神奈備掲示板の案内とログ

神奈備掲示板

神奈備掲示板、あさもよし掲示板 過去ログ

掲示板のログ(平成十五年 三月)お名前の敬称は省略しています。

[4024] Re[4023][4022][4018]: 教えてください  市杵島姫 2003/04/01(Tue) 02:59 [Reply]
> 筑波の県は昔は「紀の国」といっていたと『常陸国風土記』に見えますし、行方の郡の条では建貸間命が部下に「杵島ぶりの歌」を歌わせていますが、この杵島は肥前国の杵島の歌垣での民謡だとか。>市杵島姫さんがご指摘のように、肥前ー紀の国ー常陸とラインがつながっているようですね

茨城県の鹿島と同じ地名が佐賀県の鹿島市ですね。「かしま」は、杵島に由来しているそうです。杵島山は列山で、肥前風土記にも「三つの山が連なる」と記述されています。(真中の山が飯盛山なので、調べましたヨ!)この杵島山全体は、たくさんの古墳群が点在していて、地元の方に弥生土器の欠片が簡単に出る場所を教えてもらった事があります。歌垣山とは、杵島山全体の事を指しているようです。ご指摘の杵島謡りが、ここが発祥の地である事は、風土記の時代には既に肥前と常陸が何らかの繋がりを持っていた事を示唆していると私も思います。
杵島山の中の稲佐山には、稲佐神社があるのですが、これが以前、五十猛命が祀られていると教えていただいた神社ですか?訪ねた時は気が付きませんでしたが、神仏こんこうの大きな神社でした。

佐賀と奈良の地名の類似は沢山ありますが、下記は地図を見比べて解りやすいと思います。
佐賀県天山周辺: 天河川、天川村、天川神社、熊の川、葛の尾、大和町、川内
奈良県吉野周辺: 天ノ川、天川村、天河弁財天、熊野川、葛、大和、河内

佐賀は「あまごがわ、あまかわ村、あまかわ神社」、奈良は「てんのかわ、てんかわ村、てんかわ弁財天」読みます。天山の上宮には弁財天が祀られていますし、あたり一帯の神社には宗像の三女神が祀られています。末娘の市杵嶋姫は、仏教と習合すると、弁財天と呼ばれまが、
天河弁財天は江戸時代には、「吉野にいます宗像の市杵嶋姫」と呼ばれていたそうですから、肥の国から紀の国に遷宮されて来たのでしょう。



[4023] Re[4022][4018]: 教えてください  神奈備 2003/03/30(Sun) 18:17 [Reply]
> 九州の佐賀県周辺と紀伊半島の中央部には同じ地名がたくさん見られます。

これは面白いお話ですね。武内宿禰の子孫の氏族名は基肄郡など有名な話ですし、五十猛命がらみの園部、また丹生程度しか気がつきませんでした。
五十猛命が木を植えはじめたのが基肄郡の荒穂神社、終焉は伊太祁曽神社。ほかに記憶に残っているのは武内宿禰の誕生の地が両方にあること。
 佐賀 武雄市武雄町 武雄神社 和歌山安原 武内神社
 その母親とされる山下影日売を祭神とする神社は佐賀では伊万里神社、和歌山には見あたりませんが、山下さんが多く住んでいる地域は安原の近くにあります。
 また『肥前国風土記:藤津の郡』に紀直らの祖穉日子を派遣して土蜘蛛を誅滅しようとした話や確か国造にしたちょうな話があったような気がします。
 有田焼きを江戸に仲介したのは有田の箕島の商人達でした。ミカン船だけではなかったのです。

> 「常陸の国」
筑波の県は昔は「紀の国」といっていたと『常陸国風土記』に見えますし、行方の郡の条では建貸間命が部下に「杵島ぶりの歌」を歌わせていますが、この杵島は肥前国の杵島の歌垣での民謡だとか。

市杵島姫さんがご指摘のように、肥前ー紀の国ー常陸とラインがつながっているようですね。

[4022] Re[4018]: 教えてください  市杵島姫 2003/03/30(Sun) 00:18 [Reply]
> 突然お邪魔します。実は私の母方の実家が400年ほど前に和歌山から越してきた事が・・・

こんにちは、しまさん。大字・小字の場所を調べるのに手っ取り早い方法がひとつありますので、ご参考までに・・・。国土地理院の2万5千分の1の地形図に記載されている全ての地名を五十音順に掲載した索引が、大きな図書館に行くとあります。(東京なら、港区:麻布図書館と文京区:本郷図書館で見た事があります。)地名の仮名読み順に「県名・市町村名・東経E・北緯N」と共に、「どの地形図に掲載されている地名か」という事が解りますので、もし目当ての地名が見つかれば、大きな書店(新宿:紀伊国屋など)の全国の地形図売り場で2.5万の地形図を手に入れれば、大抵は見つかります。ここで見つけられない時は、市町村の合併で字名が変わっている時なので、管轄と思われる地町村の役場の文化財担当の部署に「旧字名で○○は、今は何という地名ですか?」とお訊ねしてみれば、解る可能性が高いです。それでもはっきりしなかったら、だいたいの見当で現地へ行って見て、旧家の古老にお訊ねしてみると、わかったりします。
ご実家の茨城は、鹿島神宮に近い地域ですか?鹿島から宇都宮にかけて、「常陸の国」は、紀伊半島から海路でたくさんの人が移民しているようですね。もっと古い時代の成立
だと思いますが、九州の佐賀県周辺と紀伊半島の中央部には同じ地名がたくさん見られます。人が元居た故郷と同じ地名を配置することはよくあるようなので、墓誌に他の地名の手がかりがあったら、それと同じ小字名も探してみると、意外に事がすすむかもしれません。

[4021] 次の旅行  PONTA 2003/03/29(Sat) 23:55 [Reply]
日本武尊が草薙剣を使った場所に行きたいと思っていますが、
1.草薙神社(清水市)
2.焼津神社(焼津市)
3.神奈川県(「古事記」の記載)
のどれが本当なのでしょう?

[4020] 終了  PONTA 2003/03/29(Sat) 23:49 [Reply]
PONTAのAYAです。

東三河&西遠の式内社36社の調査が終了しました。
下記のサイトに全社の写真を載せています。

また併せて西遠の全神社約350社の一覧も載せておきました。
ご指導いただければ幸いです。

http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Stage/2905/tabi5.html

[4019] Re[4018]: 教えてください  神奈備 2003/03/29(Sat) 09:10 [Reply]
> 墓誌には紀伊の国名草郡伊吹との地名があり、姓は斎藤です。

『紀伊国続風土記』には伊吹荘、伊吹村などの地名は見えません。平凡社の『和歌山県の地名』にも見えません。これらには、大字はともかく小字はほとんど収録されていませんが、名草郡の次に書かれるなら小字ではないでしょうが。

 伊吹からの連想では伊福(部)なども考えられますが、これも見あたりません。
 また伊吹山からは金属精錬を想起しますが、金山彦神を祭る神社は名草郡では杉尾神社摂社金比羅神社、千種神社摂社金刀比羅神社です。海南市です。

祓いの神として伊吹戸主命は名草郡では刺田比古神社の摂社に祭られています。

 ほかに和歌山のことでご存じの方、よろしくお願いいたします。

[4018] 教えてください  しま [Mail] 2003/03/28(Fri) 12:45 [Reply]
突然お邪魔します。実は私の母方の実家が400年ほど前に和歌山から越してきた事が
最近、古い墓誌から解りました。
墓誌には紀伊の国名草郡伊吹との地名があり、姓は斎藤です。
実家は茨城にあります。400年も前にどんなところから先祖がやって来たのか
母は探し出して訪ねてみたいと言っていたのですが、何の手がかりも無く、私もネットで
調べることにしました。和歌山 名草の検索でこちらのサイトに行き着いたのですが、何か手がかりになるような文献をご存知の方がいたらお教え願えないでしょうか?
素人の場違いなお願いで申し訳ないのですが、宜しくお願いします。

[4017] Re[4016]: エウカシ&オトウカシ  神奈備 2003/03/28(Fri) 07:56 [Reply]
伝承地の民さん ありがとうございます。
宇陀方面のたたずまいには古代が散見されるような郷愁めいたものを覚えますね。
大和国中が湖や湿地帯だった頃でも、宇陀の山間部では穀物が採取できていた豊かな地域だったのでしょう。宇賀神社の祭神は宇迦斯神魂とされています。いまこの神は稲荷神社の宇迦之御魂命と見なされていますが、意外と妥当な所かも。
 それに金属もあったようですね。
 式内社研究の志賀剛さんは神武天皇のルーツを宇陀に求めているほどです。

[4016] エウカシ&オトウカシ  伝承地の民 [Mail] 2003/03/28(Fri) 02:21 [Reply]
はじめまして。偶然にも神奈備さんのHPに行き当たり、「神武東征伝承地を歩く」を拝見しましたので、早速カキコしました。すでに、以前にお話しされておられるかもしれませんが、神話伝承地の民として少しだけおつきあい願います。
私は、神武東征で吉野地域から宇陀地域に入った際、「エウカシ」「オトウカシ」の伝承がある舞台の、奈良県宇陀郡菟田野町宇賀志(ならけん・うだぐん・うたのちょう・うかし)で生まれ育った者です。
幼少の頃から、親から神武東征の伝承を教えられて育ちましたが、その伝承とは、「大和の宇陀(ウダ)に入った神武天皇が、地方の長である兄ウカシ(エウカシ)と弟ウカシ(オトウカシ)の兄弟を召すと、弟ウカシは参上したが兄ウカシは従わず、わなを仕掛けて神武天皇を討とうとした。しかしその計略を弟ウカシが察知したため事前に防ぐことができ、兄ウカシは自ら仕掛けたワナによって滅ぼされた。戦勝を祝した宴で、神武天皇は来目歌を歌って喜んだ」というものです。
兄ウカシが仕掛けた罠は、押機といわれるプレスで、死んだ兄ウカシの流した血であたり一帯が染まったという伝承があり、血原橋という橋も実在しています。その橋のすぐ横には、宇賀神社があります。弟ウカシは、この地方の水の祖ともいわれ、水の分配を司り、菟田野町には、宇太水分神社という国宝の神社もあります。なお、この神社では、秋の大祭で町中から神輿がくり出し、特に、ふるさと創生の1億円を投資した神輿の「お渡り」という神事は壮麗です。私の住む宇賀志でも宇賀神社から宇太水分神社へ8人乗りの神輿が担ぎ出されます。
最後に、ウカシという語句は、「穿つ」という言葉から訛ったという説もあり、神武天皇が吉野山中から岩を穿って、大和平野に入ったという言い伝えもあります。それを先導したヤタガラスに因む神社や名所は奈良県にはたくさんありますが、昨年のワールドカップのトルシエジャパンのユニフォームの胸のヤタガラスのマークの元となった、ヤタガラス神社は、菟田野町の北にある榛原町に存在します。
長々とおつきあいありがとうございました。

[4015] 地蔵茶屋坐神社  神奈備 2003/03/27(Thu) 08:23 [Reply]
 熊野古道の最大の難所とされる大雲取越えの途中に地蔵茶屋がありました。現在は茶屋はありませんが、地蔵堂があり、少し南に神社が鎮座しています。熊野在住の方に神社名などを調べて頂いたのですが、地元の語り部の方々も残念ながらご存じないようでした。
この山深い地域のことについても『紀伊国続風土記』では色々な記事が見えますが、いざ神社となると単に小祠とのみ記録している場合が見られます。地蔵茶屋坐神社については記述そのものがありません。恐らくはこのような小祠を合祀して大雲取越えでは比較的交通が便利、大雲取山への登山口に近いなどの理由で当地に建てたのかも知れません。

 熊野本宮大社にしても延喜式では熊野坐神社と記載されているように、元来、固有名詞の神社名は必要なかったのでしょう。今でも神社名を尋ねると地元の方の中には氏神様ですとか地域の神様ですとしか云われない場合があります。
 高槻の白山神社の場合にも、区長さんが適当に答えたのが名前になってしまったと云われた媼がおりました。祭神にこだわる、神社名にこだわる、これは崇敬の心とは関係のないことかも。

[4014] 大雲取越え  神奈備 2003/03/24(Mon) 11:56 [Reply]
 大雲取越えは那智から本宮へ行く道筋であり、いはば帰り道ですので、王子社は設けられていません。
茶屋跡や旅籠跡が所々に残っており、その昔は客引きが多くいたようです。
そのような茶屋跡の一つに地蔵茶屋があり、そこから那智の方へ2km程は自動車が通れる舗装道路になっています。従って大雲取越えのルートの中でここは熊野古道が消滅している区間です。この舗装道路は大雲取山へつながっているようです。

 地蔵茶屋には地蔵堂があり、その南50m程に神社がありました。王子社ではないのでしょうが、神社名などは不明です。

 さて、写真掲示板の写真はコンクリートの道を南に歩いていった途中で見つけた巨乳岩です。このような丸みを帯びた石が土の間からいくつも生まれています。かっては寄せては返す海岸で石が丸くなっていき、その途中で砂などが堆積してから隆起してきたのが熊野の地を形成したものかと想像しています。いわば巨大な大齋原であったといえましょう。

[4013] Re[4012]: 連休  市杵島姫 2003/03/21(Fri) 01:31 [Reply]
> 21 本宮から渡瀬温泉
<神奈備様へ>
以前、このサイトのおかげで本宮のそばに飯盛山があることを知り、関西に仕事で行った時に足を伸ばして立ち寄りました。教えて頂いて、感謝しております。ホコジマと呼ばれる岩は、南海地震の時に頂上から谷に落下し、4個に割れて谷の途中に落ちていました。割れた岩に小さな祭壇が祀ってあって、岩を惜しむ地元の人の気持ちが伝わってくるようでした。山中には猿の一家が住んでいて、私が登る間、ずっと興味深々で遠くから付いて来ました。頂上には、昔、岩があった所をご神体の方向に見立てて祀った大きな祠がありました。今は、地元の人も殆んど登らないという尾根道は、ずっと鶯が鳴いていて、とても心休まる穏やかな道でした。本宮手前の川湯温泉郷から登る小さな山道があります。

http://www.kamnavi.net/kinokuni/minwa/kami4.htm

[4012] 連休  神奈備 2003/03/20(Thu) 22:14 [Reply]
21 本宮から渡瀬温泉
22 小雲取越え  どうやら雨のようで、定家の気分を味わうか
23 大雲取越え、那智

[4011] Re[4009][4007]: 飯盛山って?  市杵島姫 2003/03/19(Wed) 01:24 [Reply]
>「肥前国風土記」に高来(たかく)の郡が出てきます。長崎県の諌早市や雲仙の付近のことです。
> そうすると肥=高来=高麗となりそうですね。
ヒ族のヒの語源のひとつかも知れませんね。日・火・肥、それと当用漢字にはありませんが、古代中国で測量に使った棒のことをヒと言ったそうです。骨へんに卑という字を書くのですが・・・。「周ヒ算経」という古代の中国の幾何学書があります。卑弥呼の時代より以前から中国にはあったそうで、邪馬台国や高麗に伝承されていても、不思議ではありませんね。

[4010] Re[3978][3976]: 教えて下さい  市杵島姫 2003/03/19(Wed) 01:07 [Reply]
> > 盃状穴石というものに興味がありますが、
飯盛山の市杵島姫です。ご存知かもしれませんが、福岡県西区の飯盛山の外宮の境内に盃状穴石がひとつ置いてありました。地元の人が「溝の橋?」か何かに流用していたものを「これは、盃状穴石らしい」と、神社で保管しているような事が由緒書きに書いてありました。飯盛神社は、嘗てあった中宮を再建中らしいのですが、工事の過程で、山腹にたくさんの巨石群が見つかったとか・・・見に行ってみたいモノです。今は、「武州にいます市杵島姫」はなかなか行けません。

[4009] Re[4007]: 飯盛山って?  神奈備 2003/03/18(Tue) 20:52 [Reply]
> 「肥」というのは、高麗のことを表す言葉なのですか?

「肥前国風土記」に高来(たかく)の郡が出てきます。長崎県の諌早市や雲仙の付近のことです。
雲仙も火の山で肥になったのかも知れません。阿蘇山の印象が強いのですが、海上から見える火であれば雲仙のほうが当たりかも。

 そうすると肥=高来=高麗となりそうですね。

[4008] RE[4004][4005][4006]多氏古事記  岡田 [Mail] 2003/03/17(Mon) 17:20 [Reply]
ご教示ありがとうございました。「多氏古事記」という一冊の冊子があるのかと思って、探していましたが、「万葉集注釈」の「土佐国風土記』逸文の引用文だけを指すようですね。了解しました。

なお、石神について、拙論があるので、よかったらご一読ください。
  『東アジアの古代文化』68号 大和書房
   所収 岡田喜則著「両面宿儺と境界の石神スクナヒコナ」  



[4007] 飯盛山って?  市杵島姫 2003/03/17(Mon) 03:32 [Reply]
皆さんが色々と飯族のことを書き込んで応えてくださって嬉しいです。ありがとう!
●前回はちょっと言葉足らずでしたが、飯盛のモリにはご指摘のとうり、たくさんの意味が込められています。この系列の「飯の山」は、私が地図上で確認しただけでも、全国に190個以上あります。探せば、もっと増えそうです。表記は、「飯盛」が一番多く、北の方に行くと「飯森」になり、極たまに「飯守」と表記されます。旧仮名で表記した古い辞書を見ると、「いひもり」ですが、現在の辞書は「いいもり」です。東北では、今でも森が山の意味ですし、古代朝鮮語でもモリは山を表わしたそうです。私は、仮説として、古代から現代に至る長い時間の変遷の中で、「ヒナモリ→イヒモリ→飯守→飯森→飯盛」と変移した思っています。それなりの根拠はあるのですが、長い話になるので、割愛させて頂きます。
●「肥→コマ人」という情報にはとても興味があります。「肥の国」九州は、飯盛山がたくさんありますから。「肥」というのは、高麗のことを表す言葉なのですか?
●丸亀市の飯野山は、風土記(確か播磨風土記?だったかと思います)の中に今、兵庫県の揖保にある飯盛山の神様と夫婦になったという記述があります。「飯盛のおとじ」と「飯依比古」が結婚したという内容だったと思います。
●ふ〜ん、空海は、丸亀の出身なんですか。飯盛山の周辺には、時代が違いますが、行基と弘法大師の逸話が多いです。
●飯族もヒ族も本当に文献が少なくて、情報を求めています。五十猛命が関わっていることは確かです。お心当たりがあったら、お教えくださいませ。

[4006] Re[4004]: 多氏古事記  習志野のてつ [Mail] 2003/03/16(Sun) 15:28 [Reply]
> 教示請う。「多氏古事記」というものがあるそうですが、…
現在流布の「古事記」は、歴史上初めて出てくるのが、800年代です。
多人長(おおのひとなが)が表した書物に出てくるのが最初です。
『日本書紀』や『続日本紀』に「古事記」の引用も記録もありません。

余談ですが「多」氏は、雅楽の家でもあります。
今から10年程前の宮内庁楽部楽長は故「多忠麿」(おおのただまろ)さんです。
「太安万侶直系、第〇〇代」だったそうです。(確認したけれど忘れました。)

平安初期に出た「琴歌譜」に「日本古事記」とか「一(ある)古事記」とかからの
引用があり、かつその引用内容は今有る「古事記」とは一致しないそうです。*

『万葉集註釈』(鎌倉中期)中に『土佐国風土記』の逸文があり、その中に「多氏古事記」
からとして三輪山伝承に関する引用があり、やはり「古事記」とは違うそうです。*
*印、確認しておりません。

であれば、以下のことが想定できそう。
かつてはいくつかの「ふることぶみ」があった。
今の「古事記」は、それらを多氏が集大成したもの。

つまり今有る「古事記」のベースになっているのは「多氏古事記」の可能性が高い?


格調高い?「古事記・序文」について、賀茂真淵は偽であるとしました。
鳥越憲三郎氏は『「古事記」そのものが偽書である』と、となえています。

[4005] Re[4004]: 多氏古事記  神奈備 2003/03/16(Sun) 10:51 [Reply]
> 「多氏古事記」
この古事記の枕詞は「失われた」と言う感じで、これまた逸している『土佐國風土記』が『万葉集注釈』に引用されている中に三輪の村と社の名の地名説話として掲載があるようです。

> 飯神社
讃岐國鵜足郡の式内社です。祭神は飯依比古で、古事記の国生みの条では讃岐を飯依比古と言うとあり、この神のようです。
讃岐國の地主神、讃岐國の住民の祖神、どちらかなんでしょうね。

で、飯族とは一体何でしょうか。飯依比古と関係があるのでしょうか。
伊予國の伊太祁神社の由緒書きに、国魂飯神として五十猛命を飯族の祖神としています。伊予と飯依、何か近いようですね。根拠なしですが、伊予國宇摩郡は讃岐に近い所で、伊予國に属していたのかも。
『式内社調査報告』によりますと、飯神社に少名彦神の影が見えるようです。どうも紀氏や秦氏の移住もありえたのかも知れませんね。

[4004] 多氏古事記  岡田 [Mail] 2003/03/15(Sat) 23:26 [Reply]
教示請う。「多氏古事記」というものがあるそうですが、どうしたらそれを読むことができるか、どなたかお教えください。

[4003] 飯神社に行きます。  瀬戸内 2003/03/15(Sat) 22:51 [Reply]
前略。瀬戸内です。この掲示板は、いいですね。落ち着きます。
昨年12月末にて退職(リストラ)して、福岡から故郷の
四国は香川県丸亀市に、約20年ぶりに帰っています。
(現在は、失業中で時間は、十分ありますが、お金は、反比例でありません。)
近くに、飯野山(飯山)イイノヤマ (ハンザン)があり、山の麓に、
約1100年以上歴史の有る飯神社があります。
まだ、参ってはいませんが 近々、行きたいと思っております。
不勉強で、よくわからないのですが、この神社も飯族に関係あるのでしょうか。
ちなみに、かの空海の出生地は、この神社から10KMぐらいのところです。
ADSLに加入 新型パソコンを買い、久しぶりに書き込みしています。
神奈備のサイトは最高です。
しばらく インタ-ネットを離れていましたが、良さを再確認した次第です。




[4002] Re[4000][3999]: 飯族と五十命の関係をご存知?  神奈備 2003/03/14(Fri) 08:57 [Reply]
> 私は、飯盛山のことを調べて研究しているものです。

市杵島姫さん、どうも。五十猛命と兄弟ですね。

> 実は、元は飯守で、飯族が守っていた山という意味です。
そう云ってしまっていいのでしょうか。「モリ」には色んな意味が含まれているとされます。杜、神の坐す所、または山の意味など。東北の日本海側にはモリノヤマ信仰があって、死霊の集まる所とか。

> 五十猛命を祀る神社の周辺に「飯」がつく地名・山がある所

新潟県 佐渡郡 羽茂町 大字飯岡 度津神社 祭神 五十猛命、配祀 大屋津姫命、抓津姫命
愛媛県 宇摩郡 土居町 土居   伊太祁神社 祭神 国魂飯神、五十猛命、大屋津姫命、抓津姫命
福岡市 西区 大字飯盛 飯盛神社 中宮 祭神 五十猛大神

和歌山県那賀郡にも飯盛山がありますが、五十猛命を祀る神社は見つかっていません。
大阪では四条畷神社がそうですが、この神社そのものは新しく、建立以前史については承知していませんが、何か出るのかも。おいおい調べて見ます。

[4001] Re[3999]: 飯族と五十命の関係をご存知?  福島雅彦 [Mail] [Url] 2003/03/14(Fri) 02:40 [Reply]
> 下記のお心当たりがありましたら、教えて下さい。
>
> ●五十猛命を祀る神社の周辺に「飯」がつく地名・山がある所
> ●ヒナ「日名・日南・夷・比奈」、転じて「飛騨・日高・日向(ひなた)」の地名が
> ある所

※『ヒ族』とは、興味があります。『肥⇒コマ人』とは無縁でしょうか?。
※大分県日田市の古地名は『日鷹⇒日高』です。私はこの地は『元・出雲』と比定しています。飛騨と似て?盆地の地形です。

[3999] 飯族と五十命の関係をご存知?  市杵島姫 [Mail] 2003/03/14(Fri) 01:57 [Reply]
私は、飯盛山のことを調べて研究しているものです。
このHPの方々が五十猛命のことを良くご存知のようですので、
教えていただければと思い、メール致しました。
「五十猛命は、飯族の祖神」と伝承されているイタケルの神社が多いのです。
飯盛は、山の形からの呼称と一般的に考えられていますが、
実は、元は飯守で、飯族が守っていた山という意味です。
もっと古代には、日守で、ヒという言葉を単独で発音するのを
嫌った古代のこの国の人が、接頭語のイをつけて、イヒモリと発音しました。
ヒという言葉には接尾語を付けることもあり、ヒナ(日名・日南・夷・比奈)となり
ます。
ヒ族は大和朝廷の民族よりも前にこの国に渡ってきた渡来系で、
後に朝鮮半島から渡って来た民族(大和朝廷の人々)に征服され、同化しました。
この時、大和朝廷に服従した人は「イヒ(飯)族」となり、
敵対した人は「ヒナ(蝦夷)」と分類されたようなのですが、
古代のことなので、それを実証する手がかりを求めています。
彼らの特徴は、陰陽道を用いた非常に精巧な測量技術を持っていたことです。
また、山の頂上付近に古代の土木工事をほどこしています。
山の形を整形しているのです。
下記のお心当たりがありましたら、教えて下さい。

●五十猛命を祀る神社の周辺に「飯」がつく地名・山がある所
●ヒナ「日名・日南・夷・比奈」、転じて「飛騨・日高・日向(ひなた)」の地名が
ある所
●日守(ヒモリ・ニッカミ)、日下(クサカ)の地名がある所

どうぞ、よろしくお願いします。



[3998] Re[3997][3995][3993][3990][3989][3987]: はじめまして  Rei 2003/03/13(Thu) 21:32 [Reply]
ありがとうございます。
> http://homepage2.nifty.com/YAJI/から
http://www.amigo2.ne.jp/~yaji/
というページにたどり着きました。
ここの「古代日本の母系制について」というページが同じものですね。
彦火明命が知りたかったのでこれで充分です。
本当にいろいろ有難うございました。これからもよろしくお願いします。

[3997] Re[3995][3993][3990][3989][3987]: はじめまして  大三元 [Url] 2003/03/13(Thu) 09:13 [Reply]
> http://homepage2.nifty.com/YAJI/keizu.htm

ダウンしてありますが三世孫までしかなく、市販の解説本と同じ範囲と思います。
先に書きましたように原文(全文)は神道大系に収録されており、国会図書館、都立中央図書館にあります。

[3996] 葦舟、大阪の川に出現  神奈備 2003/03/12(Wed) 11:29 [Reply]
世界水フォーラムに合わせて、オフィシャルイベントに葦舟が淀川を下り多分道頓堀川を上ると思います。
葦舟カムナPjのHP( http://www.kamuna.net/ )によりますと予定は下記の通り。

3/14(金) 宇治公園〜枚方河川公園コース
3/15(土) 枚方河川公園〜桜の宮公園コース
3/16(日)桜の宮公園〜水都ルネサンス水上パレード

漕ぎ手、見物人を募集していますので、ご参加下さい。

また大阪の水神としては、水神社が知られています。地下鉄谷町線野江内代(のえうっちんだい)下車南100m。別名を野江神社(地図では水神社が多い)と云い、水波女大神をお祭しています。
「水徳廿霊神万民化楽氏子繁昌之所」と書いた木札を神前に奉り、快晴の祈願をしたと伝わります。

また道頓堀川は在阪球団優勝時にファンが飛び込む川で、安井道頓と云う方が私財をなげうって掘った川で、子孫が所有権で裁判を起こしましたが、敗訴したとか。
川ですから氏子はいませんしタマチャンのようなペットもいません。
道頓堀川の守り神としての地域の地主神は以下の通り。
東部 高津神社 この中に安井道頓の墓があるとか。安井稲荷鎮座。
西部 難波八坂神社
北部 三津八幡神社

[3995] Re[3993][3990][3989][3987]: はじめまして  神奈備 2003/03/11(Tue) 21:18 [Reply]
> 前にこの原文が載ってるホームページがあると、ここの掲示板で見たのですが、みつかりません。どなたか教えて下さい。

記憶力、仰天。
[3329] 2002/08/26
http://homepage2.nifty.com/YAJI/keizu.htm
ですが、現在は見つかりません。

ダウンロードしていませんでした。

http://kammuri.com/
凡海郷 の方にお尋ねされてみては。

[3994] Re[3992][3987]: 隼人のハヤトチリか  神奈備 2003/03/11(Tue) 21:02 [Reply]
> 当地の鹿児島神宮あたりとは縁がありそうです。
> 調査、成果を期待しています。 (~_~)

横から余談。
鹿児島神宮は篭島ですから篭神社につながり、祭神の彦火明命は『日本書紀』では一書に曰くが七個も出てくる位置づけがわかりにくい神です。神話の舞台は木花咲夜姫や隼人の国のようです。
隼人に刺領布(さしひれ)なる『履中』に登場する仲皇子の近習がいますし、隼人が身につけた領巾として、蛇比礼、蜂比礼があります。←この出典忘却。
石見の比礼振山の山頂に鎮座していた佐毘賣山神社の三姫の一に木花咲夜姫がいます。
蛇比礼、呉公蜂比礼は素盞嗚尊の坐す根の国で須勢理姫が大国主に与えたものですが、隼人の神具と同じもののようです。須勢理姫と火須勢理命、似すぎていますし、後者は火明命の異名(平成データ)ともされています。

余談ですが、十種神宝のうち、羸都鏡、邊都鏡、蛇比礼、蜂比礼は篭神社と深い関係が出てきそうです。ある方から聞いたのですが、十種神宝の呪術は東北の物部に伝わっていたもののユーターンとか。物部家のは五種(内十握剣は鎌倉時代作)が伝わっているとか、また実は実体のないもので、篆刻文字の一部を紙に書いたものとか。
 はるか遠いルーツは隼人にあったのかも。

[3993] Re[3990][3989][3987]: はじめまして  Rei 2003/03/11(Tue) 20:00 [Reply]
前にこの原文が載ってるホームページがあると、ここの掲示板で見たのですが、みつかりません。どなたか教えて下さい。

[3992] Re[3987]: はじめまして  nick [Url] 2003/03/10(Mon) 12:54 [Reply]
当地の鹿児島神宮あたりとは縁がありそうです。
調査、成果を期待しています。 (~_~)

[3991] Re[3990][3989][3987]: はじめまして  大三元 [Url] 2003/03/10(Mon) 08:56 [Reply]
神道大系に全文が収録されたものがあります。
国会図書館と東京都立図書館にあるのは確認済み。

コピーを持っていますが、これを更にコピー配布するのは遠慮しておきます。
あしからず。

[3990] Re[3989][3987]: はじめまして  Rei 2003/03/09(Sun) 21:11 [Reply]
ありがとうございます。さっそく探してみます。
『元伊勢の秘宝と国宝海部氏系図』は冒頭部分だけですね。
活字になったものというとなかなかないのかな?

[3989] Re[3987]: はじめまして  日雲 2003/03/09(Sun) 20:59 [Reply]
御存知かも知れませんが、
「古代海部氏の系図<新版>」金久与市著・学生社刊・2200円(税別)
という本があり、これは一応、勘注系図の現物の写真なんかも載ってます。
(楽に読めるクオリティのものです)

あと、「古代丹後王朝はあった」とかいうような本にも何らか書いてあったように思いますが、
ちょっと今見当たりません。

[3988] Re[3987]: はじめまして  神奈備 2003/03/09(Sun) 17:46 [Reply]
> 海部氏の勘注系図について調べています。どなたか原文をご存知の方はいらっしゃらないでしょうか。また、参考になる書物でもありましたらお教え下さい。

籠神社の社務所に
『元伊勢の秘宝と国宝海部氏系図』(発行、籠神社)
が置いてあったように思います。
原文が掲載されているのかどうかは、籠神社に問い合わされたらと思います。

[3987] はじめまして  Rei 2003/03/09(Sun) 13:44 [Reply]
海部氏の勘注系図について調べています。どなたか原文をご存知の方はいらっしゃらないでしょうか。また、参考になる書物でもありましたらお教え下さい。

[3986] Re[3985]: 氏神様について  神奈備 2003/03/08(Sat) 08:35 [Reply]
> 私は、和歌山氏狐島に住んでおります、以前は西浜に住んでいました。
> 氏神様とは、住んでいる土地によって違うとか、引越しをしたら氏神様も変わるとか聞きますが、実際はどうなんでしょうか?

http://www.jinjahoncho.or.jp/ja/shitumon_03.html#f
を参照下さい。

[3985] 氏神様について  かず [Mail] 2003/03/08(Sat) 00:02 [Reply]
はじめまして、管理人&みなさまm(__)m
早速ですが、最近私の勤めている会社で車の故障や、事故などが相次ぎ
ある方に見てもらうと、氏神様にお参りをしていないからだとか言われました。
私は、和歌山氏狐島に住んでおります、以前は西浜に住んでいました。
氏神様とは、住んでいる土地によって違うとか、引越しをしたら氏神様も変わるとか聞きますが、実際はどうなんでしょうか?
どなたか知っている方がいましたら、教えていただきたく思います。
よろしくお願いします

[3984] Re[3983][3982]: たんかんさ〜  nick [Url] 2003/03/06(Thu) 21:05 [Reply]
神奈備さん。こんばんわ。

> > 所で、諏訪神社とは国分市上井716の神社、現在の韓国宇豆峰神社は県国分市上井898と近いようですね。

そうです。左から説明のように3社鎮座します。熊満崎、諏訪、宇豆峯。
当地でも一つの区域にこれだけあるのは不思議です。
案外、一社位は寺院だったのかも??

> 写真では中央の神奈備山のようですね。
> > 『式内社調査報告』(韓国宇豆峰神社は藤井重壽氏記)によりますと、
> 『寺社調』は「韓国神社往昔鎮座は矢嶽にして絶頂に一畦余り宮地とて今も残りし由承り候也」と紹介し、矢嶽と云われる場所を現在の地籍図で見ると、そこは現在地の西南角に堺を接する「高宇都」といふ小字名を盛った尖った山地である。
> とあります。

これは、まだ読んでいませんでした。当地の図書館には無いようです。
今度伺ってみます。

> >  写真の中央の山は、土地勘がないのでわかりませんが、矢嶽と云う名にふさわしい山容にも見えますね。

お天気がよくなったら再度登ってみようと考えております。

御多忙のところご教示ありがとうございます。(~_~)

[3983] Re[3982]: たんかんさ〜  神奈備 2003/03/06(Thu) 18:31 [Reply]
nickさん、こんにちは。
国土地理院map、地形が判っていいですね。

所で、諏訪神社とは国分市上井716の神社、現在の韓国宇豆峰神社は県国分市上井898と近いようですね。
写真では中央の神奈備山のようですね。

『式内社調査報告』(韓国宇豆峰神社は藤井重壽氏記)によりますと、
『寺社調』は「韓国神社往昔鎮座は矢嶽にして絶頂に一畦余り宮地とて今も残りし由承り候也」と紹介し、矢嶽と云われる場所を現在の地籍図で見ると、そこは現在地の西南角に堺を接する「高宇都」といふ小字名を盛った尖った山地である。
とあります。

 写真の中央の山は、土地勘がないのでわかりませんが、矢嶽と云う名にふさわしい山容にも見えますね。

[3982] たんかんさ〜  nick [Url] 2003/03/06(Thu) 11:58 [Reply]
今日は、鹿児島:霧島神宮の「たんかんさ〜祭」です。
残念ながら、雨で今年も見物できず。

過日3/2、国分市の韓国宇豆峯神社で行なわれた
春の例祭「たんかんさ〜」に父と出掛けました。
その時のショットを頁に追加しましたので
ご覧下さい。
肝心の子供が写真の姉妹だけとは。。。
賑やかな「砂かけ神事」は中止でした。
過疎化の波で、、伝承が、また消える。。寂しい。

寺社探訪==>>韓国宇豆峯神社

また、以前、神奈備さんからご教示戴いた
宇豆峯の「古社」は、方位と記載距離からして
現在の諏訪神社の北東にある岡と確信しました。
掲載の写真で中央の小山です。
ここまでは一応歩いていますが、地元民も30年以上
登ったことが無いとのことでした。

[3981] Re[3980]: 別角度から物部神社  神奈備 2003/03/06(Thu) 08:23 [Reply]
> 銅鐸と物部のチャックではありません。
銅鐸と物部の関係についても閉じないでおこう、ですね。

> 原題「尾張神明帳集説本之訂考」
> 「尾張国神社考」 津田正生 
> という本では、豊場の八所神社を物部神社としています。

流石と云うべき快挙!! 論社入りの材料がでてきました。
宮司さんはどうおもっているのかな。

> そもそも古墳上の祠をどう考えるかというのもあります。
> それが、神社だということが、ありうるのか。
代表例かどうかですが、物部系でいきますと大和國廣瀬郡の式内社櫛玉比売命神社は古墳上に神社が鎮座、近くに神奈備山らしい山もなく、古墳上は祖霊を祀るには手っ取り早い立地とか。

[3980] 別角度から物部神社  ペギラ 2003/03/05(Wed) 22:43 [Reply]
銅鐸と物部のチャックではありません。
生きているサガの通り道とでもいうのでしょうか。(笑)

二子山の白山神社の物部神社について、

詳細として伝えられていることは、
味鋺神社となりの白山藪古墳にあった社を
1659年に白山神社古墳上に遷座した。
その時、二子山墳上にあった物部天神という祠を合祀した。
この物部天神が延喜式の春日部物部神社だとする。

しかし、この白山神社合祀の物部神社、この話以外に
存在を証明するような話がないです。

さらに、「愛知の式内社とその周辺」小林春夫著
という地元しか無いような本では、
この物部神社について論社二社というスタンスで、
八所神社には、決定的な資料がないということで、
白山神社と押す姿勢ですが、個人的には大差ないと思っています。

さらに、さらに、超マニアックな本を発見しました。
この本は明治二年に作成されたというか、記述されたものを、
昭和八年に愛知県神職会が蔵書の中にあるものを公開し、
平成十一年に100部作られたもの。
原題「尾張神明帳集説本之訂考」
「尾張国神社考」 津田正生 
という本では、豊場の八所神社を物部神社としています。

そもそも古墳上の祠をどう考えるかというのもあります。
それが、神社だということが、ありうるのか。

由緒なら、まったく由緒の無い白山古墳上の祠、白山藪古墳上の祠より
いろいろあるんですが、
決定的証拠となる石神が見あたらないのが、苦しいです。
本殿裏に、神山?山神?なのかわかりませんが、
古地図に記されているんですが、そこには、今は何もないのです。

これから、石神見つけ隊としてがんばる所存です。(爆)

[3979] Re[3978][3976]: Re:[3977]  神奈備 2003/03/05(Wed) 20:26 [Reply]
> 盃状穴石
苗(miao) oさん、ありがとうございます。
神奈備別荘の平成十四年 六月のログに玄松子さんがその石の写真を投稿して頂いています。
http://itakiso.hp.infoseek.co.jp/h1406.htm

ペギラさん、銅鐸と物部のチェックでしょうか。
> 春日井の白山神社は万治二年(1659)の遷座
白山神社が二子山古墳に地に遷座して来たのですが、そこに物部天神が鎮座しており、合祀したそうです。物部神社の伝承は失われているようですが、二子山古墳の被葬者は可美真手之御墓とする先哲の考えがあるとの社伝が伝わっているそうです。

可美真手之御墓は石見の物部神社の八百山の陽尾に葬られたと伝えていますので、複数の伝承かあるんですね。

> 明治以前は氏神物部社、八所神社となっていたのに、物部神社に他の社を寄せ集めて八所神社としたことが悪かったのか。
> 八所神社を延喜式の物部神社とできない理由は、何なんでしょうか?
保守的な立場でHPを作っていますので、八所神社となっていた物部神社の確認、その由緒が分かれば論社入りするのかも知れません。

[3978] Re[3976]: 教えて下さい  苗(miao) 2003/03/05(Wed) 16:37 [Reply]
> 盃状穴石というものに興味がありますが、

年代的には相当古い?等と考えられて「古代史」というよりも「超古代史」として
研究されている方が多い様に見受けます。
ちなみに、吾郷清彦さん辺りが詳しいかな?。彼の著書でも検索されれば何か解る
かも知れません。

[3977] 尾張春日部 物部神社  ペギラ [Mail] [Url] 2003/03/05(Wed) 14:39 [Reply]
最近、ひょんなことから、物部神社(笑)

神奈備さん・玄松子さんから、延喜式の春日部物部神社に
してもらえない、八所神社をうろうろしてます。
神奈備さんの物部氏HPにある
尾張春日井 八所社「宇麻志麻治命」 西春日井郡豊山町大字豊場字字木戸69
です。
字(あざ)が二つもついてるし、悲しい(;_;)

明治以前は氏神物部社、八所神社となっていたのに、
物部神社に他の社を寄せ集めて八所神社としたことが悪かったのか。

春日井の白山神社は万治二年(1659)の遷座
その出所の味鋺神社はそのころ六所神社。
祭神 ウマシマジの名前すら忘れ去られている時。

八所神社を延喜式の物部神社とできない理由は、何なんでしょうか?

[3976] 教えて下さい  東北人 2003/03/04(Tue) 22:29 [Reply]
盃状穴石というものに興味がありますが、そのことを調べるにはどういう文献を読むとよろしいのでしょうか。それは自然の穴なのか、人工の穴なのか、用途や目的は何なのでしょうか。どなたか詳しい方がおりましたらお教え願います。

[3975] Re[3974]、 [3972]鉄鐸の推理  習志野のてつ [Mail] 2003/03/04(Tue) 22:14 [Reply]
福島様、こんばんわ。
青草の方がと思いながらの、軽薄内容の書き込みです。
> 『※「サ」行の音は全て、“쇠”(soe)=鉄、真金、金属の総称…』から
サナグはサ/ナグ 
 音の変化から サナゲ猿投(旧名は狭投)
意味の変化から、鉄のナグ
 「ナグ」 の音から 凪ぐ→薙ぐ→鎌
 サ鎌→左鎌
風を凪ぐ ところから 風鎮めのシンボルへ。
※左鎌は、風鎮めのシンボルです。

千葉まで来ると「鎌は鉄に決まってらい!」と、「サ」が消える。
千葉の民話では、大工さんが屋根の上に鎌を付けた棹を掲げます。
意味不明だったのですが、風鎮めのシンボルではありますまいか。
付会と思いつつ、まだ猿投神社の左鎌から、離れられません。

[3974] Re[3973][3972][3965]: 鉄鐸の推理  福島雅彦 [Mail] [Url] 2003/03/02(Sun) 01:32 [Reply]
> 福島様、こんばんは。ウルウルは面白いですね。
>
> どっちもどっちの感じです。銅鐸の呼び名は神社名か神名に残っていて当然でしょうから、やはり国生みのイサナキ、イサナミに共通するサナが妥当なのかも。
> 草薙の剣も国平定に大活躍、やはりサナが入っています。
> 長いわりには普通の推測になりました。

※相変わらずの膨大で緻密な調査資料に敬服致します。
 
製鐵集団の出自分け?、単なる思い付きですが…。
・草薙⇒狗・佐奈伎(旧・狗奴國系)
・伊佐奈岐⇒伊・佐奈伎(旧・邪馬臺國系)
※唐突に軽薄内容の書き込みで済みません。

[3973] Re[3972][3965]: 鉄鐸の推理  神奈備 2003/03/01(Sat) 21:12 [Reply]
福島様、こんばんは。ウルウルは面白いですね。
『古事記』の大年神の御子神として韓の神、曽富理の神、白日の神・・がありますが、この曽富理の神も首都でしょうから、十種神宝とのコンビの「布瑠之言」のフルにも通じるのかも。

 サナキをサ+ナキなのかサナ+キなのかをチェック出来ないかと試してみました。

「サナ」の神社名と銅鐸出土◎  未出土●
阿波國美馬郡(徳島県美馬郡)伊射奈美神社[イサナミ]◎
淡路國津名郡(兵庫県津名郡)淡路伊佐奈伎神社[イサナキ]◎
伊勢國度會郡(三重県伊勢市)伊佐奈岐宮二座[イサナキ]◎
伊勢國度會郡(三重県伊勢市)草名伎神社[クサナキ] ●
伊勢國多氣郡(三重県多気郡)佐那神社二座[サナ] ◎
出雲国出雲郡(島根県簸川郡)同社神伊佐那伎神社[・・カンイサナキ] 同社とは阿須伎神社◎
參河國賀茂郡(愛知県豊田市)狹投神社[サナケ] ●
武藏國兒玉郡(埼玉県児玉郡)金佐奈神社[カナサナ]●
攝津國嶋下郡(大阪府吹田市)伊射奈岐神社二座[イサナキ]◎
駿河国有度郡(静岡県清水市)草薙神社[クサナキ] ●
駿河国廬原郡(静岡県清水市)久佐奈岐神社[クサナキ]●
但馬國朝來郡(兵庫県朝来郡)佐嚢神社[サナ]●
但馬國城崎郡 (兵庫県豊岡市) 重浪神社[カサナミ]◎
若狭国大飯郡(福井県大飯郡)伊射奈伎神社[イサナキ]●
大和國添下郡(奈良県生駒市)伊射奈岐神社[イサナキ]●

「ナキ」の神社名と銅鐸出土◎  未出土●
神祇官西院坐御巫等祭神[マス] ◎
淡路國津名郡(兵庫県津名郡)淡路伊佐奈伎神社[イサナキ]◎
伊勢國度會郡(三重県伊勢市)伊佐奈岐宮二座[イサナキ]◎
伊勢國度會郡(三重県伊勢市)草名伎神社[クサナキ] ●
伊豆国賀茂郡(静岡県賀茂郡)奈疑知命神社[ナキチ・]●
伊豆国田方郡(静岡県沼津市)楊原神社[ヤナキハラ]◎
豊後国速見郡(大分県大分郡)宇奈岐日女神社[ウナキヒメ]○
越前國坂井郡(福井県坂井郡)楊瀬神社[ヤナキセ]◎
出雲国出雲郡(島根県簸川郡)同社神伊佐那伎神社[・・カンイサナキ] 同社とは阿須伎神社◎
隠岐國海部郡(島根県隠岐郡)奈伎良比賣命神社[ナキラヒメノ・]●
尾張國丹羽郡(愛知県江南市)稲木神社[イナキ]◎
攝津國嶋下郡(大阪府吹田市)伊射奈岐神社二座[イサナキ]◎
駿河国有度郡(静岡県清水市)草薙神社[クサナキ] ●
駿河国廬原郡(静岡県清水市)久佐奈岐神社[クサナキ]●
丹波国船井郡(京都府船井郡)辨奈貴神社[ベナキ]●
丹後國丹波郡(京都府中郡)名木神社[ナキ]●
若狭国大飯郡(福井県大飯郡)伊射奈伎神社[イサナキ]●
大和國添下郡(奈良県生駒市)伊射奈岐神社[イサナキ]●
大和國宇陀郡(奈良県宇陀郡)都賀那木神社[ツカナキ]◎
大和國城上郡(奈良県天理市)伊射奈岐神社[イザナキ]◎

どっちもどっちの感じです。銅鐸の呼び名は神社名か神名に残っていて当然でしょうから、やはり国生みのイサナキ、イサナミに共通するサナが妥当なのかも。
草薙の剣も国平定に大活躍、やはりサナが入っています。
長いわりには普通の推測になりました。

[3972] Re[3965]: 鉄鐸の推理  福島雅彦 [Mail] [Url] 2003/03/01(Sat) 01:05 [Reply]
> 私の進行中の推理。
>
> まず、鉄鐸とは「佐奈伎」であるということが前提となる。

※どなた様もお久しぶり、とお初に…のお方とへ、横から失礼します。
≪鉄鐸⇒佐奈伎≫を拝見して、其の意味する所が判りました。
※「サ」行の音は全て、“쇠”(soe)=鉄、真金、金属の総称(民衆書林・韓日辞典)の意で解釈できます。
 私が、高天原(倭國の首都)と比定している処へ到る峠に『牛鳴き峠』が在ります。前述の“쇠”は「牛」とも同音語です。『牛鳴き⇒佐奈伎』が成立します。
 私は、『ソウル』(韓國の首都)の語源は、古代倭語に由来する、と仮説しています。
古代に在っては、製鐵が国を制す、です。『鐵錚々⇒鉄唸る⇒鉄鳴く=佐奈伎』、と。
即ち、『ソ(佐⇒鉄)・ウル(奈伎⇒ウル=鳴く)』です。現代日本人でも、お涙頂戴の芝居とか観て「ウルウル」来たね、と謂う、あれです。
 以上、福島雅彦説でした。

[3970] さなき  統一 2003/02/28(Fri) 04:57 [Reply]
>★音を発する道具であった。
>★その音に何らかの霊力があったと認識されていたように思われる。
>★その霊力を使っての、何らかの『使用目的』があったはずである。
>――古代人がその音をどう聞いていたのか、が追感出来ればいいのですけれどね。

チャングという韓国の伝統的な打楽器があり、漢字では「杖鼓(異説あり)」です。
鐸では「舌」と呼ばれる棒が鐸身を打ち鳴らす構造になってますね?
このことから「棒で鳴らす鐘」だと考えるのはどうでしょうか?
つまり、元は朝鮮語じゃなかったか。偶然かもしれないけどれ「舌」は韓国語でチャング
といいます。
楽器としてのチャングは高句麗時代の壁画にも表されているくらい古いんですよ。

[3969] Re[3967][3966][3965]: 鉄鐸の推理  日雲 2003/02/26(Wed) 20:09 [Reply]
> 武蔵・金さな神社
> 伊賀上野・佐奈具(さなぐ)
――あたりから、「さな/ぎ(ぐ)」だとばかり思い込んでいた時期があったのですが、
最近は「さ/なぎ」だったのかなあ? とも、ようやく思うようになった次第です。
★音を発する道具であった。
★その音に何らかの霊力があったと認識されていたように思われる。
★その霊力を使っての、何らかの『使用目的』があったはずである。
――古代人がその音をどう聞いていたのか、が追感出来ればいいのですけれどね。


神奈備掲示板、青草掲示板 写真掲示板 過去ログ集目次




神奈備ホームに戻る