神奈備掲示板の案内とログ

神奈備掲示板

神奈備掲示板、あさもよし掲示板 過去ログ

掲示板のログ(平成十四年 九月)お名前の敬称は省略しています。

更新 H14.9.1

[3421] Re[3419]: 阿奈志神社  Setoh 2002/09/30(Mon) 08:45 [Reply]
玄松子さん、神紋と祭神のご指摘、ありがとうございます。

梅宮大社末社の椋本天神云々、祭神が下照比売とありましたが、後世の勧請としていたので、賀茂と橘とのつながりはあまり考えていなかったのですが、大社の立地も松尾大社と木島神社との間にもあたり、秦氏や賀茂氏との関連は大いにあることでしょうね。
橘諸兄の名が葛城王であったことは、葛城の地を本拠にしていた賀茂氏の血が流れていたかも、の素材の一つになりますね。

下照比売は大国主の御子、これから行くと多くの兵主神社の祭神が大国主神で、「敵」ではなく「適当」かも。

[3420] Re[3415][3417] [3418]  日雲 2002/09/30(Mon) 01:12 [Reply]
玄松子様> 「かく」には、「体内す」という意味があるとか。(大辞林)
> これって、清め・禊ぎ? 「カカセ」は「かかせる」?
ああ、これはとてもいい感じです。
「御ミソ木」というのは、「禊いだ木」のことだろうかと思っていたのですが、これでいいのでしょうか?
だとすると、
「単なる普通の木を『カカセ』て、その『内にある汚いもの、好ましくないものを外に出』して『禊いだ木』とし、以って年神の依り代とする」
という風に非常にすんなりと収まります。ドンピシャと言ってもいいのでは。
流石です。

setoh様>そう云えば、熊野本宮大社には日月星を遙拝する三光遙拝所がありました。 いつ頃からのものかは未調査ですが・・。
あ、本宮にもありましたか。 
二度ほど行きましたが、いずれも星について興味を抱く前のことだったので、まるで記憶にありません。
三光は新宮の阿須賀神社にもあったようですね。これはかつて三狐神だったようですが。

福島様>大熊座とりゅう座とが、夜空に『七』と書き、北極星を挟んで対象の位置に、カシオペア座が『夕』と書く日であった
どの部分をとると『七』の形になるのかイメージが湧きませんが、要するに夜空にドーンと、
「七夕っ!」
と書いてあると。そりゃ、楽しげでいいですねえ!? 一回見てみたいです。そういう目で見れば、そういう風にしか見えなくなったりもするんでしょうね、馴れてしまうと。

ところで最近、伊和神社が話題になっておりますが、私も去年行きましたけれども、目的地は伊和神社から500mほどところにある産霊神社という、磐裂尊を祭る小さーい神社でした。
で、もののついでにせっかくだからと、伊和神社も参拝したという次第(伊和神社の宮司様が産霊神社も兼務してらしたので、行って正解ではありましたが)。
マイナー街道まっしぐらであります。




[3419] 阿奈志神社  玄松子 2002/09/29(Sun) 22:27 [Reply]
阿奈志神社祭神は、天日矛とされる兵主神だったと思われるけど、その敵である伊和神と同神・大己貴命が勧請され主祭神になっているのは、面白いですよね。

神事次第は、京都・梅宮社の橘家流で行われるらしいですが、梅宮の神紋は、奈良・穴師と同じ橘紋。天日矛の後裔・田道間守が持ち帰ったのが橘ですが、梅宮社と穴師社は関連あるのだろうか。

[3418] Re[3417][3414]: 「カカセ」とは?  Setoh 2002/09/29(Sun) 18:50 [Reply]
日雲さん> 熊野信仰と絡んだ星信仰で十二社というのが
そう云えば、熊野本宮大社には日月星を遙拝する三光遙拝所がありました。 いつ頃からのものかは未調査ですが・・。


福島さん、こんにちは。

> 夜空に『七』と書き、北極星を挟んで対象の位置に、カシオペア座が『夕』と書く日
これは分かりやすいお話ですね。考えて見ますと星座は西洋の図模様が先入観で入っていますね。

神名の一部の「カカセ」が国占や神祀りなど古代の生活や、また星にどう関係する言葉なのか、と云うことですね。
星から鉱物
清め・禊ぎはカク
カカには蛇があったと記憶(吉野祐子さん)。

『丹生大明神神告門』と『紀伊国続風土記』の解説文
川上水分之峯爾上坐天國加加志給比 (カハカミミクマリノミネニノボリマシテクニカカシタマヒ)
川上は大和國吉野郡丹生川の川上なり 水分原本は水方と書すは字形の似たるに依りて誤ると見ゆれは今改む 水分は文武紀及萬葉集に見えたり 國加加志は國を曜すにて鏡に俵れる詞なり

これもわかりにくいのですが、國加加志は国見を行うとか、国見で国を輝かす(富ます?)との事とかの諸説があります。
もう一つ、紀の国の一の宮の日前国縣神宮(ヒノクマクニカカス)神宮の国縣については志賀剛氏は「国を脅かす」との解釈を取っています。♪〜山田の中の一本足の案山子〜♪と同意でしょうか。

[3417] Re[3414]: 「カカセ」とは?  福島雅彦 [Mail] [Url] 2002/09/29(Sun) 02:12 [Reply]
> Setoh様>皆瀬と云う神社名が香香背男に似ているのも気になりますね。
> から不意に思い出したのですが、前から解らなかったことをこの機会に一つ。
> 中世阿蘇の「田作り祭」で、年神の依り代である「御ミソ木」なるものを、近くの塩井川で清めるという行事があり、それを「シオイカカセ」と言ったらしいのですが、この
> 「カカセ」
> という清めの行為(の名称)は一般的に見られるものなのでしょうか?
> (塩井川でやるから「シオイカカセ」なのか、「シオイカカセ」をやるから塩井川なのか、どちらかもハッキリしないのですが。普通に考えれば、「塩井川でのカカセ」だと思うのですけれども……カカセとはどういう意味……?)

※再度、横から失礼します。
『天香香背男神』⇒天香具山の端の製鐵王、ではないでしょうか。
『背、瀬』は、古代倭語の“쇠”(soe)=朝鮮語では金属の総称、鉄の意、です。
・『巨勢川』⇒大鉄川。
・『瀬戸内海』⇒“쇠돈내”(soe-ton-ne)海=鉄出る海、ですし…。

[3416] Re[3391][3390]: 辰沙大王なら丹生津比賣のお父っぁんか。  福島雅彦 [Mail] [Url] 2002/09/29(Sun) 01:50 [Reply]

> これは続日本記等を記した側が、その民間レベルの「男女入り混じって風紀が乱れる」ような信仰を、「星を祀ってんだから北辰だろう」と認識してしまったという、名称上の混濁の問題から起こったことかも知れません。
> 贔屓の引き倒しの可能性も多分にありますが、私にはこの民間の北辰信仰は、陰陽石を神体としていた諏訪前宮の星信仰や、男女ペア像を祭るケースが散見される熊本の水神妙見などに近いものがあったような気がしています。これを、天皇家サイドの異なった価値観で、男女混交など穢れておって不敬である、と裁いたのが、かの禁令ではなかったろうか、と。

※突然に横から失礼します。何時も、興味津津で拝読しています。
『七夕』の語源解明をしたのですが、「男女入り混じって風紀が…」の処が気に成りました。

≪鈴木健次説から解けたのですが…≫
<概要=古代中国では「七夕祭りの日」が、春の農耕作業が終り、秋の取り入れ前の農閑期に行われていた。この日が到来するのを暦が無い頃の村人は、占星術師から知らされた。其れは、大熊座とりゅう座とが、夜空に『七』と書き、北極星を挟んで対象の位置に、カシオペア座が『夕』と書く日であった。この夜、村の若者は自由にデートする事が許されたに違いない。ただし、「たなばた」とは読まない。(福島要約)>

※以上の説を読んで、日頃脳裏に在った『七夕』が何故「たなばた」かの謎が氷解しました。
『夜空に、「七夕」の文字が書かれる頃(旧暦七月七日)の農閑期に、倭國大乱で生殖能力のある男児が死に絶えて激減していたのを回復させる「全国一斉祭り」をした、と。』
話しが少し長くなりますが、稲作農事の語源の一連とも絡んできます。例に拠って、朝鮮語に臍の緒を留める古代倭語で…。
※『花』と謂えば『桜』。何故『さくら』か。“삭-라!”(sak-ra!)=耕せ!。
 暦が無い頃、この花が咲いたら、農事開始!。葉より先に咲くからか?物事の最初の事を「ハナ」と。朝鮮固有数詞の「一」も「ハナ」。
※筑後近辺では、田植えが終ると、「サナボリ」の祭事がある。“사”(sa=南)登り、である。倭國大乱で働き手が少なく、水縄連山の南の投馬國から、田植えの応援をしてもらい、御礼の歓待が名残であろう、と。
 次の、稲刈り前の農閑期に、全国(邪馬臺國)一斉夜祭(歌垣)をしたのであろう、と。
“답-논-밭”(tap-non-bat)=田、棚田、畑(直訳)、である。
 即ち、倭國大乱以前は、平地(低平地の葦原の荒地が徐福の技術で穀倉地帯化=争奪戦が倭國大乱)、棚田(魏志倭人伝の奴國)、畑(水縄連山の南の投馬國)とは、別の國であり、祭りの時期も意義も異なり、バラバラにしていた。
 男児の人口回復が主眼だが、男女が大っぴらに交際出来るのは、平和でもある。

※「男女入り混じって風紀が…」で、禁令が出るとは、後世人口回復が為ったのに、風俗だけが全国に伝播して、公序良俗へ目が向いての事か、と。(長々と失礼しました。)


[3415] ひさしぶりに、かく  玄松子 2002/09/29(Sun) 00:28 [Reply]
「かく」には、「体内にある汚いもの、好ましくないものを外に出す」という意味があるとか。(大辞林)
これって、清め・禊ぎ? 「カカセ」は「かかせる」?

[3414] 「カカセ」とは?  日雲 2002/09/29(Sun) 00:07 [Reply]
Setoh様>皆瀬と云う神社名が香香背男に似ているのも気になりますね。
から不意に思い出したのですが、前から解らなかったことをこの機会に一つ。
中世阿蘇の「田作り祭」で、年神の依り代である「御ミソ木」なるものを、近くの塩井川で清めるという行事があり、それを「シオイカカセ」と言ったらしいのですが、この
「カカセ」
という清めの行為(の名称)は一般的に見られるものなのでしょうか?
(塩井川でやるから「シオイカカセ」なのか、「シオイカカセ」をやるから塩井川なのか、どちらかもハッキリしないのですが。普通に考えれば、「塩井川でのカカセ」だと思うのですけれども……カカセとはどういう意味……?)

[3413] Re[3411] 天香香背男神を祀る和歌山の神社について  日雲 2002/09/28(Sat) 23:50 [Reply]
あっ、嬉しい。
和歌山は全くの手付かずでしたので、今後の参考にさせて頂きます。

>どの神社が星神と関係していたのか不明。
いかんせん手付かずですので私も不明なのですが、可能性的には、十二社権現が高いか?と思います。
高知に、熊野信仰と絡んだ星信仰で十二社というのが、ちょびっとですがありましたので。
どこだったか(すいません失念)で、十二天白というのもあった筈です。
返す返す不確かですが、もののついでの参考まで。

[3412] 新装開店(深窓回転)のご案内  香具 2002/09/28(Sat) 23:43 [Reply]
ながらくご無沙汰致しました。お粗末ながら弊アルバムを下記アドレスにて再開致しました。今後とも宜しくお願い致します。
http://myalbum.ne.jp/fc872655/
まずは、播磨國一の宮『伊和神社』(兵庫県宍粟郡一宮町須行名)から。社務所のご神職の方々には、とても親切にご対応頂きました(深謝)。車で行かれる方には、道の駅の向かいなので、お勧めです。社殿補修の為の御志料、奮発しましょうネ!

[3411] 天香香背男神を祀る和歌山の神社について  Setoh 2002/09/28(Sat) 18:59 [Reply]
殆ど資料はありませんが、備忘録として・・

伊都郡高野町細川 八坂神社に合祀
『続紀伊国風土記』では、伊都郡古佐布荘細川村に弁財天社がありその末社三社の一に星神社の名が見える。同村の牛頭天王社が八坂神社となり、近隣の小社を合祀したものと思える。

日高郡龍神村竜神  皆瀬神社(かいぜじんじゃ)に合祀
同書に日高郡山地荘龍神村に、皆瀬明神社の名が見える。
明治末に上湯又と三つ又の星神社「天香香背男神」を合祀している。
上湯又村 小祠二社 大明神社、正八幡社がある。
三つ又村 箱根権現社 本社二社として、箱根権現社と二十八宿社とある。
皆瀬と云う神社名が香香背男に似ているのも気になりますね。

日高郡龍神村東 丹生神社に合祀
同書に日高郡山地荘東村に、丹生明神社が鎮座、末社に権現社、八王子社、丹生明神社、十二社権現社の名が見える。どの神社が星神と関係していたのか不明。

[3410] Re[3409][3397][3392]: 慕ってる姫さま  Setoh 2002/09/27(Fri) 21:11 [Reply]
国東半島の先の姫島に比賣語曽社が鎮座、祭神は天日槍命が追いかけた赤留比売命とされています。
http://www.genbu.net/data/bungo/himekoso_title.htm
また、摂津東成の比売許曽神社の祭神は下照比賣命となっています。
http://www.kamnavi.net/ym/hiboko/himekoso.htm
一方、下照比賣命は賀茂大神である阿遅鋤高日子根神の妹神ともされており、単に巫女神として似ている感じを受ける神なのか、日槍族と賀茂族はどっかでつながっているのか、興味のある所です。
『播磨国風土記』では賀茂の神はどう云う登場をしている(いない)のでしょうかね。
大和では賀茂族の親分になったかも知れない葛城氏を通じて日槍族と親戚になり、神功皇后が誕生したことになっています。その子の応神天皇は播磨へは北から入っているようです。何かありそうですね。

[3409] Re[3397][3392]: 慕ってる姫さま  香具 2002/09/25(Wed) 17:07 [Reply]
> 鎮座の字の名が「須行名(すぎょうめ)」です。これは一体何でしょうか。

ぜんぜん判りません。土地で聞いておくべきでした。さて、
伊和神社に行く途中のバス内の広告に、以下の2つの温泉がありました。

山崎と一宮の境にある田井バス停より15分
『しそうよい温泉』(宍粟郡山崎町与位)
http://www.yoionsen.co.jp/

御形神社の近くに、
一宮温泉『まほろばの湯』(宍粟郡一宮町三方町字家原)
http://www.hyogoichinomiya.com/mahoroba/
(家原遺跡公園「古代の村」も近くにあるようです。)

 しかし、いずれも日帰り施設で宿泊ができません。宮山の麓にある「スポニックパーク一宮」というレジャー施設の中に国見の丘山荘というコテージがあるのですが、これはチョット。最近は「温泉がなきゃヤダ」と軟弱を極めまして・・・、温泉のある宿をもう少し探してみます。
 宮山の登り口に、周辺の山地は11月半ばから猟が解禁になるので誤射や流れ玉に気をつけるよう立て板がありました。私の場合、おおいに間違われそうな惧れが??
10月の連休は伊和神社の秋季大祭の前なので、チト難しいかもしれません。
(それにしても配祀されている神さまが、下照姫さまだったんですネ。)

[3408] yanase様  日雲 2002/09/25(Wed) 00:57 [Reply]
ご親切にどうも有り難う御座います。
リーズナブル極まりないものを注文しましたので、読ませていただきますね。

[3407] Re[3402][3401][3400]: 星と蛇  yanase [Mail] 2002/09/24(Tue) 16:38 [Reply]
>  折口信夫「ほうとする話」(古代研究2)
万一、新版の高価な全集を買ふ人があるといけませんので……。
「古代研究」は厳密には1〜3の巻番号はないようで、
「折口信夫全集2古代研究(民俗学編1)」が正しい名前です。

[3406] >古書店にあるのかも  日雲 2002/09/24(Tue) 14:11 [Reply]
あ、文庫で出てる本だったんですか!? 安っ!
私はてっきり物々しいハードカバーの全集物とか、当時の民俗学雑誌の合本とかかと。
どうも有り難う御座いました、早速探して買うことにします。

[3405] Re[3403]: 自己修正  Setoh 2002/09/24(Tue) 12:44 [Reply]
> すいません、読み返してみたら、時々文章が滅茶苦茶でした。
> 以上、ちょっと修正でした。
>
ありがとうございます。  私は修正された意味のように受け取っていました。

折口信夫 古代研究
http://www.saboten.sakura.ne.jp/~ryouzan/kadokawab.html
古書店にあるのかも。

[3404] Re[3402][3401][3400]: 星と蛇  日雲 2002/09/24(Tue) 12:04 [Reply]
>  折口信夫「ほうとする話」(古代研究2)で、星祭は水神祭でもあると書かれ
折口信夫が? それは是非詠んでみたいですね。国会図書館とかにならあるでしょうか?
ちょっと探して読んでみます。情報、どうもありがとうございました。

>  栃木県に多い星宮神社と高オカミ神社を関連させて考へねばと感じました。
これは関心がおありなら、是非、御考究お願い致します。私はとりあえず星単品の方だけで手一杯もいいところなので……。

>  銀河のことのような気もするのですが?
天の川、ということでしょうか? なるほど……それも考えてみます。

[3403] 自己修正  日雲 2002/09/24(Tue) 11:58 [Reply]
すいません、読み返してみたら、時々文章が滅茶苦茶でした。

[3391]
setoh様>>天皇家としては別に正体不明の星神が存在するのは許せなかったのかも。
日雲>そうですね。ただ、この時に禁令をだされた北辰は、当時の天皇家が信仰していた北辰と同じソースの信仰であったかについては、一考の余地はあると思います。
これはおかしな応答をしてしまってますね(;^^
私が書こうとしていたのは、「本来、別の星信仰でありながら、それを禁令を出した側が同じ星信仰であるという風に解釈したために起こった事件が、例の禁令ではなかったか」
ということです。
この時の北辰信仰について、果たして朝廷側から民衆側に広がったものか、それとも民衆側の祭祀を朝廷側が取り入れたものかどっちか、という論がよくあったことが頭の中にあったせいで、受け答えが支離滅裂になってしまいました。すみません。

[3399]
setoh様>>記紀的な世界観でいうと、星神としては天御中主命が承けるのでしょうが、あえて香香背男命を選択する動機が気になりますね。
日雲>う〜ん、天御中主云々は、全国の状況を敷衍出来た場合のような気がします。
イ、意味不明の言い回しですね(;;^^
これはつまり「星神=天御中主」っていうのは、天皇家の祭祀から吉田神道から色々と広く教養的に把握している現代の我々が想起しがちな定説的観念で、地域差はありましょうけれども、当時の各地方の祭祀現場レベルでは、そんな観念など持ってなかったところもいっぱいあったのではないか、ということでした。

以上、ちょっと修正でした。

[3402] Re[3401][3400]: 星と蛇  yanase [Mail] 2002/09/24(Tue) 02:32 [Reply]
[3401] Re[3400]: 星と蛇  日雲 2002/09/24(Tue) 00:08 [Reply]
レスどうも有り難う御座います。
すみません、それでさっそくひとつお伺いしたいのですが、

>  味耜高彦根神と姿が瓜二つとされる天若日子も蛇体の神であり、なるほど御伽草子の天稚彦物語には蛇の姿で現はれます。
天稚彦については気になりながらも、まだ全く手をつけていない状態なのですが、これが蛇体であるというのは、「御伽草子」以外にも見られることなのですか?

>天稚彦物語は、七夕の起源の話にもなってゐて、興味深い物語です。
実に奇妙な構成ですよね。オープニングが人身御供説話風に始まっておいて、七夕で終るという、物語としては破綻し切った流れ。天稚彦も、正体が海龍で、空を飛ぶこともあって、星が次々出てきて、父親が鬼、とは……?
古事記では「天津国玉神」の子ということになっていますが、この天津国玉神が鬼ということなのか? 大体、この天津国玉という、二律背反しているような神名は何なのか?
「天稚彦の袖」が「蛇のヒレ」のような働きを見せているのも、興味深いし……?
(と言いつつ、蛇のヒレとは本当に蛇避けのものであったのかどうか? 何となくそう思ってしまっていましたが)

>ミスマルは昴星のことかも。
とはよく聞きますね。繊細で美しくて、イメージとしてはしっくり来ます。が、そうすると、
>「天なるや弟棚機の、頚がせる玉のミスマル、ミスマルにあな玉はや、み谷二渡らす味耜高彦根の神ぞ」
ここでいきなり「み谷二渡らす」と来るのは一体何なのでしょう? 
御伽草子に「又、空にも通ふ事のあり」とあるような飛行による「渡らす」なのでしょうか?
もし、そうであるなら、これは蛇体というより、流星的なイメージということになって来るのでは……?
しかし、そもそも天稚彦と味耜高彦根が似ていると認識/記述された基は何だったのでしょう? まさか、
「二人が同一時期に実在していて、本当にソックリさんだった」
とかいうことはないでしょうし。
このあたりのことについて考察されている文献などがあるかどうか、何か御存知でしょうか?

>『死と変革の日本史』といふ知られない本によると、天若日子は謡曲にも歌はれるらしい。
>「われらに名をつけて、皆弱法師(よろぼし)と仰せあるぞや。げにもこの身は盲目の、足弱車の片輪ながら、よろめき歩けば弱法師と、名づけたまふはことわりなり」
? これは「天若日子=弱法師」ということなのでしょうか……?

>パレスチナの「びっこひき踊り」は太陽の復活を祝ふ儀式だといふことにも関連させてゐます。
?? 何でびっこひいて踊ることが太陽の復活……? 
というか、そもそも「びっこひき踊り」とは、いつ頃のどんな儀式だったのでしょう?
何だか疑問だらけになってしまいましたが、奇妙というか、面白い(?)ものは、際限なくありますね、本当に。


[3400] 星と蛇  yanase [Mail] 2002/09/23(Mon) 17:00 [Reply]
 栃木県には星宮神社が200近くとか、高オカミ神社も100近くあります。日光の味耜高彦根神も蛇体の神ですので、星の神はやはり蛇体の神と深い関係にあるのかと思ひました。
 味耜高彦根神と姿が瓜二つとされる天若日子も蛇体の神であり、なるほど御伽草子の天稚彦物語には蛇の姿で現はれます。天稚彦物語は、七夕の起源の話にもなってゐて、興味深い物語です。(中国の説話の文献が手元にないのでどこが似てどこが異なるかはわかりませんが)。
 「天なるや弟棚機の、頚がせる玉のミスマル、ミスマルにあな玉はや、み谷二渡らす味耜高彦根の神ぞ」
 ミスマルは昴星のことかも。天稚彦は岐阜県以西に祀られる神です。

 『死と変革の日本史』といふ知られない本によると、天若日子は謡曲にも歌はれるらしい。
 「われらに名をつけて、皆弱法師(よろぼし)と仰せあるぞや。げにもこの身は盲目の、足弱車の片輪ながら、よろめき歩けば弱法師と、名づけたまふはことわりなり」
 著者の天野次郎といふ人は、天若をアマンジャクと読むのですが、パレスチナの「びっこひき踊り」は太陽の復活を祝ふ儀式だといふことにも関連させてゐます。
 この謡曲についても手元にありません。引用については放送では自粛の用語が多くなりました。

[3399] 無題  日雲 2002/09/23(Mon) 11:15 [Reply]
>記紀的な世界観でいうと、星神としては天御中主命が承けるのでしょうが、あえて香香背男命を選択する動機が気になりますね。
う〜ん、天御中主云々は、全国の状況を敷衍出来た場合のような気がします。
例えば、吉田神道の影響が強くあって、神仏分離以前から妙見=国常立の観念が強い土地とか、=天御中主の観念が強い土地とかでは、素直にそう出来たでしょうが、弱小の星信仰社がポツポツある程度のところで、なおかつ神仏分離期に記紀的な「信仰」が強くあった場合なんかでは、
「天御中主様なんてあんな小さな社に恐れ多い!」
なんてことになったりするんじゃないでしょうか。
「それじゃ、この界隈で一番大きなお宮より偉い神様じゃないか! そりゃ変だろう!?」
という風な。で、
「星だからカカセオだろ」
という風な。
鎮宅霊符の世界なんかでは、どこからどうしてそうなったのかは解りませんが、ニニギを星神とする観念なんかもあったそうで、多分、これを受けてでしょう、ニニギを祭神とするようになった星信仰社もあります。宗像三女神とかも、鎮宅霊符信仰の世界では星神になっています。天白社あたりの祭神のバラバラ具合を見ても、星信仰の世界の祭神名というのは、言葉は悪いですが、かなりいい加減なようです。
ですから、カカセオが何らかのこだわりをもって選択された土地があるとしたら、
>「その可能性はもしかしたらあったかも知れない」という枠まで広げてみても、関東全域と美作は、或いは? というくらいが精一杯
というのが、私の実感です、やはり。

>>地方祭祀同士を比較検討する
>ネットの世界がこれに貢献出来れば素晴らしいと思います。
本当にそう思います。ただ、古代史ファンや神社ファンの方々の大半は、やっぱり「日本全国のメジャーな話(神社)」に向かっちゃうんですね。
まあ、趣味の世界なんですから、好きなことをやればそれでいいって話ではあるんですが、
「地元のことは地元の人が一番知らない」
と、あえていいたくなるような状況が大変多い。
で、一方、「土地の古老」はネットなんかしてないことが多い。
すでに遅きに失してる感はあるんですが……方々で、「ああ、数年前まで詳しい爺さんがいたんだがなあ」なんて話をイヤというほど聞いてきました。
ので、この場をお借りして、声を大にして言わせていただきたいです。
地方の祭祀は滅茶苦茶面白いものがまだまだゴッソリ隠れておりますよ、きっと。
何となくでも、「意外とそうかも? 面白いかも?」と思われた方は、
郷土の祭祀にももっと目を向けてみて下さいませ。
例えば、四国の実地調査なんて私にゃ100%ムリです。
車の免許も持ってないし、一週間以上かけても、図書館回ることくらいしか出来なかった。
地元の人間がコツコツやってく以外に、もうどうにもならない世界ですね、これは。

[3398] Re[3396][3394]  Setoh 2002/09/23(Mon) 09:06 [Reply]
> > 天香香背男命を祀る神社は結構広い分布をしています。どっかの時点ではやったのかも。私もこの平成祭データからのピックアップを元に、調査を現在も進めてみているところなのです

星のつく神社 平成データ

長野は 大星神社 4社 建御名方命が多い。
茨城は 星宮神社 13社 天香香背男命、石裂命、天御中主命
栃木  星宮神社 約200社 岩裂、根裂神 
埼玉 星宮神社 3社 天御中主命
千葉 星神社、星宮神社 43社 天御中主命
神奈川 赤星神社 1社 天香香背男命
岐阜 星神社、星宮神社 8社 郡上郡美並村の祭神は明星天津神 雄角明神
高知 星神社 70社 天御中主命
など

> カカセオを祭神名に選択したのは、恐らくは、「記紀的な世界観でいうと星神はカカセオ以外に見当たらないから」という判断で選択された、ごく新しいものに過ぎない。

日雲さん、おいそがしい所ありがとうございます。
記紀的な世界観でいうと、星神としては天御中主命が承けるのでしょうが、あえて香香背男命を選択する動機が気になりますね。

> 地方祭祀同士を比較検討する
ネットの世界がこれに貢献出来れば素晴らしいと思います。

[3397] Re[3392]: 播磨の神奈備  Setoh 2002/09/23(Mon) 09:04 [Reply]
>  播磨一宮の伊和神社に参拝してきました。

香具さん、伊和神社の宮山登拝、ご苦労様でした。
宮山からの遠景写真でもよくわかりますが、盆地の真ん中に鎮座していますね。
鎮座の字の名が「須行名(すぎょうめ)」です。これは一体何でしょうか。

盆地の真ん中からは「坪中天」と云われる天河弁財天を思わせます。
ここの神体山は弥山(ミセン)で、伊和の宮山(ミヤマ)に相当するのかも。
磐座もちらほら。
生い立ちや年代も違うでしょうが、何か似ていますね。
一泊二日、都合がつけばお供しますよ。

[3396] Re[3394]  日雲 2002/09/23(Mon) 02:59 [Reply]
> 天香香背男命を祀る神社は結構広い分布をしています。どっかの時点ではやったのかも。私もこの平成祭データからのピックアップを元に、調査を現在も進めてみているところなのですが、こと星信仰に関しては、現在の祭神名からは、かつての実態は全くといっていいほどつかめないようです。
というのは、例えば四国の例で言いますと、
> 徳島 4
> 愛媛 3
> 高知 12
となっていて、高知に非常に濃厚な分布を見せているようでありますが、四国のこれらは全て元は妙見社だったものです。
近江雅和氏の「消された星信仰」では、神社名鑑などから「星」の名のつく神社をピックアップし、それをもとに古代の星信仰を探ろうとしておいででしたが、このやり方でいくと、四国では高知だけに数十社集中し、残りの三県では愛媛に一社あるだけとなる。そうすると、茨城〜栃木に見られる異常に濃密な星信仰(イワサク系)は、高知から海路で入ったものではないか、そうとしか考えられない、といった見解が出されるようなことになるのですが、しかし、これは実態としては、
「高知に幾らかの濃密な分布は見せつつも、四国全域に妙見社はあった。それを明治の神仏分離の時に、高知県では『星神社』という名称にすることにしたが、他県では『天津神社』という名称を多く取り、その祭神については天御中主を選択することが多かった。この形は瀬戸内海を挟んだ岡山などでも膨大な数が見られる」
ということなのです。カカセオを祭神名に選択したのは、流行云々ではなく、単に神仏分離の時に、恐らくは、
「記紀的な世界観でいうと星神はカカセオ以外に見当たらないから、それにした」
という判断で選択された、ごく新しいものに過ぎないということのようなのです。
ただ、厄介なのは、じゃあ四国界隈の星信仰とは要するに妙見信仰だったのか、というと、どうもそうでもないらしい、ということです。
事前のデータ収集を下に、四国四県の県立図書館を回って、時間の許す限り各市町村誌を調べまくってきましたが、記録によっては、
「中古、妙見社と称した」
として、妙見以前にさらに古称があったことを示しているものや、これまた高知に幾らかの濃密な分布を見せつつ、四国全域に見られる「大元神社」とかつては同一のものであったことを示す記述も見られ、信仰としては「いわゆる妙見」とは違うもののようなのです。
この四国〜山陽地域では三体妙見と称して、三つの尖り石を神体とし、かつ川の流域に祀られるといったものが多く見られるらしく、その一方で徳島などにある能勢妙見などからの勧請を伝えている純粋な意味での妙見社とは、様相を明らかに異にしているように感じられます。
大元神社の中には、安芸の厳島神社境内社であるらしき大元神社からの勧請を伝えるものもありますし、或いはこれはまだ全く推測の域を出ませんが、「オモト山」を神体山とする宇佐八幡の地主神であるとされる「北辰神社」などに近いものがありそうな感じが、なくもないのです(いずれも現地に行ったことがないので、まだ詳しくは解りませんけれども)。
つまり、いずれにせよ妙見という旧称も、カカセオを挙げる現在の祭神も、この界隈の星信仰本来の姿を伝えるものではない、ということです。
では、一方、近江雅和氏が高知から直接海路で来たとしか思われないとした北関東の星信仰は何処から来たかと申しますと、私の調査の範囲内では、やはり諏訪から来たとしか思われません。で、この界隈のカカセオ祭神名も、単に名称上の問題でしかないようで……。
私が見てきた範囲では、カカセオ自体が純粋に信仰対象とされたケースは限りなくゼロに近い、と言ってもいいのではないかという感じです。せいぜいが、カカセオの御霊が宿るといわれる茨城の宿魂石界隈はやっぱりそうだったのかな? というくらいで、これをもうちょっとゆるく、「その可能性はもしかしたらあったかも知れない」という枠まで広げてみても、関東全域と美作は、或いは? というくらいが精一杯です。
いちいち例を挙げていたらキリがありませんので切り上げますが、ここで一つだけ改めて指摘しておきたいのは、この星信仰の問題に関しては、全国各地域で郷土史家さん達が、きわめて興味深い事例収集をしておりながら、
「でも、星に対する信仰は仏教や道教が入ってくるまで日本にはなかったはずだから、結局、これって何だろう? おかしいなあ?」
という風に疑問を抱えるところで終って、軒並み足を揃えて思考停止してしまっている、というのが実状だということです。
郷土史家さん達は、別段何の援助もなしに、日本全国の通史や祭祀の定説と、各地域=地元のそれらを学び、かつ調べねばならないので、当然、その二つで手一杯でしょう。なので、上記のような状況に陥るのは全く無理もないことなのですが、しかし、地方祭祀同士を比較検討すると、およそ中央からの視点や、文献史観からは見えないものが見えてくる、といったことは、どうやら起こるようです。

[3395] Re[3385][3384][3381][3380]: 狭井河 +吹田  Setoh 2002/09/22(Sun) 18:55 [Reply]
> 山田川を佐井川ともいったといふ証拠は

図書館で調べて来ましたが、佐井川と云う表現は見あたりませんでした。
佐井の名を持つ佐井寺は天平七(735)年僧行基によって創建と伝わっています。大檀那に蘇我倉山田石川麻呂がいたとか。これにも山田があります。
吹田は泉から豊富な水がわき出す地域でしたが、名神高速などで地下水脈が分断されてしまい、涸れてしまったようです。佐井の名前も、近くの山からわき出す清水か語源だそうです。
伊射奈岐神社は大字佐井寺字小川に鎮座、川は小川と呼ばれていたのかも。
山田の地名は伊勢神宮の近くの宇治山田の山田と伝わっており、時代としては一応雄略天皇の時代に伊射奈岐神社が創建された時からとなっています・・・。

吹田は次田連(すきた)が居住していたようで、火明命や天香山を祀る神社が鎮座しています。

[3394] Re[3391][3390]: 辰沙大王なら丹生津比賣のお父っぁんか。  Setoh 2002/09/22(Sun) 18:53 [Reply]
天香香背男命を祀る神社は結構広い分布をしています。どっかの時点ではやったのかも。
茨城 4
栃木 8
群馬 2
千葉 5
神奈川 1
石川 2 天星神、天津甕星命
岐阜 6 星神、星大神
静岡 3
愛知 3
三重 4 北斗星神 三十三夜星神
京都与謝郡 1
和歌山 3
島根 5
岡山 7
広島 4
山口 1
徳島 4
愛媛 3
高知 12
福岡 1
佐賀 1
熊本 1 星神
大分 2

[3393] 自己レス・蛇足の蛇足  日雲 2002/09/22(Sun) 16:37 [Reply]
某別サイトの書き込みから思い出しましたが、
「星=北辰=北方=水気」
という五行展開から、水神としての星祭祀が始まった可能性について。
これも勿論考えられます。
特に、岡山〜広島の山陽地方から四国全域(特に高知)あたりの陰陽道が盛んだった土地では、そうした観点から中世以降に建てられた社も多かったように見えております。
信仰のそもそもの源が、そうした五行思想においていいものかどうかは解りませんが。
蛇足ですが、一応、付記しておきます。

[3392] 播磨の神奈備  香具 2002/09/22(Sun) 02:16 [Reply]
 播磨一宮の伊和神社に参拝してきました。
JR姫路駅前の神姫(しんき)バスターミナルから、31または33系統の山崎行きバスに乗車、1時間に1〜2本です。ちょうど60分で終点の山崎着、1110円。
ここで曲里(まがり)経由のバスに乗り換えて(30分に1本)、宍粟郡山崎町から一宮町へ入ります。一宮伊和神社前にて下車、30分580円。道の駅「播磨いちのみや」の向いに伊和神社の表参道。
 因幡街道のR29号線沿い、揖保川沿い、そして周囲の山々に挟まれるように南北に開けた平地の真ん中に、杉の大木の社叢に囲まれた伊和神社があります。

 敷地東側の表参道から西に進み、鳥居と随神門を潜り手水舎へ、そこから直角に折れて南へ向くと拝殿正面が見えます。なるほど北向きで、しかも参道とは直角。手水舎の横には大きく『皇族下乗』と彫った石がありました。(皇族とわざわざ・・・、一般的なんですか?)
 拝殿、幣殿、本殿が北から南へ続き、本殿の裏に鶴石が祀ってあります。大和に背を向けて、と言うよりも、揖保川上流に向っているような感じも受けるのですが、どうなんでしょうね。出雲方面?単純に上流からの鉄砲水とか?もっと素直にとると、因幡から旅人を迎え入れているのかも?そんな印象でした。

 本殿の東西には、播磨十六郡神社が八社づつ末社としてあります。個々の式内社の名前ではなく『明石郡神社』というような旧郡名で扁額が掛かっていました。
 因みに東八郡神社は、明石郡、美嚢郡、加古郡、印南郡、加東郡、加西郡、飾東郡、飾西郡の各神社。
 西八郡神社は、多可郡、神東郡、神西郡、宍粟郡、揖東郡、揖西郡、佐用郡、赤穂郡の各神社。

 この伊和神社の北東に宮山(みやま、514m)という、きれいな三角錐形の神奈備山があります。さらに神社は、北の花咲山(637m)、東に白倉山(841m)、西に高畑山(562m)の三つの山々に囲まれています。宮山を祀る『一つ山祭』が21年目毎、花咲山・白倉山・高畑山を祀る『三つ山祭』が61年目毎の甲子の年に行われるそうです。

 この四つの山頂には、それぞれ磐座があるそうで、伊和神社のご神職の方々に確認できました。各登山口までの道と山中のルートを丁寧に教えて頂いたのですが、時間の都合により、宮山のみ登拝してみることにしました。
 登り口には産霊神社という鎮守さまがあり、主祭神は岩裂の神!でした。山道は近年整備されて1m幅以上の道が頂上まで続きます。しかし、バラス(砕石)が撒かれていて滑りやすいため、下りには杖が必要です。けっこう急勾配です。
 登り始めてすぐ、吉野や雌岡山と同様な赤い土が目立ちました。ところが中腹では真っ黒な土に変化し、頂上付近でまた赤い土になります。層になっているのでしょうね。

 頂上の少し手前に宮山の磐座が見えてきます。まず、50cm程の石で高さ1.5mぐらいの石垣を積んでいるのが見えます。この石積みはさほど古くはなさそうでした。さらにその石積みより上方に差し渡し3〜4mの岩がいくつか組んでいるように見えました。
 実はこの磐座は山頂への登山道の脇から、5mぐらい上の尾根筋にあります。あとわずかの所まで来たのですが、帰りのバスの時間が迫っていたので、すぐそばまで行く余裕がありませんでした。よって撮影なし。(T_T)
とても残念でしたが、実際に確認できましたので今回は報告まで。
(しかし、私のような下凡には、なかなかキツイ雰囲気でした。もっと精進してから出直して来いという感じです。いと猛き御方かもしれない(^^)。次回は伊和神社で昇殿参拝してから登拝することにします。)
 四つの山の磐座を調査するには1泊2日の余裕がほしいですね。

 伊和中山古墳群への道も整備されたそうですし、一つ山古墳や銅鐸出土地(高畑山中腹)もあるそうです。いずれも伊和神社で、ご神職の方々から親切に教えて頂きました。気持ちの良いご対応に感謝しています。
 宮山と書いて『ミヤマ』と呼ばれていたのは、!!でした。上からの眺望は素晴らしかったです。

[3391] Re[3390]: 辰沙大王なら丹生津比賣のお父っぁんか。  日雲 2002/09/21(Sat) 13:08 [Reply]
> 一つは鉱物資源とは星屑の落下したもの、とのことからの信仰があったとの説に記憶があります。
いわゆる朝廷祭祀の北辰=天帝や、武神としての妙見、密教的知恵を求める虚空蔵信仰などを除けば、内陸の民間レベルでは、上記の鉱物を求めての信仰か、水神(農業用水や洪水避け)や開拓神としての農耕神か、どちらかである場合が多いです(漁民信仰はまた別)。
四国などでは、村落の鎮守や氏神になっているケースも多いですが、これは開拓神として祀られたものでしょう。

> 星神からは縄文に息吹はあまり感じませんね。縄文は蛇が似合いそうです。
私も全くそう思っています。諏訪の「ソソウとミシャグジ(御神体は陰陽石)」などは、
蛇体信仰の土着縄文人と、星信仰の弥生渡来人が同族化した結果ではなかろうか、などと。

> 一般には星信仰は道教、陰陽道が盛んになるとともに盛んになっているようです。
勿論、そうなのですが、私はこれは中央の記録で見るとそうであるとか、星神に特定の神名がついた時期がその辺だったとかいうことではなかったか、と思っています。
栃木界隈の星宮(磐裂)信仰、諏訪〜伊勢の天白信仰、詳しくは未調査ですが、文献によれば近江のダイジョウゴ信仰、熊本界隈の「八代妙見とは違う妙見」という伝のある妙見信仰、これらは全て水神としての星信仰で、いずれも各地において非常に古い様相を呈している。
(星神でありながら、星についての伝説がほとんど付随していないなどの特徴もあります)
ことに栃木の磐裂信仰と調査報告と、熊本の妙見信仰の調査報告を照らし合わせると、その二つが「違った地域の違った信仰を別人が報告した」とは思えないほどの共通性を持っております。
これは特定の神名を持たない、水神としての機能神信仰が先にあって、それに地域毎に、
「星神だから妙見だろう?」「星神だから虚空蔵だろう?」「星神だから大将軍だろう?」
という風に、後に名前が選択されたものではなかったか、と考えています。
(鉱物を取るための星信仰の神名が、妙見や虚空蔵など必ずしも一定していないように)
そうした中、オリジナルの名前が付けられたケースが天白ではなかったか?

> 何故、星神カカセオが悪神(天孫に従わなかったとの意)とされたのでしょうか。
私は単純に、天孫族に従わずに徹底抗戦し、天孫軍を打ち破りさえした地方豪族が、たまたま星信仰の族であった、というだけのことだと思っています。星自体に、神話的な謂いは別になかったのではないか、と。

> 伊勢斎宮入御の日には北辰を祭ることの禁令があったようで、北辰祭祀は天皇家の独占物だったのかも。伊勢神宮へのお参りも制限がありましたね。北辰=天皇大帝だったということ。天皇家としては別に正体不明の星神が存在するのは許せなかったのかも。
そうですね。
ただ、この時に禁令をだされた北辰は、当時の天皇家が信仰していた北辰と同じソースの信仰であったかについては、一考の余地はあると思います。
これは続日本記等を記した側が、その民間レベルの「男女入り混じって風紀が乱れる」ような信仰を、「星を祀ってんだから北辰だろう」と認識してしまったという、名称上の混濁の問題から起こったことかも知れません。
贔屓の引き倒しの可能性も多分にありますが、私にはこの民間の北辰信仰は、陰陽石を神体としていた諏訪前宮の星信仰や、男女ペア像を祭るケースが散見される熊本の水神妙見などに近いものがあったような気がしています。これを、天皇家サイドの異なった価値観で、男女混交など穢れておって不敬である、と裁いたのが、かの禁令ではなかったろうか、と。

因みに、光仁天皇からの北辰=天皇大帝信仰は、単に即位直後に「白い亀が何匹も贈られたから」に過ぎなかったのではないか、とも思っています。それを奥さんスジの百済人達が、
「亀=玄武を使いとするのは北天ですから、これはそちらからの思し召しに違いありません」
と解釈して、本来、即位のお鉢など回ってきそうにもなかった光仁天皇が、あくまで個人的に抱いて始まった信仰だったのではなかったか?
でそれを引き継ぎつつ、関東に先行してあった別の星信仰と集合して出来たのが、桓武平氏スジの関東千葉氏の妙見信仰であったとか……?
(千葉にも妙見名称で、水神・農耕神があるようです。詳しくは未調査ですが)

> > 甲信〜関東一円にかけての古代
> 特徴は半島からの渡来人の多くが移住したとの印象の地域ですね。高句麗や新羅。
かも知れませんが、あくまで何となくの個人的な感触に過ぎませんけれども、何となくもっと古いもののような気がしています。
ニギハヤヒとかホアカリとか、そのクラスの古さではなかったかと。
それらとイコールで結ばれるかは不明ですし、我ながら疑わしい部分も感じてはいますが、こうしたものと何らかの接点があったとは言えそうな雰囲気があります。一部の物部とはほぼ確実に接点を持っていたろうと(美作の肩野物部など)。
といって、天津赤星か? とか、一足飛びにくっつけて考えるわけにはいきませんが。

ところで、黄河は天につながっているといった伝説が黄河界隈にあり(源流地域に星宿海という湿地も実際にある)、このあたりが星神=水神のルーツなのだろうか? と思ったりもするのですが、他の諸外国での古代の水神や星神についての信仰のあり方について全く無知なので、よく解りません。
 
以上、かなり青草に見えるかも知れない全くの私見ですが、何か参考や暇つぶしにでもなりましたら……。

[3390] 辰沙大王なら丹生津比賣のお父っぁんか。  Setoh 2002/09/21(Sat) 10:39 [Reply]
湿気に満ちたこの国で「星」への信仰がどのようにして発生してきたのか、興味のある所です。
一つは鉱物資源とは星屑の落下したもの、とのことからの信仰があったとの説に記憶があります。

もう一つは、飛鳥の古墳の天井などに見られる星図です。これは物の怪の根源である龍蛇神を天崗星(北斗七星)で封じると云うような道教的な考え方があったのかも知れません。
星神からは縄文に息吹はあまり感じませんね。縄文は蛇が似合いそうです。

天武天皇が星祭ったとか、また大宝令には牽牛織女への信仰が見えるようですが、大陸からの輸入です。一般には星信仰は道教、陰陽道が盛んになるとともに盛んになっているようです。

何故、星神カカセオが悪神(天孫に従わなかったとの意)とされたのでしょうか。星は月の背景としてやはり闇の世界を支配するとされたのでしょうか。
伊勢斎宮入御の日には北辰を祭ることの禁令があったようで、北辰祭祀は天皇家の独占物だったのかも。伊勢神宮へのお参りも制限がありましたね。北辰=天皇大帝だったということ。天皇家としては別に正体不明の星神が存在するのは許せなかったのかも。

> 甲信〜関東一円にかけての古代
特徴は半島からの渡来人の多くが移住したとの印象の地域ですね。高句麗や新羅。これらを星や月として、百済系の太陽神の天孫が悪神と見なして支配していった歴史があったと言えるのかも。

> 群馬と奈良と静岡と岡山の倭文神社しか行ったことありませんが
これだけ参拝されておられる、これはすごい。

> あるいは二上だけのことなのかもしれない
これは要確認ですね。さすが玄宮から一字を取っておられる。

[3389] Re[3388] 倭文神の本地佛  日雲 2002/09/21(Sat) 03:22 [Reply]
> 深蛇大王は、深沙大王とも書かれ、毘沙門天の化身。日光の神橋のところに祀られていますね。
女峰山の蛇、という風な形でも語られておりましたようです。
この女峰山の蛇体信仰が先にあって、後に本地的に深沙大王名義にされたそうで、要するに、
男体神の磐裂(星宮)と、女峰山の蛇――星と蛇が、仏教流入以前の日光の地主的な信仰であったらしい、とのことです。
星と蛇といえば、諏訪前宮のミシャグジ(星)とソソウ神(蛇体)もそうですね。
また、秩父大祭にも星と蛇が登場して神婚モチーフが見られますし、
うがってみれば、赤城の小沼(本地・虚空蔵)と大沼(本地・観音/竜神伝説あり)も?
いずれも星=男、蛇=女となっている風が興味深く、私はこの「星と蛇」の組み合わせが、
甲信〜関東一円にかけての古代(というか弥生時代頃)を読むキーワードではないか、
などと思っているのですが、青草行きでしょうか?
ただ、
> ●豊布都御霊→二上権現
> ●大国御霊→深蛇大王(シンダダイオウ)
ここでどうも気になるのは、フツノミタマも星信仰系の神社でチョイチョイ祀られているということです。
佐軍神など、ミシャグジ系とされている社にも、ままある。
そうすると、これも男女ペアではないが、星と蛇になる……?

>どうして倭文の本地となったのかわかりませんが、あるいは二上だけのことなのかもしれない、と思うのですが。
そうですねえ……私は群馬と奈良と静岡と岡山の倭文神社しか行ったことありませんが、
蛇的なものは奈良でしか見かけませんでした。
ただ、静岡では「星山」というところにあって星信仰と並存し、
岡山ではミシャグジと同じ信仰としか思えないような神社(旧称・赤子=シャクシ宮)と、
「上社」「下社」という並立の関係性でもって、二社並んで建ってはいましたが。
(この周辺には、いつ頃からの名称かは解りませんでしたが、「カカセオ神社」なる珍しい
ものが幾つもあったようです。現在は、他社に合祀されてしまっていますが)
あ、群馬には、「とーとーほーしのたーね」という意味不明のサビ文句のある、
秩父神社と同じ田植え歌が伝わっていましたね。
いずれにせよ、星との関係を偲ばせているようです。
他の土地の倭文はまだ存じませんが。

[3388] Re[3386]: 倭文神の本地佛  玄松子 2002/09/20(Fri) 23:25 [Reply]
> この、「深蛇大王」といわれる方が人間的な基のことで、文殊菩薩や阿弥陀如来よりももっと、古い時代からおわします方だとか、この「深蛇大王」が倭文神の本地佛だそうです。

深蛇大王は、深沙大王とも書かれ、毘沙門天の化身。日光の神橋のところに祀られていますね。ここは蛇王権現堂とも言われます。

玄奘三蔵の天竺行きを助けたといわれています。ひょっとすると沙悟浄のモデル。水神ですね。
仏法求道者の守護神の性格があるようで、日光でも勝道上人が川を渡れずに困っていると、二匹の蛇を橋として、助けたという伝説があります。

どうして倭文の本地となったのかわかりませんが、あるいは二上だけのことなのかもしれない、と思うのですが。

[3387] Re[3386] 倭文神の本地佛    日雲 2002/09/20(Fri) 22:59 [Reply]
> ●豊布都御霊→二上権現
> ●大国御霊→深蛇大王(シンダダイオウ)
これはどういったらいいのか……非常に興味深いというか、妙に心が騒ぎますね。
奈良市の方の倭文神社境内の蛇宮と関係があるのだろうか……?
頭に留めておかなければ。
(しかし、私が青草で倭文について書いていた時に、丁度Setoh様もこちらで倭文を書いておられたのですね。何か奇遇ですね)

[3386] 倭文神の本地佛  Setoh 2002/09/20(Fri) 11:46 [Reply]
昔、役行者さんが二上山で行をしに来られたときにおっしゃったことというのが〜
●豊布都御霊→二上権現
●大国御霊→深蛇大王(シンダダイオウ)
この、「深蛇大王」といわれる方が人間的な基のことで、文殊菩薩や阿弥陀如来よりももっと、古い時代からおわします方だとか、この「深蛇大王」が倭文神の本地佛だそうです。
(Mさんが、倭文神社、加守神社の宮司さんに聞いて来てくれました。感謝)

[3385] Re[3384][3381][3380]: 狭井河 +吹田  Setoh 2002/09/19(Thu) 17:43 [Reply]
>  [3381]にあったアドレスは、別のものが紛れ込んだようなのですが……。
失礼いたしました。楡山神社さんの『倭姫命世記』のアドレスでした。何故だろう?

http://www.pref.osaka.jp/kasen/river/mouzu/mouzu.htm

に大阪の河川名が出ています。

[3384] Re[3381][3380]: 狭井河 +吹田  yanase [Mail] 2002/09/19(Thu) 15:42 [Reply]
 山田川については、有り難うございました。
 吹田市の佐井寺にあった寺は山田寺ともいったらしいのですが、かといって、山田川を佐井川ともいったといふ証拠は見つからないでせうね。

3381> 吹田ですが、古代には、この一帯は「丹生」が多くとれ、特殊な工法で金を生産していた。吹田は金を吹き上げた所という意味だそうです。

 「スイ」について、なるほどと思って三重県の四日市の水沢(スヰサハ)あたりを調べると、水沢峠の手前に入道岳(入=丹生)があり、金や水銀がとれたとあります。スイの地名に出会ったら、この可能性を考へてみたいと思ひます。
 [3381]にあったアドレスは、別のものが紛れ込んだようなのですが……。

[3383] 鎮座1300年  Setoh 2002/09/15(Sun) 22:39 [Reply]
今年は伊太祁曽神社鎮座1300年にあたります。
『続日本紀』の大宝二年(702年)の2月22日の記事に
伊太祁曽・大家都比売・都麻都比売をそれぞれの地に分けて遷した。
と出ています。
社伝によれば、垂仁天皇の時代に、現在日前国縣神宮が鎮座している地を譲って、亥の森と云う現社地東500mに遷り、その後、勢いが強いので、三神分遷がなされたと伝わっています。これは1300年前のことです。この事は目出度いことなのか、遷座、更に分遷を強いられて喜ぶべき事なのかと思っていましたら、現地(我が故郷)では伊太祁曽神社がやって来てくれて1300年の記念すべき事ですので、祝賀行事が10月14日に行われます。

この大宝二年とは、大宝律令を全ての國への頒布があり、南海道などの各道の整理がありました。
隼人の反乱や薩摩国の成立もこの年です。
また、先の天皇である持統天皇、役小角などが死亡した年でした。

このあたりの事件と伊太祁曽三神分遷との関連はどうなんでしょうね。
南海道 通り道の紀伊国名草郡海部郡としては紀国造の祀る日前国縣神宮より伊太祁曽神社の神威が高いのは面白くなかったのかも。
隼人の反乱に宇佐神宮の辛島氏が五十猛神を押し立てて鎮圧に行っています。

この前、越前の気比神宮に参詣しましたら、ここも鎮座1300年と云うことでした。
それで、大宝二年創建の社伝を持つ神社で式内社を探してみました。
越中国婦負郡 杉原神社
甲斐國山梨郡 黒戸奈神社
越中国新川郡 神度神社
尾張国知多郡 羽豆神社
式内社ではない神社
御嶽神社頂上奥社など。

[3382] Re[3379]: お世話になっています  Setoh 2002/09/15(Sun) 17:39 [Reply]
> 私の方はつたないホームページですが、なにかの拍子で訪問された方に貴ホームページを紹介いたしたく、勝手ながらリンクを貼らせていただきました。ご了承いただけませんでしょうか。
神奈備はリンクフリーです。お知らせありがとうございます。

下で話題の吹田ですが、古代には、この一帯は「丹生」が多くとれ、特殊な工法で金を生産していた。吹田は金を吹き上げた所という意味だそうです。

[3381] Re[3380]: 狭井河  Setoh 2002/09/15(Sun) 17:33 [Reply]
>  吹田市佐井寺の伊射奈岐神社のあたりから東南へ流れる川もあって、あまり大きな川ではなく、ゼンリン96(地図ソフト)では名前もわかりませんでした。

山田の伊射奈岐神社の東側近くを流れ、佐井寺からは東に2km程の川は山田川と云います。
山田の地名は『和名抄』には見えませんが、『摂津名所図会』には山田荘として出てきます。

違う川でしたら、下記を参照ください。
http://homepage3.nifty.com/nireyamajinja/kyodo/yamatohime.htm

東国の牧と立地図を神奈備写真別荘に掲載しましたので、ご覧ください。写真をクリックしますと原寸大となります。

[3380] 狭井河  yanase [Mail] 2002/09/15(Sun) 12:31 [Reply]
 setohさんに別のところで教へていただいた、平安時代まで畿内の岸辺にあったといふ近都牧について調べましたら、近都六牧といって六つあったらしく、大阪府の淀川岸の鳥飼牧(摂津市)、三箇牧(茨木市)などが見つかりました。ここから少し上流を三島江といったらしく、三箇牧の近くに溝咋神社もあります(安威川を少し上った茨木市五十鈴町)。
 三島、溝咋は、神武天皇の妃となった伊須気余理比売の母、勢夜陀多良比売の出身地とされます。父は三輪の大物主神です。

 古事記には伊須気余理比売の歌もあります。
  狭井河よ 雲立ちわたり 畝火山 木の葉さやぎぬ 風吹かんとす

 以前に、大和の大神神社から北へ山辺の道を少し歩いたときに、狭井河といふ幅1メートルにも満たない沢らしきものがありまして、大神神社摂社の狭井神社もあるのですが、小さな川なのに「雲立ちわたり」とは大げさな歌だと思ったのです。

 ところが摂津市の鳥飼から西の、名神高速道・吹田SAあたりに佐井寺といふ地名があるのです。
 サイ川(サヒ川)と読む川は<賽河、境界の川>の意味で全国にありますが、古代からの名前だとしたら、サヰ川は同じ名ではありません。
 吹田市佐井寺の伊射奈岐神社の由緒には「佐井が原」の地名もあります。このあたりから東南へ流れる川もあって、あまり大きな川ではなく、ゼンリン96(地図ソフト)では名前もわかりませんでした。

[3379] お世話になっています  直さん [Url] 2002/09/15(Sun) 11:12 [Reply]
いつも貴ホームページを訪問し、勉強させていただいております。
私の方はつたないホームページですが、なにかの拍子で訪問された方に貴ホームページを紹介いたしたく、勝手ながらリンクを貼らせていただきました。ご了承いただけませんでしょうか。

[3378] Re[3377]: ヨサノ宮  Setoh 2002/09/13(Fri) 21:35 [Reply]
『空白の古代史』水野祐、森浩一氏対談 の伊勢神宮の外宮の概略をご参考に 主に水野氏の語り

5世紀に寒冷期となった。
日本海で潜水漁法が出来なくなり、海人は温かい海(太平洋)を求めて移動。
(『日本書紀』応神朝仁徳朝に海人の騒擾の記事はこれを指している。)
丹波から伊勢志摩へ漁場を探しに行った海人がいた。そこでアワビ取りを始めた。
漁場の権利確保の為に地元の豪族や伊勢大神に献上を行った。
彼らが丹波の御餞津神を奉戴して行き、伊勢の御餞津神となった。
(伊勢大神はそれまでは米や川魚であり、アワビは出てこなかった。)

[3377] ヨサノ宮  yanase [Mail] 2002/09/13(Fri) 15:26 [Reply]
伊勢神宮が倭姫命によって伊勢に鎮まる以前に、豊鋤入姫命によって吉佐宮にも数年ほど留まったとされ、今の宮津市あたりのようです。

 但波の吉佐宮(よさのみや)に遷幸し、四年間奉斎。ここから更に倭国へ求める。この年に豊宇介神が天降って御饗を奉る。(倭姫命世記)

 但波とは丹後国が分国する前の昔の丹波国のことです。伊勢の外宮の豊受神も、後世にこの地から伊勢へ迎へられた神ですので、伊勢も与謝も、太古からの海人たちの聖地であったように思へます。
 倭姫命世記には、瓊瓊杵尊が降臨した時はまだ天と地の距離が近く、天つ柱を立てたら天まで届いたみたいな話もあります。丹後の天橋立も、伊邪那岐命が天まで通ふための梯子だったのですが、命の昼寝のすきにうっかりして倒れてしまって、横に伸びる橋のようにになったのだといふ話もあるのが、面白いですね。

[3376] ヨサコイ  Setoh 2002/09/12(Thu) 18:08 [Reply]
籠神社から竹籠を連想、その前に阿蘇海があることは南九州との関連、と素直に考えて見ました。

籠は竹製品で、有名なものに、無目籠(まなしかたま)→ 山幸彦 → 籠神社の祭神の父
浦島伝説のルーツになった物語との見方があったように思います。

木花咲耶媛は三子を産む時に臍の緒を切った竹刀 → 籠神社の祭神の彦火明命の誕生

岩波新書『竹の民俗誌』沖浦和光著によりますと、竹取物語には木花咲耶媛を始祖とする隼人の古伝承の存在を推測しています。
羽衣伝説だったのかも知れませんね。これは丹後にもありました。
竹取翁は何となく塩土老翁を思わせますね。

無目籠の事は塩土老翁が教えたのですが、神武天皇には東にヨキ国があることを教えています。そうすると丹後のはヨキ竹があるぞと教えても不思議ではありません。笠沙の岬からヨキササの岬へ、これがヨサに縮まったと云う青草話でした。

[3375] Re[3374][3368]: メールテスト  Setoh 2002/09/12(Thu) 13:22 [Reply]
> > 新支配者の婚姻相手、初夜、子孫について、特徴がありそうです。
>
> 面白い視点ですね。
大三元さん、ご注目ありがとうございます。

出雲の国譲りの後に瓊瓊杵尊の天孫降臨、また大和の国譲は神武天皇

マイナー譲り譚として、葛上郡を直轄領とした話。主役は雄略天皇

雄略天皇は葛城円大臣━韓比売を娶って
白髪の命(清寧天皇)、若帯比売命

また、雄略天皇は春日和珥臣深目━童女君(一夜与、一宵与、七廻)
春日大娘皇女

> ホムチワケが喋られるようになったあとに婚いした「一宿肥長ひめ」ってのも、国譲りに関わるのか?
子孫についてはなかったですね。ここらのお話は、貴種が漂流して来ますと、夜伽も含めた歓待がありましたが、その要素が入ったと云うことかも。

[3374] Re[3368]: メールテスト  大三元 [Url] 2002/09/12(Thu) 09:14 [Reply]
> 新支配者の婚姻相手、初夜、子孫について、特徴がありそうです。

面白い視点ですね。
・出雲の国譲りでは、誰と誰が一宿寝したか
・ホムチワケが喋られるようになったあとに婚いした「一宿肥長ひめ」ってのも、国譲りに関わるのか?

とっさには関連が思い当たらないけど、何かイイガカリつけられましょうや?

[3373] 空海と丹生都比売  Setoh 2002/09/11(Wed) 20:41 [Reply]
> 弘法大師は高野山を開かれる前にー

柳田国男翁によれば、弘法大師の大師は大子に通じ、長男とか神の世継ぎの意味があり、姥が愛しみ育てる守り神の姥神だそうです。
それゆえに、弘法大師に水を差し出すのは老婆が多く、これが折口信夫説の「水の女」とも一緒になり、水辺で神御服を織る女にもなった古代からの信仰形態があったのかも。

丹生都比売神が「水神」でもあり「機織の神」でもあり、空海の守護神でもあるのは、そんな所から来ているのかも。

[3372] Re[3371][3365] 大峯高野街道と弁財天  Setoh 2002/09/10(Tue) 20:48 [Reply]
ひふみさん、野迫弁天、ありがとうございます。

> 弘法大師は高野山を開かれる前に、天河弁財天に千日参篭して、結願の日に高野山方向に光を見て、高野山を開かれたというような伝承が、天河神社に残っています。

天河弁財天と高野山とは、ほぼ東西の線上ですが、弥山は南にはずれですね。
弁財天は市杵嶋比売とされています。この女神は斎く女神で、松尾神社なんかにも勧請されています。祭祀を行う神で、自動祭祀ロボットのような意味での勧請があったのではないでしょうか。おっと、青草話ですね、これは。

[3371] Re[3365] 大峯高野街道と弁財天  ひふみ [Mail] 2002/09/10(Tue) 00:39 [Reply]
> 野迫川弁天はどこにあるんでしょうか?

野迫川弁天は、地図でいえば「高野天川線」道沿いの「柞原」あたりにあります。
地元近辺では、「野川の弁天さん」として有名なので、まさか平凡社刊の「寺院・神社大事典」等に出ていないとは思わなかったのですが、あまり大きくない所なので 省かれたのでしょうか?

伝承としては、弘法大師が一夜にして彫り上げたという「弁財天」をお祭りしています。
神仏習合の社ですね。一度だけ夜にホタルを見に行った事があります。
神社かと思っていたのですが、最近見たあるホームページでは、お寺のような扱いでした。
そういえば、ここを管理される方(宮司さん?住職さん?)は高野山からの任命になるとか。
まだお若い方でした。

弁財天と高野山。
確か、弘法大師は高野山を開かれる前に、天河弁財天に千日参篭して、結願の日に高野山方向に光を見て、高野山を開かれたというような伝承が、天河神社に残っています。
高野山にある弁天岳も、天河の弁財天を勧請しているし、何なのでしょうね。

ところで、前回の書き込みに少し訂正を。
天河神社のある坪ノ内あたりから、高野山までの道。
健脚な方なら、一日あれば着けるかも。10時間くらいでしょう。
ちなみに車だと一時間〜一時間半だそうです。
昔の街道は、やはり峰伝えだったようで、もう少し距離も短かったようですが。(今は藪の中でしょう。)
通常の方なら、大峰山頂〜坪ノ内〜高野山で一泊二日。
でも、鍛えた山伏とかなら、たぶん一日かもしれない。
(熊野修験の奥駆けでは、通常一泊二日の那智から本宮までの道も、一日で走り抜けるそうです。)

[3371] Re[3365] 大峯高野街道と弁財天  ひふみ [Mail] 2002/09/10(Tue) 00:39 [Reply]
> 野迫川弁天はどこにあるんでしょうか?

野迫川弁天は、地図でいえば「高野天川線」道沿いの「柞原」あたりにあります。
地元近辺では、「野川の弁天さん」として有名なので、まさか平凡社刊の「寺院・神社大事典」等に出ていないとは思わなかったのですが、あまり大きくない所なので 省かれたのでしょうか?

伝承としては、弘法大師が一夜にして彫り上げたという「弁財天」をお祭りしています。
神仏習合の社ですね。一度だけ夜にホタルを見に行った事があります。
神社かと思っていたのですが、最近見たあるホームページでは、お寺のような扱いでした。
そういえば、ここを管理される方(宮司さん?住職さん?)は高野山からの任命になるとか。
まだお若い方でした。

弁財天と高野山。
確か、弘法大師は高野山を開かれる前に、天河弁財天に千日参篭して、結願の日に高野山方向に光を見て、高野山を開かれたというような伝承が、天河神社に残っています。
高野山にある弁天岳も、天河の弁財天を勧請しているし、何なのでしょうね。

ところで、前回の書き込みに少し訂正を。
天河神社のある坪ノ内あたりから、高野山までの道。
健脚な方なら、一日あれば着けるかも。10時間くらいでしょう。
ちなみに車だと一時間〜一時間半だそうです。
昔の街道は、やはり峰伝えだったようで、もう少し距離も短かったようですが。(今は藪の中でしょう。)
通常の方なら、大峰山頂〜坪ノ内〜高野山で一泊二日。
でも、鍛えた山伏とかなら、たぶん一日かもしれない。
(熊野修験の奥駆けでは、通常一泊二日の那智から本宮までの道も、一日で走り抜けるそうです。)

[3370] Re[3369]: メールテスト2  yanase [Mail] 2002/09/10(Tue) 00:28 [Reply]
> 社口じんじゃの訛かも知れません。

埼玉県大里郡花園町黒田の豊栄神社(埴山姫命ほか)は、もと「赤口社」の名でした。
「元社地付近に御手洗の池あり。四時清水湧出し、池中に魚類多く棲息すれども、これを捕食すればその一家断絶すべしと称し、現今に至るも里民のこれを捕獲するものなし。」とあります。詳細はこちら。
http://homepage3.nifty.com/nireyamajinja/jinjasi/index.htm
(「花園町」、「黒田 豊栄神社」と2回のクリックが必要です)

信州以東の境内社以外でそれらしいものは次の2例(平成CD)
神奈川県藤沢市辻堂元町  社宮神    大比瑠女神
山梨県富士吉田市大明見  社宮地神社  土坤埴安命

[3369] メールテスト2  Setoh 2002/09/09(Mon) 22:25 [Reply]
群馬県富岡市七日市に蛇宮神社(じゃぐうじんじゃ)と言う神社が鎮座しています。
祭神はタカオカミ神、社伝の蛇宮大明神縁起によると、もともとは諏訪大明神が祭られていた地に、明応三年(一四九四)九月二十九日(異本明応元年九月二十三日)蛇宮大明神として再建されたそうです。社口じんじゃの訛かも知れません。

[3368] メールテスト  Setoh 2002/09/09(Mon) 22:16 [Reply]
新支配者の婚姻相手、初夜、子孫について、特徴がありそうです。

国譲り@
瓊瓊杵尊は大山祇神━木花咲夜媛を娶って(一宿)
火照命(隼人阿多の祖)、火須勢理命、火遠理命(日子穂穂出見命:皇祖)

国譲りA
神武天皇は大物主神━伊須気余理比売を娶って(一宿御寝)
日子八井命、神八井耳命(多臣、阿蘇君などの祖)、神沼河耳命(綏靖天皇)

国譲りと一夜婚とはつながっているようです。おちおち出来なかったのでしょうかね?
そうして生まれた男子の一人が後継者となっています。国譲りの場合にはもう一人の男子は九州の豪族の祖になっています。

[3367] Re[3366]: もひとつよさ  大三元 [Url] 2002/09/06(Fri) 18:11 [Reply]
> 籠神社の伝承によると
> 匏宮をヨサノミヤと読むみたいです

ええ、そうですね。ただ古くからの資料に読み仮名が振ってあったわけではなく、海部穀定さんが振ったものでしょうね。勿論、内容的にヨサ宮の話なので匏宮をヨサノミヤと読むのは悪くない。それどころか丹後風土記残欠に「与佐郡 本字 匏」とあるので、これが根拠なのだろうと思います。

そして、それにしても、なんで「匏」を「よさ」と読むのか、というのが私の問題意識です。
時代別国語辞典上代編にも「よさ」という語はなく(「よさつら」はありますが、「つら」が葛であろう、とはするものの「よさ」の説明がない)学研・漢和大字典でも「ひさご・ふくべ」の訓しか与えて居ないのです。
「よさ」という「匏」を意味する日本語が失われた、とでも考えるのかなぁ、と思ってます。

[3366] もひとつよさ  日出倭 [Mail] 2002/09/06(Fri) 16:19 [Reply]
籠神社の伝承によると

匏宮をヨサノミヤと読むみたいです


[3365] Re[3364][3355]: 大峯高野街道  Setoh 2002/09/06(Fri) 11:49 [Reply]
ひふみさん、ありがとうございます。
> 、「大峰山〜洞川〜天川・川合〜坪ノ内集落内(天川弁財天前)〜天川・和田〜天川・阪本〜大塔村〜野迫川(野迫川弁天前)〜高野山」となります。

> 道々にある(名の知られた?)神社
天川・川合 天水分神社
坪ノ内 弁財天
天川・和田 伊波多神社
天川・阪本 今は大塔村です。天神社
野迫川 荒神社(立里荒神)は知られていますね。コースからはずれるのでしょうか?
野迫川弁天はどこにあるんでしょうか?

[3364] Re[3355]: 大峯高野街道  ひふみ [Mail] 2002/09/06(Fri) 00:08 [Reply]
きすい様、はじめまして。大峰山の麓に住むものです。

御質問の大峰高野街道は存在します。ただ、ホームページで色々調べてもたぶん出て来ないでしょう。
今現在、大峰高野街道と言われているのは、「大峰山〜洞川〜天川・川合〜坪ノ内集落内(天川弁財天前)〜天川・和田〜天川・阪本〜大塔村〜野迫川(野迫川弁天前)〜高野山」となります。
夏休みの間は、奈良交通が「大峰高野線」という事で特別便を出しています。
車での所要時間は、洞川から高野山まで、山道の運転に慣れている方でも、2〜3時間はかかりますし、途中違う道に入った方もいらっしゃいます。
歩くとなると、たぶん1〜2泊ぐらいかかると思った方がよろしいでしょう。

しかし、現在「大峰高野街道」と言われている道は、あくまでも車で走るのを前提とした道で、昔の方が歩かれた道とは、若干異なるようです。
例えば、谷道よりも峰伝いの道の方を歩かれた方もいらっしゃったようですし。(昔の集落は、谷沿いの家より、峰に近い家の方が格が高いとされていたらしい。)

又、街道沿いの言い伝えも、そのほとんどが口伝だったらしく、地元でもあまり知られていないようですね。でも、道々にある名の知られた神社等だけでも、充分だと思います。

(直接、メールでとも思ったのですが、他にも興味のある方がいらっしゃればと思い、こちらに書かせて頂きました。御質問等あれば、直接メールででもどうぞ。Setoh様、ありがとうございました。)

[3363] Re[3362][3357] さらによさ  大三元 [Url] 2002/09/05(Thu) 23:33 [Reply]
> 「よさ」を「吉佐」と記すのにはそれなりに意味があるのでしょう。
> 「吉佐(与謝)郡」の隣が「伽佐(笠)郡」ですから・・・
>
> 笠(ウケ)をカサと誤読してしまって加佐の字をあててしまったお話は
> 大三元さんのHPで紹介されている丹後風土記残欠に詳しいですね。

えっと、丹後風土記残欠は「笠」は(ウケと読むべき所を)誤ってカサと読んでいる、と言っているのだと思います。ですから、その立場で行くと、誤って読んだカサに韻を合わせるようにヨサという地名ができた、というのは、あり得るとしても、面白くない、というか、なんというべきか。。。

「笠」を「ウケ」と読むのは自分でも難しいです、ウケこそが誤読だろう、とも思いますが、丹後風土記残欠はそうは言ってないように思います。

強いて色々考えるとアイヌ語で ukaが「互いの上:一つ上に又一つ、重なって/重ねて」とあるので「カサナル(重なる)」とつながる。つまり、カサが嵩を意味していた、とすれば、ウカ、までは辿り着けるのですがねぇ。。。


[3362] Re[3357] さらによさ  日出倭 [Mail] 2002/09/05(Thu) 22:36 [Reply]
「よさ」を「吉佐」と記すのにはそれなりに意味があるのでしょう。
「吉佐(与謝)郡」の隣が「伽佐(笠)郡」ですから・・・

笠(ウケ)をカサと誤読してしまって加佐の字をあててしまったお話は
大三元さんのHPで紹介されている丹後風土記残欠に詳しいですね。

[3361] 大峯高野街道  きすい [Mail] 2002/09/05(Thu) 22:15 [Reply]
皆さん ありがとうございます。

早速、調べてみます。なにかありましたら、

また、教えてください。 ありがとうございました。


[3360] お久しぶりです  三碧星 2002/09/05(Thu) 19:36 [Reply]
なるほど、瓢、豊受、とくりゃキツネが来るのは当たり前ですね。
キツネはその色から土気の生き物とされますが、
易経では水の生き物なんです。不思議不思議。天水分神もそこからの連想?
また水・坎は、方角では北を指します。吉葛神社が南宮大社を北の方に、というのも納得。
籠目と言うのも、やはり陰陽道から来てるのですかね?

鏡とくれば火の性である蛇が連想されますが、狐と蛇は、御存知のとおり仲がいい。
しかし、狐の大好物は蛇なんですよね。マムシを見つけると躍り上がって喜ぶとか。
火の次に現れるのが灰の土だから、当然なのかな?(土は、槌の子に繋がるか。奥が深いっ)

[3359] Re[3355]: 大峯高野街道  yanase [Mail] [Url] 2002/09/05(Thu) 18:15 [Reply]
> 吉野から高野山へ抜ける大峯高野街道を歩きたいのですが、検索の仕方が下手で、……

「大峰」の漢字で検索すればよいのでは?

こうして熊野,吉野を結ぶ行場が成立し,近世以降はほぼ大峰七十五靡(なびき)(宿)として固定した。(平凡社世界大百科)

[3358] Re[3356][3355]: 大峯高野街道  Setoh 2002/09/05(Thu) 16:12 [Reply]
大峯高野街道とは定義があるんかどうか承知していませんが、弘法大師空海が吉野から高野山へ赴いた道の一つについて、当掲示板過去ログにありますのでご参考にどうぞ。

平成十三年十月
[2047] 空海の足跡  
[2040] 空海の足跡
の二件です。  

[3357] Re[3354][3351][3352]: よさ  大三元 [Url] 2002/09/05(Thu) 10:20 [Reply]
> 天吉葛はアマノヨサヅラと読んだでしょうか?

ご存じでしょうがイザナミが死ぬときに「天吉葛を生む、これをアマノヨサツラと言う。また、ヨソツラと言う」(日本書紀、第三の一書)があるんですよね。

> 匏→吉匏→吉佐→与謝と変化したように思います。

吉がヨソ・ヨサに対応するでしょうから、匏→吉匏だとすると、古くはツラと言っていたものに、良い・葛、ほどの意味で「吉」を付けたんでしょうかね。そして後に、今のようにヨサだけが残るってのは軒を貸して母屋を取られたような語ですねぇ、(^_^)。
ツラは「葛か。」(時代別・国語辞典・上代編)ツラナギ・ツラナミなんかも「面」じゃないのかもね??


[3356] Re[3355]: 大峯高野街道  Setoh 2002/09/05(Thu) 08:29 [Reply]
大峰は少々お待ちくださいね。

近鉄の駅で発見!。
はびきの歴史シンポジュウムが9月21日(土)に開催との事。
中身は
考古学者の水野正好・奈良大学教授と歴史学者の狩野久・京都橘女子大学教授、国文学者の中西進・帝塚山学院長が、「ヤマトタケルと白鳥伝説」をテーマに、ゆかりの地・羽曳野で古代ロマンを語る。
とのことです。
http://www.sankei.co.jp/bochi/event/habikino/habikino.html


[3355] 大峯高野街道  きすい [Mail] 2002/09/04(Wed) 23:17 [Reply]
はじめまして、検索をしている時に、何気なくこの掲示板を見つけたので、

本筋とは違うでしょうが、申し訳ありませんが教えていただけませんでしょうか?

吉野から高野山へ抜ける大峯高野街道を歩きたいのですが、検索の仕方が下手で、

思うような資料が集まらないので、hpや本など、何か良いモノがありましたら、

教えていただきたいです。 お願いします。


[3354] Re[3351][3352]: よさ  日出倭 [Url] 2002/09/04(Wed) 13:51 [Reply]
大三元さん>
天吉葛はアマノヨサヅラと読んだでしょうか?
「瓢」ではなくて「匏」でした。m(_ _)m
真名井神社の古名には「吉匏宮」もあるようですから、
匏→吉匏→吉佐→与謝と変化したように思います。

Setohさん>
息津鏡、邊津鏡はそれぞれ息津嶋(冠島)、邊津嶋(沓島)に
対応しているようです。
籠神社ではお正月に破魔矢ではなく「天羽羽矢」を売り出し
ます(天羽羽矢が転じて破魔矢になったと説く)が、その矢に
は十種神宝を形取ったモノが付けられています。

[3353] 「よさ」んよ。  Setoh 2002/09/04(Wed) 11:33 [Reply]
『先代旧事本紀』天孫本紀によれば、
天照靈貴ー天押穂耳尊ー天火明命ー天香語山命ー天村雲命ー天忍男命ー瀛津世襲命・世襲足姫
となります。
天香語山命のルーツを筑豊の香春岳の祭神の忍骨耳尊と見れば、世襲兄妹は6代目で、『古代倭王朝論』によれば、6は韓語の「jet」(よつ)で、これが「よそ」になったと可能性も指摘されています。ついでに、世襲足姫は第6第孝安天皇の生母だそうです。青草風6進法でした。
[3352] 「よさ」んか。うん、前にもあったか。  Setoh 2002/09/04(Wed) 11:01 [Reply]
日出倭さん > 内容があまりにもトンデモなので割愛させて頂きます。
こう書かれると興味津々ですね。

大三元さん> 傍に天吉葛が生えている。

南宮大社(仲山金山彦神社)の摂社に吉葛神社(よたつら)「天吉葛神」 が境外(大社を北のほうに降りていく途中)に鎮座していました。なんでだろう?と思っていましたが、籠神社との関係かもしれません。南宮大社の祭神に彦火火出見尊がいます。また籠神社の祭神も大化改新の頃には彦火火出見尊彦だったと『日本の神々7』に記しています。火明命の父神と言うことです。
尾張氏の祖神ともされる火明命を奉じた人々が関ヶ原付近に一部居住した際に、彦火火出見尊と祭るための「水を盛り神饌を調度して進めた」天吉葛の匏を祭ったのかも知れませんね。

鏡は神の依代とされており、饒速日尊にしても、天日槍命にしても、いくつかの鏡と共に降臨しています。籠神社には神鏡が現実に伝わっており、息津鏡、辺津鏡にお名で呼ばれています。
凪の時には水面は鏡のようだと表現しますが、与謝海、阿蘇海が息津鏡、辺津鏡に対応しないものか等と思っていましたが、青草でしょうかね。

武位起、五十猛、不合尊、阿蘇と発想すれば、『宮下文書』51代不合尊王朝にこれまた青草接続とあいなりますね。

[3351] Re[3350][3349]: 与謝は吉佐  大三元 [Url] 2002/09/04(Wed) 07:32 [Reply]
> 一般的には与謝は但波の吉佐宮の「吉佐」が転じたものだと言われていますね。

とすると、古くは「キサ」とでも読んだのだろうか。
与謝は加悦(かや)郡の地名
キサに近いアイヌ語に kisar 茅原 があるが、、、はて

> 吉佐宮の津(みなと)だから宮津となった様で・・・・
> 吉佐とは瓢(ひさご)の事だそうです。

単語風土記残欠より:(読みは小生)
与佐郡(以下可有脱文)亦、傍に天吉葛が生えている。その匏(ヨサ)を以て、真名井の水を盛り神饌を調度して進めた。長く大神を奉る。それで、真名井の原、ヨサの宮と称する也。

[3350] Re[3349]: 与謝は吉佐  日出倭 [Url] 2002/09/04(Wed) 00:59 [Reply]
一般的には与謝は但波の吉佐宮の「吉佐」が転じたものだと言われていますね。
吉佐宮の津(みなと)だから宮津となった様で・・・・
吉佐とは瓢(ひさご)の事だそうです。

一方の阿蘇海の「阿蘇」は、阿蘇山の「阿蘇」と同じ意味だと聞いていますが、内容があまりにもトンデモなので割愛させて頂きます。

それにしても・・・・
阿蘇海のある丹後宮津から阿蘇山のある肥後熊本に転封されたのは、あの細川氏なのです。(家康には相当なブレーンが居たのですね)


追伸
[3348] 無題  早乙女屡菟 様
万が一にでもお役に立てたのなら光栄です。

[3349] 天橋立の東海を与謝海、西海を阿蘇海と言う。  Setoh 2002/09/03(Tue) 22:31 [Reply]
尾張氏の祖に世襲足姫の名が見える。与謝が世襲になったのか。余所とは外の意か。外海か。
西側は完全に湾内でおそらくは浅い?。浅い海が阿蘇。
武位起を中にして世襲足姫と建磐竜とに分かれていった分家がいたのかも。

[3348] 無題  早乙女屡菟 2002/09/02(Mon) 15:29 [Reply]
ありがとうございました。娘がなんか自由研究におばあちゃん家がそこだから(丹後
是非調べてたいと・・・大変迷惑かけました・・娘なんかそれで先生におめられたっ!
て言ってすごく喜んでいました。本当になんて礼を言ったらよいか・・
とにかくまことにまことにありがとうございました。


神奈備掲示板、あさもよし掲示板 過去ログ集




神奈備ホームに戻る