神奈備掲示板の案内とログ

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掲示板のログ(平成十九年 四月 2007.4)お名前の敬称は省略しています。

[8278] Re[8277]: 無念(±0±)  かまど [Url] 2007/04/30(Mon) 09:47 [Reply]
MADOKA様

> たぶん空海は
> 胎臓界曼荼羅として四国八十八ヵ所遍路
> 金剛界曼荼羅として高野山を開いた
> と私はみています

そう言う大きなスケールで見た人っていないんじゃないでしょうか。そう言う風に見るとなんか新しいものが見えそうな気がしますね。

ちなみに、高野山の町石道は、曼荼羅を表します。慈尊院〜大塔までに180の1町石を建て胎蔵界曼荼羅、大塔〜奥の院までの36の町石は金剛界曼荼羅を表します。そこには諸尊の梵字が書かれていたと思います。一石一石お経を読んでいる人がいるのはそのためです。

町石道で小宇宙、四国・高野山で大宇宙を描いていたら・・・。壮大なスケールで面白そうですね。


[8277] 無念(±0±)  MADOKA [Url] 2007/04/30(Mon) 02:37 [Reply]
神奈備さん
興味ぶかく拝見しました。。
本日 発表が聞けず 無念(±0±)

私は現在、住吉信仰の根幹にはどうも本来龍宮信仰がありその上に住吉信仰が乗っているとおもっています。
そしてどうもこの龍宮信仰が住吉と生魂を結ぶキーワードではないか?つまり 八十嶋祭りの謎につながるとみています

龍宮は常世 生と死 若老 
が混在する または根源
カオス的時空間なんでしょうなあ

本日の私の発表予定だった
時間と曼荼羅の参考サイト
http://www.ne.jp/asahi/gifu/gokokushiji/page-mandara.htm
ほかにもいろんなサイトがありますが これがシンプルにしてわかりやすく的確

胎臓界曼荼羅は空間 金剛界曼荼羅は時間
胎臓界曼荼羅はお寺を巡っていく感じ
金剛界曼荼羅は仏が衆生を救う過程(向下)
仏門に入ったものが仏になる過程(向上)を表す
たぶん空海は
胎臓界曼荼羅として四国八十八ヵ所遍路
金剛界曼荼羅として高野山を開いた
と私はみています

[8276] 浦嶋子と住吉大神  神奈備 2007/04/29(Sun) 21:27 [Reply]
大和岩雄著『神々の考古学』に面白いことが書いてありました。

 オリオン座の三つ星は東から登る時のはほぼ垂直に立っているように順に登って来る。

 ↑
 ●
 ●
 ●
−−−−
 真東

 西に沈む時は横になっている。

●●●
−−−−
 真西

 夜中の間に90度倒れると云うことです。これでだいたいの時間がわかるということです。


 浦嶋子の話ですが、昴星(すばる)、畢星(あめふり)は牡牛座の肩と顔、この星々が竜宮城から出ていってから、浦嶋子が竜宮城に入っていきます。牡牛座を追い払ってからオリオン座(参星:カラスキ星)が登ってくるのとよく似ています。

 浦嶋子とはオリオン座のことではないかと云うことです。浦嶋子は『丹後国風土記逸文』では筒川の嶼子とあります。「筒」は星で、銀河の嶼子です。牡牛を追い出して登ってくるオリオン座とは筒男達と言えるのでは。

 『備前国風土記逸文』には、「神功皇后が備前の国の海上を航海している時、大きな牛がいて船をひっくり返そうとした。その時、住吉明神が現れて牛を転がした。牛転が訛って牛窓になった。」と云うお話です。これも牛を追い出して後釜に座った浦嶋子であり、住吉明神でもあると云うことの補完をしています。

 結局、住吉の筒男の筒は星が最も似合うような最近の気分です。

 浦嶋子は日下首の祖神です。日下は生駒の日下にいて、雄略天皇の后がまさに若日下王と云う姫君です。雄略紀に浦嶋子のことが載っているのも由縁のあることでしょう。生駒の日下は住吉大神の神域に入っています。日下・浦嶋子・住吉、全部つながっています。

 式内社の網野神社の祭神は日子坐王・住吉大神・浦嶋子神です。日子坐王と浦嶋子神は日下首の祖神です。そこに住吉大神が祭られているのも由縁を感じます。もっとも、住吉大神は1600年頃の勧請との説もあり、微妙な所ですが・・・。

 なお、浦嶋子のことをごちゃごちゃ書いているのは、「時」と云う課題の格好の例題だからです。

[8275] 浦嶋子と豊受大神  神奈備 2007/04/25(Wed) 19:38 [Reply]
『摂津国風土記逸文』から
 稲倉山。昔、止与宇可乃売神は山の中にいて飯を盛った。それによって名とした。
 またいう、−昔、豊宇可乃売神はいつも稲倉山にいて、この山を台所にしていた。のちにわけがあって、やもうえず、ついに丹波の国の比遅の麻奈韋に還られた。(追放した。)

 さて、この稲倉山の比定地の候補は宝塚の売布神社の北側の山で中山観音の奧院の鎮座する山と云われているようだが、定かではありません。また飯を盛ったと云う所からは飯盛山が考えられます。飯盛山は生駒山系の北側と泉南の岬町にあります。ともに摂津ではなく、河内と和泉になります。
 飯盛の神とは稲作だけではなく水と火(竈)の神でもあったのでしょう。

 さて、この神は丹波の国の比遅の麻奈韋から来ていたのであって、やもうえずそこへ還ったとあります。
 『丹後国風土記逸文』に、「比冶の里の比冶山の頂上に井があり、それを真奈井といい、天女が八人降ってきて水浴をしていた。老夫婦が一人の衣を隠し、養子にした。天女は酒を造るのがうまく、夫婦の家は豊かになった。そこで郎夫婦は天女に出ていけと云い、天女は竹野の郡舟木の里の奈具の村に至ったと云う。豊宇賀能売命である。

 摂津の国から豊宇可乃売神を丹波に追放した際、神だけが追放されたのではなく、神を祀る氏族が追放されたと言えます。その氏族とは船木氏と見ていいのでしょう。摂津の船木氏と云えば、『住吉大社神代記』に、「船木等本記」があり、船木氏の祖は日神を出したなどの記事がでています。また、紀州は伊都郡丹生川の川上に金属を取りに行っています。何かの理由−−例えば津守氏と船木氏の住吉の神の祭祀についての主導権争いの中で−−、追われてしまうようです。

 船木氏は住吉で姫神として豊宇可乃売神を祀っていたのでした。そこに河内王権の権力の介入もあったのでしょうか、『神代記』に、「第四宮 姫神宮。御名。氣「息帶」長足姫皇后宮、奉齋祀神主。津守宿禰氏人者。」とありますが、元々は唯一の宮として豊宇可乃売神が祀られていたのを、長足姫皇后を祭神として、住吉三神を祀ろうとの河内王権の意向が働いたのでしょう。


 丹波−後に分離して丹後−の国の網野神社の祭神は日子坐王、住吉大神、浦嶋子神です。日子坐王と浦嶋子は日下首の祖とされています。生駒山系の北の飯盛山の南に日下と云う場所があります。神武東征で出てくる地名ですが、この一帯は住吉大社の神領に属するのです。また『万葉集』の浦嶋子のお話は住吉の話とも読めるようで、丹後と摂津とは住吉、浦嶋、船木、豊受大神でつながっているようです。

 雄略天皇の頃に
 1.二十二年、浦嶋子が天上仙家へ旅行した。
 2.二十二年、丹後国与謝郡真名井原の豊受大神を伊勢国に遷した。
 とされており、浦嶋子と豊受大神とは連動しているように見えます。

 すなわち丹波の国で浦嶋子を誘った五色の亀すなわち神女とは、豊受大神だったのです。

[8274] Re[8273][8271][8270]: 天羽々斬  神奈備 2007/04/24(Tue) 19:48 [Reply]
> 建御名方神と争った時、建御雷神は彼の手を氷に変え、剣の刃に変えました。

 『古事記』では、建御雷神が自分の手を氷に変え、剣の刃に変えたのです。これに恐れて退いています。

 多氏は古代において多くの役割を果たしているようです。私は倭国造の祖の椎根津彦すら多氏と思っています。

[8273] Re[8271][8270]: 天羽々斬  くず 2007/04/24(Tue) 06:40 [Reply]
>丹生氏の第一歩は筑前の伊都としています。

建御雷神は父を伊都之尾羽張としています。
建御名方神と争った時、建御雷神は彼の手を氷に変え、剣の刃に変えました。
氷とは水の固形化で、建御名方神が蛇神水神の神格を持つとすると、氷にする事で封じたと読めるのではないでしょうか?
これには都祁の氷室がなにか関係するかもしれない。

また、蛇を生命サイクルの象徴とみなし、それを封じるのが鉄剣とすれば、やはり水蛇神を封じたと読めるのではないでしょうか?

>紀ノ川の九頭神の分布は主に左岸側ですが、これは朱の中央構造線の反対側になります。丹生神と九頭神とは補完関係にあったのかも知れません。

諏訪大社に参拝したおり、自分が惹かれましたのは諏訪上社前宮の水眼の水でした。
中央構造線の末端を水源としています。また上社前宮に要石があります。
中央構造線を巨大な蛇、龍と見たとき、その龍を祀ったのが丹生の姫と伊都を出自?とした実は宗像さんの一派で、
その後を追い、それを封じたのが建御雷神の多氏というのはどうでしょうか。
鉄剣による蛇封じの祭儀を、蛇は嫌ったのではないか。


[8272] Re[8253]8248: 住吉大社の方位  神奈備 2007/04/23(Mon) 09:45 [Reply]
 考古学雑誌『葦火』の第2号に南住吉遺跡の住居跡の発掘記事がでていました。
建築の東西南北の角度についても触れていました。

 初期の建物 北から西へ振っている。→ 西なら南に振っている。
 次の期   北から東へ振っている。角度は15度前後と思われます。
 7世紀頃  真北真西に近い建物。

 住吉大社の角度のぶれは5度程度、真北真西と言えるのかも。そうしますと、社殿が出来たのは7世紀頃、飛鳥時代の頃かも。
 住吉津などはもっと早い時代から開発されていたのでしょう。住吉の神々もその杜で祀られていたのでしょうが、社殿は7世紀頃としますと、寺院の建築が目障りになってきた頃と付合するようです。


[8271] Re[8270]: 天羽々斬  神奈備 2007/04/23(Mon) 09:44 [Reply]
> 戸隠の九頭龍さんは水を支配し、卵を好み、鉄を嫌う蛇神の性格を持ちます。


> 縄文と交じり合い、農耕を行い、朱を信仰して伽耶とも繋がりを持つ人々が祀っていたのが戸隠の九頭龍さんの原形ではないかと思います。

 「鉄を嫌う」と「伽耶繋がり」とは矛盾しそうですが、時代の流れで鉄のことはお構いなしとなったのでしょうね。

 朱を信仰し伽耶つながりで云えば、丹生良広著『丹生神社と丹生氏』によれば、丹生氏の第一歩は筑前の伊都としています。この地域の神奈備山は可也山であり、上記の資格がありそうです。紀ノ川の九頭神の分布は主に左岸側ですが、これは朱の中央構造線の反対側になります。丹生神と九頭神とは補完関係にあったのかも知れません。

[8270] 天羽々斬  くず 2007/04/20(Fri) 23:10 [Reply]
続けて失礼します。

蛇は鉄を嫌うと言います。
素戔嗚尊が高志からやってくる八岐大蛇を切り刻んだのが十拳剣「天羽々斬」
羽々は蛇の古語とされ、脱皮を繰り返す蛇を生命サイクルの象徴と見ますと、それを八つ裂きにする行為は生命サイクルを絶つ呪詛を含むと考えます。
ハフルとはこのハハから生じた言葉と考えられないでしょうか?

ハフリの呪詛を行う太刀が十拳剣ではなかったか。(あるいはその太刀を生命サイクルそのものの象徴として崇めたかも。)
この剣は全長が十束なのではなく、握り手が十拳(1mほど)木柄のついた槍に近い形状ではなかったかと考えます。
 時代は下りますが石神神宮の七枝刀や諏訪フネ古墳の蛇行剣にその形を残すものではなかったか。土着の蛇神を封じる祭具としてです。
その祭祀を取り仕切ったのが多氏ではなかったか。
諏訪に建御名方神を封じたのは十拳剣を父に持つ建御雷神です。

[8269] Re[8267][8245]: 時を告げる  くず 2007/04/20(Fri) 13:40 [Reply]
> 多氏系の都祁氏が九頭竜信仰を持っていて戸隠にそれを祀ったのか、戸隠から大和へ持ち込んだのか、確認がいりそうです。

戸隠神社の社伝に、孝元天皇五年、天手力雄命をその子孫の民がこの地に祀り奉仕。
これより前九頭竜大神をその子孫がこの地にお祀りしていたが、力を合わせこの地方を開拓する事となりこの二柱の神を合せ祀った。とありました。

天孫の高貴な神様より地主神としての九頭龍さんを同列とし、さらに九頭龍神の縁起を古くしている点に惹かれます。
戸隠の九頭龍さんは水を支配し、卵を好み、鉄を嫌う蛇神の性格を持ちます。
雨乞いでは、戸隠と黒姫の間にある種池と深く結びつきます。明治40年に新潟地域が大干ばつに見舞われたおり、新潟地区はもとより、遠く佐渡からも種池にお水をもらいにきたと記録が残ります。
そして種池、古池の周辺は土壌の鉄分が非常に濃く、現在も褐鉄鉱の採掘が行われています。

鉄を嫌う蛇神が鉄と結びついているのはおかしな話ですが、大陸や半島から鉄が本格的に持ち込まれる前の記憶を残しているとしたらどうでしょうか。
千曲川水系となる東北信では、弥生時代に入っても縄文の影響を色濃く残す栗林式土器が使われ、弥生後期になって、朱塗りを特徴とする箱清水式土器が主流となります。
http://www.city.nakano.nagano.jp/rekimin/R8.files/kuribayashi.htm
そして箱清水式土器を使う主は根塚遺跡に見られるように、伽耶地域と直接的な繋がりを持っていたのではないかと考えられます。

縄文と交じり合い、農耕を行い、朱を信仰して伽耶とも繋がりを持つ人々が祀っていたのが戸隠の九頭龍さんの原形ではないかと思います。

[8268] Re[8265][8264][8260][8263]: 限りある時間の中で。  くず 2007/04/18(Wed) 00:36 [Reply]
> 具体的に、古墳の何をどのように調査すれば「精神性」が判るのでしょうか。
> たとえば、現代の建築物を調査して、建築家や建築主の精神性がわかるのでしょうか。


僕も建築を業としていますので、その例えから言わせていただけるなら。

一つの建物をいくら精緻に調べたところで、それを意図し作った建築家の精神性にたどり着くことは難しいと思います。
でも、同じクライアントから全く同じ条件下で建築の依頼があったとした場合、請負う建築家が違ったなら、全く同じ建築物が出来上がるという事はないでしょう。
出来上がった建物の違いは、その建築家の個性を反映した結果と言えると思います。
 また一人の建築家が造る建築物の変遷を辿る事で、その建築家のこだわりが見えてくると思います。
それはどのような条件下でも共通に重要視されている何かだと思います。
 また、あるときを境に、その建築家の表現が大きく変わったとするなら、その変化をもたらした要因こそ、その建築家の精神性を探るとする上で、非常に重要なものであると思います。
 その時そこで、その建築家の魂を大きく揺さぶる何かが起こったのではないかと思えるからです。

それを古墳調査にあてはめるのなら、まず正確な築造年代の測定は不可欠と思います。


[8267] Re[8245]: 時を告げる  神奈備 2007/04/17(Tue) 16:18 [Reply]
> 海を越えてさらに東には砥鹿神社があります。こちらは日下からの関係でしょうか。

 砥鹿神社の里宮の東に黄柳野(つげの)や棚田の兎荷(とつか)がありますね。
 言葉遊びに過ぎないかもしれませんが・・・。


> 以前、とみたさんから、和田あつむさんの説として、信州戸隠に九頭龍神を祀ったのは都祁氏では。というような書き込みをいただいたかと思います。

 青草[2469]のとみたさんの書き込みですね。

> 和田アツムさんによると、都祁は九頭竜で蛇信仰とのことです。くずさんは戸隠の九頭竜のこと話されていましたね。和田アツムさんは、大和王権が進出した各地で神社を勧請している。善光寺には三輪の神を勧請していると言っておられました。

 多氏系の都祁氏が九頭竜信仰を持っていて戸隠にそれを祀ったのか、戸隠から大和へ持ち込んだのか、確認がいりそうです。

[8266] 善光寺如来の御書箱  和歌山 2007/04/16(Mon) 13:30 [Reply]
 古墳や発掘とは少し違いますが、法隆寺の昭和の資財帳作成時、「善光寺如来の御書箱」を開けようとしましたが、古来からの教えを守り結局最後の箱を開けなかったことがあります。この時賛否両論がありましたが、寺側は信仰を守ったといっています。開ければ何かが判明したかも知れませんが、その反面信仰を守ることが出来ました。しかしX線撮影を実施し中に紙状の筒が3枚入っていたことが判明し寺伝による「聖徳太子の母、善光寺如来の手紙」が入っている可能性が高まりました。どこかで妥協ができるのではないでしょうか?

[8265] Re[8264][8260][8263]: 限りある時間の中で。  玄松子 2007/04/16(Mon) 00:37 [Reply]
すみません。

> 例えば前方後円という形体を選んだ理由。決定付けた精神性。
> その形状から方向性を持つものと考えますが、その方向性のアルゴリズムを決定付けていた何か。ですかね。

具体的に、古墳の何をどのように調査すれば「精神性」が判るのでしょうか。
たとえば、現代の建築物を調査して、建築家や建築主の精神性がわかるのでしょうか。そこから信仰の「本来の意味」がつかめるのでしょうか。

理解できないのは僕だけかもしれませんが。

[8264] Re[8260][8263]: 限りある時間の中で。  くず 2007/04/15(Sun) 23:44 [Reply]
>消費社会とはそれを優先すると云うことではなく、消費と云う観点から見た社会なのでしょう。消費は明日の生産力であり、文化のであります。消費なくしての生産はあり得ないのです。生産はロボットに任せることができますが、文化活動や消費は人間しかできない云ってみれば尊いことだと思います。
>

田舎に住んでいるからでしょうか。中央とは対極の地で色々な死、滅びを目の当たりにしてきました。
まず里山が人々の暮らしと対等な地位を失いました。生活に欠かせない燃料や建築資材を里山から頂く。その構造が壊れました。幼心に残る里山は生きており美しかった。
田畑の荒廃も進んでいます。山間部で先祖伝来の農地を営み、しかしそこから得られる収益で現在の生活はなりたちません。若者は都市部に生活の糧を求め、お年より達がその土地を細々と守っているのが現状です。
 自分は現代社会は搾取なしではなりたたないように感じています。
どこかで利益が生まれることはどこかで損益を生じている事。
正当な取引の結果による配当ならば良いのでしょうが、そうとは思えない現実が世界を覆っている。
世界中の全ての人々が同時に利益を得るという事はありえない。
もしそういうことがおこり得るなら、その時搾取されているのはこの星そのものなのだと思います。
消費とは何かを食い尽くす行為ではないのか。現代の消費が新たな何かを生み出す生産に本当に繋がっているのか、自分には疑問なのなです。

> > 古墳なり禁足地なりの精緻な調査を行う事で本来の意味が解明されたなら、そこに立ち返る事によって、失われかけていた精神性、信仰が今に蘇える。

>どうなのでしょうか、発掘や考古学などから精神性・信仰を読みとるのは実に稀なケースだと思います。

>たとえば、で良いのですが、
具体的に、どのようなものが発掘され、どのように調査された結果から
「本来の意味」が解明されるとお考えでしょうか

古代陵墓の発展性を、当時この国が持っていた独自のものと考えます。
大陸や半島から入ってきたものの丸写しコピーではない。その独自性からこの国を形作った人々が持っていた精神性や信仰心が読み取れるのではないかと考えます。

例えば前方後円という形体を選んだ理由。決定付けた精神性。
その形状から方向性を持つものと考えますが、その方向性のアルゴリズムを決定付けていた何か。ですかね。
自分でしたら、それはかつてのアジア人が共通に持っていたもの。中国に残る道教の原形となるようなものではないかと考えるていますので、その観点から見てみたいと思います。

かつて明らかに重要視され、選ばれていた何かを、そのままのものを今の私たちは伝承していません。
でもその何かもどこかに形を変えて残されているのではないかと思います。
それがまったく姿をとどめていないすでに滅び去った過去の一時期のものであったなら、
解明される事もないのかもしれません。が、
何かの共通性が見つかり、それがあーこれだったんだと、それを忘れ去った今に生きる私達の気付きに至るものであった時、
この国がどのような方向性をもって歩を進めるべきなのか決めることが出来るのではないか。
と思います。
今の舵取りが唱える、「美しき国日本」とは老子の語る道の教えとは反するように聞こえますので、特に気にかかるのですけど。

[8263] Re[8260]: 限りある時間の中で。  玄松子 2007/04/15(Sun) 00:45 [Reply]
> そして、古墳なり禁足地なりの精緻な調査を行う事で本来の意味が解明されたなら、そこに立ち返る事によって、失われかけていた精神性、信仰が今に蘇える。

たとえば、で良いのですが、
具体的に、どのようなものが発掘され、どのように調査された結果から
「本来の意味」が解明されるとお考えでしょうか。

[8262] 公務員  和歌山 2007/04/14(Sat) 20:25 [Reply]
 私も公務員でしたが、まぁ、い空出張・空残業というのはなかったですがさぼる人はけっこういましね!でも予算の少ない部署では、サービス残業がけっこうありましたよ・・・秋位には予算が無くなり以後残業手当が無くなりました。でも公務員は前例主義、事勿れ主義、安易に公務員や教師上がりを使いたがるしゴマをする。あまりここの掲示版とは関係ないですね・・・

[8261] Re[8260]: 限りある時間の中で。  神奈備 2007/04/14(Sat) 19:11 [Reply]
> 現代社会の一面を表する言葉に「消費社会」というものがあります。
> 自分は、この消費が優先されるという社会構造を受け入れるのがとても苦しい。

 消費社会とはそれを優先すると云うことではなく、消費と云う観点から見た社会なのでしょう。消費は明日の生産力であり、文化のであります。消費なくしての生産はあり得ないのです。生産はロボットに任せることができますが、文化活動や消費は人間しかできない云ってみれば尊いことだと思います。


> 古墳なり禁足地なりの精緻な調査を行う事で本来の意味が解明されたなら、そこに立ち返る事によって、失われかけていた精神性、信仰が今に蘇える。

 どうなのでしょうか、発掘や考古学などから精神性・信仰を読みとるのは実に稀なケースだと思います。現在の失われた精神性は、経済優先の国造りの結果であり、自己撞着もあるのかも知れませんが、心に一本筋を通った信仰心がないが故の拝金主義の横行なのでしょう。特に国を指導する連中から腐敗してきたことがあるのでしょう。

 公務員から発想するのは下っ端は「空残業とさぼる」、高級官僚は天降って「談合をする」との印象を国民の多くが持っていますが、公僕が悪と思われていても、暴動もストライキも選挙結果もたいして変わらず、世の中がいっこうに変わらない。
 実は世の中がおかしいのではないかと思っている消費者の殆ども、拝金主義に毒されている部分があるからでしょう。

 家貧しゅうて孝子出ず。国貧しくて・・・。奢れる者は久しからず。この国は一度は落ち込まないと再建はできないと思います。そうして落ち込む時は意外と速いのではないのでしょうか。

[8260] 限りある時間の中で。  くず 2007/04/13(Fri) 23:12 [Reply]
間があいてしまいましたが、少し前に青草で語られた事から。

現代社会の一面を表する言葉に「消費社会」というものがあります。
自分は、この消費が優先されるという社会構造を受け入れるのがとても苦しい。
青草に書いた事ですが、「存在を無に返さない為に生きて伝える事」が人間の本来と考えますので、存在を無に返す行為。消費という行為を根幹に置く構造を、人間社会本来の意義に反するもののように感じてしまう。
(これを続けてその先に何があるのでしょうか?)

しかし、この国の本来にはそれとは違うものが息づいている。その事も感じています。
モノにも命が宿ると考え、寿命が尽きたら感謝と再生を願って弔う。
あらゆるものに生命を考え、その生命の循環そのものを敬い尊んできた社会こそこの国の本来ではなかったか。

自ら培ってきた大切な物を、自ら傷つけ、損ない、失っていく。
自らの信仰や精神性がそこで殺されていく。
今でなければ(おそらく)手遅れになる。そういった事もありえると思うのです。

そして、古墳なり禁足地なりの精緻な調査を行う事で本来の意味が解明されたなら、そこに立ち返る事によって、失われかけていた精神性、信仰が今に蘇える。
そんな可能性も残されているのではないか。ともおもうのです…


そうはいっても、パックマンのようにパクパクと未調査領域に踏込むのは反対です。
そのような状況下では大切な物も見落とされ、破壊されてしまいかねない。
周辺調査と意見交換の積み重ね。そこがまだ足りていないから掘ってはアカン。
と、そう神様がいっているのでは。

[8259] Re8257: 青柴垣神事  どんたく 2007/04/12(Thu) 08:56 [Reply]
#8258 神奈備さん、こんにちは。 どんたく です。

> 潮が干いて玉藻苅と云うのが多いようです。

なるほど、万葉集の中で玉藻に関する歌はものすごく沢山あるようですね。

ところで、万葉集の中にある潮待ちに関する歌を探したら、次の2つが見つかりました。

巻50-#3594:
潮待つとありける船を知らずして悔しく妹を別れ来にけり

巻50-#3627:
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
から国に 渡り行かむと 直向(ただむか)ふ 敏馬(みぬめ)をさして
潮待ちて 水脈(みを)びき行けば
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

そこで、神奈備さんの場合:(^_^)
潮待つとありける船を知らずしていらだちながら時を過ごせり


[8258] Re[8257]8256: 青柴垣神事  神奈備 2007/04/11(Wed) 17:36 [Reply]
 どんたくさん、こんにちは。

 万葉集で満ち潮になってから船出をする歌で以外に少ないようですね。潮が干いて玉藻苅と云うのが多いようです。それも娘さん。白い足が目立ったのかも。

[8257] Re8256: 青柴垣神事  どんたく 2007/04/10(Tue) 21:29 [Reply]
#8256 神奈備さん、こんにちは。 どんたく です。

> 実際には誕生・再生の儀式と云うことで、満ち潮を待っていたようです。

昔は舟の出航の時には潮待ちということが大事な要件になっていたのでしょうね。
万葉集にある下記の歌(巻1の8番)のことが頭に浮かびます。

額田王(ぬかたのおおきみ)の歌
熟田津(にぎたつ)に船乗りせむと月待てば潮(しお)もかなひぬ今は漕ぎ出でな


[8256] Re[8255]: 青柴垣神事  神奈備 2007/04/10(Tue) 20:12 [Reply]
 船の出発の時刻が大きく予定から狂ったのは、当屋神主の神懸かりの度合いもあるのかも知れませんし、美保の地域の時間の過ぎ方が大阪などの喧噪の世界とは違うと云うこともあるのでしょうが、実際には誕生・再生の儀式と云うことで、満ち潮を待っていたようです。子供は満潮時に生まれると云います。

[8255] 青柴垣神事  神奈備 2007/04/09(Mon) 20:54 [Reply]
 美保神社の青柴垣神事のクライマックスと思われます当屋神主さんが船に乗って湾に出ていくシーンを拝見して来ました。
 早ければ13時頃の船出と聞いていたので、正午頃に美保神社に着いて隣の旅館で食事をしてビールも飲まずに待機していました。所が、一向に始まる様子もありません。一時間程度の遅れはよくあることだそうです。
 結局、船が動き出したのが何と15時30分を過ぎてからでした。バスを待たして16時出発としたのですが、船が戻るまで待てなかったのは残念なことでした。

 美保神社は元々御穂須々美命が祭神のようで、これは『出雲国風土記』からもそのように読めます。大国主神と翡翠の奴奈宣波比売命との間の子のようです。鎮座地も、「高志の都都の三崎を、国の余ありとやと見れば、国の余りあり。」と引いて来たとあり、高志に関係しているようで、日本海の交易の重要な港であったようで、越の国の人がやって来たり、行ったりしていたのでしょう。

 いつの間にか、祭神に事代主神が入り込み、美保からの連想でしょうが大国主の妃である三穗津姫命とのコンビに替わっています。事代主は夷神として入り込んだのでしょう。美保神社の摂社の客人社が夷神をマレビトとして祭ったのでしょう。

 青柴垣神事は所謂復活祭や花祭りと同様に神様の復活を祝う祭りだったのかも知れません。エッセイストの裏女史は応仁の乱などで京の都が物騒になった頃、貴族が出雲に流れてきて大嘗祭などの仕来りをヒントに村人に智恵を授けたのもが今日まで続いているのではなかろうかとの見解でした。一理あるものと思います。

 ついでに偽書とされる『ホツマツタエ』ですが、天の巻10アヤでは美保神社の祭神は事代主と御穂津姫となっているようで、どうやら中世以降、近世と言える時代の産物だということがこの一点からでも判ります。(これはネットで調べたホツマですから偽の偽かも知れませんが)


[8254] Re[8253]8248: 住吉大社の方位  神奈備 2007/04/08(Sun) 20:54 [Reply]
住吉大社の社殿の傾き

地磁気の変化

の2図をどんたくさんから頂きましたので、写真掲示板にアップいたしました。
どんたくさん、ありがとうございました。

[8253] Re8248: 住吉大社の方位  どんたく 2007/04/08(Sun) 19:41 [Reply]
#8239に玄松子さんが書いておられたように、住吉大社の社殿は、正確には東西ラインに並んではいません。

Google Earth による人工衛星写真でチェックしてみますと、真の東西ラインから時計方向におおよそ5度回転させた方向となっています。

このような配置となった理由として、もしかすると次のようなことがありうるかも知れません。

(A)社殿の方位を決めるのに磁針を使って方位を決めた。
(B)当時の磁針の方位は、真の東西南北の方位と違っていて、時計方向に5度回転させた方向となっていた。

現在の日本における磁北(=磁針が指す北の方向)は、場所によって少しずつ違いがありますが、本州についてみますと、真の北の方向よりおおよそ6〜9度程度西に偏った方向になっています。(この角度のことを「偏角」といっています。)
すなわち、真北より反時計方向に6〜9度回転させた方向が現在の磁北となっています。
各地の「偏角」の状況の詳細については国土地理院の下記のURLをご覧下さい。
http://vldb.gsi.go.jp/sokuchi/geomag/images/menu_04/henkakuitiran2000.pdf
又は
http://vldb.gsi.go.jp/sokuchi/geomag/images/menu_04/henkakuitiran2000.jpg

この磁北の方向は、年々歳々変化していて、西南日本における過去2千年間の地磁気変化の状況を見ますと、
真北よりも西へ15度程度振った方角から、
真北よりも東へ15度程度振った方角まで
の間をあっちへ行ったり、こっちへ行ったり、何度もしてきています。

長友恒人編『考古学のための年代測定学入門』古今書院 2001年 P.44 にある
「図2.5 西南日本の過去2000年間のの考古地磁気永年変化(広岡,1977)」
に表されている「偏角」のデータを見ますと、磁北が真北より時計方向に5度回転していた時期は、西暦紀元元年から現在までの間に下記のように6回ほどあったとされています。

(1) 150 A.D. 頃
(2) 410 A.D. 頃
(3)1210 A.D. 頃
(4)1370 A.D. 頃
(5)1570 A.D. 頃
(6)1710 A.D. 頃

もしも上記の何れかの時期に、磁針を使って社殿造営の方角を決めていたとしたら、社殿の方角が今のように真の東西南北の方位から5度程度ずれていて当然ということになります。

しかし、
(C)社殿造営の方角を決めたのがいつのことだったのか?
(D)果たして社殿造営の方角を決めるのに磁針を使ったのかどうか?
という点がはっきりしません。

従って、この「磁針説」については一つの可能性としてはありえましょうが、
私自身「磁針説に自信がある。」とまでは言えません。

もしどなたか住吉大社の社殿造営がいつ頃行われたかご存じでしたらお教え下さい。

これに関連した画像2つを神奈備さん宛にお送りします。
お手を煩わせて恐縮ですがよろしくお願いします。>神奈備さん

どんたく
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[8252] Re[8251][8250]8247: 気比/住吉/伊勢  玄松子 2007/04/08(Sun) 19:08 [Reply]
どんたくさん>Google Earth の人工衛星写真は、別途神奈備さんにメールでお送りします。
神奈備>どんたくさんから頂いた写真を写真掲示板にアップしました。

ありがとうございます。拝見しました。
やっぱり期待通りにはなりませんね。

以下青草(に書くべきかも)。
住吉−伊勢ラインを重視すると、
・彦根あたりに関連ポイントがあると正三角形
・若狭あたりに関連ポイントがあると、直角二等辺三角形(苦しいかも)
・丹後にポイントを置くと、二等辺三角形(豊受は住吉経由で伊勢に・・・)
地図上ではイロイロと遊べますが、この「関連」が重要で曲者。
安易な「関連」を持出して、安易に「隠された」などと言う輩も多いようですから。

[8251] Re[8250]8247: 気比/住吉/伊勢  神奈備 2007/04/08(Sun) 15:03 [Reply]
> Google Earth の人工衛星写真は、別途神奈備さんにメールでお送りします。

どんたくさんから頂いた写真を写真掲示板にアップしました。

http://6314.teacup.com/kamnavi/bbs/

[8250] Re8247: 気比/住吉/伊勢  どんたく 2007/04/08(Sun) 12:46 [Reply]
#8247 玄松子さん、初めまして。 どんたく と申します。

>ついでに、第3本宮と第4本宮も南北線より少しずれている。そのラインを延長して若狭の気比あたりに繋がると面白いかもしれない。気比−住吉−伊勢で直角二等辺三角形にならないかなぁ。ならないだろうなぁ。

Google Earth の人工衛星写真を使って調べて見ました。
残念ながら気比−住吉−伊勢で直角二等辺三角形にはなりませんでした。

Google Earth の人工衛星写真は、別途神奈備さんにメールでお送りします。

どんたく
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[8247] Re[8246]: 古墳の上らしい  玄松子 2007/04/04(Wed) 03:22 [Reply]
> > 地図上で色々やってみたのですが、この"斜め加減"の東の延長線上で大物にあたりました。
> > 大和神社。伊勢の内宮。
>
> 単に「大物」というだけではラインとして意味を持たないのではないでしょうか。

住吉大社は津守氏家紋の花菱紋だったと思うけど、伊勢も花菱ですね。なにかあるのか?

ついでに、第3本宮と第4本宮も南北線より少しずれている。そのラインを延長して若狭の気比あたりに繋がると面白いかもしれない。気比−住吉−伊勢で直角二等辺三角形にならないかなぁ。ならないだろうなぁ。

[8246] 古墳の上らしい  玄松子 2007/04/04(Wed) 00:15 [Reply]
> 地図上で色々やってみたのですが、この"斜め加減"の東の延長線上で大物にあたりました。
> 大和神社。伊勢の内宮。

単に「大物」というだけではラインとして意味を持たないのではないでしょうか。


住吉大社は住吉古墳という前方後円墳の上にあるようです。
境内の北にある大海神社が「後円」の上、第1・2・3本宮が「前方」の端になるようです。
ということは、住吉大社社殿配置が(やや)北西−東南のラインにあるのは、その名残かもしれません。

ちなみに、住吉大社の近く(北)にある帝塚山古墳(前方後円墳)の「前方」の端は、北西−東南のラインになります。
http://www.chizumaru.com/maplink.asp?SER=all&D=all&X=487798.283&Y=124625.187&SCL=250

また、住吉大社の南にある仁徳天皇陵や履中天皇陵の「前方」の端も同じく北西−東南です。
http://www.chizumaru.com/maplink.asp?SER=all&D=all&X=487755.708&Y=124401.975&SCL=2500

もちろん、周囲には他にも多くの古墳があり、それぞれ別の方角を向いているので、それだけでは特定できませんが、住吉大社社殿配置が住吉古墳の向きに依存している可能性があるとすると、古墳の向きを決定するアルゴリズムに依存するのでしょう。
それがどのようなものかは、知りません。

[8245] Re[8243][8242][8241]: 時を告げる  くず 2007/04/03(Tue) 23:09 [Reply]
神奈備さん、ありがとうございます。
都祁に興味を惹かれますのは、日に関連したであろうと言う点です。
自分がここにお邪魔し、そして触れてみたいと思う部分に繋がりそうだから。

>日下地名がどんどん東へ行ったように都祁地名も東へ行ったのかも。三重県伊賀市の柘植も丁度高槻の東になりますね。

海を越えてさらに東には砥鹿神社があります。こちらは日下からの関係でしょうか。

都祁野→兎我野なら、トキ→トカ、トガ、ありましょうか?
以前、とみたさんから、和田あつむさんの説として、信州戸隠に九頭龍神を祀ったのは都祁氏では。というような書き込みをいただいたかと思います。

トカ、トガを迎日に関係する言葉とすれば、トガクシは日を向かえる奇しなる山とも。
でこれは、戸隠山の特徴を見事に言い得ている。とも言えます。これは地元在住者として。

玄松子さん、琉球末(松?)さん、
地図上で色々やってみたのですが、この"斜め加減"の東の延長線上で大物にあたりました。
大和神社。伊勢の内宮。



[8244] Re[8239][8238]: 青草[2786]などを受けて:−  琉球末 2007/04/03(Tue) 15:56 [Reply]
 玄松子さんへ

 「正確に東西ラインに並んでいない」。。。

 東西のラインは水平線の太陽をつないでいるからじゃないでしょうか?
 大阪など、東の水平線が見えない所の太陽は山頂、つまり何度な南側にずれながら上がるからだと思います。
 天文学に詳しい方なら簡単に説明できるんでしょうけど、ややこしいです。

[8243] Re[8242][8241]: 時を告げる  神奈備 2007/04/02(Mon) 11:35 [Reply]
> 大阪府の北、高槻市氷室町の闘鶏野神社。この神社と府の南、高石市取石の等乃伎神社。この両社を直線で結びますと、現在の生国魂神社と重なります。

 面白い発見です。何か見つかればいいですね。

 『日本書紀』仁徳天皇六二年条に闘鶏氷室のお話が出てきます。闘鶏(つげ)は都祁、都介とも書くようです。長屋王のオンザロックはここの氷室の氷だったようです。

 高槻市氷室町の闘鶏野神社は大和都祁の氷室神社からの勧請かと思います。氷室神社は式内社ではありませんが、延喜式主人司の氷池神祭が行われた一社だろうとされています。(『寺院神社大事典』大和・紀伊)

 また摂津では三島県主が中央の出先機関の祭事や掃除、氷室の管理などを任務としたそうで、高槻市氷室町の闘鶏野神社がおそらくはその氷室の神としたのでしょう。

 宇陀の上井足では氷室谷は日室谷と表記されるようで、氷は日と関連し、氷りとは日の精を閉じこめたものだったと言えるのかも。

 と云って、等乃伎神社・生国魂神社との関連をどうこうすることにはならないようです。それよりも大和の都祁は国中から見れば日の出の方向の地域、都祁のネーミングにかかわったのかもしれません。日下地名がどんどん東へ行ったように都祁地名も東へ行ったのかも。三重県伊賀市の柘植も丁度高槻の東になりますね。

[8242] Re[8241]: 時を告げる  くず 2007/04/01(Sun) 12:18 [Reply]
>  都祈、都祁はトキでもあり、ツゲでもあります。日を迎えるお話に似た話は、高安山の山頂に夏至の日の出を見るのが富木とも表記されるの等乃伎神社、また冬至の日の出は坐摩神社の場所だったと云います。
>
>  トキ、ツゲ、うまく日の出に絡みました。コケッコウッコウが聞こえてきそうです。
>

都祁と生国魂神社では気になっていた事があります。
大阪府の北、高槻市氷室町の闘鶏野神社。この神社と府の南、高石市取石の等乃伎神社。
この両社を直線で結びますと、現在の生国魂神社と重なります。

生国魂神社は遷座とありますので、これはべつにどうと言う事はないと思うのですが、
上記の線が大阪城の西側を通りまして、このあたりに遷座前の生国魂神社があったとしますと、
府庁舎あたりで、闘鶏野神社までの距離、等乃伎神社までの距離がそれぞれ等しくなります。

この配置(線と距離)にはそれ以上の意味を見つけられませんでしたので、自分の中では棚上げだったのですが、この書き込みを拝見し、遷座時を決めたおりになんらかの配慮がなされたものだったかと言う点で、改めて何か見つかればと思い、書いてみました。

[8241] 時を告げる  神奈備 2007/04/01(Sun) 08:37 [Reply]
 大阪城公園へその西南の角(NHK側)から入ると、生国魂神社の跡地と碑が立っています。文面では築城に際して現在地へ遷座したので、大阪城公園にこの碑を立てると云うような内容だった。

 一方、坐摩神社については石町に神功皇后の腰掛け石が祀られている御旅所をして元社の場所とするのが通説。

 某HPから
 平安時代の法令集である「延喜式」の臨時祭の中に「凡そ坐摩巫女には、都下国造氏の童の7歳以上の者を取りて充つ」とみえ、大日本地名時点(吉田東吾著)では、坐摩とは中央区の坐摩神社であり、その社地は北区周辺であった事から都下とは兎我野であると推測している。しかし、都下はツゲとも読め、兎我野を指すかどうかは不明である。

 この記事は慎重に現在の北の歓楽街の真ん中である兎我野を坐摩神社の鎮座地とは限らないとしているのですが、生国魂神社の遷座地と合わせて考え合わせると面白い結論が得られるようです。

 歓楽街の兎我野 → 現在の坐摩神社  南南南西2300mです。
 大阪城の南西角 → 現在の生国魂神社 南南南西2300mです。
 現在の坐摩神社と生国魂神社 南南東2300mです。

 そこそこの平行四辺形となっています。

 兎我野は兎餓野、闘鶏野、刀我野、都下野とも書かれます。都祈、都祁も同類の地名です。朝鮮の『三国遺事』に延烏郎・細烏女のお話があり、彼らを日月とした祭天の所を迎日県または都祁野と称したとあるのです。

 都祈、都祁はトキでもあり、ツゲでもあります。日を迎えるお話に似た話は、高安山の山頂に夏至の日の出を見るのが富木とも表記されるの等乃伎神社、また冬至の日の出は坐摩神社の場所だったと云います。

 トキ、ツゲ、うまく日の出に絡みました。コケッコウッコウが聞こえてきそうです。

[8240] Re[8239][8238]: 青草[2786]などを受けて:−  神奈備 2007/04/01(Sun) 08:34 [Reply]
> 地図で見ると、第一・第二・第三本宮は、正確に東西ラインに並んでいませんよね。

 おっしゃる通り、真西ではありませんね。
 これに意味があり、かつわかれば、筒の由来にも近づくのかも。
 意味があるとすれば、オリオンの三つ星が登ってくる角度と垂直との差かも。

 よくわかりません。

[8239] Re[8238]: 青草[2786]などを受けて:−  玄松子 2007/04/01(Sun) 04:07 [Reply]
前から少し気になっていたんですが。

> M>> 住吉の社殿が西向きは有名ですが。。

地図で見ると、第一・第二・第三本宮は、正確に東西ラインに並んでいませんよね。
若干 北西-南東のラインになっているんですが、これは地図投影における歪みなんでしょうか。
それとも、この斜め加減に意味があるのでしょうか、無いのでしょうか。


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