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[5974] Re[5971][5968][5965][5960]: 都麻都姫神社を祀る平尾の里人の為の青草話。 5  神奈備 2005/01/29(Sat) 21:05 [Reply]

> 記紀をベースにすれば素盞鳴尊や五十猛命を祖とするなど、秘密の系譜もたくさん生まれそう。

『日本書紀』顕宗天皇の逝去の記事の後
紀生磐宿禰が三韓の王たらんとして自ら神聖と名乗ったとあります。

 この紀氏は紀ノ川の北側から和泉を支配していた紀朝臣系の者と思われますが、三韓の王たらんとする意気込みは、かっては三韓を支配していた氏族の末裔との意識か、事大思想のある国の王族か、と言った所が想像されます。
 箕子朝鮮の後裔とすれば、素盞嗚尊からの秘密系譜が生きてくる所。これが秦氏と同じ辛嶋氏と通じているのを見ると、素盞嗚尊と秦国との関係もあるのかも知れません。

[5973] おみくじ  備奈神 2005/01/29(Sat) 07:51 [Reply]
おみくじの発明は比叡山の
元三大 師さんらしいですね。
横川に 元三大師堂があるようです。

[5972] [5967] 「抓=觚 」 追加  ワープ 2005/01/26(Wed) 12:35 [Reply]

抓津姫=巫女?
侵入支配者で祖神として抓津彦、抓津姫
「觚」ー「稜」リョウ(神霊の威)ー「威」イ・たけし?(猛・武?)・(権力・おどす・姑・ 一家の権力をにぎる女・おそれる・かしこまる)
一家の権力をにぎる女=巫女=琴で占う?(天の声)・言(こと-ば?)・事(代主?)大神の琴、神女の琴
「爪弾く」ツマビク〜爪はじく〜除外・排除・忌きらう
『記紀』の琴  伏見 靖 日本琴学思想史より

[5971] Re[5968][5965][5960]: 都麻都姫神社を祀る平尾の里人の為の青草話。 5  かたばみ [Mail] [Url] 2005/01/25(Tue) 22:27 [Reply]

最初に5965の重要な訂正(^^;
誤:夏の貴族を周の武王が山東半島に封じた国が紀国(春秋経または春秋左氏伝)。
正:武王が夏の貴族を封じたのは「杞国」キです。紀国の建国由来は不明。

以下は春秋時代の中国の国の配置
http://tokyo.cool.ne.jp/woodsorrel/data/shunjyu.png
四角は周王朝系の国、丸はそうではない系譜の国(多くが殷)。

夏王朝は{女+以}姓ジ、殷王朝は子姓シ、周王朝は姫姓キ(母は姜族キョウともされる、チベット系遊牧民)。
上図の四角が姫姓ということになります。
中国に「キ」はたくさんあって発音だけではどうにもならず。
文字の国ですから、紀国が山東半島にあって「国を去る」なんて話もある、注目といったところ。


紀ですと新編姓氏家系辞書/太田亮によればざっとこんなところ

紀国造:紀伊(神産巣日神系、天道根命)少彦名命、鴨縣主、三島縣主なども神産巣日神系譜、
木国造:常陸(凡河内、天津日子根命)
紀直:近畿各地、例外が肥前(国造本紀にもれた紀国造の系譜)
紀臣:各地(武内宿禰)大勢力となる。
紀祝:河内(武内宿禰)
紀朝臣:近畿(武内宿禰)
紀宿禰:近畿(武内宿禰系と紀国造系の2種)
紀氏:各地(武内宿禰系と紀国造系の2種)

縄文末期〜弥生時代の長期間にわたる流れが混在しているとみます。
記紀をベースにすれば素盞鳴尊や五十猛命を祖とするなど、秘密の系譜もたくさん生まれそう。
最古とみえる紀国造と木国造はどういう海人系がいつのだれを運んだかの違いではないかとみています。

総じて武内宿禰系譜は朝鮮半島に根拠をもっていた倭人系渡来者で応神時代の渡来も混じるとみています。
はじめると大変なことになりそうなので当面パス(^^;


[5970] Re[5968][5965][5960]: 都麻都姫神社を祀る平尾の里人の為の青草話。 5  神奈備 2005/01/25(Tue) 17:44 [Reply]
「ツマ」を「真」とするより、単に「マ」=「真」 ですので、ツマとするのは強引かも。

[5969] 都麻都姫神社を祀る平尾の里人の為の青草話。 8 最終回  神奈備 2005/01/25(Tue) 17:40 [Reply]
付録 須佐神社

 また、『続風土記』には、和銅六年(713年)五十猛命、大峰釈迦嶽等から山東の地に降臨したとも伝わるとしています。
おそらく、和銅六年に、おおむね現在のような規模の社殿が完成したのでしょう。分遷の命令を逆手に取って、社殿が三つも出来たのです。そしてそれぞれ、兄神や妹神を配したのです。反骨精神というか、紀の国の大神を祀る思いが強かったようです。
 不思議なのは、同じ年の同じ月に、伊太祁曽神社の親神ともされる有田は千田の須佐神社が大和国吉野郡西川峰より勧請とあるんです。千田に鎮座したとあるんです。
 後に、西向きに建っていたので、不謹慎な船は進めなかったので、神社から海が見えないように南向きに変えさされたようです。
 紀の国の支配者は、素盞嗚尊や五十猛命には手を焼いている様です。須佐神社は明らかに海賊の神だったのでしょう。

 有田千田の須佐神社は、五十猛命が名草に鎮座した後、その父神の素盞嗚尊を有田千田にお迎えしたとの説が江戸時代に記されています。そして、伊太祁曽神社の近くに須佐神社の領地を確保したとするんです。なぜ有田千田の方に領地の田圃を設定しなかったのでしょうかね。どうもおかしい気がします。
 また、大和の吉野郡の西川峯からの遷座とも言われます。吉野の西川峯と言う場所はわかっていませんし、吉野当たりに素盞嗚尊の勢いが強かった名残は残っていないようです。元の神社がないんですね。この話もどうもおかしい気がします。
 南方から南紀に着いて徐々に北上したのではとの説もあります。紀の国の発展の歴史から見ますとやはり紀北からですね。銅鐸の出土も、古いのは紀北、南へ行く程に新しい形になります。後の時代と言う事です。面白い説ですが、説得力不足です。

 古い神社でしょうがそれでも大和から遷座して来たと言うのはそれなりの理由があっての事です。
 西川峯 これは暗号です。語順を逆さまにすると「川西」です。意味を逆さまにすると「川西」、は「山東」です。
 そう山東からの遷座なんです。「西川峯」とは「山東の平野」と言うことです。すなわち伊太祁曽の西に口須佐があります。南に奥須佐です。入り口と南があって、本家である須佐と言う地名がないんです。おかしいと思いません。そうなんです、ここ伊太祁曽の元の名が須佐だったのです。すなわち須佐神社が鎮座していたのですね。

[5968] Re[5965][5960]: 都麻都姫神社を祀る平尾の里人の為の青草話。 5  神奈備 2005/01/25(Tue) 10:44 [Reply]
 五十猛命の語源も不明な所があるのですが、大三元さんのアイヌ語からですと、物を言うのitakもあり得るとか。
大三元さんのURL http://www.dai3gen.net/itate.htm
 
 言うから託宣へと発展させますと、「神は託宣する」と云う実に自然な働きの神となります。

で、抓津姫の抓ですが、神名の漢字としては、都麻、妻の三種類です。建築で云うツマに関する神名との解釈が一般的で、妻入の妻でしょうが、それなら平入りのヒラツヒメも欲しいところ。

 恐らくこの神も託宣をするので、ツマとは偽書らしい「ホツマツタエ:秀真伝」の「ツマ:真」にあたる真実の言葉みたいな意味があるのかな、と思っています。ツマに言語の意味まで持たせていいのかどうかですが....

 『常陸国風土記:行方郡』に建借間命が杵島ぶりの歌曲を部下に歌わせて、常陸の先住民を殺しています。
> 中臣氏の祖の大鹿島
と建借間命は繋がっているのかも。

 この杵島は肥前の国の風土記逸文にも出てきます。青草話4で触れましたが、素盞嗚尊五十猛命に関係のありそうな地域で、また武内宿禰もからんで来るようです。

 紀氏の秘密系図と言うものがあります。(もはや秘密ではないのですが)。これによりますと、遠祖は素盞嗚尊です。辛嶋氏系図の後の方に宇豆彦の名が見えており、紀氏の系図にも見えて、武内宿禰の叔父さんにあたるようです。
 紀氏を渡来系と言うのは、ひとつは桓雄・檀君神話と素盞嗚尊・五十猛命との習合とか箕氏朝鮮とか、大陸の姫氏などとの関連からで、自生ではなさそうだと思っています。

[5967] 抓=觚  ワープ 2005/01/25(Tue) 01:26 [Reply]

今晩は、かたばみさんの見識に闇の古代史が解き明かされてゆくのにワクワクしています。
抓つまむ 抓ツネる觚コ・さかずき(カドのあるサカズキ)・・・・サカズキをつまむ?(角 ツノ 牛の角のさかずき  ツノガアラヒト 小角・・・?)

棘城イバラキ   土ぐも(佐伯氏?)  埼玉(高麗神社 ?狛犬)   棘(イバラの冠はキリスト?・・・青草ですね!)
五十猛命が木を植え紀氏(木地師?雉?)が加工する。(航海が得意の素盞鳴尊?レバノン杉の船が理想)木にしないでください。
紀氏 筑波山(むかし藤原氏系の寺があった。)の北に加波山カバさん 大和村(皇室の「安産」祈願の寺に近い マダラ神が関係 修験 近くにアベノセイメイの伝説の地 三角測量のポイント)  「安産」に壬生氏の存在? 犬の腹帯(狛犬?)
参考になれば幸いです。

[5966] Re[5964]: そうだったのか!!  ペギラ 2005/01/25(Tue) 00:31 [Reply]
大自然と神々の世界を探求していたわけなんだ。

まだまだ、道半ば。
死ぬまでには完結してほしいと外野席から吠えているヤツもいた。(笑)

[5965] Re[5960]: 都麻都姫神社を祀る平尾の里人の為の青草話。 5  かたばみ [Mail] [Url] 2005/01/24(Mon) 21:00 [Reply]

≫紀氏は九州からやって来た侵入支配者で祖神として抓津彦、抓津姫を紀の国に持ち込んできたのです

抓=觚、コあるいはク、これをツマとするのはなんだろう。妻、爪などツマ系はたくさんありそう。
めずらしい文字だと思いますが、これに意味があるのかないのか。


常陸風土記の筑波郡に、筑波縣は古に「紀の国」といったが、崇神時代に釆女臣の一族の筑バ命が紀の国の国造に任命され、紀の国を改めて筑波と称したとあります。

釆女臣は物部氏族、茨城国造ウバラキは凡河内氏族オオシコウチ(祖は天津日子根命)です。
このあたりから物部姓登場以前の海人族(海神族)としての凡河内氏族が関東に関与していたことがうかがえます。

それ以前に茨城が紀の国であったとすると、ここに紀州との関連がありえる状況は出雲だと思うのです。
関東での出雲の痕跡や伊豆の来宮神社の由来を併せて、出雲系譜の渡来によって茨城の旧呼称が「紀の国」となっていた可能性がみえます。

近畿を制圧した天孫系譜がいつのだれであったかはおくとして、AD250頃以前の近畿は出雲の勢力地(銅鐸出土分布など)。
和歌山での紀の国の名が紀氏からのものであるなら、紀氏は出雲の流れの中にあった氏族とみることができます。


春秋時代の山東半島付近に紀国と紀候があります。
夏の貴族を周の武王が山東半島に封じた国が紀国(春秋経または春秋左氏伝)。
殷の貴族を周の武王が朝鮮半島に封じた国が箕子朝鮮(史記、漢書)。
http://shibakyumei.hp.infoseek.co.jp/jinbutsu/Syk.shtml
(ここに紀侯の項あり)

斉に服従するのをよしとせずにBC690に「国を去った」人物だそうです。
山東半島から去るならば朝鮮半島だろうなあ。
そこには箕子朝鮮がある・・さーて(^^;

周の武王の故事を介して箕子朝鮮と紀候がつながる可能性低からず。
で、素盞鳴尊が箕子朝鮮崩壊時の脱出貴族であるならば・・
素盞鳴尊渡来の中に紀候の後裔が含まれていておかしくない。

朝鮮半島での紀候の後裔が大年神の流れにぴたりとはまりこんできそうです(BC700〜BC400頃か)。
(大年神系譜の韓神ないし曾富理神あたりに相応するかもしれない)
青草1028で書くように遠賀川が大年神系譜の列島の拠点であり、後の出雲(出雲神族)がここを起点としているならば・・


大屋彦命の出自は不明なれど海神族系と密着とみておきます(青草の1045番外編参照)。
天津日子根命と同体といったところです。
温暖な太平洋岸に大屋彦命の到来がまずあり(BC500頃か)、照葉樹林文化と海洋系文化をもたらす。

次いで出雲勢力の近畿進出、BC150頃か(唐古・鍵遺跡や池上曽根遺跡)。
これに伴って大年神系の紀候の子孫が紀州にはいったと考えることができます。

大屋彦命は古い、その伝承はもっと新しく有力な出雲系譜と容易に習合されてゆくと思います(出雲時代に、です)。
植樹の木と紀氏も習合されたのではないか。
それぞれの年代に新文化を伝えていることに変わりはありませんし。

そして、記紀は大年神系譜を素盞鳴尊の子として扱った。
神奈備さんのイメージとは違うところで、どどーんと一発(^^;
「五十猛命は紀候の末裔である」

武内宿禰後裔に渡来氏族らしきがずらりと並びますが、後に有力となった出自不明の古い渡来系譜を記紀がここにつないだに過ぎないと考えています。
縄文末期〜弥生初期の朝鮮半島西南〜南岸の倭族(委族)がメインでしょう。

紀候の末裔もここにいて、縄文末期〜弥生中期頃では列島側とひんぱんに往来していたのではなかろうか。
再度
http://tokyo.cool.ne.jp/woodsorrel/data/bc800.png


その後出雲勢力は東海に進出(大型銅鐸、大井川まで)。
一部は関東にも進出(関東における出雲痕跡と茨城の紀の国)。
再度
http://www.tcn-catv.ne.jp/~woodsorrel/kodai/g01.files/12/ad50jousei.gif

そしてAD250頃に近畿の支配は天孫勢力に取って代わられた。
近畿の出雲勢力は東国へ脱出(伊豆の来宮神社の縁起、波の音の聞こえぬところへ我を祀れ)。

その後に関東方面の出雲勢力を押さえるために、垂仁の兄の豊城入彦命の関東進出(毛野氏族の祖)。
それに前後するのが筑バ命の関東渡来(常陸国風土記)。

物部氏の本格的な関東での拡大は日本武尊に同伴した海人と軍人(兵杖)としてだと思いますが、それに先立つ渡来が筑バ命。
天津日子根命→凡河内氏族→物部氏族→釆女臣→筑バ命であり、物部姓を賜った垂仁朝の五大夫のひとり十市根の系譜と関連する可能性が高い。

垂仁朝五大夫のひとりに中臣氏の祖の大鹿島もいます。
茨城と鹿島、これもぴたりとつながってきます(大鹿島は祭祀者としての渡来でしょう)。

そのような流れを今のところ推定しています。


[5964] そうだった!!  ペギラ 2005/01/24(Mon) 19:16 [Reply]
> 本日、1月24日、23時から1時間。NHKBS2の番組

忘れてました!
自宅のBSはテレビ内臓チューナーがイカレテイルから、
録画依頼を受けていたのだった。危ない危ない。(δ〇δ ;) オォ・・・

大阪出身なんですね。美内さんて。
年齢も神奈備さんに、近いか?(笑)

[5963] THE・少女マンガ!  作者が語る名作の秘密ほか美内すずえ 「ガラスの仮面」  神奈備 2005/01/24(Mon) 17:21 [Reply]
本日、1月24日、23時から1時間。NHKBS2の番組
美内すずえさんの、[生い立ちからのさまざまな美内すずえ、これまで余り知る機会がなかった事柄]などを交えた番組を特集して1時間放映されます。

[5962] 都麻都姫神社を祀る平尾の里人の為の青草話。7  神奈備 2005/01/24(Mon) 14:25 [Reply]
分割

 『続日本紀』 伊太祁曽の神々は山東へ遷座後も紀氏の祀る日前宮よりは遥かに勢いが強く、紀氏は紀の国の支配権を確立すべく、伊太祁曽三神を分遷して力を弱めようとしました。
 大宝二年(702年)この年、文武天皇と持統上皇が紀伊へ御幸しています。紀氏の面子にかけて紀の国の支配権の揺るがない所を見せる必要があったのでしょう。

 伊太祁曽神社の遷座も遠い伝承の世界ですが、崇神天皇は天照大神と倭大国魂の神を磯城の宮から出して、分けています。それ以来、朝廷は神を祀れとは言っているのですが、祀られている神々をバラバラにせよ、なんて命令は、この伊太祁曽三神の場合しか私は知りません。珍しいことです。

 遷座は亥の杜から、五十猛命は現在の伊太祁曽神社へ、大屋津媛は和歌山市北野の古宮(御祓山)、ここから現在の宇田森。

 わが抓津姫命は果たしてどこへ遷座したのでしょうか。候補は四つ。

 1.吉礼 都麻都姫神社

 2.平尾 同上

 3.和佐関戸 妻御前社 → 高積神社に合祀
 『続風土記』祀神妻津姫命 寛文記に宮三社作り五十猛命大屋姫命を合祀するならんとありその頃までは伊太祁曽の社人毎年五節句に当社に来て神事あり 

 4.橋本 妻の森神社 江戸時代には神社はなかったようです。
 万葉集1679 紀の国にやまず通はむ都麻つまの杜妻寄し来こせね妻と言ひながら
 紀ぃの国へは いつれも来るでぇ 都麻の杜よ 妻を わいに あてごてくれへんか

 三神分遷の目的はなにか、と云うことです。神威が高い神が三柱も揃っていること、これを分割して一柱づつにする(神人や社人の数を減らすこと)です。三神がそれぞれ近い所では駄目なのです。離れさせることです。大屋姫は紀ノ川の向こうに行きました。抓津姫が平尾や吉礼としますと、伊太祁曽神社と近すぎるのではないでしょうか。和佐関戸辺りの妻御前社が距離感から云えば、良いところ。

 平尾には都麻神戸(都麻都姫神の穀田)があったので、関戸から分祀して来たと推定しています。

 吉礼からは貝塚も発見されているように海辺であったようで、伊太祁曽三神が日前宮の場所から伊太祁曽へ遷る途中に陸揚げし、お休になった場所だったのではなかろうかと思います。代々吉礼津姫が祭祀を行っていたのでしょう。江戸時代に式内大社の都麻都姫神社の確たる後裔の神社が見いだせず、チャンスと名乗ったのではないでしょうか。

 大屋姫が紀の河の北、抓津姫は紀の川の南岸、五十猛命は山東と紀の川の東側の砦となっています。熊野古道のルートです。
 詳細は省きますが、紀伊三所神社と云う伊達神社、志摩神社、静火神社は同じく、西側に配置されています。

[5961] 都麻都姫神社を祀る平尾の里人の為の青草話。 6  神奈備 2005/01/23(Sun) 10:48 [Reply]
遷座

 その昔には、今の日前宮の地に伊太祁曽神社が鎮座していました。15世紀半ばの永享時代の文書に、「垂仁天皇十六年に日前宮を浜の宮から迎えるにあたって、伊太祁曽神社を山東へ遷す。」とあるのです。
 「紀の国の国譲り」と云う方もいます。垂仁天皇が存在していたとすれば、概ね西暦300年の頃です。『倭姫命世記』によりますと、豊鋤入姫や倭姫が八咫鏡即ち天照大御神のよりしろを持って鎮座すべき場所を探したのです。紀の国では浜の宮に来られたと云うことになっています。

 元々、五十猛命を紀氏が祀っていたんですが、紀氏は五十猛命をも祀りながら、更に大和王権の圧力などで日前大神と呼ぶ日の神や正体の判りにくい國懸大神をも祀るようになるんです。
 あげくの果てには、伊太祁曽の神から日前國懸大神に乗り換えるんです。浜の宮から日前国縣大神を迎えたのです。ヤシロ譲です。伊太祁曽神社は山東の亥の杜(三生神社と云います)に遷座して来ました。
 三生神社はミブと読めます。新選組の壬生と同じで、丹生のことです。亥の森は水神と言われていますが、水神としての丹生社は大和にも鎮座しており、亥の森が水神の丹生社であって何ら不自然ではありません。そこへ重なっていったのでしょう。それが覺鑁上人が明王寺に伊太祁曽神社の奥宮として丹生神社を創建したのは、深い由縁と申しますか因縁があったのでしょう。

[5960] 都麻都姫神社を祀る平尾の里人の為の青草話。 5  神奈備 2005/01/22(Sat) 20:51 [Reply]
紀の国に鎮座

 『日本書紀』では、五十猛命は筑紫から始めて大八洲の国の中に播き増やして、全部青山にしてしまわれた。このために五十猛命を名つけて有功の神とする。紀伊国においでになる大神はこの神である。また、五十猛命、大屋都姫、都麻都姫の三柱の神がよく種子を播いた。紀伊国にお祀りしてある。

 『日本書紀』のできあがったのは720年、奈良時代です。その頃は「紀伊国においでになる大神」とは五十猛命のこととされていました。根強い信仰があったようです。

 紀の国で名草万代之宮の伊太祁曽の神を祀っていたのは縄文以来の土着の人々でしょうが、その代表格が神武東征の時に殺されてしまった名草戸畔です。名草戸畔も巫女的な女王だったのです。

 さて、この時には伊太祁曽の神とは五十猛命と呼ばれていたのか、または大屋彦神であったのか、と云うことが一つの疑問として出てきます。御承知の通り、伊太祁曽神社では中央の御祭神を五十猛命でその別名を大屋彦神としています。女神の一人に大屋姫命がおられます。大屋彦神とはペア神が大屋姫神です。九州の抓津彦、抓津姫もペア神です。二つのペアが重なって、男神は大屋彦神と抓津彦神が習合して五十猛命、二人の女神はそのまま残ったと云うことになります。

 紀氏は九州からやって来た侵入支配者で祖神として抓津彦、抓津姫を紀の国に持ち込んできたのです。そうして古来からの紀の国の国魂である大屋彦、大屋姫とを取り込み、合わせ祀って、太古からの紀の国の統治者のような顔をしたかったのです。祖先に名草姫をも取り込んでいます。

 五十猛命は紀の国で誕生した神で、紀氏が瀬戸内海から九州へ逆に五十猛命伝承を流布させて、抓津彦や大屋彦を五十猛命に変えていったのかも知れませんね。

[5959] 都麻都姫神社を祀る平尾の里人の為の青草話。 4  神奈備 2005/01/21(Fri) 11:34 [Reply]
三兄妹の上陸 九州

 佐賀県杵島郡に妻山神社が鎮座しています。御祭神は抓津姫命、抓津彦命となっています。この抓津彦命とは抓津姫命の兄なのか亭主なのかですが、とにかく男神の抓津彦命が現れました。この神社の近くに杵島山三山があり、ひとつが勇猛山、ここに御子神が鎮まり、後の二山は天神と女神と云われています。この勇猛山が振るえると戦が起こると云われています。勇猛神とは五十猛命のことです。

 さて、宇佐八幡宮を祀った氏族に辛島氏と云う氏族がいまして、その家に『辛島勝系譜』なるものが伝わっています。
 素戔嗚━━五十猛━━豊都彦━━豊津彦━━都万津彦━━曽於津彦━...━宇豆彦━━辛島勝乙目━>
 五十猛命の曾孫に都万津彦がいます。妻山神社の由緒は、五十猛命を祀り、妹の抓津姫命を配祀したとあり、曾孫の都万津彦もまた五十猛命とされて祀られているのでしょう。
 九州では基山町に荒穂神社が鎮座、ここには五十猛命が植樹を始めた山との伝承があります。五十猛命は基山の頂上にある玉玉石に座って下を見ていたら、洗濯していた娘が目に留まり、基山の東の「契り山」で結婚したと伝わっています。娘は園部谷サコの姫だったと云います。神の降臨を待つ巫女だったのでしょう。

 園部、有功と云う名が出てきます。紀の川の北岸の伊達神社も五十猛命をお祭りしています。ここも園部の有功です。ゆかりがあるのでしょう。

 抓津姫命の足跡は九州で途絶えますが、おそらくは瀬戸内海を通り、紀の国にやって来たのでしょう。

[5958] 都麻都姫神社を祀る平尾の里人の為の青草話。 3  神奈備 2005/01/20(Thu) 08:38 [Reply]
三兄妹の上陸 出雲

 島根県大田市に五十猛町(いそたけ)と言う町があります。魚釣りで有名な所です。ここに素盞嗚尊と御子神の上陸伝説があります。素盞嗚尊と二人の女神とが別れた神別れ坂と言う坂があります。韓神新羅神社(大浦神社)に素盞嗚尊、大田市大屋町に大屋姫命神社、抓津姫命は石見の物部神社の漢女神社に祭られています。大田市の五十猛神社には五十猛命。

 出雲に上陸する前に、隠岐島に上陸したのかも知れません。と言うのは隠岐島に都万村大字都万なる地名があり、天健金草神社、幣之池(しでのいけ)神社に抓津媛命が祀られています。

 出雲からこの神々はどう移動していったのか、日本海側を東へ北へと移動したのでしょう。隠岐島に渡津神社があり、五十猛命を祭神としています。佐渡島にも同じく渡津神社があるのです。途中で能登半島などの寄りながら、北を目指したのでしょう。しかしながら抓津比売命は日本海側にはあまり痕跡は残していないようです。 

 素盞嗚尊が降臨したとされる鳥上峰(船通山)の付近に、鬼神神社と云う名の神社があります。ここは五十猛命の神廟とされています。五十猛命がここに治まったのであれば、紀の国へは誰が来たのでしょうか。

 うそかほんとうか判らない話ですが、韓国で聞いたお話。「素盞嗚尊は女神二人と五〇人の武者を引き連れて出雲へ渡ったと云うことです。」五十猛命を五〇人の兵士としています。五〇の神廟があってもいいのですが、想像するに韓国人が日本書紀を読み間違った可能性もあるようです。

 有名な八俣大蛇退治に五十猛命が加勢したとこの地方で云われていますが、これは江戸時代に出雲に持ち込まれたお話のようです。

[5957] 都麻都姫神社を祀る平尾の里人の為の青草話。 2  神奈備 2005/01/18(Tue) 17:27 [Reply]
植樹の神々

 皆さんは「焼き畑農業」をご存じですよね。やっていた経験のお持ちの方もおられるかもしれませんね。縄文時代後半から1950年代までは多く行われていました。山裾の区画を一部焼いて。そこに芋等を植えるんです。粟、稗、豆、5年位で次の山裾に移ります。跡地は、自然の復元を待ちます。再び森になるのを待つんです。おそらく、苗木を植えてやると、復元する期間が短縮できたんではないでしょうか。

 実際の所、日本の山は元々木だらけだった。平地もそうだった。そこへ積極的に木を植えるのは、何かの理由で木がなくなっていたんです。一つは焼き畑で木がなくなる、何かの拍子に山火事で木がなくなる、もう一つが、金属製錬のための「炭」を得るために木を取り尽くす、その他建築や造船や橋をかける為に木が切られたのです。

 ご承知の通り、山林はダムの役割を持っており、復旧することは渇水対策と洪水対策に不可欠だった。また大阪の淀川流域もそうですし、紀の川の流域もそうですが、縄文から弥生時代あたりにかけて平野が大きく生成されています。国生みに見えた事でしょう。これは焼き畑と炭焼きが山の土を流したんでしょう。
 問題は洪水です。これが国生み、次に木の神、そして治水が出来て国土開拓の神、と一連の神々が出てきたのです。

 有功の神とは、もっぱら役に立つ木々を植えたからとの解説をされる人もいます。家屋や船に向いている木々の他に果物、蚕の桑などをさすのでしょうが、青山とした事そのもので有功とされています。山に木々が多いと、保水率が桁違いに高まります。豊かな水の源です。 いろんな用途に使えて、最後はタキギか肥料にもなります。木は加工も容易なまれにみる良質な材料です。人工の化合物ではできない命を持つ高分子材料です。

 ここいらにこれからの世に伊太祁曽の三柱の神々が果たしうる大きい役割が見えているであろう思います。植樹により、また森を守り、地球環境保全、温暖化防止、自然を守り、その良さをアッピールする、まさに、今の時代にふさわしい神様です。

[5956] 都麻都姫神社を祀る平尾の里人の為の青草話。 1  神奈備 2005/01/17(Mon) 17:35 [Reply]
いささか気が重いのは、宮司さんは式内社の都麻都姫神社であると信じておられるのですが、小生は違うと思っています。結論でもめるかな。

1. 伊太祁曽神社の御祭神
 祀られている神様は五十猛神、大屋都比売神、都麻都比売神のお三方の神様で、共に素盞嗚尊の御子神と『日本書紀』には記載されています。『日本書紀』とは今残っている日本の最古の歴史書です。これによりますと、素盞嗚尊は高天原で大暴れして、追放されるのです。この時に、その子、五十猛神を率いて、新羅の国に降りられて、曽尸茂梨(ソシモリ)の所においでになった、そこでこの国にはいたくないのだ、と言われて、出雲の国の簸の川の上流にある鳥上の山についた、とあるのです。

 更に、以下の事が書かれています。
 五十猛神は天降られる時に、たくさんの樹の種を持って下られた。けれども、韓地に植えず、全て持ち帰って筑紫から初めて大八洲の国の中に播き、全部を青山とした。このため五十猛命を名付けて、有功(いさおし)の神とする。紀伊国においでになる。

 続いて『日本書紀』には、別の伝承が書かれています。
 素盞嗚尊が言うのは「韓郷の島には金銀がある。もしわが子の治める国に、舟がなかったらよくないだろう」と。
 「わが子の治める国」とは、この日本列島のことです。これが公式歴史書の『日本書紀』の中に出てくるんです。この国の最高神とされていたと言う事です。沖縄以外の全ての都道府県に祀られています。

 天津神の天照大神が現れる以前のこの国の神々としましては、素盞嗚尊の系列が最も神威の強い神々だったのです。天照大神さんのグループを天津神、そうでない神々を国津神と言います。五十猛命は国津神の中の大神だったと言う事です。

 『日本書紀』は続いて、「素盞嗚尊は、そこで鬢を抜いて杉、胸毛から檜、尻毛から槙、眉毛を樟をなした。」とあります。素盞嗚尊は木々の用途として杉と樟は船、檜は宮、槙は寝棺を造るのに良いされ、そのために木種を播こうと申され、その子の五十猛神,大屋都比売,都麻都比売の三柱の神がよく木種を播いた。 五十猛神は「紀伊の国にお祀りしてある」と記載されています。

 ここに大屋都比売,都麻都比売の女神が出てきます。五十猛命の妹神とされています。伊太祁曽神社の本殿の左右の脇宮に祀られている神様です。

[5953] Re[5951][5949][5947]: 「刺國」考  klarin 2005/01/15(Sat) 11:01 [Reply]
ともあれ、「さし」の訓は「쇠・し」が語源か、というレベルで議論を展開するのは
無茶です。sasiの形態素はなんなのでしょうか。これを明らかにしない限り、
これ以上の展開は無駄ではないでしょうか。

[5952] Re[5951][5949][5947]: 「刺國」考   2005/01/15(Sat) 00:05 [Reply]
福島さん、わかりにくい表現ですみませんでした。

>※朝鮮語の訓読み?の方が私には理解不能です。ご教示下さい。

朝鮮語の7割から8割は中国語からの借用ですが、それ以外の語という意味で
書いています。
たとえば「鉄」は朝鮮語で쇠ですから、シェー(正確ではない)のような音ですね。
一方、中国語の「鉄」は学研の漢和大辞典によれば、上古音(周・秦・漢)から
中古音(隋・唐)にかけて「t'et」だった。となれば、쇠は中国語の借用ではない
語である可能性が高いと思われます。ところが상(上)は借用であるのは明らか。

> 何故「“쇠-상(soe-sang)”=鉄上」の後半部分は“상(sang)”という中国語
> (音読み)を借用?(上shang=上←「上監」の略、日本語なら「お上」か)

以下参考のために금성の韓日辞典によります。
상(上)を引くと「상감(上監)の縮約形」とあり、同書で更に상감(上監)を引くと
「王の尊敬語」で、例文(省略)の訳語は「王様」となっています。とにかく상감は
日本語の「お上」と同じような尊敬語であり、自分で名乗る語ではないでしょう。
상(上)が使われていた環境なら왕(王)も当然あったに違いありません。それ
なら何故「王」と名乗らなかったのか、ここが理解できないところなのです。

[5951] Re[5949][5947]: 「刺國」考  福島雅彦 [Mail] [Url] 2005/01/13(Thu) 22:22 [Reply]
> 福島さん、お説の古代倭語とは現朝鮮語のいわゆる「訓読み」のことと私は
> 理解しました。
※朝鮮語の訓読み?の方が私には理解不能です。ご教示下さい。
> >朝鮮語に臍の緒を留める古代倭語の“쇠(soe)”から来ている、と。
> >この語彙には、@鉄;真金<雅>.A金属の総称.(民衆書林・韓日辞典)
> >とある。
> >「陶器(すゑき=須恵器)」は「鉄の様に堅い器」或いは「鉄色の器」であり、
> >この語彙が古代倭語からの根拠。
> >後漢書に登場の「倭王・帥升(shuai-sheng)」も“쇠-상(soe-sang)”=鉄上
> >(製鐵王)=素盞嗚尊(須佐之男命)である。
>
> 基本的な質問ですが、“쇠(soe)”は朝鮮語の訓読みで鉄を表す語であるのに、
> 何故「“쇠-상(soe-sang)”=鉄上」の後半部分は“상(sang)”という中国語
> (音読み)を借用?(上shang=上←「上監」の略、日本語なら「お上」か)
> それともその「古代倭語」なるものは、素盞嗚尊の時代に既に音読みと訓読みが
> 混合していたとのお考えでしょうか。それに「上監」は「王(wang)」の尊敬語形で
> 「閣下」みたいなもの。自分で「閣下」と名乗る使節がいたとは思えませんが。
> まず、「古代倭語」のアウトラインをご説明願えると参考になります。
>
> よろしければご回答をお願いいたします。
※中国語借用ではなく、その話者が持ち込んだ?のが、九州弁に残存している、解釈しています。↓の後半の回答と同じです。省略ご容赦!。

[5950] Re[5948][5947]: 「刺國」考  福島雅彦 [Mail] [Url] 2005/01/13(Thu) 22:15 [Reply]
> > ・指し物⇒板を細かにさしあわせて作った器具。机、箪笥、障子、箱などの類(大辞林・三省堂)。これらは、鋭利な「鉄」の刃物が無ければ作れない、から転じている、とる
>
> 「とる」とあるのは「とある」の打ち間違いでしょうけれど、これだと、あたかも
> 大辞林にそう書いてあるという錯覚を覚えます。しかし「これらは」以下は福島さん
> の付け加えたものでしょう。
※ご賢察の通り、私の考へです。「…、と。」とした積もりが、平仮名入力で。≠フ打ち損ないです。

> 鋭利な鉄の刃物がなければ作れないから「指し物」と名付けるような造語法は
> 日本語にはないと思いますがいかがでしょう。古代の指し物は釘一本使わずに
> 組み立てられたものばかりです。したがってこの「サシ」と「鉄・金属」とは
> 繋がらないように思えます。
※釘一本使わない様な精巧な仕口は、鉄器の鋭利な刃物抜きではあり得ません。

> それと、須恵器がいくら「鉄の様に堅い器」或いは「鉄色の器」だとはいえ、
> まさか鉄器とは言いますまい。
> 銅のように赤いからといって銅器とはいわないのと同様です。そいうい造語法は
> ほかに見当たりません。
※命名法という法則があるとか、類例がないとかはこの際何も影響しないと思いますが…。
 強いて謂えば、譬えが好例かどうか、「舶来=上等品(舶来か否かの事実は不問)」、
「ハイカラ=洒落ている(別に襟が高くなくても…)」etc。
> soe-sangのsangがなぜ「王」になるのかも疑問です。
※「…さん」の呼称は元来は上称だったのが対等称になった?と疑っています。
掲示板の性質上論の起承転結を端折っていますが…。
「貴様」とか「御前」は、最上称だったのが、下称になっています。
九州弁では「…しゃん」が、現代でも敬称的に使われています。
・「兄(あン)しゃん」、「姉(あね)しゃん」、「お母(おッか)しゃん」、「○○しゃん」etc。



[5949] Re[5947]: 「刺國」考   2005/01/12(Wed) 10:57 [Reply]
福島さん、お説の古代倭語とは現朝鮮語のいわゆる「訓読み」のことと私は
理解しました。

>朝鮮語に臍の緒を留める古代倭語の“쇠(soe)”から来ている、と。
>この語彙には、@鉄;真金<雅>.A金属の総称.(民衆書林・韓日辞典)
>とある。
>「陶器(すゑき=須恵器)」は「鉄の様に堅い器」或いは「鉄色の器」であり、
>この語彙が古代倭語からの根拠。
>後漢書に登場の「倭王・帥升(shuai-sheng)」も“쇠-상(soe-sang)”=鉄上
>(製鐵王)=素盞嗚尊(須佐之男命)である。

基本的な質問ですが、“쇠(soe)”は朝鮮語の訓読みで鉄を表す語であるのに、
何故「“쇠-상(soe-sang)”=鉄上」の後半部分は“상(sang)”という中国語
(音読み)を借用?(上shang=上←「上監」の略、日本語なら「お上」か)
それともその「古代倭語」なるものは、素盞嗚尊の時代に既に音読みと訓読みが
混合していたとのお考えでしょうか。それに「上監」は「王(wang)」の尊敬語形で
「閣下」みたいなもの。自分で「閣下」と名乗る使節がいたとは思えませんが。
まず、「古代倭語」のアウトラインをご説明願えると参考になります。

よろしければご回答をお願いいたします。

[5948] Re[5947]: 「刺國」考  klarin 2005/01/12(Wed) 08:28 [Reply]
> ・指し物⇒板を細かにさしあわせて作った器具。机、箪笥、障子、箱などの類(大辞林・三省堂)。これらは、鋭利な「鉄」の刃物が無ければ作れない、から転じている、とる

「とる」とあるのは「とある」の打ち間違いでしょうけれど、これだと、あたかも
大辞林にそう書いてあるという錯覚を覚えます。しかし「これらは」以下は福島さん
の付け加えたものでしょう。

鋭利な鉄の刃物がなければ作れないから「指し物」と名付けるような造語法は
日本語にはないと思いますがいかがでしょう。古代の指し物は釘一本使わずに
組み立てられたものばかりです。したがってこの「サシ」と「鉄・金属」とは
繋がらないように思えます。

それと、須恵器がいくら「鉄の様に堅い器」或いは「鉄色の器」だとはいえ、
まさか鉄器とは言いますまい。
銅のように赤いからといって銅器とはいわないのと同様です。そいうい造語法は
ほかに見当たりません。

soe-sangのsangがなぜ「王」になるのかも疑問です。




[5947] 「刺國」考  福島雅彦 [Mail] [Url] 2005/01/11(Tue) 16:22 [Reply]
 秋魚さん、遅くなりました。
※結論から謂って「鐵ノ國」、「産鐵國」、「製鐵立国」の意であろう。
朝鮮語に臍の緒を留める古代倭語の“쇠(soe)”から来ている、と。
この語彙には、@鉄;真金<雅>.A金属の総称.(民衆書林・韓日辞典)とある。
「陶器(すゑき=須恵器)」は「鉄の様に堅い器」或いは「鉄色の器」であり、この語彙が古代倭語からの根拠。
 後漢書に登場の「倭王・帥升(shuai-sheng)」も“쇠-상(soe-sang)”=鉄上(製鐵王)=素盞嗚尊(須佐之男命)である。
 これが「刺國」とどう繋がるか、と訝られるでしょうが…。
・指矩(さしがね)⇒鋼製の曲がり尺。木製の物は矩尺(かねじゃく=曲尺)だし、「サシ」の部分は「鉄・金属」の意となる。
・指し物⇒板を細かにさしあわせて作った器具。机、箪笥、障子、箱などの類(大辞林・三省堂)。これらは、鋭利な「鉄」の刃物が無ければ作れない、から転じている、とる
・サシ⇒[「卿」の下に「虫」]子=蝿の幼虫。私が子供の頃は「サバ虫」と称していて、魚を腐敗させて蛆虫を涌かせて作り釣り餌にしていた。この餌は、鉄の釣り針でなければ付けられない。骨製の釣り針では、刺せないくらい皮膚が堅い。サシ=鉄針用の意か、と。サバ虫の「サバ」も魚の鯖ではなく、“쇠-보(soe-bo)”か、と。
※素盞嗚尊が「刺國若比売」に生ませた子、「大穴牟遅の神」またの名「葦原色許男の神(葦原の醜男の神)」は、製鐵技術の進化過程の製鐵の長(おさ)の呼称と見る。
・「大穴牟遅の神」⇒裸火(野火)焚きでの製鐵から、火を大穴に閉じ込める「登り窯」方式を考案した。
・「葦原の醜男」⇒野火での製鐵の長は、遠赤外線で火傷状の顔で醜かった。
※素盞嗚尊が居た(降臨した)、「曾尸茂梨」の「曾」も“쇠”で、「鉄ノ國」。

 で、「刺國」は具体的に何処か…。
結論から謂って、ヤマタノオロチ退治の舞台です。
オロチ(大蛇)の態の説明がその舞台の地理を言い表しています。
・「そが目は赤かがちの如くにして身一つに八つの頭八つの尾あり」⇒「八つの谷澤の自然地形利用の登り窯で、目が赤いのは、製鐡爐の焚き口の炎の色」。
・「その身に蘿また檜椙生ひ、…」⇒下り尾根と谷沢が連続している情景の説明。
・「その腹は、悉に血たり爛れたり」⇒「製鐡爐の炉心の灼熱状態」の描写。
以上の状態は水縄連山(耳納山地)北麓である。
此地の装飾古墳の図柄が…。
・「同心円紋」⇒古代製鐡爐の俯瞰図。考古学者は太陽とノタマウが、太陽なら十何個も描くのは変である。
・「靫・靭紋」⇒製鐡爐の姿図。
・「蕨手紋」⇒古代の鞴(ふいご)である。
 「刺」は漢字音「し」であるが、「さし」の訓は「쇠・し」が語源か?。
以上、福島雅彦説でした。

[5946] Re[5945][5943][5939]: 言語の時代  クルナの神tombo [Mail] 2005/01/10(Mon) 02:09 [Reply]
KOJIKIさんのRESに感謝します。

alayの意味は「捧げる」です。それ以上でも以下でもありません。
古事記もalay を洗いと悪戯していますので tombo も洗い清めるのシッポッを採用して清めると悪戯をしてみました。だから、日本語訳とは書いていませんあくまで、日本訳としておきました。大変失礼いたしました。^^
右目を左目を鼻を捧げてアマテラスが月読がスサノヲが生まれたと汲むべきです。

八岐大蛇が話題となっていましたが、八つの股は八柱の事を意味していますので
それはそのまま欠史八代を言っていると思われるので異存はないのですが、
八岐大蛇に隠された秘密をタガログで引っ張りでしてみましょう。
8 mata noo ulo ti .
ti はti-anak の ti が精霊を表す語となっている。
ti-anak を日本語訳すると精霊です。
olo の長音を単音にして ulo とします。 ulo を日本語訳すると頭です。
noo を日本語訳は額(ひたい)です。
mata は日本語訳すると目です。
八つの 頭と額と目 を持つ精霊。
つまり、一つの頭に、一つの額、一つの目の精霊ということです。
一つ目のミコトとはタケミナカタのことではないでしょうか?

余談
Tombo はタガログ語ではtotube ですが、totobe と書いても間違いだとはいえません。
totobe  と〜と べ。 (尊べ)。
だから、銅鐸にも tombo が刻まれているのです。
「空想」や「勘」ではないと言うことをお断りしておきます。
亦お邪魔します。




[5945] Re[5943][5939]: 言語の時代  KOJIKI 2005/01/09(Sun) 23:59 [Reply]
>フィリピンの赤の文化は
>猪を生贄にし、その血を三つの甕に受け止め alay の
>儀式をしたの始まりのようです。
>alay を日本訳すると 清める です。

このフィリピンの言語とはタガログ語のことでしょうか、このお方は日本語との類似性に注目されているようですが。
上に引用した部分を読めば、タガログ語alay(アライ?)が日本語の「清める」ならこれは似ている、と感じざるを得ません。しかし考えてみれば、血の生贄の儀式に「清める」という意味の名前(alay)は変ではないか?という素朴な疑問が生じます。
結論を急ぐと、タガログ語alayの基本的意味は「捧げる」であり、儀式の内容と十分に一致しています。クルナの神tomboさんがどういう意図で日本訳を「清める」とされたのか伺いたいものです(辞書名など)。読者を誘導しているとは思いたくないのですが、一般に手に入る(タ→英)辞書類には「捧げる(相手は神、教会など)」に関連する意味しか掲載されていません。
ウェブ上で参考に出来る辞書があります。google検索窓で「alay tagalog」、表示された一番上のサイトの右下[キャッシュ]ボタンをクリック。

何故私がわざわざこんな「文句」を書くかといえば、一般読者が知らないような異言語を散りばめるようなやり方は大いに疑問だからです。英語くらいならまだ調べようもありますが、タガログ語や朝鮮語などに至っては何を書かれても書きっぱなしの一方通行になってしまいます。最低限どの辞書にそういう意味が載っているか、解説をして下さるようにお願いしたいのです。
#「空想」や「勘」は青草へ。

[5944] Re[5938]: 高野山の水銀  神奈備 2005/01/08(Sat) 20:08 [Reply]
> こんばんは。

なにがしさん、こんばんは。
HP、クローズのようですね。やはり寂しさ、禁じ得ないですね。

私も採掘権のお話、読んだ記憶があります。
詳しい所はよく覚えていませんが、水銀だけではなく、銅なんかに重点が置かれていたようなかすかな記憶が・・・。
どこでよんだのかな???

[5943] Re[5939]: 言語の時代  クルナの神tombo [Mail] 2005/01/08(Sat) 12:03 [Reply]
>文化領域(食うこと、祈ること、住むこと、船とか漁業とか)の共通性が示されれば

フィリピンには田和山遺跡の八本柱(九本柱でも良い)や四本柱(五本柱でも良い)
列島の猿石も igorot の ifugao族 の文化の中に全てありますよ。

かたばみさん
赤の文化読ませて頂きました。

フィリピンの赤の文化は
猪を生贄にし、その血を三つの甕に受け止め alay の儀式をしたの始まりのようです。
alay を日本訳すると 清める です。

パラワンには鰐が生息しています。




[5942] Re[5941][5939]: 言語の時代  klarin 2005/01/08(Sat) 12:00 [Reply]
以下のは、文化語を排除すべし、とする言語学者が、たまたまタミル語に関して
述べていたものに反論したのみで、それゆえタミル語説が正しい、とする意図はありません。
実際のところ、ご近所に日本語と十分対応する言語があれば苦労はないのですが・・・。

[5941] Re[5939]: 言語の時代  klarin 2005/01/08(Sat) 11:53 [Reply]
>  大野先生が指摘されているのかも知れませんが、言語が共通の場合、言語だけと言うことはありえず、その文化の一部の領域mp共通のはずです。文化だけではなく遺伝子などにも痕跡が残るはずです。

タミル語説を徹底的に批判・否定する論文「日本語・タミル語同系説を検証する」が
昨年出版されました(非売品なので図書館でコピーしました)。
私も文化の共通性にも論及する大野氏は正しいと思うのですが、否定論者は、
皮肉にもその点をかなり強く攻撃しています。

たとえば「ドラヴィダ言語学の立場から」を書いた児玉 望氏は、文中で、「言語史
の解明に『文化』を持ち込むのはルール違反」(p.231)とか「比較言語学が『文化語彙』を排して言語の比較をるるのは、文化に対する無関心の故ではない。
まず言語のみの比較を通して2つの集団が過去に存在した同一の言語を継承している
可能性を調べる。ここまでが言語学者の任務である」(p.230)と鼻息の荒さが伝わってきます。

しかしこの児玉氏の主張は奇妙なことです。文化語彙といえども語彙に相違なく、あえてこれを排斥する理由がありません。また、言語学者は言語だけを弄っていればいい、という偏狭な考え方が垣間見えます。学問が細分化する一方の現状は不幸なことです。大野氏も言っておりましたが、「今の学者は源氏物語は知っていても、万葉集は知らない。自分の分野ではないから。これじゃぁ、何の進歩もありません」

tut-ai  a small hammer(小さいハンマー);
tut-i  槌(つち)。

natt-am  sword(刀);
nat-a  鉈(なた)。薙刀の「なた」。

vatt-il  bowl(鉢);
fat-i   鉢(はち)。

kukat-i lame person(足が不自由な人);
kakas-i  カカシ。

cuniy-an lame person(足が不自由な人);
kufe   くへ彦の「くへ」。カカシ。cuniyaの古形*kuniye>kunye>kuwe>kufe。

an-ai ridge for retaining water in a field(田地に水を保つための隆起);
un-e   畝(うね)。

ann-ai devil(邪神),ghost(怨霊),goblin(悪魔);
on-i   鬼(おに)。

namp-u 1. desire intensely(熱望する); 2. to trust(信頼する),
       confide in(信用する),rely on(頼る),believe(信じる),        have faith in(信仰する); 3. to hope(希望する),
       expect(期待する);
nam-u 祈(な)む。
nom-u 祈(の)む。「頼む」はtan・nomuで「強く頼る」。

文化語を否定する論者は、以上のような対応には目を瞑るべし、というのでしょうか。

[5940] 船石の探索コース  いこまかんなび [Url] 2005/01/08(Sat) 11:53 [Reply]
神奈備さまへ
みさと-船山情報ありがとうございました。船石への探索コース・地図を書き加えました。
http://www.geocities.jp/iko_kan2/heguri-funagami.html

[5939] 言語の時代  神奈備 2005/01/08(Sat) 09:15 [Reply]
 大野先生が指摘されているのかも知れませんが、言語が共通の場合、言語だけと言うことはありえず、その文化の一部の領域mp共通のはずです。文化だけではなく遺伝子などにも痕跡が残るはずです。
 例えば、古い農機具などで共通の形と呼称などがあれば、農耕の開始以後に持ち込まれたとかが言えるのではないでしょうか。人体の呼称のみ共通であり、農機具に痕跡がないのなら、農耕以前の渡来になるのでしょう。
 文化領域(食うこと、祈ること、住むこと、船とか漁業とか)の共通性が示されれば、補助手段以上のものになるのかも知れませんね。

[5938] 高野山の水銀  なにがし 2005/01/07(Fri) 23:38 [Reply]
こんばんは。
以前水銀の件で昨日本屋で立ち読みしてて思い出しましたので報告します。
昭和初期に大阪?の鉱山師が高野山で金銀銅水銀の鉱脈を発見し、これの採掘権を得ましたが、結局高野山がそれを買い取ったとのでした。
これと関係はないかもしれませんが、他にも鉱山に関わる話や跡(そんな古いものじゃないと思います)もあるようです。

[5937] Re[5936][5935][5934]: 神と人の違いとは  klarin [Mail] 2005/01/06(Thu) 21:47 [Reply]
> ≫比較言語学では同じ時代の言語同士を比較しなければならないという主張は
> ≫見当たりません

私は以上のように述べただけです。再構形云々に触れられているようですが、
なぜそれが同時代の語彙、音価と認知できるのかというのも疑問です。
というか、不可能です。

[5936] Re[5935][5934]: 神と人の違いとは  かたばみ [Mail] [Url] 2005/01/06(Thu) 20:05 [Reply]

≫比較言語学では同じ時代の言語同士を比較しなければならないという主張は
≫見当たりません

だれがどのような考えなのか知りませんけれど、手元にある参考書では、
原始日本語と民族文化/村山七郎、国分直一(絶版)
古い本ですが、時間軸での変化の問題について具体例があり、芋イモには2系列があるなど面白いです。

もっと新しくは、比較言語学入門/高津春繁/岩波文庫
内容はお固く(^^; 印欧語における論がメインですが、やはり時間軸、歴史や文化による変化の問題、言語の再建(古代言語の復元の意と思います)などについて書かれています。

比較といってもどういう比較なのか、いろいろあるようですね。
歴史のなかで言語を比較する場合は歴史比較言語学というようですが、これも詳細は知りません。

学術的なうんぬんはおいて、
二つの言語が関係を持つとき、弥生の言語が現代の言語に影響することはあっても、その逆はありえません。
日本語が弥生と現代で同じではないように、比較する相手の言語でも同様。

さほど変化しない場合もあるかもしれないし、大きく変化しているかもしれない。
歴史上で過去の言語同士を比較するためには、それぞれがその時代にどうであったかの検証が必要になります。

上記の本には「再建」とか、「共通基語」といった表現がでてきますが、ある時代の言語への復元作業に関連するようです。
例えばある時代に起点を仮定(共通基語だと思う)して、ここから指標になる情報を探りながら目的の時代へ下ってくるといった手法があるようで、先の芋イモはこの手法によるとみえます。
(指標がそろっているなら部分的にはそれができるのでしょう)

仮定が必要なんですね、正確を期すには、横軸情報の集積、縦軸(時間軸)情報の集積、それらの統計学的処理、考古学、民族学、人類学、さらには心理学のごときまで含む分野となって、まだ研究途上あるいは試行錯誤中なのだろうと思っています。

朝鮮語といってもある時代以前の朝鮮語がいかなるものかわかっていない、とどなたかが書かれていましたが、わかるためにはこれらの作業が必要なのでしょう。
日本語の場合も記紀や万葉以前で指標となるのは中国史書に書かれる漢字化された情報程度で、やはり試行錯誤の状況なのではないかと思っています。

ということは未開地・・素人の試行錯誤もその蓄積の一部になりえる・・どんどんやるべし(^^;


[5935] Re[5934]: 神と人の違いとは  klarin [Mail] 2005/01/05(Wed) 22:13 [Reply]
> ≫チ・ヒ・ミコト・カミなどをご存知ないというのは
>
> これらをひっくるめてはまずい。
> 自然神と祖先神、最低限これに分ける必要があるでしょう。
>
一つだけにしておきます。
ミコトは余計なことでしたが、チもヒもカミもdeityでひとくくりにされます。
自然神と祖先神を分けるとかいうことは、また別の問題です。

>比較言語学では同じ時代の言語同士を比較しなければならない、
が鉄則と理解しています。

同じ時代であることをどう特定できますでしょうか。知る限りにおいて、
比較言語学では同じ時代の言語同士を比較しなければならないという主張は
見当たりません。どの学者がそのようなことを言っているのでしょうか。


[5934] 神と人の違いとは  かたばみ [Mail] [Url] 2005/01/05(Wed) 20:36 [Reply]
≫チ・ヒ・ミコト・カミなどをご存知ないというのは

これらをひっくるめてはまずい。
自然神と祖先神、最低限これに分ける必要があるでしょう。

祖先神における神と人の違いはなんでしょうか。
ある時代のある人々の考えによって、1か0かではないものを1か0に区分した尊称にすぎないですね。

自然神の場合はちょっとやっかい。
なんらかの理由で唯一神が登場する以前では多神であるのが普通だと思います。
山、川、動植物、巨石、太陽、雨、風、あらゆるものに「霊」(神)を感じていた。

すべてが神となりえ、それらの霊性(神性)を意識して呼ぶときなんと呼んだか。
その結果の一部がいろいろな形で残っているのだと思います。
地域による違いもいろいろあったのではないかと思います。

さて毎度で白川静氏(^^;
霊チについて(ヒ、タマ含む)、自然物がもつ霊的な力・・その力を持つものの下につけて用いる・・神名に用いることが多いのは・・敬称的な用法とみてよい。
とあります。
多いとしているだけです。

伊弉諾伊弉冉尊の生んだとされる地祇に多く含まれると思います。
大屋毘古のごとく最初から人とみえるものも少なからず。
諾尊自身が人間の扱いなら当然ですが、「記紀編纂者の解釈と考え」によるところが大きいと思います。

諾尊の孫?あたりになってくると人格化がはっきりしてくるようにみえます。
これは人間と自然界のバランスの変化がもたらしていると考えています。
例えば農耕の登場ですね。
自然界の恵みを受け取るという意識から、自らが作り出すという意識への変化。

農耕であれば水が必須となって、雨や湧き水など農耕に必要な自然神への比重が大きくなるでしょう。
中近東ではバール神という天候を司る神だったものが唯一神的に変化してゆくようです。

農耕のための土、土器造りのための土、土でもいろいろが生じると思います。
天鳥船神のごとく人間が作りだした道具も神になっています。
ずっと下れば商売を司る神登場するかもしれません。

逆に悪役化され、引きずり下ろされる神もでてくるでしょう。
海での方向を示す星神は陸の民からは軽んじられることもあるでしょう。
蛋白源となる大事な虫神様(^^;だったものが農作物を横取りする悪者になることもあるでしょう。

そういったいろいろのあるうちのいくつかが記紀に書かれ、我々が知るところになっているわけです。
それらをながめたとき、語尾だけでなんらかの区分けができるのか・・私にはできそうにありません。

あいまいなものを区分けすることで生じる危険が大きいと感じるのです。
中間的なもの、区分けの規定に納まらないものが消えてしまう→デジタル化。
あいまいなものはあいまいなままでなんとかするほうがよさそうだ・・と考えています。


自然神とみえる場合は縄文語?の成立(紀元前1万年?)にかかわる年代が問題になると考えています。
そこで青草に書いた、縄文がどのように形成されたのか、の仮説の登場です。

例えば原タミル語?と原縄文語?が形成される時点で最初から双方に類似性があった、それが後の双方に残るかもしれない、となるわけです。
ある時代での伝播じゃない、ずっと根元的なところから同じものを持っていた可能性です。
言葉だけではありません、血(DNA)と文化もです。

言葉で類似性の残る可能性のあるのは、環境が異なっても人間の意識に大差の生じないもの、だろうと考えています。
山や海という普遍的なものでも、文化が違えば人間側の意識は違ってくるでしょう。
変化しにくいであろう言葉を縄文あたりにまで遡って比較できるなら、なにかみえるかもしれない。

比較言語学では同じ時代の言語同士を比較しなければならない、が鉄則と理解しています。
例えば、縄文時代の列島で蛇をなんと呼んでいたのか、同じ縄文時代の南方系や北方系の諸語では蛇をどう呼んでいたのか、私は知りませんので、まったく手がでないところです。


[5933] Re[5927]: RE[5925]:Re[5919]: 櫛クシと奇クシ    かたばみ [Mail] [Url] 2005/01/05(Wed) 19:52 [Reply]
≫理念というのは「物事のあるべき状態についての基本的な考え」

そう、考えなのです。伝承をまとめただけなら記録ですが、特定の立場からの考えが加わる場合は記録としては扱えなくなり、場合によっては考えに基づく思想書にもなってゆくでしょう。
記紀には「考え」が含まれるとみますので、歴史を抽出するためには一筋縄ではゆかない、そう考えています。

≫縄文から弥生という大きな転換という<事実>はどうなってしまうのでしょうか。

なにをもって大転換というのか、がまずありますね。
縄文と弥生という年代区分は学術上の便宜のためです。
例えば「九州での水田」の登場、新しい文化が登場したときを基準にして区分したものと思います。
いったん区分されるとその言葉自体に引きずられてしまう危険性に要注意と思います。

「縄文川」に「水田川」が合流した、そこから下流を「弥生川」と呼ぶことにした、そのようにイメージすれば良いと思います。

≫「奇しき縁」とは、新しい文化の縁ということなのでしょうか

この言葉はいつごろの登場なのかなあ。
めずらしいもの、変わったもの、貴重なもの→少ないこと・・「新しい文化」を源とみれば容易に包含されると思います。


≫これは「クジ」であって「クシ」ではありません。

国史大系/吉川弘文館の古事記での原文は「高千穂之久士布流多気」です。
ここでは久士布流の士はシの読みになっており、ジと読むのは本居宣長の古事記伝のようです。
各論あるものを例にしたのがまずかったかもしれませんが、断定しないほうがよいと思います。


≫稲田自体は縄文時代からありました。新しい文化とはいえません

岡山の稲のプラントオパール(花粉痕跡)はBC4000頃のようですね。
(なお、これが野性であるか栽培(田畑)の稲であるかどうかは不明)
焼畑などある文化を取り込んだとき、それがその部族(地域)にとっての新しい文化だと思います。
縄文文化を保持していた人々のうちで、素盞鳴尊時代に焼畑を取り込んでいたのが櫛稲田姫の部族だったのかも。

[5932] Re[5931]: 平群の船石のアドレス  神奈備 2005/01/05(Wed) 11:55 [Reply]
 いこまかんなび様、ありがとうございます。

 ここへは東の白石畑からアプローチしたことがあり、失敗でした。
下記の地図では
http://map.www.infoseek.co.jp/standard/13168010/emapview.htm?ENC=gJS%2FcWVEeByzDT8SZ2R9jU7dl8HkS79EYbPvQASnY7%2FmfI7h%2FkDcGRsZ%2FHUiBFEABIfTqQkRGK8xjn0Lad%2BGTCrKn8zSRQDbChfsETFukJRHodKDf8fl80wqta9Qu9u439FLmgRMcwYjQ6T3oWnWTAQOsjTUBdrFMI5deJ3czeULs3lawWqVgg%3D%3D

三里という赤い文字があるところ付近でしょうか。

船山神社は『平成祭礼CD』によりますと15社ほど出てきますが、お示しの神社以外には住所にミサトは見えません。住所に「フナヤマ」とついているのが信濃と三河、この方は偶然ではないのでしょう。

[5931] 平群の船石のアドレス  いこまかんなび [Url] 2005/01/04(Tue) 22:21 [Reply]
神奈備さまへ
どうも失礼いたしました。「いこまかんなびの杜」の方の「いこまかんなび写真帳」をご覧ください。よろしくお願いします。
なお、三重県安芸郡美里村船山に「式内船山神社」があったようですが、字は異なるものの平群の方も三里=みさと、にあります。「みさと」と「船山」に何か共通性があるのでしょうかね。疑問がどんどん広がっていきます。
今後ともどうかよろしくお願いします。
http://www.geocities.jp/iko_kan2/heguri-funagami.html

[5930] Re[5926]: 平群の謎の船石  神奈備 2005/01/04(Tue) 22:00 [Reply]
> 船山神社のその神社の背後の尾根上にある船上神社跡と謎の船石を探索してきました。ぜひ一度ご覧下さい。

書き込みありがとうございます。
貴HPを拝見しましたが、船山神社の東の山の巨石に行き当たりませんでした。
詳しいアドレスを教えて下さい。

[5929] Re[5923][5921]: 八岐大蛇  klarin [Mail] 2005/01/04(Tue) 08:17 [Reply]
> そうでしょうか。たとえば「フタマタ」をかける、などの場合は頭?は二つですね。
> また、鍬の一種に「三又鍬」というものがあるそうで、頭?は三つのようですが。

あれから調べてみました。私の基本的な誤解でした。正月早々・・・。
タミル語でpan-ar[branch(枝状のもの)]はnが巻舌音のため日本語では
mad-aと対応しますが、これがmat-aとなったものと思われます。

[5928] Re[5927]: RE[5925]:Re[5919]: 櫛クシと奇クシ補足    klarin [Mail] 2005/01/04(Tue) 08:05 [Reply]
> >八岐大蛇伝承は蛇という象徴化をどうみるかによってその流れにぴたりと乗る伝承となる

これに対する疑問は撤回します。

> 「奇しき縁」とは、新しい文化の縁ということなのでしょうか。
> ありえないことですが・・・。

これは、「たとえば『奇しき縁』という言葉がありますが、これも
新しい文化の縁ということなのでしょうか。」ということです。
「奇しき神石」「奇しき喇叭の音」など、新しい文化とは無関係な
用法もあります。

[5927] RE[5925]:Re[5919]: 櫛クシと奇クシ    klarin [Mail] 2005/01/03(Mon) 22:32 [Reply]
神名語尾、チ・ヒ・ミコト・カミなどをご存知ないというのは
残念、というしかありません。基礎的なことと思っておりましたが・・・。

理念というのは「物事のあるべき状態についての基本的な考え」
(大辞林)とありますが、それが創作と≒である、というのは
かたばみさんの独自の用法なのでしょうか。初見です。

>八岐大蛇伝承は蛇という象徴化をどうみるかによってその流れにぴたりと乗る伝承となる

「どうみるか」によって「ぴたりと乗る」ということは、この伝承は後世の主観次第で「流れに乗る」という意味としか解しえませんが、意味不明としか言えません。

>歴史は大きな質量を持っていますからよほどの事がない限り90度に折れ曲がったりはしない。

文飾として見事というしかありませんが、そういう大きな質量があるならば、
縄文から弥生という大きな転換という<事実>はどうなってしまうのでしょうか。

「奇しき縁」とは、新しい文化の縁ということなのでしょうか。
ありえないことですが・・・。

>天孫降臨でのクジ触峯

これは「クジ」であって「クシ」ではありません。

>「新しい文化」=「稲田」

稲田自体は縄文時代からありました。新しい文化とはいえません。


[5926] 平群の謎の船石  いこまかんなび [Url] 2005/01/03(Mon) 22:26 [Reply]
みなさん新年明けましておめでとうございます。久しぶりの書き込みです。
昨年一度探索を試みて見つけられなかった平群谷にある伝長屋王墓の南東、三里にある船山神社の、というより立派な陽石がある神社といえばよく分かるでしょうか、その神社の背後の尾根上にある船上神社跡と謎の船石を探索してきました。ぜひ一度ご覧下さい。
本年もどうかよろしくお願いいたします。
http://www.h7.dion.ne.jp/~iko-kan

[5925] Re[5919]: 櫛クシと奇クシ  かたばみ [Mail] [Url] 2005/01/03(Mon) 16:49 [Reply]

≫通常、神名の末尾には神名語尾が付きますが、ツチを土と解釈すると、
≫そのような通常性を否定することになります。クシを新文化と解するのは、
≫どのような根拠なのか

神名語尾とはいかなるものか知りませんが、足名椎、手名椎は神様なのかなあ。
記紀が創作であるとは考えていませんし、神代とされる神武以前の説話でもなんらかの事象に基づく源があると考えています。
同時にすべての時代で「思惑による偽」も含まれてもいると考えています。
思惑や理念化(≒創作)が同居しているわけで、それをどう見分けるか。

歴史としての事象に組み立て直すためには必然性のチェックがまずは必須。
歴史は大きな質量を持っていますからよほどの事がない限り90度に折れ曲がったりはしない。
ある程度の情報が集まれば、投げたボーリングの球の軌跡は予測がつくのと似ているかもしれません。

だから縄文から「連続する自然な流」れを探しながら「下って」くる手法をとっています。
八岐大蛇伝承は蛇という象徴化をどうみるかによってその流れにぴたりと乗る伝承となるので、創作ではなく神話の世界へ運ぼうとしているだけだと考えています。
八岐大蛇伝承が寓話だとしたら、なにを示唆しようというのかなあ、そういう内容は感じないです。


奇クシについては青草の方で少彦名命とその関連事象の書き込みがありましたが、そこで書いています。
最初の登場は少彦名命が帰った後の大己貴命の前に登場する「奇魂幸魂」だと思います。
クシを「新しい文化」とみなせば、後に登場するその他のクシが包含できる、そこで私はそのように判断しています。
考え方あるいは判断のひとつです。

天孫降臨でのクジ触峯、いろいろできるでしょうけれど、新しい文化が触れた峯、新しい文化が降った峯、新しい文化が振った峯(振る=招魂)、フルをどの意としてもあるいは置き換わりとしても通用します。
広い範囲を包含できるほうが原意の可能性が高いとみています。

古事記での少彦名命に関する記述はごく短いわりに、大国主命、葦原色許男命、大穴牟遅命の各種呼称が登場して混乱(^^;
対してたいへんに詳しくいろいろを書いているのがウエツフミです(こちらもいろんな呼称が登場)。
http://cgi.coara.or.jp/~fukura/uetufumi/index.html
(第6綴り付近)
ウエツフミは出雲系譜のいろいろについて他書にはみえない事象を大量に含んでいて、あるポイントを押さえればそれらは大変有用な情報になると考えています。
(扱い方を間違えれば毒にもなる(^^;)


奇と櫛の本来は別物だと思いますが、櫛に出雲文化における巫のイメージがあるならどこかでつながってしまうかもしれない。
古事記では櫛を用い、書紀では奇を用いるように見えます。
真髪触奇稲田姫は「新しい文化」=「稲田」、それを司る触れてはならぬ長い髪の巫女、と解することができるでしょう。

書紀の天日方奇日方命が古事記では櫛御方命となっています。
出雲系には巫女らしきが登場しませんが、櫛御方命は男巫だったのかもしれない。


[5924] 髪の毛  かたばみ [Mail] [Url] 2005/01/03(Mon) 16:26 [Reply]

あけましておめでとうございます。

白川静氏よりの引用ですが「早神女魃カンシンジョハツの話から考えると髪長き女は巫女であったかと思われる」なんてのがあります。
これらは山海経などに記される中国神話?ですが、基本は雨、水、雨乞いと巫に関するもので、類似は以下にもあります(女魃など)。
http://www.hum.ibaraki.ac.jp/mayanagi/students/98terakado.htm

中国古代の神々/林巳奈夫に殷ないし周の神像に髪の毛を象徴すると見えるものがあり、林氏は「気」の表現かもしれないとみています(殷→箕子朝鮮→素盞鳴尊?)。
メデューサの髪の毛と蛇、これも類似感覚からくるものじゃないかと思っています。

髪は女性の命なんて感覚はいつごろ登場したのかなあ。
縄文の一般女性の髪の毛が長かったかどうかはわかりませんが、少なくとも遠賀川の山鹿貝塚の巫女とみえる女性はかんざしを2つもつけているそうで短くはなかったとみえます。
(本来のかんざしは束ねて丸めた髪を固定するためのものと思います)

髪が長い場合に必要なのは櫛、縄文から赤漆塗りの櫛が少なからず出土していますが、漆を塗るということはだれが使うにせよ最大級の扱いをしているためだと思います。
先に出雲系は櫛の尊称を使うと見えると書いていますが、縄文文化を受けているためとみております。

櫛名田姫は巫女であり、集団の存亡に関わる事態では自らの命をもってそれに対処せねばならない状況にあった、のではないか。
巫女のありようとして場合によっては人身御供ともならねばならなかった。
(後にその役割に特化したのが魏志倭人伝の持衰ジサイじゃないかとみています)

書紀が真髪触奇稲田姫としているのも、髪の毛に注目しているからだと思います。
わざわざ「真髪」としているのは「カツラ」もあったからではなかろうか、インディアンの羽根飾りのような。

「夏」の文字は飾り物をかぶって踊る巫者の象形だそうですが、自前の髪である場合が「真髪」ではないか。
なお、「触」は「さわる」で、毎度ですが白川静氏は触れてはならぬものに触れる意であるとしていますが、納得できます。
だから、ふれるというのはそーっとさわる(^^;

誰のものとも知れぬ髪の毛がおいてあったら気味が悪いと感じ、誰のものかわかっているならそこにその人の分身を感じる。
このあたりの感覚かなあ。

ps.
初詣でお守りなど求めるとき、大きな社だと手不足のせいか男性神職も売り場にいます。
でも男性の方がたいていすいてる(^^;
巫女さんは学生さんのアルバイトでしょうけれど、私も巫女さんが売っている方で求めます。
(むくつけき男の手から渡されるよりずっといいから(^^;)
あの、赤と白の衣裳はいつごろからの慣習なのだろう。


[5923] Re[5921]: 八岐大蛇  KOJIKI 2005/01/03(Mon) 15:57 [Reply]
Klarinさん、初めまして。
正月休みで暇なので、ちょっと気がついたことを質問させていただきます。

>八つのマタがあるということは、頭は九つなければならないですね・・・。

そうでしょうか。たとえば「フタマタ」をかける、などの場合は頭?は二つですね。
また、鍬の一種に「三又鍬」というものがあるそうで、頭?は三つのようですが。
http://www8.ocn.ne.jp/~kaji-kan/mitumata2.htm

[5922] 神社もイロイロ  神奈備 2005/01/03(Mon) 14:25 [Reply]
 貴志川線の存続の秋になりました。一人でも多く乗ろうと思って、今年の初詣は貴志川線沿い。
 先ず、堅真音神社。
 廃絶式内社として元地らしい所に碑が建っており、神社としては近くの鳴神社に合祀されているのですが、実は少し離れた場所に鎮座しているのです。復活式内社と言えます。場所は↓
http://map.www.infoseek.co.jp/standard/13168010/emapview.htm?ENC=Cy1cZEG1eQ8WTumlFQQA5K9F2K2mC%2BJg%2F1USqwB956ttStD5iCPV8WCIaXF%2FBp0zKDNt14%2FIkV0BgWIUVSgWG4S1F1hzUC6Csobx45Cj8xjKf9lpU79FrLgpNX7ynuyM%2FEpYhczqyPbE%2BVOsYyjGo1yjPa5WB3GyVu2dGmXhDS80ooO9f6U%2FXmXCldhzo05SOHJrLSpUj%2BJAIHmBZw%2FrdJXby3vv2PH6B2NIuRMhqTz37vrq54B9QDfqauAxIi7G
です。和歌山市神前253

次に伊太祁曽神社。名誉宮司さんと長話。

3日は羽曳野市の式内社二社、大祁於賀美神社とモ■モ■神社。このモ■モ■神社ではどうやら宮司家の犬が放し飼いで、坂道を上っている小生の足下にまで迫って吠えかかってきました。振り返り、犬の方に一歩踏み出すとスットンデ逃げていき、遠いところから吠えていました。参詣者に犬をけしかける気はなかったのでしょうが、結果的にはそう言う事、あまり愉快な神社ではありませんでした。

伊太祁曽神社とは天と地の差。

[5921] 八岐大蛇  klarin [Mail] 2005/01/02(Sun) 13:06 [Reply]
八つのマタがあるということは、頭は九つなければならないですね・・・。
8という数字に合わせたのでしょうが。

ところで、お正月にちなんで・・・
鏡餅(かがみもち)は、トグロを巻いた形に似ているので蛇餅の意味で
あるとする説があります。

タミル語kakk-amは既に書きましたが、a common creeper of the hedges
(垣根の普通の蔓草)、bitter snake-gourd(苦い蛇瓜)を指します。
このkakk-amは日本列島では、kaga、hahaとして、蛇の意味で用いられて
います。
同時に、kakk-amの末尾子音mが開音化し、kakkam-i>kagam-iとして日本語と
なったと思われます。鏡餅のカガミがそれであると推定されます。

トグロのことをタミル語でmatt-i[coiling, as of a snake(<蛇の如き>
トグロ)]と言う。これは日本語mot-i(a/o対応)と対応します。
もっともこれは日本語としては消滅しているようです。

このモチが餅という意味でのタミル語motak-am[大野「形成」p.479(OK432)]
に仮託されたとすると「蛇のトグロ」でkagamiのmoti、つまりカガミモチと
なります。

なお、トグロの形態素はto・kuro(k-は連濁でg-となる)だと推定されます。
「ト」はタミル語tey-am[body(体)]の古形tay-amからo/a対応、-y脱落した
toと思われます。

クロはタミル語curr-u[to be coiled(くるくる巻く); to lie encircling
(巻いて横たえる)]と考えられます。
トグロとは各辞書によれば「蛇が体を渦巻のようにぐるぐる巻いてわだかまる
こと。また、そのありさま」ですから、びったりと一致します。

[5920] あけましておめでとうございます  秋魚 2005/01/02(Sun) 11:14 [Reply]
ここは物知りの方がおおいので参考になります。「刺國」、ありがとうございました。福島さんのお話しも期待しております。・・刺國のほかにもうひとつ知りたいコトバがあります。

>平安朝の歌人藤原公任の歌「おぼつかな うるまの島の人なれや わが言の葉を 知らず顔する」を引用していますが、『日本国語大辞典』によると、この歌には前書きがあって、そこには「しらぎのうるまの島人来て」うんぬんとあり、この「うるま」が「しらぎ(新羅)」の属国であったことが明記されています。

・・沖縄の新聞に投稿された部分ですが、「うるま」が「サンゴ」という通説に反論するものでした。新羅の属国に「うるまの島」なんてあるのでしょうか?どなたかご存知でしたら教えてください。

今年もよろしく。

[5919] 謹賀新年&Re[5914][5912][5910][5909][5907]: 八岐大蛇伝承  klarin [Mail] [Url] 2005/01/01(Sat) 10:44 [Reply]
喪中につきご挨拶は控えさせていただきます。

>>日本語「まさか」は「目前の時。転じて『さしあたって今』『まさに今』」

これは、当初は「目(ま)先(さき)」の転であろうと思っていましたが、
「みるマサカリに」という言葉をこれに充てますと、「目・先(さか)り」と
なります。「先」を動詞化「さきる」として、その体言化-riを後接する場合は、
「さきり」にならなければならず、訛ったまま体言化することはありえない
ところから「まさか」もタミル語mattak-am由来としました。

ただ、「目(ま)先(さき)」と「まさかり」は語源が異なるとすれば、
このかぎりではありません。

なお、<muと同源のタミル語murr-uは「perfection(完全),
completeness(全部)that which is complete(完成しているもの)」
という意味>と書きましたが、この-rr-は巻舌音ですので、-d-(鼻音)とも
聞こえます。

タミル語内部でのu/a交替を反映し、日本語mad-o>mat-o>mas-oとなり得ます。
時代別国語大辞典上代編p.678は「またし(完全である)がt/s交替で<まそし>
となるとは必ずしも言いがたい」としますが、古事記では「命のマタケむ人」、
日本書紀では「命のマソケむ人」とあり、またt/s交替はさほど珍しいことでは
ないので、この説にはある意味で疑問があります。

なお、同辞典は「まそし」を未詳語としますが、これはタミル語動詞murr-uの

1. to become mature(完熟する); to ripen(熟す);
2. to be fully grown(十分に成長する);
3. to be advanced in age(高齢になる);
4. to abound(富む), increase(増える);

に対応すると考えられます。
「命のマソケむ人は」というのは、したがって「高齢の人は」という
意味として、文章ともぴったりと合います。

「マソ鏡」(鏡を褒めて言う)の「マソ」は名詞murr-u由来の「マソ」で、
「完璧な鏡」ということだと推定されます。

なお同辞典は「まそし」を同p.679の
「またし(完全である)」の交替形とは必ずしも言いがたいとしますが、
これは正しい見解かと思われます。「完全である」という意味での
「またし」はタミル語pott-a[1.suddenly(突然に);2.swiftly(早く);
entirely(完全に)]に由来すると考えられるからです。

余談ですが、このpott-aはそのままpott-o(ぽっと/ぽっと現れるなど)と
対応したり、matt-aki(まったき)、batt-ari(ばったり/ばったりと会う
など)などと対応するように思えます。
   
タミル語の古代の文法書「トルカーッピャム」の注釈でイラックバナーは
「タミル語ではpはvでもあるmでもある」など幾つかの子音について
どれでもいいなどと書かれています。p、v、mはおそらく鼻音的傾向に
あったようです。これが日本語にも反映して、pはw、f、m、bなどに対応
します。この複合対応が、西欧比較言語学者には理解できないようです。

時代別上代編の辞典には、「またし」を「完全である」とし、「まそし」
との交替には疑問を呈してるわけですが、これは確かにpott-a由来とすれば
その主張どおりとなります。しかし「またし」にはmurr-u由来の「またし」も
あるように思われます。

[5918] 謹賀新年  やさか 2005/01/01(Sat) 08:45 [Reply]
○神代より神さび立てる富士の山今日の初日の厳かにさす○
             桜木神社 御神籤・第十八番[大吉]

あけましておめでとうございます。
昨年はありがとうございました。今年もよろしくお願いいたします。

[5916] 謹賀新年  tinkle 2005/01/01(Sat) 08:06 [Reply]
新年明けましておめでとうございます。
普段ここのサイトで勉強させてもらってる者です。
なかなか難しくて参加できませんが、
今年もよろしくお願いします。m(._.)m

[5915] 年賀  神奈備 2004/12/31(Fri) 23:14 [Reply]
旧年中はお世話になり、ありがとうございました。
今年もよろしくお願いいたします。
大阪 瀬藤禎祥


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