神奈備掲示板の案内とログ

神奈備掲示板

青草談話室、写真掲示板 過去ログ

掲示板のログ(平成十八年 七月 2006.7)お名前の敬称は省略しています。

[7666] Re[7665][7664]: かまどさんへの回答(丹生都比売神社)  かまど [Url] 2006/07/30(Sun) 23:45 [Reply]
とみた様

早々のご回答ありがとうございます。

> 質問の取り上げ方は、参加者に配布された質問シートに希望者は記入して受付に提出すると、コーディネータがパネリストに振り分けて回答させる要領でした。持ち時間が少なく詳しい説明まで得られませんでした。

そうなんですか!と言うことは結構質問を受けてくれたんですね。
でもどんな講演になるか分からないと質問シート書きにくいですね。


> 質問は丹生都比売神社の祭神を問うものが多かったようです。
> 水銀の神か、水の神か、狩猟の神か、農耕神かです。

それで農耕神と言うことですか。多分先生方が一番興味のない所に質問が集中してしまったって感じですね。
私なら「ご神体は何?」ってとこでしょうか。絶対言ってくれませんが。


> 私が如き暇人でなく、まどかさんが、参加なされれば一番良かったですね。

行きたかったんですが、何せ九州なので、時間とお金がありませんでした。


> 今年まだ5回のシンポジュームを予定されているということです。

5回もあるんですか!1回ぐらい大阪あたりでやってもらえないのでしょうかね。


> 国学院大学21世紀 COEプログラム研究センターは・・・TEL/FAX 03−5466−0132です。http://21coe.kokugakuin.ac.jp へお問い合わせ下さい。

ありがとうございます。実は以前今回の研究会のサイトを見つけて藤井先生とはメールのやり取りをさせて頂きました。ただ専門が違うので分からなかったのですが。


> 天野家の文書については、簡単な説明がありました。
> 惣神主丹生一麿家、丹生輝代文書 高野山大学寄託
> 元亨年間(1321から1323)敬白起請文事〔御子職入りにつき)
> 天慶2年(1376)定 天野遷宮之事〔日時・料米につき)
> 明治20年代まで中世資料約30点
> 写真蝶31冊のうち85冊目録終了、約3500点
>  遷宮関係、料米収納配分関係などがまとまって残っている。

うーん、残念。全部見ないと分かりませんが、丹生都姫神社関係しか残ってないと言うことなんでしょうね。神仏習合という意味では結構進展ありそうですが・・・。
丹生氏オリジナルの神事についてどこまで残っているかなんですが。感じ的には残ってないような気がしてきました。丹生氏オリジナルの神事は神仏習合ではないですから、あっても今回のテーマからは外れるんでしょうね。


> 私は何分素人の域を出ませんので以上が、精一杯の回答です。
> 少しでもお役に立てばうれしいものです。

大変役に立ちました。だいたいの感じがつかめました。ありがとうございます。

[7665] Re[7664]: かまどさんへの回答(丹生都比売神社)  とみた 2006/07/30(Sun) 22:44 [Reply]
〔7664〕無題で、入力操作中途で文章が切れました(失礼しました)ので再度お送りします。

かまどさん、ご興味を持っていただけて満足です。

参加者は、教室がほぼ満員でしたから私の推測では110人ぐらいでしょうか(保証はしかねます)。専門家も少なくないようでしたが、学生が半分近くいたようです。
質問の取り上げ方は、参加者に配布された質問シートに希望者は記入して受付に提出すると、コーディネータがパネリストに振り分けて回答させる要領でした。持ち時間が少なく詳しい説明まで得られませんでした。

質問は丹生都比売神社の祭神を問うものが多かったようです。
水銀の神か、水の神か、狩猟の神か、農耕神かです。
> >
> > お疲れ様でした。なかなか面白そうな話だったんですね。なんか聞けなくてくやしいです。次回こそは!って次回あるのかな?

私が如き暇人でなく、まどかさんが、参加なされれば一番良かったですね。

これは、国学院大学の21世紀COE(Center of Excellence)プログラムで文部省からの助成を受けておりすでに5年経過しているようです。成果物も出版されます。テーマは神道と日本文化の国学的研究発信の拠点形成でその一つとして高野山と丹生都比売神社の神仏習合が取り上げられたようです。

今年まだ5回のシンポジュームを予定されているということです。

国学院大学21世紀 COEプログラム研究センターは・・・TEL/FAX 03−5466−0132です。http://21coe.kokugakuin.ac.jp へお問い合わせ下さい。



> > どこかの本に写真が載ってましたけど、高野山の麓のある地域では、丹生都姫と思われる女神が鏨とハンマーを持って、その前に高野明神と思われる神が斧をもって座っている絵が残されています。それをどう解釈したらいいのでしょうね。

全然、このような話題は上がりませんでした。
> >
> > 丹生都姫に関し丹生都姫神社の祭り方と、丹生氏の祭り方は同じだったか、と言うと疑問があります。どうしても丹生都姫神社はその時々の政治や高野山などなどに影響されますから。

丹生都比売神社のhpは、www:niutsuhime.or.jp です。参加者は宮司さんへの質問を許されております。事情をお伝えいただければ対応されるのではと思います。
>

> > 今回の研究会の中で私が一番気になっていたのが、丹生輝代麿氏の古文書に関する部分だったんですが、何か話は出てましたでしょうか?丹生氏の伝承の部分とか。祭祀の部分とか。

祭祀と民俗については、国学院大学日本文化研究所講師の藤井弘章さんがかなり詳しく説明されました。特に御田祭について詳しかったです。生業との関係にも触れていました。
和歌山県文書館の伊藤信明さんも詳しいようです。

天野家の文書については、簡単な説明がありました。
惣神主丹生一麿家、丹生輝代文書 高野山大学寄託

元亨年間(1321から1323)敬白起請文事〔御子職入りにつき)
天慶2年(1376)定 天野遷宮之事〔日時・料米につき)
明治20年代まで中世資料約30点
写真蝶31冊のうち85冊目録終了、約3500点
 遷宮関係、料米収納配分関係などがまとまって残っている。

この事項については、和歌山県立文書館 伊藤信明 嘱託学芸員がなされました。


私は何分素人の域を出ませんので以上が、精一杯の回答です。

少しでもお役に立てばうれしいものです。




[7664] 無題  とみた 2006/07/30(Sun) 22:16 [Reply]
かまどさん、ご興味を持っていただけて満足です。

参加者は、教室がほぼ満員でしたから私の推測では110人ぐらいでしょうか(保証はしかねます)。専門家も少なくないようでしたが、学生が半分近くいたようです。
質問の取り上げ方は、参加者に配布された質問シートに希望者は記入して受付に提出すると、コーディネータがパネリストに振り分けて回答させる要領でした。持ち時間が少なく詳しい説明まで得られませんでした。

質問は丹生都比売神社の祭神を問うものが多かったようです。
水銀の神か、水の神か、狩猟の神か、農耕神かです。
>
> お疲れ様でした。なかなか面白そうな話だったんですね。なんか聞けなくてくやしいです。次回こそは!って次回あるのかな?

私が如き暇人でなく、まどかさんが、参加なされれば一番良かったですね。

これは、国学院大学の21世紀COE(Center of Excellence)プログラムで文部省からの助成を受けておりすでに5年経過しているようです。成果物も出版されます。テーマは神道と日本文化の国学的研究発信の拠点形成でその一つとして高野山と丹生都比売神社の神仏習合が取り上げられたようです。

今年まだ5回のシンポジュームを予定されているということです。

国学院大学21世紀 COEプログラム研究センターは・・・TEL/FAX 03−5466−0132です。http://21coe.kokugakuin.ac.jp へお問い合わせ下さい。

、パネリストに


> どこかの本に写真が載ってましたけど、高野山の麓のある地域では、丹生都姫と思われる女神が鏨とハンマーを持って、その前に高野明神と思われる神が斧をもって座っている絵が残されています。それをどう解釈したらいいのでしょうね。

全然、このような話題は上がりませんでした。
>
> 丹生都姫に関し丹生都姫神社の祭り方と、丹生氏の祭り方は同じだったか、と言うと疑問があります。どうしても丹生都姫神社はその時々の政治や高野山などなどに影響されますから。

丹生都比売神社のhpは、www:niutsuhime.or.jp です。参加者は宮司さんへの質問を許されております。事情をお伝えいただければ対応されるのではと思います。

>
> 今回の研究会の中で私が一番気になっていたのが、丹生輝代麿氏の古文書に関する部分だったんですが、何か話は出てましたでしょうか?丹生氏の伝承の部分とか。祭祀の部分とか。

天野家の文書については、簡単な説明がありました。
惣神主丹生一麿家、丹生輝代文書 高野山大学寄託

元亨年間(1321から1323)敬白起請文事〔御子職入りにつき)
天慶2年(1376)定 天野遷宮之事〔日時・料米につき)
明治20年代まで中世資料約30点
写真蝶

>
>

[7663] Re[7661]: 丹生明神と高野山=講演  かまど [Url] 2006/07/30(Sun) 16:19 [Reply]
とみた様

ちなみに、今回の研究会はどれぐらいの人数が来られてたんですか?

質問とかする時間ってあったんですか?

一般人も質問できたんですか?

どんな質問が出てました?


とっても気になるので宜しくお願いします。

[7662] Re[7661]: 丹生明神と高野山=講演  かまど 2006/07/30(Sun) 16:17 [Reply]
とみた様

お疲れ様でした。なかなか面白そうな話だったんですね。なんか聞けなくてくやしいです。次回こそは!って次回あるのかな?


> @ 丹生都比売神社のある天野は、高野山と神仏習合するまでは、京都の仁和寺の寺領であった

そうですね。高野山と天野は仁和寺の荘園だったんです。


> A 平安時代には、丹生都比売神社の方が、勢力が強く高野山は勢力が弱かった。鎌倉期になって金剛峯寺が勢力を増して対等になった。

どうしてそう言われたのでしょう?空海の方が朝廷と深い繋がりがあるから勢力的には高野山の方が上かと思ったのですが。やはり高野山炎上でお坊様達が天野で一時居住していた事と繋がりがあるのでしょうか。


> 以上の動静を捉えないと狩場明神の話が時代変遷と共に変わっていることが理解できないかもしれない。丹生神社の示現に関する記述が10世紀末から11世紀のはじめの8つの資料に出ているが時代と共に内容が変わってくる。

そうですね。何故犬飼の神=狩場明神となっているのか?今昔物語では犬飼の神と書かれ、何故狩場明神や高野明神と書かれていないのか?なども気になる所ですね。
後は、高野山内の行人方と学侶方との力関係もどうだったのか?行人方の力が強くなれば、おのずとその地域の伝承も盛り込まれてくる事になりますしね。
このあたりの話は結構時代背景が複雑に絡まっていてややこしいですね。

> 皆さんご関心の祭神については、現在は農耕神としてしか理解されていない。御田祭りが有名。大念仏講や六斎念仏の風習が残っている。
> 丹生=水銀の神、とか水の神とか狩猟の神とかいろいろな説があることは否定はしないが、それ以上言及できない。明治以降は農耕神として祀っている。

どこかの本に写真が載ってましたけど、高野山の麓のある地域では、丹生都姫と思われる女神が鏨とハンマーを持って、その前に高野明神と思われる神が斧をもって座っている絵が残されています。それをどう解釈したらいいのでしょうね。

丹生都姫に関し丹生都姫神社の祭り方と、丹生氏の祭り方は同じだったか、と言うと疑問があります。どうしても丹生都姫神社はその時々の政治や高野山などなどに影響されますから。

今回の研究会の中で私が一番気になっていたのが、丹生輝代麿氏の古文書に関する部分だったんですが、何か話は出てましたでしょうか?丹生氏の伝承の部分とか。祭祀の部分とか。


[7661] 丹生明神と高野山=講演  とみた 2006/07/30(Sun) 10:47 [Reply]
丹生明神と高野山というタイトルの講演が、民俗学と神道で有名な國學院大學(東京渋谷)でありましたのでお知らせします。
丹生都比売神社の宮司さんの丹生晃市さん、高野山大学の山陰加春夫さん、和歌山県立博物館の学芸員の高木徳郎さんなど錚々たるパネリストでした。聞き手が素人の私ではネコに小判でした。

印象に残ったことだけしか書けません。長文をお許しください。

@ 丹生都比売神社のある天野は、高野山と神仏習合するまでは、京都の仁和寺の寺領であった

A 平安時代には、丹生都比売神社の方が、勢力が強く高野山は勢力が弱かった。鎌倉期になって金剛峯寺が勢力を増して対等になった。

B 高野山は伝法院勢力と金剛峯寺勢力とが対立して鎌倉時代に伝法院派が下山して根来寺勢力となったり、高野山は弱体化します。高野山が生き残るために苦労しているようです。神道との交流、真言密教の本流として生き残る。伊勢神宮との結合、丹生・高野明神との結合、高野山の諸神の勧請(厳島・気比・春日・天神など)などで補強する。
 本来は空海は即身成仏ですが、浄土信仰の阿弥陀も取り込む

C 丹生明神を奉斎する丹生祝氏は紀伊国造と縁戚関係がある。丹生明神の祭祀なども紀伊国造との関係が窺われる
名草の伊多祁曾神社は紀伊国造の奉斎する神とされる。これと伊都の丹生都比売神社  は859年以来、神階は同日に同位処遇されている。
天野の丹生都比売社と高野山は財源の恒久的確保のために関係が九世紀後半に成立。紀伊国造はスポンサーとして勧進などに応じたのではないか。11世紀平安期末に高野山と紀伊国造のかかわりが緊張関係になる


以上の動静を捉えないと狩場明神の話が時代変遷と共に変わっていることが理解できないかもしれない。丹生神社の示現に関する記述が10世紀末から11世紀のはじめの8つの資料に出ているが時代と共に内容が変わってくる。

たとえば、神様が土地を分け与える常庄の範囲がだんだん大きくなる。

狩場明神が空海を高野山に導くように(山の中で二匹の犬を連れた猟師に手引きされた)記されたのは968年金剛峯寺修行縁起と1004年高野山縁起の新しい資料の二つだけである。六つの資料には触れられてはいない。
皆さんご関心の祭神については、現在は農耕神としてしか理解されていない。御田祭りが有名。大念仏講や六斎念仏の風習が残っている。

丹生=水銀の神、とか水の神とか狩猟の神とかいろいろな説があることは否定はしないが、それ以上言及できない。明治以降は農耕神として祀っている。

丹生都比売神社は1700年前、応神天皇の御世に創建とされている。

平成16年、世界文化遺産に登録された。古代からの神道と仏教の融合した文化的な景観としてユネスコに認められた。

ただいまの丹生都比売神社の祭神は・・・

丹生都比売大神(丹生明神)高野御御子大神(狩場明神)大食都比売大神〔気比明神)、市杵島比売大神(厳島大神)、行勝上人、佐和神社です。

明治の廃仏毀釈で廃れた高野山の山王院の神社の屋根を葺き替え、丹生明神を平成16年?に遷座した。儀式が大変だったようです(上棟祭、新伝祭、正遷宮)。高野山は女人禁制、天野の丹生都比売は女性救済だそうです。




[7660] 無題  くず 2006/07/28(Fri) 22:20 [Reply]
 ありがとうございます。
奈良、熊野との関係は興味がありまして、またじっくりと歩いてみたいと思います。

戸隠にいて感じるのは、応神期に南から、天武期に西から、平安中期(紅葉伝説)に東から、おそらく鉄の利権をもとめての圧力、抗争があったのではないかと思っています。
散在する鬼伝説、地名、神社の向き、などから感じられるんですけれどね。

日本の歴史の中で、ここがどのような波を受けていた地域なのか。

[7659] 夏越の大祓  神奈備 2006/07/28(Fri) 20:24 [Reply]
 和歌山市伊太祈曽の伊太祁曽神社の「夏越の大祓」、通称、輪くぐり、が次の予定で催おされます。

7月30日(日曜日)午後6時 くぐり初め 〜
7月31日(月曜日) 〜 深夜まで。

小生は月曜日の午後にでも寄ってみようと思っています。

[7658] Re[7656]: 無題  神奈備 2006/07/28(Fri) 16:11 [Reply]
> 全国の九頭にまつわる事で共通点ありますでしょうか?

 大和の九頭神社、九頭龍神社につきましては、東側の山地に多く祀られているようで、水神の要素も感じられます。一部の九頭神社は戸隠神社と改称しているものもあります。また祭神として九頭神、手力男命、建御名方命、高オカミ神などです。水神と信濃の神の混在とでも言えるのでしょう。

 紀の国の九頭神社は名草郡や那賀郡の、どちらかと言えば平地に多く鎮座していました。現在は改名が進み、式内社などになっています。祭神は大国主命など国津神が目立つようですが、大きい国主神社の祭神が大国主命となっているのが影響しているものと思っています。       

[7657] 戸隠縁起  くず 2006/07/28(Fri) 09:53 [Reply]
連続ですみません、まとめて見ました。

戸隠神社由緒縁起


? 孝元天皇五年、天手力雄命をその子孫の民がこの地に祀り奉仕。
これより前九頭竜大神をその子孫がこの地にお祀りしていたが、
力を合わせこの地方を開拓する事となりこの二柱の神を合せ祀った。

? 応神天皇七年 犬養族奉仕、奉仕の場所 奥社の南西 熊野堂遺跡

592−628年 推古天皇御宇 勅使御差遣 神社御造営
691年    持統天皇御宇五年八月 勅使御差遣 庠角の芴(重文)
673−686年 天武天皇 白鳳年中 役の小角 峰入りの方式を定める
842年 仁明天皇 承和九年 勅使御差遣 神殿改造
849年   仁明天皇 嘉祥午年三月 学問行者 二神の神殿を造営 戸隠別当職位
867年 清和天皇 貞観九年 勅使御差遣 神殿改造 

946-967年 村上天皇 天思兼命 天表春命の子孫(信濃阿知族)登山、天手力雄命本殿に、天思兼命、天表春命の二柱を相殿として奉斎。
  ・
  ・
  ・
天武期にお隣の鬼無里(水無瀬)に朝廷の感心が向いたことがありました。
しかし鬼が一夜山に城を作ったため放棄。朝廷は阿部比羅夫に命じ彼によって鬼は滅ぼされたという伝承があります。


明日は柱松神事が復活されます。
かつての修験時代へゆるやかにですが、向きを定めてきております。


[7656] 無題  くず 2006/07/27(Thu) 23:52 [Reply]
さっそくのご返信ありがとうございます。
視覚的には10の独立峰(ピーク)ですね。
鬼女紅葉伝説の「荒倉山」を除くと9です。

 戸隠十三谷 
 一、本院谷  本院(奥院)十九坊 ●
 二、中院谷  中院(中社)三十四坊
 三、宝光院谷 宝光院(宝光社)二十九坊
 四、火之御子社の御子午王 社家二
  以上 八十二坊社家二(天台派)

 一、上西(西岳の懐)西光寺●  六、飯綱山御座板  瑪瑙寺●
 二、鼓平( 〃 ) 無楽寺   七、湯之見山    湯嶺寺●
 三、大平( 〃 ) 太平寺   八、大頭山     大頭寺●
 四、僧ヶ原( 〃 )仏性寺   九、黒姫山     境宮橋立寺?
 五、一夜山の懐   西清寺●  十、大岩戸     法林寺  ?
   以上十谷十ヶ寺 (真言派)  

 戸隠三千坊と呼ばれた時代。鎌倉から室町中期の様子です。
 真言系は室町期に抗争に敗れ、今は痕跡が散在するのみ・・
 
 ●印が 旧戸隠村中央部 現在の長野市戸隠支所付近から見た、視覚的な独立峰です。
 加えて飯綱山 高妻山 毛無山(宣澄の墓があった。)荒倉山 が見えます。
  大岩戸がどの山をさすのか解りません。
  黒姫山は中央部からは見えません。
 
火之御子社は前方が湿地(現在は水源池)なので、褐鉱鉄のミノリを祈る祭祀跡ではな いかとも考えています。 周囲は飯綱系火山の鉄分が豊富ですので。
 
戸隠の霊場としての最大の特色は、水の循環の始めと終わりが一点に集約されている点と考えます。 古代、海の民がこの地を訪れた時、海底隆起からなる奇岩の山に豊富に見受けられる、ホタテの化石群に滴る源流の水滴を見て、"何か"を感じたのではないかと思っています。全国の九頭にまつわる事で共通点ありますでしょうか?
            
       

[7654] 戸隠にて  くず 2006/07/27(Thu) 12:55 [Reply]
皆様、はじめまして。
信州の戸隠に住んでおります。かねてより、神奈備様のHPちょくちょくは覗かせて頂いておりました。ここで語られていた事と、この地に生まれ育ち感じていた部分で、ある程度考えがまとまりましたので、皆様のご意見を伺えればと参りました。よろしくお願い致します。 
 戸隠の発祥は土着神であった九頭龍に由来すると伝えられています。今私の住む地域は周囲を10の山、峰で囲まれているのですが、そのうちの9つに、天台、真言系の修験地であったとの文献が残され、残り1つは荒倉でそこには鬼女が住んだと言われています。
 私が考えておりますのは、残りの九つの山、戸隠、高妻、西岳、一夜山、大頭(おおつむり)、飯綱、瑪瑙、毛無、湯乃峰、を指して九の頭とし、源とする水系を龍にみたて、
地形的特性をもってそこより九頭龍と発祥されたのではないか?というものです。残りの荒倉については女性を持つ山として、褐鉱鉄(赤べと)を利用した製鉄かんれんの技術母体があったのでは、と。 どうお感じになられますか?



[7653] Re[7651]: 口承・雑感  神奈備 2006/07/27(Thu) 08:07 [Reply]
どんたくさん、おはようございます。これからよろしくお願いいたします。

大三元さん、おはようございます。

伊那市の顔面付き釣り手型土器の顔は何となく最近TVで見る太木のようなおばさんの顔にも見えます。縄文女性は霊感も豊かだったのでしょう。
地母神と見れば、火山もあり、畑もあり、食べ物の火による調理は人類の大発明でもあり、進化と繁栄の原動力だったので、大いに祀られたのでしょう。
火処と言う言葉は縄文時代からの言葉だったのでしょうね。

話は全く違いますが、竜宮はリュウグウですが、リュウキュウ(琉球)と訓めますね。

[7651] 口承・雑感  大三元 2006/07/26(Wed) 09:58 [Reply]
神奈備さん

>  アイヌのユーカラなども口誦伝承されて来た大部のものなのでしょうが、グループとして受け継いでいく方式があったのでしょうね。一人が早世してジ・エンドではあまりにも家庭的、仮説の世界なのでしょうね。

実に当たり前のことなのですが、我々が知ることが出来るのは、「結果として遺ったもの」だけなんですよね。時間の経過の中で逸失してしまったものは見ることが出来ない。だから無かった、とも言えない。歴史の途中で失われたもの、ここに想像が活躍、介入して来るのでしょうが、どれほど論拠のある推定で説得力があるか、全くの主観的想像(創造?)なのか、批判精神を持って見ていないといけないのでしょうね。

>  この前、雅楽の伝承のお話を拝聴する機会がありましたが、伝来してきたメドレーとは相当違うように変えて伝承しているとの琴でしたが、口誦伝承なんかも、はしょったり、付け加えたり、知らず知らずのうちに改竄されてくる場合もあるのかも。

おおいにあるのでしょうね。そこで、諸説があると、
・それらが一つの(または、数少ない)原型に遡れるのかもしれない、とか、
・諸説は一つの原型の異なった部分を伝承しているということかもしれない、
という興味が湧きます。

>  物言わぬ皇子のお話なども、もともと一つのお話だったのが、素盞嗚尊になり、阿遲耜高日子根命になり、本牟智和氣命になったのかも。本牟智和氣命なんかはおまけに火の中で生まれる話もくっついているようで。

火の起源を女陰とする伝承がニューギニア、メラネシア、ポリネシア、南米、と広がっているようで、イザナミのカグツチ生みもそれに列なるものと考えることが出来そうです。火中で出産する、というのもコノハナサクヤ姫、ホムチワケにある。と巡らせて行くと、縄文中期の「人面付釣手土器」が「女性の体内にある火」というモチーフのリアライゼーションのように思われる(参考:『世界の神話辞典』角川書店p158周辺)


各地での類似の伝承が独立的に発生したのか、ヒトの移動と関連づけて考えて良いものか。後者の方がオモシロイのではありますが・・・「悩ましい」です

[7650] Re[7648]: 口伝 他  かまど 2006/07/25(Tue) 21:40 [Reply]
> 口伝による伝承
> 1、一子相伝(一人が一人にだけ伝える)
> 2、家族で伝える
> 3、一族で伝える
> 数字の順に残る確率は高いですね。
> 途絶えないようにするなら、通常語り部と云う様に、
> 一族での伝承ではないでしょうか

おっしゃる通りです。1〜3どれになるかは、その家が置かれている立場や環境によって決まると思います。
一族の伝承であれば、一族で言い伝え(昔話もそうかも)ればいいですが、口伝が例えば家を相続できる証となっている場合は、一子相伝となります。途絶える可能性も高くなります。

[7649] Re[7647] さらに自己レス  神奈備 2006/07/25(Tue) 14:45 [Reply]
 松葉様、興味深い実例の紹介、ありがとうございます。

 アイヌのユーカラなども口誦伝承されて来た大部のものなのでしょうが、グループとして受け継いでいく方式があったのでしょうね。一人が早世してジ・エンドではあまりにも家庭的、仮説の世界なのでしょうね。

 この前、雅楽の伝承のお話を拝聴する機会がありましたが、伝来してきたメドレーとは相当違うように変えて伝承しているとの琴でしたが、口誦伝承なんかも、はしょったり、付け加えたり、知らず知らずのうちに改竄されてくる場合もあるのかも。

 物言わぬ皇子のお話なども、もともと一つのお話だったのが、素盞嗚尊になり、阿遲耜高日子根命になり、本牟智和氣命になったのかも。本牟智和氣命なんかはおまけに火の中で生まれる話もくっついているようで。

[7648] 口伝 他  QUBO 2006/07/25(Tue) 08:36 [Reply]
口伝による伝承
1、一子相伝(一人が一人にだけ伝える)
2、家族で伝える
3、一族で伝える
数字の順に残る確率は高いですね。
途絶えないようにするなら、通常語り部と云う様に、
一族での伝承ではないでしょうか

『謎の出雲帝国』吉田大洋 
読んだことが無いので、筆者の著書を探しました
上記以外に
『謎の弁財天女』
『竜神よ、我に来たれ! 』幸福を呼ぶ守護神の祭り方
『和法 健康法』『冠婚葬祭便利帖』
『雑学面白事典』『すぐわかる苗字と祖先』 

[7647] Re[7646][7644][7641][7638] さらに自己レス  松葉 2006/07/24(Mon) 23:04 [Reply]
神奈備さま、すみのえにいつくハフリです。(土曜日はお世話になりました〜)

さて、口伝というものは奇跡的ばかりでなく、けっこう馬鹿にできないものでして・・・

わたしの関係する古社では、社家などは職役の各階層に応じて、それぞれが同族内の年老制(年臈制)をとっていましたので、これらの口伝的伝承は大丈夫なようになっていたようです。
つまり、ある家の当主が早世した場合でも、その職役(氏長者)は一定の同族内における年長者が継承することになるので、その伝承は存命の奉仕者によって相続されてゆく形式を保っていたものです。
よ く口伝的な伝承などを、その家内のみで伝承するには眉唾であると決め付ける節が多くありますが、けっしてそうではなく、もっと柔軟な同族内・親族内の長者 が堅く伝承してゆくものも多く見られるということも注目すべきことでしょう。なにも一系の「家」で考える必要はないと思われます。家という古来の習俗をも う一度見直せば、家伝について広い認識が生れるのではないでしょうか? 
亀レスで失礼しました。

[7646] Re[7644][7641][7638] さらに自己レス  かまど 2006/07/23(Sun) 13:37 [Reply]
>  さて、親が死んでいて、まだ子供に丸暗記させていない時期があるはずで、その時急病とか事故で死んだら途絶えるはずだし、このお話も眉唾物のようにも聞こえますが、

そうですね。口伝で一子相伝なんかですと可能性が高いですね。
私の知っているところでもそのような憂き目にあってます。うまく伝えているところもあると思うので一概には言えませんが。

[7645] Re[7644][7641][7638] さらに自己レス  nick [Url] 2006/07/23(Sun) 10:34 [Reply]
>  富家では、代々、出雲井神社で親が語る伝承を丸暗記してきたそうです。
>
>  さて、親が死んでいて、まだ子供に丸暗記させていない時期があるはずで、その時急病とか事故で死んだら途絶えるはずだし、このお話も眉唾物のようにも聞 こえますが、たまたまうまくつながったので、話題となったとも言えます。司馬遼太郎氏の名前を持ち出していかにも本当そうにしているのもみそ。

いや、このような家系なら、物心ついた頃からうら覚えで、、、
私も親父の祝詞、かなりの数覚えてましたからね。
痴呆症の親父ですが、たまに唱えますよ。。
やはり「脳裏に焼く付いている」

厳格な処では、「伝承」の為、毎朝、子供を座らせ復唱されていたのでは。
だから「途絶える」と云うことは、通常は。
天変地異や戦災等で一家断絶の奇遇が無い限り継続したと考えたいですが
只、「男尊継承」の場合もありますから。。どうでしょうか。

[7644] Re[7641][7638] さらに自己レス  神奈備 2006/07/23(Sun) 10:18 [Reply]
 700年の昔のことが語り継がれうるのか、と言うことに青草的解答が一つあった。
司馬遼太郎氏も、「私もサンケイ新聞の記者だった時代、富さんは大先輩でね。出雲王朝の末裔だという話を聞いたことがあります。実証は不可能ですが・・・。」と、書いています。(『謎の出雲帝国』吉田大洋)

 この富さんが大国主の末裔で、この出雲の家には4000年前からの祖先の生き様が口誦伝承されているそうです。特に天孫族に強制されて国譲りをさせられ、大国主は稲佐浜で抗議の自殺をしたと伝わっているようです。
 富家では、代々、出雲井神社で親が語る伝承を丸暗記してきたそうです。

  さて、親が死んでいて、まだ子供に丸暗記させていない時期があるはずで、その時急病とか事故で死んだら途絶えるはずだし、このお話も眉唾物のようにも聞こ えますが、たまたまうまくつながったので、話題となったとも言えます。司馬遼太郎氏の名前を持ち出していかにも本当そうにしているのもみそ。

 それより、富さんと言う名が興味深い。登美の長髄彦、トミビコ、この本にはノミノ宿禰はトミノ宿禰だったともあります。

[7641] Re[7638] 自己レス  神奈備 2006/07/22(Sat) 12:04 [Reply]
> 「古老の言い伝える所では、天の下をお造りなされた大神の神財を積んで置き給うた場所である。だから当然神財の郷と言うべきだが、べきだが、今の人は誤って神原の郷といっているだけである。」
> 加茂岩倉遺跡から多くの銅鐸が出ているのは、そのような事があったのかと思われます。

 加茂岩倉遺跡の銅鐸は所謂「聞く銅鐸」で、概ね紀元前1世紀に作られて使用されたもののようです。これを西暦0年頃に埋めているようです。
 一方、『風土記』が編纂されたのは奈良時代、700年の時間差があります。現在から700年前とは元寇の頃です。元寇ほどの大事件は記憶に残るものでしょうし、ましてやこの国が蒙古に支配されてしまったとすると人々の記憶に長く残るのかも知れません。

 出雲の国では、大国主の国譲り、神財の埋納、これは大事件として700年の長きに渡って語り継がれたのかも知れません。何人かは漢字を理解できる者もいて、記述していたのかも知れません。

 その後、九州では漢委奴国王の金印をもらったり、倭国王帥升が生口160人を連れていったりしています。北九州の時代になっているようですね。

[7638] Re[7637][7636][7633][7629][7626]: ヤリガンナ  神奈備 2006/07/21(Fri) 19:34 [Reply]
> 私は記紀の話をしているのではなく、あなたの「古代の銅鐸祭祀はプッツリ途絶えてしまっている」という話を受けて疑問符つきで書いただけです。

時計台ですか。
問いかけが悪かったようで、『記紀』+『風土記』とすればよかったのかも。
あなたの書かれた所まではほぼ誰でも推定できるんです。それ以上がほしかったのですよ。
で、出雲では大国主の国譲りがありました。
> 古代の戦争は、宗教戦争でもあった?
そういう事例としての古代の大事件は此処だと思います。それが『出雲国風土記』の大原の郡、神原の郷に出ているのではないかと思っています。
すなわち
「古老の言い伝える所では、天の下をお造りなされた大神の神財を積んで置き給うた場所である。だから当然神財の郷と言うべきだが、べきだが、今の人は誤って神原の郷といっているだけである。」

 加茂岩倉遺跡から多くの銅鐸が出ているのは、そのような事があったのかと思われます。

[7637] Re[7636][7633][7629][7626]: ヤリガンナ  PONTA 2006/07/21(Fri) 18:56 [Reply]
> 「神も勝った国の人が信じている神にしないといけなかったのでは?」と言うお話は『記紀』で言いますと、どの辺に書いてあるのでしょうか。

私は記紀の話をしているのではなく、あなたの「古代の銅鐸祭祀はプッツリ途絶えてしまっている」という話を受けて疑問符つきで書いただけです。

[7636] Re[7633][7629][7626]: ヤリガンナ  神奈備 2006/07/21(Fri) 08:56 [Reply]
> 昔は祭政一致なので、支配者が勝った国の人になるだけでなく、神も勝った国の人が信じている神にしないといけなかったのでは? つまり、古代の戦争は、宗教戦争でもあった?

崇神天皇の場合には三輪山の神を祭ることで、やっと安定した支配を確立したようです。相手の宗教を大切にして(いるふりを見せて)、スムースに支配する、が基本だったようです。

神武天皇の場合でも、相手方の姫を娶り、その子が相続しています。

「神も勝った国の人が信じている神にしないといけなかったのでは?」と言うお話は『記紀』で言いますと、どの辺に書いてあるのでしょうか。

コーランか剣か、共産主義か死か、主体思想か死か、世界でも希有なことですね。

[7635] Re[7634][7630][7624][7619]: 無題  なかひらまい [Url] 2006/07/20(Thu) 23:40 [Reply]
> > いっそのこと、霊能者のサイコメトリーをやってもらおうか、と思うぐらい不明点が多いです。とはいえサイコメトリーで得た情報は、霊能者以外、共有できないという問題点がありますけど。。
> > 霊能者が古墳へ行って、誰が埋葬されてるか埋葬者の霊を呼んで調べるとかって雑誌の連載にあって、それをまとめた本ももう第6巻くらいまでいってると思います。他にもあるかも?

それって、どの本ですか?
面白半分のトンデモ本系ではないですか? 
近頃は、トランスパーソナル心理学なども、広がっていますから、あまり安易な扱いもつまらないです。FBIではマジで、サイコメトリーで殺人事件の犯人捜しなどしていますしね。。

[7634] Re[7630][7624][7619]: 無題  PONTA 2006/07/20(Thu) 22:36 [Reply]
> いっそのこと、霊能者のサイコメトリーをやってもらおうか、と思うぐらい不明点が多いです。とはいえサイコメトリーで得た情報は、霊能者以外、共有できないという問題点がありますけど。。

霊能者が古墳へ行って、誰が埋葬されてるか埋葬者の霊を呼んで調べるとかって雑誌の連載にあって、それをまとめた本ももう第6巻くらいまでいってると思います。他にもあるかも?

[7633] Re[7629][7626]: ヤリガンナ  PONTA 2006/07/20(Thu) 22:31 [Reply]
> 「戦争で負けてアメリカ軍の支配下に入っても、日本人の信仰に大きい変化はなかったし、神社もつぶされていない。
> ところが古代の銅鐸祭祀はプッツリ途絶えてしまっている。戦争に負け、米軍の進駐を受けたこと以上のとんでもないことが起こったのではないか。」

戦争で勝って、ある国を滅ぼしたとして、その後、どうするかですね。
「何のための戦争か」「勝ったらどうしたいか」がポイントでしょう。

昔は祭政一致なので、支配者が勝った国の人になるだけでなく、神も勝った国の人が信じている神にしないといけなかったのでは? つまり、古代の戦争は、宗教戦争でもあった?

第 2次大戦後のアメリカの方針は、日本を軍国主義から民主主義の国に変えるで、全教科書が墨で塗られました(数え切れない数でしょう。銅鐸の数以上かと)。 アメリカは、奈良・京都には歴史的遺産(神社やお寺)があるので、攻撃しなかったとか。日本を破った後で日本をキリスト教の国にしようと考えていたら、宗 教戦争であったなら、神社や寺をまっさきに攻撃したはずです。

何をつぶし、何を残すかは、その戦争の目的とか、勝った国の方針によって変 わるのではないでしょうか。そして、戦争の目的や勝った国の方針に合うことだけは、他のことを横に置いてまでも真っ先に徹底的にやるでしょうし、勝った国 にしてみれば、やらなきゃいけないのでしょう。そもそもそれが戦争を始めた理由なのですから、やらなきゃ意味がない。

[7632] RE[7627] 中臣鎌足 出生地・出生年  倭亜布 2006/07/20(Thu) 20:14 [Reply]
 ごめんなさい \(..) 
「そのおとゞは、常陸國にてむまれたまへりければ」
 (『日本古典文學大系21 大鏡』 松村博司 校注 岩波書店)
http://www5b.biglobe.ne.jp/~yoropara/mretu/mretu00172.htm

@鎌足の父御食子(みけこ)、勅勘を蒙り、常陸国に流され、鹿島神宮の四郎禰宜となる。
A御食子、農業をしつつ、地元の娘と結婚し、一子、鎌足を儲ける。
藤原氏開闢のものがたり
http://www.toride.com/~yuga/kouwaka/iruka.html

「御食子が鹿島神宮の祭祀者として大和から派遣された時に大伴夫人との間にできた子が鎌足だというのです。しかし、もともと中臣氏は常陸の鹿島神宮の祭祀者であったらしいのです。鎌足が鹿島出身ということは、「大鏡」や多武峰の談山神社伝承に記されています。 」
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Desert/8918/hitatihudoki.html
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Desert/8918/huziwarasi.html

「出生地は、『藤氏家伝』は大和国高市郡藤原(現在の橿原市)としているが、大原(現在の明日香村)や常陸国鹿島とする説(『大鏡』)もある。」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%8E%8C%E8%B6%B3

http://www.d3.dion.ne.jp/~stan/txt0/n1tnz01.htm

歌舞伎 「土蜘蛛」より
不比等は重そうな口を開いた。
「真は常陸国こそが鎌足公生誕の地である」
http://www5b.biglobe.ne.jp/~yottyann/65596133/

「出生地については小墾田宮に近い藤原とされるが、常陸国とする伝承もある。」
http://www.ikedakai.com/jinmeijitenbekkan1.html

「 推古天皇21年(または22年)に、鹿島神宮の神官である御食子の妻が臨月となり、今の北浦あたりの産屋に移って生まれたのが鎌足なんだ。」????
http://www.kodaisi.com/ho-hoon.htm
??????
「中臣氏」は「藤原氏」の姐ではない」???
http://www2.plala.or.jp/cygnus/s5.html

 「鹿島誕生説はひとり「大鏡」のみが述べているところに過ぎず、「大織冠伝」も「大和志料」もすべて、誕生地を明日香村大原としている」
藤原鎌足の産湯の井戸
http://www.infonet.co.jp/nobk/other/kamatari.htm
土橋寛先生は、「大原神社」が「鎌足誕生堂」であり、「鷺栖神社」は大原神社と飛鳥坐神社との中間にあったが今は失われているとされている。「鷺栖神社は鳥形山々尾にあり」と云う神名帳の言葉からすると、先生の説も一概には否定できない。

[7631] Re[7624][7619]: 無題  玄松子 2006/07/20(Thu) 17:15 [Reply]
> 鋳型は出ていませんが、ヘラのようなものが出ているそうで、作っていなかったとも言えないのです。


「作っていたとも言えない」という意見とセットで。

[7630] Re[7624][7619]: 無題  なかひらまい 2006/07/20(Thu) 16:17 [Reply]

> > 鋳型は出ていませんが、ヘラのようなものが出ているそうで、作っていなかったとも言えないのです。

そうですか。。
古代史はむずかしいですね。
特に紀州は、いろいろな文化が混ざり合っていると思われます。

いっそのこと、霊能者のサイコメトリーをやってもらおうか、と思うぐらい不明点が多いです。とはいえサイコメトリーで得た情報は、霊能者以外、共有できないという問題点がありますけど。。

[7629] Re[7626]: ヤリガンナ  神奈備 2006/07/20(Thu) 10:47 [Reply]
> 以前にも出しましたが、
> http://www.city.gobo.wakayama.jp/0120ka/KATADAISEKI/katadaiseki.htm

ペギラさん、ありがとうございます。ヤリガンナは昔は、そうして今も世界中では押して使っていたようですが、中世の日本では引いて使うようになったとか。(佐原さん)

さて、ドンタクさんと立ち話をしている時、彼が言ったことが心に残っています。

「戦争で負けてアメリカ軍の支配下に入っても、日本人の信仰に大きい変化はなかったし、神社もつぶされていない。
ところが古代の銅鐸祭祀はプッツリ途絶えてしまっている。戦争に負け、米軍の進駐を受けたこと以上のとんでもないことが起こったのではないか。」

何があったのか。
廃仏毀釈で、村単位で言いますと、お寺がなくなってしまった所は幾つかあったようですが、その徹底したものとか。

[7628] Re[7625]: 三島鴨神社  神奈備 2006/07/20(Thu) 10:45 [Reply]
「大」さん、三島鴨神社史発行のお知らせ、ありがとうございます。早速手配します。
4年前に参詣した時には、若い神職さんがおられまして、お話をさせていただきました。
この神社については、延喜式では摂津国嶋下郡に属するとなっていますが、鎮座地の三島江は嶋上郡であり、境界に推移ありとの苦しい説明は当たらないとも言われています。
 伊予の三島もそうですが、仁徳天皇の頃、百済からやってきた和多志大神を祀ると伊予風土記にお話が残っているのですが、これがもう一つよく判らない所。三島鴨神社史にどう出ているのか楽しみです。

以降は青草話ですので、場を遷します。

[7627] 中臣鎌足 出生地・出生年  とみた 2006/07/20(Thu) 01:36 [Reply]
>神奈備さん とみたです。

私も手元に読み遺しの本が沢山あって、それでもついつい面白い本が本屋にあると買ってしまいます。大分読み込んでおりますが、神奈備さんのように年季が入ってませんし、忘れやすい年齢からスタートしましたので悪戦苦闘ですが古代史を楽しんでおります。

鎌足は出所が不明で謎の多い人ですね。

歴史作家などのなかには、鎌足を百済王の血筋の人という人がおります。

百済の義慈王の子に余豊璋とか翹岐がいますがこれに鎌足を当てています。

朝鮮は当時、百済が義慈王の即位に絡んで起こった内乱で王子が日本にも逃げてき

たりしたんでしょう。

大鏡に鹿島社、常陸国に鎌足誕生としています。神社の系譜という宮元健次の本によれば、茨城県鹿島には常陸オホ〔大生)氏が先住していて、これと中臣神間勝命が大和から来て婚姻したとしています。

和田あつみさんは、立派な業績を残された研究者で、この方が1999年の東山古墳群の調査も考え合わせて明日香村小原〔古代の大原)を鎌足の生地とされたことを尊重したいと思います〔権威主義ではありませんが)。

ついでに、この本の中に、入鹿は常世信仰の失墜による危機を持ったと書かれています。これ補陀落と関係がありそうです。富士川の畔に住む大生部多なる人物が常世神を祭り始めたとか。

オホ氏が絡みますね。
これは呪術的で常世虫なんて変なものを信じて富と長寿を願うなんて現世利益の神仙思想にも影響を受けているのでしょうか。

>倭亜布さん

鎌足情報の補足をいただきました。
でもこれは、生まれた地ではなく、鎌足が亡くなって葬られた地のことで、そこが攝津三島郡の阿武山ということですね。1987年の古墳調査で確かめられたと考えていいのでしょうか。異論反論はその後ありませんか


[7626] ヤリガンナ  ペギラ 2006/07/20(Thu) 01:15 [Reply]
以前にも出しましたが、
http://www.city.gobo.wakayama.jp/0120ka/KATADAISEKI/katadaiseki.htm

青銅器を作っていたことは間違いなく、
さらに、砂岩製鋳型というのが注目点ですよね。

おそるべし、紀伊。

[7625] 三島鴨神社   2006/07/19(Wed) 21:52 [Reply]
三島鴨神社史が本になりました。
神社で2000円で販売している。
三島神社から三島鴨神社になったいきさつが、少し分かる。
少し謎解きが、できるかも。


[7624] Re[7619]: 無題  神奈備 2006/07/19(Wed) 19:23 [Reply]
> > > http://www.wakayama-city-museum.com/SYOZOHIN-KOKO-DOTAKU.html
> > このページによると、島根県加茂岩倉遺跡で発見されたものと同じ鋳型で鋳造されたものだそうです。
> > なるほどですね。
> 銅鐸は、渡来の出雲人が持ってきたという部分もありますし。。。

鋳型は出ていませんが、ヘラのようなものが出ているそうで、作っていなかったとも言えないのです。

[7623] Re[7620]: 中臣鎌出生地・出生年  神奈備 2006/07/19(Wed) 15:16 [Reply]
> 和田?(アツム)先生の飛鳥=歴史と風土を歩く=岩波新書(2003年発行)に誕生地、誕生年をはっきり書かれているんです。

とみたさん、こんにちは。小生もその本はツンドクで手元にありましたので、見てみました。p104に出ていますね。
寡聞にして、鎌足さんの出生地・出生年などを明記した書物はこれ以外には知りませんが、『日本書紀』、『万葉集』、現地調査などで推測されたのでしょうね。

因みに、『日本書紀』から。

欽明天皇十三年(五五二)
物部大連尾輿と中臣連鎌子が蕃神(仏)を拝むことに反対を表明。

敏達天皇十四年(五八五)
物部弓削守屋大連と中臣勝海大夫は排仏を奏上。

推古天皇三一年(六二三)
中臣連國らを新羅征討の大将軍に任じた。

舒明天皇即位前紀(六二八)
中臣連彌氣ら四人の臣は田村皇子の皇位に賛成する。

皇極天皇三年(六四四)
中臣鎌子連は神祗伯をうけずに、摂津三島に住んだ。


欽明紀の鎌子は祖先の鎌子でしょう。宮中の役人としては、彌氣さんが中臣では中心人物、次世代が鎌子ですから、父親であった可能性はありそうですね。


[7622] RE[7620] 中臣鎌出生地・出生年    倭亜布 2006/07/19(Wed) 09:43 [Reply]
阿武山古墳
昭和62年の京大「阿武山古墳X線写真研究会」発表は衝撃的であった。昭和9年に偶然発見
された古墳で、中には遺体が残っていたのだ。当時の写真原版をコンピュ−タ−で解析、玉枕
は大織冠、遺体は鎌足ではないか、となったのである。棺(ひつぎ)は布と漆を交互に塗り固め
た乾漆棺で、完全な形の乾漆棺の出土は、中国では何例もあるが、日本では始めてであっ

http://members.jcom.home.ne.jp/4313532601/page009.html

[7621] 南の貝のものがたり  nick [Url] 2006/07/19(Wed) 09:33 [Reply]
真夏の特別展
『南の貝のものがたり』

九州国立博物館

平成18年7月29日(土)〜9月3日(日)
特別展示室

ゴホウラ・イモ貝等の交易ルート展が
開催されるようです。
詳細はこちらをどうぞ

http://www.kyuhaku.com/pr/exhibition/exhibition_s04.html



[7620] 中臣鎌出生地・出生年  とみた 2006/07/18(Tue) 21:41 [Reply]

中臣鎌足って。生年不祥、誕生地も不明、これが常識と考えておりました。茨城県鹿島あたりから出たとの説もありました。正体は百済の余豊璋とか翹岐とか言う人もいます。

それがなんと、和田莘(アツム)先生の飛鳥=歴史と風土を歩く=岩波新書(2003年発行)に誕生地、誕生年をはっきり書かれているんです。今日読んでおりましてびっくりしました。先生は橿原考古学研究所の指導研究員にして大学教授です。
奈良の田原本町出身で、飛鳥については明晰な分析をなされています。

中臣家は中河内の平岡神社〔大阪府、東大阪市出雲井町)の付近を本拠にする

鎌足の父は弥気〔ミケ)と云い、その代になって大原(明日香村小原・東山)に住んでいたらしい。弥気や叔父の国子は祭官として宮廷祭祀を担当した。

鎌足は614年大原の邸で誕生、母は大伴夫人です。

鎌足ゆかりの産湯井跡や誕生山があり、誕生山には大伴夫人の墓が伝えられている。鎌足の娘の氷上娘と五百重娘は天武天皇の夫人となった。


1999年から2000年にかけて行われた八釣・東山古墳群の調査で東山集落のすぐ北側の丘陵で6世紀中ごろから7世紀前半に築造された7基の円墳と飛鳥時代の巨大な掘立柱の塀が検出、副葬品は金製刀子金具、馬具一式など優秀なものが多い。

大原を開発した中臣氏の家系の古墳群と想定されているようです。古代の大原つまり現在の小原は飛鳥坐神社から少し上がったところとのことです。

ご存知の方も居られましょうが、私にとっては初耳でビッグニュースでしたのでお知らせします

[7619] 無題  なかひら まい [Url] 2006/07/18(Tue) 17:34 [Reply]
> > http://www.wakayama-city-museum.com/SYOZOHIN-KOKO-DOTAKU.html
> このページによると、島根県加茂岩倉遺跡で発見されたものと同じ鋳型で鋳造されたものだそうです。

なるほどですね。
銅鐸は、渡来の出雲人が持ってきたという部分もありますし。。。

紀州は、水銀鉱脈もあるせいか、有象無象の豪族(?)が入り込んでいると思われます。

[7618] Re[7617][7616][7611][7610]: 黄金と百足 2  なかひら MAI 2006/07/18(Tue) 17:31 [Reply]
> > 銅鐸は和歌山市内の太田黒田遺跡から発掘されています。
> (中略)
> > 名草や紀氏の祖先は銅鐸をつくっていたといって間違いないでしょう。
> > 出土と製造は別に考えたほうが良いかもしれません。
> 和歌山で利用されていたのは「ほぼ間違いない」でしょうが、作っていたことが「間違いない」とはいいきれませんよね。
> > http://www.wakayama-city-museum.com/SYOZOHIN-KOKO-DOTAKU.html
> このページによると、島根県加茂岩倉遺跡で発見されたものと同じ鋳型で鋳造されたものだそうです。

[7617] Re[7616][7611][7610]: 黄金と百足 2  玄松子 2006/07/18(Tue) 16:43 [Reply]
> 銅鐸は和歌山市内の太田黒田遺跡から発掘されています。
(中略)
> 名草や紀氏の祖先は銅鐸をつくっていたといって間違いないでしょう。

出土と製造は別に考えたほうが良いかもしれません。
和歌山で利用されていたのは「ほぼ間違いない」でしょうが、作っていたことが「間違いない」とはいいきれませんよね。

http://www.wakayama-city-museum.com/SYOZOHIN-KOKO-DOTAKU.html
このページによると、島根県加茂岩倉遺跡で発見されたものと同じ鋳型で鋳造されたものだそうです。

[7616] Re[7611][7610]: 黄金と百足 2  中森ハル [Url] 2006/07/18(Tue) 15:38 [Reply]
>名草山と言いますと、阿備の七原の湿地帯で水酸化鉄を採取したとされる真弓常忠さんの説が濃厚で、銅のことは始めて知りました。名草戸畔や紀氏の祖先は銅鐸や銅鏡を作っていたのかも知れませんね。

銅 鐸は和歌山市内の太田黒田遺跡から発掘されています。発掘場所はJR和歌山駅の近くです。今は宅地になっています。銅鐸の発見場所は現在、黒田公園とい う、とても銅鐸の発掘場所とは思えない小汚い公園に変貌しています。(この件に関しては今後、和歌山市にクレームを入れ、何とかするつもりです)名草山か らも新たな遺跡が発掘されたらしく、今、その資料を取り寄せ中です。名草や紀氏の祖先は銅鐸をつくっていたといって間違いないでしょう。

> 当地の「弥五郎」伝承と酷似しています。
> 秋の豊穣祭の頃「弥五郎祭」というのがあります。
> 兄弟が3人いたそうで、3箇所で別々に。
>
> そちらは祭りは無いのでしょうか。

名 草戸畔に関しては祭祀が伝承された明確な痕跡は今のところ見つかっていません。ただ、杉尾神社(おはらさん)には祭祀をとりおこなったのではないかと思わ れるスペース(空間)が階段の下のところに残っています。これについては調べてみる価値があると思います。名草山中腹(登山道の入り口)の高皇神社には 「三葛太鼓」というのが残っています。今は子供たちが演奏するためにゆっくりめのリズムだそうですが、昔は「勝負太鼓」といって、打つ速さを競ったそうで す。まだ何の証拠もつかめていませんが、これが名草の祭祀と関係しているのではないかとにらんでいます。

[7615] Re[7614][7611][7610]: 黄金と百足 2  nick [Url] 2006/07/17(Mon) 18:42 [Reply]
早速のレスありがとうございます。

> 弥五郎伝説の中に炭焼弥五郎なんてのはないのでしょうね。

それはちょっと見当たりませんが。。
国内より案外海外で有名に。
やはりスペインの巨大人形祭りに参加した影響でしょうか。

[7614] Re[7611][7610]: 黄金と百足 2  神奈備 2006/07/17(Mon) 18:32 [Reply]
大阪は朝から雨が降っており、晴耕雨読の読をやっています。
弥五郎さんは地域の酋長のようで、これは名草戸畔に通じます。同じような運命をたどったのでしょうね。
伝承が残っているのですが、お祭りはないようです。

弥五郎伝説の中に炭焼弥五郎なんてのはないのでしょうね。

[7613] Re[7612]: 土生神社のホームページ開設  神奈備 2006/07/17(Mon) 18:32 [Reply]
土生神社阪井健二様 お知らせありがとうございます。

だいぶ前になりますか、み熊野ネットに「熊野神社」になりそこなったかどうか、奇妙な投稿をしたことが思い出されます。あのときは応答ありがとうございました。
http://www.mikumano.net/zosaka/kisiwada.html

それにしても、大阪日日新聞。
忘れたらあかん!! −今、大阪に迫る災害−
http://www.nnn.co.jp/dainichi//kikaku/osksaigai/saigai050103.html
のように多方面でのご活躍、敬意を表します。

[7612] 土生神社のホームページ開設  阪井健二 [Url] 2006/07/17(Mon) 17:30 [Reply]
いつも興味深い情報をありがとうございます。またお世話になりましてありがとうございます。
まだ制作途中ながら、岸和田市土生町鎮座・土生神社のホームページを開設しましたのでご覧戴けましたら幸いです。
今後とも宜しくお願い申し上げます。

土生神社〜氏神様と氏子地域のホームページ〜
http://www.habujinja.net/

[7611] Re[7610]: 黄金と百足 2  nick [Url] 2006/07/17(Mon) 16:45 [Reply]
こんにちわ。暑いですね。
今日はどこにも出かけずページの更新を。
は、は、数年前の父とのイルカウオッチングをやっとアップです。

>  名草戸畔の頭が宇賀部神社、同体が杉尾神社、足が百草神社、それぞれの神社の起源となったと伝わっており、神武さんも鉱床を確保しながらの東征でったのでしょう。

当地の「弥五郎」伝承と酷似しています。
秋の豊穣祭の頃「弥五郎祭」というのがあります。
兄弟が3人いたそうで、3箇所で別々に。

そちらは祭りは無いのでしょうか。

詳細は、歴史探訪==>>弥五郎 をどうぞ。

[7610] 黄金と百足 2  神奈備 2006/07/17(Mon) 10:51 [Reply]
 神武さんの攻略した宇陀に宇賀神社が鎮座、血原と言う伝承の場所があります。兄宇迦斯が押しつぶされて血が流れたので血原となったと言いますが、丹の辰砂が露出していたのではと言われています。

 また話は上賀茂神社の摂社の杉尾社ですが、その杉は串、櫛、矢と連想をしますと、丹塗矢にたどり着きます。

 以上のお話も『黄金と百足』若尾五雄)に拠っていますが、百足から百草が思われ、紀伊国名草郡の百草神社は現在千種神社と名を変えています。

 名草戸畔の頭が宇賀部神社、同体が杉尾神社、足が百草神社、それぞれの神社の起源となったと伝わっており、神武さんも鉱床を確保しながらの東征でったのでしょう。

[7609] 黄金と百足 1  神奈備 2006/07/17(Mon) 10:50 [Reply]
 紀伊国の紀三井寺のある名草山の南側には毛見と云う場所があります。浜の宮が鎮座しています。名草山の西側の海岸を名草浦とか毛見浦と言っていたようです。カマドさんご推薦の『黄金と百足』若尾五雄著)には、この一帯に銅鉱脈が走っているそうです。

 余談ですが、毛見とは吉備のことだとか。金属のにおいでしょうか。

 名草山と言いますと、阿備の七原の湿地帯で水酸化鉄を採取したとされる真弓常忠さんの説が濃厚で、銅のことは始めて知りました。名草戸畔や紀氏の祖先は銅鐸や銅鏡を作っていたのかも知れませんね。

 鉱山師には炭焼五郎の伝説がつきまといますが、別子鉱山では炭焼友蔵伝説だったようで、これが炭友、今の住友の語源だと、上記の本に出ています。眉唾かもね。

 それにしても大相撲での露鵬の礼節に欠ける行為には唖然としました。

[7607] 八十嶋祭り 復活!!                MADOKA 2006/07/17(Mon) 02:34 [Reply]
>牛馬童子は松原右樹発見
ではなく、発信が正しいでしょう。昔は和歌山といえば、写真は橋杭岩にきまっていたようで。一般的に熊野古道も牛馬童子も知られていなかったのを発信し。熊野古道のシンボル牛馬童子のきっかけをつくられたのが松原右樹さんです。

古代難波津。最大の謎の祭りといえば八十嶋祭り!
天皇の即位式の翌年行われ。天皇が難波津でミソギをしなければ天皇になれなかった?ダイジョウ祭より古い祭り?新しい祭り?乳母や祭りともいい、女御?巫女のみが代参?諸説があり謎。
最後は確か高倉天皇?平家女御達でさぞやきらびやかでございましたでしょうなあ。。。。。

この八十嶋祭りが8月12日復活!!!
大阪で一番古い薪能 生国魂神社境内で行われる。大阪薪能が第50回記念に新作能『生国魂』
ーあらすじー
若狭国の歌人が和歌の故郷の難波大社生国魂神社に参詣して菅笠を売る女性に八十嶋祭りの由来を聞きました。当地に一夜を過ごすうち巫女達が現れ八十嶋祭りを執り行います
開演5時 一時間前開場 
『生国魂』上演は6時半頃。 火入れ式のあと。 この前に能『田村』狂言『因幡堂』 ラスト能『土蜘蛛』
前日11日は能『翁』狂言『伯母ケ酒』能『羽衣』『石橋』 ビギナーにもわかりやすい演目
当日巻¥3500 前売り巻¥3000 学生¥2000
問い合わせ 生国魂神社 06−6771−0002
人出が予想されるので開場時間に行った方が良い!
当地は有名なラブホテル街のど真ん中。夜空のネオンは見ないでね

ウガネットの発足当初のテーマは八十嶋祭りと古代難波津地図のビジュアル化でしたわ?!すっかり忘れてましたわ!あまりにあっちゃこっちゃ飛ぶんで!
日本一アバウトでワープの激しい研究会でしょう。。
神 奈備さんが熱心な出席メンバーの一人であることは謎でしたが?神奈備さんは境神に興味があることがわかって納得!このサイトの方にむくとはおもいませんが 御縁があれば。。日常では出会うことのない人物との遭遇。ナマ神奈備&神奈備秘技!カエルの目ん玉は拝めます。カエルの目ん玉とは?真面目モードと語調を 変えずに展開する本家青草家元芸でアール 必ず目がカエルのようにピカリと光る 突っ込むのが家元に対する礼儀(発見命名者は私)掲示版に乱入後。青草で は家元の細かい芸を見るにつけ。日本一のサイトをつくる人はこいう豆さがあるのねえと関心敬服。掲示版ではわかりにくいのか、あまりみなさん突っ込まれま せんが。。最近ぺギラさんが銅鐸の件で突っ込まれましたが。。ぺギラさん引っ掛かりましたね!あのワキの開け方は、家元芸&ぺギラさんを呼び出す呪 文!!!まあ私も呪文が出たので再登場ですが。。。わかりにくいキャラですが神奈備さんは確かに関西人でおます!
怖いものみたさでウガネットに興味のお持ちの方は神奈備さんにメールで問い合わせを。。掲示はトラブルの元なんで。。。M(。。)M




[7606] Re[7605][7555][7554][7552][7550][7549][7546]: My磐座  神奈備 2006/07/16(Sun) 18:06 [Reply]
浜崎 圭子 さん 、投稿しそこなったようですね。
落ち着いてやってみて下さい。
前回7605は消しておきますよ。

[7604] Re[7600][7599]: はやり神考  神奈備 2006/07/15(Sat) 12:12 [Reply]
 熊野古道も一時は蟻の熊野詣でと形容される程賑わった時期がありまし た。今も世界遺産指定で、賑わっており、はやり神との位置づけは当たらないようです。中辺路のシンボルとして牛馬童子像があります。箸折峠の付近に置かれ ています。これは明治中期に作成されたもののようです。

 この像は失われてしまい、山中でふ補陀落渡海の講演者であった松原右樹さんが発 見されたとMADOKAさんから聞いたように思います。像は牛と馬を並べて、その両方の背にまたがった子供のイメージです。17才で即位して2年で上皇に 祭り上げられた花山上皇の姿と言われています。
 それにしても奇妙な乗り方であり、尋常なお姿とは思えません。

 大阪にウガネットと言う浪速の古代史研究会があり、MADOKAさんは創立者のお一人ですが、このウガとは宇賀神のことで、体が白蛇姿の弁才天のことのようです。その眷属神に十五童子がおり、その十四番目が牛馬童子です。
 さて、熊野古道に突然、宇賀神の眷属神が現れると言う意味がもう一つよくわかりませんが、偶然に牛と馬を並べて背に乗る像ができるとは思いにくく、牛馬童子のイメージが先にあったのでしょう。

 蟻の熊野詣でも、真夏は空いているのかも知れませんね。

[7603] 愛知県の地名  PONTA 2006/07/14(Fri) 19:31 [Reply]
愛知県の地名(行政区分?)については
http://homepage3.nifty.com/hyuuga/aichi/aichi.htm
にまとめられているのですが、残念ながら、まだ平成の大合併後の更新がなされていません。

[7602] Re[7601][7600][7599]: はやり神考  PONTA 2006/07/14(Fri) 17:38 [Reply]
> http://www12.ocn.ne.jp/~mizutori/onnzomaturi1.htm

に「現在の鳳来町大野」とありましたが、鳳来町は新城市に吸収合併されましたので、「現在の新城市大野」です。

[7601] Re[7600][7599]: はやり神考  PONTA 2006/07/14(Fri) 17:26 [Reply]
>はやり神は時々現れますね。古い例では、皇極三年(644)の常世の虫。

常世虫は蚕の突然変異種という説がありますね。
上質の糸を吐くので、「すごい蚕が誕生した」と富士川周辺の人は喜んで踊ったのですが、「このままでは常世虫を飼っている者にトップの座を奪われる」と危惧した養蚕担当の秦氏が絶滅させたとする説です。

御 所や伊勢神宮に納める上質の絹糸は、三河産で、「赤引糸」「犬頭糸」と呼ばれています。「赤引糸」は新城市の大野神社に合祀された服部神社付近、「犬頭 糸」は豊川市の犬頭神社・服織神社・わくぐり神社付近の産で、他の絹糸より白かたそうです。(「赤引糸」の産地には蒲郡市の赤日子神社付近説、「犬頭糸」 の産地には、岡崎市の糟目犬頭神社付近説、安城市の藤野郷説(岡崎市大和町の白鳥神社付近)もあります。)

http://www12.ocn.ne.jp/~mizutori/onnzomaturi1.htm

[7600] Re[7599]: はやり神考  神奈備 2006/07/14(Fri) 16:39 [Reply]
PONTAさん、面白いお話ありがとうございます。御鍬社と言う痕跡を残したのですね。

 はやり神は時々現れますね。古い例では、皇極三年(644)の常世の虫。

 秋七月に、東の国の不盡河の辺の人大生部多、蟲祭ることを村里の人に勧めて曰く、「此は常世の神なり。此の神を祭る者は、富と寿とを致す」と言う。

 神仙信仰の典型に見えます。結局、大生部多は秦河勝に打たれてしまい、終焉します。
この時の歌。
 太秦は 神とも神と 聞こえ来る 常世の神を  打ち懲(きた)ますも


 関西では、設楽神が九州から摂津経由で京にやってきました。天慶八年(945)、長和元年(1012)と二度。最初は石清水八幡へ、二度目は船岡山に祀られたとか。現在は残っていないようです。

 設楽神の童謡に「志多良打てと神は宣まふ」とあるそうです。「打て」という所は意味が違いますが、何となく民衆の歌はちょっと似ている感じですね。


[7599] ええじゃないか記念日  PONTA 2006/07/14(Fri) 01:37 [Reply]
三河の神社を訪ねると、境内社に御鍬社があることが多いです。
どうも、1866(慶応2)年の御鍬祭百年祭が異常に盛り上がって、各神社が次々と勧請したらしいです。この御鍬祭百年祭の農民乱舞が、翌年の「ええじゃないか」という大衆乱舞につながったとする説があります。

実 際の「ええじゃないか」は、「慶応3年(1867年)7月14日、三河国渥美郡牟呂村(現豊橋市)において伊勢神宮の外宮のお札が降っている」のが見つ かったのが始まりとされ、今年市制100周年の豊橋市の働きかけもあって、7/14が「ええじゃないか記念日」になったそうです。*「」内は下記サイトか らの引用

http://www.eejanaika.com/

*「ええじゃないか」の起源については、紹介したもの以外の説もあります。

[7598] Re[7594][7593][7592][7590]: 補陀落渡海を目指した人々  神奈備 2006/07/13(Thu) 10:37 [Reply]
> だから級長戸邊命は級長津彦命とも言われる、と言う言い逃れは如何。
その通〜り!。

丹敷戸畔には、丹敷戸畔命と刻まれた石祠があります。
http://kamnavi.jp/ny/natihama.htm

朱の神も有用
丹生都比売命になる。


名草戸畔には名草戸畔命とでも彫った石祠は無いようです。
地域の支配者としたら、有用さはない。
名草姫として祀られたのが名草戸畔かどうか定かではありません。そうあってほしいと言う所。

[7597] Re[7595]: 無題  大三元 2006/07/12(Wed) 17:19 [Reply]
> 級長津彦(しなつひこ)級長戸邊(しなとべ)
> 並列的に祀られる。別神格ではないか?

書紀では「亦曰」とある。並列か?

> 名草戸畔
> トベには明確に女性であることが含まれる。

上の「・・彦 亦曰 戸邊」があるので女性とすることを見直しているものである。

> その辺(トベ)を加えて整理しないと『外・人』は無理である
> 思いつきは勝手だが、せめて戸邊と津彦の対応をみて
> トはツ、ベはメの音韻変化『〜の女』の意、程度のことを言って欲しい。

そこら辺は判った上でやっていることです。
http://www.dai3gen.net/tobe.htm

[7596] Re[7589][7568][7567]: 海洋民⊃隼人?  nick [Url] 2006/07/12(Wed) 12:11 [Reply]
恋川亭 さん、こんにちわ。
雨の影響は如何ですか。

> 「隼人」といえば、やはり鹿児島県中央部の「陸の人」のイメージが強いのです。これって近世に醸しだされた印象なのでしょうね。

やはり、当地に「国指定史跡公園:隼人塚」と720年前後の抗戦跡が多数
散見される為ではないでしょうか。
私は薩摩方面は疎いです、
「海洋の民:隼人」は、やはり「阿多」====>>薩摩方面との認識が
あります。

しかし大規模な遺跡(墳墓)は案外大隅に多いんですね。
これからのネタには格好の、。笑。
今後の課題です。

週末は、中村先生にお会いできればと思っています。
(先月は空振り、私が期日を間違って一週早く会場へ)

[7595] 無題  海老人 2006/07/12(Wed) 11:19 [Reply]
今までROMだったが、トベ説に疑問
級長津彦(しなつひこ)級長戸邊(しなとべ)
並列的に祀られる。別神格ではないか?
名草戸畔
トベには明確に女性であることが含まれる。
その辺(トベ)を加えて整理しないと『外・人』は無理である
思いつきは勝手だが、せめて戸邊と津彦の対応をみて
トはツ、ベはメの音韻変化『〜の女』の意、程度のことを言って欲しい。

[7594] Re[7593][7592][7590]: 補陀落渡海を目指した人々  大三元 2006/07/11(Tue) 22:03 [Reply]
神奈備さん、
> 日本武尊の伊吹行き、弟橘姫の生け贄、このあたりとの類似はどうなのかですね。

ヤマトタケル:伊吹山では刀剣を置き忘れるモチーフは北方神話と共通のように見えますが、どうも陸上で亡くなる、というのが相違点のように思われます。

弟橘姫の生け贄:入水する、というモチーフは共通のようですが、北方神話では、シャチ(またはそれに類する海洋動物)になるとか、シャチに関連した何かがある、というので、荒海を鎮める弟橘姫のケースとは違うように思われます。

> > 翻訳 Natsilane(ナチレーン)

> まさか、那智?

まさか。

> > 名草トベ達が神武勢による「外・人」「外・っぺ」「とべ」という他称、というのは如何だろう。

> 面白い見方ですね。級長戸邊命なんかは外神だが、有用だったということ?

鋭いご指摘。。。
だから級長戸邊命は級長津彦命とも言われる、と言う言い逃れは如何。

[7593] Re[7592][7590]: 補陀落渡海を目指した人々  神奈備 2006/07/11(Tue) 19:49 [Reply]
> 刀剣を陸に置き忘れる

日本武尊の伊吹行き、弟橘姫の生け贄、このあたりとの類似はどうなのかですね。

> 翻訳 Natsilane(ナチレーン)

まさか、那智?

> 名草トベ達が神武勢による「外・人」「外・っぺ」「とべ」という他称、というのは如何だろう。

面白い見方ですね。級長戸邊命なんかは外神だが、有用だったということ?

[7592] Re[7590]: 補陀落渡海を目指した人々  大三元 2006/07/11(Tue) 08:56 [Reply]
>  神武紀 兄の稲飯命は劔を抜いて海に入り、鋤持神となる。三毛入野命は浪の穂を踏んで常世郷に行く。松原「これらは人身御供、生贄と見るべき。」
>      熊野の荒坂の津に上陸、丹敷戸畔を誅された。

萩原眞子(おぎはら・しんこ)著『北方諸民族の世界観』(草風館)に似たようなモチーフの伝承があることを見つけました。
http://www.dai3gen.net/shachi.htm
シャチ(わに、さめ)絡みの伝承は環日本海、環太平洋規模に広がっているようで、広い視点で考察するのがふさわしいと思っています。

「戸畔」について最近気がついたことを下記に追記しています。
http://www.dai3gen.net/tobe.htm
即ち、be は「〜の人、〜する人」という接尾辞のようだ。「とひと」という古語がある。「外・人」と考えられる。つまり「とひと」と「とべ」は同義であり得る。つまり「戸畔」とは、(多分)神武勢から見た「外人」という他称ではないか、と。

[7591] Re[7585][7582][7581][7578]: アジス貴船神社  神奈備 2006/07/11(Tue) 08:49 [Reply]
> 吸葛社のご祭神は「阿遅須岐高彦根命だが、別の説としては御百太夫ともされる」ということでしょうね。

吸葛 → きゅうくず → くぐつ → 傀儡 → 百太夫

[7590] 補陀落渡海を目指した人々  神奈備 2006/07/10(Mon) 20:05 [Reply]
講演会の報告 7月9日
題:補陀落渡海を目指した人々 松原右樹氏

1.熊野と言う地
  折口信夫 熊野の大王ヶ崎に立った時、遙かな海路の果てに、わが魂のふるさとのある気がする。遠い祖先の郷愁の思いの間歇遺伝の思い。

 柳田国男 海上の道があった。椰子の実。

 古事記 少名彦名は常世の国にとばされていった。

 日本書紀 少彦名命は熊野の御崎から、常世の国に行った。

 神武紀 兄の稲飯命は劔を抜いて海に入り、鋤持神となる。三毛入野命は浪の穂を踏んで常世郷に行く。松原「これらは人身御供、生贄と見るべき。」
     熊野の荒坂の津に上陸、丹敷戸畔を誅された。

2.熊野、浜の宮王子
 那智川が丹敷浦に流れ入る場所、川と岸とで辻が出来る。異界となる。補陀落渡海の出発地である。また那智への入り口としての鳥居の役割もある。
 ここは熊野三所大神社で丹敷戸畔の祠、三狐神の祠が並んでいる。三狐神はえたいの知れない神。

3.四天王寺からも補陀落渡海が行われた。西門の鳥居から夕陽の落ちる海へ行く。四天王寺には物部守屋祠がある。守屋の部下の半分を奴卑とした。

4.補陀落渡海とはブームではなく、歴史的に継続して行われ続けた。これには深い意味がある。彼らは生贄として、那智では丹敷戸畔、四天王寺では物部守屋の霊へ捧げられる意味があった。
 新たに天降りして来た連中は、滅ぼした者を祀り、その前に生贄を捧げたのが補陀落渡海であったと言う観点を持つことが必要。

[7589] Re[7568][7567]: 海洋民⊃隼人?  恋川亭 2006/07/09(Sun) 22:59 [Reply]
nickさん、さっそくのご紹介を頂きまして有り難うございます。
私のほうが週一程度のアクセス・ペースですので、レスが遅くなりました。
中村先生のご著書、あたってみます。
 我が家は父母両系ともに北薩漁労民の純血種(笑)なのですが、ぜ〜んぜん自覚がなくて。
「隼人」といえば、やはり鹿児島県中央部の「陸の人」のイメージが強いのです。これって近世に醸しだされた印象なのでしょうね。

[7588] Re[7587][7584][7579][7572][7567]: 海洋民≠氏族は  nick [Url] 2006/07/09(Sun) 16:44 [Reply]
PONTAさん、早速のレスありがとうございます。
私はほとんど知りませんでした。
一応高校時代は「郷土史クラブ」でしたが。。
何をしていたのでしょうか。
「廃仏毀釈」にしろ「神仏習合」にしろ
帰郷して寺社探訪を始めてからの知識です。
このサイトからは多くの情報を頂き感謝しています。

さて、卑弥呼論ですが、

「大分歴史辞典」:和気清麻呂 ( わけのきよまろ)
の頁によると

http://www.e-obs.com/rekisi/rekisi.htm

もともと宇佐の神は、古い土豪であった宇佐公の信仰する
比 神(ひめがみ) が、後に豊前北部に勢力をはった帰化人の
秦(はた)氏 のもとにある辛嶋勝氏の信仰する
八幡神 におされ、合祠されたものである。


この比 神が「天照大神」や「卑弥呼」説を推論される方々が
居られます。

そこで、どのようなことなのかと今年に入り「宇佐託宣」や「宇佐神宮史」を
一通り閲覧はしましたが、どうも推論の域を出ません。

どちらかと云うと「卑弥呼=天照大神」の方が論理的で
軍配が上がりそうです。
すなわち九州説(宇佐地方)

http://www.inoues.net/nyumon/wa11.html

これ等も今後遺物等が出土すれば確証がとれるかもしれません。

しかし、これ等の事項が宇佐の史資料等に散見されないのは
当時の治権者の意向が大きく働いているからでしょうか?

[7587] Re[7584][7579][7572][7567]: 海洋民≠氏族は  PONTA 2006/07/09(Sun) 10:22 [Reply]
> 「熊襲」に至っては九州全域に伝承や地名が散見されます。
> この辺りもちかじか整理してアップ予定です。

期待してます。
九州の歴史ってよく分からないので。

先輩によると、
北 九州には先進諸国があり、連合国家に発展した。連合の中心は山門(やまと)にあった邪馬台(やまと)国である。ところが、出雲のスサノオに攻められて南下 し熊本の平野部へ逃げる。さらに攻められて、平野部で戦ってはダメだと、山間部の高千穂へ。ところがその山奥にもスサノオがやって来たので、宮崎へ逃げ る。そしてそこで卑弥呼(天照大神)はスサノオと結ばれ、その子孫が阿多隼人の娘と結婚することにより力を増し、奈良を目指す。
です。スサノオと 天照大神が姉弟ではなく、夫婦だってことにはある程度賛成なのですが、この先輩の話(説)では、国東半島とか宇佐が出てこないので、私的にはしっくりきま せん。私が興味あるのは、台与=神功皇后説です。この説だと宇佐神宮の位置づけが出来るので。宇佐神宮が「道鏡(物部氏?)を天皇にしろ」と言ったという 話にも興味あります。伊勢神宮が言ったなら「ああ、そうか」で終わりなんですけどね。

[7586] Re[7581][7578]: アジスキタカヒコネ  PONTA 2006/07/09(Sun) 09:54 [Reply]
>元来アチは芦の古語であって、アチスキ(阿式)はアシ村であり、平地の神に思える。

なるほど。
愛 知県の渥美(あつみ)半島(「あつみ」の語源は「安曇」)の田原市芦町に式内・阿志神社があります。今は芦ヶ池(広くて、「池」というより「湖」)から少 し離れた位置に再建されていますが、昔は湖畔にあったそうです。祭神は不明で、研究者によれば阿智使主(於美阿志神社の祭神)だそうです。阿志神社と於美 阿志神社は社名が似ているというのが最大の根拠です。PONTA的には「阿志」は植物の「芦」であって、阿智使主ではないと思うのですが。
この地に賀茂氏がいたとすると、祭神は阿治須岐託彦根の可能性もあるかもしれませんね。(その可能性はとても低いですけど。)

[7585] Re[7582][7581][7578]: アジス貴船神社  PONTA 2006/07/09(Sun) 09:32 [Reply]
> 阿遅須岐高彦根命=御百太夫 とも読めますし、
> 祭神が阿遅須岐高彦根命だが、別の説としては御百太夫ともされる、

なるほど。
吸葛社のご祭神は「阿遅須岐高彦根命だが、別の説としては御百太夫ともされる」ということでしょうね。
阿遅須岐高彦根命と御百太夫は関係ないでしょう。
御百太夫と関係あるのは西宮の戎ですね。西宮神社の戎はイザナギ・イザナミの子の蛭児ですが、戎を祀る神社には、大国主の子の一言主命(事代主神)を祭神(戎)とする神社もありますね。

http://www.decca-japan.com/nishinomiya_ebisu/index.html

[7584] Re[7579][7572][7567]: 海洋民≠氏族は  nick [Url] 2006/07/09(Sun) 09:30 [Reply]
PONTAさんおはようございます。
寺社の造詣の深さにはいつも感嘆しております。

管理人さんのご厚意でこのところの「隼人」だけでは場が持たないので
最古参にご登場頂いて肩の荷が下りました。笑。

> PS.「蝦夷=東北の人、熊襲=熊本の人、隼人=薩摩の人」ではおおざっぱすぎるかな。

非常におおざっぱですね。笑。
ま、学識者でも喧々囂々ですから致仕方無い。

参考ながら、
隼人抗戦時の「七隈の城」(宇佐託宣)は全て当地の近在にあります。
また、大隈隼人、阿多隼人と明記してありますから、やはり現在の鹿児島一帯と
宮崎、熊本にかけてのゾーンでご活躍を。

「熊襲」に至っては九州全域に伝承や地名が散見されます。
この辺りもちかじか整理してアップ予定です。

[7583] 土佐神社  PONTA 2006/07/09(Sun) 09:17 [Reply]
土佐神社についてはは、三種の神器を研究したときに、「土佐から神剣が来た」ことが気になったくらいかな。PONTAではまだ未研究の神社です。

『日 本書紀』の天武天皇四年(675年)三月二日の条に、「土左の大神、神刀一口を以て、天皇に進む」とあり、また朱鳥元年(686年)の八月十三日の条に 「泰忌寸石勝を使わして、幣を土左大神に奉る」とあり、祭神は土左大神となっているが『土佐国風土記』によれば「土左の高賀茂の大社あり、其の神の名を一 言主尊と為す。其れのみは詳かならず」云々とあり、時代の変遷なども加味して祭神の変化も見られ、現在では祭神は一言主神と味鋤高彦根神としている。古来 文献に依拠すれば、大和の賀茂氏かまたは、その同族が土佐の国造に任ぜられたことにより、当地に祀られたものと伝えられている。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E4%BD%90%E7%A5%9E%E7%A4%BE

[7582] Re[7581][7578]: アジス貴船神社  神奈備 2006/07/09(Sun) 08:11 [Reply]
PONTAさん、妖さん、おはようございます。
写真掲示板に説明部分をアップしましたが、
阿遅須岐高彦根命=御百太夫 とも読めますし、
祭神が阿遅須岐高彦根命だが、別の説としては御百太夫ともされる、
との理解ができるのかな。
この文面では普通は = ですよね。

ご参考に
鴨の神々−土佐から来た神は−
http://kamnavi.jp/as/katuragi/kamotable.htm

[7581] Re[7578]: アジスキタカヒコネ   2006/07/08(Sat) 22:26 [Reply]
神奈備さま、

> 一体、味耜高彦根命って、どのような神様なんでしょうかね。
葛城の高鴨神社の祭神は、阿治須岐託彦根命です。
そして、直ぐ傍に一言主命神社がありますが、この関わりについて横田健一氏が「神のささやき」という神社分析の論文の中で、志賀剛博士の説として紹介されている面白い話がありましたので、書いてみます。

雄略が、葛城山で会った一言主命を、土佐に流したという話に関してです。  
土佐には「土佐大神」を祀る神社があり、神社名は「土佐高賀茂大社」と言って、一言主命を祭神としています。  また、祭神を、「一言主命、またの名を味鋤高彦根尊とも言う」と書いてあります。

しかし、味鋤高彦根ではありえないのではないか。
何故なら、大王家の守護を目的として、大物主、事代主、賀夜奈流美命と共に阿遅須伎高孫根命も飛鳥に祭られているわけですから、もし土佐に流してしまうようなことになれば、帝都や天皇を守ることはできません。

も ともと、高鴨神社には地元の神として一言主が祀られていて、それを雄略が土佐へ流したのではないか。  そして、空いた座に、出雲から阿遅須岐神が勧請せ られ、、葛城山中腹の高宮に祀られていた高彦根神社から、高彦根命を移座して、二神合体の形、阿遅須岐高彦根命としたのではないか、と言うのが志賀博士の 説です。

私も、なるほど、出雲からの神だけでは葛城の住民の信仰を集め続けていくことにはならなかっただろうと思いました。  合体した形であれば、地元も納得したでしょうからね。


一言主は称徳天皇の時代に、和魂を土佐に残して葛城の地に戻されましたが、その時、高鴨神社には復帰できず、別に一言主神社を建てたのではないだろうかとも、書いてありました。

出 雲の神名帳には、阿須岐神社や阿遅須岐神社が出てきて、これらの神は出雲大社の東の阿式村というところに祭られているそうです。  ところが、この付近の 山は低くて高彦根命という名称には結びつかないので、これは金剛山の高宮の神ではないか、また、元来アチは芦の古語であって、アチスキ(阿式)はアシ村で あり、平地の神に思える。
一方高彦根は高地の神であったろうとのことでした。


以上、志賀剛博士の説のご紹介でした。

雄略から称徳天皇までの間は200年あまりの年月が横たわり、賀茂氏が祖先の祀った神を土佐から奏遷したわけですが、既に細かい記憶が失われていたのでしょうか。
帰遷したあと、一言主は高鴨社に祀られたわけではないのに、高鴨社も土佐大神も同じように柵封を受けていますので、これはまったくアジスキタカネヒコとして帰遷したように見えます。


[7580] Re[7578]: 貴船神社  PONTA 2006/07/08(Sat) 18:40 [Reply]
>日本二雨の神
何でしょうね?
「日光二荒の神」(日光二荒山神社の祭神)なら分かりますが。

>百太夫
道祖神のことですから、猿田彦神?
あるいは、傀儡師の祖にして守護神
どちらも味耜高彦根命とは無関係ですね。

[7579] Re[7572][7567]: 海洋民≠氏族は  PONTA 2006/07/08(Sat) 18:03 [Reply]
> > 何をもって、海洋「民」というのか海人「族」というのか、という悩みもありますが・・・。
> 漁業?航海?
> 海人族でない氏族とは? 蘇我氏、多氏??

↓によると、原日本人は山祇族(中臣連や大伴連・久米直・紀伊国造など)で、そこに海神(綿積)族(阿曇連や和珥臣、尾張連、三輪君など)が加わった。
「なお、古代の蝦夷・熊襲・隼人などは、弥生文化を拒絶して辺地に居住した部族のようであり、古来からの山祇系の色彩が強い」のだそうです。

http://shushen.hp.infoseek.co.jp/kodaisi/joukosi-nagare.htm

PS.「蝦夷=東北の人、熊襲=熊本の人、隼人=薩摩の人」ではおおざっぱすぎるかな。

[7578] 貴船神社  神奈備 2006/07/07(Fri) 19:31 [Reply]
 今日は七夕ですが、京の奥座敷の貴船神社では水祭が催されました。久しぶりに貴船の奥宮まで行き、再発見したことがありました。
http://kamnavi.jp/yamasiro/kifune.htm

吸葛社の言う摂社が船形石の側に鎮座、祭神は味耜高彦根命。その説明に、「大国主命の子、鴨大神との称す。日本二雨の神、御百太夫とも伝える。」とありました。

大国主命の子   古事記にあります。
鴨大神との称す  古事記に迦毛大神とあります。
日本二雨の神   これがよくわかりません。タカオカミの神とかミズハメノの神とかが有名ですが、味耜高彦根命と雨とはつながりにくい所。
百太夫  傀儡子を思い出します。また猿田彦さんとか。

一体、味耜高彦根命って、どのような神様なんでしょうかね。

[7577] 五島列島と隼人  nick [Url] 2006/07/06(Thu) 12:49 [Reply]
以前、壱岐対馬と隼人の繋がりのレスを入れましたが
実は縄文時代から交流があったのです。

「頭ケ島白浜遺跡」や「下崎山白浜貝塚」から
鹿児島特有の縄文土器が多数出土しています。

並木式、阿高式、出水式、黒川式、市来式、、等。

このことから縄文人が黒潮に乗って五島列島辺りまで
渡航していたことが判明しました。

また、同じように四国辺りでも出土しているようです。

詳細はこちらをどうぞ。

縄文の森
http://www.jomon-no-mori.jp/no17.htm

http://www.jomon-no-mori.jp/no15.htm



[7576] 無題  ガジマル 2006/07/04(Tue) 11:37 [Reply]
投稿後考えたことから書き込みます。返事すべき事は後回し。
ハヤはワヤではないかという視点を保留。
八 幡をハチマン、ヤハタと読んでいますが、おそらくハチマンは音読みだろうと大方の人は考えている。マンは和音であることはマンノセ川、マンノ瀬戸という音 が鹿児島にある。八はヤの古形はダです。イタムはイダム、ダがヤとタに分かれたことは沖縄方言でよくわかる。イダムのイがとれヤムンとなる。ダマトゥがヤ マトゥです。与那国ではおそらくダチかダツが八です。ダチマンからヤチマン、ハチマン「中国の八にも音が近いので」になった。豊満神社も当て字の漢字がう まく収まった例として考えたほうがいい。豊かな響きには中国も日本もない
フーとマンですから豊かな感じのする音です。ただし緩慢のマンが音として中国の人にもめでたい印象をあたえるのかわからない。シャングリラという響きが不吉を呼ぶ音としては解されないという程度の共通音はモンゴロイドないしは人類にあるのではないか?

アマミはアマンであって古代「ン」の音を文字化するか無視するかした経緯がある。「ン」は拗音と同じく各自かってな読み方をしたらしい。古代ヒラガナ表音はルールであって韓国のような表音文字ではないことがわかる。
ワダツミのワダを韓国のパダの変化として捉えているが、海と山
でヤマは和語でパダが源韓国語とするのはおかしい。ヤマツミのヤマも韓国「ムロ?」にあるのなら納得ができます。
奄美方言辞典よりコピー ワタガナシ
海の神さま。[『南雑』や『琉球神道記』に記事があるが、地面につくほど大きな性器を持った神とある。海の彼方から現れる先祖神や、船神とは全く別な存在。]

後半の解説はいらない。ただワタが直接海を意味する音ではないことを確認したらいいのではないか?
ウン、イン、トゥモール、ウミが海。
しいてワダツを理解すると関西か四国か知らないがワヤするという言葉がある。ワヤク、沖縄方言でワチャク ワタク、ワダクとしたら海の神が叱る存在になる。おちょくると解くと悪戯好きな
キジムナーにもなる。玉城「タマグスク」のナーワンダーのワダがそれっぽい。
しかし辞典を引くとこんなことになる。ワダクに遡らない?
わやく
(形動)(「おうわく(枉惑)」の変化)道理に合わないこと。
漢語にスル動詞がついた?これこそワチャクじゃないか?
DがTになり拗音化がワチャク、DはYにも変化するからワヤク

「わだ」ではどうか?轍と言うように曲がるという意味がある。
ねじ曲がる、渦巻いている海の神になるがどうか?海に渦巻いているものが沖縄でいうキンマムンで最高神です。

綱引きが何故海「水」の神とつながるのか?
以下はコピー。
カ ンボジアにはアンコールワットという寺院遺跡が知られている。この寺院の回廊の壁面に、神々と阿修羅が綱引きをしているレリーフが残っている。その綱引き の中央にいるのが、ヒンドゥー教の神の一つであるウィシュヌという水の神である。ウィシュヌ神の妻はスリーといい、この神はインドネシアのバリ島では、稲 の神として水田の一角に奉られ、大切にされている。いずれも稲作と綱引きとの関係の深さを示唆しているように思える。

[7575] ハヤの周辺1?  大三元 2006/07/04(Tue) 10:06 [Reply]
ハヤ(速) を考えるには ハエ(蠅、葉江、八重)も視野に入れるのだろうと思っています。

弟磯城 名 黒速を 磯城縣主とする(神武紀)
磯城縣主 葉江 の女(娘)川津媛(安寧紀) から
「速」と「葉江」が同語であろう、と推定します。

「波延(古事記の場合のハエの表記、=葉江)」の曾孫に「蠅いろね・蠅いろど」姉妹。ここから「葉江(波延)」と「蠅」も同語で発音の揺れ、と理解します。

神 武、綏靖、安寧の皇妃の父に関して「事代主」とする日本書紀本文、磯城縣主(葉江)の娘とする一書(古事記も同様)がある:また、「事代主」は「都味歯八 重事代主神」(『先代旧事本紀』)とも呼ばれている。これから、ここの「八重」は「葉江」に通じているのではないか、と考える(大国主系譜でも配偶者の系 統の名前を貰っている事例がある。)

(事と次第によって「つづく」)

[7574] Re[7572][7567]: 海洋民≠氏族は  nick [Url] 2006/07/03(Mon) 16:55 [Reply]
> > 何をもって、海洋「民」というのか海人「族」というのか、という悩みもありますが・・・。
>
> 漁業?航海?
> 海人族でない氏族とは? 蘇我氏、多氏??

石器時代から南西諸島や琉球と鹿児島は交流があったようです。
それが古墳時代は黒潮に乗って本州や四国へ拡大した。

現在のところ、このゾーンが遺跡では最古ですから、
『日本人のルーツ』?
1町村で最低でも片手はあります。
そして「徐福」の文化が吸収され。。。なんて。

詳細は、前出の「上野原縄文遺跡」を。

これ等の発見も平成に入ってからの「高速道路や新幹線」や
テクノパーク構想のおかげ。笑。
これが無かったら、今頃は大赤字ですから叩かれていたことでしょう。

高校生の頃は『縄文』なんて想像すらしなかった。
だから上京して真っ先に「大森貝塚」や「登呂遺跡」へ出かけました。

[7573] Re[7571]: 無題  nick [Url] 2006/07/03(Mon) 14:39 [Reply]
こんにちわ。

>ハヤトのハヤの意味は?タケハヤスサノオのハヤ?

私が閲覧した史資料では、未だ意味までは。
只、古事記に当初から

火照命此者隼人阿多君之祖

とあります。

『隼人』とか『阿多』にどのような意味があるのか

書籍を読んでいると諸説あるようですが
当地では
「隼風(はやち)」からだと唱える方もおられますが。
祭神は「ヤマトタケル尊」ですから、どうでしょうか?

>稲としてはシラス台地では水田稲作よりも
陸稲の普及が古くからあった。

そのように想像はできますが、
論じるまでの確証を得ていません。
以前もここの掲示板にポストしたような記憶があります。

史資料の図田帳や国税帳等を閲覧して整理中です。
尚、私が入手閲覧出切る図書は、大半が「江戸時代」
それ以前は、やはり専門の先生方で無いと難しいです。

>この主食陸稲、あるいは小芋が先住民のハヤト、クマソではないか?土器としては市来式土器の担い手じゃないか?

これに関しては、閲覧している史資料の数が少ないので
統計をとって精査するに至っていません。
江戸時代初期は、ご指摘のような穀物が散見はされますが。
享保・天明の大飢饉で全国的な飢餓が襲った時も、
当地はこの甘薯(さつまいも)で飢えを凌いで
餓死者が少なかったとあります。

享保 17 1732 災害 西国飢餓 甘薯で飢餓者無し

>旧暦8月15日の綱引きも古代のハヤトの伝統じゃないか?

秋の十五夜と云えば「この綱引きと相撲」でした。
幼い頃は待ち遠しかった。もちろん団子やお菓子もですよ笑。

だから全国的に同じ行事をするのかと思っていましたが
そうではないようですね。
最近知りました。笑。

私の知識はこの程度ですが、
現在、史資料を精査中です。
適時掲載して行きますのでお暇な時にどうぞ。

メニュー>>歴史探訪

余りお役には立ちませんが。


[7572] Re[7567]: 海洋民≠氏族は  神奈備 2006/07/03(Mon) 11:43 [Reply]
> 何をもって、海洋「民」というのか海人「族」というのか、という悩みもありますが・・・。

漁業?航海?
海人族でない氏族とは? 蘇我氏、多氏??

[7571] 無題  ガジマル 2006/07/03(Mon) 11:40 [Reply]
基本的なことから確認させてください。
ハヤトのハヤの意味は?タケハヤスサノオのハヤ?
稲としてはシラス台地では水田稲作よりも陸稲の普及が古くからあった。この主食陸稲、あるいは小芋が先住民のハヤト、クマソではないか?土器としては市来式土器の担い手じゃないか?
旧暦8月15日の綱引きも古代のハヤトの伝統じゃないか?
この程度しかわかりません。訂正、加筆をどなたかお願いしたい

[7570] 海洋民隼人  とみた 2006/07/03(Mon) 10:48 [Reply]
nickさん 隼人の研鑽、ご先祖も大いに喜ばれているでしょう。

昨日はアイヌ資料館を立ち上げられた萱野茂さんの苦労話をNHK教育番組で知りました。言葉や祭具や民話を残すのは並大抵ではありません。戦前の日本のアイヌ侵略に強い反感を持っておられました。多分古代、隼人も大和に懐柔されて民族の誇りを失ったのでしょうね。

祖霊にもっと光を、頑張ってください。

私なりに隼人の謎を多面的に追っかけています。まだ脈略が捉えられません
@神話における立場・・・海の幸・山の幸で屈した海の幸が隼人といわれています。
A隼人とは何か 隼人と熊襲は一致するかどうか
B隼人と蝦夷
C隼人の根拠地は
D隼人のルーツ
E隼人の生業
F隼人の活躍した時代
G隼人と他の海族〔宗像、住吉、安曇など)とのつながり

などに整理して論ずるのも良いかなと考えています。
Eについて沖縄のゴホウラ貝、イモ貝の運搬人という考えは沖縄の那覇の図書館で見た本と、森浩一さんの本から知りました。

ゴホウラ貝の分布については、福岡市金隈遺跡の展示室にありました。
北九州が圧倒的に多く瀬戸内に2箇所?ぐらいありました。別の資料では福島県郡山市大安場古墳でもイモガイ?らしき腕輪が出ています(4世紀半ば?大和朝廷殻の下賜品?)

Dについてすでに少しお知らせしましたがも少し補強させていただきます。
早大の名誉教授、古賀登先生の長江と隼人族の関係を、参考にしました。

長江の上流は南は金沙江、北は四川省岷江が支流です。岷山の南麓を流れています。ここは蜀の国で、紀元前から鵜飼が行われていた。

鵜飼漁の方法は鵜でなくヤナ=巴簍を使うとも考えられます。

巴蜀の巴つまり長江中流の現在の重慶あたりに鵜飼は関係がある。簍は竹冠だし籠を連想します。

nickさんご案内の鹿児島湾に浮かぶ隼人所縁の「竹の駕籠船」を思い浮かべました。

(昨夜のNHK世界遺産=楽山大仏で明確に述べていました。これが弥生時代に日本へ稲作と共に鵜飼も来た)楽山は岷江の岩に掘られた世界最大の摩崖仏です。

秦始皇帝は岷江を二分して成都に軍事物資を水運で運び難敵、楚を滅ぼしました。蜀国は、それ以前の三星堆を都として紀元前1500年ごろの王に柏灌=河鵜という名の王様がいました。是も鵜飼が遠い昔からのこの地の生業であることを示唆しています。

このあたりは3世紀まで道教の本場です。楚が秦に破れる前は長江中流域を支配していましたが紀元前334年に長江下流の江南の越を滅ぼします。

是によって、楚国は江南まで支配していました。

鵜飼の民は長江の上流だけでなく下流域にも来ていたでしょう。

魏呉蜀三国時代には五とう米道という道教が流行ります。是の江南の民が日本へ流れてきたのではと考えています。

五島列島あたりが隼人の基地ではないでしょうか。

当然阿多や大隅にも基地を広げます。

塩土爺のアドバイスで東征した神武軍が着いた吉野川にも阿多〔阿太)という入植地がありこの鵜飼民が神武を宇陀で援けます。

司馬遼太郎のビン越(中国福建省)の道によればビン越には百越といって南方民族のいろいろな越人が居り、隼人もその一つとも考えています。

前漢武帝の前まではビン越からベトナム南部も含めて南越という独立国がありました。

紀 元前後は越は中原の漢人の国からかなり独立していたのではという見方をされていますが、2002年に里耶古城から36000枚の秦代の簡トク(木の札)の 大発見があり、そこには、湖南省まで秦軍が入ってきて、土家(トーチャ)や苗族が奥に逃げたという記事があるそうです。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
熊襲=球磨〔熊本県南〕+曽於(大隅)と考えています。

nickさんが680年以降には熊襲が消えて隼人が出てくる(逆かもね)?

蝦夷の本を通読して、隼人の内民化と蝦夷の内民化が併行して行われていたのではと疑念を持ち始めています。680年ごろには蝦夷征討で、出羽や陸奥や渡島の蝦夷を懐柔し、朝廷に服した蝦夷も増えています。

隼人研究には地元の地道な研究と、アジア、日本の情勢の両輪で考察する必要を感じております。

推測の域を出ませんので、邪推も多かろうと思います。ご勘弁ください。

[7569] Re[7568][7567]: 海洋民⊃隼人?  nick [Url] 2006/07/03(Mon) 10:05 [Reply]
当初は手探り状態でしたから
私も大三元さんのサイトからご教示頂きました。

http://www.dai3gen.net/

目次>>風土記・先代旧事本紀・絡み>>●隼人の情報

ここにリストアップされている史資料から乱読して
地名や字、姓氏、石高や生産品目録等、必要に応じて
他に史資料を参照しています。

この春からそれらを適時掲載しています。

[7568] Re[7567]: 海洋民⊃隼人?  nick [Url] 2006/07/03(Mon) 08:56 [Reply]
おはようございます。

ご承知のように『阿多隼人』は
『ゴホウラ貝』の運搬・伝達者として知られています。

鹿児島の南薩摩「笠沙の浜」「吹上浜」辺りから
「ゴホウラ貝の加工場跡」が複数出土しています。
当地ではこの貝は産出しません。
また遺跡の出土分布は北九州、島根等。
このルーツを辿って「貝の道」なんて呼ばれているようです。

このことを知ったのは次の書籍からでした。
その後、黎明館でこのセミナーを拝聴しました。

一応入手可能と思われる書籍を。

「日本神話の考古学」 森浩一 朝日新聞社
p142参照

「隼人の古代史」 中村明蔵 平凡社
p41参照
こちらは管理人さんもお読みのようです。

沖縄方面は次のサイトを

http://www.lib.u-ryukyu.ac.jp/kiyou/kouko/arti-1.html

また、鹿児島の古代の遺跡等については次サイト

上野原縄文遺跡

http://www.jomon-no-mori.jp/no47.htm

遺物、年代等で検索も出来ます。


尚、中村明蔵先生の著書
『熊襲・隼人の社会史研究』
「隼人の研究」等で
和名類聚抄や図田帳等、複数の史資料から
地名、人名等を精査されリスト化されています。
中には、石高や生産高・生産品等のリストもあります。

その中に「壱岐・対馬」もあります。
それを基に複数の先生が「この地方にも隼人が居た」と
と唱えておられるようです。

先生の調査は、大半が史資料をベースにしたもので
複数の史料から抽出され統計を。
地元の「隼人研究会」の幹事で年に数回は先生の
調査報告があります。

以上、お役にたてば幸いです。




[7567] 海洋民⊃隼人?  恋川亭 2006/07/03(Mon) 00:25 [Reply]
おひさです。なんか数週間ぶりの覗きこみになりました。流れが早いですねー!
nickさん、お教えください。

> 『海洋民だった隼人』についてこの春から
> 多方面の書籍を拝読していますが

じつは、私には隼人が海洋民であったというイメージがまったくの皆無!なのです。
手頃な価格で入門にベストな書籍を1冊、ご紹介ください。よろしくお願いします。
何をもって、海洋「民」というのか海人「族」というのか、という悩みもありますが・・・。

[7563] Re[7561]: 隼人と忌部  nick [Url] 2006/07/02(Sun) 08:43 [Reply]
>nickさん 神奈備さん いろいろ教えていただきました。自分なりに追っかけていますと答えが時折近づいてきます。

とみたさん,おはようございます。

『海洋民だった隼人』についてこの春から
多方面の書籍を拝読していますが
とみたさんのペースにはついていけません。笑。
お互い切磋琢磨しながら造詣を深めていけたら。。

鹿児島の地元でも、当地隼人からは
「指宿や知覧、それに徐福の串木野」は遠い。
神話伝承だとその日のうちに移動したような錯覚を覚えるが
昔は一週間はかかっていたのでしょうか。

陸路では険峻な悪路が続いていたでしょうから
勢い海上にルートを採るのは当然だと思えます。
そう云えばそろそろ桜島の錦江湾ヨットレースが開催される
頃です。全国、いや最近は海外からも、、大盛況です。

ついでながら、隼人所縁の「竹の駕籠船」があります。
河川で魚を獲るには丸いタライ形、近海で漁業をするのには
一般的な2,3人乗りの丸木船型は
今でも東南アジアのタイ・ベトナム辺りでは重宝されているとか。
また、10人程度の古代の船は、
確か西都原遺跡から埴輪が出土しています。

http://saito-muse.pref.miyazaki.jp/open11/srchcapt.php4

当地の場合、「大楠」が多数自生していましたから、丸木船なら
こちらが有力かも。

この掲示板から宿題を頂きながら研鑽したいと念じています。

[7562] Re[7545][7541]: 玉置の音  徳田の太郎 2006/07/02(Sun) 04:20 [Reply]
ローズマリー サン   はじめまして!

> 実は先日玉置神社へ参詣に行ったばかりでしたので、
> ああ、あの空気!と音を通して感じて、なんだかまた感激していました。

 ちょうど良いタイミングでしたネ!
紹介させていただいいて、かいがありました。
これからも、よろしくお願いします。

[7561] 隼人と忌部  とみた 2006/07/02(Sun) 00:35 [Reply]
nickさん 神奈備さん いろいろ教えていただきました。自分なりに追っかけていますと答えが時折近づいてきます。

隼人について今夜のNHK放送ですっきりしました。四川と長江文明という著で早大名誉教授古賀登先生が隼人の営む鵜飼は長江上流で発祥との唱えておられました。その真偽について若干自信が持てませんでした。

●隼人の祖は長江上流から来たか。長江上流域で鵜飼をやっている証拠を探していました。
  神武東征で神武軍は吉野川で鵜飼をする阿多隼人の支援を受けました、隼人は鵜飼の民でもある。先刻NHK、世界遺産 楽山大仏の話で、大仏のある岷江(長 江の上流の最大支流の)では鵜飼が昔から行われ弥生時代に日本へ稲作と共に伝わったとはっきり言ってました。蜀文明の三星堆遺跡の地では、蜀の王様に柏灌 =河鵜というのが居ます。これらが何よりの証拠でしょう
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

忌部も千葉県と関係が深いと思っておりました。出雲族も千葉と縁が深いことが分かりました。武蔵の氷川神社も出雲族と深いつながりがあるようですね

●千葉の房総に古代にやってきた民族は誰か?
  香取神宮の祭神は経津主神とされているが元来は天日鷲命ではないか、安房神社の祭神は天富命あるいは天太玉命だ・・・いずれも忌部氏の祖と知り、忌部が四 国から来たんだと考えていました。近刊の書で、鹿島神宮も近くの潮来に大生(オホ)神社があり、(オホ古墳もあるそうです)これは多氏かもしれない。その オホ氏が武甕槌神を祭っていたものを、朝廷が鹿島神宮へ移したと書いてありました。

そして房総の歴史を見てたらもっと具体的に書かれておりました。
 ☆四国の阿波から、忌部氏を率いた天富命が房総半島に移り、阿波と同じアワ=安房とな ずけた。

 西国から黒潮に乗って移住開拓する民が来る。

 ☆続いて神八井耳命の血を引く肥後国造一族の多氏が西上総に上陸し農業開拓を行い、そこから常陸に進んで香島神杜(鹿島神宮の原型)を築き

 ☆出雲系の拓殖氏族が香取神宮の原型をそれぞれ農耕神として祀った


素人なりに皆さんのお知恵を借りながらいろいろ追っかけていると、そこそこ収穫が得られるものです






[7560] Re[7559][7557] 反省-振り返り  神奈備 2006/07/01(Sat) 22:24 [Reply]
> よく知っている方は、ある程度余裕でもって受け身で、人によれば、且つまた淡々・沈着の傾向でしょうか。

いこまかんなびさん、こんばんは。お気遣いなく。

みんな、素人です。確定的なことは無い世界ですから。

[7559] Re[7557] 反省-振り返り  いこまかんなび 2006/07/01(Sat) 21:16 [Reply]
いま、分かりました。
よく知っている方は、ある程度余裕でもって受け身で、人によれば、
且つまた淡々・沈着の傾向でしょうか。
質問・意見書込みの方は、どうしても長々と書き方・表現を考えな
がらですしね。
知識の差以上に、立場のその差も大きいのでしょう。

でも私は温かみを重んじます。まぁーここでやめときますわ。
この世の中、いろんな方の集まりですもんね。
内容は別として、長々書き込むのも気をつかいますね。

[7558] Re[7547]: 海人族の拠点  nick [Url] 2006/07/01(Sat) 19:30 [Reply]
とみたさん、こんにちわ。
最近『海部』についていろいろな出典を閲覧しています。

>誰か五島列島が隼人の拠点と書いていたような記憶があります。

中村明蔵先生が精査された
「海部人」の姓字リストからでは
無いでしょうか。
これを参照して数人の先生が
「月読神信仰」等と結びつけ
そのようなことを論じておられます。

>土蜘蛛と葛について

以前、「戸畔」の話題が掲示板で沸騰でしたので
何のことかなと調べていたら
日本書記にありました。

神武天皇即位前紀己未年(前662)二月辛亥《廿》
◆己未年春二月壬辰朔辛亥。

命諸將練士卒。是時層富縣波■丘岬有新城戸畔者。
〈丘岬。此云 ■介佐棄。〉又和珥坂下有居勢祝者。
〈坂下。此云瑳伽梅苔。〉臍見長柄丘岬有猪祝者。
此三處土蜘蛛並恃其勇力不肯來庭。天皇乃分遺偏師皆誅之。

又高尾張邑有土蜘蛛。
其爲人也身短而手足長。

與侏儒相類。皇軍結葛網而掩襲殺之。
因改號其邑曰葛城。


夫磐余之地舊名片居。〈片居。此云伽■韋。〉亦曰片立。
〈片立。此云伽■■知。〉逮我皇師之破虜也。
大軍集而滿於其地。因改號爲磐余。或曰。
天皇徃甞嚴瓮粮出軍而征。
是時。磯城八十梟帥於彼處屯聚居之。
〈屯聚居。此云怡波瀰萎。〉果與天皇大戰。
遂爲皇師所滅。故名之曰磐余邑。
又皇師立詰之處。是謂猛田。作城處號曰城田。
又賊衆戰死而僵屍枕臂處呼爲頬枕田。
天皇以前年秋九月。潜取天香山之埴土。
以造八十平瓮。躬自齋戒祭諸神。遂得安定區宇。
故號取土之處曰埴安。


当地には、とんちの利いた庄屋さんの逸話が
多数伝承されています。

通称「日当山侏儒どん」
風体はこの「土蜘蛛」と酷似して居られたそうです。
多分ここからそう呼ばれたのでしょうか。

今、司馬遼太郎の「街道をゆく」
壱岐・対馬の道
と録画DVDを見ています。
DVDの方は昨年の録画で何と読めない。
多分パソコンでダビングコピーの時不具合が出て一応2枚
コピーしていたのですが、どうも両方ともだめのようです。
不具合のある時のコピーだったからさもなんですが。

DVDデッキ側で再編集をかけようと思ったら、
今夜はこれからビートルズ特集です。
明日、再度やってみます。
読めるようならそこだけコピーしましょうか。

[7557] 反省  いこまかんなび 2006/07/01(Sat) 16:31 [Reply]
みーたんとこーちゃんさん、それからみなさまへ 
>[7556] >一読者として、合理的で、理性的な、玄松子さんの持ち味の損なわれ
ない意見が聞きたいのですが・・・いけないことなのでしょうか。

ご意見、ありがとうございます。ぶり返したくない心境なのですが、[7539] で
書き込みましたことは、少し反省しております。初歩的な、的を得ない質問をし
た場合に、鋭い指摘で戻ってきた際、どのように答えたらと、タジタジになって
しまった経験等々から、衝動的で忠告めいた書込みにより、ご迷惑をおかけして
しまったように思います。

玄松子さんへ
>[7540]・・ですから、ダラダラと脈絡の無い書き方をしないよう、端的に簡潔
に書くことを心がけていますが、受け入れられないのは残念ですね。しばらく
ロムに徹しましょう。

[7539]では、玄松子さんの簡潔なご意見の主旨を十分理解せず、尊厳を傷つけ
ましたこと、深くおわびいたします。いやな気分にさせましたが、これからも
引き続き、私を含めてみなさまへのご指導、よろしくお願いいたします。
うまく表現できませんが、よろしくご理解下さい。

神奈備さんにもご迷惑をおかけしました。

[7556] Re:[7527][7537][7539]  みーたんとこーちゃん 2006/07/01(Sat) 13:52 [Reply]
いこまかんなび様 ロムのヤジ様はじめまして
皆様こんにちは
またまた亀レスですみません。今度は、機械オンチのせいで、一週間強インターネットができませんでした。

掲示板デビューさせていただいたのはつい先日ですが、拝見させていただくようになってからは二年経ちます。
一読者として、玄松子さんの鋭い意見を伺うことができないのは、とても残念です。
悪意をもって相手を誹謗中傷したというのならともかく、言い方がきつく聞こえるだけならば、個性の範疇では?
今までの玄松子さんのコメントで、無意味な発言はないと思うのですが・・・そう思うのは私だけですか?
本人が、端的、簡潔に書くことを心がけているとおっしゃっているのですから、憶測を混ぜないで、文字通りに受け取ったらよいのではないかなと思います。
オブラートで包んだような表現を好む方もおられるのでしょうが、飾り気のない表現を好む人間もここにいます。というか、回りくどい言い方をされても、鈍感な私には通じないだけですが。
私のような素人には、要点だけ拾い上げてくれるほうがわかりやすいです。
一読者として、合理的で、理性的な、玄松子さんの持ち味の損なわれない意見が聞きたいのですが・・・いけないことなのでしょうか。

[7555] Re[7554][7552][7550][7549][7546]: My磐座  nick [Url] 2006/07/01(Sat) 12:55 [Reply]
>  開聞神社は山を御神体にしているように見えますが、それも突き詰めたら頂上の岩に集約されていくのかも知れませんね。

火を噴くお山がご神体。
近年では、平安の頃2度噴火しています。
長崎普賢岳と同じく溶岩ドームを形成しその上にまた噴火して堆積しています。
>
>  韓国宇豆峯神社の場合、元の鎮座地の宇豆峯に磐座があったのかも。

旧址の宇豆峯からだと南方に泰然と桜島が。。壮大です。
今は、孟宗竹が生い茂って邪魔をしていますが。
だからご神体は「桜島」

霧島にも幾つかありますが、登山は多数ありますが、
磐座としてのショットが無いですね。
今度撮りましょう。

今、近くの露天風呂から帰宅(500円)
アイスクリームを舐めながらキーを叩いています。
たまにはいいもんですね。
今日は一日陽が射したり曇ったりです。
そちらは如何でしょうか。

[7554] Re[7552][7550][7549][7546]: My磐座  神奈備 2006/07/01(Sat) 10:21 [Reply]
> 磐座信仰なら当地の鹿児島神宮でしょうか

 正八幡の元社の石体神社の伝承ですね。赤い本殿の下に御神体の石が鎮座されているのでしょうか。

 開聞神社は山を御神体にしているように見えますが、それも突き詰めたら頂上の岩に集約されていくのかも知れませんね。

 韓国宇豆峯神社の場合、元の鎮座地の宇豆峯に磐座があったのかも。


[7553] Re[7551]: 城東水路  神奈備 2006/07/01(Sat) 10:20 [Reply]
 あおいさん、投稿ありがとうございます。城東水路は約50年間ほどの地図にでている水路とされています。おっしゃる通りこれは猫間川であり、現在は環状線になっているルートなのでしょうね。

[7552] Re[7550][7549][7546]: My磐座  nick [Url] 2006/07/01(Sat) 05:12 [Reply]
磐座信仰なら当地の鹿児島神宮でしょうか

宇佐神宮との「正八幡」争いで
次のような伝承があります。

==>>石清水文書(天承2:1132),宮寺縁事抄,百錬抄

宇佐の神主等が、
当宮を正八幡と云うのを信じないので、
三人の使者を使わして是を火かしめた。

所が石体たちまち割れて
中に正八幡
の文字が現れた。

三人の使者は大いに恐れて逃げ帰ったが、
一人はその場で死に、一人は途中で死に、
最後の一人が辛うじて宇佐へ辿り着き亡くなった。
皆是神罰を被ったとある。


■宇佐神宮史では、「石体2基出現せるを報ず」とある。

残念ながら「ご神体」なので
参拝者は拝顔することは叶いません。

[7551] 城東水路  あおい 2006/07/01(Sat) 03:14 [Reply]
こちらの掲示板でかなり昔のログに城東水路なるものが紹介されていたので すが、猫間川ではないのでしょうか。古地図はあまり正確に書かれていないこともあり、簡単にかかれていることもあります。私がかつて見た中でも猫間川が直 線で桃ヶ池まで描かれているものは結構ありました。平野川でさえあの蛇行流を直線化しています。猫間川が埋め立てられる前は猫間川が東成郡(?)と大阪と の境目であり、猫間川埋め立て後は自然の河川道より人工の環状線を境目にした方がよいとの事で現在の境界線ができあがったともかかれています。もちろん本 当に城東水路なるものがあったという可能性も否定できませんが、個人的には猫間川説が有力な気もしまうs。


神奈備掲示板、青草談話室 写真掲示板 過去ログ集目次




神奈備ホームに戻る