神奈備掲示板の案内とログ

神奈備掲示板

青草談話室、写真掲示板 過去ログ

掲示板のログ(平成十八年 四月 2006.5)お名前の敬称は省略しています。

[7356] Re[7355]: 近畿の隼人 4(終)  nick [Url] 2006/04/30(Sun) 11:02 [Reply]
>  隼人学の先達である中村明蔵さんは、近畿の隼人居住地リストから、新大阪の東側にある大隅神社と古代の大隅島を抜いているのだろうか。

隼人の研究ではそのような指摘もありました。
記載された場所の全ては踏破され確認されたと聞いています。
来月、久々に尋ねてみましょう。

伝承や慣習が、当地にはほとんど残っていない現状を鑑みると
この地の住民の大半がそちら機内へ移住させられたのではと。
なぜなら舞台となった山間部では、大分・中津川系の色彩が強いから
他なりませんが。
(バックデーターとして江戸時代の人口比率等を目下整理中です。)

[7355] 近畿の隼人 4(終)  神奈備 2006/04/30(Sun) 10:23 [Reply]
 隼人学の先達である中村明蔵さんは、近畿の隼人居住地リストから、新大阪の東側にある大隅神社と古代の大隅島を抜いているのだろうか。
 森浩一先生は、近畿の隼人の要のような土地と言われ、九州隼人との中継地とまで指摘されています。さらに「連れてこられた」弱者ではなく「自発的に移住してきた」と推測しています。

  ついでですが、千早赤坂は楠木氏の拠点で、金剛山の千早城に立てこもった際、森先生は南側の五條の二見の住民が支援をしていると推定され、この二見首は火 闌降命の後裔であり、隼人系です。楠木のルーツを求めても出てこないようで、楠木は南の木の象徴であり、これを名前にしていることをキイとして解き明かし たいようです。
 先日の鹿児島旅行では木々の様相が全く南方系でビックリしたのですが、その中でも巨大な楠木の神木が印象に残っています。楠木の勇ましさといざぎよさ、隼人につながるのかも。

[7354] Re[7352]: 再び「筒」で恐縮です  神奈備 2006/04/30(Sun) 10:22 [Reply]
 住吉神は元々夫婦神とするのは、前田さんの単なる推測。夫婦神であったなら、子神がいてもいい。どの神だろうか。
 筒を津ノ男の「津ノ」とするのもそうで、一般的にノはツでいいのですが、津ツをして一文字の筒と書いてしまうような漢字の使い方はありえたのか、と言う疑問があります。
 野之神の野之を罵神とはしないように思いますが。

 で、前田先生は、『摂津国風土記:逸文』の、巡行神の性格については、どのようなお考えでしょうか。

[7353] Re[7352]: 再び「筒」で恐縮です  大三元 2006/04/30(Sun) 10:19 [Reply]
> おそれ多くも書評などはできないものの「住吉大神は「津ノ男」である」という考えは面白いとはいえ、連休が休めない苛立ちも加わってか、ちょっとぉー???ってスっきりしない思いを募らせているところです。

不肖小生もその線を追いかけてみたことがありますが、配偶者の「津ノ女」(ツノメ?)あたりの語を見つけることが出来なかったので放棄しました。

もっとも、ずばり、ツノメではなくとも、ツノミ(角身!)とかチヌミ(遅奴美!)で考えても良いのでしょうが、賀茂建角身や、速甕多気佐波夜遅奴美神と「筒男」さんがつながらなかったのでした。

[7352] 再び「筒」で恐縮です  いこまかんなび [Url] 2006/04/29(Sat) 22:51 [Reply]
こんばんわ。再び筒の底から筒の上へと浮上のテーマで恐縮です。
最近通勤電車で「前田晴人著『神功皇后伝説の誕生』1998.5 大和書房」を少しづつ読んでいます。
「第四章 住吉三柱大神の成立--住吉大神の三柱分化(74P〜)」に住吉三神の筒についての記述があり、著者には失礼の段、そのまま引用紹介させていただきます。
---------------------------------------------------
「  まず、住吉大神三柱、つまり表筒男・中筒男・底筒男が何を表しているのかを考えてみよう。三神の名に含まれる表・中・底という語は、『古事記』『日本書 紀』神代巻に書かれているように、海の表層・中層・底層の区分を表す。次に三神に共通する男であるが、言うまでもなくこれは男性を表す語である。
そうすると、住吉大神の性格を表す語は残された「筒」にあるということになる。筒はツツと読めるが、最初のツは津を、後のツは助詞のツ(ノの意味)を表すと解するのが妥当であろう。よって、住吉大神は「津ノ男」である。
国語学者の山田孝雄氏は戦前にこの解釈を唱えていたが、私はこれを正解とみたい。住吉大神は住吉(墨江)「大津」の守護神である。神の名義と神の性格・機能が符節を合しているのである。
次 は、「津ノ男」神がいつ三柱に分化したのかという問題である。住吉大神は元来素朴な「津ノ男」神・姫神の夫婦神であったと推測される。神代巻に三柱大神と 記すことから、源初から三神であったのだと言う人があるかも知れない。しかしよく考えてみよう。『古事記』『日本書紀』は八世紀初めにまとめられた書物で ある。神代巻の記述が古い伝承であるとは限らないのである。むしろ、三柱分化は天武朝の出来事ではないかと疑われるのである。即ち、神代巻のイサナキ命の 禊祓では、同時に阿墨氏の祖神ワタツミ神も三柱に分化し、また天照大神・月読命・須佐之男命の三神が生成したと伝えている。出来過ぎの感を否めないであろ う。余りにも整いすぎている。
私は、住吉大神の三柱分化の時期を天武朝と考えたい。実は、こうした大神の分化の裏には天皇の遠大な政治的企図と構想があったと推察されるのである。」
-------------------------------------(以上引用)
おそれ多くも書評などはできないものの「住吉大神は「津ノ男」である」という考えは面白いとはいえ、連休が休めない苛立ちも加わってか、ちょっとぉー???ってスっきりしない思いを募らせているところです。

[7351] 近畿の隼人 3  神奈備 2006/04/29(Sat) 08:49 [Reply]
> E 丹波国桑田郡佐伯郷(京都府亀岡市)

 亀 岡市千代川町千原に藤越神社が鎮座、祭神は野椎命、由緒↓には、「御祭神の野椎命は、伊邪那岐命の御子で野を司られる、またの名を鹿屋野比売といふ女神 で、今の薩摩の阿多郡に住んでをられた。夫神に従ひ、日向から西海道を伊勢へと出られ、淡海国の日枝の山に来られる道すがら、山野の物・甘菜辛菜に到るま で霊感を示された。そのために邪神たちはそのお姿を見るや平伏し拝したと口碑にある。」と出ています。
http://tanbarakuichi.hp.infoseek.co.jp/shrine/kameoka/2.html

  この「鹿屋野比売といふ女神で、今の薩摩の阿多郡に住んでをられた。」とあるのが注目されます。この鹿屋と言う名は大隅国姶羅郡の鹿屋郷にちなむのかと 思っていましたが、西側の薩摩国に阿多郡があり、木花咲夜姫の別名とされる薩摩の神の吾田鹿葦津比賣命(あだかあしつひめ)の名と似ていなくもなく、阿陀 と薩摩の両隼人共通の女神だったのかも知れません。

 面白いのは藤越神社の南1kmに月読神社、東1.5kmに小川月読神社が鎮座、山城 の大住郷の月読神社との関連や、山城国葛野郡に葛野坐月読神社が鎮座、これは隼人とは関係がなさそうですが、鎮座地を桂と言い、前回の河内国若江郡萱振保 に鎮座する加津良神社を思わせます。

 さて、鹿屋野比売を祀る近畿の神社は34社出てきます。前回の@〜Eに近い神社をリストアップして見ます。

@ 大和国宇智郡阿陀郷(奈良県五條市) 奈良県吉野郡吉野町の勝手神社
A 山城国綴喜郡大住郷(京都府京田辺市)
B 山城国綴喜郡宇治田原郷(京都府綴喜郡宇治田原町)
C 河内国若江郡萱振保(大阪府八尾市)大阪市中央区高津の高津宮の摂社の白菊稲荷神社
D 近江国栗太郡竜門(滋賀県大津市) 大津市神領1丁目の建部大社の摂社の大野神社
E 丹波国桑田郡佐伯郷(京都府亀岡市)亀岡市千代川町の藤越神社

 さて、和歌山県海南市に千種神社(旧名は百草神社)の祭神は草野姫です。戦前の一時期には小生の母方の祖父が宮司をしていました。勇ましさとは縁遠い神奈備ですが、隼人の血が1ppmほどは入っているのかも知れません。

[7350] Re[7349]: 近畿の隼人 2  nick [Url] 2006/04/28(Fri) 18:04 [Reply]
> 『隼人の古代史』(中村明蔵:平凡社新書)の97頁に、『康富記』などの文献からのハヤトの移住地が載っています。

巷は「ゴールデンウイーク」とか。
のんびり読書でもしますか。

著者のを幾つか所持しています。
当初「難しくて判らない」とこぼしたことがありまして。。
「専門家の論文だから」と恐縮されていましたが
その後、私にも理解できる「隼人の古代史」と云う冊子がでました。
たまに話を伺いますが、「寺社関連」は範囲外のようです。

ちょっとバックデーターが少ないので確証に乏しいのが難点です。
何か出ないかな〜。。

何時か「畿内」と「熊野」をのんびり探訪したいです。

[7349] 近畿の隼人 2  神奈備 2006/04/28(Fri) 16:30 [Reply]
『隼人の古代史』(中村明蔵:平凡社新書)の97頁に、『康富記』などの文献からのハヤトの移住地が載っています。
@ 大和国宇智郡阿陀郷(奈良県五條市)
A 山城国綴喜郡大住郷(京都府京田辺市)
B 山城国綴喜郡宇治田原郷(京都府綴喜郡宇治田原町)
C 河内国若江郡萱振保(大阪府八尾市)
D 近江国栗太郡竜門(滋賀県大津市)
E 丹波国桑田郡佐伯郷(京都府亀岡市)
番外 大和国の耳成山の東に大隅という集落(橿原市、桜井市)

 今日は天気がよく気持ちの良い朝だったので、河内国若江郡萱振保に鎮座する加津良神社(式内社)に参詣して来ました。隼人が住むとされる土地に鎮座の古社で、何か手がかりになるものを探したのですが、見あたりません。狛氏か物部系の縵連の氏神であろうとのこと。
 また『八尾市史』にも萱振の地名はあっても隼人のことは出てきません。
 萱振の地名は、祭日に萱を束ねて松明とし、これを振って神霊を慰める珍しい行事があり、これによるのではといわれています。

  さて、この萱と『和名抄』大隅国姶羅郡の鹿屋郷と結びつける説があります。これは『日本書紀』の景行天皇紀の熊襲討伐に登場する熊襲の名前に、厚鹿文、サ 鹿文、娘に市乾鹿文、市鹿文、日本武尊が退治した川上梟帥の又の名を取石鹿文と鹿文(カヤ)がついている名が多いという特長があり、熊襲とカヤとが密接と 言えるようです。

 もうひとつ思いついたのですが、上記@〜Eの隼人居住地と「アノウ:穴太、」と言う地名などが近接しているようです。

@ 大和国宇智郡 大和国吉野郡 西吉野村向加名生(むかいあのう)
C 河内国若江郡 八尾市宮町に穴太神社が鎮座
D 近江国栗太郡 大津市穴太に高穴穂神社が鎮座、また石積みに穴太衆積み
E 丹波国桑田郡 曽我部町穴太(そがべちょうあなお)

 熊襲征伐の景行天皇は近江の高穴穂宮で亡くなっています。熊襲の恨みか?
 大隅半島にカツラの技術、穴太に関わるようなもの、また隼人の技術に石積みがあったのかどうか、興味津々の所です。

[7348] Re[7347]: 無題  PONTA 2006/04/28(Fri) 01:11 [Reply]
> どんな神様をおまつりしてるんですか?

大神宮社であれば、
http://kamnavi.jp/en/yamasiro.htm
の「鴨岡太神社」の論社で、祭神は天照皇大神ですね。

>伊勢神宮(太神宮)との関係がありそうですね。
>瀬織津比売神とは天照大神の荒魂との説もあるようなので、伊勢神宮の荒祭宮をも勧請したのかも知れませんね。

境内に祓戸社があって、そこでお祓いをしてから神事を執り行う神社もありますが、その祓戸社の祭神は瀬織津比売神単独ではなく、祓戸大神ですから、祭神が瀬織津比売神単独であれば、荒祭宮とか水神社の可能性が高いですね。

[7347] 無題   2006/04/27(Thu) 22:54 [Reply]
色々ありがとうございますー。
だいじんぐうしゃって読むのかあ。

どんな神様をおまつりしてるんですか?

[7346] Re[7345]: 近畿の隼人 1  nick [Url] 2006/04/27(Thu) 22:34 [Reply]
こんばんわ。いや〜助かります。
将来的には、移住させられた畿内地方もと思ってはいますが、、、
実は森浩一先生著の「日本神話の考古学」で畿内移住の事実を知ったのです。
昔、東京〜京都を新幹線通勤してましたが、、当時知ってればと。
ま、そんな暇はありませんでしたか。。笑。

皆さんの資料を整理してそれなりに解析しながら
やって行こうと考えています。

[7345] 近畿の隼人 1  神奈備 2006/04/27(Thu) 21:44 [Reply]
 網野善彦・森浩一両氏の対話の『馬・船・常民』に次のような対話があります。
A 鵜飼が隼人と深い関係にあり、さらに網代は鵜飼との関係もあり、網代は隼人が得意とする竹細工であり、近江の田上、宇治や宇治川の網代は著名であり、さらに田上には厩もあり、隼人との関係が伺われます。
M 『正倉院文書』で、大津の近くの古市郷に阿多隼人乙麻呂とか刀自売という隼人ができきます。田上とも隣接地です。


小倉百人一首 権中納言定頼 に次の歌があります。子供の頃丸暗記していましたが、考えて見れば意味が殆ど分かっていません。今でも。
朝ぼらけ 宇治の川ぎり 絶えだえに あらはれわたる せぜの網代木 

さて、大津市上田上に荒戸神社が鎮座、由緒に、「天智天皇の朝諸国に令を下し馬を畜しはしめ給ふ 此地を牧庄と云ふ其牧場の一なり」とあり、どうやら隼人の居住地であったと思われます。
ここから瀬田川が京都府綴喜郡宇治田原、さらに宇治市へと流れます。この辺り一円に点々と隼人が住み着いていたのでしょう。宇治に縣神社が鎮座、木花開耶姫命を祀っています。ひょっとすると隼人が持ち込んだ神かも知れません。


[7344] Re[7342]: はじめましてー  神奈備 2006/04/27(Thu) 12:24 [Reply]
> 「多に蛍火の光く神、及び蠅声なす邪しき神有り。復草木咸によく言語有り」
ってなんですか?

  奈良時代に編纂されたこの国の正史とされる第一号が『日本書紀』という書き物とされています。そのなかに「神代」のことが記されており、同じ事件でもいく つかの言い伝えがあったようで、その「下巻」の皇孫(皇室の祖先とされる)が天降る前に、天降りを指令した、高皇産霊尊と言う神が、この国の地上の状況を 説明した言葉で、「葦原中国は、岩根、木の株、草の葉もよく物を言う。夜は穂火(火の子)の如く騒がしくひびき、昼はうるさい蠅のごとくに沸きあがる。」 と『講談社学芸文庫の日本書紀』で、宇治谷孟氏が訳されています。
 
 青草掲示板のモットーとして掲げていますのが、われわれ市井のアマチュアが神々や古代史について、わいわい語り合おうとの意味からです。青草は青人草と同じで、民衆のことです。


> 大神神社(奈良の本家じゃなくて京都の市原にある。)

左京区の静市市原のことでしょうか?
もしそうだとしますと、ひょっとしたら大神宮社のことではないでしょうか。この社は大神神社との関係ではなく伊勢神宮(太神宮)との関係がありそうですね。

そうしますと、瀬織津比売神とは天照大神の荒魂との説もあるようなので、伊勢神宮の荒祭宮をも勧請したのかも知れませんね。

いずれにしても
> 道の真ん中に一本だけのこった大木にちいさなお社があって祀られていてすごく気になったのです
すごい着眼ですね。大切に祀ってあげて下さい。

[7343] 瀬織津比売  PONTA 2006/04/27(Thu) 07:25 [Reply]
瀬織津比売

『延喜式』の大祓の祝詞に記されている祓戸大神の1柱で、もろもろの禍事・罪・穢れを川から海へ流す役目をされています。
本居宣長は、瀬織津比売を八十禍津日神に比定しています。
古史古伝等では太陽神・饒速日命の妻で、水神とされています。

↓このサイトが詳しい。
http://www5.ocn.ne.jp/~furindo/index.html

[7342] はじめましてー   2006/04/27(Thu) 06:56 [Reply]
大神神社(奈良の本家じゃなくて京都の市原にある。)が近所にあって
調べていたらここにお邪魔いたしました。
「多に蛍火の光く神、及び蠅声なす邪しき神有り。復草木咸によく言語有り」
ってなんですか?
あとせおりつひめのかみ?という神様が道の真ん中に一本だけのこった大木に
ちいさなお社があって祀られていてすごく気になったのですが何の神様ですか?

[7341] Re[7338]: というか。  玄松子 2006/04/23(Sun) 15:20 [Reply]
> どういうテーマかも含め(だったらログ全部削除すればいいのにね)、参考になりました。

最後まで意味不明・理解困難な文章でしたね。
取りようによっては行く通りにも意味が存在する、
そういう書き方が、インテリ風と思わせる理由でしょうか。

[7340] マナー講座ならぬ「マナ」高座 5  神奈備 2006/04/23(Sun) 08:01 [Reply]
 落ちぶれ続けたマナは怨霊として復活してきます。貞観五年(863)、 神泉苑で「事に坐して誅され、レイ(鬼、モノノケ)となった冤魂」を慰撫し、その祟りのせいで頻発する疫病を鎮めるためでした。いわゆる御霊信仰です。元 々異常な死に方をした人間の霊魂に関する従来からの信仰に基づいたものです。
 まず、光仁天皇の皇后の井上皇后の祟りがあり、墓を改装したりしてなだめました。
 桓武天皇の皇太子の早良親王も謀略によって憤死しています。以後、桓武天皇の周辺で、多くの人が死んでいきました。
  すざましい威力(マナ)をふるったのは菅原道真公です。雷神としての祟りは約100年間続きました。失脚を謀った殿上人が次々に死ぬだけではなく、旱魃、 水害、飢饉、疫病などは頻発しました。かっての三輪の大物主の再現のようです。それでも民衆は菅公を支持していたようです。結局、天満宮を建てて祭り上 げ、藤原氏の守り神にもされてしまいました。


 『日本語に探る古代信仰』土橋寛著から 「マナ」と言う言葉が知られるようになっ たのは、英国のR.H.コドリントンの『メラネシア人』1891年によります。神秘的、呪力な力能を意味する霊魂(生命力、霊力、呪力)の存在が信じられ ていることを明らかにしたのです。遊離魂とは違うものです。この「マナ」の特徴はある物から他の物に転移させることができるようです。
 日本の古 代の信仰から見ますと、自然物、各種の呪的、宗教儀礼的に用いられる和幣(ニキテ)、注連縄、勾玉、剣、鏡などの呪物崇拝は現在でも年中行事に残っていま す。呪物崇拝の根底にある「呪力」(マナ)の信仰は、言葉にも認められ、これを「言霊信仰」と言います。以上。

 不吉な言葉を避けるのは結婚式のスピーチでは注意しなくてはならないことがらのイロハです。身近な所では葦をヨシと言います。

 旅の僧侶などが托鉢などで食っていけるのは、それを行わないと、村に呪いをかけられるのがいやで、施したのです。

  天の真名井は天照大神と素盞嗚尊との誓約の場所で、お互い「吹き棄つる気吹の狭霧」から五男三女神が成った神聖なと言うよりパワーのあるいわばマナの気が 漂う井戸の側でこその出来事なのでしょう。誓約には保証するモノ(マナ)があってこそです。違えれば罰を下すものです。これが天真名井にいる神と言えま す。
 普通は魚がいないのが涌きだしている泉や井戸ですが、あえて魚が居るということで、魔力を持った井戸を真名井と言ったのかも知れません。
 

 真名箸 海士潜女神社の祭礼に登場する箸。、包丁、真名箸により出世魚「ボラ」を三枚におろし、小さく刻み、ナマスにし列席者氏子に配す。魚の一方を持ち返った氏子は神棚に供え、村内平和、家内安全、豊漁を祈願する。

 真名鶴 天然記念物の鶴。一茎に千穂の茂る稲をくわえて鳴いていたので大年神として祭った。(志摩の佐美長神社)やはり穀霊はただものではないということ。

 真名鹿 この鹿の皮を剥いで鞴を作り鏡を鋳造した。日前国懸神宮に祀られている。

 真名スズカ姫 タクハタチヂヒメのこと(ホツマツタエ)

 まな板 生贄を神に捧げるための板

 まなこ 邪視とは強力なマナが見ることで相手に通じ作用すること。死者の顔に布をかぶせるのは、死者の邪視を防ぐため。団十郎の睨み。

 奈良時代には天真名井と言うことばが存在していました。真名と言う言葉は古い日本語にあったと考えていいと思われます。古語としての「マナ」、掘り下げるべき言葉でしょう。
「マナ」は「タマ」や「モノ」として使用されることが多かったようです。

 『古事記』の雄略記に載っている歌謡103に[春鳥]鴒(セキレイ)を「まなばしら」と訓んでいます。マナバシラとは日本の神の力を如実に現す凄い言葉だと思います。何故、セキレイなのでしょうか。

 アイヌ神話には、セキレイこそ泥海から国土を創造した立て役者なのです。また、アイヌはセキレイを恋望の鳥(オチウ・チリ)と呼びます。尾を上下して、夫婦の交わる方法を人間に教えたということです。人間が地上に繁殖したのはセキレイのマナのおかげなのです。(終わり)

[7339] マナー講座ならぬ「マナ」高座 4  神奈備 2006/04/21(Fri) 13:03 [Reply]
 敏達天皇十年、蝦夷が辺境を犯し荒らしました。首領の綾粕を召して責め ました。綾粕らは恐れかしこみ、泊瀬川の川中に入り水をすすって、三輪山に向かって次のように誓いました。「私ども蝦夷は、今から後は清き心を以て、帝に お仕えいたします。もし背いたら私どもの種族は絶滅されるでしょう。」これもまた三輪山の神が誓いの保証をしています。蝦夷には大物主のマナは恐ろしい存 在だったのです。

 推古天皇二十六年。天皇の命令で、安芸の国で河辺臣が船を造ろうした。良い木があるので伐ろうとしたが、ある人が「雷 神の宿る木です。伐ってはなりません。」と止めたのです。河辺臣は「雷神と言っても、どうして天皇の命に抗することが出来ようか」と言って伐ってしまいま した。すると大雨になり落雷がありました。河辺臣は「雷神よ、帝の民を犯してはならぬ。かえって自分の身を損なうぞ。」と天を仰ぎ、暫く待った。十あまり 雷鳴が響いて、雷神は小さい魚になって落ちてきて木の股に挟まれました。河辺臣はこれを焼いて食べてしまいました。
 ここに来て、雷神のマナは天皇の御稜威にとうてい敵わない存在となりました。

  ふたたび『常陸国風土記』の夜刀の神のお話。孝徳天皇の時代、壬生連麿が、初めてその村を占拠して、池の堤を築かせた。夜刀の神が池のほとりの椎の木に群 がって退去しない。麿は大声で「大君の教化に従おうとしないのは、いかなる神か」と言い、使役の農民に「目に見える一切のものを打ち殺せ」と命じた。その 言葉が終わるやいなや、神蛇は遠ざかり隠れてしまった。
 もはや、蛇神のマナは言葉だけで引っ込んでしまう有様。

 持統天皇六 年。壬申の乱の功臣である大三輪高市麻呂は、持統天皇の農繁期の伊勢行幸を諫めました。やめようとしないので、高市麻呂は、職を賭けて(其の冠位を脱きて 朝に捧げ)、重ねて諫めましたが、聞き入れられませんでした。人民の民生を優先して考える三輪山の神の精神を継承した行動でした。大物主神は大己貴神の幸 魂、奇魂と云う霊力(タマでありマナである)の働く神と言えます。高市麻呂は左遷。

 『万葉集』巻九。大神大夫の長門守に任じられての時、三輪川の辺に集まり、宴をした時の歌二首(左遷される高市麻呂の送別会)
 一七七〇 三諸の神の 帯ばせる泊瀬川 水脈(ミマシ)し絶えずは われ忘れめや
   訳  泊瀬川の水の流れが絶えない限り、あなたをどうして忘れようか。
 一七七一 後(オクレ)れ居て われはや恋ひむ 春霞たなびく山を 君が越えいなば
   訳  後に残って私は恋したうだろう。春霞のたなびく山を越えていってまぎれてしまえば

[7338] というか。  ro. 2006/04/21(Fri) 06:03 [Reply]
言われなくてももう書き込みしません。
どういうテーマかも含め(だったらログ全部削除すればいいのにね)、参考になりました。
ありがとうございました。

[7337] Re[7336][7335]: 掲示板荒らしが来ていますので消しています。  nick [Url] 2006/04/21(Fri) 01:20 [Reply]
青草掲示板的テーマ内容ですからね。
移せば済むものを、どうしてなのか
理解に苦しむ。。

話題は変わりますが
玄松子さん、鵜戸神宮の山越えされたんですね。
精力的な探訪で。。
私も行きたかったが、ちょっと父を放りっぱなしでは。。
御陵の伝承地だけでも結構あるので、、愉しみが増えた。笑。


[7336] Re[7335]: 掲示板荒らしが来ていますので消しています。  玄松子 2006/04/20(Thu) 23:09 [Reply]
> 一応、インテリかと思っていた人がついに掲示板荒らしとなって襲ってきました。

消したんですか? 読んでおきたかったです、その荒らし。
一晩晒してからでも良かったのではないかなぁ。
あるいは、荒らし専用ログに残して晒すとか。

[7335] 掲示板荒らしが来ていますので消しています。  神奈備 2006/04/20(Thu) 22:52 [Reply]
一応、インテリかと思っていた人がついに掲示板荒らしとなって襲ってきました。
善意でできた掲示板は、悪意に弱いのです。
誠に残念なことです。

[7334] Re[7332] 参考にしたとこはありますけど。  r-r=0 2006/04/20(Thu) 21:56 [Reply]
>あなたのしていることは大衆を惑わせ誤解させるような行為。

あんた程、この掲示板を混乱させるものはいないね。
消されちまいな。失礼、早い目に忠告を聞いた方がいいね。

[7333] Re[7332]: 参考にしたとこはありますけど。  ku 2006/04/20(Thu) 21:52 [Reply]
> 物部のページに丹生姫のことを載せているのはおかしい。
> あなたのしていることは大衆を惑わせ誤解させるような行為。
> 同じであるように見せようとしているだけ。



丹生川下神社は物部系では?
間違いないでしょう。


[7327] マナー講座ならぬ「マナ」高座 3  神奈備 2006/04/20(Thu) 19:30 [Reply]
 応神天皇の時代、武内宿禰が讒言を受け、甘美内宿禰と探湯(くがたち)をしました。探湯は磯城川のほとりで行われました。これは三輪山の神に保証を期待してのことです。

 仁徳天皇の時代に、茨田の堤を造ろうとしましたが、壊れて造りにくい場所が二カ所ありました。天皇の夢に、二人を河伯(河の神)に奉れば、うまくいくとのご託宣があった。一人は泣きながらも人身御供となったが、もう一人は、ヒサゴを二箇河の中に投げ入れ、「河神が祟るので私が生贄にされることになった。本当に自分を得たいのならこのヒサゴを沈めてみよ。」と神意を問うた。ヒサゴは沈まなかった。
 公共事業と云う権力の実力の前では神意も疑われ、河神のマナが力を失いつつあります。

 雄略天皇が少子部スガルに「私は三輪山の神の姿を見たいと思う。お前は腕力が人に勝れている。自ら行って捕らえてこい。」と言われたのです。スガルは「ためしにやってみましょう。」とお答えしました。神を試しています。スガルは三輪山に登って大きな蛇を捕らえてきて天皇にお見せしたのです。天皇は斎戒されていなかったので、大蛇は雷のような音をたて、目はきらきらと輝かせました。天皇は恐れ入って、殿中にお隠れになったのです。
 スガルがためしにやってみて、三輪山の大神は捕らえられてしまいました。なんともはや、神威の凋落はなはだしい世の中になています。雄略天皇の御稜威と三輪山の神のマナは同等な力を持っているように見えます。これは葛城の一言主大神と雄略天皇との関連でも対等のように見えます。
 国土開拓が進み、自然が損なわれていったのです。また何かを達成する力として、魔力と権力とが拮抗して来ていると見ることもできます。

 三輪山の神から離れたお話。『常陸国風土記』行方郡、継体天皇の頃の話。箭括麻多智が葦原を開墾して田を作った。夜刀の神が群れをなしてさまざまな妨害をして、田を作らさなかった。麻多智は激怒、鎧で身を固めて打ち殺し、山に追い払った。山と田との境に標をたて、ここから上は神の土地、ここから下は断じて人の田とする。私が神の祭祀者となって永く敬い祭ろう。恨んではならないとして社を作ったのです。

[7326] Re[7321][7320]: 「まな」  神奈備 2006/04/20(Thu) 10:10 [Reply]
nickさん、こんにちは。

> 真板田(まないただ)
> 「にえまつり」とか

 思い出しましたが、料理をする「まな板」の銅製のものが正倉院(あいまいな記憶です)にあるのですが、刃物の跡がついていなのです。通常の使われ方ではなく、どうやら、生贄をその板の上に置いて神に捧げたそうです。
 神事に使用されるものですので、マナ板と呼ばれたのかもしれません。

[7325] Re[7320]: 「まな」  神奈備 2006/04/20(Thu) 10:10 [Reply]
福島さん、こちらこそご無沙汰しています。

おっしゃる通り、真魚はマナとよまれ、真魚鰹などと言う言葉があります。
天の真名井は天照大神と素盞嗚尊との誓約の場所で、お互い「吹き棄つる気吹の狭霧」から五男三女神が成った神聖なと言うよりパワーのある井戸のように思えます。そういう意味では普通魚がいないのが泉や井戸ですが、あえて魚が居るということで、魔力を持った井戸と言えるのかも知れませんね。

[7324] Re[7323][7322]: 要件だけ。  神奈備 2006/04/20(Thu) 10:06 [Reply]
ro. さん、おはようございます。
神奈備のログをどうするかは神奈備が決めることで、他からの指図を受けるつもりはありません。
> もしくは断片的と言うことも理解困難な原因かもしれませんね。
ro. さん、そういうことですね。読者にわかりやすく、またあまり長くないようにテイマを絞って一つの投稿とされて、ゆっくりと投稿されたらと思います。あなたの発想は私などが及びもつかない所がありますので、ここでしたら青草掲示板、また他の掲示板でも面白いテーマになると思います。

[7323] Re[7322]: 要件だけ。  玄松子 2006/04/20(Thu) 08:08 [Reply]
この書き込みもすぐに削除されるでしょうが。

> ハッキリ文章に書いているのに、情報が存在しない、
> もしくは断片的と言うことも理解困難な原因かもしれませんね。

本人が「ハッキリ文章に書いている」つもりなのが根本原因でしょう。
三段論法の三段目を、「ハッキリ」書いても、人には通じません。

[7322] 要件だけ。  ro. 2006/04/20(Thu) 02:45 [Reply]
神奈備さん。
お手数ですけど、これまで投稿したログを全部削除して下さい。
と書きました。物部は日ユに関係ありません。クシナダヒメを討とうとした人です。
また丹生姫と卑弥呼を区別されてないのではないですか。
始めそれがわからずにまとまらないまま書きました。

ハッキリ文章に書いているのに、情報が存在しない、
もしくは断片的と言うことも理解困難な原因かもしれませんね。

[7321] Re[7320]: 「まな」  nick [Url] 2006/04/20(Thu) 01:21 [Reply]
真名井の滝と云えば高千穂ですが
当地には「真名井田」もしくは「真板田」と云われる地域が
あります。

霧島市国分・重久に
熊襲の地主神・祖神を祭祀したのでは
と推察される「止上神社」があります。
その近くに
「隼人の首塚」があります。

続 日本記」巻八-15

養老5年秋7月巳酉(722)

征隼人副将軍従五位下笠朝臣御室、
従五位下臣勢朝臣真人ら帰る。
斬りし首、獲し虜合せて千四百余人

捕虜となってこの地で斬首された隼人族
の霊を慰たと云われる塚です。

ここを小さな小川が流れていますが
「手篭川」(てごがわ)と呼ばれて
この川が流血で紅に染まったと伝承されて
います。

周辺の水田を
真板田(まないただ)
と呼び、
毎年、1月14日を狩猟の日として、
この日獲れた猪の肉を
33本の串に差して
隼人の霊を鎮める祭りを
したと伝承される。

「猪切藪(ししきりやぶ)」と云います。

昔は、
「にえまつり」とか「ほぜさあ〜」
ともいい、
正月14日の「餅の日」には、
「ほぞえ祭」があったが、
現在は「ほぜさ〜(豊穣祭)」で秋の豊作感謝祭のみです。

[7320] 「まな」  福島雅彦 2006/04/19(Wed) 23:57 [Reply]
ご無沙汰しています。時々寄らせて頂いています。

※「マナ糸」=テグス(天蚕糸)は、釣り糸と承知しています。
∴「天の真名井」=「天(あま・あめ)…」⇒東の山(水縄連山(耳納山地))・「真名井」⇒魚が居る出水(泉)。
∴うきは市(浮羽町)の清水寺の名水百選の湧き水には魚が棲んでいます。

[7319] マナー講座ならぬ「マナ」高座。2  神奈備 2006/04/19(Wed) 20:24 [Reply]
 モノで思うのは大物主神です。この国のマナの大王的存在です。この神は三輪山のマナ(魔力)を現す神霊のことで、いわば自然のマナの象徴です。
 東征してきた神武天皇は大物主が丹塗矢に化けて勢夜陀多良比売の富登をつくと言うなれそめで生まれた比売多多良伊須気余理比売を娶りました。丹塗矢に化けると言うのは蛇神であったと言うことでしょう。
 伊須気余理比売との間の子である神沼河耳命が第二代天皇になりました。このようにして、王権が三輪山のマナを吸い上げていったのです。

 崇神天皇の時代、大物主神は祭り方が悪いと祟りをなしました。崇神天皇の統治が危うくなるほどでした。大物主が夢に顕れて、「我が子である意富多多泥古を以て自分を祭れば、国も安平(やすらか)になるだろう。」との託宣をしました。
 大物主の神子である意富多多泥古でさえ、全国的に探さねば見つからなかったようです。これはさしもの大物主のマナ(パワー)も弱りつつある標しなのでしょう。

  さらに崇神天皇の時代に、倭迹迹日百襲姫命は大物主の妻となりました。神は夜しか来ないので、「お顔を見ることができません。朝になるまで留まって下さ い。」と頼まれたので、「櫛函の中に入っていよう。」と答えられたのです。朝、櫛函を開けると、うるわしい小蛇が入っていたのです。「ア!」と驚く百襲 姫、大神は恥じて人の形となり、「お前は私に恥をかかせた。今度はお前に恥をかかせよう。」と言ったのです。百襲姫は座ったとたんに富登を箸でついてしま い、亡くなってしまいました。
 もはや、この段階では、大物主は正体を見破られた小物の神になっています。
 
 それでも、崇神天皇の後継者を決める夢占いの舞台はやはり御諸山であり、大物主神のマナが働いています。

  神功皇后が新羅出兵の兵を募るのですが、集まりません。大三輪の神社を建てて、刀と矛を奉られたのです。すると自然に軍卒が集まって来たのです。要は大物 主は侵略戦争をいやがっていたのでしょう。自然の力のマナを代表する神としては、戦いを好まないのは当たり前のことです。神宮皇后によって大物主は祭られ ることでその力を封じられたと言えます。福岡県朝倉郡三輪町の於保奈牟智神社の創建譚となっています。

[7318] Re[7317][7316]: 神奈備のマナー講座ならぬ「マナ」高座。1  神奈備 2006/04/19(Wed) 13:14 [Reply]
> > マナ 1 [mana]
> 超自然的な力・霊力・呪力などの観念。メラネシア起源の語で、宗教の原初的機能を説明する語として用いられた。
> > 普通の辞書には載ってないのでしょうか。

 言葉足らずでした。古語に見あたらないと言う意味です。
 『時代別国語大辞典上代編』と『沖縄古語辞典』にないとのことです。

> 「メラネシア起源」とは。
 起源がメラネシアかどうかは不明ですが、マナと言う言葉の意味は、日本の使いかた(モノ)に近いと言う意味です。ラピタ人のお話もありましたが、どこが起源かは不明なのでしょう。

[7317] Re[7316]: 神奈備のマナー講座ならぬ「マナ」高座。1  玄松子 2006/04/19(Wed) 11:06 [Reply]
投稿した本人は、
書いた「文章」と本人の頭の中の「情報」を合成できるので、わかりやすいと誤解しがちですが、
読者にはその「情報」が存在していないため、断片的な「文章」だけでは理解困難である、ということ。
自戒として再認識させていただきました。

ということで、
> お口直しになりますやろか。一席どうぞ。

ネット辞書(http://dictionary.www.infoseek.co.jp/)では、

マナ 1 [mana]
超自然的な力・霊力・呪力などの観念。メラネシア起源の語で、宗教の原初的機能を説明する語として用いられた。

普通の辞書には載ってないのでしょうか。
「メラネシア起源」とは。

[7316] 神奈備のマナー講座ならぬ「マナ」高座。1  神奈備 2006/04/19(Wed) 10:17 [Reply]
お口直しになりますやろか。一席どうぞ。

 マナと言う言葉があります。真名と書き、天真名井、真名鶴、真名子とかの使われ方が散見されます。真名子は可愛い子と解釈されています。井戸や鶴は可愛いと言うよりも、別の意味があるのかも知れません。
 大三元さんからは、「雑駁に:「マ」は「眞」、「マナ」は「眞・愛」「可愛」あたりの意味合いで不都合には思っておりません。」、「メラネシアの信仰にマナがあるんですね。どれほど古いものと考えて良くって、従って、古代日本と関連づけて良いのか判りませんけど。」と慎重な意見をいただきましたが、神棚にお祭りしておいて、下の方でゴソゴソと。
 全く意味のないいわば単なる語調で真名がついているとは思いにくい所です。
 マナと言うことばで現される概念に、「魂であり、気、超越した力を発揮するモノ」があります。魂でも遊離魂(死んでも残るモノ)ではなく、魔力を発揮するモノがマナなのです。
 赤道付近の島々では、マナギ、ママアナ、マヌなどと呼ばれています。印度ではブラフマン(梵)、末那識(マナナ)など。ブラフマンは、物質の世界を変える儀式や犠牲の力を意味するそうです。お釈迦様の母親は摩耶夫人と言います。摩術の力を持っているのでしょう。「アフリカでは、マハノ、ナム、ムングなど。古代ヘレニズム世界ではマナ、マニア、「出エジプト記」では、ヤハウエが降らしたパンのような食べ物で神与の糧を言うようです。

 沖縄ではマヤ神(真世神 マユンガナシ)、この神はアジマサの蓑笠をかぶり、雨の日に各戸を訪れる祭りがあり、素盞嗚尊の天降りのシーンを思わせます。

 さて、日本語の中に「マナ」と言う言葉があって、同じような意味だと『辞典』などに書いてくれていれば、それでいいのですが、大三元さんによりますとどうやらなさそうです。
 さまざまな学者さん(村山七郎、岩森永樹、小松和彦、大和岩雄の諸氏)は、モノはマナと同じ運動を現す言葉と言っています。マナ→モノとは言わずに、同じ運動とはうまいこと言うものです。
 修験者のマナ 護法童子と言う神霊で本尊の眷属神
 陰陽道のマナ 呪力で、具体的には式神
 市井の宗教家 人々にない能力としての動物霊
 高知の物部村 いざなぎ流では、マナは式王子と言う後たての神(守護霊)の総称だそうです。

[7294] Re[7293]: 登彌神社  神奈備 2006/04/16(Sun) 14:14 [Reply]
> 登彌神社略記に付いてもお教え下さいませんでしょうか。

「古来木ノ島大明神又は鳥見明神として古人の崇敬篤く・・」は略記の冒頭部分ですね。
略記は神社本庁発行の『平成祭りデータ』(¥2万円)というCDから写したものです。

[7293] 登彌神社  かわさき 2006/04/16(Sun) 12:02 [Reply]
神奈備さま
延喜式神名帳大和国のそ弐に掲載されております登彌神社なのですが「古来木ノ島大明神又は鳥見明神として古人の崇敬篤く」は上段の登彌神社略記に記載されているのでしょうか。また登彌神社略記に付いてもお教え下さいませんでしょうか。
お忙しいところ恐縮ですが宜しくお願い致します。

[7292] 天之日津久神社  神奈備 2006/04/15(Sat) 12:09 [Reply]
千葉県成田市台方の麻賀多神社内にある「日月神示」で有名な、天之日津久神社が二年ほど前に火災に合って焼失したそうです。ネットで調べても詳細がわからず、本当かどうかも含めて、詳細をご存知の方がいらっしゃれば教えていただきたいので。

[7291] Re[7288]: 豊中市の「歴史同好会」  どんたく 2006/04/12(Wed) 22:55 [Reply]
まだ「試験版」を出しただけなのに宣伝して戴いて有難うございます。

>  5月例会に行ってみようと思っています。

お待ちしています。是非是非おいでください。

[7290] 写真掲載ありがとうございます  (有)福住 加藤彰 [Url] 2006/04/12(Wed) 21:34 [Reply]
神奈備さん、写真掲載ありがとうございます。
今後ともご活躍期待しています。

[7289] 大仙陵  神奈備 2006/04/12(Wed) 16:01 [Reply]
 大阪市内の高津宮で聞いたお話から。
 毎年2月8日に堺市の大仙陵(伝仁徳陵)で宮内庁主催のおまつりがあり、大阪の高津宮や近江の沙沙貴神社の宮司さん方も招待されるそうです。
 沙沙貴神社の主祭神は少名彦神で、配祀神として大毘古神、仁徳天皇など。
 この神社の由緒書きによれば、「上古にあっては、大毘古神の末裔、沙沙貴山君の一族の氏神として尊奉されたとあります。ところが、『シリウスの都飛鳥』栗本慎一郎著 たちばな出版 によりますと、佐々木氏はミササギ(御陵)を造る集団だったので、ササキを名乗ったと推定しています。著者の祖先はこの近くの栗太郡の出だそうで、安土城の建設にも関わったそうです。仁徳さんの別名も大鷦鷯尊で、大きい墓の主です。
 近江には太郎坊と言う大きい磐座のある小山があります。三上山と太郎坊とは夏至の日の出、 太郎坊と沙沙貴神社は夏至の日の入りの方向と言うおもしろい関係にあります。また沙沙貴神社の摂社に磐境があります。

[7288] 豊中市の「歴史同好会」  神奈備 2006/04/12(Wed) 15:47 [Reply]
 豊中市に「歴史同好会」があり、充実した内容の例会が開られています。
 日時:月1回 第2土曜日 14時〜16時
 場所:豊中市立蛍池公民館(阪急:蛍池駅の西隣))
 詳細は ↓
http://homepage2.nifty.com/toyorekitest/
http://homepage2.nifty.com/toyorekitest/2006.html
 講師陣はそうそうたる顔ぶれです。
 5月例会に行ってみようと思っています。

[7287] オリオンの隣  平御幸 [Url] 2006/04/11(Tue) 00:17 [Reply]
古代史サイト・エフライム工房の平御幸(Miyuki.Taira)です。URL変更しましたのでよろしくお願いします。

 http://www.geocities.jp/atelier_efraym/

ところで、オリオンの話が出ていますが、築山古墳などの大和西古墳群は、オリオンの隣の牡牛座を地上に映したものです。牡牛座の肩はプレアデス(昴)ですが、こちらは斑鳩の寺院配置に重なります。推古天皇陵などの太子町古墳群はカシオペアです。羽曳野古墳群は白鳥座に見えます。でも、オリオンは現段階では見つかっていません。

こちらの詳細は http://www.geocities.jp/atelier_efraym/horyuji14.htm


大和西古墳群が牡牛座を模った理由ですが、先祖のヨセフが丑年生まれで、それでヨセフがモデルとなったアメン神も雄牛をシンボルとしたのです。古代日本は、ヨセフの子エフライムを皇統とした北イスラエル王国系と、ヨセフの弟のベニヤミンを皇統とした南ユダ系の鼎立した時代なのです。それが、エフライムを意味する武の系列と、ベニヤミンを意味する明の系列の天皇名になっているのです。天武はエフライム系、用明は突厥のベニヤミン系です。ベニヤミン系はトルコを意味するタリ・タル・タラを名前に持つのが特徴です。ちなみに、蘇我氏や高市はコーカサス系イスラエルです。

オリオンは名前からも、ヨセフの義父であるオン(ヘリオポリス)の祭司ポテペラの象徴と思えますが、ヘリオポリスの神官団は後に反イスラエルになっていますから、それが、オリオンが古墳群に残されていない理由かもしれません。まだ調査中ですが、三つ星は天の三神を意味しますから、神社に有っても不思議ではないと思います。


[7286] Re[7285][7283]: 勝手に  QUBO 2006/04/10(Mon) 10:51 [Reply]
『海を知らないものの戯言としか思えない。』
発言者として、勝手に青草掲示板に移ります。
よろしく

[7285] Re[7283]: おまけネ  恋川亭 2006/04/10(Mon) 00:56 [Reply]
なんか割り込んでるけど?(笑) 付録のおまけを追加。
「住吉三神とオリオンの三ツ星」のことで。本来ならば青草板的ですが、流れでここへ。

まずは、前に指摘したことの再掲。
(1)上・中・下と並んで東の空に順番に昇った星は、西の空に沈むときには(昇ったとき上の星が)下になって、(昇ったとき下の星が)上になってしまう。当り前のことだけど、上・中・底という名称は昇るときのものなのか?ちなみに僕は上る三ツ星も、沈む三ツ星もこの目でちゃんと見てます。

次に現物を見た人なら気づくこと。
(2)オリオンの三ツ星には、3番目の横にやや小さな星があります。これなんか、そのまんま住吉大社の神殿の並びなのですが、あまり話題にならないねぇ。

(3)三ツ星の下、やや離れたところに、オリオン座の大星雲があります。光害のないきれいな星空でみると圧巻!三ツ星とセットになった伝承がぜひとも欲しいところ。

(4)古代祭祀研究家の薬師寺慎一先生の説によると、大隅(おおすみ)のスミと住吉(すみのえ)のスミを関連づけて隼人とのつながりを考察されています。僕自身は眉唾的に思っていますが(ごめんなさい)、調子づいて悪ノリすると・・・、オリオンの三ツ星を囲む巨大な天の四角形を「大きな四隅」→オオスミ、ってなシャレは思いつかないかい?(笑)。

(5)ナニワの地に立って見る冬の三ツ星は、生駒の山影から昇り、瀬戸内の天空を西行して、はるか九州方面(淡路島で見えないけど)へ沈みゆくのである。西国遠征の導き星と象徴できるかもしれない→ただし、季節の検証が必要。

以上、ただ思いついた青草的なお話しです。(これらでは傍証にすら成り得ないなあ)

[7284] Re[7282][7236][7234][7233][7231][7230]: 筒  素隠居 2006/04/10(Mon) 00:16 [Reply]
> 「底」と聞いて、甕を連想するのは天津甕星の影響で、普通は「船底」を連想するでしょうね。

この場合の普通は、海の底じゃないのかい?

[7283] Re[7281]: ハイ、降参です  恋川亭 2006/04/10(Mon) 00:03 [Reply]
 PONTAさん、おつかれさまです。『「三筒男=オリオンの三ツ星」とする説』、1週間ぶりのごぶさたですね。1週間お待ちの上、きちんとご投稿いただき感謝申し上げます。
さて、・・・

> ・過去において船乗りがオリオンの三ツ星を信仰していた地域はなかった。

 僕には、このこと↑を指摘できるほどの技量がありません。仮に「船乗りがオリオンの三ツ星を信仰」した資料があったとして、それを見つけたヨ、という報告なら可能性がなきにしもあらずですが、「無いことの証明」はとてもできそうにありません。

> ・そういう地域はあったが、日本との交流は直接的にも間接的にも全くなかった。

 これも先の例と同様で、僕には超難題です。仮に、「そういう地域」と日本との間に共通の信仰があり、なおかつ、周辺の事例を含めて交流の形跡が認められる・・・そういった資料が1つでも残っている場合は交流の仮説が立てられますが、「全くなかった」ことの証明はやはりできそうにありません。

> ある地域の船乗りがオリオンの三ツ星を信仰していて、それが日本に伝わって、
> 住吉大神と神仏習合ならぬ神神習合したとする説ですので、

 @ ある地域の船乗りがオリオンの三ツ星を信仰
 A それが日本に伝わって
 B 住吉大神と神仏習合ならぬ神神習合した

 @とAは先に記述した内容ですね。Bについてもそれらと同様に、仮に住吉大社あるいはその関連等に、「住吉大神と神仏習合ならぬ神神習合した」ことを示す資料が現存する場合は資料批判の方途もあるでしょうが、伝来した信仰と習合した可能性が「全く無いことの証明」にいたっては、僕には「まったく」無理です。

 以上のことから、PONTAさんの主張に対して、「無いことの証明」をもって批判できないことを認めます。〔このような対論の進め方が正しいのかどうか?ここは議論方法の是非について語る場ではないので言及しません。〕
 ただ願わくば、歴史のことがらですから(青草板でないので)、
『事例の紹介によって論を進めて頂くととても嬉しい』
と僕は思っています。僕の星の話しも、あくまで僕が経験した事例をあげて説明しています。拙い経験に過ぎませんが、机上の推論や無検証の他者の説ではありません。

> 住吉大神と神仏習合ならぬ神神習合したとする説です

 『神神習合した』という視点、『習合』とみている視点については、慧眼だと思います。とても重要、とても大切なポイントだと。そのためにも、習合以前の神と神をそれぞれ追いかけたいですね。

 同じような例で、スサノオノミコトと牛頭天王の場合も、習合の視点が無しに、ごちゃまぜで語られる投稿も多くて残念に思っていたところです。
 僕は渡来を否定しているのではありませんが、渡来礼賛論の多くは渡来元の検証が貧弱で不満を持っているのです。批判の不満じゃないですよ、欲求不満。本当は渡来ロマンを持ちたいのにね。
− − − − − − − − − − − − − −
> 松村潔著『日本人はなぜ狐を信仰するのか』(講談社現代新書)

松っちゃん、ねぇ。面白そうな宿題。また来週。

[7282] Re[7236][7234][7233][7231][7230]: 筒  PONTA 2006/04/09(Sun) 22:49 [Reply]
> PONTAさん、ありがとうございます。
> > 水平線から上がってくる順番だったかと。
> > 上中底という表現は壷(大甕)のイメージ?

> 壺はおもしろい発想ですね。

「底」と聞いて、甕を連想するのは天津甕星の影響で、普通は「船底」を連想するでしょうね。

>天川弁天の鎮座地を「坪中天」に例えますが、「壺の底」は根の国に通じているのかも。

壷の底は知りませんが、竹とか瓢箪とか、中空のものは異世界に通じていると考えられていたと竹取物語の解説書に載っていたかと思います。うろ覚えですが。

[7281] 無題  PONTA 2006/04/09(Sun) 22:23 [Reply]
今、松村潔著『日本人はなぜ狐を信仰するのか』(講談社現代新書)を読んでいます。著者はカバラ(正確には「カッパーラ」でしたっけ?)の研究者でもあり、話が中国やインドやエジプトにぽんぽん飛んで、追いつけない状態です。日本の神の正体を世界的規模で考証する時代になったのでしょうか。

先日の件は言葉足らずでした。「三筒男=オリオンの三ツ星」とする説は、こういう世界的規模の考証から生まれた説ですので、
> 海を知らないものの戯言としか思えない。
> 体感しているとはとても思えない。
という日本人の発想での批判はどうかと思います。
ある地域の船乗りがオリオンの三ツ星を信仰していて、それが日本に伝わって、住吉大神と神仏習合ならぬ神神習合したとする説ですので、批判するなら、
・過去において船乗りがオリオンの三ツ星を信仰していた地域はなかった。
とか、
・そういう地域はあったが、日本との交流は直接的にも間接的にも全くなかった。
とか、批判するべきだと思います。

[7280] Re[7278][7277]: 某歴史研究会  かまど 2006/04/09(Sun) 22:18 [Reply]
神奈備様

そうでしたか。

> 第4日曜日に大阪におられるなら連絡ください。ご案内いたします。
すいません、昨年からなかなか関西には行けない状況となっていまして、第4日曜日行けそうにありません。せっかくのお誘いありがとうございます、また申し訳ありません。

ありがとうございました。

[7279] Re[7272][7268]: 先代旧事本紀  nick [Url] 2006/04/09(Sun) 20:36 [Reply]
どうもありがとうございます。
早速拝見しました。
夕方、「海幸彦・山幸彦」の神話伝承探訪から帰宅しました。
お天気に恵まれて助かりました。同伴の父も至って元気でこれまた
助かりました。
「玉依媛」を祭祀する神社とその陵墓も廻りました。
伝承が昔からあるようでちょっと調査する必要がありますが。
そして「海幸彦」を主祭神とする神社も。
こちらの創建はかなり新しいようですが室町時代のようで。
それでも
いい収穫でした。暇を見て後日掲載予定です。

[7278] Re[7277]: 某歴史研究会  神奈備 2006/04/09(Sun) 19:37 [Reply]
期待はずれですみません。
浪速の古代史研究会と言う会で、ここで陶芸家の老人から鞴には狸の皮を貼る、強くて空気を通さない点で優れていると聞き、皮張明神の話をだした次第。
第4日曜日に大阪におられるなら連絡ください。ご案内いたします。

[7277] 某歴史研究会  かまど 2006/04/09(Sun) 19:30 [Reply]
神奈備様

某歴史研究会ってどんな研究会ですか?高野山大学や大谷大学などの関係の研究会ですか?

紀伊続風土記を参考にされているかと思いますが、それより100年ほど前に地元の人の意志によって書かれた皮張大明神縁起を参照されることをお勧めします。

紀伊続風土記は、この皮張大明神縁起を参考にして書かれているようですが、紀伊続風土記の作者の推測に対して、都合の悪い部分は削除されています。

ちなみに、皮張大明神縁起には「遊猟を翫好とし獣皮を付けて戯具に備う、よりて皮張・皮付或は狩場の明神とも拝み奉る」とあります。

「皮張明神とも言うが、フイゴに狸を皮を張ることからの命名。」が何か古文書に残っていたら面白い発見だと思ったのですが、残念です。

[7276] Re[7275][7274]: 皮張明神  かまど 2006/04/09(Sun) 18:28 [Reply]
> > 皮張明神とも言うが、フイゴに狸を皮を張ることからの命名。
> 残念乍古文書からの引用ではありません。某歴史研究会での討議の中で出した話で、大方の賛同を得たので書いてみみました。

つまり、神奈備様の推定という事でいいのでしょうか?

[7275] Re[7274]: 皮張明神  神奈備 2006/04/09(Sun) 15:48 [Reply]
かまどさん、こんにちは。

> 皮張明神とも言うが、フイゴに狸を皮を張ることからの命名。

残念乍古文書からの引用ではありません。某歴史研究会での討議の中で出した話で、大方の賛同を得たので書いてみみました。
従って真偽の保証はありません。

[7274] 皮張明神  かまど 2006/04/09(Sun) 13:40 [Reply]
神奈備様こんにちは。

http://www.kamnavi.jp/log/ugainu.htm

で「皮張明神とも言うが、フイゴに狸を皮を張ることからの命名。」とあるのですが、初めて聞く話であったので、古文書をいろいろ探したのですが、この記述を見つけられませんでした。
もしよろしければ、どの古文書で書かれていたのか教えて頂ければ幸いです。

[7273] Re[7272][7268]: 先代旧事本紀  神奈備 2006/04/08(Sat) 21:39 [Reply]
> 『先代旧事本紀』が図書館で見つかるまでは
> http://www.h4.dion.ne.jp/~munyu/kujihonki/yaku/mokujiiikagen.htm
> http://www.kenkenfukuyo.org/reki/sendai-new/sen000.html
> http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/sendaikuji_mokuji.htm
> 等をご覧になられていてはどうでしょうか。

PONTAさん、ありがとうございます。
本当にネットの世界ってありがたいものですね。
問題は正確さです。
 神社を紹介するサイトも多くなってきましたが、いささか首を傾げるのもありますね。神奈備にも間違いがあると思います。時々ご指摘を受けます。ありがたいことです。必ずお礼の返事をするようにしています。

 小生も時々指摘させていただくのですが、無視、返事も訂正もないサイトもあります。情けないことです。

[7272] Re[7268]: 先代旧事本紀  PONTA 2006/04/07(Fri) 23:12 [Reply]
> 物部氏の「先代旧事本紀」
> に当地、串木野や冠岳、あるいは照島
> の地名が散見されるそうですが
> (残念ながら未だ読んでおりません)

『先代旧事本紀』が図書館で見つかるまでは
http://www.h4.dion.ne.jp/~munyu/kujihonki/yaku/mokujiiikagen.htm
http://www.kenkenfukuyo.org/reki/sendai-new/sen000.html
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/sendaikuji_mokuji.htm
等をご覧になられていてはどうでしょうか。

[7271] Re[7270][7269][7268]: 先代旧事本紀  nick [Url] 2006/04/06(Thu) 12:58 [Reply]
さっき図書館から帰宅、幾つか物色しましたが結局見当たりませんでした。
貴重本は『部外者厳禁」のようで。
古書店も回りましたが、なかなかでした。
本居宣長のも幾つか読みたいのですが。。

明日から「神話伝承探訪」で宮崎へ出かけます。父同伴で一巡りしてきます。
主に「海幸・山幸」関連の史跡・神社です。

[7270] Re[7269][7268]: 先代旧事本紀  nick [Url] 2006/04/05(Wed) 10:55 [Reply]
>  現代思潮社の『先代旧事本紀』を眺めているのですが、まだ出てきません。なにせ、全部漢字でそれの墨書きのもの、持っていても読めない代物です。トホホ

お手数をおかけします。

>  安本美典著 古代物部氏と『先代旧事本紀』勉誠出版
> が参考になるのかも。

今雷雨中。ちょっと小降りになりましたか。
天気が好くなったら図書館に出かけてみようと思ってます。
あればいいが。。

おおまかな地名、例えば南薩摩とかかも知れません。
聞きかじりで恐縮です。

時に足の腫れ、ひきましたか。お大事にご養生を。

[7269] Re[7268]: 先代旧事本紀  神奈備 2006/04/05(Wed) 10:16 [Reply]
> 物部氏の「先代旧事本紀」
> に当地、串木野や冠岳、あるいは照島
> の地名が散見されるそうですが

 現代思潮社の『先代旧事本紀』を眺めているのですが、まだ出てきません。なにせ、全部漢字でそれの墨書きのもの、持っていても読めない代物です。トホホ

 安本美典著 古代物部氏と『先代旧事本紀』勉誠出版
が参考になるのかも。

[7268] 先代旧事本紀  nick [Url] 2006/04/05(Wed) 07:36 [Reply]
物部氏の「先代旧事本紀」
に当地、串木野や冠岳、あるいは照島
の地名が散見されるそうですが
(残念ながら未だ読んでおりません)

何か徐福に繋がるのでしょうか。

[7266] Re[7265]: 文章リンクが多かったので。  nick [Url] 2006/04/04(Tue) 08:23 [Reply]
roさん
> これまで日本史に関する知識もほとんどなかったので(祭神名だけで右往左往してた)、
> 気軽に調べ始めただけなのに、日ユ論でここまで調べることになると思いませんでした。
>
> お気遣いありがとうございます。(^^)うれしかったです。

このサイトを始め、大三元さんや玄松子 さんの頁で難解な語句や慣習等に
ついては勉強したものですよ。
田舎の図書館には「宗教・寺社関連」の書籍は皆無ですから
余計ありがたかったですよ。

前出でご紹介したように、パソコン黎明期は、このような専門知識のサイトは
700円/分の利用料金が派生していたわけで、それも今とは比べ物にならない
低速回線でした。(300ボー)

歴史探訪で、しょっちゅう不可解な事を見つけては、不明な点や疑問点の質問を。
すると即座にご回答を頂けた。それも莫大なページ数のを。
嬉しかったし励みになりましたよ。

今も古文書は半分も理解できませんが、あちこちの頁を拝見しては
現場を踏んで、まほろばを追い求めている訳で。

やはり謙虚な気持ちで研鑽を積むことではないでしょうか。

歴史が如実に物語っているでしょう。

[7265] 文章リンクが多かったので。  ro. 2006/04/04(Tue) 01:46 [Reply]
>ユダヤ教からキリスト教もイスラム教も〜。
これは比喩のつもりでも用いました。
時代劇ばかりだとページの途中から見ているような違和感というか。
それにあちらの宗教とか、また飛躍しすぎとか思いません。
飛躍してることと間違ってることはイコールではないので。。。
でもこのサイトの趣旨と違うことは理解してます。

調べてて見つけた写真です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%BB%E5%83%8F:Borobudur-perfect-buddha.jpg

これまで日本史に関する知識もほとんどなかったので(祭神名だけで右往左往してた)、
気軽に調べ始めただけなのに、日ユ論でここまで調べることになると思いませんでした。

お気遣いありがとうございます。(^^)うれしかったです。

[7264] Re[7263]: まだ調べてないことはあるけど。  nick [Url] 2006/04/03(Mon) 22:23 [Reply]
roさん。
> ただユダヤ教からキリスト教もイスラム教も出ています。言ってみればユダヤ教がなければキリスト教も
> イスラム教も(仏教も?)ないわけです。例えばそれをユダヤ教のことに全く触れずに上辺の事象だけで
> 書いているので疑問が出るわけです。そうすると勘ぐられ、レスがつかないわけですね。
>
> ありがとうございました。

端的に云うと「ここはあちらの宗教を論じる場では無い」と云うことですよ。
日本の宗教それも古代の。。
幾分近辺の渡来の影響はあるわけですからそれも含んで。。

貴方のはちょっと飛躍しすぎたのでは。。
それはご自分のサイトで論陣を張れば済む訳ですよ。
だから、別に排除しようとしたのでは無く
「このサイトに不向きなポスト」ということと私は解釈しています。

当地は「キリスト教及び一向宗禁制・弾圧」の暗い歴史がありますから
年内をめどに掲載予定です。
一応、古文書からのピックアップで当地の「門割制度」に準じた範囲ですが。
弾圧された信徒の墓もあるようですから。。
その場合は大歓迎です。なんせそちら方面はさっぱりですから。
ま、余り脱線すると削除の憂き目を見ますが。笑。

「物は云いよう、話は聞きよう」っていいますから。
所詮はお釈迦様の手の内。

[7263] まだ調べてないことはあるけど。  ro. 2006/04/03(Mon) 21:45 [Reply]
nickさん。
>実は私も以前福祉介護のサイトへポストした事があります。日常の事を細部に渡ってね。
>そうしたら即削除されました。「刺激が強すぎる」という理由でした。
現在でもそういうことは多々ありますね。

>「掲載・削除」の権限はあくまでもサイト管理者に帰属する。
これはそう思います。

ただユダヤ教からキリスト教もイスラム教も出ています。言ってみればユダヤ教がなければキリスト教も
イスラム教も(仏教も?)ないわけです。例えばそれをユダヤ教のことに全く触れずに上辺の事象だけで
書いているので疑問が出るわけです。そうすると勘ぐられ、レスがつかないわけですね。

ありがとうございました。

>丹生都姫神の人たちが出てくるからですね。
これ訂正です。丹生都姫神のことではないです。
実際に稲荷の総本社の伏見稲荷大社を創建したのは秦公伊呂具で鳥居の朱の由来も丹生都姫神です。
であれば狐じゃなくて狛犬(獅子)のはず。なのになぜ狐になっているかと言うこと。
アマテラスの天照大神と妹神の丹生都姫神を同一人物と見るかどうかで解釈もかわりますけど。

アマテラスが機屋で神に奉げる衣を織っていた時、スサノオは機屋の屋根に穴を開けて、そこから皮を剥いだ馬を落とし入れ、
一人の天の服織女が驚いて梭(ひ)で陰部を刺して死んでしまった。ここにきてアマテラスはスサノオの行動に怒り、
天岩戸に引き篭ってしまった。高天原も葦原中国も闇となり、様々な禍(まが)が発生した。(Wikipedia)

また仏教と言ってもいろいろで(そこまで詳しくないですけど)、空海や聖徳太子を支援したのも秦さんだし、
伏見稲荷も秦公伊呂具が創建した。秦氏もまた絹以外に丹生の地名や丹生神社の鎮座地に多く分布しています。
また丹生都姫神と天照は中国の呉から来た。姓は姫(き)、泰伯とも言うそうです。絹や機織も関係しそう。
ただ名前だけでは判断できないこともあり、経由で一時的にいたことや、それを利用されることも。
物部は韓国ですね。中国と言ってもそれぞれ地域によって違うでしょうし、わかれてるみたいですね。
http://help.yahoo.co.jp/help/jp/common/view/view-09.html

蘇我馬子とか物部守屋とか大国主のような例もあるし。系統などもあるのでしょうけど。
秦氏は以前に縄文のときにすでに日本にいてからも(丹生都姫神らも)渡ったようにも二段階で来たようにも思えます。

それに稲作もスサノオが来るヤマタノオロチ前の縄文からあったんじゃないですか。
クシナダヒメの別名は稲田姫でもある。日本三大御田植え祭の傾向にも現われています。


r-rさん。

>自慢的な思考の一方的披露や、常識を逸した無神経な疑問の書込みなど、簡単に言えばそれって「おかしいのんとちゃうん?」といえばイイノか。
>高速道路の橋脚やシャッター・塀などの書込み?とはいわないまでも、それみたいなものでしょうか。それに近い感じがしましたです。
>打てば響くような?、意見の柔軟さが欠如してるんちゃいまっか?。

ひねくれてますね。単純に疑問に思ったことを調べて聞いたり書いているのにそういうふうに解釈し、
あなたに理解できないことは全部自慢的な思考で常識を逸した無神経さ、あなたの性質を現してるだけの書き込み。
というかレスを書くのも無意味。要するにあの削除された文には刺激が強い以外に実情が含まれていたと言うこと。

[7262] Re[7260]: 親愛なるPONTA殿  恋川亭 2006/04/03(Mon) 01:44 [Reply]
> 呼び捨てにされるとついつい感情的になってしまいます。
> すみませんでした。

感情的にさせてしまって申し訳なかったです。
こちらこそ、すみませんでした。
わざわざお詫びの投稿まで戴き、恐れ入ります。

 あなたの投稿は、綿密な努力が溢れているので敬服して拝読してきました。かたくななスタイルは、まだこれからの充実でこなれていくと思いますが、取組み自体はご立派な姿勢だと感心しています。
 そして『PONTA』のネーミングは多くの方からフレンドリーに呼びかけられてしかるべき愛称だとも思います。あなたの投稿は、これからの大きな成長を感じさせます。さらなるご活躍を期待していますよ。だから応援の気持ちを込めてレスしています。頑張ってください。

[7261] Re[7257]: 星  恋川亭 2006/04/03(Mon) 01:11 [Reply]
ダラダラ書いたのにちっとも要領を得ないもので、ごめんなさい。
僕が思っているのは・・・、
 羅針盤のない頃の航海は、海(潮)の変化、風の変化、雲や雨の変化、地形、月齢、星の位置、季節、鳥や魚の様子、代々の口伝、身につけた経験、仲間内から得た近頃の情報、そいったものを総合的に駆使した智恵だったと聞きました。潮に匂いや音があり、風に色があるんだヨ。陸の見えない海域では鳥の種類も貴重なヒントとか。そういった中で、星もひとつの要素ではある・・・が、突出した重要度を持つとは言いきれない。結局、航海にあたっていちばん重要なのは、伝承つまり代々の経験が集積された『教え』だとは思う。
 ・・・ということでした。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−
> 私がオリオン座の三ツ星説を正しいとして書き、それを批判する書き込みをされていますが、私は単にこういう説もあると紹介しているに過ぎませんので、私を攻撃するのはやめてくださいね。オリオン座の三ツ星説の批判なら大いに結構です。

 批判は対話だよ。喧嘩じゃないさね。ましてや「攻撃」だなんて笑ってしまうよ。そんなに尖る必要はないし、投稿のキャッチボールができなきゃ掲示板の意味はない。だから僕は疑問形、質問形で書いてるでしょ?互いに誤解を解くようにつとめるのが参加者の義務だと思う。
 固くなるとネットに溢れる『わからず屋の変な奴ら』みたいになってしまうから(笑)。
ねばり強くも、広い気持ちで軽やかに対話していきましょうよ。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−
> ただ、そういう航海をしている人々がオリオン座の三ツ星を信仰の対象とし、それが日本に伝わったと考えます。つまり、オリオン座の三ツ星説は、「大海を知らないもの」=日本の船乗りが、「体感」しないで、大海を知るものの航海の神を自分たちの航海の神として受け入れたとしています。つまり、航海の神は仏教の仏のように外国から来た神である可能性が高いとするのです。

 うん、そこまでの主張はわかりました。とりあえず提案ですが、『オリオン座の三ツ星』が長い表現なので、伝統的に『参星』と表記させてください。
 そこで質問@、1500〜2000年くらい前の外国に参星を「航海の神」として信仰している海洋民の例として、想定されているものを教えてください。住吉神信仰とつながりそうな例があると興味深いですね。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−
> RE:[7258] 金星
 これは金星が航海の守護神になった信仰の例ですね、有り難う。(やはりイシス神はとても重要ですね。)
 ちなみに僕の母校の近所にも海星女学院がありまして、そこのマリア像が深夜に動くという怪談が広がった時期がありました。当時その騒動は新聞にも紹介されました(笑)。この海星女学院の夏の制服は、関西の女子高の中でも一番清楚で可憐なデザインとして称賛されていましたっけ(男子高連中にね)。こりゃ脱線!
−−−−−−−−−−−−−−−−−−
> RE:[7259] 北極星
> 書き方が悪かったのか伝わらなかったようですね。

ごめん、僕の読み方が悪かったようです。(爆笑)
ってか、もろに『アンタの読み方が悪いのヨ!』という表現ですな。マリア様のような包容力とは言わないけども、もう少し余裕をもってもいいのですよ。
これからも、賛同や称賛だけでなく、疑問や批判、反論を書くかもしれません。でもね、それは誰か個人の人間性を「攻撃」するためではないからね。対話を重ねて見えてくるものもある、それが掲示板だよ。落ち着いていこう!
 僕のレスは日にちがかかるかもしれないけど、気長に構えてね。また来週。

[7260] 無題  PONTA 2006/04/02(Sun) 23:49 [Reply]
>PONTAさあ、

呼び捨てにされるとついつい感情的になってしまいます。
すみませんでした。

[7259] 北極星  PONTA 2006/04/02(Sun) 23:47 [Reply]
>PONTAさあ、僕はちょっと違うように思うけどなぁ。
>『星の中で1番偉大なのは北極星』とか『北極星=天皇』とかってのは、インテリが輸入して官僚が都合よく利用した「デッチあげ思想」じゃないのかな?

「大王」にかえて「天皇」という言葉を考え出したのは当時のインテリで、それは「デッチあげ思想」ではなく、根拠のあるものですが、いずれにせよ、それが問題なのではなく、「そうしよう」と決めたら、天津甕星が邪魔になったと書いたわけですが、書き方が悪かったのか伝わらなかったようですね。

[7258] 金星  PONTA 2006/04/02(Sun) 23:42 [Reply]
日本には「海星」「海の星」という名の学校があります。
海星とは金星であり、マリア様です。
紀元3〜4世紀、異教徒たちをキリスト教に改宗させるために、キリスト教徒は、当時流行していたイシス信仰を利用しました。イシス-オシリス-ホルスの関係が、マリア-ヨゼフ-イエスの関係に酷似していたのが好都合でした。これりより、イシス=マリア信仰(2000年にカトリックに吸収されたコプト教へ発展)がうまれたのですが、イシスは船の守護神でしたので、マリアも船の守護神と考えられるようになり、羅針盤のない時代に航海の指標となった金星がステラ・マリスと呼ばれるようになりました。

[7257]  PONTA 2006/04/02(Sun) 23:33 [Reply]
>僕もオリオン座の三ツ星を航海の目印とした(さらに神格化した)という説には疑問をもっています。
> 海を知らないものの戯言としか思えない。
> 体感しているとはとても思えない。

私もそう思います。
漁師は主に昼間に漁をしますし、自分の位置は見立て山で確認しています。
星で位置を確認するのは、星以外に何もない大海原を夜に航海する時でしょう。
ただ、そういう航海をしている人々がオリオン座の三ツ星を信仰の対象とし、それが日本に伝わったと考えます。つまり、オリオン座の三ツ星説は、「大海を知らないもの」=日本の船乗りが、「体感」しないで、大海を知るものの航海の神を自分たちの航海の神として受け入れたとしています。つまり、航海の神は仏教の仏のように外国から来た神である可能性が高いとするのです。

>PONTAさあ、僕はちょっと違うように思うけどなぁ。
私がオリオン座の三ツ星説を正しいとして書き、それを批判する書き込みをされていますが、私は単にこういう説もあると紹介しているに過ぎませんので、私を攻撃するのはやめてくださいね。オリオン座の三ツ星説の批判なら大いに結構です。

[7256] Re[7218]: 説さんざん  恋川亭 2006/04/02(Sun) 21:02 [Reply]
むしかえすわけではないのですが、久々のアクセスで遅いレスになりました。

> RE:[7218] 『説さんざん』QUBOさん(2006/03/26)
> [オリオン座の三ツ星]こんなものが何の目印になるんだろう?

 僕もオリオン座の三ツ星を航海の目印とした(さらに神格化した)という説には疑問をもっています。
 ・この船乗りは冬場(北半球では)しか航海しないのかい?
 ・月光が強くて星が見えにくい旬日はどうするの?
 ・雨や曇りで星の見えない夜はどうするの?
 ・わざわざ難儀な夜に航海するのかいな?
などなどボヤキ(笑)が出てきます。QUBOさんの主張されるように、
 > 海を知らないものの戯言としか思えない。
 > 体感しているとはとても思えない。
に同意します。さらに言えば、「星を知らないものの戯言としか思えない。」でもあります。
 ただし、まったく無意味かというわけでもなく、オリオン座の三ツ星を方位を知る補助として利用できなくもない、という程度のことはあると思います。
 では、星によってわかる事とは、どんなものがものがあるか。星を目印とする生活を数年過ごしたら身につく例をあげてみます。

(1)季節感  これは圧倒的です。とても大きい!(笑)
 太陽の変化から受ける印象よりも正確ですよ。「今年も、この時間にこの星が昇る季節になったなぁ。」と風情を覚えること請け合いです。ですから、「麦踏み星」などといって、日本の星の名には農耕作業に対応するものなどがあります。

(2)時間   夜通し作業や移動をしていると、星の位置の変化で時間の経過を感じます。それは、昼間の太陽の動きと一緒ですね。ただし、星は毎日少しずつずれるので「一夜毎の時間の経過」が正確な表現ですね。夜間ハイキングすれば実感できます。

(3)方位について
 北極星でない限り、星は宵と夜中と明け方で位置が変化します。その夜の、季節と時間と星の配列がよく理解できていると、特定の星をチラッと見て方位を知ることは簡単です。空が曇って北極星が見えないときなど、わずかな雲の隙間からみえた星により判断することが可能ということです。補助的手段(よほど星座とか知っている人の例です)。

 こんなところでしょうか。ただし、最後の(3)については、天空観の体系的学習が必要になるかも。
 オリオン座の三ツ星が、わざわざ「方位を知る為」に有力な、神格化するほどの象徴たりえるとは思いにくいのですがねぇ。もしそうならば、もっとしかっりとした『伝承』が欲しいところです。ちなみに昇り(星の出)に、上・中・下と順に並んだ星々は、南中を過ぎて西の空に沈む頃(星の入)には、一番目が下に、最後が上になっちゃいます。「底」に出た星が、「上」になって入るのね。

> RE:[7222]『説さんざん』QUBOさん(2006/03/26)
> もっとも光る星でも、天津甕星(アマツミカボシ)と否定的なのにね。

 明けの明星:薄明から日の出のとき、他の星々は次々と明け方の白みに消えていくの中で、最後まで輝いている星。
 宵の明星:日の入りのすぐ後、まだ赤々と陽光の名残が残っているにもかかわらず、真っ先に燦然と輝き始める星。
 こう思い出して実際に実物を眺めてみると・・・、希望的、栄光的な崇高さに溢れる金星なんだけどなー。現物を見た人で、あれが悪神に見えるのかな?禍禍しい印象なんてちっともないのにね。
 本来は「星空の主」として、肯定的に崇拝されていてもおかしくないくらいの輝きなんですがね、いかんせん滞空時間が短い。(笑)
 願い事をしたくなるような星なのに。それって、神様じゃん!(笑)

 「太陽に逆らっている」と捉えて、悪神になぞらえて否定的に語られるのは、政治的・文学的つまり意図的な(利用)説話なんでしょうね。キリスト教での、ルシファー(金星)の立場に似てますな。古き神々が異端の邪神として貶められるのでしょう。

 僕は、天津甕星の「甕」という言葉に、貶めようとしても貶められない古代神の栄光を読む思いです。まあ、星神への駄説、以上で失礼します。

あ、追記!
> RE:[7234]『筒』PONTAさん(2006/03/30)
> 天津甕星(金星?)が悪い神とされるのは、
> 星の中で1番偉大なのは北極星=天皇だとしたいからかな。

PONTAさあ、僕はちょっと違うように思うけどなぁ。
 『星の中で1番偉大なのは北極星』とか『北極星=天皇』とかってのは、インテリが輸入して官僚が都合よく利用した「デッチあげ思想」じゃないのかな?
 大和文化本来の香りがぜんぜんしないのだけど。ま、論争する時間がないので、感想だけの表明です。ごめんね。レスのひとつだと思って勘弁してください。

[7253] いわき市平中山 佐麻久嶺神社:新築造営工事  (有)福住 加藤彰 [Url] 2006/04/02(Sun) 20:33 [Reply]
いわき市平中山の佐麻久嶺神社の社殿(拝殿、幣殿、を新築 本殿を移築解体
9割補修)平成16年に新築工事を致しました。(有)福住を経営してます
加藤彰と申します。
偶然、伊太祁曽神社のHPを見ていたら資料作りの為と思いますが、
いわきまで来ていただき、佐麻久嶺神社の工事中の写真を載せていただいた
事に、親近感を覚え掲示板に載せてみました。
当社は、佐麻久嶺神社の仕事を平成12年に当神社の神社お神輿を収めたことが
きっかけで手がけるようになりました。
神社神輿、宝蔵殿、古峰神社(末社)神楽殿、手水舎、当神社(社殿)新築工事
八坂神社新築工事等、を任せられたりして大変勉強になりました。
当神社は歴史は大変古いみたいですが当時の古ぼけた怖い境内とは
すっかり様相も変わり明るく新しくなりました。
当神社に来たときに工事用看板をHPに載せていたので連絡していただければ
会ってお話でも出来たかと少し残念に思いました。

[7252] Re[7251][7249]: 薩摩藩の始祖誕生地  nick [Url] 2006/04/02(Sun) 11:07 [Reply]
いこまかんなびさん 管理人さん、
早速のお調べありがとうございます。

『摂津国名所図絵』の方は多少知っていたのですが、
『住吉名所図絵』は当地に図書館に無いようで、今度鹿児島へ出たら
ちょっと覗いてみます。

隼人町の島津の富隈城跡に「島津」が勧請した「稲荷神社」があります。
この辺りは昔は「住吉崎」と呼ばれていたようです。
案外関連があるのかもと。

神社は寺社探訪に掲載。

また、この生誕の日は土砂降りだったようで、その時雨宿りした神社の境内が
住吉神社で「狐火」を頼りに無事安産したとか。

この時の雨を「島津あめ」と云い「縁起の好い雨」の事を呼ぶように
なったそうです。

しかし近年、時もすれば「集中豪雨からの鉄砲水による土石流」で人災が多発する
傾向にあります。
今も豪雨です。そちらはどうでしょうか。

ありがとうございました。

[7251] Re[7249]: 薩摩藩の始祖誕生地  神奈備 2006/04/02(Sun) 09:25 [Reply]
 いこまかんなびさん ありがとうございます。

 誕生石のことは、『摂津国名所図絵』、『住吉名所図絵』にその記事が見えます。前者のは『後太平記』に関連のことが書かれているようです。

 『住吉名所図絵』概略
 誕生石 三の本社の側井垣の外と有 島津忠久出生の古跡なり 源将軍頼朝、土岐能員が娘丹後局を寵愛し懐妊す 政子方深く妬み丹後局を失わんと計る 頼朝の臣本多某便なきことに思い ひそかに局を具して津の国に来る 住吉の社にいたる時頻くるしみて産の気色に見へければ 本多驚き褥を石上に打掛 局を居させ太神に祈誓して安産をまつ 終に紐易く解て一男子を出生す 其後建久元年十月三日頼朝上洛の時 本多此事を以て詳に言す 頼朝本多を称して其子に伊賀伊勢の二州を賜ふ 同十三年大隅薩摩両国をあたへて島津三郎忠久と号すと云々
 

[7250] Re:[7249] 薩摩藩の始祖誕生地  いこまかんなび 2006/04/02(Sun) 08:49 [Reply]
私はよく知りませんが、住吉大社のHPに紹介されています。

薩摩藩の始祖誕生地
http://www.sumiyoshitaisha.net/place/meisyo.html

[7249] 薩摩藩の始祖誕生地  nick [Url] 2006/04/01(Sat) 21:17 [Reply]
住吉大社には薩摩藩の始祖・島津忠久の誕生石なるものがあるそうですね。
伝承となった出典をお判りなら。。
神社帳にでもあるのでしょうか。

http://www.sumiyoshitaisha.net/place/meisyo.html#no11

宜しくお願い致します。

[7248] Re[7246]: 稲荷寿司(鮨)  通りすがり 2006/04/01(Sat) 12:41 [Reply]
rさんって、多分自分で自分の身を滅ぼすタイプなんでしょうね。

こんな事してたら、rさん自信が疑われて、rさんが書いたものは全て作り物ではと疑われますよ。いくら書きこんでも、だれもまともに見てくれないと思います。

rさんのやり方があまりにもひどいので書き込んでしまいました。自分のHPで書かれたらどうですか?

[7247] Re[7246]: 稲荷寿司(鮨)  nick [Url] 2006/04/01(Sat) 07:47 [Reply]
いつも投稿ご苦労様です。
しかし貴方のポストに対してレスが全然つかないのを
お気ずきでは?

以前私が申し上げましたが、どうもご理解頂いていないようですね。

反論の根拠となる事由を掲げられるのが筋ではないでしょうか。
(参照された出典や公開論文、もしくは書籍、ご自身のデータ解析等)
残念ながらそれが見当たらない。

単に「他人の揚げ足を取る、もしくは重箱をつついているご意見」にしか写らないのは非常に残念です。

管理人さんも指摘されていましたが、連続投稿は「掲示板あらし」にしか
なりませんよ。

博識で貴重なご意見だけに掲示板ではもったいない。
最近は、ホームページやブログも簡単に作成できますから
そのようなシステムをご利用になり論点を展開されることを希望致します。

[7246] 稲荷寿司(鮨)   [Url] 2006/04/01(Sat) 00:45 [Reply]
稲荷寿司(駅弁)は、明治36年からの元祖稲荷鮨。

門前の山彦って店がデカデカと
「元祖稲荷寿司」って看板出してるけど
一番タチ悪い詐欺だな
天保の時代からこの店やってねーだろ

ヤフー辞書には、豊川稲荷発祥の記述なし。

いなり‐ずし【稲▽荷×鮨】
煮つけた油揚げの中に鮨飯を詰めたもの。しのだずし。きつねずし。おいなりさん。《季 夏》

大辞林

いなり-ずし 【稲荷鮨】

大辞泉
甘く煮た油揚げの中にすし飯を詰めたもの。しのだずし。きつねずし。

そもそも稲荷神社と寿司は、関係ないだろ。



[7245] 豊川稲荷のうさんくささ   2006/04/01(Sat) 00:30 [Reply]
そもそも、曹洞宗のお寺で、稲荷神社じゃないよね????

京都の伏見稲荷大社の稲荷神信仰とは、関係ないよね???
なのに、日本三大って、他は神社なのに。

稲荷寿司の発祥が、豊川稲荷ってウソですよね????
WIKIPEDIAには、ソースが記載されていない。

稲荷の総本社は京都伏見の稲荷大社で、江戸の王子稲荷は関東の総本社で、稲荷の使姫である狐に小豆飯と油揚げを供えるが、油揚げが供物になったのは江戸後期の頃らしい。稲荷鮨の創製は名古屋で、天保(1830〜1844年)頃といわれ、江戸では弘化(1844年〜)の初めに流行し、「木耳」「干瓢」等を刻み混ぜた飯を詰め、当初は山葵醤油をつけて食べていたらしい。
http://kiifc.kikkoman.co.jp/tenji/tenji09/edo_life12.html

キッコーマンではこう言ってますが。

豊川稲荷信者の方、反論ありますか???????




神奈備掲示板、青草談話室 写真掲示板 過去ログ集目次




神奈備ホームに戻る