま)」という地名があるようです。
伊雑宮の有名な御田植神事は、この九郷が順に当番を受け持つようで、迫間もその中に入っていました。ここの人達が移住して、「伊雑と書いて『おおはざま』と読む」ようになったのではないでしょうか。
場所によっては、地域のミシャグジ七社に含まれるなど、信濃の小社を扱った本で、なかなか謎めいた風な記述があったので気になっていたのですが、非常に単純な話だったようです。お騒がせ、まことに失礼致しました。

大三元様>カンラとはいつ頃から言われていることなのか、が大事だと思います。
そうですね。非常に確かめ難いことではありましょうが……。
ただ、例えばカルラで言えば、似たような性格(例えば、空を飛ぶなど)から習合して、比較的最近にそのように歌われるようになっただけかも知れませんし、この歌の文句にミシャグジの原像とかかわるものがあるのか否か自体、全く解りませんので……ともあれ、急がずに色んな可能性を探ってみます。ご親切なアドバイス、有り難う御座いました。


[3289] Re[3280]: 伊勢都彦命  大三元 [Url] 2002/08/19(Mon) 18:53 [Reply]
> 3273:大三元さん> 長野・群馬両県境の八風(はふ)山を遺蹟
>  「伊勢都彦は風を起こして……東へ去った」と前回書きましたが、風土記逸文(異本があるとは思ひますが)では正確には「八風を起こして」とあります。

この辺の事情を考察した拙論がありますので、御覧頂ければ幸いです。
http://www.dai3gen.net/isesima.htm


[3288] カンラ  大三元 [Url] 2002/08/19(Mon) 18:50 [Reply]
カンラ、、、ですが、私の雷神にせよ、かたばみさんにカルラにせよ、
語呂合わせだけです(でしょう)から、これ以上考察を進められるの
であれば、カンラとはいつ頃から言われていることなのか、が大事だ
と思います。

「ン」という音が日本の古語には無かったということに照らして
古くは「カ×ラ」であった、そして、それは何か、と考えるのか、
その場合に縄文まで遡れるのか(ミシャグチさん、って古そうだしね、(^_^))
そうだと、仏教伝来の時期に照らしてカルラがあり得るのか、とか、
カンラは比較的最近言われたということしか言えないのか、
なんかがポイントになりましょうか。老婆心まで。


[3287] Re[3282][3280]: レベルの違う話の混在  Setoh 2002/08/19(Mon) 17:52 [Reply]
> 大山祇神は大山津見神、大山積神(おおやまづみのかみ)とも書かれ、国津神です。
> 伊邪那岐神・伊邪那美神の子、つまりスサノオノミコトの兄弟と、考えられています。
『古事記』では、大山津見神は国生みに続く神生みで生まれています。また三貴子は、伊邪那岐神の黄泉帰り後の禊ぎの際に誕生しており、母無し子です。異母兄弟ならぬ同父兄弟(青草!)?
余談ですが母無し子のはずのスサノオノミコトは「妣(ハハ)の国」へ行きたいと泣くのです。
兄弟としても、穢れた後の禊ぎの後と言うことに、三貴子の一柱が皇祖たる資格を得るような何らかの意味があったのかも。

大阪府岸和田市の夜疑神社へ参詣した際に、社頭説明板に、「祭神・布留多摩命は和多罪豊玉彦命の御子神とされている。」との文章が目に入り、「罪」と言う字にびっくりの記憶があります。
さすがに、平成CDでは、神名に罪の字はつかわれていませんね。

[3286] Re[3283]: 鳥羽展望台にまつわる神話・伝説  Setoh 2002/08/19(Mon) 14:00 [Reply]
日下倭人さん、こんにちは。最近下記に遷座されましたね。  
http://www003.upp.so-net.ne.jp/kodaisi/

倭姫なら泊瀬女さんですが、前座としてせめて鎮座の神社紹介でも。『三重県神社誌』から。

海士潜女神社(あまくぐりめじんじゃ)<通称>海士御前(あまごぜん)
志摩国 答志郡
【祭神】潛女神 (合祀)天目一箇神 猿田彦大神 素盞嗚命 石凝姥命 不詳一座 玉柱屋姫命 大山祇命 應神天皇 級長津彦神 宇賀御玉神 大土御祖神 大歳御祖神 月夜見尊 建御名方命 天村雲魂 天照大神 伊弉册命 天忍穗耳命 天穗日命 天津日子根命 活津日子根命 熊野久須毘命 多岐理毘賣命 多岐津毘賣命 狹依毘賣命
【由緒】
 創立年代不詳。『倭姫命世記』、『大同本記』に「島の国崎島、湯貴の潜女(かづきめ)」『神宮雑例集』に、「国崎本神戸」『風塵抄』の建久年中行事に「大津国崎」神領給人引付、二所大神宮宣旨に、「大津国崎神戸」とある。『志陽略志』に「八皇子社国崎村に在り、亦神明、熊野権現、伊雑宮、弁財天、鏡ノ宮、牛頭天王、白髪明神、八幡宮、蜑(あま)御前、山神社在り」「風の宮同村に在り、亦土の宮、水神、荒祭ノ宮、月読宮、客人ノ宮在り」「釼の宮同村に在り、下野阿闍梨円成此の海浜に於いて宝剣を拾い得たり、故に一社を創建し、釼の宮と号す」とある。国崎神戸と定められてより毎年、神宮の神饌として熨斗鮑(のしあわび)を貢進してきた。また、神宮毎祭御饌料として六月一日に御膳の浜で、神島、答志、菅島、相差、石鏡、安乗各村の海士、艫居(あままとまい)の応援を得て、みかずき神事を行った。明治以降これらの神事は廃された。明治四〇年村内各社を合資して海士潜女神社となる。
以上


[3285] 皆様、どうも有り難う御座いました  日雲 2002/08/19(Mon) 13:49 [Reply]
伊雑宮(おおはざま)について
なるほど、社としては、要するにただの伊雑宮の分社ということで良かったのですね。
setoh様>「おおはざま社」とは「おおはざま」から勧請されて来たとすれば、志摩の伊雑宮(磯部町)は川沿いの町で狭間と言えるかもしれませんね。大きい狭間?古い地名を探して確認したいですね。
ちょっと追って調べてみます。

カンラ神について
yanase様>「けたかき」が形容詞ですから「かんら」も連体修飾の語と思はれます。
なるほど……私の古文についての学のなさが露呈してしまいました(汗)。
yanase様>笑ひ声の意味のようで、そこでどっと歓声が起こるような 
すると、これが書かれた当時の諏訪地方の方言なども当たって見なければならないのかも知れませんね……?
とは言え、しかし、その一方で、
大三元様>kanna とは「上方の」という意味で kanna kamuy は「雷神」を意味します。
かたばみ様>カンラであれば思い浮かぶのはインド神話のヴィシュヌ神の聖鳥、ガルーダ。
につきましては、伊勢外宮霜月神楽「さんくうしの歌」に
 「いや羽を揃えてや、いや空を飛ばんとてや」
とありますので、このいずれにも、「なるほど」という気が致します。ことにカルラの方は上記の神楽歌に、
 「さんぐうし大菩薩の本山は、西の国とぞ承る」
ともありますので、非常に興味をひかれます。なるほど、カルラ……考えませんでした。
時に、「前宮廿ノ御社宮司」には、
 「注連ノ内、宗サノ鈴(※神宝の鉄鐸)ヲ振リ鳴ラシ
  振リ鳴ラシ、丹波御神楽マイラスルラヨ」
とあるのですが、この「丹波御神楽」とは要するに丹波の猿楽のことか? と思ったのですが、丹波ならではの特徴のようなものは何かあるのでしょうか?
ホアカリがらみで「丹波」が、芸能がらみで「カルラ」が若干気になったのですが……

それからちょっと前の話になりますが、
玄松子様>「阿蘇の信仰の源流」とは、阿蘇で生まれた信仰、阿蘇にもともと存在した信仰という意味で使用しています。
すいません、視点がずれてしまっていたようですね。上宮・下宮の流れから話が及んでおりましたので、私は「阿蘇神社」の信仰についての源流を申しておりました。
>開拓民以前は、阿蘇(あるいはその周辺は)無人だったのでしょうか。
>開拓された場所の信仰の源流を、すべて「開拓民が持ち込んだ信仰」と定義してしまえば、「開拓のための信仰」つまり、水神・日神へ集約されてしまいますし、その土地土地の原信仰は、「無」と前提しているように思いますが。
先住民は勿論おりました(縄文以前から)。が、その人達がどんな信仰を持っていたのかは、全く解りません。ことに「開拓民達が入ってきた当時に」、という限定まで設けると、いよいよもって不明です。噴火にまつわる神話・伝説も聞きませんので、火口の池を崇拝対象としていたかどうかすらも不明です。
という一方、阿蘇から玉名市辺りにかけて、
「八代の妙見とは違う妙見」
という伝承を持った、かなり古いものと思われる水神としての星信仰(天神信仰)や、
「オホシという名を持ちながら星と関係あるのかどうかもイマイチ不明確な座祭的信仰」
といったものがあって、こうした阿蘇周辺の出所のハッキリしない信仰達を見て回ると、
阿蘇神社(および同社と密接な関係を有する神社群)の信仰と祭祀要素的に素直に合致して来るので、「阿蘇神社としての信仰の源流」は、流入側=開拓民側に置いていいのではないか、こちら側だけで「阿蘇神社」としての信仰は十分に完結し得る(この上に外来の健磐龍が乗るだけでいい)と考えていたのです。
根本的にズレてしまっていて、申し訳ありませんでした。



[3284] Re[3280]: 伊勢都彦命  玄松子 2002/08/19(Mon) 11:11 [Reply]
これは、青草ネタかも。

>  ところで興玉神は、東国の千形社(近津社、千鹿頭社)の神でもあったのです。もっとも衛神・門神の性格が共通するだけの話なのですが。

「ちかた」「ちかつ」「ちかと」と、確かに似た名前ですが、似ている=同じと判断するのは危険じゃないでしょうか。

似ていると言えば、興玉=櫛玉(伊勢津彦)=櫛玉(ニギハヤヒ)と解釈できますが、これには問題もありそうです。

[3283] 鳥羽展望台にまつわる神話・伝説  日下倭人 [Mail] 2002/08/19(Mon) 11:11 [Reply]
ご無沙汰をしております。
猛暑の中、皆さんの活発な議論も一層熱を帯びているご様子に敬意を表します。

本日はお願いがあって、カキコさせていただきました。
小生のBBSに投稿がありまして、浅学の私では手に負えなくなり皆様のお力をお借りしたく思います。
投稿趣旨は、「三重県の鳥羽展望台のある場所(国崎町字大岳)にまつわる神話・伝説などご存知であれば教えてほしい」というものでした。
「周辺の石鏡や国崎などは倭姫命のゆかりの地」ということのようです。

コメントをお待ちしております。

[3282] Re[3280]: レベルの違う話の混在  習志野のてつ [Mail] 2002/08/19(Mon) 09:42 [Reply]
>  …稲の一つの根から千の穂が実ってゐて、これは良い稲だと、伊佐波登美神が
>  抜穂にして神宮に献った。…
 フムフム!これは古代の品種改良の痕跡のようで、「イセヒカリ」を髣髴させ、
 私にはとても興味を引かれる話です。知りませんでした。ありがとうございます。

>  出雲神の子、吉雲建子命、一名伊勢都彦神、一名櫛玉命、並びに其の子、
>  大歳神、桜大刀命、山神大山罪命、朝熊水神等、…

 吉雲建子命は、出雲建子命、山神大山罪命は、大山積神と勝手解釈の上で。
一般論が正しいとはいいません。但し違うと云うには、もう少し詳しい話が必要では。
以下一般論です。
大山祇神は大山津見神、大山積神(おおやまづみのかみ)とも書かれ、国津神です。
伊邪那岐神・伊邪那美神の子、つまりスサノオノミコトの兄弟と、考えられています。
大歳神はスサノオノミコトの子供、と考えられています。
つまり出雲建子命の兄弟と、考えられます。
ボスは一人ですから、兄弟が兄弟に仕えることも、ありふれた話です。

[3281] Re[3280]: 伊勢都彦命 補足  yanase [Mail] 2002/08/19(Mon) 02:51 [Reply]
>  このときの鶴が大歳神と称され、同処(伊雑宮)に侍ったともあります。
子の神が侍ったのだから祭神は親(伊勢都彦)ではないかと考へられ、=伊射波登美命となります。

[3280] 伊勢都彦命  yanase [Mail] 2002/08/19(Mon) 02:24 [Reply]
 「伊射波登美命=伊勢都彦命」は、伴信友よりだいぶ前に、出口延経(3278:かたばみさんの出口なしがしの子孫?)の『伊射波登美神考証』で論じられたとのことでした(神道大辞典・臨川書店復刻)。天穂日命の裔とされ、武蔵国造と同祖です。『倭姫命世記』を読んでみますと、奇妙な説とは言へず、当然の論と思へます。
 倭姫命世記では、倭姫がいよいよ五十鈴川をさかのぼるクライマックスの直前に、伊勢都彦が登場します。

 出雲神の子、出雲建子命、一名伊勢都彦神、一名櫛玉命、並びに其の子、大歳神、桜大刀命、山神大山罪命、朝熊水神等、五十鈴川の後江にて御饗を奉りて、時に猿田彦神の裔、宇治土公の祖、大田命、参り相りき。(倭姫命世記)

 伊雑宮の鎮座の由来は、秋に鳥(鶴)の鳴き声が聞こえ、舎人が伊雑の地へ行ってみると、稲の一つの根から千の穂が実ってゐて、これは良い稲だと、伊佐波登美神が抜穂にして神宮に献った。其処に「伊佐波登美之神宮造奉」とあり、二つの解釈が可能です。
  伊佐波登美之神が宮を造り奉った
  伊佐波登美之神宮を造り奉った
 同書では「○○之神」といふ神名は他にないので、後者の読みが良いのでせう。
 このときの鶴が大歳神と称され、同処(伊雑宮)に侍ったともあります。

 以上が本文の解釈ですが、同書では別宮・摂社の神々が別記してあり、微妙なものがあります。
  伊雑宮 (天日別命の子・玉柱屋姫命)
  朝熊神社(櫛玉命。保於止志神{大歳神}。桜大刀神。大山祇。朝熊水神)
  興玉神 (衛神・猿田彦大神。一書曰、衛神孫・大田命)

 ところで興玉神は、東国の千形社(近津社、千鹿頭社)の神でもあったのです。もっとも衛神・門神の性格が共通するだけの話なのですが。

3273:大三元さん> 長野・群馬両県境の八風(はふ)山を遺蹟
 「伊勢都彦は風を起こして……東へ去った」と前回書きましたが、風土記逸文(異本があるとは思ひますが)では正確には「八風を起こして」とあります。
 水内郡豊野町(長野市の北隣、旧神代村)の式内社・伊豆毛神社(いづも)の古い由緒では、祭神は出雲建子命、別名・伊勢都彦命とあります(地名辞書)。

[3279] Re[3278]: いろいろコメント  玄松子 2002/08/19(Mon) 00:41 [Reply]
たいしたことではありませんが。

> ≫鹿島  南北朝時代 十一面、室町時代 十一面、又不空、又釈迦
> ≫香取 鎌倉中期 一宮は釈迦、二宮は薬師、三宮は地蔵、四宮は十一面
>
> 菩薩系ですね、仏教系の資料から探っているのですが難解で理解できません(^^;

菩薩というのは、如来の次の位ということですよね。如来になるために修行中の仏です。
上の仏で言えば、十一面(観音)、地蔵が菩薩です。
釈迦、薬師は如来で、不空の場合は菩薩と如来のどちらにもありますね。

[3278] いろいろコメント  かたばみ [Mail] [Url] 2002/08/19(Mon) 00:23 [Reply]
[3251]Setohさん
≫鹿島  南北朝時代 十一面、室町時代 十一面、又不空、又釈迦
≫香取 鎌倉中期 一宮は釈迦、二宮は薬師、三宮は地蔵、四宮は十一面

ありがとうございます。
菩薩系ですね、仏教系の資料から探っているのですが難解で理解できません(^^;

[3274]
≫また櫛玉はまさかとは思いますが饒速日尊を思わせます

伊勢津彦は非常に興味深いのですが伝承の年代を決定しないとどうにもならないですね。
饒速日自体は記紀編纂時代に創作された架空の人物とみていますが、「クシ」の尊称は天孫より古い人物群のひとつへの尊称と考えています。

[3268]大三元さん
≫「カラ神」を「カンラ神」にしたのかも知れませんが

カンラであれば思い浮かぶのはインド神話のヴィシュヌ神の聖鳥、ガルーダ。
仏教に取り込まれて守護神のひとり迦楼羅カルラになっています。
伎楽面にこれがあります。
http://japan.park.org/Japan/DNP/MTN/MN/home/index.html

[3269]yanaseさん
≫ほとんどは徳川時代に入ってから伊勢の御師によって広まったものと思はれます

江戸名所図会の巻1によれば江戸にも1社あります。
伊雑太神宮、御祭神は伊佐波登美命、玉柱屋姫命
 1624に伊勢長官出口なにがしが伊雑宮より勧請とあります。俗に磯部太神宮。
 現在の東京都中央区八丁堀3−6にある天祖神社がそれと思われますが未確認。


[3277] Re[3275][3274][3271]: 伊雑の神2  Setoh 2002/08/18(Sun) 21:50 [Reply]
大三元さん ありがとうございます。幅広く検討されておられ、敬服いたします。

 伊賀国阿拝郡の式内社の穴石神社は天津神だそうで、この伊勢津彦は天穂日ー武夷鳥ー櫛瓊の系列。この方が武蔵国造の祖になったようですね。
三重郡菰野町の八風神社の伊勢津彦神は敗れ去ったほうで、国津神とすれば『播磨国風土記』の伊和大神の子の伊勢津彦神かも。建御名方のモデルとなった。
玄松子さんの諏訪大社には、祭神を、伊勢津彦神(出雲建子)とする話もあるとの指摘があり、また建御名方の話が『古事記』にしか記述されていない事をを指摘されています。島根の出雲ではなく、大和の(桜井市)出雲辺りからの信濃逃亡もありですかね。

所で、「夢で剣が降下した」高倉下はその後伊勢方面へ回ったそうで、天日別命との関連なども興味ありますね。

[3276] Re[3272]: ちょっと、お知らせ。  Setoh 2002/08/18(Sun) 21:50 [Reply]
ひふみさん、こんばんは。上社跡地での鎮魂の祭りですか。新しい社殿に神様はチャーント遷座されているそうですから、残っている神々や鬼などや霊を鎮める祭りとなるのでしょうね。スザマシイ!

[3275] Re[3274][3271]: 伊雑の神2  大三元 [Url] 2002/08/18(Sun) 17:53 [Reply]
setoh さん

> またの名は伊勢津彦命、・・、」またの名は櫛玉命である。

穂日の孫にあたる「櫛瓊」を「櫛玉」と解するとここらの話が良くつながります。
ご参照: http://www.dai3gen.net/izm_kamsa.htm


>「日、波」を象徴する「鵄=富」かと思われます。

アイヌ語 tom-i 光る・もの を援用すると、上記のご推察が納得しやすくなります。
ご参照: http://www.dai3gen.net//jinmuki3.htm

[3274] Re[3271]: 伊雑の神2  Setoh 2002/08/18(Sun) 16:37 [Reply]
yanaseさん> 伊雑富命(伊射波登美命)が天照大神を祀ったのが神宮の別宮である伊雑宮である

これは元々の伊勢の神であった伊雑富命を奉ずる人々の服属譚ととれます。伊勢を服属させた物語は他にもあります。

yanaseさん> 天日別命の伊勢平定。伊勢津彦は、風を起し潮を吹き上げて波に乗って東へ去ったといふ

『伊勢国風土記逸文』には、伊勢津彦は、光輝きて日の如く、陸も海も共に朗かに、遂に波に乗って東へ去ったといふ。とあり書き込まれた時期が不明の注釈に<近くの信濃の国に住まわせた>とあります。伊勢津彦は、「光輝きて日の如く」とあるように、伊勢の日神でもあったようです。

大三元 さん> 「長野・群馬両県境の八風(はふ)山を遺蹟

三重県三重郡菰野町多比鹿神社の摂社に八風神社(はっぷうじんじゃ)があり、伊勢津彦神を祭神としています。「八風」で符合するのですね。『先代旧事本紀』には伊勢津彦は武蔵国造祖の祖とあり、信濃経由で武蔵まで行ったとの伝承は平安時代初期にはあったのでしょうね。

『伊勢国風土記逸文』には、もうひとつ伊勢津彦が出てきます。
伊勢というのは、伊賀の安志の社においでになる神は、出雲の神の子、出雲建子命、またの名は伊勢津彦命、・・、」またの名は櫛玉命である。石を以て城を造っていたので阿倍志彦の神の来襲を退けたとあります。
この文もやっかいな文章で、安志からは天日槍、出雲の神の子、また櫛玉はまさかとは思いますが饒速日尊を思わせます。日神の雰囲気はあるようですね。
安志の社とはおそらく伊賀国阿拝郡の式内社の穴石神社で、論社として穴石神社や都美恵神社が鎮座しています。共に伊勢津彦を祭神とする見方があるようです。阿倍志彦の神とは敢国神社の神のようです。

石の城を築く伊勢津彦とは、石津彦であり、磯津彦で、これは、伊雑彦と見ることができましょう。では伊雑富命の「富」とは何か? 神武天皇の弓先にとまった金色霊鵄が「天陰けて雨氷る 光カガヤキテ」と現れていますが、まさに伊勢津彦の飛び去る姿を彷彿させます。「日、波」を象徴する「鵄=富」かと思われます。伴信友の「伊雑富命=伊勢津彦」は大いに成り立ちそうです。

伊勢の服属の話は『雄略紀』に、物部菟代宿禰と物部目が伊勢の朝日郎を征伐したとあります。この朝日郎も日神を思わせる名前で、このあたりの話がより古代の話として、伊勢津彦の話とされたのかも知れません。物部菟代宿禰は朝日郎の強弓を恐れて進撃できず、物部目が討伐したとあり、安志の社の伊勢津彦と八風の伊勢津彦の風土記の二つの物語になっているように思えます。

[3273] Re[3271]: 伊雑の神2  大三元 [Url] 2002/08/18(Sun) 09:36 [Reply]
>  天日別命の伊勢平定の前に伊勢に勢力をもってゐたのが、伊勢津彦です。伊勢津彦は、風を起し潮を吹き上げて波に乗って東へ去ったといふのですが、長野県北部の水内郡へ逃げたといふ伝承が長野県にあるらしい。

岩波の風土記に(伊勢国風土記逸文)には
「(伊勢津彦の神は、近く信濃の国に住ましむ)」とあり
岩波の頭注によると、この一文は後補の文(倭姫世記にあり)だが
「長野・群馬両県境の八風(はふ)山を遺蹟とし、また長野市風間の式内社風間神社を鎮座地に擬しているが確かでない」とある。

なお、アイヌ語でise-poは兎の意味だが海に出ているときにこの語を発すると風浪が起きるので禁句となっている。si-maw で大風となる。伊勢志摩の地名起源ではないか、と考えている。

[3272] ちょっと、お知らせ。  ひふみ [Mail] 2002/08/18(Sun) 02:24 [Reply]
青草の方に載せようかとも思ったのですが、来週の事なので図々しくも本殿でのお知らせ。

8月25日日曜日午前10時より有志の方達が集まって、奈良吉野の旧丹生川上神社上社跡地で、鎮魂の祭りがあるそうです。
移転後の惨状があまりにひどいのと、秋にはこの地も沈んでしまうので、様々な祈りを込めて行われるそうです。興味のある方はいらして下さい。

この地に関心のある方は、この方のホームページがよいかも。
http://www.ame-ambient.com/Nagaya/voice

お騒がせしました。

[3271] 伊雑の神2  yanase [Mail] 2002/08/18(Sun) 00:51 [Reply]
 伊雑富命(伊射波登美命)は、伊勢神宮を創祀した倭姫命が、天照大神への良い神饌を求めて志摩国を訪れたときに、倭姫命を迎へた神とされ、のちに伊雑富命が天照大神を祀ったのが神宮の別宮である伊雑宮であると「倭姫命世記」(鎌倉時代)にあるそうです。
 祖母が玉柱屋姫命で、各地では伊雑富命とともに祭られる例も多いようです。
 玉柱屋姫命の父が天日別命(天日鷲命)で、風土記逸文によると神武天皇のころに伊勢を平定した神で、この天日別命の子孫が神職の度会氏です。
 伊雑富命や玉柱屋姫命をまつる社は、前回述べたように規模が小さいものや合祀が多く、ほとんどは徳川時代に入ってから伊勢の御師によって広まったものと思はれます。

 天日別命の伊勢平定の前に伊勢に勢力をもってゐたのが、伊勢津彦です。伊勢津彦は、風を起し潮を吹き上げて波に乗って東へ去ったといふのですが、長野県北部の水内郡へ逃げたといふ伝承が長野県にあるらしい。伊雑富命は伊勢津彦のことであると、幕末の伴信友の「神名帳考証」にあるそうですが、私はこの学者はそれほど評価してゐません。長野県の伊雑社の分布も松本市以南です(ただしこれは平成祭データの境内社の資料によるもので、同データに掲載された境内社はほんの一部ですから、もっと北にもあるかもしれません)。「伊雑富命=伊勢津彦」はまったく否定もできないので、興味のあるかたは調べてみても面白いかもしれません。

 伊雑刀売命、伊佐登女命といふ女神の名で祭られる場合は、伊雑富命と一緒ではありません。伊勢の神なので女神となったのか、それとも御師でなく比丘尼による勧請だったからなのか、玉柱屋姫命のことなのか。日本では両性具有の神はあまり聞きませんし。

[3270] Re[3269]: 伊雑の神  習志野のてつ [Mail] 2002/08/17(Sat) 19:31 [Reply]
>  伊雑社は、三河、遠江、信濃南部、美濃地方に16社が祭られ、そのうちほとんどが境内社です。
 yanase さん 
 伊雑の神についてありがとうございます。大変参考になりました。

 昨年の5月【[1158]  信濃の海人族  [風来坊]  05/29】や
 【[1164]  安曇系海人と建御名方神  [kokoro]  05/30】などの
 過去ログが非常に示唆に富み、面白かったです。ご参考まで。 

>  祭神で特徴的な神は、伊雑富命(伊雑刀売命)、天柱屋姫命です。伊雑大神と呼ぶ場合もあります。…
> …「○○富命」の「富」が女神を意味するのは新しい発見でした。
 これは『〜刀売命』『〜とめのみこと』→『〜とみのみこと』『〜富命』
 と変化したものではないでしょうか?もちろん可能性がないとは云えませ
 んが【「富」が女神を意味する】のは、いささか無理筋かと思います。

[3269] 伊雑の神  yanase [Mail] 2002/08/17(Sat) 11:51 [Reply]
Re[3254] 伊雑社も、地方特有の神と思はれます。

 伊雑社は、三河、遠江、信濃南部、美濃地方に16社が祭られ、そのうちほとんどが境内社です。
 「はざま」と読むのは、御指摘のように地名から来たものと思はれ、合戦で有名な三河の桶狭間を始め、この地方には「(〜)はざま」の地名は多いようです。谷あひの平地の意味とされます。
 祭神で特徴的な神は、伊雑富命(伊雑刀売命)、天柱屋姫命です。伊雑大神と呼ぶ場合もあります。
 これらの神を合祀した神社も、前述の地域を中心に、かなりあります。合祀のために元の社名が残らなかったようです。以上のように境内社や合祀神が圧倒的に多いといふことは、村鎮守の規模ではなかったためと思はれ、新しい近世の神かもしれません。
 伊雑の神を主神とする神社には、三河地方の御鍬社があります。御鍬社の神は「鍬神」ともいはれ、東海地方に広がってゐますが、近世初期に伊勢の神宮の神事で使はれた鍬形が、御師によって地方へ運ばれ、それが祀られたものといはれます。伊雑社の祭神に天照大御神の名があるところがあるのも、伊勢からきた神だからと思はれます。

 しかし、奥三河の信仰と関連があるような気がしますが、未調査です。「○○富命」の「富」が女神を意味するのは新しい発見でした。

> みしゃぐちは、けたかき神の、かんら神

 この神楽歌の前後の文句、囃子言葉、所作などがわからないままの想像ですが、五七五で完結したものとすると、「けたかき」が形容詞ですから「かんら」も連体修飾の語と思はれます。笑ひ声の意味のようで、そこでどっと歓声が起こるような、「たかき」がみしゃぐちの形状とすると、歌句の結びとしても落ちが良いのですが、本当のところはわかりません。

[3268] カンラ神へのヒント  大三元 [Url] 2002/08/16(Fri) 11:15 [Reply]
>「御社宮司は気高い神のカンラ神」

アイヌに kanna kamuy というのがあります。kanna とは「上方の」という意味で kanna kamuy は「雷神」を意味します。
出雲の意宇川流域大草町あたりに「神納(今、しんのう、と読むようですが「かんな」に近かった可能性は?)」、その対面に「雨乞山」などがある、ともう少し調べてみたいところです。
群馬県〜埼玉県に神流と書いて「かんな」と読む地名、川、があります。上流にある神流湖の北西にある「雨降山」も因縁をつけてたくなる地名です。
また「かんな」は製鉄に関わる語でもあるようなので、その関連にも気を配らねばならぬかも知れません
カンラを聞いているのでカンナではない、ということでしたら古来(?)「タ、ナ、ラ」通用、ということもありますので、発音のユレの範囲として考えてみて下さい。



> です。文脈からして、「カンラ神」とは一般名詞だと思うのですが(例えば韓神などのような)、
> 適当に漢字をあてるなら「甘楽神」といったような、何かそうした有名な(?)一般名詞があるのだろうか、というのが質問の趣旨だったのです。
> 七五調に合わせる為に、「カラ神」を「カンラ神」にしたのかも知れませんが、どなたか思い当たる節をお持ちの方はいらっしゃいませんでしょうか。
> といいつつ、数日、こちらを拝見することも出来なくなってしまいますので、質問しっぱなしの形になって、それも失礼な話なのですが……。
> 脳裏に閃いたアイデア(?)のようなことでも全然結構ですので、何かお聞かせ願えればと存じております(何しろ、韓神、唐神しか思いつかないのです)。
>

[3267] 山の上の話  yanase [Mail] 2002/08/16(Fri) 10:21 [Reply]
Re[3255]
 山の上の話です。
 古事記などでは、山に上られる話は、天皇の国見のときくらゐです。これらの山は、巨木が生ひ繁ってゐては国見になりませんから、山とはいへず、「をか(丘)」と訓ずべきです。平地でも木の生ひ繁る地なら現在でもヤマといひ、神の坐す領域であるわけです。
 いくつかの有名神社だけでなく、日本の山はすべて里人不入の地でありました。ここでいふ里人には野で狩猟をしてゐた昔の民も含めていいと思ひます。狩猟民がいかにも山の民といふのは後世の認識と思ひます。少しは山にも入ったかもしれませんが、最初に山の神をまつり、その意味では山の民です。神の広い領域が決まってゐたので、まづ意識されるのはその境界です。日本の神の種類で一番多いのが境の神、塞の神、禦ぎの神などであるのも、そのためと思ひます。

 古事記に、はっきりと山の上にまつられたと書いてある神があり、大国主命といふ神で、その場所は「倭の東の山の上」とあり、三輪山のことと解釈される場合が多いようですが、大国主=大物主には、異論も多いのではないでせうか。少なくともこの部分は古事記の編纂された時代からあまり古くないものである可能性があります。出雲大社の「高天原に千木高知りて」に対抗または相応できる表現が必要だったのかもしれません。

 古事記で他に山の上のことが書かれるのは、天皇が葬られた場所が古墳の上であるといふ記述です。ここから考へると山頂がはっきりと意識されるのは、古墳時代以降ではないでせうか。
 前方後円墳の方の部分が人の祭祀場とのことですが、古墳時代の終了を待って建てられ始めた神社の社殿の形態も、前方後円墳に似たところがあります。しかし社殿がその時代以降でも、その場所で古くから祭祀が行なはれてゐたと見るべきなのは当然です。建設時期が古いのは古い祭の場所だからといふことになります。

玄松子さん> 神官が、まず、山中・山頂・山そのものの神を想念し、そこにある磐や樹木を神の寄り代として祀ったのではないかと

 神官への畏敬の念も感じられる一文です。山の開山の話などにもよくあるものです。元の神域に観光道路が張り巡らせられる現代では、古代の山の樹相その他を想念しなければ何も見えませんが、昔はもっと動的で目に見えるかたちで神は現はれたといふ話が多いようです。人口の多い里近くの山では、山は先祖を葬った場所でもあります。今日8月16日が盆送りで、山まで送って行くといふ地域もあると思ひます。

 火山の神については、猛威への畏怖だけでは、土地を代表する神にまではならないのではないかと思ふんですよね。母神のようなところもないと、日本人らしい信仰にならないといふか、ヤマノカミが怖いだけでは大変です。

 さて万葉集には、山の上で領巾(ひれ)を振る歌があります。
  遠つ人松浦佐用姫 つま恋ひに領巾振りしより負へる山の名
 この山の上の歌を詠んだ人は、山上憶良といふ人です。
 ここで終はると駄洒落の落ちなのですが、この歌人の歌は特異な発想のものが多く、大陸からの帰化人説があります。「山上」といふ名も従来の日本人らしくありません。命名の由来を想像すると、やはり「一度死んだ人」いふ意味なのだと思ひます。
 この松浦佐用姫の話の異伝のようなものが、肥前国風土記にあり、山の上の湖の話なのですが、長くなるので止めます。

[3266] あっ、すみません、もう一つ  日雲 2002/08/16(Fri) 09:21 [Reply]
> 御社宮司ワケタカイ神ノカンラ神
とは、すみません、前後を無視してここだけ抜いて書いては、何のことだかサッパリ解らなかったですね。これは
「御社宮司は気高い神のカンラ神」
です。文脈からして、「カンラ神」とは一般名詞だと思うのですが(例えば韓神などのような)、
適当に漢字をあてるなら「甘楽神」といったような、何かそうした有名な(?)一般名詞があるのだろうか、というのが質問の趣旨だったのです。
七五調に合わせる為に、「カラ神」を「カンラ神」にしたのかも知れませんが、どなたか思い当たる節をお持ちの方はいらっしゃいませんでしょうか。
といいつつ、数日、こちらを拝見することも出来なくなってしまいますので、質問しっぱなしの形になって、それも失礼な話なのですが……。
脳裏に閃いたアイデア(?)のようなことでも全然結構ですので、何かお聞かせ願えればと存じております(何しろ、韓神、唐神しか思いつかないのです)。

[3265] 無題  日雲 2002/08/16(Fri) 09:10 [Reply]
取り急ぎ、一件。
>噴火を未然に鎮めるために火口に幣を投げ入れるような神事
と以前に書きましたが、ちょっと訂正させて下さい。
「火口に幣を投げ入れる神事」
は確かにあるのですが、その目的が
「噴火を未然に鎮めるために」
であったかどうか解りません。少なくとも、噴火を未然に鎮めるために始まったとの記録があって書いた訳ではありません。
阿蘇の火口池の異変(沸騰、枯渇など)は大宰府を通して朝廷に知らせられ、これを国家的災厄の前触れかと恐れて、奉幣および各種祈祷を行ったり、伊勢神宮へ参拝したりといった展開を見せていたようですが、この場合などは噴火自体を怖れている訳ではないので、火口の池の異変は単に「神意の表れ」としてだけ見られていたのかも知れません(天然の占いのようなニュアンス?)
「噴火を未然に鎮めるために」
とは、噴火という物理的な災厄にしか恐怖を覚えない、現代人ならではの偏った、安易な物言いだったと思います。上記の文を読んで、
「阿蘇神社には噴火を未然に鎮めるために始まった祭がある」
と断定的に受け取る人が出てしまっては大変ですから、訂正させて下さい。
申し訳ございませんでした。

[3264] Re[3261][3260]: はや8月も半ば  Setoh 2002/08/15(Thu) 22:23 [Reply]
> 各家系が色んな名前で伝承してきたのだけど、根元は同じ、ってものがあるのではないか、と思ってるんです。

日本は一神教だったと言いたくなるほど、根っこでは似ているように思うことがあります。

下照比売、赤留比売、比売許曽(媛社) → 鴨と天日槍と物部の一族 とか。

[3263] Re[3262]: 五十太祁神社の読み方について  Setoh 2002/08/15(Thu) 20:20 [Reply]
> 紀州名草郡五十太祁神社とありますが、「きしゅうなぐさぐん」の次はなんと読めばいいのでしょうか。お教えください。

東京都北区豊島の紀州神社の由緒に紀州名草郡五十太祁神社からの勧請と記されています。
紀州名草郡の式内大社の伊太祁曽神社のことですから、「イタキ」とよむものと思います。

[3262] 五十太祁神社の読み方について  海山正司 [Mail] 2002/08/15(Thu) 19:19 [Reply]
紀州名草郡五十太祁神社とありますが、「きしゅうなぐさぐん」の次はなんと読めばいいのでしょうか。お教えください。

[3261] Re[3260]: はや8月も半ば  大三元 [Url] 2002/08/15(Thu) 15:55 [Reply]
setoh さん

> 火明命も日神の天照御魂神に見なされています。列島中、全部が同じ焼酎をいただいたわけではなく、地酒もあったのでしょう。

甲類乙類、、、焼酎で来ましたか(^_^)。確かに奈良朝の役人言葉が全国的標準語ではなかったでしょうから、地酒、おっと、方言、さらには異言語さえあったのでしょうね。

> ホアカリ神と言えば籠神社、籠神社に伝わる極秘伝には祭神が賀茂別雷神とも異名同神とも記されているそうです。これには大三元さん指摘の玉依姫がでてきます。

はい。海部氏の系図で知りました。もはや秘伝ではない、、、ありがたや。

> 更に、南方刀美神まで引っ張ってみようとすると、大三元さん流演算か「刀美」から登美毘古としての饒速日命へとつなげばなんとか。青草でした。

結局ですね、各家系が色んな名前で伝承してきたのだけど、根元は同じ、ってものがあるのではないか、と思ってるんです。それを恣意性をどこまで排除して提示できるか、ですねぇ。
>

[3260] はや8月も半ば  Setoh 2002/08/15(Thu) 11:38 [Reply]
 甲類乙類
火明命も日神の天照御魂神に見なされています。列島中、全部が同じ焼酎をいただいたわけではなく、地酒もあったのでしょう。
> なんとかならんかな、(^_^)
よろしくお願いいたします。

> ホアカリ神
ホアカリ神と言えば籠神社、籠神社に伝わる極秘伝には祭神が賀茂別雷神とも異名同神とも記されているそうです。これには大三元さん指摘の玉依姫がでてきます。
更に、南方刀美神まで引っ張ってみようとすると、大三元さん流演算か「刀美」から登美毘古としての饒速日命へとつなげばなんとか。青草でした。

> 御社宮司ワケタカイ神ノカンラ神
別他界神、次男三男を生き埋めにすることに関連ありや。setohには、ワケガワカランわいな。

> 長野県内のそこここに、「伊雑社」や「伊雑皇社」で「おおはざま社」と読む
神社本庁発行のCD『平成祭りデータ』によりますと、長野県で「伊雑」の社名を持つ神社摂社は7社抽出できますが、正式名は「いざわ」「いぞう」「いざ」であり、7社には通称は記載されていませんので、同じくさっぱりです。
「おおはざま社」とは「おおはざま」から勧請されて来たとすれば、志摩の伊雑宮(磯部町)は川沿いの町で狭間と言えるかもしれませんね。大きい狭間?古い地名を探して確認したいですね。
 または遠野の早池峰神社も大迫(おおはざま)町に鎮座、ここからとなるとこれはロマンですね。遠野の方には諏訪神社が行っていますから、交流はあったと見てもいいのでしょう。

ひふみさん、こんにちは。
http://cscns.csc.gifu.gifu.jp/syozo/center/maruti/11nendo/HP/minwa/zaou.htm
に、
蔵王権現(ざおうごんげん)の「ざおう」は,「蛇王」(じゃおう)からきたのではないかとご住職に教えていただきました。
と載っていますね。
「蔵王」の意味よりは「蛇王」のほうが、何となくわかりやすいですね。
三輪山登拝は可能ですが、圧倒的に禁足地が多く、一般人としては、実際には「山には入れません」と言う状況でしょう。まだまだ磐座など多くあるとのこと。
前にも掲示板に書いたのですが、大学の先生が弟子であった神職に禁足地を調べて教えてもらうようなこともあるそうです。

[3260] はや8月も半ば  Setoh 2002/08/15(Thu) 11:38 [Reply]
 甲類乙類
火明命も日神の天照御魂神に見なされています。列島中、全部が同じ焼酎をいただいたわけではなく、地酒もあったのでしょう。
> なんとかならんかな、(^_^)
よろしくお願いいたします。

> ホアカリ神
ホアカリ神と言えば籠神社、籠神社に伝わる極秘伝には祭神が賀茂別雷神とも異名同神とも記されているそうです。これには大三元さん指摘の玉依姫がでてきます。
更に、南方刀美神まで引っ張ってみようとすると、大三元さん流演算か「刀美」から登美毘古としての饒速日命へとつなげばなんとか。青草でした。

> 御社宮司ワケタカイ神ノカンラ神
別他界神、次男三男を生き埋めにすることに関連ありや。setohには、ワケガワカランわいな。

> 長野県内のそこここに、「伊雑社」や「伊雑皇社」で「おおはざま社」と読む
神社本庁発行のCD『平成祭りデータ』によりますと、長野県で「伊雑」の社名を持つ神社摂社は7社抽出できますが、正式名は「いざわ」「いぞう」「いざ」であり、7社には通称は記載されていませんので、同じくさっぱりです。
「おおはざま社」とは「おおはざま」から勧請されて来たとすれば、志摩の伊雑宮(磯部町)は川沿いの町で狭間と言えるかもしれませんね。大きい狭間?古い地名を探して確認したいですね。
 または遠野の早池峰神社も大迫(おおはざま)町に鎮座、ここからとなるとこれはロマンですね。遠野の方には諏訪神社が行っていますから、交流はあったと見てもいいのでしょう。

ひふみさん、こんにちは。
http://cscns.csc.gifu.gifu.jp/syozo/center/maruti/11nendo/HP/minwa/zaou.htm
に、
蔵王権現(ざおうごんげん)の「ざおう」は,「蛇王」(じゃおう)からきたのではないかとご住職に教えていただきました。
と載っていますね。
「蔵王」の意味よりは「蛇王」のほうが、何となくわかりやすいですね。
三輪山登拝は可能ですが、圧倒的に禁足地が多く、一般人としては、実際には「山には入れません」と言う状況でしょう。まだまだ磐座など多くあるとのこと。
前にも掲示板に書いたのですが、大学の先生が弟子であった神職に禁足地を調べて教えてもらうようなこともあるそうです。

[3259] 源流は、オリジナルかソースか  玄松子 2002/08/15(Thu) 11:00 [Reply]
> であれば、その時点で彼らが無信仰な訳はありませんので、その開拓民自身の持っていた信仰が、どうしても信仰の母体=源流になるんではないかと。

開拓民以前は、阿蘇(あるいはその周辺は)無人だったのでしょうか。

開拓民が持ち込んだ信仰が、変化したとすれば、それこそが阿蘇の信仰。
「阿蘇の信仰の源流」とは、阿蘇で生まれた信仰、阿蘇にもともと存在した信仰という意味で使用しています。

開拓された場所の信仰の源流を、すべて「開拓民が持ち込んだ信仰」と定義してしまえば、「開拓のための信仰」つまり、水神・日神へ集約されてしまいますし、その土地土地の原信仰は、「無」と前提しているように思いますが。

いずれにしても、言葉だけの問題ですから、どうでもよいといえば、どうでもよいことです。なにげなく「源流」という言葉を使用しましたが、こだわる方は、こだわっているのだと、勉強になりました。

[3258] Re[3256]  日雲 2002/08/15(Thu) 05:40 [Reply]
玄松子様>地元の方にとってこそ、噴火は大事件なのではないでしょうか。畏れ(恐れ・惧れ・懼れ)が信仰の源流となる場合もあるのではないでしょうか。

はい。も、あろうかとは存じます。
例えば、昭和新山のようなものがいきなり出来てきた時や、休火山がいきなり火を噴いた場合など――つまり、噴火よりも早く、人が先行して住んでいたケースでは、間違いなくそうなると思います。
しかしながら、阿蘇の場合は、「かつて大噴火はあったが、そして今後もその恐れはあるにはあるが、そうしたリスクを補って余りある、それ以上に開拓に入る魅力の方が勝っている状況」になってから、人々が入植していったんじゃないかと思うのですね(少なくとも、現在の阿蘇信仰につながる歴史的なスパンとしては)。
であれば、その時点で彼らが無信仰な訳はありませんので、その開拓民自身の持っていた信仰が、どうしても信仰の母体=源流になるんではないかと。
勿論、この血族に連なる者達が、火山ばっかりを選んで入ったというようなことはない筈です。火山じゃない普通の山にも入って行ったでしょうし、平地の開拓も行ったでしょう。それに比べれば、火山ならではの特色というものは加わりはしたでしょうが、しかし、それはやはり「源流」ではない筈です。
例えば、阿蘇の場合は、火炊き神事という「七星(天神)に祈って霜害を避ける」祭祀があるのですが、この霜害は高地である阿蘇山ならではのことでしょう。彼ら「信仰を持って新天地に入っていった人々」にとっては、噴火のリスクというのは、こうしたこととそう大差はなかったのではないかと思うんです。あくまでも、彼ら自身が先に持っていた信仰が、「阿蘇信仰」の源流だったろうと(個人的には、ある種の天神信仰的なものだったと思っていますが……)。

[3257] Re[3238][3234]: 無題  ひふみ 2002/08/15(Thu) 02:47 [Reply]
久々の神奈備、古い話題に横合いから失礼します。

> 蔵王を蛇王とするのも当て字ではない歴史があります。

「蔵王」というのは、蔵王権現の事でしょうか。よろしければ、出自を教えて頂きたいのですが。吉野大峰山の麓にいるもので、気になります。

>たとへば三輪山に踏み入ってここだと特定することはできません(山には入れません)。

三輪山の登拝ですが、神社にお願いし、しかるべく手段を踏めば、確か大丈夫のはずです。友人達も何度か登っています。(私は、今の所三人の子供を背負っていく元気がないので、まだですが。)
御希望であれば、社務所にお尋ねになったらいかがでしょう。
ただし、三輪山は、たしかそのお姿がとぐろを巻いた蛇であるとか、昔、三輪山の麓のあたり大和盆地は大きな池であったという伝承があったと思います。
山頂付近の三つの大きなイワクラは、むしろ古代の太陽信仰を現したものではないかと、言っていた方もいたと思います。

>  一般に里宮が麓の位置にあるのも同じ意味で、最初に里宮が建てられ、最も重視されて来ました。奥宮とは一種の御旅所として神迎へ神送りなどの神事をする場所です。参拝が便利なように里近くに引っ越して来たといふわけではないのです。里宮しか参拝しなかったのは不充分だといふこともありません。
 
不充分だとは思いませんが、私も玄松子様の意見に賛成です。
少なくとも、私が知っている限り、奥宮と里宮ではそこにある何かが全然違いました。それは、やはり玄関と奥座敷ぐらい違うと感じます。思い込みかもしれませんが。

[3256] Re[3234]: 無題  玄松子 2002/08/15(Thu) 02:03 [Reply]
もう終わった話だったら、ごめんなさい。

> yanase様>出羽の鳥海山の噴火のときに、裾野から無数の蛇が現はれ出て、火山の神の猛威を恐れて、正?位だかを叙せられたといふ話を思ひ出しました。火山の神はあります。
>
> の例にしても、これは火山を外から見ているのであって、当の火山のカルデラに住んでいる人達にとって、果たして噴火が信仰の源流になるものでしょうか。

地元の方にとってこそ、噴火は大事件なのではないでしょうか。畏れ(恐れ・惧れ・懼れ)が信仰の源流となる場合もあるのではないでしょうか。

[3255] 奥宮と里宮  玄松子 2002/08/15(Thu) 01:46 [Reply]
個人的な解釈というか勝手な理解なので、間違いがあれば訂正を。

>  一般に里宮が麓の位置にあるのも同じ意味で、最初に里宮が建てられ、最も重視されて来ました。奥宮とは一種の御旅所として神迎へ神送りなどの神事をする場所です。参拝が便利なように里近くに引っ越して来たといふわけではないのです。里宮しか参拝しなかったのは不充分だといふこともありません。

山頂の祠・社殿と、麓の社殿の『建設時期』という観点で見れば、麓が最初だと理解できます。

山神に対する祭祀は、従来は社殿を設けず、仮に設けたとしても、祭祀の終了とともに移動、あるいは撤去されたのではないでしょうか。今でも春日造などは、基礎を作らず、石などの上に置いた形です。

神官が、まず、山中・山頂・山そのものの神を想念し、そこにある磐や樹木を神の寄り代として祀ったのではないかと思います。
物理的な社殿を建設したのは、単に「人の便利」のためでしょう。「人の便利」のためには、まず麓の宮から作られると思いますが、神そのものの存在する場所は、山中・山頂がまず先ではないでしょうか。

[3254] Re[3251]  日雲 2002/08/14(Wed) 18:20 [Reply]
setoh様>南方刀美神=ホアカリ神との説でしょうか
以前に読んだレポートで、これまで祭神として説の立てられてきた一覧の中に(例えば、応神天皇などと一緒に)入っていたというだけで、どうしてそんな説が出たかの趣旨はおろか、その出所すら解らないのです。そういうのもあったらしい、というだけで……。
応神天皇の場合は、学術的な説や見解として出たというよりは、どこかからの口承が先だったのでしょうから、これもそういった種類のものだったのだろうか、と思っていたのですが……。
ところで、二つばかり質問があるのですけれども、

1;諏訪前宮のミシャグジの神楽歌「御頭御社宮司神」に、
   『御社宮司ワケタカイ神ノカンラ神』
――とあるのですが、この『カンラ神』とは何でしょうか? 

2;長野県内のそこここに、「伊雑社」や「伊雑皇社」と書いて「おおはざま社」と読む神社が散見されますが、これが何なのかサッパリ解りません。最初は伊勢の伊雑宮と何か関係あるのだろうかと思ったのですが、全く由緒も解らず、私が探した限りでは特に研究された形跡も無くで、手のつけようがありません。どなたか、これについて何か御存知ないでしょうか?

setoh様>白山へ登頂しましたが、ガスが濃く、翠ケ池の姿を見ることはかないませんでした。
私も二度登りましたが、二度とも駄目でした。

setoh様>ご遠慮なく。
恐れ入ります。お手を煩わせて、申し訳ございませんでした。


[3253] ホアカリとミナカタ  大三元 [Url] 2002/08/14(Wed) 15:09 [Reply]
次のような仮定と演算をすると一致しそうですが、果たして・・・?
ミカタとヒカタは同値、ミカタとミナカタは同値
ヒカタ=ミカタの母は活玉依姫
ホホデミ#2(普通神武天皇)の母は玉依姫
仮定:玉依姫=活玉依姫 とすると
ホホデミ#2とミカタは同値(か、兄弟)
だめかな?

[3252] Re[3251]: 天高くにある池など  大三元 [Url] 2002/08/14(Wed) 14:56 [Reply]
setoh さん
> 言語音痴としては、鳥上には鳥神と言う解釈がほしいのですが・・・

一応奈良朝の日本語には八母音あって、ミには甲類と乙類があって、上のミは甲類、神のミは乙類、とされてきていることを、たいすると別語と考えるのだと思います。

但し、やはり、神は上にあるもの、というより大きい概念で捉えて、甲類乙類もそういう性格なのだ(もう一つは日のヒは甲類、火のヒは乙類、と違うことになってるが、共に明るい、暖かい、暑いなどの共通の上部概念がある)という考え方もあるようで、ご期待に沿える日も近いのかも???

もう一つの可能性は、日本語にとっての外国語からの借用だった場合、例えば、kamuy というのが、日本語の音韻体系では甲類にも乙類にも聞き取れるような中間的な響きだったのかも知れない。(この例は、アイヌ語 kamuy に「上」の概念がなさそうなので、あまり好適ではないけど)

> 五十猛神が天上から樹種を持って降臨、至る所に種を蒔く、これは鳥の機能そのものと。

なるほど、、、なんとかならんかな、(^_^)

> > 自分の書き込みは自分で削除出来るのでしょうか? 
> 自分での削除訂正はできません。神奈備はたいていは見ておりますので、メールでも書き込みでもお知らせいただければ、迅速に対応をモットーとしております。ご遠慮なく。
>
>

[3251] 天高くにある池など  Setoh 2002/08/14(Wed) 14:33 [Reply]
[3225] yanaseさん> 「東京砂漠」といふ言葉がありまして、砂漠にしてしまっては神々は二度と寄り付かない
神奈備の森の姿が維持できないとなれば、白山頂上なんかも木一本生えていません。このような山で神が坐すのが湖、山頂の下に翠ケ池と言う龍の住む池があり、神の出現の話が残っています。
漠然とした山や煙を上げている山があったとしても、神はその山の具体的な場所に鎮座すると考えられるようになったのでしょう。まさに「天高くにある池」などはうってつけの場所と言えます。
白山へ登頂しましたが、ガスが濃く、翠ケ池の姿を見ることはかないませんでした。

[3242] 日雲さん> 諏訪前宮と本宮の間あたりにある北斗神社の境内には物部姓の奉献燈篭もありました。
これは参詣された方で、よく視られている人だから言えることですね。感嘆します。

[3242] 日雲さん> 諏訪大社の祭神をホアカリとするという見解もあったようで
延喜式では南方刀美神社ですから、南方刀美神=ホアカリ神との説でしょうか。『式内舎調査報告』のこの神社の所には、でていないようです。面白いですね。

[3247] かたばみさん> 鹿島、香取の神仏習合の「相手」はだれかなあ。
清原貞雄著『神道史』から
鹿島  南北朝時代 十一面、室町時代 十一面、又不空、又釈迦
香取 鎌倉中期 一宮は釈迦、二宮は薬師、三宮は地蔵、四宮は十一面
文献上の知りうる本地佛の早いのは伊勢神宮内宮で平安中期の廬舎那佛など

[3249] 大三元さん> 鳥上(chir-kasi)山が船通(chip-kus)山
言語音痴としては、鳥上には鳥神と言う解釈がほしいのですが・・・
五十猛神が天上から樹種を持って降臨、至る所に種を蒔く、これは鳥の機能そのものと。

> 自分の書き込みは自分で削除出来るのでしょうか? 
自分での削除訂正はできません。神奈備はたいていは見ておりますので、メールでも書き込みでもお知らせいただければ、迅速に対応をモットーとしております。ご遠慮なく。


[3249] Re[3231]: 千葉県のチカト  大三元 2002/08/13(Tue) 23:27 [Reply]
yanase さん
> 千葉県では「鳥見」はトリミと読みます。もし印旛沼にちなんで、トリミは鳥海のこととしたとき、鳥海をアイヌ語に訳すと、チカトの音に近くなるのではないかと思ひます。
> 大三元さんはどう判断されるでせうか?
>
> 古事記にいふ「近つ淡海」とは、鳥海の淡海の意味になるのですが。

鳥と船についてはもう少し深めたいものがあるのです、というかまとまってないのですが、例えば鳥上(chir-kasi)山が船通(chip-kus)山になっていること、高千穂(高chippo)と高取(他の漢字表記も含む)、高鳥谷、鳥越、船越、なんかの語群に何かまとまりが見えてこないものか、と模索しています。鳥見、鳥海、鳥鳴海(&かやなるみ)、もそういうなかで、どのような相対位置を占めるのか、chir-chip (チチブ?!)鳥船、との関連は、とかを考えてみたいと思ってます。

お話にある千葉の鳥見は今トリミと読むとのことですが、今の読みで良いのか。書紀では長髄彦の在所として「トミ」と読むべきでしょう。また、根拠不明ながら、岩波の風土記(常陸風土記)では 印波イナミ の 鳥見 トミ と読ませています。

要領を得ないレスで失礼

[3249] [3244] [3245] 削除願えますでしょうか  日雲 2002/08/13(Tue) 17:04 [Reply]
すみません、こんなことは個人的にメールでお送りすればよかったですね。
まだネット関係のことにはどうにも不慣れで、不躾で申し訳ございません。
管理人様、お帰りになられたばかりで、お疲れのところ、真に恐縮ですが、
[3244] [3245] 削除願えますでしょうか。?
(自分の書き込みは自分で削除出来るのでしょうか? さらに深みにハマるのがおそろしくて、「やってみる」という訳にも参りませず。本当にすみません、どうも)

[3247] Re[3230][3221][3209]: 第六天  かたばみ [Mail] [Url] 2002/08/13(Tue) 11:49 [Reply]
≫近年香取神宮より送付する所の仏体四体あり

密教が神仏習合をおこなうとき、適当に「対応する相手」を選ぶとは思われません。
密教からの情報は有力なヒントになると思うのです。
鹿島、香取の神仏習合の「相手」はだれかなあ。

≫荒川区の胡禄神社は下総国葛飾郡と思はれますが、市川、船橋、松戸 に17社(境内社9)あります。
≫千葉県(下総、上総)には面足神社も多くて、20社あります。

ありゃりゃ、胡禄社も第六天社もそんなにたくさんありますか。
千葉に多数となるとこれはますます自信持ってしまうなあ(^^;


≫うーむ、そこまで古いものと見ますか

神奈備さんのHP趣旨からはずれるかもしれませんが・・

全国古墳編年集成によれば、関東で最初に登場する古墳は房総の木更津市〜市原市です。
編年の誤差が問題ですが、奈良の箸墓古墳と同時代です。
崇神の豊城入彦伝承に付合しそう(自説では崇神248-273)。

AD400頃に木更津一帯で大型かつ大量の古墳が登場し、群馬でも同年代にそれを凌ぐ古墳が大量に登場します。
武蔵にも小さいですが数は大量の古墳が登場します。
これは日本武尊伝承だろうな(自説では景行311-333)。
(興味深いのは初期の古墳に前方後方墳が多いこと)

それぞれ、その後の50年くらいに古墳が登場とみることができます。
古墳だけ築造して「祭祀」が行われなかったとは考えられないです。
遅くともこの頃に創祀された神社が多数あり、その全てが消えたとも考えにくいです。

日本武尊自身の持っていた祭祀がいかなるものだったかはおくとして、その祭祀と先住者の祭祀が結合したものが面足神(の原型)の縁起であろうと考えています。

≫不思議なことに千葉県には、ちかつ神社は1社もないのですね

山岳に近い部分では建御名方系の影響が強まるはずで、千葉にはその影響がなかったと考えれば自然な状況と思います。

なお、鹿島香取周辺の古墳は「若干」程度です。
弥生の黒潮航路が古墳時代になって沿岸航路に変化し(伊豆〜三浦半島〜木更津)、鹿島香取は前線基地=武の立場に変化したためとみています。
(武甕槌や経津主の登場は記紀編纂時代以降だろうと考えています)


[3243] Re[3242]: 無題  習志野のてつ [Mail] 2002/08/12(Mon) 22:24 [Reply]
> 火山に生ずる「発酵=恵み」
どう解釈するかは人間次第、塞翁が馬、解釈次第と力説したつもりですが。

> 阿蘇神社に「火山ならではの恵みに対する祭祀」があるのであれば…
> 噴火の熱や力を利用した素敵なご利益を求める祭祀がありましょうか。
 阿蘇神社が、具体的にどんな神事を行なっているか存じません。しかし、
 祭祀とは、「素敵なご利益を求める」だけのものではないと思います。
 災いを避けるために、祭り上げることはとても大事です。

 以下は私見ですが、定説だと思っています。ご意見を下さい。
人を超越する力や存在が【神】ではないでしょうか?
その「力=現象」や「もの=存在」への怖れや憧れが、祀ることの始まりです。

以下は全くの私見です。一つの意見です。
いま語られる祭神というのはあくまで後世の付会です。後世といっても2000年
ほど前かも知れませんが。
私は、各地にある疫神社に祀られているのは、疱瘡の神ではないかと思います。これ
は全くの祟り神です。疫病をはやらせ、人を倒していく災いしか起こさない神です。
備後風土記に出てくる、蘇民将来話の「武塔の神」(=疫隈の国社)は、これです。
さて蘇民将来にとっては、弟の(巨旦)将来が死んでしまうのは、その土地を取得でき
るチャンスではないでしょうか?少なくとも自分のDNAだけが、受け継がれていく。
これは遺伝子にとっては最高の条件が与えられたことになります。
火山の噴火は、恐るべき災いです。農業にとっては災いしかないと思います。落ち着け
ば、温泉の恵みは確かにあります。事実伊豆大島では、噴火後ただの湧き水が温泉にな
りました。一方海から見れば、海民にとっては夜でも良い山立てがきく、すばらしい目
標になります。伊豆大島の噴火は、房総半島館山からも夜は噴火が良く見えました。
「恵みと思うか祟りと思うかは、人の解釈次第である」を発酵と腐敗と表現しました。

[3242] 無題  日雲 2002/08/12(Mon) 00:41 [Reply]
焼尻紋次郎様>日雲さんは阿蘇とか大分県のひとへ?
まずは、はじめまして。いえ、私は九州とは縁もゆかりも御座いませんが、そのように取られますと、
日雲>よそ者の論理のように思われてなりません
とは何やら物騒な発言になってしまいますね。阿蘇の皆さんは、そんなこと申しません。とても親切で、「よそ者」とか閉鎖的なことなどは何も御座いませんでしたので、皆様、安心してお出かけ下さい。私は時間がなくて行けませんでしたが、「カドリー・ドミニオン」もきっと楽しくてイイところでしょう。

焼尻紋次郎様>アソメとはなんでしょうか? お教えください。二匹の犬(タガログ語でアソ)なんちめちゃ気にかかります
かいつまんでもうしますと、アソメとは岡山の吉備津彦神社の釜鳴り神事に仕える巫女さんで、二匹の犬とは……これは恐らく長くなるので、近日中にメールでお送りいたします。その時に「ネコ流し」についてお教え下さいませ。「一種の比重選鉱法」……?

習志野のてつ様>富士山爆発が話題になっていますが、もしおきたら、大変な被害が予想されます。荒御魂に静まってもらう為の祈祷が行なわれるでしょう。これは神への祈りと違いますか?
えー、まず、この点につきましては、
日雲>噴火を未然に鎮めるために火口に幣を投げ入れるような神事もありますし、そこで生活していた人々にとっても、火口の動向は非常な重大事であったろうことは容易に想像できます。
ということでお答えにはなっておりませんでしょうか。端的に申せば、間違いなく、それは神への祈りだと存じます。
で、私の飲み込みが悪いのか……こちらからもちょっとお伺いしたいのですが、
>発酵(ハッコウ)と腐敗(フハイ)
これで申しますなら、火山である阿蘇山の場合、腐敗=災いとは噴火のことを示されることになる訳ですよね? であれば、「発酵=恵み」とは火山に生ずるどういう現象のことをいうのでしょうか?
阿蘇神社に「火山ならではの恵みに対する祭祀」があるのであれば、なるほど阿蘇の信仰の源泉は火山自体にあると言えるでしょう。私も全面的に同意します。しかし、阿蘇神社に、温泉祭祀でもありましょうか。或いは、噴火の熱や力を利用した素敵なご利益を求める祭祀がありましょうか。
私には「腐敗=災い=噴火」であると言うとしたら、それに対置される「発酵=恵み」は「噴火していない平和な山」しかないと思われます。ならば、それは「普通の山岳信仰」と変わらないのではないでしょうか? 
いや、「災い=噴火」こそが阿蘇の特徴であろうか、そのために阿蘇神社は建てられたのであろうか、改めてと考え直してみたところで、私には、
日雲>噴火を未然に鎮めるために火口に幣を投げ入れるような神事
――ここに阿蘇神社の本質や「信仰の源流」があるようには、およそ思われません。
祭祀というのは、言うまでもなく人間が行うものであり、信仰とは人間が抱くものです。
火山ではない普通の山の信仰がどこも一緒ではないように、そこに入植した人間達の価値観、神霊観によって、当然、その信仰のありようは変わります。これは火山においても同様のはずです。そこに地霊信仰を強く持った人々が入るか、天神信仰を強く持った人々が入るかで、全然違ってくる筈です。
「阿蘇信仰」とくくれる信仰があるとするならば、それはどのような特長を持った信仰でしょうか? そこには本当に「火山噴火を源流とする」とすべきものがあるでしょうか?
私には疑問です。

setoh様>物部守屋が直接信濃に逃亡して守矢氏になったかも知れません
かつて秩父の武甲山山頂にあった神社群を祀っていた宮司家の守屋様は、壬申の乱だったかの時に落ち延びた物部守屋の末裔だそうですね。いつ頃のものか存じませんが、系図も残っているとのことです。
という一方、諏訪の守屋山山頂に物部守屋を祀る祠があるそうですが、これはいつ頃からのものでしょうか? 解りませんが、意外と、時期的には一致してくるかも知れません。
尤も、秩父の守屋様には「諏訪の守矢神長官と同族」という観念はゼロですし、系図もいかほどの信憑性があるものなのかも存じませんが(見ておりませんし、見てもどうせ私には解りませんし)、しかし、秩父と諏訪は縄文時代から黒曜石の輸出入(?)などで交通があったらしく、ミシャグジがらみでも私はこの両者の接点については、かなり注目しています。
いずれにせよ、諏訪の守屋山頂に物部守屋祠があるのも、秩父の守屋様方に物部守屋の末裔の口伝があるのも間違いないことで、これはただの諏訪=アジールでは済まされない、何らかの縁故があったという可能性もあります(諏訪前宮と本宮の間あたりにある北斗神社の境内には物部姓の奉献燈篭もありました)。
勿論、物部守屋が守矢氏になったとは私も申しませんが、守矢氏と物部氏には縁故は全くなかったか、といわれると、棄てきらずに保留しておく必要はある、とは思います。根拠は知りませんが、諏訪大社の祭神をホアカリとするという見解もあったようですし(これについて出所をご存知の方はおいでませんでしょうか?)。

yanase様>これは上州赤城山の信仰と似てゐます。
私もそのように思います。特に、粕川とその源流の小沼(赤城山頂に大沼と小沼がある)について、注目しています。
yanase様>
日光の二荒山についてはよく知りませんが、ここの祭神でもある味すき高彦根命は蛇体で……
二荒山神社の祭神に味すき高彦根命が入ったのは、江戸期に入ってからともいいます。
現在、日光三社権現としてオオナムチ、味すき高彦根、田心姫が挙げられておりますが、それ以前の記録には認められないそうです。それ以前は、オオナムチはそのままで、味すき高彦根の代わりにタケミナカタが、田心姫の代わりにコシノヌナカワヒメが入っていたとのことです(「神祇宝典」1646年)。はっきりと諏訪系だったようですね。尤も、それ以前の変化は無かったのかと言われると、そこはちょっと解らないのですが。

yanase様>遠方から飛来した噴火の火ともとれますが、むしろこの火は、隕石か彗星のように思へます。
春日大社の春日四神本殿横の「飛来天神社」を思い出しました。

……また長くなってしまいました。以後、気をつけます。申し訳御座いません。

[3241] Re[3239]: 火の国地名説話の2  yanase 2002/08/11(Sun) 21:45 [Reply]
火の国の地名説話はもう一つありました。
突然上空に謎の燎える火が現はれて、白髪山に落下して燎えた話です。(白髪山は、今の五木村の白髪岳が同じ名ですが。)「燎える」といふ漢字は夜空に明るく見えたといふ意味と思ひます。
山に落ちたのですから、山の火なのですが、以前漠然と思ってゐた「火山」ではなかったといふわけなのです。
遠方から飛来した噴火の火ともとれますが、むしろこの火は、隕石か彗星のように思へます。

「燎火(かがりび)を挙げる状」を天皇に奏上して「火の下れる国なれば火の国と云ふべし」とあります。
 燎火ですから、行く手を指し示す火、将来を予感させる火、といったイメージで、二つ目の地名説話の「不知火」と共通したもの(この国の将来の祝福など)があると思ひます。
 (第六天の話からいろいろ飛んで、書込頻度も増えてしまひました)

[3240] 無題  焼尻紋次郎 [Mail] [Url] 2002/08/11(Sun) 19:42 [Reply]
 日雲さんは阿蘇とか大分県のひとへ? (「へ」は疑問詞)。
 因が結果を生み、その結果が再び因となって重層した果てが現在でしょう。
 だから、なにごとも始原に立ち返って、できるだけ古い場から歴史をみる必要がありま
しょう。
 もともと神社などの建築物や専門職の神官さんもなかったのですから、神社が奥へ奥へ
移動するとか……は、つい最近の偏執(文化)ならましや。

 阿蘇でお忘れになっちゃならないのがネコ流しといわれる「一種の比重選鉱法」でしょ
う。ちょっと詳しい地図を広げれば阿蘇の平原には無数のネコ流しの溝を確認できます。
 このネコ流しが阿蘇に入った初めての文化ではなかったでしょうか?
 「これは!」と思う岩をこなごなにハタき(粉々にする)、ネコ獄山頂近くに水といっ
しょに運びあげて、セーノ・ドン! で流路に流すというやりかたです。
 このネコとはオオタタ・ネコの「ネコ」でしょう。

 アソメとはなんでしょうか? お教えください。二匹の犬(タガログ語でアソ)なんち
めちゃ気にかかります。

 せめて、ハコを書きたかったのですが、タケイタツ、羽衣、yat-o などなど
 『ユー・アイ掲示板』 http://www.you-i.org/treebbs/0/index.html 
 でアマカネばい。ここ2〜3日のぶん、モンダイ語彙をあばかん書いちょります。

 日雲さん、おEメール・アドレス書くわきゃいかんへ? いかんときゃおEメールおくれ。

[3239] 無題  Setoh 2002/08/11(Sun) 18:27 [Reply]
[3233] yanaseさん> 火の国の由来を、火の山と漠然と信じて込んでゐて、肥前国風土記の冒頭部分の地名説話では不知火になってゐること

『肥前国風土記』火の国と不知火の説話

崇神天皇の御代
夜空に火あり、ひとりでに燃え、しだいに降下して八代郡白髪山に燃えついた。燃えさかる火の話を天皇にお聞かせしたので、天皇は「火の国」と言うべきである。

景行天皇の御代
海を航行してる時、はるか行くてに火の光が見えた。火の主が誰かを知りません。→不知火

二つの地名説話のようにも読めます。山と海の火を語っているのではないでしょうか。


[3234] 日雲さん> 守矢氏の家紋がともに「丸に十字」である

物部守屋が直接信濃に逃亡して守矢氏になったかも知れません。
それは青草にしても、諏訪は一種のアジールのような所だったのかも。
建御名方神は建御雷神に、守矢神は建御名方神に、物部守屋は蘇我氏にそれぞれ没落さされています。畑井弘氏『物部氏の伝承』で、没落の漢音発声を「mol rak」と指摘しており、モリヤに共通性が感じられます。

[3237] 大三元さん> ウガヤ
悪のりして、ヒコナギサタケ→彦、名草、猛→どうやら五十猛命を組み込んだ神名かと。息子の五瀬命の墓も名草郡。

[3238] Re[3234]: 無題  yanase 2002/08/11(Sun) 17:00 [Reply]
日雲さん> 阿蘇神社の信仰の源流は、あくまで「天高くにある池」に対して、つまり一般的な水神や天神への信仰に近いものにあるように思われる

これは上州赤城山の信仰と似てゐます。日光の二荒山についてはよく知りませんが、ここの祭神でもある味すき高彦根命は蛇体である(折口信夫説)とすると、似たものと想像できます。記紀歌謡にある「み谷二渡らす、味すき高彦根の神」といふ句からも蛇体であることがうかがへるといふのです。蔵王を蛇王とするのも当て字ではない歴史があります。
 さて、神の居場所については、竜神なら水のある場所には違ひありませんが、たとへば三輪山に踏み入ってここだと特定することはできません(山には入れません)。大神神社は三輪山の麓、神の領域と人の領域の境界にあり、ここに神が現はれ祭祀が行なはれる。祭祀があって初めて、神々も現実のものとなります。
 一般に里宮が麓の位置にあるのも同じ意味で、最初に里宮が建てられ、最も重視されて来ました。奥宮とは一種の御旅所として神迎へ神送りなどの神事をする場所です。参拝が便利なように里近くに引っ越して来たといふわけではないのです。里宮しか参拝しなかったのは不充分だといふこともありません。
 そんなわけで里宮から先ないし上はよく見えないわけですが、麓の祭祀や行事を通して見える場合があります。
 阿蘇では、田植神事と、神婚のような祭事が有名です。
> 鯰、狩猟祭祀 ……
 更に古い神であるといふことですね。田植は新部族の祭り、新婚は両者融合の祭りといふことでせうか。
 天白社=手箱については、柳田国男の説で、たしか「巫女考」にあったと思ひます。よっぽどの疑問がないかぎり、柳田説は尊敬の念をこめて信用したいのです。

>
伊豆諸島の火山の神が島を拡げてくださるといふ信仰についてですが、
三宅島の人々があれほどに帰りたがってゐる島の先祖代々にわたる信仰は、最初に尊重しなければなりません。それは、人の力で火山の神を征服するといった西洋的な考へではなく、厳しい環境での自然との共生を求めた日本人らしい知恵だと推察してゐます。今後、住民の総意で神さまの御神徳の順番が入れ替ることはあるかもしれません。万が一住めなくなった場合は、この掲示板によく書かれる古代の氏族の移動と似た形態となりますが、現代日本の土地は全て所有者が決まってゐますから、国、自治体、国民が援助しなければなりません。

[3237] 武位起と建磐龍  大三元 [Url] 2002/08/11(Sun) 13:46 [Reply]
setoh さんが追いかけて居られる武位起に就いて私も調べております。
似たような出自の持ち主に最近ここで話題になってる建磐龍があります。
ウガヤと綏靖を同体(山幸と神武を同体)とすることと相まって面白いことになりそうです。急ぎ、メモを上記URLにあげておきました。

これから外出。暑くって億劫。


[3236] 発酵と腐敗  習志野のてつ [Mail] 2002/08/11(Sun) 11:45 [Reply]
発酵(ハッコウ)と腐敗(フハイ)
発酵と腐敗は、全く同じ現象です。「微生物による有機化合物の分解作用」
ではなぜ違うか(違う名称で呼ばれるか)?
変化した結果が、人にとって「役立つか否か」が、唯一の判断基準です。
卑近な例を挙げますと、通常納豆は発酵食品ですが、人によっては、納豆
は「腐っている」わけです。
日本酒は、発酵作用によってできます。このことは特に「醸造」と呼びます。
失敗すると「腐造」といいます。(厳密には違う細菌の作用です)

災いの神、恵みの神とよびますが、同じ神の力の現れです。
人にとって役立てば和:和御魂(ニギミタマ)
* 夏の日照りに台風のもたらす雨は干天の慈雨(めぐみ)
人にとって役立たねば荒:荒御魂(アラミタマ)
* 台風の雨による洪水は被害(わざわい)
* 山の土砂石を押し流し、豊かな扇状地、平野を造ります。

人を超越する力や存在が【神】ではないでしょうか?
私の考えている【神】は多様性をもっています。
その力の発現の仕方で色々と名を付けられたのでしょう。
破壊・創造する力:荒御魂(アラミタマ)
維持・保守する力:和御魂(ニギミタマ)

yanaseさん:三宅島島民は現在2年に亘って避難を余儀なくされています。
「島の面積が増える」として喜んでいるとお思いですか?
日雲さん:富士山爆発が話題になっていますが、もしおきたら、大変な被害
が予想されます。荒御魂に静まってもらう為の祈祷が行なわれるでしょう。
これは神への祈りと違いますか?

言い添えますが、「神」とその「拠り代」の区別は、今一つ判っていません。
神奈備掲示板と青草掲示板の区別もですが。(このコメントは青草ですかね?)

[3235] 自己レス  日雲 2002/08/11(Sun) 09:16 [Reply]
すみません、読み返してみての自己レスです。
>阿蘇の信仰、特に阿蘇神社の信仰の源流は、あくまで「天高くにある池」に対して、つまり一般的な水神や天神への信仰に近いものにあるように思われる
と書きましたが、これは地元の人々には噴火など全く意識になかった、というようなことではありません。
噴火を未然に鎮めるために火口に幣を投げ入れるような神事もありますし、そこで生活していた人々にとっても、火口の動向は非常な重大事であったろうことは容易に想像できます。が、「しかし、それが現地の人々の信仰の源流であったかとなると疑問がある。それよりも、そこにある水場の方が重要だったのではないか」というのが、私の見解です(それを、どのくらい火口=噴火と区別していたかとなると、これはこれでまた難しいところですが)。
誤解を招くといけませんので、一応、付記させておいて頂きます。

それにしても長かったですね(汗)。申し訳御座いません……!

[3234] 無題  日雲 2002/08/11(Sun) 08:42 [Reply]
浅学の疑問も含めた意見なのですが……

yanase様>もともと奥宮と呼ばれる場所は、神の来臨のときの中継点だったものが、山岳信仰の普及によって、神々は奥へ奥へとお隠れになって行ったともいはれますね。

山上〜山麓の関係を結んでいるもののうち、「奥へ奥へとお隠れになって行った」ケースが全体の何割くらい占めているものか、残念ながら私は全く把握していないのですが、少なくとも阿蘇では「奥宮」とは称しておらず、あくまで「上宮」「天宮」であって、神霊池自体を神体と見ており(「お池参り」といった言葉もあります)、こちらへの信仰が阿蘇神社(下宮・近津宮)より先行していたことは、まず間違いないと思われます。ですから、

玄松子様>当初から山上に神が居ると思われていたのではないでしょうか。
習志野のてつ様>それを人の都合で、身近に引き寄せたのでしょう。

に全く同意するのですが、しかし、

玄松子様>阿蘇の信仰は、火山噴火がその源流でしょうから
習志野のてつ様>賛成:火を噴く山が、ご神体でしょう。 
setoh様>阿蘇山の噴火の神格化と見るべきではないでしょうか。

というのは、果たしてどうなのでしょうか……? 

yanase様>出羽の鳥海山の噴火のときに、裾野から無数の蛇が現はれ出て、火山の神の猛威を恐れて、正?位だかを叙せられたといふ話を思ひ出しました。火山の神はあります。

の例にしても、これは火山を外から見ているのであって、当の火山のカルデラに住んでいる人達にとって、果たして噴火が信仰の源流になるものでしょうか。
「阿蘇は火山である」
「昔の人は噴火(及び地震など派生現象)に神意を見ただろう」
――ここまでは納得出来るのですが、
「だから、阿蘇の信仰の源流は噴火だろう」
――となるのであれば、これは地理・空間的にも、時間・歴史にも、よそ者の論理のように思われてなりません。私には、阿蘇の信仰、特に阿蘇神社の信仰の源流は、あくまで「天高くにある池」に対して、つまり一般的な水神や天神への信仰に近いものにあるように思われるのですが……。なお、

yanase様>阿蘇の神、健磐龍命ご自身がダイダラ坊のようなお姿ですから

ということについては、阿蘇からちょっとはなれて大分との県境辺りに、そういう姿の伝説が確かにあります。タケイタツという名で、
「高崎山に腰掛けて別府湾で顔を洗って〜」
という大きさで語られており、この大きさなら確かに阿蘇外輪山も蹴破れましょう(笑)。が、

yanase様>かなり古い土着神の印象です。

については、かなり疑問です。
阿蘇の蹴裂伝承に出てくる「湖に住んでいた鯰」、その鯰を祭る北宮の鯰社、その鯰と神武天皇(建磐龍の代わりに語られることがある)との盟約によって始まったとされる狩猟祭祀、同じく狩猟祭祀を伝える高千穂神社と両方の伝説に出てくる「鬼八」、阿蘇から益城にかけて散見せられる「星」の要素(阿蘇霜宮の北斗や、益城のオホシ信仰)、ならびに「十二」の数の要素(阿蘇十二神や、益城のオホシにまつわる数字)など、私には先住者がいて、その後に健磐龍が入ったというような「印象」があります(現在の阿蘇神社の十二座は近代にかけて徐々に整っていったらしい=「十二」のモチーフが先行していた可能性)。
阿蘇の蹴裂伝説が健磐龍を主人公としているのは、甲斐の同伝承が後代に手力雄を主人公とするように代わって行ったと同様に、後に入れ替わったものである可能性は少なくないと思われます。以前にも記しましたが、古くから阿蘇と交流があったであろう湯布院にもウナギヒメを主人公とする蹴裂伝説があり、これは元々、この界隈に先住していた人々の持っていた伝説である疑いは極めて高いのではないかと思っています。
(私は建磐龍を神武の孫=人間であるという伝をそのまま無批判に取っており、上記はその上での解釈です)
また、「蹴裂開拓伝承」「十二天」「星信仰性」といった要素を並べると、これは佐久神社や天津司社のある甲府盆地の開拓伝説と非常に類似してくることとなり、このことを念頭に置き、かつ同時に、近津宮=里宮というのが一般的にさほど流通しているしている言葉だとは言い難い状況を鑑みると、近津宮=関東チカツの可能性も、必ずしも即否していいものではないように思われます(神八井耳の阿蘇〜信濃ラインもありますし)。
或いは、「蹴裂開拓伝承」「羽衣伝説(田鶴原神社に北宮と関連して語られている)」「鬼(阿蘇の近くの酒呑童子山など)」といった要素と並べると、丹後地方との類似が、
一方、「アソメ」「狩猟祭祀に関わる二匹の犬」「星信仰性」といった要素を並べると、吉備(美作込み)との類似が見えてきたりもして、阿蘇の古代もそう簡単に建磐龍だけで語れるような状況ではないように思われます。藪の中、というのが、やはり私の実感でしょうか。なお、

yanase様>池で祀られたとあるのは、湖との縁や、名前に「龍」とあるので別の姿もあったためかもしれません。

建磐龍を竜体とする見方は、一時期確かにあったようです。ただ、湖の鯰を蛇体や竜体とする伝承も一方であります。

かたばみ様>島津国造(=志摩津国造、伊勢志摩)の祖は出雲臣ですから、もし島津氏と島津国造がどこかでつながるなら面白いのですが

それは物凄く面白いですね。全く考えたこともありませんでした。
島津氏の家紋と、諏訪前宮の守矢氏の家紋がともに「丸に十字」であるというのも、気にならないではありませんが、これはやはり幾らなんでも偶然でしょうか?

かたばみ様>麻多智は山の登り口まで夜刀神を追い払い

春日大社に、春日四神本殿の裏に祭られている佐軍神は、「いわゆる夜刀神のことだ」という伝承があったようですね。同時に、佐軍神は「神武天皇に協力したらしいから祀っている」というものもあったようですが(無関係の二つの伝承がどこかでごっちゃになったのかも知れませんが)。
それから、もう一つ、

yanase様>御神体の箱からきた呼び名(天白社)

天白の中には確かにテンバコという音になっているものもありますが、あれだけ正体不明の神の語源を「御神体の箱から来た」と限定されている根拠は何なのでしょう?

[3233] 火の国  yanase 2002/08/11(Sun) 00:16 [Reply]
 鎌倉以前の話だとの記憶ですが、出羽の鳥海山の噴火のときに、裾野から無数の蛇が現はれ出て、火山の神の猛威を恐れて、正?位だかを叙せられたといふ話を思ひ出しました。火山の神はあります。
 ただ、数年前まで火の国の由来を、火の山と漠然と信じて込んでゐて、肥前国風土記の冒頭部分の地名説話では不知火になってゐることに気づいて、いろいろ考へたことがあります。どうして火の山といふ認識ができたのか。手塚治虫あたりの漫画の影響かもしれませんが。不知火となると、信仰の対象は山よりも海でして、火の国といへば、肥前も含まれるのですから、当然かなとも思ひます。

[3232] 伊豆の火山  Setoh 2002/08/10(Sat) 21:27 [Reply]
>火山の姿それ自体を神格化した古代の神の存在の話は、なかなか見つかりません。

『日本書紀』天武天皇十三年冬十月の条
四国の大地震の描写の後に、人有りて曰く「伊豆嶋の西北、二面、自然に増益せること、三百余丈。更一の嶋と為れり。すなわち鼓の音の如くあるは、神の是の嶋を造る響なり」とい。
とあります。ここの神とは、火山それ自信の神格化なのか造山の神なのか、強いて区分はいらないのかですが、一つの存在の話かも。

『古代海人の世界』谷川健一著から、三嶋神の后神が各島に坐す、ので紹介しておきます。
大島 波布比め命神社
式根島 久爾都比め命神社
三宅島 御笏神社 佐伎多麻比め命、后神社 伊賀牟比賣神、二宮神社 伊波乃比め命
八丈島 優婆夷宝明神社 優婆夷神
下田市白浜 伊古奈比め命神社 伊古奈比メ神
神津島 阿波神


 余談ですが、同書におそらくは室町時代の作としている「三宅記」に以下の話があります。
天竺の王子が継母の為に讒言されて流浪し、日本に渡来した。孝安天皇元年。王子が富士山頂の神と出会い、安住の地を請い求めた所、神は、海中ならどれだけでも与えようと引き受けた。
と言う話が紹介されています。

『播磨国風土記』の揖保の里の条に、天日槍命に葦原志挙乎命が海中を与えて、天日槍命は海水を掻き回してそこに宿ったとある話に似ていますね。天竺と韓国の違いはありますが王子であったことも同じですね。

[3231] 千葉県のチカト  yanase 2002/08/10(Sat) 20:13 [Reply]
 3230の補足で、一つの提言です。
千葉県には、ちかつ社、ちかと社はありませんが、
古代に霞ヶ浦に続いてゐたといふ印旛沼周辺に、鳥見神社が9社前後あるとは、少し前の玄松子さんの話です。祭神は饒速日命が多いらしい。
千葉県では「鳥見」はトリミと読みます。もし印旛沼にちなんで、トリミは鳥海のこととしたとき、鳥海をアイヌ語に訳すと、チカトの音に近くなるのではないかと思ひます。
大三元さんはどう判断されるでせうか?

古事記にいふ「近つ淡海」とは、鳥海の淡海の意味になるのですが。

[3230] Re[3221][3209]: 第六天  yanase 2002/08/10(Sat) 14:05 [Reply]
かたばみさんの掲示板は、少しづつ見てゐます。

> 観福寺(千葉県香取郡)

 この寺については「近年香取神宮より送付する所の仏体四体あり」とあります。近年とは明治の神仏分離のことと思はれます。この仏像は、鎌倉時代の弘安の役で蒙古を撃退した報賽に鎮西探題の北条実政が奉納したものだそうです。(地名辞書)
 香取神宮と密接な関係にある寺のようです。

> 日本武尊もこれ(景行天皇の子)を継承しており、建御名方や蝦夷と縁戚関係が生じたならば、それが近津神社の具体的縁起であろうと推定しています。

 うーむ、そこまで古いものと見ますか。ちかつ社と第六天の分布は、setohさん[3224]にもありましたが日本武尊の足跡と一致しますね。

> 江戸初期の榊神社は隅田川の西岸の鳥越の里にあり、白鳥の丘として日本武尊伝承を残しています。
> 千葉にも胡禄神社がありますか。

 荒川区の胡禄神社は下総国葛飾郡と思はれますが、市川、船橋、松戸 に17社(境内社9)あります。
 千葉県(下総、上総)には面足神社も多くて、20社あります。
 九十九里町小関の面足神社に由緒がありました。
「本村鎮守「面足神社」は古老の口碑筆録に依れば、長暦二年(西紀一〇三八)二月の創始にして面足尊「神代第六代淤母陀琉神」を主神として、祭祀約四五〇年護持尊崇。
後長享元年(西紀一四八七)、権現思想に因り「第六天社」と称し徳川末期に至る。」(平成データ)
 第六天社の名となる450年前に、面足尊を祀ってゐたといふのです。本当だとすると、重要な記事になります。

 不思議なことに千葉県には、ちかつ神社は1社もないのですね。第六天などに包摂されてしまったのかどうか。

 かたばみさんの「古代であそぼ」の掲示板を少したどって拝見しましたが、近津神社については独創的な研究でもありますので、そのうち1つのhtmlにまとめてくださるといいと思ふのですが(勝手な注文のようですが)。

[3229] Re[3228][3225][3219]: あれこれ  yanase 2002/08/10(Sat) 14:04 [Reply]
火山については思ひつくままに各地の伝説を紹介し並べましたが……。
伊豆諸島については平地の狭い孤島での人口増から自然に湧き出た信仰と思ひます。
信濃の温泉は「立証しようとした」が正解です。

神道と贖罪については西田長男氏(國學院大学神道学科教授)の学説にも関連することです。贖罪といふ言葉が適当かどうかわかりませんが、こういった観念はどの民族にもあると考へます。明治の神仏分離の行き過ぎで、神道からは見えなくなったことが、西田教授には不満だったのかもしれません。西田氏の書を読むと、いかにもキリスト風に見える部分があるため、従来の神道学者に受け入れられなかったのかもしれませんが、神道を狭く考へる必要はないものと思ひます。
中近世のものを全部仏教の習合とみて排除する必要はありません。その選別はむづかしいですから、とりあへずは現在も神仏習合の名残は続いてゐるものと見るしかありません。
富士塚は、近世の江戸を中心にした富士講の普及とともに広がった面のほうが多いと思ひます。

火山の神はないとは言ってゐませんので、すぐに思ひついた伝説になかったので、
[3227]大三元さんのコメントなども参考に考へてみたいと思ひます。

[3228] Re[3225][3219]: あれこれ  習志野のてつ [Mail] 2002/08/10(Sat) 12:46 [Reply]
書かれているる意味が良く判らない。いくつかの疑問とコメント
@> 噴火の度に島の面積を拡大してくれるありがたい神
?現代の「土地神話」の影響か? 面積を拡大するのはありがたいのですか?
 噴火による溶岩流、火山弾、降る瀝や灰、火山性ガスなど負の影響は強いです。

A> 砂漠に…は神々は二度と寄り付かない…
 そういった苛烈な環境にまだ人が存在すれば、イスラムやキリスト系一神教の神
 :単数になるでしょうね。←「砂漠」と同レベルの駄洒落です。

B> 天武天皇などは信州に見つかった温泉(松本白糸温泉)を求めて、信濃遷都
 の計画まで立てたといふことを立証した人もゐます(岩波新書「天武天皇」)。
 「書かれている」と「立証」は、全く意味が違います。
 信濃遷都を企画した。までしか定説にはなっていない。理由は諸説ありますから、
 「温泉を求めて」も一説にはなるでしょう。

B> …中世には、阿蘇では、衆生の罪に変って神が自ら身を焼かれる煙が、阿蘇の煙
 だといふ信仰もありました。
 もちろん「無いとはいえない」ことは認めた上です。
 キリスト教と習合した中世の新興宗教ですか?
 阿蘇の神はイエスの生まれ変わりですか?
 「衆生の罪」とその「贖罪」と云う概念が無いのが「神道」の顕著な特徴でしょ。
 祝詞でも「天つ罪」と「国つ罪」しかないです。「罪、穢れ」は、祓うものです。
 祓いを行なえば、清浄(清らかな穢れ無き)状態に戻れるわけです。

C> 関東平野のあちこちにある富士の火山灰を盛った塚については、その供養の意味
 ともいへますし、それだけではないかも知れませんが。
 「供養の意味」?これは仏教との習合でしょうか?

キリスト教を話すとき、普通は「千石イエス」なんて話しません。

[3227] Re[3226][3225][3219]: 阿蘇の神 火の神あれこれ  大三元 [Url] 2002/08/10(Sat) 12:15 [Reply]
> > 火山の姿それ自体を神格化した古代の神の存在の話は、なかなか見つかりません。

カグツチ、湯津石村(→温泉?)、火山火口はイザナミの女陰?
カグツチとカグヤマ
あたりにありそうな気もしますが、判然としないと言われればそれもまたそうなのですが。



[3226] Re[3225][3219]: 阿蘇の神 火の神あれこれ  Setoh 2002/08/10(Sat) 11:23 [Reply]
> 火山の姿それ自体を神格化した古代の神の存在の話は、なかなか見つかりません。

『肥後国風土記逸文』の阿蘇の郡
景行天皇がこの郡においでになり、原野は広く人影が見あたらないのを嘆き「この国に人がいるのか」と言われた。すると二柱の神がいて、人間の姿で現れ、「私たち、阿蘇都彦、阿蘇都媛がこの国にいる」と言って、たちまち見えなくなった。
とあります。阿蘇都彦は健磐龍命と同神とされていますが、阿蘇山の噴火の神格化と見るべきではないでしょうか。『肥前国風土記』の「夜空に火あり、ひとりでに燃え、しだいに降下して八代郡白髪山に燃えついた」とありますが、噴火の記憶、溶岩流、火山弾の記憶に、地名説話を重ねたものと見ることも出来ます。

阿蘇の宮司家も出雲千家家などとともに古い歴史が残っているとか、その割には健磐龍命は地域限定の神のようで、火山噴火の神格化ですから、勧請されていくことは少なかったのかも。

[3225] Re[3219]: 阿蘇の神 火の神あれこれ  yanase 2002/08/10(Sat) 10:06 [Reply]
3219-20前後の書込に関連して、少し時間をかけてまとめた文がありまして、3221以後については、これから検討させていただきます。

 建磐龍命とは、湖だった阿蘇盆地の外輪山の西の一角を蹴破って、阿蘇谷の沃野を開いた神との伝説です。盆地内に限定すれば国造りの神と見ることができます。日雲さんの資料に池で祀られたとあるのは、湖との縁や、名前に「龍」とあるので別の姿もあったためかもしれません。阿蘇の美田での農耕開始以前の、火山への信仰についてはわかりません。ただ「火の国」の名のいはれは、八代湾の不知火からきたもの、あるいは風土記逸文では謎の燃える飛行物体からきた名と書かれます。
 伊豆諸島の神は事代主といふ名で、噴火の度に島の面積を拡大してくれるありがたい神としての信仰が主体のだったようです。これも一種の国作りの話です。

 信州の浅間嶽の麓に浅間社が祀られてゐるのか、以前調べたことがあるのですが、少し離れた小諸市に富士浅間神社が一つあるのみで、社名に「富士」とあって、富士からの勧請のように思はれます。浅間嶽は度々の噴火が伝へられ、神奈備の森としての姿を維持できなかったのではないでせうか。話は違ひますが「東京砂漠」といふ言葉がありまして、砂漠にしてしまっては神々は二度と寄り付かないので、環境問題は重要なのです。

 大分県の鶴見岳は、別府温泉の神ですが、温泉の古代の意味は、われわれの温泉旅行とは違ひまして、天武天皇などは信州に見つかった温泉(松本白糸温泉)を求めて、信濃遷都の計画まで立てたといふことを立証した人もゐます(岩波新書「天武天皇」)。鶴見岳の神は火男、火売といふ名だったと思ひますが、まあ中世信仰の文言としては、火山の神ではありますが。

 中世には、阿蘇では、衆生の罪に変って神が自ら身を焼かれる煙が、阿蘇の煙だといふ信仰もありました。「神道集」の富士の話では、富士山のカグヤ姫といふ神は、天上で犯した罪の為に地上に降りて償ひの苦行をしたといひ、最後は煙の中へ消えるのです。西田長男といふ人は、女神の犯す罪とは不義密通意外にはないのだとか、いろいろ研究されてゐます。関東平野のあちこちにある富士の火山灰を盛った塚については、その供養の意味ともいへますし、それだけではないかも知れませんが。
 火山の姿それ自体を神格化した古代の神の存在の話は、なかなか見つかりません。

[3224] 常陸と薩摩  Setoh 2002/08/10(Sat) 07:41 [Reply]
常陸(笠間)にダイダラ坊と弥五郎の民話が残っているとか。弥五郎はまた薩摩(大隅)に巨像が出来ているうに、奇妙につながっています。
この二つの遠国を誰がつないだのか、民人には違いないのでしょうが、薩摩の人が筑紫で出雲から来た人と出会い、その出雲人が摂津で尾張の人と出会い、・・、とあっと言う間に常陸と情報交換ができたのでしょう。(石野博信編『女王卑弥呼の祭政空間』:土器の様式と材料を追いかければそのように言える例があるそうです。)
神様で言うと、日本武尊が両方に遠征しています。
また常陸は普都大神や鹿島香取の物部のにおいの強い所、薩摩の島津は家紋が「丸に十の字、すなわち十種紋で神宝を表すとの青草仮定」であり、物部の一族がやってきていたのでしょう。弟橘姫が薩摩に同行したとは出ていませんが、穂積氏の娘で物部です。

アラハバキ、足の折れた遮光式土偶を連想します。縄文の神像かも。ミシャグチ神も似た神格?。郷土の自然神を像にして持ち運んだのかも。コンビニならぬ携帯参拝かも。

[3223] Re[3217][3215]: 九州のちかつ神  かたばみ [Mail] [Url] 2002/08/10(Sat) 01:39 [Reply]
Setohさん、ごぶさたです。いろいろ情報を頂戴しております。

いろいろな方向からの複合空想になるので、ちょっと長くなります。

常陸国風土記に以下の話が書かれています。
箭括ヤハズの民の「麻多智」が葦原を開墾して新しい田を作っていると、「夜刀神」が現れて妨害した。
麻多智は山の登り口まで夜刀神を追い払い、そこから上を神の居所として永遠に祀り敬うことを約し、代わりに祟らず恨まないことを願った。

自然界に対して祀り敬うことを忘れないから人間界を認めてくれ、そういう約束をしたものと思います。
これは継体天皇の時代の話とされますが、縄文から弥生(あるいは農耕的文化)への過渡期の人々の思いも同じだったと考えています。


建御名方が諏訪に農耕を持ち込んでも、その環境が狩猟の世界であるなら結局はミシャグチ神の掌中で生活することになると思います。
そしてAD50頃からの寒冷化によって建御名方の子孫は関東平野へ南下していった。ミシャグチ神とともに。
自然界と人間界が不可分の環境にあった自然神がミシャグチ神と考えています。(年代推定については省略)

そして房総から内陸部へ進出していた農耕系の人々と接触する。
すでに「麻多智」を経験してその概念をもつ人々との接触です。
それが近津神社の源流になっていると考えています。

加えて東北から南下する蝦夷もあったと思います。
福島県白川の都都古別神社あたりが日本武尊の北限かなあ。
なぜ味耜高彦根に助けられたと日本武尊が感じたのか・・持論はありますが省略。
ちなみに東京上野の五条天神の縁起も日本武尊を助けた少彦名(薬効)を祀ることによります。



自然界と人間界の境界が生まれ、その境界に祀られた自然神、それが道祖神や塞神の源だと考えています。
豊穣を祈って母性や男根を祀る、これは縄文でも現代でも大差ないと思います。
豊穣を自然界がもたらしてくれるという考えがあるとき、「境界」をもつ人間はその境界あるいは神の領域側にある巨岩や巨木などをシンボルとして祈ると思うのです。
場合によってはそれ自体が象徴化してゆくと思います。

焼かれて捨てられる道祖神もあるそうですが、これは自然界には人間にとってありがたくないものが存在することを意味するものと思います。
そういうものの侵入は防ぎたい、これが塞神の概念だと思います。

人間界が大きくなり複雑化すれば、人間界の中にも境界が必要。
この場合は見張りです、犬でも猿でも雉でもいいです(^^;
棒を立てるだけでも足りるかもしれません。人間のためだけですから。

道祖神の「道」という概念は人間のためのずっと後の概念で、現在の路傍にたつ道祖神は道しるべ的と豊穣祈願などが合体曖昧化したものだと単純に考えています。


[3222] Re[3208]: 関東の第六天について  かたばみ [Mail] [Url] 2002/08/10(Sat) 01:30 [Reply]
日雲さん、はじめまして。

≫チカツにつきましては、急に大きく飛んで鹿児島にも二社あり、

島津氏が諏訪神社を勧請していますから鹿児島での近津はこれと連動しそうですね。
島津氏の祖先は鎌倉までしか遡れないようですが、島津国造との関連に注目しています。
島津国造(=志摩津国造、伊勢志摩)の祖は出雲臣ですから、もし島津氏と島津国造がどこかでつながるなら面白いのですが、つながる証拠は今のところ発見できず。

≫また、阿蘇一の宮の阿蘇神社も、中世には近津宮

興味深いです。
国譲り以前の出雲は豊前豊後に中枢があり、国譲りとは大国主が豊前豊後を神武に譲って島根に引退したことを示す伝承とみています。
だとすれば、神武が出雲娘を嫁さんにして、その子の神八井耳と阿蘇との関連が濃厚というのが自然な流れになると思っています。


[3221] Re[3209]: 第六天  かたばみ [Mail] [Url] 2002/08/10(Sat) 01:27 [Reply]
yanaseさん、はじめまして。

≫観福寺(真言宗)が、第六天信仰の本山であり

もし自在天として祀るなら、大黒天を祀る寺があるのと同じだと思いますが、興味深いです。
お坊さんがクリスマスケーキ食べるし(^^; 信仰と文化は容易にまじって、いったんまじるとどっちだかわからなくなりそうです。

≫日本武尊が勅命により東国鎮護のために創祀した、とあります。
≫ 気になりますね

鎮護のため、ということは少なくとも敵ではありません。
弥生初期の初期開拓者(海の民)が物部氏登場の源流と考えています。
で、弥生の房総では鹿島香取がその拠点だったと推定。
(その初期開拓者と平野部の縄文の接触が第六天社の源流とみる、BC500頃)

日本武尊が三浦半島から北上せずにいったん房総へ渡っているのは、鹿島香取の後背支援をうけて進むためと思います(この頃では中臣も渡来、鹿島香取はヤマト化していると思う)。
江戸初期の榊神社は隅田川の西岸の鳥越の里にあり、白鳥の丘として日本武尊伝承を残しています。
隅田川を渡った時点で日本武尊が地主神を祀ったのが榊神社の縁起であろうと考えています。


日本武尊が敵とみているのは信州発の建御名方の子孫とその味方になっている蝦夷でしょう。
(むろんそこにはミシャグチ神もまじる(^^;)

景行天皇には数え切れないほど多数の子がいます。
各地の娘に子を産ませてその血縁関係で強力な体制を作ったとみています。
日本武尊もこれを継承しており、建御名方や蝦夷と縁戚関係が生じたならば、それが近津神社の具体的縁起であろうと推定しています。
(実際には配下の物部氏や中臣氏との縁戚の方がメインでしょうけど)

氷川社は出雲が崩壊したときの関東への脱出者がからんでいるとみていますがまだイメージのみです。
アラハバキは国譲り以後の出雲が縄文の自然神をとりこんだものとみていますので、氷川にその痕跡が残るかもしれません、空想の空想ですけれど。


千葉にも胡禄神社がありますか。
玄松子さんが書かれている荒川区の胡禄神社から北へ荒川を渡った足立区にも胡禄神社があるらしい。
こちらは散策していないので内容不明ですが、同名社が複数あるとなるとその関連のチェックが必要ですね。


[3220] Re[3219][3218]: 阿蘇の神  習志野のてつ [Mail] 2002/08/09(Fri) 22:21 [Reply]
> …阿蘇の信仰は、火山噴火がその源流でしょうから、当初から山上に神が居る
> と思われていたのではないでしょうか。
 賛成:火を噴く山が、ご神体でしょう。 それを人の都合で、身近に引き寄せ
 たのでしょう。
 国を治めるのに神の力が大いに必要な時代は、国司が神にお参りしていました。
 その参拝順が一ノ宮、二ノ宮…となっていました。やがて政が祭をそれ程必要
 としなくなると、人の都合にあわせ、神を呼び集めました。それが、総社と呼
 ばれた神社です。まあ手間を省いて便利にはなります。【近津神社】は、人に
 とって近い社、インスタント・コンビニ参拝を可能にしたのでしょう。江戸時
 代に江戸っ子は、擬似富士山を造って、参拝しました。今でも残っています。

[3226] Re[3225][3219]: 阿蘇の神 火の神あれこれ  Setoh 2002/08/10(Sat) 11:23 [Reply]
> 火山の姿それ自体を神格化した古代の神の存在の話は、なかなか見つかりません。

『肥後国風土記逸文』の阿蘇の郡
景行天皇がこの郡においでになり、原野は広く人影が見あたらないのを嘆き「この国に人がいるのか」と言われた。すると二柱の神がいて、人間の姿で現れ、「私たち、阿蘇都彦、阿蘇都媛がこの国にいる」と言って、たちまち見えなくなった。
とあります。阿蘇都彦は健磐龍命と同神とされていますが、阿蘇山の噴火の神格化と見るべきではないでしょうか。『肥前国風土記』の「夜空に火あり、ひとりでに燃え、しだいに降下して八代郡白髪山に燃えついた」とありますが、噴火の記憶、溶岩流、火山弾の記憶に、地名説話を重ねたものと見ることも出来ます。

阿蘇の宮司家も出雲千家家などとともに古い歴史が残っているとか、その割には健磐龍命は地域限定の神のようで、火山噴火の神格化ですから、勧請されていくことは少なかったのかも。

[3225] Re[3219]: 阿蘇の神 火の神あれこれ  yanase 2002/08/10(Sat) 10:06 [Reply]
3219-20前後の書込に関連して、少し時間をかけてまとめた文がありまして、3221以後については、これから検討させていただきます。

 建磐龍命とは、湖だった阿蘇盆地の外輪山の西の一角を蹴破って、阿蘇谷の沃野を開いた神との伝説です。盆地内に限定すれば国造りの神と見ることができます。日雲さんの資料に池で祀られたとあるのは、湖との縁や、名前に「龍」とあるので別の姿もあったためかもしれません。阿蘇の美田での農耕開始以前の、火山への信仰についてはわかりません。ただ「火の国」の名のいはれは、八代湾の不知火からきたもの、あるいは風土記逸文では謎の燃える飛行物体からきた名と書かれます。
 伊豆諸島の神は事代主といふ名で、噴火の度に島の面積を拡大してくれるありがたい神としての信仰が主体のだったようです。これも一種の国作りの話です。

 信州の浅間嶽の麓に浅間社が祀られてゐるのか、以前調べたことがあるのですが、少し離れた小諸市に富士浅間神社が一つあるのみで、社名に「富士」とあって、富士からの勧請のように思はれます。浅間嶽は度々の噴火が伝へられ、神奈備の森としての姿を維持できなかったのではないでせうか。話は違ひますが「東京砂漠」といふ言葉がありまして、砂漠にしてしまっては神々は二度と寄り付かないので、環境問題は重要なのです。

 大分県の鶴見岳は、別府温泉の神ですが、温泉の古代の意味は、われわれの温泉旅行とは違ひまして、天武天皇などは信州に見つかった温泉(松本白糸温泉)を求めて、信濃遷都の計画まで立てたといふことを立証した人もゐます(岩波新書「天武天皇」)。鶴見岳の神は火男、火売といふ名だったと思ひますが、まあ中世信仰の文言としては、火山の神ではありますが。

 中世には、阿蘇では、衆生の罪に変って神が自ら身を焼かれる煙が、阿蘇の煙だといふ信仰もありました。「神道集」の富士の話では、富士山のカグヤ姫といふ神は、天上で犯した罪の為に地上に降りて償ひの苦行をしたといひ、最後は煙の中へ消えるのです。西田長男といふ人は、女神の犯す罪とは不義密通意外にはないのだとか、いろいろ研究されてゐます。関東平野のあちこちにある富士の火山灰を盛った塚については、その供養の意味ともいへますし、それだけではないかも知れませんが。
 火山の姿それ自体を神格化した古代の神の存在の話は、なかなか見つかりません。

[3224] 常陸と薩摩  Setoh 2002/08/10(Sat) 07:41 [Reply]
常陸(笠間)にダイダラ坊と弥五郎の民話が残っているとか。弥五郎はまた薩摩(大隅)に巨像が出来ているうに、奇妙につながっています。
この二つの遠国を誰がつないだのか、民人には違いないのでしょうが、薩摩の人が筑紫で出雲から来た人と出会い、その出雲人が摂津で尾張の人と出会い、・・、とあっと言う間に常陸と情報交換ができたのでしょう。(石野博信編『女王卑弥呼の祭政空間』:土器の様式と材料を追いかければそのように言える例があるそうです。)
神様で言うと、日本武尊が両方に遠征しています。
また常陸は普都大神や鹿島香取の物部のにおいの強い所、薩摩の島津は家紋が「丸に十の字、すなわち十種紋で神宝を表すとの青草仮定」であり、物部の一族がやってきていたのでしょう。弟橘姫が薩摩に同行したとは出ていませんが、穂積氏の娘で物部です。

アラハバキ、足の折れた遮光式土偶を連想します。縄文の神像かも。ミシャグチ神も似た神格?。郷土の自然神を像にして持ち運んだのかも。コンビニならぬ携帯参拝かも。

[3223] Re[3217][3215]: 九州のちかつ神  かたばみ [Mail] [Url] 2002/08/10(Sat) 01:39 [Reply]
Setohさん、ごぶさたです。いろいろ情報を頂戴しております。

いろいろな方向からの複合空想になるので、ちょっと長くなります。

常陸国風土記に以下の話が書かれています。
箭括ヤハズの民の「麻多智」が葦原を開墾して新しい田を作っていると、「夜刀神」が現れて妨害した。
麻多智は山の登り口まで夜刀神を追い払い、そこから上を神の居所として永遠に祀り敬うことを約し、代わりに祟らず恨まないことを願った。

自然界に対して祀り敬うことを忘れないから人間界を認めてくれ、そういう約束をしたものと思います。
これは継体天皇の時代の話とされますが、縄文から弥生(あるいは農耕的文化)への過渡期の人々の思いも同じだったと考えています。


建御名方が諏訪に農耕を持ち込んでも、その環境が狩猟の世界であるなら結局はミシャグチ神の掌中で生活することになると思います。
そしてAD50頃からの寒冷化によって建御名方の子孫は関東平野へ南下していった。ミシャグチ神とともに。
自然界と人間界が不可分の環境にあった自然神がミシャグチ神と考えています。(年代推定については省略)

そして房総から内陸部へ進出していた農耕系の人々と接触する。
すでに「麻多智」を経験してその概念をもつ人々との接触です。
それが近津神社の源流になっていると考えています。

加えて東北から南下する蝦夷もあったと思います。
福島県白川の都都古別神社あたりが日本武尊の北限かなあ。
なぜ味耜高彦根に助けられたと日本武尊が感じたのか・・持論はありますが省略。
ちなみに東京上野の五条天神の縁起も日本武尊を助けた少彦名(薬効)を祀ることによります。



自然界と人間界の境界が生まれ、その境界に祀られた自然神、それが道祖神や塞神の源だと考えています。
豊穣を祈って母性や男根を祀る、これは縄文でも現代でも大差ないと思います。
豊穣を自然界がもたらしてくれるという考えがあるとき、「境界」をもつ人間はその境界あるいは神の領域側にある巨岩や巨木などをシンボルとして祈ると思うのです。
場合によってはそれ自体が象徴化してゆくと思います。

焼かれて捨てられる道祖神もあるそうですが、これは自然界には人間にとってありがたくないものが存在することを意味するものと思います。
そういうものの侵入は防ぎたい、これが塞神の概念だと思います。

人間界が大きくなり複雑化すれば、人間界の中にも境界が必要。
この場合は見張りです、犬でも猿でも雉でもいいです(^^;
棒を立てるだけでも足りるかもしれません。人間のためだけですから。

道祖神の「道」という概念は人間のためのずっと後の概念で、現在の路傍にたつ道祖神は道しるべ的と豊穣祈願などが合体曖昧化したものだと単純に考えています。


[3222] Re[3208]: 関東の第六天について  かたばみ [Mail] [Url] 2002/08/10(Sat) 01:30 [Reply]
日雲さん、はじめまして。

≫チカツにつきましては、急に大きく飛んで鹿児島にも二社あり、

島津氏が諏訪神社を勧請していますから鹿児島での近津はこれと連動しそうですね。
島津氏の祖先は鎌倉までしか遡れないようですが、島津国造との関連に注目しています。
島津国造(=志摩津国造、伊勢志摩)の祖は出雲臣ですから、もし島津氏と島津国造がどこかでつながるなら面白いのですが、つながる証拠は今のところ発見できず。

≫また、阿蘇一の宮の阿蘇神社も、中世には近津宮

興味深いです。
国譲り以前の出雲は豊前豊後に中枢があり、国譲りとは大国主が豊前豊後を神武に譲って島根に引退したことを示す伝承とみています。
だとすれば、神武が出雲娘を嫁さんにして、その子の神八井耳と阿蘇との関連が濃厚というのが自然な流れになると思っています。


[3221] Re[3209]: 第六天  かたばみ [Mail] [Url] 2002/08/10(Sat) 01:27 [Reply]
yanaseさん、はじめまして。

≫観福寺(真言宗)が、第六天信仰の本山であり

もし自在天として祀るなら、大黒天を祀る寺があるのと同じだと思いますが、興味深いです。
お坊さんがクリスマスケーキ食べるし(^^; 信仰と文化は容易にまじって、いったんまじるとどっちだかわからなくなりそうです。

≫日本武尊が勅命により東国鎮護のために創祀した、とあります。
≫ 気になりますね

鎮護のため、ということは少なくとも敵ではありません。
弥生初期の初期開拓者(海の民)が物部氏登場の源流と考えています。
で、弥生の房総では鹿島香取がその拠点だったと推定。
(その初期開拓者と平野部の縄文の接触が第六天社の源流とみる、BC500頃)

日本武尊が三浦半島から北上せずにいったん房総へ渡っているのは、鹿島香取の後背支援をうけて進むためと思います(この頃では中臣も渡来、鹿島香取はヤマト化していると思う)。
江戸初期の榊神社は隅田川の西岸の鳥越の里にあり、白鳥の丘として日本武尊伝承を残しています。
隅田川を渡った時点で日本武尊が地主神を祀ったのが榊神社の縁起であろうと考えています。


日本武尊が敵とみているのは信州発の建御名方の子孫とその味方になっている蝦夷でしょう。
(むろんそこにはミシャグチ神もまじる(^^;)

景行天皇には数え切れないほど多数の子がいます。
各地の娘に子を産ませてその血縁関係で強力な体制を作ったとみています。
日本武尊もこれを継承しており、建御名方や蝦夷と縁戚関係が生じたならば、それが近津神社の具体的縁起であろうと推定しています。
(実際には配下の物部氏や中臣氏との縁戚の方がメインでしょうけど)

氷川社は出雲が崩壊したときの関東への脱出者がからんでいるとみていますがまだイメージのみです。
アラハバキは国譲り以後の出雲が縄文の自然神をとりこんだものとみていますので、氷川にその痕跡が残るかもしれません、空想の空想ですけれど。


千葉にも胡禄神社がありますか。
玄松子さんが書かれている荒川区の胡禄神社から北へ荒川を渡った足立区にも胡禄神社があるらしい。
こちらは散策していないので内容不明ですが、同名社が複数あるとなるとその関連のチェックが必要ですね。


[3220] Re[3219][3218]: 阿蘇の神  習志野のてつ [Mail] 2002/08/09(Fri) 22:21 [Reply]
> …阿蘇の信仰は、火山噴火がその源流でしょうから、当初から山上に神が居る
> と思われていたのではないでしょうか。
 賛成:火を噴く山が、ご神体でしょう。 それを人の都合で、身近に引き寄せ
 たのでしょう。
 国を治めるのに神の力が大いに必要な時代は、国司が神にお参りしていました。
 その参拝順が一ノ宮、二ノ宮…となっていました。やがて政が祭をそれ程必要
 としなくなると、人の都合にあわせ、神を呼び集めました。それが、総社と呼
 ばれた神社です。まあ手間を省いて便利にはなります。【近津神社】は、人に
 とって近い社、インスタント・コンビニ参拝を可能にしたのでしょう。江戸時
 代に江戸っ子は、擬似富士山を造って、参拝しました。今でも残っています。

[3219] Re[3218]: 阿蘇の神  玄松子 2002/08/09(Fri) 12:41 [Reply]
>  もともと奥宮と呼ばれる場所は、神の来臨のときの中継点だったものが、山岳信仰の普及によって、神々は奥へ奥へとお隠れになって行ったともいはれますね。
>  阿蘇の神、健磐龍命ご自身がダイダラ坊のようなお姿ですから、神霊池の大きさはわかりませんが、麓の広い場所のほうがお似合ひと思ひますし、かなり古い土着神の印象です。

健磐龍命がダイダラ坊のような姿というのは、知りませんが、阿蘇の信仰は、火山噴火がその源流でしょうから、当初から山上に神が居ると思われていたのではないでしょうか。

九州のダイダラ坊は、太良嶽神社の方が可能性があるのではと思いますが、どうでしょう。
http://www.kamnavi.net/it/tukusi/taradake.htm

[3218] Re[3216]: 阿蘇の神  yanase 2002/08/09(Fri) 08:42 [Reply]
> 阿蘇神社
 阿蘇一の宮町史での使用例では、対応語には違ひないと思ひますが。
日雲さん> 「近い戸の意だろう」といった里宮的な見方
 もともと奥宮と呼ばれる場所は、神の来臨のときの中継点だったものが、山岳信仰の普及によって、神々は奥へ奥へとお隠れになって行ったともいはれますね。
 阿蘇の神、健磐龍命ご自身がダイダラ坊のようなお姿ですから、神霊池の大きさはわかりませんが、麓の広い場所のほうがお似合ひと思ひますし、かなり古い土着神の印象です。
 関東あたりの、ちかつ社の分布をみると、室町時代あたりに何らかの信仰勢力による勧請も想像できなくはありませんが、御神体の箱からきた呼び名(天白社)のような、遷座に関る何かの命名、あるいは眷属の通り名などが想像できると思ひます。

 また「近つ淡海」について考へ直して見たいと思ひます。

[3217] Re[3215]: 九州のちかつ神  Setoh 2002/08/08(Thu) 16:12 [Reply]
かたばみさん、お久しぶりです。「古代であそぼ」の掲示板に、2年前に近津神社のことがふれられていました。やはり縄文的、信州的、東国的な信仰の名残でしょうか。同じく、「古代であそぼ」に都都古別神社が紹介されており、近津三社の一だったとか。神名帳陸奥国100座の筆頭ですね。創建の由緒は
3206かたばみさん> 東京台東区の第六天榊神社の由緒書きには、御祭神第六天榊皇大神、景行天皇40年に日本武尊が勅命により東国鎮護のために創祀した、
とほとんど同じですね。御祭神が第六天榊皇大神と味耜高彦根命との(表現ののの)違いがありますが。
3206かたばみさん> 近津神社などはこれに建御名方の流れが加わったものと推定しています。
3215yanaseさん> ちかつ神が門神
信州の古い信仰として、シャグジ神があり、
3208日雲さんの> @諏訪ミシャグジおよび東国の男根石崇拝
でご指摘のシャグジ神が道祖神、塞神と見なされているようで(『石神問答』柳田国男などから)、近津神はシャグジ神に近そうに思います。都都古別神社にも古代祭祀場の磐境があるとのことで、石神ともできるのかも。また石都都古和氣神社の式内社です。

石神だから男根石とは限らないでしょうが、玄松子さんが、最近、遠野のコンセイサマをアップされ、興味深く拝見したのですが、面足神と妹あやかしこねの命の男神が顔の美貌を褒めた言葉、女神が羞恥心を見せたロマンスからではないのですが、妹あやかしこねの命に対応するのが女体神社と言う名の神社かも知れないとか、氷川神社からの連想でもあり、とりとめがなくなりました。埼玉県が多く、四国にもいくつか鎮座。

[3216] yanase様  日雲 2002/08/08(Thu) 13:57 [Reply]
阿蘇神社が近津宮と呼ばれたことについては、阿蘇一の宮町史の11巻に、

「健磐立命と阿蘇津比メは阿蘇山上に祀られる神であった。『続日本後紀』の承和七年九月二十一日の条に『健磐龍命神霊池』とあり、神霊池は健磐龍命の神宮とみなされている。その後、阿蘇山の麓、宮地に阿蘇社が設けられたが、神霊池は祈祷の対象として崇敬されて上宮と呼ばれ、麓の阿蘇社は下宮あるいは近津宮と呼ばれた」

とあるのが、私の知る全てです。他では見当たりません。
村崎真智子さんの大著、「阿蘇神社祭祀の研究」などにも、

「平安初期頃に、現在地の宮地に阿蘇神社が成立し、社殿が建てられたとされている。そして宮地の阿蘇神社を下宮、中岳火口(もしくは山上神社)を上宮(もしくは天宮)と称するようになる」

とだけあって、近津名については記述がありません。
そこで、これはお宮の方にお聞きしなければと現地でお伺いしたのですが、残念ながら、近津宮という名称があったこと自体を、すでに御存知なかったようです。

解らないのは、上宮・下宮が対の対応語であることは明白ですが、天宮と近津宮が対応語になっているのかどうかです。天宮・下宮も対応語としては成立しますから。
この近津宮は果たして対応語だったのか、独立語だったのか。
これで他に九州に一社もチカツ・チカトがないのなら、群馬の赤城山麓でよく解釈されているところの「近い戸の意だろう」といった里宮的な見方=対応語で済ませるところですが、阿蘇にも地主神・先住民があった以上、現在の阿蘇神社の社地で、それ以前に祭祀は一切行われていなかったとも言い切れず、これはもう何とも藪の中――といった趣です。



[3215] 九州のちかつ神  yanase 2002/08/08(Thu) 12:06 [Reply]
3208:日雲さん> 阿蘇神社も、中世には近津宮と称した
 もっと詳しいことを御存じですか?

 ちかつ神のキーワードは、鳥と巨人(ないし門神、眷属の類)と思はれます。この点から九州ですぐ思ひ出されるのは、百合若大臣といふ海賊の伝説です。緑丸といふ鷹が出てきます。この名はロクマルと読むのかどうか? ロク?

 柳田国男の「一つ目小僧その他」の中のダイダラ坊の話を読むと、九州の八幡神の本当の姿が巨人であったと示唆してゐる部分がありました。百合若大臣こそ八幡神の裏の姿と言はんばかりにもとれます。<その神が信仰圏を広げて行くためには、神の姿については何も語らないのがよい>といった内容のことも言ってゐます。

 八幡信仰については地元に有名な研究者がゐましたね。あの分厚い本を買った人も多いのではないでせうか。なにやら三すくみの政治抗争の話もあって、何と申しますか、神の神託の裏に政治抗争があったことを長々と書き続けることが、真の信仰の研究であるかどうかは大変疑問です。「神託の神」の意味を誤解してゐるのではないか。
 神託の神は、そんなにしょっちゅう神託を発してゐては価値が薄くなります。逆説的な言ひ方ですが、神託の神とは、めったに神託を出さない神のことと見るべきです。つまり最も神自身を語らない神であると。だから八幡神はあれだけの勢力圏をもちえたのだと柳田も言ってゐるわけです。

 ちかつ神が門神であり、「ちかつ」がアイヌ語で鳥に関連する語だとしたら、「鳥居」の語源も理解できるのです。

[3214]   発音がみちびく神名などの真意     焼尻紋次郎 [Mail] [Url] 2002/08/08(Thu) 11:46 [Reply]
 玄松っつぁん>いろいろな要素がテンコ盛り状態ですね。こういった複雑な様相は、民
間・民衆に近い神社のあり方の反映でしょう。 解きほぐすのは、なかなか困難かもしれ
ません。
★ やっぱ‥‥。
 ここに使われている「いろはにほ‥‥」の“発音”組み合わせから成る神社、神様の名
前そのものの中に、その本質、反映させている社会事情、以後展開の限界などなどが込め
られているんじゃぁござんせんけぇ? 日雲さんの『その時々に神観念も変わっていきま
すから』はまさに正解。
 ただし、この推論は発音をちょっとでも読みちがえると命取りという関係の中に漂う。

※ 沖縄のミルク神は MI-ROK(地上神)のウチナーぐちであり、ミロクは断じてサンス
  クリット語のマイトレーヤの訳語ではない、そしてこれはネパール語である。
  また、どこでどう流入したか、ギリヤークにはミルク(おばけ)となっている。
  ロクがモロに顕われている語形はネパール語 MULUK(くに)であり、ここの MU は
  あっしが好んで遣う *MO と同一で、これも「くに」。
   LUK はアイヌ語に入って *ROK(高み)となる。ネパール語 LOK-SEWA (助け
  る・引き上げる)参照。
  本庄市にはキロク漢方堂これあり。 KI も大地。群馬県に六合(くに)村これあり。
  コロクは XO(神庫のホ)ROK ならまし。形容詞後置形、意味はミロクと同じ。
 
※ チカツは交合の神。CHIK が開音(母音づけ)化されたもの。塩の道・チクニ街道。

※ かたばみさん、千鹿頭のこと、めっちゃアガアガ。尻ませんデシタ。
  茅野市から南へ杖付き峠を越えた高遠(TA は神)と同列語だとしか考えられない。
  KAT-AU(切ってもらうこと)……とりわけ、足を切ってもらうこと、即ち、柱。
  
※ ついでに、面足までぺらぺらしゃべると、まず日本列島内では、足は柱、朝鮮語の
  THAL(仮面)、THAR(大鹿)などを内包させつつ、おしまいには THAR(族)を
  謂っている。しかも異質の氏族だ。なぜかというと、OMO のなかにそれがある。
  OMO は OL(至高),MO は「くに」またはへび。
  しかし、オモダルの起源はペルシャ方面まで遡る。

 その他は『ユー・アイ掲示板 2 言語篇 』
 http://www.you-i.org/treebbs/0/index.html でアホクサばい。

[3213] Re[3206]  日雲 2002/08/08(Thu) 01:46 [Reply]
[3208] を書いております間に電話が入りまして、モタモタしているうちにかたばみ様が。
はじめましてで御座います。私など出る幕御座いませんでしたが、
>東日本の先住神の痕跡がここにあると考えています。
――嬉しいというか、心強い限りです。

[3212] Re[3208]  日雲 2002/08/08(Thu) 01:34 [Reply]
自己レスです。
>チカツにつきましては、急に大きく飛んで
ううっ、すいません、yanase様のご研究ページの末尾に思いっ切り書いてあられましたね。しかも、もっと沢山あったという。も、申し訳ございません(大汗)。

[3210] Re[3209]: 第六天  玄松子 2002/08/08(Thu) 00:57 [Reply]
>  千葉県には胡録神社といふのがいくつかあって、面足命なんです。

「東京南千住の胡録神社由緒から」
古くは第六天と称したが、明治2年太政官達により神仏分離がなされた際、胡録神社と改称された。
改称の由来は往時武士が矢を支える武具を胡GUIと申した事よりと、また当地汐入の特業であった胡粉作りの「胡」の字と第六天の「六」にあやかり胡録神社と称するようになったという二説がある。
第六天は神仏習合の神であり、祀る場所は大体に於て淋しい場所が多く、忌むべき方角の地に阿修羅を祀り鎮めて村落生活の安全を期するために祀ったところが多く、胡録神社も例外ではない。

いろいろな要素がテンコ盛り状態ですね。こういった複雑な様相は、民間・民衆に近い神社のあり方の反映でしょう。
解きほぐすのは、なかなか困難かもしれません。

[3209] 第六天  yanase 2002/08/08(Thu) 00:44 [Reply]
 「日本民俗大辞典」(吉川弘文館)によると、千葉県香取郡山田町の観福寺(真言宗)が、第六天信仰の本山であり、神社だけでなく寺にもこれを祀るところがあるとのことでした。この寺の創建は、地名辞書によると寛平(889〜)のころとのことです。
 新編武蔵風土記稿に次の一節があります。
都筑郡神奈川領 今宿村 第六天社 ……当村の鎮守にして神像は木の立像、長一尺許、剣をたづさへたる状にて彩色の像なり……
 これが他化自在天の姿と思はれます。

 言葉としてはダイダラ坊とは関係ないと考へざるを得ませんが、このような怪人への信仰を受け入れる要素は古くからあったものと思ひます。近世の流行神とは違ひますので、庶民レベルでは従来の信仰との習合によらなければ、これほどは広まらなかったと思ひます。
 しかし……

かたばみさん> 東京台東区の第六天榊神社の由緒書きには、御祭神第六天榊皇大神、景行天皇40年に日本武尊が勅命により東国鎮護のために創祀した、とあります。
 気になりますね。

かたばみさん> 千鹿頭神は    氷川神社も類似の流れのひとつとみています。
 氷川様の末社の門客社もアラハバキ様なんですよね。

 千葉県には胡録神社といふのがいくつかあって、面足命なんです。

[3208] 関東の第六天について  日雲 2002/08/08(Thu) 00:38 [Reply]
近津と第六天について出ておりましたので、ちょっとだけ。
玄松子様のご説明の通り、
>天界の六層目(第六天)の神が自在天
で、仏教は六道から解脱することを目的としますから、欲界の最高神である存在を仏教徒は「悟りの敵」と見なして、第六天「魔王」と称することがあり、恐らくはこの認識ゆえと思われるのですが、男根石(リンガ・陽石)を第六天と言うケースが、ままあります。
また、諏訪のミシャグジは男根石(または陰陽石)を神体とすることが多いため、ミシャグジが第六天に変名したケースもあります。
ですから、yanase様の
>福島県から静岡県までで、近津神社と全く共通でした。
と申されますのは、やはりチカツとともに諏訪の古層の信仰展開と関係しているのではないかと思われるのですが、如何でしょうか。
私が抱いていた展開としましては、

@諏訪ミシャグジおよび東国の男根石崇拝
Aこれが仏教の影響下で「第六天」と見られた
Bその後、主に神仏分離の際に、第六天を「天神六代の面足」などとした

――というのが基本ラインだったのではないか、と。
加えて、その時々に神観念も変わっていきますから、どの時点で分社が創建されたかで、微妙に社毎のニュアンスも変わりましょう。
例えば、上記のAの段階以降に創建された社は、「最初から第六天を祀っていた」ことになりますが、しかし、そこで機能神として期待される御利益等は、「仏教の第六天とは違う」ことなどもあるのではないかと思います。
祭祀性格については精査したことがないので解りませんが、「子宝」「子供守護」「耳の神」「性病の神」「農耕神(治水・開拓)」などが多くみられるようであれば、諏訪ミシャグジ系の性格を受け継いでいるものということになります。
すなわち、言い換えるなら、「諏訪のミシャグジ的な御利益を求めて第六天を祀った」というようなケースも十分あり得る、ということです。

最初から面足を祀った社があったか、ということについては、私的には疑問です。

あと、チカツにつきましては、急に大きく飛んで鹿児島にも二社あり、また、阿蘇一の宮の阿蘇神社も、中世には近津宮と称したとあって、これはたまたま名称が一致してしまった偶然かも知れませんが、なかなか一筋縄ではいかない部分もあるにはあります。
また、兵庫にも一社ありました。これは愛知の何処かから勧請した社だと現地で聞きましたが、教えて下さった方もうろおぼえで、自信なさげでしたので、確認は必要でしょう。

千鹿頭神は、諏訪前宮の守矢氏の系図では個人名になっていますが、これは果たして事実としてはどうだったのか。
ともあれ、古代の東国を読み解くには、チカツは避けて通れない存在であることは間違いないと思うのですが……。

[3207] Re[3203][3202]: 大六天とダイダラ坊  玄松子 2002/08/08(Thu) 00:12 [Reply]
自己レス。

> ということで、第六天神社は、神仏分離で成立した(仏教系?)神社なのではないでしょうか。

いくつかの社の由緒を眺めていたら、江戸時代に第六天宮と呼ばれていたものが、明治の神仏分離により、他の社名(すなわち現社名)に改称したものもありました。

ということで、第六天神社(大六天神社)は、「神仏分離で成立した」ではなく、「神仏習合により成立した」とみる方が普通かもしれませんね。
(注:この場合の成立は、創祀・創建という意味とは、ちょっと違いますが)

[3206] Re[3205][3204]: 大六天とダイダラ坊  かたばみ [Mail] [Url] 2002/08/07(Wed) 23:56 [Reply]
江戸末期の江戸府内には少なくとも18の第六天社があります(現存確認は7社)。
別当は7社が天台宗、2社が曹洞宗、1社が真言宗、残りは村社で別当の有無は不明。
(御祭神は天神七代の六代目、一般には面足神オモタルですが、青橿城根尊などいくつかの名があります)

平田篤胤は伊弉諾伊弉冉神より前の第六天を祀ることはありえないとして高御産巣日神のことであるとしているようです。
都内に残る2社はまさに御祭神が高御産巣日神になっています。
(墨田区高木神社、文京区北野神社内の摂社)
第六天に習合された自在天は、仏教の守護神となる以前は敵であり魔神とされたことから、そのイメージを嫌って平田篤胤に従って高御産巣日神になったのだろうとみていますが、直接お聞きしたことはありません。

なお、東京台東区の第六天榊神社の由緒書きには、御祭神第六天榊皇大神、景行天皇40年に日本武尊が勅命により東国鎮護のために創祀した、とあります。


仏教における外来の神々の最高位の神(シバ神)=自在天に習合されたと見えることに注目しています。
スサノオは牛頭に習合されています。
いろいろ解釈はあるかもしれませんが、牛頭は阿修羅族の王マヒシャとみています。
マヒシャは天界に攻め込み一時は天界を制圧するのですが、マヒシャが牛の姿になったとき天界の女神ドウルガーに首を切り落とされて敗れたとされています。
(シバ神の敵≒先住神と推定、仏教では仏に帰依したことになっている)

スサノオはいってしまえば悪役である阿修羅族の王との習合(^^;
自在天は仏の側の存在(如来とか菩薩など)ではないが、外来の最高位の神。
神々の系譜でも伊弉諾伊弉冉神より古くにおかれ、仏教系からも最高神に習合されるような存在とは・・

東日本の先住神の痕跡がここにあると考えています。
本来は自然神だったが縄文末期あたりからの新文化の到来とともに祖先神化し、後に神々としては記紀神話上の神々に、仏教からは自在天に習合されたのではないかと考えています。

なお、近津神社などはこれに建御名方の流れが加わったものと推定しています。
佐久市の長土呂に近津神社があります。大蛇を縁起として旧名は千鹿頭神社です。
千鹿頭神は建御名方の子、諏訪から関東へ出るには碓氷峠〜荒船山〜榛名山麓がそのルートと思います。
氷川神社も類似の流れのひとつとみています。

[3205] Re[3204]: 大六天とダイダラ坊  玄松子 2002/08/07(Wed) 22:56 [Reply]
> 玄松子さん> 第六天神社は、神仏分離で成立した(仏教系?)神社なのではないでしょうか。
> 足尾山神社は創建由緒に醍醐天皇、第六天神社の創建年代は平安時代以降が多いのでは。

『平成祭データ』からいくつか拾ってみました。

千葉県 面足神社 通称第六天様
長暦二年(西紀一〇三八)二月の創始・・・神仏分離令に因り面足神社と復称する。

宮城県 第六天神社
本社は永正三年の創祀と伝えられ、・・・明治五年六月村社に列せられ第六天神社と改称、

神奈川県 第六天神社
ご祭神は、神仏混淆時代の仏教で信奉する欲界六天の第六、即ち欲界天の最高所に宮殿を構える天魔、他化自在天に由来し、明治維新後政府の神仏分離の布告により、ご神徳に因み国生み神話、天神七代の神々の内、第六代の大神様であります。

すべてが神仏習合によるものかどうかわかりません。
もともと、面足神を祀って創祀されたものが、いつしか、仏教支配下に入り、第六天となったのか、そもそも第六天を祀っていた寺院が、神社へ変化したものか。

[3204] Re[3203][3202]: 大六天とダイダラ坊  Setoh 2002/08/07(Wed) 22:29 [Reply]
yanaseさん> 大六天神社の分布は、福島県から静岡県までで、近津神社と共通

アラハバキの神の分布はもっと広範囲ですが、主には関八州以北に残っていると言えるかも。
この神格もはっきりしない謎の神ですが、足神様として履き物などを奉納する週間があり、漢字にとらわれてはいけないのですが、面足神も似た神格かもしれませんね。
面足神の発祥の地はどこなんだろう。出雲の阿太加夜神社など?

yanaseさん> 面と足から連想する神は八束脛や長脛彦

八束脛や長脛彦から連想できる神はアラハバキの神
また、「面:おも」に大きいとの意味があれば、開聞岳を一跨ぎするダイダラポヅチにも通じますね。

玄松子さん> 第六天神社は、神仏分離で成立した(仏教系?)神社なのではないでしょうか。

足尾山神社は創建由緒に醍醐天皇、第六天神社の創建年代は平安時代以降が多いのでは。

[3203] Re[3202]: 大六天とダイダラ坊  玄松子 2002/08/07(Wed) 18:49 [Reply]
> このなかで祭神名「六男修理大夫千方」と「面足命」について考へました。
> たぶん大六天とはダイダラ坊から来てゐるのではないか。

仏教の宇宙観・世界観に「六道」というものがあり、その最上位である天界の六層目(第六天)の神が自在天です。シヴァ神が仏教に取り込まれ、魔王として第六天を支配し、第六天魔王と呼ばれる場合もあるらしい。
面足尊は、神代の六代目なので、垂迹されたのだという説があるそうです。
ということで、第六天神社は、神仏分離で成立した(仏教系?)神社なのではないでしょうか。

[3202] 大六天とダイダラ坊  yanase 2002/08/07(Wed) 17:42 [Reply]
関東近辺の神さまの話題です。
関東近辺に近津神社(ちかつじんじゃ)といふのが多く祀られ、既にこれについては思ふことを述べました。
http://homepage3.nifty.com/nireyamajinja/ture/tikata.htm
このなかで祭神名「六男修理大夫千方」と「面足命」について考へました。
面足命を祭る神社に大六天神社といふのが多くあり、「六」が共通します。この神社の分布は、福島県から静岡県までで、近津神社と全く共通でした。
大六天神社には面足命とともに妹あやかしこねの命もよく祀られます。この神の名について古事記の注釈などでは、男神が顔の美貌を褒めた言葉、女神が羞恥心を見せた言葉だとロマンス風の説明がありましたね。ところが……。面足命、単独で祀られることも多いのです。
面と足。ここから連想する神は、ロマンスではなく、飛騨の両面宿禰、八束脛や長脛彦です。
たぶん大六天とはダイダラ坊から来てゐるのではないか。
柳田国男集の索引には大六天の項目はないのですが、関連資料を探してみたいと思ひます。

[3201] 夏休みの課題  Setoh 2002/08/01(Thu) 17:51 [Reply]
yanaseさん> 日本の神々の中には、その土地からなかなか離れない神が多い
山、滝、磐座などに依りつく神は動きにくいということ。それでもどこから降臨し依ってくるわけです。確かに、古い神に多いのかも。それが地域名+坐+神社として呼ばれ、人格神化していくと地域名+坐+人格神名+神社となっていき、その後に人格神名+神社とか、地域名+神社とかに変わっていったのかもしれません。

地域名+坐+神社の例
紀伊 熊野坐神社、摂津 住吉坐神社、但馬 夜夫坐神社、大和 志貴御縣坐神社、忍坂山口坐神社、輕樹村坐神社、山城 梅宮坐神社

地域名+坐+人格神名+神社の例
摂津 新屋坐天照御魂神社、志摩 粟嶋坐伊射波神社、山城 羽束師坐高御産日神社、葛野坐月讀神社
、大和 矢田坐久志比古神社、徃馬坐伊古麻都比古神社、村屋坐弥富都比賣神社、池坐朝霧黄幡比賣神社、飛鳥川上坐宇須多伎比賣命神社

などです。坐型の名を持つ神社をして古い神社と想定すれば、やはり大和国が圧倒的に多いようで、寺院に対抗しての神社の整備に走ったのは大和国からといえそうですね。

yanaseさん> 日本の神はその祀り方と一体の存在です
この御指摘には考えさせられる所が多いように思います。素晴らし指摘ですが、感銘する所まで、その意識がついていきません。夏休みの課題になりますね。


日雲さん> 蹴裂くパターンの方が古いような印象を持っているのですが、如何なものでしょうか。

豪雨が続いて土砂が流れ出して、湖が干上がった。と言うような伝承は神が蹴っ飛ばしたとなるのかも。
鋤や鍬で黙々と、何となく大国主命なんかが似合いそうなイメージですね。
同時に八十嶋祭りにあるように、河口に土砂が蓄積されて島々がつながり平野が出来ていった物語もあるようですね。弥生時代から最近まで、この国は土地が痛切に求められていたということですね。

[3200] お初お目にかかります  日雲 2002/08/01(Thu) 04:39 [Reply]
えー、Setoh様がこちらのご主人でいらっしゃるのでしょうか。
右も左も判りませんで、申し訳御座いません。
yanase様は楡山神社の宮司様でいらっしゃいますよね……?
先日、平成祭データの件でメールさせて頂きました者で御座います。
この場はHNで失礼させて頂きます。
玄松子様も、その節はどうもお世話になりました。有り難う御座いました。

「消えた湖伝説」について話題が出ておられましたので、ほんのご参考までに――

同様の伝説は、福井の三国町と、大分の湯布院などにもあるようです。
前者は継体天皇が湖水と海岸の間を掘り切ったという形で、
後者は宇奈岐日女神社の宇奈岐日女が、配下の強力の者を遣わして湖水の淵を蹴破らせた
という形で、それぞれ伝わっている模様です。
また、丹後の桑田の類話として、松尾神が鯉に乗って大堰川を蹴り開いて現社地を定め、
この故事のために氏子は鯉を食べない、というものもあるとのこと。

Setoh様>蹴っ飛ばす神と鍬鋤を持って切り開く神がいるのも面白い所ですね
蹴裂くパターンの方が古いような印象を持っているのですが、如何なものでしょうか。
Setoh様>饒速日尊が一族を率いて、丹後か但馬の山に降りたって
これは存じませんでした。何かの拍子に出典を思い出されたりされましたら、是非こちらの掲示板でお知らせ頂けたらと存じます。宜しくお願い致します。

浅学の若輩者でお恥ずかしい限りなのですが、これから折々にこちらを覗かせて頂き、勉強させて頂けたらと願っております。謙遜でなく本当に浅学ですので(特に一般教養)……。

[3199] お暑うございます  yanase [Url] 2002/08/01(Thu) 00:30 [Reply]
 setoh氏のように自由に語れると良いのですが……。

 まづ「消えた湖伝説」としては「神奈備・延喜式神名帳」の但馬〜出石神社にも天日矛の話があります。涼しい話題ですので、時期を得てゐるかもしれません。

 さて、崇神天皇を始め古代の大和の祭祀の中心は大和大国魂など、大和の古い神々を祀ることにあったことは皆様ご承知の通りでして、これは大和政権の範囲が初めはそれほど広くなかったためとも思はれます。このことから日本の神々の中には、その土地からなかなか離れない神が多いこともわかります。旅人などは必ず土地土地の神を祀り、椎の葉に飯を盛ったりしました。枕詞も、一定の土地の神を讃へた詞章がもとになったといはれます。日本の神はその祀り方と一体の存在ですから、この種の神は、このように祀らねばならず、外部から来た者が後ろめたさから土地の神をヨイショするといふのでもないわけです。
 一方で、ある種の神は、海の彼方の常世の国から時を定めて来臨するといふ信仰もあります。王の権威が高まって神に近づけば近づくほど、王の存在は外部から来たような存在に意識されていくことになります。その土地に興った王権でも、神の来臨を祀る信仰があれば、そうなって行く可能性が大いにあります。
 古代史のどの部分が該当するかといふ話ではないのですが、ずいぶんと観念的な話であり、大和盆地を繰返し歩いてゐる人には違ふ実感もあるものとは思ひます。
 古代史がなかなか時間軸の通り語れないときは、大和以外の地方の古代史を学ばねばと最近思ふようになりました。

 伊勢神宮については、神明社、神明神社の分布からみても伊勢から西はかなり少ないようでして、近世の御蔭参りなどの熱狂も東日本が主体だったように思へます。畿内地方にとっての伊勢といふのは、東日本から見た伊勢とは違ふようで、どう違ふかはよくわかりませんが。
 あまり神域が立派過ぎて自由に語れないのも困りますが……。
 神社名、祭神名の分布表(トップn0)については、やはり都府県別でなく旧国別にやらないといけませんね(特に兵庫県や伊豆あたりのことを考へると)。


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