神奈備掲示板の案内とログ

神奈備掲示板

青草談話室、写真掲示板 過去ログ

掲示板のログ(平成十六年 六月)お名前の敬称は省略しています。

[5376] 歳々年々 花あい似たり  神奈備 2004/06/30(Wed) 21:21 [Reply]
三重県の神島のゲーター祭りは日を迎える元旦の祭事(大年の祭り)ですが、この日輪の象徴のグミの木で作り白い布をまいたようなものを「アワ」と呼ぶようです。
要するに、アワとは太陽のこと。

淡路島、伊弉諾神宮も鎮座、国生みの舞台ともされる島。
阿波の国 日面の地。邪馬台国説もある興味津々の地。

 所で、話は変わりますが、『古事記』での各天皇の崩御の年を、御年と表記しているのですが、崇神天皇だけ御歳になっていますね。

[5375] 神職  葛木御歳神社 [Mail] [Url] 2004/06/29(Tue) 23:10 [Reply]
神奈備さま、かたばみさま、
力を頂くお話をありがとうございます。

奉職を決めたのが3月も末の頃、5月に初めてこちらにお邪魔して、ひと月余り。
本当に色々深く考える機会に恵まれました。

進む方向・考え方はこれでいいのか、すべてが未知のものですから、
本当に不安も感じます。
一人考えていてもなかなか見えない時、誰かとほんの少しでも話すことで、
自分の誤りに気付くことや、いや、やっぱりこうしたい、
と思いが固まることもあります。

基本は「人」だと思います。
多くの人たちの思いにふれることが、道を照らす光になると思います。

神様を祀ると言っても、私一人で神様と対峙するだけではなく、
そこに集まる人たちの思いを一緒にのせてお祭りが成り立つのだと
思いました。
ですから、その思いをいつも感じられる者でありたいと思っています。

神奈備掲示板にお邪魔して本当に良かったです。
迷ったら、お話できる場・人たちがいらっしゃるのは何と心強いことでしょう。

古代から日本に住む人たちは、政治とは無関係に神様を感じてきたのだと思います。
それが、律令制が崩壊して後も現在まで、長い年月、
神社を守り続けてこれたのだと思います。

それを引き継ぐことは重いものですが、喜びでもあると思っています。
あとは神様のお導きを信じて勉強していきたいと思っています。

ちょっとカッコつけすぎですが、これからもよろしくお願いします。

[5374] [5343]: 御歳神  ペギラ 2004/06/29(Tue) 23:10 [Reply]

男だから、女だから、

その世界で色々ですが、

神様の世界でも色々で良いと思いますよ。

太古の世界が、素晴らしい世界だとは思いませんが、
一生懸命生きるというレベルでは同じだと思います。


[5373] Re[5371][5369][5357][5355][5352][5351][5344][5343]: 御歳神  かたばみ [Mail] [Url] 2004/06/29(Tue) 20:45 [Reply]

≫神職が神さまのことをあれこれ調べるのはいいのでしょうか?

信仰という人の心、神職となればそういう他者の心を扱うことになると思います。

花を道ばたに置けば人の心はなごむ、ではマサカリを置いてもよいか。
必要な道具であっても「使い方を知らぬ者」がさわればどうなるか・・
では、花だけ置いていればいいのか・・

いかなる職種でも、自分の考えは持たねばならないと思います。
神職であるなら、神職としてそれをどう生かすか、だと思うのです。

自分のための勉強や修行だけではすまなくなる・・たいへんですね。

ペンネームはその立場を一時的に白紙化する一助になると思います。
えっこの人があの人、なんてのがあちこちに隠れてるんじゃないかなあ。

老若男女学歴職業、こういった情報も多くの場合に無用のものと考えています。
対等ではない意識を生じさせやすいから。
むろん、神社や寺あるいは医者などのHPは別です、それを頼っての訪問者がほとんどのはずですから。


[5372] Re[5371]: 御歳神  神奈備 2004/06/29(Tue) 16:36 [Reply]
> 神職が神さまのことをあれこれ調べるのはいいのでしょうか?

小生の故郷の神社が伊太祁曽神社、前の宮司さんの奥鈴雄翁は、実に熱心に御祭神の五十猛命のルーツ探しを行っておられ、小生も多く指導して頂きました。
http://www.kamnavi.net/it/setohmsg.htm
それも、皇學館的な偏向なしで、客観的な観点と祭神への深い崇敬の心を持っての調査研究でした。
変な言い方ですが、神職一般にちょっとあるものとは反対に「くさくない」のです。

[5371] Re[5369][5357][5355][5352][5351][5344][5343]: 御歳神  葛木御歳神社 [Mail] [Url] 2004/06/28(Mon) 22:35 [Reply]
かたばみさま、ありがとうございます。

> 得られた情報(知識)から自分の考えをいろいろ作ってみる、ここですね。
> そして楽しい。

楽しいですね!まだ自分の回りだけで、作るなんてできませんが、それでも面白いです。
自分の考えが構築できたら、もっと楽しいでしょうね。
色々知りたいと思っています。

問題はもうすぐフリーの立場でなくなることです。
神職が神さまのことをあれこれ調べるのはいいのでしょうか?
引っかかりはそこです。
お祀りする神様について知りたいと思うのはどんなものでしょうか?

言い訳かも知れませんが、
古代から、つい最近まで、人々は神様を政治に様々に利用してきたわけで、
それを調べることと、神様に奉職することとは矛盾しないのではないかと。
今の感覚では、そう考えています。
2ヵ月後は考えが変わっているかもしれませんが。

でもペンネームが必要になるかも知れませんね。(笑)

≫「歳」は鉞エツ(マサカリ)と器の間に肉をおく祭祀

なかなかおそろしい話で。。。
知らない方がいいかも。。。
別の説を探したくなりますね。

色々ありがとうございました。

[5370] Re[5365]: 食性  葛木御歳神社 [Mail] [Url] 2004/06/28(Mon) 22:00 [Reply]
玄松子さま、
いい加減な書き込みですみません。以後気をつけます。
つい、カラスびいきなもので。。。

今都会で嫌われているハシブトカラスはJungle Crow との英訳で
本来は森林(海岸にも)にいて、どちらかといえば、肉食や木の実が多いカラス。
ハシボソカラスは農村にいて、お米や種も結構食べて、嫌われ者。(エンカルタ百科辞典)

農村でも、嫌われ者のカラスを、正月の鍬入れ、鋤初めの日には、積極的に招き
投げた餅を食べるか否かで収穫の豊凶を占ったりするそうです。
御烏喰儀(おとぐいの儀)もありますね。

カラスは太陽の御使いですよね。害為すものでも御使いになるのですね。

[5369] Re[5357][5355][5352][5351][5344][5343]: 御歳神  かたばみ [Mail] [Url] 2004/06/28(Mon) 20:17 [Reply]

≫このすごい知識、ただただ驚きです

知識(データ)ならパソコンに記憶させればOKですね。
情報をどう選別してどう組み立てるか、そのあたりがコツではないでしょうか。

解釈が違っているかも知れないし、他の論もあります。
元ネタの確認が必要ですね、ネット情報だとなおさらだと思います。


文字の意味については字訓/白川静を愛用しています。
ただし、愛用=信じるじゃないです。例えば「年」には同意しない部分もありますです(^^;

≫「歳」は鉞エツ(マサカリ)と器の間に肉をおく祭祀・・・何のための祭祀なのでしょうか?

さらなる意となるともう専門家の研究分野と思います。
専門家も意見が分かれるだろうなあ。

鉞はBC3000頃の長江下流域の良渚文化出土の玉鉞が最古と思います。
http://www.tcn-catv.ne.jp/~woodsorrel/kodai/g01.files/07/gyokuki_r.jpg
玉j(祭祀)、玉鉞(軍事)、玉璧(経済)が王のシンボル。

これが青銅化して殷(商)で用いられ、周以降では祭祀具としては消えるようです。
殷での鉞は首切り用だったみたい(^^;
(このあたりは中国文明の誕生/林巳奈夫などをどうぞ)


トシ、日本でのトシという言葉、これがどういう由来かを考えることも必要ですね。
ひとつトセ〜ェ、ふたつトセ〜ェ(^^;
関連:世、代(字訓では人にマサカリ)、節

ではイネの語源は・・
下図は大年神系譜の分析もどき図(転載不可(^^;)。
http://tokyo.cool.ne.jp/woodsorrel/data/kami_ootoshi.png


≫743年墾田永年私財法発布、その後、荘園が出来はじめ、それが、律令制崩壊の引き金に。
≫地主神ではなく由緒正しい御歳神を祀りなさいと。
≫御歳神への神饌はそれなら、問題ないでしょう。

稲作ジムに畑作ジム・・どこが本家で元祖で由緒正しいかはおくとして・・
柔術でも空手でもボクシングでもないのだ、これからは総合格闘技なのだ(^^;

得られた情報(知識)から自分の考えをいろいろ作ってみる、ここですね。
そして楽しい。


[5368] Re:[5366] [5367]  神奈備 2004/06/28(Mon) 18:48 [Reply]
玄松子さん、お知らせありがとうございます。
なかなか拝観できないものだけに、貴重な公開資料となりますね。

高西さん、わざわざご報告、ありがとうございます。
地元にはそれぞれ郷土の歴史や史跡神社仏閣を丁寧に調査されている方が大抵はおられるようで、教育委員会はその方々と接点をお持ちのようです。
また、『紀伊続風土記』『紀州名所図会』などは県下のそこそこの図書館にはあるようです。

[5367] 報告します  高西 [Mail] 2004/06/28(Mon) 16:28 [Reply]
先日質問したものです。
その質問とは「田中神」・「猪谷神」・「垣内神」・「里神」とはなんの神なのか?でした。
そして、教育委員会や神主に聞くように言ってもらいました。自分の頭には教育委員会や神主に聞くことはなかったので、目を覚まさしてもらったようでした。
以下は美山村教育委員会に問い合わせた結果で、報告します。
「田中神」…農の神
「猪谷神」…猪谷の集落を開発した神、地域の先祖神
「垣内神」…土地開発の神、先祖神
「里神」 …その里の人がよりどころとする神(地域の人が信仰の対象とする尊い存在の神)

だいたい教えていただいた予想通りだったと思われます。

[5366] 神社の文化財をネット公開/京の50社  玄松子 2004/06/28(Mon) 13:05 [Reply]
皆さん既にご存知かもしれませんが。

http://www.shikoku-np.co.jp/news/news.asp?id=20040602000317
引用:

 平安神宮(京都市左京区)など京都府内の各神社が所蔵する貴重な文化財や、祇園祭などの神事芸能の画像をデジタル化して保存、インターネットで公開する試みが7月から始まる。

 京都府神社庁と京都国際文化交流財団が2日発表した。2004年度から3年間の共同プロジェクトで、約50の神社から5000を超える画像を保存、同財団のホームページで順次公開する。
 画像は、掛け軸や絵巻物、ふすま絵、茶道具などの文化財をはじめ、鳥居や神殿などの建築物、京都三大祭の風景など。本年度は平安神宮、上賀茂神社(京都市北区)、下鴨神社(同市左京区)、北野天満宮(同市上京区)、石清水八幡宮(八幡市)など18神社が対象。

普段は見ることができないものも・・・
京都府神社庁のサイト → http://www.kyoto-jinjacho.or.jp/
京都国際文化交流財団のサイト → http://www.kyo-bunka.or.jp/index2/index.htm

[5365] 食性  玄松子 2004/06/28(Mon) 10:25 [Reply]
> ≫稲荷に供える油揚げは、肉の代用でしょ。
> これにつながる可能性もあり。
> 狐の好物だからという後世に副次的に登場した可能性もあるけど。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%84%E3%83%8D
引用『小鳥、ノウサギ、ノネズミ類、昆虫などを捕食する肉食性だが、果物など植物質のものも食べる。』

狐は「食肉目」で、基本的には肉食。だから油揚げが好物というのはありえないようです。食べることはできるようですが。

> 田んぼに黒いビニールをひらつかせるのは、
> カラスに似せていますね。

http://www.hokkoku.co.jp/_today/H20040525003.htm
引用『死骸を吊す退治法は、古くから農村地域で行われていたとされるが、近年では鳥の模型や黒いゴミ袋を使用する場合が多い。』

カラスが稲を食べるのを防ぐため、カラスの死骸を吊るして脅す方法があります。
その代用が黒いビニール。

[5364] Re[5362][5356][5352][5351][5344][5343]: 鳥  葛木御歳神社 [Mail] [Url] 2004/06/27(Sun) 20:54 [Reply]
> からすは昔どう扱われていたのでしょうね。
益鳥であったと思っています。
農耕に害為すものは害鳥、益為すものは益鳥なら、
すずめなどを追い払ってくれるから、益鳥でしょう。
田んぼに黒いビニールをひらつかせるのは、
カラスに似せていますね。

「カラスは悪者」はヨーロッパのある地域の発想だと思っています。

[5363] Re[5361][5359][5358]: 単なる思いつきですが  神奈備 2004/06/27(Sun) 11:27 [Reply]
>> 私の判断では、あの程度の情報では例え悪意がある人が見ても”攻撃のための行動”の即時実行は不可能だろうと思っておりましたし、それ以上に管理者様ほか皆さんの参考になればと思いました。
>
> ただ、私がここに荒らしを呼び込む目的で悪意をもってあのような事を書いたと誤解されたのであるならば、それは寂しいですね…。

貴殿が悪意で書かれたとは思った訳ではありません。波風を立てたくない心境です。

> この場合、「御社のユーザーの1人が荒らし行為に及んでいるので、やむを得ず他の御社ユーザーからのアクセスも含めて現在遮断している状況です。つきましては、”善良な御社ユーザーの迷惑ともなってしまっておりますので、対処願います。」という流れが一番効果的なようです。
> プロバイダ側から悪質ユーザーに警告/強制退会等の措置が取られた上で、報告のメールが返って来ると思われます。
>
> 万一プロキシを利用しての荒らしである場合には、プロキシの管理者と連絡を取れれば事情を説明して荒らしのプロバイダを特定し、その情報を開示してもらうのが良いのではないでしょうか?
> 無論、荒らし行為のあったプロキシのIPは、即時遮断するしかないでしょう。

ありがとうございます。

[5362] Re[5356][5352][5351][5344][5343]: 鳥  なにがし 2004/06/27(Sun) 10:50 [Reply]
からすは昔どう扱われていたのでしょうね。
丹生津姫神社では鎌倉時代元襲来のおり、丹生津姫がからすになって?元をたおしに飛び立ったとの伝承があります。と言うことは昔はからすは悪い印象ばかりではなかったのかも知れません。

[5361] Re[5359][5358]: 単なる思いつきですが  通りすがり 2004/06/27(Sun) 09:58 [Reply]
>5360
御案内有難うございます。
ゆっくり読ませてもらいます。

>5359
> 通りすがり さん  おはようございます。
> 掲示板荒しへのご注意ありがとうございます。
>
> ただ、具体的攻撃の方法を書かれており。攻撃をあおっているようにも詠めますので、その部分は削除させて頂きました。

余計な事を書いたとしたらすいませんでした。
私の判断では、あの程度の情報では例え悪意がある人が見ても”攻撃のための行動”の即時実行は不可能だろうと思っておりましたし、それ以上に管理者様ほか皆さんの参考になればと思いました。

ただ、私がここに荒らしを呼び込む目的で悪意をもってあのような事を書いたと誤解されたのであるならば、それは寂しいですね…。
>
> 攻撃方法の詳細についてよりも、具体的防御方法を知りたいものです。
>
確かにそうですね。
アート系のHPを持っている私の経験では、直接の説得なり警告で効果がない場合、掲示板荒らしのログ(のアドレス)を示しつつ、荒らし行為をした人のIPを元にプロバイダに”迷惑行為”または”威力業務妨害”という名目で協力を求めるのが一番だと思います。
この場合、「御社のユーザーの1人が荒らし行為に及んでいるので、やむを得ず他の御社ユーザーからのアクセスも含めて現在遮断している状況です。つきましては、”善良な御社ユーザーの迷惑ともなってしまっておりますので、対処願います。」という流れが一番効果的なようです。
プロバイダ側から悪質ユーザーに警告/強制退会等の措置が取られた上で、報告のメールが返って来ると思われます。

万一プロキシを利用しての荒らしである場合には、プロキシの管理者と連絡を取れれば事情を説明して荒らしのプロバイダを特定し、その情報を開示してもらうのが良いのではないでしょうか?
無論、荒らし行為のあったプロキシのIPは、即時遮断するしかないでしょう。

そんな事は知ってるよという程度の情報でしたらすいませんが、話を切り出した以上、私なりに誠意をもってお伝えしたつもりです。

では失礼。

[5360] Re[5358]: 単なる思いつきですが  神奈備 2004/06/27(Sun) 09:05 [Reply]
当掲示板の2002年8月の[3293] あたり以降からの書き込みログをご覧下さい。
http://www.kamnavi.net/log/yumv0208.htm
また、yanaseさんの楡山神社のうぶすな研究室に研究の成果が報告されています。
http://homepage3.nifty.com/nireyamajinja/ture/index.htm

[5359] Re[5358]: 単なる思いつきですが  神奈備 2004/06/27(Sun) 08:51 [Reply]
通りすがり さん  おはようございます。
掲示板荒しへのご注意ありがとうございます。

ただ、具体的攻撃の方法を書かれており。攻撃をあおっているようにも詠めますので、その部分は削除させて頂きました。

攻撃方法の詳細についてよりも、具体的防御方法を知りたいものです。



[5358] 単なる思いつきですが  通りすがり 2004/06/27(Sun) 02:11 [Reply]
歴史に少々興味を持っている通りすがりの者です。
たまにこちらも楽しく読ませてもらってます。

ところで、近津の話し、興味深く思っておりましたが、ふと思ったのです。
近江…これを今は”おうみ”と読みますが、聞いた話ですと昔は”ちかつあはうみ(近つ淡海=琵琶湖の意)”と読んだという事です。
さて、この”ちかつ”と”近津”ないし”千鹿頭”には関連性があるのでしょうか?
ただの思いつきですが、皆さんのご見解が伺えたらと思います。
(すでにどなたかがこのような話をいていたり、誰かがこのような学説を発表していたりしたらすいません。当方素人につき、その辺疎いもので。)

…まあ、私もただの偶然だと思いつつ書き込んでいますが。
”近江”が”近津”と関連ありだったら、遠江は何なのだ?…となりますし(苦笑

ただ、ここでもアイヌ語や朝鮮語との関連を元に、人(神)名・地名等を論じておられる方もおられるようですので、一応書いてみたまでです。
ちなみに、”万葉集が朝鮮語で読める”とか、奈良は朝鮮語のウリナラの”ナラ”だとか、神輿担ぎの”わっしょい”は、朝鮮語の”ワッソ”だとか言っておられる方がいるのも、それらの説は荒唐無稽なものだとの評がある事も、情報としては存じております。
ですので、私の思いつきも、ただの思いつきの語呂合わせであり、偶然だろうな、と思いつつ書いております。
素人の私にはきっちりと判別がつきかねますので…。

[5357] Re[5355][5352][5351][5344][5343]: 御歳神  葛木御歳神社 [Mail] [Url] 2004/06/27(Sun) 00:02 [Reply]
かたばみさま、ありがとうございます。
このすごい知識、ただただ驚きです。
ネットがなく、本だけ当たっていては絶対知りえなかったことがたくさんわかって感激です。

> だれがこの神名を用いたのか知りませんが、「年」は穀物の実る期間を意味する文字です。
> 周、BC1027−BC770 で農穀の収穫の意。周ですから「年」は粟稗麦といった畑作物の意でしょう。
> 「歳」は鉞エツ(マサカリ)と器の間に肉をおく祭祀の意で、これも年に1度らしい(字訓)。
>
> 年も歳も1年の区切りを表すようになるけれど、意味の源流に穀物と肉の違いがある。
> 古事記では大年神、御年神。先代旧事本紀も同じ。
> だが、古語拾遣では御歳神・・
> そこまで考えて異なる儀礼を合体させているとしたら・・脱帽です。

歳と年がこんなに違うとは知りませんでした。
「歳」は鉞エツ(マサカリ)と器の間に肉をおく祭祀・・・何のための祭祀なのでしょうか?
ここから、ヒットしないでしょうか?

古語拾遺の感じからは、贄ではなく、神饌のかんじですよね。
私は殺牛儀礼とは違うように思っています。

時代背景から、考えるのも手かなと思います。
古語拾遺編纂が、807年。
朝廷が管理したかった農耕を村の実力者―地主神として象徴される―が、
田人に肉(象徴として肉)を振舞って雇い入れ、耕作地を広げて力をつけるのは困ると。
743年墾田永年私財法発布、その後、荘園が出来はじめ、それが、律令制崩壊の引き金に。
地主神ではなく由緒正しい御歳神を祀りなさいと。
御歳神への神饌はそれなら、問題ないでしょう。
自信ないですけれど。。。


[5356] Re[5352][5351][5344][5343]: 鳥  かたばみ [Mail] [Url] 2004/06/26(Sat) 14:32 [Reply]

≫ずっと気になっているのは熱田神宮の祈年祭の烏喰(おとぐい)の儀

その儀式を考えたことはないですが、稲と鳥は切り離せないですね。
鳥を害鳥とみるか稲種を運んだとみるか。

鳥についてはこれだけでたいへんなことになりますが若干。

直感的に小型の鳥は害鳥だと思います。
対して大型の特に肉食鳥はネズミを食べるということで益鳥にみなされるんじゃないでしょうか。
蛇も同じじゃないかな。

カラスは種類によっては人里に接近する習性があるようで、人里からでる残飯やネズミがねらいらしい。
単純にそれだけでも清掃人であって嫌われる理由はなさそう。
現代では迷惑鳥になってるけど、それは人間側の都合ですね。


下図はインドネシアのアカ族の村の入り口の「門」です。
http://tokyo.cool.ne.jp/woodsorrel/data/bunka_torii.jpg
上に鳥の木製品をおき、装飾に三角紋様があります。
(日本の装飾古墳や銅鐸の紋様と同じ、蛇の象徴とみています)

どういう理由かはおいて鳥への崇拝があったのでしょう。
隣に女性と見える像がおいてあります(男根もあり)。
道祖神の原形を見るような気がします。

鳥居の原形と見ることも可能、ただし中央アジアにも原形とみることのできるものあり。

大阪の池上曽根遺跡(BC53)から鳥の木製品が出土していますが、アカ族の門の鳥とそっくりです。
いっしょに男根模型も出土しています。

やはりインドネシアのカレン族は焼き畑農耕で、ここでは焼き畑はじめるときに鶏を殺してその血を祭壇に塗り鶏の半分を神に供えて、半分をみんなで食べるのだそうです。
これも前の古語拾遣につなげたくなる話です。焼き畑系では肉を供え、肉を食べる慣習がある・・

焼き畑、迦具土神と埴山姫神の結婚、ここから稚産霊神(和久産巣日神)が生まれ豊宇気比賣神が生まれるならば自然な流れと思います。
(豊宇気比賣神の源は稲作ではないことがうかがえる)
(ではこの系譜を嫁さんにしたとされるもうひとつの穀物神である大年神系とは・・)


鶏は東南アジア原産のようですが、奈良の唐古・鍵遺跡からは鶏の土製品がでているので弥生中期には日本でも鶏がなんらかの祭祀に関与していたとみえます。

長崎県壱岐の原の辻遺跡では甕棺に接して置かれた壺に鶏の骨がはいっていたそうです。
少なくとも古墳時代の埴輪では馬に次いで多いのが鶏ですから、この頃では稲作にからんで鶏祭祀が普遍化していたのは間違いないと思います。

ま、鳥をどう扱うかだけでもおそらくは無数のパターンがあったと思います。
これらが複合して日本の稲作神事に変化していったのでしょう。
焼き畑と水稲、山の神と田の神、これだけでも複雑でその当時に現地調査やったとしても結論がでるかどうか(^^;

変化の過程では牛肉変じて鶏肉になる可能性もごろごろ転がっていそう(^^;
古語拾遣編纂者が悩んでも不思議はないと思います。

余談
高句麗の6世紀の輯安4号墓壁画に太陽と3本足の烏が描かれています。
天女や竜や鳥に乗る人物も描かれており、中国の影響だろうと思いますけれど、どういうルートや考え方で描かれたのか興味深いです。
熊野三山の3本足の烏のほうがはるかに古い由来をもつだろうと考えてはいますが。


[5355] Re[5352][5351][5344][5343]: 御歳神  かたばみ [Mail] [Url] 2004/06/26(Sat) 14:27 [Reply]
≫名古屋大学大学院の論文集にあり、ネットで公開されています

目を通してみましたが・・うー難しい(^^;

推古以前の書紀や古事記の記事は多疑とみて用いない立場からの論ですね。
しかし、それで神々や祭祀を論じられるのだろうか??

大己貴命も大年神も無視せざるを得ないわけで、飛鳥奈良以降の中国や半島にあったという牛殺しという儀礼だけしか扱えなくなるのだろうなあ。

唾を吐く慣習についてはこちらのHPに書かれたことがあります。
清めの呪符、そんなところだろう、だったです。


制限を設けない立場から若干(^^;

古語拾遣編纂者が飛鳥奈良時代の近畿周辺情報を持っていないとは考えられません。
それどころか、現在の我々が持つ情報より桁違いの量かつ詳細な情報を持っていたはず。
牛殺し儀礼についても同じくで、なんらかの当事者ですらあったかもしれない。

その古語拾遣が牛殺しと関連づけていないということは無関係だったからと見るのが妥当と思います。
古語拾遣では白猪、白馬、白鶏、であって牛はでてこない。
牛肉のことだけ書いているのは、牛殺し儀礼とは異なることを知っていたからだと思うのです。

しかしながら、それがどこに由来があるかまでは知らなかった、それが古語拾遣の書き方になっているのではないか。
忌部氏は麻や紙など「繊維」に関与していますから、農耕系儀礼を重視する可能性もあります。
http://www.genbu.net/data/awa2/inbe_title.htm
余談:梶は繊維を採る木であり、神紋はそこからとみます。実は食糧になる、諏訪大社のはこちらとみる。


以下に中国雲南の苗族ミャオの風習の抜粋をおいておきます。
http://tokyo.cool.ne.jp/woodsorrel/data/maturi_byou.txt

これは現代の苗族の慣習であり、大昔ではいかなるものか、日本へ伝わっていたかどうか、知る由もありませんけれど・・
もし伝わっていて、肉を用いない農耕文化儀礼と合体したなら・・そのまま由来になってしまいそうです。

日本に大量の農耕牛馬がいたことは考えにくい、骨の出土からも後世の状況からも。
苗族に当てはめれば貧民ですね(^^; 肉片でまにあわせる、十分ありそう。

≫稲荷に供える油揚げは、肉の代用でしょ。

これにつながる可能性もあり。
狐の好物だからという後世に副次的に登場した可能性もあるけど。


苗族の祭にないのは虫追いです。
古語拾遣で独立して大己貴命で書かれているのがこれでしょう。

ウエツフミでは大年神、御年神、若年神が肉を嫌う神々になっています。
古語拾遣でも御歳神は嫌っている、
(神々は食べてよいが民は食べてはならないのだ・・これはちょっと無理でしょう)

だれがこの神名を用いたのか知りませんが、「年」は穀物の実る期間を意味する文字です。
周、BC1027−BC770 で農穀の収穫の意。周ですから「年」は粟稗麦といった畑作物の意でしょう。
「歳」は鉞エツ(マサカリ)と器の間に肉をおく祭祀の意で、これも年に1度らしい(字訓)。

年も歳も1年の区切りを表すようになるけれど、意味の源流に穀物と肉の違いがある。
古事記では大年神、御年神。先代旧事本紀も同じ。

だが、古語拾遣では御歳神・・
そこまで考えて異なる儀礼を合体させているとしたら・・脱帽です。


白猪、白馬、白鶏などについて若干。

苗族では牛が白いことを嫌っていますが、高句麗本紀では白鹿、白ノロ(鹿の一種)、白馬、白鷹など白い動物が何度も登場します。
白馬、白牛などの記述は高句麗滅亡668にともなう避難民がもたらした文化の影響じゃないかな。
(高句麗との接触開始は書紀欽明紀539-571に登場)

高句麗本紀に白牛はみあたりませんが農耕民ではないからでしょう。
牛殺し儀礼らしきもみあたりませんが、王が狩りで白鹿を捕ったなどの話はひんぱんに登場します。
日本での牛殺し儀礼は高句麗の狩りが発端になっている可能性が臭うのですが・・

飛鳥奈良あたりでなんらかの理由で牛殺しが生じた場合、農耕民にとって大切な牛を殺されるわけで、迷惑な話になると思われます。

インダス文明の農耕社会を遊牧民が制圧したとき、遊牧民の儀礼慣習で牛が殺され農民が困ったという伝承があります。
仏教の殺生禁止とは別に牛殺しを禁止する必要があった、そういう可能性もありそうです。


[5354] Re[5351][5344][5343]: 御歳神  玄松子 2004/06/25(Fri) 07:18 [Reply]
> 大年神が穀類の神ならば、肉を供えるのはまずいでしょう。

鹿などから田畑を守る狼信仰や稲荷信仰など、肉食獣を守護とする信仰と通じているのかもしれません。
稲荷に供える油揚げは、肉の代用でしょ。
山神が穀神であるというのは一般的ですが、
季節によって山から下りてくる穀神は、年神の一形態かもしれません。

[5353] Re[5349][5347][5345][5344][5343]: 御歳神=高照姫命?  葛木御歳神社 [Mail] [Url] 2004/06/24(Thu) 21:33 [Reply]
福島さま、ありがとうございます。

>  簡単に田の引き水が可能な、水源立地を聖地(大地母神)とした、と思います。
> 「大穴持ち⇒大己貴神」は水源作井の神?か。
> 自説は、古代製鐡爐(横穴古墳の形体⇒窯)の考案者でしたが…。

どうして耕作地が広くない所に農業神かの答えですね!
水源立地を聖地(大地母神)としたのですね。
ありがとうございました。
私の中では納得です。

他にもこのような立地は多いのでしょうか?

神奈備さまの下記はぴったりですね。
http://www.genbu.net/data/izumo/mitose_title.htm
出雲大社境外摂社神大穴持御子神社

[5352] Re[5351][5344][5343]: 御歳神  葛木御歳神社 [Mail] [Url] 2004/06/24(Thu) 21:27 [Reply]
かたばみさま、ありがとうございます。
ウエツフミについて知りませんでしたので、
興味を持ちました。

牛の肉を祭祀に使うことについて、古語拾遺の御歳神を例にした文献が
名古屋大学大学院の論文集にあり、ネットで公開されています。
http://www.lang.nagoya-u.ac.jp/proj/genbunronshu/25-2/itoh.pdf
ちょっと難しくて読むのに苦労しましたが。。
当時は肉を食べることは結構おこなわれていたようですね。
仏教は禁止していたようです。
肉を食べて怒って肉を供えることに矛盾があるから、
論者は苦労しますね。
順番がおかしいとか、勝手にしたからとか。
御歳神の御子神が唾をはくのは、所有の意味だとどこかで読みました。
唾をつけると同じで。

ずっと気になっているのは熱田神宮の祈年祭の烏喰(おとぐい)の儀
http://www.atsutajingu.or.jp/keidai/mitajinj1.htm

これもネットにあった話ですが、
肉を供えるのはカラスを呼ぶ儀式ではないかと。
http://www.isis.ne.jp/landscape/020216.html

私は、おもしろいなあと思っています。
鴨氏はカラスにはご縁がありますので。。。

>しかし神官の立場・・祭祀の内容を偽るのは・・
>そこで伝承を分離して、肉を供えることを加えた話を別途に書いたのだと考えています。
>当事者の神名も正体不明の大地主神を登場させてぼかす。
>(大国主命の国を地に置き換えただけと思う(^^;)

>大年神が穀類の神ならば、肉を供えるのはまずいでしょう。
>そこでその子の御年神に登場願い、他ではみあたらない御年神の子神にも登場願った。
>間接フリーキック(^^;

いいですね!
高照姫命が朝鮮系なら、殺牛祭祀はこちらにくっついてきたかも。


[5351] Re[5344][5343]: 御歳神  かたばみ [Mail] [Url] 2004/06/24(Thu) 19:59 [Reply]

葛木御歳神社さん、こんにちは。

≫最後に御歳神の話を付記の形で付け加えてあります

古語拾遣の御年神伝承と同じと思われる詳細伝承がウエツフミにあります。
このふたつの比較という単純な立場からの御年神について少々。

要所を古語拾遣と比較したものを下記においておきます。
http://tokyo.cool.ne.jp/woodsorrel/data/mitoshikami.html

古語拾遣は別項に大己貴命が鳥獣や虫の被害を防ぐ法を決めたと書いています。
出雲系の穀物儀礼伝承、ウエツフミでも神名は出雲系です。
本来ならここに全てを書くのが普通だと思います。

私が注目するのは、古語拾遣が肉を祭祀に使っているのに対し、ウエツフミでは死んだ牛馬の骨肉は人と同じに埋葬せよとしている部分です(皮は利用している)。

神を怒らせ田畑が枯れた原因は民が肉を食べたことにあって共通です。
ところが古語拾遣では肉を供え物にしており、これはちと奇妙。

東南アジアの稲作民では豚や鶏を生け贄にする慣習を持っているようで、佐賀県菜畑遺跡の水田跡畦畔からイノシシの下顎骨が出土しています。
播磨国風土記の讃容郡に、鹿の腹を割いてその血に稲を播くという話がありますが、これも生け贄のことでしょう。

古語拾遣とウエツフミが同じ出雲系の伝承を源にしているのは確実と思います。
出雲系伝承には肉を供える慣習がなく、古語拾遣編纂時の稲作民には肉を供える慣習があったとするならば・・
古語拾遣は各種の儀礼が混じり合っている当時の現状を包含して説明する必要があります。
そのために肉を供える儀礼を書き加えたのだと考えています。


さて、御年神登場への空想です。
みかけの体裁を整えるなら大己貴命の項にそっくり書いてしまえばよい。
記紀編纂者の立場ならそうしたかもしれない(^^;;;

しかし神官の立場・・祭祀の内容を偽るのは・・
そこで伝承を分離して、肉を供えることを加えた話を別途に書いたのだと考えています。
当事者の神名も正体不明の大地主神を登場させてぼかす。
(大国主命の国を地に置き換えただけと思う(^^;)

大年神が穀類の神ならば、肉を供えるのはまずいでしょう。
そこでその子の御年神に登場願い、他ではみあたらない御年神の子神にも登場願った。
間接フリーキック(^^;

当時では諸般の事情があってこのような処理が必要だったのだと思います。
しかし、大己貴命が鳥獣や虫除け法を決めたことは別途に書いてあります。
いろいろな儀礼が混じり合ったものが当時の儀礼であって、追加部分でそれを示しているのだ。
それでよいと思っています。

大国主命の肉で災いが起きたというのは半ば事実じゃないかとも思っています。
関連するかも知れない山陰地方のオオゲツヒメとその娘のサヒメ伝承ともども以下に参考まで。
http://tokyo.cool.ne.jp/woodsorrel/data/oogetuhime.html

男根は世界のいつのどこにでも登場する豊饒祈願の形態で普遍のものと思います。
(男根形木製品は唐古・鍵遺跡からも出土)

白猪とか白馬などを供えるのは古来からの狩猟の慣習がはいっているためでこれも普遍だと思います。

また、仏教の影響が長く続けば、生け贄や肉といった具象儀礼は消えてゆくだろうと思います。


高照姫などとの関連については、
大穴牟遅命、大己貴命、大国主命などが同一人物で複数の名を持つのか、別人なのか、素盞鳴尊の六世孫とみるのか、などなど周辺系譜との関係の土俵を整備したうえで論じる必要があると思いますので、略します。


[5350] 巨象動く  神奈備 2004/06/24(Thu) 18:38 [Reply]
安倍貞任を祭神とする神社があります。

茨城県結城郡千代川村本宗道89 宗任神社
由緒の一部
 当社に伝わる安倍系図に、人王一代、長髄彦の兄安日は神武天皇の時追放せられて津軽(東日流 )に住し外浜安東浦を領す。斉明天皇御宇、蝦夷乱る。安倍比羅夫を将軍として差向らる。此時、安日が末葉に安東という者来り我は安日の末葉也と。比羅夫其功を賞して安倍氏を与え同姓とす。

長野県大町市大字平字城浦9700 安部神社

岐阜県美濃加茂市伊深 賀茂神社
ZOUのイメージ歴史館から
http://www1.kcn.ne.jp/~ganes-z/image/kamo.html

なお、ZOUのイメージ歴史館のアドレスは下記に変更されています。
http://www1.kcn.ne.jp/~ganes-z/image/

[5349] Re[5347][5345][5344][5343]: 御歳神=高照姫命?  福島雅彦 [Mail] [Url] 2004/06/24(Thu) 16:13 [Reply]
> 福島さま、興味深いお話ありがとうございます。
>
> > ※御歳神社は東の山裾の洞窟?に立地していませんか。
> > ※泉・出水等、河川の水源的立地では在りませんか。

> 御歳神社の御歳山の東すそに小川が流れています。
> 大雨が降ると大量の雨が道いっぱいに流れ出し危険なので、

> 山には水分がいっぱいで神社下の我が家の庭は
> 真夏でも一度も水やりが要りません。
> 70cmも掘ればバケツですくえるほど水が出ます。
> それで境内はいつもしっとりしています。
>
> ありがとうございました。
> また色々教えてください。

※古代の稲作用水は、出水(泉)であれ、「井」であれ、容易に取り出して低地へ流せる、のを大事にしたと思います。
 筑後平野の筑後川の河畔でも、江戸時代に至って導水路を人工的に作るまでは、水田化が最も遅れたところです。
 簡単に田の引き水が可能な、水源立地を聖地(大地母神)とした、と思います。
「大穴持ち⇒大己貴神」は水源作井の神?か。
自説は、古代製鐡爐(横穴古墳の形体⇒窯)の考案者でしたが…。

[5348] Re[5347][5345][5344][5343]: 御歳神=高照姫命?  葛木御歳神社 [Mail] [Url] 2004/06/23(Wed) 23:01 [Reply]
少し訂正です。
御歳山も岩山だそうです。
川の改修工事をする前は、大雨が降ると土石流が出るほどだったそうです。
洞窟もお守りしていなければ消えてしまうかもしれませんね。

[5347] Re[5345][5344][5343]: 御歳神=高照姫命?  葛木御歳神社 [Mail] [Url] 2004/06/23(Wed) 22:28 [Reply]
福島さま、興味深いお話ありがとうございます。

> ※御歳神社は東の山裾の洞窟?に立地していませんか。
> ※泉・出水等、河川の水源的立地では在りませんか。

御歳神社の御歳山の東すそに小川が流れています。
大雨が降ると大量の雨が道いっぱいに流れ出し危険なので、
10年程前に自然の川をコンクリートで改修されました。
それ以前には、川の途中1mくらいの範囲で池になった水底から、
ぽこぽこと水が湧き出ていました。
今はコンクリートのせいで7,8mほどの池になっています。

神社は御歳山を背後にして、北向きに建っています。
神社は山の中心から、東にずれた位置(山裾?)に建っています。
何とも言えませんが、
その奥は先日お話したカナ山で、自然の洞窟の存在はわかりませんが、
鉄と銅の鉱山で採掘跡はあります。

考えてみれば、当てはまるような。。。?
ちょっとひかれる話ですね。

御歳山の方はなだらかな山です。
御歳山には岩肌はなくやわらかい土肌の山です。
洞窟はないと思います。
昔は松がたくさん生えていて今以上に美しかったそうです。
現在は虫害で松は殆ど枯れてしまいました。
(マツタケもたくさん出来たそうです!)

山には水分がいっぱいで神社下の我が家の庭は
真夏でも一度も水やりが要りません。
70cmも掘ればバケツですくえるほど水が出ます。
それで境内はいつもしっとりしています。

ありがとうございました。
また色々教えてください。





[5346] Re[5345][5344][5343]: 御歳神=高照姫命?  神奈備 2004/06/23(Wed) 18:22 [Reply]
福島さん ありがとうございます。

> ※御歳神社は東の山裾の洞窟?に立地していませんか。
> ※泉・出水等、河川の水源的立地では在りませんか。

葛木御歳神社の東川さんからお答えがあろうと存じますので、御歳神を祀る他の神社について若干。

http://www.genbu.net/data/izumo/mitose_title.htm
出雲大社境外摂社神大穴持御子神社
 出雲大社の北側の八雲山にには、八雲の滝があり、その側に穴の写真が掲載されています。また滝は大社内を流れる素鵞川の上流にあたるのかも知れません。

http://www.geocities.co.jp/MotorCity-Circuit/8992/tagata2.htm
尾張国丹羽郡田縣神社
 ここには、珍宝窟と云う祠があります。洞窟ではないのかも。前立腺あたりかな。
 多氏の分族と云われる丹羽氏が祀った神社のようです。
 
> 「高照姫命」⇒高句麗・高氏所属の姫命。
御歳神の由緒に牛馬の肉を供えると云うお話があり、渡来系の雰囲気も感じます。大年神の子に大国御魂神のほかに韓の神などの名も見えます。大年神の系譜は多氏が『古事記』に入れたとの説もあり、古い国津神と渡来系の神とが入り交じっているような印象です。稲作そのものが渡来して来た農法だと云うことでしょうかね。

[5345] Re[5344][5343]: 御歳神=高照姫命?  福島雅彦 [Mail] [Url] 2004/06/23(Wed) 12:17 [Reply]
> …
> 高照姫命も色々な神と同一神と言われています。
> みなさまの考察をお聞かせいただければ幸甚です。

※横から失礼します。一連の皆様の書きこみを興味深く拝読していて…。
以前、Yahooの日本史のトピでの、高句麗の「東明祭」に就いての応答が思い出されました。
 「王都の東の水辺の隧穴(岩屋)に地母神を…」、「東明の祭神は歳神即ち穀神であり…」
等のやり取りの後、朝鮮語の論文(韓國民俗と伝統文化−第10集−民間の信仰と俗信)解読に及びましたが…。解読者が現れず、私が浅学を省みずに、訳しました。
 4.性と俗信
≪本文≫文献に顕れた性崇拝儀礼は「三国志」魏書東夷傳高句麗条に見える。
 この国の東に大きな洞窟があって、隧穴であると謂う。十月に国内の大集会に隧神(訳者註=男根)を迎へて国の東の河岸へ抜き出して祭事を行うと言う。中略
即ち、隧穴は大地母神の女陰であり、木製の隧神は男根である。
従って、隧神の祭儀は男神・女神の交媾祭儀を通じて、秋収の感謝と共に翌年の多産と豊饒を祈願する全国的祭儀としての物である。(以下略)

 御歳神⇔高照姫命 からの連想でしたが…。
「歳神」⇒収穫祭。
「高照姫命」⇒高句麗・高氏所属の姫命。(天照大神=天所属の神と対抗か?)
※御歳神社は東の山裾の洞窟?に立地していませんか。
※泉・出水等、河川の水源的立地では在りませんか。
 高句麗・高麗・熊からみも連想されました。

[5344] Re[5343]: 御歳神=高照姫命?  葛木御歳神社 [Mail] [Url] 2004/06/22(Tue) 23:42 [Reply]
神奈備さま、御歳神を取り上げてくださり、ありがとうございます。
私自身は古代史初心者ですので、何も考察できませんが、読んだ物の紹介を少し。

平林章仁氏の「三輪山の古代史」の3章「御歳神の怒り」でかなりのページを割いて
考察してあります。
そこでも結論は御歳神=高照姫命でした。

御歳神が一般に男神だと思われているのは、古語拾遺に
「時に御歳神の子、その田に至まして、饗に唾きて還りまして、
ありさまを父に告げましき。」
と御歳神の子神が「父」と言っているからです。
しかし、御歳神の子神が誰なのか記述は一切ないそうです。
ですので、この一文は書いた人が、単純に父だと思い込んだに過ぎないとしています。
反対に、大地の神は、圧倒的に女神が多い。
また、男根を置くのは神を和ませるためだと古語拾遺の注釈に書かれています。
本は今図書館ですので、この表現の古文は忘れましたが…

また古語拾遺には、当時の祭祀の不備についてのいくつかの話の後、
最後に御歳神の話を付記の形で付け加えてあります。
これは、御歳神の話は有名で、これを加えることにより、
その前の話の正当性を高める意図があったと平林氏は述べています。

高照姫命も色々な神と同一神と言われています。
みなさまの考察をお聞かせいただければ幸甚です。



[5343] 御歳神=高照姫命?  神奈備 2004/06/22(Tue) 22:23 [Reply]
この前葛木御歳神社の方がHP発信のお知らせ方々の書き込みを頂きました。
http://www.geocities.jp/mitoshijinjya/
『古語拾遺』は原本に近いものが残っているのでしょうが、それにしても御歳神に付いての記述は異常と云うべき存在です。目次的にざっくり紹介しますと下記のようです。
天地開闢から聖武天皇の時代まで記紀に似たような話に忌部氏独自の伝承をまじえた記述があり、続いて忌部氏に伝わる伝承を紹介し、突然御歳神のお話が出てきます。別段祖神と云う訳ではありません。唐突なのです。

御歳神とは現在の「お年玉」として正月の催しに残っている神で、御歳命と人格神の呼称は見あたりません。男根を好むようで女神のようで、豊受姫、宇賀御魂、高照姫などと同一視する論もあるようです。

出雲国出雲郡の式内社に同社神大穴持御子神社があります。同社とは今の出雲大社。ここの祭神は事代主神 配 御年神、高比賣命。
http://www.genbu.net/data/izumo/mitose_title.htm

飛騨國大野郡の水無神社の祭神についても、高照光姫命(神名帳頭注)と云う説や、御歳神(三澤記、神名帳叢説)とあります。

葛木御歳神社の祭神は御歳神 配 大年神、高照姫命となっており、これが出雲に影響を与えたようで、そうすると水無神社にもとも思われ、御歳神=高照姫命の震源地は葛木の御歳神社のようですね。

[5342] Re[5334][5332]: 目印と象徴  かたばみ [Mail] [Url] 2004/06/22(Tue) 21:19 [Reply]
≫NG品ならば、割れても可。鋳直すならば、なお好都合ですね。

検査する人(型造り?)、鋳る人、単純労働者、などなど分業になっていないならば、そういうこともあるでしょうね。
仮に親方と弟子がいるなら力仕事は弟子の役目で、親方がやるのは印をつけることだけでしょう。


ちょい失礼して。

加茂岩倉、いろいろな種類の銅鐸が混じっています。
神庭荒神谷の銅矛も異なる形式がまじっています。

生産地の異なるであろうもの、年代の異なるであろうもの、それが混在している。
これを説明するには修理ないし破棄のために持ち込まれたと考えるのがもっとも簡明じゃないか。
他には見られない形式のは地元産かもしれない。


正月に使った松飾りや前年のお守りなどは所定の場所ないし手続きを経て燃やします。
銅鐸や銅矛も同じ。

神が宿る祭祀具であれば修理するにも破棄するにも、神にそこから出ていただかねばならないのは当然だと思います。
それを行うために保管していた場所。

出雲国風土記、大原郡神原郷
古老のつたえていえらく、天の下造らしし大神の御宝を「積み置きし」ところなり。


[5341] Re[5337]: よろしくないので       神奈備 2004/06/22(Tue) 16:14 [Reply]
いばらの紀氏さん こんな事はここに書きたくはありませんが、メアド不明故に失礼を承知の上で。

> 神奈備 さん、大変申し訳の無い事を致しました謹んでお詫び申し上げます。
ありがたいことに多くの方々に見ていただいている掲示板です。貴殿の気になる事をだらだらとこれだけ羅列されるのでしたら、自前の掲示板を開設して下さい。迷惑です。

八面大明神社、兵庫県高砂市にある生石神社。生石神社と八面、どう関係するのですか?よくわかりません。解説をお願いします。

> 片埜神社、(計13神 13の数が気になります。)
後世に近隣の神社を合祀しています。馬鹿馬鹿しい書き込みはおやめ下さい。

> 「三囲神社」(みめぐりじんじゃ)三井家・三井寺(円城寺)との関係?気になります。
気になるのなら、自分でお調べになってから発表して下さい。

> 根拠の無い(薄い)推定や妄想のための掲示板が用意されています。
そう言うことです。

[5340] 書き忘れ  玄松子 2004/06/22(Tue) 15:27 [Reply]
根拠の無い(薄い)推定や妄想のための掲示板が用意されています。

青草掲示板 「多に蛍火の光く神、及び蠅声なす邪しき神有り。復草木咸によく言語有り。」
http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/kotbbs.cgi

[5339] 瞑想  玄松子 2004/06/22(Tue) 15:21 [Reply]
瞑想・・・ですか。

最近は、瞑想・妄想・妄執の書き込みが多いですね。

[5338] 無題  YTK 2004/06/22(Tue) 12:47 [Reply]
玄松子 様

 早速のご質問にたじたじです。

>「家系と紋章」の書籍を多数書かれている丹羽氏は、家紋が「×」印だということでした。
>→ 丹羽氏の紋(直違紋)は、戦場で血の付いた刀を布で拭ったときに出来た模様で、秀吉に、家紋にせよと命じられたとか。

 そのような経緯で、家紋がつくられたとは知りませんでした。
 
> 四国徳島の忌部氏も「×」印を家紋としているはずです。
>→できれば、こちらの出典を教えてください。
> 同氏関連の神社には、×印をたくさん並べています。
>→こちらについても、どの神社のことか教えてください。

 確実なデータをもとにしたものでない推定で申し訳ありません。
 平成14年の歴史研究会徳島大会でバスツアーした際、天石門別八倉比売神社に
参ったとき、古墳の上にある5角形の台石をもつ祠前で、瞑想していると、どういうわけか「×印」のイメージがわき上がりました。 ×印がどういう意味をもつのか考えながら、ツアーを行う内、阿波から麻植郡山崎の忌部神社に向かう途中で立ち寄った忌部氏関連神社の頂部屋根瓦の前面に「×印」を横に並べたのが見つかりました。そこでこれぞ回答かと、忌部氏の紋と推定してしまいました。
 神社名は記憶が薄れており、残念ながら記載できません。
 ただ、×印は、銅鐸の印を含めて、物部氏や忌部氏に関係があるのではないかと考えています。

[5337] よろしければ情報をください        いばらの紀氏 2004/06/22(Tue) 11:34 [Reply]
神奈備 さん、大変申し訳の無い事を致しました謹んでお詫び申し上げます。若葉マークですのでこれからも宜しくご指導下さい。

以前より気になるネーミングの神社があります。
方位のない地にある神社「方違神社」(堺市の地名三国ヶ丘の"みくに"の名は,三国の境(河内・和泉・摂津)に由来するそうです。
方違神社は,方位のない地にある神社であることから方除祈願(旅や転居の厄除け)の神様として有名だそうです。
(地名に三国(ミクニ・サンゴク)・見国・国見が付く地名や山・峠・半島などは特別な三角点と考えられます。)

天皇陵(はんぜいてんのうりょう)別名,百舌鳥耳原北陵(もずみみはらきたのみささぎ)・田出井山古墳
(たでいやまこふん)の北に位置し,その北側には,古くから堺と大和(奈良)を結んだ長尾街道(大和街道)に面しているそうです。

八面大明神社
兵庫県高砂市にある生石神社の御神体は、採石場の一角の地山の三方を深く削りとり、
地盤を直方体状(倒れた家形?)にした重量が500トンもあろうかといわれる巨大な石造物だそうです。
(八面からダビデの星の八角形を連想します。香取神宮などは亀甲型の六角形です。)

片埜神社
交野台地の一角、牧野阪に鎮座する当社は、延喜式内社の古社であり、
スサノオ・菅原道真を主神として他十一柱の神々を奉祀している。(計13神 13の数が気になります。)
(八嶋士奴美神・八幡大神などの八=世界を感じます如何でしょうか。)

「三囲神社」(みめぐりじんじゃ)三井家・三井寺(円城寺)との関係?気になります。

「石位寺」 鏡王女などの墓があるといわれる「石位寺」(辺くの舒明帝陵との関係が気になります。)

「八千矛神」(大国主命?)を祀る神社(八千矛の「鉾ホコ」が測量器具と妄想してます。)

小和田神社(和田が地名が全国に多い事から気になります。)
正法寺山古墳公園ー正法寺山ー小和田神社のラインと・正法寺山ー正法寺のラインの関係?。
よろしければ情報をください      紀氏でした。

[5336] Re[5328]: 教えてください 米国の米とは?  神奈備 2004/06/22(Tue) 08:31 [Reply]
いばらの紀氏さん、おはようございます。

> 「十三」の付く地名に米国の建国の東部「十三」州がありました
> 十三湊の「十三」ですが「十三日の金曜日」はキリスト教・ユダ?

このような書き込みは神奈備掲示板には似合いません。
隣の青草やよそでお願いいたします。

[5335] 御存知の方、お願いいたします。  いばらの紀氏 2004/06/22(Tue) 01:00 [Reply]
かたばみさん、情報有難う御座います。

私に島根県太田市の佐比賣山神社と八面大明神社東の土中(古墳?)の土地カンが無いので
何方か御存知の方が居りましたら、この二点を直線で結び両端から内側の60度の正三角形を描いてください。
交わる点が沼地(池か橋・祠・岩・?)ではの妄想をいだき確認したい気持ちでイッパイです。
(山頂・寺社・名所旧跡・学校などの公共施設・辻などが1辺の長さ約500m〜600m正三角形などが測量に関係?)
行基関連の経塚などは、ほとんど中世に盗掘いや公けに掘り出されてしまったそうです。(寺社やお堂の下にまだ?)
この妄想を現実とすべきとのトラウマに取り付かれている紀氏です。

[5334] Re[5332]: 目印と象徴  玄松子 2004/06/21(Mon) 22:11 [Reply]
> ≫ヒレを曲げるとか変形させる方が簡単なような
> 硬い青銅をあの形態で変形させるのはたいへんだと思います、おそらく割れる。

NG品ならば、割れても可。鋳直すならば、なお好都合ですね。

[5333] Re[5325][5319][5318] 長江洞庭湖の青銅器埋納  かたばみ [Mail] [Url] 2004/06/21(Mon) 20:50 [Reply]

≫殷周時代青銅器の長江洞庭湖近辺の埋納の話なんですね。

これに関する中国側の発掘報告書を取得(公開)してほしいと思っています。
素人がわいわいやるとうるさいのかな(^^;

海人系文化と共に弥生へ影響を与えただろう内陸系文化として楚文化→山東半島→日本への流れを考えているので特に注目しています。


[5332] Re[5324][5318]: 目印と象徴  かたばみ [Mail] [Url] 2004/06/21(Mon) 20:42 [Reply]
祭祀と破壊と傷、面白そうなテーマですが、その最初の可能性は縄文の土偶で後には破鏡か。

体に傷をつけるなど苦痛をもって神の注意をひこうとすることがあるかもしれないけど、手が回らないので今のところパス。

≫ヒレを曲げるとか変形させる方が簡単なような

硬い青銅をあの形態で変形させるのはたいへんだと思います、おそらく割れる。
同類の真鍮は硬いけれど削るには快適な材料で、タガネでチョンチョンが最も簡単と思います。



[5331] Re[5322][5318][5293][5287]: 目印と象徴  かたばみ [Mail] [Url] 2004/06/21(Mon) 20:38 [Reply]
≫石上神宮の一の鳥居の横に甕が埋められていたそうです
≫境界を守ると云うことかも知れません

石上神宮の甕はなにかで聞いた記憶がありますが、神奈備さんだったかも。

「上代寺院建築の中門を貫く中心線上に大きな甕が・・」とあるので、鳥居と中門は同じ意味になるかもしれないですね。
ここでの甕は播磨風土記に同じくで境界を示す、が妥当かなあ。

しかし甕だと掘り出されても壺が出た、だけで終わってしまいそう。

島根県太田市の佐比賣山神社の1775年にお上に提出した記録に、
「往古に天から三つの瓶が降り、そのひとつが佐比賣山の神なり・・二は沼地に沈み納まり・・三は八面大明神社東の土中に埋もれ納った・・」
とあるそうです(畑作の民族/雄山閣)

瓶が降ってきて神になり、沼に沈み、土に埋もれた・・これは境界じゃないですね。
八面大明神社は現在の八面神社とみえますが、その東をだれか掘らないかなあ。


≫遺骸を入れての埋葬はそうするのでは

甕棺のことだと思いますが、水平近くに置かれるのは中身の問題だろうなあ。
死者は横たわるべし、坂上田村麻呂は例外(^^;


まるっきり余談
ベテランの大工さん(あるいは古風な大工さん)は柱をたてるとき、その材の根だった側を下にして使います。
具体的な損得はないようですが、逆さに使うのを逆柱といって嫌います。
おおげさにいえば自然界のありように従う、そういう感覚からじゃないかと思っています。

杉やヒノキなら節でおおよそみわけることができます。
節の中心は節の真ん中ではなく偏っています、上側に偏っている柱なら正解です。
(枝は垂れ下がらないように下側の方がより太るためらしい)
もし古い家であれば柱の節、ご見聞あれ。


[5330] Re[5320]: 戸と瓮」は酒の文字  かたばみ [Mail] [Url] 2004/06/21(Mon) 20:29 [Reply]

≫「丹波と播磨の国に境するときそこに大甕を埋めて境とした・」は、測量での三角点では?

古代技術をあなどれませんが、過大評価するのもあぶないですね。
弥生あたりで位置あるいは方角が重視されたとすれば日月星辰との関連だろうと思います。
(距離は歩いて3日、で十分と思う)

どのように埋めたのかはわかりませんが埋めたら目印にはならないと思うのです。
道祖神とか結界といった呪器の意ではないかなあ。


≫「可」や「司」の字形は黄河の生け贄となった禹の父「口」コウとの幻想をいだいています

これらは言語の専門家でもむずかしい問題だろうと思います。
私も楽しみますが、楽しみまでにとどめています(^^;


[5329] 「瓦」です。スミマセン  いばらの紀氏 2004/06/21(Mon) 19:28 [Reply]
?の付く漢字は「瓦」です。スミマセン

 ×印を家紋にもつ家系ですが変形の×印の家紋は沢山有ります、家紋の変容(複数の家紋をもつ家系があります。)
 
 海賊の旗印の骨の×印にも つながるかもしれません、広げ過ぎました。

[5328] 教えてください 米国の米とは?  いばらの紀氏 2004/06/21(Mon) 19:09 [Reply]
ペギラさん銅鼓関連、歴博のサイト情報有り難う御座いました。銅鼓や銅ほこの紋様に30度・60度・90度の
角度が現されていました。当たり前に思えますが、古代人にとって正確な角度を描くことは高度な幾何学の
知識が必要と考えます。古代遺跡の埋蔵物には、さりげなく角度がカバラ的に隠されています隠し絵のように。
(私は、祇園の山ほこの矛(鉾)も三平方の定理による測量器具と考えています。)

YTKさんの「×」印が十字の変形に情報は私も以前に知りましたが情報が何処からだったか見つかりません、
教えて頂ければ幸いです。シュメールの神の5番の数は中国と同じで以前よりどちらが先かと?デス。
(内容的、ギルガメッシュ・旧約聖書・ギリシャ・中国神話) 夏の禹は中東からの流れを感じます。

「十三」の付く地名に米国の建国の東部「十三」州がありました、もしモーゼの民が西方へも向かったら?
私は漢字の「田」は地図と考えており「米」の字も東西南北と測量での目印「✞クロス」が現されていると思います。
ヨーロッパでは、角度を貝のシェル(帆立貝)で現した伝道の道?(教会も地図創りの三角点)も禹のタオ(道)
と同じではの妄想をいだいおります。どなたかアメリカがなぜ「米」国なのか教えて頂ければ幸いです。

「銅鐸」は出雲族系の測量の道具と考えています、出雲族も田図などの測量をしていたそうです。
銅鐸に四つの穴の開いている物は、太陽の位置で月日や時間を知ることが出来たらしいです。
「日本書紀・天智天皇・十年 」に「夏四月、始めて漏刻・鐘鼓を置く」と有ります。
年代に疑問が有りますが、水時計とその時刻を知らせる銅鼓が銅鐸の仕事を奪ったのでは?

「銅鐸」に上部の形が京瓦(鬼瓦?)に似ています。建物(三角点)の向きを30度・60度・90度に
正確に建てれば測量がしやすいのでは?(鰹木も、もしかしたら測量器具?)
の付く漢字には、数量を定めた文字が多数あります。始皇帝の時に定められたそうです。
                  妄想を広げる     紀氏です。

[5327] Re[5326]: 「×」印について  玄松子 2004/06/21(Mon) 15:06 [Reply]
> 2.×印を家紋にもつ家系
>  「家系と紋章」の書籍を多数書かれている丹羽氏は、家紋が「×」印だということでした。

丹羽氏の紋(直違紋)は、戦場で血の付いた刀を布で拭ったときに出来た模様で、
秀吉に、家紋にせよと命じられたとか。

>  四国徳島の忌部氏も「×」印を家紋としているはずです。

できれば、こちらの出典を教えてください。

> 同氏関連の神社には、×印をたくさん並べています。

こちらについても、どの神社のことか教えてください。

[5326] 「×」印について  YTK 2004/06/21(Mon) 11:04 [Reply]
 初めて投稿させていただきます。
 銅鐸刻印の×印について、まだ論じられていないか?と思われます事項について、少々記載させていただきます。

1.火山女神の印(川崎真治氏の説)
  ×印は、シュメールの神の5番の数を表しており、火山女神「ニンフルサグ」を意味するそうです。日本では、火山女神は「コノハナサクヤヒメ」として表現されています。火男神「アグニ(インド)、炎帝(中国)、オグニ・ヒョットコ(日本)」に対する、火女神としては日本ではオタフク、オカメになります。
 出雲銅鐸の「×」印は、BC1800年ごろの中国良諸文化が日本に伝わり、AD200年ごろ、火山女神(5=X)を奉ずる意味で彫られたのではないかと川崎氏は言われています。

2.×印を家紋にもつ家系
 「家系と紋章」の書籍を多数書かれている丹羽氏は、家紋が「×」印だということでした。
 四国徳島の忌部氏も「×」印を家紋としているはずです。同氏関連の神社には、×印をたくさん並べています。
  
3.キリスト教会の聖櫃やローソクにも×印が
 この×印は、十字の変形と考えられています。

4.卑弥呼の紋章
 邪馬台国の女王卑弥呼の石像を保管している人が、名古屋におられます。その像に彫られた紋章は、◎と×の組み合わせからできているそうです。

[5325] Re[5319][5318] 長江洞庭湖の青銅器埋納  ペギラ 2004/06/21(Mon) 11:04 [Reply]
すいません。
かたばみさんへのレス、頓珍漢なものでした。

長江洞庭湖の青銅器埋納ってやつは、
殷周時代青銅器の長江洞庭湖近辺の埋納の話なんですね。m(__)m
山頂・山麓・水辺での単独埋納

確かに他の書物に出てきませんね。
タイミング的にも結構イケテル話なんですが。

大まかに縄文と弥生の境目あたり。

[5324] Re[5318]: 目印と象徴  玄松子 2004/06/21(Mon) 00:21 [Reply]
ちょっと思いつきです。(本来は青草ネタか)

> ≫・傷を付ける祭祀はありえないのか?
>
> あるかもしれないですね。
> しかし、それを支援できる情報を持っていないので。
> また、加茂岩倉銅鐸と神庭荒神谷の銅剣だけの×であるならその可能性は低くなると思います。

・どこかの国で、自分自身の身体に傷を付ける祭があったような。
・身体に傷を付ける神事は日本でもあったような。
・神輿などを破壊する祭もあるような。
・諏訪の薙鎌は神木に傷を付けているような。
・NGマークなら、わざわざXではなくて、ヒレを曲げるとか変形させる方が簡単なような。

まぁ。銅鐸ネタはしばらくは・・・

[5323] 「十三」  いばらの紀氏 2004/06/20(Sun) 23:49 [Reply]
 話題となった十三湊の「十三」の付く地名の「十三塚」は、全国に数多くあるそうです。
私が今こうしているのは全国の同じ地名を線で結ぶと ある法則に気が付づいたからです。・・・もどります。

「塚」(古墳)の多い地名は久保(くぼ地?)・河内・和田が特に多く感じますし稲荷・八幡・権現(秦・秦・地神)
などの宗教関係の地名も多いです。十三湊の「十三」ですが「十三日の金曜日」はキリスト教・ユダ?
ユダヤ教?塚や鳥居は行基図の三角点では。   それましたらスミマセン   紀氏でした。

[5322] Re[5318][5293][5287]: 目印と象徴  神奈備 2004/06/20(Sun) 21:25 [Reply]
> 甕ミカの説明文中に、上代の寺院の中心線上に甕が埋めてあることがある、とあります。

石上神宮の一の鳥居の横に甕が埋められていたそうです。境界を守ると云うことかも知れません。甕の中に酒でも入れて埋納と云うことだったのでしょうかね。
石上神宮、今年はまだ参詣していません。行かねば。

> 横倒しにする
遺骸を入れての埋葬はそうするのでは。

[5321] 甘い香りが  いばらの紀氏 2004/06/20(Sun) 15:18 [Reply]
スミマセンまた訂正致します。「真美」を「神」に(ドジな私にお慈悲を下さい。)

「瓮」オウ=開放の意からきている口の大きい甕カメの意。(酒造りのかめ・禹の父の
埋葬された甕棺・【甘】いの文字のモデル。禹が掘り起こした父の甕カメからアマ香りがした。)から

                イバラの紀氏でした。

[5320] 戸と瓮」は酒の文字  いばらの紀氏 2004/06/20(Sun) 14:49 [Reply]
スミマセン訂正致します。 「フレーメイソン」を「フリーメイソン」に、失礼いたしました。

「甕ミカ」は孔子の言う「甕の裏のカツオムシ(?カツオギ?)、小さな羽虫」と言った。〔荘・田子方〕に書かれている、 
「羽虫」と甕「ミカ」から羽=天使 「ミカ」=ミカエル(天使長)の妄想をいだきます。

「斎戸を斎瓮と訳すのかはわかりませんが」の「戸と瓮」は酒の文字に関連があります。
「戸」「下戸」は酒の弱い人で「瓮」オウの「公」の字が「八」+「ム」で「八」=世界=おおやけ
「ム」=「私」-禾へん=禹の体の特徴(足が悪く・せむし)  私は、禹が漢字のモデルと考えています。

私は、白川静氏の「口の字解がサイで真美への祈りの文である祝詞を入れる器」としているが、
甕を埋める祭祀は禹の父「魚系」コン(後の口)が黄河の治水に失敗し「ギョウ」に河の横の堤に
甕に逆さに詰められ生け贄にされたと考えています、中国では「江」を長江・「河」を黄河としています。
「可」や「司」の字形は黄河の生け贄となった禹の父「口」コウとの幻想をいだいています。

先祖を祀ったり、普段の儀礼に使う道具を故人の墓に埋めてしまう理由を林巳奈夫氏は、
商周時代には「死んでもなを自らの先祖を祀る儀礼を執り行う必要が有ったため」と解釈し
自らも死者して生きている子孫に祀られかつ、墓の中で自らの祖先を祀ったというわけ。
              大阪府立弥生文化博物館 「仙界伝説」より

「丹波と播磨の国に境するときそこに大甕を埋めて境とした・」は、測量での三角点では?

     この様な妄想をいだく紀氏ですが宜しくお願いいたします。

[5319] Re[5318] 銅鼓  ペギラ 2004/06/20(Sun) 12:48 [Reply]
銅鼓関連、歴博のサイトにこんなのもあります

http://www.rekihaku.ac.jp/kenkyuu/shinpo/nitta.html

書物としては、近いところの発行ものとしては、
<古代を考える>
稲・金属・戦争
佐原 真 編
吉川弘文館 2002年1月1日 2700円+税

の中の

春成秀爾さんの「銅鐸と社会」のなかでも紹介されています。

まだまだ不明な点の多い銅鼓ですが、
当初銅鐸と同じような埋納かも?と取り上げられてきたが、
最近の発掘例では、古墓からのものが増加してきている。

単独で土中に埋納されるやりかたは、
型式から推測できるのは、5〜9世紀と墓に副葬されていた時代より新しいものとなる。

このことだけで、すべてを言い切ることはできませんが、
銅鼓の場合、
副葬品から始まり、その後威信材として土中に埋められるという方向に見える。



[5318] Re[5293][5287]: 目印と象徴  かたばみ [Mail] [Url] 2004/06/20(Sun) 11:03 [Reply]

≫・銅鐸は神への供物なのか?

その疑問へのヒントが長江洞庭湖の青銅器埋納であり、楚文化にもそれがあり、さらには山東半島にもそれがあった、という情報にあると思うのですがいまのところ詳細がわからない。
情報探索中。
これについて書いているのは長江文明の発見/徐朝龍と字訓/白川静しか知りません。
ずいぶん前から知られているはずなんですけどね。

播磨風土記/託賀郡:丹波と播磨の国に境するときそこに大甕を埋めて境とした・・

万葉379:
久堅之 天原従 生来 神之命 奥山乃 賢木之枝尓 白香付 木綿取付而「齊戸乎 忌穿居」 竹玉乎 繁尓貫垂・・・「斎瓮を 斎ひ掘り据ゑ」・・(なぜ斎戸を斎瓮と訳すのかはわかりませんが)

字訓:
甕ミカの説明文中に、上代の寺院の中心線上に甕が埋めてあることがある、とあります。
(これがどこの寺かご存じあるかたいらっしゃらないかなあ)
また、殷時代の江南に山麓に大鐃を埋める風習があるともありますが、これは洞庭湖の青銅器のことと思います。

甕を埋める祭祀(慣習?)があったのは間違いないところで、銅鐸埋納をこれにつなげて考えるなら供物というより神器(呪器)をそこに配置するといったことになりそうです。


≫・傷を付ける祭祀はありえないのか?

あるかもしれないですね。
しかし、それを支援できる情報を持っていないので。
また、加茂岩倉銅鐸と神庭荒神谷の銅剣だけの×であるならその可能性は低くなると思います。

≫たとえば、神霊を宿した印とか・・・

これは上に同じです。

≫仮にNG品、不要物の印であったとしても、鋳直す材料かどうか

×が不良品の印であったとしても、鋳直す材料の印である、にまで拡大解釈(絞り込み)はできないと思います。
当時で使えるものを捨てたとすれば、土器くらいじゃなかろうか。

×があろうがなかろうが、不良品は「すべて」再利用するのが当然で、これは論を待たないと思います。
鉄器でも同じでしょうね、使用中に折れたり欠けたりしたもの、当然ながら再利用だと思います。

≫埋める理由は何なのか?

まさにそこです、私の疑問も。
銅鐸埋納とされるすべてが隠匿として埋められた可能性も捨てきれません。
出土状況が祭祀に適する地というより隠匿に適する地と感じるんですね。私には。
(密集して出土する近くには生産拠点があるんじゃないか→鋳型)

前出の甕を埋める場合に横倒しに埋めるという情報を知りません。
垂直であったものを横倒しにする、安直あるいは事務的を感じてしまう。
(垂直に埋められていた銅鐸はあるのだろうか)
洞庭湖でも開口部を上にして垂直に埋めているそうです。

また、これだけ広範囲での祭祀であれば、そういう祭祀痕跡が後世に残っていてよいはずなんだけど。
それが、甕を埋める祭祀になっている可能性もあるのですが、この慣習の調査も必須だと思っています。



そして・・銅鐸祭祀を行ったのはどういう人々か、という基本的な疑問です。

銅鐸分布は広範囲、銅鐸を用いた人々の勢力は尋常ではない。
どういう人々の祭祀具であったのかをまずは考えねばなりません。

これは日本全体の弥生の流れを推定しないと不可能、むろん年代も。
出土物だけでの考察じゃ無理だと思います。神話や伝承の助けを借りなければ。


で、私の基本線は弥生後期の出雲は大和に中枢があった、です。
これは銅鐸を説明するためではなく、素盞鳴尊、天孫降臨、神武東征、などなど日本全体の弥生のありようの推論から生じたものです。

で、その流れの中に銅鐸も包含できる。
ある時期に出雲は崩壊し、祭祀具を破棄せねばならなくなった。
加茂岩倉の保管されていた銅鐸や銅剣がそれである、だが・・再起も考えて(^^; 土中に埋めたのではないか。

不良品もひっくるめて。
(他地域のすべての銅鐸も同時期に隠匿で埋められた可能性もある)
新支配者によって破砕された銅鐸もあるでしょう。

西のほうが古いタイプで奈良、愛知と東へ新しい形式かつ大型化するようですが、西から出雲が他勢力に押されたために西には新型(大型)が供給されにくくなっていったためと考えることもできます。

などなど、銅鐸という事象をひっくるめて包含することができる状況とは、ということなのであります。


[5317] 「×」についてですが  いばらの紀氏 2004/06/20(Sun) 09:08 [Reply]
スミマセン、渡来人がユダヤ・景教徒でフレーメイソン的目的を持っていたとの考えを持っています。
現在研究は漢字の字解をしていますが、漢字には、夏カ王朝の「禹」ウ カノウと「測量」と「旧約聖書」の
係わりが覗えました。中国仏教も「景教」の影響を受けています。「古墳のこころ」という本を読んで観てください。
私の妄想が皆様の疑問の解明のヒントとなれば幸いと考え参加させて頂いています。表現力が乏しいところは
お許しください。


「×」についてですが、甲骨文字の「刈」るは「×」ですし「××」重ねた文字は、交(コウ・まじわる)です。
「刈」は、刃もので刈り取る「収穫」をイメージします。交(コウ・まじわる)は私の考えですが、
「亠」トウズ 計算カンムリ(なべぶた)は、天の神「主」を現し「八」は「世界」で「×」は選ばれた「もの」?
「刈」るの「×」は選ばれし「生け贄」収穫時かな?と考えます。   イバラの紀氏でした。


[5316] Re[5315]: 昔は銅鐸・今は鏡の測量  神奈備 2004/06/19(Sat) 22:51 [Reply]
いばらの紀氏さん こんばんは。
何をおっしゃりたいのか、よくわかりません。

> 論題ごとにまとめていただければ幸いです。

議論ごとにお書きいただければ幸甚です。

[5315] 昔は銅鐸・今は鏡の測量  いばらの紀氏 2004/06/19(Sat) 22:37 [Reply]
 「昔は銅鐸・今は鏡の祭り」は良い考えだと想います。昔の測量器具は銅鐸・今測量器具は
鑑(鏡)カバラでの測量器具には(鑑・銅剣・矛・盾・旗・太鼓・銅鐸・埴輪・鼎・鳥居など)
 カバラの性質上、裏の使用方が有り 特に宗教などに・・・・私的に古墳には墓のイメージが強いですが、
ピラミッドは墓でしょうか、天と地の接点では・宇宙のエネルギーの貯蔵施設?・測量での目印・蘇り?
【蘇】(邪蘇ヤソ・キリスト)よみがえりの場では?古墳も同じと考えます。古墳内部の構造が女性の性器を
模した石組が有ります、古代人には【穴】の思想が有ります。(詳しくは、【古墳のこころ】で検索して下さい。)
 穴に戻すことで蘇生いや生まれ変われる思想です。(キリストの様に)最近まで葬儀までの三日
三日(よみがえりの可能性あり)火葬しない・土葬での埋葬後の三日(土中に竹筒を刺しひつぎ内の音を聞きに通う
風習が残る地域が在った。)銅剣・鑑カガミ (刃物などは現代でも魔よけとして死者に乗せる地域が在る。)
銅鐸は私的に出雲に渡来し測量に使用していたが、新しい測量技術の流入により穴(母なる台地)に戻す
ことで生まれ変わりを願ったのではと考えます。昔の高僧の即身成仏(天界からの霊的支援の為)や修験道の
山入り(現世利益の思想) 宗教には二つの流れが存在します。     私は途中参加でこれまでの経緯が
不勉強でスミマセン、論題ごとにまとめていただければ幸いです。神奈備掲示板での熱い討論への参加・
  サンカ扱いでは・・・・いや、私の心の中にも有りました。    精進 精進の紀氏でした。

[5314] Re[5313]: 十三  玄松子 2004/06/19(Sat) 21:23 [Reply]
> さて、青草で話題となった十三湊ですが、トサの語源としてはアイヌ語のト・サム(湖のほとり)だと下記にありました。
> http://apti.net.pref.aomori.jp/miti/mt-gos.html
> 地形としましては、ドンピシャリ。

十三が「湖の畔」だとすると、湖そのものには別の名があるということでしょうか。
「湖の畔の湖」というのも変な感じですから。

http://homepage1.nifty.com/forty-sixer/kanagaki.htm
こちらには、「戸狭」という漢字があてられています。
地形としましては、ドンピシャリ。

> 四国の土佐ですが、この海岸は遠い浅瀬になっているのでしょうか。

高知の浦戸湾も、入口が狭い湾ですね。
http://www.mapion.co.jp/c/f?grp=all&uc=1&scl=250000&el=133%2F33%2F43.946&pnf=1&size=500%2C500&nl=33%2F30%2F45.112

個人的にはアイヌ語であるほうが面白いと思います。

[5313] おわび  神奈備 2004/06/19(Sat) 20:47 [Reply]
掲示板をご覧頂いている方々にはお見苦しい所をお見せいたしました。席亭といたしましては不寝の番でもする夜でしたが、若干のアルコールでダウンいたしておりました。ご容赦下さい。

さて、青草で話題となった十三湊ですが、トサの語源としてはアイヌ語のト・サム(湖のほとり)だと下記にありました。
http://apti.net.pref.aomori.jp/miti/mt-gos.html
地形としましては、ドンピシャリ。
このHPにはしばらくはご無沙汰したい銅鐸は出土していませんが、森田村と云う村もあるんですね。

十和田湖のトなんかもそうかも知れません。アイヌ語のトー(湖)ワタラ(岩)。

四国の土佐ですが、この海岸は遠い浅瀬になっているのでしょうか。

[5312] ウンザリ  神奈備 [Mail] 2004/06/19(Sat) 07:42 [Reply]
邪馬台国はどこだ さん。おはようございます。

最近のあなたの書き込みですが、多く人は読み飛ばしているのでは。小生もヤメました。

あなたはあなたのお考えを一方的に披露されており、読んでいる方々への配慮もなく、またせっかくの提出された疑問に対して答えて理解をしていただく努力もされず、読んでいる者としてはいい加減ウンザリです。

邪馬台国はどこださん 残念ながら貴殿はこの掲示板には向いていないようですね。

これ以上書き込みをされたいのでしたら、一度席亭にメールを頂けませんか?

[5311] Re[5308]: 邪馬台国はどこださんへ2  邪馬台国はどこだ 2004/06/19(Sat) 02:15 [Reply]
>>>
> 私は邪馬台国の初期は九州説をとります、ヤマタイ国の【ヤ】にはもう一つ【耶】の文字が存在します。【耶】は耳の里、耳で【麹】主+処+菊(海外では古代ユダヤ神殿の嘆きの壁の菊の紋章・エルサレム神殿の門) 【耶】は耳の里、耳は聞く・キク・菊で菊の里=菊地(九州の菊地)【馬】(騎馬民族)【台】(測量台)と考えています。耶蘇教ヤソ(キリスト教)【蘇】は蘇我氏の【蘇】で【邪】よこしまは夏の禹の性格です。「犬の耳のはえた蛇」や「鹿の角のはえた蛇」のトーテムは、後漢代に山東半島の琅邪あたりから九州に渡来したユダヤ系苗族の菊池一族(日本名)では?の妄想をいだいています。             紀氏でした
>>>

邪馬台国は行程記事から北部九州しかないでしょう。
総行程12000里で伊都国までで10500里では
平原弥生古墳から1500里=約66Km以内になってしまう。

銅鐸が魏志倭人伝に出てこないのもその傍証でしょう。
邪馬台国が畿内ならば
銅鐸の有るAD180年頃の倭国大乱も
大木に銅鼓を掛けて祭る風習も記述した
魏使が銅鐸を見逃すはずが無い。
どういう祭りをしているか質問すれば終わりですから。
昔は銅鐸・今は鏡の祭り、なら畿内説も有望ですが、
そうは書かれていない。

[5310] あれー  邪馬台国はどこだ 2004/06/19(Sat) 02:06 [Reply]
祭祀上も火災上も
土中の埋納・保管が合理的だと
書いたと思うがなー?

保管に一定の法則があるんだから
しょうがない。
鰭を上下にして砂と粘土の層を交互に掛ける
加茂岩倉や岡山の高塚銅鐸を
みれば意図的に埋めたとしか言えない。
あわててとか廃棄というのは不自然だ。

銅鐸の回りに掘建て柱があれば
そこが共同体の社だと考えるしかない。

簡単な話しだよ。

[5309] 心の翼 〜素晴らしき学者たち  恋川亭 2004/06/19(Sat) 02:03 [Reply]
『アナトリア発掘記』 カマン・カレホユック遺跡の二十年
大村幸弘:著、NHKブックス:刊、870円。

あのッ!大村センセイですッ!!
 名著『鉄を生みだした帝国−ヒッタイト発掘』(NHKブックス)の出版から20年。その後の感動の続編です。前著の青春の彷徨も泣けたけど、今回はまた別の格別の味わいです。飲みながら読める、読みながら飲める(不健康やな)。学者の苦労、裏返したら「うらやましさ」かも。
 ちょっと歳とれば判るけど、どの業界にも一部おかしな連中が居るのは常識です。その一部を一部として取り上げるのは構わないのですが、さも全体がそうであるかのごとく扱うのはアンフェアですよね。学者の世界も同様。素晴らしい先生方も、またいらっしゃると思います。(もっとも日常的に接する場合は著作と異なるのも当然ですが。世界の偉人でも家に帰れば宿六扱いとかネ・・・笑)
 870円、昼食抜いて買い読む値打ちは十分過ぎるほどです。トルコの古代史ですが、日本の古代史に興味のある方なら必ず得るところがある・・・かも。ひたむきなところが。
 銅鐸についてカキコする予定でしたが、チョット引いてしまいました(シャイだからネェ)←ヨウイウワ〜。明日に持ち越しで逃げます。<(__)>

[5308] 邪馬台国はどこださんへ2  いばらの紀氏 2004/06/19(Sat) 01:57 [Reply]
私は邪馬台国の初期は九州説をとります、ヤマタイ国の【ヤ】にはもう一つ【耶】の文字が存在します。【耶】は耳の里、耳で【麹】主+処+菊(海外では古代ユダヤ神殿の嘆きの壁の菊の紋章・エルサレム神殿の門) 【耶】は耳の里、耳は聞く・キク・菊で菊の里=菊地(九州の菊地)【馬】(騎馬民族)【台】(測量台)と考えています。耶蘇教ヤソ(キリスト教)【蘇】は蘇我氏の【蘇】で【邪】よこしまは夏の禹の性格です。「犬の耳のはえた蛇」や「鹿の角のはえた蛇」のトーテムは、後漢代に山東半島の琅邪あたりから九州に渡来したユダヤ系苗族の菊池一族(日本名)では?の妄想をいだいています。             紀氏でした

[5307] Re[5290][5287]: 目印と象徴  かたばみ [Mail] [Url] 2004/06/19(Sat) 01:37 [Reply]
邪馬台国はどこださんへ

≫そういうことだ。

冗談ではありません。

私は埋めたのは隠匿ではないか、事情があって埋めたのではないか、と考えているのです。
その状況の図をだして、これが祭祀だろうかとしたわけです。
対して銅剣に×がある、だから銅剣と銅鐸は別だ、と邪馬台国はどこださんはいわれたように解しています。

そこで、再利用しようとするならなぜ埋めるのか、という疑問を提示しました。
また×のある銅鐸も一緒に埋められたわけで、それを選択的に掘り出して再利用するのは不自然とも提示しました。

それに対する邪馬台国はどこださんの考えはないようでうが、それはおいて・・

単に保管するだけなら埋める必要はない。
なぜ×もそうでないものもいっしょに埋めたのか。
祭祀で埋めるなら傷をつけて使うことは考えにくい。

これらを満足できるのは加茂岩倉では祭祀で埋めたのではなく、なんらかの事情があって埋めた、そうみるのが単純明快。
そう考えているのです。
ならば×は単純に不良品マークとみてもよいだろう。

そういう全体としての推論なのです。
そういう推論の一部だけを取り出して利用されると、たいへんに迷惑です。

とりいそぎ・・


[5306] Re[5275]:僕もウィットが欠けてウェットなの  恋川亭 2004/06/19(Sat) 01:31 [Reply]
いや、飲みすぎでウィ〜ッと、だったりウェ〜ッとだったり。節制、節制、摂生!

> > 諸外国の情報謀略に騙されず普通に日本人として生活してきたならば、云々

思いっきり煽っちゃいましたネ!スミマセン(^^)ゞ
そう、煽りですってば。ゴメンチャイm(__)m

×印の意味に『「封じ」・柵・「締め」・紐・武器を打ち合わせた形・道路標識・ゴーストバスターズ(笑)・・・クロスボーン、etc.,etc.,』いっぱい、いっぱいありますね〜。
掲示板でヨカッタ。ひとりの見方では凝り固まりやすいけど、多くの方からのご指摘を受けると、視野が広がりますネ。瓦を投げて玉を引き寄せる・・・掲示板の有りがたさ、丁寧なご対応に感謝です。

> でも、これらは現代における意味を知識として利用した推論結果なので、古代においてはどうだったのでしょうか。

そうですね、単純に思いつきだけで片付けるのは危険ですし、難しいですね。ひとつづつ、じっくりと体験を積み重ねて洞察したいものです。ただ、この五体と心は古代も現代も共通して継承していると信じて思いを馳せたくて。知識以上にしっくりと体感できる智恵(あるいは気持ち)を求めたいです。出会うことはとても重要かな?旅も掲示板も!

[5305] しつこいな  邪馬台国はどこだ 2004/06/19(Sat) 00:58 [Reply]
具体的に質問しないと
答えるのは無理だろう
論理的に。

例えば、3個1対がどうしたって?

わしはすでに説明してるわけだから、
3個ではオカシイとか
単独が多すぎるのはオカシイとか
言わんと駄目だ。

そうすると、
そんな裕福なムラは
本拠地や数カ所しかなかったと
考えられるわけだ。

銅鐸に似せた土製鐸もあるんだから。

逆に出土例がいくつあったら
学説になるか聞きたいくらいだがね。

[5304] Re[5303][5302]: 何がわからんか  玄松子 2004/06/19(Sat) 00:54 [Reply]
お気持ちはわかりますが、ペギラさん。

> まずこれから。

もう終わりにしましょう。不毛ですから。

[5303] Re[5302]: 何がわからんか  ペギラ 2004/06/19(Sat) 00:50 [Reply]
もう一度言います。
ここは個人の掲示板です。

あなたの掲示板ではないのですよ。

あなたに誠実に答える姿勢が無いのなら、発言しても仕方ないでしょ。

そんな常識も無いのでしょうか。

> [5260] での問いかけへの回答は?
> [5256] で呈した疑問への応答はなされませんか?

まずこれから。

具体的で無いと答えないようなことは
個人の掲示板に書かないで下さい。

[5302] 何がわからんか  邪馬台国はどこだ 2004/06/19(Sat) 00:47 [Reply]
言えばわしは答えとるけど。

ネットの掲示板なぞ
あなたの掲示板だとおもうが?

銅鐸についての
具体的な質問で無いと
具体的な議論にならんので
困るんだよ。

[5301] Re[5300]: どういう意図か?  ペギラ 2004/06/19(Sat) 00:36 [Reply]
> わからん質問は困るんだが。
>
> もう一度
> 何がわからんか言ってくれれば
> 答えるが?

もう一度言います。
ここは個人の掲示板です。

あなたの掲示板ではないのですよ。

あなたに誠実に答える姿勢が無いのなら、発言しても仕方ないでしょ。

そんな常識も無いのでしょうか。

[5300] どういう意図か?  邪馬台国はどこだ 2004/06/19(Sat) 00:32 [Reply]
わからん質問は困るんだが。

もう一度
何がわからんか言ってくれれば
答えるが?

[5299] Re[5297]: じっくりも何も  ペギラ 2004/06/19(Sat) 00:27 [Reply]
> 質問の内容がわからんのだけど?
>
>

ならば、その点について、
どういう意図か、神奈備さんと議論をすることが必要なのでは?


[5298] Re[5294]: これも駄目  ペギラ 2004/06/19(Sat) 00:23 [Reply]
そのまんま、あなたにお返ししたい。

まず、この板の席亭の
> [5260] での問いかけへの回答は?
> [5256] で呈した疑問への応答はなされませんか?

の返答からお願いします。
じっくり、ゆっくりで良いですから。

[5297] じっくりも何も  邪馬台国はどこだ 2004/06/19(Sat) 00:19 [Reply]
質問の内容がわからんのだけど?


[5296] 例えば  邪馬台国はどこだ 2004/06/19(Sat) 00:16 [Reply]
加茂岩倉の四足獣だが、
鹿は他の絵画銅鐸同様なのに
四足獣は
他の絵画銅鐸と全く違う
それをいのししだと
言う人は難と説明するのか?

牛科のカモシカなら牛同様の長さの有る下がった尻尾や
鹿よりも多きめな頭がぴったりではないか?

どっちが合理的かね?


[5295] Re[5294]: これも駄目  ペギラ 2004/06/19(Sat) 00:13 [Reply]
そのまんま、あなたにお返ししたい。

まず、この板の席亭の
> [5260] での問いかけへの回答は?
> [5256] で呈した疑問への応答はなされませんか?

の返答からお願いします。
じっくり、ゆっくりで良いですから。

[5294] これも駄目  邪馬台国はどこだ 2004/06/19(Sat) 00:09 [Reply]
どこが
舌足らずか明確にしないと
議論にならない。

連呼ではなく
君経ちの銅鐸に対する理解が
低いだけだと思うが?

もう少し具体的な
銅鐸論をお願いしたい。

[5293] Re[5287]: 目印と象徴  玄松子 2004/06/19(Sat) 00:00 [Reply]
> 銅鐸の場合は神への供え物にわざわざ傷をつけることは考えにくいので、ペケ品(^^;を示す意味の×である可能性が高いとみます。

可能性の一つ。仮説の一つとしては、確かに魅力的です。
で、
・銅鐸は神への供物なのか?
・傷を付ける祭祀はありえないのか?
 刺青や身体に傷を付ける神事との関連は?
・そもそも×印は、傷なのか?
 たとえば、神霊を宿した印とか・・・
・仮にNG品、不要物の印であったとしても、
 鋳直す材料かどうか。埋める理由は何なのか?

銅鐸に特に興味があるわけではないのですが、
自説を「合理的」と連呼する、舌足らずな「断定」に疑問を提示しているだけです。

[5292] それは駄目だ  邪馬台国はどこだ 2004/06/18(Fri) 23:35 [Reply]
ちゃんと
私の説明が間違いであるとか、
もっと良い説明があると出さないと
議論にならんでしょう。

両先生は
学説にするには証拠が少ない
といっているに過ぎないのです。

それから
出雲西谷や加茂岩倉から
新しい証拠が出てきたわけですから
それを踏まえた私の説明が合理的なわけです。

[5291] Re[5289]: なにも破綻してませんが。  ペギラ 2004/06/18(Fri) 23:25 [Reply]
> > 邪馬台国はどこだ さん 掲示板は論議の場です。
> >
> > [5260] での問いかけへの回答は?
> > [5256] で呈した疑問への応答はなされませんか?
> >
>
> どこが破綻してますか?
>
>

きっとこのレスをする私は、オオバカモノですね。m(_ _)m

公共の場と言っても個人の掲示板にこの発言の常識の無さにあきれますよ。

昔の話を蒸し返して申し訳ありませんが、
大場磐雄さんや藤森栄一さんの名を使ってくだらないことをいうのはやめてください。

あなたの発言内容を逐一知ったら、
関係者の方に名誉毀損で訴えられますよ。

両先生も、発展的自説を愚説・愚論と極めて謙虚な姿勢で臨んでおられます。

玄松子さんが発言された
>仮説として提示し「後考を待つ」
が両先生の姿勢ですよ。

いろんな考察の提示は、悪いことではありませんよ。

でも一つ一つ、ゆっくり、じっくり、じゃないと
あなたと同じ視線の人は皆無だと思います。

火に油を注いでしまった責任として、一言。

[5290] Re[5287]: 目印と象徴  邪馬台国はどこだ 2004/06/18(Fri) 22:09 [Reply]
>>>
> 目印という目的では×もVも同じじゃないかと思います。
> 目印に1本線だけでは偶然にできる傷としていくらでもありえるけれどクロスする偶然はうんと少ない。
> ×自体は目印の意味だけで、なんの目印かはその時々で異なるのだと思います。
> 出エジプトでは選ばれるべきものの目印の意の×。
> 銅鐸の場合は神への供え物にわざわざ傷をつけることは考えにくいので、ペケ品(^^;を示す意味の×である可能性が高いとみます。
>>>

そういうことだ。
素直に考えれば、こういう思考経路になる。
銅鐸より古いx印が無いんだから
当然のことだ。

[5289] なにも破綻してませんが。  邪馬台国はどこだ 2004/06/18(Fri) 21:49 [Reply]
> 邪馬台国はどこだ さん 掲示板は論議の場です。
>
> [5260] での問いかけへの回答は?
> [5256] で呈した疑問への応答はなされませんか?
>

どこが破綻してますか?


[5288] Re[5285][5284]: 出てますよ  邪馬台国はどこだ 2004/06/18(Fri) 21:46 [Reply]
>>>
> それは、以前の書き込みのこの部分のことかな?
> > x印鐸の中では最新の扁平鈕2式V−2orW−1 四区袈裟襷紋の
> > 18号・35号・23号でも絵画が初期水田を表しているものは、
> > 鋳直す為 x印がつく。
>
> 最新なのに、初期水田?
> 初期水田の根拠はカモシカ?
> 絵画の意味解釈については、なんの疑問もない?
>>>

x印鐸の中では最新の扁平鈕
だが、
扁平紐は最新の銅鐸ではない。
最新の銅鐸は突線紐の耳飾付き6区袈裟襷だ。

つまり、
出雲は銅鐸祭祀は廃止し
四隅突出古墳に移行した。
AD100年前後のことだ。

従って、
初期水田で問題無い。

絵画の意味解釈は
この解釈以上に合理的な解釈は
見たことが無い。

あったら
教えて欲しい。

[5287] 目印と象徴  かたばみ [Mail] [Url] 2004/06/18(Fri) 21:00 [Reply]

目印という目的では×もVも同じじゃないかと思います。
目印に1本線だけでは偶然にできる傷としていくらでもありえるけれどクロスする偶然はうんと少ない。
○は筆とか紙でないと書きにくい。

〆は簡易な割り印であって西欧での封蝋に同じだと思います。
これも一本線より2本線、口紅マークならもっといい(^^;

線1本だけ引いてこれに意味を持たせるなら、いつのどこでも境界線、分離の意味になるんじゃないかなあ。
これを踏み越えてはならない、ですね。

ただしこれは長い線でないとなんだかわからなくなる。
門に×は目印と同時に分離の両方といったところか。立体化もあるかなあ。


×自体は目印の意味だけで、なんの目印かはその時々で異なるのだと思います。
出エジプトでは選ばれるべきものの目印の意の×。
銅鐸の場合は神への供え物にわざわざ傷をつけることは考えにくいので、ペケ品(^^;を示す意味の×である可能性が高いとみます。

×は遮断とか結界の意にも通じるので、後には「普通の側」からみてペケ側の意味も持つようになっていったのではなかろうか。

×に類似の十字は地面などなにかの基準に対して直角を要するから適当には書きにくく、なにかの象徴の紋様だと思います。
卍も同じくです。

http://tokyo.cool.ne.jp/woodsorrel/data/mark01.jpg
http://tokyo.cool.ne.jp/woodsorrel/data/mark01.jpg

半坡遺跡のは土器に刻まれたものでそれぞれ単独での出土です。
制作者印といったところで目印だろうなあ。異なる目印→文字への源流のひとつになってゆきそうです。
殷でも十字が使われていますが(青銅器)これは目印じゃないですね、なにを象徴するのか興味深い。

卍の簡略系と考えれば蛇なんだけど(^^;
インドでは卍は幸福の象徴らしく、のちに仏教にも取り込まれたんでしょう。


余談1
電気製品のオンオフマークに○と縦線1本が使われますがこれ嫌いです。
私は○は包含、縦線は遮断の感覚なんです、どうしても一瞬考えてから操作することになって、私にとっては誤操作のもとになる。

余談2
千木は建築構造の一部が装飾に変化したものと思います。
東南アジアの少数民族の家に類似がありますが、その流れを継承した建築様式。
神明造りはシンプルですからそれらのうちでも最古級だとみています。
(最古、南方海神族系由来の様式と推定)

下図の右の如く理解しがたいものもあります。
http://tokyo.cool.ne.jp/woodsorrel/data/haniwa_ie01.jpg

千木と堅魚木はいいとして、堅魚木に槍ぶすまとは??
これと同じとみえるものが雲南の奥地テン王国(サンズイに眞)の家(神殿?)の青銅器にあります。
写真では見えにくいですが千木に至るヒレ?部分には三角模様があります。

左は堅魚木付きだけど寄せ棟。
古墳時代ではまだ祖先の慣習が残っていてそれぞれがちょい違う形式で建てていたんじゃないかな。

ps.
http://tokyo.cool.ne.jp/woodsorrel/data/joumon_monyou.jpg
巫女らしきが三角模様のたすきをしている埴輪を加えておきました。


[5286] Re[5280][5272][5267]: ×印  神奈備 2004/06/18(Fri) 20:27 [Reply]
邪馬台国はどこだ さん 掲示板は論議の場です。

[5260] での問いかけへの回答は?
[5256] で呈した疑問への応答はなされませんか?

破綻していると思われるお話に上乗せして、未だに
> 鋳直される銅鐸、
> 鋳造の材料にx印があった
> と考えなければ成りません。
と固執されておられての書き込み、こんな事よりも先に書いておくことがあるのでは。

[5285] Re[5284]: 出てますよ  玄松子 2004/06/18(Fri) 20:07 [Reply]
> xのある銅鐸は
> 古い形式・古い絵画の銅鐸なんだから。
>
> 簡単な話しです。

それは、以前の書き込みのこの部分のことかな?
> x印鐸の中では最新の扁平鈕2式V−2orW−1 四区袈裟襷紋の
> 18号・35号・23号でも絵画が初期水田を表しているものは、
> 鋳直す為 x印がつく。

最新なのに、初期水田?
初期水田の根拠はカモシカ?
絵画の意味解釈については、なんの疑問もない?

この提示されている根拠から、「残す意味が無い」という理由が、素直に抽出されないから、X印の意味を検討すべきではないか、と問題提起をしているのです。

[5284] 出てますよ  邪馬台国はどこだ 2004/06/18(Fri) 19:40 [Reply]
xのある銅鐸は
古い形式・古い絵画の銅鐸なんだから。

簡単な話しです。

[5283] Re[5280][5272][5267]: ×印  玄松子 2004/06/18(Fri) 18:28 [Reply]
> 問題は、
> 日本の古代でxがどういう意味かは
> 思考経路が逆で
> 鋳直される銅鐸、
> 鋳造の材料にx印があった
> と考えなければ成りません。

X印は、「残す意味が無い」ものとしての「チェック」
という現代風の思考しかないから、その結論として「材料」としか
出てこないのではないかという問いかけですが。

X印のついた銅鐸が「材料となるべきもの」と判断される別の理由があれば
話は別ですが、それは提示されていないと思います。
それとも、気づかない間に出てきたのかなぁ。

[5282] 訂正  邪馬台国はどこだ 2004/06/18(Fri) 18:15 [Reply]
> >>>
> > ミシャグチ神を祀るとき鉄鐸(サナギの鈴)を使うようですが、祭祀具なら青銅のほうがきれいだしいい音がするんじゃないかな。銅鐸のように。
> > なのに鉄を使うのは褐鉄鉱の流れがあるため、と考えることができそう。
> > (サナギ=サ・ナキとみてます)
> >>>
>
> 良い音がするのは諏訪上社本宮の
> ヤサカノ鈴の方でしょう。
> ただこちらは平安時代の作で大和朝廷系の神社祭祀の道具ですね。
>
> 鉄鐸はミクミノ御宝=三組の御宝と区別されています。
>
> 鉄鐸が使われたのは
> ミシャグチ神=御頭祭りの際だけだという説があります。
> (『県宝 守矢文書を読む』細田貴助、2003年 )
>
> 鉄鐸はミシャグチ神を制する場合しか有効ではないということです。
> 洩矢の悪賊を制するだけなら藤島明神の藤や
> 諏訪明神の御宝鈴で良いはずです。
>
> つまり、
> 縄紋人=ミシャグチ神勢力
> 洩矢神勢力
> 守矢・諏方・建御名方勢力
> 金刺氏勢力
> と
> 3回侵略・興亡があったと考えられる。
>
> 縄紋人を制するには洩矢神が使った鉄鐸が良いわけです。
> これで洩矢神が鉄鑰(鉤)を使い土地を引いたのにも合致する。

[5281] Re[5271]: ミシャグチと褐鉄鉱  邪馬台国はどこだ 2004/06/18(Fri) 17:36 [Reply]
>>>
> ≫吉野祐子さんにかかると、何でも蛇に関連づけられてしまいますね。
>
> そうか、ミシャグチとは・・
> 吉野さんが赤蛇シャクチかもしれないと解してますが、そうかもしれない。
>
> 縄文の蛇(再生、豊饒、生殖)と褐鉄鉱の合体がミシャグチなのかもしれない。
> 黒姫山の赤ベトという褐鉄鉱の土、赤渋川・・
>
> 守矢氏が褐鉄鉱がらみであり、周辺の縄文と結合したならば、そこに赤い蛇が登場しておかしくないなあ。
>>>

諏方明神が蛇体という説があるようなので
出雲の建御名方の関係からも
諏方氏・大祝は蛇で良いと思います。

逆に、
ミシャグチ神は正月1日の
初生贄に小弓で狩られる
ヒキガエルでしょう。

土蜘蛛の親戚です。
竪穴式住居から引き出されて殺される
縄紋人にぴったりだと思います。

磯羅大神同様かつての負け振りを踊らせる
のが大和朝廷の予祝ですから、
その走りですね。

>>>
> ミシャグチ神を祀るとき鉄鐸(サナギの鈴)を使うようですが、祭祀具なら青銅のほうがきれいだしいい音がするんじゃないかな。銅鐸のように。
> なのに鉄を使うのは褐鉄鉱の流れがあるため、と考えることができそう。
> (サナギ=サ・ナキとみてます)
>>>

良い音がするのは諏訪上社本宮の
御宝鈴の方でしょう。
ただこちらは平安時代作の大和朝廷系の神社祭祀の道具ですね。

鉄鐸はミクミノ宝鈴=三組の宝鈴と区別されています。

鉄鐸が使われたのは
ミシャグチ神=御頭祭りの際だけだという説があります。
(『県宝 守矢文書を読む』細田貴助、2003年 )

鉄鐸はミシャグチ神を制する場合しか有効ではないということです。
洩矢の悪賊を制するだけなら藤島明神の藤や
諏訪明神の御宝鈴で良いはずです。

つまり、
縄紋人=ミシャグチ神勢力
洩矢神勢力
守矢・諏方・建御名方勢力
金刺氏勢力

3回侵略・興亡があったと考えられる。

縄紋人を制するには洩矢神が使った鉄鐸が良いわけです。
これで洩矢神が鉄鑰(鉤)を使い土地を引いたのにも合致する。


[5280] Re[5272][5267]: ×印  邪馬台国はどこだ 2004/06/18(Fri) 17:14 [Reply]
>>>
> > たしか、以前にも出たと思いますが、古代において「×印」が何を意味するものか。
> ご無沙汰しております。
> 「古事記のものがたり」のサン・グリーンです。
> なつかしいお話がでたので、久々に書き込みさせていただきますね。
> ×印を見て「ダメ」なものとか「間違い」をイメージするのは日本独自のもの。
>>>

まあ、アジアでどうかは知りませんが
アメリカではYesの意味ですね。
日本の○やレと同じです。

問題は、
日本の古代でxがどういう意味かは
思考経路が逆で
鋳直される銅鐸、
鋳造の材料にx印があった
と考えなければ成りません。

銅鐸のx印より古い用例がないからです。

つまり、
効力を失った品、転用される品、
に x が付いた
と考えざるを得ない。


[5279] 「×」の文字は帝王の位  いばらの紀氏 2004/06/18(Fri) 15:13 [Reply]
玄松子 さんの、「×の元は木や竹を、それこそ「×」型に組み合わせて示した印だと
思えるはずなのですが?違うかな〜。」に古代中国(紀元前五千年ごろ)に存在していたと
伝承される「易」の数字「五」帝王の位を思い浮かべました。
(×の上下に横線を引いて三角形を上下に向き合って組み合わせたような印し、
さらに□の中に×を書いたもの「三角うろこ【鱗】紋)これは、天と地の交わる点(仁)を
表わしたものと想われます。漢字の「乂 」の読み方は、ガイ で 意味は、「刈る」 又は、
「支配する。治める」 です。ローマ数字の]=10で(私的にCROSS-ROAD 辻・十字路)です。
CROSSは十字架、試練、受難、苦難に耐える。「鐸」の漢字は漢和辞典には鐸(タク・ダク)、
おおすず。大きな鈴。「昔、命令を発するときに鳴らして大衆を戒めたもの」で中国では、
星座のX形の星座は輪郭の中の三星とされているカラスキ(柄鋤)星。日本では肩に乗せるか、
わき腹に抱えて、手で打って鳴らすツヅミ(鼓)星(オリオン座)で音による測量での合図に使われたり、
位置の測定に使われたと考えます。また滋賀県野洲の銅鐸博物館の銅鐸には工具を持つヒトの
下に魚が二匹描かれているものが有ります。私的に銅鐸や銅鏡の紋様には、地図造りの測量の
L字形の曲がりカネの物差しやコンパスと曲尺(さしがね)が描かれていますし「魚」原始キリスト教(景教)の
シンボルに世界に特に東方へ移動したモーゼの十部族の末裔を想い浮かべます。
鶴・亀・鹿・馬・からす・とんぼ・うさぎ・弓矢・西王母・・・などに三角測量よ感じます。     
                       紀氏でした。

[5278] Re[5277][5274][5268][5267]: ×印  玄松子 2004/06/18(Fri) 10:23 [Reply]
> 古事記の中で、
> その約束の印である千木を高く掲げて暮せよ! こいつめ! 」
> というようなことを呼びかける場面がありますね。

この要約では、千木=印であるかのように読めますが、

原文:http://www.kamnavi.net/jm/kojiki.txt
「その汝が持てる生大刀・生弓矢をもちて、
汝が庶兄弟は坂の御尾に追ひ伏せ、また河の瀬に追ひ撥ひて、
おれ大国主神となり、また宇都志国玉神となりて、
その我が女須世理毘売を嫡妻として、
宇迦の山の山本に、底つ石根に宮柱ふとしり、
高天原に氷椽たかしりて居れ。この奴」

なので、権力の印は太刀と弓矢。
千木(氷椽)は宮柱と同列に扱われ、「立派な居を構えよ」程度の意味。
「立派な居」が権力のシンボルではあるけど。

(青草:太刀の打ち合いも×、洋弓はクロスボー)

[5277] Re[5274][5268][5267]: ×印  サン・グリーン [Mail] 2004/06/18(Fri) 09:54 [Reply]
> 最近さらにウイットさが欠けている脳みそで想像できたのは、
>
> 唯一、建築物の千木。
>
そっ、そうなんです私も!
古事記の中で、後のオオクニヌシがスセリ姫を連れてスサノオの国(根の国)から脱出する時
にスサノオが逃げていく二人に向かって「お前はこれからオオクニヌシと名乗ってうつし国の王となれ!その約束の印である千木を高く掲げて暮せよ! こいつめ! 」
というようなことを呼びかける場面がありますね。

私も×は千木を連想するので=神(スサノオ)との契約の印と思っているのですが…。
(でも長い間の学校教育の影響で、×はダメの印と教え込まれていた一般的日本人のひとりです。)

[5276] Re[5274][5268][5267]: ×印  神奈備 2004/06/18(Fri) 08:48 [Reply]
最近さらにウイットさが欠けている脳みそで想像できたのは、

最近本屋さんで『泥棒国家日本の完成』ママ のタイトルの本が置いてありました。政官業+ヤクザのセイフティネットができあがったとか、不良債権や年金問題など、言い得て妙と云う感じもあります。

その日本のかっての同盟国の英国はバイキングの末裔の建国した国なのか、国旗はユニオンジャック、これは海賊船の骸骨旗(クロスボーン)からのものだとか。
日本の海軍旗も、日の丸の背後に朝日が昇るように二重のクロス。

罰点、封印の感覚はなさそう、これは「締め」かな。

[5275] Re[5273]: 今でも使うでしょ?『〆』って  玄松子 2004/06/18(Fri) 07:48 [Reply]
> 諸外国の情報謀略に騙されず普通に日本人として生活してきたならば、「×」の元は木や竹を、それこそ「×」型に組み合わせて示した印だと思えるはずなのですが?違うかな〜。

僕には、×印に「封じ」の意味があるという知識があるので、木や竹をクロスに組み合わせた柵を思います。
また「締め」という意味があるという知識もあるので、紐を結んだ形かも、とも思います。
さらに、警察マークや戦場マークなので、武器を打ち合わせた形かな、とも思います。

諸外国の策略に乗ると、たとえば道路標識やゴーストバスターズでは、斜線が封じの意味。×は、その念押しした形かも。

でも、これらは現代における意味を知識として利用した推論結果なので、古代においてはどうだったのでしょうか。

[5274] Re[5268][5267]: ×印  ペギラ 2004/06/18(Fri) 00:00 [Reply]
最近さらにウイットさが欠けている脳みそで想像できたのは、

唯一、建築物の千木。

飲み過ぎで脳細胞破壊が!!!

[5273] 今でも使うでしょ?『〆』って  恋川亭 2004/06/17(Thu) 23:12 [Reply]
いやいや身辺多忙ゆえ・・・とはいえ、ちょっとだけ噛ませてネ。(^-~)b
諸外国の情報謀略に騙されず普通に日本人として生活してきたならば、「×」の元は木や竹を、それこそ「×」型に組み合わせて示した印だと思えるはずなのですが?違うかな〜。
野山で見かける「×」は、制止・禁止の意味が主体です。それは、「×」の向こう側に入ってしまう人を制止して守る場合もあるし、「×」の向こう側を侵入から護る場合もあります。
結局、どちらの立場から見ても「封じ込め」になるのではないでしょうか?
ただし、護る対象がどちらなのかは、その都度に判じないといけないけど。
「×」がやがて『ダメッ』という意味で一般化したのも、後の時代だろうナ〜と、容易に想像できると思っていたのです(ガッコーが原因?)。多様な価値観の主張が広がりましたネェ。
 ちょっと似たような混乱を示す言葉に『禁足地』という表現があります。今では「入ってはいけない所」の意味ですが、本来の『禁足』は「出てはいけない」だったですよね。禁足の主体はどっちか?などと言い出すと面白いオカルトの世界です(笑)。

「×」印には、そこに宿りし何かを大切に護り封じ込める為の印、つまり『封印』の意味も考えられることを思いだして頂きたいです。手紙のフタに「緘」を略して『〆』って書くでしょ。その封じているモノに手を出そうとすると、『ダメッ』と叱られるのです。封印を解こうとする行為が『ダメッ』なのに、いつしか封印されたモノが『ダメッ』と誤解されたのかも。

> ×印を見て「ダメ」なものとか「間違い」をイメージするのは日本独自のもの。

嘘や〜ん、『×印は世界的に制止・禁止の意味か、または注意を喚起するマークの意味があるで』とハイキングの先達に習ったけどナァ。日本でも、『「ダメ」なものとか「間違い」』の意味はあるけど、それがすべてではないと思います。

> 物部氏(にぎはやひ系)を×蘇我氏系を○としたところから定着した?
> というのはほんとでしょうか?

これも嘘に決まってるやん〜、何か著しい例がありますか?
物部氏系や蘇我氏系などと際立たせるところがいかにも、って感じのヤラセでは?
(フィクションやエンタテーメントの楽しみは否定しませんヨ)

> 西洋では×は単なるチェックでしかない。

西洋でも、注意の喚起や封印もあるのでは〜?
アメリカン・スクールでは、チェック(正解)のときはVで、ダメのときはXでしたヨ。

> モーゼの奇跡の一つ、過ぎ越しの祭りの時にユダヤの民は戸口に×の印をつけて
> 神の怒り(疫病)から逃れた。というような話も確かでましたね。

護りの封印だったら、との可能性はありませんか?
オカルティックなことに詳しい方々ならご存知かも。

・・・結局、ですから銅鐸のX印も、いろいろと悩んでみたいです(笑)。
あの印を刻むだけでも、安易には刻みにくいと思うのですがネェ〜。銅鐸の本体やヒレに曲がり・歪みを生じないよう、鋳型に準じたようなしっかりした木枠に固定して刻印したハズだと思いますヨ。治具ともいうべき、専用に作成した固定台です。古代の技術者をあなどるなかれ。機会があれば、現代の(いろんな)匠達の作業の様子も見学して下さい。

[5272] Re[5267]: ×印  サン・グリーン [Mail] [Url] 2004/06/17(Thu) 21:43 [Reply]
> たしか、以前にも出たと思いますが、古代において「×印」が何を意味するものか。
>
ご無沙汰しております。
「古事記のものがたり」のサン・グリーンです。
なつかしいお話がでたので、久々に書き込みさせていただきますね。
×印を見て「ダメ」なものとか「間違い」をイメージするのは日本独自のもの。
物部氏(にぎはやひ系)を×蘇我氏系を○としたところから定着した?
というのはほんとでしょうか?
という質問を書き込ませて頂いた時のことだと思います。

西洋では×は単なるチェックでしかない。
モーゼの奇跡の一つ、過ぎ越しの祭りの時にユダヤの民は戸口に×の印をつけて
神の怒り(疫病)から逃れた。というような話も確かでましたね。

[5271] ミシャグチと褐鉄鉱  かたばみ [Mail] [Url] 2004/06/17(Thu) 20:42 [Reply]

≫吉野祐子さんにかかると、何でも蛇に関連づけられてしまいますね。

そうか、ミシャグチとは・・
吉野さんが赤蛇シャクチかもしれないと解してますが、そうかもしれない。

縄文の蛇(再生、豊饒、生殖)と褐鉄鉱の合体がミシャグチなのかもしれない。
黒姫山の赤ベトという褐鉄鉱の土、赤渋川・・

守矢氏が褐鉄鉱がらみであり、周辺の縄文と結合したならば、そこに赤い蛇が登場しておかしくないなあ。
吉野さんは赤についてどう考えるべきかはわからないが、としているけれど褐鉄鉱なら文句無し。

ミシャグチ神を祀るとき鉄鐸(サナギの鈴)を使うようですが、祭祀具なら青銅のほうがきれいだしいい音がするんじゃないかな。銅鐸のように。
なのに鉄を使うのは褐鉄鉱の流れがあるため、と考えることができそう。
(サナギ=サ・ナキとみてます)


砂鉄が製鉄に使われるようになるのは古墳時代以降じゃないかと考えています。
釜石の餅鉄などの例外を除いて不純物が多すぎて実用にするまでの技術はまだなかったと思うのです。
http://www.nittech.co.jp/M97/M9702.html

砂鉄採取に藤蔓がよいかどうかはおくとして、最寄りで入手しやすい材料で作るがまずありそうですね。
竹がたくさん生えてるなら竹、藤がたくさん生えてるなら藤蔓。

お祝いに郷土民芸品の藤蔓で作ったポシェットを差し上げたことがあるんですが・・先方には汚いザルにみえたかもしれない(^^;

≫高原野菜と聞いて、おやきが食べたくなってきました。^^;

蕎麦もあるかも。
東北地方、さらに遡れば中央アジアあたりが原産のようで、寒いところにはそれに耐える文化があるわけです。
そういう人々が南下してくればそのまま救荒食品になる文化も広まると思います。

わんこ蕎麦食べたくなった、ちょっといってきます(^^;


≫アイヌ語で解釈して「鳥湖、鳥沼」としていますね。

そのあたりは大三元さんにおまかせとして、
千鹿頭、これがいつの当て字なのかといったことも問題になりそう。
近津のほうが原音に近い、が近津ではないのだという意識があれば、その意識にフィットする当て字を使うと思うのです。

もとの発音から少し離れても、その当時の感覚に合う漢字が使われ、後に発音が漢字側に近づいてゆく場合もありそうで逆算するのはやっかいそう。


寒いところにはそれに対応する文化があって寒冷時代にはそれが南下してくる。
蝦夷語?あるいはアイヌ語にもなってゆく言葉も南下してくる。
その最大がBC2000〜BC1000頃か、ついで弥生後期、戦がらみでは平安時代の蝦夷と俘囚。

逆に温暖化の時代では南の言葉が後のアイヌ語となる言葉に取り込まれることもありえるわけです。
これは縄文形成時代か、BC4000頃に縄文が知床にも達しています(沿岸のみ)。


[5270] 蛇と銅鐸紋様  かたばみ [Mail] [Url] 2004/06/17(Thu) 20:17 [Reply]
≫吉野祐子さんにかかると、何でも蛇に関連づけられてしまいますね。

同感であります(^^;
で、失礼してちょい横道へ。

吉野センセが銅鐸を解すればこれも蛇の固まりではなかろうか・・たぶんのたぶん。
もしそうならば、賛同します。

なぜかは下図の縄文土器の紋様いろいろをご覧ください。
http://tokyo.cool.ne.jp/woodsorrel/data/joumon_monyou.jpg

銅鐸に必ずあるのが三角模様ですがこれは蛇をより象徴化したもので、うろこ模様か。
吉野ケ里出土の盾にもこれがあるようです。
九州をメインとする装飾古墳にも多数登場の紋様。
こちらは新しい紋様形式なのかもしれない。

次ぎに多いのがいわゆる流水紋と称するうねうね紋様と渦巻きかなあ。
「流水紋」という表現を使った瞬間にその言葉の自縛で縄文との関連が見えなくなってしまいそうです。
みんな縄文蛇とみることができます・・吉野センセの弟子ではありません(^^;

縄文文化が連綿と継承されている。
蛇、豊饒と再生の象徴に囲まれてその恵みを願う絵を描いた祭祀具、それが銅鐸ではないのか。

銅鐸の絵を読み解く/佐原真で、銅鐸で補修されているのは紋様部分だけで絵が補修されていないことを指摘して、重要なのは紋様であろうとしています。
http://tokyo.cool.ne.jp/woodsorrel/data/doutaku_hoshuu.jpg

賛同します。
神々(の象徴)を描くことがまず第一、絵のほうはちょいとかすれていても、猪鹿蝶だかわからなくてもよしとした。
本来は鋳直すべきだけれど、それができない状況があったのだろうと思うのです。


[5269] 。「櫛」と「橘」に関連が?から参加させて下さい。  いばらの紀氏 2004/06/17(Thu) 15:10 [Reply]
はじめまして、茨の紀氏と申します。「櫛」と「橘」に関連が?から参加させて下さい。
私は日本の「地名」から「行基図」→「古墳」→「三角測量・ヤタガラス・猿田彦」→
「景教徒」→「中国、夏王朝の禹王」(治水事業+地図造り)→「旧約聖書」(モーゼ・十
部族・ヤフェイ・エホバ・ユダヤ」→「石工・フリーメイソン」→「カバラ」(秘密主義)
古代幾何学+八卦・・・・などから、世界地図と古代文字・天文学・風水などなどは古代の
優秀な頭脳の民族が一部族の地神を発展させ「宗派」に関係なく「神の存在を信じる者」
の世界を造り世界統一を図ったが長すぎた時の為に現在に至っているとの考えに到達しました。
ところで中国の古代文字から「漢字」の字解を始めました。漢字は「中国、夏王朝の禹王」
(治水事業+地図造り)の作業と占いなどの日々の生活や人間関係と「旧約聖書」からか、
いや逆に「旧約聖書」に影響を感じます。「漢字」を甲骨・金文・古文などから形の意味を知り、漢字で書かれた古代人や神々の名が中国や周辺の国々の地名・人名・神名・鳥名(命)
からユダヤの牧師(墨子)や世界の妖怪・鬼・賢者などなどがに悲惨な殉教を遂げた人々の姿を想像させられます。
「櫛」と「橘」ですが、「櫛」は地方の軍政や行政をつかさどる官職(字解からも禹らしき者が骨占いなのか?
検討(見当)している字形です。「橘」ですが「矛」が測量の道具を表わし「橘」は薔薇科?(棘イバラや林檎リンゴも!)
カバラでの測量器具には(鑑・銅剣・矛・盾・旗・太鼓・銅鐸・埴輪・鼎・鳥居など)で
 カラス(宣教師の黒衣と目がどこに付いているかわからない鳥だから歩いて【道タオ】を探す。)
・鶴(カク角度)・大鳥(移動能力の高い鳥)などのとりや獣(牛・鹿・は角ツノが角どを表わす
馬は目でを臣表わす)亀(キ規)は(六方角と三角測量)亀+鶴=規格(ダビデの星型・三角測量図・カゴメの歌の答え!)
で測量台=古墳(後に寺社)・測量士=カラス(景教徒)・・・・詳細のヒントは、よければ渡来人研究会にどうぞ  
おじゃましました。   いばらの紀氏でした。

[5268] Re[5267]: ×印  ペギラ 2004/06/17(Thu) 11:39 [Reply]
弥生の青銅器では、出雲の剣と銅鐸にしか、今のところ無いみたいです。

http://www2.pref.shimane.jp/fudoki/tenjihin/douken.html


[5267] ×印  玄松子 2004/06/17(Thu) 10:29 [Reply]
たしか、以前にも出たと思いますが、古代において「×印」が何を意味するものか。

現代では、NGやチェック済に用いられていますが、
海外ではNGの意味はないとか(だったような)。
古代においてチェック済や、マーカーとして、×印を用いた例は
他にあるのでしょうか。

さらに、
具体的な事物(動物や自然)を具体的に描くということは自然ですが、
具体的な物を、抽象的に描く、あるいは、抽象的な概念を抽象的に描くという文化は、
いつ頃、どのように生まれたのか。まず、それが問題ではないでしょうか。

[5266] 神社の終わり、もしくは永遠化  恋川亭 2004/06/16(Wed) 00:51 [Reply]
> Re[5255]: いや、何かあったんだな
> おそらく神社のはしりだろうな。

銅鐸に関しては、これは↑誤まりと断定!します。(笑)
神社と銅鐸について、私も独断的妄想がありますが、今は時間がないので、週末に青草で。

[5265] Re[5239][5237][5236]: 銅鐸祭祀と自然環境  かたばみ [Mail] [Url] 2004/06/15(Tue) 20:09 [Reply]

話の展開においつきませんが失礼してマイペースにて。

≫x印は、溶かして次の銅器にする印ですね。

仮に×印が鋳つぶし用マークだとすると、貴重な青銅素材をなぜ埋めたのかがありますね。
http://tokyo.cool.ne.jp/woodsorrel/data/doutaku_kamo11.jpg
加茂岩倉の×印の銅鐸も同様とすると、×印を選択的に掘り出してあとで鋳つぶすのだということになりますが、これはいささか無理な設定になると思います。

おいしい食べ物や酒を神様に供える、美しい花を供える。
この気持ちは今も昔も同じだと思います。
不良品を祭祀に使ったら神様の機嫌をそこねると感じるだろうことも同じでしょう。

上図の11号は鋳造後に紋様を補修してあるようです(他にも補修品がある)。
補修してみたがだめだった、あるいは検査で落とされて×印がつけられたとみることもできます。

そのあたりはどうであれ、埋めなければ保管できない事情があった。
そう考えるのがいちばん無理がないと思っています。

銅鐸の中に少し小さい銅鐸をいれる入れ子は加茂岩倉以外では浜松市芳川町や蒲生郡竜王町にあるようですが、これもむずかしい理屈がいるのかなあ、紙コップを重ねて包装するのと同じにみえる(^^;
すべての銅鐸が祭祀で埋められたわけじゃない、ということです。

ただし・・BC1400頃、長江中流域の洞庭湖周辺から日本の銅鐸の埋納とよく似た出土状況の青銅器がいろいろ発見されて、その中には内部に玉器や小型青銅器が入った鐃(垂直埋納)があるそうです。
この慣習と日本につながりがあるなら少し話が違ってきます。
専門家の調査を期待しているのですけれど。



≫当時の寒冷化など1年ごとには
≫大した変動では有りません。
≫反面、海進が弥生海退になるのは影響が大きく
≫神門湾が淡水湖から沖積平野になります。

縄文海退は地域によって状況が異なるようで、東海ではBC2000頃に終了しており、北陸でもBC1000頃には終わっているようです。
弥生での海水位の変化データを知りませんが、地形によっては洪水による流入土砂の増大で沖積平野への加速化が起きることはあると思います。

扇状地の河川は運ばれた土砂の堆積で自然堤防を作り、これが決壊して別の流路に、を繰り返しています。
(大規模な治水を行わないと扇状地は利用しにくい)
(これの超大規模な例が黄河です、山東半島の北側と南側とに流路が変わる)

地形によっては海との間に自然堤防が形成され、海へ流出しなくなった土砂が堆積して平野化もする。
ここでは海水位は無関係、干満の差のほうがずっと影響が大きいと思う。


縄文海退で生じたであろう河内平野、弥生中期から後期にかけてこの地域の弥生遺跡は連続しておらず断絶しています。
その間にいくつもの砂礫が堆積した層があるのは洪水を示し、稲科のプラントオパールも減少するのだそうです。

集落が洪水に埋まって消滅することを繰り返す時代であったことが推定できます。
自然界が人間を翻弄した時代。

生物にとって最も喜ばしいのは「自然界がいつもと変わらぬ恵みを与えてくれること」だと思います。
人間の力など微々たるもので、銅鐸祭祀もこれを願うものだと考えています。


静岡の登呂遺跡の発達はAD100頃からという推定があり、ここもAD200頃に洪水で消滅します。
(ここの水田で養える人数は60〜90人だそうです)
弥生初期に水田の痕跡が登場していながらそれが消えてしまう遺跡は東北や千葉にもあります。
朝日遺跡の消滅にも環境劣化の影響があるかもしれない。

稲に限らず植物が元気良く育つかどうかは日照量と気温のわずかな差が問題になると思います。
食糧に占める稲の割合推定はいろいろあるようですが、10%〜50%という範囲のようです。
稲以外が食糧の大半ということで、畑作が相当部分を占めていたんじゃなかろうか。
(畑は遺跡として残らないと思います)

寒冷化は全土に影響を与える、仮に沿岸の一部に葦原が増えてそれを利用できたとしても追いつくものではないと思うのです。


[5264] Re[5263][5243][5240][5231][5213][5208][5206][5202]: 諏訪と近津社  大三元 2004/06/15(Tue) 19:49 [Reply]
百瀬さん、よろしく。
> つい10日ほど前に、『縄文伝承』を取り寄せて読みました。
有り難うございます(^o^)。

> 本の内容について一つ疑問に思ったところがあるのですが、それはまた後日、そちらの掲示板ででも書きこむことにします。

お待ちしてます。お手柔らかに・・

> > 近津の縄文語説、非常に面白いですね。
> アイヌ語のシがshiでなくてsiであるならば、それが「チ」に替わったというのは
> 説得力があるかもしれません。

知里真志保著『アイヌ語入門』には「サ行のsiは日本語のシと同じに発音していい。」とあります。要するにsiとshiは区別されない、ということです。類例としてはチもciと書いたりchiと書いたりしますが、意味の区別はありません。

> 蛇足ですが、語感として「chi=陰茎」は日本語のチンチンを連想させます。

ありそうなことですが、チチンプイプイも ci-puy が女陰・穴という語構造に照らしてみると、如何にも知る人ぞ知るという呪文の要件(?)を備えているような気がします。但し、古代から和語側がこのアイヌ語を借用していたとも思えず、近世、近年のことなのでしょう。

> いずれにしても、千鹿頭・近津の神は、縄文時代につながる非常に古層の神
> であるかもしれませんね。

縄文まで遡れるのかは判りませんが、少なくとも関東に侵入してきた和人が、先住民の鳥と伝染病の関連に関わる伝承・文化を輸入して神社のように翻案したのかもしれないな、という程度の夢想はしております。


[5263] Re[5243][5240][5231][5213][5208][5206][5202]: 諏訪と近津社  百瀬 [Mail] 2004/06/15(Tue) 18:09 [Reply]
大三元さん、はじめまして。
つい10日ほど前に、『縄文伝承』を取り寄せて読みました。
縄文語→アイヌ語説という点では私も同じ方向に考えていたので、心強く思いました。
本の内容について一つ疑問に思ったところがあるのですが、それはまた後日、そちらの掲示板ででも書きこむことにします。

近津の縄文語説、非常に面白いですね。
アイヌ語のシがshiでなくてsiであるならば、それが「チ」に替わったというのは
説得力があるかもしれません。
しかも、その意味が「陰茎・形・所・魔神」となると、縄文人の石棒信仰とか
ミシャクジとか石神(シャクジン)を連想させます。
やはり男根崇拝を連想させますし、ミシャクジは「魔神」的な捉え方がされていた
ように思えます。
蛇足ですが、語感として「chi=陰茎」は日本語のチンチンを連想させます。

私としては、なぜその神(千鹿頭)が守矢氏の系譜に含まれているのかが謎です。
以前の書き込みで、洩矢神が単なる縄文系とは考えにくいというかたばみさんの
説に同意しましたが、では縄文人とまったく関係がないかというと、上記の点を
考えても、そうとは言い切れないところがあるように思えます。
いずれにしても、千鹿頭・近津の神は、縄文時代につながる非常に古層の神
であるかもしれませんね。

[5262] Re[5261]: やっぱり仮説のひとつだったんですね  玄松子 2004/06/15(Tue) 17:17 [Reply]
> 矢野遺跡の6個掘建て柱は雨よけの社だろうと。

柱が雨よけの痕跡であるのは、明白。
「社」だろうとするのは、憶測。

[5261] やっぱり  邪馬台国はどこだ 2004/06/15(Tue) 13:09 [Reply]
神社の専門家が来ましたね。

つまり
矢野遺跡の6個掘建て柱は雨よけの社だろうと。
銅鐸が斜面に埋められ、埋土に砂層も見られるのは
水を恐れたんだろうと考えます。

かといって
高床式の倉庫は火災で一発で溶けてアウト。
土の中が保管にも祭祀的な意味でも都合が良かったわけですね。

ここらへんが
共同祭祀=専用の社=後の大和朝廷の神社
の起源でしょう。

神社は神が必要ですから
大和朝廷以降ですね。

諏訪のミシャグチ神の時点では
巨木巨石信仰〜社のレベルですから。

[5260] Re[5259]: うふふ  玄松子 2004/06/15(Tue) 12:40 [Reply]
なぜ、「うふふ」なのかわかりませんが。

> つまり、残りの出土は少ないと予想される。
> 従って、今仮説を立て今後の出土で証明する方法しかない。

なるほど。
貴方がこれまで断定口調で連呼してきたことは、
『証明されていない仮説のひとつ』だったのですね。
納得しました。


それならそうとわかりやすく説明してほしかったですね。
特に、

> 埋める場所の法則が。
>
> おそらく神社のはしりだろうな。

この一文の意味と、根拠について。
何がどうして、「神社のはしり」なんでしょう。
「神社のはしり」をどういう意味で使用しているのでしょう。
埋める行為も、祭祀の一様式?
3×nはどうなったの?

[5259] うふふ  邪馬台国はどこだ 2004/06/15(Tue) 11:53 [Reply]
なんかいろいろレスいただきありがとうございます。
まずは、大筋のガイドラインです。(派生はその後)

結局出土情報がまだ足りないんですよね。
2003年の島根県教育委員会の報告で582鐸、小銅鐸入れても626鐸です。

春成氏・佐原氏の談話では460数個発見時に鋳型数とその鋳型の銅鐸発見数から
全部で2000鐸は作られたのではと推定していたと思います。

ところが、
畿内・河内・吉備はあのとおり前方後円墳で相当の銅鐸と遺跡が破壊された可能性が高い。
前方後円墳の立地は銅鐸破壊も目的に入れていたでしょう。

つまり、残りの出土は少ないと予想される。
従って、今仮説を立て今後の出土で証明する方法しかない。
出るたび修正するのでは永遠に真説にはなれない。
単なるじゃんけんの後だし以上にはなれない。
それもろくな説が無い。

佐原氏がいぶかるのに、カモシカを猪と見誤る春成氏では心もとない。
できれば難波洋三氏が新説を出すのが望ましい。

製造場所は358本が材料なわけですから
初期〜中期は出雲ですね。

突線紐が異常に多い畿内で初期銅鐸の鋳型が見つかっても
それは後進国へ日本の旧式の車の金型を送りKD工場を作ったのと同じ
としか合理的な説明は出来ません。
旧式の金型と数多くの最新型のみで途中が無いのは技術移転=後進地
の証明です。

畿内での製造は土型に成ってからでしょう。
このばあい、別に畿内に限らず瀬戸内でも三河でも三遠でも作られますが。

つまり、
畿内は銅鐸の後進地域だったのです。
土ぐもや有尾人が跋扈していたわけですから。
農耕なんぞそれら先住民を滅ぼしながらですから
どうしても後になる。
そうかんがえるのが合理的です。

考えない学者の凡説では永遠に銅鐸は解明されません。

[5258] 加茂岩倉鐸情報その2(笑)  ペギラ 2004/06/15(Tue) 10:36 [Reply]
加茂岩倉出土銅鐸の39個の内、30個は近畿産であろうと
春成秀爾さんは推測されている。
また残りの9個は、出雲産の可能性を推定させる。
現状同形の銅鐸が加茂岩倉以外見つかっていない。
それが前に提示した(×)のある
扁平鈕2式V−2 四区袈裟襷紋        1号・26号
扁平鈕2式V−2orW−1 四区袈裟襷紋   18号・23号・35号
と(×)のない
扁平鈕2式V−2 六区袈裟襷紋      8号・10号・20号・29号

そのモデルを推定播磨産のV−1式四区袈裟襷紋の小型品を推測されたいます。
その銅鐸がどれなのか、記述がないので私にはわかりませんが。(笑)

この9つ鐸の型式を見てみると
扁平鈕2式V−2 四区袈裟襷紋        1号・26号

扁平鈕2式V−2 六区袈裟襷紋      8号・10号・20号・29号

扁平鈕2式V−2orW−1 四区袈裟襷紋   18号・23号・35号

という流れになっている。

ついでに面白ネタ。
袈裟襷紋銅鐸には、
九区袈裟襷紋(推測)出土地不明 辰馬453
十二区袈裟襷紋 扁平鈕2式V−2 岡山・猿ノ森
なんてのもある。

好評ではなかったためか、一例ずつしか知られていません。
と佐原さんは、書かれています。

美的バランスをしっかり持っていたんですね。弥生人。


[5257] 一般的に  QUBO [Mail] 2004/06/15(Tue) 09:19 [Reply]
面白そうなので私も横から参加。

>> 特徴の無い大部分の水田の台帳である銅鐸は
>> 4区から6区に変わるだけと考えられる。
一般的にデザインは複雑化します。→ 2区よりは4区、4区よりは6区

たとえば縄文晩期 菜畑移籍の水田跡... 4区よりは多くありますが?
 邪馬台国大研究というHP、全国遺跡旧跡案内の35番
 http://inoues.net/yamataikoku/ruins/matura.html
現実の水田は、取れる水平面に従って作られます。つまり
山すそにそって曲がりくねって作られます。
デザインと現実は番いますが、銅考えるべきなのだろう?

[5256] Re[5251]: こう読むんだ  神奈備
シカ、カモシカも稲作の発展段階につなぐなら、水耕のかっての
牛の役割がないのだろうか。
 すばらしい発想ですが、これは違うと思います。
 記紀でも風土記でも、鹿、猪は常に害獣としての役割しかありません。
 もし役立つなら、弓矢で射る図は無いと思います。シカとは判りませんが。 

[5256] Re[5251]: こう読むんだ  神奈備 2004/06/15(Tue) 08:26 [Reply]
よくわからないので、銅鐸を整理して見ました。
   X印あり  X印なし  小計
絵あり  3個   4個  7個
絵なし  9個  23個 31個
小計  12個  27個 39個

X印の内の25%に絵があり、それはトンボ、シカ、カモシカの絵。
トンボは初期でも後期でも水田の風景につきもの。
シカ、カモシカも稲作の発展段階につなぐなら、水耕のかっての牛の役割がないのだろうか。
X印なしの絵にも、シカがある。

12個のうちの3個、すなわち25%で、初期の稲作故に、材料として鋳直す物とするのは論理の飛躍が見えます。

また、古い絵のものは見たら解るのであわててX印をつけるまでもないとも言えるのかも。

素材と祭祀道具とを同じように埋めるのはおかしい。説得力に欠けます。

邪馬台国はどこださんの鋭い着眼力、真説に接近しつつあるような気がしますが、納得できていません。もっと汎用的な解がありそうで、今後に期待します。

[5256] Re[5251]: こう読むんだ  神奈備 2004/06/15(Tue) 08:26 [Reply]
よくわからないので、銅鐸を整理して見ました。
   X印あり  X印なし  小計
絵あり  3個   4個  7個
絵なし  9個  23個 31個
小計  12個  27個 39個

X印の内の25%に絵があり、それはトンボ、シカ、カモシカの絵。
トンボは初期でも後期でも水田の風景につきもの。
シカ、カモシカも稲作の発展段階につなぐなら、水耕のかっての牛の役割がないのだろうか。
X印なしの絵にも、シカがある。

12個のうちの3個、すなわち25%で、初期の稲作故に、材料として鋳直す物とするのは論理の飛躍が見えます。

また、古い絵のものは見たら解るのであわててX印をつけるまでもないとも言えるのかも。

素材と祭祀道具とを同じように埋めるのはおかしい。説得力に欠けます。

邪馬台国はどこださんの鋭い着眼力、真説に接近しつつあるような気がしますが、納得できていません。もっと汎用的な解がありそうで、今後に期待します。

[5255] いや、何かあったんだな  邪馬台国はどこだ 2004/06/15(Tue) 00:48 [Reply]
埋める場所の法則が。

西の谷遺跡や滝峰才四郎谷遺跡のように
出土地の隣にテラス状の削り面の有るのも
あるし、
周溝墓のような埋め方のものや
矢野遺跡のように周囲に掘建て柱6個の跡もある。

おそらく神社のはしりだろうな。

[5254] Re[5253]: するってぇ〜ことは  恋川亭 2004/06/15(Tue) 00:22 [Reply]
なんだか、八っつぁんみたいな口調になりましたがな、ご隠居!

> 次の祭りまでに鋳直す物にxを付けたんだね。

『充分な材料を手当てしてから』鋳直すまでの間にとりあえず埋めといたンですね。
あんまり大事に巧妙に埋めたので、後から掘り返す段になって、ワカンナクナッチャッタナンテ・・・。

[5253] それはね  邪馬台国はどこだ 2004/06/14(Mon) 23:16 [Reply]
鋳直すのが祭りの後で、
充分な材料を手当てしてからだよ。
(逆だと祭りが出来ない。)

次の祭りまでに鋳直す物にxを付けたんだね。

神庭の358本の銅剣も同じように
もはや剣ではなく材料と示す必要でxを付けたわけだ。
但し、
こちらは銅剣を輸入した九州が出雲に渡す前にxを付けた可能性が高い。

転売禁止のxだね。
まだ遅れていた地域ではあの銅剣でも立派な売り物になっただろうから。

[5252] Re[5251]: 技術屋としては  恋川亭 2004/06/14(Mon) 23:04 [Reply]
状況がよく判りませんが、面白そうなので私も横から参加。
理解したいが為の素朴な質問です。
鋳潰して再利用する銅鐸に×印をつけたのならば(タガネが要るなァ)、せっかく区別したのに、また入れ子にしたりして混ぜて埋めたのかな?
いくら古代でも職人さんの気質なら、分けて埋めるだろうと思いました。ってことは、埋めたのは鋳造職人ではないですね。エッ、なんかロマンがない?ミもフタもないっス(笑)

[5251] こう読むんだ  邪馬台国はどこだ 2004/06/14(Mon) 20:40 [Reply]
溶かす銅鐸

(組合せ)  (大型鐸)         (小型鐸)
5号−6号  2区流水紋 気比2同氾   辰馬419・9号同氾
11−12  2区流水紋 川島同氾
31−39  2区流水紋 桜丘3・上屋敷・32・34号同氾
32−33  2区流水紋 桜丘3・上屋敷・31・34号同氾
28−7   2区流水紋         太田黒田・4.19・22号同氾
Z−22  推2区流水紋OR4区     太田黒田・4・7・19号同氾
13−14  4区    下坂同氾
26−27  4区    1号同氾
1−4    4区    26同氾    太田黒田・7・19・22号同氾
18−19  4区    トンボ     太田黒田・4・7・22号同氾
35−36  4区    トンボ、シカ、カモシカ 念仏塚同氾
23−Y   4区    シカ、カモシカ

x印鐸の中では最新の扁平鈕2式V−2orW−1 四区袈裟襷紋の
18号・35号・23号でも絵画が初期水田を表しているものは、
鋳直す為 x印がつく。

残る銅鐸

2−3    2区流水紋  
34−X   2区流水紋 桜丘3・上屋敷・31・32号同氾
15−16  2区流水紋 伝淡路類似
21−25  3区流水紋 気比4・陶器・井向同氾
37−38  4区    紐にシカ
10−17  6区    紐に海がめ   上牧同氾
29−30  6区    紐に顔
8−9    6区            辰馬419・6号同氾
20−24  6区

x印なし鐸の中では最古の外縁鈕2式U−2 二区流水紋の
2号・34号・15号でも残る。
4区、6区袈裟襷紋では絵画は紐に書かれる
これは水田は整備されシカも海がめも縄紋人も既に出現しないが
その特定の田を表現する為かつての特徴を書いたと推定される。

水田の区画は
初期沼地低湿地:流水紋
低湿地+あぜ:2区〜3区流水紋
あぜ区画完備:4区袈裟襷紋
ほぼ開拓区画完了:6区袈裟襷紋
と進化するが、
田によっては他が6区の時点でも
2区のままがありうる。

また太田黒田のように大量生産の
外縁2式4区もあるので、
同伴関係は意味にはあまり重要ではないことが分る。
これは区画整理の標準・目標が4区だったと推定される。

すなわち、
特徴の無い大部分の水田の台帳である銅鐸は
4区から6区に変わるだけと考えられる。
紐はその時点での紐の形式になるだけで
絵画との直接の意味は無い。
傾向として、
絵画の有る初期水田も開拓の進んだ突線紐の時点では
6区に整備され、絵画は無くなっていくと言うくらいである。

カモシカも縄紋人も魚もすっぽんも
水田が整備されるに従って来なくなるのが自然である。

鷺は例外で悪ヶ谷銅鐸のような後期の6区袈裟襷紋でも現れるが
やがて不動平銅鐸、滝峰銅鐸の様に上流地域まで開拓が進むころには消えさる。


[5250] Re[5247]: それは逆でしょう  玄松子 2004/06/14(Mon) 19:57 [Reply]
> 断定など古代史には有り得ない。

ほぅ。

> これは違いますね。
> 加茂岩倉、神庭西谷(荒神谷)の状況を見れば
> 祭祀に使うときのまま整然と埋められている。

こういう書き方は、一般には『断定している』ことになるのですが、
古代史の世界では違うのですか? 知りませんでした。

> 学者の凡説、珍説と一緒にされては困る。

凡説かどうかは、証拠の提示方法と、推論の正しさで判断されるべきで、
誰が唱えているかは無関係ですよね。

[5249] 加茂岩倉×刻印鐸情報  ペギラ 2004/06/14(Mon) 18:27 [Reply]
39個中の12個に(×)が刻まれている。

外縁鈕1式U−1 四区袈裟襷紋        22号
外縁鈕2式U−2?四区袈裟襷紋        13号
外縁鈕2式U−2 二区流水紋         5号・11号・31号・32号
扁平鈕1式U−2orV−1 二区流水紋    28号
扁平鈕2式V−2 四区袈裟襷紋        1号・26号
扁平鈕2式V−2orW−1 四区袈裟襷紋   18号・23号・35号

同笵関係が面白い。

1号と26号が同笵
5号は兵庫気比2号と同笵
11号は徳島川島と同笵
13号は鳥取下坂と同笵
22号は4号・7号・19号・和歌山太田黒田と同笵
31号と32号が同笵、34号・鳥取上屋敷・兵庫桜ヶ丘3号が同笵

×刻線12個中8個は同笵が存在するもの。
残りの4個は
扁平鈕1式U−2orV−1 二区流水紋    28号
扁平鈕2式V−2orW−1 四区袈裟襷紋   18号・23号・35号

18号・23号・35号は出雲産の可能性を推測させる5個の四区袈裟襷紋のうちの3個
残りの2個は1号と26号

他の同笵は、どうなのか。
22号と同笵の4号・7号・19号には、どうして(×)がないのか?
辰馬419と同笵の6号・9号は?
伝淡路と同笵の15号は?
奈良上牧と同笵の17号は?
兵庫気比4号等と同笵の21号は?
念仏塚同笵の36号は?
15号と21号以外は小型だ。

ならば、大きさから何かわかるだろうか?
小型品19個と大型品20個。

12個の(×)品のなかで小型なのは、22号のみ。
残り11個は大型品。

大型品の(×)の無い残り9個は、どうなのか?
外縁鈕2式U−2 二区流水紋       2号・34号
外縁鈕2式V−2 三区流水紋       21号
外縁鈕2式U−2 四区袈裟襷紋      37号
扁平鈕1式U−2orV−1 二区流水紋  15号 
扁平鈕2式V−2 六区袈裟襷紋      8号・10号・20号・29号

入れ子の親は、どうなのか?
1・2・5・8・11・13・15・18・26・28・29・31・32・35・37
推定15組
(×)のあるのは、
1・5・11・13・18・26・28・31・32・35
12個中10個が入れ子の親。
入れ子の親で(×)の無いものは、
2・8・15・29・37
入れ子の親になっていない(×)のものは、
22・23

絵画銅鐸か否か。
絵画あり
四区袈裟襷紋 18・23・35・37
六区袈裟襷紋 10・29
流水紋    21
このなかで(×)のあるものは、
18・23・35
これは同笵の無い扁平鈕2式V−2orW−1 四区袈裟襷紋と同じメンバー。

[5248] 訂正  邪馬台国はどこだ 2004/06/14(Mon) 12:19 [Reply]
これ以上現状をうまく説明できる説が現れない限り
これが古代史の現状での
真説なのです。(起源は大場磐雄、藤森栄一)

学者の凡説、珍説と一緒にされては困る。


[5247] それは逆でしょう  邪馬台国はどこだ 2004/06/14(Mon) 12:13 [Reply]
断定など古代史には有り得ない。

つまり、
これ以上現状をうまく説明できる説が現れない限り
これが古代史の現状での新説なのです。


[5246] Re[5242][5238]: 諏訪と銅鐸  玄松子 2004/06/14(Mon) 11:23 [Reply]
> 出土数500個に迫りつつある銅鐸のほとんどは、単独。次いで2個という出土状況。
> 3個以上は数例しかありません。

ありがとうございました。数が少ないのですね。

ということは、仮説の一つを立てるのには十分ですが、
断定するには不十分ということでしょう。

まして、その説を根拠として、説を導出・断定してり、他説を排除するのはナンセンスとも思えます。
あくまでも仮説として提示し「後考を待つ」に留めるのべきかな。

[5245] 加茂岩倉銅鐸の本  邪馬台国はどこだ 2004/06/14(Mon) 10:43 [Reply]
加茂岩倉出土の銅鐸の写真は
『加茂岩倉遺跡 銅鐸の謎』加茂町教育委員会、河出書房新社、1997、2000円
があります。

39個全てが身の裏表載ってます(入れ子の内側は見れない)。
大きさも実物の70%〜40%の縮尺でカラーなので細部も見やすくお勧めです。
絵画部分のいくつかはクローズアップもあり非常に有りがたいです。

写真だけでもこの値段なら大満足ですが、
難波洋三氏の解説と出土銅鐸の形式一覧表も載っており便利です。
(形式一覧表はNHKブックの出雲の銅鐸の表で同氾を確定していますが変更無しです。)

難波洋三氏の指摘
『 刻線の有無と形式や紋様との対応関係で注目される点は、
V−2〜W−1式のうち、四区袈裟襷紋銅鐸は五個全てに「x」が刻されているが、
四個ある六区袈裟襷紋銅鐸には、「x」を刻した例が今のところ見つかっていないことである。』
は流石です。

外縁紐の2区流水紋がほとんどxで、
扁平紐も4区はxが多く(6個中5個)
紐に顔や海がめがあるのは6区袈裟襷紋と分る。

つまり
鐸身の絵画は初期水田とその水田を特徴付ける物であり、
鐸身の紐の絵画はかつてその水田を特徴付けた物と推定できる。
(ごく初期の福田鐸や気比鐸は別として)

こう考えると、
かつて23号、35号鐸の四足獣を猪といった研究者もいたが
あれは、あおしし=日本カモシカ、だと分る。

もはや、
カモシカが来るような初期水田は整備され
4区から6区に鋳直されるためxが付いたと推定できる。

[5244] Re[5239][5237][5236]: 諏訪と銅鐸  神奈備 2004/06/14(Mon) 08:11 [Reply]
邪馬台国はどこだ さん ありがとうございます。

> x印の銅鐸の形式・絵画が低湿地・初期水田を表し、それ以外の新しい銅鐸は形式も絵画も水田が整備されていくのに合致するからです。

X印を図柄と対比された話は小生にとって新鮮です。そのような観点からの論考は寡聞にして知りませんでした。
図柄を手に入れて確認する必要がありますね。

確認もせずに云うのも申し訳ないのですが、「>溶かして次の銅器にする印」と云うことは使用済みの意味と云うことで、X印を罰点の意味とすることからの連想ではないことを祈ります。

[5243] Re[5240][5231][5213][5208][5206][5202]: 諏訪と近津社  大三元 2004/06/14(Mon) 07:59 [Reply]
話の流れを掴んでないのでハズレだったらごめんなさい。
わたしも近津・考をしています。
http://www.dai3gen.net/chikato.htm

[5242] Re[5238]: 諏訪と銅鐸  ペギラ 2004/06/14(Mon) 07:49 [Reply]
> 銅鐸関連ですから、ペギラさんからの『判りやすい説明』を期待しています。

資料提示ということですね。(^^;)

出土数500個に迫りつつある銅鐸のほとんどは、単独。次いで2個という出土状況。
3個以上は数例しかありません。

遠江・磐田・豊岡・敷地・西の谷が2個+1個(出土時期が違う)計3個
三河・宝飯・小坂井・伊那松間が3個
近江・野洲・小篠原・大岩山が6個+17個(出土時期が違い)計23個
山城・梅ヶ畑・向ノ地が4個
河内・門真・大和田が3個
但馬・気比・溝口が4個
摂津・桜ヶ丘(通称神岡)が14個
大和・秋篠が3個
紀伊・湯川・丸山・朝日谷が3個
出雲・斐川・神庭・荒神谷が6個
出雲・加茂・岩倉が39個
阿波・上八万・星河内が7個
阿波・国府・矢野源田が3個
阿波・入田・安都真が4個

以上が3個以上出土の現状です。

供出青銅器も?

摂津・桜ヶ丘(通称神岡)が大阪湾型銅戈7本(銅鐸14個)
大和・長柄が多鈕細文鏡1枚(銅鐸1個)
出雲・鹿島・佐陀本郷が中細形銅剣6本(銅鐸2個)
出雲・斐川・神庭・荒神谷が中細形銅剣358本・中細中広形銅矛が16本(銅鐸6個)
安芸・福田が中細銅剣1本・中細銅戈1本(銅鐸1個)
阿波・国府・矢野源田が中広銅剣1本(銅鐸3個)
讃岐・高瀬・羽方西ノ谷が平形銅剣1本(銅鐸1個)
讃岐・内海・安田が平形銅剣1本(銅鐸1個)

落としがあるかもしれませんが、大体こんなところかな。

出雲の大量埋納について、私論
各地の銅鐸の埋納状況から考えて、出雲地区の埋納状況は特異。
普通河川流域に点々と埋納跡が存在するのが、出雲だけほぼ一箇所に固まっている。
神戸川流域・斐伊川流域・日野川流域・意宇川流域にバラバラと点在していてもおかしくない。
そう思うと、何かの理由で集められたということだと思う。
出雲という地域が、また集めることができる集合体だったということ。

型系が使用時期と同一という仮定が成り立つならば、
出雲が一番最初に銅鐸祭祀をやめたと推測できる。
次に大和、その次に吉備。

面ではなく、点で使用銅鐸の差が存在する。
出雲と大和と吉備の間の国々は銅鐸祭祀継続が推測できる。

[5241] Re[5232][5224][5218][5208][5206][5202]:金属文化と農耕文化  百瀬 [Mail] 2004/06/14(Mon) 03:21 [Reply]
かたばみさん、

> 饒速日降臨時の天孫系随伴者(安曇の祖)の流れが穂高見命の祖であり、これが洩矢神であるならば鉄器をもっていておかしくありません。

穂高氏が安曇氏系だということは言えそうみたいですね。
洩矢神とのつながりはまだ何とも言えませんが。

> 洩矢神の鉄輪は黒姫山の褐鉄鉱などを意味するんじゃないかなあ。
> 信州の安曇氏は褐鉄鉱を採掘しようとした集団、山師であって農耕集団じゃないとみます。
> 長野の大地みどころ100撰の45回を参照
> http://www.janis.or.jp/users/gann/100sen/100sen_mokuji.htm

たしかに海人系の安曇氏が科野という内陸に移り住んだのは、水穂耕作を推し進めるために
鉄を求めて河川をさかのぼっていった結果だという説がありますね。

> 「ものと人間の文化史32・蛇/吉野祐子」では建御名方命の藤蔓を蛇と見立てていますが、私は金属に対する農耕を表す意として植物で象徴されたのだと考えます。
> 藤は湿潤な土を好むようで、縄文古来の森と蛇、そして出雲の蛇への見立てで藤蔓に変化したんじゃないかなあ。

吉野祐子さんにかかると、何でも蛇に関連づけられてしまいますね。
まあ私も好きなんですが。(^^)
たしかにこの場合、諏訪大明神や出雲族の蛇との結びつきから藤蔓が
類推されるかもしれませんね。
ちなみに、前回紹介した『お諏訪さま−祭りと信仰』の内容の補足をします。
この本の座談会「諏訪信仰の特質に迫る」で、真弓常忠氏(住吉大社宮司)が
述べている説なんですが、それによると…。
藤枝とは、京都・上賀茂神社のミアレ所に吊るす藤蔓で作った「御鈴」
なんだそうです。
砂鉄を採るには、水中で比重の違いを利用してザルで掬い取る。
そのときに、藤蔓で編んだザルが一番良いそうで、これが砂鉄採集の
技術を象徴したものではないかということです。

> 民が求めるのは武器ではなく生活の糧。
> 建御名方命はその最新の農耕技術によって民心を得て勝利したのではないか。
> 稲ではなく畑作でしょう、高原野菜ですね(^^;

「生活の糧」というならば、やはり農耕に鉄器は欠かせないでしょうね。
高原野菜と聞いて、おやきが食べたくなってきました。^^;

> 天孫のお得意の稲も運ばれているでしょうけれど、初期の稲作技術では栽培できる地域は限られていたと思われます。
> http://www.janis.or.jp/users/gann/100sen/kawa/asakawa.htm

限られた土地でしかできなかったといえば、考えたくなるのが、
前に紹介した湖伝説です。
ところで、前述の『お諏訪さま−祭りと信仰』で郷土史家の三田村優氏が
「えちご国府ものがたり」というのを書いていて、奴奈川姫の伝説が詳しく
書かれています。
それによると、大国主が高志の国にたどり着くまでの間に、邑知潟で水田をつくる
ための干拓工事を行ったりしているんです。
これを読んで、やはり出雲族がある程度の治水技術を持っていたのではないかと
考えたくなりました。
潟の周辺の葦や草を刈り払い、水はけ用の溝を作ることから始めたとのことですが、
この程度ならば当時の人々にもできたかもしれないということで。

ところで、この「えちご国府ものがたり」では、奴奈川姫が建御名方神を
生んだ生誕の地というのが出てきますが、ぜひ行ってみたいものです。

> 農耕不振→新しい農地開拓→湖を農地化する、これも対処のひとつと思いますが問題はその技術ですね。

そうですね。当時の人々にどこまでできたかを考えるのが重要でしょう。
たとえば、以前に紹介した古代安曇湖の泉小太郎の伝説で、山清路の巨岩を
ぶち破って新たな川を作るようなことは、どう考えても難しいんじゃないかと
思います。

> なお、戦国時代をはさんだ系譜は信用できないですね。滅ぼして奪えば容易にその系譜になれるし(^^;

私に言わせると、歴史書とか系図なんていつの時代でも信用できない。^^;
その信用できない情報から真実を抽出するのが楽しみなんでしょうが。

> ps.
> 「安曇の古代/仁科宗一郎」は古本で入手できると思います。

ありがとうございます。

[5240] Re[5231][5213][5208][5206][5202]: 諏訪と近津社  百瀬 [Mail] 2004/06/14(Mon) 01:49 [Reply]
かたばみさん、こんにちは。

> 近津という呼称にいろいろバリエーションもあって、単に「近い津」である場合もありえるので容易じゃなさそうです。
> しかし長野県ではほとんどが千鹿頭であり佐久でこれが近津に変化しているので、関東の近津社はこれに関連していることが推定できそうです。

「千鹿頭」と「近津」を比較しただけでは「本当に関連があるのだろうか?」と
思ってしまいますが、教えてもらったサイトにある量を見ると、これはやっぱり
検討の余地があると思います。
とすると、守矢家の祖神との関係は…?
これまた厄介な謎が出てきてしまいました。^^;

それと、教えてもらったサイトでは、「ちかつ、ちかと」を、私と同じようにアイヌ語で
解釈して「鳥湖、鳥沼」としていますね。
たしかに「chikap-to」を日本語の音にすれば「チカト」か「チカツ」になるのでは
ないかと思います。
私の思いつきもあながちトンデモではないかも?^^;

[5239] Re[5237][5236]: 諏訪と銅鐸  邪馬台国はどこだ 2004/06/13(Sun) 22:40 [Reply]
>>>
> > 358本はほとんどがx印の材料ですから関係有りません。
> この「x印の材料」とはどの様な材料のことでしょうか。
> また材料によって、埋葬の理由とは「関係有りません。」と云うのは何故でしょうか?
>>>

x印は、溶かして次の銅器にする印ですね。

加茂岩倉の銅鐸は45cm級と30cm級が入れ子になってますが、
下記のセットの左側の45cm級にx印が付いています。
5号ー6号、11−12、13−14、18−19、32−33
35−16、31−39、26−27、28−7
推定
1−4、23−Y鐸、Z鐸−22(唯一30cm級でx印)

この12組は鋳直され
突線紐6区袈裟襷にする予定の銅鐸だったと考えられるのです。

それは、
x印の銅鐸の形式・絵画が低湿地・初期水田を表し、
それ以外の新しい銅鐸は形式も絵画も水田が整備されていくのに
合致するからです。




[5238] Re[5236]: 諏訪と銅鐸  玄松子 2004/06/13(Sun) 22:04 [Reply]
ついでに、僕も。
横から質問をいたします。

> 銅鐸6個1セット
> または(3個+矛)x2で1セット
> の仮説を立てるには充分でしょう?

・例に示された数は出土数ですか?
・埋葬数と出土数はイコールですか?
・使用時期、様式や大きさもセットで、3の倍数、6の倍数という仮説が成り立つのですか?

銅鐸関連ですから、ペギラさんからの『判りやすい説明』を期待しています。

[5237] Re[5236]: 諏訪と銅鐸  神奈備 2004/06/13(Sun) 21:43 [Reply]
横から質問をいたします。

> 358本はほとんどがx印の材料ですから関係有りません。
この「x印の材料」とはどの様な材料のことでしょうか。
また材料によって、埋葬の理由とは「関係有りません。」と云うのは何故でしょうか?

[5236] Re[5235][5234][5233]: 諏訪と銅鐸  邪馬台国はどこだ 2004/06/13(Sun) 20:23 [Reply]
>>>
> ≫寒冷化は大した事ではなく
> ≫むしろ沖積平野が固定する喜ばしいことだったはずです。
>
> 寒冷化がどこをどう「固定」するのか知りませんが、人は収穫がなければ1年をまたず飢え死にしてしまう。
>>>

当時の寒冷化など1年ごとには
大した変動では有りません。
反面、海進が弥生海退になるのは影響が大きく
神門湾が淡水湖から沖積平野になります。
当然その上流の水田化が進みます。

> ≫加茂岩倉、神庭西谷(荒神谷)の状況を見れば
> ≫祭祀に使うときのまま整然と埋められている。

>>>
> 下図は神庭荒神谷での358本の銅剣と銅鐸銅矛出土状況、銅剣と銅鐸は7mほど離れています。
> http://tokyo.cool.ne.jp/woodsorrel/data/doutaku_koujin.jpg
> 下図は加茂岩倉での出土状況、青は道路工事で散乱したものを土の圧痕から復元配置したものです。
> http://tokyo.cool.ne.jp/woodsorrel/data/doutaku_kamo.jpg
>
> 当時の祭祀がいかなるものか知りませんが、これを祭祀の結果とみるか「収納」の結果とみるか・・
>>>

358本はほとんどがx印の材料ですから関係有りません。

鉄鐸
諏訪上社:(6個+矛:文献で推定)x3セット
上社の神長の守矢氏所蔵:(6個+矛:文献で推定)x1セット。
諏訪小野神社:(6個+鉄剣)x2セット;矢彦鐸1個も小野鐸として。

銅鐸
神庭西谷(荒神谷):(3個+矛)x2セット
          +矛14個(加茂岩倉用)

加茂岩倉:39個+破損2個+埋納前紛失1個
=(3個+矛:西谷に保管)x14
=(6個+矛2)x7セット

徳島源田遺跡:(3個+中広銅剣)x1;片セット

銅鐸6個1セット
または(3個+矛)x2で1セット
の仮説を立てるには充分でしょう?

これが、

神庭西谷1:原山遺跡群

加茂岩倉2:三部遺跡群
加茂岩倉3:古志本郷遺跡群
加茂岩倉4:天神遺跡群
加茂岩倉5:斐伊川左岸遺跡群
加茂岩倉6:四絡・矢野遺跡群
加茂岩倉7:里方・高浜遺跡群
加茂岩倉8:後谷遺跡群

の出雲西部の地形ごとの8つの弥生遺跡の数に、
それぞれ対応していると推定できる。










[5235] Re[5234][5233]: 諏訪と銅鐸  かたばみ [Mail] [Url] 2004/06/13(Sun) 19:35 [Reply]

≫寒冷化は大した事ではなく
≫むしろ沖積平野が固定する喜ばしいことだったはずです。

寒冷化がどこをどう「固定」するのか知りませんが、人は収穫がなければ1年をまたず飢え死にしてしまう。

≫加茂岩倉、神庭西谷(荒神谷)の状況を見れば
≫祭祀に使うときのまま整然と埋められている。

下図は神庭荒神谷での358本の銅剣と銅鐸銅矛出土状況、銅剣と銅鐸は7mほど離れています。
http://tokyo.cool.ne.jp/woodsorrel/data/doutaku_koujin.jpg
下図は加茂岩倉での出土状況、青は道路工事で散乱したものを土の圧痕から復元配置したものです。
http://tokyo.cool.ne.jp/woodsorrel/data/doutaku_kamo.jpg

当時の祭祀がいかなるものか知りませんが、これを祭祀の結果とみるか「収納」の結果とみるか・・


[5234] Re[5233]: 諏訪と銅鐸  邪馬台国はどこだ 2004/06/12(Sat) 22:49 [Reply]
銅鐸は土地台帳兼祭具でしょうね。

寒冷化は大した事ではなく
むしろ沖積平野が固定する喜ばしいことだったはずです。
それまでは折角平地・低地を耕しても縄紋海進で元の木阿弥だったでしょう。

>>>
> まとめてどばっと埋めたりするのは出雲崩壊時に生産地で隠匿したたためでしょうけど。
>>>

これは違いますね。
加茂岩倉、神庭西谷(荒神谷)の状況を見れば
祭祀に使うときのまま整然と埋められている。
密告で掘られてもいない(だからあった。)

諏訪の鉄鐸同様、
剣1に銅鐸6、
または剣1に銅鐸3のセットと整理できる。

銅鐸が埋められたのは
出雲:AD100年
畿内:AD200年
三遠:AD300年
信濃:AD400年
くらいのタイムラグがあるように思います。

信濃〜甲府の
前方後円墳が5世紀なので。


[5233] 諏訪と銅鐸  かたばみ [Mail] [Url] 2004/06/12(Sat) 13:29 [Reply]
寒冷化の時代に大地の力の復活を願うために出雲祭祀で用いられたのが銅鐸だと考えています。
(その祭祀は長江の楚文化→山東半島の流れにあると推定)

願いの大きさ=大型化、大型化は寒冷化が厳しくなる時期と一致するはず。
まとめてどばっと埋めたりするのは出雲崩壊時に生産地で隠匿したたためでしょうけど。

気候変動と縄文〜弥生の情勢概略を参考まで
http://tokyo.cool.ne.jp/woodsorrel/data/hennen.png

銅鐸は単独で出土することが多く年代特定がむずかしいようですが朝日遺跡出土の銅鐸は周辺状況から弥生後期であることがほぼ確実なようです。
http://www.pref.aichi.jp/kyoiku/bunka/asahi/

銅鐸が天孫系の祭祀具であるなら、鏡よりずっと目立つ銅鐸のことがまったく記紀に書かれていないことの説明が必要ですが・・できるのかなあ(^^;
浜松周辺からも多数の銅鐸がでますからここも出雲勢力だったことが推定できます。

弥生後期では濃尾東海は出雲の支配下となっていたわけで、年代はおおよそ倭国争乱時代に一致と推定。
信州の銅鐸もその間に運ばれたのでしょう。

そして朝日遺跡は弥生末期(AD200〜AD250頃)に急速に衰退して消滅する。
大和が占領されて出雲が崩壊したことを示すものと思います。



[5232] Re[5224][5218][5208][5206][5202]:金属文化と農耕文化  かたばみ [Mail] [Url] 2004/06/12(Sat) 13:21 [Reply]

信濃で異質なのが戸隠社の手力雄命です、天孫系でしょうね。
戸隠は孝元時代の縁起とされ、これが正しいなら倭国争乱時代のまっただ中。
持論の年代復元図参照
http://www.tcn-catv.ne.jp/~woodsorrel/kodai/g01.files/06/kojiki_shoki.pdf

先の安曇の古代での「建御名方命の後裔の勢力が衰えたころ、穂高見命の後裔の阿居大都命(孝元天皇時代)」
という記述に年代が重なってきます。
穂高見命の出自ははっきりしませんが、綿津見命を祀るところから安曇氏の流れである可能性が濃い。

饒速日降臨時の天孫系随伴者(安曇の祖)の流れが穂高見命の祖であり、これが洩矢神であるならば鉄器をもっていておかしくありません。

しかしながら漏矢神の文化は天孫降臨時代(持論BC100頃)の旧態然だった。
(九州から離れるほど最新文化と接触しにくくなって遅れをとるとみます、これは古墳時代以降でも同じ)
結果、最新文化をもつ建御名方命(持論AD50頃)に敗れて建御名方命を祀る神官となった、そう考えることができます。


≫鉄輪をもって戦ったという説話では、なぜ藤の蔓をもった建御名方神に
≫負けてしまったのかという当然の疑問が出てきます。

洩矢神の鉄輪は黒姫山の褐鉄鉱などを意味するんじゃないかなあ。
信州の安曇氏は褐鉄鉱を採掘しようとした集団、山師であって農耕集団じゃないとみます。
長野の大地みどころ100撰の45回を参照
http://www.janis.or.jp/users/gann/100sen/100sen_mokuji.htm

「ものと人間の文化史32・蛇/吉野祐子」では建御名方命の藤蔓を蛇と見立てていますが、私は金属に対する農耕を表す意として植物で象徴されたのだと考えます。
藤は湿潤な土を好むようで、縄文古来の森と蛇、そして出雲の蛇への見立てで藤蔓に変化したんじゃないかなあ。
(こちらがミシャグチ、この時代に伊勢津彦がでてくるとすればこのラインですが略)

民が求めるのは武器ではなく生活の糧。
建御名方命はその最新の農耕技術によって民心を得て勝利したのではないか。
稲ではなく畑作でしょう、高原野菜ですね(^^;

天孫のお得意の稲も運ばれているでしょうけれど、初期の稲作技術では栽培できる地域は限られていたと思われます。
http://www.janis.or.jp/users/gann/100sen/kawa/asakawa.htm

孝元時代に穂高見系譜が復活し、天孫系の手力雄命(戸隠神社)が祀られたのならば、この頃に出雲系指導者の力が弱まったということでしょう。
建御名方命が幽閉であり、その後裔も出雲の中枢と交流がなかったとすれば、建御名方命後裔のもつ農耕技術は昔と大差のない時代遅れとなっているでしょう。

この時代は寒冷化ピークの時代、食糧不足になれば建御名方命後裔の指導者はより温暖な南の関東平野への移動を考えるほかはなくなると思われます。

他地へはゆかない約定を守りたいがそれでは死ぬ・・
東海の出雲勢力地へは移動しない、だが関東なら・・
ぎりぎりの選択だったのかもしれない。


農耕不振→新しい農地開拓→湖を農地化する、これも対処のひとつと思いますが問題はその技術ですね。
濃尾東海方面では灌漑技術が発達して湖近くの水辺も利用もできるようになっていたかもしれない。

それを導入できたのが濃尾天孫とつながる穂高見命(安曇氏)の後裔であり、復活と同時に戸隠神社の登場でもあると考えることができそうです。
濃尾東海へ鉄を送り出し、対価に食糧を入手した可能性も十分ありそうです。


では中世?において諏訪あるいは建御名方命が再び復活しているのはなぜか・・考慮外です(^^;
ここに島津氏と伊勢津彦との関連、あるいは鎌倉武士団登場との関連があるのではないかと思うのみ。
関東の氷川神社登場にもからむのではないかとも思っています。

なお、戦国時代をはさんだ系譜は信用できないですね。滅ぼして奪えば容易にその系譜になれるし(^^;
ある程度信用できるのは戦国以前に書かれたものまでだと思っていますが、そのあたりは中世を楽しむ方におまかせ。


ps.
「安曇の古代/仁科宗一郎」は古本で入手できると思います。
崇神の末子の仁品親王から嵯峨天皇までの安曇地方の事象を書いた「仁科濫觴記ニシナランショウキ」をベースにされているようです。
巻末に原文がありますが頁数はそれほどではありません。


[5231] Re[5213][5208][5206][5202]: 諏訪と近津社  かたばみ [Mail] [Url] 2004/06/12(Sat) 12:57 [Reply]

≫「ウチアガタ」も、なんとなく「チカト」を連想させます。

近津神社関連については
http://homepage3.nifty.com/nireyamajinja/index.htm
こちらのうぶすな研究室のちかつ神社の項をごらんください。

近津という呼称にいろいろバリエーションもあって、単に「近い津」である場合もありえるので容易じゃなさそうです。
しかし長野県ではほとんどが千鹿頭であり佐久でこれが近津に変化しているので、関東の近津社はこれに関連していることが推定できそうです。
御祭神が出雲系ではあってもハト派?になってるのが多いのはタカ派はまずいよ、の干渉かも。

中枢になりそうな群馬県にはさほど多くないですが、呼称も変化してしまったために関連がわからなくなっているからだろうとみています。
激戦があったゆえにかえって骨まで折られてしまうわけです(^^;

群馬に豊城入彦命(垂仁の兄)を祀る社が多いのもこの地が諏訪の出雲別働隊(^^;との接点だったことを示すものとみています。
咲前神社の呼称は「佐久の手前の社」の意じゃないかな、ある時期の朝廷側の最前線ですね。

他に豊城入彦命を祀る社が多いのが糸魚川を下った地域=高志、沼河比売の地域。
信濃、新潟は後に日本武尊が目指した地域でもあり、これに先行して垂仁時代に豊城入彦命が戦っているのでしょう。

福島県の近津神社では多くが味耜高彦根命を祀っています。なんでここに味耜高彦根命が??
福島県は他にも周辺とは異なる神社系列がみえる特異な地域です。
平安の東北争乱で朝廷側の拠点がおかれ、朝廷側の出雲系氏族がやってきて、その神が後に蝦夷に受け入れられて広まったためではないかと思っています。


余談
出雲熊野大社の東に星上山があって頂上に那冨乃夜神社があります。
現在の御祭神は経津主命、武甕槌命、天之背男命ですが・・
じいちゃんの話では武甕槌命じゃなかった、という那冨乃夜神社紹介ページがあったのですが消えているようでみあたらない。

記紀では星神は悪神になっているのでちとまずいと感じただれかが退治した武甕槌命を加えたのでしょう。
おじいちゃんの話が、というのが正しいなら明治時代以降か。
わずか100年といえど関係情報が消えてしまえば、主客が逆転して解釈されかねない、要注意ですね。


[5230] メールアドレス変更  神奈備 2004/06/11(Fri) 21:04 [Reply]
メールアドレスを変更しました。
表紙の下をご覧下さい。

[5229] 訂正  邪馬台国はどこだ 2004/06/11(Fri) 20:31 [Reply]
803年桓武天皇の頃、本宮築造でした。

これ以降で良いでしょう。
守矢氏、諏訪氏、建御名方は。

江戸時代以前は諏方氏が正しいようですね。

なお、本当の建御名方はAD400年に洩矢神と戦って、
銅鐸の出る柴宮方面に北上したと考えられます。

諏方氏は大和朝廷に追われた銅鐸族の第2波でしょうね。
鉄鐸を使った祭祀は残したわけですから。


[5228] Re[5223][5216][5213][5208][5206][5202]: 建御名方は実在したか?  邪馬台国はどこだ 2004/06/11(Fri) 20:13 [Reply]
百瀬さん、こんにちは。

>>>
> > 実は、
> > 守矢氏資料館の方の話では、
> > 洩矢神が本来の諏訪の神で
> > それは最初の系譜の3代までだという説があるそうです。
>
> 「守矢氏資料館の方」とは、私もちょっと世間話をしたことが
> ありますが、関係者から出た言葉ならば、なんらかの根拠があるのかも
> しれませんね。
> または、第三者の説を単に面白い話題として話しただけなのか…。
>>>

これは、
ご本人は守矢氏は4代千鹿頭から諏訪氏と入ってきた、
と説明されていました。

私にはあまりにうますぎる話なので説と言うに止めたのです。

何故、建御名方も守矢氏も
804年以降が良いかと言うと、

諏訪と建御名方が出てくるのが712年の古事記以降だからです。

次は720年の日本書紀に持統天皇5年8月23日(691年)
信濃の須波水内神等を祭らしむ、と出てくるようです。

後世の
諏訪明神画詞には、神功皇后元年に諏訪、住吉の両神が松浦の虚空に化現した、
とか
諏訪下社大祝武居祝系図略には、建御名方命ー出速雄命ー*ー*ー阿蘇比売神となり、
阿蘇比売と結婚した神武天皇の孫の建五百建命が科野国造になったそうです。
つまり、どちらも出鱈目なのです。

いずれにせよ
神長官敷地裏・神長の墓とされる平安時代の横穴円墳や
その近くの和銅開宝・神功開宝の出た7世紀以降の乞食塚円墳、
建御名方の墓とされる前宮本殿裏・前宮古墳と蛇塚、
その他の土師器・須恵器・馬具を副葬する新しい円墳を考えると
804年の前宮築造で画期するほうが明確です。

>>>
> その説をとるとすると、ひとつ疑問になるのは、洩矢神が建御名方と
> 戦ったという話ですね。
>>>

これは事実でしょう。

周囲の竪穴式石郭の初期前方後円墳を見ると、

甲府盆地南縁に瓢箪塚(4世紀〜5世紀、同氾鏡が群馬・岡山)他11基、
善光寺平に5つの将軍塚(5世紀前半以降)他12基
があるのに対し、
諏訪には後世の下社金刺氏の墓と思われる横穴式石郭の青塚が1基あるだけ。
伊那、飯田も竪穴式前方後円墳は0、2基しかない。

北と南東に大和朝廷系の初期前方後円墳勢力が広がる5世紀には
諏訪・伊那では高部狐塚・神宮寺片山・大熊フネ・大熊片山の
円墳+粘土郭、埴輪無し、馬具無しの独立丘陵墳が築かれている。

異質な勢力が存在したのです。

それは、
前記の通り7世紀以降の守矢氏や諏訪氏の墓ではない。

すると、
洩矢神しか該当しないのです。

>>>
> > すなわちその際、上社前宮に残った守矢氏とは
> > 同族の洩矢神を裏切り出雲系の諏訪氏に寝返った氏族と思われます。
> > 従ってミシャグチ神=洩矢神の祭祀には通暁していたが
> > 決して地元からは誉められぬ氏族だった。
>
> 上記の説をとる場合、洩矢神と建御名方が戦ったという話は、
> その寝返った守矢氏が創作したということになるんでしょうか。
>>>

創作ではなく、戦ったんでしょう。
洩矢神 と 守矢氏・諏訪氏・建御名方が
AD500年前後のことでしょう。


[5227] ありがとうございます  いなり [Mail] 2004/06/11(Fri) 16:23 [Reply]
やはり、ご相談してヨカッタです。。。
私も、色んな所にお参りさせていただいていますが、
神奈備さんのように、深く知りません。
助かりました、一度お参りさせていただきます。
ありがとうございました。

[5226] Re[5215]: 質問  神奈備 2004/06/11(Fri) 15:18 [Reply]
多分
大根地神社
福岡県嘉穂郡筑穂町大字内野字大根地2507-3
祭神 稻荷大神
由緒
大根地神社は天神七代、地神五代の大神を祭る。社伝によれば、「人皇第十四代仲哀天皇の九年三月八日神功皇后羽白熊襲御征伐のとき、大根地山に登り天神七代、地神五代の大根地大神を祭り、親ら神楽を奏し勝ち軍を祈り宿陣す、その霊験著しく容易に熊襲の諸賊を誅滅す」と伝えられ、いとも御由緒の顕著なる神社である。
その後建久三年須佐之男命、大市姫命の二柱の神を合祀、雲閣稲荷大神と称え奉る。古老の口碑によれば「建久三年富士山にあること壱千有余才の神通自在の白孤源頼朝公富士山に御猟の評定ありしときこの山を発し筑紫の内野の根地岳に移り給う」と伝えられ、根地雲閣大明神と称え、その後九州の稲荷の別当の官を崇め奉る。宝永二年三月筑前の国主黒田綱政公当山に御猟の時、不測の御霊験を感じ同年九月石鳥居一門を御寄進される。(俗に無銘の鳥居という、現在冷水峠の参道入口にあり。)その後当神社の守札を嘉麻、穂波両郡(現在の飯塚、山田両市及嘉穂郡)にあまねく頒布することを許さる。
『平成祭礼データ』から

[5225] Re[5220][5219][5218][5208][5206][5202]:湖蹴破り伝承(^^;  百瀬 [Mail] 2004/06/11(Fri) 15:04 [Reply]
かたばみさん、

> 蹴破り伝承の調査、期待しています。

何らかの形でまとめるつもりです。

> 安曇にも松本の北部が湖だったという伝承があるようです。

前の書き込みで書いたように「安曇平(松本平野)」も対象のひとつと
しています。
泉太郎伝説もありますね。
諏訪大明神の化身が山清路を突き破って湖水を千曲川へ流したという
ものです。
泉=安曇=出雲、単なるゴロ合わせですが、なんだか気になります。

古代諏訪湖と古代安曇湖については、下記のサイトをやっている方が
もっとも精力的に調査をしています。
「縄文期の諏訪湖」と「縄文の里・中期考察」のところを見てください。
http://homepage3.nifty.com/yatu/
安曇湖については、今のところアカデミズムでは否定的ですが、
私としては、やはりあったのではないかと推測しています。

> 地元の郷土史家が巨木に舟をつないだなどの伝承をもとに湖の推定を行っています。
> (安曇の古代/仁科宗一郎/昭和47)

別に、アイヌ語地名で安曇湖を推定している人もいるようです。
『安曇の古代』も読んでみたいですが、入手が難しいみたいですね。

> 次いでは建御名方命の子の武水別命の仕事・・ここまでは弥生ないし出雲時代。
> 次いでは建御名方命の後裔の勢力が衰えたころ、穂高見命の後裔の阿居大都命(孝元天皇時代)の仕事

建御名方の子というのが興味深いですね。

> 場所によっては洪水の中に沈み、場所によっては湖が消える。
> このパターンは世界各地に発生した可能性があります(気候と文明の盛衰/安田喜憲)。

特に盆地は古代に湖だったところが少なくないみたいですね。
蛇足ですが、御柱祭と似ていると言われるインドラ・ジャトラは、ネパールの
カトマンドゥのネワール族によるもので、カトマンドゥ盆地も古代には大きな湖だった
ことが判明しています。
ここにもやはりかつては湖だったという伝説があって、それが照明されたという
形になっています。

[5224] Re[5218][5208][5206][5202]:諏訪と伊勢津彦  百瀬 [Mail] 2004/06/11(Fri) 14:39 [Reply]
かたばみさん、こんにちは。
回答および更なる情報をありがとうございます。

> 国譲り後(AD50以降)に出雲の中枢となったのが大和で、AD250頃に天孫に制圧されたと考えています。
> 記紀は国譲りを神代の話に移動し、その後の200年ほどの出雲の状況は削除し、神武以降の年代を改竄した。

国譲り後に出雲の中枢となったのが大和だという点は別として、
記紀の「改竄」の手口を暴くことによって正しい歴史が見えてくるというのは
たしかでしょうね。

> 諏訪のミシャグチ神との関わりをみる場合はこちらです。
> 到来した建御名方命に敗れて従うことになった洩矢神→守矢氏(諏訪神社の神官)の祖である可能性あり。
> 洩矢神は鉄輪をもって戦ったという伝承があるので、鉄ではないにせよ洩矢神が単なる縄文系とは考えにくく、外部からの到来者がなんらかの文化を運んでいたと考えられます。

守矢氏が純粋な縄文人ルーツだとは考えにくいという点では同意できます。
鉄輪をもって戦ったという説話では、なぜ藤の蔓をもった建御名方神に
負けてしまったのかという当然の疑問が出てきます。
これについて、数日前に紀伊国屋書店で立ち読みした『お諏訪さま 信仰と祭り』
(諏訪大社・監修、勉誠出版)という出たばかりの本で、興味深い話が
書かれていました。
いまその本を取り寄せ中で手元になく、うろ覚えなんですが…。
それによると、藤の蔓というのは、古代には砂鉄を採集するための道具の役割を
もっていたそうなんです。
なので、主に葦や茅などの植物の根元に生成する渇鉄鉱の団塊(スズ)を原料として
製鉄を行っていた守矢氏が、砂鉄を原料とする、より高度な(?)製鉄法を
もっていた出雲族に負けたということです。

> 甲斐武田氏流に志摩氏、島氏があり、また武田信玄に対抗した諏訪氏は多臣族(オホ族)で建御名方命の後裔ともされます。

諏訪氏は多臣族というのは、例の阿蘇氏系図を根拠とするものでしょうが、
最近この説がどうも怪しくなってきたみたいです。
詳しくはこちらを見てください。「いわゆる「阿蘇氏系図」をめぐって」です。
http://user1.matsumoto.ne.jp/~fukusima/yamakawa.htm

私の考えでは、下社大祝の金刺氏とのつながりはまだ可能性があるとして、
上社大祝家(諏訪氏)と阿蘇氏のつながりはないと思っています。
上社も下社も多氏系となると、建御名方神との関係がなくなってしまうし。

[5223] Re[5216][5213][5208][5206][5202]: 建御名方は実在したか?  百瀬 [Mail] 2004/06/11(Fri) 14:13 [Reply]
邪馬台国はどこださん、こんにちは。はじめまして。

> 実は、
> 守矢氏資料館の方の話では、
> 洩矢神が本来の諏訪の神で
> それは最初の系譜の3代までだという説があるそうです。

「守矢氏資料館の方」とは、私もちょっと世間話をしたことが
ありますが、関係者から出た言葉ならば、なんらかの根拠があるのかも
しれませんね。
または、第三者の説を単に面白い話題として話しただけなのか…。

> 建御名方も諏訪氏も守矢氏も
> 大和朝廷が804年に上社本宮を作ってからの氏族
> と考えたほうが良いようです。

その説をとるとすると、ひとつ疑問になるのは、洩矢神が建御名方と
戦ったという話ですね。

> すなわちその際、上社前宮に残った守矢氏とは
> 同族の洩矢神を裏切り出雲系の諏訪氏に寝返った氏族と思われます。
> 従ってミシャグチ神=洩矢神の祭祀には通暁していたが
> 決して地元からは誉められぬ氏族だった。

上記の説をとる場合、洩矢神と建御名方が戦ったという話は、
その寝返った守矢氏が創作したということになるんでしょうか。

[5222] Re[5214]: 建御名方  百瀬 [Mail] 2004/06/11(Fri) 13:57 [Reply]
ペギラさん、こんにちは。はじめまして。

> 古事記の記述を見てみると、大国主のもう一人の子供だと出てくるが、
> 大国主の系譜にはこの建御名方神はいない。
> 母親が高志の沼河比売だということも書かれていない

この2神が結びつくのは『先代旧事本紀』でしたね。
『出雲国風土記』だと、その子神は御穂須須美になっている。
そのためタケミナカタ=ミホススミ説が出てくるわけですが、
私にはまだ確信がもてません。

> http://tohyamago.com/10-sizen/16-chuoh/index3.html

タケミナカタロードの話は、前から知っていました。
「聖地はなぜ活断層の上に多くあるか?」というのも、面白いテーマですが、
これはまた別の機会(場所)で。
だいたい諏訪というのは、中央構造線と糸魚川−静岡構造線が
交わるところで、また日本列島の重心にあたるところという
意味でも「日本のヘソ」で、そういう土地を目指して縄文の時代から
いろんな人々が集まってくるというのも面白い話です。

中央構造線といえば、東へ行くと鹿島の下あたりを通っている
可能性があるようです。
そうなると、「諏訪−鹿島レイライン」の存在が気になります。
いわゆる諏訪−鹿島版「太陽の道」です。
鹿島神宮の真西に諏訪大社があるというのを最初に言い出したのは
『大和の原像』の小川光三氏ではないかと思いますが、これは
正確な記述ではありません。
私が調べたところでは、上社の御神体山である守屋山山頂と鹿島神宮の
本殿がほぼ同じ緯度になります。
杖突峠と鹿島神宮の要石の場合はもっと正確に同緯度になるようです。
国譲り神話のタケミナカタとタケミカヅチの関係を考えると、
このレイラインが偶然によるものとは思えません。

しかし、ここで疑問となるのは、国譲りでの勝者・敗者の関係です。
もし上記の緯度上の相関関係が成り立つとすると、守屋山にしても
杖突峠にしても、山が動くはずはないから、鹿島の方が諏訪に位置を
「合わせた」ことになり、非常に不可解です。
なぜ、その逆ではないのか?
ここに、隠された大きな謎があるように思えます。

次に糸魚川−静岡構造線に目を向けると、どうしても高志の沼河比売の
存在が気になってきます。
大国主との「美しいラブロマンス」と言われたりしますが、高志に
伝わる説話によると、もっと強引な結婚だったようで、その悲話が
伝わっています。
この姫川流域のルート上には沼河比売の伝説が各地に残っていて、
また翡翠の採集ということでも重要な地域でした。
沼河比売の子が御穂須須美であるという『出雲国風土記』の記述は、
高志の翡翠が海上ルートで出雲へもたらされたことと関係あるでしょう。
そして建御名方神が沼河比売命の御子だとすると、この神が高志で
生まれた可能性も考えなければならない。
また縄文人たちの柱建ての祭祀跡がある遺跡の分布を考えると、
「おんばしら」が伝わった道という捉え方もしなければならず、
いろんな意味でこの2つの構造線は重要な意味をもっているようです。

> 弥生時代に諏訪へ入った銅鐸祭祀は、浜名湖東岸から来ている。
> 日本海側・沼河からは、来ていないということです。
> だから南方刀美か!なんてね。(^^;)

北ルートか南ルートか、どっちをとるか難しいところですね。

[5221] Re[5218][5208][5206][5202]:諏訪と伊勢津彦  邪馬台国はどこだ 2004/06/11(Fri) 02:02 [Reply]
伊勢津彦は磯部氏・石部・忌部・卜部・麻積氏が奉じる神で
特徴はあまり神社が残らないことです。
安曇氏は磯羅を祭る海神社が残るから
跡をたどれる。

麻積氏と安曇氏は同族で似ているが祭る神が違う。
どちらも新羅系海神族です。
しかし信濃に麻積郷があり、善光寺中衆は若麻積と言うようなので
伊勢津彦は信濃に入っているんですね。

加茂氏、三輪氏、諏訪氏は海神族ではなく、
農耕新羅ですから、諏訪氏と麻積氏は別です。

建御名方は信濃まで逃げたのですから
農耕新羅でしょう。
海神系新羅は海に入り滅びた兄のほうでしょう。

伊勢津彦(磯部氏・麻積氏)が伊勢を追われたのは
1回目は八風に乗って信濃国に逃れたAD400年頃で、
2回目は三位麻積王が因幡に、一子が伊豆に、
一子が血鹿島に流された天武4年でしょう。







[5220] Re[5219][5218][5208][5206][5202]:湖蹴破り伝承(^^;  かたばみ [Mail] [Url] 2004/06/11(Fri) 01:36 [Reply]

≫共通するところは、かつて大きな湖だったのを、龍とか巨人がやってきて
≫湖水を川に流すことによって肥沃な大地が現れたというものです。

蹴破り伝承の調査、期待しています。

安曇にも松本の北部が湖だったという伝承があるようです。
地元の郷土史家が巨木に舟をつないだなどの伝承をもとに湖の推定を行っています。
(安曇の古代/仁科宗一郎/昭和47)

湖が農地化するいくつかの説をあげており、
最古は神代で綿津見の子、宇津志日金析命などの仕事とする。
次いでは建御名方命の子の武水別命の仕事・・ここまでは弥生ないし出雲時代。
次いでは建御名方命の後裔の勢力が衰えたころ、穂高見命の後裔の阿居大都命(孝元天皇時代)の仕事
等々

宇津志日金析命はホツマツタエでの金析命と思われます、記紀での住吉神に対応する神のようです。
海神が山中に登場しているわけです。

先代旧事本紀での天造日女命(安曇氏の祖)の登場が別の形で伝わっているのが宇津志日金析命ではなかろうか。
「金析」カナサキという文字にも注目です。
安曇氏も金属に関連する行動をおこなっており、その拠点に安曇の地名が生じた可能性がみえてきます。
(黒姫山周辺は褐鉄鉱の大鉱床です)

建御名方命勢力が衰えたのが孝元天皇時代というのが興味深い。
持論の寒冷化ピーク→南の関東平野へ移動していった、に対応します。
それが前に書いた咲前神社伝承にもなってゆく。


湖消滅では、BC2000ころの寒冷化に伴う異常気象による洪水で短期間に湖や沼沢が堆積物で埋まって現在の地形になっていった可能性もあると思います。
土石流が水をどーんと押し流してダム決壊みたいな状況も生じるでしょうから、巨人が蹴破ってといった神話に変化しやすそうです。

場所によっては洪水の中に沈み、場所によっては湖が消える。
このパターンは世界各地に発生した可能性があります(気候と文明の盛衰/安田喜憲)。

日本は縄文時代で山が主体の生活ですから洪水より湖が消えることが目立ったかもしれない。
そのために日本にはっきりした洪水神話がなく、代わりに湖消滅神話が登場するのかも知れません。


[5219] Re[5218][5208][5206][5202]:諏訪と建御名方命  かたばみ [Mail] [Url] 2004/06/11(Fri) 01:26 [Reply]
諏訪の地名は「周防(須波宇)」を建御名方命が運んだもので、建御名方命の根拠地も周防灘沿岸部にあったとみています。

下図は細型銅矛、広型銅矛、銅鐸の分布図です(銅鐸/藤森栄一より)
http://tokyo.cool.ne.jp/woodsorrel/data/doutaku_bunpu.png

QUBOさんの書かれている阿蘇の「建磐龍(タケイワタツ)命」、阿蘇にも広型銅矛が少なからず出土してますね。

広型銅矛の分布地、これが初期の多臣族(オホ族)の勢力地におおよそ一致と考えています。
多臣族の祖は神八井耳命、神武の子であり出雲の媛踏鞴五十鈴媛の子でもある。
天孫と出雲の合体氏族です。

綏靖、安寧も出雲娘を妃にし、その子が王となっていた時代。
倭国争乱のはじまる前までは天孫と出雲の平和的共存時代とみております。

(繰り返しますが、記紀に仕掛けられた神武東征説話の呪文をはねかえすことが必要です(^^;;;)

神武と媛踏鞴五十鈴媛の結婚が事実なら、神武と大国主命はほぼ同時代の人物になります。
出雲が譲ったという地域は豊前豊後(持論の中枢部分(^^;)。
その地域で天孫と出雲の合体がはじまる。

多臣族は倭国争乱時代に天孫と出雲の中間氏族として九州北部〜瀬戸内〜日本海側で重要な働きをし、後の応神登場の中枢になっているとみています。
記紀に倭国争乱がなにも書かれておらず、多臣族はあいまいな存在になっていますけれど、後の各地に「意富」が登場することに注目です。


≫銅鐸といえば加茂氏や美和氏との関係を思わせますが、その地域からすると安曇氏の関係でしょうか。

大型銅鐸の存在は倭国争乱時代の出雲祭祀とイコールだと考えています。

先代旧事本紀で天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊の降臨に随伴して天造日女命(安曇氏の祖)があります。
天造日女命、「造」にこだわるならばその原料を山中に探しにゆくこともあったかも。
信州での安曇はそういった人々の行動の痕跡かもしれない(銅鐸時代以前です)。
その行動は天竜川→伊奈→諏訪→安曇となるでしょう。

饒速日降臨の随伴者には天香語山(尾張氏祖)や天牟良雲命(度会氏祖)など天孫系随伴者が並びます。
ある時代に「東海で出雲と天孫が混合していた」のであれば、かつ銅鐸時代の東海に出雲祭祀があったことを示すのが三遠式銅鐸であるなら、これが安曇氏の後裔のいる地域へ天竜川遡上で運ばれるかもしれない。

饒速日降臨時の随伴者に天櫛玉命(鴨縣主祖)という出雲系の祖が含まれていますが、天孫の降臨に出雲系が随伴していたとは考えにくく不可思議です。
しかし、東海で出雲と天孫が混合していたのであれば、その状況から旧事本紀編纂者が出雲系の祖を付け加わえたのだとみることができます。

http://tokyo.cool.ne.jp/woodsorrel/data/kannabi155.html
で書いている孝昭大王の妃の部分のごときも空想できるわけです。

なお鴨氏族は2流の合体とみています。単純には味耜高彦根命系(出雲神族、瀬戸内)と天神玉命系(子が天櫛玉命、神魂尊流、日本海)です。

国譲り以降の出雲は素盞鳴尊系譜の出雲神族と天孫である天穂日系譜の出雲臣族の合体。
鴨氏族もその流れのなかから登場とみています。

建御名方命の諏訪へのルートは日本海側、糸魚川遡航じゃないかな。
そのルート上に母とされる沼河比売があるのは自然、というより母の縁者を頼って諏訪にはいったのかもしれないなあ(AD50頃)。

建御名方命とその後裔は国譲り以前(大国主命以前)、すなわち素盞鳴尊系譜の意識を強く持っていたと考えています。


[5218] Re[5208][5206][5202]:諏訪と伊勢津彦  かたばみ [Mail] [Url] 2004/06/11(Fri) 01:16 [Reply]
≫伊勢津彦が諏訪に入ったというのは、どのへんに根拠がありますか?

これらはみな年代と前後関係の流れからの判断なので物証的根拠はありません(^^;
以下のような持論の流れの中でのふたつの可能性をみています。
−−−−
国譲り後(AD50以降)に出雲の中枢となったのが大和で、AD250頃に天孫に制圧されたと考えています。
記紀は国譲りを神代の話に移動し、その後の200年ほどの出雲の状況は削除し、神武以降の年代を改竄した。
神武東征説話はその間の200年間の事象をひとまとめにして神武ひとりの事跡として再構成されたもの。
(風土記もこれと異なることを許されていない)
−−−−
以下いろいろ錯綜して毎度長くなります(^^;


ひとつの可能性。
伊勢風土記逸文の神武東征で追い出されたという記述は、伊勢に外部の氏族が到来した事象=神武東征、とみなして地元伝承をこれに習合したもの、と考えています。
この場合は伊勢津彦はAD250頃の人物で、出雲が大和に拠点を設けて後に伊勢に進出した出雲臣の後裔といったところでしょう。
出雲崩壊時に近畿から少なからぬ出雲要人が関東方面へ脱出したとみていますが、そのひとりとなります。

もうひとつの可能性。
先代旧事本紀のいう天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊の到来で追い出された人物という判断です。
(記紀にいう天孫降臨と同時代、BC100頃と推定)
伊勢津彦は弥生早期に伊勢志摩に先住していた人々(初期開拓者)と出雲の近畿進出による合体氏族。

初期開拓者についてはHPをごらんいただくか、少し前に出した物語に概要を書いています。
(物部氏について若干を追加しました)
http://tokyo.cool.ne.jp/woodsorrel/data/kannabi155.html

諏訪のミシャグチ神との関わりをみる場合はこちらです。
到来した建御名方命に敗れて従うことになった洩矢神→守矢氏(諏訪神社の神官)の祖である可能性あり。
洩矢神は鉄輪をもって戦ったという伝承があるので、鉄ではないにせよ洩矢神が単なる縄文系とは考えにくく、外部からの到来者がなんらかの文化を運んでいたと考えられます。

建御名方命より以前にそういう文化を運び得るのは出雲か天孫、加えて初期開拓者。
伊勢津彦は初期開拓者の後裔で伊勢付近に定住していたが、饒速日の到来で追い出されたとみれば、各事象がうまくつながってきます。
(安曇氏とも無縁ではなくなる、後述)


なぜ諏訪か・・ますます危うくなりますが(^^;

鹿児島県には建御名方命を祀る社が多く、特に南方神社は諏訪と島津氏の関連から登場している社です。
新編姓氏家系辞書/太田亮によれば、九州島津氏は伊勢国に粗領をもっています。
出典不明なのですが島津氏は信州にも飛び地の領土を持っていたらしい。
九州島津氏は源頼朝によって薩摩大隅の守護職となってからの台頭でその出自は不詳。

さて、
島津国造は出雲臣系(伊勢津彦系)で島津は志摩津でしょう。
この後裔の姓は「島直」(島氏)で、島直には物部流もあって伊豆国造でもあります。
伊勢津彦は単に東国へ追われただけではなく、物部氏の祖と結合していた可能性も推定できそうです。

甲斐武田氏流に志摩氏、島氏があり、また武田信玄に対抗した諏訪氏は多臣族(オホ族)で建御名方命の後裔ともされます。

系譜上で島津国造と九州島津氏はつながりませんが、九州島津氏が諏訪社や建御名方命を崇敬することと、所領の関係から無関係とは考えにくい。
平安時代あたりに島津国造系譜と、なんらかの西日本系氏族の合体が九州島津氏の祖じゃないかとみています。

九州島津氏が信州に所領を持っていたことがキーワードになりそうですが手が回らず、伊勢津彦と諏訪に関してはいまのところこれ以上にはなっていません。


[5217] あれ切れた。  邪馬台国はどこだ 2004/06/11(Fri) 00:05 [Reply]
本来の建御名方はどうしたか?

これは柴宮銅鐸の出たあたりまで北上していたと思われます。
そして、
大御立座神事と似た神事が日本海側の能登の羽咋市の気多神社大祭にあるのも
同じ戦法を取った為と思われます。
ここも銅鐸は出ない。
その南の河北郡から出る。
諏訪と一緒です。

つまり、
諏訪氏は銅鐸の祭祀を
守矢氏はミシャグチ神の祭祀を
変形させながらも続けることを大和朝廷から許された。
裏切りの報酬でしょう。

[5216] Re[5213][5208][5206][5202]: 建御名方は実在したか?  邪馬台国はどこだ 2004/06/10(Thu) 23:46 [Reply]
大変興味のある話題ですので私見を述べさせていただきます。

所詮諏訪大社の建御名方も諏訪氏も守矢氏も大和朝廷系か?
最近どうもそう思えてきました。

神長守矢氏の前宮の周囲には
縄紋中期からの遺跡と
古墳時代の円墳はあるが
何故か弥生遺跡は無い。

神長やその一族は内県、小県の神使にはならず、
何故か外県=山の向こうの伊那地方の神使を専門に出した。

神使は地元のミシャグチ神の使いの筈なのに
何故か氏子から虐待・殺害された。

実は、
守矢氏資料館の方の話では、
洩矢神が本来の諏訪の神で
それは最初の系譜の3代までだという説があるそうです。

4代目の千鹿頭からの守矢氏は諏訪氏と一緒に諏訪に入ってきたとのことで
もともとは伊那の出だそうです。

従って、

> > > 建御名方命の子とされる千鹿頭  を祀る千鹿頭神社が諏訪にあります。
> > > 佐久市に近津神社がありこの旧名が千鹿頭神社です(大蛇が縁起)。
> > > 近津神社は関東平野の周辺の山岳と接する位置に多数あり、諏訪から関東平野へ進出した狩猟と農耕半々の人々に関連する社だろうとみています。

・・・・・

> さきほど気がついたんですが、『神長官守矢資料館のしおり』の
> 「守矢市系譜」を見ると、
>   「洩矢神…洩矢ノ神−守宅ノ神後守田ノ神−千鹿頭ノ神−児玉彦命」(以下省略)
> とあります。
> つまり千鹿頭神は守矢氏の祖神のようですね。

というのは正しいですが、
建御名方も諏訪氏も守矢氏も
大和朝廷が804年に上社本宮を作ってからの氏族
と考えたほうが良いようです。

すなわちその際、上社前宮に残った守矢氏とは
同族の洩矢神を裏切り出雲系の諏訪氏に寝返った氏族と思われます。
従ってミシャグチ神=洩矢神の祭祀には通暁していたが
決して地元からは誉められぬ氏族だった。

弥生遺跡が無く、横穴式円墳から始まるのは
守矢氏=諏訪氏の侵入がAD5〜700年くらいの傍証である。
侵入が弥生時代なら弥生遺跡や銅鐸が残るはずですから。

では本来の

[5215] 質問  いなり [Mail] 2004/06/10(Thu) 18:00 [Reply]
誰かご存知の方、教えて下さい。
九州に祭られている「お稲荷様」で、そのお稲荷様は、昔、富士山の噴火した時に、
富士山に祭られているお稲荷様の一部(岩?)が飛んできて、
その地でお祭りされているらしい。と言う伝説のあるお稲荷様をご存じないですか?
白雲狐(?)とも呼ばれているらしいです。
或いは、白い衣類を纏った仙人のような老人と狐の掛け軸があるようなところかもしれません。
もし解ったら教えて下さい。

[5214] 建御名方  ペギラ 2004/06/10(Thu) 11:26 [Reply]

諏訪に神様がいることは、日本書紀の時代に記録があります。
持統紀五年八月二十三日
「信濃の須波、水内等の神」
このあたりの記述を見ると風の神様って感じがします。神風の・・(伊勢津彦)

この神様が建御名方を名乗るのは、推測、奈良時代。
大同元年牒 新抄格勅符抄に「建御名方冨命神 七戸」

謎が謎呼ぶ面白いネタですね。

古事記の記述を見てみると、大国主のもう一人の子供だと出てくるが、
大国主の系譜にはこの建御名方神はいない。
母親が高志の沼河比売だということも書かれていない

http://tohyamago.com/10-sizen/16-chuoh/index3.html
ここの話も結構面白い提示ですが、

実はバラバラだった建御名方神系諏訪の説話は古語拾遺でつながる。

古語拾遺の世界で天地割判之初天中所生之神に出てくる
天太玉命(齋部宿禰)
天日鷲命(阿波国忌部)
手置帆負命(讃岐国忌部)
彦狭知命(紀伊国忌部)
櫛明玉命(出雲玉作)
天目一箇命(筑紫国・伊勢国忌部)

そして鉄鐸=佐那伎と出てくる磐戸の話の処に出てくる神
長白羽神【伊勢國麻続祖。今俗、衣服謂之白羽、此縁也。】種麻、以爲青和幣。【古語、爾伎弖。】
天日鷲神與津咋見神穀木種殖之、以作白和幣。【是木綿也、巳上二物、一夜蕃茂也。】
天目一筒神作雜刀・斧及鉄鐸。【古語、佐那伎。】
天鈿女命 手持着鐸之矛、而於石窟戸前覆誓槽、【古語、宇気布禰。約誓之意。】
○鉄鐸の現存している諏訪の神社と忌部記述の祭祀が繋がる。

日本書紀本文文注にある一伝に星の神・香香背男と彼を退治する倭文神建葉槌命が出てくる。
この倭文神も古語拾遺に出てくる。
○天羽槌雄神【倭文遠祖也。】織文布。令天棚機姫神織神衣。所謂和衣。
この神様系、葛城にもいる。葛木倭文坐天羽雷命神社。

伊勢国風土記逸文
伊勢津彦を退治するのが天日別(天日鷲命)
○天日鷲神與津咋見神穀木種殖之、以作白和幣。【是木綿也、巳上二物、一夜蕃茂也。】

建御名方神の妻
八坂刀売は天白羽鳥命(神麻績連祖)の孫だという系譜もある。

そして阿波の名方

私的には中臣(建甕槌神・経津主神)に対抗する忌部の姿に見えてきて仕方がない。
出雲の神や鴨の神を使って。

銅鐸の話もでていましたので、少し。
塩尻の大門神社(旧柴宮八幡社)境内に近い養福院の敷地内・
市立大門保育園新築建設現場で発見された銅鐸は三遠式です。
その類似銅鐸は、遠江の敷地・芳川・中川の銅鐸です。
ということは、銅鐸の流れは天竜川を遡って行ったと言うことです。

弥生時代に諏訪へ入った銅鐸祭祀は、浜名湖東岸から来ている。
日本海側・沼河からは、来ていないということです。
だから南方刀美か!なんてね。(^^;)

[5213] Re[5208][5206][5202]: 建御名方は実在したか?  百瀬 [Mail] 2004/06/09(Wed) 22:44 [Reply]
かたばみさん、こんにちは。百瀬です。
ちょっと自分の書き込みに補足します。

> > 建御名方命の子とされる千鹿頭を祀る千鹿頭神社が諏訪にあります。
> > 佐久市に近津神社がありこの旧名が千鹿頭神社です(大蛇が縁起)。
> > 近津神社は関東平野の周辺の山岳と接する位置に多数あり、諏訪から関東平野へ進出した狩猟と農耕半々の人々に関連する社だろうとみています。
>
> 千鹿頭というのは、なんだか鹿島神宮への当てつけみたいな名前ですね。
> 御頭祭に関係あるのかと思ったら、やっぱりそうみたいですね。

さきほど気がついたんですが、『神長官守矢資料館のしおり』の
「守矢市系譜」を見ると、
  「洩矢神…洩矢ノ神−守宅ノ神後守田ノ神−千鹿頭ノ神−児玉彦命」(以下省略)
とあります。
つまり千鹿頭神は守矢氏の祖神のようですね。
豊田の千鹿頭神社の祭神の「内県神(建御名方神の御子神)」は、もともとは
「洩矢神の〜」だったのだと推測します。
「ウチアガタ」も、なんとなく「チカト」を連想させます。

ところで蛇足ですが、この「チカト」という神名をアイヌ語(縄文語)で
解釈しようとすると、「チカップ(cikap)=(大きな)鳥」、「トー(to)=湖、沼」で、
「チカップ・トー→チカトー」、つまり「鳥のいる湖」となるんですが…。
そういえば、諏訪湖はかつて「鵞湖」と呼ばれていたようですね。
以上、単なる思い付きレベルなんで、あんまり真面目に読まないでください。^^;

[5210] Re[5209]: 続・質問  神奈備 2004/06/08(Tue) 16:56 [Reply]
> が、そしたら話しは早いです。「里神」と「垣内神」も教えてください。

『紀伊国続風土記』日高郡寒川荘を見ますと
初湯川村の東に瀧頭村があり、そこには里神社が記載されています。

文面からもご承知の通り、小生の推測を書いているのに過ぎません。
貴殿は『美山村史』とか上阿田木神社の宮司さんや教育委員会に問い合わせるとか、やって下さい。
出来ましたら、その結果を教えて下さい。

[5209] 続・質問  高西忠清 [Mail] 2004/06/08(Tue) 08:25 [Reply]
上阿田木神社をしっていたのですか。
まさかこんなにも早くピンポイントで答えがかえってこようとは思いもしませんでした。が、
そしたら話しは早いです。「里神」と「垣内神」も教えてください。

また、各地の「河内明神社」の「河内神」を祀っていると思いますが、なぜ「猪谷村の河内明神社」だけ「猪谷神」なのでしょうか。それとも前提の各地の「河内明神社」の「河内神」を祀っていると言うのが間違っているのですか。

[5208] Re[5206][5202]: 建御名方は実在したか?  百瀬 [Mail] 2004/06/08(Tue) 01:37 [Reply]
かたばみさん、こんにちは。はじめまして。

> http://cgi.coara.or.jp/~fukura/uetufumi/index.html
> ウエツフミの第7綴11章、第8綴18章20章に、建御名方命の話が書かれています。
> ここでは建御名方命の別名を御穂須々美命としており、この名は出雲風土記で大国主命の子として書かれています。

ウエツフミのサイトの情報、ありがとうございます。
あとでゆっくり読んでみます。
建御名方命=御穂須々美命は、私も現時点ではそうではないかと
思っています。
御穂須々美命は出雲側の呼ばれ方だったのではないかと。
それでは何故、荒神谷遺跡を取り囲んでいる神社の祭神が御穂須々美命
ではなくて建御名方神なのかという疑問はありますが。
国譲りの建御名方とタケミカヅチの話が創作か事実かは別として、
この話が日本書紀で削られているのは、大和体制に組み込まれた出雲系の人々に
気を使ったためだという説もありますね。
「気を使った」ではなくて別の表現だったと思いますが。

> ウエツフミでも先代旧事本紀でも建御名方命は武甕槌命と戦っています。状況はちょっと違いますけれど。
> これらの記述をどこまで信じるかは、おくとして・・

そうなんですか。どう解釈すべきか…。

> 私の空想する建御名方命は・・(年代推定とその前後関係のつながりが大事なんですが略)
> 大国主命の子に事代主命と建御名方命の二人がいて、「ある地域」を支配していた。
> 「天孫」がその土地を武力を背景にして要求、大国主命と事代主命はやむなく国譲りを承諾した。
> (大国主命は「ある地域」から引っ越しする、その引っ越し先が杵築大社/出雲大社と推定)

その「ある地域」が大和だとか…。
私はそうではないかと現時点では思っていますが。

> 単に武人として戦って敗れたのではない、出雲首脳部の指示に逆らった人物、これがポイントです。

なるほど。参考になります。

> 建御名方命の子とされる千鹿頭を祀る千鹿頭神社が諏訪にあります。
> 佐久市に近津神社がありこの旧名が千鹿頭神社です(大蛇が縁起)。
> 近津神社は関東平野の周辺の山岳と接する位置に多数あり、諏訪から関東平野へ進出した狩猟と農耕半々の人々に関連する社だろうとみています。

千鹿頭というのは、なんだか鹿島神宮への当てつけみたいな名前ですね。
御頭祭に関係あるのかと思ったら、やっぱりそうみたいですね。

> その境界は碓氷峠、碓氷峠の東の安中市の咲前神社には建御名方命と経津主命が戦ったという伝承があるようです。
> 弥生末期〜古墳時代あたりに諏訪から南下した建御名方命の子孫と関東平野側の人々が戦ったことが伝説化したのではないかと考えています(寒冷化による南下と推定)。

そういう話を知ると、やはり何らかの史実をもとにした伝承ではないかと
思いたくなりますね。

> ちょいと銅鐸の話。
> 長野県から2個の銅鐸がでています(塩尻市の大門神社境内、松本市勢伊多賀神社所蔵)。
> 三遠式と呼ばれる浜松周辺から多数出土する形式で島根や大和の銅鐸と少し違ったデザインです。

銅鐸といえば加茂氏や美和氏との関係を思わせますが、その地域からすると
安曇氏の関係でしょうか。
安曇氏といえば、八坂刀売命が安曇氏の女だという説があるみたいですね。
これもまた、情報量が少ないという意味でも謎の女神のようですが。
ついでに書けば、建御名方神のルーツについて考えるならば、沼河比売の
存在も無視できないでしょう。

> 伊勢津彦は建御名方命より150年ほど先に諏訪へはいった可能性があるとみています。
> 神武東征時代の人物じゃない。先代旧事本紀のいう天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊が降臨したときに追い出されて東国へ引越した人物・・

伊勢津彦が諏訪に入ったというのは、どのへんに根拠がありますか?

> ≫湖水を川に流して人工的に干拓し、湿地を利用して稲作をした可能性はないだろうか
>
> あるかもしれないですね。

諏訪湖と宍道湖について書いてしまいましたが、あれはあくまでも「夢想」ですので…。
でも、各地にそのような伝承が残っているところに強い関心があります。
諏訪湖については、地質学的に見て人為的な操作をするのは、あの時代では
難しいのではないかと。

> 奈良盆地がひょっとするとそうではないかと空想しています。
> 前にもだしましたが
> http://tokyo.cool.ne.jp/woodsorrel/data/narako.jpg

素晴らしいですね。
実は、かつて盆地や平野だった土地が大きな湖だったという伝承が
全国各地に残っていて、奈良盆地もその一つとして注目していた
ところです。
亀石の民話などもありますね。
そういうサンプルを集めることを、数日前から始めたばかりなんですが、
いままでのところ、阿蘇山、丹波・篠山、安曇平、甲府盆地、遠野盆地、
大和盆地、上田盆地、日田盆地、福井平野にそういう民話伝説があります。
共通するところは、かつて大きな湖だったのを、龍とか巨人がやってきて
湖水を川に流すことによって肥沃な大地が現れたというものです。
諏訪湖の場合は、湖が現存しているわけですが、古代にはもっと大きな湖
だったようで、龍が諏訪湖を壊して天竜川ができたという伝説がある
みたいです。
この辺はある程度の史実をもとにしているようですが、それがいつ頃の
時代に起きたのかというようなデータがまだちょっと集まっていません。
前の書き込みで、諏訪湖とか宍道湖とかの「夢想」を持ち出したのは、
そういうことが実際に出雲系の人々によって行われていたとしたら
面白いなと思っているわけですが…。

上記の民話に話を戻すと、これらは金属精錬の民が鉄器を利用した
大規模な工事を行った話をもとにした伝説だという説を谷川健一氏
あたりが出しているようですが、まだ一次資料にあたっていないので
詳細はわかりません。
どなたかご存知ですか?

> 奈良盆地の等高線をたどるとこうなります。
> 縄文集落は黒、弥生集落は白、丸は古墳、ちょん付きは前方後円墳、四角は方墳です。
> 釣り鐘マークは銅鐸出土地。

特に縄文集落がみごとにかつての湖畔に点在しているところが素晴らしいですね。
こういう資料が欲しかったんです。
古代の諏訪湖にも、同様の資料があります。

> 大和川の矢印部分の1kmほどを深く開削すれば水色→青→紺色と水位が下がります。
> 縄文遺跡は水色部分にはなく、弥生遺跡が水色部分に登場。
> 青部分に遺跡はない(例外的に島の山古墳がありますが島という名に注目です)

そういう作業を実際に行った人々がいたとしたら、それは大和の先住民としての
出雲系の人々ではないかと思うんですが、どうなんでしょう。

[5207] Re[5203][5202]: 建御名方  百瀬 [Mail] 2004/06/08(Tue) 00:10 [Reply]
QUBOさん、こんにちは。はじめまして。

> > 私は、諏訪大社の祭神である建御名方神についていろいろ調べていくうちに、
>  * 「建御名方って本当にいた」のでは?との疑問を抱くようになりました。

ちょっと書き方が悪かったかもしれませんが、自分の中では、建御名方神が
実在したという可能性の方が強く、いろいろ調べていくうちにちょっと
疑問が湧いた、ぐらいの意味で取ってください。

>  *「タケミカヅチ」こそが創られた神、神名なのではと

私もそちらの可能性の方が強いと思っています。
建借間命を元にして作られた神ではないかとか。

> *阿蘇の「建磐龍(タケイワタツ)命」も、阿蘇連山にあった湖を、連山の
>  一部を蹴破って、水を流し、人が住めるようにしたとの伝説が有ります。

その説話は知っています。
阿蘇と諏訪といえば、阿蘇氏と諏訪大社大祝家の金刺氏を連想して
興味深いものがあります。

> 私は意見が異なるからこそ、意見交換の意味があると思っています。
> こちらこそ今後ともよろしくお願いします。

たしかにそうですね。こちらこそよろしくお願いします。

[5206] Re[5202]: 建御名方は実在したか?  かたばみ [Mail] [Url] 2004/06/07(Mon) 21:23 [Reply]
百瀬さん、こんにちは。

≫「建御名方って本当にいたのか?」という疑問を抱くようになりました。

書かれていない=存在しないにはならないですね。
逆に書かれている=実在(事実)というわけにもいかないですね。
出雲神話をどう解釈するか、これによって建御名方の解釈もいろいろになりそうです。

http://cgi.coara.or.jp/~fukura/uetufumi/index.html
ウエツフミの第7綴11章、第8綴18章20章に、建御名方命の話が書かれています。
ここでは建御名方命の別名を御穂須々美命としており、この名は出雲風土記で大国主命の子として書かれています。

先代旧事本紀の天神本紀の国譲りの部分では、
建御名方命は武甕槌命の要求を拒んで戦いをいどみ、敗れて科野国洲羽海に逃げ、追撃する武甕槌命に父と兄(大己貴命と事代主命)の指示(国譲り)に従い、洲羽海の外にはでないことを約して許されます。
(旧事本紀のこの部分では大己貴命/大物主命、事代主命/八重事代主命と異なる名が登場する)

ウエツフミでも先代旧事本紀でも建御名方命は武甕槌命と戦っています。状況はちょっと違いますけれど。
これらの記述をどこまで信じるかは、おくとして・・

私の空想する建御名方命は・・(年代推定とその前後関係のつながりが大事なんですが略)
大国主命の子に事代主命と建御名方命の二人がいて、「ある地域」を支配していた。
「天孫」がその土地を武力を背景にして要求、大国主命と事代主命はやむなく国譲りを承諾した。
(大国主命は「ある地域」から引っ越しする、その引っ越し先が杵築大社/出雲大社と推定)

しかし建御名方命は国譲りを承諾せず戦いをいどんだ。
ウエツフミではタカ派であるようにみえます、名に「建」が用いられるのも武人であったからだと思います。

建御名方命は敗れて諏訪へ幽閉ないし蟄居となった。
建御名方命は諏訪の外にはでないことを約しているので出雲の神在月にもやってこないわけです。

単に武人として戦って敗れたのではない、出雲首脳部の指示に逆らった人物、これがポイントです。


神在月に全国の神々が集まるとは、各地の出雲系オサの集会とみてます(集会場所がどこかは棚上げ)。
おいらの村のあの娘をおめんとこの息子の嫁にどうかね・・これも重要議題、出雲の縁結はこれが源(^^;

建御名方命の子とされる千鹿頭を祀る千鹿頭神社が諏訪にあります。
佐久市に近津神社がありこの旧名が千鹿頭神社です(大蛇が縁起)。
近津神社は関東平野の周辺の山岳と接する位置に多数あり、諏訪から関東平野へ進出した狩猟と農耕半々の人々に関連する社だろうとみています。

その境界は碓氷峠、碓氷峠の東の安中市の咲前神社には建御名方命と経津主命が戦ったという伝承があるようです。
弥生末期〜古墳時代あたりに諏訪から南下した建御名方命の子孫と関東平野側の人々が戦ったことが伝説化したのではないかと考えています(寒冷化による南下と推定)。


ちょいと銅鐸の話。
長野県から2個の銅鐸がでています(塩尻市の大門神社境内、松本市勢伊多賀神社所蔵)。
三遠式と呼ばれる浜松周辺から多数出土する形式で島根や大和の銅鐸と少し違ったデザインです。

先代旧事本紀の記述のごとく、出雲首脳部からの違反者であったなら弥生時代での出雲本家との交流は少なかったでしょう。
今のところ銅鐸出土が2個と数が少なく三遠式であるのは出雲が東海に進出した後、出雲末期に接触がはじまったためだと考えています。

建御名方命はAD50頃の自在人物で、西日本からは早々に消えてしまったが東国で祖とみなす人々が少なからずいて、国譲り以前の古い出雲文化と縄文文化の痕跡が残っていただろうとみております。



伊勢津彦は建御名方命より150年ほど先に諏訪へはいった可能性があるとみています。
神武東征時代の人物じゃない。先代旧事本紀のいう天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊が降臨したときに追い出されて東国へ引越した人物・・
諏訪に先住して縄文と混合し、後に建御名方命に対抗したのが伊勢津彦の後裔と空想中。
ミシャグチです・・相当に青草になるので略(^^;


≫湖水を川に流して人工的に干拓し、湿地を利用して稲作をした可能性はないだろうか

あるかもしれないですね。
奈良盆地がひょっとするとそうではないかと空想しています。
前にもだしましたが
http://tokyo.cool.ne.jp/woodsorrel/data/narako.jpg



奈良盆地の等高線をたどるとこうなります。
縄文集落は黒、弥生集落は白、丸は古墳、ちょん付きは前方後円墳、四角は方墳です。
釣り鐘マークは銅鐸出土地。

大和川の矢印部分の1kmほどを深く開削すれば水色→青→紺色と水位が下がります。
縄文遺跡は水色部分にはなく、弥生遺跡が水色部分に登場。
青部分に遺跡はない(例外的に島の山古墳がありますが島という名に注目です)

古墳時代?の島の山あたりから西をみた景観推定図
http://tokyo.cool.ne.jp/woodsorrel/data/narako2.jpg


[5205] 入梅です  神奈備 2004/06/07(Mon) 17:43 [Reply]
QUBOさん こんにちは。建御名方神の件、ありがとうございました。
安房ならぬ阿波の国に式内の多祁御奈刀弥神社が鎮座しています。徳島県名西郡石井町浦庄字諏訪。
阿波には同じく式内の事代主神社が二座も鎮座、他には事代主を冠する式内社は大和に二座、『出雲国風土記』+「阿波の神々」=国譲りの神々 のような感じですね。おっと、青草。


高西忠清さん こんにちは。

> 田中神と猪谷神はいったいどういった神ですか。

和歌山県日高郡美山村初湯川鎮座の上阿田木神社(かみあたぎじんじゃ)の祭神のお話ですね。『』
伊弉冉尊 配祀神 伊弉諾尊、火結神、速玉之男命、事代主命、櫛御氣野命、譽田別命、河内神、飛鳥神、垣内神、田中神、猪谷神、里神

先にご存じのことを教えて頂ければ、多くの方々からの知恵が頂けるかも知れませんが、上記のように唐突に来られますと、どこのお話かいなと迷います。
上阿田木神社のことですね。

『紀伊国続風土記』日高郡寒川郡から見た初湯川村近辺の村と神社

初湯川村 河内明神社

南に
笠松村  上愛徳六社権現社 熊野十二所権現を勧請
熊野川村 田中明神社、弁財天社

西に
浅間村  飛鳥明神社

東南に
串本村  河内明神社、八幡社 

東に
猪谷村  河内明神社 猪谷には韋駄爾のルビ、いだに。

上阿田木神社は上記の小祠を笠松村の上愛徳六社権現社にまとめたものと思われます。

猪谷神は猪谷村の河内明神社の神のことと思われます。記紀に神名を求めれば、素盞嗚尊や応神天皇、大己貴命、仁徳天皇などが考えられますね。

田中神は多分熊野川村の田中明神社の神様でしょうね。
記紀で探しますと:−
伏見稲荷大社の主祭神に田中大神の名が見えますし、和歌山では、熊野古道沿いの大賀ハスの栽培地に隣接して田中神社「大年神」が鎮座しています。
http://www.kamnavi.net/inari/fusimi.html
http://www.kamnavi.net/kumano/nhj/yagami.htm

名の如く、田の中の神でしょう。薩摩ではタンカサー。

[5204] 質問  高西忠清 [Mail] 2004/06/07(Mon) 15:01 [Reply]
田中神と猪谷神はいったいどういった神ですか。
また「猪谷神」とは何と読みますか。「イノガヤノカミ」ですか、「イノタニノカミ」ですか、それとも何か別の名前がありますか。

[5203] Re[5202]: 建御名方  QUBO [Mail] 2004/06/07(Mon) 10:20 [Reply]
百瀬さん、はじめまして。
意見が合うところが多いですね。でも違うところも多いです。

> 私は、諏訪大社の祭神である建御名方神についていろいろ調べていくうちに、
 * 「建御名方って本当にいた」のでは?との疑問を抱くようになりました。

> タケミナカタとタケミカヅチって、 あまりにもゴロが合っているので、
>  実はどっちかが作られた名前なのではないか、とか。
 *「タケミカヅチ」こそが創られた神、神名なのではと

私は青草の方がすきなのですが。
> ついでに書くと、諏訪湖も宍道湖も、かつてはもっと大きな
> 湖だったようで、そうなると、実は建御名方にかかわる人々が
> 湖水を川に流して人工的に干拓し、湿地を利用して稲作をした
> 可能性はないだろうか?などと夢想したりするんですが…。
> みなさんのご意見をお聞かせください。
*阿蘇の「建磐龍(タケイワタツ)命」も、阿蘇連山にあった湖を、連山の
 一部を蹴破って、水を流し、人が住めるようにしたとの伝説が有ります。
 
阿蘇熊本、諏訪信州。共に馬肉を食べる風習を残しているので、
何とか関連付けることが出来ないかな?などと考えています。

私は意見が異なるからこそ、意見交換の意味があると思っています。
こちらこそ今後ともよろしくお願いします。

[5202] 建御名方は実在したか?  百瀬 2004/06/06(Sun) 00:12 [Reply]
みなさん、はじめまして。百瀬と申します。よろしくお願いします。
いままで何度もここの掲示板の過去ログを読ませていただき、
今までいろいろと参考にさせていただきました。

私は、諏訪大社の祭神である建御名方神についていろいろ調べていく
うちに、「建御名方って本当にいたのか?」という疑問を抱く
ようになりました。
というのも、『古事記』だけにその神名が見えて、『日本書紀』や
『出雲国風土記』にはその名が現れないということもあります。
それとか、国譲り神話でタケミナカタとタケミカヅチって、
あまりにもゴロが合っているので、実はどっちかが作られた
名前なのではないか、とか。
建御名方という神は作られた神だということは、大和岩雄氏とかも
書いているようですね。

もっとも、人間というのは基本的に架空の神を祀ったりは
しないと思うので、やっぱり何らかの対象を拝んでいるのでしょう。
上記で「作られた神」というのは、神名を創作されたという
ぐらいの意味にとってください。

建御名方は御穂須須美と同一の神なのだという考え方も
あります。
それと、神話の類似性などから建御名方神と同一の神だと
されやすい神々がいろいろいますね。
たとえば、伊勢津彦、出雲健、天香香背男命、天津甕星とか…。
それで、いったいどれが本名(?)なんだろう?
どこが原郷なんだろう?と思うわけです。
荒神谷遺跡の周囲に建御名方を祀る神社が多くあっても、
それは後年、何らかの意図で勧請されたものかもしれません。
たとえその中に式内社があるとしても…。

蛇足で書くと、ちょっと調べてみたら、荒神谷遺跡はかつては
宍道湖が目の前に迫っていたようですね。
そうなると、建御名方を祀る理由もなんとなくわかって
きそうなんですが。
ついでに書くと、諏訪湖も宍道湖も、かつてはもっと大きな
湖だったようで、そうなると、実は建御名方にかかわる人々が
湖水を川に流して人工的に干拓し、湿地を利用して稲作をした
可能性はないだろうか?などと夢想したりするんですが…。
みなさんのご意見をお聞かせください。

[5201] Re[5200][5198]: 大和と神階  ペギラ 2004/06/05(Sat) 14:58 [Reply]
> 人であれ、神であれ、古代以前の無秩序な状態から、
> ヒエラルキーの中に組み込むことが、律令の基本であり、
> 神階を与えることが、政(まつり)が祀りである所以だと思います。

当初神階を与えた側でも、後世こんなに広まるとは思っていなかったでしょうね。
加速させたのが、八幡でしょうし、桓武天皇だと思う。

和氏(高野)の氏神の久度神・今木大神が大和・宮中での初出の神階
大同元年(806)当時大和の最高位は、高天彦神 正四位上
縁吉野皇太后願という井上内親王がらみ。
この高天彦神の神階は、まさに、桓武天皇崩御のほぼ一ヶ月後
当初は中央だけの行事だったのでは。

日本全国の神様を掌中に収めようなどとは思っていなかったと思う。

人間同様、神様の箔も時の流れで必要になったのではないか。
中央よりも地方が求めた。
私はそう感じます
それも地方の律令体制固めに有効だった。

[5200] Re[5198]: 大和と神階  玄松子 2004/06/05(Sat) 12:08 [Reply]
> 神に位を与えると言う行為は天皇を神々の上に置こうとする魂胆で、往古の日本人は気宇壮大。

たしかに、神階は天皇が与えるものですが、
神に与えられる神階と、人に与えられる位階とは違うものですから、
そう単純には判断できないのではないでしょうか。

人であれ、神であれ、古代以前の無秩序な状態から、
ヒエラルキーの中に組み込むことが、律令の基本であり、
神階を与えることが、政(まつり)が祀りである所以だと思います。

[5199] Re[5198]: 大和と神階  葛木御歳神社 [Mail] [Url] 2004/06/05(Sat) 11:41 [Reply]
古文書の文字のみから往古の日本人の考えていること、
背景の意図を探るのはおもしろいですね。

ちなみに御歳神社では現在、祈年祭は行われていません。
5月の御田祭、10月の秋祭り、正月くらいです。
昔は御田祭で村の人が神楽を奉納していました。
10/10日頃の秋祭りでは夜、すずき提灯が上がります。

今後ゆっくり色々考えたいと思っています。

[5198] 大和と神階  神奈備 2004/06/05(Sat) 08:42 [Reply]
>御歳神社の今昔のところで、
>>仁寿二年(857年)には大和国で本社が唯一最高位を授かり

春日大社の奈良の都は別格として、また大己貴神の吉野なども、大和の国中ではなく、従って普段は大和であると認識する気持ちが少ないのでしょう。

神階は神社ではなく、神に与えられるもの。地方の稲荷さんも正一位○○稲荷大明神ですね。

神に位を与えると言う行為は天皇を神々の上に置こうとする魂胆で、往古の日本人は気宇壮大。

[5197] Re[5196]: 生駒山北嶺の「底なしの井戸」  神奈備 2004/06/04(Fri) 08:06 [Reply]
> あれから生駒山北嶺を何度か探索しました。

「いこまかんなび」様の根気が塊となって、生駒に磐座として残るような気がしています。

昨年十月の「生駒山北嶺上でも発見した謎の巨石遺構に関連して」 http://www.h7.dion.ne.jp/~iko-kan/sub6.html#6
http://www.h7.dion.ne.jp/~iko-kan/sub7.html#13

今年の一月末日の「草香山と饒速日山」http://www.h7.dion.ne.jp/~iko-kan/sub6.html#7

と徐々に接近されつつある様子を拝読いたしておりました。

「底なしの井戸」付近の写真のアップ、期待いたしております。ありがとうございました。

[5196] 生駒山北嶺の「底なしの井戸」  いこまかんなび [Url] 2004/06/03(Thu) 22:07 [Reply]
神奈備さま お久しぶりです。
あれから生駒山北嶺を何度か探索しました。
「底なしの井戸」の記述が気になっておりましたが、結論的にいいますと、こ
れは単なる井戸ではないことは勿論でしょうが、北嶺突端のボタンザキから北
斜面の伝饒速日山から幾本にも扇状に伸びている各侵食谷の最奥に位置し、絶
えず湧水のある湿地あるいは小池が、数カ所に存在してまして、古くから年中
湧水=霊水があった(現在も)ことの不思議さからそのような名で呼ばれること
になったもの、と考えてよさそうです。とりあえず報告まで。

[5195] Re[5194]: 葛木鴨  玄松子 2004/06/03(Thu) 21:50 [Reply]
> > 大己貴(従一位→正一位)
> この大己貴はどこの大己貴神社?

一般には、吉野ですね。
http://www.kamnavi.net/as/yosino/oonamuti.htm の由緒抜粋、
「貞観元年正 月授正一位」

これにも謎がなければですが。

[5194] Re[5193][5190][5189]: 葛木鴨  神奈備 2004/06/03(Thu) 21:31 [Reply]
> 平成祭礼データから、そうなっているんですね。
そうですね。各神社で作成した由緒書きをそのまま掲載しているようですね。

> ちなみに、当時正一位だった、あるいは同時期に正一位になったものは、
> 春日
> 大己貴(従一位→正一位)
この大己貴はどこの大己貴神社?

> 神奈備さんの言われることも、もっともなのですが、高鴨神を託宣の神とすると、事代主も一言主も同じ神格になりませんか?

流石、勿論そう考えることができます。[5167]でも書いた通り、えべっさんである蛭子と阿治須岐高彦根神、また蛭子と事代主神、一つの信仰の対象をどの観点から見るのか、によるものかも知れません。『出雲国風土記』に、「事代主神が出てこない。」とよく言われますが、阿治須岐高彦根神の名で現れているのかも知れません。

 一言主神は高賀茂の役小角を訴えたり、小角に呪縛されたりと、鴨族に敵対しているように見えますが、これは事代主神に修験道(仏教)の香りをつけたようなものが一言主神で、同一氏族内部での神と仏との争いかも。

 土佐へ流れたのは高鴨神、で、土佐では神名が解らずに混乱は『土佐国風土記』逸文にあり、だから戻った際も混乱、従って現在でも混乱。

 ちょっと青草へ寄り道
 鴨神特有と言われるカンナリ現象、土佐では聞こえたそうですが、一言主神社では聞こえなかった。さて、これで混乱を解きほぐせるのでしょうか。

[5193] Re[5190][5189]: 葛木鴨  ペギラ 2004/06/03(Thu) 12:16 [Reply]
> とりあえず、謎なのですね。

とっても面白い謎ですよ。玄松子さんも一緒にはまって下さい。(笑)

高鴨神単体で考えると見えないものが、
八重事代主・阿遅須枳高日子・一言主など絡まったものを
ひとつひとつ解していくと、見えてきそうな気がしています。

八重事代主は、間違いなく高市から鴨都波に移動しています。
そして高鴨神が葛城に戻ってくる以前に、出雲から阿遅須枳高日子に神税が送られている。
高鴨神が戻ってきた時には、出雲に神封があるのは、鴨神である。

>「5184」託宣する鴨の神
神奈備さんの言われることも、もっともなのですが、
高鴨神を託宣の神とすると、事代主も一言主も同じ神格になりませんか?
同じじゃだめだということではありませんが。

考えれば考えるほど、底なし沼に沈んでいく気分です。


[5192] Re[5171][5170] はじめまして葛城の中鴨社、葛木御歳神社の者です。  ペギラ 2004/06/03(Thu) 11:37 [Reply]
改めて
神奈備さんちの記述も
>なお、古書の記録では、仁寿二年(八五二年)には、大和国では、最高の神とされ、 正二位の神位を授かり

平成祭礼データから、そうなっているんですね。

大筋で考えて見ると、忌部さんの意地・プライドでしょうか。
850年に春日大社の4神のうち2神に正一位
その2年後に御歳神が従二位さらに正二位

今、御歳神社の祈年祭は、どのようなスタイルなんでしょうか?

白猪・白馬・白鶏のハリボテでもみんなで作ってやったらいいのに、、なんて。

[5191] Re[5188][5185]: 葛城王朝論は。。。  葛木御歳神社 [Mail] [Url] 2004/06/02(Wed) 21:15 [Reply]
興味深いお話をありがとうございます。

蘇我氏が葛城の地を欲しいと言ったときに建てられたか、
忌部氏を派遣して後、すでにあったもともと鴨氏が祀っていた神社の性格を変えたとか?

その後、何らかの因果で中臣氏と対抗するのに、比較的マイナーな中鴨社の御歳神を用いたなんてどうでしょうか?
御名が、祈年祭にふさわしいですし。。。

古代史聞きかじり2ヶ月の素人の考えですので、おかしな点はご容赦を。。。

[5190] Re[5189][5184][5183][5182]: 葛木鴨  玄松子 2004/06/02(Wed) 12:01 [Reply]
> 私の考察よりも、

とりあえず、謎なのですね。

延喜式の四時祭上に記されている「御歳社」に関しても、
実は鴨都波であるという説もあるようで、葛木の鴨社に関しては、
異説が多いようですね、拘ってみると面白そうです。

[5189] Re[5184][5183][5182]: 葛木鴨  ペギラ 2004/06/02(Wed) 11:49 [Reply]
私の考察よりも、

西宮秀紀さんの
「葛木鴨(神社)の名称について」
奈良古代史論集二

にもっと詳しく載っているようなので、見る機会がありましたら、ぜひ。

と言っても私はまだ実物を見ることができていません。(^^;)

[5188] Re[5185]: 葛城王朝論は。。。  神奈備 2004/06/02(Wed) 08:28 [Reply]
> 忌部氏が古語拾遺に御歳神のことを書かなければ、それほど有名になっていなかったかもしれません。
> ちなみに御歳山の奥の山は通称「カナ山」で、30年くらい前まで、鉄と銅を採掘している人がいました。

「カナ山」ですか。
御所市朝町の大穴持神社の鎮座する山から五百家へは鉱脈がつながっていると『青銅の神の足跡』(谷川健一著)にありますが、恐らくはその辺りを含めてカナ山なのでしょうね。古代の氏族としては重要な山だったのでしょう。

忌部氏が当地に現れるのはいつ頃なのか、ですが、紀の国の事で考えた事があります。
紀の国の一宮である日前国縣神宮は紀国造の齋祀る神社ですが、その神社の東側に紀氏の聖地であろう大日山があり、祖先の墳墓が多くあります。日前国縣神宮と大日山との間に忌部氏の祀る鳴神社が鎮座しています。式内大社なのです。さらに日前国縣神宮の神人を鳴神社の配下に置いたようで、蘇我氏は忌部氏を派遣して鳴神社を創祀させ、神宮の勢いを押さえ、紀氏を牽制したように思われます。

葛城の鴨氏がいつ頃までその地で隠然たる勢を示していたのかは解りにくい所ですが、高鴨社や下鴨社とその東の聖地(遠祖を祀る大穴持神社、また銅を産出する山)との間にくさびを打ち込み、鴨氏の勢力を削ごうとしたのかも知れません。蘇我氏が忌部氏を使って御歳神社を設置と言うことは考えられるのではないでしょうか。鴨三社としていますが、神社名と祭神が鴨族らしくないですよね。

[5187] Re[5178]: 天白山  神奈備 2004/06/02(Wed) 07:48 [Reply]
ドラえもんさん  おはようございます。

> 天白山の特徴や天白山のおもしろい所など天白山のガイドを教えてください
>
天白? 信州上田ですか。小生は承知しておりません。
どなたか、心当たりの方、よろしく。

[5186] Re[5185]: 葛城王朝論は。。。  葛木御歳神社 [Mail] [Url] 2004/06/01(Tue) 22:34 [Reply]
京都の賀茂神社の件はお忘れ下さい。
御祭神が違いますものね。
どうぞお手柔らかに。。。

[5185] 葛城王朝論は。。。  葛木御歳神社 [Mail] [Url] 2004/06/01(Tue) 22:22 [Reply]
再びお邪魔します。
鳥越憲三郎氏の著書「神々と天皇の間」と「神々のみち―葛城」を読みました。
氏の葛城王朝論については、どう思われますか?
博識の皆様方のご意見をお聞きできればうれしいです。

金剛山の高天は子どもの校区ですので、よく行きます。
麓から眺めると、山の中腹にこぶがあり、その間に広い台地があります。
車で上がるとうっそうとした急な坂から、一転視界が開けます。
(2年ほど前に新しい道が出来て、今は高天彦神社まで車で行けます。)

葛城に住む私にはひかれる話です。

ところで、話は変わりますが、
忌部氏が古語拾遺に御歳神のことを書かなければ、
それほど有名になっていなかったかもしれません。
古語拾遺が書かれたのは807年、仁寿2年(857年)に2度も昇格して、
貞観8年(866年)には御歳神が祟ると言って神祇官を拒否していますね。
この間は忌部(斎部)氏に近い氏族が奉斎していたのでしょうか?
私は忌部(斎部)氏についてはよく知りません。
教えていただければ幸いです。

神奈備さまのご指摘のように、さほど農地に適さない所にある中鴨社に
農業神をおまつりしていますね。
何か経緯があるのでしょうか?
ちなみに御歳山の奥の山は通称「カナ山」で、
30年くらい前まで、鉄と銅を採掘している人がいました。
今でも、時々赤茶色の水が流れてきます。
それから、御歳神社は北向きの神社です。
大和全体を見ているのでしょうか。
京都の賀茂神社を見ているとの話も地元ではあります。
京都の賀茂神社のどちらか(下賀茂神社?)は普段は神様がご不在で
お祭りの時になまえは忘れましたが、ある神社(京都の?)からお呼びするとどこかで読みました。

わからないことばかり書き連ねました。
疑問に思うことを素人なりに書きました。


[5184] Re[5183][5182]: 葛木御歳神社の神階  神奈備 2004/06/01(Tue) 21:56 [Reply]
> 土佐へ行っていた期間10年は、高鴨神が、高鴨阿治須岐宅比古尼神の仮の姿だということを忘れるには、短すぎるような。

仮説を頑張りすぎると抜き差しならぬ所に落っこちそう。

で、ブレーンストーミング第二段

高鴨神とは何だろう。阿治須岐宅比古尼神は阿治須岐高彦根神。ここに「宅」と「高」とが入れ替わっています。「宅」は「託」「多久」で、託宣の託、アイヌ語でtakは「ものを言う」とか、高鴨神は託宣する鴨の神と言うことで、これは宅比古尼神と同じ神のこととなります。

要は、高鴨神と高鴨阿治須岐宅比古尼神とは同じ神格ですが、出戻りの神なので、鴨族でも祭祀する枝族が違って、意地をはっていて並立していたとか。

[5183] Re[5182]: 葛木御歳神社の神階  玄松子 2004/06/01(Tue) 21:25 [Reply]
> 危機とは天平勝宝九年(757)橘奈良麻呂の乱で賀茂角足朝臣が獄死した時になるでしょうし、復権とは恵美押勝追討の戦功(天平宝字八年(765)で朝廷に賀茂朝臣家が復権したことでしょう。
>  十年足らずの間のことですが、高鴨阿治須岐宅比古尼神が土佐へ分祀されたのでとりあえず高鴨神と称していて、そこへ戻って来られたので、フルネームに復活と言うことなど、仮説として如何でしょう。

貞観元年(859年)に、それぞれ神階があがっていますね。
フルネームに戻しても、高鴨神をそのまま100年祀り続けたことになります。
土佐へ行っていた期間10年は、高鴨神が、高鴨阿治須岐宅比古尼神の仮の姿だということを忘れるには、短すぎるような。

[5182] Re[5181][5180][5174]: 葛木御歳神社の神階  神奈備 2004/06/01(Tue) 21:14 [Reply]
> http://homepage1.nifty.com/moritaya/kamonokami.html
> 今読んでも、意味がよくわかりませんが。(笑)

拝読いたしました。

試みに。
土佐坐神社の神は高鴨の神とどのような関係にあるのか、これも解いておかないと、高鴨阿治須岐宅比古尼神と高鴨神との関連が解らない所。

で、土佐から。
土佐神社には志那禰祭が残っています。この志那禰神は現在の高鴨神社(高鴨阿治須岐宅比古尼神社)に近接した風ノ森峠に志那津比古神社が鎮座しており、この神とともに土佐へ勧請されていったと思えます。一言主神が土佐に行ったのではないので、帰ってきた神もそうではないのでしょう。

さて、阿治須岐宅比古尼神の母神とされる多紀理毘賣命をまつる九州宗像大社の風隼神社にも級長戸邊命がまつられており、高鴨阿治須岐宅比古尼神が土佐に分祀された傍証とできそうです。

この辺は賀茂朝臣男爵のアイデアを参考にさせて頂いております。

神を勧請する、分祀するとは、神宝を持っていくことで、神が帰還されるとは、その神宝(の一部)は帰ってくることと言うことで、このような事が行われるのは、氏族の危機と復権の時で、危機とは天平勝宝九年(757)橘奈良麻呂の乱で賀茂角足朝臣が獄死した時になるでしょうし、復権とは恵美押勝追討の戦功(天平宝字八年(765)で朝廷に賀茂朝臣家が復権したことでしょう。

 十年足らずの間のことですが、高鴨阿治須岐宅比古尼神が土佐へ分祀されたのでとりあえず高鴨神と称していて、そこへ戻って来られたので、フルネームに復活と言うことなど、仮説として如何でしょう。

[5181] Re[5180][5174]: 葛木御歳神社の神階  ペギラ 2004/06/01(Tue) 18:26 [Reply]
玄松子さん

> 通常は、上が現在の高鴨神社ですが、では、下の高鴨神はどこ?
> 味治須岐高彦根命ではない高鴨神が居るということでしょうか。

一応私は、別物と思っています。
どこかで習合、入れ替わり、が起きていると。

http://homepage1.nifty.com/moritaya/kamonokami.html

以前に、まとめてみました。
今読んでも、意味がよくわかりませんが。(笑)

[5180] Re[5174]: 葛木御歳神社の神階  玄松子 2004/06/01(Tue) 18:13 [Reply]
自分で書いておいて、アレですが。


> 同時に従一位になった神社は、
>  高鴨阿治須岐宅比古尼神(従二位→従一位)
>  高鴨(正三位→従一位)

通常は、上が現在の高鴨神社ですが、では、下の高鴨神はどこ?
味治須岐高彦根命ではない高鴨神が居るということでしょうか。

[5179] 御歳神の神封  ペギラ 2004/06/01(Tue) 15:29 [Reply]
ついでに、知ったかぶり知識から。

新抄格勅符抄(大同元年牒806年)神事諸家封戸

御歳神 十三戸 天平神護元年(765年) 大和三戸 讃岐十戸

そのころの名立たる名社たちは、
葛城:鴨神84戸・高鴨神53戸
大和国全体:大和神327戸・大神神160戸・石上神80戸・穴師神52戸

時代によって、権力構造によって、いろいろ違うことを感じます。

御歳神の躍進は、やはり仁寿2年4月24日・10月2日
同じ年に二度も昇格するという離れ業。
当時大和国ナンバー2の神階
どうしてなのか?文徳実録を見ても皆目検討がつかない。

賀茂斎王・伊勢斎王なんかの記事が近くにありますが、
繋がる事とは思えない。

どんな時代かと言えば、藤原vsその他豪族の時代とでも言いましょうか。

神階記事などは、奈良の神社よりも圧倒的に山城・宮中の方が多く、
それも山城賀茂二神の記述は特異なもの。

大同二年(807年)には、正一位。
新抄格勅符抄の神封では、若雷神24戸・鴨御祖神20戸天平神護元年(765年)

平安京遷都から十数年、時代はドンドン変わっていたんだ。

御歳神に戻り、
古語拾遺や新抄格勅符抄の讃岐の神封などから、
個人的には、忌部との関係を推測しております。
そんな説話は出てきませんでしょうか?

といってもこの説は鳥越憲三郎さんの

「神々と天皇の間」朝日新聞社
鴨の地の神たち・・中鴨社の神話と神格

に同調しているだけですが。(^^;)

[5178] 天白山  ドラえもん 2004/06/01(Tue) 15:25 [Reply]
天白山の特徴や天白山のおもしろい所など天白山のガイドを教えてください

[5177] Re[5175][5168]: はじめまして葛城の中鴨社、葛木御歳神社の者です。  葛木御歳神社 [Mail] [Url] 2004/05/31(Mon) 21:07 [Reply]
> 葛木御歳神社は落ち着いた雰囲気の神社です。
> 神奈備はディスクトップの背景にしていた時期がありました。
> HP拝見いたしました。

ありがとうございます。
背景にして頂いていたとは感激です。
氏子が少なくなって高齢化して、
きちんと維持できなくて申し訳なく思っています。
もう少し整備できればと思っています。
>
> > 自然石の磐座(いわくら)
> これは一般論でしょうか。それとも葛木御歳神社の神奈備山に存在しているのでしょうか。

私は見ていませんが、義父の話では、御歳山の頂上に大きな石がごろごろしていて、
そこだけ、木が大きくならず、山の上から、四方が見えたそうです。
たぶん木の下にも石があるのだと思います。
それで、本にあった磐座だと解釈しました。
ただ、今は台風の影響と、たぶん虫害だと思いますが、かなりの木が倒れてしまっています。
頂上まで上がれませんでした。
何とか、頂上まで上がれるようにして、頂上にも鳥居を置けたらいいのになあと
義父は話しています。

>
> 何故、葛城の谷間ですが、さほど広い稲作地を背景とはしていないような立地ですね。何故御歳神社なのでしょうね。赤銅八十梟帥あたりがうろついていたような感じの場所に思えます。『古語拾遺』に言う大地主神は土蜘蛛の神かも知れませんね。農作業が上手ではなかったような伝承もあるようで。

大地主神のご指摘ありがとうございます。
あるHPや、本で大地主神は大国主神だとありましたが、
どうしてもそれは信じたくなくて、そのことも明らかにしたいと思っていました。
よかったです。
大国主神では高照姫命があまりにかわいそうですものね。

ある本によれば、高鴨の地が先にひらけて、その次に中鴨、その頃は
焼畑農業をやっていた時代だそうです。
下鴨が最後にひらけて、そこで水稲農業が始まったとありました。
それで、鴨都波神社は水に関係が深い神様が、いらっしゃるそうです。

>
> > そうすると高照姫命と下照姫命は同一神となりますね。
> いろんな考え方がありましょう。朝日と夕日は同一なりや。明けの明星と宵の明星とは如何。

あるHPの書き込みで高照姫命と下照姫命は金星ではないかとありました。
それはとても魅かれる話です。
ただ、日本神話には、ギリシアのように星の伝説が少ないですね。
朝鮮半島や中国には七夕の例に見られるように星の神様がおわすのでしょうか?

>
> > 朝鮮からのアカルヒメ
> 拉致家庭の子供のようなもので、「我が御祖の国に行く」とこの国に来ました。どちらの国の神様?
>
> > 素朴な疑問ですが、葛城の神様と大己貴神の関係はどうなのでしょうか?
> 僭越ですが
> 「鴨と市、最古の王権」http://www.kamnavi.net/jm/city.htm
> 「迦毛の大御神と下照比賣考」 http://www.kamnavi.net/as/katuragi/kamosimo.htm
> 尤も、真に受けないでね。
>
ごめんなさい。面白い話には飛びつきたくなるもので。。。
ただし、正式な書面には不確実なことは書かずにおこうと思っています。
口頭の逸話なら、許せるかもと思っています。

> 『神社の若妻の物語』のようなタイトルの本が有名になりましたが、期待しております。頑張って下さい。

若妻の年齢は過ぎてしまいましたが、まだ、人生の半分まで少しあるかなと、思っています。
暖かいお言葉ありがとうございました。

[5176] Re[5174]: 葛木御歳神社の神階  葛木御歳神社 [Mail] [Url] 2004/05/31(Mon) 20:41 [Reply]
お調べくださり、ありがとうございます。
参考にさせて頂きます。

[5175] Re[5168]: はじめまして葛城の中鴨社、葛木御歳神社の者です。  神奈備 2004/05/31(Mon) 20:05 [Reply]
葛木御歳神社は落ち着いた雰囲気の神社です。
神奈備はディスクトップの背景にしていた時期がありました。
HP拝見いたしました。

> 自然石の磐座(いわくら)
これは一般論でしょうか。それとも葛木御歳神社の神奈備山に存在しているのでしょうか。

何故、葛城の谷間ですが、さほど広い稲作地を背景とはしていないような立地ですね。何故御歳神社なのでしょうね。赤銅八十梟帥あたりがうろついていたような感じの場所に思えます。『古語拾遺』に言う大地主神は土蜘蛛の神かも知れませんね。農作業が上手ではなかったような伝承もあるようで。

> そうすると高照姫命と下照姫命は同一神となりますね。
いろんな考え方がありましょう。朝日と夕日は同一なりや。明けの明星と宵の明星とは如何。

> 朝鮮からのアカルヒメ
拉致家庭の子供のようなもので、「我が御祖の国に行く」とこの国に来ました。どちらの国の神様?

> 素朴な疑問ですが、葛城の神様と大己貴神の関係はどうなのでしょうか?
僭越ですが
「鴨と市、最古の王権」http://www.kamnavi.net/jm/city.htm
「迦毛の大御神と下照比賣考」 http://www.kamnavi.net/as/katuragi/kamosimo.htm
尤も、真に受けないでね。

『神社の若妻の物語』のようなタイトルの本が有名になりましたが、期待しております。頑張って下さい。

[5174] 葛木御歳神社の神階  玄松子 2004/05/31(Mon) 19:47 [Reply]
僕がわかる範囲で(参考『古代諸国神社神階制の研究』)

仁壽2.3.24庚申 従二位 文徳実録
仁壽2.10.2甲子 正二位 文徳実録
貞観元.正.27申申 従一位 三代実録

貞観元年には、多くの神社に神階が授けられていますが、
祈年祭の主神として、葛木御歳神に高い神階が与えられたようです。

同時に従一位になった神社は、
 葛木御歳神(正二位→従一位)
 高鴨阿治須岐宅比古尼神(従二位→従一位)
 高市御縣鴨八重事代主神(従二位→従一位)
 大神大物主神(従二位→従一位)
 大和(従二位→従一位)
 石上(正三位→従一位)
 高鴨(正三位→従一位)

つまり、貞観以前は、葛木御歳神が鴨最高位でしたが、ここで並びます。

ちなみに、当時正一位だった、あるいは同時期に正一位になったものは、
 春日
 大己貴(従一位→正一位)

その後、正一位になったものは、
 大神大物主神
 石上

[5173] Re[5171][5170] はじめまして葛城の中鴨社、葛木御歳神社の者です。  葛木御歳神社 [Mail] [Url] 2004/05/31(Mon) 18:42 [Reply]
由緒は祖父の代に書かれたものをベースにしています。
ここはきちんと調べていませんが、
852年10月2日の文徳実録に正二位とあります。
葛城地域では最高位でなのでしょうか?

[5172] Re[5169][5168]: はじめまして葛城の中鴨社、葛木御歳神社の者です。  葛木御歳神社 [Mail] [Url] 2004/05/31(Mon) 18:31 [Reply]
言葉が不適切で申し訳ありません。
神社を継ぐことは、かなりの覚悟を持っていないと出来ないと思っています。
私に勤まるものかとかなり思案しました。
神職講習を終えれば身につく感覚もあるはずです。
両方を覚えておきたいと思っています。


[5171] Re[5170] はじめまして葛城の中鴨社、葛木御歳神社の者です。  ペギラ 2004/05/31(Mon) 18:29 [Reply]
> 御歳神社の今昔のところで、
> >仁寿二年(857年)には大和国で本社が唯一最高位を授かり
>

ごめんなさい、私の勘違いですね。m(__)m

御歳神社のなかで、唯一、葛城の本社が、ってことですね。

すいませんでした。

[5170] Re[5169][5168]: はじめまして葛城の中鴨社、葛木御歳神社の者です。  ペギラ 2004/05/31(Mon) 18:10 [Reply]
はじめまして、鴨探検好きのペギラと申しますm(__)m

玄松子さんの厳しいお言葉の後で何なんですが、
HPを覗かせていただいて一つ。

御歳神社の今昔のところで、
>仁寿二年(857年)には大和国で本社が唯一最高位を授かり

この資料は、どこからなんでしょうか?
大和国の最高位は、文徳実録によると、
嘉祥三年(850年)に春日大社の
建御賀豆智命大神・伊波比主命大神が正一位となっていますので、
この記述はどうか?と思いますが。
三代実録の貞観元年(859年)でも葛木御歳神は従一位ということですので、
ちょっと、身びいきかもねぎ。

重箱隅ツツキのペギラでした。m(__)m

[5169] Re[5168]: はじめまして葛城の中鴨社、葛木御歳神社の者です。  玄松子 2004/05/31(Mon) 17:52 [Reply]
> まだ神職講習にも出ていませんし、殆ど(というより全く)素人です。
> でも素人の感覚で、むしろ型にはまらないお祭りのあり方を考えたいと思っています。

「型にはまらないあり方」は、型を正確に知らなければできません。
祀るということは、個人の問題ではありませんから、感覚的では困ります。

勉強する前から、「型にはまらないあり方」などという発言に疑問を感じました。
ちゃんと勉強して下さい。

[5168] はじめまして葛城の中鴨社、葛木御歳神社の者です。  葛木御歳神社 [Mail] [Url] 2004/05/31(Mon) 17:00 [Reply]
はじめまして葛城の中鴨社、葛木御歳神社の者です。
義父の跡を継ぐべく、今夏神職の資格をとるつもりです。
こちらに嫁いで来ましたが、今まで神社のこともあまり知りませんでした。
継ぐにあたって、お祀りする御歳神、相殿の大年神、高照姫命について
色々調べていくうちに、神話や古代史の面白さに はまってしまいました。

神社も大変歴史のある神社で、これは本腰を入れてしっかりお祀りしなければと思っています。ただ、当地は過疎化が進み、氏子だけではお護りするのは難しくなって来まして、
すっかり寂れてきています。
この度、広く御歳神社について知っていただきたいとHPを立ち上げました。

せっかくですから、きちんとお祀りする神や、神社について調べたいと思っています。
調べるに当たって、地元御所市の図書館と、多くのHPを参考にしました。
神奈備さまをはじめ、本当に深い考察がなされているのを驚きを持って参考にさせていただきました。
あちこちから引っ張ってきてとりあえず書きましたが、まだ詳しい方に見てもらっていません。色んな方に見ていただき、ご意見、ご指摘を頂けたら幸いです。

まだ神職講習にも出ていませんし、殆ど(というより全く)素人です。
でも素人の感覚で、むしろ型にはまらないお祭りのあり方を考えたいと思っています。
神奈備の山ふところで、心地よい空気を感じることが何よりだと思っています。
その一つとして、神社復興にご協力いただける音楽家の方を中心に、秋に奉納コンサートを開くつもりです。

御歳神社のHPです。
http://www.geocities.jp/mitoshijinjya/

よくわからないことがいくつかあります。
ご教示いただければ幸いです。

〔高照姫命について〕
本当によくわかりません。
古事記で高比売命とあるのは高照姫命のことでよいのでしょうか?
自明のように書いてあるので。。。
そうすると高照姫命と下照姫命は同一神となりますね。
加夜奈留美命も同一神ですね。?
下照姫命とアカルヒメも同一神 =高照姫命も同一神?

色々読んでいくと高照姫命はどうもはるかに古い土着の女神様のようでもあります。
それに朝鮮からのアカルヒメ(加夜奈留美命も)が一緒になったんでしょうか?

ここ葛城の地には古くから朝鮮の渡来人が来ています。佐味や朝町、朝妻の地名もあります。近くの宮山古墳からも朝鮮の鉄器がたくさん出土しています。あるいは、それが葛城氏の力の元でしょうか?
高照、下照が太陽の天中の姿と朝日夕日の姿だともありますね。
どちらも父神は大己貴神ですが、母神が文献によって違いますね。

〔大己貴神について〕
素朴な疑問ですが、葛城の神様と大己貴神の関係はどうなのでしょうか?
おとなりの八重事代主命が大己貴神の子神なのに出雲で知られていないのが不思議です。
葛城王朝論の鳥越憲三郎氏の本だった(?)と思うのですが、実は、大己貴神ももともとヤマトの神様で、実は国譲りの話は葛城氏が鴨氏を吸収した話を、後の人が日本全国のスケールにするのに出雲国を使ったとか、ありました。ちょっとそこまでは、飛躍が大きいように思いますが、八重事代主命についての疑問とともになんか、しっくり来ません。
高照姫命も大己貴神の娘神なので、結構興味が惹かれます。

高天の神様についても知りたいし、一言主神が強いのか弱いのかについても、なぜ逸話が色々なのかについても知りたいです。

掲示板に書き込みすることも初めてですが、今後ともよろしくお願いします。



[5167] えべっさん  神奈備 2004/05/31(Mon) 08:52 [Reply]
 宮本常一著『日本文化の形成』にエビスと鴨のお話が出ています。
大和の山中に古くからまつられている鴨都味波八重事代主命神社のことですが、この辺りに

は鴨と呼ばれる部族が住んでいた。後に山背に移って賀茂と書くようになった。もとは字の

如く鴨をはじめとして鳥類を捕らえることを生業としていた狩猟民であったと思われる。引

用終わり

 出雲での国譲りのシーンでは事代主命は釣りをしていたように、漁労の神でもありました

。後世に蝦夷(えみし)と呼ばれた漁労狩猟の民の齋祀る神がエビスの神であり、鴨族の人

々が祖神である事代主神をエビス神として祀ったのでしょう。

 で、エビス神には他にどのような神様がいるのかと見てみました。

1.蛭子神 最も有名なエビスの神で、諾册の最初の御子神でした。葦船に乗せて流されて

しまいます。不満足な出来の児だったのです。前に青草でも書いたのですが、浪速では家鴨

(アヒル)のことを「ヒル」と言います。飛べない鴨は不具と見なされ、葦船で流されたよ

うです。蛭子は縄文的な神のだったので、諾册を奉じる王権からは疎まれたのでしょうが、

先住民族の崇拝が広がっていたので、日留児として棚上げしたのでしょう。
 蛭子神は鴨の神で、幼い頃不具だったとされる阿遅鋤高日子根神に相当し、妹神の下照姫はMADOKAさん曰わく「天照、高照、下照」と言う太陽神の一柱かも。

蛭子神ゆかりの神社
石津太神社 http://www.kamnavi.net/en/izumi/sitasitu.htm
西宮えびす神社  http://www.genbu.net/data/settu/nisinomiya_title.htm

2.事代主神 前述

3.少彦名神 長崎市矢上町322番地鎮座の矢上神社
由緒 少彦名命は恵比須様で商売繁盛・病気平癒の御神助として名高い。

4.安曇磯武良 アズミのイソタケル
対馬の和多都美神社 http://www.genbu.net/data/tusima/watatumi_title.htm
参道左脇の池に三柱鳥居があった。磯良恵比須という鱗状の岩が祀られている。

えべっさん、情報を頂ければ幸甚です。


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