神奈備掲示板の案内とログ

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掲示板のログ(平成十八年十一月 2006.11)お名前の敬称は省略しています。

[8017] nick さん気づきました(^.^)(-.-)(_ _)   倭亜布 2006/11/30(Thu) 12:17 [Reply]
神奈備さまの [8013] 藤津神社
「 鹿島、【杵】島、藤津、武内宿禰、くわえて藤原氏??などが絡むお話になるかも。」から
「杵島」きねじま・・・【木】がキ氏=紀氏・杞氏・箕氏・旗(秦?)氏・忌氏・鬼氏・姫氏・・・などと思えたからです。(これらは禹からの系図と考えます。)
(本家に敬意を表して同じ文字を使わなかったのでは?と考えます。)
「杵島」 の【杵】きね から(木根?)=【木】(夏 杞 木氏)+  【牛】(うし 禹氏)・・・・(訂正です【午】=【牛】−【角】(角度(影)が無い・太陽の位置が真上だから?) 
1時〜3時 丑(チュウ・牛) 11時〜13時 午(ゴ・馬)
参考HP
「すると・・・牛は午に『∨』の角が生えた漢字で、牛がオス・・・で、午がメスなのぉー・・・午、馬は牛に重なる婆、即ち波の女は水の=皮=革で、入鹿=『鞍作』の女なのね・・・蘇我入鹿の女・・・?!・・・ウシ王=蘇我蝦夷、蝦夷の孫娘は『倭姫』だわ」
http://www1.odn.ne.jp/~haa98940/syuku/syukub.htm
・・・・このようなところから謎が解き明かされると考えております。

[8016] Re[8015]: 「杵島」 からのワープ  nick [Url] 2006/11/29(Wed) 21:12 [Reply]
いつも感じるのですが、
あちこちのリンクのご紹介はありがたいのですが
倭亜布さんの主題は一体何なのですか。
どうも私には理解できない。
単なるサイトの紹介なら別の掲示板が適当では。
と思うのですが如何でしょうか。

[8015] 「杵島」 からのワープ  倭亜布 2006/11/29(Wed) 11:18 [Reply]
 【杵氏】系図  紀国造氏族?
甲賀の伴氏一族は、平安末期に三河【伴氏】から分れたといい、系図 ... なお、栗原郡の駒形根神社の祠官鈴杵氏は、大伴武日命の子の阿良比を祖と伝えて大伴姓を称したが、姓氏不明も、同族の末裔であろう(遠田郡の丸子部改姓の大伴山田連の族裔か) ...
http://shushen.hp.infoseek.co.jp/keihu/sizokugairan/ootomo-k.htm
「大伴姓を称した・・・」オオトモ・・ お供・・・太陽 日下 日置・・・

「日本」の名は、この【日下】から来ているとの説あり。 
http://www17.ocn.ne.jp/~kanada/1234-7-4.html

【日下】につきあたることになる。 古代人やわれわれの現在の土地の配列というのは、太陽 ... ヒキ浦といった【日置部】にかかわりのある地名を見つけたのはうれしかっただろうと思ったり、太陽の道発見のドキュメンタリーを追体験できる本である。 ...
http://www.interq.or.jp/leo/ues/home/b-061003.htm

【杵】(木根?)=【木】(夏 杞 木氏)+【牛】(うし 禹氏)
「木氏宦譜」によると
http://homepage2.nifty.com/i-love-turk/nan-chao/lijiang/mufu.htm
紀氏は武内宿禰(たけのうちのすくね)の子孫で名族であり、武内宿禰が木(き)(紀)の国に生まれたので「木氏」といい、後に「紀」に改めた。 『紀氏系図』によれば、友則は武内宿禰十六世の裔本道(もとみち)の孫で、有友の子であり、貫之の従兄弟にあたる
http://www.shigin.com/ogura-100-hyoukai/p-33.htm
【牛氏】
『晋書』では元帝の生母が小吏の【牛氏】と通じて. 生まれた子との異説を帝紀末尾で紹介している。 ... 司馬遷・司馬仲達どっちの系図も眉唾モノという点は似てますが。 ... でも宋書は小吏牛氏が密通したとしている.・・・ 273 : ...
むかし玄石図というのがあって、石の表面に「馬の後を継ぐのは牛である」という言葉が浮かび上がっていた。そのため司馬懿は牛氏を深く恨んでいた。そこで一つのお膳に二つの酒樽を載せ、一方を司馬懿が自分で飲み、もう一方の鴆毒が入ったのを牛金に飲ませて殺した。しかしながら司馬懿の曾孫司馬覲の妃夏侯銅環は、小役人の牛氏と密通して司馬睿を生んだのであった《晋書元帝紀》。
http://mujin.parfait.ne.jp/mujins/mobile.php?pg=k&req=Gyuu-Kin
http://bloguide.ettoday.com/s1681688/textview.php?file=0000035808&num=7


[8014] Re: Re[8011][8010]どんたく  どんたく 2006/11/28(Tue) 23:51 [Reply]
#8012 神奈備さん、こんにちは。 どんたく です。

>今日のぞいて見ましたら店を閉めていました。廃業かも。

ありゃ、残念! 話の種に行ってみようかと思ったのですが。。。。

どんたく
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[8013] 藤津神社  神奈備 2006/11/28(Tue) 14:53 [Reply]

 肥前の国に藤津郡があります。現在は太良町が所属していますが、もともと鹿島市、嬉野町、塩田町がその領域でした。

 藤津郡の地名の由来は『肥前国風土記』(吉野祐訳:平凡社)によれば、以下の通り。

  昔、日本武尊が行幸なされた時、この津にお着きになると、日は西の山に入ったので、御船はここに泊った。翌朝遊覧され、船を大きな藤におつなぎになった。それで藤津の郡という。

 『先代旧事本紀』には、「葛津立国造藤津志賀高穴穂朝御世、紀直同祖大名草彦命兒、若彦命定賜国造。」とあります。葛津はフジツ。志賀高穴穂朝は成務天皇。

 藤津郡には丹生津姫神を祭る神社が多く、すなわち辰砂が採れたようです。そこの国造に、丹生氏と同族の紀氏の若彦命が任命されているのも、うなずけるところです。
 塩田町の塩は入で、元々は丹生だったかも。

 藤津郡に接して武雄市があり、武内宿禰生誕の地と言われています。肥前国杵島郡です。宿禰の母は山下影姫と言いますが、彼女を祭神とした神社は筑後国に3座、肥前国に1座、もう一つの候補地の紀の国には見あたりません。『常陸国風土記』では、杵島が鹿島になったようです。佐賀県鹿島市も杵島からのネーミングだったのでしょう。


 さて、神社本庁に加盟していない神社なのでしょうが、富山県砺波市の苗加と言うところに藤津神社が鎮座しています。漫画家のベル夫人から頂いた由緒書きから、その要領を紹介します。

 越の国に、阿彦、鳧彦(カモヒコ)などの凶徒が良民を苦しめていた。垂仁天皇の時代に大若子命の皇軍に加わった皇孫[魚斉]彦(イツヒコ)がこれらを討ち、後に当地の開拓につくして、開祖とされた。大若子命とは武内宿禰の子に若子の宿祢がいるので、これかも知れない。

 景行天皇の時代に武内宿禰が北陸東北を検察、宿禰の第三子武弟(藤津)が水田耕作の栽培を教えたので、イツヒコの子伊夫岐が三年間稲作を学び、人々に伝えた。ここにも宿禰の子が出てきます。同一人かも知れない。武:ブ、弟:デ → これがフジツとは!

 伊夫岐は、父のイツヒコの墓として鹿皮の衣料を埋めて鹿塚としょうした。また恩師武弟の形見の石塊をその鹿塚の上に祀り、藤津神社としたのが創建としています。

 鹿については別に、東の方向から鹿が稲穂をくわえてやってきて、当地に稲作を伝えたとの伝承もあるようです。苗加の東側は鹿島と言う地名です。また庄川の中之島に鹿が流れ着いたので、鹿島と言う村を立てたとも言われます。

 苗加(のうか)と言う地名も珍しいのですが、『富山県の地名』平凡社)によれば、近江国稲賀(苗賀)から河辺氏が移住してきて地名を伝えたとあります。

 大津市に苗鹿(のうか)と言うところがあり、那波加神社が鎮座、天太玉命を祭神としており、富山の苗加神社と同じです。

 鹿島、杵島、藤津、武内宿禰、くわえて藤原氏??などが絡むお話になるかも。


[8012] Re[8011][8010]どんたく  神奈備 2006/11/28(Tue) 14:51 [Reply]
>  梅田においでの時がありましたら一度よって見てはいかが。
今日のぞいて見ましたら店を閉めていました。廃業かも。

[8011] Re[8010]どんたく  神奈備 2006/11/27(Mon) 09:38 [Reply]
 「どんたく」についてのローカル種。

 梅田の第二ビル地下2階に「ドンタク」と言うチャンポンの中華そば屋さんがあります。ここの特長は猛烈に野菜(主にキャベツ)が多いことです。昼休みなどにはサラリーマン諸君の行列ができています。
 梅田においでの時がありましたら一度よって見てはいかが。

[8010] Re8008: クイズの答え!ご当選!  どんたく 2006/11/26(Sun) 21:04 [Reply]
#8009 nickさん、はじめまして。 どんたく です。

>懐かしいネーミングで。笑。

ええ、「どんたく」と言えば皆さん博多を連想しますよね。
自己紹介もせずに大変失礼しましたが、実は私は博多とは全く関係がないくせに「どんたく」と名乗っています。

私は銅鐸が好きなものですから、鈍な鐸ということで、鈍鐸=どんたく と名乗っております。

よろしくー。

どんたく
http://homepage2.nifty.com/toyonakarekishi/

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[8009] Re[8007]: クイズの答え!ご当選!  nick [Url] 2006/11/26(Sun) 20:29 [Reply]
どんたくさんこんばんわ。

昔、私が博多で運用していたBBSが「博多どんたく」でした。
くも膜下出血で倒れて事務所をたたんでしまったので自然消滅してしまいましたが
大半が学生さんでした。その後インターネットが普及しました。
懐かしいネーミングで。笑。

[8008] 邪馬台国が出雲を意味する『物証』が発見されていた  みんなで古代史を考える会 [Url] 2006/11/26(Sun) 16:10 [Reply]
3種の神器としての銅鏡。
それは、実は魏の国が邪馬臺の王として認めた証に贈った物でした。
その銅鏡が、出雲で発見されていたのです。
みなさんは、どう思われますか。

[8007] Re: クイズの答え!ご当選!  どんたく 2006/11/26(Sun) 06:58 [Reply]
#8006 MADOKAさん、みんさん、はじめまして。 どんたく と申します。
この掲示板には初めて発言させていただきます。

>とみたさん!! 正解!!
>\(*0*)/(~~)(^^)/
>大三元さん!二アピン!

chotto matte!

日本語を知らない英米人に日本語の「どうも」という言葉を教えるときには、「ドモ(=domo)」と教えた方が、日本語の「どうも」の発音に近くなるように思います。

英語の達人の大三元さんのことですから、そのことも考慮に入れて#8004では「ども」と書かれたのだろうと推察します。

ということで、とみたさんが正解なら、大三元さんの「ども」も実地教育の観点からみたら正解なのではないでしょうか?

初めての発言でのっけからイチャモンをつけたような格好になってごめんなさい。

【注】
「chotto matte」というのは、戦後に進駐軍が日本で発行してい米字新聞(確か"Stars and Stripes"といったっけ)にあった記事欄のタイトルです。

どんたく
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[8006] クイズの答え!ご当選!                MADOKA 2006/11/26(Sun) 01:44 [Reply]
とみたさん!! 正解!!
\(*0*)/(~~)(^^)/
大三元さん!二アピン!
 
挨拶すべて、ごめんなさい。失礼します。ありがとう。OK。NO。困ってます。ご苦労さん。
等々 『どうも』でいけちゃいます!!!

『ども』でも可ですが、『どうも』のほうが、まあ外人さんが 恥じらいながら口ごもって省略しているように聞こえ&まあ 今時日本人にもないような 礼儀正しい丁寧な外人さんと 勝手に日本人が解釈して あとの言葉を推察して親切に応対するんで『どうも』がベストです!!これを お辞儀(頭を下げて)言われると日本人はコロッ! すべて許してしまうノヨネエ!

シバラク 私 冬眠(。。) 
ミナサンノ 活躍ヲ  ドウモ!!

[8005] Re[8000]: Re言葉の壁  とみた 2006/11/24(Fri) 19:55 [Reply]
> クイズです\(*0*)\
> 外国から芸能人が来るとき。日本の芸能プロダクションが外人に いかなるときでもどんな場面でも対応できる ある日本語を一つ教える(単語) 
> これは何???
>

おひさです。クイズに悪乗りします。

回答・・・どうも・・・

私がアメリカに、若いとき一人で行って日本の事情を英語で話したら、UNDERSTANDABLE でした。これってきっと最低の評価ですね。


[8004] Re[8002][8000]: Re言葉の壁  大三元 2006/11/24(Fri) 09:39 [Reply]
私は「ども」を教えていたけど、ハズレかな?

> > クイズです\(*0*)\
> > 外国から芸能人が来るとき。日本の芸能プロダクションが外人に いかなるときでもどんな場面でも対応できる ある日本語を一つ教える(単語) 
> > これは何???
>
> 常識的に「ありがとさん。」。

[8003] Re[8001][7999][7998]: 言葉の壁  大三元 2006/11/24(Fri) 09:38 [Reply]
神奈備さん
>  記紀に登場する人々は渡来系が中心の階層だったと云うこと。

そうなのかなぁ、とも思うけれども、記紀に登場する人々の名前などが「渡来語」で綺麗に説明できていないのが不満です。

>  マルチリンガルは、私が紀州弁と大阪弁と標準語を理解できると入った程度のことで、言葉が違っていても、アイヌ語、英語、標準語ほどの違いはなかったのでしょう。

さて、これは想像なのでしょうけど、確かさを高めるには、どうやって肉付けして行くのでしょうね。

私には、「縄文語」(古いアイヌ語を含む複数言語でも良い)社会に「渡来語」(なんだか実体不明)が切り込んできた、という「モデル」が判りやすい。「判りやすい」というのは、記紀・風土記に、アイヌ語で考えると理解が進む事例が散見されることを説明しやすい、という意味です。

>  家の中では例えば百済語の方言、氏族内部では百済語、公共の場では混ざり合って形成されつつある原日本語のようなもの、これらは物心ついた時には既に会得、すなわちマルチリンガルとなっていた。

渡来人は、どうも男性が大多数だったのか、皇孫から以降、配偶者は在地の先住民が殆どですね。少なくとも母子が同居し、母が育児する。男は「仕事」で(?)外に居る(夕方に帰ってくるのか? 通い婚? 他の配偶者求めて歩き回る?) つまり「家の中」は「母」の言語。外部(渡来人同士)では彼らの言語。

と、このような情景を考えます。

[8002] Re[8000]: Re言葉の壁  神奈備 2006/11/24(Fri) 07:54 [Reply]
> クイズです\(*0*)\
> 外国から芸能人が来るとき。日本の芸能プロダクションが外人に いかなるときでもどんな場面でも対応できる ある日本語を一つ教える(単語) 
> これは何???

常識的に「ありがとさん。」。

[8001] Re[7999][7998]: 言葉の壁  神奈備 2006/11/23(Thu) 10:04 [Reply]
> そこで「半島とは同じ言語をしゃべっていた」ということがどういうことを意味しうるか

 記紀に登場する人々は渡来系が中心の階層だったと云うこと。

> ●バイリンガル、マルチリンガルを想定するのが良さそう

 マルチリンガルは、私が紀州弁と大阪弁と標準語を理解できると入った程度のことで、言葉が違っていても、アイヌ語、英語、標準語ほどの違いはなかったのでしょう。

 家の中では例えば百済語の方言、氏族内部では百済語、公共の場では混ざり合って形成されつつある原日本語のようなもの、これらは物心ついた時には既に会得、すなわちマルチリンガルとなっていた。
こうなれば第四の言葉を覚えるのもさほどのことはないと云った程度かな。 

[8000] Re言葉の壁                MADOKA 2006/11/23(Thu) 03:03 [Reply]
言語がまったくちがっても、かなりのことは通じますヨ。私ハ前の職場で各国の人を接待しないといけなかった。私は日本語以外まったくダメ!衣食住や日常生活や遊ぶコトハはまず身ぶり手ぶりでOK。このときメンバーに英研1級とかいうのがいましたがなんの役にもたたなかった。通訳の人も以外とダメ!通訳マシンになってしまってコミニュケーション能力は以外と低い。言語が通じるというのとコミニュケーションが通じるというのは違うセンスがいるとおもったわ。自国の文化や自国の生活スタイルをわきまえた人ほど異国人とコミュニケーションをうまくとる。最悪は日本文化をわきまえない外国かぶれの外国語の流暢な人!これはまったく通じず日本の田舎の老人のほうがはるかにコミュニケーションをうまくとる。私はなんども見ました!外国へ技術指導にいく外国語のまったくできない人も一杯いる。コミュニケーションをうまくとると単語がわかってきて会話ができる。先に言葉と文章にこだわる人はコミュニケーションや会話がへたでしたね。生活のバックボーンの文化的背景をどれだけ早く察知するかが大事だなあと。
 一番むつかしいのは 『概念』私が一番おどろいた逸話は 昔 日本の漁民が難破 欧州?に流れついた。たぶん文盲。地元に一人の日本語を解するものもいない!ところがある神父がこの漁民とのコミュニケーションで聖書の日本語訳を作った!(初の日本語訳) 聖書の巻頭『はじめに光りあり』をこう訳した『はじめに かしこきもの ござる』 スゲー労作!!

クイズです\(*0*)\
外国から芸能人が来るとき。日本の芸能プロダクションが外人に いかなるときでもどんな場面でも対応できる ある日本語を一つ教える(単語) 
これは何???

[7999] Re[7998]: 言葉の壁  大三元 2006/11/23(Thu) 00:33 [Reply]
神奈備さん

>  ひょっとしたら、半島とは同じ言語をしゃべっていたのかも知れませんね。

はい。
そこで「半島とは同じ言語をしゃべっていた」ということがどういうことを意味しうるか、ということを掘り下げることが興味のあるところです。
●半島と列島の言語は同じだった・・・のか
私は、それには否定的で
●バイリンガル、マルチリンガルを想定するのが良さそう
と思っています。

[7998] 言葉の壁  神奈備 2006/11/22(Wed) 18:37 [Reply]
 タイ国の縫製工場の指導に東北の工場の女性技能員を送り込み、タイ語の判る日本人の通訳を付けたのですが、その通訳さん、ヅーヅー弁が理解できず、役にたたなかったのです。そうすると、ヅーヅー弁さんは身振り手振りでタイ人に技能訓練を始めてしまい、何とか技能の伝達ができたと云うことがありました。特定の範囲のことですと、言葉の壁が乗り越えられるものと実感した次第です。

 さて、記紀をひもとくと、と云う程のことはないのですが、半島からやってきた渡来人、例えば都怒我阿羅斯等、天日槍、縫衣工女、阿直岐、王仁などはすぐに列島の人々と会話をしているように見えます。尤も通訳がいたことをいちいち記述はしないのでしょうから、いたのかも知れませんが、王仁は菟道稚郎子の先生をやったり、役職についたり、通訳がいては面倒な仕事をやっているようです。
 ひょっとしたら、半島とは同じ言語をしゃべっていたのかも知れませんね。

[7997] Re[7996][7995][7994]: ある質問(1)  大三元 2006/11/20(Mon) 22:36 [Reply]
恋川亭さん
> 三国史記に記載された高句麗の地名からの推定でしたか!

念のため付記しますけど、私が推定するなら前記のようなストーリーですが、他の方の論拠は存じませんので、どれほど一般的なのか判りませんのでお含み置き下さい。私のストーリーには大きな、バックアップされていない仮定があります。即ち:

> 「高句麗で海のことをパタ(ン?)と呼ばれていたのではないか」ということが言える→それが中期朝鮮語の海(patah)につながる、と受けとってよいでしょうか。

前半では、パタ(ン)が果たして高句麗語なのか疑問が残る(高句麗地名が高句麗語で命名されたという保証が無い){米国地名のマンハッタンが米語で命名されたものでないように}
後半自体は(私は典拠を知らないが)信じて良さそう。
前半と後半がつながる、という保証はない。
事実かもしれない前半と、事実と認めて良さそうな後半、は似ているけれども、同じ系統である、という論拠に満足できるものがあるか。私は知らない。。。

> 今一度振りかえると、漢語の「波」(パ)とつながりがあるのかな?

面白い視点ですね。
take(tk)さんの「訓読みなのに中国語?」
http://homepage3.nifty.com/take_tk/gokon/kun_chu.htm
という長大な考察があります。ご興味おありになるかも。

> 「正しい歴史認識」はこういった正統な学問から築き上げられていくのが王道ですね。

判らないことが一杯あるのに結論を急ぐのは良くないですよね。

[7996] Re[7995][7994]: ある質問(1)  恋川亭 2006/11/20(Mon) 22:14 [Reply]
大三元さん、
そっそく丁寧なご指導を賜り有り難うございます!

> 高句麗語 patan 波旦

三国史記に記載された高句麗の地名からの推定でしたか!
私のような門外漢にも判りやすく納得しやすいですね。(すぐ信じちゃう)
「高句麗で海のことをパタ(ン?)と呼ばれていたのではないか」ということが言える→それが中期朝鮮語の海(patah)につながる、と受けとってよいでしょうか。

『古代朝鮮語』には『』を付ける私ですが、中期朝鮮語、高句麗語、新羅語、百済語、等には『』をつける気はおきません。「いわゆる」なんて必要ないですからね。

> 高句麗語 patan 波旦
> 中期朝鮮語 patah 海
> 古日本語 wata 海

今一度振りかえると、漢語の「波」(パ)とつながりがあるのかな?
ここで言う高句麗語と古日本語の時間的距離が気になります。同時代としてよいのでしょうか??・・・まあ、これらは質問ではなく、これからも気にかけていきたい興味といったところです。

また、素晴らしいHPのご紹介も有り難うございます。
趙義成先生のHPをさっそく参照、拝読いたしました。(尊敬されるべき先生ですね)

趙義成の朝鮮語研究室
http://www.tufs.ac.jp/ts/personal/choes/
朝鮮語を知る 朝鮮語の歴史と系統
http://www.tufs.ac.jp/ts/personal/choes/bibimbab/siru/siru06.html
古代日本語いんちき解釈の一例
http://www.tufs.ac.jp/ts/personal/choes/bibimbab/siru/intiki.html

「正しい歴史認識」はこういった正統な学問から築き上げられていくのが王道ですね。

[7995] Re[7994]: ある質問(1)  大三元 2006/11/20(Mon) 10:03 [Reply]
恋川亭さん、
> 【質問】:よく古代史関係の読み物の中に出てくる話し↓
>   『古代朝鮮語で海のことをパタ(PATA)という云々』
> このことの原典・出典をお教えいただけませんでしょうか?

http://www.dai3gen.net/kg05d.htm
にて、三国史記の『高句麗地名』リストから次のように拾っております:
(リスト表記を文章的に変えてあります)

133{私の整理番号}
{新羅で云う}海曲(一作西{つまり海西})はもと高句麗の波且縣である。
{私注}155波且縣(一云波豊)。{私の持ってる本では}「波且」だが板橋論文は「波旦」として海につないでいる(板橋38)。つまり、「波旦」とする異本もあるのかもしれない。参照142。「66 永豊郡 *大谷郡」があり「谷」がタンだから、「豊」をタンと読むと「旦」が正しいかもしれない。

上記板橋論文(九州大学板橋義三『高句麗の地名kら高句麗語と朝鮮語・日本語との史的関係をさぐる』)では
高句麗語 patan 波旦
中期朝鮮語 patah 海
古日本語 wata 海
としています。

さて、現代韓国語 pada=海 が中期朝鮮語の patah に連なるものであろうこと良いだろうと思います。(中期朝鮮語とは、おおよそ15世紀中葉から16世紀末までの朝鮮語を指す http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9C%9F%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E8%AA%9E )もっと古いもの、古代朝鮮語、となると
http://www.tufs.ac.jp/ts/personal/choes/bibimbab/siru/kodai.html
が云うように「このように、古代朝鮮語のまじめな解読は、涙が出るくらいに辛く、分からないことだらけである」ようです。

それらを踏まえて「敢えて」ストーリーを作ると、高句麗地名(これとて高句麗語で付けられた地名なのか、別語でつけられた地名だがいっとき高句麗が支配して、地名はもとの語を借用しただけなのか、とかとかあって高句麗語とは断定できないでしょうが)の patan が、途中経過不明なるも、中期朝鮮語につながっている。だから、『古代朝鮮語』でも類似の音であっただあろう、、、とでもすることになりましょうか。

うまく整理出来ていないけど、意のあるところ、お汲み取り頂けましたでしょうか。

[7994] ある質問(1)  恋川亭 2006/11/20(Mon) 01:01 [Reply]
MADOKAさんのご投稿にあった『古代朝鮮語』に触発されて、かねて気になっていたことを質問します。どなたかご存知の方がいらっしゃいましたら、お教えください。

【質問】:よく古代史関係の読み物の中に出てくる話し↓
  『古代朝鮮語で海のことをパタ(PATA)という云々』
このことの原典・出典をお教えいただけませんでしょうか?

秦氏の来歴説なんかで見かけるのですが、古事記や日本書紀の中に記述があるのでしょうか?それとも中国の書物の中にあるのでしょうか?出典に興味があるのです。

ちなみに私は『古代朝鮮語』と、『』付きでしか表記できなくなっています。『』とは、「いわゆる」とか「巷間云うところの」程度の意味です。(さすがに「好事家が捏造しているところの」とまでは書きませんが。それではみもふたもない話しなので。笑)

[7993] うつの宮  恋川亭 2006/11/20(Mon) 00:39 [Reply]
 先日、仕事で栃木県宇都宮市に出張。「東国は神社が少ない」と聞いていたのですが、なんのなんの南野陽子。宇都宮駅から工業団地まで歩く1時間のうちにいくつもの社叢をみかけました。その社叢の樹が高いですね、植生があきらかに関西と異なり面白かったです。土の色も真っ黒で養分が豊富そうに見えました。赤茶けた関西の土に慣れた私の目には、そんなことでも新鮮に思えるのです。(庭にカリンの木を植えている家もよく見かけましたね。)
 工業団地の向こう側に「平出雷電神社」という看板をみかけてとても興味を引かれたのですが、仕事の都合で断念、またの機会に期すことにしました。

 仕事をおえた後、「うつの宮」というからにはきっと由緒ある神社があるものと思い、玄松子さんサイトを参照いたしまして・・・参拝してきました。
 『下野国一之宮式内名神大社 宇都宮二荒山神社』
市街地の真ん中にあるのに、とても素晴らしい神社ですね。
ご祭神は、豊城入彦命大神様。あのミマキ・パパから夢占いによって東国経営を託された皇子さまですね。(相殿は、大物主命・事代主命とあります。)

 私は、二荒山神社の地・臼ヶ峰と呼ばれる丘から、はるか三輪山の麓をしのびました。遠い、現代でも遠いのに・・・大和朝廷といわれる古墳時代の政権の巨大さをひしひしと実感する思いにひたれますヨ。そして、政権だけが巨大になれるわけはなく、それを支えたその時代のこの国の人々のパワー(今でいうGNPですか?)を想像したりと・・・するとね、思いいたるのです。『大和政権による東国侵略』という表現をされる方がいますが、それは多分、間違いじゃないかと。エビスを平らげてという方法で経営できるのかな?かな?かな?・・・続きは宿題。(笑)

 さて、宇都宮二荒山神社の境内は七五三の参拝も多く、赤ちゃんを抱いた初宮参りも数組みかけました。拝殿の左横には『女体宮』とありまして、美穂津姫命様が祀られています。女性の守り神さまだとか。全国のミホちゃん、一度は参拝してね。

 さてさて、宇都宮二荒山神社。平野の中の臼ヶ峰という小丘の上に境内があるのですが、ご本殿の後ろはさらに小高い土手になっていて樹木が繁茂しています。立入り禁止の禁足地になっていて近寄れませんでした。・・・と、ここまで書くと古代祭祀ファンの方々には、もうお判りですねッ! 三輪山の麓で大物主の大神様を祀るミマキ・パパの皇子である豊城入彦命様が祀られる神社の地が、単なる小丘であるはずはないじゃありませんか?私が参拝したときは、夕闇が迫っていましたので今回の写真撮影は1枚もありません。みなさん、マナーとルールは守りましょうネ。(爆笑)

[7992] 春日神社の祭神  神奈備 2006/11/19(Sun) 18:33 [Reply]
 大和の春日神社の祭神を見ていますと、面白い傾向があるようです。

 祭神が武甕槌神となっている神社(=鹿島、香取神宮から勧請した藤原氏系)は、添上郡、山辺郡、磯城郡、吉野郡に多いようです。

 祭神が天児屋根神となっている神社(祭神に武甕槌神の名がないと云う意味)は、添下郡、十市郡、高市郡、宇陀郡、葛上郡、葛下郡などに多いようです。

 藤原氏系の春日神社は平城京から山辺の道沿いが多いと云うことです。

 藤原京や飛鳥時代の中心になった南部に非藤原氏系が多く、いわば、物部系の春日神社が多いようです。天児屋根神は瓊々杵尊の降臨に供をしたのですが、『先代旧事本紀』によりますと、饒速日尊の降臨の際、やはり「防衛[ふせぎまもり]として天降り供へ奉る」として中臣連等の祖の天児屋根神が供をしていますので、天児屋根神の場合一応物部系としているようです。

 藤原氏や興福寺の影響力は奈良でも南部には少なかったようですが、とびこして吉野は影響を受けたのかも知れません。やはり神仙境としてでしょうか、大切な場所と注目されていたのかも。

 前にも出したのでしうが、飛鳥の地上絵なるものがあり、それは物部系の春日神社の場所をつないで行くとこの絵になるということ。
 頭は耳成山付近、足は吉野郡にかかるようです。画像掲示板参照。

[7991] Re[7990][7988]: 大地主神  神奈備 2006/11/18(Sat) 15:00 [Reply]
> 3次元的な大地主神に対して、4次元的な神様かもしれないなあとちょっと思いました。

 科学者の中には7次元空間を想像の世界でとらえうるとか聞いたことがあります。縦横高時の次には何が来るのでしょうね。スピン、電荷、奇妙さなど素粒子の世界ではいろんな性質が出ているようですが・・・・


 雄略天皇と引田部の赤猪子の話は、若い美人を見初めて、「近い内に呼ぶから」と声をかけて、すっかり忘れていたら、80年後に老女になった赤猪子が訪ねて来て、かくかくしかしかと歌を交わすのですが、どうも天皇の年齢もは80歳を加えたようには感じられず、古代の天皇は長生きに描かれており、ある程度、時を越えた存在のように記述されていますね。


 有名なのは浦島子で、まさに高速の宇宙旅行をしなければ、そうはならない時の過ごし方のように見えます。

 
> 御歳神さま・・・、年を動かす神様

 流石、素晴らしい発想です。神様への敬愛を欠かさない方ならではですね。
 神々は時を越えて坐しているのですが、過去に戻ることはしないようで、3.5次元ということでしょうが、御歳様は青田に戻したということで4次元、納得。
 

[7990] Re[7988]: 大地主神  みとせ [Url] 2006/11/18(Sat) 08:24 [Reply]
神奈備さま、いつもありがとうございます。
先日、関東出身の神社に詳しい方が仰せだったのですが、
御歳神さまが、大地主神よりかなり上位に描かれている理由について、
「トシ」は稲の古語ですが、文字通り、「年・歳」で、
時を司るイメージがすでにかなりあったのではないかと。

蝗を放って稲が枯れた後に、怒りが解けて、青田になるというのは、
時間軸が遡っていますね。
稲の生長を司るということは、時の流れを司るのかも?と。

関東では特にお正月の「年神さま」として、御歳神さまに親しんできたとのお話で、年を動かす神様としてのイメージは、別の神格が加わったというより、
本来、稲の神様には備わっていたものかもしれないと思いました。

3次元的な大地主神に対して、4次元的な神様かもしれないなあとちょっと思いました。

[7989] 通行人  ヘリシキナ 2006/11/17(Fri) 21:47 [Reply]
こんにちわ
早速のご訂正、誠にありがとうございました。
今後とも、ご活躍お祈りいたします。

[7988] 大地主神  神奈備 2006/11/17(Fri) 20:28 [Reply]
 鎌足さんの生誕地に神社大原神社なる神社が鎮座しています。確かに大織冠誕生地と彫られた石碑はあり、おまけに産湯井戸もあるのです。穏やかな丘陵地で、飛鳥坐神社の東に10分ほどの所でした。
 そこから南に下りますと岡寺があり、横に式内社の治田神社(はるた)が鎮座していました。
 この神社の由緒を『寺院神社大事典』で見ていて面白いと思ったのは、『古語拾遺』の大地主神のゆわれが創建の説明になっていたことでした。葛城の御歳神社がその由緒を伝える神社として著名なのですが、この治田神社の場合、田の開墾に結びつけて小墾田を引き出し、これが治田神社の名の元とし、豊浦の地にある神社が治田神社だとの主張があったことです。今、豊浦にはそれらしい神社がないので、説得力に欠ける主張ですが、いずれにしろ、『古語拾遺』の大地主神の由縁を引っ張っているのは興味深いことでした。
 御歳神社、治田神社のほかにもあるのかも知れませんね。

[7987] Re[7985]: 通行人  神奈備 2006/11/16(Thu) 08:31 [Reply]
通行人のヘリシキナ様、ご指摘ありがとうございます。

[7986] 中臣氏 鎌足の謎を解くカギ  倭亜布 2006/11/16(Thu) 02:06 [Reply]

鎌足の墓阿武山古墳の秘密 
http://www.geocities.jp/yasuko8787/0-0sinsen.htm

[7985] 通行人  ヘリシキナ 2006/11/15(Wed) 23:54 [Reply]
失礼申し上げます。
検索中に当たりました。

http://kamnavi.jp/jm/iwamado.htm ページの中に
播磨 完粟 中山神社 「建速須佐男命」 摂社 随神社「豐磐間戸神、櫛磐間戸神」 兵庫県姫路市山崎町三谷97-12

播磨 完粟 野口神社 「天照皇大神 ほか 配 櫛磐間戸神、豐磐間戸神 ほか」 兵庫県姫路市山崎町五十波字雄棲山1066

4箇所誤りがありましたので、ご訂正お願いします。

@ 完 粟 → 宍 粟に
A 姫路市 → 宍粟市に

お願い申し上げます。  失礼しました。

[7984] 不比等、御落胤説  神奈備 2006/11/15(Wed) 14:42 [Reply]
 藤原氏の栄華を考えますと、鎌足さんは近江朝に入れ込んでおり、壬申の乱で一応は一族の栄達は止まってしまったと見ていいようです。やはり、藤原不比等の活躍がポイントのようですね。

 不比等の出自についてはやはり謎がありそうです。

 今東光著『毒舌日本史』の中で、和尚が春日大社の水谷川宮司から聞いた話が載っています。不比等は天智天皇の御落胤だと云うのです。それは皇室には常識として伝わっており、紀元は2600年に近江神宮を造営する際、その仕事を近衛文麿公に命じたのは藤原氏の後裔だからと云うことだそうです。

 中大兄皇子(後の天智天皇)の采女の安見児(ヤスミコ)を鎌足はもらっています。孕むとそのようにする風習があったようです。これは娘を嫁がせるのとよく似た食い込み方の一つで、大きい信頼を得ていたと言えるのでしょう。
 『万葉集』巻一 九五 
 吾(あ)はもや 安見児得たり 皆人の 得かてにすとふ 安見児得たり

 安見児が男の子を生んだとすれば、それが不比等の可能性があるのかも知れません。鎌足は長男定恵を出家させ、かつ唐に留学させています。それほどまでにして不比等に跡継ぎをさせなければならない、御落胤説も頷ける所です。

 尤も、軽皇子(後の孝徳天皇)からも、孕み采女をもらっており、その子が定恵だった。孝徳天皇を難波に置いてきぼりにして飛鳥へ帰った中大兄皇子側についていたので、定恵が邪魔になったと云うこともあるのかも知れません。遣唐使に入れると云うことは、体よく死んでもらうと云う意味もあったようですから。 藤原氏の陰謀だったのでしょうが、菅原道真公が遣唐使に命じられて葬られそうになりました。しかしもはや学ぶものはないと制度を廃止して一命を取り留めています。

 不比等が出世できたのは中臣氏の勢力を背負って、かつ優秀で忠実な官僚であっただけではなく、持統天皇とは異母姉弟だったと云うことがあったのかも知れません。
 そうしますと、上山春平さんの 天照大神=持統天皇、高皇産神=不比等、論はよく分かりますね。


[7983] Re[7982][7977]: 那珂臣すなわち中臣  神奈備 2006/11/15(Wed) 11:17 [Reply]
 鹿島市は肥前にあり、かってはこの辺り全体を杵島郡と呼んでいたのであれば、船泊がらみであった可能性はありそうですね。この場合の島は地域を示す「やくざのしま」の意かも知れませんね。

 肥前の杵島付近は北に武雄市、これは武内宿禰に関連し、鹿島白石付近は素盞嗚尊、五十猛神に関連がありそうで、建借間命は一体どの氏族に属していたのかが興味のあるテーマになります。

 例えば中臣と出雲との関連(中臣平岡連は祀った枚岡神社の出雲井の存在)また、播磨の中臣印達神社(出雲の阿菩大神のとどまった地)は五十猛神を祭神としているのも不思議なこと、多氏、物部、出雲系の可能性があるようです。



> それにしても初っ端から神奈備様の意見にケチをつけるような感じの悪い書き込みばかりしてしまい申し訳ありません…。

 いえいえ、ありがたいと思っています。藤原氏については殆ど興味がなかったのですが、某研究会で発表のピンチ、突然のにわか勉強。皆さんのアドバイスを求めて書いておりますので、実にありがたいことなのです。これからもよろしくお願いいたします。

 実は、多氏系の中臣と云うのはもう一つだなと思っていましたが、本来の姿であった物部系とした方が、よしんば傍系が本家を継ぐようになった場合でも、摂河泉に多く分布する中臣のまとめ役にはふさわしいかなと思っております。
 常陸での多氏の勢いが衰えたようであれば、中央の藤原氏のバックアップがなかった可能性もあり、物部系の方に軍配があがるのかも知れません。

[7982] Re[7977]: 那珂臣すなわち中臣  引尊 2006/11/15(Wed) 00:21 [Reply]
『風土記の考古学1 常陸国風土記の巻』の椙山林継氏による鹿島神宮の項に、
『続日本紀』の養老七(723)年に「常陸国那賀郡大領宇治部直荒山」天応元(781)年に
「同大領宇治部全成」という人物が見え、もし彼らが『新撰姓氏録』の宇治部連や
宇治宿祢と同様の物部氏系であるならば、那賀国造に交替があったようにも取れる、
という説が出ています。

また「茨城」の地名起源説話で有名な黒坂命(彼は「大臣の族」とされます)の遺体が
その本土である日高見国に車で運ばれ、その葬列の赤幡青幡の翻る様からそこが
「垂(したり)の国→信太国」と呼ばれるようになったという信太郡も、上記の那珂と
同じく『続日本紀』養老七年に「常陸国信太郡人物物部国依。改賜信太連姓」とあり
支配者が多氏ではなくなっており、常陸国の広い範囲に渡っていた多氏の勢力が衰退、
消失している様が窺えます(更に言えば、物部に取って代わられている様子)。

この養老年間は不比等の子であり後の藤原四家の祖である四兄弟(その内の宇合が
養老三年に常陸守として赴任するなど常陸との強い結びつきも窺えます)が活躍した
時代です。鎌足以降の中臣氏=多氏系だとするとその本拠が衰退し、物部に取って
代わられることは考えにくいのではないでしょうか?

ただ、中央の中臣氏が常陸の「那珂津臣」と名前で結びついたという説には惹かれます。
常陸の中臣氏は畿内とは違い、連の姓を持たない部民であり、中臣連に統轄される存在で
同族関係にはないとする中村英重氏の研究があるとのことで、衰退期にあった常陸の
那賀津臣が畿内の中臣氏と結びつき、やがて鹿島神の祭祀権が畿内中臣氏に渡って
行ったとでも解釈できるかもしれません。


それにしても初っ端から神奈備様の意見にケチをつけるような感じの悪い書き込みばかりして
しまい申し訳ありません…。自己紹介がまだでしたが、私は茨城県の何やらマニアックな
人気を得ているらしい大甕神社がある市に生まれ育ちまして、そちらの方は調べれば
調べるほど近世のものとしか考えられず悲しい思いをした後、副産物的に常陸国風土記に
対して惹かれ、さらにそこから記紀全体や古代史について興味を広げている、
という遍歴を重ねて現在に至っています。常陸国風土記については、今回の件のように
手元の資料から引っ張ってきてなんとかすることができますが、他国の風土記や記紀に
ついての詳細は全般的に勉強中です。そういうわけですが、どうか今後とも
よろしくお願いいたします。

[7981] Re[7976][7975]: 「きしまぶり」について  引尊 2006/11/15(Wed) 00:17 [Reply]
風土記の本からの引用ではなく恐縮ですが、『日本の神々』の鹿島神宮の項に
肥前国風土記逸文の
「船のカシ(変換不可)の穴より冷き水。自ずから出でき。一云へらく。船泊てし処、自ら一つの嶋
と成りき。天皇(景行天皇)、御覧して、群臣に詔りたまひしく、『此の郡は、カシ嶋の郡と謂ふべし』
のりたまひき。今、杵嶋郡と謂ふは、訛れるなり」
という文が引かれています。これを見る限りでは杵島は元々船に関わる場所、島であったと
考えられていたようです。これを踏まえて、「あられふる」という枕詞は「杵島が岳」ではなく
その内の「杵島」のみにかかる、というように解釈できるのでは、と考えました。
まあ、現地について全く知らない人間の戯言だと受けとめてください。

[7980] 出雲井  神奈備 2006/11/14(Tue) 10:52 [Reply]
 『万葉集』巻一の五二 藤原宮の御井の歌
やすみしし わが大王  高照らす 日の皇子 ・・・ 高知るや 天の御蔭 天知るや 日の御蔭 水こそば 常にあらめ 御井の清水

 藤原京の痕跡を示すずばりの地名−藤原、藤井ヶ原−は残っていないようです。
 藤原京では藤原氏は今の明日香村小原を本拠地としたようです。『万葉集』の巻三−三七八は山部赤人の藤原家の山池を詠める詩があります。
古の ふるき提は 年深み 池のなぎさに 水草生ひにけり
 
、春日神社には水谷神社、上水谷神社が末社として鎮座しています。また伊勢の水屋神社の「閼伽桶(あかおけ)の井」の神水を二振の桶に汲み、貞観元年(859)春日大社への奉納を始めたようです。
 余談ですが、水屋神社の祭神は天児屋根命は筆頭で、建御甕槌命の名前は見えません。春日大社より古い創建で、祭神を変えていないのは立派。久保宮司にその頑固さが受け継がれているようです。

 
 藤原家は水が好きなようです。枚岡神社にも出雲井があります。何故出雲井なのか? 雲が湧き出すことで有名だったとは思えず、ならば出雲出身の人々が居住して使っていた井戸だったのかよく判りません。藤原氏と出雲と云えば、国譲りの建御甕槌神の活躍ですが、国譲りの大功を果たしたのは藤原氏だよと時々はみんなに思い出させるべく、出雲井とネーミングしたのかも。

[7979] 古代朝鮮語&他                MADOKA 2006/11/14(Tue) 01:47 [Reply]
とみたさんへ
『枕詞の秘密』のイ、ヨンヒ の古代朝鮮語の勉強会は大阪市天王寺区の統国寺TEL06−6771−5600 FAX06−6771−1236 で長年やっておられ 機関紙等も発刊されているようです。このお寺は韓国系お寺 で 建物の回廊からみる茶臼山古墳は絶景!(穴場)境内には南北統一への祈りを込めて ベルリンの壁(実物)がある。
数年前 イ、ヨンヒ 来坂のおり講演会を一度聞きレジメもあるんで 御紹介したいんですが。。。(私の評価は半々ですが傾聴には値すると思う)
眠いのよいくら寝ても眠い 冬眠直前? だめじゃー またねm(。。)m

あっ!『イ、ヨンヒ後援会』の事務局は千葉県です!!会報は『まなほ』年会費一万円入会金千円
〒274−0063
千葉県船橋市習志野台4−11−10−203
辻井一美
船橋だーーーこれはなにかの因縁か??

中部ねこさんへ
藤沢の講演会いかれましたか?おもんなかった?報告待ってるんですが!! 講演会の前松原さん倒れて大変だったの 今復調らしい。

大三元さん
>きっと、甲子園球場が三つ位入る大きさでしょうね。

ブーー間違い! 四国 三つだ! がはっ\(*0*)/
&実は来年あたりHPかブログを立ち上げるべく 題名に悩んでいたんですが。ビコーン! これや!頂き!『MADOKAさんの風呂敷』決定!! これなら書ける!いろんなもの包めるし!イメージ湧いたわ!! 多謝!いつになるやらわかりまへんがー まずは御礼までm(。。)m

[7978] 多氏國は多氏と関連が有るでしょうか?  倭亜布 2006/11/14(Tue) 01:25 [Reply]
大食《タージ》國(多氏國又は大寔國)とのHPがありました。
http://www.geocities.jp/laihama/bunsyo/kamif.html
多氏渡来人説
http://www.ne.jp/asahi/pasar/tokek/TZ/C-IL-Oouji.html
黒衣大食_クワルナフ用語事典
黒衣大食(こくいタージ。 Tazi) アッバース朝の中国での呼び名。 アッバース家は黒い旗、黒い服を用いたのでこの呼び名となったといいます。 「大食」は中国ではアラビアやアラビア人を指します。 これはペルシア語でのアラビア ...
http://www.toride.com/~digxwa/digxwaFiles/dicf/dic_10kof/d_kokuitaji.htm

大食《タージ》國(多氏國又は大寔國)は秦氏の関連の国と思います。

[7977] 那珂臣すなわち中臣  神奈備 2006/11/13(Mon) 19:59 [Reply]
 多氏の建借間命が常陸に入植した際には多氏の祖である神八井耳命(綏靖天皇の兄)を祀ったものと思われます。『平成CD』によりますと、茨城県笠間市大渕の大井神社のみが唯一神八井耳命を祭神とした常陸の神社です。
 その建借間命を祭神とする大井神社もあり、大和の意富と三輪山に対とされる常陸の意富と朝房山の真西に鎮座、あたかも大和の多神社に相当しています。共に式内社。

 多氏は臣姓ですから那珂にいる多氏は那珂臣すなわち中臣とは、真弓常忠氏の若かり頃の著作にでています。
 中央で中臣氏が断絶(排仏で蘇我氏に勝海が殺されて)をこれ幸いと中臣の後裔にちゃっかりおさまったのでしょう。このあたり、機を見るに敏は後に受け継がれていくようです。
 さて、自分たちの祖神をどうするか、鹿島の神のネーミングをどうするか、これが今後のハッタリに多いに影響が出ると予想。勇気のなかった神八井耳命では祭祀のみ、政治には不適とおもわれちゃう。
 これはだめ、もっと王権に必須だった神はと探してみて思いついたのが、物部の経津主、これだと思ってもどっこい物部は途絶えていない。石上神宮もある。
 で、考えたのが常陸の海人が境の神、海の安全を祈願していた海中の甕、これを武甕槌神として国譲りの主役にしようと記紀神話にはめ込んだのでした。

[7976] Re[7975]: 「きしまぶり」について  神奈備 2006/11/12(Sun) 09:27 [Reply]
> 始めて書き込ませていただきます。

引尊さん、おはようございます。

> 「嶋杵唱曲」「杵(さお)を鳴らし曲を唱う」

 諸説のご紹介、ありがとうございます。
 肥前の杵島につきましては、『風土記』でわざわざ歌垣が紹介されております。建借間命がやはり常陸でそれらしい催しを行って土蜘蛛を油断させたと云うことで、疑いもせずに、杵島→鹿島と思いこんでいましたが、広く検討しなければ、古代についてはいいところには行き着かない証ですね。

 ただ、肥前の杵島は「山」として『風土記』に記事があり、海岸や杭には説得力が少ないようです。
 丁度、稲佐神社に行こうとしていたら、この三峰が見えたのですが、あいにく雨模様で写真を撮ったのですが殆ど識別できないものでした。
 ただ海進の程度によるでしょうが、海岸であった記憶が残っていた地名とは思いにくい所です。

[7975] 「きしまぶり」について  引尊 2006/11/11(Sat) 19:43 [Reply]
始めて書き込ませていただきます。

現在『常陸国風土記』の「きしまぶり」として知られている箇所ですが、
志田諄一氏の『常陸国風土記と説話の研究』によると
水戸藩に伝わる彰考館本(昭和二十年戦災で消失)を筆写した菅政友本では
「嶋杵唱曲」となっており、また、江戸末期に書かれた中山信名の『新編常陸国誌』では
それを「杵(さお)を鳴らし曲を唱う」と読んでいるとのことです。

一方「杵嶋」とする解釈は「きしまぶり」は、西野宣明氏が『訂正常陸国風土記』で
それを「杵嶋」の誤りだと「訂正」して以来、定説化してしまったものです。
もっとも、彰考館本が今はなく、さらにそのオリジナルである加賀前田家本も発見されていない
以上、現段階で「杵嶋」か「鳴杵」かの完全な確定をすることはできないわけですが…。

で、「あられふる」についての勝手な思いつきですが、「カシマ」や「キシマ」という
地名の由来は「カシ(船をつなぎとめる杭)」+「シマ」で港などの意味であると
いうことで、元々それほど特殊な地名ではなかったと聞いています。「あられふる」と
いうのは、現在にも残る固有のカシマ・キシマという土地ではなく、本来、そうした
一般的な「カシ+シマ」の場所にかかる枕詞だったのではないでしょうか(激しく波が
打ち寄せ、時に高波が岸壁に当たってぱらぱらと砕け散る様が霰が降るのに似てる?)?
故に、離れた土地である鹿島と杵島にかかる枕詞が同じなのだ、と。

[7974] 春日四神  神奈備 2006/11/11(Sat) 11:22 [Reply]
 春日大社の神々は、鹿島神、香取神、枚岡神々と並ぶのですが、本来中臣氏は天児屋根命の後裔のはずで、筆頭に枚岡神がくるべきなのですが、鹿島の神が来ていると云うことは藤原氏の氏神は武甕槌神ということであり、天児屋根命ではなかったということ。どうやら排仏騒動で殺された中臣勝海連が天児屋根命の末裔の中臣氏の最後であり、ここで途絶えてしまい、変わりに鹿島の中臣氏が氏の長者となったと云うことを示しているようです。中臣鎌足さんは多氏系で常陸出身だと云うことが浮かび上がって来るようです。

[7973] 霰降る  神奈備 2006/11/11(Sat) 11:21 [Reply]
 霰降る と云う枕詞については大三元さんの興味深い論考があります。
http://www.dai3gen.net/arare.htm

 霰降るは肥前国の杵島と常陸国の鹿島の枕詞です。『常陸国風土記』には建借間命が常陸の土蜘蛛を征討すべく派遣されて、一計を案じて、杵島振りの歌垣の歌を歌ったりして浜辺で大いにさわいで土蜘蛛をおびき出し、その間に伏せてあった兵士に退治させるとの物語です。建借間命は後に那珂国造となっています。多氏の系列に属しているようです。

 面白いのは杵島に三つの岳があり、比古岳、比売岳、御子岳で、素盞嗚尊、稲田姫、五十猛命に対応しているようです。
 鹿島神宮にも三つの神社がセットになっています。天の大神の社、坂戸の社、沼尾の社の三社です。これらは建借間命が肥前国から奉戴してきた神々だと思われます。
 さて、武甕槌神は国譲りで活躍するのですが、藤原不比等さんの編集総括の中で書かれた物語なので自分たちの氏神を主役に持ち出したのでしょうが、この地域には多氏と物部とが競い合い協調もした所であり、二者が折り合いをつけて武神としての素盞嗚尊をして武甕槌神と名を変えて祀ったのかも知れません。

[7972] Re[7969]: Re「真朱(まそほ)」と「銀朱」  素人 2006/11/09(Thu) 02:45 [Reply]
MADOKA さま
> 質問?
> 御紹介のHPから
> http://www2s.biglobe.ne.jp/~xianxue/longhu/longhu1-1.htm
> >物を致して丹砂を黄金に変化させることができる。黄金を作り食器にすれば寿命を延ばし、
>
> これは本当の黄金のことですか?
> ブロンズ 青銅の精製に丹砂が大きく関わっているということでしょうか?
大変難しいので解りませんが、化学的性質としての一般論としては、
丹砂-->水銀、 金 + 水銀 --->金アマルガム 金は水銀に溶けるので精錬や金アマルガムを金属に塗って加熱すれば鍍金に使えます。細かく砕いた鉱石中の金は水銀に溶けて金アマルガムの水銀を加熱蒸発すると金塊を得ることが出来ます。
金アマルガム --(加熱)--> 金 + 水銀(蒸発)
推測では、金アマルガム を加熱蒸発すれば金が得られ。銅器などに金アマルガムを塗って加熱して水銀を飛ばせば金メッキした器が出来ます。あまりに当たり前ですが、無機水銀多量飛散で体に悪いので、お勧めできません。
化学的内容でなければ外れです。
自信のない青草でした。

[7971] Re[7968]: 「真朱(まそほ)」と「銀朱」  神奈備 2006/11/08(Wed) 20:18 [Reply]
> 合成辰砂を銀朱といい色は「銀朱」であり、天然の辰砂の色を「真朱(まそほ)」とされている。
> この二色が存在する。銀朱は黄色みがかった鮮赤色。
> 色のWeb(「銀朱(ぎんしゅ)」、「真朱(しんしゅ)色見本」
> http://www.h5.dion.ne.jp/~tarering/color.orange.htm

ご丁寧にありがとうございます。十分に咀嚼させて頂きます。

[7970] Re[7967]: 古代朝鮮語&鳥  大三元 2006/11/08(Wed) 09:45 [Reply]
MADOKAさん
> ps、大三元さんへ愛を込めて 私の好きな柄 鎌Oぬ柄の風呂敷プレゼント! 当然!ビックサイズよーン
> 大は小を兼ねる! お使いくだされたし!^^)\

きっと、甲子園球場が三つ位入る大きさでしょうね。楽しみです。

[7969] Re「真朱(まそほ)」と「銀朱」                MADOKA 2006/11/08(Wed) 01:01 [Reply]
素人さん
いやーー今回の御紹介のHPはよかった!
これなら なんとかついていけます!
まだ租借中ですが。。。

質問?
御紹介のHPから
http://www2s.biglobe.ne.jp/~xianxue/longhu/longhu1-1.htm
>物を致して丹砂を黄金に変化させることができる。黄金を作り食器にすれば寿命を延ばし、

これは本当の黄金のことですか?
ブロンズ 青銅の精製に丹砂が大きく関わっているということでしょうか?

[7968] 「真朱(まそほ)」と「銀朱」  素人 2006/11/07(Tue) 23:27 [Reply]
神奈備 さま
> > 辰朱の朱印は他の朱と区別できると言うのは本当でしょうか。
>
> 区別が出来なければ、量の多い方に価値は引っ張られるでしょう。篆刻の塩小路先生は朱肉は辰沙を使っておられました。
>
ご指導有難うございました。
調べてみますと朱にも合成品が古くからあったようです。
合成辰砂を銀朱といい色は「銀朱」であり、天然の辰砂の色を「真朱(まそほ)」とされている。
この二色が存在する。銀朱は黄色みがかった鮮赤色。
色のWeb(「銀朱(ぎんしゅ)」、「真朱(しんしゅ)色見本」
http://www.h5.dion.ne.jp/~tarering/color.orange.htm
中国では3世紀ごろには辰砂から水銀、水銀から黒辰砂、加熱で赤辰砂の合成が知られていたようである。“内丹概説”Webに以下の記述があります。
『最も有名な古代中国の煉丹家である西晋(せいしん 265年 - 316年)の葛洪は《抱朴子・内篇》の中で「丹砂は加熱すると水銀になり、また再び丹砂に戻る」と指摘している。これは、天然の硫化水銀を加熱分解すると水銀が生成し、水銀に硫黄が反応すると再び硫化水銀が生成するプロセスのことを言っているのである。この時の硫化水銀は黒色なので、黒砂と呼ばれる。その後にさらに加熱するとこれは赤色に変化する。』
http://www2s.biglobe.ne.jp/~xianxue/longhu/longhu1-1.htm
水銀の製錬法
4HgS+4CaO→3CaS+4Hg+CaSO4
硫化水銀の水銀からの合成    加熱
Hg + S  à HgS(黒辰砂)----> HgS(赤辰砂)
辰砂  六方晶系(α型-HgS) 580℃昇華。赤色
黒辰砂 等軸晶系(β型-HgS) 446℃で昇華。黒色
黒色型硫化第二水銀は赤色型硫化第二水銀(辰砂)より不安定で熱すると赤色型に変わる。
水銀を原料として高純度のα-HgSが合成されるようになった。
これが銀朱である。現在の朱は大半が銀朱(合成辰砂)だそうです。
一時期インパクトを与えて、真朱の価値が暴落したと推定されるが、後に「銀朱」に対する「真朱(まそほ)」として珍重されたようである。
「銀朱」が登場するまでは、良質の「真朱」は貴重であったのかもしれません。
青草失礼しました。

[7967] 古代朝鮮語&鳥                MADOKA 2006/11/07(Tue) 01:21 [Reply]
遅レス!連日のハードスケジュールにグロッキーしてました!m(。。)m

大三元さん
>私は、日本語は一枚岩ではない(多重構造だ)と思っていて、従ってその「起源」が一枚岩であるはずがない。更に、その起源とされる(こともある)言語がしからば一枚岩か、というと決してそうではないと思う。○○語がどっか他から借用してきた単語と日本語を比べて似てるとか似てないとか言ってる場合があったとしたら、その例は除去せねばならない(または、借りてきたもとを捜索せねばならない)。

これです!! これはとってもいい指針だとおもいます! 私にとって非常に初めて納得できる指針です!

>「日本語の構成、その要素と時間軸上の変遷」ということこそテーマであるべきだと思ってます

>バイリンガルからある種の混合状態(クレオール、かな)が広まって、、、結局は新たな言語が出来ちゃった、、、日本語はそんな成立過程を経てきたのではないか、と思ってます。

ちょっと話がずれますが。。
韓国人が日本に来て わからない言葉の筆頭は!
キムチ!韓国人だと知ると日本人は必ずキムチのことを言う ところがさっぱりわからない??実物をみてアッ!?このことか!と思うらしい。表記するとキムチですがかなり発音が違う

このことで私は坂本九の『上を向いてあるこう』がスキヤキソングなのか?やっとわかった!日本がアメリカでメジャーでない頃?日本で連想できるのがスキヤキしかなかった?日本でも昔 マカロニウエスタン マカロニ野郎。 坂本九がもし韓国人ならたぶんキムチソングにキムチボーイであったはず!食べ物が一番最初に異文化を知る言葉なんだろうなあ。

>朝鮮語解の場合には、ある方言語彙が古文献にもある、ということが言えていない、と認識しています。ここらがMADOKAさんが懐疑的になられる少なくとも一つの要因だろう、と思います

これは朝鮮の古文献より日本の古文献の方にこそ残っていると考えています。私は古代朝鮮語の研究家を見分ける基準として 日本語が母国語並にしゃべれるか? 日本の古文献をどれだけ読みこなす実力があるか?をポイントとしています

>中学生でも読めるやさしーーーーーのを書くことが出来ねばいかん、とは思ってはいるのですが。これってなかなか難儀なことです、とほほ。

そのとおり!!
これは私の経験上の基準です。
苦手な異分野を調べなければならないときは専門書ではなく中学生むけの本を読むのが一番。専門的知識なくてもすらすら読める。専門書を片っ端からしらべてもわからなかったことが この手の本に載ってたり。これは異分野を調べる裏技ヨン!皆さんおためしあれ!びっくりしまっせ!ただ書き手からすると専門書を書くほうがはるかにやさしい。中学生向けの本を書いている専門家は相当な実力者ですわ!


とみたさん
>白髪軍団は古代史セミナーへ、茶髪軍団は街中へ、黒髪軍団は会社へ・・・・

これは大阪だけじゃなかったのね!
茶髪は神武どころか仁徳もしらん!美しい国以前の問題だーー!日本国という概念そのものが危うい!

>誰でもわかる、古代語のルーツという本を書いていただけませんか。

でしょでしょ!古代史ファン待望の本よねえ!\(~0~)/熱烈期待!!

nickさん
>高崎地方は「鶏」を食べません。
おもしろいすねー。
梅干しの種の中の実?は食べられますが、大阪市内の人(天満天神の氏子?)は種の中は天神さんと言って食べないし、食べようとすると怒られます。

鳥で 水野正好ネタ
白鳥は聖なる鳥。白鳥がズラーと並んでいるのは僧侶や神官が並んでいるのと同じ意。(古墳に埴輪で並んでいるそういうことらしい)&天皇は常にケガレのナイ状態でいなければならない。定期的にケガレを白鳥を抱くことで保っていた(ケガレ白鳥に付着?)鳥飼いというのはそれ専用の白鳥を飼っていたらしい。

んー現代なら動物虐待か?それかこの古事にならいどっかの神社で年末一年のあなたの罪ケガレを身代わり抱きぬいぐるみ白鳥グッズ一晩抱いて寝て納札!当たるかもねえ ちょっと不気味かな???

うがねっと ネタ 
年始の干支ネタ 鳥 どうもいろんな方面から考えた結果 鳥は明け方鳴く つまり 冥界から現世のハザマの境を引き継ぐのが鳥。 シャバと斎庭の境に鳥居
どうもそういうことらしい。。

ps、大三元さんへ愛を込めて 私の好きな柄 鎌Oぬ柄の風呂敷プレゼント! 当然!ビックサイズよーン
大は小を兼ねる! お使いくだされたし!^^)\

[7966] 気分は最高  神奈備 2006/11/06(Mon) 20:48 [Reply]
この前の土曜日に生駒山系中の饒速日山を見ることができました。また哮峰も確認できました。
いこまかんなびさんの事前のご調査のおかげです。
また日下神社なる小社にも案内頂きました。

長年の懸案が解決したので、気分は最高。

http://kamnavi.jp/mn/osaka/nigiyama.htm
http://kamnavi.jp/jm/kusaka.htm

[7965] Re[7964]: Re 丹生  神奈備 2006/11/03(Fri) 19:54 [Reply]
> > これでは重要だから大事だと言う自己同着。
自己同着は言葉の使い方を間違っており、自己回帰とでも表現すべきことでした。要はAはAだと云うこと。


> 辰朱の朱印は他の朱と区別できると言うのは本当でしょうか。

区別が出来なければ、量の多い方に価値は引っ張られるでしょう。篆刻の塩小路先生は朱肉は辰沙を使っておられました。


> 大量の鋳鉄の代価は何なのでしょうかご指導いただけたらと思います。
朱もそうでしょう。空海が仏典を仕入れたのも朱だったと云われますね。その他にこの国独特の技術者なんかも価値があったのではないでしょうか。潜水漁法、漆塗り、竹細工、調理師など、この話は恋川亭さんに教えてもらいました。彼らを生口とよんだので、単なる奴隷的人間ではないとの見解でした。同感です。

[7964] Re[7962][7957][7956]: Re いがすり&丹生&導水&セミナー  素人 2006/11/03(Fri) 03:33 [Reply]
神奈備 さま
>  これでは重要だから大事だと言う自己同着。
>
>  実用面では鏡の機能を上げる。毒・薬になった。遺体の防腐効果が多大。鮮やかな赤色の塗料。アマルガムを作り純金を採取。等々。
>
>  それよりは魔除けなど呪術面での効験が大きいことが価値をあげたのでしょう。武器にはならないだけに、金に糸目を付けない価値は呪術から。長寿とか。

自分に都合のいい話ばかり書き込みませてすみません。
前に書き込みましたように中国人が異常に好きそうなもの何か「辰砂の朱」、「玉」ではないかと考えました。玉ではミャンマーまで攻め込んでいます。この為か日本では産地が秘密にされ最近まで、国内では採れないと思われていました。
「辰砂の朱」ではこんな事はないでしょうが、中国人は赤大好きです。
前に神奈備 さまが朱肉用の良質の高純度辰砂が非常に高価であると書かれていましたので統一国家が登場するようになって、公文書などに頻繁に朱印が押されるようになり朱肉の消費が増えたのか、などとも思ったわけです。文字が書けたか解らない時期から中国から金印や銀印をもらって喜んでいたようです。また畑から出てきた金印もあったように思います。朱肉で朱印を押していたのでしょうか。こんな風ですから良質な高純度の辰砂は嵩張らない割には高価だったのではと考え楽浪郡まで運ぶのも可能かと思った次第です。
話は変わりますが、辰朱の朱印は他の朱と区別できると言うのは本当でしょうか。
大量の鋳鉄の代価は何なのでしょうかご指導いただけたらと思います。
我田引水の青草ですがお許しください。

製鉄技術・原料等から調べておりますが、弥生期の鋳鉄は非常に大事と考えております。鋳鉄と簡単に言いますがヨーロッパでも中世まで造れなかったそうです。





[7963] Re[7962][7957][7956]: Re いがすり&丹生&導水&セミナー  神奈備 2006/11/02(Thu) 08:46 [Reply]
> >> 丹生が何故古代人にとって重要だったんでしょうか?
>
> > 鋳鉄が楽浪郡を通して日本にながれ込んだと考えています。この代金ですが、辰砂で支払われたのではと考える次第です。貴重な鋳鉄をただで恵んでくれるとは考えられませんから、辰砂は大事なのではないかと考える次第です。
>
>  これでは重要だから大事だと言う自己回帰。
>
>  実用面では鏡の機能を上げる。毒・薬になった。遺体の防腐効果が多大。鮮やかな赤色の塗料。アマルガムを作り純金を採取。等々。
>
>  それよりは魔除けなど呪術面での効験が大きいことが価値をあげたのでしょう。武器にはならないだけに、金に糸目を付けない価値は呪術から。長寿とか。

[7962] Re[7957][7956]: Re いがすり&丹生&導水&セミナー  神奈備 2006/11/01(Wed) 22:19 [Reply]
>> 丹生が何故古代人にとって重要だったんでしょうか?

> 鋳鉄が楽浪郡を通して日本にながれ込んだと考えています。この代金ですが、辰砂で支払われたのではと考える次第です。貴重な鋳鉄をただで恵んでくれるとは考えられませんから、辰砂は大事なのではないかと考える次第です。

 これでは重要だから大事だと言う自己同着。

 実用面では鏡の機能を上げる。毒・薬になった。遺体の防腐効果が多大。鮮やかな赤色の塗料。アマルガムを作り純金を採取。等々。

 それよりは魔除けなど呪術面での効験が大きいことが価値をあげたのでしょう。武器にはならないだけに、金に糸目を付けない価値は呪術から。長寿とか。


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