神奈備掲示板の案内とログ

神奈備掲示板

青草談話室、写真掲示板 過去ログ

掲示板のログ(平成十七年 十月 2005.10)お名前の敬称は省略しています。

[6773] Re[6772]: 天之御影神について  玄松子 2005/10/26(Wed) 22:28 [Reply]
すみません、ちょっと内容がわからないのですが。

> 北桜は野洲川扇状地の根元付近で大山川との合流点川原付近であるために河川流路変動を受けず弥生時代中期と早めに登場しており、

弥生中期が早いか遅いかは主観によりますが、少なくとも弥生前期から野洲川周辺に集落が存在しています。


> もう一つ青草を
> 「三上山」と「多度山」

どの点が「青草」なんですか?

[6772] Re[6770][6769][6767][6758][6756][6755][6754][6744][6742][6741]: 天之御影神について  素人 2005/10/26(Wed) 21:29 [Reply]
> 野洲川下流域には弥生遺跡が広く分布しているようです。
> http://yasu.biwakokasen.go.jp/kurasi/iseki/top.html

遺跡は南から北へと野洲川の河川流路の北上と共に移動していますが、北桜は野洲川扇状地の根元付近で大山川との合流点川原付近であるために河川流路変動を受けず弥生時代中期と早めに登場しており、三上山山麓ですか古くから御上神社と関係が有ったのではないでしょうか。大山川も今は上流に北山ダムが出来ていますが、合流点の川原の広大さから以前は災害の発生があったのではと推測されます。
もう一つ青草を
「三上山」と「多度山」
「多度山」は全山チャ−ト(火打石、珪酸系堆積岩)で形成され、鉄を産したと推定されている。延喜式神名帳に記載の古い神社で、多度神社の祭神は大津彦根命、摂社には天目一箇命を祀ている。鍛冶神である。地質図を見ますと同じく「三上山」は全山チャ−トで形成され北東側の外周が花崗岩で出来ている。天照大神…>天津彦根神…>天之御影神、三上山も多度山も全山ほぼチャ−トで多度神社は大津彦根命(天照大神の子)摂社には天目一箇命を祀る、三上山は祭神が天之御影神(大津彦根命が親)で神は天目一箇神の霊神 で金工鍛冶の祖神ある。山の岩石から祭神まで大変に関係深く、金工鍛冶に共に関係しているので興味深い。

[6771] 手前の低い山の頂上  素人 2005/10/26(Wed) 20:57 [Reply]
>  三上山から南東方向に高野神社が鎮座、この神社から三神山を眺めますと手前の低い山の頂上もその線上にのるようで、所謂ダブル神奈備山の姿です。古くから人が住んでいたようです。
手前の低い山(菩提山)の頂上について、ご存知でしょうが青草を。
菩提山の奥の低いピークに人が住んでいたようです。雨乞いでもしたのでしょうか。
(西応寺蔵・明応9年<1500>模写)「円満山少菩提寺四至封彊之絵図」
http://nihonnotoba.cool.ne.jp/2003toba/syobodaiji.jpg
少菩提寺は、興福寺(藤原不比等が造営を指示、藤原氏菩提寺)の別院として天平3年(731)に良弁によって創建された大寺院で、聖武天皇以後歴代天皇の勅願所となっている。
御上神社社殿(養老二年(718年)藤原不比等、2年後に亡くなった。)が出来て13年後に社領内に、凄いお寺が出来ました。水利権・地権どうしたんでしょうか。社殿も目障りなので山の裏へ何てこと、いくら藤原氏でもしないでしょう。
青草でした。

[6770] Re[6769][6767][6758][6756][6755][6754][6744][6742][6741]: 天之御影神について  玄松子 2005/10/26(Wed) 09:10 [Reply]
> こちらこそ。青草合戦で。

青草で良いなら。

滋賀の御上(三上)神社は、4社。(『平成祭データ』)
3社は野洲にありますが、もう一つは甲賀(三上六所神社)。

野洲は野洲川の下流、甲賀は源流近い上流。→川神
三上六所神社は、日雲宮の伝承地。(日雲と御影)→日神
よって、川神を祀る地主神と、日神を祀る信仰形態の合体。

蛇足。
野洲川下流域には弥生遺跡が広く分布しているようです。
http://yasu.biwakokasen.go.jp/kurasi/iseki/top.html

[6769] Re[6767][6758][6756][6755][6754][6744][6742][6741]: 天之御影神について  神奈備 2005/10/26(Wed) 08:32 [Reply]
> >さて、この方角の意味する所は何なのでしょうか、と言う疑問がのこります。
> どうしても青草になってすみません。

こちらこそ。青草合戦で。
 三上山から南東方向に高野神社が鎮座、この神社から三神山を眺めますと手前の低い山の頂上もその線上にのるようで、所謂ダブル神奈備山の姿です。古くから人が住んでいたようです。
 また高野神社はその祭神を大名草彦命と言い、紀の国にゆかりの神です。
 いまの所、だからどうしたと問われれば、「ムニャムニャ・・・」です。



[6768] Re[6761][6759][6757][6745]: 御上神社の社殿配置  素人 2005/10/25(Tue) 23:55 [Reply]
> 昔、北桜村には十禅師宮、若宮大明神が有り、
蛇足ですが、北桜村はとても古い村のようです。
「三上山南東麓の野洲町北桜で発見された、弥生時代中期(およそ2,000年前)から奈良・平安・鎌倉各時代の集落遺跡、北桜遺跡から7世紀末頃の土馬が出土している。これは豊穣を祈る雨乞いの祭祀の遺物として注目されている。」
弥生時代中期などと言うとても古い村、この辺は、三上山の山麓で川から離れていますので続いているのかもしれません。

[6767] Re[6758][6756][6755][6754][6744][6742][6741]: 天之御影神について  素人 2005/10/25(Tue) 23:38 [Reply]
>さて、この方角の意味する所は何なのでしょうか、と言う疑問がのこります。
どうしても青草になってすみません。
「上新川神社の社伝によれば、霊亀2年(716)野洲川が大氾濫し、新しい流路をつくったので神霊を対岸の野洲と下流の幸津川に分祀したと伝えています。」この地方は10年に一度ぐらい大洪水になるようです。御上神社のある一寸上流で野洲川は谷を出て5kmほどの扇状地に流れ出すそうです。土砂量の多い川ですからこの辺も川が暴れるようです。社殿が川に近かった場合、被害を受けるのではと思います。事実、この地域では多数の神社が水害の被害を受けているようです。水害の被害があって神社の位置を川から離れた安全な現在の位置にして養老2年(718年)、に再建すると位置関係がずれてくるのではと夢想します。
古代、社領は上は湖南市水口付近、野洲川と杣(そま)川との合流より下流の右岸、下は野洲市吉川(河口)に至るまでと広大であり、扇状地頂点部で下流域の水利権などを抑えていたと思われます。天御影神の娘は息長水依比売で「水依」は河川の合流地の意味で野洲川の女神だなどと言う記述も見受けられます。他にも水とは関係有りそうです。金気などもありそうです。
根拠の無い青草ですが,いかがでしょうか。

[6766] Re[6765][6764][6763]: 神様を探してます  神奈備 2005/10/25(Tue) 20:04 [Reply]
> 例えば天照が祭神で月読・素盞鳴が配祀とか(合祀とか)猿田彦・天鈿女が摂末社とか等、形式は問いません。ただ、全ての神様が摂末社だと嫌ですね。

私はあなたの質問が嫌です。なんとなれば、明治末期に神社合祀が多くなされ、多くの神々が一つの神社に祀られることになりました。その後、多くの神々の名前が消えていき、祭神がよくわからなくなっています。このようなご時世に、五柱の神の祭神が書いてある神社を探すことに有意義なものを感じません。
強いて言えば、八百萬神を祭る神社を二例。

岡山県岡山市一宮1043 吉備津彦神社
三重県鈴鹿市山本町1871 椿大神社

なお、当サイトのリンク集
http://kamnavi.jp/link/link.htm
に地域の神社庁の神社の紹介のあるHPを紹介していますのでご自身で見ていって下さいな。


[6765] Re[6764][6763]: 神様を探してます  三光 2005/10/25(Tue) 19:10 [Reply]
玄松子さま、はじめまして

>>いわゆる三貴子(天照・月読・素盞鳴)と猿田彦・天鈿女を祭神にしている神社を捜しています。
>
>これは、5柱(天照・月読・素盞鳴・猿田彦・天鈿女)全てを祀っている神社ということですか?
>それとも、3柱(天照・月読・素盞鳴)を祀る神社、
>あるいは2柱(猿田彦・天鈿女)を祀る神社を探しているのでしょうか。
>
> 各祭神は、主祭神でなくても良いのでしょうか。
> たとえば、合祀された、配祀された神々でも良いのでしょうか。
> あるいは、本殿と同格の摂社に祀られているというのでも良いのでしょうか。

えっと、余り詳しくないのですが、全ての神様を祀っている神社です。
例えば天照が祭神で月読・素盞鳴が配祀とか(合祀とか)猿田彦・天鈿女が摂末社とか等、
形式は問いません。ただ、全ての神様が摂末社だと嫌ですね。

[6764] Re[6763]: 神様を探してます  玄松子 2005/10/25(Tue) 16:51 [Reply]
> いわゆる三貴子(天照・月読・素盞鳴)と猿田彦・天鈿女を祭神にしている神社を捜しています。

これは、5柱(天照・月読・素盞鳴・猿田彦・天鈿女)全てを祀っている神社ということですか?

それとも、3柱(天照・月読・素盞鳴)を祀る神社、
あるいは2柱(猿田彦・天鈿女)を祀る神社を探しているのでしょうか。

各祭神は、主祭神でなくても良いのでしょうか。
たとえば、合祀された、配祀された神々でも良いのでしょうか。
あるいは、本殿と同格の摂社に祀られているというのでも良いのでしょうか。

[6763] 神様を探してます  三光 2005/10/25(Tue) 12:34 [Reply]
初めまして、こんにちは
神社を検索していて辿り着きました。
いわゆる三貴子(天照・月読・素盞鳴)と猿田彦・天鈿女を祭神にしている神社を捜しています。
私は関東在住ですが、神社はどこでも構いませんので情報の提供をお願い致します。m(__)m

[6762] Re[6758][6756][6755][6754][6744][6742][6741]: 天之御影神について  素人 2005/10/25(Tue) 01:00 [Reply]
> さて、この方角の意味する所は何なのでしょうか、と言う疑問がのこります。
素人考えで気が引けますがこちらは初めてですからお許しください。
前にも青草談話室で議論されていましたが、光か、シルエットかによって方向も関係してくるかもしれません。ただ朝日でもシルエットは有りますから困ってしまいます。
三上山のシュルエット。 北桜からの三上山 野洲市北桜より。
http://cont4.mech.usp.ac.jp/~minagawa/shigamts/mikami/mikami30.html
三上山のシュルエット。 菩提寺交差点からの三上山 湖南市菩提寺より。
http://cont4.mech.usp.ac.jp/~minagawa/shigamts/mikami/mikami29.html
朝日を浴びる逆光の三上山。市三宅からの三上山。(御上神社側)
http://cont4.mech.usp.ac.jp/~minagawa/shigamts/mikami/mikami31.html
三上山とその周辺の山々(上記写真掲載Web)
http://cont4.mech.usp.ac.jp/~minagawa/shigamts/mikami/mikami0.html
青草失礼しました。

前に、ご紹介しましたページがリンク切れになっていますが、以下のWebで拝見できます。(上)本殿背面の裏扉。三上山周辺の岩石祭祀事例(前編)Web
http://f1.aaa.livedoor.jp/~megalith/mikamiyamasaiseki.html#102

[6761] Re[6759][6757][6745]: 御上神社の社殿配置  素人 2005/10/25(Tue) 00:48 [Reply]
> 合祀末社とはどういう意味でしょうか。
素人の意味不明の質問すみません。
昔、北桜村には十禅師宮、若宮大明神が有り、同じく御上神社に
摂社として十禅師社・若宮社が有りましたが関係有るでしょうか。
有るとすれば御上山山麓の北桜村の十禅師宮、若宮大明神は末社でしょうか。
十禅師宮、若宮大明神は末社として村人に祭られていたかとの質問でしたが、
関係有るか、無いかは解らないと了解いたしました。
お騒がせしました。

[6760] Re[6759][6757][6745]: 御上神社の社殿配置  玄松子 2005/10/24(Mon) 10:15 [Reply]
> (天之御影神について)この方角の意味する所は何なのでしょうか、と言う疑問がのこります。

僕は、方角に意味があるのかという疑問を持ちました。
山頂の磐座の場合、社殿を建てる位置は制約されますから。


> (御上神社の社殿配置)境内に若宮神社があるようです。ここは、十禅師社を合祀しているのかどうかは不明です。

一般に、十禅師社祭神はニニギ尊か玉依姫命ですから、現在の本殿右にある三宮(ニニギ尊)が十禅師社でしょう。位置も江戸時代の地図に一致します。

[6757] Re[6745]: 御上神社の社殿配置  素人 2005/10/24(Mon) 03:36 [Reply]
三上山の裏手山麓にある北桜地区には、若宮大明神と十禅師宮の2社があったが、明治四十三年に十禅師宮を若宮大明神に合祀したそうです。現在、御上神社脇の道を上流に1kmぐらい行った先の左側に若宮神社が有るようです。
北桜地区は三上山の裏手山麓に広がり、御上神社の江戸時代の絵図でも若宮・十禅師が有りますから北桜地区は関係が深いと考えられます。
素人考えですが合祀末社と考えていいのでしょうか。

[6756] Re[6755][6754][6744][6742][6741]: 天之御影神について  MURY [Mail] [Url] 2005/10/23(Sun) 23:27 [Reply]
> 三上山頂の奥社の向き

私も方位磁石で計ったわけではありませんが、
奥社は磐座の方向を向いています。

その磐座から麓の平野部を見ると、中心やや東の方角に栗東市の日向山が見えたのはしっかり記憶しています。
日向山は三上山の南南西に位置しています。

なので、奥社の向きはおおよそ南西になるのではないかというのが私の印象です。
何かしらの参考にでもなればと思います。

[6755] Re[6754][6744][6742][6741]: 天之御影神について  素人 2005/10/23(Sun) 01:03 [Reply]
> 登っていないのでわからないのですが、山頂の奥社は、北を向いてるんですか?
大変失礼しました間違いでした。
方向ははっきりしませんが、南か南西ではないかと思われます。
里宮も南向きですが、里宮の本殿背面に裏扉扉が有ります。
http://f1.aaa.livedoor.jp/~megalith/mikami4uratobira.jpg
三上山登山写真(山頂からの写真があります。)
http://www.kumacs.com/mikamisan.htm
三上山登山(頂上は雄岳と雌岳の二峯からなり、それぞれに鳥居と小さな「ほこら」)
http://homepage1.nifty.com/~sakuranamiki/room1qq.htm
登山者の方の記録がありますが正確な方向ははっきりしません。
素人考えですが里宮と似た方向ではあるように思います。
蛇足ですが先の絵図に出ていた「御陣屋」は近江三上藩一万二千石遠藤氏の三上陣屋で
三上は城下町でもあったようです。

[6754] Re[6744][6742][6741]: 天之御影神について  玄松子 2005/10/22(Sat) 15:35 [Reply]
ところで。

> 山頂の神社も北向きの様なのです。

登っていないのでわからないのですが、山頂の奥社は、北を向いてるんですか?
ネットで検索しても、西方・南方への展望写真しか見当たらないのですが。

http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=350301.0&l=1360216.0
北からのアプローチもなさそうです。

[6753] Re[6752]: 神奈備  神奈備 2005/10/22(Sat) 11:50 [Reply]
> そもそも「神奈備」というのは、
> どういう意味なのでしょうか。

http://www6.airnet.ne.jp/manyo/main/area/kinki/nara/kannabi.html
神奈備(かむなび/かんなび)は、神さまがいらっしゃる森という意味です。

[6752] 神奈備  toyohashi taro [Mail] 2005/10/22(Sat) 10:38 [Reply]
そもそも「神奈備」というのは、
どういう意味なのでしょうか。
神社の系統にそういうものがあるのですか。

[6751] Re[6750][6745]: 御上神社の社殿配置  玄松子 2005/10/22(Sat) 07:44 [Reply]

> 神主さんのお住まいではないでしょうか。推測ですが。

江戸時代ですから、そうでしたね。失礼しました。

[6750] Re[6745]: 御上神社の社殿配置  素人 2005/10/21(Fri) 23:24 [Reply]
>左手楼門奥に社殿が並んでいますが、楼門の東側に「主神」と書かれた建物(これは何?)があります。
興味深い絵図です、御紹介有難う御座います。
「主神」ですが、右下に「屋陣御」と有りますので御陣屋で神主となり、
神主さんのお住まいではないでしょうか。推測ですが。
北向きと言うと単純には北極星などとなってしまいますが、そう単純ではないと思います。養老2年(718年)、藤原不比等が 現在の地に榧の木で本宮を造営したそうです。

[6747] Re[6743][6737]: 市座神社について。  吉備津 [Mail] 2005/10/21(Fri) 05:08 [Reply]
申し訳ありませんでした、以後、気をつけます。

> お尋ねの趣旨がもうひとつ良くわからないままに:−
>
> > 過去ログとして6683から6687までの間に書かれていましたが、流れてしまいました。
>
> 流れたとはどういう意味なのでしょう。
> 皆さんの貴重な御投稿ですから、掲示板発足以来の過去ログは全てご覧頂けるようにしております。
> 今年の9月のことですから
> http://kamnavi.jp/log/index.htm  の
> http://kamnavi.jp/log/yumv0509.htm に出ています。
>
> > 後に上街道筋に市場が形成されるにつれて妙見社も遷座、市神の夷神として事代主命を勧請した」
> > この時代背景について独学で結構ですから、推察をお願いしたいのです。
>  要するに彼らの元の集落は西の奥垣内だったようで、丹波市が繁栄していったので、集落ごと神様も一緒に移転してきたということだと思います。だから跡地に妙見社が残っていないのでしょう。丹波市の隆盛は時代としては室町時代のようです。
>

[6746] Re[6745]: 御上神社の社殿配置  玄松子 2005/10/21(Fri) 03:53 [Reply]
スペースが消えたので再投稿。

       本殿
       拝殿----本地堂
       楼門-----主神---------------三上山
西参道----------------------------

[6745] 御上神社の社殿配置  玄松子 2005/10/21(Fri) 03:51 [Reply]
江戸後期に書かれた『木曽路名所図会』にある三上山、三上神社の図。
(でかいPDFファイルです。)
http://www.lib.pref.saitama.jp/stplib_doc/data/kichousho/gazou/17-2.pdf

この26ページを見ると、楼門の前を東西に横切る参道があります。
現在は西から入る参道と南から入る参道ですが、南からの参道は国道が出来て以降のものかもしれません。(この図にはありません)

で、西から入ると正面に三上山があります。
左手楼門奥に社殿が並んでいますが、楼門の東側に「主神」と書かれた建物(これは何?)があります。

本殿
拝殿----本地堂
楼門-----主神---------------三上山
西参道----------------------------


社殿などは仏教建築の影響が考えられ、本来は無かったものとすると、楼門の前あたりに遥拝所があったのではなかろうか。(あくまでも想像ですが)

[6744] Re[6742][6741]: 天之御影神について  素人 2005/10/21(Fri) 02:06 [Reply]
>  その付近の豪族であった安国造が御上祝としてこの山を祀っていたのでしょう。

早速のご指導有難う御座いました。
私もそうだと思っていたのですが、里の拝殿・本殿などの配置が北向きで一直線で、
お山の方を向いていないのです。はっきりとはしないのですが、山頂の神社も北向き
の様なのです。写真ですと鳥居の前に神様が降りてこられる磐座があります。
大変に不思議に思っております。
中腹に朽ちた妙見堂があるようですが、これって天井に星座が書いてあるお堂だと
思います。こちらは朽ちてほしい仏教系ですから関係あるか解りません。
素朴な疑問ご指導ください。

[6743] Re[6737]: 市座神社について。  神奈備 2005/10/20(Thu) 21:06 [Reply]
お尋ねの趣旨がもうひとつ良くわからないままに:−

> 過去ログとして6683から6687までの間に書かれていましたが、流れてしまいました。

流れたとはどういう意味なのでしょう。
皆さんの貴重な御投稿ですから、掲示板発足以来の過去ログは全てご覧頂けるようにしております。
今年の9月のことですから
http://kamnavi.jp/log/index.htm  の
http://kamnavi.jp/log/yumv0509.htm に出ています。

> 後に上街道筋に市場が形成されるにつれて妙見社も遷座、市神の夷神として事代主命を勧請した」
> この時代背景について独学で結構ですから、推察をお願いしたいのです。
 要するに彼らの元の集落は西の奥垣内だったようで、丹波市が繁栄していったので、集落ごと神様も一緒に移転してきたということだと思います。だから跡地に妙見社が残っていないのでしょう。丹波市の隆盛は時代としては室町時代のようです。

[6742] Re[6741]: 天之御影神について  神奈備 2005/10/20(Thu) 18:24 [Reply]
天之御影神について

 影とは光のことのようで、御上神社から三上山を見ますと春分、秋分の頃には頂上の谷間から日がでるのを見ることができるようです。
 その付近の豪族であった安国造が御上祝としてこの山を祀っていたのでしょう。
 その内、我々の祖先はあの山の頂上に降臨して、それから平地に出て土地の開拓を行ったとでも言うお話が出来てきたと想像できます。祖先の名前として、天から来た光の神とでも名乗らせたのでしょう。この氏族から息長氏も出ているようです。
 
 写真掲示板に、「御上神社から真東を見た場合の三上山」をアップしてあります。カシミールと言うソフトでつくりました。

[6741] ご指導ください。  素人 2005/10/19(Wed) 00:50 [Reply]
御上神社(滋賀県野洲市)に祀られる天之御影神について教えてください。

[6740] 「南河内の池溝開発」図  いこまかんなび [Url] 2005/10/18(Tue) 22:39 [Reply]
 狭山池など「南河内の池溝開発」図

『大阪府立狭山池博物館-常設展示案内図録』の挿図より転載・引用させていただきます。
http://www.geocities.jp/iko_kan3/sayamaike.html
[6739] Re[6738][6729]: 和気清麻呂の猫間川・平野川治水の失敗の和気。    玄松子 2005/10/18(Tue) 16:54 [Reply]
> 最近に日本の経緯度の規定が世界基準とされる経緯度規定に切り換えられ、以前の緯度経度とは500mほどの差が生じました。

緯度経度が変わったわけではありません。測地系が変わったのです。
つまり、地球を定義している球の形が少し変更されたということです。


> しかし、我々の生活を含めた自然界はなにも変わっていません。

夜空を見ないで生活している人にとって、星が消滅しても何も変わらないでしょう。
鯨を見ない・食べない人には、鯨の絶滅も、生活に変化はありません。

だからといって、人類全体に無意味だと主張するのは疑問です。
地図や天体を睨みながら生活している人に取っては重要事項です。

[6738] Re[6729]: 和気清麻呂の猫間川・平野川治水の失敗の和気。    かたばみ [Mail] [Url] 2005/10/18(Tue) 16:37 [Reply]

ピリ・レイス地図・・本物だとして1500年代ですね。
ヨーロッパの大航海時代が始まってから100年後の地図。
西欧世界からは南極大陸らしきが描かれた「驚異的な地図」なのかもしれませんが・・

それより千年近く昔のシンドバッドの冒険では(^^; 氷山を運ぶ大鯨の話が登場しますからアラブ世界は南氷洋の情報を持っていたと思われます。

角度は位置や形を数字化するための人間側の手段だと思います。
緯度と経度も人間が決めた便宜上の約束。
東西南北という方位は地球の自転という自然界に従属するものです。

最近に日本の経緯度の規定が世界基準とされる経緯度規定に切り換えられ、以前の緯度経度とは500mほどの差が生じました。
しかし、我々の生活を含めた自然界はなにも変わっていません。

ミクロネシアのサタワルに古代の航海術が残っていて、北極星と琴座のベガを基準として、直角を半分の半分の半分というように細分して、それぞれをなんらかの星に対応させているようです。

十二支(12進、エジプト?)による方位とは違う。十干(10進)でもなく、60進(アラブ?)でもない。
北西とか北北西という表現と同じで、いわば32進。
弥生あたりでの方位の表現はどういう方法だったのかなあ。


自然界全体をなんらかの概念で捉えようとする試みは太古からありますね。
http://woodsorrel.cool.ne.jp/data/egyptian_world.jpg
エジプトの天空の女神ヌト神、太陽神はその中をめぐる。

レイ・ラインというのはそれらと同様で、数学で自然界を捉えようとする感覚のひとつだと思っています。
例えば氷(雪)やダイヤモンドの結晶、それらの整然とした美しさ、これに根を持つ感覚。
http://www.um.u-tokyo.ac.jp/publish_db/2001Hazama/07/7139.html

自然界のありようを整然とした数学(方程式)で示そうとするもの。
相対性原理も自然界のありようのひとつを方程式で示したものだと思います。
数学による解明は深遠なものを含むかもしれません。

しかし、無数にあるパラメータの一部だけを取り出して組み合わせてもなにも得られないと思います。
特に、期待する方向に合致するパラメータだけ取り出して、期待する事象を説明する(証明しようとする)、これが成立しないのは明らかだと思います。
これに限らず、望むもの以外が見えなくなる落とし穴に落ちること、非常に多いと思っています。

余談
易や風水は、ある地域のある文化での古代からの統計学的な可能性の大小の集大成であり、確率論(数学)のひとつだと考えています。
天気予報も「易」と同じであたるも八卦あたらぬも八卦(^^;
ですが、「的確なデータ」の集積とその意味づけ(関連づけ)によってあたる確率はずいぶん高くなっていると思います。


[6737] 市座神社について。  吉備津 [Mail] 2005/10/18(Tue) 16:34 [Reply]
以前、市座神社についてお尋ねしたものです。
以下のコピー分についてご丁寧な回答を頂き、ありがとう御座いました。
その後、神奈備さんから何らかのご意見をしていただいたものが、過去ログとして6683から6687までの間に書かれていましたが、流れてしまいました。
そこで、神奈備さんにお願いです。

「後に上街道筋に市場が形成されるにつれて妙見社も遷座、市神の夷神として事代主命うを観請した」

この時代背景について独学で結構ですから、推察をお願いしたいのです。宜しくお願い致します。


[6683] Re[6681]: 一座神社についてお尋ねします。  神奈備 2005/09/27(Tue) 18:17 [Reply]
> 「元々集落はここより西の奥垣内にあり、妙見社を祀っていた。現在も立派な摂社がある。」とありますが、摂社の場所を知りたいことと

誤解を招きやすい表現で失礼いたしました。摂社は境内に鎮座、元社の位置(不明)ではありません。

> 丹波姫についての由来を知りたいのです。
境内の由緒を見て書いたもので、姫の招待は不明です。丹波市の巫女さんだったのかも知れませんね。


[6682] 市座神社の間違いです。訂正します。  吉備津 [Mail] 2005/09/27(Tue) 16:03 [Reply]
http://kamnavi.jp/as/yamanobe/itiza.htm

[6681] 一座神社についてお尋ねします。  吉備津 [Mail] 2005/09/27(Tue) 16:00 [Reply]
以下の情報について。
「元々集落はここより西の奥垣内にあり、妙見社を祀っていた。現在も立派な摂社がある。」

とありますが、摂社の場所を知りたいことと、丹波姫についての由来を知りたいのです。
如何なることでも結構ですので、何か情報を頂きたいと存じます。


祭神
事代主命(丹波姫であったと言う)

由緒
 丹波市の守護神。元々集落はここより西の奥垣内にあり、妙見社を祀っていた。現在も立派な摂社がある。 後に上街道筋に市場が形成されるにつれて妙見社も遷座、市神の夷神として事代主命を勧請した。


[6736] 倭亞府氏の発言  玄松子 2005/10/18(Tue) 09:23 [Reply]
反応・返信が、かなりずれているので、少しまとめ。

倭亞府氏の発言は、以下の2ポイントだろうか(違うかも)

・寺社、学校・公共施設は、すべて遺跡の上にある。

これについては、関空がそうでないように、遺跡の上にある場合もあるし、そうでない場合もある。
遺跡の近くに寺社が建てられる場合は多いが、そうでない場所に寺社が建てられる場合も多い。
遺跡の上にある田畑も有るし、山林もある。
その比率を調べてみると面白いかもしれないが、この説を主張する根拠はない。

・遺跡は、すべてレイライン上にある。

遺跡が、意図的、あるいは偶発的にライン上や図形上にある場合はある。
幾つかはレイラインかもしれないが、幾つかは無関係。
レイラインであると主張するには、遺跡であるだけでは不十分。その根拠(関係性)が示されなければ無意味。

検索エンジンを多用していますが、ネット上の情報は玉石混淆。情報は精査されなければ有害でしかない。

自分自身で、地図上に遺跡をプロットし、『相関関係』にある遺跡を線で結んでみてください。
幾つかの面白い線が描かれるかもしれませんが、多くは意味不明な線となるでしょう。

> 否定する前に線を描いてください 見えてきますよ。

[6735] Re[6734][6733] 古墳・寺社などは篭目のラインです。  玄松子 2005/10/18(Tue) 08:18 [Reply]
> 役小角 行基 円仁 空海なども関係します。(芭蕉も少し。)

あなたが検索エンジンを用いて示した遺跡は、すべて同一人物が関係しているものですか?(時代も背景も違う人々によって造られていませんか)

神奈備さんの云うように(面倒ですから、線を描いた地図を見せて下さい。)
まず、地図を描いて、ひとつひとつ考証して下さい。

[6734] Re[6733] 古墳・寺社などは篭目のラインです。  倭亞府 2005/10/18(Tue) 02:52 [Reply]
「遺跡の上に寺 行基 古墳」にて検索
「奈良県五山の国見山岳2 」がありました。
邪馬壱国 奈良県五山の国見山岳<3>(三分の一以降 必見)
http://www.btvm.ne.jp/~g-taka/yamaichikoku/nara_kunimiyama3.htm
邪馬壹國 6九州の神社仏閣古墳旧跡と結ぶ国見山
http://www.btvm.ne.jp/~g-taka/yamaichikoku/6kyuusyuu_1.htm
http://www.btvm.ne.jp/~g-taka/mokuji1.htm
邪馬壱国 奈良県五山の国見山岳<2>
http://www.btvm.ne.jp/~g-taka/yamaichikoku/nara_kunimiyama2.htm

「同じ祭神・本尊。同じ氏族・宗派。同じ時期。仮に、違う時期に創設されたとしても、同じ時期、あるいは同じ人物によって改修されたという場合には、関連があると云えるでしょう。」役小角 行基 円仁 空海なども関係します。(芭蕉も少し。)
私は前方後円墳は測量台を兼ねていると考えます、周りの古墳から主ポイントの対角線の延長600m前後(延長線の先)に次の測量ポイントが存在すると考えます。北の方向(東へ25度または、約+-9度か18度)古墳の近くの寺社・祠(古墳での角度の誤差の修正)江戸時代は庚神塚などで再測量らしい?

[6733] Re[6732]: RE[6730] なにか意味があるのだろうか。  玄松子 2005/10/17(Mon) 20:36 [Reply]
> RE[6730] なにか意味があるのだろうか。重要なのは、ポイントの関連性でしょ。
>  レイライン上に寺社・学校・公共施設(遊園地・動物園・公園その他)

話がよく通じていない様子。
この「関連性」とは、寺社・学校・公共施設などという
いいかげんで、大雑把なものではありません。

公共施設が寺社境内、あるいはその跡地にあるのは、自明。
その寺社同士の関係性が必要ということです。

たとえば、同じ祭神・本尊。同じ氏族・宗派。同じ時期。
仮に、違う時期に創設されたとしても、同じ時期、あるいは同じ人物によって
改修されたという場合には、関連があると云えるでしょう。

寺社や公共施設という無関係に近い意味で考えた場合、
たとえば、関空と伊勢神宮は、同じ緯度に東西に並ぶ。
これも、レイライン?

[6732] RE[6730] なにか意味があるのだろうか。  倭亞府 2005/10/17(Mon) 20:05 [Reply]
RE[6730] なにか意味があるのだろうか。重要なのは、ポイントの関連性でしょ。
 レイライン上に寺社・学校・公共施設(遊園地・動物園・公園その他)
明治新政府になり修験道・密教系の寺院・星の宮などが廃寺や移転させられた。これらは一里内のポイントでした。
国造り達は密かに正確な地図を(地図は戦略的に極秘)修験者などに作らせていた。【役】やく・えだち(枝?) :えだち(夫役):「公の土木工事などに使われること。」  役 小 角 は測量士だったの考えです。

新山遺跡 下里3−21−1下里中学校内
  縄文時代中期(約4500年前)の大きな集落跡。 柄鏡形住居跡が多く発見されたことで知られています。下里中学校の校庭下に遺跡が保存され、1 軒の住居跡が外から見られるようになっています。 昭和53年指定。
  ●下里本邑遺跡 野火止3−3−4 下里本邑遺跡公園内
  旧石器時代から奈良・平安時代までの長い歴史をもつ遺跡。8000平方メートルが遺跡公園として整備され、 出土した石器や土器が外から見られる小さな「遺跡館」もあります。昭和59年指定。
  ●米津家大名墓所 幸町4−2−40 米津寺内
  江戸時代の大名の米津(よねきつ)家の墓所。 4代の当主や一族の墓碑などが残り、東京の多摩地域では唯一大名墓所の景観を今にとどめています。平成8年指定。

麻賀多神社は延喜式巻九(神祇九 神名 上)下総国 十一座【大一座、小十座】印旛郡の ... 都営野川公園のそばにあり、古墳の跡地に作られているようだった ... もちろんそれは明治政府が強引に改名させたからだが、麻賀多の ... 六合村と宗像村の合併によってできた村だし、宗像小学校など宗像の ...

たとえば、貴船と熊野本宮は、同じ経度に南北に並ぶ。
遺跡の上に神社   で検索
http://search.yahoo.co.jp/bin/search?p=%B0%E4%C0%D7%A4%CE%BE%E5%A4%CB%CC%F2%BD%EA&fr=top&src=top&search.x=20&search.y=10
たとえば、延暦寺と東大寺は、同じ経度に南北に並ぶ。
遺跡の上に寺 で検索
http://search.yahoo.co.jp/search?p=%E9%81%BA%E8%B7%A1%E3%81%AE%E4%B8%8A%E3%81%AB%E5%AF%BA&ei=UTF-8&fr=top&fl=0&vc=&x=wrt&meta=vc%3D
たとえば、大阪府庁と奈良県庁は、同じ緯度に東西に並ぶ。
遺跡の上に役所   で検索
http://search.yahoo.co.jp/search?p=%E9%81%BA%E8%B7%A1%E3%81%AE%E4%B8%8A%E3%81%AB%E5%BD%B9%E6%89%80&ei=UTF-8&fr=top&fl=0&x=wrt&meta=vc%3D
寺の跡地に学校   で検索
http://search.yahoo.co.jp/bin/search?p=%BB%FB%A4%CE%C0%D7%C3%CF%A4%CB%B3%D8%B9%BB&fr=top&src=top&search.x=22&search.y=11
遺跡の上に公園   で検索
http://search.yahoo.co.jp/search?p=%B0%E4%C0%D7%A4%CE%BE%E5%A4%CB%B8%F8%B1%E0%A1%A1&fr=top&src=top&search.x=29&search.y=11
遺跡の上に動物園
http://search.yahoo.co.jp/search?p=%E9%81%BA%E8%B7%A1%E3%81%AE%E4%B8%8A%E3%81%AB%E5%8B%95%E7%89%A9%E5%9C%92&ei=UTF-8&fr=top&fl=0&x=wrt&meta=vc%3D
境を意味する神に道祖神が有りますがこれは、古代中国の【伏羲】(中国の伝説上の帝王。八卦をつくったとされ、東方の神、春の神として祭られる。)【女<カ>・ジョカ】(中国伝説上の人頭蛇体の女神。五色の石を練って青空の割れめを修繕したという。がモデルとされています、手にはコンパスに定規です石工の組織フリーメイソンのシンボルもコンパスに定規です。(蛇系の古代からの密命が脈々と続いているのです。)
参考 HPです。
明治政府の廃仏毀釈
http://search.yahoo.co.jp/search?p=%CC%C0%BC%A3%C0%AF%C9%DC%A4%CE%C7%D1%CA%A9%D4%CC%BC%E1&fr=top&src=top
廃仏毀釈 はいぶつきしゃく
http://www.tabiken.com/history/doc/O/O206C100.HTM
但馬妙見における廃仏毀釈
http://www.fureai-net.tv/myoukensan/page006.html

[6731] 諏訪湖付近2  神奈備 2005/10/17(Mon) 15:00 [Reply]
[6729] > 否定する前に線を描いてください
面倒ですから、線を描いた地図を見せて下さい。

御曽儀神社と御射宮司社

 諏訪市大字豊田字中組5951に鎮座する御曽儀神社の鎮座地は御曽儀と言うのですが、また御射宮司とも言うようです。『長野県の地名』(平凡社)
 境を意味する言葉に、サコ、セコ、サキ(先、崎)、ソコ(底、塞)、ソグ(削)などがあり、神としては、宿神、坂戸神、逆手神などいろいろ。柳田国男翁の『石神問答』にも、これらの神々の名が」出てきます。この石神はイシカミではなくシャクジと読むようです。

 諏訪大社では、ミシャグチ神という樹や笹や石や生神・大祝に降りてくる精霊を中心に祭りが営まれるとか。

 諏訪湖付近には御頭御射宮司社と言う神社や御射宮司社などいろいろ鎮座、ほとんどの祭神は健御名方命となっていますが、元々は境の神だったのでしょう。縄文が匂う神々です。

 三狐神社、尺口神社、作神社、佐軍神社、赤壽神社など各地にも鎮座しています。共通の言葉として、SK、SGが浮かびます。

[6730] Re[6729]: 和気清麻呂の猫間川・平野川治水の失敗の和気。    玄松子 2005/10/17(Mon) 12:37 [Reply]
> 否定する前に線を描いてください 見えてきますよ。

何が「見えて」くるんだろう?
描いた線が見えるのは当然だけど。

適当なポイントを結んで図形を描いて、なにか意味があるのだろうか。
重要なのは、ポイントの関連性でしょ。

たとえば、貴船と熊野本宮は、同じ経度に南北に並ぶ。
たとえば、延暦寺と東大寺は、同じ経度に南北に並ぶ。
たとえば、大阪府庁と奈良県庁は、同じ緯度に東西に並ぶ。
どれもレイラインだろうか。

[6729] 和気清麻呂の猫間川・平野川治水の失敗の和気。    倭亞府 2005/10/16(Sun) 21:59 [Reply]
和気清麻呂の猫間川・平野川治水の失敗の和気。  
古代中国では地上は平と考えられていたそうです。
地図を作成する場合「北」は「太一」(北極星)ですが約25度ぐらいの誤差が生じる。
北半球を描くと下記のように「緯度の誤差は北に向かって増加・・・」

「ピリ・レイス地図では、経度の驚くべき正確さにくらべ、緯度の誤差は北に向かって増
加し、また赤道から南へ向かって増加する。ところがこれにエラトステネスの算定値を当
てはめ補正すると、その誤差を大きく減少させることができる。(中略・・・
 古代の測量は東西南北十字の方向に長さう測り 縦2:横1の板に彫り込んで記録したらしい
東西合わせ正方形となるが45度の方向が誤差が出始める これを「亜」の文字に表した
四隅に悪霊が住む(鬼門である。)
次に「亀甲型」60度X6(角度は縄の結び目を6:6:6作り)正三角形や直角三角形を導きだした。

和気清麻呂の時代の地図で計画・作図された治水計画
現実には東西(誤差少々」両端のポイントから内角60度の2本のライン 
図面のポイントより手前で交わる。
図面をもとに分担し作業するとラインが直線には交わらない。(古墳をポイントした時代。)
神仏習合(密教・修験道)の時代、誤差の修正が行なわれた。

和気清麻呂は猫間川・平野川を30度角で枝分かれさせ地上の角度と長さのポイントの図を造ろうとしたと考えています。
古代の国造り達は地上に篭の目の様な線を描こうとしていたのですが緯度による誤差と分割された地域がとの道路や橋の建設「図面どうりにはいきませんでした。
これまでの「図A・B・C・D」には沢山のポイント(山川古墳寺社溜池・・・)これらのポイントを東西南北(誤差3度〜33度)にラインを引き60度・45度ポイントを見出す。 (NHKで今カラホトの水路を放送にてます、「西夏」夏の禹は治水と地図造り・国造りで尊敬されました。)


私はこの時代の測量士【役】(後の役小角のような)が渡来していたと考えます。
和気清麻呂には子の様な計画をもっていたと考えます。
否定する前に線を描いてください 見えてきますよ。

[6728] 四天王寺付近  神奈備 2005/10/16(Sun) 12:28 [Reply]
『古代の難波と難波宮』直木、中尾編 p.273
木原克司 『大阪の歴史』48号 から作成した地図


7〜8世紀頃の推定地図のようです。四天王寺の南側は切れ込んだ谷のように見えます。
どこからここへ水を流したとしてもたいして田畑が増えるようには見えません。しいて言えば、難波砂堆に水を注げる程度。

 この書物の中で、直木氏は和気清麻呂の水路の目的を、美田を増やすのではなく、難波津を経由せずに大阪湾から大和川へ入っていく、または淀川へは神崎川から入り、難波津を浮き上がらせて、天武系の拠点であった後期難波宮を実質廃墟にしようとする桓武天皇の思惑があったとの見方を披露されています。

[6727] Re[6725][6724]江戸時代の大和川付替  かたばみ [Mail] [Url] 2005/10/15(Sat) 19:50 [Reply]
≫どちらが権力・神の力が大きかったのか?、住吉の津はどーでもよかったのか?

いろいろな時代での民の意識、国家の意識、そのはざまにある社の意識・・
これだけで大研究テーマになりそうですね。


江戸時代の新大和川付け替えについて「大和川付替(川違え)工事史/藤原秀憲」をざっと参照してみました。
いくつものプランがあったようで、地図に落としてみました。


オレンジ色の案は持論の和気水路とほとんど同じですが、住吉大社を避けてその南あるいは北に放流しようとしているのが面白い。
その案の真ん中へ放流するのがベストだけどなあ。

新大和川開削以前のいつの頃かに、三郎左衛門という農民が代官?に住吉浦に悪水を落とさせてほしいと願い出たそうです。
しかしお上は即決できず、三郎左衛門は「泉州住吉四社」に参詣して願ったところ、あと100年待てというお告げがあったのだそうです(^^;
甚兵衛さんなど関係者の住吉さんへの意識がうかがえるところです。
(田畑→雨乞いと洪水→龍神→住吉さん、全部住吉さんへむかいそう)


黄色は中甚兵衛が見積書を作ったプランで、「長5.2」などとあるのは地点間の距離kmです。
「堤4.5」等は堤の高さmで、開削していない部分。「堀1.8」等は開削した部分で深さmです。

開削部分の幅は180mです。
この幅で川が住吉浦へ流れれば、ずっと内陸まで住吉浦が延長されたようにみえるのではなかろうか。
鎌倉あたりの長居の池を長居浦あるいは長居潟と詠む歌があるようです。
http://www.oct.zaq.ne.jp/hori-jinja/nagai/nagai-no-sato.htm


実行した案は堤防を減らして開削部分を増やしています。
堤防決壊の心配が減るし、堤の南側が排水不良にもなりにくい。
ただし水利を遮断される地域が増えるわけで、まさにあちらを立てればこちらが立たずで、このあたりは周辺農民に対する政治的手腕も必要そう。

上図で「図B参照」は狩野文庫画像データベースの古地図
http://www2.library.tohoku.ac.jp/kano/kano_top.html
からの攝津國圖(部分)に書き込みした図


この図の中央にある池が桃ヶ池や長池等の水路痕跡(和気水路)で、ここを北上している水路が
「図C参照」の


水色の水路(拝見させていただいた地図による、あいにく公開できませんが正確な実測図とみました)につながっていたのでしょう。

新大和川開削によってこれらの水路(溜池)への給水路が絶たれますが、灌漑用水ですから50cm幅の給水路でもよいはずです。
それが図Bの「今川」への取り出し口から西北へ分流して消えている水路(※印)であろうとみています。


古地図にある依網池ヨサミは現在において依網池とされる位置ではないとみています。
見積書にある距離などからの判断ですが、細かい話になるので略します。
古地図に書かれる依網池は現在の今池付近ではなかろうか。

ここには海と関わりのある今池遺跡があります。
http://www.city.sakai.osaka.jp/kyoiku/_syougai/_maibun/imaike.html

「図A参照」は「絵図に見る依網池」(大依羅神社所蔵)
http://www.mahoroba.ne.jp/~tanaka96/yosami/top.htm
に書き込みしたものです。


依網池を今池付近とみるほうがこの地図のイメージにより合致すると思います。
大依羅神社の位置も新大和川開削以前では現在地ではなく、今川遺跡付近かもっと海岸に近い位置にあったのではないかと考えています。


[6726] 諏訪湖付近1  神奈備 2005/10/15(Sat) 18:33 [Reply]
 諏訪湖付近に遊びに行こうと思い、周辺の神社を調べていますと、手長神社、足長神社と言う多分ペアの神社が鎮座。諏訪では手摩乳命や脚摩乳命を祭神としています。諏訪の建御名方命の祖祖父だからと言うことよりも、建御名方命の諏訪入りに抵抗した縄文の流れの神々として土蜘蛛や長髄彦のイメージがあって、かれらの鎮魂の神社であればロマンだなと思っています。神社へ行ったら判るというものではないでしょうね。

 足長の二文字をその名に持つ神は足長津彦尊と生足長足姫神です。
足長津彦尊は仲哀天皇のこと、また生足長足姫神は、常陸国茨城郡に鎮座の住吉四所神社の祭神に表筒男命、中筒男命、底筒男命、生足長足姫命として現れ、これは息長足姫尊ということ。

 玄松子さんは興神社 http://www.genbu.net/data/iki/kou_title.htm の紹介の中で「祭神に息長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)が含まれている。神功皇后の別名なのだが、字面だけを見ると、壱岐の足長姫と見ることもできないだろうか。すると、足仲彦尊(仲哀天皇)が、天手長男となるだろう。」と述べておられる。
 足仲を手長に読み替える苦しさはありますね。諏訪湖の傍の神社に適応するのことができるか否か。

 諏訪湖の民話があります。手長と足長 ↓
http://www.suwaseiryo.jp/seiryohs/tosyo/tosyo45/tenaga.html
これによりますと、諏訪明神ににつかえていた神様のようで、征服された縄文系かも。

 足長を忘れて手長だけとると、例えば壱岐のような場合、『宗像大菩薩御縁起』に出る「御手長」や、『出雲国造神賀詞』の「掛けまくも恐き明御神と大八嶋の國知ろしめす天皇命の大御世を手長の大御世と斎ふ・・・」などがあります。

 『平成CD』で勘定しますと、全国で*手長神社は46社、足長神社は1社でした。

[6725] Re[6724]和気さん(国)と住吉神の力は?  いこまかんなび [Url] 2005/10/11(Tue) 23:10 [Reply]
どー説明したらと、返答に困っております。
どちらが権力・神の力が大きかったのか?、住吉の津はどーでもよかったのか?
、神聖な水と泥水とはいっしょでいいのか?。当時の周辺渡来人の生産基盤や活動、周辺遺跡の状況などなど、さらにいろいろ考えてみます。
これについてはすぐ返事できませんので悪しからず。

[6724] Re[6722][6721] 神域に水路を作れたか  かたばみ [Mail] [Url] 2005/10/11(Tue) 21:20 [Reply]

≫等高線の高低に逆らわない形で作図しておられますね

大地のありように逆らうとろくなことにならないので(^^;

≫根拠はありませんが、住吉神の所は当然通せないでしょ

おっしゃる通り、江戸の新大和川がわざわざ高台を深く掘削して堺へ流しているのは住吉の神域?を通せなかったからだ、と思っています。
しかし・・和気清麻呂時代(733-799)でもそうだったのでしょうか。

依網池ヨサミについては以下の情報しか知りませんが、
http://www.mahoroba.ne.jp/~tanaka96/yosami/mokuzi.htm
新大和川が深く横断したために北側の高台部分が水利を絶たれています。

住吉へ流すならなにも問題は生じない、折衷案もあったはず=紫の水路。
なのになぜ??(これが新大和川は和気水路の利用かもかも、という可能性につながります)


依網池は最古では崇神、新しくは推古に築造記事がありますが、それが現在の位置であったかどうかは不明。
例えば上図の今池あたりであれば、新大和川があってもこれを横断する水道橋を作れそうです。

大依羅神社の御祭神など
http://kamnavi.jp/it/kinki/ooyosa.htm
大依羅神社が八十嶋祭に登場するのは699年のようです。
歴史に登場してくるのは推古592-628以降とみえます。

住吉大社の場合は、当社HPより
http://www.sumiyoshitaisha.net/outline/history.html
八十嶋祭に登場するのは850年。大依羅神社より150年遅い。
歴史に登場するのは記紀(720)以降とみえます。

住吉大社と大依羅神社の勢力は平安末期〜南北朝あたりで逆転したのであり、和気清麻呂時代では住吉大社に遠慮する必要はまだなかった、と考えています。

新大和川以南の情報チェック中
http://www.city.matsubara.osaka.jp/walk/title07.html
例えば12.丹比大溝の開削、85.付替えられた西除川などなど


余談
依網池の台地は南から小河川が流れ込む地域で農耕に格好の場所。
大依羅神社の原形は住吉の対岸の止々呂支比売命神社あたりにあったのではないか(出雲系海人の津か)。
http://kamnavi.jp/en/settu/totoro.htm

で、開化以降に「日向系の倭」の祭祀がこれに加わった(説明略)。
住吉大社に埴使といった海とは関係なさそうな神事があるのはこのあたりを吸収してのことではなかろうか。


[6723] あちらたてればこちらがたたず  神奈備 2005/10/11(Tue) 10:50 [Reply]
> 河内攝津兩國之堺。堀川築堤。
 摂津と河内の国境に和気川を掘ったとすると、河内川とは和気川のこと以外にあり得ない。なぜなら和気川を飛び越して水路は造れないし、和気川の起点より南の水を流したければ和気川に流せばいいのだから。以下、和気川を河内川と呼ぶ。

 河内川から荒陵の南側へ水路をつくる意味は、河内川の堤防と上町台地に囲まれた部分がその西側にあって、水が溜まってしまったということ。河内川工事での堤防などで小さな水流が幾つか遮られて、溜まり水ができたということ。

> 自荒陵南。導河内川西通於海。
 この水は河内川に流し込むことが出来なかった。従って、上町台地の丘陵部を掘って西に流すことが試みられたが、上町台地の湧き水の水位(茶臼山南の河底池の水位)が12mもあり、例えば桑津付近での地表面が今日でも7mの標高で、水が5mを越える部分なら流せるのだが、それより低い溜まり水は流せないと言うことが生じる。

 清麿さんは、河底池を掘るか調べるかして水位を確認してギブアップとなった次第。
 その後、水が溜まった場所はおいおい泥が流れ込んで、河内湖に流せる状態になったのでしょう。

[6722] Re[6721] 和気アイアイで  いこまかんなび [Url] 2005/10/10(Mon) 22:24 [Reply]
>もし、茶臼山の南側に「巨大水路」を横断させて西の海へ流したとして、その東側ではどういうルートになるのでしょうか。

私の結論は、平野の北の杭全神社付近から以東、ほとんど地図上の痕跡が消えてしまっている渋川堤=橘川=龍華川として登場する古平野川ともいえる川跡の存在です。今は平野川といえば、南の狭山池から流れ下る東除川の末流となってしまってますが。
本当の平野の川は、近代的な測量による明治20年の地図で読み取れるように、東南東に続く緩い曲線で挟まれた河道跡の存在が考えられます。
この旧河道痕は、まさしく清麻呂くんが挑戦した人工河道の痕跡で、それまで存在した堤防を利用して築堤して河道を改修工事をしながら、平野へ導いたものと考えています。
それはなぜかと言いますと、旧大和川筋の内、西の支流の長瀬川筋は、「長瀬堤」の大規模な修築記事のほか、長瀬川から志紀郡と渋川郡の境を更に西〜北に分流していた渋川=橘川=龍華川の存在があります。記録ではこの渋川堤も洪水で破壊され、修復工事の記録が登場します。
 この渋川ですが、平野の北にある旭神社(加美正覚寺に鎮座)摂杜の若宮八幡宮の縁起によると、「天平勝宝6年(754)八月、風雨月を越えて止まず、八幡宮の神託に、櫛司と橘を水上より流し、其の止まりたる所に神を祀りなば、水難を止め農民を安穏ならしめんとありしかば、大和・河内の国境より其の二品を流させ給ひしに、智識寺の山上より西北に分れて流れ、櫛笥の止まりし所に神社を祭りて玉櫛明神(津原神社)と称し、川名を玉櫛川と呼べり。又、橘は渋川郡に流れて此の賀美郷の川中なる小島に止まりければ、其の地を橘の小島と呼び、東大寺の八幡宮を勧請して若宮と仰ぎしもの即ち当社にして、橘を神木と定められ、当時太上天皇も御幸ありしとの伝説あり。爾来雨を祈りて霊験ありければ、雨乞の宮と唱へて崇敬せられ、神前の橘も常磐の色を変えず子葉孫枝繁茂して芳香を放ちしとならん。(『大阪府全誌』)
 流された橘は、渋川(郡)の方へ流れて賀美(平野区加美町)へ流れついたというのは、間違い無く「渋川」という川があったからです。この川は、渋川堤〜横野堤で誘導され、(もちろん途中で東除川を合流です)、百済野〜玉造江へ流れていたと確信しています。当然、上町台地の対岸、玉造江の東岸〜以北は、横野堤〜南北に連なる摂津・河内国境堤(剣堤)で河内国内を護っていたことになりますが。
 いくつもきれいな復原図を見せていただいていますが、人工河道を一旦低地に導き、さらに標高ではかなり高い上町台地を、それも天王寺のところを開削する上でまったく無理あるものとして、デルタの等高線の高低に逆らわない形で作図しておられますね、それも神聖なる住吉神の聖地を貫くようにして。
 根拠はありませんが、住吉神の所は当然通せないでしょ。
 和気さんの進めた幻の人工河道は、高い堤防区間と丘陵開削区間でつなぎ、上町台地の自然谷を利用して比較的ストレートに西北の海へ導こうとする超土木工法だったのかも知れませんね。通天閣の下にも遺跡があるかも。
 そのルートは、以前も書いたように思いますが、八尾市の植松の南で長瀬川から分岐した古代の渋川河道〜跡部(物部の拠点-阿刀)〜渋川沿いに設定された摂津・河内国境〜杭全〜寺田町〜河掘町〜・・・当然茶臼山の南へと。
 自然の猛威を十分念頭においた古代の築堤方法とそのルートは、私達の想像を超えた高度な渡来集団の築造技術と工法を採用したものだったのでしょう。人工河道沿いは、物部〜蘇我氏の所有していた跡地を貫いて工事が計画されたのかも知れません。

>上町台地の東を北へ延びる水路が「?駒川」とあるようですが、原図では判読できるでしょうか。地図の場合にJPGを使うと細部がにじんで不利と思います。
PNGならにじむこともなく、256〜16色に減色すればファイル容量もJPGより小さくできます。
 
 鉄道のすぐ右は「猫間川」です。
 画像についてはあまりよく和気らんで作ってます。ぼやけてますか。前の「森幸安 摂津国難波古地図」では、大和川が描かれてないことや、発行年号や複写図かも・・など、なんとか理解できましたけど。画像の扱いは、いまいちです。ご辛抱ください。

[6721] Re[6716]: 和気さんの人工河推定は混乱してませんか?  かたばみ [Mail] [Url] 2005/10/10(Mon) 19:26 [Reply]
≫見れば見る程によーワケ分からんよーになってませんか

ま、図では農業水路も放流路もいっしょくたに書き、自分なりに解決済みの部分は省いていますので(^^;
ある程度のアニメ化は可能になってきましたが、アニメは修正がやっかいなので当分やりません(^^;

さて・・
もし、茶臼山の南側に「巨大水路」を横断させて西の海へ流したとして、その東側ではどういうルートになるのでしょうか。
もし低地帯を東へ延ばすルートであれば致命的な欠陥が生じます。
その堤の高さ以下の低地帯の排水路が遮断されて、そのルートより南側の低地帯は沼になってしまう。
(ポンプのある現代では別です、東京の荒川放水路がそうです)
茶臼山の南側ではないことを確信している理由です。

森孝安もこれに気が付いていたのではないかなあ。
惜しむらくは「茶臼山の南側」に縛られてしまって、水路を折り曲げて無理矢理茶臼山まで北上させた(^^;


下図はそれらの概略イメージです。


排水を取れる標高まで水路を南にずらした場合(例えば赤破線)・・それならOKです。
最短距離で上町台地を横断させるのが当然ですから茶臼山よりずっと南を横断する、しかし中途半端やなあ(^^;

もっと南へずらせば開削深度が浅くてすみ、標高10m付近を西進して住吉から西の海へ放流できる。
安定した農業用水を供給できる範囲もうんと広がります、排水についても少なくとも従来通り。
これが和気構想とみるわけです。


ただし放流先を住吉とまで確信できない理由は依網池(依羅池)の存在です。
江戸の付け替えでは、依網池の南半分を壊して横断するルートで掘っています。
池の泥水の処理など、なぜやっかいな作業が加わるルートにしたのか。

依網池は和気清麻呂の開削部分に作られた池であり、その東西に和気水路の開削ルートの残存が延びていた可能性を見ています。
すなわち、江戸の大和川付け替えは和気清麻呂の開削跡を利用しているのではないか。
だから1年に満たない短期間で開削できたのではないか・・これマジです(^^;


≫『大阪市史 附図-大和川附替図』(明治45年5月初版)

地図ありがとうございます。
1704以前の東除川(狭山東除川とある)は平野川に接続しているように書かれていますね。
時代と元図データが不明なので流路については棚上げとしておきます。
その他については、上町台地上に連なる池ともみえる表現など、持論の補強になるとみております(^^;

上町台地の東を北へ延びる水路が「?駒川」とあるようですが、原図では判読できるでしょうか。
地図の場合にJPGを使うと細部がにじんで不利と思います。
PNGならにじむこともなく、256〜16色に減色すればファイル容量もJPGより小さくできます。


[6720] Re[6713][6712][6711][6709][6704][6702] 明治20年の天王寺付近  かたばみ [Mail] [Url] 2005/10/10(Mon) 19:00 [Reply]

≫1.河内・摂津両国の間に川を掘り、堤を築きたいと思います。
≫2.荒陵の南から河内川を西方に導いて海に通じさせます。
≫そうすれば(1.と2.)肥沃な土地が益々広がり、開墾することができます。

≫河内と摂津の国境に川を掘ることと荒陵の南から西方に川を導くこととは全く違うことです

そうです、それが和気清麻呂の構想だと思います。
洪水を制御しながら農耕地を拡大する(=農業用水と排水の確保)、うまくバランスするにはどうするか。

洪水を防ぐために標高10mあたりで「西の海」へ流してしまう。
農業用水はその川筋の途中から取り出して任意に配水できます。
排水は従来の川筋を利用する。

そのためには江戸時代の大和川開削と大差のない開削、それ以外にはないと思います。
そういう「全体構想」を持っていたけれど、その途中で未完成に終わったのでしょう。

上町台地東斜面を北上する水路は「和気構想」の一部にすぎないわけでこれは農業用水、西除川の付け替え。
西の海へ導くのが住吉への放流、その放流路を東へ延ばして東除川(息長川)も付け替える、最終的には平野川(百済川)、ひょっとして大和川までを目標にしていたのだろうと考えています。
(森孝安の河内川=息長川はその意味で卓見かも知れません)


≫猪飼野は猪甘津であって、河川が流入していて土砂が堆積していった土地で

おそらくそうだと思います。
この位置だと平野川の堆積、流速は遅くなっているはずで泥の堆積の葦原じゃないかなあ。
排水がうまくとれるなら田畑によさそうですが、低地なのでそれは難しかったのではないでしょうか。


[6719] Re[6718][6710]: 無題(角度)  玄松子 2005/10/10(Mon) 00:34 [Reply]
> 現代では角度を正確に求めることができますが、ナビゲータに角度表示はでません、意味がないからです。

洋上の船舶や航空機のナビゲーションシステムでは角度が重要。
カーナビでも内部では角度を計算し、地図上に投影しています。

地図の無い時代・世界では、位置把握のため、角度は最重要ですね。


ただし、すべての人工物や山河などの自然物が、「意味のある角度」を持っているとは云えないでしょう。意味のあるものもあるかもしれないし、まったく無いかもしれない。

ポイントを増やせば、日本地図に「モナー」を描くことも可能です。
「モナー」が描けるからといって、古代から「モナー」が存在すると主張するのは愚か。


> それらにある角度が認められるのなら、その角度である必要性はなにか、いかなる意味があるのか。
> これをまず考えねばならないですね。

そういうことですね。

[6718] Re[6710]: 無題(角度)  かたばみ [Mail] [Url] 2005/10/09(Sun) 23:37 [Reply]

自然界の様々な物、建物、これらには選びようによって無数のポインタがあると思います。
岩でも巨樹でも、門でも母屋の大黒柱でも選び方はいろいろできるでしょう。
それらにある角度が認められるのなら、その角度である必要性はなにか、いかなる意味があるのか。
これをまず考えねばならないですね。

地図でのポインタは目標になることが重要なのであって、角度は無関係と考えています。
現代では角度を正確に求めることができますが、ナビゲータに角度表示はでません、意味がないからです。

古代地図でも同じだと思います。
ある目標とある目標のおおざっぱな位置関係がわかればそれでよかった。
どれだけ正確な位置関係が必要か。
弥生時代では? 古墳時代では? 江戸時代では? 現代では?

隣家との関係では? 隣村との関係では? 隣国との関係では?
どの時代でも、どの関係でも、川は常に明確なポインタ(ライン)になっていると思います。
角度ではなく地形(地勢)です。これは古代でも現代でも同じだと考えています。
(地形や環境を無視した事務的な線引き、これはトラブルの源になると思います)


[6717] [6716] の追信です  いこまかんなび [Url] 2005/10/09(Sun) 23:25 [Reply]
たとえば、今の大阪城の北、難波の堀江のところが大量の土砂で埋まった場合、大和と南河内全域から集まった旧大和川筋(長瀬川・玉櫛川筋)の恐ろしい程の水は、行き所を失って、河内はもちろん上町台地沿いも淀川の水と一緒になって、まったくのプールとなってしまって全滅でしょう。
どこで大量の水を大阪湾へ流し出すことができるか、
和気さんが考えた人工河の場所は?、
はたして。

[6716] 和気さんの人工河推定は混乱してませんか?  いこまかんなび [Url] 2005/10/09(Sun) 22:57 [Reply]
復原マップと説明ですが、見れば見る程によーワケ分からんよーになってませんか。もー一度、摂・河のマップを見直して考えてみたらどーでしょうか。
http://www.geocities.jp/iko_kan3/osaka-shishi-fuzu1.html
『大阪市史 附図-大和川附替図』(明治45年5月初版)
工事の前の空前の大洪水と堤防修復の記録を踏まえてくださいまし。

[6715] Re[6714]: [6710] 無題  2  神奈備 2005/10/09(Sun) 21:22 [Reply]
上町台地の高い所には古墳が延々と作られていたそうです。今はあまり残っていませんが。
だから、レイセンなど好きなように引けるんですよ。

[6714] [6710] 無題  2  倭亞府 2005/10/09(Sun) 13:28 [Reply]
古墳〜古墳のラインが桑津今川堤?・仁徳横野堤のラインを決めた!


舎利寺〜桑津今川堤のライン
帝塚山古墳〜丸山古墳 60度〜河堀口〜延長線が舎利寺〜桑津今川堤のラインと90度の角度で交わる。

90度の角度で交わる。
丸山古墳〜仁徳横野堤の北の端(大和道との交点)が仁徳横野堤のラインと90度の角度で交わり、
丸山古墳〜仁徳横野堤の北の端(大和道との交点)から30度の下方の位置に酒君塚が存在します。
杭全神社〜住吉公園近くの神社?ラインが仁徳横野堤のラインと90度の角度で交わる。
桑津今川堤のラインの上方への延長が 長池〜桃ヶ池百ヶ池〜河堀口ラインと30度角度で交わる。

 以上の様に古墳や寺社さらに境(国境・橋など)などが国造りのポイント成っています。

[6713] Re[6712][6711][6709][6704][6702] 明治20年の天王寺付近  神奈備 2005/10/08(Sat) 22:05 [Reply]
『続日本紀』
河内攝津兩國之堺。堀川築堤。自荒陵南。導河内川西通於海。然則沃壤益廣。可以墾闢矣

現代語訳
1.河内・摂津両国の間に川を掘り、堤を築きたいと思います。
2.荒陵の南から河内川を西方に導いて海に通じさせます。
そうすれば(1.と2.)肥沃な土地が益々広がり、開墾することができます。

河内と摂津の国境に川を掘ることと荒陵の南から西方に川を導くこととは全く違うことです。これは二つの計画に思います。



の高麗川は和気水道1と見ていいと思います。摂津とかわちの国境とは、おそらく上町台地が摂津、河内湖は干上がったり土砂がたまったりした湿地は河内に区分されていたのかも。

で、失敗したのは、2.の河内川を西に導くことであって、どの程度工事を進めることができたのかが疑問と言ったところです。

 この話題と無関係ですが、猪飼野は猪甘津であって、河川が流入していて土砂が堆積していった土地で、豚を飼う渡来系は居着いたころは河原だったのではなかったかと思います。やはり異界には違いない所。賽の河原、西院の河原と言われた場所。

[6712] Re[6711][6709][6704][6702] 明治20年の天王寺付近  かたばみ [Mail] [Url] 2005/10/08(Sat) 19:57 [Reply]
≫これを地勢図にプロットすると・・

地勢図を間違えました。



[6711] Re[6709][6704][6702] 明治20年の天王寺付近  かたばみ [Mail] [Url] 2005/10/08(Sat) 19:51 [Reply]

≫他の江戸末期の地図年代から1837−1887の間だけ「城東水路」が存在したとみえます。

攝津國圖(攝津國名所大繪圖/寛延元年(1748)の元図か?)があり、ここに「城東水路」あるいは持論の和気水路とみえる水路が書かれていました。
http://www2.library.tohoku.ac.jp/kano/kochizu/CJB.html
からの部分拡大図、小さい文字が読めないですが、おそらくの判読を加えて以下。


舎利寺と林寺の位置がキーです。
新大和川で遮断された東除川(息長川)→今川の再接続ポイントは瓜破天神でまず間違いないと思います。
新大和川を越えてその南にあるのは田坐神社あるいは田井城。
http://www.city.matsubara.osaka.jp/walk/7-20.html

田坐神社に祀られる依羅宿禰ヨサミノスクネってどんな人物かなあ。
開化大王の末裔(建豊波豆羅別命の末裔)? 物部系譜?(お隣は餌香市→物部目大連)
丹比郡→丹治比系譜? 橘奈良麻呂の乱757、柿本人麻呂?・・きりがない。


今川の再接続ポイントから水路が分岐していますが途中で立ち消えています。
情報がなかったのだろうな。
和気清麻呂が掘ろうとしたルートにきわめて近いか、その水路跡を利用しているんじゃないか・・

これを地勢図にプロットすると・・


和気水路の位置についても確信に近くなってきたかなあ(^^;


[6710] 無題  倭亞府 2005/10/07(Fri) 10:46 [Reply]
 かたばみさん、古代への探索 楽しみに拝見させて降ります。
日本には沢山のレイラインが存在します、たとえば「推定図 (2)」でしたら 図の左 下方


 北北東 ライン
    今宮戎社〜北北東 久宝寺?〜60度 下方 堀江
荒陵山(茶臼山)〜北北東 生玉社〜60度 下方 玉造
     南河堀〜北北東 百済寺〜鵲森宮
南南東 ライン
    久宝寺?〜60度 下方 堀江

    難波寺〜南南東 百済寺
    難波寺〜南南東 百済寺
合坂水・清水寺〜南南東 北河堀
四天王寺〜?〜桑津町   ?〜北東 90度 生野町・舎利寺 御?古墳(誤差あり)
ラインを延長すると?・・・・・・!
古代の人工の「路」や「河」「溜池」などはこのラインに沿って作られている事が多く感じます。
古墳なども「山」や「峠」「岬」などとのラインが現われますが、「北」が「北極星・太一」が目印の為か地球の「歳差運動」の誤差からか?正確では無く後の太陽の道での「東西」ラインも太陽の測定位置による誤差や球形面を平面図に転写する地図作りを困難にさせました。
地図作り・国造りはお隣の大陸では「出エジプト記」の「モーセ」や近年 存在が明らかに成りそうな「夏」の「禹」により紀元前より行はれ、16世紀ごろまでに「キリスト教徒(ユダヤ?)」より完成されました。(フギ?ジョカ?・道祖神?・・・・定規にコンパス・・・・石工メイソンも)
私は「縄文時代」には「禹」の測量士たちが日本に渡来(トライ)していたと考えています。地図上の史蹟「∴」を30・60・90・45の角度で結んで下さい「篭目」が現われてきます。(世界中の遺跡がレイラインで結ばれる?でしょう。)
かたばみさんの御活躍をお祈りします。

[6709] Re[6704][6702] 明治20年の天王寺付近  かたばみ [Mail] [Url] 2005/10/06(Thu) 23:13 [Reply]
≫明治20年の白地図(摂津平野〜茶臼山周辺)ですが

明治20年の天王寺付近の図、ありかとうございます。
等高線は若干カシミールと違うようですが、カシミールが50mメッシュによる荒い分解能の等高線であることと、農地〜宅地化による差の両方だと思います。

ところで、江戸末期〜明治初頭と思われるある地図に思ってもいなかった水路が書かれていました(城東線にぴたり重なる水路)。
地名などの位置から実測図で正確と思われます。

その地図に書かれた水路(水色)をプロットした図に明治20年図を重ねてみました。


いろいろがぴたり重なりますので江戸末期〜明治初期の基準になると思います。
(家康水路はまったくの推定です)
他の江戸末期の地図年代から1837−1887の間だけ「城東水路」が存在したとみえます。

「城東水路」の水源は・・往古の持論和気水路以外にはみえません・・猫間川の源流はこれだ(^^;
猫間川方面へ放流されていた和気水路は江戸末期に上町台地東斜面を北へ延長され、現在の小橋町あたりで旧水路と合流していた。
その間の猫間川は排水路化していたが、梅田鉄道(後に城東線?)の敷設で復活、しかし明治以降の宅地化で和気水路は農業用水の意味を失ってその流末は再び排水路化して消えていった。

しかし、これ以南の地図はまともなのがないなあ。
大阪中心部からみれは田舎だからかな。

変更履歴:大和川→河内川、城東水路追加(^^;




[6708] 葛木御歳神社  神奈備 2005/10/06(Thu) 20:50 [Reply]
 10日は月曜日ですが、体育の日です。各地の神社で秋祭りがなされます。
大和は御所の葛木御歳神社もお祭りです。ここのお祭りは参列したことがないので今年はひとつお邪魔しようと思っています。
 皆様もいかがですか。

http://www.geocities.jp/mitoshijinjya/index.html

[6706] Re[6697]: 丹生都姫  かまど 2005/10/06(Thu) 00:14 [Reply]
みっちゃん様
丹生、そうですねー、北海道、沖縄にはないみたいですけど、それ以外のところには結構あるみたいですよ。

[6705] 丹生郷の鉱泉  みっちゃん 2005/10/05(Wed) 21:02 [Reply]
>少し調べてみた(地元のみ配布の郷土史を編集した小冊子で非売品。紹介のしようもない)のですが、近所の少彦名神社で90年くらい前まで、水銀を含む池の水を沸かして湯治客を迎えていたそうです。水銀の殺菌効果を利用したのでしょうか。飲用しなければ害はないんですかね?医薬の神様なだけに、色々な病気に効くとされていたそうです。丹生都姫が祭られているのも、深い縁があってのことかもしれません。
 
 

[6704] Re[6702] (「浪華大坂」日本の古地図 講談社 昭和50年 -がらみで  いこまかんなび [Url] 2005/10/05(Wed) 20:39 [Reply]
この地図は、木版刷りでなくて手書きの写しか又は原図?なのでしょうかね。
それにしても、文字のタッチが江戸っぽくなくて、明治に書き写したのかもしれませんね。でも興味ある地図ありがとうございました。
明治20年の白地図(摂津平野〜茶臼山周辺)ですが、アップしましたが見れるかためしてみてください。等高線などいろいろ利用できそうです。
http://www.geocities.jp/iko_kan3/wake-map-M20
だめならお許しを。

[6703] Re[6699][6698][6697]: 丹生都姫  みっちゃん 2005/10/05(Wed) 18:43 [Reply]
若狭は、小浜の国宝の寺院(世界遺産に申請するとか)や、土御門家の荘園があったりと、神秘的ですよね。実はわたしは、越前の方に住んでるので、ちょっと環境が異なります。自分の周囲で丹生の由来を知ってる人は、たぶん少数です。製鉄文化・太陽信仰の名残(日野山、日野川など)が見られるので砂鉄が採れたのではないかと、書かれてる文章のみ読んだことがあります。水銀鉱脈というより、神話の方に連想が走ってしまうのですが…。

[6702] (「浪華大坂」日本の古地図 講談社 昭和50年  神奈備 2005/10/05(Wed) 18:12 [Reply]
宝暦三年(1753)癸酉三月八日 摂州西成郡大坂高津立地宇ノ木堂
京師書生 森謹齋幸珍重著圓弁識

地図の並びは
12
34
、それぞれ約200kb程度

http://kamnavi.jp/log/ajiro1.jpg
http://kamnavi.jp/log/ajiro2.jpg
http://kamnavi.jp/log/ajiro3.jpg
http://kamnavi.jp/log/ajiro4.jpg

[6701] 無題  るうしい [Mail] 2005/10/05(Wed) 16:55 [Reply]
こんばんは、隣に柏原宿歴史館がありました。ありがとうございます。

[6700] Re[6695][6694]: 柏原宿  日枝神社  るうしい [Mail] 2005/10/05(Wed) 16:54 [Reply]
>  米原市柏原2106に鎮座する日枝神社のことでしょうか。隣に柏原宿歴史館がありましたでしょうか。
> 神社本庁発行の『平成データ』によりますと、祭神は大山咋神、由緒などは不明です。
> 大津市坂本の比叡山の麓に日吉大社が鎮座しています。県内の日枝神社(ひえ)、日吉神社(ひえ、ひよし)は多くはこの大社からの勧請と思われます。比叡山のヒエなのか、日枝だから比叡山なのか、承知しておりません。
>  また「山王」とも言いますが、これは延暦寺の関係で天台の護り神が山王だったようで、たまたまですが、山の神の大山咋神も山の王様とも言えますね。
> さるぼぼ 日吉大社の神の遣いは猿と言います。太閤秀吉の幼名は日吉丸であだ名は猿、つくりものの話でしょうね。

[6699] Re[6698][6697]: 丹生都姫  神奈備 2005/10/05(Wed) 07:56 [Reply]
こんにちは。
http://www.wakasaji.org/chimei/03_onyu.html
↑によれば、「平成3年には、郷土研究家と専門家によって、遠敷の山中で、古い洞窟が発見され、「辰砂(朱)」が採取されたうえ、水銀含有が証明された。」ことのようです。

お水取り、若狭ではお水送りですが、この風習は一つには若狭でとれた丹沙もしくは精製して水銀を大仏の金メッキ用に東大寺に送ったことの名残ではないかと言う方もおられます。

[6698] Re[6697]: 丹生都姫  みっちゃん 2005/10/05(Wed) 03:25 [Reply]
福井県在住の少し歴史をかじった者です。丹生という地名、すごく多いんですね。わたしの読んだ限り、郷土史の本に「水銀、砂鉄を産出した」とは明言してないのです。地層を調べと、水銀の含有量は多いみたいですが。製鉄文化の名残らしき地名もあります。ご近所の神社に丹生都姫が祭られているのも、今まで知らなかったし、自分の住んでいる場所が、古代はどんな様子だったか調べてみたくなりました。

[6697] 丹生都姫  みっちゃん 2005/10/05(Wed) 03:19 [Reply]
 福井県在住の少し歴史をかじった者です。                     丹生という地名、すごく多いんですね。わたしの読んだ限り、郷土史の本に「水銀、砂鉄を産出した」とは明言してないのです。地層を調べると、水銀の含有量は多いみたいですが。製鉄文化の名残らしき地名もあります。                     ご近所の神社に丹生都姫が祭られているのも、今まで知らなかったし、自分の住んでいる場所が、古代はどんな様子だったか調べてみたくなりました。

[6696] Re[6695][6694]: 柏原宿  日枝神社  玄松子 2005/10/04(Tue) 12:11 [Reply]
> 幟に、さるぼぼがついてました。

「さるぼぼ」は飛騨の人形じゃないでしょうか。
神社や庚申堂には、「くくり猿」かと思います。

その猿は、手足を広げてましたか(さるぼぼ)、閉じられていましたか(くくり猿)。

[6695] Re[6694]: 柏原宿  日枝神社  神奈備 2005/10/04(Tue) 11:47 [Reply]
 米原市柏原2106に鎮座する日枝神社のことでしょうか。隣に柏原宿歴史館がありましたでしょうか。
神社本庁発行の『平成データ』によりますと、祭神は大山咋神、由緒などは不明です。
大津市坂本の比叡山の麓に日吉大社が鎮座しています。県内の日枝神社(ひえ)、日吉神社(ひえ、ひよし)は多くはこの大社からの勧請と思われます。比叡山のヒエなのか、日枝だから比叡山なのか、承知しておりません。
 また「山王」とも言いますが、これは延暦寺の関係で天台の護り神が山王だったようで、たまたまですが、山の神の大山咋神も山の王様とも言えますね。
さるぼぼ 日吉大社の神の遣いは猿と言います。太閤秀吉の幼名は日吉丸であだ名は猿、つくりものの話でしょうね。

[6694] 柏原宿  日枝神社  るうしい [Mail] 2005/10/03(Mon) 23:29 [Reply]
こんばんは、初めてお便りいたします。先日バスツアーで中山道柏原宿に行きました。
散策の途中神社を見つけ寄ってみました。日枝神社という神社です。
お祭りの準備中で時間もなく、ちょっと観ただけですが名前が気になって調べても
よくわかりません。神奈備さんならご存知かとお尋ねしました。
幟に、さるぼぼがついてました。家の近くの若江鏡神社のことも載っていてびっくりしました。もし、ご存知なら教えてください。宜しくお願いします。

[6693] Re[6691][6690][6689]: 森幸安 摂津国難波古地図  かたばみ [Mail] [Url] 2005/10/03(Mon) 17:53 [Reply]

≫もっと大きくしたものを交渉してみます

おそれいります、ついでのときにお願いいたします。

大阪ジャンボ地図は個人所蔵みたいですね。
少なくとも公的機関が所蔵する古地図類は大画像で公開して欲しいです。
江戸の地図だとこんなのがありますが、たいへんありがたいです。
http://www2.library.tohoku.ac.jp/kano/ezu/index.html


[6692] Re[6690] [6691] 森幸安 摂津国難波古地図  いこまかんなび [Url] 2005/10/02(Sun) 06:50 [Reply]
> ≫http://kamnavi.jp/log/openmap.jpg
> 面白そうな地図ですね。
> 堺への大和川が描かれていますから1704以降に描かれた図とみえます。

地図は、左下から宝暦三年癸酉年(1753)に発行された摂津国難波古地図のようですね。想定古図だし、新大和川は描かれていないのでは。
でも、すごく興味を持ちました。

[6691] Re[6690][6689]: 森幸安 摂津国難波古地図  神奈備 2005/10/01(Sat) 22:37 [Reply]
> ≫http://kamnavi.jp/log/openmap.jpg
> 面白そうな地図ですね。
> 堺への大和川が描かれていますから1704以降に描かれた図とみえます。

(「浪華大坂」日本の古地図 講談社 昭和50年)からスキャンしたものを頂いたのです。もっと大きくしたものを交渉してみます。

http://ikaino.com/
からで、このHPの下の http://ikaino.com/settu.htm のコピーがまだ入手できていません。

[6690] Re[6689]: 森幸安 摂津国難波古地図  かたばみ [Mail] [Url] 2005/10/01(Sat) 22:10 [Reply]

http://kamnavi.jp/log/openmap.jpg
面白そうな地図ですね。
堺への大和川が描かれていますから1704以降に描かれた図とみえます。

この図はいまいちはっきりしなかった上町台地東南部の低地帯の状況の指標になりそうです。
地名等が判読できるサイズの分割画像を頂戴したいのですが・・
(私信:アップロードアドレスを教えていただければダウンいたします(^^;)

なるほど・・見えてきたかなあ(^^)
茶臼山の南の水路は家康が掘った大阪冬の陣の軍用堀割。
長期間の持久戦を考慮すれば、万の単位の軍勢の生活用水を確保しなければならないはずです。

大和川の横断じゃありませんから巨大開削は必要なし、短期間使用につき斜壁は急角度でOK、幅は10m程度ではないか。
茶臼山南の堀割は後に溜池として転用されて河底池として現在まで残ったのでしょう。
で、江戸時代に和気水路と家康水路が錯綜する解釈も登場したのではないかな(和気山とかですね)。





和気清麻呂の水路は上町台地の東斜面に西除川(高麗川)を「阪和線ルート」で北上させ、東斜面の北へそのまま流した(東区史の古地図の堀江、後に猫間川となる)。
目的は上町台地の東斜面の農地化と低地部(現:駒川)周辺の洪水防止(=農地化)です。
大和川付け替え計画の一部、この部分は完成させた。

明治頃までは水路として残っていたのではないかなあ。
阪和線のルートは周囲に影響の少ない場所を選んでいると思う、旧水路であった場所ならベスト。
線路じゃ発掘はむずかしそう(^^;


別の方向から。
河川をどの程度の勾配とすれば水運路として使えるのかなあ。
例えばイカダを川沿いの道から綱で引いて遡るような場合です、どこかで見た記憶があるのですが。
以下は東京葛飾区にあった曳舟川の浮世絵。
http://www.asahi-net.or.jp/~vm3s-kwkm/takagi/ukiyoe.html

紀ノ川を下った材木を奈良方面へ運ぶには住吉あたりから東への水路があれば最良とみえます。



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