掲示板のログ(平成十八年 四月 2006.5)お名前の敬称は省略しています。
[7483] Re[7482]: 渦巻き 神奈備
2006/05/31(Wed) 19:49 [Reply] > まとまりませんが、参考になれば幸いです。
倭亜布さんご自身がまとまらないものを、読者に参考になればと提示されるのはいかがなものでしょうか。
以下、まとまっていますが、いささか難解、参考になれば幸いです。
ある勉強会でのテーマが「音」と云うことになった。一応、歴史や神社にひっつけての音。
神道ソングライターを自称する鎌田東二さんは、毎朝、岩笛等を吹きならし、一日の活動を開始するそうです。氏の『神道のスピリチュアリティ』にはCDがついていて、石笛や法螺貝での演奏などがのっている面白い本です。
神道とは「神からの道」と「神への道」の二つの意味があるとしています。
神からの道 この宇宙が、この存在世界がこのようにあることの流れであり、道であり、自然の大道・生成である。天然自然として、森羅万象として、顕現し、現象していくことの中にあらわれる「神の道」。
神への道 人間がいのちあるものとしてこの宇宙の中に存在するようになったことを、心からの感謝と畏怖畏敬の念を以て、その根源的な力の源に向かって帰依し、祭り、祈っていこうとする道である。
[7482] 渦巻き 倭亜布
2006/05/30(Tue) 07:03 [Reply] 天竺之図
仏教系の世界地図です、東の海上に日本が描か天竺が描かれています。
仏教遺跡の案内として三蔵法師の「大唐西域記」の旅の行程が赤線で表わされています。
天竺の北に川が「渦」をまいている
図説世界古地図コレクション
名品撰:古い地図・描かれた日本と世界
http://www.city.kobe.jp/cityoffice/57/museum/meihin/i4_oldmap.html
「渦」の中心の文字は読み取れないが左上に【大雪山】が見える。
大雪山
中国、四川省西部にある山脈。最高峰はミニヤコンカ(貢(こんか)山)の標高七五五六メートル。【大辞泉(小学館)より】
ガイア(地球)の恵みと生命力の根源
『LA
INTERNATIONAL』 2003.01月号 ガイア(地球)の恵みと生命力の ...
を中心に運動することは、渦を巻いているということを意味 ... 詳しく論じたことがありまして、アイルランドや中国の遺跡の渦巻き模様とか ...
本州に現れるなと宣告され、大雪山圭水と名乗って風水師を ...
http://www2.tba.t-com.ne.jp/dappan/fujiwara/article/gaia02.html
「七は三と四を足した数字であり、三角形と四角形の組み合わせから成る。正三角形を重ね合わせるとヘクサゴン(六角形)が作れ、正方形をずらして重ねると八角形になり、幾何学的な意味が読み取れそうな感じ・・・・・」
「藤原 北極星は、道教では天の中心だから、すべての星は太白の周りを回転していて、それが調和と秩序を現すと考えられています。だから、調和や秩序から
逸脱すれば流星になり、弧を描いて天空から姿を消す運命にあるし、全ての星が北極星を中心に運動することは、渦を巻いているということを意味しています。
」
渦巻は波動と同じで螺旋運動の断面であり、佐藤さんに螺旋運動について示すために、わざわざ流れ星で軌道からの脱落を見せて、渦巻に注目しろと注意を喚起したのかも知れませんね。
太陽系は一種の渦巻構造をしているし、銀河系自体も渦巻で成り立っており、それを含む星雲も島宇宙も渦巻いてるから、森羅万象が人間にとって渦巻構造で
す。また、渦巻は螺旋を断面で見た平面図であり、螺旋は混沌から秩序を生み出す形態だから、螺旋の重要性について考える上で、佐藤さんが観察した北極星を
中心にした天空は、仏の世界だったのかも知れません。
「神社の注連縄の巻き方には意味があるでしょう。古代人は植物の蔓の巻き方や葉
の出方とか、貝殻の巻き方に生命力を感じて、それを渦巻き模様にしたと言われており、縄自体が捻れて渦を巻いたものであるし、縄文式の土器や銅鐸の模様の
中には、渦を使ったものがたくさんあります。」
「アイルランドや中国の遺跡の渦巻き模様」
話を「地図」に戻します。
「梅
里雪山"の名称が最も早く見られるのは日本 陸軍印刷の軍用地図上である。当然いえることは当初日本軍もこの四蟒大雪山のはっきりした調査
を行わなかったことで、彼らは今日のショラ峠も知らず、この山域の北半部にも達していない。ショラ峠
は唐・宋代以来雲南を通ってチッベトとインド、ミャンマーへ抜ける重要な峠道であった」
「地図上で見る"梅里雪山"は実際には雲南とチベッ ト境界上の狭い部分をさし、山脈全帯を呼ぶ地名ではなっかったことを初めて知ったのである。 」
崑崙山
踊る巫女の世界(崑崙山 昆陽寺)
http://www.kcn.ne.jp/~hirotaku/syakushi/syak19.htm
『崑崙山への昇仙 古代中国人が描いた死後の世界』
http://www.dcn.ne.jp/~mushyoku/achisan/achi/konron.htm
「西王母。中国の神話(伝承)に登場する女神。古代中国の伝承では、虎の牙、豹の尻尾を持った恐ろしい化け物の姿しており、流行り病を引き起こす存在であったが、後に美しい女性の姿をした崑崙山(こんろんさん)の主であるとされ、全ての仙人を監督する存在になった。 」
史書や定説を疑っている人への古代日本千年史
縄文の後・晩期(新石器)ユーラシア内陸、アジア海域―アララト山(五一二三メートル)と崑崙山(七七二三メートル)
縄文の晩期(金石過渡期)見え始めた中国の古代―長江と黄河の相剋
縄文→弥生 原弥生人‐神話以前の倭列島へ―縄文以来の渡来では
弥生(繁栄の弥生‐抗争併合期と神話時代―天孫降臨という名の渡来;創業期でも大和王権は欠史に非ず―神武東遷の実態;筑紫は大和よりも先進国だった―卑弥呼の所在)
古墳時代(縦穴・伽耶式石室―伽耶から崇神が婿入り;横穴・百済式石室―百済王子・応神は継体の兄;飛鳥(1)磐井・欽明、蘇我・物部―敵の敵は味方
飛鳥(2)蘇我・天智・天武・持統・藤原―百済の命脈)
奈良・平安時代皇統揺らぐ―卑弥呼の代役(史書改竄)
まとまりませんが、参考になれば幸いです。
[7481] Re[7475]: 渦巻き 神奈備
2006/05/29(Mon) 11:11 [Reply] 渦巻きからセーマン(☆印し)が派生したのは、一筆書き、いつまでもきりがない、どこにも切れ目がないと言うことでご理解いただけるものと思います。
疑問が出たのは、渦巻きからドーマン(#状で横線4本、縦線5本)が派生したかどうかですが、派生と言うより、”迷宮”であると言う共通点、クノッソスの
女神が住む海底に想像した渦巻きの下の宮殿を格子柄のドーマン風のものと見ていると言うことで、深く関連するものの、渦巻きからの派生とは言いにくいかも
知れません。
それよりは、流水紋からドーマンが派生したと考えるのが素直なようで、その流水紋は、指紋にも多い流れ渦巻きから派生と言えそうです。イメージは写真掲示板で。
参考 中西進著『古代日本人・心の宇宙』NHKライブラリー
[7479] Re[7478][7477][7476][7475]: 渦巻き 神奈備
2006/05/28(Sun) 09:49 [Reply] > > > そうすると「宇豆」繋がりで「降臨」に戻りますか。
”宇豆”が好きな氏族に辛嶋氏がいます。
一つは、宇佐郡の稲積山を「宇佐郡辛国宇豆高島」と称して、大神(八幡神か妙見神か)が降臨したとする文献があるようです。
もうひとつは、4月末に念願かなって参詣できた大隅国囎唹郡の「韓国宇豆峯神社」で、元々はこの神社の近くの宇豆峯に鎮座していたようで、これは豊の国から遷座して来た神が降臨した所といえそうです。
韓国宇豆峯神社の現在の祭神は五十猛神です。この神がどこから遷座して来たかですが、宇佐八幡とすれば、八幡神は素盞嗚尊かその若宮である五十猛神がまつられていたと思われます。
[7478] Re[7477][7476][7475]: 渦巻き nick [Url]
2006/05/27(Sat) 18:00 [Reply] > > アメノウズメも渦女の事でしょうか?
>
> 珍彦、太秦、宇豆柱、宇遅彦 高貴で美しい事。(角川 古語辞典)
>
> > 大分に速吸日女神社がありますね。
>
そうすると「宇豆」繋がりで「降臨」に戻りますか。
入梅になりました。神経痛が出て「ネジる」と激痛が。。
皆さんご留意を。
[7477] Re[7476][7475]: 渦巻き 神奈備
2006/05/27(Sat) 08:49 [Reply] > アメノウズメも渦女の事でしょうか?
珍彦、太秦、宇豆柱、宇遅彦 高貴で美しい事。(角川 古語辞典)
> 大分に速吸日女神社がありますね。
佐賀関鎮座。関鯖は渦に巻き込まれて鍛えられて美味しくなるそうです。いいことがあるのですね。
お勧め 中西進著『古代日本人・心の宇宙』NHKライブラリー¥920+tax
[7476] Re[7475]: 渦巻き はりまのわたつみ
2006/05/27(Sat) 00:25 [Reply] 神奈備様
渦巻きは古代からよく使われた模様ですね。
ケルト模様をはじめ世界中の民族にある模様です。
アイヌの渦巻き模様(モレウ)と1,500年も昔の隼人の盾の模様もよく似ていますね。
平城宮の井戸跡から発見された16枚の板が隼人の盾だそうですが、逆S字形の渦巻き
模様はモレウを連想させます。
アイヌも隼人も縄文人の文化を色濃く引き継いでいるとすれば納得できます。
アメノウズメも渦女の事でしょうか? 速吸の瀬戸に見られる渦をイメージした名前
でしょうか?
大分に速吸日女神社がありますね。
[7475] 渦巻き 神奈備
2006/05/26(Fri) 17:09 [Reply] ダヴィンチさんは水の渦巻きを眺めて、その中に生命体としての水の霊を
見いだしていたと言います。なにもダヴィンチさんだけではなく、古代のギリシャでも渦巻き模様には永遠の生命をあらわすものとして尊ばれていたようです。
そのが中央アジア経由で中国にはいり、唐草模様となったようです。この唐草模様は今でこそあまり見かけませんが、かっては風呂敷の柄としてよく見かけまし
た。若い頃の千昌夫を思わす田舎くさい雰囲気が漂うイメージでした。
勾玉を三つまるく並べて渦巻き模様を造ります。巴紋と言い、神社の神紋などに使われており、火災予防の意味と言われていると思いますが、要は建物が長持ちすると言う呪いなのでしょう。
渦巻きは水と密接に関係し、例えば風呂の水を捨てる場合にはまず水底に渦巻きができて、最後は水面に出来ます。住吉大社の神紋も巴紋ですし、まず誕生する神は底筒男神、次に中筒男神、最後に表筒男神と水中での渦の出来かたと一致しているのが面白い。
話がわき道に言ったので戻します。現在の皇居(昔の江戸城)も道や地下鉄路線がぐるぐる取り巻いている様子が地図を見ていても判ります。地下鉄は皇居の下
を通さないとの政策からなのですが、簡単には攻めにくいように造ってあるのです。この概念がセーマンと言う五芒星になり、これも一筆書きが出来る角が五つ
の星形です。新撰組の土方さんが最後の砦とした五稜郭や、米軍の中枢のペンタゴンもこの形です。渦巻きから進化したものです。
もうひとつ、渦巻きの迷路から出来たとされるドーマンと言う形があります。横に4本、縦に5本を書いた十字が20個も並ぶ模様で、平安京を思わせますが、元々はまっすぐな線ではなく、あみだ籤のように迷路になっていたのです。大阪では富田林市の寺内町が有名です。
渦巻き紋が縄文時代の土器や弥生時代の銅鐸の紋にも現れ、全世界的に古代から尊ばれた模様だったようです。その模様が今日も都会や軍事施設などに使われているのは、興味深いことです。
貝の形にもサザエのような渦巻きとアサリのような平面(格子には見えにくいのですが)に分かれて防衛している姿はフラクタルの現象のようなものかも。
[7474] Re[7472][7471][7470]: 谷川先生の新刊案内 nick [Url]
2006/05/23(Tue) 08:37 [Reply] > 大神氏については祖母山の麓にルーツがあると読んだ記憶があり、大和の三輪明
> 『日本にあった朝鮮王国』大和岩雄著)に、「辛嶋氏もその本拠地はスエ村といい、現在の宇佐市末だそうです。「スエ」を通して大神氏と辛嶋氏とには回路がある。」としています。同族とする明確な資料はないようですね。
一応、前出の「大分歴史辞典」から「和気清麻呂」についての下りから
「これに秦氏に近かった大神氏が進出し、
6世紀半ばごろには大神 辛嶋の神職団が宇佐氏を抑え主導権を握った。」
とあります。これに起因する出典はどれか迄は確認していませんがご参考迄に。
[7473] これは是非!! MADOKA
2006/05/22(Mon) 21:59 [Reply] >7月9日 13:30〜16:30 和歌山県立図書館
テーマは「補陀落浄土を目指した人々」講師は松原右樹さんで、熊野古道や和歌山の伝承では第一人者の方です。
これは、絶対お勧め!!
現
在の熊野ブームの元は、藤白神社宮司の吉田さんと松原さんが始めた藤白講座が発信原!この講座があったころは朝日新聞から毎回記者が三人来たらしい。熊野
関係の記事はたいがいこの講座の焼き直しが多い。松原さんは大阪から熊野までの熊野詣でたくさんの人を長年つれていく人です。私も熊野詣では松原さんの一
行と御一緒させていただきました。熊野詣でのツアーはいろいろありますが同和問題と多くからみ。そのことをふせたり。コースを変えたりしていて。地元で
も。隠されたそのことがその地に関わるアイデンティーにとって大事なことという動きがあり。その先鋒隊長。ほんとの熊野詣でを体験したくば松原ツアー!話
は面白く、差別用語バンバン!が同和関係の方に人気があり。松原さんが喋るにはok!強烈なファンがおり追っかけ多数!!元産経新聞記者で神職資格をもつ
これは是非行ってね!!
[7472] Re[7471][7470]: 谷川先生の新刊案内 神奈備
2006/05/22(Mon) 20:41 [Reply] > 管理人さんの「香春神社」も興味深く拝読しました。
ありがとうございます。谷川さんも書いていますが、「一ノ岳はかって491mあったが、現在は315mまで削られた。見るからに痛ましい姿を露呈している。始めての旅人にはつよい衝撃を与えずにはおかない風景である。」の炭坑節が泣くお姿です。
香春神社も、英彦山、宇佐八幡、素盞嗚尊・五十猛神などにからむ古代史の謎の詰まった所ですね。この神社の祭祀をした赤染氏は辛嶋氏と同族であると中野播能さんや三品彰英さんが見ています。
大神氏については祖母山の麓にルーツがあると読んだ記憶があり、大和の三輪明神に伝わる伝承、裾に糸を結びつけ、神の居場所を突き止めたとのお話だったと思います。そう言う意味では大和の大神氏と同根かも知れません。河内の陶村にいた太田田根子の後裔となります。
『日本にあった朝鮮王国』大和岩雄著)に、「辛嶋氏もその本拠地はスエ村といい、現在の宇佐市末だそうです。「スエ」を通して大神氏と辛嶋氏とには回路がある。」としています。同族とする明確な資料はないようですね。
[7471] Re[7470]: 谷川先生の新刊案内 nick [Url]
2006/05/22(Mon) 00:10 [Reply] > 谷川健一先生の最新刊『四天王寺の鷹 謎の秦氏と物部氏を追って』が書店に並びましたね。
こんばんわ。明日早速立ち読みに。笑。
当地の八幡と秦氏の繋がりを探って「宇佐神宮史」の乱読で少々お疲れぎみですから、カンフル剤になればいいな。
管理人さんの「香春神社」も興味深く拝読しました。
[7470] 谷川先生の新刊案内 恋川亭
2006/05/21(Sun) 22:29 [Reply] 谷川健一先生の最新刊『四天王寺の鷹
謎の秦氏と物部氏を追って』が書店に並びましたね。私は時間が取れそうもありませんので、まだ購入できていません、横目で見ただけ。(時間に関してのみで
すが)「有閑マダム」的な諸先輩方がいらっしゃったら、ぜひ先行ご購読&ご批評のほど宜しくお願い申し上げます。
私自身は(工業関係従事者として)、谷川先生の『金属関係』古代民俗論にはヒジョーに懐疑的なんですが、取り組まれるご姿勢には敬服私淑している者です。尊敬の念を愚問でしか示せない未熟者ですが、ガンガン難癖をつけることで愛情を発露するのも読者の特権かと(笑)。
以前、紋爺が谷川先生に電話で直接質問されたとのこと、ヤーサン的フーテンVSヤーサン的学者の超頑固爺同士の対決、その結果は『あの先生は最後最大の肥
後もっこす』という評価でした。以後、紋爺は谷川先生と森浩一先生の御二方のみ「本物の大学者」と認めてはりました(つまりは気合の有無やね)。紋爺に認
められてもな〜、迷惑至極やったろうな〜。とは、思いますが、他の学者をケチョンケチョンに貶すド素人が、あえて跪くほどの大先生。ならば、私はお釈迦さ
まの掌の上と、安心して「ガンガン難癖」をつけられることと喜んでおります。(はぁ?)
ということで、関連続報期待中。
[7469] Re[7468][7467]: 丹敷戸畔 はりまのわたつみ
2006/05/19(Fri) 19:59 [Reply] > 7月9日 13:30〜16:30 和歌山県立図書館
> テーマは「補陀落浄土を目指した人々」
> 丹敷浦から舟出して補陀落渡海を行った人々がいる。自らの身体を「布施」として差し出す儀礼と土着民の女酋ニシキトベとどう関わるのか」と言うテーマです。
> 講師は松原右樹さんで、熊野古道や和歌山の伝承では第一人者の方です。
***
補陀落渡海と丹敷戸畔が関わりがあるのかというテーマには大いに驚きました。
自らの体を差し出す儀礼とぎっちょ祭りは関係あるのかもしれませんね。
私は現地へ行けませんが、講演会の要旨をご報告いただければ大変ありがたく
存じます。
[7468] Re[7467]: 丹敷戸畔 神奈備
2006/05/19(Fri) 19:26 [Reply] > 地元では「錦女に古和男(にしきおんなにこわおとこ)」と言って美人の産地だそうです。
そうですか。是非行って見たいものです。前に秋田に行った時、流石に美人が多いものと感じたことがあります。美人が多いのは人種が混ざっているからではないかと思っています。秋田はロシア人などが流れて来ているのでしょう。
錦も美人が多いのであれば、人種の混ざり合う所、すなわち異邦人が立ち寄りやすい場所であれば、神武上陸の地の傍証になりますね。
所で、全く話が変わりますが、楽しみにしている講演会が行われます。
7月9日 13:30〜16:30 和歌山県立図書館
テーマは「補陀落浄土を目指した人々」
丹敷浦から舟出して補陀落渡海を行った人々がいる。自らの身体を「布施」として差し出す儀礼と土着民の女酋ニシキトベとどう関わるのか」と言うテーマです。
講師は松原右樹さんで、熊野古道や和歌山の伝承では第一人者の方です。
[7467] 丹敷戸畔 はりまのわたつみ
2006/05/19(Fri) 17:23 [Reply] 丹敷がニフではなくニシキであれば、神武さんがタギシミミと上陸した熊野の
荒坂の津はどこでしょう?
新宮市の熊野荒坂津神社近辺か? 熊野三所神社には丹敷戸畔の墓石がある。
三重県熊野市二木島が荒坂の津(丹敷浦)と言われているようですね。二木島から
尾鷲あたりは中世に錦の庄と呼ばれていた地域です。
三重県度会郡大紀町錦は地元では神武上陸地と伝えられ、JR紀伊長島駅の東5km
程の所に錦、錦湾、錦港などがあります。
近くを熊野街道が通り、吉野川まで30km程です。武速須佐之男命を祀る錦神社が
あります。
地元では「錦女に古和男(にしきおんなにこわおとこ)」と言って美人の産地だ
そうです。丹敷戸畔も美人の族長だったのかな?
私が老体・病身でなければ行って見たいところです。
考古学の森浩一教授も錦が有力な上陸地と言っておられます。
地元の役所の話:
錦地区は神話の時代、神武天皇が東征の際に上陸した地点であると言われています。錦地区には神武山と呼ばれる山があり、山頂には神武さんの腰掛け石と呼ば
れる石があります。古くからの祭りにも「ぎっちょ祭り」というものがあり、
その中での毬の受け渡しが、丹敷戸畔が神武天皇に降伏したことを意味すると
しているそうです。
錦地区には、現在の集落を囲む山々の尾根の各所に10数基の古墳が確認されて
おり、これらをはじめ地区の各所から出土するおびただしい量の遺物からして
錦地区は古墳時代には国内屈指の文化をほこる大都市であったと推測されます。
[7466] 【津】も測量のポイント 倭亜布
2006/05/19(Fri) 00:18 [Reply] 神奈備さま 皆さま朗報デス。
遂に見つけました (^o^)V
【津】も測量のポイント・・・古文字の【圭】から・証明!
【津】の古文字(段注説文小篆)に【隹】「とり」の文字が存在!
【津】も測量でのポイント・・・古文字の【圭】から・証明できました。
中国の官人 :文官=「鳥」 武官=「獣」
【隹】スイ とり に測量士の【圭】ケイ ケ たま の文字が発見されました。
【圭】:[土地をはかり治めることを表わす。]デス。
【隹】「とり」の古文字(段注説文小篆)に【圭】ケイ ケ たま の文字が!
【圭】ケイ ケ たま:土を二つ重ねた字。諸侯がはじめて封ぜられたときに、その印として天子からいただく、上がとがって下が四角な玉の名。土を重ねるなは土をはかる(土・度に同じ)意で、天子からいただいた土地をはかり治めることを表わす。
[角川漢和中辞典]より
(「K」は神聖なものにしか使わないらしい)・・・・・おっしゃる通りでした。
中国の官人 「補子」:文官=「鳥」 武官=「獣」
http://www.nishinippon.co.jp/news/museum/special/051227.html
レイラインには古代からの世界探査・地図製作の企画(規角 鬼角)隠されていました。
シュメール
スメラ!
2006年5月18日 11:24:05 tombo
『日本の天皇をスメラのミコトと言っていたのもシュメール語の「葦の生える地を治める者」の意スメルから来ているのも日本の地にシュメール文化が流れ着いている事の証明である。』
http://bbs5.cgiboy.com/p/54/02899/
皆様の更なる御発展をたのしみにしております。
[7465] 伝統芸能の継承 nick [Url]
2006/05/17(Wed) 18:17 [Reply] 当地の場合、伝統芸能の継承は
「隼人職」のそれも男系の継承だったようで。。
つい最近迄知りませんでした。
実は、いつも6月初旬に神宮の斎田で開催される「お田植え祭」で
奉納舞の「たんかんめ(田の神舞)」があります。
これが「隼人職」の『小倉家』が代々司ってこられたそうです。
ご高齢に成られ最近代替わりされました。
その折そのような事を伺って知ったわけで、
他にもありそうと、いろいろ調べてみたら
やはり明治の中期と昭和の中期に「神舞(かんめ)」が幾つか
絶えています。
いずれも戦争による継承者の死亡のようです。
(日露戦争と第一次、第二次大戦)
また神宮で舞われる「隼人舞」も現在は神職の方々で継承される
ようになりました。
今度この辺りをちょっと宮司さんにお尋ねしてみようと思っています。
[7464] Re[7462]: はじめまして。 神奈備
2006/05/17(Wed) 17:31 [Reply] 座長さん
ご訪問ありがとうございます。
路傍の神々には惹かれるものがありますね。
阿倍野区の旭町二の天龍大神のも是非参拝ください。
[7463] Re[7460]: 追伸 神奈備
2006/05/17(Wed) 17:03 [Reply] 中森ハルさん
> その後も名草の名前は後世に残り、古代氏族辞典によると、777年には、「名草郡の人の直諸弟ら二十三人が紀名草直の氏姓を賜っており」という記述があります。
『続
日本紀』光仁天皇宝亀八年の記事ですが、「紀伊国名草郡の人、直乙麻呂(あたいのおつまろ)ら二十八人に「紀神直」、直諸弟ら二十三人には「紀名草直」、
直秋人ら壱百九人には「紀忌垣直」の氏姓を賜った。」と言う記事であり、確かに名草の名前は後世に残っているのですが、それは地名の名草が残ったからかも
知れません。名草戸畔一族が根絶やしになったのか、生き残ったものがいたのかは定かではありません。
http://www.shibunkaku.co.jp/biography/search_biography_id.php?id=5542
名草逸峰(本名は芳太郎)と言う幕末の画家がいますが、名草一族の末裔なのか、名前をもらった「紀名草直」の末裔なのか、ルーツは定かではありません。
> 名草一族の歴史は終わったと思われます。
この表現は根絶やしの印象を与えるので、好ましくはないと思います。神武東征の物語も半分以上は神話の霧の中の世界、それでも根絶やしよりは兄弟であれば、どちらかを味方に付けたりしています。
おっしゃる通り、名草の氏名で歴史の中で表舞台で活躍はしていませんが、紀直さんが子孫であれば、名を変えて活躍していることになりますね。
[7462] はじめまして。 座長 [Url]
2006/05/17(Wed) 16:57 [Reply] 明神様を探してツアーをしていたら
貴サイトに辿り着きました。
私も大阪市内を中心に境内末社や明神様を散策して
自分なりの解釈でサイトをやらせてもらって居ります。
貴サイトの皆様の情報はスゴク役に立ちました。
まだまだ知らない場所って有るものですね!
有難う御座いました。これからも寄せて頂きます。
[7461] Re[7460][7459][7457][7456][7454]: 追伸 玄松子
2006/05/16(Tue) 17:04 [Reply] >その後も名草の名前は後世に残り、
であれば、「名草一族の歴史は終わった」という表現は誤解を与えるのではないでしょうか。
[7460] Re[7459][7457][7456][7454]: 追伸 中森ハル [Url]
2006/05/16(Tue) 16:05 [Reply] > なぜそのように思われるのでしょうか。
> 頭領を失い、支配力を失った可能性はありますが、
> 一族の歴史云々はどこから推察されるのでしょうか。
支
配力の衰退という意味での「名草一族の歴史の終わり」という表現です。伝承では神武に降伏したということになっています。その後、民衆は表向きは朝廷支配
を受け入れながら腹の中では名草を信奉していたと聞いています。裏を返せば、その後、名草一族が表舞台には二度と出てこなかったという証拠です。そこで名
草戸畔の歴史の終わたっと考えた方が妥当でしょう。名草一族の名誉のために追記しますと、その後も名草の名前は後世に残り、古代氏族辞典によると、777
年には、「名草郡の人の直諸弟ら二十三人が紀名草直の氏姓を賜っており」という記述があります。
[7459] Re[7457][7456][7454]: 追伸 玄松子
2006/05/16(Tue) 15:19 [Reply]
> そこで名草一族の歴史は終わったと思われます。
なぜそのように思われるのでしょうか。
頭領を失い、支配力を失った可能性はありますが、
一族の歴史云々はどこから推察されるのでしょうか。
[7458] Re[7457][7456][7454]: 追伸 はりまのわたつみ
2006/05/16(Tue) 13:42 [Reply] > > 神武東征が本当にあったことなら、何代目かの名草村長が「誅された」と日本書紀に書かれた、ということかなと思います。
> というか最後の名草戸畔が「誅された」と思います。そこで名草一族の歴史は終わったと思われます。
***
神武東征が事実であれば、魏へ使者として行った難升米と都市牛利も東征に
加わった可能性が高いと推測できますが、記紀に出てくる人名を当てはめる事は
できるでしょうか?
大来目などはどうでしょう?
[7457] Re[7456][7454]: 追伸 中森ハル [Url]
2006/05/16(Tue) 12:40 [Reply] > 神武東征が本当にあったことなら、何代目かの名草村長が「誅された」と日本書紀に書かれた、ということかなと思います。
というか最後の名草戸畔が「誅された」と思います。そこで名草一族の歴史は終わったと思われます。
[7456] Re[7454]: 追伸 なかひら まい [Url]
2006/05/15(Mon) 22:16 [Reply] はりまのわたつみ様
すみません、言葉が足りませんでした。
追伸です。
> > 和歌山に取材をして調べたところ、名草戸畔とは、固有名詞ではなく「名草村長」というような総称である可能性が高いです。
> すると、年代を特定するのは難しいかもしれません。
> 「弥生後期」といか言いようがないかもです。
何代にも渡って、名草戸畔が存在していたのなら、年代を特定しずらいということです。
神武東征が本当にあったことなら、何代目かの名草村長が「誅された」と日本書紀に書かれた、ということかなと思います。
[7455] Re[7452][7450] [7449]: 無題 はりまのわたつみ
2006/05/15(Mon) 22:13 [Reply] > この神社、大酒神社を「おおさけ」とお読みする。それは表で、実は「ダビデ」神社と読みくだせるのである。「大酒大主」という漢字は、いったいなんの音写なのだろうか?」
> 「おおさけ」の「おお」は「ヤ」ですので「ヤさけ→ぃヤさけー いやさか 弥栄 YHWH です。
***
大酒神社も大避神社も元は大闢神社と言っていたようですね。
大闢は中国語で「ダビデ」のことではないでしょうか?
秦河勝は雅楽の面を彫り、赤穂市坂越の大避神社に奉納しているが、それは
ペルシャ系の顔をしています。
今でも秦氏出身者の集まりが、年2回京都の太秦と赤穂の坂越で行われている。
東儀秀樹氏の東儀家は1、300年以上も雅楽を世襲の仕事としてきた楽家で、
その祖が聖徳太子の参謀であった秦河勝のようです。
秦河勝には多くの子供がおり、そのうちの4男と6男が秦東儀氏を名乗り、
やがて単に東儀氏と称すようになる。彼らは雅楽と舞踏に秀でており、
聖徳太子が建立した四天王寺で楽人として大成し、これが今日の東儀家へと
つながっている。
彼らは長い長い旅の末、西アジアの音楽を日本へと持って来た。
それが今日の雅楽を生んだのでしょうか。
10月12日が秦河勝の命日ですが、東儀秀樹氏は10月12日に生まれた。
東儀秀樹氏は命日の前日に坂越で雅楽を奏でた事がある。
秦河勝は京都太秦を本拠地としており、聖徳太子の子・山背皇子は秦氏に
養育された。太子一族は蘇我氏に滅亡され、河勝は迫害を避けて赤穂の坂越に
移り、80余年の生涯を閉じた。その墓は坂越の海岸前の無人島にあります。
[7454] 無題 なかひら まい [Url]
2006/05/15(Mon) 22:09 [Reply] はりまのわたつみ様、こんにちは。
ブログの方にも、コメントをありがとうございます。
神武東征の年月日については、記紀を参照するわけにはいきませんので、とりあえず、原田常治氏の「古代日本正史」を参考にしただけです。他に根拠はありません。
「名草戸畔は西暦240年頃、今の和歌山地方を治めていた。」というのも、年代を分かりやすくするため、神武東征の年代を記載しただけです。たしかに、あまり深い意味はないので、修正しようと思います。
神武東征の年代については、諸説粉粉ですが、原田常治氏も「書記に神武の即位は辛酉正月、これは西暦241年が該当する」という説だったので、これしかないかなと。「古代日本正史」はトンデモ本的な部分も多いので、もちろん全体を鵜呑みにはできませんが。。
和歌山に取材をして調べたところ、名草戸畔とは、固有名詞ではなく「名草村長」というような総称である可能性が高いです。
すると、年代を特定するのは難しいかもしれません。
「弥生後期」といか言いようがないかもです。
[7453] Re[7445]:[7444] 大名草彦 はりまのわたつみ
2006/05/15(Mon) 20:57 [Reply] URLに「名草戸畔は西暦240年頃、今の和歌山地方を治めていた。」と書かれて
いますね。
私は神武東征が事実であれば、西暦240年と推測しています。その根拠は、卑弥呼
が魏に使者を送ったのが239年、親魏倭王の印を受け取ったのが240年、しかも
倭全体を治めるよう促され神武を大和に送り、和睦・戦い両面から大和を攻略した
のではないかと考えています。
また、書記に神武の即位は辛酉正月とありますが、これは西暦241年が該当すると
考えています。(卑弥呼が生きている期間で辛酉はこれしかありません。)
名草戸畔が西暦240年頃に生きていたという根拠を教えていただけませんか?
[7452] Re[7450] [7449]: 無題 倭亜布
2006/05/15(Mon) 20:20 [Reply]
兵庫県赤穂郡 大避神社の大避大神の謎
「 摩多羅は漢文字化された訳語にすぎず、「太地母神としてのターラー」を京都太秦に祀ったということが見えた。
さて、もう一つの大きな謎は、神社名とそのご祭神である。
この神社、大酒神社を「おおさけ」とお読みする。それは表で、実は「ダビデ」神社と読みくだせるのである。「大酒大主」という漢字は、いったいなんの音写なのだろうか?」
「おおさけ」の「おお」は「ヤ」ですので「ヤさけ→ぃヤさけー いやさか 弥栄 YHWH です。
[7451] Re[7448][7447]: 名草戸畔は男か女か 大三元
2006/05/15(Mon) 14:23 [Reply] 恋川亭さん、ありがとうございます。
仮に「難斗米」であったとしても、はて「ナ・トベ」と分割するのが正しいのか「ナト・ベ」なのか、という問題がありますね。
後
者の可能性で気になるのは『韓国古地名の謎』光岡雅彦著(学生社)p193に「納斗(ナツ)・納古児(ヌクル)」が「太陽・聖流・豊壌」の意味である、と
いう記事です。都合良いことだけでつないで行くと「ナト・ベ」は「ナツ・メ」でも良く、その義は「太陽の・女」である。「日女」ではないか、と。
迷路に入り込みました・・・
> > 云うまでもなく「難斗米」は「ナ・トベ」を写したものか、という話。
>
> すごい!すごいじゃないですか!!
> 掲示板、ブラボー!!!
> (私的には「ナ」がつながってきた、きた、きた!)
[7450] Re[7449]: 無題 神奈備
2006/05/15(Mon) 14:15 [Reply] > 変なお祭りだったら嬉しいです。
京都三奇祭とは、鞍馬の火祭、今宮のやすらい祭、太秦の牛祭をいいます。
牛祭
http://www.shisyu.net/yumiko/maturi/maturi4.htm
http://home10.highway.ne.jp/ikko/Japanese/Frame_N_J.html
やすらい祭
http://www.geocities.co.jp/HeartLand/4618/yasuraimatsuri.html
有名でなくても、地方の祭りなどで面白いのが多くあるでしょう。皆様のご紹介をお待ちします。
[7449] 無題 斎
2006/05/15(Mon) 09:09 [Reply] この前の質問、丁寧に答えて下さって有難うございましたー^^。
そしてまた質問なんですが、以前鞍馬のウエサク祭や火祭りを見に行って
とても空気が気持ちよくて、凄く楽しくて、京都に下宿してきたけど
京都にはきっと他にも面白いお祭りがあるんだろうなあと思いまして、
歳時記とか調べてみたんですが、祭りがありすぎて(><)
県祭りとか伊根大祭とか行ってみようと思ってます。
皆さんお勧めのお祭りなんかあったら教えて頂たいんです(><)
変なお祭りだったら嬉しいです。
いつも変な質問してすいません。
[7448] Re[7447]: 名草戸畔は男か女か 恋川亭
2006/05/14(Sun) 23:24 [Reply] > 云うまでもなく「難斗米」は「ナ・トベ」を写したものか、という話。
すごい!すごいじゃないですか!!
掲示板、ブラボー!!!
(私的には「ナ」がつながってきた、きた、きた!)
[7447] Re[7446][7440][7433][7432]: 名草戸畔は男か女か 大三元
2006/05/14(Sun) 22:59 [Reply] こうなってくると、『魏志倭人条』に、普通は「難升米」との字で受け入れられている人名が、『日本書紀』神功皇后39年で『魏志』を引いている箇所では「難斗米」という字になっていることが注目される。
普通は、この「斗」は間違いで「升」が正しいのではないか、ということになっている、と思うが、「斗」が正しいとすると「斗米」が「戸畔」と等価とできようから、面白いことになってくる。云うまでもなく「難斗米」は「ナ・トベ」を写したものか、という話。
[7446] Re[7440][7433][7432]: 名草戸畔は男か女か 玄松子
2006/05/14(Sun) 16:59 [Reply] > > ところで、戸畔=長(酋長)というのは確定?
> 結論的に、私は保留〜確定してないに一票。
僕もそう感じています。語学的解釈はお任せしますが、
地名・機能の付属して、単に「〜の方」を意味するだけじゃなかろうか。
つまり、辺や部という文字の意味に相当するだけで、
身分の上下や男女などの属性を持たないのでは、という印象。
それらの属性は、他の要素から検証されるべきかもしれません。
[7445] 大名草彦 中森ハル [Url]
2006/05/14(Sun) 16:21 [Reply] 和歌山市立博物館の寺西館長によると「名草戸畔は大名草彦のことでしょ
う」というお話でした。名草山の吉祥水を守る小藪さんが持っているというお芝居の台本(伝承の脚本化)を調べればさらに詳しいことがわかると思います。そ
れは6月の末に再び和歌山を訪れたときに調べようと思っています。また小藪さんは名草山の古墳のフタを持っているとおしゃってました。まだまだヒントは和
歌山のどこかに眠ってそうです。
[7444] 戸畔問題 なかひら まい [Url]
2006/05/14(Sun) 14:07 [Reply] 名草戸畔について調べている、STUDIO M.O.G.なかひらです。
先日、和歌山に取材に行ったところ、「戸畔」についても少し情報が得られました。
やはり、男性説が、優勢のようです。
(博物館の館長さんなどに、取材してきました。)
よろしければ、URLから「名草戸畔」にブログにもいらしてください。
取材レポートを掲載しました。
コメントも書き込みできます。。。
[7443] RE「7442] ツベコベ(戸畔異譚) 442] ツベコベ(戸畔異譚) 倭亜布
2006/05/14(Sun) 08:46 [Reply] 上下も「ト」? 北斗のト(ツ)(点+点+ ト)杜 兎(禹)・・・
【ト】【門(|王王|とうがまえ )鳥居も同門?
【聿】ふで ここに
(古文字「舟」(渡ト の エエ 道具・)や「とり」測量士の隠語)
どちらにも
「|」規 測量のぽいんト 点(黒)
【土】も地上の十字架(角石・・古文字で)
「と」 「つ」の音の漢字(とくに呉音) 考えてみてください。
【部】は【辺】 ちなみに 私の住所は【部室】へむろ (「辺」が地名の語源とされています。)
[7442] ツベコベ(戸畔異譚) 大三元
2006/05/13(Sat) 22:31 [Reply] 戸畔、の意味を考えていたのですが、「戸、刀」など「甲類のト」に使われる字は「ツ」を表すためにも使われる、という自称大三元の法則 http://www.dai3gen.net/tuto.htm を援用しました「トベ」に限らず「ツベ」も視野に入れてみました。
「ツベ」は現代本州方言でも沖縄古語辞典でも「尻」の意味なのですねぇ。
そうすると、この場合の「ツ」は「ミトノマグハイ」などと云うときの「ト(甲類)」に通じているのかも知れない、この場合の「ベ」は「辺、辺り」なのでしょう。
さてしからば、「戸畔」は「尻辺」か、となるとイササカためらわれるものがあります。「ト(甲)」は door とか gate をも意味するので「河口のあたり」「湾口のあたり」という地形につなげる手はなかろうか、などと「ツベコベ」云って見ました。
「ツベコベ」は上から考えると「尻辺・頭(コウベ)辺」あたりでしょうか。
青草適格かとも思いましたが流れもあるのでこちらにしました。
[7441] Re[7439][7434][7433][7432]: 名草戸畔は男か女か 神奈備
2006/05/13(Sat) 09:57 [Reply] > 空海の祖先が大名草彦からの別れ
空海は讃岐の佐伯氏の出のようですが、讃岐には紀氏や同族の坂本氏も居住しており、名草彦を祖先としていても不思議ではありませんね。
また、『紀伊続風土記』には、「紀伊國造と天野祝部とは共に名草彦の子孫」とあり、紀の国や高野山に親近感を持っていたのかも。
[7440] Re[7433][7432]: 名草戸畔は男か女か 大三元 [Url]
2006/05/13(Sat) 09:39 [Reply] 玄松子さん
> ところで、戸畔=長(酋長)というのは確定?
結論的に、私は保留〜確定してないに一票。
酋長、と書くとイメージが散漫になる(かな?)だけに、アタリの確率もそれなりにあがるのかもしれないけど、
国の長、郡の長、郷の長、里の長、村の長、家の長、5世帯程度の一族の長・・・
どこら辺のイメージなんでしょうねぇ、やはり名草村の村長さん、ということか
個人同定可能な固有名詞なのか、世襲可能な職名なのか、
あるいは、また、単に名草村の名もない(名も知らぬ)男か女を殺した、それを名草戸畔と呼ぶことにしたのか、
記紀、旧事本紀、以外に資料がない(?)ようなので、霧の中を我慢する(私)か、小説を作るか(好きな方)か、あたりが選択肢でしょうかね。
[7439] Re[7434][7433][7432]: 名草戸畔は男か女か かまど
2006/05/12(Fri) 21:14 [Reply] > 想像ですが、名草彦神は丹生津彦神のように後からできた男神かも。それが徐々に男社会の影響で、名草彦命、名草姫命と同列になり、先に男神の名がでるようになってきたのかも。
空海の手紙に、空海の祖先が大名草彦からの別れである、と言うことが書かれています。別れであるかどうかの真偽は別として、空海の時代にはすでに大名草彦と言う名前の存在があったことになるのかも知れませんね。
[7438] Re[7436] [7434][7433][7432]: 名草戸畔は男か女か 倭亜布
2006/05/12(Fri) 18:31 [Reply] 青草ですが・・・
先神の地母神・豊穣神は女神 後神は男神(八重 YHWH?)
ユダヤ・キリスト教史
「日
本の宗教的土壌と似ていたことである。既に私たちが知っているように、アニミズムは山や川がそのまま神であるとする汎神論ではなく、山や川にはそれを支配
する妖精のような神々がいるとする多神教なのである。カナンのこのような宗教に対してユダヤ人たちは、宗教的暴力としか言いようのない仕方で弾圧を行っ
た。しかし、宗教はそのような仕方で弾圧しても、簡単には滅びはしない。却って、カナンの宗教が密かにユダヤ人の信仰に深い影響を与えていることを、私た
ちは旧約聖書のあちらこちらで見ることができるのである。」
「神々も男神と女神との沢山のペアとして信じられた。月礼拝はなく、太陽崇拝が神々信
仰の中に取り込まれ、また、金星がカナンでは女神アシュトレトとして特に崇められた。犠牲の儀式が祭司たちによって執り行われ、彼らと協力する(神々の霊
が乗り移る)預言者たちが信者の未来についての相談に預かっていた。更に、信者たちと性的交渉に入る、男女の「神の僕」と呼ばれる者たちがいたが、このよ
うな慣習の背後には、彼らと信者たちとの性的ドラマが神々を刺激し、大地の豊饒に導くとの信仰があったのであろう。」
http://www.geocities.jp/yoshionoro/jud-christ-8-19.html
神
「男
と女の性のどちらかを排除するのは、自然の流れとしてかなり無理があるのだが、ユダヤの神は男神である。周辺国がまだ女神崇拝を行っているそのなかで、男
神唯一神が確立されている。ユダヤ教(イスラム教も)が何故男神を唯一神に設定したのか、もはや知る術はないが、はるか昔のユダヤには女性原理として
“シェキーナ(用語集S参照)”という存在があったようである。今はその名を知る者も(CRADLE OF
FILTHのダニ・フィルスのようなオタクくらいで)少なく、聞くところによると、ユダヤ教神秘主義に時々見られるくらいだという。」
http://www.ne.jp/asahi/myo-on/kalavinka/keidai/lyricz/main/god.htm
地母神・豊穣神
古代エジプト=女神イシス、古代バビロニア=女神イシュタル、古代ギリシャ=女神デメテル、
スコットランド=女神ブライド、アイルランド=女神ダーナ、エスニャ
ハ.古代インド ヒンドゥー教の神々
リグ・ヴェーダとウパニシャット哲学(バラモン教) デャウス(天・日−牡牛)×プリティヴィー
(大地−雌牛)は神々の父母=一切の存在の親、あらゆるものを保護し、豊穣の神
ブラフマン(梵天=創造)・ヴィシュヌ神(維持)・シヴァ神(破壊)が魚、亀、野猪、仏陀、カルキ
(白馬)等々に化身し千変万化の様相を呈す。
ニ.日本神話(日本書紀・古事記)
五柱の神々(高天原)−イザナギ×イザナミ−八島・海山の神・火の神・水の神等々
天照大神(天)・月読神(夜)・須佐之男神(海)・・・天孫降臨(葦原中国)・・・海幸彦
山幸彦・・・八百万(やおよろず)の神々・・・神武天皇 神代から人代へ
http://user.shikoku.ne.jp/vihara/page009.html
現在の一神教は、他の宗教を弾圧、共生しようとしません戦い支配しようとします米国のように。
砂漠の神 ラー(太陽神)男神を崇拝しはじめたのは女神(豊穣神)徒から阻害されていた頭脳派の移動職人(石工)や商人達だったのでは。
[7437] Re[7436][7434][7433][7432]: 名草戸畔は男か女か 神奈備
2006/05/12(Fri) 17:43 [Reply] > であれば、名草姫命のみを祭神とする神社があっても(というか多くがそうであって
も)良いような。
> 和歌山の名草姫命を祀る神社は、ほとんど名草彦命も祀っていますね。
おっしゃる通りです。名草彦命を後からできたとするのは言葉足らずで、勧請元の吉
原の中言神社に後から祀られたのか、もとから祀られていたのかこれは定かではありま
せん。
名草彦の名前は紀氏の系譜にも登場する一応実在していたとされる人物にあります。紀の国造の第五代に大名草彦の名が見え、『姓氏録』和泉神別)にも大村直の祖の説明
にでています。
一般的には名草彦命を祀る神社はこの第五代目さんを祀ったとの説明であり、おそら
く、但馬の名草神社の祭神の名草彦命の場合には、第五代目さんなのでしょう。
また、『紀伊国続風土記』は、名草姫大神と名草彦神との関係を大神の方を母神とか
姉神とする見方を注記しています。
なお、『和歌山市史』P.419によりますと、「『紀伊国続風土記』は、名草姫大
神を名草戸畔ではないか」としているのですが、小生は続風土記の中にその記述をまだ
見つけていません。
[7436] Re[7434][7433][7432]: 名草戸畔は男か女か 玄松子
2006/05/12(Fri) 15:37 [Reply] > 『紀伊国続風土記』に載っている国造系譜の中の説明文に、「本国神名帳」に名草姫大神と名草彦神の名が見え、姫神が大神となっていることを指摘しています。
> 想像ですが、名草彦神は丹生津彦神のように後からできた男神かも。それが徐々に男社会の影響で、名草彦命、名草姫命と同列になり、先に男神の名がでるようになってきたのかも。
なるほど。
> 五十猛神の妹の抓津姫命を祭る神社も国内に60社ほどあるのですが、佐賀の妻山神社にのみ抓津姫命、抓津彦命と男神が登場しています。後から創られたような気がします。
であれば、名草姫命のみを祭神とする神社があっても(というか多くがそうであっても)良いような。
和歌山の名草姫命を祀る神社は、ほとんど名草彦命も祀っていますね。
ところが兵庫では名草彦命のみを祀っています。(同神かどうか議論はあるでしょうが)
[7435] 名草戸畔の埋葬は nick [Url]
2006/05/12(Fri) 15:22 [Reply] このサイトに記載の
>名草戸畔は賊として日本書紀に記されている。
>地元の人々は、頭、胴、足と切り離された名草戸畔の遺体を葬り・祀った。
==>>これって、当地に伝承の『弥五郎』そのものですね。
話題沸騰なので、つい興味本位であちこち覗いてます。笑。
[7434] Re[7433][7432]: 名草戸畔は男か女か 神奈備
2006/05/12(Fri) 15:17 [Reply] > 名草彦命も祭神に居りますから、名草戸畔=名草彦命とも。
『紀伊国続風土記』に載っている国造系譜の中の説明文に、「本国神名帳」に名草姫大神と名草彦神の名が見え、姫神が大神となっていることを指摘しています。
想像ですが、名草彦神は丹生津彦神のように後からできた男神かも。それが徐々に男社会の影響で、名草彦命、名草姫命と同列になり、先に男神の名がでるようになってきたのかも。
五十猛神の妹の抓津姫命を祭る神社も国内に60社ほどあるのですが、佐賀の妻山神社にのみ抓津姫命、抓津彦命と男神が登場しています。後から創られたような気がします。
> ところで、戸畔=長(酋長)というのは確定?
>> 『時代別国語大辞典上代編』では:
>> 「とべ 接尾語 男女を問わず人名の後につけて用いる。」と。(大三元さん)
トベには男と女の場合があります。身分がそこそこの人を示しているようですから、長(おさ)としてもいいのかも。
[7433] Re[7432]: 名草戸畔は男か女か 玄松子
2006/05/12(Fri) 11:35 [Reply] > まず、吉原の中言神社の祭神の名草姫命ですが、名草戸畔のことではなかろうか、
名草彦命も祭神に居りますから、名草戸畔=名草彦命とも。
ところで、戸畔=長(酋長)というのは確定?
[7432] 名草戸畔は男か女か 神奈備
2006/05/12(Fri) 11:12 [Reply]
『垂仁紀』「此國有佳人。曰綺戸邊。姿形美麗。」この戸邊は女ですが、ほかのトベさんが女である確証はありません。
現に『神代紀上』では、「級長戸辺命亦曰級長津彦命」とあり、わざわざ戸辺を男と説明しています。(大三元さん)
名草戸畔は男か女か、これを決めるのは、社伝や民間伝承に頼るしかないでしょ。
まず、吉原の中言神社の祭神の名草姫命ですが、名草戸畔のことではなかろうか、また丹敷戸畔は丹生都姫ではないか、これらは願望的推測に過ぎませんが、いずれも女神達です・・・。
名草戸畔は頭、胴体、足とばらばらにされたとの伝承があります。
モルッカ諸島の神話にも、「殺された死体を切断して各所に埋めると、死体は芋等に変わった」との、食物起源を語るハイヌヴェレ神話も女性の体なのです。
卑弥呼を連想して巫女王のようなロマンを名草戸畔に求めたこと、紀の国で登場した初めての人間ですので、大地母神をイメージしたと言うことでしょう。
[7431] Re[7428] [7427][7426][7425][7419]: 紀氏の海のルート 倭亜布
2006/05/12(Fri) 10:17 [Reply] 「【娣】(女+弟)テイ いもうと おば:弟の嫁」と辞書に有りましたが、何故に「男」なのでしょうか?
、「戸辺」(ト部)=「津彦の嫁」=女(巫女) では?
[7430] Re[7429][7424][7422][7421]女弟 ガジマル
2006/05/12(Fri) 10:02 [Reply] 弟は沖縄方言ではウットゥだが年下の兄弟を意味する。いもうとという言葉はない。
おとうと、いもうとの「うと」だ。女はイナグがイナウ、ナウがモーとなりイモー、イモ
となる。NがMに変わっている。あっているかわからない。女弟は女ですよということを言いたかったということになる。兄弟には女姉妹も含まれている。走は北京語でパーウ ハーアゐとすればハーエーとなり
ハーエーという沖縄方言となる。スル動詞をつけたらよい。ハーエースン。古い音
を中国人も忘れていない。
ウ音をオ音に変えたら標準語になると考えてウットゥをオットとして紹介して誤解を与えたという話がある。弟を夫として取り違える。
[7429] Re[7424][7422][7421]女弟 nick [Url]
2006/05/11(Thu) 19:30 [Reply] > > これも唯一の使用例なんですね。
> > 「豐玉姫果如前期將其女弟玉依姫直冐風波來到海邊」
> > を始めとする、女弟玉依姫しかありませんでした。
これって「女弟」の中国語じゃ〜ないのでしょうか。
さっき検索してみたら、何か人の名前に付いてますよ。
今度聞いてみよう。。中国の留学生居るかな。
日本語も曖昧なのに他国語までは。。。
[7428] Re[7427][7426][7425][7419]: 紀氏の海のルート 大三元 [Url]
2006/05/11(Thu) 13:10 [Reply] > 戸畔が女である説明に刀自が持ち出されますが、刀も甲類の「ト」でしょうか。
> 売が辨、畔、辺、部と変化し、ついに自と変わったといえるのでしょうか。
「戸」「刀」ともに甲類です。
「刀自」は「戸・主」の転、とされるようですが、イマイチな感じがあります。
[7427] Re[7426][7425][7419]: 紀氏の海のルート 神奈備
2006/05/11(Thu) 12:33 [Reply] 戸畔が女である説明に刀自が持ち出されますが、刀も甲類の「ト」でしょうか。
売が辨、畔、辺、部と変化し、ついに自と変わったといえるのでしょうか。
[7426] Re[7425][7419]: 紀氏の海のルート 大三元 [Url]
2006/05/11(Thu) 11:45 [Reply] > ・・・昔の人は皆さん八咫烏のごとく、飛ぶように山中を駈けたのかも。
記紀・風土記の中にアイヌ語で考えると説明の付きやすい話や名前があると考えていますが、烏についても:
烏=pas-kur=「炭(の様に黒い色の)・人」 とも解けるが「走る・人」とも解ける。これではないか。。。
ユーカラにも烏に先導されて敵地に赴く描写がある。他にも、カケス、ミソサザイ、(大陸ではカササギ)、などが獲物の在処を教えてくれるそうだ(更科源蔵「アイヌの神話」p73-)。
つまり、ヤタ烏は斥候のような役割を持って走っていた、と。
[7425] Re[7419]: 紀氏の海のルート 神奈備
2006/05/11(Thu) 10:45 [Reply] > 宮滝遺跡
> もしかしたら海からのルートもあるのではないかと、思いました。
宮滝遺跡の前の橋のたもとにあった説明板には、出土した石器類の産地は南紀だと書いてあったと記憶しています。山中の大変な道でしょうが、昔の人は皆さん八咫烏のごとく、飛ぶように山中を駈けたのかも。
黛
弘道著『古代学入門』に、神武東征と海神族の活躍なる一章があり、この中に海人地名(和田、和田*、*和田、波多、八田、など)の分布が書いてあり、新宮
市から熊野川を遡り、また、熊野市から北山川、吉野川に至るルートの山中にも多くの海人地名が残っていることを示しています。
海から山中を通るルートのほうが、河川沿いよりも安全だったのかも知れません。
[7424] Re[7422][7421]女弟 大三元
2006/05/11(Thu) 10:24 [Reply] > これも唯一の使用例なんですね。
> 「豐玉姫果如前期將其女弟玉依姫直冐風波來到海邊」
> を始めとする、女弟玉依姫しかありませんでした。
そうか。唯一であっても、女性であることが確実な豐玉姫の妹なのに「女弟」としているのですね。それじゃ、葉江が男性であったとしても、その男弟、と云うことに不自然を感じることはないのか。
皇族に嫁ぐ女性の親に言及されているとき、その親は必ず父親である、というのが、多分そうだろうけど、そうでないこともある、と云えないのか、と探索中です。一旦引っ込みます。
[7423] Re[7422][7421]女弟 ku
2006/05/11(Thu) 09:34 [Reply] > > 「女弟」が存在するので、別にあっても私は不思議に思いませんでした。
>
> 日本書紀内で見てみると
> これも唯一の使用例なんですね。
> 「豐玉姫果如前期將其女弟玉依姫直冐風波來到海邊」
> を始めとする、女弟玉依姫しかありませんでした。
伊呂兄(いろせ)五瀬(いつせ)の命
の
伊呂(いろ)もあるようですね。
[7422] Re[7421]女弟 ペギラ
2006/05/11(Thu) 09:11 [Reply] > 「女弟」が存在するので、別にあっても私は不思議に思いませんでした。
日本書紀内で見てみると
これも唯一の使用例なんですね。
「豐玉姫果如前期將其女弟玉依姫直冐風波來到海邊」
を始めとする、女弟玉依姫しかありませんでした。
[7421] Re[7420][7417][7416][7413][7411][7410]: 名草戸畔 ペギラ
2006/05/11(Thu) 08:49 [Reply] おはようございます 大三元さん
> (古事記)又娶春日建國勝戸賣之女。名沙本之大闇見戸賣。生子。沙本毘古王
> 沙本之大闇見戸賣が女性、
> そうすると親の「戸賣」が男で、子の「戸賣」が女、というのは
> 否定しきれないけど、いいのかな。
三浦先生の「口語訳 古事記」の注にもあるますね。
・・・・引用・・・・・・・
タケクニカツトメ
ふつう、古事記の系譜では、天皇や皇子の結婚は、「某の女、○○」と記され、
「某」は父親の名が記されるのであるが、このタケクニカツトメは母である。
(末尾のメは女性を表示する「女」の意。)
したがって、「タケクニカツトメの娘、名はサホノオホクラミトメ」という関係は、
母ー娘という母系的な継承をとる一族であることを示している。
・・・・・・・以上・・・・・・・・・・
日本書紀にこの系図が載っていれば!という思いがあります。
真福寺本古事記などは、かなり誤写誤記が存在します。
それを補える資料が日本書紀などにないのが本当に残念で、
私的な考察の範囲を越えるものではありませんが、
私はこの「トメ」は誤写誤記の類だと思っています。
> > 磯城縣主葉江男弟。猪手女泉媛
>
> 「男弟」と特記しているように思えるが、それは何故だろう。
> 葉江が男なら、ここは単に「弟」で良くはないか。ここから
> 葉江が女性であるかも、という疑念。
う〜ん。「女弟」が存在するので、別にあっても私は不思議に思いませんでした。
でも、こんなとこにも「ハエ」ですね。(笑)
[7420] Re[7417][7416][7413][7411][7410]: 名草戸畔 大三元
2006/05/10(Wed) 23:38 [Reply] ペギラさん、お手数ありがとうございます。
> 日本書紀の記述では、(A)女・女子(B)という表現で(A)というのは、男性である。
本当にそうなのかな、例外は無いのかな、ということを考えているので、お尋ねしたものでした。そう考える端緒は、古事記も含みますが:
(古事記)又娶春日建國勝戸賣之女。名沙本之大闇見戸賣。生子。沙本毘古王
沙本之大闇見戸賣が女性、
そうすると親の「戸賣」が男で、子の「戸賣」が女、というのは
否定しきれないけど、いいのかな。
> 磯城縣主葉江男弟。猪手女泉媛
「男弟」と特記しているように思えるが、それは何故だろう。
葉江が男なら、ここは単に「弟」で良くはないか。ここから
葉江が女性であるかも、という疑念。
私は諸資料合わせ読んで男女が判らないものは、判らないと保留してます。
(それを他人に押しつけようと云うものではありません、念のため)
[7419] 紀氏の海のルート 妖
2006/05/10(Wed) 21:44 [Reply] 神奈備さま、とみたさま、
すみません。 まだ書かないうちに飛んで行ってしまいました。削除していただけますか? 大変失礼しました。
とみたさんの書き込みを読ませていただきました。
玉置氏の家紋は、入り江、湾を表したものだそうですから、玉置氏は海の一族だと言うことでしょうか。
吉野の山奥で何故?と思いましたが、石野博信氏の本のことをふと思い出しました。
宮
滝は吉野の北方に位置していますが、ここの遺跡を発掘したところ、多数の鷹島式土器がみつかったそうです。 鷹島式土器と言うのは、貝を転がして模様をつ
けたもので、紀ノ川河口で作られていたようです。 広い地域に分布が見られますが、主に海岸沿いに出土することが多いのだそうです。 このことから、宮
滝遺跡は山奥ですが、本拠地は海にあったのではないかと、書いてありました。
宮滝は斉明の宮もありましたし、紀の川から陸路で入ったのだろうと、漠然と思っていました。 けれども、同じく山奥にある玉置神社の家紋が明らかに海のものであると
伺って、もしかしたら海からのルートもあるのではないかと、思いました。
その根拠の一つに、鷹島式土器の分布状況があります。 土器の出土は、紀ノ川河口から海岸伝いに南へむかって点々と下り、丁度紀伊半島の南の端で止まっています。 ここから上陸し、北に少し上りますと、熊野本宮があり、これは玉置氏の本家筋ですね。
玉置氏は紀氏の一族では?と書かれていたようですし、もしかしたら、宮滝へもこのルートで入ったとも考えられるのではないかと、思いました。
も
うひとつ、二上山のサヌカイトの分布状況があります。 サヌカイトは鉄が普及するまで生活には欠かせない貴重なものでしたので、広い地域で出土しています
が、縄文後期において、他の地域に先駆けて吉野の南端部に分布が見られます。 これが丁度熊野本宮の在る辺りなのです。 サヌカイトが最初に使われたの
は、渥美半島、和歌山の有田の辺り、それから南山城で、二番目に吉野の南部と、丹後が続きます。 サヌカイトも、鷹島式土器と同じ海のルートで、早々に
吉野へ運ばれていったのではないでしょうか。
[7417] Re[7416][7413][7411][7410]: 名草戸畔 ペギラ
2006/05/10(Wed) 18:21 [Reply] > > > この荒河戸畔さんも多分というかほとんど間違いなく男でしょう。
日本書紀の記述では、(A)女・女子(B)という表現で(A)というのは、男性である。
すべてを列記するのはスペースの無駄になるので、数例。
稻田宮主簀狹之八箇耳女子。號稻田媛
娶高皇産靈尊之女栲幡千千姫
娶顯國玉之女子下照姫
高皇産靈尊之女號萬幡姫
娶高皇産靈尊女子栲幡千千姫萬幡姫命
神娶大山祇神女子木花開耶姫命
彦火火出見尊因娶海神女豐玉姫
事代主神共三嶋溝■耳神之女玉櫛媛
磯城縣主女川派媛
春日縣主大日諸女糸織媛也
磯城縣主葉江女川津媛
大間宿禰女糸井媛
母曰渟名底仲媛命。事代主神孫鴨王女也
磯城縣主葉江男弟。猪手女泉媛
磯城縣主太眞稚彦女飯日媛也
母皇后天豐津媛命。息石耳命之女也
磯城縣主葉江女渟名城津媛
倭國豐秋狹太雄女大井媛也
磯城縣主葉江女長媛
十市縣主五十坂彦女五十坂媛也
母曰細媛命。磯城縣主大目之女也
母曰伊香色謎命。物部氏遠祖大綜麻杵之女也
紀伊國荒河戸畔女遠津年魚眼眼妙媛
地名+「人」+名前 の人名も、使用例は男である。
高橋邑人活日
丹波國桑田村有人名曰甕襲
葛城人宮戸彦喚弟彦公
倭國菟田人伊賀彦
武藏國人今是額田部槻本首等之始祖也
武藏人強頚
河内人茨田連衫子
飛鳥戸郡人田邊史伯
古市郡人書首加龍
播磨國御井隈人文石小麻呂
丹波國餘社郡管川人水江浦嶋子
菱城邑人鹿父
住道人山寸・住道人山杵
越人江渟臣裾代
このあたり自分勝手なルールの自分勝手なピックアップと言われるでしょうが、
記述はそうなっている。
なぜそうなのか?と思うに戸籍作成などが影響しているのではないかと。
男性の戸籍が主となるということが。
>
> > この人も(氷香戸邊)も男でしょうね。
>
> これらは、どうしてそう言えるのですか?
[7416] Re[7413][7411][7410]: 名草戸畔 大三元
2006/05/10(Wed) 15:37 [Reply] ペギラさん
> > この荒河戸畔さんも多分というかほとんど間違いなく男でしょう。
> この人も(氷香戸邊)も男でしょうね。
これらは、どうしてそう言えるのですか?
[7415] Re[7410]: 名草戸畔 はりまのわたつみ
2006/05/10(Wed) 14:53 [Reply] 神奈備様
> はりまのわたつみさん
> 紀ノ川を遡上し、吉野川中流まで来たところで丹敷戸畔(にふとべ=丹生戸畔)
> を討ち取り水銀を得る。(敷設はふせつと読みますよね。)
> 鳥越憲健三郎著『大いなる邪馬台国』にも丹敷をニフとしていましたね。いわゆる重箱読みです。
***
重箱読みが正しい場合もありますが、少ないですね。
ところで、私と同じ説を見つけました。
http://www.kamnavi.net/ny/nyuhime.htm
神武東遷の際、部隊は紀伊の名草戸畔を討ってから紀伊水道を南下したことに
なっているが、 地元では紀ノ川をさかのぼり、吉野川の下流に出たのでは
ないかと伝えられている。
日本書紀に丹敷戸畔を討つとあるが、これを「にしき」と読むのか「にふ」と
見るかで、 丹敷戸畔を奉ずる人々の生産物が錦か水銀かとなる。水銀で磨いた
銅鏡の輝きは見事なほど美しく、 日の神の後裔を新たに名乗るにはうってつけ
の材料である。また赤土からは鉄もとれる。 さすれば、神武が入手すべき戦略
物質は「水銀」「鉄」ではなかったか。丹生都比売命の所有する金属が
ねらわれたのである。 神武に討たれた丹敷戸畔とは丹生戸畔のことであり、
祭神の丹生都比売神をこの丹敷戸畔を祀ったものとする説がある。
[7414] Re[7413][7411][7410]: 名草戸畔 ペギラ
2006/05/10(Wed) 14:39 [Reply] 垂仁天皇三四年三月丙寅
天皇幸山背。時左右奏言之。此國
有佳人。曰綺戸邊。姿形美麗。山背大國不遲之女也。天皇於茲執矛祈之曰。必遇其佳人。道路見瑞。比至于行宮。大龜出河中。天皇擧矛剌龜。忽化爲白石。謂左
右曰。因此物而推之。必有驗乎。仍喚綺戸邊納于後宮。生磐衝別命。是三尾君之始祖也。先是娶山背苅幡戸邊。生三男。第一曰祖別命。第二曰五十日足彦命。第
三曰膽武別命。五十日足彦命。是子石田君之始祖也。
綺戸邊・山背苅幡戸邊は女性ですね。
[7413] Re[7411][7410]: 名草戸畔 ペギラ
2006/05/10(Wed) 14:33 [Reply] > 崇神天皇元年二月辛亥
> 又妃紀伊國荒河戸畔女遠津年魚眼眼妙媛。生豐城入彦命。豐鍬入姫命。
> この荒河戸畔さんも多分というかほとんど間違いなく男でしょう。
崇神天皇六〇年七月己酉
不祭大神而有間。時丹波氷上人。名氷香戸邊。啓于皇太子活目尊曰。己子有小兒。而自然言之。
この人も(氷香戸邊)も男でしょうね。
[7412] Re[7410]: 名草戸畔 大三元
2006/05/10(Wed) 12:53 [Reply] > > 級長戸辺命亦曰級長津彦命
> 『日本書紀』に、「戸辺」=「津彦」のようなな説明例は他にはなさそうですが、見落としたかも。
私も他には見つけていません。なお、岩波の『日本書紀・上』のP90-91の頭注では、
級長戸辺命 & 級長津彦命 のことだろう、と対にして考えています。
しかし、そうだとすると女性が先に記されて男性が後になっている。他の対偶神の記載方法を見ると、男女の順序になっていて、女・男の順は異例のように見えます。それ(逆順)については頭注は触れていない。
また、「級長戸辺命亦曰級長津彦命」が出てくる段落での他の神様は皆一人(配偶神無し)。
という二点から、私は、ここの「戸辺」は「彦」に同じ、つまり、男性、と考えられていたのだ、と捉えています。
[7411] Re[7410]: 名草戸畔 ペギラ
2006/05/10(Wed) 12:07 [Reply] 崇神天皇元年二月辛亥
又妃紀伊國荒河戸畔女遠津年魚眼眼妙媛。生豐城入彦命。豐鍬入姫命。
この荒河戸畔さんも多分というかほとんど間違いなく男でしょう。
[7410] 名草戸畔 神奈備
2006/05/10(Wed) 11:44 [Reply] とみたさん
> 上州の群馬県の先生は、大和南部説つまり紀の国由来支持派と騎馬民族由来説支持派と分かれます。常陸風土記には筑波の県は昔、紀の国といわれたとあり、
『常
陸国風土記』行方の郡)に、建借間命が国栖を退治するのに、杵島ぶりの歌曲を歌わせたと言う故事が載っています。この杵島とは、『肥前国風土記』逸文)に
出てきます。杵島山中に稲佐山があり、ここに稲佐神社が鎮座、天神、五十猛神を祀っており、紀氏の国内でのルーツの一つではと思っています。この辺りか
ら、紀伊へ、筑波へと進出していったのではと推測しています。
はりまのわたつみさん
> 紀ノ川を遡上し、吉野川中流まで来たところで丹敷戸畔(にふとべ=丹生戸畔)
を討ち取り水銀を得る。(敷設はふせつと読みますよね。)
鳥越憲健三郎著『大いなる邪馬台国』にも丹敷をニフとしていましたね。いわゆる重箱読みです。
PONTAさん
> 名草戸畔は名草姫と呼ばれた。
そうでしょうね。しかし逆は真ではないでしょう。
『旧事紀』に見える、「饒速日尊五世孫建斗米命は紀伊国造智名曽の妹中名草姫を娶った。」と言う記事の場合、この中は次女のようで、姉を大名草姫、三女を小名草姫と呼んだのかも。
要するに、名草郡の女性は多くは名草姫と呼ばれたのでしょう。
青草話
> 級長戸辺命亦曰級長津彦命
『日本書紀』に、「戸辺」=「津彦」のようなな説明例は他にはなさそうですが、見落としたかも。
記紀に出ない神名ですが、丹生都姫神の名は丹生都比売神社に因む文献などに出ているのですが、文献にも出てこない丹生津彦神と言う神が和歌山では祭られて
います。祀っている神社の宮司さんに理由を聞いたことがあります。「女神一人では寂しいから、男神を創ったのだろう。」とのこと。
さて、『古事記』には、志那都比古神が登場するのですが、比売神の名はでていません。風の神は重要な神で、春日大社にも風宮、伊勢神宮にも風日祈宮が鎮座しています。風の神には暴れられたら困りますので、女神を一緒にお祭りし、そこそこの神社で祀られてしまっていた。
しかたがないから級長戸辺命も一緒の神様ですよと書いたのでしょうかね。津姫としなかったのは、露骨だし、戸辺神は男女が不明になりつつあったということかも。
[7409] Re[7389][7387][7383]: 名草戸畔 神奈備
2006/05/10(Wed) 09:58 [Reply] > > ●●は何ですか?
> > 熊野三山の御祭神が誰か追求していく本なので、答えを書いちゃうと面白みが半減するかなと。p.192を開けば書いてあります。
多分、稲荷神でしょう。
[7407] Re[7396][7394][7392]: 大三元様へ 大三元
2006/05/10(Wed) 09:50 [Reply] > (1)「とべ」の意味は「長」
> (2)「名草戸畔」の性は女性
それぞれについて、私も「多分」そうだろう、とか、その周辺の意味合いだろう、とは思いますが、これらを断定口調で書いて居られるので根拠を知りたかったのです。
(1)は級長戸辺命という名前に照らすと不十分ではないのか
(2)は、どうして女性と言い切れるのか。(「とべ」が女性である、という仮説を使わないのだとすると)
な
お、「とべ」は「とめ」と同語であろう。「とめ」の「め」は「売」字を宛てることがあり、この字はしばしば「女(め)」に相当する(「比売」=姫)。∴と
べ=とめ=と女 であろう、つまり、「とべ」は女性であろう、とは思っています。ただ、前回書いたように「級長戸辺命亦曰級長津彦命」が引っかかっていま
す。
[7406] Re[7397]: 名草から紀氏へ とみた
2006/05/10(Wed) 08:36 [Reply] 自己レスです。補足加筆します。
>> 玉置神社の宮司さんが、玉置神社は熊野本宮の奥の院だけど、明治になって廃仏棄釈で貴重な文書が捨てられた。しかし熊野本宮では文書は残っているそうです。
熊野本宮は、格式が高いので、政治的意図による文書の破棄はなかったと仰っていました。
玉置神社はイザナギ、イザナミ、クニトコタチ〔国常立)の三神で、明治の御世に天照、と神武が加わって5柱になったそうです。
手元の資料では、熊野本宮の祀官は熊野国造から出ており、直系は玉置氏。
玉置氏は紀氏の支族。
紀氏は名草・在田の郡司家であるが日前国懸神宮を奉斎して国造になって代々宮司を務める。
日前神社は伊勢神宮に匹敵するぐらい格が高い。
神武東征時に、国造の祖先の天道根命が日矛鏡と日像鏡とを賜っている。
この鏡が神体で、伊勢神宮の神宝のヤタ鏡にも劣らない格が高い。
>
熊野本宮のシンボルはヤタカラス。玉置氏は紀氏の支族で、家紋は州浜=入江=湾をシンボルとしていて平和・平穏を願っている。と申されておりました。
>
ヤタカラスは葛城建角身命で、奈良の東南の宇陀に近い榛原の近くにヤタカラス神宮がある。
神話は作り話と捉えればそれまでですが、何かが隠されている。
以上の方程式が解けないんです。
紀
氏は、紀州や瀬戸内の水上交通も抑えている。水軍とのかかわり、紀の角の裔の男麿は朝鮮外征に功があった。熊野水軍とか、神武東征の水先案内とか何かがに
おっているんですが・・・大和神社の倭直とか、椎根津命とか水先案内に関係しているし・・・ハテサテ大風呂敷を広げましたが。紀氏はもともと朝鮮と太いパ
イプがありそうです。
違いましょうか?
> 私は関東に住んでいるのですが、上毛野国の一族の祖先つまり上州人の祖先の故郷について二つの説があるそうです。
>
> 上州の群馬県の先生は、大和南部説つまり紀の国由来支持派と騎馬民族由来説支持派と分かれます。常陸風土記には筑波の県は昔、紀の国といわれたとあり、下毛国〔栃木県)の境を毛野河=鬼怒川が流れている。ケはキというんです。
常陸風土記から引用します。
筑波の県は、昔、紀(き)の国といった。美麻貴の天皇(崇神天皇)の御世に、采女(うねめ)臣の一族が、筑箪(つくは)命を、この紀国の国造として派遣した。筑箪命は「自分の名を国の名に付けて、後の世に伝へたい」といって、旧名の紀国を筑箪国と改めた
> それで、家系という豊田武さんの本を読みますと、紀の貫之の叔父清主は下野の大掾となって下野芳賀郡に土着したとあります。
>
> でもこれだと平安時代ですから晩いですね。
>
筑波山は皆さんご承知でしょうが茨城県=常陸国の山、関東平野の独立峰で男体峰と女体峰の二つの尖がりあります。870mの山です。下野(栃木県)国に近いです。
(言わずもがなですね)
[7405] Re[7391] [7390][7388][7385]: >「とべ 」 倭亜布
2006/05/10(Wed) 04:18 [Reply]
突然に サンカさせて頂きます。
>「戸畔」とは縄文時代の言葉から由来しており「酋長」を意味するらしい。」とあります。
>「先住土着の女酋長と見ることが出来、土蜘蛛とよばれる集団の巫者であろう。」
>「とべ 接尾語 男女を問わず人名の後につけて用いる。」とあって、「長」だとも「女性限定」とも書いてないので・・・
【姫】=比売 =(【卑】しい 【売】る)・・・例 【卑巫女】
【姫】「女」(娘?)+「臣」(酋長?)・・・・古代 酋長の娘は隣国との平和外交に使われた。(人身御供?)
【卑】しい・・・「【鬼】の「頭」(かしら)」+「手?」(古文字では「田」関係と「交わり」系との二系有り)・・・【鬼】は古代中国の「禹帝」(始皇帝は嫌う。)
【売】・・・・古代に「貝」が貨幣として使われたので「売買」と考えた・・・しかし「貝」は「女」のシンボル?・・・
【巫女】・・・は、豊穣・平和の女神
「とべ」・・・「ト」部なら「ウラベ」(戸=境 畔=境・・・・「比」・・・二者択一・・・ト(占なう)
「とべ」=【姫】「女」(娘?)+「臣」(酋長?)
「臣」(酋長?)・・古代 部族の権力者は「神」につかえる牧師(ト師)・・・・いまでも?
>「とべ」は「長」であって、「女性の長」とは言ってません。
「女性の長」は【卑巫女】(私的に古代測量では「+」(四方・東西南北)「×」(鬼門?)【亜)】の文字には「□」の四隅に「魔」を表す。球体の地球を「田」型に計る(+)四方・東西南北 しかし 三角測量(正三角形)では「×」(鬼門・「□」の四隅)で交わらない。
先住 渡来 禹系(豊穣神・水神・乙・蛇)の 測量士は 後 渡来 始皇帝系(太陽神・日・火・甲・YHWH)
「豊穣神・水神・乙・蛇」系は「水」自然のサイクルのエデンの園を「東」に求め、「太陽神・日・火・甲・YHWH」は「火」科学・軍事・一神(王)はカァースト トライアングルを世界に求めた。
[7404] Re[7400][7399][7390] 戸畔 nick [Url]
2006/05/10(Wed) 02:28 [Reply] PONTAさん> 私はよく図書館で片端から調べます。
> もちろん、国語辞典だけではなく神名辞典とか。あと、地名辞典にも時々載ってることがありますよ。お試しあれ。
こんばんわ。やっと隼人の昨日の整理がついたので覗いています。
私も当初は「地名辞典」でした。
コピーして重宝しています。これには出典も結構記載されていますし。
[7403] 辞書の語義の出典 PONTA
2006/05/10(Wed) 00:31 [Reply] 辞書には単語の意味が書いてありますが、その単語の意味をどうしてそうだ
と分かったのか疑問です。他の辞書に書いてあったからか(笑)、自説なのか。自分が使っている単語ならともかく、古語となると・・・用例が載せられている
ので、用例から考えた語義が書いてあるのかな。編集委員が自説を出し合って、1番正しいであろう語義を載せるとか、定説を載せるとか、「〜と考えられるが
不明」と正直に書くか。
[7402] Re[7397]: 名草から紀氏へ PONTA
2006/05/10(Wed) 00:17 [Reply] > 名草の話で神奈備さん、大三元さん、PONTAさんからヒントをいただきました。
何がどうヒントになったか分かりませんが、少しでもお役に立てれば幸いです。
>しかし熊野本宮では文書は残っているそうです。
そうなんですか。それは知りませんでした。
まだ大斉原にあった時、洪水で文書は流されてしまったものと思ってました。
[7401] Re[7400][7399][7390] 戸畔 PONTA
2006/05/10(Wed) 00:13 [Reply] > 私はよく図書館で片端から調べます。
私のよう
に図書館へ行くよりもネットで調べた方が楽ですね。ただ、ネットの場合は、「とべ」は「長(族長、酋長)の意味」と書いてあっても、出典が書いてありませ
んね。出典がかいてあれば「こういう辞書を見ればいいのか」とペギラ様にもお分かりになるのにね。もちろん、私の知らない本(図書館にない本)が出典だと
悲しいですけど。研究書も巻末の参考文献一覧が図書館で本を探すときに役立ってます。
[7400] Re[7399][7390] 戸畔 PONTA
2006/05/10(Wed) 00:06 [Reply] 私はよく図書館で片端から調べます。
もちろん、国語辞典だけではなく神名辞典とか。あと、地名辞典にも時々載ってることがありますよ。お試しあれ。
[7399] Re[7390] 戸畔 ペギラ
2006/05/09(Tue) 23:43 [Reply]
> 今後お調べになるときは、『時代別国語大辞典上代編』だけではなく、他の古語辞典や、他の辞典も併用すると
>
他のどんな辞典に「とべ」載ってますか?
今後の為に、できましたら、お教え願えませんか。
[7398] 丹敷戸畔は「にしきとべ」か? はりまのわたつみ
2006/05/09(Tue) 23:40 [Reply] はりまの妄想家の意見をご批判ください。
私の仮説ですが、神武軍は生駒山で破れたので、南から攻める必要を感じ、海路で
紀ノ川河口までやって来た。河口周辺の豪族・名草戸畔に行く手を阻まれ、これを
討ち取る。
紀ノ川を遡上し、吉野川中流まで来たところで丹敷戸畔(にふとべ=丹生戸畔)
を討ち取り水銀を得る。(敷設はふせつと読みますよね。)
ここで案内人(ヤタガラス)に導かれ山道を越え、大和を攻略した。
[7397] 名草から紀氏へ とみた
2006/05/09(Tue) 23:16 [Reply] 名草の話で神奈備さん、大三元さん、PONTAさんからヒントをいただきました。
素人衆に相手していただいて感謝しています。青草の方がいいかもしれませんが、も少しお付き合い願います。
玉置神社の宮司さんが、玉置神社は熊野本宮の奥の院だけど、明治になって廃仏棄釈で貴重な文書が捨てられた。しかし熊野本宮では文書は残っているそうです。
熊野本宮のシンボルはヤタカラス。玉置氏は紀氏の支族で、家紋は州浜=入江=湾をシンボルとしていて平和を願っている。と申されておりました。
も一つ、紀氏の事で伺います。
私は関東に住んでいるのですが、上毛野国の一族の祖先つまり上州人の祖先の故郷について二つの説があるそうです。
上州の群馬県の先生は、大和南部説つまり紀の国由来支持派と騎馬民族由来説支持派と分かれます。常陸風土記には筑波の県は昔、紀の国といわれたとあり、下毛国〔栃木県)の境を毛野河=鬼怒川が流れている。ケはキというんです。
それで、家系という豊田武さんの本を読みますと、紀の貫之の叔父清主は下野の大掾となって下野芳賀郡に土着したとあります。
でもこれだと平安時代ですから晩いですね。
一方騎馬民族由来説は、群馬県のフィールド調査で、高句麗や新羅の臭いの強い土器や馬具が出て来ることからいわれているんです。多胡碑では新羅系の羊太夫が語られています。
尤も紀伊の国は新羅との関係やツングースとの関係もあるようですから、なんともいえませんね。
紀の国は紀ノ川沿いの鳴滝遺跡の大谷古墳出土の鉄製馬チュウは朝鮮由来(新羅?加羅?)でしょうし、これは5世紀ですね。須恵器もありましょうから朝鮮の臭いがぷんぷんします。
スサノオも新羅と関わっていますしね。
そんなこんなで、紀氏を思い描いています。所詮郡盲の一人です。
神武東征は紀元後3世紀末という、安本美典さんの説が出ています。
これも物議をかもしそうです。
[7396] Re[7394][7392]: 大三元様へ PONTA
2006/05/09(Tue) 22:56 [Reply] > 「トベ」は、私も女性だと思っていたのですが「級長戸辺命亦曰級長津彦命」(神代紀上)なんてのがあって、断定し切れていないのです。
ですから、「とべ」は「長」であって、「女性の長」とは言ってません。
(1)「とべ」の意味は「長」
(2)「名草戸畔」の性は女性
と言ってるだけです。私の書き方が悪くて、この2つのことをあわせて「『とべ』は『女性の長』の意味」ととらえてしまったようですね。すみません。
[7395] Re[7390][7388][7385]: 名草戸畔 PONTA
2006/05/09(Tue) 22:50 [Reply] >他の辞典も併用するといですよ。
「いいですよ」が「いですよ」になってる・・・
管理人様、修正機能があると便利なのですが。(もちろん、間違える方が悪い。)
ついでにつけたし。
辞書の「とべ 接尾語 男女を問わず人名の後につけて用いる。」はあいまいですね。というのも、その名の人物の身分が書いてない。「身分も男女も問わず人名の後につけて用いる。」とか「族長である人物の後に男女を問わずつけて用いる。」とか書いてないですから。
[7394] Re[7392]: 大三元様へ 大三元
2006/05/09(Tue) 22:45 [Reply]
> 自説というより、名草戸畔は女性だと思い込んでいました。男性だとは聞いたことが無かったので。逆に、男性だと書かれた本などありましたらご紹介下さい。お願いいたします。不勉強ですみません。
「トベ」は、私も女性だと思っていたのですが「級長戸辺命亦曰級長津彦命」(神代紀上)なんてのがあって、断定し切れていないのです。
[7393] Re[7388][7385]: 名草戸畔 PONTA
2006/05/09(Tue) 22:37 [Reply] > > 「名草戸畔」の「戸畔」は「長」という意味ですから、「名草(地名)を治める長」で、女性ですから、「名草姫(比売)」と言ってもいいのかな。
>
> 「戸畔」は「長」というのはPONTAさんの自説ですか?何かで出ていることでしょうか?
> 同様に、これが「女性ですから」というのは御自説ですか?何か典拠があるのでしょうか?
>
> 参考:『時代別国語大辞典上代編』では:
> 「とべ 接尾語 男女を問わず人名の後につけて用いる。」とあって、「長」だとも「女性限定」とも書いてないので・・・
私の書き方が分かりにくくて誤解されているようですね。すみませんでした。「戸畔」は「長」という意味で、「女性の長」という意味ではありません。書き直します。
「名
草戸畔」の「戸畔」は「長」という意味ですから、「名草(地名)を治める長」あるいは「この地方を治める長で、名草に住んでいたのでこう呼ばれた」という
ことでしょうね。で、名草戸畔は女性ですから、後の時代であれば、あるいは他地域であれば、「名草姫(比売)」と呼ばれたかもしれません。
[7392] 大三元様へ PONTA
2006/05/09(Tue) 22:27 [Reply] > 同様に、これが「女性ですから」というのは御自説ですか?何か典拠があるのでしょうか?
自説というより、名草戸畔は女性だと思い込んでいました。男性だとは聞いたことが無かったので。逆に、男性だと書かれた本などありましたらご紹介下さい。お願いいたします。不勉強ですみません。
[7391] Re[7390][7388][7385]: 名草戸畔 PONTA
2006/05/09(Tue) 22:22 [Reply] 神奈備様が紹介されたブログ
http://blog.livedoor.jp/nagusatobe/
を
拝見しましたが4/6の記事に、「名草戸畔(なぐさとべ)は、古代の紀州を支配する「女酋長」であったという。お隣の熊野のほうを、丹敷戸畔(にしきと
べ)が支配していたということだ。「戸畔」とは縄文時代の言葉から由来しており「酋長」を意味するらしい。」とあります。
[7390] Re[7388][7385]: 名草戸畔 PONTA
2006/05/09(Tue) 22:16 [Reply] > 「戸畔」は「長」というのはPONTAさんの自説ですか?何かで出ていることでしょうか?
> 同様に、これが「女性ですから」というのは御自説ですか?何か典拠があるのでしょうか?
自説ではないですよ。
たとえば、このサイトで言えば、
http://www.kamnavi.net/ki/nanki/nati.htm
に「女神で「戸畔」とつく名草戸畔などは概ね先住土着の女酋長と見ることが出来、土蜘蛛とよばれる集団の巫者であろう。」とあります。自説というのは、たとえば「土蜘蛛とよばれる集団の巫者であろう」という部分のことですよ。
今後お調べになるときは、『時代別国語大辞典上代編』だけではなく、他の古語辞典や、他の辞典も併用するといですよ。
[7389] Re[7387][7383]: 名草戸畔 PONTA
2006/05/09(Tue) 22:06 [Reply] > ●●は何ですか?
熊野三山の御祭神が誰か追求していく本なので、答えを書いちゃうと面白みが半減するかなと。p.192を開けば書いてあります。
[7388] Re[7385]: 名草戸畔 大三元
2006/05/09(Tue) 21:55 [Reply] PONTAさん
> 「名草戸畔」の「戸畔」は「長」という意味ですから、「名草(地名)を治める長」で、女性ですから、「名草姫(比売)」と言ってもいいのかな。
「戸畔」は「長」というのはPONTAさんの自説ですか?何かで出ていることでしょうか?
同様に、これが「女性ですから」というのは御自説ですか?何か典拠があるのでしょうか?
参考:『時代別国語大辞典上代編』では:
「とべ 接尾語 男女を問わず人名の後につけて用いる。」とあって、「長」だとも「女性限定」とも書いてないので・・・
[7387] Re[7383]: 名草戸畔 神奈備
2006/05/09(Tue) 20:30 [Reply] > p.192で、●●神の正体は「丹敷戸畔たち」で
PONTAさん
●●は何ですか?
[7386] Re[7385]: 名草戸畔 PONTA
2006/05/09(Tue) 20:01 [Reply] > 日前神社のことです。この神社は名草宮ですね。
とありますが、この「名草」は地名、あるいは、名草姫ではなく名草彦(大名草比古命)をさすのではないでしょうか?
[7385] 名草戸畔 PONTA
2006/05/09(Tue) 19:36 [Reply] 「名草戸畔」の「戸畔」は「長」という意味ですから、「名草(地名)を治める長」で、女性ですから、「名草姫(比売)」と言ってもいいのかな。
紀国造家(日前国懸神宮神職家)の系図には「大名草比古命」の名も見えますね。熊野の謎は奥が深いです。
[7384] Re[7381][7380][7379][7378]: 名草戸畔 神奈備
2006/05/09(Tue) 19:18 [Reply] とみたさん、こんにちは。
> ぼちぼち紀の国と葛城の謎を追っかけようとしています。
いいですね。神話のベールが濃厚な面白い地域ですね。チャンスがあれば、一度ご一緒いたしましょう。
> 名草の草は薬草
今東光さんの『毒舌日本史』に、高倉下は薬草を探していたとありましたね。
> 紀伊や四国の役の行者の鉱山開発と関係がある
そうですか。通説では空海や密教寺院が関係しているようで、役行者さんのお話は珍しいですね。それこそ青草向きかも。
> 日前神社のことです。この神社は名草宮ですね。
名草万代宮と言いますが、日前神社国懸神社の二社をまとめて言うようです。
日前神は『日本書紀』の神代巻第七(天石窟)で石凝姥がフイゴを使ってつくったものとして出てきますが、神社としては国懸神社が先に登場します。天武天皇の朱鳥元年に幣帛を紀伊国の国懸神社等にたてまつったとあります。
このあたりの日前神と国懸神、さらに伊太祁曽神との関連もはっきりしているわけではありません。
> 名草戸畔と名草姫
『続紀伊国風土記』に、吉原の中言神社の祭神である名草姫大神(従四位上)が名草戸畔ではないかとしています。だから吉原を名草邑としていますが、小生は
海南市の野上付近ではないかと思っています。確たる理由はないのですが、このあたりで出会うおばさん方に名草戸畔の末裔の雰囲気を感じると言うまったく根
拠のない青草ですが。
[7383] 名草戸畔 PONTA
2006/05/09(Tue) 18:49 [Reply] 名草戸畔については資料(史料)が少なすぎますね。
高田
祟史『QED 熊野の残照』(講談社)という本があります。「熊野の残照」とは、「熊野に残されている風俗・習慣」の意味で使ってるのでしょうね。それは
いいといして、この本では熊野三山の本来の祭神を特定しています。熊野三山の本来の祭神は、青草的には、スサノオとその子のニギハヤヒとその妻のセオリツ
ヒメかな。あるいは、イザナミ、イザナギ夫婦とその子のスサノオかも。『QED 熊野の残照』では、p.148で丹敷戸畔について触れ、p.192で、
●●神の正体は「丹敷戸畔たち」で、「たち」には名草戸畔が含まれているかも知れないとしています。
[7381] Re[7380][7379][7378]: 名草戸畔 とみた
2006/05/09(Tue) 08:09 [Reply] 神奈備さま、皆様
ヤタガラスと隼人と神武東征譚に惹かれて熊野古道の玉置神社〔標高1000m)まで行ってきました。
ぼちぼち紀の国と葛城の謎を追っかけようとしています。ご指南のほどをよろしく。
> >『名草戸畔』さまは、海辺と関係あるのでしょうか?
>
>
> 真弓常忠さんの『古代の鉄と神々』に名草のお話がでています。
>
名草山は赤土からなり、その周辺は葦の生えた干潟であった。阿備の七原と言う地名が残っているのは、かっては葦や茅や薦の水辺の植物が生い茂った原であ
り、これらの植物の根元に生成されるスズ(褐鉄鉱 水酸化鉄)がとれる原で、植物は「菜草」ではなかったかと言っています。
玉置神社の宮司曰く、ヤタガラスは現地の人でしょうね。鉱山(鉄、朱?)と薬草を探している山師かもしれませんね。大昔、火山爆発もあった。
(名草の草は薬草。これは私の気まま推量、正に青草です。)
もひとつ発見。県指定の天然記念物、”玉置山の沈状溶岩堆積地”の説明書きによれば、この溶岩は海底火山の噴火により噴出した玄武岩質の溶岩が水中に流れ出て冷えて固まったのも、日本列島や紀伊半島の形成を考える上で貴重な資料であると。
日本列島は四国や紀伊半島を東西に横切る中央構造線、糸魚川と静岡を結ぶ南北構造線の二つが鉱脈をなして紀伊や四国の役の行者の鉱山開発と関係があるという考えを闇の日本史で竹内さんが出されています。
赤土の赤いというのは鉄分ですね。中国の蘭州の黄河の水を貯めたダム湖に赤土の断層がくっきり見えびっくりしました。
>> さて、名草の語源も分かり難いのですが、広原、吉原、安原、松原、境原、内>
> 長髄彦軍に矢傷をおわされます。矢疵を洗った後、五瀬命は名草戸長之家に入られました。ここで矢傷の手当をし、概ね直ったとのことです。ある夜、戸長はおおいに酒を勧めました。皇太子と供の者は酔って、眠り込みました。
> あにはからんや、戸長は長髄彦の教唆に呼応していて、今宵は合図をして、賊徒に家を囲ませ、急襲させました。皇太子は、闇夜での戦いの中、名草戸長を切るも、負傷をし、更に矢傷も悪化し、治療を尽しましたが、遂に崩御し、紀原之窯山に葬られました。
> と言うお話です。この長髄彦の兄に安日王がいて、奥州の秋田家の祖になっていますが、この安日王の領地だったのかも知れません。そうすると名草戸長は名草方面を束ねる部隊長だったのかも。
日本書紀によれば神武東征で名草邑につき名草戸畔というものを殺しますね。名草姫を祭る伝承があるそうです。和歌山市吉原に中言神社があり名草姫を祭る。また紀三井寺の北に位置する山を名草山と呼ぶ、このあたりが名草戸畔の本拠地でしょうか。
海南市に抜ける潮見峠の西側にクモ池があり、このあたりが神武軍との戦いの場とされている。
名草姫は殺され、頭、胴、足が切り離され頭を宇賀部神社〔おこべさん)、胴を杉尾神社(おはらさん)足を千種神社(あしがみさん)に葬ったという伝承として紹介がありますがその真偽はいかがなものでしょうか。
も一つ解らないことがあります。日前神社のことです。この神社は名草宮ですね。
日前国懸神宮に奉斎して新国造として紀伊国の諸社の祭祀を統括して有力豪族になった紀国造の紀氏が代々の宮司ですね。
この日前神社の鏡の日矛鏡は垂仁天皇の御世、伊勢神宮に移されたヤタの鏡より古くやはり垂仁天皇の御世に日前に遷され神体になっているそうです。名草郡毛見郷浜宮に祀られ、もともとはこの地は伊太祁曾神社であったのにそこに日前神社として格上げして遷された。
伊勢神宮もローカルな海人の神社を格上げし、日前神宮もローカルな名草の神社を格上げして、いずれも天照に関係がありそうです。
伊勢神宮は垂仁の時代と考えるより、雄略の国土発展の基地を目指して皇室と関係をつけたと思っています。壬申の乱で海の民の応援を得た天武は伊勢とのつながりを深めた。日前も垂仁より雄略のほうが関係が深いような気がしますが・・・
いずれにせよ、名草という言葉が気になり始めました。
どなたか初心者の私に何かヒントをご教授ください。
[7380] Re[7379][7378]: 名草戸畔 神奈備
2006/05/08(Mon) 18:04 [Reply] >『名草戸畔』さまは、海辺と関係あるのでしょうか?
神功皇后紀に磯鹿の海人、名草あります。海人特有の名前なのかも。なお、名は草と言う読み方もありますが、名前を言うのにわざわざ名はxとする例はなく、名草さんとするのが妥当と思います。
>『ナグ・サ』→貝の『サ』?
>『ナ・グサ』→食べ物の『クサ』?
真弓常忠さんの『古代の鉄と神々』に名草のお話がでています。
名草山は赤土からなり、その周辺は葦の生えた干潟であった。阿備の七原と言う地名が残っているのは、かっては葦や茅や薦の水辺の植物が生い茂った原であ
り、これらの植物の根元に生成されるスズ(褐鉄鉱 水酸化鉄)がとれる原で、植物は「菜草」ではなかったかと言っています。
さて、名草の語源も分かり難いのですが、広原、吉原、安原、松原、境原、内原、柏原を阿備の七原と言うのですが、この阿備もまたよくわからない言葉です。阿備、三国志の劉備玄徳の出来の悪い子供にこの名前がありましたが、もとより無関係で、ひとつ青草話を。
『富士古文書』と云うものがあります。来歴からはあまり信をおけないイメージですが、それは記紀の神代紀近辺でも事情は同じかもしれません。この中に名草戸畔と五瀬命の話がでてきます。
此処では五瀬命は皇太子と表記されており、長髄彦軍に矢傷をおわされます。矢疵を洗った後、五瀬命は名草戸長之家に入られました。ここで矢傷の手当をし、概ね直ったとのことです。ある夜、戸長はおおいに酒を勧めました。皇太子と供の者は酔って、眠り込みました。
あにはからんや、戸長は長髄彦の教唆に呼応していて、今宵は合図をして、賊徒に家を囲ませ、急襲させました。皇太子は、闇夜での戦いの中、名草戸長を切るも、負傷をし、更に矢傷も悪化し、治療を尽しましたが、遂に崩御し、紀原之窯山に葬られました。
と言うお話です。この長髄彦の兄に安日王がいて、奥州の秋田家の祖になっていますが、この安日王の領地だったのかも知れません。そうすると名草戸長は名草方面を束ねる部隊長だったのかも。
[7379] Re[7378]: 名草戸畔 恋川亭
2006/05/08(Mon) 01:03 [Reply] > 名草戸畔を調査されているブログがあります。
『名草戸畔』さまは、海辺と関係あるのでしょうか?
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
ガタ(潟)がまだ清く美しかった頃のお話し。
釣り棹を持たせてもらえないくらい幼い私は、それでも若き叔父達についてよく磯に出ました。釣り糸を垂れてる岩場の後ろの潮溜まりで、せっせと小さな巻き貝を拾い集めるのです(大人はわざわざ採らない)。
バケツ一杯の小さな巻き貝を曾婆さんのところへ持って帰ると、さっそく塩茹でに。アツアツの貝に爪楊枝かマチ針を立ててクルクルッと中身を取り出します。
ほろ苦さと潮の香りが口に広がり、海そのものを食べている感じ。子供達はそれがオヤツ、婆さん達はお茶うけに。とても重宝な海の恵み。白身の甘さ、黒い緑
色のワタの苦さが印象的。かつては幼児でもバケツ一杯に集められたのに、今のテトラ護岸では見つけられません。
その小さな巻貝を『ミナ』と言っていました。あるいは『ニナ』とも『ンナ』とも。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
『マナ』について話題が出ていましたね。私は、『マナ』=魚(それも白身の魚)が、ごく標準的な日本語だと思っていましたが。(笑)
まずまず『ナ』とは『食べ物』のことであると。そこで『ミナ』は『海(の)ナ』なのかな?・・・それは置いといて。
数年前、久高島で久高島振興会の西銘さんから教えて頂いたこと。当地の聖域(たくさん在るうち)のアグルラキとヤグルカーの名称についてのご見解。
久高では小貝のことを『nナグ』とか『nナグr』と発音するので、
アグルラキ→(小)貝の嶽(タキ=ラキ)
ヤグルカー→(小)貝の泉(川=カー)
ではないかと推測されているそうです。(後、湧上先生の著書でも同様な説を確認)実際、小さな島にもかかわらず、いくつもの貝塚が存在します。〔注:アグルラキは進入禁止の聖域です〕
この『nナグ』は、すぐに『ニナ』のことだと気づきました。『ニナ』は標準語ですよね(蜷川さんという苗字もあるし)。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
さて、南島経由で反射して紀州へ。『ナグサ』の言葉が気になったまま数年。
久高の『nナグ』はヒントにならないか???
『ナグ・サ』→貝の『サ』?
『ナ・グサ』→食べ物の『クサ』?
(貝も含めて)食べ物というポイントは重要なのです。当時の「主要産業」だったと考えています。(→これはいずれ青草で)
『ナグサ』のナグ→(食用)貝:恋川亭説、でした。
ところで、残りの『サ』って、なんなのサ?
[7378] 名草戸畔 神奈備
2006/05/07(Sun) 16:53 [Reply] 名草戸畔を調査されているブログがあります。
http://blog.livedoor.jp/nagusatobe/
名草戸畔についての問題意識をもたれてからの歩みが記されています。これはブログの良いところですし、これによりますと、短期間で多くの情報を集められているようで、ネットの利点をうまく活用されているように見えます。
名草戸畔を調べてみようとするきっかけは、どなたかへの神の声があったからと関連ブログにありました。
名草戸畔の頭、胴体、足がばらばらにされたとの伝承があり、それぞれを祭っている神社もあるのですが、某漫画家さんも以前に、「これらを集め、弔うお祭り
がいる。」との趣旨のことを言われていましたが、上記ブログの方々も、名草戸畔の功績を顕かにすること、さらに弔い祭ることによって、祟り神ではないよう
にしたいそうです。
http://kamnavi.jp/ki/city/nagusa.htm
[7377] 無題 えびす [Url]
2006/05/05(Fri) 23:28 [Reply] 神奈備さん、失礼致します。
[7372] 魚はイエス・キリストの象徴。
[7320]「真名井」⇒魚が居る出水(泉)。大変参考になりました。お礼を申し上げます。「與佐之小見比沼之魚井原坐道主貴乃斉奉御饌都神止由記氣大神呼(略)」を再確認することができました。
匏宮。以前、伊勢外宮の「カゴメ」マークが匏宮(京都府宮津市府中)の入り口に登場しましたが、ひと悶着あったようで今は三つ巴に変更されています。瓢箪を腰に下げている「少彦名」と瓢箪の「匏宮」と「魚つり名人・太公望」の三角関係を調べて診たくなりました。
ありがとうございました。
[7376] Re[7375][7374][7370][7369][7367]: 後堂の神 大三元
2006/05/05(Fri) 22:58 [Reply] nickさん
> 日本語ってカナやカタカナで書くと通じにくいものですね。
漢字で書いてあると、しかし、どうしても漢字の意味に引きずられる(それが合っていることもあるのだけど、合ってないこともある)。本来、コトバは音(おと)だった、それを文字で(漢字を借りて)どのように記録するか、ということのタタカイをしてきたのだと思います。
パターン認識としては甚だ効率が悪いけれども、実はカナにしてみる、カナという発音記号もどきにして漢字のバイアスを排してみる、というのも必要な作業だと思ってます。
[7375] Re[7374][7370][7369][7367]: 後堂の神 nick [Url]
2006/05/05(Fri) 22:36 [Reply] > > > カヤカベ、どんな意味だろうか? カヤとは鹿屋なのだろうか?
日本語ってカナやカタカナで書くと通じにくいものですね。
当地では、ついこの前の西南戦争の事すらもう曖昧になってきています。
今1000年以上も前のことを詮索している訳で。。
一朝一夕にいかないはずですね。
大隅への高速道路工事が暗礁に乗り上げているが、、、
案外、この工事でまたとてつもない遺跡にぶつかったりして、、
と、、獲らぬ皮算用で。。笑。
(当地の縄文遺跡の大半はこの開発のおかげですから、無駄ではなかったと
思いたいです)
過疎地の苦悩をお察しを。
[7374] Re[7370][7369][7367]: 後堂の神 神奈備
2006/05/05(Fri) 21:32 [Reply] > > カヤカベ、どんな意味だろうか? カヤとは鹿屋なのだろうか?
> 日下部・草壁 と同義?
なるほど、こういう発想がいるんですね。やっぱし感覚の差かも。
> 『茅』の「壁」のことで、昔の塗り壁ですね。
なるほど、江戸時代の話のようですから、そうなんでしょう。藁を壁土に混ぜましたが、薩摩は稲作が少ないので茅と言うことでしょうか?
[7373] jesusの中国語訳から 倭亜布
2006/05/05(Fri) 18:03 [Reply] 八十 ヤソ 耶蘇 ラテン語 jesusの中国語訳から
五十 ウソ [夏=ウ] + [祖=ソ]=禹 (古代中国 夏の禹帝)
うそ(鳥?)神事
うそ替神事
うそ替えの”うそ”とは鳥の”鷽”(うそ)のことで、正直の反対語、嘘とは違います。 鷽とはスズメ目アトリ科の鳥。スズメよりやや大きく、頭上と尾・翼
の大部は黒色、背は青灰色。雄の頬・喉は深紅色、雌には紅色部がない。俗に、雄をテリウソ、雌をアメウソと呼ぶ。山地の樹林にすみ、鳴き声は口笛に似て悲
調を帯び、飼養されることが多い。ヨーロッパ・アジアの北部に分布。日本では北海道から九州まで生息する。(広辞苑より)
鷽替(うそかえ)とは、
郷
土玩具のひとつで、鷽替の神事に用いる縁起物で木彫りの鳥の人形。太宰府・大阪・東京亀戸などの天満宮で、参詣人が木製の鷽を互いに交換し、神主から別の
を受ける神事。金製の鷽を換え当てた者は好運を得るとされる。太宰府は正月7日夜の酉(トリ=18時)の刻に行う。亀戸は正月25日昼から。
http://ginjo.fc2web.com/014hatutenjin/tenjin.htm
・・・・・・お後がよろしい様で・・・・・
[7372] Re[7368] [7366][7365]: 魚井原 倭亜布
2006/05/05(Fri) 17:45 [Reply] 魚はイエス・キリストの象徴だってご存知でしたか?
http://www.stylish-silver.com/fish.htm
魚はギリシア語で「イクティス(ICHTHYS)」といいますが、これはラテン語のIesos Christos THeou Yios Soter
(神の子なる救世主イエスキリスト)の頭文字をとった暗号なのです。
[7371] Re[7370][7369][7367]: 後堂の神 nick [Url]
2006/05/05(Fri) 16:38 [Reply] 余談ながら、「岩堂磨崖仏」は
前回伺った時より風化が進んでいましたので
最寄の担当部署へお話を。早速手配される由。
レプリカでもとって頂けたらいいのでしょうが。
百寺巡礼の五木寛之氏は「かやかべ教」を含め
当地の「隠れ念仏」や東北の「隠し念仏」を探求されているようです。
[7370] Re[7369][7367]: 後堂の神 nick [Url]
2006/05/05(Fri) 16:13 [Reply] > > カヤカベ、どんな意味だろうか? カヤとは鹿屋なのだろうか?
当地には「隠れ念仏」の「かやかべ教」と云うのがあります。
『茅』の「壁」のことで、昔の塗り壁ですね。
その中に仏像を隠していたところからそう呼ぶようになったらしい。
今度、整理して掲載予定です。
その前に聞き取り調査をしなくちゃ。。。笑。
[7369] Re[7367]: 後堂の神 大三元
2006/05/05(Fri) 11:36 [Reply] > カヤカベ、どんな意味だろうか? カヤとは鹿屋なのだろうか?
単なる思いつきですけど:
草を「カヤ」と読むから、
日下部・草壁 と同義?
[7368] Re[7366][7365]: 魚井原 大三元
2006/05/05(Fri) 11:34 [Reply] > > [7320]「真名井」⇒魚が居る出水(泉)。大変参考になりました。お礼を申し上げます。「與佐之小見比沼之魚井原坐道主貴乃斉奉御饌都神止由記氣大神呼(略)」を再確認することができました。
確
かに「魚」は「ナ」と読むし、「真魚」で「マナ」と読むし、「魚」だけでも「マナ」と訓ずる場合もあるから「魚井」を「マナヰ」と読むことは可能だし、倭
姫世記などの「魚井」に相当するものは籠神社資料の「真名井」に相当するから「魚井」を「マナヰ」と「読むことは」間違いないと思う。
しかし、それではこの「井」が「魚が居る」という特徴のあるものか、となると:
まな鹿、まな子、まな娘、まな鶴、まなばしら、などの場合には「魚」の要素を見ることができない。「魚」字はあくまでも仮名として使われているのであって、 fish の意味を見ようとしてはいけないのではなかろうか。
勿論、井戸の場合に限っては「魚が居る井戸」という意味なのだ、という ad hoc なことを強弁されれば、完全に否定する力は持ち合わせていないけど。
[7367] 後堂の神 神奈備
2006/05/04(Thu) 21:40 [Reply] 後堂の神では天台宗の摩多羅神や新羅明神が有名ですが、これは仏は神の仲介によって救済に乗り出すと言うことだそうです。高取正男『後戸の護法神』から。
これを端的に表すのが、霧島山麓の一向宗のカヤカベ教だそうです。この前、赤水の堂摩崖仏に案内頂いたのですが、これそのものは鎌倉時代の作ですが、どう見ても隠れた場所のようで、禁止された一向宗徒が利用していたのかも。
浄土からの通信は、阿弥陀如来→伊勢大神→霧島六社権現→カヤカベ教団という順で降りてくるそうです。阿弥陀如来からのメッセージは伊勢大神経由ということ。
カヤカベ、どんな意味だろうか? カヤとは鹿屋なのだろうか?
[7366] Re[7365]: 魚井原 えびす [Url]
2006/05/04(Thu) 10:35 [Reply] > [7320]「真名井」⇒魚が居る出水(泉)。大変参考になりました。お礼を申し上げます。「與佐之小見比沼之魚井原坐道主貴乃斉奉御饌都神止由記氣大神呼(略)」を再確認することができました。
[7364] Re[7362] [7360][7358][7354][7352]: 再び「筒」で恐縮です 倭亜布
2006/05/02(Tue) 15:46 [Reply] 津 ツ(川+トリ+舟)を調べました。
「津」が「川」+「筆-竹=聿(イツ イチ ふで ここに 述べる 自ら はやい したがう ともに)」で形成されていますが、古文字では「川+トリ+舟」から形作られています。
「川」は部首 水部 さんづい したみづ :方位は「北」 水平 水準 うるおう 星の名「水星」(辰星) 五音「羽」 十干「壬」(ミヅノエ)・「癸=(葵-くさ冠)」(ミヅノト)
「鳥」(酉)には古代中国の官職(文官)の韻語も有ると考えます。
中国の官人 「補子」:文官=「鳥」 武官=「獣」
http://www.nishinippon.co.jp/news/museum/special/051227.html
「舟」の古文字の字形から「Η」を二段に重ねた形で「般」(ハン めぐる はこぶ 「任」まかせる)の古文字では「板」を表し「版」の原字でもある。(「板」 「片」の原字)
話を「津」に戻します。
「津」の語源は「進む」からだそうです、「ツツ」く・・・「累・櫐(ルイ つながる めぐる とらわれる 塁 木の上に「田」が品のように重なる)」砦(酉で)の意も。
「
以前より 古代日本に「レイライン」の足跡を造りし測量士(鳥や獣 「虫」(古い字形) の名などで記載)が存在していたとの私説が最近やっと支持されて
きました、世界地図の作成がモーセ(出エジプト記)辺り 古代中国では「夏 禹」(かのう)の時代以前・・・・(また、信用されないと悩みますので止めま
す。)
「酉」の古文字は「甕」の形です、「酒」・・・・禹の父 「口」または、「魚+系」コンは黄河の治水の失敗し川の側に酒甕(甕棺)に生贄とされ葬られた 禹は父の「塚 津か」を「台」(「口」は父の塚 「ム」は禹を表す)測量台として測量し黄河を「治」めた。
以前から言いますように「漢字」には古代よりの歴史が刻まれています、形や音などから多くの意味(失われた古代の)や残された熟語からの分析それと秦の始皇帝時代の漢字の意味の改ざん(禹系を嫌い「鬼」の意味を「悪」とプロカバンダしたと思はれる。)
「酉」の古文字は「甕」の形です、「酒」・・・・禹の父 「口」または、「魚+系」コンは黄河の治水の失敗し川の側に酒甕(甕棺)に生贄とされ葬られた 禹は父の「塚 津か」を「台」(「口」は父の塚 「ム」は禹を表す)測量台として測量し黄河を「治」めた。
「禽」とり キン:捕らえられた獣 禹も禽・偶・萬、鬼 魁・・・・
「鴫・鷸」しぎ (田+鳥)・ (矞+鳥)・・・矞(矛+冏)・・・・橘 柚(由)・・・
「舟」 「井」(のり 法律) セイ(鳥居型)
「筆-竹=聿」イツ ふで:ついに ここに さて したがう 自ら はやい ともに のべる(述・・・伸べる 「申」(「田 由 甲・・・神 靁雷 兜甲鼎兄肪皃(虻 牟・・・)
「中国古代測量器にタングラムは出来ていた起源」
中国人の祖先は矩気持ちの有独鍾に対して、とてもとっくに研究して、矩を応用する。中国古代の数学経典「週の髀は経を計算する」と「9章の算術」中、最も早く矩の性質とピタゴラスの定理の応用問題を討論した。
http://honyaku.yahoofs.jp/url_result?ctw_=sT,eCR-CJ,bT,hT,uaHR0cDovL3d3dy5lcG9jaHRpbWVzLmNvbS9iNS8yLzkvMS9uMjEyMjc3cC5odG0=,f20060502152022-1,cYmlnNQ==,qlang=ja|for=0|sp=-5|fs=100%|fb=0|fi=0|fc=FF0000|db=T|eid=CR-EJ,k309058d5b1fd145c500754b59ce74062,t20060502133908,
文字から文字へと関連をウエーブすると漢字の起源にたどり着きます お試しを、 皆様の参考になれば幸いです。
[7363] Re[7362][7360][7358][7354][7352]: 再び「筒」で恐縮です 大三元
2006/05/01(Mon) 21:28 [Reply] 自己レスですが:
> なるほど、畳語で複数表現とする例として「ククノチ」が「木々の霊」と云うのがありますね。しかし、この通りに語を構成するなら「ツツノヲ」という用例が欲しいところでしょうか。
津々浦々、はともかく、津々、という表現があったのか、疑問に思っていました。考え廻らせてみると:塩筒老翁、というのがありますね。この筒は津々かもしれませんねぇ?海水の津(港湾)。
それに対するのは真水の港湾、つまり河川をやや遡ったところにあるもので、水津、水戸(みなと)。(船底に着くナントカという貝だか虫だかが淡水だと死ぬ、というメリットがあるらしい。)
[7362] Re[7360][7358][7354][7352]: 再び「筒」で恐縮です 大三元
2006/05/01(Mon) 20:48 [Reply] > 住吉大社の真弓宮司さんは「津々浦々」の「津々」と言われていますが、every harber と言うことでしょう。この方が意味合いは広いようですね。
なるほど、畳語で複数表現とする例として「ククノチ」が「木々の霊」と云うのがありますね。しかし、この通りに語を構成するなら「ツツノヲ」という用例が欲しいところでしょうか。
[7361] Re[7359][7351]: 近畿の隼人 3 神奈備
2006/05/01(Mon) 19:41 [Reply] nickさん
> 藤越神社の南1kmに月読神社、東1.5kmに小川月読神社
今日、亀岡の上記三神社に参詣してきました。暑かった一日でした。
式内大社であった小川月読神社は田圃の中に小さく鎮座していました。藤越神社も田圃の中で、ここは大きい楠木に守られて鎮座していました。いずれにしても
桂川の河川敷であったのでしょう、この地域の空き地には石がごろごろ、開発に手間取ったであろう苦労が鍬山神社の大己貴尊が沼地の水を切り開いたなどの社
伝として残っています。
加津良神社や藤越神社は近日アップいたします。
[7360] Re[7358][7354][7352]: 再び「筒」で恐縮です 神奈備
2006/05/01(Mon) 19:40 [Reply] 大三元さん、ありがとうございます。
> (1)一般に、二音節を一字で書いてしまうことがあるのか、ならば、それはあります。(極 く一例:大山津見→大山罪、大山積)
同
じ二音節でも同一の発音の場合ですが、佐々岐は雀、漢字があれば適応されているようですね。おっしゃる通り、「津之」かどうかだ先に問題となりますね。住
吉大社の真弓宮司さんは「津々浦々」の「津々」と言われていますが、every harber と言うことでしょう。この方が意味合いは広いようですね。
[7359] Re[7351]: 近畿の隼人 3 nick [Url]
2006/05/01(Mon) 17:12 [Reply] 神奈備さん>
面白いのは藤越神社の南1kmに月読神社、東1.5kmに小川月読神社が鎮座、山城の大住郷の月読神社との関連や、山城国葛野郡に葛野坐月読神社が鎮座、これは隼人とは関係がなさそうですが、鎮座地を桂と言い、前回の河内国若江郡萱振保に鎮座する加津良神社を思わせます。
>
当地隼人地方にもこれを祭神とする神社がありました。
江戸時代の古文書内には特に海岸線の住吉・小浜と云った漁村に散見されます。
日の神、月の神、月読神 等です。
それが合祀で姿をお隠しになったようです。
過日、ご案内した「大穴持神社」の境内にある末社が
それと思われますが、表記はありません。
またこの海岸線には「蛭子神社」も建立されていたようです。
現在は『海運』には縁の薄くなった当地の蛭子さんですが
当時は信仰が厚かったようです。
それだけ天災が多発して被害を被っていたということでしょうか。
[7358] Re[7354][7352]: 再び「筒」で恐縮です 大三元
2006/05/01(Mon) 11:56 [Reply] 神奈備さん
> 筒を津ノ男の「津ノ」とするのもそうで、一般的にノはツでいいのですが、津ツをして一文字の筒と書いてしまうような漢字の使い方はありえたのか、と言う疑問があります。
お持ちになっている疑問の本質が判りきらないのですが、
(1)一般に、二音節を一字で書いてしまうことがあるのか、ならば、それはあります。(極く一例:大山津見→大山罪、大山積)
(2)「津ツ」に限って、ということであるならば、それを「筒」と書くことがあるか、を問う前に、「ツツ」が「津の」の意味であることが相応しい例とか、もっと直接的に「港の」あたりを意味すべき「津ツ」という語群(組み合わせ)を見たことがありません。
なお、「・・・しつつ」(..ing)の「つつ」には「筒」や「管」が良く使われています。
> 野之神の野之を罵神とはしないように思いますが。
そう書かれた実例はないが、そうも書き得た、という捉え方で良いのではないかしら。
この問題提起も、「卑字」を使わないように思いますが、というのがポイントでしょうか?
[7357] Re:[7353]・[7354] :再び「筒」で恐縮です いこまかんなび [Url]
2006/05/01(Mon) 10:55 [Reply] 大三元さま・神奈備さま、おはようございます。
ご意見頂戴し、ありがとうございました。少し暑くなってきましたね。
>大三元さま
>小生もその線を追いかけてみたことがありますが、
さすがですね。いろいろと考えておられるのですね。何かいい「ツ○」の考えが見つかりましたらぜひご紹介くださいませ。
>神奈備さま
>で、前田先生は、『摂津国風土記:逸文』の、巡行神の性格については、どのようなお考えでしょうか。
まず「津ノ男」の解釈、やはり変ですね。『摂津国風土記:逸文』について、同氏の本にはサラっと引用程度でしょうか。冒頭には「ところで、住吉大神は何時
いかなる経緯をもって現在の地に鎮坐したのであろうか。大神の鎮坐伝承については、『日本書紀』神功皇后巻・『摂津国風土記』逸文に記されている。」の説
明がありますが、巡行経過についてはふれられていないので、この点では期待はずれでした。経過より鎮座地の大津、王権が直轄する港津、大津の守護神に力点
があるようです。
『摂津国風土記』逸文がらみはそのまま引用しますね。
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「一方、『摂津国風土記』逸文の伝えは次のようになっている。
摂津の国の風土記に日はく、住吉と称ふ所以は、昔、息長足比売の天皇のみ世、住吉の大神現れ出でまして、天の下を巡り行でまして、住むべき国を覓たまひ
き。時に、淳名椋の長岡の前 前は、今の神の宮の南の辺、是れ其の地なり に到りまして、乃ち謂りたまひしく、「斯は実に住むべき国なり」とのりたまひ
て、遂に讃め称へて、「真住み吉し、住吉の国」と云りたまひて、仍ち神の社を定めたまひき。今の俗、略きて、直に須美乃叡と称ふ。
諸国を巡歴し
た住吉大神はついに「沼名椋の長岡の前」にやってきて、「斯は実に住むべき国なり」と宣言して鎮まったとする。そして「前」の意味を、「今の神の宮の南の
辺、これ其の地なり」と記している。その場所はまさしく船の停泊する入江のあった所であろう。神の鎮坐地については古い伝えが残っていたようである。
以上にみてきたように、住吉大神の鎮坐縁起は単なる地方神のそれではなく、ヤマト王権の外港の設置と密接に関係する伝承であることがはっきりした。」 以上引用でした。
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今日は貴重な休みなので、鴨高田神社から屋根に降り積もった多量の葉っパの掃除がひかえています。お蔭さまで、一日筒が無くおくれそうです。
[7356] Re[7355]: 近畿の隼人 4(終) nick [Url]
2006/04/30(Sun) 11:02 [Reply] > 隼人学の先達である中村明蔵さんは、近畿の隼人居住地リストから、新大阪の東側にある大隅神社と古代の大隅島を抜いているのだろうか。
隼人の研究ではそのような指摘もありました。
記載された場所の全ては踏破され確認されたと聞いています。
来月、久々に尋ねてみましょう。
伝承や慣習が、当地にはほとんど残っていない現状を鑑みると
この地の住民の大半がそちら機内へ移住させられたのではと。
なぜなら舞台となった山間部では、大分・中津川系の色彩が強いから
他なりませんが。
(バックデーターとして江戸時代の人口比率等を目下整理中です。)
[7355] 近畿の隼人 4(終) 神奈備
2006/04/30(Sun) 10:23 [Reply] 隼人学の先達である中村明蔵さんは、近畿の隼人居住地リストから、新大阪の東側にある大隅神社と古代の大隅島を抜いているのだろうか。
森浩一先生は、近畿の隼人の要のような土地と言われ、九州隼人との中継地とまで指摘されています。さらに「連れてこられた」弱者ではなく「自発的に移住してきた」と推測しています。
ついでですが、千早赤坂は楠木氏の拠点で、金剛山の千早城に立てこもった際、森先生は南側の五條の二見の住民が支援をしていると推定され、この二見首は火
闌降命の後裔であり、隼人系です。楠木のルーツを求めても出てこないようで、楠木は南の木の象徴であり、これを名前にしていることをキイとして解き明かし
たいようです。
先日の鹿児島旅行では木々の様相が全く南方系でビックリしたのですが、その中でも巨大な楠木の神木が印象に残っています。楠木の勇ましさといざぎよさ、隼人につながるのかも。