神奈備掲示板の案内とログ

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掲示板のログ(平成十六年 九月)お名前の敬称は省略しています。

[5671] Re[5670]: 紀氏が祀った調月の大歳神社  神奈備 2004/09/24(Fri) 08:41 [Reply]
調月さん こんにちは。
> ところで大歳神も紀氏も渡来系と、何かで見ましたが、詳しい文献があれば知りたいのですが、よろしくお願いします

大歳神
大和岩雄氏の説にあります。『天武天皇と古事記』など

紀氏
紀氏を渡来系と明確に断じている文献は記憶にはありませんが、例えば
日根輝巳さん、名草杜夫さんなどの著作
『謎の古代豪族紀氏』とこれとよく似た名のもう一冊の書
千田稔『王権の海』
中野幡能『八幡信仰の研究』
などを見ていますと、渡来系の末裔ではなかろうかと思われてきます。

紀州飛鳥と呼ばれる地域の一画をなすのでしょう調月の詳細な地域史の発信をされておられるのですね。感嘆いたしております。

[5670] 紀氏が祀った調月の大歳神社  調月 [Mail] [Url] 2004/09/23(Thu) 18:06 [Reply]
「神奈備」サイト、興味深く楽しく拝見させていただいています。歴史は素人ですが、ふるさと調月の歴史や神社仏閣の由来を勉強し、神奈備の記載も参考にさせて頂いております。
 かつての当地、吉仲荘(調月)は紀氏の一族、紀男麻呂宿禰が耕作の道を教え当地を拓き紀氏(現在:貴志)の谷と称し、自らも紀男麻呂宿禰調月と名乗り、調月郷と名付け、推古天皇即位11(603)年、現山人平の八万堂(やまんどう)跡地に大歳明神を祀り、五穀豊穣を祈った(大歳神社縁起)とあります。今も紀男麻呂宿禰調月の子孫が綿々と宮司を務められています。
 ところで大歳神も紀氏も渡来系と、何かで見ましたが、詳しい文献があれば知りたいのですが、よろしくお願いします。

[5669] Re[5668][5667]: 星空その2  かたばみ [Mail] [Url] 2004/09/21(Tue) 20:12 [Reply]

≫上記文章に突然底筒男命が登場して、それが饒速日尊だと言っています。海人族の神でもあり

面白いですね。持論では饒速日命は海人族であります。
先代旧事本紀では天之背男命(天津甕星)を海部氏等の祖としてるし、他の随伴者の祖に天津赤星も登場しますからその首領(^^;も星であっておかしくないし。

シリウスは天空第1の明るさですがオリオンの近くにあって方位も中途半端ですから利用価値がない(^^;
北極星は重要だけど暗くて地味な星。
方位を示す星としては三つ星は誰にもわかるし弥生のトップスターになりそうです。

皇太神宮儀式帳の度会郡に「天須麻(婆)留女命(神)」を祀る社が記載されているそうですが、須麻(婆)留スバルのこと?? 今となっては知る由もなしか。


目立つ、ということなら金星がまず第1、ついでシリウス、木星、火星、土星といったところか。
しかし惑星は位置が変化するので方位の目印にはなりにくい。

木星は中国では歳星(12年で一周期)、ギリシャ神話ではゼウス、重厚と安定で総じて吉の星。
金星は動きが激しくて木星とは対照的。
古代メソポタミアでは天空の女王イシュタル(吉凶が入れ替わる)。
中国でも金星には吉凶双方の扱いがある。
ギリシャではアフロディーテ、こちらは女心と秋の空かなあ(^^;

またたかないし、恒星とはちょい雰囲気の違うお話が伴うように感じます。
弥生〜古墳時代あたりの人はこれらをみてどう感じたかなあ。


[5668] Re[5667]: 星空その2  神奈備 2004/09/19(Sun) 21:38 [Reply]
> 真東の海から昇るのは上から、ウワツツ、ナカツツ、ソコツツ・・かなあ。

オリオンは東を示す代表の星と言えるのかな。太白星の金星は西のようですね。

 さて、高貴寺は南河内郡河南町平石にあって、鎮守として磐船神社が鎮座。そこの『河内高貴寺縁起』(鎌倉時代)から

文武天皇の勅を奉り、役小角開基の勝地なり。役優婆塞、葛城峰中に於いて二十八箇の宿處を於き、三宝冥衆の護念をこらす。是則ち法華之品を凝らす。次に當嶽に普門品にあたる哉。風聞には当所、底筒男命(旧事本紀に饒速日尊)自ら天降りて御座す。岩船明神是也。

役小角が設置していったとされる二十八品の行場の一が高貴寺境内にあります。

上記文章に突然底筒男命が登場して、それが饒速日尊だと言っています。海人族の神でもあり、そのように見なされていた事があったのでしょう。
そうすると中筒男、表筒男はさて火闌降命、彦火火出見命とか。

[5667] 星空その2  かたばみ [Mail] [Url] 2004/09/19(Sun) 10:44 [Reply]

≫布良(めら)のことですね、きっと

それでした、ありがとうございます。
米良も同じかなあ、日向椎葉と平将門・・藤原一族、ちょい興味深いところです。

東京では忌部系神社は天之日鷲命で祀られているのが散見されます。和紙とか布の神様です。
(武蔵野は水利が悪く古来から雑木林の荒れ地で麻の生産程度だった) 
浅草浅草寺など土師氏(出雲臣族)ともジョイントしている可能性がみえます。
(江戸時代の隅田川周辺に瓦職人多数、土師氏の流れを汲むのか?)


失礼して星空その2
紀元1年11月19日、日没直後の周防灘国東半島沖、右の島影は姫島。
http://tokyo.cool.ne.jp/woodsorrel/data/mituboshi.png

真東の海から昇るのは上から、ウワツツ、ナカツツ、ソコツツ・・かなあ。
瀬戸内でも日本海でも太平洋でも、列島沿岸の夜間航海なら三つ星に頼れば方位を誤ることはなし。


[5666] 大穴六道尊  神奈備 2004/09/18(Sat) 10:37 [Reply]
『釈日本紀』に引用されている「土左国風土記」には、大穴六道尊の子、味鋤高彦根尊との表現があります。大穴六道尊は大国主神のことで、根の国を司る神ですから、敢えて「六道」と言う仏教で言う地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天と言う六つの死んだ人の往く世界を言う言葉が組み入れられています。
 三輪山も修験道の山岳であり、かって大御輪寺(今の大直禰子神社)もありました。祖霊が登っていく山とはその麓や中腹にに死体捨て場、風葬の地があったのでしょう。

 『万葉集』巻十六 三八四〇
池田朝臣の、大神朝臣奥守を嗤(わら)ふ歌一首池田朝臣は名忘失せり

寺寺の女餓鬼申さく大神(おほみわ)の男餓鬼賜(たば)りてその子生まはむ

 大神朝臣奥守は痩せていて、餓鬼に例えられたのですが、その背景には万葉の頃でも、三輪山には餓鬼が出没すると思われていたのでしょう。との印象です。

[5665] 久保宮司さん  神奈備 2004/09/17(Fri) 13:30 [Reply]
水屋神社の久保宮司さんと鈴鹿国際大(の教授さんでもありますが)との裁判で、久保宮司さんが津地裁で勝訴されました。
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/mie/news005.htm

http://www2s.biglobe.ne.jp/~mizunoya/

[5664] [5663]に蛇足ですが  QUBO 2004/09/16(Thu) 10:18 [Reply]
地元千葉県の話なのでカキコ

安房一宮、安房神社の由緒(HP)によれば、
館山市布良は、天富命が、阿波忌部一族を率いて上陸した地です。
http://www1.ocn.ne.jp/~awajinja/page0.htm

この時、いっしょに来た忌部族が、近くに祭られています。
玄松子さんHP
http://www.genbu.net/data/awa/nakosi_title.htm
「随行してきた天小民命、御道命が・・・」
莫越山神社。祭神「手置帆負命 彦狹知命」
それぞれ讃岐忌部、紀伊忌部の祖となっています。

[5663] Re[5662]: 面白い末社  神奈備 2004/09/15(Wed) 22:36 [Reply]
> 老人星と布良の情報

神奈備掲示板らしく

千葉県に布良崎神社(めらさきじんじゃ)が鎮座しています。
千葉県館山市布良379
祭神 天富命、金山彦命 配祀 建速須佐之男尊
ですが、摂社として
御隠居大神
と云うのが鎮座。老人でしょうか。

また、九州には、米良神社(めらじんじゃ)
宮崎県児湯郡西米良村大字小川988
祭神は大山祇命、磐長姫命です。
由緒の一部
磐長姫は、櫃の底より鏡を取り出し、吾が顔を見られ、はじめて吾が顔の醜きを知られ、家を去られこの五十川(今の一ツ瀬川)を伝い上られ、米良小川の里へ住まわれていたが、遂に悲嘆のあまり御池の渕に身を投じ薨ぜられた。村人これを憐れみ一宇を建立し祀ったという。

悲しい物語ですね。磐長姫命、南洋じゃ美人なのに。

[5662] Re[5661][5660][5658][5655][5654][5653][5650][5649]: 面白い末社  こいっち 2004/09/15(Wed) 20:44 [Reply]
みなさん、老人星と布良の情報をありがとうございます。

> 庭園には紀州和歌浦の石が持ち込まれたそうです。南方の石ですから、
> カノープスであってもいいですね。南方への水先案内と航海安全はこちらにお参り下さいとか。
> おもかる石のいくつかは紀州の石かも。

そう考えるのも面白いですね。たしかに、元の祠があった大銀杏の老樹は、今の長居公園通あたりの南ですが、その付近はかつての津守神主の正印殿があった故地ですから。そこの庭園に接続した位置にあったことからも、庭石と同様に紀州弱浦より運ばれた可能性は否定できません。それらの庭石も現在では荘厳浄土寺の告磯石ぐらいしか残っていませんが。

今でこそ銀杏はありふれていますが、かつての青松白砂のひろがる住吉津の近辺では、銀杏はわりと貴重だったかもしれません。それに銀杏は古くから長寿の木としても知られ尊ばれてきた植物でもあります。これの老樹と老人星と南方がリンクしているような気がするのも面白いことですね。

津守氏は古くは遣百済・遣渤海をはじめ遣唐神主として大陸の文化とは深い関係にあり、海外への表玄関である住吉津(大伴津)の支配者でもありましたから、天文や航海の知識などからも当然のごとく南極老人星の存在をよく知っていたことは想像にかたくないですね。安倍晴明に先立つ陰陽師には津守連通を輩出していたり色々ありますなあ。はあ、だんだん妄想に近くなってきますが…

[5661] Re[5660][5658][5655][5654][5653][5650][5649]: 面白い末社  大三元 2004/09/14(Tue) 23:35 [Reply]
> 千葉県房総半島南端(地名忘れた(^^;)の漁師はこの星を海で遭難した人の魂とみて、これが見えた日は漁に出ないという慣習があったそうです。

布良(めら)のことですね、きっと。
http://homepage1.nifty.com/m_urabe/canopus.htm

[5660] Re[5658][5655][5654][5653][5650][5649]: 面白い末社  かたばみ [Mail] [Url] 2004/09/14(Tue) 21:36 [Reply]

≫南極老人星のカノープスであったかもしれない、などと想像を逞しくしておる次第です

書紀一書についても、じゃないかと思っています。
時に神しき光海に照らして、忽然に浮かび来る者あり・・・大己貴神問ひて曰わく、然らば汝は是誰ぞ。
答えて曰く、吾は是汝が幸魂奇魂なり・・

紀元前170年の1月、少彦名命を五島列島南端に見送った夜。
これからどうしたらいいものかと考え込む大己貴命の見たものは・・
http://tokyo.cool.ne.jp/woodsorrel/data/canopus.jpg

カノープスは地球の歳差運動の関係で縄文の後期BC3000頃からみえはじめ、紀元前後あたりに最高度になりAD3000頃には見えなくなります(現在は上図の半分くらいの高度)。
千葉県房総半島南端(地名忘れた(^^;)の漁師はこの星を海で遭難した人の魂とみて、これが見えた日は漁に出ないという慣習があったそうです。


[5659] Re[5658]: 面白い末社  神奈備 2004/09/14(Tue) 13:27 [Reply]
こいっちさん 詳細なご説明、感謝です。

> 個人的には、「老歳星」とも「老人星」とも解され、南極老人星のカノープスであったかもしれない

庭園には紀州和歌浦の石が持ち込まれたそうです。南方の石ですから、
カノープスであってもいいですね。南方への水先案内と航海安全はこちらにお参り下さいとか。
おもかる石のいくつかは紀州の石かも。

> 特に正印殿跡の域内にも謎の小祠があるような状態で、いろいろとロマンをくすぐられますよ。

そうですか。またゆっくり一巡りでしたいものです。そのせつにはよろしくお願いいたします。

[5658] Re[5655][5654][5653][5650][5649]: 面白い末社  こいっち [Mail] [Url] 2004/09/13(Mon) 23:32 [Reply]
神奈備さま、
たまに覗いておいて勝手なことばかり書いてしまいスミマセンです。

> 龍神さんとおもかる石とは関連があったのでしょうか。それとも石占いと龍神さんとはたまたま繋がったのでしょうか。

これについては難しい問題ですね。
元は無関係かと思えこそ、銀杏の老木のしたに祭られていた祠には、やはり石が祀られておったこと。また、住吉近辺には「おもかる石」に似た伝承のものが類例として見られるもの(力石などの例)があること。また、海竜社や楠高社などの竜神や巳神を祀る祠などが多数見られることなどを考慮すれば、近世になって漠然とした崇拝対象を竜神・巳神としたことや、石が神体であることから「おもかる石」の伝承を想起させたことなどが習合したものと思われます。

> おもかる石は普通の石のように感じられましたが、隕石などのうわさがあれば、セコムが要りますね。

この隕石説については、地元の古老などの話では非常に根強いものがありますね。
しかしながら、同じく地元の古老の説、特に老人大学の方々が聴き取り調査にまわったときの話などによれば、すでに石は他石と摩り替わってしまっているとの伝承が多く見られたということだそうです。また、分祀と称して各地に確認出来得るかぎりでは3件の石が祀られていたこともありますから、どの石が旧来のものなのかは判別できなくなっております。
一応、脇にある金石文を掲載いたしますと次のように書かれております。
おいとしぼし祠の脇にある金竜さんかと思われる社殿建立についてでしょうか。
「昭和三十七年七月吉日 此聖地に御霊石並に金龍神の小祠其他施設を献納し日々奉仕して神徳宣揚につとめたる母平谷夕子儀 同四十四年五月高齢の為引退せし際 住吉大社より感謝状と共に記念品等を拝受致したる栄誉を後に傳え度く建之/昭和五十五年十月吉日 (※奉納者名等は略す)」

私見ながら、住吉の三筒男の神が星神信仰としての伝承を持つこと、またこの祠の旧地近くには古くは星宮などの末社が祭られていたことなども考えますと、いわゆる「おいとし星」の「星」について祀られた小祠であることも深く考えさせられます。また、個人的には、「老歳星」とも「老人星」とも解され、南極老人星のカノープスであったかもしれない、などと想像を逞しくしておる次第です。
この「おいとしぼし」を含めて、住吉の境内外にはまだまだ謎の末社や小祠が存在しており、特に正印殿跡の域内にも謎の小祠があるような状態で、いろいろとロマンをくすぐられますよ。

[5657] Re[5655]: 面白い末社  恋川亭 2004/09/13(Mon) 23:17 [Reply]
> 三星、農耕、四川省の三星堆の農耕文化の萌芽のことでしょうか。

 いえいえ、農耕と書いたのが誤まりでした。農漁業ですね、第1次産業、昔の一般人の職業です。夜明け前に早くから働く人にとって、星は季節の正確な目印となります。慣れると本当に、星や星座を見て季節を感じますよ〜。オリオン座の三ツ星も、目印星のなかまだったはず・・・そう思ったまでです。

 『お愛し星さん』。こいっちさんのご解説や、ご近所の「地主の爺さん」の御母堂のお話し。エエ〜はなしやなぁ〜と読んでいました。小さなお社も大切に。

[5656] Re[5648]: 世界最古の神名と関係図  かたばみ [Mail] [Url] 2004/09/13(Mon) 19:39 [Reply]

≫【全世界の古代の太地母神】にまで関わっていって

列島の様子を知るにも各地のそれらの情報は必要ですね。
直接にインドや中近東の神々の話になりますと神奈備さんのHPの趣旨とはちょっとずれそうです。
私もうわっつらしか知りませんし。

インドや中近東のいろいろはたいへん面白いのですが、面白いゆえにできるだけ冷徹にながめています。
うかつに踏み込むと誘惑で周りが見えなくなりそうだから(^^;
漢字の世界ならお隣だし古来から使ってるわけで、まずはそこからといったところが現状です。


≫「インドラとオリエントのユノとどちらの神話が、より古代なのか?」

ギリシャ神話ではまずカオスあり、次いでガイアあり(ちと微妙ですが加えてウラノス)。
ガイア(第1世代)の子にクロノス等あり(第2世代)、クロノス等の子等にヘラあり(第3世代)。

クレタミノア文明以前が第1世代、以降が第2世代、環境劣化による暗黒時代を経てギリシャ復興が第3世代といったところと考えています(第1、第2世代は大半が怪物として扱われる)。
現在のギリシャ神話やギリシャ彫刻はほとんどが第3世代のもので、BC500あたりに形成されたとみています。

ローマ神話でのユノであればギリシャ神話のヘラ(ゼウスの妻、嫉妬深い)のローマ神話化ですね(どれもまだ多神です)。
ローマ神話であるなら「インドラともなる概念」の方がはるかに古いはずですが、神話とはなにかでもあってやっかい。

このあたりの文化の流れはメソポタミア→ギリシャ文化→ローマ文化だと思います。
加えてギリシャ時代にはヒッタイト系など西アジア系文化がはいってくる。
インドにもはいってくる。

インドラはミトラ神など西アジア系に含まれるとされますが・・
西アジア〜中央アジアはなにもわからないといってよい地域(^^;
メソポタミアの農耕、中央アジアの遊牧、それが生じてゆく過程になにかあるかもしれないと思っています。

サカ、中国では烏孫とされる人々。なぜ烏の孫なのか、興味深いです。
http://tokyo.cool.ne.jp/woodsorrel/data/c_asia1.png
(c_asia5.pngまであります)参考まで。


≫「世界最古の神は、誰か?」正しい時空列の表でご存知でしたら、お教え下さい。

人間とはなにか神とはなにか、でもあってたいへんなことになりそう(^^;

最古の「人間」が登場したとき、神も登場すると私は考えます。
3万年前であろうと千年前であろうと考古学出土物は無数にあって、これらはみな人間の使ったものです。
人の意識が登場してこその神の登場だと思います。

おそらくは、チンパンジーに神の意識はないんじゃないかなあ(^^;
では、3万年ほど前とされる洞窟壁画類の作者にはどうなのかなあ。

発見されている範囲内では世界最古とされる土器は縄文土器。
メソポタミアの土器はBC6000頃、縄文土器はBC10000を遡る可能性があります。
少なくとも土器を作る人々であれば「なにか」を意識していたと思います。
その「なにか」は自分たちよりもっと古くあるいは強大であると意識するかもしれないですね。


[5655] Re[5654][5653][5650][5649]: 面白い末社  神奈備 2004/09/13(Mon) 08:21 [Reply]
恋川亭さん、おはようございます。

> 三ツ星なら農耕と関係があるかも
三星、農耕、四川省の三星堆の農耕文化の萌芽のことでしょうか。
朝は朝星、夜は夜星、昼は梅干の三星でしょうか。

こいっちさん ありがとうございます。
http://shinto.vis.ne.jp/

分祠されていたのを再度合祀しているのですか。珍しいことでしょうね。
龍神さんとおもかる石とは関連があったのでしょうか。それとも石占いと龍神さんとはたまたま繋がったのでしょうか。

おもかる石は普通の石のように感じられましたが、隕石などのうわさがあれば、セコムが要りますね。

[5654] Re[5653][5650][5649]: 面白い末社  こいっち [Mail] 2004/09/12(Sun) 23:17 [Reply]
神奈備さま、みなさま
ご無沙汰しております。ちょっと寄道ついでに私の「おいとしぼし」記を投稿していきます。

おいとしぼし社

祭 神   龍神

春季例祭 四月十五日
秋季例祭 十月十五日

 大歳神社の境内にて祭られる小祠である。祭神や由来について詳しいことは不明だが、俗に竜神(金竜さん)、または巳さんとして信仰されている。
 この祠は、もとは長居公園通の一角、銀杏の大樹下に置かれた小祠であった。しかし、戦後の道路拡張等に伴い、その祠宇は道路より北二十米(大歳社西南百米)の地の民家脇へ遷された。しかし、その民家も他者へ譲渡の際、またも撤去せざるを得なくなり、昭和三十七年九月三十日、現在の大歳神社境内地へ末社として迎えられることとなった。また、昭和五十八年一月十三日には付近住民の絹巻氏敷地内に分祀されていたものが大歳神社境内へと合祀された。
 社前には通称「おもかる石」と呼ばれる不可思議な石が三基あり、願掛けをしながらこの神石を持ち上げる。その際に、軽く上がれば「可」、重く感じれば「否」であると信仰される。またこれは「おぼっさん」とも呼ばれている。
 なお、「おいとしぼし」の名称については、「お愛し星」または「老年星」とも解釈され、また一説では隕石であろうと伝え聞くが、民間信仰であるため正確な由来は不詳である。

以上です。いちおうご参考までに〜♪

[5653] Re[5650][5649]: 面白い末社  恋川亭 2004/09/12(Sun) 21:58 [Reply]
<(__)> すみません。下↓の[5652]は手がすべってエンターキーを押してしまいました。操作ミスです。お手数をおかけ致しますが、削除をお願いします。

> 社名のいわれは「お愛し星」「老い歳星」とも。

 どこかで見かけたのですが、「歳」に「ほし」とルビがうってありました。年の記述のことろのように思いますが、自信がありません??
 仮に、大歳→オオホシなら木星を示すのは自然ですね。御歳→三歳→ミホシで、三ツ星なら面白いですが、青草でした。(でも三ツ星なら農耕と関係があるかも)

[5651] Re[5615]: 任益神  玄松子 2004/09/12(Sun) 15:35 [Reply]
もう、話は終わったようなので、レス。

> 砥鹿神社は『砥鹿』以外の表記はないと思う

中央の文献では、そうでもありません。
都鹿 や 度鹿 などはよい方で、中には、都摩 や 妬麻 などの表記も見られます。

任益 が、漢字の誤写だとすると、稲前 の方が近いかも。

[5650] Re[5649]: 面白い末社  神奈備 2004/09/12(Sun) 11:41 [Reply]
訂正
誤 おいとぼし
正 おいとしぼし
写真掲示板に玄松子さんが訂正と「おもかる石」の写真をアップしてくれています。ありがとうございました。
『神社紀行:住吉大社』によりますと、龍神信仰(金龍さん)で人気の小社。社名のいわれは「お愛し星」「老い歳星」とも。
とあります。

[5649] 面白い末社  神奈備 2004/09/12(Sun) 09:49 [Reply]
 近所に地主の爺さんが住んでいます。何故か小生の学校の大先輩にあたり、共通の知り合いもいたりして、雑談と飲茶の良い友です。地域の金持ちと貧乏人の代表同士と言った所。

 この前、思い立ってカメラをぶら下げ、一人で久しぶりに住吉大社へ参詣してきました。
 南東側になりますが、境内からは道と川で隔てられた所に摂社の大歳神社が鎮座しています。ここは初めての参詣でした。その大歳神社の南側においとぼし社が鎮座、愛しい子と言う意味らしい。力石が三個あり、祠もありました。熱心にお参りする人がいました。その隅の方に石碑が建っており、某氏の母親云々とかありました。先ほどの飲茶友達と同じ姓でした。翁さんはこの近辺のマンションのオーナーでもあり、ひょっとしたら・・。
 翌日、翁さんからお茶の誘いがあり、「住吉っさんのおいとぼしさんを知ってるかい?」と聞いてみますと、ぽつり、母親だ。
 南に正印殿址があり、これは後村上天皇の行在所ですが、道路拡張工事で移転やむなきとなった時、その費用を出したのが翁さんの母親だったとか。

[5648] 世界最古の神名と関係図  かみなり [Mail] [Url] 2004/09/11(Sat) 15:24 [Reply]
 前15世紀以降に西北インドに侵入したアーリア人の信奉した神の1人。『リグ=ヴェーダ』の讃歌の約4分の1がインドラに捧げられているので,最も愛好された神とみてよい。雷が擬人化された神らしく,ヴァジュラ(雷,のちに金剛杖)を持ち,神酒ソーマを痛飲し2頭だての馬車を駆って敵を破る。アーリア人の理想的戦士の面影が投影されているという。時代がたつにつれて,インド神話の世界では勢力を失い,西暦後のプラーナ文献では8人の護世神の1人となった。仏教にもとり入れられて,仏法の外護神とされた。武器のヴァジュラもとり上げられ,他の神の手に渡ったが,梵天(ブラフマー)とともに仏典にたびたび現れる。インドラの異名の一つがサッカsakka(力ある者の意)で「神々の主サッカ」ともいい,これを音写して「釈捏桓因」とされる。また神々の帝王サッカから帝釈ともいう。
・・・・・・・・・
サッカsakka(力ある者の意)という言葉は、
釈迦族のシャカと同じ言葉です。
サンスクリット語のsakraやsakyaも元は同じ言葉です。

日本語の「さくら」との関係があるのか?
「盛り、栄え」など・・・深遠な・・最古の世界におぼれます。
漢字と印欧語の比較を超えた、
漢字の訓読(大和ことば)との比較は、
日本語の研究が不十分なために、危険すぎて踏み入る段階にはないのです。

「インドラとオリエントのユノとどちらの神話が、より古代なのか?」
歴史上の時空関係をご存知でしたらお教え下さい。
「世界最古の神は、誰か?」正しい時空列の表でご存知でしたら、お教え下さい。

[5647] Re[5646]: 無題  かたばみ [Mail] [Url] 2004/09/11(Sat) 00:45 [Reply]

≫【全世界の古代の太地母神】にまで関わっていって

日本では大山祇神がそれに相当すると考えています(弥生ではやや狭義になってくるとみますが)。
ヒマラヤの娘・・ヒマヴァット(ヒマラヤ山)の娘ですか。
インド神話にSakuraという名を知りませんが、パールヴァティの妹のガンガーのことかなあ。
(インドラにSakraの別名がありますけど)

サガラ王が二人の妃を取り、一方は6万人の子を産み、一方はひとりしか生まない話があり、これにからんでシヴァ神とガンガー神が登場します。
6万人の子と1人の子、なんとなく木花開耶比賣と磐長比賣も連想させますね。

サガラ王(sagara):
インド東南部のアヨーディーヤの王、タイのアユタヤの地名の源、半島南岸の駕洛国首露王の妃がインドのアユタ国出自(三国遺事)ともされる。

インドでは3つの河が神聖化されていて、ガンガー女神はガンジス河の神格化です。
もうひとつがガンジス上流のひとつヤムナー河。
もうひとつがサラスヴァティ河でインダス川の南にある湿地帯へ注ぐ小さな川、小さな川なのになぜ??

このサラスヴァティ女神が日本では弁天様になっていて、祀る場所には必ず水も配しますね。
さてなあ、日本では川の神格化ってあるのだろうか。


大地母の概念や部族抗争は世界中に普遍的に生じるものと思います。
それらの関連をみるにはべらぼうに広範囲で複雑になってたいへんですね。
「大海母」というイメージは世界的にみあたらないと思うのですが、大綿津見神はどういうイメージから発しているのかなあ。


≫皆様を、巻き込むことは、控えたいと思います。

私も単なる訪問者ですが・・巻き込むなどそんなことはまったくないどころか歓迎だと思います。
裏の青草でかみなりさんの書き込みをきっかけに議論が始まっています。
いろいろな考え方を知る、考えるきっかけを作る、それが掲示板だと思います。
(むろん内容には限度がありますが、それは管理者におまかせしておけばよい(^^;)

どうぞ、騒がすなんて考えはお控えなすって(^^;


[5646] 無題  かみなり [Mail] [Url] 2004/09/09(Thu) 17:06 [Reply]
かみなり語呂ちゃんです。
お騒がせいたしましたが、お願いがあります。
コノハナサクヤ姫に関する私のお願いを、撤回させて頂きます。
理由は、収拾が着かなくなるからです。

私の調査では、インドのシバ神の妻の名、Sakura・・ヒマラヤの娘・・・、
キリスト教のマリアやオリエントのヨノ神、
地中海からアフリカまで【全世界の古代の太地母神】にまで関わっていって、
収拾がつかなくなります・・・・。
女神崇拝から男性神(男性支配社会)への変換など、
古代の神秘に拘わる問題と発展して、・・・
世の中、事実や真実を突きつめると・・・大変なことになります。
皆様を、巻き込むことは、控えたいと思います。
おさわがせいたしましたことを、お詫び申し上げます。

[5645] こんばんは・・・  海月 [Url] 2004/09/08(Wed) 21:32 [Reply]
『越後不思議紀行』と言う新潟県内の伝説などを紹介するサイトを
作っている者です。
当方のリンクのページに貴サイトを追加させて頂きました。
ご了承下さい。
当サイトは内容に関してはまだまだ不十分ですが、今後暇を見て
コツコツ整えていこうと思っています。
以上よろしくお願いします。

[5644] Re[5642]: 木花開耶比売  恋川亭 2004/09/07(Tue) 15:25 [Reply]
 私も神社ウォーカーのYEY先輩に聞こうと思ったのですが、台風で不在でした。気吹戸主の大神様のお手伝いで忙しいのでしょう。
 ニニギ・・・うちの田舎の神様も全国区じゃ呼び捨てにされちゃうんだなぁ、まッいいか。

> 天の神は死なないが、地に下りた神の子孫は死ぬことの説明のために

honmakana? 私の手許にある文庫本の古事記では、
 父神である大山津見神がいうには、「我が娘二人を並べて一緒に奉った理由は、姉の石長比賣をお側にお使いになるなら、御子の命が岩のように不変で続かれると、妹の木花佐久夜毘売をお側にお使いになるなら、木の花が満開になるように栄えると『ウケヒ』して貢いだのです。それなのに石長比賣を返して、木花佐久夜毘売のみ留められました。これでは御子の寿命は栄えたとしても、木の花のように短くなってしまうでしょう。」(恋川亭勝手意訳)
と、書いてあります。

 『天の神は死なない』とか、『地に下りた神の子孫は死ぬ』とはありません(もっと後の別の章に記述されているのかな?)。 天神だからとか、降臨したからという条件ではないようです。不老長寿をもたらす石長比賣は国つ神の娘ですよね。
 また日本書記の方では、恨み言を言う(トゴヒ)のは、父神でなく磐長姫であって、短くなる命は天孫自身ではなく、その子孫に対してのことになっています。別伝では、さらにこの世の人全体への呪詛になり・・・おぉ怖い。

> 記紀の作者が作った名前。

 古事記も日本書記も、読めば判るように、伝承を収集して編集された書物ですよね(編集上の方針というものは在ったでしょうが)。
 誰か作者がいて創作したという説は、一見面白そうですが偏狭な見方だと思います。

> 民衆が『天皇は神だなんて嘘じゃん。だって死ぬもん』といい始めちゃう

 古事記で表記すると、天津日高日子番能邇邇藝能命は天皇か? 曾孫の神武天皇が、初代の天皇じゃなかったっけ?
 神武天皇以降が人代、それ以前が神代の『お話し』。つまり、神武天皇より前は『神話』ですヨ〜、というのは、記紀編纂当時でも常識だったのでしょう。
 仮に『木花之佐久夜比売は後の創作』だとしても、その創作の理由が、民衆にスメラミコトは神だと信じ込ませる必要から、というのはチョット青草やな〜?

[5643] Re[5642]: 木花開耶比売  神奈備 2004/09/07(Tue) 08:22 [Reply]
> 山の支配者(神)として登場するときは大山津見、海の支配者(神)として登場するときは住吉三神

 大山津見と住吉三神、この関係は寡聞につき承知しておりません。ひとつ解説をお願い致します。

[5642] 木花開耶比売  YUUKO [Url] 2004/09/07(Tue) 01:10 [Reply]
神社ウォッチャーのAYA先輩に聞いてみました。
「木花開耶比売ってどんな神様ですか?」
「『古事記』では、ニニギが海岸を歩いていると、美人に出会って、名前を聞くと『大山津見の神の娘で、名は神阿多都比売、またの名を木花之佐久夜比売』と答えるの。木花之佐久夜比売はその神が美人であることを示すためや、次に出てくる天の神は死なないが、地に下りた神の子孫は死ぬことの説明のために記紀の作者が作った名前。この話を挿入しないと、民衆が『天皇は神だなんて嘘じゃん。だって死ぬもん』といい始めちゃうでしょ」
「つまり、神阿多都比売が本名で、木花之佐久夜比売は後の創作だと」
「そう。でも、木花之佐久夜比売ってとても美しい名前だし、美人だったので、そっちの名前の方で広まっちゃった。神阿多都比売と言われても分からないでしょ?」「『神阿多都比売』とは、『阿多族の姫』の意味。阿多族は野間岬周辺の海人族で・・・」以下の話は大山津見の話で、この掲示板に前に載せています。(補足:以前、掲示板に、「なぜ大山津見が海の神であり、山の神であるか分からない」と書きましたが、AYA先輩によると、「大山津見は、三嶋(本州(中国)・四国・九州)の支配者。つまり、その区域内の、山も支配してるし、海も支配してる。山の支配者(神)として登場するときは大山津見、海の支配者(神)として登場するときは住吉三神とかって、名前を変えて登場してるだけ」だそうです。)

 木花開耶比売が記紀作者の創作だとすると、浅間神社等の神社の祭神名は記紀制作以前は神阿多都比売だったことになりますが・・・どうなのでしょう? 木花開耶比売という名前が最初に登場したのはいつなのでしょう????

[5641] 木花開耶比賣と桜  かたばみ [Mail] [Url] 2004/09/06(Mon) 12:27 [Reply]

木花開耶比賣と桜についてもちっと突っ込んだものを青草へ。

≫神阿多都比売の亦の名とあり、木花之佐久夜比売と対応する。と記しています

かっては興味を持っていましたが、今はさほどではなくなっています(^^;

木花知流比賣の名が登場するのは古事記の大年神系譜の1カ所だけですね。
その他は書紀でもすべて石長比賣(磐長比賣)
古事記では石長比賣が追い返されたときの恨み言に「花が咲いている間だけの栄えであろう」自己流意訳(^^; といってるだけ。

散るというイメージは書紀1書の「移落」だけで、直後に人の命の短いのはこの故による、とあります。
しかし、石長比賣を妃とした八島士奴美系譜の寿命は長いのかなあ。
書紀編纂者の「持論による解釈(^^;」を書き加えたに過ぎないとみています。

また、散ってしまう花を永遠のはずの石長比賣の呼称に使うのは不自然です(古事記)。
その意味で神阿多都比売=木花開耶比賣の亦の名とみるのは正しいと思いますが、石長比賣という永遠を思わせる呼称と合わなくなってしまう。

結局は、木花知流比賣は記紀編纂時代のだれかが「移落」と「当時のヤマザクラの散る様」を付会させて作った人名にすぎず、深く考える意味はないとみています。
花吹雪が桜の特徴なら、「開耶」ではなく「知流」のほうこそサクラの語源になるはずだし。


これらがあることからも「木花」がヤマザクラであることが推測できるのですが、「木花」については青草参照。
以下そちらには書かなかったヤマザクラ若干。

ヤマザクラは花の白と葉の赤(若葉は赤い、花と同時)の混じったピンクが木々の間に見える木。
周囲の多くは常緑樹でしょう、そしてピンクは消えて全山が新緑に変わってゆく。

自然状態のヤマザクラでは散り際(花吹雪)は一般人にはみえず、花吹雪が意識されるのは人家近くに植えられるようになってからだと思います。


[5640] 木花知流比売  YUUKO [Url] 2004/09/06(Mon) 01:33 [Reply]
>木の花知流比売と云う名の女神がいます。

愛知県知立市の知立神社の「知立(ちりゅう)」の語源には諸説あって、その1つが「木花知流比売」の「知流」ですね。

[5639] 日本語  YUUKO [Url] 2004/09/06(Mon) 01:29 [Reply]
>「了(ら)」は、朝鮮語の命令形語尾、中国語の強調語尾です。

そういえば、シングリッシュ(シンガポールイングリシュ)では、This is a pen.を「ディスイズアペンラー」って読みますよね。最後にラーを付けるのは中国語の影響だとか。

日本語の語源が分からないのは、アイヌ語や沖縄の単語は研究されていても、古代朝鮮語が分からないからなのかも。確か、古代朝鮮語で書かれた物は17首の和歌が残ってるだけで、それ以外は残っていないとか。だから、現在の朝鮮語との比較しか出来ないって聞いたことがあります。

しかし、日本って狭いのに何故方言があるのでしょう?
こんなに狭い国なのですからどこへ行っても全く同じ言葉を話していてもいいと思うけど、方言でしゃべられると、何を言ってるか通訳が必要なことがありますよね。

[5638] 無題  かみなり [Mail] [Url] 2004/09/06(Mon) 01:25 [Reply]
たちばな〜太刀花という説がありますことを、
ご報告いたします。
櫻と蛍と営という漢字は、関係があります。
蛍と回と耕なども関わり、
印欧語の語源【説】のcycleやcolonyやcultureなどへとつながります。

漢字と印欧語の関係は、両方の研究が進んでいるので、
その誤謬も含めて考察ができますが、
日本語の語源は、どのように解明されていくのでしょう・・・。
私が、知りたいのは、印欧語と漢字の語源。言葉の成り立ちに、
日本語がいかなる関わり方をしているかなのです。
このような事を、お教えいただける方がいらしたら、お教え下さい。
メソポタミア〜エジプト〜長江文明〜日本古代文明〜などの情報を、
お持ちでしたらお教え下さい。

[5635] 日本語の語源  かみなり [Mail] [Url] 2004/09/06(Mon) 01:00 [Reply]
悲しいことに、私達は日本語の一つのコトバの事実も探れない状況です。
大勢の方のお教えをいただきたいと、願っています。
皆様のお教えに、感謝をいたします。

今後も、「さくら」に関わる情報がありましたらよろしくお願いいたします。
また、農林関係の方々が、山桜の足跡を大事に探っていられるのですが、
日本に渡来した稲作の足跡を追っているのかとも考えられますので、
本当の所をご存知のかたがいらしたら、お教え下さい。
また、徐福との関連などの説をご存知でしたらお教え下さい。

私は、日本語の語源の世界は不慣れで、
また、おそろしくて、戸惑っているのです。


[5634] 「桜・橘」の語源説  福島雅彦 [Mail] [Url] 2004/09/05(Sun) 21:53 [Reply]
「花」と謂えば「梅」「桜」。
「花」の語源から。端(はな)からとは、始めからの意。葉より先に咲く意から「初っ端(ぱな)」。朝鮮語固有数詞と謂われる「一」も“하나(hana)”ですが、古代倭語?かも。
・「桜」は、稲作農耕民の季節を知る暦見たいな物です。この花が咲いたら、田起こし開始だった。花見も英気を養って、田起こしに掛かる祭りから?。
「桜=削(さく)了(ら)!=耕せ!」。朝鮮語に“삭-”(sak-)の一音節の語頭の語彙に、長ったらしい意味解説付きのもの(古代倭語借用語だからか?)があります。概ね、農耕関連語彙(田植え)です。
「了(ら)」は、朝鮮語の命令形語尾、中国語の強調語尾です。
・「橘」は、「到致花」です。次の季節の花が咲いても、前年の実が成っています。
「橙」が「代々(だいだい)」繋がる縁起物にのは、次期開花まで先代が成っているに由来するのでは?。
 以上、福島雅彦・福嶋正日子(ペンネーム)説です。
掻い摘んで、端折って書き込みましたが、「私の邪馬台国論vol−2」の十名共同執筆の内『邪馬臺國も邪馬壹國もなかった』梓書院2003年に詳細に述べています。

[5633] Re[5632]: なにがし様  神奈備 2004/09/05(Sun) 15:42 [Reply]
> その碑は今も丹生津姫神社の横に文化財指定となって残っています。

なにがしさん こんにちは。
下記のサイト
http://www.d1.dion.ne.jp/~s_minaga/sos_amanosya.htm
の光明真言板碑
http://nihonnotoba.cool.ne.jp/2003toba/amano26.jpg
のことでしょうか。

修験はやはり葛城が先行して後、大峰が本拠となっていったようですね。やはり開祖が役小角とされるのもそれなりですね。

> 和歌山の西の端から、
淡島明神の鎮座する加太浦、友が島に渡り・・・と凄い強行軍で駆けていますね。

[5632] 神奈備様  なにがし 2004/09/05(Sun) 11:13 [Reply]
>神社巡りの際には、そのような周辺情報を集めておき、一層有意義なものにしたいと思うこのごろです。

ごぶさたです。
そうですね。そのような目で今まで見てませんでした。なぜ経塚がそこにあるのかなども解明できるかも知れませんね。
余談ですが、鎌倉時代ごろでしょうか、4月に丹生津姫神社に葛城修験(天台系、高野系)が総勢100人以上集まり、丹生津姫の御神体を頂いて、丹生津姫神社の横に1ヶ月こもり、その後丹生津姫の御神体をかついで葛城山脈を和歌山の西の端から金剛山、二上山と周って丹生津姫神社に戻ってくる行事がありました。その碑は今も丹生津姫神社の横に文化財指定となって残っています。丹生津姫が修験のおや神様と呼ばれるいわれかもしれません。丹生津姫神社におこしのさいは、およりになってみて下さい。

[5631] Re[5629][5621]: コノハナサクヤヒメ  神奈備 2004/09/05(Sun) 10:55 [Reply]
 木の花知流比売と云う名の女神がいます。『古事記』大年神の系譜の項に出てきます。大山津見の神の女で、注角川文庫の注では、神阿多都比売の亦の名とあり、木花之佐久夜比売と対応する。と記しています。「対応する」とは判りにくい表現ですが、同じ女神を指し、名前が反語になっているとでも云う意味でしょう。

 そうしますと、「サク」と「チル」とは咲くと散ると云うこと。サクラは咲くときより散るときのほうが見事で、木花之佐久夜比売につなげるのなら、「咲く」+「ラ」と見るのが穏当と言えるのかも。

 これは、表現は違いますが、大三元さんが、

2004/02/07神奈備掲示板[4828]から
三浦佑之著『古事記講義』では、「繁栄と有限の二つを象徴化したコノハナサクヤビメがサクラでなければならない」としています。(深い考察に基づいているが省略)
そして、「咲く+ラ(接辞)」と理解しています。

と記述されていますのと軌を一にしたお話。

[5630]  YUUKO [Url] 2004/09/05(Sun) 07:09 [Reply]
>サクラの木がいつ日本に登場したのかわからない

昔からあったでしょ。
梅は中国から薬用として伝わったようですが。
桜は10種類の原種のうち、9種が日本原産で、1種が中国原産ですから。

>サクラの呼称もいつ登場かわからないし。

確かに。
『万葉集』には出てきますが、それ以前は???
木花開耶姫が生まれたときに「桜」という単語があってそれを使って木花桜姫と名づけたのか、木花桜姫の名前や説話をもとに、ぱっと散って、天皇の寿命が短くなったことを表現するのに適した植物に木花桜姫の名前を元に「桜」と名を付けた、あるいはその植物の名を「?」から「桜」に変えたのか。

『万葉集』の時代、花と言えば梅を指しました。梅は、中国の文人達に愛されていた花であったため、中国文化を理想としていた万葉時代の日本の知識人にとっては、花と言えば梅で、『万葉集』には、梅の歌は116首で2位なのに対して、桜の歌は41首で10位です。それが、遣唐使の廃止とともに、花と言えば桜を指すように変わったようです。平安時代、花と言えば桜のことです。

木「花」開耶姫が平安時代に生まれたなら、その「花」=桜。万葉時代に生まれた神なら「花」=梅。それよりも前(梅が伝わる前)に生まれたとして、その時代に「花」と言ったら???

↓答えはここ
http://homepage1.nifty.com/k-kitagawa/qa/manqa06.html


[5629] Re[5621]: コノハナサクヤヒメ  かたばみ [Mail] [Url] 2004/09/04(Sat) 23:59 [Reply]
かみなりさん、こんにちは。

≫コノハナサクヤヒメと桜

サクラの語源、古代関連に興味を持ち始めたきっかけのひとつです。
ですが、いまだ語源不明。
サクラの木がいつ日本に登場したのかわからない、サクラの呼称もいつ登場かわからないし。

持論はYUUKOさん紹介の「説4:サ(「穀物の霊」を表す古語)・クラ(神が鎮座する場所)で、「穀物の霊が集まる依り代」を表す」にほぼ同じです。

ただし、「サ」の解釈がちょっと違います。
稲作関連の言葉とされるのが一般ですが、はるかに古くかつもっと広義に「神を賛美する」あるいは「愛でる」ことを表す言葉(接頭語)だと考えています。

クラは説4に同じで、神が降りてくる場所、サクラの場合は山肌の磐座か。
サクラ→山の磐座を愛でるように咲く木、です。


以下は字訓/白川静の記述をヒントとして、サの言葉とみているいくつかです。

幸:サ・イワフ(祝う、祝い)
幸:サ・チはサ・血、と考えています。霊チでもあって自然界の霊力につながるもの。

古事記「海佐知と山佐知」、万葉267佐都雄サツヲ、1678弓雄サツヲなど。
サ・ツ・ヲ、血を賛美する男(^^;;;
農耕社会からみた狩人あるいは漁労者ですね。

転じてサチ=狩猟あるいは獲物。
それに使う道具が万葉61の得物矢サツヤ、804の佐都弓など。
農耕社会では血に忌避がありますが、狩猟社会では血は最良の食品、転じて幸いの意にもなったとみています。


咲く:字訓によると、「ク」(所)には神聖な場所を指す言葉であったらしい、とありまた、カキクケコの形を持つ語となる、とあります。

ならばサ・クあるいはサ・カ(神)であってサクラの語源とほぼ同じ意味であると考えることができそうです。
木花開耶姫(木花之佐久夜毘賣)のサクが山ザクラと結びついても不思議はなさそう。

字訓では「咲く」は「裂く」と同源で、つぼみが裂ける→咲く、とありますが・・私は納得しません(^^;
「裂く」はサが強く、「咲く」のサは弱いサ、アクセントが違うからです。

栄、は字訓では「咲く」と同源とあります。
しかし、栄えるを「裂く」に結びつけるのに「咲く」を介さねばならずこれも納得していません。


咲サクも栄サカ(盛サカ)も、サ・カ(神)、神々を賛美する状態を源にするのではないかと思っています。
ならば幸、栄、咲、はみな喜びを表すもので、サが先頭にある言葉のグループとして自然に思えるのです。
なお、幸:サ・キはいまのところなんともいえず、栄の変形かなあ??

以下も喜びを表す「サ」のグループと考えています。
榊:サ・カ・キ=サ・神・木、神に捧げる木
肴:サ・カ・ナ=サ・神・菜(補助食品) 神に捧げる食べ物
魚:同上で海川に特化した食べ物
酒:神に捧げる穀物の特化したもの(≒御食ミケ→神酒ミキ)
(本来はサ・カ・ケだったのではないかとみています)


[5628]  YUUKO [Url] 2004/09/04(Sat) 23:53 [Reply]
>印欧語と漢字と日本語にまたがる言語解明の世界

言語学者でチームを組まないと難しいでしょうね。1人の力では・・・。
どこかの出版社かTV局で「桜プロジェクト」でも企画して各界の権威者を集めないと。

個人的には「桜の語源」よりも「なぜ日本人は桜が好きなのか?」というテーマの方に興味があります。

桜と木花開耶姫、さ神、帝釈天・・・個人的には、桜と最も関連する神は瀬織津姫だと思うのですが、天武&持統天皇や藤原不比等によって徹底的に消去されたようで、実態がつかみにくいです。ここらへんの話は青草でしょうね。

[5627] 桜のお礼  かみなり [Mail] [Url] 2004/09/04(Sat) 22:44 [Reply]
YUUKOさま
ありがとうございました。
4と5の説は、私の調査には入っていませんでした。

かぐや姫については、海女の話やら・・。
とにかく、コノハナサクヤヒメ〜桜を徹底的に調べると、
尽きることがない、深遠な世界に溺れてしまいそうです。

私の課題は、さくら〜盛り〜釈迦族〜釈〜〜帝釈とまで、繋がるか?
桜〜嬰〜蛍〜帝〜誠〜丁〜頂〜さ神などに繋がるか?
culture〜耕〜囲〜回〜〜蛍〜櫻などにつながるか?
など、言語と脳のシステムに関してなのですが、
このような恐ろしい
【印欧語と漢字と日本語にまたがる言語解明の世界】を、
聞き取る方が日本の何処にいるかを、探しているのです。

[5626] 葛城修験  神奈備 2004/09/04(Sat) 20:42 [Reply]
 今回世界遺産になった熊野吉野高野山は神道、修験、密教の聖地とその参詣道です。
 修験では役小角に因んだ葛城修験も有名です。葛城二十八品と称する経塚を埋めた行場が紀伊と泉州の境から金剛葛城山から二上山の北部にまで分布しています。
 
 調べて見ますと、神福山頂近くの高天佐太男神社に参詣した際に、十九番目の経塚の碑が立rてられており、土盛りまでありました。平石の磐船神社へ参詣した際見かけた高貴寺にもあったようです。
 最近、火幡神社へ参詣しましたが、もう少し足をのばすと二十八品の最後の明神山への登り口と鳥居があったそうです。

 神社巡りの際には、そのような周辺情報を集めておき、一層有意義なものにしたいと思うこのごろです。

[5625]  YUUKO 2004/09/04(Sat) 00:49 [Reply]
 古来、「鯨1頭獲れれば7村潤う」と言われ、その鯨を湾内に追い込んでくれるシャチの語源は「幸(さち)」だそうです。
 アイヌでは、シャチ(食物神)をシャチ神(レプンカムイ、repun-kamui)と呼んでるそうです。食物(鯨)は神にならなくて、食物をもたらしてくれるもの(シャチ)が神とあがめられる。

ttp://www.sjk.co.jp/c/w.exe?y=www2.starcat.ne.jp/~delphyne/repunkamui.htm

[5624] 竹取物語  YUUKO 2004/09/04(Sat) 00:38 [Reply]
 PONTAの会報の4月号に「姫名の里」(富士市比奈地区)のレポートが載っています。「竹取伝説発祥の地」です。
 私的には「竹取伝説発祥の地」は丹波で、竹取物語に出てくる富士山も、聖徳太子が愛馬黒駒で登った富士山も丹波の富士山だと思っています。かぐや姫と木花開耶姫とは関係ないと思います。
 木花開耶姫は、有名なのに「どの神社に祀られてるの?」と聞かれても、浅間神社しか思い当たらないのが悲しい。あとは岡崎市の村積神社とか。ご出身は父親の大山祇神と同じく野間岬周辺でしょうか?

 桜の語源は、分かりませんし、自説もないです。

説1:木花開耶姫の「木花」=桜の花で、「さくや」→「さくら」
説2:「麗らかに咲く」という意の「咲麗(さきうら)」→「さくら」
説3:「咲く花」の総称である「咲くらむ」→「さくら」
説4:サ(「穀物の霊」を表す古語)・クラ(神が鎮座する場所)で、「穀物の霊が集まる依り代」を表す
説5:サ(より多く・大きく)・ク(組み合わさる)・ラ(群がる)で、「より多くの花が組み合わさり群がるように咲いている木」
説6:「咲く」+接尾語「ら」(「僕ら」「君ら」の「ら」)
説7:裂く・裂ける+連なる・群がる

 PONTAの会報に月の異称の語源をSAYURI先輩が書いているのですが、農耕というか、稲作に関係してるものが多くて驚いています。暦と農耕は密接に結びついているんですね。
 桜が咲く時期に、田の神様(サ神)が山から降りてきて、桜の木に座って、種まきから収穫までを見守り、収穫が終わると山へ帰っていかれるそうです。だから、桜が咲いたら種まきをするとか。

ttp://www.ffortune.net/spirit/zinzya/kami/sakuya.htm

[5623] 三嶋大社  YUUKO 2004/09/03(Fri) 23:35 [Reply]
 三島市の三嶋大社でも鰻の供養祭をやるのかと思って調べたところ、

「三嶋と富士とは、親と子の御神なり、富士権現には木花開耶姫なり。三島は御父の神にてオハシましけり。竹取の物語にかぐや姫とかきしハ、後の世の事にやあるらむ。三嶋と申すハ、伊予・摂津・伊豆の三所におハしますよしを、延喜式の神明帳にのせたり。社より、三町バかり右の方に、ほそき川あり。ここに神明の使者とし、うなぎおほし。何ほどあり共かぎりなし。手をたたき、石をならせば、岸にあつまる。猿沢の鰻・鮒のごとくなり。左の方に御殿あり」(浅意了意『東海道名所記』)

 どうも、鰻は三嶋神の眷属で、食べてはいけなかったらしい。

 ttp://www.unayoshi.co.jp/unayosi.html

[5622] Re[5620][5615]: 任益神  YUUKO 2004/09/03(Fri) 16:43 [Reply]
> 鰻と観音様、どのような関係でしょうか。良くわかりません。

●京都市東山区の三嶋神社は、毎年5月と10月に大放生祭を開き、うなぎの供養が行われている。
●魚藍観音大菩薩像(通称「鰻観音」)が浜名湖の舞阪町乙女園にある。毎年8月24日には、その年に殺生されたうなぎを弔うために、供養行事が行なわれている。夏バテ防止のスタミナ源として人間のために命を捧げる鰻を弔い、殺生しなければ生きていけない漁師たちの心を憂いた観音像が祀られている。

東海道で鰻といえば、今は浜名湖だけど、江戸時代は三島と豊川でした。
江戸時代は三島、今は浜名湖で多くの鰻が人が食べるために殺されたと思います。
その鰻たちの供養です。

[5621] コノハナサクヤヒメ  かみなり [Mail] [Url] 2004/09/03(Fri) 16:02 [Reply]
みなさま、こんにちは。
突然の闖入で恐縮いたしますが、
コノハナサクヤヒメと桜、
古代の稲作の日程の目安としての桜の開花など、
といった課題をもっています。
ついでに、
桜[サクラ]と盛り、栄え、咲くなどの言葉の関係・・・
何か、ご存知でしたらお教え下さい。
よろしく、お願いいたします。

[5620] Re[5615]: 任益神  神奈備 2004/09/03(Fri) 10:52 [Reply]
YUUKOさん 力作ありがとうございます。

> 国史大系では参河國って小さな字で書いてある。これって、もしかしたら、神社(社殿)は都にあって、三河から寄進された封戸が三河にあるってとれない?

一見鋭いご指摘ですが、そうとばかりは言い切れないようです。

伊太祁曽神 紀伊 この紀伊は普通の大きさの活字
任益神 参河 小さい活字です。
所が
播磨伊和神 播万 これも小さい活字です。
他にも小さい活字で国名を表示して、かつその国に鎮座していそうな神社があります。


> 「鰻を祀る神社はありますか?」「知らない。観音様なら知ってる」

鰻と観音様、どのような関係でしょうか。良くわかりません。

[5619] 御鍬社  YUUKO [Url] 2004/09/03(Fri) 00:29 [Reply]
神社ウォッチャーのAYA先輩に聞いてみました。
「御鍬社のご神体は鍬ですか?」
「自分で調べれば?」
ということで調べました。
「神宮の御田植初め神事より出たもので、その時に使う忌鍬を諸国に祀り、豊の豊穣を祈った。明和4年(1767)頃が最も盛んであった」(御鍬神社の由緒書)

[5618] ご神体が鰻  YUUKO [Url] 2004/09/03(Fri) 00:27 [Reply]
神社ウォッチャーのAYA先輩に聞いてみました。
「鰻を祀る神社はありますか?」
「知らない。観音様なら知ってる」「ちなみに阿多古川の鯰神社は平成に入ってから作られた神社だよ」

[5617] 神社の立地条件  YUUKO [Url] 2004/09/03(Fri) 00:26 [Reply]
神社ウォッチャーのAYA先輩に聞いてみました。
「神社はなぜ川のそばに建てるのですか?」
「1.古い神社では、川で禊をして身を清めてから境内に入るのが作法のため(現在は、手水舎で手と口を洗い、浜砂・玉砂利(海を表現)の上を歩けばいい)、2.川の氾濫を防ぐために水神を祀る(大井川では大井神社、天竜川では諏訪神社、矢作川では天白神社が昔の川筋に沿ってたくさん建てられている)」「三河の場合、式内社と古寺院を地図上で探すと、神社は河・湖畔か海岸。寺院は河畔。寺院が河畔にあるというのは、建設資材(石や材木)を川で運ぶからかな?」
CM「三河&遠江式内社一覧」は地図を加えて、会員サイトへ移動しました。

[5616] 菟足神社  YUUKO [Url] 2004/09/03(Fri) 00:24 [Reply]
神社ウォッチャーのAYA先輩に聞いてみました。
「菟足神社の社名の意味は何ですか?」
「どの本を見ても、『祭神が菟上足尼だから』と書いてある。でも、それなら『菟上神社』のはず。創建時には小坂井町平井にあり、湧き水が多かったから、『雨垂』(じめじめした土地)の意味でしょう。」「『兎上神社』とすると、そういう有名な神社があるから混乱するね。山に鹿が10匹いるのを見たから「とかみ(十鹿見)山」。この山にある本宮が有名な砥神(とかみ)神社で、山麓の里宮が兎上(とかみ)神社。なぜ本宮と里宮の表記が違うのかは不明。だいたい、研究者は、『とかみはたがの訛』として、本当は多賀神社だと言ってる」「三河一宮・砥鹿神社の社名の起源も4説あるけど、どれもいまいち。私の説は『本当は多賀神社で、壬申の乱の功績により初代宮司に持統上皇が任命した草鹿砥氏(砥鹿神社・里宮の創建者)が、自分の名を社名に使った』だよ。『社誌』に「古来『砥鹿』で、他の表記はない」としてる。これは「多賀」と書かれていたことを隠すためと、自分の名前だから間違えずに書けたし、他の表記を使いたくなかったから。もしかしたら、草鹿砥氏は、『菟上足尼は自分の名前を社名に使った』と考えてまねをしたのかもしれない。だって、菟上足尼は穂国の国造で、草鹿砥氏も穂国の国造候補だから。ただ、持統上皇が三河にやってきたときに大宝律令が出て、穂国は三河国に吸収されてなくなったから。穂国の国造を狙っていた草鹿砥氏はがっかりした。それで、持統上皇が砥鹿神社を建てさせて、初代宮司に任命。これにより、砥鹿神社は皇室との関係を深めて三河一宮に昇格。なんたって、門に天皇家の菊の紋を使ってる神社だから」

[5615] 任益神  YUUKO [Url] 2004/09/03(Fri) 00:23 [Reply]
神社ウォッチャーのAYA先輩に聞いてみました。
「任益神って今の何神社ですか?」
「任益神社は今の三河にない。1.神社庁未登録、2.社名を変えた、3.廃社になったと考えられる。砥鹿神社は『砥鹿』以外の表記はないと思う」「現物を見たわけじゃないけど、国史大系では参河國って小さな字で書いてある。これって、もしかしたら、神社(社殿)は都にあって、三河から寄進された封戸が三河にあるってとれない?」「昔の本って、写し間違いとか、朱で訂正したり、藍で補足したりするから、活字化したのものだと分からない。活字化するときに間違えてないよね?」「国史大系の旧字体の字は新字体では『益』」「三河ではなく遠江とか?遠江だったらどこだろう?やっぱり無い(笑)。『任』が付くのは『事任八幡宮』。遠江一宮で、式内・己等乃麻知神社だとのこと。(小國神社も、昔の社名は己等乃麻知神社で、我が社こそ遠江一宮だと主張。さらに、秋葉神社が昔の社名は小國神社だと主張してるけど、境内社に小國社がなぜかある。)『事任』で「ことのまま」と呼んで、頼んだ通りに願いが叶う頼もしい神社(by清少納言)。近くに遠州七不思議の小夜の中山・夜泣き石がある。空海が指で『南無阿弥陀仏』と彫ったら泣き止んだとのことだけど、最近、この字が薄れてまた泣き出したって噂。地元の人は夜になったら近づかないようにしたって。この『小夜』は『さよ』と読む。佐野(さの)郡にあるのに、なぜ『さよ』かというと、昔はさよ郡と言ったから。これを漢字で書くと佐益郡。つまり、任益神は『ままよ』と読めるし、今は『ままの』に変わってる可能性もある」

CM「三河&遠江郡郷一覧」をアップしました。近日中に地図を入れて会員サイトに移動予定です。
http://www2.wbs.ne.jp/~ponta/chimei.htm
三河の神社の由緒書には『延喜式』の他に『国内神明帳』が出てきます。
これも近日中に写真を入れて会員サイトに移動予定です。
http://www2.wbs.ne.jp/~ponta/mikawa.htm<BR>
ついでに、穂国の歴史年表。これも近日中に写真を入れて会員サイトに移動予定です。
http://www2.wbs.ne.jp/~ponta/ho.htm

[5614] Re[5610][5608][5601][5600][5596]: ムナキ  かたばみ [Mail] [Url] 2004/09/02(Thu) 22:25 [Reply]
≫で、この場合の「肯定的情報」とは?

周辺の関連情報がある方向で揃い踏みするようなら、それが重要な肯定要素だと考えています。
それが複数あって流れが重なり合うなら確度は高くなる、という考え方です。
(一致ではなく流れの向きがといった微妙なイメージです)

私が否定する場合は、そうならないときです。
常識とされることであっても否定対象になりえる(^^;

いまのところ、縄文や弥生の環境、食品、言葉、伝承類、などが同じ方向に重なっています。
もっと調べてみないと。
ムナギや宇奈岐日女神社情報にばっと飛びつくわけ(^^;


また聞きかじりですが、事実からの1段階の推論に留める、がありました。
(確か鳥居龍三だったと思うけど)
原則はそのあたりだと思います。

しかし白か黒かわからない部分からも情報を取り出したい。
情報処理が進歩した現代ではもっと自由なあるいは拡張手法がでてきてよいと考えています。
それを素人なりにいろいろ試みてみる(楽しんでみる(^^;)。

そのかわり・・別の規範が必要になると思います。
例えばそれが青草の方で書いた情報に対するふたつの姿勢です。



[5613] Re[5611]: ムナキ  神奈備 2004/09/02(Thu) 20:22 [Reply]
> 「ウナギ」→「ムナギ」→「ンナギ(表記はウナギ)」という変化
梅の変化からでも言えますね。馬もそのようですね。
http://www.biwa.ne.jp/~ichhan-j/rendaku/rendaku8.htm
古代、鰻を全国一律にムナギと云ったはずもなく、中にはウナギと云っていた地域があっても不思議ではありません。ない方が可笑しいかも。

> 鰻は高砂族、マオリ族など各地で信仰の対象になってるそうです
そうすると南洋から渡来して来たともされる大山祇神とペアとなっていてもよさそうです。三島と鰻も解けるのかも。木花咲耶姫には鰻のイメージは湧きませんが、岩長姫にはひょっとしたら鰻の霊の神格化なのかも知れません。
尤も、男根の象徴とも言えるので、女神好みであっても、女神とされるのはどうかなとは思いますが、蛇神でもあるのなら水神でもあるので、女神で納得しておきましょうかね。

宇奈岐日女神社、河内の波牟許曾神社などがその可能性が出てきたのかも。

[5612] re[5609]  言蛇 [Mail] 2004/09/02(Thu) 01:16 [Reply]
こんばんわ、いつも楽しく拝読させていただいております。
海関連の食の神、三浦半島の海南神社では磐鹿六雁命(*1)を祭っています。
料理人の神格化が確立した為に、これ以降の自然の神格化が止まってしまったのかもしれませんね。
#料理人の人達が食材の神格化につとめれば、マグロや鯨の神生みは現代でもできそう・・・

貝塚を検索すれば海辺の縄文人の食生活を伺いしれますが、鯨だけでなくアシカとかの海獣の骨も
でてきます(*2)。貝塚のそばで祭事があれば、貝塚から神社へ発展の可能性もあったのかもしれま
せんが、生活圏の変化と共にダイダラボッチ伝承(*3)などに曖昧化して記憶の彼方に消えていった
のでしょう。

(*1)(http://homepage3.nifty.com/fukunoya/syokunokami1.html)
(http://www.genbu.net/data/awa/takabe_title.htm)
(*2)(http://www.pref.hokkaido.jp/kseikatu/ks-bsbsk/joumon/life/food2.html#food1)
(*3)(http://www.ichikawa-cci.or.jp/gekkan/rekisi/r_9912.html)

[5611] Re[5610][5608][5601][5600][5596]: ムナキ  玄松子 2004/09/01(Wed) 22:03 [Reply]
> 玄 > 記録に無い事物は、他の傍証で補うか、青草に留めるか。
> 他の傍証(肯定的情報)で補えるのなら、青草ではありませんね。

ということで、少しネットサーフィンしてみた。

http://www.biwa.ne.jp/~ichhan-j/rendaku/rendaku8.htm
ここに「梅」の発音が、上代(ウメ)→中世(ムメ)→現代(ウメ)と変化している点に関する考察がある。
これを鰻に当てはめると、
「ウナギ」→「ムナギ」→「ンナギ(表記はウナギ)」という変化が想定できるかも。


ところで、ネットサーフィン中に、ウナギの古名は「はむ」という記述がありました。
『風土記』や『日本書紀』にもウナギの記述があるという記述も。
『風土記』を眺めてみましたが、出雲国風土記出雲郷大川の項に「魴鱧」とあり、これをウナギとする説がある程度。魴=ほう、鱧=はも。

・ウナギの古名は「はも・はむ」なのだろうか。
・他の風土記に、ウナギが記述されているのだろうか。
・日本書紀のどこに、ウナギが書かれているのだろうか。

[5610] Re[5608][5601][5600][5596]: ムナキ  玄松子 2004/09/01(Wed) 20:14 [Reply]
> ただ、肯定的情報に重きを置いた場合はロマンや考える楽しみが増え、発見のチャンスも多くなると思っています。

「肯定的情報」が存在するなら、色々と思考することは楽しいですね。


> 例えば、ウナキ(弥生)→ムナキ(万葉、大伴家持)→ウナギ(現代)に戻る可能性はないか。

で、この場合の「肯定的情報」とは?


玄 > 記録に無い事物は、他の傍証で補うか、青草に留めるか。
他の傍証(肯定的情報)で補えるのなら、青草ではありませんね。

[5609] Re[5602][5601][5600][5596]: ムナキ  かたばみ [Mail] [Url] 2004/09/01(Wed) 20:12 [Reply]

≫鰻を祭神とする神社があったのでしょうか。
≫かって、農機具の鋤を祭ったと書いたとたんに反論を食らった記憶があるのですが、鰻はどうでしょうか。

(^^; 「鰻を祭神とする神社」、まともにそこへ飛んでしまうとやはり・・(^^;

例えば、「魚の住処を司る神」(自然神)といった感覚の祀りの場がまずありき(縄文〜弥生)。
そして、後世に自然神の人格化が生じ、その名に鰻が使われた。
「魚の住処を司る神」の象徴化です(例えば古墳〜飛鳥時代あたり)。

女神であることが生み出すことを司る意識の表れだと思います。
しかし、いったん象徴化されると鰻がででんと鎮座したりして(^^; 鰻の神様にもなりそうです。
本来の内容は別にして象徴化は形式化にもなり偶像化とも紙一重じゃないかなあ。

さて、
鰻は高砂族、マオリ族など各地で信仰の対象になってるそうです(ネットで百科)。
http://ds.hbi.ne.jp/netencyhome/index.html

民話想→民話の扉/水が溢れる、参照(長文中の一部なのでウナギで文字検索してください)
http://enkan.fc2web.com/index.html
ここに書かれる伝承でも鰻は少なくとも注目の対象です。

三嶋大社と鰻
http://www.unayoshi.co.jp/unayosi.html
いつ頃からなのかはわかりませんけど。
大三島の大山祇神社に鰻の痕跡は?

縄文にメラネシアやインドネシア系との類似があり、食糧に魚が重要であったなら、早々にウ・ナ・キ(^^;が登場する可能性あり。


万葉の「ムナギ」は大伴家持717-785 が歌ってるだけですね。
飢饉が背景にあるようで鰻を薬にみてるんじゃないかな。
おいしい蒲焼きが登場するのは江戸時代になってかららしいし。
大伴家持は学者であり中央の人物ですから、なにかを書けば後の公文書などへの影響大だと思います。

では、それらとは無縁だったであろう一般の人々は鰻をどう扱っていたのか。
鰻は川での蛇をイメージしていたかもしれない(私は東京で鰻をマムシというのを聞いたことがないです)。
いろいろな分野の支援が必要そうですね。


[5608] Re[5601][5600][5596]: ムナキ  かたばみ [Mail] [Url] 2004/09/01(Wed) 20:05 [Reply]

≫宇奈岐日女=鰻姫と見ることが出来ない「可能性」の方が高いのではないでしょうか

存在したことの証明は可能だが、存在しないことの証明は不可能、にからんでもきそう。

可能性に線引きする論理的(統計学的)な手段はまだないですね。
否定的な情報を重んじるか、肯定的情報を重んじるか、それだけでも軽重の判断はまったくもって各人各様だと思います。

ただ、肯定的情報に重きを置いた場合はロマンや考える楽しみが増え、発見のチャンスも多くなると思っています。
(手が回らなくて棚上げになってるのがいっぱい(^^;)


[5607] Re[5606]: ウナ−再び−  大三元 2004/09/01(Wed) 16:47 [Reply]
玄松子さん

> > > 水と同時に(あるいは派生して、あるいは無関係に)田を意味する言葉かも。

『時代別国語大辞典上代編』によると
・うなて:・・・ウナは畝の交替形か
・うね:・・・方言で、山の頂、あるいは小高く連なる丘陵をいい、琉球語では嶺や畝をウネという。中世の・・に「うねを越し谷を越し」とあるのも山の尾根をウネといった物。元来は畠のウネに限らず、小高く連なったところをいったものであろう。・・・

とあります。ご参考に。

また、ウナギの考察の参考に:抱く、には、イダク、ムダク、ウダクの形がある。



[5606] ウナ−再び−  玄松子 2004/09/01(Wed) 16:12 [Reply]
時間があったので、ネットの辞書で「ウナ」の付く語をながめていたら、

うなて 【〈池溝〉】 田に水を引くための溝。
「多(さわ)に―を開(ほ)りて民業(よのなりわい)を寛(ひろ)めよ/日本書紀(崇神訓)」

うな・う うなふ 【▼耡ふ】 (動ハ四)田畑を耕し畝(うね)を作る。耕す。
「荒れ畑をよく―・つて帰りましたが/歌舞伎・時桔梗」


水と同時に(あるいは派生して、あるいは無関係に)田を意味する言葉かも。

[5605] ムナギ・村山七郎説  大三元 2004/09/01(Wed) 08:01 [Reply]
(間違ってエンターキーを押してしまいました・・・)

村山七郎著『日本語の語源』では、かいつまむと:
「鰻」としては、オーストロネシア諸語から tuNa が復元される。
台湾のアタヤル語だけだが、talaqii <*tuNa-quii と接尾辞があり
和語古語のムナギの「ギ」もこれと関係あろう。
と書いています。なお、琉球語の Nnazi も参照しています。

[5604] ムナギ・村山七郎説  大三元 2004/09/01(Wed) 07:57 [Reply]
> > 万葉以前ではどうだったのかなあ。
> > 例えば、ウナキ(弥生)→ムナキ(万葉、大伴家持)→ウナギ(現代)に戻る可能性はないか。
> > 地域性はどうか、大伴家持の表現が一般だったとは限らないのではないか、そのあたりです。
> > 「可能性」という観点からすれば、ムナキとウナキの間で音が揺れることも、ありでしょう。
> あるいは、ナムキ→ムナキだったかも。
> > > > 弥生まで遡るとすると記録のない時代になるので、記録以外で推測するしかないのでやっかい。
> > そういうことです。
> 記録に無い事物は、他の傍証で補うか、青草に留めるか。
> > ただ、全ての古文書を検証したわけではありません(する気も、今のところありません)が、
> 10世紀(延喜式の頃)に、「ウナキ」と表記した文書がなければ、
> 宇奈岐日女=鰻姫と見ることが出来ない「可能性」の方が高いのではないでしょうか。

[5603] Re[5602][5601][5600][5596]: ムナキ  大三元 2004/09/01(Wed) 07:57 [Reply]
> > 魚類を祭った神社例
> 鮭  神奈川県座間市の諏訪神社摂社鮭神社「鮭」

筑紫遠賀郡だったかに、最近の地図で「鮭神社」を見つけたことがあります。

[5602] Re[5601][5600][5596]: ムナキ  神奈備 2004/08/31(Tue) 20:27 [Reply]
鰻を祭神とする神社があったのでしょうか。
かって、農機具の鋤を祭ったと書いたとたんに反論を食らった記憶があるのですが、鰻はどうでしょうか。
神餞としての鰻はあるようですね。

魚類を祭った神社例
鮭  神奈川県座間市の諏訪神社摂社鮭神社「鮭」
鯉鮒 群馬県安中市野殿 白山比盗_社「池鯉鮒命」
鯨  東京都品川区品川 利田神社内鯨塚「鯨」
鮑、鮎は見つかりません。
 上記神社については創建の時期、由緒は不明。これから鰻を祭る神社があっても不思議ではありません。それが宇奈岐日女神社では出来過ぎているような。

余談
柳川と云う店で泥鰌鍋を出したので、泥鰌をそう呼ぶようになったそうです。戦争前のことですが、泥鰌の豊富な阿波の田舎では泥鰌を食べることを卑しむ風習があったそうです。それだけ鰻も豊富だったのでしょう。鰻をマムシと呼ぶのは全国的かな。


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