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掲示板のログ(平成十五年 九月)お名前の敬称は省略しています。

[4586] 船玉神 6  神奈備 2003/09/30(Tue) 17:12 [Reply]
 熊野本宮大社は音無川に鎮座、この川の源流に船玉神社が鎮座、熊野王子社の猪鼻王子と発心門王子の間にあたります。
で、こんな山奥に船玉神!!?と言うのが、先ず問われます。

 『熊野の謎と伝説』澤村経夫著によれば、鎮座地を玉滝山と言い、祠から上流10m程に小さな滝があったようです。祠の左手には岩山があり、石段が刻まれており、これを登ると依代らしい磐座があるとのことです。近々、行く予定。
 滝は玉滝と呼ばれ。残念ながら明治二十二年の大水害で埋まってしまったそうです。船玉神社に並んで玉姫稲荷があり、船玉神とは夫婦神と言われていますが、三十年ほど前に大阪の人が建てたものとソマさんが教えてくれました。http://www.mikumano.net/

 稲荷の神は月に一回玉置山とここの間を往復するといいます。余談ですが玉置神社は稲荷神のルーツとか。
 一方、船玉神社から音無川河口にあった熊野本宮大社へ、月に一回、「みよろの星」と言う霊魂のようなものが、音無川を行き来したと伝わっています。 みよろの星とは稲荷の狐の口に加えている形の玉のこととか。

 熊野坐神社即ち熊野本宮大社は熊野早玉神社(熊野速玉大社略して新宮)からの派生した神社と言う考え方があります。人類の歴史は、川の河口から上流に遡っていく場合が多いのをその理由としています。河口部の人々がその川の源流を崇め祭る意味で奥宮を祭り始め、それがいつの間にか本宮とされるようになったとの解釈も成り立ちます。
 本宮大社の鎮座する音無川の上流に船玉神社が鎮座、新宮の海人(熊野海人)が遡って行って祭ったということでしょう。海を根の国妣の国とする信仰の流れの人々であったのでしょう。

[4585] Re[4582]: 立岩  神奈備 2003/09/29(Mon) 16:39 [Reply]
> ご無沙汰しております。なにがしです。
なにがしさん こんにちは。

谷毛原中学校のHP
http://www.hasekejh.town.misato.wakayama.jp/BeforeH13/kouku/kouku.html
に立岩の写真があります。
この学校の先生に長谷丹生神社の宮司さんがおられた思います。

[4584] Re[4583]: 何でも良いので情報を  ペギラ [Mail] 2003/09/28(Sun) 16:24 [Reply]
何でも良いということですので、日本書紀から。

天武紀十三年五月条
三輪引田君難波麻呂が高麗遣使の大使となっている。

岩波本の注には、
大三輪君の一枝氏
大和国城上郡辟田郷(今の奈良県桜井市初瀬付近)に居住し、
曳田神社(同市白河)の祭祀にあたった氏族であろう。

こんなことすでにわかっていることかな。(-_-;)

[4583] 何でも良いので情報を  TM 2003/09/28(Sun) 14:29 [Reply]
私の名字は曵田といいます。もしかしたら地名で曳田とあったので自分の家系と何か関係があるのではと思い書き込みました。誰かそういう流れをご存じの方はいませんか?
ささやかなことでいいので何か情報をください。。。

[4582] 立岩  なにがし 2003/09/28(Sun) 12:42 [Reply]
ご無沙汰しております。なにがしです。
和歌山の那賀郡だったか美里町だったかと思うんですが、毛原と長谷宮との間に川の中に大きな岩があります。川は確か真国川だったと思います。毛原から長谷に向かうと左手に頭だけ見えています。以前時間がなく頭の方だけしか見れず悔しい思いをしました。もし、この岩の全体像の写真を持っておられる方おられましたら、神奈備様の写真掲示板の方に載せていただけませんでしょうか。宜しくお願い致します。
ちなみにこの岩は立岩といいまして、狩場明神が大きな猪を退治した時の岩で、丹生氏が毎年祝詞を上げに行っていた岩だったかと思います。

[4581] 船玉神 5  神奈備 2003/09/28(Sun) 08:58 [Reply]
延喜式神名帳の名神大社である紀伊三所神の続きの伊達神です。

 伊達神 伊達神社[イタチ] 伊太氏の神を祀る。(氏は下に_あり)
 『播磨国風土記』飾磨郡の因達の里の條に「因達と称するのは、息長帯比売命が韓国を平定しようと思って御渡海なされた時、御船前(先導神)の伊太氏の神がこの地においでになる。だから神の名によって里の名とした。」とあります。
 先導した神として紹介されているのです。先陣を切ったと言うこと、これは渡しの神であり、軍神でもあるようです。『日本書紀』では住吉大神の荒魂と言うことです。紀氏の水軍が伊太氏の神の旗を立てた船で先陣を切って渡海していく、中央には息長帯比売命が乗る指揮艦が住吉大神の旗を立てていると言う状況だろうか。
 諏訪の大神の旗も見える。周辺は国津神ばかりではないか。

 伊太氏の神は植樹の神である五十猛神であるとも言われています。造船には杉と楠の木がいいとは、素盞嗚尊のご託宣ですが、五十猛神は伊太祁曽神社で浮き宝の神として祀られています。渡しの神、造船の神は十二分に船玉神と言えよう。

 浮き宝とは漁船のことで、海に出て魚を沢山獲ってくる、だから宝と言うとは伊太祁曽神社の前の神主さんの解説です。
 住吉の神の筒男には表、中、底の形容がつきます。海でこの三種の区分があるのは、魚の分布ではないのかな、表は鰺など、中は鯛など、底はヒラメとか、神功皇后の船を魚が多く集まって進航を助けたとありました。

 紀の国では古来より五十猛三兄妹神への崇敬の気持ちが高く、紀伊三所神をして五十猛神、大屋都比売神、抓津比売神とする考え方があります。

 紀、五十猛神と船とのかかわりは何よりも、『日本書紀』などで語られている雄略朝での紀氏の水軍の朝鮮半島での活躍の記憶が根底にあったのでしょう。

[4580] Re[4579][4577]: [4578]  神奈備 2003/09/27(Sat) 09:08 [Reply]
> 弥彦市に一票  かつ、

 明治時代に相当な国家予算をかけて全国津々浦々の大字小字やその中の細かい地名を採取して膨大な資料が作られたそうですが、大震災で灰燼に期したとか、柳田国男翁の本で記憶があります。昔の為政者は文化について深い理解があったようですね。
 失われた地名は二度と復活は出来ないのでしょうが、神社やお寺、それらにに残る文書などもそれらを知る良い資料になるのでしょう。
 
 昨日某所で「豆酸」が話題となりました。

[4579] Re[4577]: [4578]  習志野のてつ [Mail] 2003/09/27(Sat) 02:07 [Reply]
弥彦市に一票  かつ、
>大三元さん「地名は日本の、郷土の文化遺産です。合併後も、先祖から伝わる
地名はなんらかの形(町の名前として、など)で保存されますように。」に賛成。

♪お江戸日本橋七つ立ち♪で有名な、東海道の基点日本橋は、中央区日本橋です。
元は日本橋区でしたが、合併で地名が変わりました。しかし日本橋の地名は残しました。
♪浮いた浮いたの浜町河岸(はまちょうがし)は…♪の浜町は、現在中央区日本橋浜町です。

先人の智恵に学びましょう。

寺泊市弥彦、弥彦市寺泊、分水市弥彦…どうなるにしても、由緒ある地名をただ単に現在を
生きている人間の都合だけで安易に消し去るような真似は絶対しないで欲しい、と思います。

[4578] Re[4577]: 弥彦神社をアップ  大三元 2003/09/26(Fri) 11:22 [Reply]
弥彦市に一票入れてきました。

推薦理由:
地名は日本の、郷土の文化遺産です。
合併後も、先祖から伝わる地名はなんらかの形(町の名前として、など)で保存されますように。
弥彦神は天のカグヤマと考えられ、天のカグヤマは「越の神」です。
日本の始まりに大きく関わっている大切な神様の名前、大事にしてください。

[4577] 弥彦神社をアップ  神奈備 2003/09/26(Fri) 08:14 [Reply]
町村合併で弥彦の名が消えかかっているようです。
地名「弥彦」の存続にご協力をお願いします。
下記に一票を!
http://www.ash.ne.jp/~info-g/newname.html


[4576] 船玉神 4  神奈備 2003/09/25(Thu) 08:23 [Reply]
 延喜式神名帳の名神大社である紀伊三所神の続きです。

 静火神 静火神社(しずひじんじゃ) 、現在は竃山神社の境外摂社で火結神を祀る祠がポツンと天霧山頂に置かれているだけ。本来は平地の、恐らくは田の中に鎮座していた神で、竃山神社の鎮座地こそ静火神社の鎮座地であったとの見方もあります。
 
 静火の意味ですが、名草山の東側に、朝日と言う地名が残り、これは浅い樋、静火は沈んだ樋(深い樋)のことではないかとの『紀伊国続風土記』は述べています。
 農業にかかわる神とすれば、船玉神とは関係がないが、文字通り鎮火の神とすれば、造船時、航海時の出火防止、火結神としては有効。

静火神社 http://www.kamnavi.net/ki/sizuhi.htm

[4575] 船玉神 3  神奈備 2003/09/23(Tue) 18:34 [Reply]
 紀伊三所神についてですが、共に延喜式神名帳の名神大社です。

 志麻神は志磨神社[シマ]で、現在は中津嶋姫命を市杵島姫命として祀っています。和歌山市中之島677 。
 宮司曰わく「鎮座地は紀の川の中州にあり、洪水などの脅威を受けていたので、中州を神聖視し、中之島として祀った。」とあります。
 当社は途中で衰えており、所在不明社でしたが、九頭神社を志摩神社と改称、再建しています。最初は足利義満が明徳四年(1397年)に再建を命じているとあります。その後の戦乱で幾度か兵火にかかっているようです。

志磨神社 http://www.kamnavi.net/ki/city/sima.htm

 現在の鎮座地より北西の紀ノ川に近い松島と云う所に十五社神社が鎮座、志摩神社と同格との伝承があります。本来の志摩神社の鎮座地かも知れないのです。
 この地は名草平野を潤した宮川の取水口であり、紀氏にとっても重要な地域であった。紀氏が守らねばならない地域で、これを島と呼んだのかも知れません。
 志摩神社を船玉神と関連付けようとすれば、造船所があったのかも。

十五社神社
http://www.kamnavi.net//ki/city/juugosha.htm

[4574] 船玉神 2  神奈備 2003/09/18(Thu) 22:51 [Reply]
 『住吉大社神代記』には、住吉神の子神の條に船玉神があげられております。この子神とは摂社末社のような扱いです。
 船玉神は、紀の国の紀の氏神である志麻神、静火神、伊達神の本社であると理解できます。若い頃でしょうが、現宮司でいらっしゃる真弓常忠氏は、紀氏神とは紀国造の奉祀した日前・国懸両宮であるが、元々、紀氏神としては紀伊三所神(志麻神、静火神、伊達神のこと)が奉ぜられており、これらの神々が住吉大神を奉祀したのであろうと指摘されています。
 三所神は紀の国の在地勢力が祀っていた神々ですが、この神々が神功皇后を通じて住吉大神に仕える姿を示しているとの解説のようだ。
 『日本書紀』「神功皇后摂政前紀」に、師船を導いた住吉大神の荒魂とあり、すなわち船魂神であり、師船に付き従った紀氏の船を導いたのが三所神との理解です。

 住吉大社の配置図  上が北
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
−鳥居−−−第三本宮−−第二本宮−−第一本宮−−楠の神木−
海−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−→東
−船玉神社−第四本宮−−−−−−−−−−−−−五所御前−
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 五所御前は高天原と呼ばれているそうです。住吉大神がこの杉の木に降臨、それぞれの本殿に招かれるの。
 船玉神は第四本宮の神功皇后を巫女として住吉大神に奉斎するのです。この船玉神を祀ったのが紀の国の人々だと言うこよのようです。

[4573] 船玉神、船魂神、船霊神  神奈備 2003/09/17(Wed) 09:04 [Reply]
『住吉大社神代記』に、住吉大神の子神として、座摩神、中臣住道神などか記述されており、更に、船玉神 今謂。齋祀紀国紀氏神。志麻神。静火神。伊達神本社。とあるのです。
この文章をどう解読するのかですが、齋祀(いつきまつ)るのは紀の国の紀氏神、 志麻神、静火神、伊達神の本社なり。と田中卓氏は注釈しています。
(尤も、志麻と火とは欠けており、推測のようです。この三神は紀伊三所神として延喜式神名帳の名神大社ですので、間違いのない所でしょう。)

 住吉大社の摂社に船玉神社が鎮座(この社は摂津国住吉郡の式内論社)、この神社を紀氏が斎祀ったとされています。
 現在の祭神は天鳥船命、猿田彦神となっていますが、住吉大神の荒魂と見なされています。

 一方、一般的に船玉神は、女神だそうで、これはオナリ神信仰(妹の力)の流れだそうです。
 地域地域によって船霊を祀る方法はいくつかあるので、筒男神の荒魂ですから、男の中の男、いやもしかして、その本質は女、そう言えば、潜水は女の得意業。

 玄松子さんが「平成祀りデータ」の検索ソフトを改良して旧新漢字(国と國、船と舟)をまとめて検索できるようにしてくれて便利になりました。神社名で言うと、「玉、魂、霊」、「磐、岩、石」などもくくることが可能かも。

[4572] 十の字  角丸山 2003/09/15(Mon) 18:43 [Reply]
>玄松子さん
ありがたいお言葉感謝します。(根ができてないところがありまして苦労します。)

[4571] Re[4570]: 十の字   玄松子 2003/09/15(Mon) 17:49 [Reply]
> 青草にも合うかどうかと思っています。

合うと思いますよ。青草への書き込みを楽しみにしています。
(できれば、もっとわかりやすい説明を期待しています)

[4570] 十の字   角丸山 2003/09/15(Mon) 14:43 [Reply]
>神奈備さん
了解しました。最近気づいたんですが、最初から間違っていました。青草にも合うかどうかと思っています。ROMの方でがんばります。色々お騒がせして申し訳ありません。
>大三元さん
そうです私の見解です。大三元さんの見解を言及したような部分は一切撤回します。どうも失礼しました。

[4569] Re[4567]: 十の字   神奈備 2003/09/15(Mon) 14:11 [Reply]
角丸山さん 貴殿の投稿はどうも神奈備掲示板の雰囲気にはあいません。
以降は青草掲示板の方でお願いいたします。

[4568] Re[4567]: 十の字   大三元 2003/09/15(Mon) 14:04 [Reply]
> ヤマトトトヒモモソヒメについては、迹速目百襲(トハヤマホソ)という修飾語が復元され、その原意が(十符合及び吠声辟邪力行使権限を有する)ということが、今後の発見によって変更もありえるけれども、現時点において可能性のあることと考えられるということになりましょうか。

この一文は貴方の見解ですよね?

万一、これが私の見解の「解釈」だと思われても困るので・・・

この度私が述べたことは「日百襲」の原点が「目細、マホソ または マクハシ」であったのではないか、に留まります。
「迹迹」と「迹速」に就いても大いに関心ありますが、この度は触れておりません。

また、「迹速目百襲(トハヤマホソ)という修飾語」の「修飾語」は意味が判りません。名前の根幹部分だと思います。

「その原意が(十符合及び吠声辟邪力行使権限を有する)」というのは全く私の見解ではありません。

以上、念のため

[4567] 十の字   角丸山 2003/09/15(Mon) 08:32 [Reply]
ヤマトトトヒモモソヒメについては、迹速目百襲(トハヤマホソ)という修飾語が復元され、その原意が(十符合及び吠声辟邪力行使権限を有する)ということが、今後の発見によって変更もありえるけれども、現時点において可能性のあることと考えられるということになりましょうか。

トハヤのトの部分はシャーマンのランクを表すと見て、これを鳥の一字であり、飛天級といった意味ともとれます。

しかし、私はとんでもない発想で恐縮ですが、物部の十市にある十は辟邪の呪の文字、市は徐市の名前、市(フツ)、から出ている。

徐市は始皇帝から海神を奉じる勢力鎮圧のため当時としては最強の昆明兵(クメール族->久米族、カンボジアがクマエと呼ばれるというのと九州の球磨地方が似ているのが面白い)を現代でいうなら香港、インド、英国などのグルカ兵的感覚でもってその供与を受けた。

徐市の没後、渡来集団(物部、秦、久米、ソ等)は祖神としてフツ(渡来系はこれをフツ、ウツと発音、縄文系はこれをホト、ホソなどと発音)を仰ぎ、水田開発が始まって労働力の需要の発生する豊、出雲、吉備、大和、濃尾平野、関東平野、越の国、秋田、会津、山形県高畠等に拡散、各地で各様の青銅祭祀(開拓地では特に青銅利器)を残した。

特に水田開拓が大規模であった近畿地方では農閑期の余剰労働力と先進的土木技術が高地性集落から始まって大古墳建設に向けられた。

こうした背景にあって一時期、初期に銅鐸圏で国産銅鏡が作られた頃、十の字が辟邪の意味で鏡に使用されているということは、鏡をもって最大の祭具としたであろうモモソヒメに十の字が使用されることはありえる。・・・とこう考えて鳥を廃し、十をしてはどうかと申し上げるしだいです。

(倭人伝に都市牛利というのがありますが、トウチゴリと発音したのを中国人が適当に漢字を当てはめたのでないかと思うのですが、そうなら、十市族はまさに卑弥呼と直結であり、この点からも十の字が女王名に残っていてもおかしくないと思います。)

PS:これはこれまでの投稿が改行されておらず、非常に読みにくかったために、改めて改行して、再掲するものであり、玄松子様のご忠告と機会のご提供に深謝するものであります。角丸山

[4566] 書き込みに関して  玄松子 2003/09/15(Mon) 08:08 [Reply]
この掲示板では、文章を書き込むボックスの上に、
(タグは使用できません。適当に改行してください)
という注意書きが記されております。

適当な改行は、文章を読みやすくするものであり、自身の書き込みを他者へ伝えようとする意志の表れでもあります。

書物などの印刷物と比べて、PC画面上での文字の認識率は低下します。
そういう意味でも、さらに読みやすくする工夫は、書き込み者の義務であると思うのです。
伝えようとする内容が通説ではない(一般に馴染みのない)ものであれば、なおさら、そのような気配りが必要ではないでしょうか。

[4564] Re[4563][4560]: 目妙ヒメ  大三元 2003/09/14(Sun) 17:17 [Reply]
神奈備さん

> > で、悪あがき

いや、あくまでも可能性のハナシですから、

> > 倭迹迹日百襲姫を(2)との関係を利用すると、倭飛羽矢日百襲姫と変換でき、倭飛速日百襲姫となる。ここに飛速日は、見慣れた神名によく似ており、日はこちらにくっつき、やはり日では。

という人が1200年前にも居て、そのように書いたのかもしれない。
それが原点にかなっていたのか、実は改悪したのか、今となっては判らない。
ハヤヒ という音が造れる点で 日 にも魅力はあります。
私も、ハヤヒと考えた場合に日はこの姫様たちの時代と神代がかなり接近する、という視点が得られる、と指摘したことがあります。

> >  即ち、日は必需品で目では具合が悪い。(3)のみの例しか見いだしていませんが、原本で目ならば眼とならんかいの。

「目」と考える場合のメリットは、日百襲 と 目妙 が合致すること、系図との符合がよい、などです。

記紀などに書き残された事柄が口頭で、色んな経路で伝承されたものであり、色んな伝承があったのだ、という立場で宜しいと思っております。そして、資料の集まり具合によっては、どの伝承とどれが関係していて、どちらかがどちらかからの派生らしい、という「相対化」が出来る場合がありそう、ということではないでしょうか。

[4563] Re[4560]: 目妙ヒメ  神奈備 2003/09/14(Sun) 16:38 [Reply]
三元さん 物わかりの悪い神奈備の為にわかりやすくありがとうございます。趣旨はよくわかります。

で、悪あがき

1)
古事記−−夜麻登登 −−−−− 母母曾毘賣
日本書紀−倭−−迹迹−−−−日百襲−姫
日本書紀−倭−−迹速神浅茅原目妙−−姫
日本書紀−倭−−迹迹−−−−−−−−姫

2)
古事記−−倭飛羽矢若屋比賣
日本書紀−倭迹迹−稚屋姫

3)
古事記−−遠津年魚目目微比売
日本書紀−遠津年魚眼眼妙媛

倭迹迹日百襲姫を(2)との関係を利用すると、倭飛羽矢日百襲姫と変換でき、倭飛速日百襲姫となる。ここに飛速日は、見慣れた神名によく似ており、日はこちらにくっつき、やはり日では。

 即ち、日は必需品で目では具合が悪い。(3)のみの例しか見いだしていませんが、原本で目ならば眼とならんかいの。

悪餓鬼の神奈備でした。

[4562] Re[4561]: 語感  大三元 2003/09/14(Sun) 16:24 [Reply]
> >大三元さん、横レス失礼します。

古代を考えるときに如何に現代の語感から自分を解き放すか苦労致します。

ホソヒメなればこそ、ホトを撞いた説話も、ありそうなことと考えます。
実はクハシヒメが原点であるなら、それを漢字(細)に置いた後に、ホト説話が出来た、という推定になりましょう。

[4561] きものはぴんと来ません  角丸山 2003/09/14(Sun) 16:04 [Reply]
>大三元さん、横レス失礼します。
モモソヒメが箸墓被葬者であるとすれば陵墓の巨大さからいって諡(おくりな)的なもので呼ばれるべきであって、細姫如き風貌による生前の愛称の如きものはぴんと来ません。仮にそれが卑弥呼のような老女でなく、ある程度若くして死亡した女王であったにせよ、あの墓の規模で細姫は不釣合いです。重みがありません。仮に細姫が真実に被葬者の名であったにせよ、細姫としての活躍を記述した伝承、記述は全くあり得ないのではなかろうかと思います。これは度が過ぎた還元主義であり、真実はもう少し手前にあるのではないかとの気がします。私は10、100で頭韻を踏む、十重、二十重などの日本語に通じる、それでいて重厚な巫女王のイメージをもつなんらかの名前であってほしいと思います。古墳時代400年の開祖であり、東照大権現の家康並のインパクトがある可能性があるわけですから。いずれにせよ細姫だとしたら、それはもう箸墓の被葬者ではないということかもしれないと思います。


[4560] 目妙ヒメ  大三元 2003/09/14(Sun) 15:14 [Reply]
前に
> 原点:ホソ → 細 → 妙 (日本書紀が採用)
>           → 百襲 → 母母曽
>              ↓     ↓
>           (書紀採用)  (古事記採用)

と書きましたが、これ以外にも魅力のある派生仮設ができます。すなわち:

       (日本書紀)
          ↑
原点:マクハシ → 妙 → 細 (日本書紀、関連する別人に細ヒメあり) 
            → 百襲 → 母母曽
               ↓     ↓
            (書紀採用)  (古事記採用)

これは古語に
 マクハシ「目細」うるわしい、見てうつくしく思う。
があることに重きを置いた考え方です。

ホソを原点とする見方は、系図(母方の祖父の大日彦、これと、大目は同一人物だろう)との関連に重きを置いたものです。(十市系図と古事記の言う系図を照合作業した結果です。)



[4559] Re[4555][4554]: 春が来たかな  大三元 2003/09/14(Sun) 15:02 [Reply]
神奈備さん、こんにちは

> >  作成された時代として『日本書紀』が古く、『古事記』が新しいと言うことでしょうか。それとも『日本書紀』用の原資料を見たとか。

「古事記は偽書か」(鳥越健三郎さんの著書のタイトルですが)とか、日本書紀とどっちが古いか、という大上段の構えにはまだ入っていないんです、(^^;

うんとローカルなところで、「倭迹迹日百襲姫」と書かれた人と「倭迹速神浅茅原目妙姫」と書かれた人が同一人物であろう、と考えられているし、私もそう思う、というところから次の推論を開始しています。

同一人物ならば「日百襲」と「目妙」が対応(ないし同義である)しているのではないか、と考えます。対応す「べき」だと思うとき、「日百襲」の「日」は「目」の誤りであろうか、と考えます。そして「日」と「目」が混乱している実例を探します。(大日諸、大間宿禰、太真稚彦、賦登麻和訶比売、十市県主大目、大日彦、などを参考にした。)そうなれば、あとは「百襲」は「ホソ」とも読めることに気がつけば、「日百襲」は「目細」までは来る。そして「細」も「妙」も「クハシ」と訓まれることを知れば、「目細」と「目妙」は同じこと、となる。かくして「日百襲」と「目妙」は一致「できる」。

色々な伝承(漢字の宛方)が派生したとして、その原点が何であっただろうか、という推論です。上記のように「百襲」の原点は「ホソ」ではなかったろうか、という立場を仮設しました。

つまり、その他の表記は次のような派生をしているのではないか。
原点:ホソ → 細 → 妙 (日本書紀が採用)
          → 百襲 → 母母曽
             ↓     ↓
          (書紀採用)  (古事記採用)

(モモソヒメがホトを撞いて死ぬ、というのも ホソ の音が hotso であったであろうことを考えれば、作られそうなオハナシが作られた、と見ることができます。)

これらの派生が古事記や日本書紀が編纂される以前に起こったことであれば、この解明を基礎にした記紀のいずれかが古いか、という立論はできそうもありません。単に参照した原典が異なっているに過ぎないかもしれないですから。

また、「モ」の甲乙弁別をしていると考えられるのは古事記で、日本書紀では甲乙の区別をしていない。そして、甲乙の区別は一般的に時代が下るにつれて平安中期?あたりでは消滅する、という傾向を考えると、「モ」の甲乙を区別している古事記が古い、ということにもなりそうですが、これも、参照した原典が古かっただけかもしれない。私には、「モ」の甲乙弁別の有無で古事記全体が日本書紀全体よりも古いか新しいか、の議論は出来ないと思っています。

長文失礼

[4558] 直感的というか  角丸山 2003/09/14(Sun) 12:09 [Reply]
>神奈備さん
>御名によって起これり・・・
私の理解が足りませんでした。神奈備さんのご理解、御名百襲->百相で正しいと思います。但し、申し上げているのはその訓についての注釈-(倭名鈔百相毛毛奈美)でありますが、神奈備さんはだから百襲は毛毛奈美と訓むと解釈されています。私はそうじゃない、それは百相という地名のみを毛毛奈美と訓むのであって、百襲までも毛毛奈美と訓むと入っていないのではないかとこう申し上げています。私が既成観念にとらわれ発想の転換ができず素直になれていないのかもしれません。しかし、直感的というか、部分的にそのカッコ内だけのことであるとそう感じたのです。

[4557] Re[4556]: 倭名鈔百相毛毛奈美  神奈備 2003/09/14(Sun) 10:52 [Reply]
> 「百」は、
>命の御名によって起れり

「百相」はですよ。


> こう解釈するのが自然ではないか。

驚くべき不自然な解釈ですね。何故、百と相とを分けるのでしょうか。

[4556] 倭名鈔百相毛毛奈美  角丸山 2003/09/14(Sun) 10:32 [Reply]
>神奈備さん
>地名百相(倭名鈔百相毛毛奈美)は命の御名によって起れりと・・・
これは、この地名、「百相」に関していえば、モモナミということをいっているのであって、
>社伝によれば(人皇第七代孝霊天皇の皇女)倭迹々日百襲姫命・・・
上記のように百襲姫という字も使用しておりますので、「襲」、「相」は音が類似するも訓は相違し、地名の内の「相」の方は「ナミ」と読み、「百」は、
>命の御名によって起れり、
であるから(倭名鈔百相毛毛奈美)という括弧の中では「百」をそのまま使用した。つまり「命の御名」のうち「百」を頂戴し、これに「ナミ」と訓む「相」の字を添加し地名としたということ、「百相」がモモナミであるということの注釈であって、「百襲」は「モモソ」であるという言外の意味を含んだ注釈と理解すべきで、この注釈を持って「百襲」を「モモナミ」と訓んでよいということはいえない。こう解釈するのが自然ではないか。
かような趣旨でございます。ご理解ください。


[4555] Re[4554]: 春が来たかな  神奈備 2003/09/14(Sun) 09:49 [Reply]
> >神奈備さん
> 神奈備さんのカキコ再読。「ナミ」とは「相」の訓ではないかと思いました。
襲 → 相 → ナミ

大三元さん おはようございます。
> 古事記が日本書紀の「百」を見て「100」の意味だと思って「母母」と宛てたのではないか

 作成された時代として『日本書紀』が古く、『古事記』が新しいと言うことでしょうか。それとも『日本書紀』用の原資料を見たとか。

> 古事記だけが甲乙の区別をしています。書紀・万葉集では分別されていない。

『古事記』の方が古そうですが、新しいとすれば、作者が違う(渡来人で甲乙を聞き分ける耳を持っていたとか)と言うことでしょうか。

>> 迹見首赤檮と鳥取部万を

 トヒ か ハヤヒ か となると、地名に残っているトヒ(鳥見、等弥、登美 など)が有力かなと思って、迹見首赤檮の存在を思い、
 またアイヌ語で母を totto と言うようで、 鳥取部万さん。

  totto とか チチ とかは 父のイメージですがね。

[4554] 春が来たかな  角丸山 2003/09/14(Sun) 08:19 [Reply]
>神奈備さん
神奈備さんのカキコ再読。「ナミ」とは「相」の訓ではないかと思いました。

>大三元さん
私が未知数とした(例のゴロアワセですよ(^o^))ソヒメ、男狭穂塚女狭穂塚なんてありますよねー。これが近畿に来て佐保となり、佐保姫となる(時代は逆転でしょうが九州は大先輩)。それが詰まってソヒメ、モモは「万」(神奈備さんのヒントによる)。これに残りは大三元さんの解釈をくっつける。そして鳥飛万佐保(春又はシャーマン)姫これはどうでしょう。連勝複式で確率を上げてみましたが(^_^)。春が来た、春が来た♪といったコノハナサクヤヒメ的な感じですけど。

[4553] Re[4539][4535]: モモナミ?  大三元 2003/09/13(Sat) 23:25 [Reply]
神奈備さん、
>  さて、大三元さんのご指摘に、百襲姫の百を『古事記』では「母母」と表記しており、この場合には100の意味(多いの意か)がないとあります。一方、『古事記』では原義が忘れられたのではとの示唆をされています。
 百は100なのか否か、原義の残るかもしれない『日本書紀』からは、百と理解してもよさそうですね。

私は古事記が日本書紀の「百」を見て「100」の意味だと思って「母母」と宛てたのではないか、と考えています。そして「100」の意味だと思ったのも間違いだし、「100」のつもりなら「母母」と宛てたのも間違いだ、という考えです。

「百襲」で「ホソ」と読むべきではなかろうか、という試論に至っています。
ご参考: http://www.dai3gen.net/yamatoto.htm
    『初期天皇后妃の謎』p153〜

[4552] Re[4551]: モモナミ?  大三元 2003/09/13(Sat) 23:15 [Reply]
角丸山さん、始めまして。
> モソ人というのがいるんですねー。日本では久米が一緒になって熊襲が該当しましょうか。こう考えると襲が単体で生きる。

そんな飛びついてゴロアワセやってもだめなんですよ。
モソってのはモソ語で I don't know の意味だそうです。

[4551] モモナミ?  角丸山 2003/09/13(Sat) 22:46 [Reply]
大三元さん、始めまして。
モソ人というのがいるんですねー。日本では久米が一緒になって熊襲が該当しましょうか。こう考えると襲が単体で生きる。他方、ナクサトベ等といってトベという巫女王を表す言葉もあります。これがトビに変化する。十を呪術を表すとする。トplusトビplusモモplusソヒメと分解すると10と100、及びトビとソヒメに分解できる。ソヒメを未知数とすると解はやはり巫女王かな(徐市の残党が熊襲になっていると仮定)。Very Very Great Witch Queenといった意味でしょうか。また恥を重ねました。

[4550] 那加世  角丸山 2003/09/13(Sat) 21:57 [Reply]
>神奈備さん、不手際に不手際を重ねてしまいました。
迹見首赤檮と鳥取部万の情報により色々検索しているとhttp://www.mars.dti.ne.jp/~techno/column/text6.htmにぶつかり、『物部文献』は物部守屋の戦死後、守屋の一子、那加世が鳥取男速という臣下に守られ、蝦夷の地へと落ちのびたことを伝える・・・とあるから、この那加世は名草根彦/長髄彦と時代を取り違えているが、同一人物だと神奈備の唐松神社等いろいろ調べました。ただ鏡が黒曜石製というのが、歴博のHP
http://www.rekihaku.ac.jp/kenkyuu/kenkyuusya/fujio/fukuokaheiya/fukuoka.html
にある、早期古段階から営まれはじめ、東北地方の晩期の土器である大洞C2式の浅鉢が出土するなど、東日本との関係をもっていた人びとの集落である九州の雀居遺跡から引き上げてきた人々が造ったと考えると青銅器を石器で模すという意味が出てきてこの神社の古さが証明でき、数百年後物部氏が亡命しても受け入れる素地があったのではと思いました。どたばたといたし申し訳ありませんでした。

[4549] 日本列島何度もクラッシュ  角丸山 2003/09/13(Sat) 19:53 [Reply]
<ヤクシマザル>祖先は1頭の母 京大霊長研の調査 約7000年前の火山災害で大半のサルが絶滅し、数少ない生き残りが現在の群れに膨らんだとみられる。川本助教授は「1頭のメスザルが、島全体のサルの祖先である可能性もある」と話している。「鬼界カルデラ」は約7000年前に噴火し、屋久島、種子島など周辺の島々を火山灰や火砕流で覆い尽くした。この際にヤクシマザルは絶滅しかけたとみられている。屋久島では鬼界カルデラ噴火の後に、動植物すべての生態系がやり直しているともみられているとも。・・・日本列島はこの後北海道の全盛時代を迎ええ、それが後に三内丸山となるのでしょう。それ以南はアカホヤにより不毛地帯と化し回復には相当の年月を要したことでしょう。こんなことで南方との関係は喜界カルデラ以前の時代、鹿児島なんかに火山灰の下に埋もれた文化があるそうで、その時代に北海道辺りまで伝わっていた文化が残っていたものが、数千年の年月を経て、更に弥生の異民族流入の影響を受けながら生き延びるということですから、太古の昔に共通の言葉であっても相当変化を見ているでしょう。芋は千葉県、薩摩など土壌の悪いところでも強いので案外早くから伝わっていたのかもしれませんねー。

[4548] Re[4546] 言葉の影響  習志野のてつ [Mail] 2003/09/13(Sat) 19:08 [Reply]
調査ご苦労様です。
出ていましたか。じゃあ比較的新しいですね。

アウストロネシア語が日本語に流れ込んでいることは、十分考えられますね。
ラピタ人が東や南以外に、北(日本列島方面)に来たことは有り得ますから。
日本の芋農耕は南から伝わった可能性が大きいんですよ。
縄文稲作の前に、芋農耕の文化が伝わっていたのではないか?
そんなことで私は大きな関心を寄せています。

ニュージーランドにマリオ人が入植したのがいまから750年前ならば、
独立した言語となる年数(数百年は必要でしょう)も考慮すると、そこの言葉
が記録も残らずに、日本に影響を与える可能性はゼロですね。

[4547] Re[4544]: モモナミ?  大三元 2003/09/13(Sat) 16:59 [Reply]
> 十と言う字には百の意味を持たす場合

『生きている象形文字』西田龍雄著(中公新書112)p87に モソ文字(トンバ文字)の数字が出ています。


||
|||
||||
が1から4まで。 5から9までは同様に二、三段に書く。例えば9は
|||
|||
|||

さて、10が X
100が   十
千が  *

というわけで 「十」字の形が100を指事すること、第三者的に確認しました

[4546] 台湾というのが長江に近い  角丸山 2003/09/13(Sat) 15:58 [Reply]
>習志野のてつさん、調べました。

こういう風です。
ラピタ式土器
ラピタしきどき

南西太平洋,メラネシアのビズマーク諸島ニューブリテン島以東,西ポリネシアまでにわたって,紀元前1600年から紀元ころにかけて分布したオセアニア最古の土器。ニューブリテン島北東岸のワトム島から最初に発見されたが,ニューカレドニア島ラピタ Lapita 遺跡からの出土により型式名となった。焼成温度の低いこわれやすい土器で,粘土の添加物として砂や貝殻粉が使われた。有文のものは30%以下で,文様は繊細な侯歯や貝殻縁の圧文,隆起線文,沈線による幾何学文などが壺の上半部に施されている。アウストロネシア語を話す海洋民族のもたらした土器といわれ,海岸近くにその遺跡が発見される。北部ニューブリテン原産の黒曜石が土器とともにニューカレドニアまでにわたる地域で発見されることから,広大な海域を航海し,交易を行っていたことがわかる。類似の土器がフィリピンや台湾から発見され,ラピタ式土器の起源がこのあたりか東インドネシアあたりにあるのではないかといわれている。 篠遠 喜彦(C) 1998-2000 Hitachi Systems & Services, Ltd. All rights reserved.
台湾というのが長江に近く、やはりこの辺が出所でしょうか。

[4545] Re[4543]: 毛利元就がマオリ族出身  習志野のてつ [Mail] 2003/09/13(Sat) 15:44 [Reply]
>…世界大百科事典によりますと…
「百科事典」懐かしい単語です。何年の版かご覧になっては?
少なくともラピタ人が載っているかどうかお調べになっては如何でしょうか?

>彫刻が今猶、東周の文化を留めるようで、日本の弥生も500年古くなっていま
>すから、毛利元就がマオリ族出身としてもおかしくないような話なんですが。
これも無理だという気がしますね。
少なくとも現在判る限り、ラピタ人は金属使用はしていません。
まあこれから発見される可能性がゼロとは申しませんが。

[4544] モモナミ?  角丸山 2003/09/13(Sat) 15:44 [Reply]
>神奈備さん、私のレス書き込みに不手際がありました。
十と言う字には百の意味を持たす場合のサイト名は
http://www.ne.jp/asahi/pasar/tokek/TG/mikoclub/dongba.html
でした。また、鏡は?(方)製鏡でした。迹見首赤檮と鳥取部万の情報により
http://www.rekihaku.ac.jp\kenkyuu\kenkyuusya\fujio\fukuokaheiya\fukuoka.html
にある・・・
「雀居遺跡(図12−10)
 雀居遺跡は御笠川の東岸にあり板付遺跡と対峙する位置関係にある集落遺跡で,土坑群と溝状遺構が検出された。溝は台地の縁辺を巡る自然流路であるが,報告者によると水田との関係はわからないという。早期古段階から営まれはじめ,東北地方の晩期の土器である大洞C2式の浅鉢が出土するなど,東日本との関係をもっていた人びとの集落である。水田は見つかっていないが,大溝から出土した大量の木製品や農工具などからみて,水稲農耕をおこなっていたことは間違いない。彼らが晩期に居住していたことを示す遺構や遺物は出土していないことから,那珂・板付遺跡と同じく早期に進出してきた農耕民と考えられる。」の住民が秋田ではないかとの感じを受けました。ありがとうございました。

[4543] 毛利元就がマオリ族出身  角丸山 2003/09/13(Sat) 15:14 [Reply]
>習志野のてつさん、情報ありがとうございます。
土器文化は途中で「消滅」とのことですが、世界大百科事典によりますと「マオリ彫刻の曲線文様に関しては,メラネシアにみられる曲線文様との直接的な関係が否定され,中国の東周の青銅彫刻に由来すると指摘されている。マオリ族の社会には今日なお伝統的な木彫作品が伝えられ,村落に飾られている。(福本 繁樹)」彫刻が今猶、東周の文化を留めるようで、日本の弥生も500年古くなっていますから、毛利元就がマオリ族出身としてもおかしくないような話なんですが。

[4542] 十と言う字  角丸山 2003/09/13(Sat) 14:52 [Reply]
>神奈備さんさん、早速のお返事ありがとうございます。
十は辟邪の魔除の符号、これは銅鐸のX印しのこと迹と云う字にしてしまうと、呪術的なものは消えちゃうのでは・・・その通りです。どう解釈したらよいものか弱るところです。寺沢さんの王権誕生によれば岡山から愛知に至る近畿銅鐸圏内6か所で出土の小型?製鏡、中国陝西省出土のシャーマン人形にあるそうです。<A href="http://www.ne.jp/asahi/pasar/tokek/TG/mikoclub/dongba.html">ところでこんなサイトがあり、十と言う字には百の意味を持たす場合があったりするのでびっくりしています。</A>

[4541] [4538] ラピタ人 訂正  習志野のてつ [Mail] 2003/09/13(Sat) 14:48 [Reply]
> ニュージーランドには最後に辿り着きますが、約千年まえのこと。
正確を期そうと調べて見ました。約千年前は、大雑把なので訂正。

歴史民族博物館の公式HP「4、ポリネシア」の項によれば
http://www.minpaku.ac.jp/study/into_michiko/04.html

『ハワイ(紀元後700年)、イースター島(紀元後700年)、そして最後に
ニュージーランド(紀元後1250年)へと拡散した。』そうです。
日本で言えば鎌倉時代ですね。また土器文化は途中で「消滅」してました。

[4540] Re[4538] ラピタ人  習志野のてつ [Mail] 2003/09/13(Sat) 14:36 [Reply]
> いわゆるマオリ族の使っている言葉で「マオリ語」と言う…
以前一度書き込みましたがもう一度。

今一般的に流布・支持されている説は、片山一彦さんの説です。
海のモンゴロイドとか呼ばれる「ラピタ人」は、3500年程前に
突然太平洋に登場します。土器と芋農耕をもって、各地に拡散。
ニュージーランドには最後に辿り着きますが、約千年まえのこと。
二千年前にはハワイにもニュージーランド人は住んでいません。
http://www.daido-life-fd.or.jp/02_katayama.html

青草にカキコ
三内丸山から人がいなくなったのが4500年前です。
ラピタ人は、三内丸山に住んでいた人々が1000年かけて南下。
3500年前に、沖縄、台湾を経て、太平洋に拡がった説
まず無理、青草よりアホクサですね。

今のマオリ族の言葉と今の日本語を比較し、日本語を解釈するのは、
無謀としか言い様が無いです。ハワイ原住民の言葉を「ハワイ語」
として日本語を解釈する人や本がありますが、無理筋でしょう。

[4539] Re[4535]: モモナミ?  神奈備 2003/09/13(Sat) 13:13 [Reply]
> >神奈備さん、はじめまして、角丸山と申します。
こんにちは。

 さて、大三元さんのご指摘に、百襲姫の百を『古事記』では「母母」と表記しており、この場合には100の意味(多いの意か)がないとあります。一方、『古事記』では原義が忘れられたのではとの示唆をされています。
 百は100なのか否か、原義の残るかもしれない『日本書紀』からは、百と理解してもよさそうですね。

> モモナミをイザナミの2倍の大巫女王
 同感。百襲姫の箸墓は昼は人が造り、夜は神がつくる、人力ではできない巨大な墓、まさに黄泉の国の女王の姿で、イザナミの2倍の大巫女王と言えますね。

> 十は辟邪の魔除の符号
これは銅鐸のX印しのことでしょうか。これは形が大切で、迹と云う字にしてしまうと、呪術的なものは消えちゃうのでは。

 言語音痴の神奈備としましては、アラビア語のカキコなんかは全く要らないのですが、百襲姫には重大な関心を持っております。角丸山さん、ありがとうございます。

 所で、物部守屋事件の二人の勇士の迹見首赤檮と鳥取部万を思い出していました。

[4538] ○○マル  角丸山 2003/09/13(Sat) 12:41 [Reply]
>習志野のてつさん、始めまして、角丸山です。
「NZ語」とはご指摘の通り、いわゆるマオリ族の使っている言葉で「マオリ語」と言うべきでした。失礼しました。

[4537] Re[4536]:  習志野のてつ [Mail] 2003/09/13(Sat) 11:57 [Reply]
角丸山さん、始めまして。
意味が判らないので、素朴な疑問
> NZ語、朝鮮語による丸の語源解釈は非常に古い時代…
の「NZ語」とは何ですか?
いわゆるマオリ族の使っている言葉ですか?
だとしたら、それは「マオリ語」と言うべきでは?
それとも英語のニュージーランド訛り?まさかね。

[4536] 太郎丸〜五郎丸の地名→○  角丸山 2003/09/13(Sat) 11:43 [Reply]
玄松子さん、始めまして、角丸山と申します。
NZ語、朝鮮語による丸の語源解釈は非常に古い時代のこととして非常に参考になります。他方、物部に○○マラという名前が多く、その中に麻占と書いてマウラと読むものがあるようです。このマウラという訓と占うという字を合わせたものにマラの原意はシャーマンのような社会的に尊敬される人、即ち、○○さんの意味があったが、仏教伝来と共にマラは陰茎を意味する仏教用語に変わり、同時にマラの発音もマルという風に変わったとも解釈できるのではないかと思いますが。いずれにせよ物部は九州、大陸方面とのつながりを感じさせますのでNZ語、朝鮮語による丸の語源解釈の方が本来的で占うというのは漢字に転写するときの偶然の選択であったかも知れず自信は無いのですが。

[4535] モモナミ?  角丸山 2003/09/13(Sat) 09:13 [Reply]
>神奈備さん、はじめまして、角丸山と申します。
彦五十狭芹命は百襲姫命の御弟、弟50、姉100、いざなみを50なみとすると、モモソヒメは100ナミということでこれまたダブル、かんなび、かんなめ等に出てくるナミの持つ呪術的な響きからモモナミをイザナミの2倍の大巫女王という尊称と読みたいですね。トトヒは十ハヤヒ、十は辟邪の魔除の符号(十市にも含まれる、市は徐福のフツ)ハヤヒ、ハエはニギハヤヒ、ハヘイロド、ハヤト等に含まれる吠声による呪術の意味、(東北のホイトは祝事を歌うのではなくハヤトと同じことであったのではなどと疑っています)・・・こういうふうに考えるとヤマトトハヤヒモモソヒメというのがでてきます。しかしこれではソがいまいち。ここでご紹介のHPと神武に出てくる「などさくる目」などという「大目(大目付みたいなものか)」をやじる心理の裏を読むと細目(埴輪の巫女)を妙わしとしたのでないかと思われ、マホソヒメが出てきますがこなると百とうまくつながらない。すると百の後にナミを追加し最終的にはヤマトトハヤヒモモナミヒメと読むとすれば全てが解決するのですが。

[4534] タマトタケルはアラビヤ人だった    焼尻紋次郎 [Mail] [Url] 2003/09/13(Sat) 07:20 [Reply]
 みなシャン、やっとかめ なも(名古屋弁)。
 あっしゃ、あい変わらず国際古代語やってます。
 8月4日に、沖縄とアラビヤ語とが共にE.Oがなく A.I.Uの3母音であることを
あらためて気がつき、アラビヤ勢力が日本史にのっぴきならぬ大影響を与えていたこ
とに思いあたってオタオタしていました。

 √♪ ハ・ア・ル・ノ・オ・ガ・ワ・ワ (さらさらゆくよ) ♪
 から「ハルガ」の部分を差し引いて「♪ アノオワワ」と歌ってみてください。こ
のメロディーが八重山〜薩摩〜西部長崎(五島)〜津軽に、語りだしのところで共通
なイントネーションです。
 このアノオワワ族と殿様が移動した秋田だけが女陰をマンジューと云ってるんで
す。
 第二子音濁化のクセというのがあります。マンコは「マンゴ」となります。
 ところが果物の「マンゴ(マンゴー)」には O があるので、アラビヤ人たちはこ
れが発音できません。ついつい manju 、manjyuu となったのでした。
 
 そこへこのほど、ヘルプさんという方が「まほろば、まはらば」は南アラビヤ語で
あることを教えてくれました。これはほんとうだと思いますのでお報せします。
 タマトタケルが能褒野で白鳥となって昇天する直前に詠んだ『やまとしうるはし』
のなかにありますので、これで、アラビヤ勢力が日本建国の中心にいたことが確定し
たかと思います。

 susu はパーリ語で「子供」、ススキ(アイヌ語 susuni )。童神の一種だと……おっとっとっとと‥‥。

[4533] Re[4532][4531]: 能登の高倉彦神社  神奈備 2003/09/10(Wed) 18:20 [Reply]
> 須須神社や珠洲市は、「すず」と読みますよね。
今風では。
『国史大系』延喜式巻十(所謂、神名帳)には
珠洲郡 ススノ郡
須須神社(須は 三水扁)のルビを ススノ神社
としています。
このルビ、黒坂さんかな松下さんかな。

> 「すず」は「すす」と見て良いのでしょうか。ちょっと疑問。

静音濁音と並ぶ方が発音しやすい場合と、笹のように清音清音で聞こえがいいのとありそうですね。

[4532] Re[4531]: 能登の高倉彦神社  玄松子 2003/09/10(Wed) 12:05 [Reply]
> > すすみ:のろし
> お祭りの姿からは烽火なんでしょうね。

須須神社や珠洲市は、「すず」と読みますよね。珠洲市には須受八幡もあります。
「すず」は「すす」と見て良いのでしょうか。ちょっと疑問。
珠洲市のサイトでは、「すすみ:のろし」としていますが。
http://www.city.suzu.ishikawa.jp/home/city_data/suzu_name.htm

[4531] Re[4530][4529][4528]: 能登の高倉彦神社  神奈備 2003/09/10(Wed) 10:32 [Reply]
大三元さん こんにちは。

> すすみ:のろし
お祭りの姿からは烽火なんでしょうね。

Yanaseさん> 高倉彦神社(珠洲市)、社殿は東向きですが、境内は南の海に接してゐます。そこから遥か離れた能登島の北岸には伊夜比盗_社、関係は定かではありません

 地図で見ただけですが、高倉彦神社から伊夜比盗_社への間は海だけが遮っている訳ではなさそうで、かなわぬ恋の横恋慕などと。

ススその他
 『古事記』応神天皇記  酒技術の須々許理
 『新撰姓氏録』酒部公 韓国参来人兄曽々保利、弟曽々保利
 『旧事紀』曾曾笠縫等の祖 天津赤麻良

[4530] Re[4529][4528]: 能登の高倉彦神社  大三元 2003/09/09(Tue) 23:55 [Reply]
> オスズミ祭のスズは須須神社や珠洲市のススに通じるのでしょうか。酒?

すす:煤煙、煤ける、〜しながら(「つつ」と同じじゃん)
すすみ:のろし

みほすすみ を美保の烽火とも説いている人もある。


[4529] Re[4528]: 能登の高倉彦神社  神奈備 2003/09/09(Tue) 18:21 [Reply]
> お久しぶりになります。
Yanaseさん こんにちは。
伊夜比盗_社のオスズミ祭は越後の男神様を呼び寄せる大松明が夜空を焦がすようで、一度祭りの日にあわせて参詣いたしたいものと思っています。弥彦山から見えるのかな。
オスズミ祭のスズは須須神社や珠洲市のススに通じるのでしょうか。酒?
高倉彦神、高倉下の別名とされる棚倉孫神社の手栗彦命などを引き合いに出せば、下は師とか彦とかの意味が込められているのかも。

[4528] 能登の高倉彦神社  Yanase [Url] 2003/09/09(Tue) 12:16 [Reply]
お久しぶりになります。
Gさんが夏休みを返上して作ってくれた新平成祭データ検索プログラムは、素晴らしい出来のもので、本当に感謝しなければならないのですが、使ふことによって良い研究成果を得ることがその表明でなければならないかもしれません。
http://www.ne.jp/asahi/matu/gen/sai/
先日折口信夫没後50年のころ墓参をかねて、能登を回って来ました。
半島北端の須須神社は、義経伝説でも知られますが、長い参道にはタブの木でせうか、広葉樹の古木が立ち並び、南の地方の神社の印象でした。
そこからやや下ると、高倉彦神社(珠洲市)、社殿は東向きですが、境内は南の海に接してゐます。そこから遥か離れた能登島の北岸には伊夜比盗_社、関係は定かではありません。
伊夜比唐フ神は越後の弥彦の神の后とされますが、高倉彦の神(平成データでは他に千葉県に一柱のみ)、おそらく高倉下や弥彦の神と関係あるものと思はれます。神奈備HPで触れられてゐると思ひましたが、サイト内検索では出ませんでした。
ほかに鹿島町の石動山(いするぎやま)も古社の風格でした。

[4527] モモナミ?  神奈備 2003/09/09(Tue) 09:36 [Reply]
 讃岐の香河郡に 百相 と云う場所がありました。『和名抄』
毛々奈支(高本)、毛毛奈美(刊本)と訓むとの注。

そう言えば:−
高松市仏生山町甲に船山神社が鎮座、祭神は倭迹迹日百襲姫命ほか。
由緒書き一部
社伝によれば(人皇第七代孝霊天皇の皇女)倭迹々日百襲姫命、上古讃岐の東部に来り給い、更に移りて当地船山に登り給う。比の地讃岐の中央にして好き所なりと賞でし給いしにより祠を之を奉ず地名百相(倭名鈔百相毛毛奈美)は命の御名によって起れりと、彦五十狭芹命は、百襲姫命の御弟に座し、他の三神は配祀せるという。創建は天平年間といい初め浅野村船岡山に鎮座あり、船岡山は古く百相郷に属し船山と称し、当社又船山神社と称へられ三代實録に「天慶五年十一月十四日戊午授、讃岐国正六位上、船山神社従五位下」とあるのは当社なりといえり。

 百襲をモモソと訓して来たが、モモナミもあったのかな。

http://www.dai3gen.net/yamatoto.htm

[4526] ○○系  玄松子 2003/09/09(Tue) 09:33 [Reply]
教えてください。

> スサノオ系は複雑・多岐にわたりますが、

・スサノオ系とは、なんですか?
・スサノオ系は、どのように複雑で、多岐にわたっているのですか?
・その他の「○○系」って、例えばどういうものがありますか?
・その他の「○○系」は、簡単明瞭なのですか?

[4525] 無題  カンキ 2003/09/08(Mon) 19:35 [Reply]
神奈備さん、色々有り難うございました。

当方マックを使用しており、CDは活用できるのか不安ですが、
暇を見付けて図書館には足を運んでみます。
くず族や九頭に拘りすぎて、変な質問になりました事お許し下さい。

単純に、十二社・・・熊野、オカミ等・・・貴船・丹生川上、
辺りから、多武峰・興福寺等(周辺地域の歴史)と共に楽しんでみます。

スサノオ系は複雑・多岐にわたりますが、今後、興味深く拝見させて頂きます。

[4524] Re[4520][4519][4518]: はじめまして  神奈備 2003/09/08(Mon) 17:50 [Reply]
> 玄松子さん、お寺の住所、ありがとうございます。お寺の『平成データ』などあれば便利でしょうね。

> この情報の出典は何でしょうか?奈良は、小さい神社に不親切でインターネットでは調べ難いんです。
神社本庁から出ている『平成祭データ』と言うCDがあります。それに<通称>東ノ宮(ひがしのみうや)とあります。
由緒としては、「奈良県大和高田市藤森集落の東、道路沿いに鎮座。創建は不明である。祭神の高■命 は、竜蛇の神、水を司る神として崇敬されてきた。」とあります。

神奈備注  ■ これはオカミの漢字で、雨の下に口を三つ並べて、その下に龍の字だろうと思います。

なお、十二神社には<通称>は記されておらず、由緒は「創建は明らかではないが、大字藤森がかつて多武峯の社領で、当村産の米を談山神社に収納していたため、当社神殿も多武峯から移されたといわれる。」とあります。

奈良県の神社に集中してお調べになるのでしたら、『奈良県史』5 神社 が神社誌の役割を果たしています。
詳しくは
http://www.meicho.co.jp/rekishi/nara.html
を参照して下さい。
また、例えば、『大和高田市史』のような地域史に結構詳しく紹介されている場合もあります。図書館へどうぞ。

>たかくらおかみじんじゃ名の神社は多数存在するのでしょうか?
たかおかみ、くらおかみを祀る神社と言うことですね。
『平成祭データ』を玄松子さんご提供のソフトで検索しますと
たかおかみ神 1567社/青森から鹿児島
くらおかみ神  721社/青森から鹿児島
あります。
松子さんご提供のソフト
http://www.ne.jp/asahi/matu/gen/sai/
参照

[4523] ↓URL  玄松子 [Url] 2003/09/08(Mon) 17:20 [Reply]
下に書いたURLは、「,」で切れてしまっているので、↑の[Url]をクリックしてください。

[4522] Re[4521]: はじめまして  玄松子 2003/09/08(Mon) 17:17 [Reply]
> はじめまして。長谷川です。つかぬ事を伺いますが、鶴岡市内の「保春寺」の
> 住所は、わかりますでしょうか?

http://www.mapion.co.jp/c/f?el=139/50/14.942&scl=10000&pnf=1&uc=1&grp=all&nl=38/43/16.459&size=500,500
鶴岡市神明町2あたりでしょうか。

なぜ、この掲示板でお寺の住所を聞くのだろうという疑問はありますが、僕のサイト(神社専門)でも、お寺の由緒をたずねてくる方もいますしね。神仏というくくりが通常の常識なんですよね。

[4521] はじめまして  長谷川 薫 [Mail] 2003/09/08(Mon) 15:09 [Reply]
はじめまして。長谷川です。つかぬ事を伺いますが、鶴岡市内の「保春寺」の
住所は、わかりますでしょうか?

[4520] Re[4519][4518]: はじめまして  カンキ 2003/09/08(Mon) 09:55 [Reply]
神奈備さん、早速のお返事ありがとうございます。

> 大和高田市藤森町の高オカミ神社は、通称を東ノ宮と言うそうです。
> 西ノ宮にあたる神社が十二社神社と言うことでしょうか。

この情報の出典は何でしょうか?奈良は、小さい神社に不親切でインターネットでは
調べ難いんです。

>
> > 九頭=『高オカミ』でないでしょうが、 三輪より西方に鎮座され気になっております。

くずとの関連で東方への移行を指摘されていた記憶があり、何故、西方にあるのだろうか?という疑問です。奈良(以外でも)には、>たかくらおかみじんじゃ名の神社は多数存在するのでしょうか?
一度、環壕を見に行った時に、両社名から、単なる産土神としては特異に感じたものですから・・・明確な由緒が不明なので、余計に感じているのかもしれませんが。

的外れの質問かもしれませんが、また、調べる方法でもご教授頂ければ幸いです。




[4519] Re[4518]: はじめまして  神奈備 2003/09/07(Sun) 17:03 [Reply]
カンキさん こんにちは。
大和高田市藤森町の高オカミ神社は、通称を東ノ宮と言うそうです。
西ノ宮にあたる神社が十二社神社と言うことでしょうか。

> 九頭=『高オカミ』でないでしょうが、 三輪より西方に鎮座され気になっております。
九頭の名を持つ神社は大和高原に多いですね。大和国中を潤す祈雨の神としますと、そうなるのでしょうね。
 高オカミを祭神とする神社は生駒郡平群町椣原に青躰龍王社が鎮座。
http://www.kamnavi.net/as/ikoma/kinshou.htm

[4518] はじめまして  カンキ 2003/09/07(Sun) 13:28 [Reply]
はじめまして。皆様の立派な論考には、とても参加できそうもない素人のカンキと申します。
以前、『高オカミ』等のお話がありましたね。地域的に、三輪の西方であり、くず・九頭等の関係は不明ですが、
大和高田市藤森 http://www1.kcn.ne.jp/~sazanka/bunkasin/jinjya.htm
に、高*神社たかくらおかみじんじゃ 旧村社 高*命 (祭神不明)とありました。
九頭=『高オカミ』でないでしょうが、 三輪より西方に鎮座され気になっております。
私自信は同村鎮守の十二社神社の由緒を本当は知り得たかったのですが、『高オカミ』について、もう一度ご教授頂ければ幸いです。

[4517] Re[4514]: 太郎丸〜五郎丸の地名→○  玄松子 2003/09/06(Sat) 09:46 [Reply]
>  私は、『○○丸』の地名も、船舶名も、朝鮮語に臍の緒を留めている古代倭語『○○村』の意の“마을”(ma-eul)=村、部落、里、郷、である、としています。

http://leiland.com/outrigger/column.shtml?kodai.html
「ニュージーランドのマオリ族は、・・・、その移住航海に使用した大型のカヌーの中に「トコ・マル、TOKO-MARU(toko=staff;maru=shade,shelter)」、「乗組員を・(危険から)保護するもの(船。カヌー)」という名があります。」
とあります。
朝鮮での「村=ma-eul」も、その根底に「保護」「護り」という意味が含まれるのかもしれませんね。保護するために区切られた領域が、領域のみの意味になったり、愛玩的な意味に転じて幼少期の名前○○丸など、いろいろ空想が広がりますね。

[4516] Re[4514][4508]: 太郎丸〜五郎丸の地名  日雲 2003/09/05(Fri) 16:37 [Reply]
福島様>大変勉強になりました。
地名にやたら多い「丸」って何だろう? というのも疑問に思っていましたもので。

>九州弁で『田の畔(あぜ)』を『たのクロ』と謂います。
こういうことは、プッと短期で出かけた者には解らないですね。
本当に勉強になりました。

[4515] Re[4514][4508]: 太郎丸〜五郎丸の地名  神奈備 2003/09/05(Fri) 13:02 [Reply]
> 副詞の『ぐるっと・回る』、『くりくり・頭』、等の丸い物⇒『クロ』=『水田』の重複語を、私は疑っています。

田主丸の住人の福島さん、この着眼、すごい。

昔の棚田を思い出しました。等高線にそって丸味をおびていました。
機械化対応で、今は直線状になっています。

[4514] Re[4508]: 太郎丸〜五郎丸の地名  福島雅彦 [Mail] [Url] 2003/09/04(Thu) 23:34 [Reply]
> 太郎丸〜五郎丸の地名
> 新潟県、富山県、福井県、福岡県に揃い踏みです。
> 丸は原の変化など諸説がありそう。
> 田主丸にお住まいの方、いかがでしょうか。

※田主丸の住人です。
 私は、『○○丸』の地名も、船舶名も、朝鮮語に臍の緒を留めている古代倭語『○○村』の意の“마을”(ma-eul)=村、部落、里、郷、である、としています。
・低平地の水田地帯に在る。扇状大地、河岸段丘の一等地が在来倭人で飽和状態の所へ、帰還倭人が次善(水害の危険と旱魃の水不足の両方が心配)の地として住みついた。
・船舶名は、帰属・所属の村の名の名残かと。
・因みに『田主丸』⇒タンシンマウル=貴方様の村=卑彌呼の村、としています。
隣町の『吉井』⇒ヰェシンヌン=女神の田(卑彌呼直轄田)の耕作人の村、と。

※日雲さんの『黒田』伝説も頷けるところがあります。
 九州弁で『田の畔(あぜ)』を『たのクロ』と謂います。古代の水田の畔は直線ではなく、等高線の侭に曲がっていた筈です。
 副詞の『ぐるっと・回る』、『くりくり・頭』、等の丸い物⇒『クロ』=『水田』の重複語を、私は疑っています。
 独創的閃きに就き、Yahooの掲示板では、トンデモ視されていますが…。

[4513] 「郎」関係  日雲 2003/09/04(Thu) 17:25 [Reply]
なるほど、方々に色々あるんですね……。
とすると、福岡県の方の天神社には埴安命を祭神とするのが多く、
「田神社(でんじん)」という表記になったものも散見せられるようですが、
(「でんじん」が「てんじん」に転化したとの見解もありますが)
三郎や九郎に「天神」とつきやすいのは、要するに、
「三郎さん(九郎さん)の田んぼに祀られた農耕の神様」ということでしょうか……?

ところで、【国東町史】による、国東半島の黒雄社の由緒は以下の通り――

『祭神:武内宿禰・仲哀天皇・神功皇后・上筒之男命・中筒之男命・底筒之男命
順徳天皇健保元年(1213)十一月十日、武蔵郷椿八幡宮の御分霊を奉仕創立した。
さてここに亀山天皇の御宇、文永二年(1265)、岸本城守重藤遠江守義元の崇拝鎮守であったが、弘安九年(1286)、廃城となったので、社も堂宇破損のままであった。後光明天皇慶安元年(1648)、黒田と早馬の森に光り輝くものがある。村人達は、さても奇怪なことよ、と長昌寺の住僧義宣にたのみ、みくじをもって占ったところ、「林中に神坐す」と出た。そこで林の中を探してみると、黒雄社という三字を刻んだ石体と、尊像があった。さっそく尊像を祀ったが、ふしぎにも、今まで耕作至難とされていた黒田の沼も泥土が固まり、耕作も容易となったのみか、五穀豊穣、これこそ黒雄社御神徳の賜と、いよいよ崇敬を厚くした』

これなんかは、黒田=九郎田?
まあ、鉄分の多い、実際見た目に赤っぽい土壌の土地に「赤」と付き易いらしいように、
黒っぽい色の土地だった、とかも考えられるかも知れませんが。
また、冒頭で八幡の勧請がらみで書かれているところを見ると、
元は宇佐の黒男社を勧請したものであろうか、という風にも取れなくはない……?
(八幡宮と一緒に勧請されたものが、廃城に伴って一時寂れたということなのか? と)
うーん……?
まあ、いずれにせよ、「くろう」を源流的に一本化することは難しいようですね。

ただ今、今回の最大の課題である宇佐の北辰について資料を当たり始めていますが、
これがまた……どうにもこうにも……(:==

[4512] Re[4509][4508]: 太郎丸〜五郎丸の地名  神奈備 2003/09/04(Thu) 08:53 [Reply]
> その中の九郎が、黒男と習合・混同されたということも考えられるということですね。

九州では太郎(良)から九郎(良)までを見ますと七郎神社が最も多く、祭神は七郎氏廣、稚足彦命、素盞嗚尊と分散しています。
三郎と九郎とがそれに続き、3社。
世の中には長男は次男より多いのが当たり前で、九郎などは最も少なくて当然ですが、義経ではないですが、九郎、と名には何か瑞兆でもあるのでしょう。統計的考えより多いようです。
例えば、黒男、に強い男などの意味があるのなら、偏差は理解できますね。

[4511] Re[4510]: 「生駒山は神南備山」HPについて  神奈備 2003/09/04(Thu) 08:24 [Reply]
> http://www.h7.dion.ne.jp/~iko-kan

ご案内、ありがとうございます。

[4510] 「生駒山は神南備山」HPについて  原田 修 [Mail] [Url] 2003/09/03(Wed) 22:29 [Reply]
●御案内●
生駒山主峰の南方、鳴川峠の近くで発見した「三間石山巨石遺構」、この巨石遺構は、古代において広大な生駒山地の全体が、住吉大社の神南備山であった証し、すなわち「諍石」であったものと考えられます。
巨石群についてのホームページを作成しましたので、ぜひ一度お訪ねください。
http://www.h7.dion.ne.jp/~iko-kan

[4509] Re[4508]: 太郎丸〜五郎丸の地名  玄松子 2003/09/03(Wed) 16:19 [Reply]
> 太郎丸〜五郎丸の地名
> 新潟県、富山県、福井県、福岡県に揃い踏みです。
> 太郎丸〜七郎丸の名は地主の名。名主。自分の名をつけた田のようで、鎌倉時代に発生とか。

村人A・B・Cみたいな感じでしょうか。
その中の九郎が、黒男と習合・混同されたということも考えられるということですね。

[4508] 太郎丸〜五郎丸の地名  神奈備 2003/09/03(Wed) 14:17 [Reply]
玄松子さん  習志野のてつさん 大阪は町中が蒸し風呂です。

太郎丸〜五郎丸の地名
新潟県、富山県、福井県、福岡県に揃い踏みです。
丸は原の変化など諸説がありそう。
田主丸にお住まいの方、いかがでしょうか。

> 七郎:息長田
> 七郎さんの母親は、「名も知れぬ」とされ、かなり身分はひくかった。
太郎丸〜七郎丸の名は地主の名。名主。自分の名をつけた田のようで、鎌倉時代に発生とか。
太郎冠者・次郎冠者なども。

[4507] 再・七郎さん    習志野のてつ [Mail] 2003/09/03(Wed) 13:46 [Reply]
青草に行くべきかまよいつつ。
ヤマトタケルの息子達と考えると、書紀に従えば
太郎:稲依別      (両道入姫)
次郎:足仲彦(仲哀天皇)(両道入姫)
三郎:稚武       (布忍入姫)
四郎:武卵       (吉備穴戸武媛)
五郎:十城別      (吉備穴戸武媛)
六郎:稚武彦      (弟橘媛)
七郎:息長田      (一妻:あるみめ)
ではなかろうか?と考えます。()内は母親の名。王は省く。
七郎さんの母親は、「名も知れぬ」とされ、かなり身分はひくかった。

しかし年齢も近く、三人はとても仲良く、且つ十城別王は、大王(天皇)に
なろうなどという欲や野心は、持ち合わせていなかった。 

肥前の国(佐賀県東松浦郡呼子町)田島神社に祀られる
稚武王尊は、三郎さんではなかろうか?
神奈備神名帳・肥前の国
http://www.kamnavi.net/en/hizen.htm
田島神社が上松浦、志々伎神社が下松浦明神とされています。

[4506] 福岡の地名  玄松子 2003/09/03(Wed) 12:25 [Reply]
以下、福岡の地名です。西から順に並んでいるような印象が(ちょっとだけ)ある。
・太郎丸(福岡市西区)
・次郎丸(福岡市早良区)
・三郎丸(福岡県宗像市)
・四郎丸(福岡県甘木市、豊前市、鞍手郡)
・五郎丸(福岡県筑紫郡)
・六郎 (豊前市)
・九郎丸(嘉穂郡)

[4505] 七郎さん  習志野のてつ [Mail] 2003/09/03(Wed) 09:37 [Reply]
平戸、志志伎神社 旧県社
祭神 十城別命、 配神 鴨一隼戸命,七郎氏廣
社宝:古代土器(神功皇后凱旋時持ち帰ったもの)『…異族襲来の守護神…』
五島列島の野崎島、神島神社 旧郷社
祭神 鴨一速王、 配神 十城別王,七郎氏廣
『一速王は三韓征伐の時軍功あり、凱旋の後、外難を押へんがためこの島に鎮座…』
平戸の亀岡神社:旧県社(明治12年…平戸の産土神七郎…を合祀)
  祭神 別氏嫡子氏広命
この三神社には、昭和二十年頃まで、それぞれ社宝として蕨手の刀があったそうです。

私はきっかけがヤマトタケルだったもので「七郎さん」については調べたことがあります。
調べた限りでは「七郎神社」は、佐賀に3社、長崎に5社あります。
尚、佐賀県鹿島市浜町には「七良神社」があります。
佐賀では「七郎さんの使いのごたる」と云う言葉があるそうで、
使いに行ったまま帰らないことを言うそうです。非常に親しみを持たれた神様のようです。

(以下青草です)
現在の私の結論は、これら三柱の神様はいずれもヤマトタケルの息子達。
母親の違いがそえぞれの格の違いとなったが、仲が良かった。
三人一緒だと「タケル三兄弟」と呼ばれた。
それぞれの呼び名は「シジキ」「コウジマ」「シチロウ」だった。

[4504] 兄弟の呼び方  神奈備 2003/09/03(Wed) 07:38 [Reply]
>> 黒と九郎、年代に大きい差があるのかも
> ということなんですかねえ。
> せめて九郎や三郎に、それぞれ統一的な趣でも感じられれば良かったのですけど
 兄弟の命名に太郎(一郎)から九郎などとする風習はいつ頃からあったのかいな。
 ○郎の名は『古事記』などには見かけませんが、応神天皇の御子に宇遅和紀郎子など、郎が郎子、郎女としては出ているのですが。但し、源九郎義経のように、九郎は戸籍名ではないような・・・。だたか残らないのかも。
 話題の平戸、長崎県平戸市岩の上町の亀岡神社の由緒に、「神功皇后の朝鮮出兵に従軍した武将七郎氏広の佩刀と伝えられ云々」があり、これを真に受けると「七郎」は相当に古い呼び方だったのかとも思えます。
 しかし感覚的には(根拠なしには)数詞+郎は新羅三郎義光など武士の登場に連動しているような気がしているんですが。

[4503] 志式神社  ユアン [Mail] 2003/09/02(Tue) 22:31 [Reply]
>日雲さん
あああ、また間違えて「ヨリコ」の方を
なのっちゃいました。
ユアンです(笑)
なるほど、三郎天神社のみの御祭神なのですね。
了承しました☆

>神奈備さん
福岡です。奈多の志式神社の氏子です。

>てつさん
和白はわじろと読みます。まんまです(笑)
和白中学は略してわっちゅうといってました。
和白中学の生徒はWhat you say?
失礼しました。

[4502] Re[4501][4496]志式神社  日雲 2003/09/02(Tue) 13:51 [Reply]
「和白小学校」のHP@てつ様>初めは三郎天神と言われていましたが
――あ、ちゃんと三郎とも書くんですね。
今は三良で「さぶりょう」と読んでいるようで。勉強になりました。

ユアン@ヨリコ様>七柱か八柱くらい御祭神があったと記憶してますが
すいません、元は志式神社だった(三良天神じゃなかった)方の祭神を
あえてカットしてカキコんじゃいました。
合祀された神社の説明まで添えると煩雑になっちゃうかと思いまして。

神奈備様>黒と九郎、年代に大きい差があるのかも
ということなんですかねえ。
せめて九郎や三郎に、それぞれ統一的な趣でも感じられれば良かったのですけど、
それら自体が何だかよく解らないと来ては……。

福岡市中央区の鳥飼八幡宮境内にある黒殿社(くろでんしゃ)の祭神、
【祭神】武内宿禰 鳥飼黒主
この鳥飼黒主さんも気になりますが、どういう方なのか……?

[4501] Re[4496]志式神社  習志野のてつ [Mail] 2003/09/02(Tue) 10:37 [Reply]
> ★志式神社(三良天神)
> 「神功皇后御征韓の折、奈多の里吹上げの此の地に、異族襲来の守護神として祭られ、
> …うちの氏神様のことが書いてあるのを見てレスしました☆…

ご近所と思われる「和白小学校」(読めません)のHPによれば、
http://www.fuku-c.ed.jp/schoolhp/elwajiro/gakkounomawari.htm
「…聖武天皇の頃(740年代)に肥前の国、五嶋の志々岐大明神を勧請し、1597年に二社を合祈…」
となっています。
「五嶋の志々岐大明神」ならば、平戸の志々岐神社(祭神:十城別命 配神 鴨一隼命、七郎氏廣命)でしょう。
肥前の国に、わずか四社しかない延喜式内社の一社です。
この神社も玄松子さんのHPに詳しいです
http://www.genbu.net/data/hizen/sijiki_title.htm

[4500] ご教示ありがとうございます。  瀬戸内 [Mail] 2003/09/01(Mon) 22:17 [Reply]
神奈備様
早速のご教示ありがとうございます。
大いに参考になりました。
今後 図書館等で、勉強いたします。

>讃岐のおもしろそうな由緒の神社や五十猛命をお祭りしている神社名を教えて頂ければ幸甚です。
上記 時間がかかるかもしれませんが、調べてみます。

[4499] 無題  儺負人 2003/09/01(Mon) 21:55 [Reply]
儺負人です。皆様レス有難うございました。
「こしおう」の漢字表記法にはいくつかあるものの、(岩手花巻の神社について)もし同一起源としても胡の四王という、やや西域っぽい由来を想像するのは難しいという結論と理解しました。ここから先は相当程度当該分野の基礎的な知識を要すると考えます。

尚ご指摘の掲示板も投稿しておりますが、アクセスの理由を全く異にしており、貴サイトでは祭の祖形−寺社の起源との関係のヒントを探ることを目的としています。HNを変えておりますが、(1.HN先行使用者との混乱回避 2.掲示板全体の文化から見た適切性確保 3.やむをえない事情)の内の2.によっています。今後もネチケット尊重の立場に変わりありません。宜しくお願いします。

[4498] Re[4495]: 歴史読本  神奈備 2003/09/01(Mon) 21:14 [Reply]
ペギラさん ありがとうございます。
> 菅田正昭さん
この人はどのような方なんでしょうかね。異端好きかな。たま出版が多いのが気にかかる所。

ユアンさんは、福岡ですか、平戸ですか。

[4497] Re[4493]: 黒男と九郎  神奈備 2003/09/01(Mon) 21:00 [Reply]
日雲さん ありがとうございます。黒と九郎、年代に大きい差があるのかも。
肥前国 杵島郡(佐賀県武雄市朝日町大字中野)に黒尾神社、祭神は神母景媛、この姫はおそらく武内宿禰の生母の山下影姫のことで、武内宿禰の伝承は九州からのようですね。

> 一つ一つ丹念に調べていく以外ないですよね
こんな事を書きながら、千葉以西に手抜きの多いリストアップでしたね。
越前国 坂井郡 信社王神社 伊弉那岐尊
甲斐国 巨摩郡 奈良王神社 孝謙天皇 当神社ご祭神は孝謙天皇を祭る、別

に奈良法王(位不詳)なりとも言う。
飛騨国 大野郡 四天王神社 須佐之男命
筑後国 上妻郡 是善王神社 菅原是善
筑後国 上妻郡 善神王神社 應神天皇
肥後国 益城郡 福利王神社 菅原道眞
薩摩国 日置郡 知賀王神社 伊弉册尊
大隅国 桑原郡 池大王神社
黒星調査のようでした。


神となのる方、38's SPECIALと同じ人でしょうか。ならば禁止しています。
違うのなら、席亭にメールをして下さい。

[4496] Re[4493]: 黒男と九郎  ユアン [Mail] 2003/09/01(Mon) 20:12 [Reply]
> ★志式神社(三良天神)
>  【祭神】火明神 火酢芹神 豐玉姫神
>  「神功皇后御征韓の折、奈多の里吹上げの此の地に、異族襲来の守護神として祭られ、
>  皇 后、神楽を奉し給うと伝う。初め、三良天神と称え奉る」

お久しぶりです、ヨリコです。
うちの氏神様のことが書いてあるのを見てレスしました☆
手持ちの郷土史に、志式神社の御祭神のことが書いてあったと思います。
七柱か八柱くらい御祭神があったと記憶してますが、
ちょっと確認しておきますね☆

[4495] 歴史読本  ペギラ [Mail] 2003/09/01(Mon) 16:45 [Reply]
決して新人物往来社の手先の者ではありません(笑)

10月号の中の特別企画
「異端の神々を祀る社  アラハバキ神と天目一箇神」 
菅田正昭さんのところに(p145)
なんと神奈備さんのHPのことも載ってるではありませんか!!

ちょっとびっくり!で思わず。。。(笑)

[4494] うぅうううう  日雲 2003/09/01(Mon) 15:03 [Reply]
か……改行が何かえらいことになってる……(TдT
すみません……!

[4493] 黒男と九郎  日雲 2003/09/01(Mon) 15:00 [Reply]
神奈備様>白星的成果を楽しみに致しております。
……黒星でした(;w
というより、灰色でしょうか。黒男と九郎――
日雲>どっちが古い表記なのか? というか、黒男と九郎は本当に元々同じものだったのか? というと、これがまたどうもよく解らないっぽい。
――と書きましたとおりに、やっぱりよく解りません。
例えば、大野城市にある現・黒男神社について、【大野城市史・民俗編】を見てみますと、次のようにあります。

★黒男神社:大野城市筒井。
 創建の時期は不詳であり、祭神にも種々の説がある。しかし、元禄元年(1688)に
 着手し、宝永六年(1709)に完成した貝原益軒著『筑前国族風土記』に次の伝説を 載せているので、それ以前の創建であることには間違いない。
 『筒井村の境内也。(中略)管公に二十四人の御子あり。行輩の次第によりて、数をつ
 けて九郎天神とよふなり』(筑前国族風土記)
 『祭る所の神埴安命、奥津彦命、奥津姫命なり、或は太郎左近を祭るともいふ。社内に
 天神小詞あり』(筑前国族風土記附録)
 『また一説に社号黒男殿にて、武内宿禰を祀れるならん、豊前国宇佐宮の末社に黒男殿
 社武内宿禰を祭れる事』(筑前国族風土記拾遺)
 さらに昭和二十一年の宗教法人令に基づく届出承認書には、
 『祭神 息長帯日売神、武内宿禰命』
 とある。このように黒男神社(九郎天神社)の祭神にはいろいろの説があって、面白い
 神社ではあるが、本市の郷土史家としての大先輩である高原謙次郎氏の説に従い、現在 は武内宿禰を主神とする黒男神社に落ち着いている。

一方、春日市にある春日神社境内の九郎天神社を【春日市史・下巻】で見ると、

★九郎天神社(春日神社末社):春日市大字春日字上居屋敷
 祭神・供老大明神(黒男大明神)
 当社の創立年月日は不詳。『春日神社記録』(正徳三年<1713>)には、「供老大
 明神は御祓川の傍におはします」とある。また、『筑前国続風土記附録』に「春日神社 の艮三町斗道の傍らに大楠一株立り樹下に石神あり黒男大明神といふ」と記されてい
 る。『筑前国続風土記附録再調子神社書上帳』には、「春日宮の末社供老大明神」とあ
 る。現在の木祠社は昭和四十八年の水害で流出したために、昭和五十六年一月崇敬者に よって現在地に再建され、「九郎天神」とした。

こうなると、漢字表記の順序はともかく、とりあえず「くろう」の音が先にあったのかな、と思われて来るのですが、この同一境内には三郎天神社もある――

★三郎天神社(春日神社末社):春日市大字春日字上居屋敷
 『筑前国続風土記附録再調子神社書上帳』(文政三年<1820>)には、「春日神社
 末社村中にあり、三郎天神は埴安神なり」とある。地元では「お産の神様」と呼び、出
 産が近づくと祠の扉を開じて安産を祈願し、出産が終われば扉を閉じる。

で、また、この三郎天神というのがチョイチョイ存在しているようで、【筑紫野市史】には、次のように――

★天神社
 天神社には地禄天神社、三郎天神社、地禄三郎天神社などの種類がある。

これを見る限り、必ずしも「さぶろう」と「くろう」は並存する訳ではないらしい。宇佐にも「黒男」はあれど、「さぶろう」はないですし。
じゃ、並立するのは春日市の春日神社でだけなんじゃないの、偶然揃ったんじゃないの、とも考えたくなるのですが――三郎天神で現在一番大きな社殿を持っているのは、福岡市東区大字奈多の志式神社(旧・三良天神=さぶりょうてんじん)を「さぶろうてんじん」としていいのなら、これだろうかと思われますが、ならばこの近くに「くろう」っぽいものがないかと見てみると、同じく東区の三苫の棉津見神社境内に、祭神を武内宿禰とする「黒津神社」が……微妙。何とも微妙。で、この両社を平成CDから見ると、

★志式神社(三良天神)
 【祭神】火明神 火酢芹神 豐玉姫神
 「神功皇后御征韓の折、奈多の里吹上げの此の地に、異族襲来の守護神として祭られ、
 皇 后、神楽を奉し給うと伝う。初め、三良天神と称え奉る」
★棉津見神社(境内に黒津神社)
 「神功皇后征韓御渡航の祭、対馬を発船されたとき、俄に大雷雨大風涛起こり、御船危
 殆に瀕す。此時御船の苫三枚を海中に投入し、何れの時何れの処にあれ、此苫の流れ寄
 らん地に社を建て、拝祭せんと海神に祈られた処、立処に風涛治り、征韓の大業を易く
 終え拾い、凱旋後、苫の漂着せし地に三枚の苫を神体として社を建て、海神を拝祭された」

……では、視点を変えて、地名から見たらどうか? 九郎のつく地名は?
 (場所確認用 http://www.mapion.co.jp/html/map/web/admi40.html
★九郎原;嘉穂町。遠賀川支流の千手川左岸、長谷山東南麓に位置する。
★九郎丸;桂川町。嘉穂盆地の中央南部、遠賀川水系浦川の上流域に位置し、北部の平地
 と南部の弥山岳北山麓よりなる。
 ――いずれも遠賀川の方ですね。また、この近くには、
★黒丸;若宮町。犬鳴川の支流黒丸川流域に位置する。
 ――などもあり、ついでに豊前から黒関係でめぼしいものを拾うと、北九州市小倉北区の「黒原」がある。ここの鎮守はかつて九郎社であった(現在は足立妙見宮境内に移転)。

 ……どうなのでしょう、これは? 何が何だかもう私にはサッパリ(TдT
 ただ、こうして見る限り、「九郎」と「おんくろう」との間に接点は見えにくいですね。

 ポチポチ読んでみた結果は、私的にはそれだけのことに終わってしまいましたが、もしやどなたか素晴らしい視点を発見されるかもと、一応、資料的なものはそのままダラダラと書かせていただきました。長くなってすみません。

[4492] 卑弥呼雨照大守。  神。 2003/09/01(Mon) 13:11 [Reply]
卑弥呼は雨の群雲の剣という、雨乞いの道具を使い

天候を制御したかのように見せていたようです。

そして雨と晴とで雨照(あまてらす)

そして雨照大守(あまてらすおおかみ)。

大神という言葉はありません。

アマテラスは太陽の子なので、卑弥呼ではありませんし神社では奉られていません。親にあやかった名前です。

[4491] Re[4489] 「こしおう」  習志野のてつ [Mail] 2003/09/01(Mon) 09:52 [Reply]
福島さんとは違い、有るか無いか、と云う単なる事実関係です。
応答の「こしおう」(腰を折)って、済みません!。(パクリです。失礼)

> ○王の名を持つ神社をざーっと見てみますと…
> ○○王神社と二文字+王となるのはコシオウしか見あたりません。

 千葉県千葉市武石町(多分美浜区)に三代王神社があります。
 http://www56.tok2.com/home/bamen/sandaioujinja.htm
 いわゆる幕張から北へ1kmほど行ったと所にあります。

ここからは青草話
前提:大王(後の天皇)の息子は王である。
越(=高志)王の地域とヤマトタケルの地域は重ならない。
大彦もヤマトタケルも、それぞれの地域支配を任された王である。
ヤマトタケルの東国遠征の北限は茨城の北、福島の南部までである。

『「一つ一つ丹念に調べていく以外ないですよね」と的確な応答をされています。見習わなくては。ヘィ!』
(またまたパクリですね)ウーッ、耳が痛い

[4490] Re[4489][4488]: 「こしおう」  福島雅彦 [Mail] [Url] 2003/09/01(Mon) 02:40 [Reply]
皆様の盛り上がっている応答の「こしおう」(腰を折)って、済みません!。

※拝読していて、積年の謎が解けかかった、様な…。
狗奴國⇒高ン(の)國=高氏からみで、素盞嗚尊との関係を考えていました。
熊本県の合志町、浮羽郡の小塩(天の岩屋戸が在る)、小石原(腰原)…。
 未だ閃きの入り口で、思考が固まっていませんが…。


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