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[4810] Re[4806][4805]: 紀伊根来の神さま 追加  神奈備 2004/01/31(Sat) 11:41 [Reply]
和歌山市の宇治神社、岩出町の大宮神社もご参考に。

[4809] 橘あれこれ 六  神奈備 2004/01/30(Fri) 09:05 [Reply]
夜都伎神社の件、ありがとうございます。
玄松子さんの神社を見られるスタンスの一部をかいま見せて頂きました。

橘・常世・道教−2


 山上伊豆母著『古代祭祀伝承の研究』に「古典神話の王権伝承においては、天神の系譜をつぐ日嗣尊(太子)の后妃は、海神の女(水の神女)が相応しいという信仰があった」との記述があります。
 確かに『古事記』によれば、山幸彦、不合尊は海神の娘。更に、二代綏靖、三代安寧、四代懿徳と師木県主の祖の系統の女を妃としています。他にも海人系の尾張、物部や丹後から妃を迎えています。常世願望があったと云うことでしょう。
 余談ですが、これは瓊瓊杵尊は石長姫を帰してしまった償い。即ち石長姫を娶っていれば「天つ神の御子の命は、雪零り風吹くとも、恒に石の如く、常盤に堅盤に動かず坐さむ。」だったのです。木花咲耶姫のみでははかないのでした。

 『古事記のものがたり』の宮崎みどりさんから聞いた話ですが「富士山の八合目以上は岩のみで木々はない。ここに石長姫が鎮座、七合目以下は木々と樹海、まさに木花咲耶姫の世界。以下略。」

 道教思想と古来の日本の信仰とを結ぶ絆が橘の木で、道教の霊薬、常世の象徴、海神の女とは常世から差し向けられる天神の娘で、依り代を橘とすると云うことでした。

昨夜姫との楽しい会合、ご出席の方々、ありがとうございました。

[4808] Re[4807]: お助けください  玄松子 2004/01/29(Thu) 18:59 [Reply]
> 天理の夜都岐神社について教えていただきたいのですが、

大鳥居横の社号石碑には「夜都岐」。
社前案内板には、「夜都岐」と「夜都伎」。
鳥居扁額には、「夜都岐」。石灯籠には「夜都伎」(大正の銘)。
拝殿の額には、「夜登岐」。延喜式では「夜都伎」。

同じです。

[4807] お助けください  グリ 2004/01/29(Thu) 16:22 [Reply]
天理の夜都岐神社について教えていただきたいのですが、
地図では「夜都岐神社」とありますが、こちらのホームページなどに
ある道しるべの画像には「夜都伎神社」とあります。
どちらが正式なのでしょうか?
また、全く違う神社なのでしょうか?
教えてください!お願いします。

[4806] Re[4805]: 紀伊根来の神さま  神奈備 2004/01/29(Thu) 11:49 [Reply]
『紀伊国続風土記』では以下の通り。
江戸時代には圓明寺境内に興教大師堂の南に伊太祁曽社、西に三部権現が鎮座しておりましたが、現在は南に三部権現のみ鎮座、伊太祁曽社は見あたりません。この三部権現については祭神は記載がありません。
九社大明神についても名前、位置のみ。

[4805] 紀伊根来の神さま  遺愛子 [Mail] 2004/01/29(Thu) 10:34 [Reply]
みなさま、こん**は。
遺愛子と申します。
突然で申し訳ありませんが、根来寺の鎮守「三部権現・九社明神」について調べております。
こちらのサイトで「五十猛命ほか」となっておりますが主神・配祀など細かいこと解りませんでしょうか。
関東の人間なのであちらで現地取材という訳にも参りませんので・・・
宜しくお願い致します。
                                遺愛子 敬白

[4804] Re[4802][4801]: 追伸  マルヤ [Mail] 2004/01/29(Thu) 09:27 [Reply]
恋川亭さん、久しぶりです。
> 弟姫(乙姫)≠ニいうのは、大阪船場言葉でいう「こいさん」でよろしやすか?
「いとはん」やないですかね。(…こんなことしか書き込めない)

タチバナの話題、拝見しているのですが、内容について行けなくてリードオンリーです。
以前恋川亭さんが買いかぶって書いてくれてましたが恥ずかしいですよ。こちらこそ薄識で。

タチバナと言えば昔、吉野で住んでいた子供の頃、土間に「へっついさん」がありましてね。その竃の一つにいつも茶釜が入れてありました。その茶釜の蓋に木の彫り物をしたごつい取手が付いてましてね。そこに「マルニタチバナ」の紋が透かし彫りで入っていたのを思い出します。なぜか家紋はマルニタチバナだったのです。

[4803] Re[4801]: 九年母(香橘)  神奈備 2004/01/29(Thu) 08:14 [Reply]
恋川亭さん 貴重な情報ありがとうございます。
> 檳榔
『古事記』仁徳天皇記の歌謡五四から
おしてるや 難波の埼よ
出で立ちて わが国見れば
粟島 淤能碁呂島
檳榔の 島も見ゆ
佐気都島見ゆ

島の比定として
粟島 友が島
淤能碁呂島 沼島
檳榔の島 伊島
を考えていましたが、この檳榔の島の伊島は橘港のある阿南市沖です。

> 串本町樫野? 紀州様ですやん! 行こら〜!!
串本駅前でレンタサイクルを借りて、雷公神社まで行きましたよ。
http://www.kamnavi.net/it/kii/raikou.htm
初春の南紀は素晴らしい。是非。

> 酸い食わさ
イスラエルのスイーティ 垂仁天皇 青草 お後がよろしいようで。

[4802] Re[4801]: 追伸  恋川亭 2004/01/29(Thu) 01:26 [Reply]
「香橘(こうきつ)」とシークヮーサーの関係はまだ判りませんが、関西での香橘の栽培情報がありました。
http://www.minamikisyu.co.jp/news/2003_04/20030408_03.htm
串本町樫野? 紀州様ですやん! 行こら〜!!
 尚、沖縄のシークヮーサーは長寿の果実として出まわっているようですが、カラマンシー(フィリピン原産)を混ぜた不当表示品もあるようですので注意が必要だそうです。

乙姫さんの「橘関連神社マップ」
http://www.geocities.co.jp/Technopolis-Mars/5872/jinjyamap.htm
を見ても、沖縄までは情報がないですネー。
弟姫(乙姫)≠ニいうのは、大阪船場言葉でいう「こいさん」でよろしやすか?

[4801] 九年母(香橘)  恋川亭 2004/01/28(Wed) 23:45 [Reply]
 沖縄行以来、シークヮーサーが好みになりまして、沖縄原生のみかんです。表題の九年母と同じかどうか自信はありませんが。シークヮーサーの意味は「酸い食わさ」なんだとか?レモン・ライム・ゆず・かぼす・すだち・・・を押しのけてます。(^^) 焼酎や泡盛のお湯割りに少し垂らして、グーです。でも沖縄では距離的に近いので、ときじくのかぐの実には該当しませんネェ。

 あじまさの島・久高島では、海上遥か彼方の常世を拝む信仰を維持しています。聖地は、クバやアダンで中が判らないほど囲まれていました(他所者侵入禁止)。タチバナやシークヮーサーがあったかどうか?その頃はそこまで気が廻りませんでした。
 聞得大君(最高位の祝女)が久高島渡海の途中に船が流されて紀の国へ漂着したという伝説もあります。なんとなく面白いので追跡中。

あじまさ:【檳榔・蒲葵】ビロウの古名。九州南部・奄美・琉球に自生する、ヤシ科の亜熱帯性常緑喬木。檳榔樹(ビンロウジュ)とは別種。檳榔毛の車・檳榔庇の車など、檳榔の葉で装飾された牛車は、上皇・摂関・大臣などの乗用。沖縄地方の方言では、クバ・フバ・フボーなど。沖縄の聖地(御嶽)では、神が降臨する聖樹のひとつとされている。(クバの葉で作った笠を手土産にしましたが、飛行機の中では変人を見るような目付きがイタカッタ。)

[4800] 橘あれこれ 五 橘・常世・道教  神奈備 2004/01/28(Wed) 18:05 [Reply]
 飛鳥に橘寺がある。田道間守が持ち帰った橘を植えたとの伝説があり、現に背の高い橘の木があります。実をひとつ頂きましたが、やはりすっぱい味。なおここの橘の実は春になると落ちてしまうとのことです。

橘寺発行の『橘寺と聖徳太子の昔ばなし』から
垂仁天皇から不老長寿の元になるものを探すように命じられた田道間守はあちらこちらの国を訪ねて探し歩きました。どこにも見つかりませんでした。所が、不思議な光景に出会いました。それは老人が若い娘に叱りつけられて泣いているのです。田道間守が話を聞いてみると、若い娘が母親で、老人はその息子であるというのです。母親は一つの実を示し「この子だけが酸っぱくて嫌だとこれを食べないのです。だからこんなに年を取ってしまったのですよ。」と云いました。
 それを聞いた田道間守は、おどりあがって喜び、その不老長寿の実のなる木を数本譲り受けて帰国しました。以上

聖徳太子の誕生の地とも云われ、常世との繋がりの深い處。また欽明天皇の別宮である”橘の宮”の跡をこの寺としたと云います。

 聖徳太子の頃に皇族の名前に橘が多くなったように感じます。父親の用明天皇は橘豊日天皇と呼ばれ、太子の妃に橘大郎女。師木島の大宮に坐した欽明天皇から推古天皇への時代は「橘の京に都す」とされる時代で、天皇制の確立の時代だったのかも知れません。福永光司さんは「天皇」と云う称号も、常世を神仙境とする道教の「天皇大帝」から取ったものと云われています。今は亡き第一人者の言や重し。
 智と徳の聖徳太子と並ぶ皇太子として武と勇の日本武尊がいます。日本武尊の妃に有名な弟橘姫がおり、海神を鎮めるべく入水する役割を担っています。橘姫の真骨頂発揮。

[4799] 橘あれこれ 四 山・橘・常世  神奈備 2004/01/27(Tue) 21:19 [Reply]
 二番煎じのネタですが、続きもんでして。
 山辺の道沿いにみかんの里があります。穴師。ここに鎮座する兵主神社の境内に橘神社(槁神社)があり、御神紋も橘。この橘神社は田道間守を祭神とするとの説があります。神代の話しではありませんが、田道間守も常世の国から帰ってきた神であり、その依り代としての橘があると云うこと。
 天照大神は崇神天皇六年、磯城(シキ)の大殿を出、笠縫邑を起点として巡幸し、ついに重浪(シキナミ)のよせる伊勢国に鎮座。山のシキから海のシキへの巡幸。この物語も神代と人代の混在。但し言語学では重のキは甲類、磯城の城は乙類。 従って、単なるゴロあわせ。

 磯城の大殿は三輪山の麓、志貴御県坐神社の場所に碑が建っており、遠からずの場所。天神が垂直に降臨するのが山の橘であったと云うことが言えそう。

 シキ、常世からの神霊を受ける場所。三輪山は天上の常世からの神霊、伊勢は海上の常世からの神霊、常世=不変と見れば、頑丈な石城も同じで、シキは常世の窓口と言えます。
 倭建命の有名な国思歌が『古事記』にあります。
 倭は 国のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる 倭しうるはし
 命の 全けむ人は たたみこも 平群の山の くま白梼が葉を うずに刺せ その子
 「たたみこも」とは重なり合ってと云う意味で、重浪に通じ、これは信貴山として今に残ります。同じように、三輪山の青垣のほうも、「たたなづく」とは重なっているの意で、巻向−三輪の二重の神奈備の地が磯城のようで、どうやらこれが大切なもの。繰り返しとは山でも波でも不死不老の象徴だった。
 塩筒爺は山幸彦を海の常世に、また磐余彦には山の常世の大和を勧めたと言えます。

[4798] Re[4794]: 五十猛命:祭神について  神奈備 2004/01/26(Mon) 08:17 [Reply]
朔見むつおさん こんにちは。
趣旨がよくわかりませんが、伊勢には杉山神社と云う名の神社は今のところ見あたりません。
大杉神社は鎮座、五十猛命を祭神としています。
 http://www.kamnavi.net/it/kinki/mieosugi.htm

[4797] 橘あれこれ 三続 (海・橘・常世)  神奈備 2004/01/26(Mon) 07:58 [Reply]
 福嶋さん ご指摘ありがとうございます。
 おっしゃる通り海とのつながりは直接的ではなく、生成された神々からの結果論的な見方ですね。住吉の神と同じくの先導神の猿田彦のおぼれるシーンと似て非なるものですね。
いずれにしろ、あまり海に遠くない川かも。
さて比定地ですが、橘を斉明天皇の橘の広庭とつなげるのは自然な気がします。この女帝は住吉大神に縁の神功皇后のモデルともされていますし。
 
 筑紫の日向
 筑紫の日向の高千穂の久士布流多気などの言葉からも筑紫を表す逆さ枕詞が日向で、単に筑紫を表すとの理解でいいのかも。
 
 『海神宮訪問神話の研究』宮島正人著に筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原として、福岡県古賀市青柳の地を比定しています。立花山があり、その北の尾東山麓に五所八幡宮が鎮座、ここは墨江三前神も祭神になっています。
立花−橘、尾東−小戸、青柳−阿波岐と対応、青柳川から海に出るのに遠くない所。

 さて猿田彦かおぼれたのは伊勢の海。
 垂仁天皇の時代、天照大神は「是の神風の伊勢国は、常世の浪の重浪帰する国なり。」と、当地に鎮座する託宣を出し、伊勢に落ち着いたのが伊勢神宮の創建譚。重浪はシキナミと訓みます。天照大神が常駐することによって、常世となり、神宮は常宮となった。
 伊勢神宮とその禊ぎ場である二見浦との間の伊勢市黒瀬町に橘神社(祭神不詳)が鎮座、ここは浜郷神社(伊勢市通町)の摂社ですが、海上遥かから重浪にのって寄り来る常世の神の依り代の橘が神木であったものと思われます。現在も柑橘類の木が生えているとのこと。

青草話 橘と高千穂 
天神の依り代
 タチバナ 筑紫日向小戸橘之檍原 すくっと立った薫り高き実のなる常緑樹
天孫の依り代
 タカチホ 筑紫日向高千穗クシ觸之峯 高く積み上げられた稲穂

[4796] Re[4795]: 橘あれこれ 三 (海・橘・常世)  福島雅彦 [Mail] 2004/01/25(Sun) 12:14 [Reply]
>  『古事記』黄泉の国から逃げ帰った伊邪那伎大神は『「吾は御身の禊せむ」とのりたまひて、竺紫の日向の橘のの小門の阿波岐原に到りまして、禊ぎ祓へたまひき。』とあり、これも海。

※橘と海との話題からは逸れますが…。
『筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原』と海は繋がらないと思えます。
・筑紫の日向⇒浮羽郡浮羽町妹川地区に「日向」が、
・橘の⇒浮羽郡吉井町に「橘田(たちばんだ)」が(斉明天皇崩御の橘の広庭縁)、
・小戸⇒渡河に適した川幅の狭い所
・阿波岐原⇒朝倉郡杷木町(古地名=波岐=筑後川の中洲=波を岐ける)が、
連続して、伊奘諾尊の通った順番に並んでいます。
尚且つ、その後の文言とも整合しています。
即ち、『上津瀬は瀬速し、下津瀬は浅し、中津瀬で禊祓い給』と。
戸の杷木町(波岐)と吉井町の間の筑後川には、三つの大きな中洲があります。
・上津瀬⇒古川(筑後川)温泉がある中洲の上は急流で人は入れません。
・下津瀬⇒最下流の中洲の下はセセラギの浅瀬で不適。
・中津瀬⇒原鶴温泉の在る中の中州と波岐(最下流の中洲の先端)の間だけ、流れが澱みに成っていて、禊祓いに適しています。
※海でしたら、上流とか下流の瀬などの表現も不整合ですし…。
※非時香菓⇒黄色く成った前年の果実と今年の青い果実が同時に成っている⇒非時(時を選ばず)香る果実、をも言い表していますネ。

[4795] 橘あれこれ 三 (海・橘・常世)  神奈備 2004/01/24(Sat) 21:59 [Reply]
 常世は海の彼方にあると云う幻想は古来からのものと思います。
 垂仁天皇の時代のこと、天皇は田道間守に命じて、時じくの香の木の実(『日本書紀』では非時香菓)を持ち帰るように常世国に遣わしました。『日本書紀』では「遠往絶域。萬里蹈浪。遥度弱水。是常世國」と表現しており、いかにも海を越えて遠方におもむいたようです。
 『日本書紀』では他にも「少彦名命は大国主命との国作りの後、熊野の御崎から栗茎にのって、はじかれて「常世郷」に至った。」とあり、やはり常世を海上他界としたお話。
 『古事記』黄泉の国から逃げ帰った伊邪那伎大神は『「吾は御身の禊せむ」とのりたまひて、竺紫の日向の橘のの小門の阿波岐原に到りまして、禊ぎ祓へたまひき。』とあり、これも海。

 『海神宮訪問神話の研究』宮島正人著に筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原として、福岡県古賀市青柳の地を比定。立花山があり、その北の尾東山麓に五所八幡宮が鎮座、墨江三前神も祭神になっています。
立花−橘、尾東−小戸、青柳−阿波岐と対応しており、この説は卓見・

 神武天皇の兄の三毛入野命は熊野で、浪の秀を踏んで常世郷に往ったとある。

 ことほど左様に、海、浪と常世、橘とは密接。

[4794] 五十猛命:祭神について  朔見むつお [Mail] [Url] 2004/01/24(Sat) 12:40 [Reply]
五十猛命を祭神とする神社は、「杉山神社」等と称しています。全国に杉山神社が多いのは、一例としてここまでわかっております。古代日本全土を開拓するために「伊勢」より多くの人が、各地に派遣・移住した様です。
その人々は、移住した土地で「伊勢」に居た時の「神」を祭った様です。またヤマトタケが遠征した土地がらにも「杉山神社」を残しています。
近く杉山神社が有る様でしたら、ご確認なさって下さい。またホームページ「オトタチバナ姫の年齢」もご覧下さい。

[4793] 橘あれこれ 二  神奈備 2004/01/24(Sat) 09:13 [Reply]
常陸国風土記から
 昔の人が「常世の国」と言ったのは、常陸の国のことか。と言うこと。
 豊穣の地とのことと青草[468]でかたばみさんが看破されていますが、

 行方郡 郡役所の側の人里には橘の樹が生えている。

 香島郡 豊穣の地であり、また天神との係わりの地と記されている。
 前に郡役所を置いた所、多くの橘を植え、その果実は旨い。

常陸と常世については大三元さんが早晩テキストを出されるものと期待しております。

 話は変わりますが、橘とは田道間花(たじまばな)の転との説がありますが、それよりは常陸のタチにからむのかも。

 追伸
 1月29日夜 大阪市内で新年会、興味おありの方連絡を。

[4792] Re[4791][4790][4789]: 橘あれこれ 一  神奈備 2004/01/23(Fri) 13:37 [Reply]
福嶋さん ありがとうございます。
> 昨年の黄色く色づいた果実と今年の青い果実が同じに成っています。
これは凄いお話です。見たことがありません。まさに
> 代代続く⇒弥栄から『橙』が縁起物
ですね。万葉集などでもこのようなシーンを詠んではいません。昔の人々は実をこまめに採ったのでしょう。
実を乾燥させて洗濯の仕上げに入れれば
『古今集』 五月まつ 花橘の 香をかげば 昔の人の 袖の香ぞする
と懐かしい香りがしたようです。
橘の香りは遥か昔、祖先が生まれ育った土地の香りだったのかも知れません。

[4791] Re[4790][4789]: 橘あれこれ 一  福島雅彦 [Mail] 2004/01/22(Thu) 22:52 [Reply]
>…
>  その後、聖武天皇が三千代の子の橘諸兄に与えた歌
>  橘は 実さへ 花さへ その葉さへ 枝に霜ふれど いや常葉の樹
> と常世が意識されていたようです。

※この頃には既に『橘⇒たちばな』の語源は、忘れ去られていたようですね。
「到致花⇒たちばな」で、果実を収穫せずに置くと、次のシーズンの開花に「到る」も、落果実せずに、腐らずに成っている、に由来している(福島雅彦説)。
 事実、昨年の黄色く色づいた果実と今年の青い果実が同じに成っています。
代代続く⇒弥栄から『橙』が縁起物として、注連縄、お鏡(餅)飾りに付けられるのも、この伝でしょう。

[4790] Re[4789]: 橘あれこれ 一  神奈備 2004/01/22(Thu) 17:30 [Reply]
月輪山ですか。山号とは実際の山ではなく、宗派とか教義のイメージからのもあったのでしょうね。
興福寺は光明皇后(橘三千代の娘)が絡んでいるんですね。

1.橘は常世の神の依り代

 橘は立花で、これは柱などと同じく神の依り代。
 太古よりこの国に自生している常緑樹であり、美しい実と香しいにおい、さらに神の遣いである蝶の幼虫が育つ樹木であり、神の坐す處と世俗とを結ぶものとして尊ばれてきた。
 『日本書紀』の皇極天皇三年(644年)東国の富士川周辺に住んでいた大生部多と云う者が橘の木に育つ蚕に似た虫を常世の神として信仰を広め、これを秦河勝が懲らしめたと云う。
 秦河勝を揶揄しての歌  太秦は神とも神と聞えくる常世の神を打ちきたますも
 尤も、この話には絹織物業の寡占化を目論んでいる秦氏が競合相手をつぶしたお話だったとか、解釈はにぎやか。

 源平藤橘と云う四姓がこの国には多かったそうで、橘は県犬養三千代が功あって橘姓を貰ったとのこと。和銅元年(708)元明天皇の即位の大嘗祭の後の宴会の席上で
 橘は果実の長上、人の好む所なり、霜雪を凌ぎて繁茂し、寒暑を経てしぼまず、珠玉と共に光を競ひ、金銀に交じって美し。
 と云うことで、発足したとか。
 その後、聖武天皇が三千代の子の橘諸兄に与えた歌
 橘は 実さへ 花さへ その葉さへ 枝に霜ふれど いや常葉の樹
と常世が意識されていたようです。

[4789] Re[4787][4786][4769]: 誰か、橘の木を、知らないか♪  玄松子 2004/01/22(Thu) 09:25 [Reply]
> 余談ですが、興福寺の山号ってご存じでしょうか。山号とは比叡山延暦寺とか云うような「比叡山」のことです。

http://urano.org/kankou/kohukuji/kohukuj2.htm
引用 「興福寺の南大門にも月輪山(がちりんざん)と言うりっぱな山号額を掲げておられましたが、いかなる故か、その付近にしばしば魔障が起こり、風も無いのに樹木が倒伏し、水が突然に噴出し大穴を開けて、石垣を崩壊する等のことが続出したので、山内大いに困惑していると、ある寺僧の霊夢に「月の字は水に縁ある為なり」との、お告げがあり、困り果ててその額を取り下げると、不思議にもその後何も起こらず事無きを得ました。それで、その額を埋めた所が「額塚」です。それ以後、法相宗の大本山で在りながら、「興福寺」さんでは、お寺の山号を用いておられません。」

ということで山号は用いていないとか。

[4788] 河内の橘 追加  神奈備 2004/01/22(Thu) 09:04 [Reply]
大阪市平野区に旭神社が鎮座、摂社に若宮八幡宮があります。
若宮八幡宮の縁起
天平勝宝六年(754)八月、風雨月を越えて止まず、八幡宮の神託に、櫛司と橘を水上より流し、其の止まりたる所に神を祀りなば、水難を止め農民を安穏ならしめんとありしかば、大和・河内の国境より其の二品を流させ給ひしに、智識寺の山上より西北に分れて流れ、櫛司の止まりし所に神社を祭りて玉櫛明神(津原神社)と称し、川名を玉櫛川と呼べり。又、橘は渋川郡に流れて此の賀美郷の川中なる小島に止まりければ、其の地を橘の小島と呼び、東大寺の八幡宮を勧請して若宮と仰ぎしもの即ち当社にして、橘を神木と定めた。
とあり、神木の橘を確認に行ったのですが、社叢は豊でしたが、逆に見つけることは出来ませんでした。神木として銀杏と楠の大木がありました。

[4787] Re[4786][4769]: 誰か、橘の木を、知らないか♪  神奈備 2004/01/22(Thu) 08:51 [Reply]
> 羽曳野市の市の木がタチバナだそうで、誉田八幡宮にあるとか。
> http://www.city.habikino.osaka.jp/info/087/si.html

お知らせありがとうございます。
雄略紀十三年、歯田根命が、ひそかに釆女山辺小島子を犯した。天皇はこれを知り、責めた。歯田根命は餌香市の橘の木のもとにむき出しで置かした。
この餌香市の場所が羽曳野市なのか、藤井寺市なのかですが、先の話題の羽曳野市の野中寺に明日香の橘寺のと同じ心礎の石があり、橘の匂い程度です。

まったく方向が違いますが、奈良の興福寺の南円堂に右近の橘の位置にまさに橘の木がありました。実をつけていたのでこっそり一つ頂きました。すっぱい蜜柑のような味でした。

余談ですが、興福寺の山号ってご存じでしょうか。山号とは比叡山延暦寺とか云うような「比叡山」のことです。
山号については
http://www.tctv.ne.jp/members/tobifudo/HandS/tango/sango/sango.html
に解説がありました。

[4786] Re[4769]: 誰か、橘の木を、知らないか♪  玄松子 2004/01/22(Thu) 00:02 [Reply]
>  浪速では生きた橘はなかなか見つかりません。

浪速のタチバナは見つかりましたか?

羽曳野市の市の木がタチバナだそうで、誉田八幡宮にあるとか。
http://www.city.habikino.osaka.jp/info/087/si.html

[4785] 経験が浅くって  仙道 2004/01/21(Wed) 23:26 [Reply]
まだ皆様の知識には着いていけそうにもありません。多分、皆様はご存知の事だと思うのですが、京都市と宇治市の間にJRAの神社があります。
その名を許波多神社と言います。
つまり競馬発祥の神社なのだそうです。
祭神は天忍穂耳尊、瓊々杵尊、神武天皇なのです。
皇位継承をめぐる壬申の乱を前に大海人皇子が戦勝祈願していますし、坂上村麻呂が東征に際して武運を祈った(案内文から)ことから勝運を授かる御利益があります。
決して大きな神社だないのですが、地元では有名らしいです。

[4784] Re[4783][4782][4781]: 淀川のナマズ  大三元 2004/01/20(Tue) 17:26 [Reply]
> > 拙著『初期天皇后妃の謎』p134〜136ご参照
> まだ手元に戻っていません。早々に一冊買わせていただきます。
> > 読まずに失礼ですが:−

ご関心あるかも知れない部分を下記に抜き出しておきました
http://www.dai3gen.net/yodo.htm


[4783] Re[4782][4781]: 淀川のナマズ  神奈備 2004/01/20(Tue) 08:39 [Reply]
> 拙著『初期天皇后妃の謎』p134〜136ご参照
まだ手元に戻っていません。早々に一冊買わせていただきます。

読まずに失礼ですが:−

> 「ゆたでま」
参照本では、ユタ、ヨタの語源としてユンタ(おしゃべり)、ユタメク(揺れる)で、神懸かりの状態とか。
余談ですが、ナマズや鰐は安曇族の和多津見の神とされています。

所で
> わにが女性を慕って川を通路にして居る
のは出雲国風土記の仁多郡の条に「阿伊に坐す神、玉日女命を慕って和爾が上って来た。 玉日女命は大岩で大馬木川をせき止め,会えなくしてしまった。 和爾の女姫に対する慕情をして”慕山”(したひやま)と云う。」とあります。
 愛のために阿伊に合いに来た??
http://www.kamnavi.net/it/izumo/komaki.htm
 仁多郡の慕山は現在鬼の舌震と云う名所になっています。その下流に三澤があり、ここは物言わぬ阿遅須伎高日子を船に乗せて八十島巡りをさせたとあります。
 八十島と云えば淀川の専売特許ではなかった。

[4782] Re[4781]: 淀川のナマズ  大三元 2004/01/19(Mon) 22:38 [Reply]
神奈備さん、リファ有り難うございます。

>  沢氏の上記書によりますと、ヨタかユタと云うのは沖縄の女祈祷師を云うようです。そうすると東北のイタコのイタに通じ、託宣の意味があるのかも知れません。イタについては大三元さんの
> http://www.dai3gen.net/itate.htm
> を参照下さい。

『沖縄語辞典』国陸国語研究所編では:
 「いたこ」(奥羽地方の巫女)と関係ある語か。

と書いてあります。(最後の「か。」に注意)
これが現代の沖縄語の辞典であるに対して
『沖縄古語辞典』では、「ゆた」という項目は無く
「ゆたでま」という項目で「巫女(ユタ)に払う手間賃。」とあるのみ。
「ユタ」という語がどこまで遡れるのか。。。

>  競馬場で有名な淀(淀川の語源になった)にも淀姫神社が鎮座、与止日女神社からの勧請だとか。淀川にもナマズがイタ。

大阪の淀川、肥前の淀姫、双方で、わにが女性を慕って川を通路にして居る、(大阪の方は事代主がワニになってミゾクヒ姫と交わる)というのが気になっています。
拙著『初期天皇后妃の謎』p134〜136ご参照

[4781] 淀川のナマズ  神奈備 2004/01/19(Mon) 12:06 [Reply]
 沢史生さんの『閉ざされた神々』のp.130に「与太職」について触れていますので、紹介します。
『名語記』には「日前国縣神宮の与太職は神主の次の位で、神殿を与る役の神官」とあります。美しい三船神社にも与太職がいたそうです。与太は和歌山のみではないでしょうが、この「神殿をあずかる」とは大工とか営繕を司るの役割なのかどうかは判りませんが、この与太職は与太者に通じるのだそうです。
 肥前国の与止日女神社の前をバスに乗ったまま通り過ぎた記憶がありますが、この神社の祭神は玄松子さんの
http://www.genbu.net/data/hizen/kawakami_title.htm
によれば、與止日女命、世田姫 『肥前国風土記』、豊姫(ユタヒメ) 『神名帳頭註』となっています。祭神は神功皇后の妹神とされており、神懸かりの傾向の姫神かも。
 沢氏の上記書によりますと、ヨタかユタと云うのは沖縄の女祈祷師を云うようです。そうすると東北のイタコのイタに通じ、託宣の意味があるのかも知れません。イタについては大三元さんの
http://www.dai3gen.net/itate.htm
を参照下さい。
 競馬場で有名な淀(淀川の語源になった)にも淀姫神社が鎮座、与止日女神社からの勧請だとか。淀川にもナマズがイタ。

[4780] Re[4779]: さすがです。  神奈備 2004/01/18(Sun) 17:36 [Reply]
> 三重県史や四日市市史も参考になりそうですね。 ただ、京都に住んでいるもので手には入りそうにありませんが。
>
奈良の信貴山口の三郷町立図書館には近傍の市や町の史誌があります。お近くの図書館に尋ねてみるとよろしいかと。


[4779] さすがです。  仙道 2004/01/18(Sun) 17:19 [Reply]
ありがとうございます。
私など全くの素人が色々調べてみても何も分からず、『新撰姓氏録』に行き着くまでに1ヶ月以上かかったのですが、ここに来たら次から次へと新しい事を教えていただけます。
もう、感動ものです。皆様のお手を煩わしたようですが、あまりの速さに驚きを禁じえません。
教えていただいた事を元にまたまた調べていこうと意欲が涌いてきました。

専門書も持っておらず図書館通いしても調べ方がまずいのでしょうね。なかなか関連しそうな事が見つけられません。
『日本古代氏族人名辞典』ですね。こんなの図書館にあったかな。
『市川寛周翁』もどんな人だったのかな?
三重県史や四日市市史も参考になりそうですね。 ただ、京都に住んでいるもので手には入りそうにありませんが。

古代史に興味を持っていますから、こちらにはチョコチョコ寄せていただいています。
私も何か分かればお知らせに来ますが、今後ともよろしくお願いいたします。

[4778] 市市市  神奈備 2004/01/18(Sun) 09:26 [Reply]
仙道さん 貴重なお話ありがとうございます。
恋川亭さん 丁寧なご調査、ありがとうございます。

『六国史』などでは確認できない伝承が残っているのですね。

> 三重県四日市市の市場に移住

http://www006.upp.so-net.ne.jp/tsuji/kinsei.html
に、四日市の市場の市川さんで出てきました。
「市川寛周翁碑(市場町) 朝明郡市場村の寺子屋の師匠です。」
ご親戚でしょうか。

[4777] Re[4776]: 市場に住んでいます  恋川亭 [Mail] 2004/01/18(Sun) 01:41 [Reply]
 仙道さん、こちらこそ有り難うございます。私は全く門外漢の素人ですので何も知りません。それで本をたよりに探してみているだけで、ヘタのヨコ好きです。よって私のは「薄識」です。
 『博識』といえば、神奈備先生とマルヤさんの会話を後ろで聞いていると、「泉の如く涌き出る知識」どころか「黒部ダムから放水される如く」の知識の量とスピードと展開に圧倒されて、目が点になり頭は固まって追い付くことあたわず馬の耳に念仏状態になりました。(スゴイのよォ〜)

 さて、私は以前から石上神宮から熱田神宮へのルートに、ポツンポツンとしたかすかな残り香のような繋がりを感じていました。カゲロウのような妄想に過ぎませんが、気になっていたのです。壬申の乱、天武天皇の頃にひとつの決算があるようにも思っています。そこで今回の仙道さんの投稿には、とても興味が湧きました。ご質問の形であれ情報を公開されたことに感謝致します。より詳細な内容が判りましたら、お教え下さい。m(__)m

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> 斉明天皇御世。宗我蝦夷大臣。号武蔵臣物部首并神主首。
> 因是失臣姓為物部首。
> 男正五位上日向。天武天皇御世。依社地名改布瑠宿祢姓。
> 日向三世孫邑智等也

『新撰姓氏録』によれば、
「市川臣の四世孫である額田臣と武蔵臣が、斉明天皇に御世に宗我蝦夷大臣より、物部首と神主首の姓を賜った。日向が天武天皇の御世に社地名にちなんで布瑠宿祢に改姓された。」
ということですね。これについては、『日本古代氏族人名辞典』(坂本太郎・平野邦雄:監修、吉川弘文館)の「布留氏」のところに、
『大臣蘇我臣蝦夷によって斉明朝(皇極朝の誤り)に物部首とされたという。』
と指摘されています。
 上記の同書で物部首日向を見てみます。(『日本古代氏族人名辞典』より引用はじめ)

【物部首日向】もののべのおびとひむか
壬申の乱の近江側の武将。天武元年(672)大海人皇子(のちの天武天皇)が東国に入ったことを聞いた大友皇子は使を東国・倭京(飛鳥京)・吉備・筑紫に遣わし、戦いの準備を整えた。この時、日向は穂積臣百足・五百枝とともに倭京に派遣され、法興寺(飛鳥寺。奈良県高市郡明日香村飛鳥)の西の広場に軍営を張った。推古天皇の小墾田宮(高市郡明日香村豊浦・雷付近か)の跡地にあったと思われる武器庫から兵器を調達し、近江に送った。しかし、同年六月二十九日、飛鳥を急襲した大伴連吹負(ふけい)によって捕えられ、しばらくして赦されて軍中におかれたという。『新撰姓氏録』には、父を武蔵臣とし、天武朝に布留宿禰を賜ったと伝える。(引用おわり)

 『古代豪族系図集覧』(近藤敏喬、東京堂出版)には、物部襲足の子として、物部額田と物部武蔵が並んでいます。これは兄弟ということかな?そして、物部額田の子として布留日向が続いています。この系図では、物部武蔵と布留日向とは、叔父と甥の関係になっています。このへん、どれが正しいのかよく判りません。日向の子孫には、活目→山守→黒麻呂→高庭・・・と続く系統と、牛甘→人足→邑智・・・と続く系統が記載されています。
 壬申の乱といえば功臣の物部朴井(もののべのえのい)連雄君は、物部大連尾輿の曾孫。これは物部本流? 市川臣命とは別系統ですね。

> 「斉明天皇4年」
といえば、年表を見ると有間皇子の謀反騒動のあった年ですね。先年から石上の渠の無謀工事で人心に不満が溜まっている頃です。当時の市川臣命の子孫は、どのような状況にあったのでしょうかね。

> 三重県四日市市
> 日本書紀編集者により没収抹殺
からは、やはり壬申の乱の物部首日向のちの布留宿禰に関わる何かがあったのかも。三重県史や四日市市史などには手掛かりが載ってませんか〜?
無知無知をさらけ出しますが、三重県四日市市付近は昔は何と呼ばれた地域なのでしょうか?
ゆかりのある神社とか史蹟は残ってないでしょうか?
よろしくお願いします。

[4776] 早速ありがとうございます  仙道 2004/01/17(Sat) 02:13 [Reply]
神奈備様、恋川亭様ありがとうございます。

> 市川臣命は初代神主
> 子孫が斉明天皇4年に今の三重県四日市市の市場に移住
> 市川氏の家系図は持統天皇の時日本書紀編集者により没収抹殺

これらの話の入手先は既に他界している私の叔父の書き残していた文章です。
叔父といっても家内の実家の系統ですからお目にかかったことはありません。

ですから、こういう情報をどこから仕入れたのか、また信憑性があるのか気になって調べていたのです。
書紀の垂仁天皇のところに記述があったり、新撰姓氏録の布留宿禰のところに
   男木事命。男市川臣。大鷦鷯天皇御世。
   達倭賀布都努斯神社於石上御布瑠村高庭之地。
   以市川臣為神主。
   四世孫額田臣。武蔵臣。
   斉明天皇御世。宗我蝦夷大臣。号武蔵臣物部首并神主首。
   因是失臣姓為物部首。
   男正五位上日向。天武天皇御世。依社地名改布瑠宿祢姓。
   日向三世孫邑智等也
の記述を見つけたのですが、叔父の書き残していた斉明天皇4年とか四日市の市場とか没収抹殺に関することは全く分かりませんでした。
恋川亭様がおっしゃるように「兄弟などで家系が分脈して、各地へ移住して行った」のだと思うのですが。

叔父の話はどうも物部額田の兄弟?に上述の(物部)武蔵臣あたりの話ではないかと根拠も無く思っているのです。

それにしても「斉明天皇4年」とか「市場に移住」とか具体的な記述があり、まんざら思いつきで書いたのではなく何かを読んで書いたものと思います。
それで、その事を知りたくて博識な方々がお集まりのここの掲示板に書かせていただきました。

[4775] Re[4774][4773]: どなたか知りませんか?  恋川亭 2004/01/16(Fri) 20:10 [Reply]
とても満足に回答できる身分ではありませんが、近くにある資料から見てみました。

 石上神宮の御祭神は、主祭神である布都御魂大神・布留御魂大神・布都斯魂大神に続き、配祀神として宇摩志摩治命・五十瓊敷命・白河天皇・市川臣命を祀っています。その市川臣命について石上神宮のパンフレットから抜粋します。

『 市川臣命
  第五代孝昭天皇の皇子天足彦国押人命(アマタラシヒコクニオシヒトノミコト)の後裔、米餅搗大使主命(タガネツキオオオミノミコト)の御子です。豪族春日臣の一族で、垂仁天皇の御代には既に当神宮に御奉仕になっております。当神宮の社職の祖で、御子孫は布留宿禰(フルノスクネ)と称し、祭主物部連(モノノベノムラジ)に副(ソ)って永く祭祀に奉仕しました。』

 この市川臣命(神様!)のことですネ。次に『古代豪族系図集覧』(近藤敏喬:編、東京堂:版)集録の「春日・和邇・柿本・粟田」系図より抜粋。

 孝昭天皇→天足彦国押人命→和爾日子押人命→彦国姥津命→
 →彦国葺命→大口納命→難波根子建振熊命→米餅搗大臣命→春日市河

ここで春日市河とあるのが市川臣命。その子孫は、

 春日市河→櫛事→荒建→布都波→八股→諸羽→襲足→物部額田→
 →布留日向→牛甘→人足→邑智

 この「布留日向」が「布留宿禰」です。さらに邑智さんは、摂社出雲建雄神社創祀にまつわる八箇石神降臨伝説で霊夢を見た方です。このように春日系の物部氏は「物部首」(オビト)であって、宇摩志麻治命へ遡る「物部連」(ムラヂ)とは系統が異なることに注意が必要です。石上神宮の神官祠宮家は2系統あって、それを見ると、物部尾輿(物部連)の流れと、市川臣命(物部首)の流れのそれぞれに宮司、禰宜、忌火職が現れています。

 同書の「布留・物部」系図には、市川臣命の続きが上記同様に邑智まで続き、邑智から古道・直道・浄野の3系統に分かれて南北朝あたりまで掲載されています。
 私は専門家ではないので、詳しいことは判りませんが、この本による限り、市川臣命の系図が抹消された様子はみえません。兄弟などで家系が分脈して、各地へ移住して行った例はあるかもしれませんね。しかし、石上神宮の神主や禰宜職は代々継承されていたようですよ。投稿された件のソースをもう少し詳細に教えていただけませんか?

さて別件、書肆徘徊中年より。

  『日本の神々』 〜『先代旧事本紀』の復権 〜
    上田正昭/鎌田純一:共著、大和書房:出版。

入荷されていました。今、書店では平積み状態。権威によって「偽書」と認定された本が、やがてまた権威によって復権されたということですね。先生御二方の対談録です。2500円。

[4774] Re[4773]: どなたか知りませんか?  神奈備 2004/01/16(Fri) 12:53 [Reply]
> 市川臣命は初代神主
> 子孫が斉明天皇4年に今の三重県四日市市の市場に移住
> 市川氏の家系図は持統天皇の時日本書紀編集者(誰のことか分かりませんが)により没収抹殺

> こういったこと
とは上のうち、どのことを言うのでしょうか。
また仙道さんはこのようなことをどのようにしてお知りになりましたのでしょうか。先ず、それを出されるのがお答えになる方にとっての親切ではないでしょうか。

[4773] どなたか知りませんか?  仙道 2004/01/16(Fri) 11:22 [Reply]
石上神宮に祀られている市川臣命は初代神主だったそうですが、その子孫が斉明天皇4年に今の三重県四日市市の市場に移住したという話なのですが。
さらに、市川氏の家系図は持統天皇の時日本書紀編集者(誰のことか分かりませんが)により没収抹殺されたとのことです。

こういったことが伝えられているという事の根拠のようなものを探しているのですが。

[4772] 神降ろし  神奈備 2004/01/14(Wed) 09:47 [Reply]
 昨年末早朝に某マンションの上層階通路から外部の人が飛び降り自殺をしました。五年に一度の割合の名所となってしまいました。
 お正月を迎えるに当たって、お祓いをしようと言うことになり、地域の氏神さんの神職さんに来ていただきました。5万。
 祭壇をつくり、野菜、果物、米、塩、酒などの神餞をお供えして祭事が始まりました。
 神職さんの祓詞等の後、神降ろしの儀があり、「ウー」とうなっておられました。不思議なことですが、その瞬間に立て掛けた榊に神が依りついたように感じられました。セレモニーのムードが盛り上がっていた雰囲気ではありませんが、やはりムードからの暗示なのでしょうが、これでお祓いはできると直感いたしました。
 小生、この方面では鈍感で、年賀で参詣した二上神社の宮司さんに、「前に多くでやってきたが、お前は何も感じていなかったが、判っていた人も多い。」と鈍感を見事に見破られた人間です。

 それにしても神降ろしは神職の必須の事で、京都の某有名大社の宮司さんが、神降ろしが苦手と言うことで、解任されたと言うお話がまことしやかに語られていますが、神が降りた降りないと言うことが一様な判り、それが重要な判断基準になるところが凄いものと思います。

[4771] Re[4770][4769]: 誰か、橘の木を、知らないか♪  神奈備 2004/01/12(Mon) 20:59 [Reply]
> > 野中寺の心礎石は亀の背に乗った
>
> この亀、贔屓といいます。「えこひいき」の贔屓。

ありがとうございます。
http://www.kamnavi.net/fj/ofj04.htm
に写真をアップしています。

[4770] Re[4769]: 誰か、橘の木を、知らないか♪  玄松子 2004/01/12(Mon) 19:35 [Reply]
浪速の橘はしりませんが。

> 野中寺の心礎石は亀の背に乗った

この亀、贔屓といいます。「えこひいき」の贔屓。
後ろ盾、縁の下の力持ちという意味で、
インドの世界観で、一番下を支える亀です。
龍になりそこなった亀という伝説があり、玄武と同根かと。
よく、石碑などが亀の背に乗ってるのは、この贔屓。

[4769] 誰か、橘の木を、知らないか♪  神奈備 2004/01/12(Mon) 19:06 [Reply]
 椿は花が落ち、首が落ちるようで、一方よく似た山茶花は花びらが落ちる。これが武家に椿を植えなかった由。あの黒沢明さんの椿三十郎には、攻め込む武家の庭に赤い椿、白い椿が植えられていました。山茶花だったのかも。

話は違いますが、「浪速の橘」を探して歩いています。中の太子と言われる野中寺の心礎石は亀の背に乗った橘の花のイメージで、これは明日香の橘寺の心礎と亀を別にしてよく似ています。

 実はこの寺には山茶花が有名で、お染め久松の物語のお染めの家の山茶花を持ってきたとか。墓がある。
 浪速では生きた橘はなかなか見つかりません。

[4768] Re[4767]: シキ・考  神奈備 2004/01/08(Thu) 08:03 [Reply]
大三元さん 拝見いたしました。
ゴロ合わせ発想におつきあい下さり感謝。
 
表の磯城:「シキ」の「キ」が乙類のものですね。

> 「イソ」の意味は「海山の『幸』」のこと
ついに、恋川亭さんの常幸の登場。

 この世界、甲論乙駁ですね。考えてみます。

 塩筒爺のお勧めの大和は、国全体が常世と見なされていた。従ってたたなずく。
 伊勢は海上常世と繋がっていたので、天照大神の常駐地となって、常世となった。

その内、橘考を書いてみます。

[4767] シキ・考  大三元 [Url] 2004/01/07(Wed) 21:31 [Reply]
神奈備さん、以前「しき」に就いて考えて居られましたよね。
私の考えをアップしましたので紹介させて頂きます。
結局、どれもこれも、奥が深そう・・・
http://www.dai3gen.net/siki.htm

[4766] 石上神宮の秘宝  神奈備 2004/01/07(Wed) 17:42 [Reply]
奈良国立博物館で2月8日まで、七枝刀や楯、勾玉などを展示しています。
もはや秘宝ではなくなっていますが、数見の価値あり。月曜日休み。
場所 http://www.narahaku.go.jp/  参照

[4765] Re[4764]: 羽束師  神奈備 2004/01/07(Wed) 15:38 [Reply]
 大三元さん、恋川亭さん  今年も鋭い!
 見返天満宮に乾杯。

[4764] 春から呆けて  恋川亭 2004/01/07(Wed) 13:59 [Reply]
「中嶋」ときて「常世の幸」とくれば・・・ナイスショット!?

[4763] Re[4762]: 神社の由緒  大三元 2004/01/07(Wed) 10:19 [Reply]
今年もよろしくぅ。

最近どっかで「中島」というのを見たと思ってさがしました。
「尾張大国魂神社の神主は、天背男命を祖とする中島海部直の後裔という中島連が務めた。」というものでした。ご参考になるのか、無関係なのか・・・

「中島」なんて何となく語感が新しいと思っていたのですが、古いのですね。
葦原の中つ国 の「中国」と「中島」は同じ概念なんだろうか?

[4762] 神社の由緒  神奈備 2004/01/06(Tue) 11:29 [Reply]
 昨年、橘について興味を持ち、垂仁天皇陵とされる宝来山古墳を見学、古墳を囲む池の中に丸い小島があり、それをかの田道間守の墓と称して、此方側には鳥居まで出来ていました。
 所が、延宝九年(1681年)発行の『和州旧跡幽考』 には「群臣いとあわれがりて陵のほとりに田道間守がからを納めけるよしある文に見えたり。此の墓もこゝにこそあらめ此の見わたしに見えず。」と無いことを記しています。
http://www.katch.ne.jp/~heday/YAMATO.htm

 また、並河誠所が現した『大和志』享保二十一年(1736年)には、菅原伏見東陵として記載、田道間守の件についても記していますが、彼の墓については一切触れていません。
 田道間守を祭る神社の本社らしいのが兵庫県豊岡市三宅の中嶋神社でこの社は延喜式内社。『平成データ』の由緒の一部「命の墳墓が垂仁天皇御陵域内の池中に在りて島をなせるに因りて中島神社と称し」とある。
 また http://www.ryokou-net.co.jp/jinjya/nakashima.html には、中嶋神社の(名の)由緒を、「推古天皇のころに田道間守命の子孫中嶋の公が祖先田道間守命を祀ったのに由来している。」とされる。
 興味深いのは、愛媛県温泉郡中島町大浦に鎮座する忽那島八幡宮の由緒。『平成データ』全文:− 
遠く上代の昔、吾が祖族、萬里波を踏みて海を渡り、この忽那の島に至り住て、相慕ひ、その母の神稲田姫命を祀り、常世の郷と定め給ひき。茲に藤原の長者、八幡大神の神託を畏み、應徳四年春、その神々(誉田別尊、大帯姫命、市杵島姫、湍津姫、田心姫)を氏神と斉き奉りて、明光霊徳、七島に及び、忽那七島総鎮守として、祖孫相励みて水軍の至誠南朝に薫り、色変えぬ巨松連なりて、栄光に輝く。夫れ、天に神あり、地に霊あり、神霊鎮まりて祖霊相寄るの聖地、千古斧入らしめぬ森茂り、子孫永く相享けて、願はしき常世の郷はときじくの橘の花の香ぐはしき島と栄えて、大和の中の美はしき中島と讃へまつる。

 神社の由緒はどれもこれも、と言いたい訳ではない。何事も吟味の上。

 田道間守命を祭る神社が何故中嶋神社か、または彼の子孫が何故「中嶋」を名乗ったのか、常世からの遣いでもあり、常世の神でもあった神を祭るに、中嶋は適した名前だとは思う。
 田道間守命が橘を取りに行った常世国とはどこかの中嶋だったのかも。壱岐、宗像、いやいや大阪?。

[4761] Re[4760][4756]: 青・白・黄・銀  神奈備 2004/01/06(Tue) 11:28 [Reply]
 恋川亭さん こちらこそよろしくお願いいたします。
出雲でのタタラは田部氏はそのルーツを紀州田辺庄の豪族田辺氏とするようです。出雲から紀州へとの説もあるようで、須佐、イタテ、熊野など、古来よりの交流があったようです。
 金屋子神の金屋の地名は、1400年までは確認できる金屋村が有田郡にあります。鋳物師が居たそうです。有田郡には金屋子神の気配はなさそうですが、式内大社の須佐神社が鎮座。
また田辺市はそれより南。

[4760] Re[4756]: 青・白・黄・銀  恋川亭 2004/01/06(Tue) 00:31 [Reply]
皆様、明けましておめでとうございます。今年も宜しくお願い申し上げます。

 ハガネさん、素敵な詩ですね。道具・工具・工芸品に活きるハガネの美しさ。職人さんではありませんが、竹中大工道具博物館と同じ町内に住む者です、ヨロシクお願いします。
 ド素人の遊びなので『玉鋼(タマハガネ)』のような超高級素材には手出しができませんけども、色々な鋼を削ったり磨いたりして加工したことがあります。日立安来工場製の安来鋼(ヤスキハガネ)の白紙2号、青紙2号、銀紙1号などを、よく使いました、白紙・青紙・銀紙・黄紙はメーカーがつけた鋼の名称です。よく和包丁に「青紙入り」とあるヤツです。
『安来鋼について』
http://www.misuzu-hasami.co.jp/yasukikou.html

 さて、隔月刊雑誌『ナイフマガジン』2004年2月号(No.104)に、島根県飯石郡吉田村にて試験操業された近代たたら製鉄の様子が、たくさんの写真とともに特集されています。この特集記事によると・・・、
 吉田村のたたらは、古代から室町時代までの「野だたら」とは異なり、江戸時代以降に行われた「高殿」という建物の中で製鉄する「永代たたら」です。ここには、唯一現存する「菅谷高殿」と「菅谷たたら炉」が保存されています。
 写真には高殿の前に小道を挟んで桂の大木が聳えています。『製鉄の技術を伝えた「金屋子」と呼ばれる神が白鷺に乗って降臨したというのが桂の木で、どこのたたらでも植える神木である。』そうです。桂がポイントなんですね。
 また、金屋子神の祠の写真も掲載されていて、『菅谷たたらの金屋子神は、高殿より谷川に沿って下った道路わきの石垣にある。菅谷たたらでは金屋子神は低い場所へ祀るものとされている。』と説明されています。興味深い話しです。
 菅谷たたらでは、金屋子神の他に火難避けの火の神として愛宕権現・秋葉権現を、たたら繁栄の金の神として金比羅権現を崇拝していて、『祠は高殿と山内を見渡す丘の上にある』そうで、写真には小祠ながら狛犬と燈篭と石段が揃っています。それらの無い金屋子神の祠とは対称的です。金屋子神さんは祭祀の扱いがかなり特殊な専業神様なんですナ〜。
 古代の製鉄と異なるとは言え、近代たたら実験操業の写真からも、伝統の記憶が妄想できます。機会がありましたら書店でパラパラと眺めてみてください。

島根県飯石郡吉田村のHPから『菅谷たたら山内』
http://www.web-sanin.co.jp/local/yoshida/manabu/tatara.htm

日立金属HP内のコンテンツから
『たたらの話』
http://www.hitachi-metals.co.jp/tatara/index.htm
『金屋子神』
http://www.hitachi-metals.co.jp/tatara/p0307.htm

[4759] 新年おめでとうございます  言蛇 [Mail] [Url] 2004/01/05(Mon) 21:39 [Reply]
おくればせながら、神奈備様あけましておめでとうございます(拝礼)。
正月は去年の[4746] [4747]をおいしく堪能させていただきました。
おかげさまで今年も心おきなく長野の山々を登れそうです。

「みこもかる 信濃の真弓 我が引かば 貴人さびて いなと言はむかと(万葉集96)」

の歌が実に似合うレスでした♪

ただ、三種の神器に剣を挙げておられますが自分は憲法第九条を踏まえて
赤留姫命を祭る楯原神社の方を挙げます。剣は造るのに大量の木材を焼くことになりますが
楯なら板切ですみますから植樹の神の不興をかわなくてこの歌の心に叶います。
#楯原神社(http://www.kamnavi.net/ym/hiboko/tatehara.htm
#今年の言蛇はRieruさん (◇1)へ ☆

おわびにRieruさん(◇1)の「Kitchen」と共に
「玉葛 実ならぬ木には ちはやぶる 神ぞつくといふならぬ木ごとに(万葉集101)」
の歌を神奈備様へプレゼントいたします。
#この歌は102番の歌と連歌になっていますので、相方の名前をきちんと開示できないと無効に
#なってしまうので取り扱いに注意してくださいませ。
#九頭龍は頭が九頭なので尻尾も九尾そろえないと現実の生き物に還元できない(汗

それでは本年もよろしくお願いいたします。(謝

(◇1)(http://www.apple.fm/~rierunomori/index.html
(◆2)万葉集の出典は「万葉集(上/下)伊藤博校注 (角川ソフィア文庫/各820円)」 

[4758] 宮山登拝  神奈備 2004/01/04(Sun) 20:07 [Reply]
ハガネさん、川崎さん、投稿ありがとうございます。

 石切神社の上之宮の元社に行き着く事が出来ました。宮山と云い、生駒山登山コースの辻子谷の途中に宮山600mとの看板を認識しました。通る度に見ているのですが、それは上之宮の元社とは思わなかったのでした。
 宮山の祠は山の中腹にあり、少し登ると山の鞍部に出、尾根伝いに生駒山へ登れました。あまり良い道ではなく、昨年末に予喜山に南側から登ったのですが、それよりは遥かにいい道と思い、気楽に登れました。登り60分、降り30分、生駒山は健康法です。

[4757] はじめまして♪  川崎重光 [Mail] [Url] 2004/01/04(Sun) 19:13 [Reply]
神奈備様、お邪魔します。
川崎重工のバイクに乗る川崎重光と申します。v(^^;
ネットの中を徘徊していたらこちら様の神々しいサイトに遭遇してしまいました。
古代の日本… 謎に満ちた神話の時代… いいですね!
私は群馬県在住なので、古代史の舞台となった西日本の神社のことは
何も知らないのですが、地元群馬でも大国主命や須佐之男命など太古の神々を祭った
神社の末社は存在しますので、時々散策に訪れます。稲荷信仰はこちら北関東でも
非常に盛んで、主要な稲荷神社は初詣の参拝客で大賑わいでした。私も某稲荷で
御札とお守りと可愛いキツネの「ぬいぐるみ」まで衝動買いしてしまいました。(〜〜;
個人的には山岳信仰にも興味があり、修験道の霊場として知られる山奥の滝へ
行ったり、石仏が連なる登山道を歩いたり等、日々神仏と接して暮らしております。
これからも宜しくお願い申し上げます。m(__)m


[4756] はがねのうた  ハガネ 2004/01/04(Sun) 16:07 [Reply]
私の名前を
御知りに成り度いのでせう
でも今思ひ出せ無くて
哀しいのです
働く私に名附けて下さい
御呼びになつてだうぞ御好きな樣に
鉄で鉄さえも切る
私に 似合ひの名を

赤白い炎は
焼入れの合圖でせう
雪ふる山奥で生まれます
汗を拭ひて顏を上げて下さい
ほらもうじき私もニエをつくります
変わらない切れ味を
貴方に 御屆けします

私が憧れて居るのは
人間なのです
泣いたり笑つたり出來る事が素敵
たつた今私の名が判りました
貴方が仰る通りの「鋼」です
美しい切れ味を
職人さんへ御屆けします
働きます
何も語らず

[4755] 謹賀新年  との [Mail] 2004/01/03(Sat) 13:11 [Reply]
明けましておめでとうございます。
年末は出雲の稲田神社、丹後の籠神社をまわり蛇之倉で新年を迎えました。
梯子登ってきましたよ。
その後、丹生川上上社に参拝しました。
ダムの水もすっかりなくなり、旧社跡地も完全にみえてました。
境内もピーンと張った緊張感あり、気持ちがよかったです。
今年も宜しくお願いします。

[4754] What’s シキ ? その2  神奈備 2004/01/02(Fri) 20:09 [Reply]
マルヤさん 俵なにがし さん あけましておめでとうございます。

 神社や神祭りでは日光東照宮などは除いてあまりゴテゴテしたものは少ないように思います。
 簡素。簡潔の中に本当のものを求めているようです。
 神祭に欠かせない榊、これは無味無臭の木と葉で出来ていますが、往古は樒(しきみ)だったようです。抹香臭いとはこの木のにおいの事です。
 実に毒性があります。
 樒で深山樒と云うのがあるそうです。
http://www.hana300.com/miyasi.html
これによると、別名を「橘木斛(たちばなもっこく)」と云い、蜜柑(みかん)科。山地に生える。学名 Skimmia japonica だそうです。

[4753] あけましておめでとうございます。  俵なにがし 2004/01/02(Fri) 19:08 [Reply]
 今まで、日本刀は和鉄から出来ているなどという風説が
流れ、歴史に対する捏造が誰かの意図によってなされてい
向きを感じてきましたが、最近では少し流れが変わってき
のかと思います。

http://www2.pref.shimane.jp/kouhou/esque/48/menu07a.html

 出雲の和鋼は安来の産で、それで日本刀が作られてきた
ことは、日本各地で活躍の職人さんたちには自明なことだと
再び理解されてきたのでしょう。そもそも、日本の庶民は
諸外国に比べ、学者よりも職人をとりわけ尊重する気風があ
ります。諸説あるとは思いますが、欧米の学者は産業革命に
積極的に参加し、社会変革を成したのに対し、日本では江戸
期の職人がそのような機能を担ったという特殊事情があるの
かもしれません。

[4752] 謹賀新年  マルヤ 2004/01/01(Thu) 17:29 [Reply]
神奈備さん、みなさん、あけましておめでとうございます。
今日は晴天に恵まれて、清々しい気分で地元の氏神様に参拝してきました。

このような穏やかな晴天が明日も続くといいですね。
本年もどうぞよろしくお願い致します。

[4751] 謹賀新年   What’s シキ ?  神奈備 2004/01/01(Thu) 08:02 [Reply]
崇神天皇の都は磯城の瑞籬宮と云い、大神神社の南の志貴御県坐神社辺りとされています。碑が立っていたような気がします。
ここに大殿があり、この時、天照大神を豊鋤入姫命に託して笠縫と云う所に遷座。後に倭姫に引き継がれて巡幸するのです。
垂仁天皇の時代、天照大神は「是の神風の伊勢国は、常世の浪の重浪帰する国なり」と、当地に鎮座する託宣を出し、伊勢に落ち着いたのです。
磯城から重浪(シキナミ)と云うことになります。山のシキから海のシキでもあります。

シキ、常世からのシグナルを受ける場所と云う意味があるのかも。三輪山は天上の常世からのシグナル、伊勢は海上の常世からのシグナル、常世=不変と見れば、頑丈な石城も同じで、シキは常世の窓口。

 倭建命の国思歌が古事記に紹介されています。
歌謡31と32
倭は 国のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる 倭しうるはし

命の 全けむ人は たたみこも 平群の山の くま白
梼が葉を うずに刺せ その子

 「たたみこも」とは重なり合ってと云う意味で、重浪に通じ、これは信貴山として今に残っています。
 同じように、三輪山の青垣のほうも、重なっている山々であり、巻向−三輪の二重の神奈備の地が磯城のようで、どうやらこれが大切なもののようです。
 国思歌が並んでいるのは意味があるようです。


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