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掲示板のログ(平成十七年 十月 2005.11)お名前の敬称は省略しています。

[6836] 青草 Re[1578] 終わりに  神奈備 2005/11/30(Wed) 21:05 [Reply]
>> 耳を大きくするのは権威の象徴であって、その為に耳朶に穴を開けて輪をぶら下げたりしたので、大耳、耳垂と呼ばれたのです。
> なんか、小説のレベルですよね。民俗学なんてこんなレベルなのか。
値嘉の島(五島列島?)の首長らしい名に、大耳、垂耳がいたと『肥前国風土記』に出てきます。海南島の風習とさほどかわりはないようです。小説のレベルと言うほどのフィクションとは思われません。

> 論理じゃなくって、想像の世界だと思う。
民俗学を論理だけでやれとは酷な話。想像の世界が入ってきて当然です。

> こんなレベルからどうやったら脱却できるんだろう。
 想像力でしか復元することができないのは古代の民俗を語る場合、避けられないことです。現に折口信夫にしても『死者の書』によって二上山の葬送にかかわる神秘とか闇を描いています。西側に古墳があるとか、頂上に大津皇子の墓があると伝承されているだけでは語れないものがあったのでしょう。心のようなモノ。

[6835] 青草 Re[1578] 耳よ  神奈備 2005/11/30(Wed) 08:59 [Reply]
>> 瀬戸内海で吉備の国などをたて、ついには信濃までたどり着いたのです。
>論拠?

投馬国の官を彌彌といい、副を彌彌那利と。
倭建のお供をした吉備の祖は御suki友耳建日子で耳の仲間。
要するに、耳の一族が吉備の国の祖となっています。

>> 耳を大きくするなり耳輪をつける風習が海南島付近にあり、これが南九州に持ち込まれて隼人の犬祖伝説になった。
>無理矢理、って気がしますが、耳輪と犬祖と関係ある、ということには、しっかりした論証があるのでしょうか?

 ここは奇妙な書き方になってしまいました。論証を求められることはもっともなことです。
 海南島では、犬祖伝承と耳輪と両方を持っているようで、それは隼人にも入ってきたと考えて不自然ではないと言う程度の論拠です。
 それを受け継いだ安曇は瀬戸内を東遷しているので、吉備にも上陸、耳の一族として吉備の建国を行ったとの推理。

[6834] Re[6833]: 宮古島  神奈備 2005/11/29(Tue) 16:16 [Reply]
> 隼人と犬の話に興味があります。犬は犬戎族といって黄河の湾曲部にいた種族も犬=狼に関係がありそうです、例の西周を滅ぼした民族です。この犬と隼人や福建の犬は関係があるのでしょうか??

 とみたさん、宮古島のお話、ありがとうございます。犬戎族が福建まで行ったのかどうか、交流がないとは言えないでしょうね。

 『日本神話と琉球』によりますと、「宮古島の犬祖伝承は、華南や東南アジアの伝承からは変形しているとのことです。」
 具体的には、大津波の後、生き残った美しい女と犬とが同棲していた。そこへ一人の倭人が漂着し、犬を殺してその女と結婚し、子孫が繁昌した。
 こういう話が誤って伝えられ、女と犬の子孫が宮古の人になったと言う噂になったとか。このような話は沖縄、奄美の島々に広く分布していたと、著者の伊藤幹治氏は想像しています。

[6833] 宮古島  とみた 2005/11/29(Tue) 12:51 [Reply]
宮古の話が出ましたので割り込ませていただきます。

昨年は石垣島、今年は宮古島、シルクロードなどを旅しております。

宮古島は沖縄本島より300kmも離れていて、確かに日本とは違う風習があります。

島へ上陸した一族がその近辺に御嶽(ウタキ)と称する守護神を祭る社を設けます。

外周130kmの狭い島は沢山の漂着民がそれぞれの御嶽を中心とした部落で暮らしていた。島尻・狩俣のパーントゥという祭りは有名です。3人の男=鬼が異界からつる草で覆い泥を塗りたくって出てきて集落の新築の家や新生児に塗りたくる。厄払いでしょう。これはフィリピンのタガログ族の南方系人種由来といわれている。

宮古島諸島の離れ島(今は1500mの農道大橋でつながっている)池間島には、若死にした子供を包丁で無残にも切り刻んだり釘を打って洞窟に埋め、墓場に埋めないという呪術(生き返らせない)があります。

狩俣には源氏の追討を逃れた一族が隠棲した。

大浦地区や久見には唐の時代の戦乱を逃れた民が着きます。

城辺町はには大和の民が着いています。西仲宗根には14世紀中葉に、中国大陸から

元や明の戦乱を避けて渡来(石工技術に秀でる)。

福建省は近いのでそこから流れてきた民の影響も大きいような気がします。

福建の水上の民は古代の閩(びん?)越の人々の子孫で蛇種の人でしょうか。

宮古には蛇の婿入り話があります(大和の三輪神社の蛇の話と通ずる)。宮古で有

名な漲水御嶽の男=大蛇が少女と交わり女神を産む話。

八重山諸島(宮古、石垣)の神話は、土中から祖先の出現、兄弟漂着神話で東南ア

ジアの古層栽培民文化、漁民文化です。ニライカナイ信仰はその典型です。海の彼

方の神の住む国から年に一度豊穣の神がやってくる(来訪神)。また、ミルク神

(弥勒)シャカ(釈迦)神もやってくるという祭りもあります。


それに対して沖縄本島の神話はインドネシア、ポリネシアの神話日本内地との深い

関係、中国東岸の越文化からの到来だとされているようです。

琉球王朝は14−15世紀に成り立ちますが、宮古島でも14世紀の中ごろ与那覇原

 vs 目黒盛軍の間で天下分け目の戦があって目黒軍+北宗根軍が勝利し宮古統

一します。

いずれにせよ、東南アジア由来の話は隼人、苗族、越人渡来説に深くかかわってい

るようです。

隼人と犬の話に興味があります。犬は犬戎族といって黄河の湾曲部にいた種族も犬

=狼に関係がありそうです、例の西周を滅ぼした民族です。この犬と隼人や福建の

犬は関係があるのでしょうか??

弥生時代、隼人は沖縄から北九州まで沖縄のゴホウラ貝やイモ貝を北九州へ運んで

腕輪づくりに寄与したというのが考古学の森浩一さんの説です。

日本の縄文語はポリネシア語がルーツと唱える人もいます。






[6832] 青草 Re[1578] 犬よ  神奈備 2005/11/29(Tue) 09:17 [Reply]
犬にもスパイの意がありますね。

> > 隼人は犬祖伝説を持つ南方系の海人のようで、
隼人が狗の声を真似てほえるから、という以外にどんな論拠があるのでしょう?

『日本書紀』(一書第二)
 隼人の祖となる火闌降命は、「今より以往は、吾が子孫の八十連属に、恒に汝の俳人とならむ。一に云はく狗人といふ。」と言っています。
 「狼の遠吠えは神と交信している」と言った方の発想は見事ですが、隼人の行う犬の吠える声の真似は邪霊を追い払う役割があったと言われます。
 伴信友は『隼人と狗犬』の中で、儀式で犬の仮面をかぶったと推定しています。これは添上郡の大奈閉山に犬石と呼ばれる石が三基あり、犬頭の人形が陰刻されているようです。
 猿の子孫と信じている人は犬の真似をするはずがない。隼人には犬の子孫との認識があったのでしょう。福建省のシャ族(シャは人示田を縦に並べた文字)には犬祖伝説があるようです。そう言うことから大陸南部、沖縄、奄美、九州南部に犬の子孫達が定着していったと考えるのは自然なこと。現に、今でも宮古島の人は自分たちは犬の子孫との言っているようです。
 
>> 谷川健一氏は『白鳥伝説』上p162で狗奴国に狗の字を使ったのは、ここの民が犬祖伝説を持つことを意味していると述べています。
> じゃぁ、邪馬台国は、邪な馬の信奉者の国だったのか、とか。(無いと思うのですが) 「この場合だけ」という ad hoc な話なのでは?
 全部が全部の必要はありません。ローレックスは労力士、ゼロックスは全録と漢字で書きます。発音の場合と意味の場合とがあるのでしょう。

[6831] 無題  倭亞府 2005/11/28(Mon) 21:03 [Reply]
Re青草[1574] 耳
> 聖徳太子も耳(豊聡耳)なんだけど、これは別の耳?(失礼)
> > 耳は、津見とか出見の仲間じゃないだろうか。単純に。

【耳目之官】じもくのかん:天子の耳目となって国家の治安を保護する官。御史大夫をいう。
と角川漢和中辞典にありました、現代での諜報部員・スパイかと思います。

[6830] 青草 Re[1578] 鞆よ  神奈備 2005/11/28(Mon) 14:17 [Reply]
>> 投馬国は、戸数五万、5万の規模は吉備に相当。鞆はトモ、福山市。
> 方角は無視するけど、人口は採用、、、ですか?

水行一月ですから、沖縄方面か瀬戸内海か日本海かを行くのでしょう。

 『邪馬台国は二ヶ所あった』(大和岩雄著)に面白い解説がありました。
行基図など、昔の日本人の作る地図は東を上にしています。江戸時代の地図もそうです。これは『日本書紀』(成務天皇五年)に「東西を日の縦とし、南北を日の横にした。」とあります。一方、大陸は北を上位に置くことが常だったようです。

 上記の説は

日本 行基図
http://www.city.koga.ibaraki.jp/rekihaku/2001haru/shougaisho.htm
地名は東を上にして描かれています。

大陸 混一彊理歴代国都之図
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/konitu.htm
で、確認できます。この地図は時代は大いに下りますが、上が北で描かれています。日本全体の地図は90度時計回りになっており、は朝鮮半島の南になっています。

 南北を緯度、東西を経度と言うが如しです。

 そうしますと、倭人は吉備の国は九州から見て、日のタツ方向と説明したのを、魏志の使いは日がタツのだから南であろうとメモってしまったと言うこと。

 方位としては、瀬戸内の投馬か日本海の投馬で、新井白石は吉備の鞆説、『邪馬台国と大和』(由良哲次著)では「苫(トマ)とし、これは琉球と日本で古くから言われている tumai で、今日では船着き場とか港の意。また、大きい船をも苫と言ったそうです。苫と留まる所、苫島が但馬になったとか。

[6829] 奈良市広岡町の九頭神社  神奈備 [Url] 2005/11/25(Fri) 19:59 [Reply]
奈良市広岡町の九頭神社へ参詣、HPに紹介したのですが、今日古書店で手に入れた『奈良市史』社寺編¥3,000円には鳥居もあるきちっとした神社の写真が載っていた。
インターネットの地図で再確認したのですが、どうにもそんな所にまともな道があって神社があるようには見えなかった。鬱蒼たる山しかなかったのだが・・・
これは探索のし直ししかないわ。

[6828] Re[6827]: Re[6826] [6824]: 唾と魂 倭亜府的解釈   神奈備 2005/11/24(Thu) 20:47 [Reply]

> 田(地図)つくりましし日に、牛(禹氏)の宍(しし)をもて田人(測量士)

角川の古語辞典を眺めていますが、
田に地図の意味はありません。さらに田人は農夫の意味しか見当たりません。
発想は面白いのですが、根拠はなさそうですね。

[6827] Re[6826] [6824]: 唾と魂 倭亜府的解釈   倭亞府 2005/11/23(Wed) 16:44 [Reply]
 こんにちは、  
「昔在神代に、大地主神、田つくりましし日に、牛の宍(しし)をもて田人に食わしめたまいき。時に御歳神の子、その田に至まして、饗(みあえ)に唾きて還りまして、ありさまを父に告げましき。御歳神、発怒(いか)りまして、蝗(いなご)をその田に放ちたまいしかば、苗の葉たちまちに枯れ損われて、 篠竹のごとなりき。

 この中に、田植えの日に牛肉を食べさせたとあり、時に御歳神の御子神が饗に唾を吐きかけたとあります。それを聞いた御歳神は怒るのですが、田植えの日に貴重な労働力である牛を殺してその肉を食すると言う無神経さに対して怒ったと解釈されるのが通常ですが、それでは御子神が饗に唾を吐いたお話は何の為に記載されているのか疑問、

疑問の答えになれば幸いです。
昔在神代に、大地主神(火山・火・雷)、田(地図)つくりましし日に、牛(禹氏)の宍(しし)をもて田人(測量士)に食(まどわす)わしめたまいき。時に御歳神の子、その田(地)に至(赤い矢が辿り着いた処)まして、饗(みあえ)神(巳・水神)と向い遇い飲食を共にする。に唾きて(ことばを述べ)還り(めぐり廻り)まして、ありさまを父に告げましき。
御歳神、発怒(いか)りまして、蝗(いなご)(臣)をその田(土地)に放ち(進軍)たまいしかば、苗の葉(測量ポイントに打たれた銅剣・鉾)たちまちに枯れ損われて、 篠竹のごとなりき。

御歳神(木星・豊穣神?国津神・出雲・禹系・海洋農耕民)
「大地の神」・・・・出雲・スサノオ系?
「御歳神の子」=木星の子 「金星」
「至まして」 矢が地面につきささった様 (赤い矢が辿り着いた処測量目的に四方に放たれた糸付きの朱塗りの矢)
「饗」(あえ・みあえ)神(巳・水神)と向い遇い(相)飲食を共にする。  み(巳・蛇・箕・彌、壬・魅)遇アえ (禹に遇う)
「食」 しろく まどわす まよわす いつわる うそ(禹楚イバラ)・・・・などの意味も在ります。(角川中辞典を使用)
「吐」はく 瀉 [シ+寫]シャ からきている。出す あらわす 気をはく 「ことばを述べる」
「蝗」いなご [虫+皇] ム(禹)氏+すめらみこ=(主)(目良)(巳子)=「臣」オミ:古い字形で目を立てて見張るさまにかたどる。君臣の臣の意に使うのは借用。
「唾」つば
鍔つば
還 かえり めぐる まわる至いたる
楚囚ソシュウ:いばらの冠をつけた人・・・・キリスト 教徒?
蚷(虫+巨)キョ:むかで(山師・穴師・丹生(壬生)氏  商蚷(虫+巨)ショウキョ:やすで
蜼イ[虫+【隼】-「+」(えだなし)」
「宍」(しし):黄道上の第六の星座 (狻サン[俊 -イ狻は獅子座のこと。狻下は、高僧をよぶ敬称。)
兜甲をあおむけにかぶること。(ししの甲骨文字は禹の父 鯀コン=口を横にした形(⊂)で牙が2本の猪を思わせる。
「鹿」しし・ ロク・しか・(しし獣じゅう六ろく!・・・・ウ冠+六=「宍」)
[犭+師] しし ライオン・諸仏師
                
 古代の文章にはカバラ(カッパーラ・ユダヤ秘密主義)がなされている事があり難解にしています。

禹は黄河の治水に成功した「水神・蛇」・・・龍神・・・・ドラゴン
麒麟=鹿+鱗(蛇・魚・龍=禹・  龍=騎馬民族 ・鳥=カラス(黒衣の僧)・測量士  
魚=キリスト教で言う「子羊」
獅子王(鹿ししを倒した「アレキサンダー」)・・・雷神?(風神=秦の始皇帝・禹?)
獅子王=(騎馬民族に支援された北方の白人・カバラでのユダヤ教徒)
鹿=もしかして 黄帝の末裔?か禹の末裔では?
 唐の時代 景教が主流でしたので日本にもキリスト系教徒が渡来していたとの考えからでした。
 (解読には角川中辞典を使用しました。)

[6826] Re[6824]: 唾と魂  みとせ [Url] 2005/11/22(Tue) 22:14 [Reply]
神奈備さま、面白い解釈をありがとうございます。

>御歳神への饗を御子神が先に占有したので怒っていると理解すべきではないでしょうか。親子でもそう言うことは許されない重要な神事であったと言うこと。

思ってもみない解釈でした。
御子神が唾をつけてその場を保って、父神に報告したというのが一般的ですが、
先入主なしに読めば、確かにそうも読めますね。

古語拾遺、色々解釈が難しいです。

[6825] Re[6822]  ルクミニ 2005/11/22(Tue) 21:34 [Reply]
 「単発的にアイヌ語を宛てるのは」、疑問とのご意見ですね。
 でも、日光あたりでも、アイヌの地名が残っていても、おかしくないような気がします。東北には、北海道で顕著に見られる「〜内」という、地名が多くあります。西に行くほど、このような地名は、少なくなっていきます。
 日光市にも、「山内」という地名があります。ここには、二荒山神社があります。
 断定は、もちろん出来ませんが、古代東北・北海道文化圏との関連で、地名を考えるのは、面白いと思うのですが。
 

[6824] 唾と魂  神奈備 2005/11/22(Tue) 18:45 [Reply]
 伊勢神宮の御手洗場の近くに滝祭の神が祭られている。参詣者の唾を飲むことで反省をし続けると筑紫申真『アマテラスの誕生』に書いてあったと思います。
 イザナギ尊が吐いた唾から生まれた神が速玉之男神です。唾には玉、魂が入っていると言うこと。
 と言うことは、唾を飲むとは何かの罰を受けると言う意味があるのではなく、人の魂を飲み込む、自分の支配下におくと言う意味と思われます。
 傍証になるのかどうかですが、罰を受けた典型的な例は、高天原を追放される素盞嗚尊ですが、『日本書紀』神代一書第二で、素盞嗚尊の唾を以て白和幣としています。高天原の神々は素盞嗚尊の魂を人質ならぬ神質にとったのではないでしょうか。

 伊勢神宮へお参りすると言うことは、皆さんの魂を滝祭の神が人質にとると言うことで、以降、身をつつしみ、まともな生活を送りなさいとのこと。

 「唾をつける」と言う言葉があります。先に占有権があるとの主張を意味します。子供の頃のお菓子の取り合いなどで皆さんも記憶があることと思います。人の唾のついている菓子を忌避する気持ちだったとおもいますが。
 深層には、これも魂の付着したものへの遠慮見たいなものがあったのかも。
 葛木御歳神社の由緒で語られる『古語拾遺』のなかの物語のさわり。

昔在神代に、大地主神、田つくりましし日に、牛の宍(しし)をもて田人に食わしめたまいき。時に御歳神の子、その田に至まして、饗(みあえ)に唾きて還りまして、ありさまを父に告げましき。
御歳神、発怒(いか)りまして、蝗(いなご)をその田に放ちたまいしかば、苗の葉たちまちに枯れ損われて、 篠竹のごとなりき。

 この中に、田植えの日に牛肉を食べさせたとあり、時に御歳神の御子神が饗に唾を吐きかけたとあります。それを聞いた御歳神は怒るのですが、田植えの日に貴重な労働力である牛を殺してその肉を食すると言う無神経さに対して怒ったと解釈されるのが通常ですが、それでは御子神が饗に唾を吐いたお話は何の為に記載されているのか疑問、これは御歳神への饗を御子神が先に占有したので怒っていると理解すべきではないでしょうか。親子でもそう言うことは許されない重要な神事であったと言うこと。

[6823] 近くの金気のある神社。  素人 2005/11/22(Tue) 00:34 [Reply]
青草ですが。
播磨国一宮・伊和神社より少し上流の御形神社につながるようです。
御形神社
兵庫県宍粟市一宮町森添
祭神
葦原志許男神 配 高皇産靈神、月夜見神、素戔嗚神、天日槍神
神奈備さまのWeb
http://kamnavi.jp/ym/hiboko/mikata.htm
高峰(845m)の上から現在の場所に移られたようです。
「鳥居をくぐる前に右手を見ると「大神降臨地」の碑が田圃の中に立っている。」
近くに古代からの複合集落遺跡があり、川の合流点、すぐ近くに一宮町三方町が有る。
三上山を夢想すると石部金山の近くに高野集落があり、こちらも近くの高野鉱山で磁鉄鉱が産出しています。御上神社に似ているような、気もしますが気のせいでしょうか。
高峰(845m)探訪記。「山頂の岩石■ 白亜紀 生野層群 最上部層  流紋岩質凝灰岩」(チャートではないそうです。)
http://www2u.biglobe.ne.jp/~HASSHI/takamine.htm
鉱山の道(順番に)
兵庫県宍粟市千種町岩野辺 千種鉱床(磁鉄鉱・黄銅鉱・黄鉄鉱)
宍粟市千種町岩野辺荒尾 波賀町との境界付近 荒尾鉱床(黄銅鉱・黄鉄鉱・班銅鉱)
宍栗市波賀町有賀 有賀鉱山(黄銅鉱・磁硫鉄鉱・輝水鉛鉱)
宍粟市波賀町上野  波賀町水谷 秀重旧鉱 (黄銅鉱・黄鉄鉱・磁硫鉄鉱)
宍粟市一宮町河原田(住所)宍粟市一宮町高野 一の宮鉱山(旧高野鉱山) 磁鉄鉱産出。
宍粟市一宮町森添 御形神社
宍粟市一宮町三方町・百千家満 高峰(845m)鉱脈が有るようです。
と鉱山が繋がって、千種町岩野辺から御形神社・高峰(845m)へと導きます。
両端に千種鉱床・旧高野鉱山が有って磁鉄鉱を産出しています。スカルン鉱床帯のようですから小さい鉱脈は間にあるものと推定されます。
兵庫県中西部地域の多金属鉱化域(pdfファイルですが上の鉱山が載っています。P-5)
http://www.gsj.jp/Pub/Bull_new/vol_53/53_09/53_09_04.pdf

[6822] Re[6821]: 青草 Re[1644][1643][1642]: 堕落  指揮者絶望 2005/11/21(Mon) 20:38 [Reply]
音がフッタラに近く、語義が林に近いアイヌ語としては:
huxkara ふッカラ 【樺太方言】村の背後の木原
が見つかりました。北海道では 意味は異なりますが
hup-kar ふプカル とど松の林
が対応するものと思われます。

このお話のように単発的にアイヌ語を宛てるのは信頼できるものではありません。「いささか」ならず、十分に「疑って」くださいませ。

[6821] 青草 Re[1644][1643][1642]: 堕落  神奈備 2005/11/21(Mon) 20:05 [Reply]
せめて月弓尊は補陀洛渡海の陀洛にあてる配慮がいりましたね。

二荒山は補陀洛から変化したもので、後に日光となったように思っていましたが、最近読んだ『幸の神と竜』谷戸貞彦著 に、中禅寺湖の東の男体山はアイヌ語でフッタラ(小林)山と呼ばれていた。その発音が訓読みで二荒山となってとの解説が書いてあった。いささか疑っているのですが、識者と非識者の各位のご意見はいかがでしょうか?

[6820] Re[6819]: 牛窓・前島散策 牛轉・塵輪鬼伝説の謎  神奈備 2005/11/20(Sun) 15:28 [Reply]
丸谷憲司さん、HPの紹介ありがとうございます。多岐に渡るご研究の成果ですね。

とりあえず、
http://mryanagi.hp.infoseek.co.jp/new_page_15.htm
の、蘇民と茅(チガヤ)の薬効のお話は興味深く読ませていただきました。

『日本の神々と建国神話』志賀剛著 からの孫引きですが、『朝鮮の鬼神』村上知順著 には、「牛を殺してその血を門に塗れば、疫神恐れて退散するという。とあります。
 疱瘡の予防の牛疱の原形を見ているようです。これはモーゼのお話によく似た話がありますね。チガヤの説明にはなっていないので、チガヤの薬効からのお話が説得力はありそうです。

 小事ですが、素盞嗚神社の由緒書きの中に「「疫の隈国社」として延喜式神明帳にみえる古い歴史をもっている。」とあるようですが、延喜式神明帳に「疫隈国社」なる言葉はないように思います。
 延喜式神明帳に見える須佐能袁能神社とは一体どの神社か?については諸説あるようです。お示しの神社は深津郡の式内社ですが、疫隈国社と言う名前から沼隈(ヌノクマ)郡に属しているのかな、などの可能性を思いたいところ。
 先の志賀剛さんは新市町を合併する以前の福山市内の王子神社とされています。詳細な鎮座地は記述されていません。沼名前神社なども論社かも。

[6819] 牛窓・前島散策 牛轉・塵輪鬼伝説の謎  丸谷 憲司 [Mail] [Url] 2005/11/20(Sun) 09:06 [Reply]
リンクさせていただいております。
牛窓伝説についてのホームページを公開しました。
お暇なときに、ご訪問いただき掲示板にてご指導いただけたら幸いです。

牛窓・前島散策
牛轉・塵輪鬼伝説の謎

http://mryanagi.hp.infoseek.co.jp/new_page_40.htm


[6818] Re[6816][6815]: 播磨の銅。  素人 2005/11/18(Fri) 03:46 [Reply]
> このページを見る限り、なかなかの神社に見えます。神社には栄枯盛衰の長い歴史があり、中には廃絶し、再建されたものもあります。名前すら途絶えて、近所の神社が由緒ある名を名乗る場合もあるようで、ここらの論議が妥当かどうかは定かではないでしょう。

ご回答有難う御座いました。
二宮神社の上流部右岸の支流の谷に有る岩野辺地区荒尾(あろお)は銅が産出する鉱山地帯であるだけではなく、幕末期まで大規模なタタラが行われていた所のようです。
この地区は銅と鉄で豊かな地域であったようです。近くの植松山の山麓でも鉄滓が沢山散乱して古くから製鉄が行われていたようです。以外にも、千種は赤目砂鉄で有名ですが、同じ地区千種鉱山では磁鉄鉱も産出したようです。

[6817] Re[6814]: 播磨-北条坂合神社の資料  神奈備 2005/11/17(Thu) 09:05 [Reply]
>『加西郡誌』の資料を入手しましたので下記に掲載いたします。
> どうぞ活用下さいませ。

ありがとうございます。
> 佐保神を初め『サカヒ』或は『サカフ』の神と称した事。

神社のルーツの一つの例なのかも知れませんね。住吉神も津に鎮座、境には違いありません。
 また『古事記』によれば、天日矛が難波の比売碁曽の社に坐す阿加流比売を追いかけて来た際、渡の神が「塞(さ)へて入れざりき」とあり、この渡の神とは住吉神のことかも。『住吉大社神代記』住吉神の部類神に赤留比賣命神の名が見えることから。
 もっとも、天日矛の数代後の神功皇后が大阪湾に住吉神を祀ったのが創始とすれば、住吉神以前の渡の神が塞えぎったことになります。佐保神や安曇、宗像、五十猛などか?

[6816] Re[6815]: 播磨の銅。  神奈備 2005/11/17(Thu) 08:35 [Reply]
> 近くの二宮神社が関係有るようですが、銅鐸と関係有るようなすごい神社には見えないのですが何か関係有るのでしょうか。

「銅鐸と関係有るようなすごい神社」とは面白い表現です。
『青銅の神の足跡』谷川健一著 に、諸国一宮二宮と銅鐸出土地との関係が述べられています。小学館版p.352

例として
播磨一宮 伊和神社
伊賀一宮 敢国神社
阿波一宮 大麻比古神社
出雲一宮 熊野大社
出雲二宮 佐陀神社
備前二宮 安仁神社
尾張二宮 大県神社

播磨の岩野辺の二宮神社
http://homepage2.nifty.com/hyogo-aba/50anive/50/40/
このページを見る限り、なかなかの神社に見えます。神社には栄枯盛衰の長い歴史があり、中には廃絶し、再建されたものもあります。名前すら途絶えて、近所の神社が由緒ある名を名乗る場合もあるようで、ここらの論議が妥当かどうかは定かではないでしょう。

[6815] 播磨の銅。  素人 2005/11/17(Thu) 02:23 [Reply]
銅にこだわりますが、滋賀県神崎郡の銅鉱山のところで鈴鹿山系の中央部を三重県から滋賀県に横断する山越へのルート、千種街道(旧千草街道)が出てきました。
播磨にも千種川や千種町がありこちらは現在宍粟市になったようです。
銅ですから古代の銅がらみで銅鐸を調べてみますと
播磨 宍粟郡一宮町閏賀で出土していますが播磨国一宮・伊和神社の近くです。
播磨 宍粟郡千種町岩野辺字穴尾からも破片ですが出土していました。
この岩野辺地区は荒尾で銅が産出する鉱山地帯のようです。
しかし、何でこんなところにと言うようなところです。
岩野辺=岩鍋何か聞いたことのある場所ですが、鉄のはずだが銅で鍋でも作ったのかと考え込んでしまいました。
神奈備様のWebを拝見しましたらありました。
金屋子神社 の伝説でした。
http://kamnavi.jp/it/izumo/kanayako.htm
近くの二宮神社が関係有るようですが、銅鐸と関係有るようなすごい神社には見えないのですが何か関係有るのでしょうか。

[6814] 播磨-北条坂合神社の資料  いこまかんなび [Url] 2005/11/16(Wed) 20:30 [Reply]
「渡来のタイミング・・」からはずしますがスムません。
以前「神奈備写真掲示板」で紹介しました播磨-加西市北条の住吉神社--ここは播磨の中核的な住吉神?なのでしょう--が中途半端なままでしたので、礒部神社と坂合神社の資料として『加西郡誌』の資料を入手しましたので下記に掲載いたします。
どうぞ活用下さいませ。
http://www.geocities.jp/iko_kan3/kasai-sakai.html
住吉神と酒は切っても切れない関係のように思います。

[6813] Re[6809]: 渡来のタイミングと動機(紀元前)  かたばみ [Mail] [Url] 2005/11/16(Wed) 19:25 [Reply]
≫日本へ弥生人が来たのはどんなタイミングと動機が想定できましょうか

青草度が高くなりそうなので(^^; 若干を青草別殿に書きます。


[6812] Re[6811][6809]: 渡来のタイミングと動機(紀元前)  とみた 2005/11/15(Tue) 16:50 [Reply]
難しい質問にお答えいただきありがとうございました。参考にさせていただきます。

> 紀元前一千年頃 板船の造船が可能

縄文や弥生時代の古代船の造船技術と渡航能力を如何に判断するかもテーマですね。

遣唐使の時代でも造船技術は大したことがなかったとか。逆に弥生縄文時代は意外と技術が発達していたとも考えられます。
> 紀元前一千年頃 寒冷化で稲作地が減少、適地を探し求める
縄文時代の温暖期には最高25万人。紀元前1000年は寒冷期で7-8万人といわれておりますね。
> 紀元前651年 斎の桓公覇者となる。
春秋時代は2百の小国が40-50の諸侯国にまとまり、戦国時代は7雄国になったのでしょう。徐とワイとかライ、エンとか小国は呉に纏め上げられた。周の恒公は管ボウの交わりの時代ですね。

周は山東半島から逃げてきた民
> 紀元前567年 斎の霊公、山東半島全域を領有
> 紀元前108年 衛氏朝鮮の滅亡、人々は半島の南部に移動?

このあたりは岡田英弘先生の本で了解しております
>
> 戦争で負けて逃げてくるだけではなく、平和な時代に稲作の普及で人口が飛躍的に増加してしまい、その圧力で新天地を求め場合などもあるのでは。

人口圧で平和裏に移動することもあり得るということですね。異常気象、飢饉や戦争だけではない。

中国は紀元前後の新の時代や、三国志の時代は人口が激減していますね。紀元前は

人口の増減いついてはデータがないんでしょうか。

[6811] Re[6809]: 渡来のタイミングと動機(紀元前)  神奈備 2005/11/15(Tue) 12:32 [Reply]
紀元前一千年頃 板船の造船が可能
紀元前一千年頃 寒冷化で稲作地が減少、適地を探し求める
紀元前651年 斎の桓公覇者となる。
紀元前567年 斎の霊公、山東半島全域を領有
紀元前108年 衛氏朝鮮の滅亡、人々は半島の南部に移動?

戦争で負けて逃げてくるだけではなく、平和な時代に稲作の普及で人口が飛躍的に増加してしまい、その圧力で新天地を求め場合などもあるのでは。

[6810] Re[6807][6805]: 鴨氏  神奈備 2005/11/14(Mon) 10:10 [Reply]
ZOUさん、ご同意感謝と言うより、ZOUさんがきちっとヤタガラスに疑問を呈しておられましたな。こちらこそ同感です。
http://www1.kcn.ne.jp/~ganes-z/image/takagamo.html

 おそらく、『山城国風土記』を根拠とされておられるのでしょう。
『山城国風土記』逸文に、「可茂の社。可茂と称ふは、日向の曽の峯に天降りましし神、賀茂建角身命。神倭石余比古命の御前に立ちまして、大倭の葛木山の峯に宿りまし、彼より漸に遷りて、山代国の岡田の賀茂に至りたまひ、山代河の随に下りまして、葛野河と賀茂河との会ふ所に至りまし」とあります。

  金剛山の頂上の葛木神社に賀茂建角身命が祀られています。「大倭の葛木山の峯に宿りまし」は、ここにお任せして、高鴨神社はしっかりと国津神を祀ってほしい気がします。

 宮崎、鹿児島には賀茂建角身命を祀る神社は見えません。(『平成データ』による)何も、カラスの足跡をすべからく祀って来たのではなさそうです。

[6809] 渡来のタイミングと動機(紀元前)  とみた 2005/11/13(Sun) 08:42 [Reply]
青臭いとみたです。日本へ弥生人が来たのはどんなタイミングと動機が想定できましょうか。紀元後はそこそこ話題になっていますが紀元前も一応考えてみたいのです。教えてください。

紀元前473年 呉越戦争で負けた呉からの難民
紀元前334年 楚に敗れた越からの難民
紀元前219年 秦の始皇帝から特命を受けた徐福が日本へ
紀元前221年頃 万里の長城などの大工事に引き立てられて移動した民が山東半島経由で日本へ
(紀元前195年 前漢高祖に追われた燕王や衛満が朝鮮へ)
紀元前154年 呉楚7国の乱で負けたのが日本へ
 遠くは紀元前2300年ごろ シュメールの民の難民が
    紀元前722年 新 アッシリアに滅ぼされたイスラエル    の民が
    紀元前597/587年 バビロニアに滅ぼされたユダヤの    民が
 春秋戦国の大動乱時代(紀元前771年〜紀元前221年)に長 江流域の苗族が雲南へ一部はボートピープルになって日本へ

他にどんな動機がありましょうか。

難民は直接日本へ来なくても一旦中国・朝鮮に当座住んでそれから日本へ流れてくることも含めて考えて見たい。

想像力と史実の狭間で古代史はさまよいますが、事実の積み上げをしてみたいんです。
紀元前500年、春秋時代の斉の都、臨シの遺跡から出た人骨の大半はドイツ人、フィンランド人、アイルランド人のDNAと同じだったそうです(東大人類学植田教授)。

民族移動は東西南北とダイナミックに遷る例証です。

皆さんのお知恵をください。




[6808] 追加:和同開珎について  素人 2005/11/13(Sun) 01:21 [Reply]
こちらでお金の話は良くないと思いますが、青草を一つ。
京都府加茂町銭司(ぜず)銭司和同開珎鋳造遺跡で和同開珎が鋳造されたようですが、
続日本紀には以下のように
「和銅元年七月廿六日丙辰。《廿六》令近江國鑄銅錢。
和銅元年八月十日(庚申朔)八月己巳。《庚申朔十》始行銅錢。」
近江の国に鋳造を命じ、8月10日に発行されたとあります。
続日本紀に
「和銅元年春正月乙巳。《乙未朔十一》武藏國秩父郡獻和銅」
とあり近年、献上された秩父の自然銅によって8世紀に初期の高純度銅の「和同開珎」が鋳造されたことが、銅中の鉛同位体のマス・スペクトル分析から確認されているようです。これから「続日本紀」の記述は信憑性があるように思われます。
http://www.chichibu.co.jp/~wado/wadokaichin/kenjyou.htm
日本最古の通貨、「和同開珎」のホームページ
http://www.chichibu.co.jp/~wado/index.htm
京都府加茂町銭司で鋳造されたとすると、普通こちらは当時山城国で近江の国はないと思うのですが、国の境界が動いたりしたことがあったのでしょうか。
「和同開珎」について調べますと、初期の材料は高純度の銅で鋳造が大変に困難であったようです。融点が高くて、流動性が低く薄い貨幣の型への鋳込みは困難を極めてのではないかと思われます。後に合金として問題は解決されました。
このために、各鋳造所にサンプルの作成を依頼したように思われます。細工谷遺跡(天王寺区細工谷1丁目)から和同開珎(わどうかいちん)の枝銭(えだぜに)が出土していますが、鋳型の不良か銅が上手く回っていなくて失敗したものです。銅の純度は96〜98%と高く、重さは78.9gです。(枝銭の写真)
http://www.occpa.or.jp/site/naniwakyu/40html/6869_edazeni.html
これから推測しますと、山城国では出来が悪く近江国のサンプルの出来が良くて、製造を依頼したのでしょうか。当時の近江国の最高の冶金技術と言えば瀬田高原で行われていた和鉄生産の現場でしょう。磁鉄鉱を用いた長方形のタタラにより、銑鉄を主に生産して鍛冶と鋳造も行っていたそうです。夢想ですが、こちらへでもお願いしたのでしょうか。高温炉・鋳造技術はこちらの方が優れていたかもしれません。後に、銭司和同開珎鋳造遺跡に技術移転されたとも考えられます。国を挙げて中国の文化を取り入れた時期ですから技術も遣唐使等によるものでしょう。
聖神社所蔵の和同開珎(和同開珎(表))
http://www.chichibu.co.jp/~wado/wadokaichin/parts/wadokaichin_a.jpg

[6807] Re[6805]: 鴨氏  ZOU [Mail] 2005/11/12(Sat) 22:29 [Reply]
>  鴨族の古社と思われる高鴨神社の由緒書きに驚くべきことが書いてあった。すなわち、「鴨族の祖先のヤタガラス」と言う言葉である。

神社入り口の案内板の記述もヤタガラスを意識した内容でした。
http://www1.kcn.ne.jp/~ganes-z/image/annai.jpg

同様な違和感を感じたので社務所にいらした女性に訪ねたことがあります。そうすると、「ヤタガラスを祖とする鴨族がアジスキタカヒコネを祀った。古代には氏族に繋がらない神を祀ることもある」という意味のコメントをいただきました。なんだかな〜(-_-;)

神奈備さんのご意見に賛成<由緒書きの訂正
http://kamnavi.jp/as/katuragi/takakamo.htm

[6806] 高野神社は金属と関係有りますか。  素人 2005/11/12(Sat) 02:52 [Reply]
日向山(にっこうやま)山頂から北西に1.5km程の所に高野神社と言う神社があるのですが金属と関係するいわれは有るのでしょうか。
『高野神社[タカノ] 高野神社[たかの]「大名草彦命」和銅元年勧請、由岐宮と呼ばれる。 滋賀県栗太郡栗東町高野726』
http://kamnavi.jp/en/oumi.htm
>すなわち、「鴨族の祖先のヤタガラス」と言う言葉である。
和銅がらみで調べていましたら、銭司和同開珎鋳造遺跡なるものが京都府加茂町銭司(ぜず)に有りまして和同開珎を和銅元年(708年)頃に造っていたそうです。
こちらの近くの岡田鴨神社(京都府相楽郡加茂町北小鴨村44)の由緒書きには
「賀茂氏族の発展を祈り岡田賀茂の地に洛北より賀茂明神を勧請し賀茂氏族の祖神、建角身命が祀られた。」とあり天神系とはちがうのですね。
金属と鴨氏が関係有るらしい事は解りました。




[6805] 鴨氏  神奈備 2005/11/11(Fri) 21:27 [Reply]
 秦氏の祖が天日槍である。また弓月君である。この二人の系譜はよくわからない。
 このようなお話は、鴨氏にも言える。鴨氏の祖は阿治須岐詫彦根命である。また大鴨積命である。
 鴨族の古社と思われる高鴨神社の由緒書きに驚くべきことが書いてあった。すなわち、「鴨族の祖先のヤタガラス」と言う言葉である。目を疑った。賀茂県主の祖として鴨建津身命はよく知られたことで、山城の賀茂氏の祖は八咫烏だと言うことで、こちらは天神系、大和鴨氏は地祇系、いわば雲泥の差なのです。
 だいたいカラスがカモの祖先などと言う進化論もあるはずがない。自分の守っている神社を尊びたい気持ちは和からぬではないが、これでは卑しめていることにならないかと、心配なところ。

[6804] Re[6803]: 「餓鬼穴」について  神奈備 2005/11/11(Fri) 19:10 [Reply]
 伝承の霧深い中のお話での餓鬼穴です。具体的に「ここだ!」と言える方がおられたら、ダルの変装だったりして。
 みくまのさんにお聞き下さい。 http://www.mikumano.net/

[6803] 「餓鬼穴」について  tanny 2005/11/11(Fri) 18:34 [Reply]
はじめまして。皆様のお知恵を拝借致したく投稿します。

菊岡沾涼の『本朝俗諺志』を読んでいて気になったのですが、ここに出てくる「餓鬼穴」ってどこにあるのでしょうか。内容から判断して大雲取越〜小雲取越のルート上の、どこかの茶屋(跡?)近くと思われるのですが。具体的な場所とか教えて頂けないでしょうか。よろしくお願い致します。

[6802] 鶴橋  神奈備 2005/11/09(Wed) 21:22 [Reply]
11月14日、鶴橋の田
http://kamnavi.jp/link/okin.htm
で飲むことになりました。
目下、吉野にようこそのマルヤさんと神奈備です。
田の営業にご協力頂ければ幸甚です。

[6801] 三上山近くの日向山(ひなたやま)磐座  素人 2005/11/08(Tue) 22:00 [Reply]
> これらの神社に共通するものとは何でしょうか?
> 磐座かも。

しつこすぎますが、青草をもうひとつ。
磐座関連で、三上山のすぐ近くにすごく地味ですが日向山(にっこうやま)山頂にも風化した磐座が有ります。日向山の名前からすると、地味で壊れかけています。
石部金山の隣、伊勢落の裏山・日向山(にっこうやま)山頂の磐座
古代よりこの地は奈良興福寺領であったようだ。
現在、伊勢落ちにある岩上神社は昔、日向山の山頂(222m)に鎮座していた。15世紀末に社が焼失してしまい、そのため1504年(永正元年)に山麓に遷座したと伝えられている。長期間に渡り興福寺領に居座っていたことになり、何か謂れが有ったとも推測される。その後、山頂部に多喜山城が築かれたが現在は城跡のみである。
奈良興福寺別院・菩提寺山の少菩提寺は元亀2年(1571年)戦国乱世の世、織田信長の兵火によって全山は殆ど焼失し、それらの礎石を残すのみとなった。
現在は山頂に竜王神が祭られ古くからの風化した磐座が存在する。
頂上からの景色は琵琶湖・野洲川・三上山などを眺望でき大変に素晴らしい。
日向山(にっこうやま)探訪Web。
http://xr8k-tmr.cool.ne.jp/nikkoyama/nikkoyama.html
山頂にかつて岩上神社が鎮座し、現在も山頂には「石神」「岩神」「鎮座石」などと呼ばれる岩盤が残る山。日向山(にっこうやま)
http://f1.aaa.livedoor.jp/~megalith/nikkou.html
伊勢落との関連で、滋賀県守山市伊勢町で見つかった弥生時代の遺跡。
伊勢遺跡の特殊性
http://f1.aaa.livedoor.jp/~megalith/iseiseki.html


[6800] Re[6799]: 打田滝替  神奈備 2005/11/08(Tue) 20:11 [Reply]
玄松子さん
> 柳生に打滝川(うつたき? うちたき?)が流れていますね。
これは知らなかったです。ありがとうございます。こうなると、飛鳥川上流の飛鳥川上坐宇須多伎比売命神社の「臼滝?」と言う所が各地にあったのかも知れませんね。

歌姫町は山城への通り道で歌姫街道がありました。姫はキと読めますが・・・青草でした。、

タイシさん、打田滝替と言う字の名と鎮守さんのお話、ありがとうございます。
『平成CD』によりますと、「須賀神社は京田辺市打田宮本91-1に鎮座、元禄年間(1688〜1703)に内田村が打田村に改められるにあたって春日神社を須賀神社と改称した。」とのことです。


琉球松さん
青草> 隣りの掲示板で「kami nu ibi」と「utaki」について述べられてますね。我々沖縄人には、島々に数えきれないほどある「イベ」と「御嶽(うたき)」意外に連想しませんね。

連想されないと言うことでしょうか、それともこれ以外に考えられないと言うことでしょうか。後者でしょうね。
「イベ」とか「イビ」は本土では忌部とか揖斐に残っているのでしょうかね。

[6799] 打田滝替  タイシ 2005/11/08(Tue) 17:31 [Reply]
京田辺市の大字町名で、打田滝替(うったたきかえ)がありました。
京都フラワーセンターの近くです。
元々内田村が打田村に改名され鎮守は須賀神社だったらしいです。
神社は、自衛隊弾薬支処で無くなったのか?南に東畑神社がありますが御祭神はスサノオと水神らしいです。
S30年頃の写真を見ると、確かに秘境みたいですが、今はどうでしょうね。

[6798] Re[6795][6794]: あんな本こんな本  玄松子 2005/11/08(Tue) 12:33 [Reply]
> 広岡町や下狭川町に九頭神社が鎮座、この当たりにまず感を働かせて行って見ようと思います。


なるほど、柳生に打滝川(うつたき? うちたき?)が流れていますね。

[6797] Re[6796][6795][6794]: あんな本こんな本  神奈備 2005/11/08(Tue) 08:04 [Reply]
> 大和本宮が出来る前は、どんな場所だったのでしょうか。

行ったことがないのですが、小さい丘の上のような場所ですが、山城との境の深い谷と言う感じではなさそうですね。

[6796] Re[6795][6794]: あんな本こんな本  玄松子 2005/11/07(Mon) 21:02 [Reply]
> 自己レス
> > 大和の添上郡で山城との境の深い谷に「ウタッキ」と古くからよばれていた秘境

関係は無いと思いますが、大渕町に御嶽教の大和本宮があり、御嶽山と呼ばれていますね。
大和本宮が出来る前は、どんな場所だったのでしょうか。

[6795] Re[6794]: あんな本こんな本  神奈備 2005/11/07(Mon) 20:48 [Reply]
恋川亭さん こんばんは。

面白そうな書籍のご紹介ありがとうございます。

> 目次より・・・静之窟・岡湊・三刀屋・湯殿山・加佐登・宗像・美々津・知夫利・弟橘・居多・能登生国玉比古・石鎚山星ヶ森・石見物部族・保久良神名火山・星神天香香背男・薩摩可愛山・知井宮。

これらの神社に共通するものとは何でしょうか?
磐座かも。

> 神社紀行も小説家が書くと
司馬遼さんの書いたものを読みましたが、変哲もないような神社でも見事に描写しており、隔絶した差を感じております。無理をしてへたな感想を並べないほうがましだとHP作りでは心しています。

自己レス
> 大和の添上郡で山城との境の深い谷に「ウタッキ」と古くからよばれていた秘境

広岡町や下狭川町に九頭神社が鎮座、この当たりにまず感を働かせて行って見ようと思います。

ついでに九頭大明神を祀っている和歌山は名草郡の場所を二ヶ所を発見しました。これも近々参詣しようと思っています。
一つは貴志川線交通公園南と海南市多田と本渡との間の大井寺の北側です。

国主神社以来、再度九頭さんが出てきました。

[6794] あんな本こんな本  恋川亭 2005/11/06(Sun) 16:40 [Reply]
今週の平積み〔書肆徘徊中年のおこづかいのゆくえ〕

・『沈黙の神々』佐藤洋二郎・著、松柏社・刊

目次より・・・静之窟・岡湊・三刀屋・湯殿山・加佐登・宗像・美々津・知夫利・弟橘・居多・能登生国玉比古・石鎚山星ヶ森・石見物部族・保久良神名火山・星神天香香背男・薩摩可愛山・知井宮。

 神社参詣趣味?20年の作家による本です。「あとがき」から抜粋。『全国の神社を歩きだして二十年になる。小説家の余技としても少々度がすぎている気がするが、自分でもなぜこういうものに取り憑かれたのかと懸念を抱くことがある。』
 このくだりを書店で読んで爆笑してしまった、ここの皆さんのことも思いだしてネ。神社には、容易に度を越してしまい、取り憑かれたかのように巡礼してしまう不思議なところがある。確かにこれは、この板の多くの方々がご経験済みかと(笑)。
 目次とあとがきだけ確認してさっそく購入。神社紀行も小説家が書くと、こんなにも味わいがあるなぁと、深く静かに読了しました。僕達はどこかの参道で、著者とすれ違っていたかもしれない。この掲示板を覗かれる皆さんには、ぜひぜひのご推薦本です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

・『幸福論』須藤元気・著、ネコ・パブリッシング:刊

 ちょっとミーハーかもしれないけど、格闘家(年配の方にはキックボクサーと言おう)の須藤元気選手が書いた本。お遍路姿で四国八十八箇所を本格的に巡礼しながら考察が綴られています(写真とともに)。
 プロのリングで殴り合い・蹴り合いをしている若者ですら、野に出て伝統的な巡礼路を「歩いて考えて」います。机上の理屈だけでなく、フィールドに出よう!と呼び掛けたい気持ちで、この本を推薦。大晦日にこの著者の試合があります。僕も応援するぞ!(TVの前でね)

[6793] 銅は関係有りますか。蛇足  素人 2005/11/06(Sun) 03:53 [Reply]
> 秩父には16kgもある自然銅が有るそうです。
由来、通りの自然銅の写真がありました。三上山の裏の少菩提寺を開いた良弁の関係した東大寺の大仏様にも使われたのでしょうか。
「和銅石と伝えられています。大きい方が17.6kg(四貫七〇〇匁)。御神宝は、最新の科学研究の結果、和銅の質量分析により「続日本紀の記述の正しさ」が立証され」抜粋。
http://www.chichibu.co.jp/~wado/iseki/parts/wadoishi_l.jpg
掲載ページ
http://www.chichibu.co.jp/~wado/iseki/jinjya.htm

[6792] 神奈備は琉球語?  神奈備 2005/11/05(Sat) 17:56 [Reply]
『邪馬台国と大和』由良哲次著によると
kami 神
nu の
ibi 居る所
だそうだ。御室とか御岳(utaki)と同意のようです。
この本に以下の事が書いてありました。
「大和の添上郡で山城との境の深い谷に「ウタッキ」と古くからよばれていた秘境がある。おもに巫女などが集まって祈祷する。丑の刻参りの人形が打たれたりしていた。」
いったいどこだろうと地図で探してみましたが、小字にもウタッキらしいのは見つかりません。どなたか心当たりのある方、教えて下さい。

[6791] Re[6789]: 龍田神社の本宮伝承地と御座峰  神奈備 2005/11/05(Sat) 09:32 [Reply]
いこまかんなびさん、ありがとうございます。
雁多尾畑の金山彦、金山媛神社の方から行こうと思ったまま、未だによう行ってません。この秋の紅葉の頃に是非参詣したいものです。

[6790] 銅は関係有りますか。追加  素人 2005/11/05(Sat) 01:11 [Reply]
とても青草ですが。
古代の銅山は自然銅が主流で酸化銅や炭酸銅も使用していたようです。
石部金山は水晶が沢山、出るようですから水晶中に銅が有ったのでしょうか。
秩父には16kgもある自然銅が有るそうです。
「和銅露天堀り跡」古代に発見された自然銅の鉱脈。金山彦命を祀る聖神社。
http://www.ksky.ne.jp/~kawasemi/history-003.htm
自然銅
http://user.shikoku.ne.jp/peke/bessi-1.html
http://www.katch.ne.jp/~ace-ace/kaori/kdou.htm
和南町多度神社付近_千草街道付近(甲津畑)の鉱山分布図
http://www6.airnet.ne.jp/~mura/mine/kinki/suzuka/
国位・高昌鉱山跡を訪ねる
http://photocb.com/~harimao/2005/kouzan/kokui.htm
天延記念物・綿向山麓の接触変質地帯
石灰岩層への花崗岩の貫入による接触変成の跡。(周辺に鉱物があればスカルン鉱床。)
http://www.pref.shiga.jp/edu/content/10_cultural_assets/gakushu/menufiles/PDFfiles/No.116.pdf
チャートなど条件が整えば自然銅などもあったかもしれません。

[6789] 龍田神社の本宮伝承地と御座峰  いこまかんなび [Url] 2005/11/04(Fri) 19:32 [Reply]
こんばんわ。
前々から調べたいと思っていました龍田神社(奈良県三郷町)の本宮伝承地と御座峰(柏原市雁多尾畑) をアップしました。ぜひ一度お訪ねください。今日は振休でいい天気でしたがアップアップ。                        http://www.geocities.jp/iko_kan2/tatsuta-hongu.html

[6788] 伊佐須美神社  泊瀬女 2005/11/04(Fri) 13:28 [Reply]
つい最近、伊佐須美神社に参拝しましたが、こちらの質問に対して、神職さんが親切丁寧に答えてくださいましたよ。

[6787] Re[6786][6785]: 質問・・・疑問  玄松子 2005/11/04(Fri) 11:16 [Reply]
> > 福島県の伊佐須美神社はなぜいつも門が閉まっているんだろう?
>
> ネットでチョット調べれば分かることですね。

いつも閉まっている状態が確認できる(近くに住んでいる)のなら、
直接、聞いてみるという方法は思いつかないのだろうか。

ネットで調べても、正確な情報が手に入るとは限りませんからね。

[6786] Re[6785]: 質問・・・疑問  神奈備 2005/11/03(Thu) 23:06 [Reply]
> 福島県の伊佐須美神社はなぜいつも門が閉まっているんだろう?
> 門を閉めておく神社は三重の伊勢神宮以外には聞いた事がないです。

ネットでチョット調べれば分かることですね。
http://www.genbu.net/data/mutu/isasumi_title.htm

[6785] 質問・・・疑問  酸駄亜 2005/11/03(Thu) 22:12 [Reply]
福島県の伊佐須美神社はなぜいつも門が閉まっているんだろう?
門を閉めておく神社は三重の伊勢神宮以外には聞いた事がないです。

[6784] Re[6783]: 銅は関係有りますか。  神奈備 2005/11/03(Thu) 16:18 [Reply]
> 三上山の南方野洲川の対岸に古代、銅を産出していた「石部金山」が有るようです。

 
この付近になるのでしょうか、吉御子神社、吉姫神社に参詣したことがあります。丁度三上山が石部山の向こうになって隠れてしまう場所に鎮座していました。想像力を働かせればダブル神奈備とも言えます。
「石部」と言う名前から、祭神は天日方奇日方神が多く、この神の系図には太田田根子にもつながっています。タタラを思わせますし、大神氏、鴨氏の始祖でもあり、古くは銅鐸にまで遡れるのかどうかですが、おっしゃる通り銅につながるようですね。

[6783] 銅は関係有りますか。  素人 2005/11/03(Thu) 00:26 [Reply]
>  滋賀県神崎郡永源寺町和南631に多度神社が鎮座、祭神を天御陰命としています。
こちらの山奥に小さいですが、銅の鉱山がたくさん有るようです。
鈴鹿山系の中央部を三重県から滋賀県に横断する山越へのルート、千種街道(旧千草街道)が鉱山の近くを通っているようです。
銅繋がりで、青草かもしれませんが。
 三上山の南方野洲川の対岸に古代、銅を産出していた「石部金山」が有るようです。
対岸の砂利採取場のように禿山になった部分で灰山と現在呼ばれています。この部分も上面はチャートですが石灰岩もあるようです。ここに、花崗岩が貫入し鉱床が出来たようです。真偽はわかりませんが「石部金山と呼ばれた山で、古くは聖武天皇の頃から採掘されていたと言われる。」などの記述も見受けられます。確度の高い情報は無いですが、銅は有ったようです。仮定ですが、重要な鉱山であれば方位に関係してくるかもしれません。
灰山の銅含有鉱石と灰山の状況。(鉱石採取者に有名な場所。)
関係ないかもしれませんが、三上山近くの大岩山からは多数の銅鐸が出ているようです。
http://www005.upp.so-net.ne.jp/chika-yasu/mineral/980103photo_1.htm
灰山の可哀想な写真。(宿場探訪Web)
http://kyoto.cool.ne.jp/nununi/kanie/Images_t/tk06/tk52_06.jpg
http://kyoto.cool.ne.jp/nununi/kanie/pages_t/tokaido_51.html
阿星山からの三上山と菩提寺山
湖南市阿星山より。左が三上、右が菩提寺山。その間に田中山。
右側の川を挟んで手前の町が湖南市磯部町で、菩提山の対岸の山並みの左の端の方が灰山でJR石部駅の裏の山で山の半分が,石灰採取で失われています。
http://cont4.mech.usp.ac.jp/~minagawa/shigamts/mikami/bodaiji12.html



[6782] 縁は円で結ぶ。  神奈備 2005/11/01(Tue) 23:24 [Reply]
 どうもこっちが青草になってきたようなので、席亭も一席。

 海南市に名草戸畔の頭、胴体、足を祀ると伝えられている神社三社があります。
宇賀部神社 http://kamnavi.jp/ki/city/nagusa.htm
杉尾神社 http://kamnavi.jp/ki/city/sugio.htm
千種神社 http://kamnavi.jp/ki/city/tigusa.htm
です。
 最近、縁があって同じく海南市の国主神社(九頭大明神)に参詣して来ました。
国主神社 http://kamnavi.jp/ki/city/ootaku.htm
 
 地図を眺めていますと、どうも同一円周上に並んでいるのではないかと気がつき、千種神社に地図を入れてみました。
 ストーンサークルならでのシュラインサークルと言うのはあまり聞きませんが地図から探せば多く見つかるのでしょう。特に任意の三社があればみな同一円上にのるのですが、四社となると珍しいと言えるのかも。
 なお、この円内には神社では
且来八幡神社 http://kamnavi.jp/ki/city/asso8.htm
が鎮座するのみ。これは遡っても欽明天皇の時代以降の建立と思われ、神武東征伝承や九頭よりはよりは新しいかも。


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