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掲示板のログ(平成十九年 五月 2007.5)お名前の敬称は省略しています。

[8315] 明流い太田  神奈備 2007/05/31(Thu) 20:44 [Reply]
縁MADOKAさん、たんかんさ〜さん、問題提起ありがとうございます。しばらくの宿題とさせていただきます。

 『播磨国風土記』に、「昔、但馬の人、伊頭志君麻良比、この山に家居しき。二の女、夜、麻を打つに、即て麻を己が胸に置きて死せき。」とあります。麻打山は揖保郡太子町にあり、阿宗神社が鎮座、息長日子王を祭神としています。神功皇后の弟。
 
 さて、但馬の人、伊頭志君麻良比とは、但馬の出石のマラさんです。このマラとは天津麻良などの名に見える鍛冶にたずさわる人で、物部に多い名前です。天日槍命は出石の女を娶り、ここに鎮座しましたが、物部系のバックップを得たのでしょう。伊頭志君麻良比は天日槍命の末裔かも知れません。

 揖保郡太子町には「太田」と云う場所がありました。『播磨国風土記』には飾磨の郡大田の里について以下の記述があります。
 大田と称するわけは、昔、呉の勝[クレノスグリ]が韓の国から渡って来て、始め紀伊の国の名草の郡の大田の村に着いた。その後、分かれ来て摂津の国の三島の賀美[カミ]の郡の大田の村に移って来て、それがまた揖保の郡の大田の村に移住して来た。これはもといた紀伊の国の大田をとって里の名としたのである。

 まさに播磨の大田は天日槍命の裔のいた場所で息長日子王の居住地にほど近い場所といえます。

 また、前の「[8312] 明流い日鏡」に書いたように、日矛を御神体とする日前国懸神宮の鎮座地は太田そのものです。

 大和国城上郡に 穴師坐兵主神社(名神大)が鎮座、天日槍命を祭る大和の拠点のような神社です。古代都市の纏向の中央に太田地名があります。他田坐天照御魂神社の鎮座地が太田です。その東側に穴師坐兵主神社が鎮座、ここにも太田と天日槍命との関連が見えます。

 天日槍命とペアーである女神の織女即ち棚機姫を祀る神社が大和国葛下郡の太田に棚機神社が鎮座、式内社の葛木倭文坐天羽雷命神社の元社とされています。この辺りには山陰地方から多くの人々がやって来ているようです。

 倭文神としては建葉槌神とか天羽雷命神が祭神ですが、伯耆や出雲の倭文神社の祭神は下照比売神ですし、先の太田に棚機神社の遷座先とされる博西神社の祭神も下照比売神となっています。天日槍命とペアーの神は赤留比売神なのですが、難波の式内社とされる比売許曽神社の祭神は
下照比売神となっています。『古事記』には、難波の比売碁曽の社にます阿加流比売と書いているのに、それを下照比売神としているのは、よほどの確信犯。

 で、下照比売神が織女に見なされるのは、天若彦の葬儀の後で、兄の阿遅志貴高日子根の神を紹介する歌の「天なるや 弟棚機の ・・・」と云う歌の印象なのだろうか。

 天日槍命の四世の孫の清日子は当摩之メヒを娶っています。当摩の娘でしょう。その子に葛城高額比売命がいます。当麻も高額も葛下郡の古い地名にあります。当麻とは但馬の出張所だったのかも知れませんね。

 当麻の太田の倭文、これが常陸の国の久慈の郡に太田の里があり、長幡部の社がある、と『常陸国風土記』にあります。太田と機織りとも底通しているのかも。

[8314] Re[8313]: 封印された姫神  たんかんさ〜 [Url] 2007/05/31(Thu) 19:21 [Reply]
縁MADOKA さん、こんばんわ。

「アマテラス」=「卑弥呼」説も
あるようですし、
今後何か出れば面白くなります。

宇佐神宮史に次のようなくだりが
あります。

天平7年(763):
禰宜辛島興曾女に託宣あり
祝龍麻呂等と観世音像を造り
弥勒寺妙法堂を建立す。

シャーマンは「女性」だったようですね。

この数日渡来伝承で潰れています。
一日が早い。。


[8313] 封印された姫神  縁MADOKA 2007/05/31(Thu) 02:36 [Reply]
nickさんにひきつづき、改名!
MADOKA=縁MADOKA です!

神奈備説を読みながら 
ふと また浮上した素朴な疑問??

なぜ? 日本の最高位?の神が
アマテラスなのか?
異説もあるが大方の日本人のイメージは女
なぜ???
天皇が男なのに なぜ? アマテラスが女か?

太陽神なら男のイメージではないか?
アマテラスは太陽神に仕えたミコ説もあるが。。
そうだろうか?
太陽と姫神(ミコ)でおもいつくのは 天の岩戸開きとアカル姫出生ぐらいで他にありますか?
もっと全国各地に太陽に仕えるミコの伝承があるべきでは???

アマテラスは 本来  海テラスでこの島国の海神に仕える また操作する呪力を持つのは 女のミコではなかったか? 
(海女とかいて何故アマとよぶんでしょうねえ?)
水神とミコは良くしられた関係
例。紀州の荒川トベ(女酋)は紀の川の流れを変える呪力をもっていた。他にも山ほどあるでしょう。

各地にあった水神に仕えるミコ(姫神)が豊受姫に統合されその上に太陽神(男?)がのっかっているのでは??
つうか 海(アマテラス)から天(アマテラス)への移行はシャーマンの女系から男系への移行
海神を祭る大ミコ(複数 集団)は移行とともに豊受姫に統合され、天テラスの食事をツカサドル神という神に落とされたか???
女系社会から男性社会への移行では?

[8312] 明流い日鏡  神奈備 2007/05/30(Wed) 11:06 [Reply]
 豊受姫は難波と豊国に加えて丹後に祀られています。と云うか、丹後が本拠地のような印象を与えています。『丹後国風土記逸文』の奈具の社の豊宇賀能売命です。この神は丹後の一宮の籠神社の奧宮の真名井神社にも祀られています。
 
 籠神社の神宝として二枚の鏡があります。息津鏡と辺津鏡です。宗像三女神のうちの二柱の女神に似た名前です。それよりも物部氏の遠祖の饒速日尊が天神御祖より授けられた瑞宝の中にも同じ名前の鏡があります。また『古事記』応神天皇紀に、天日槍がもたらした八種の玉つ宝が紹介されていますが、その中にも息津鏡と辺津鏡があります。『王権の海』(千田稔著)では、籠神社の辺津鏡は前漢(前202〜後8)晩期のもの、息津鏡は後漢(25〜220)前半期のもので、いずれも紀元前後のもののようです。
 
 鏡の宗教的意義は天を祀る日鏡であることでしょう、銅鐸は土地からの豊饒を祀る呪具と想定出来るのでしょう。3世紀頃の銅鐸の埋納は、天日槍のような鏡を持った渡来系集団が、大国主のような銅鐸祭祀の地祇集団との戦いと制圧を語っているのでしょう。
 
 千田稔著『王権の海』では、和歌山市太田黒田遺跡から出土した銅鐸と、その南側に鎮座する紀州一の宮である日前国懸神宮の御神体であった日鏡と日矛が、大国主と天日矛との対立現場の姿ではないかとしています。

 仲哀天皇と神功皇后が九州へ行った際、筑紫の伊覩県主の五十迹手の服属儀礼をともなった出迎えを受けます。そこで天皇は五十迹手の「いそいそさ」をほめて「伊蘇志」と言われ、五十迹手の国を伊蘇の国とされ、これが訛って伊覩となったとしています。
 平安時代に作成された畿内の豪族の出自を記した『新撰氏姓録』に「伊蘇志」と言う名前の氏族が載っており、大和の葛下郡や摂津国武庫郡などをを拠点としていたようです。『氏姓録』には、「伊蘇志臣 滋野宿禰同祖。天道根命之後也。」とあります。この天道根命は紀伊国造の紀氏の祖神でもあり、伊蘇志臣と紀直は同祖と言えます。

  一方、伊都県主の五十迹手は『筑前国風土記逸文』に、「高麗の国の意呂山(おろやま尉山(うるさん))に天から降ってきた日桙の末裔」と名乗ったと記載されています。また白水社『日本の神々4大和』の中の糸井神社の項に「糸井造は、考合の結果、三宅連あるいは伊蘇志臣と同祖で新羅国天日槍の後裔と見られる。」と出てきます。

 これらを勘案すると、『記紀』には出てこない天道根命とは天日槍命のことであると云ってもいいのかも。

 この前出雲の加茂岩倉遺跡と荒神谷遺跡を見学しましたが、荒神谷に博物館があり、見学者芳名録に真弓常忠さんの達筆が残されていました。小生の下手な字を隣に書かせて頂きましたが、字の練習はしておくべきものと感じ入りました。

 それはともかく、この二つの大量の銅製祭祀具の埋納場所の間に大黒山があります。出雲の四箇所の神名火の一ではとの説もあった山です。(現在は仏経山に比定)この山頂に兵主神社が鎮座しているのです。兵主神とは蚩尤のこと、また天日矛のこととされており、日鏡集団の侵攻があって、大国主集団は彼らの祭祀具を埋納した名残ではないかと思われます。

 『魏志倭人伝』で云う倭国乱とは、『播磨国風土記』に記載されている、葦原志挙乎・伊和大神と天日槍との争いとして記憶に残ったものであり、争いの原因の一つは砂鉄を巡るものだったのでしょう。

[8311] 明流い豊受姫  神奈備 2007/05/29(Tue) 19:34 [Reply]
 七夕は天の川の両サイドにある牽牛星と織女星が年に一度の逢瀬を楽しむ祭祀です。子供の頃、本当にそうなるのかを観測しようと空を見上げましたが、殆どの7月7日は梅雨の真っ最中で星はなかなか姿を現さなかったことしか覚えていません。逢瀬の姿は子供に見せたらいけないので曇りや雨の空にしたのかも。

 牽牛は農耕儀礼の犠牲として、殺されることに意味があるそうです。牽牛に祭祀における何らかの機能があるわけで、そうしますと織女にも神を喜ばせる機能が必要です。織女の場合には、神への織物の献上が先ず考えられます。

 七夕は農耕儀礼としますと、織女にも豊穣を司る意味もあったのでしょう。すなわち豊受姫でもあったと言えるのかも。

 『日本書紀』の一云に次のような話があります。「都怒我阿羅斯等は黄牛に農具を負わせて田舍に行った。ところが黄牛は急にいなくなった。跡を追って行った。足跡のある邑の中に老夫がいて、「邑役人が、牛の負っていた物から考えるに、きっと殺して食うのだろう。と云って殺して食ってしまった。牛の代償としてほしい物と尋ねられたら邑にお祀りしてある神をほしい」、と云いなさいと教えた。」

 そのようになって阿羅斯等は白い石を手に入れたのです。この石はきれいな娘になった。阿羅斯等は喜んで交合しようとしたが、ちょっと離れた間に娘がいなくなった。
 妻に尋ねると、「東に行った。」と云う。
 海を越えて追って行くと、探し求めた乙女は難波に至って比売語曽社の神となった。また豊国の比売語曽社の神となった。そして二ヶ所に祀られていると云う。

 この前半は都怒我阿羅斯等が牛を牽いていてその牛が殺されたお話です。まさに牽牛星なのです。その相方の織女とはきれいな娘であり、従って難波と豊国の比売語曽社の神なのです。

 豊穣の女神を祀る難波と豊国、これから想起されるのは豊受姫神です。このことはこの掲示板の[8282][8283]時のお話の1と2をご覧下さい。

 比売語曽社の神とは赤留比売神であるとか下照比売神とされていますが、実は豊受姫神だったのです。

[8310] 織姫と弘法大師  和歌山(橋本) 2007/05/26(Sat) 23:57 [Reply]
四国八十八ヶ所にも織姫伝説があります。10番切幡寺の伝説に、娘が幡を織っていると僧(弘法大師)が衣が破れたので布を所望したところ快く差し出した。そのお礼に望みをかなえてやろうというと、父母を弔うため千手観音が欲しいという。僧は千手観音を彫り娘に灌頂を施すと娘は即身成仏し千手観音になった。

[8309] Re[8307][8301][8300]: 玄武から星の世界へ  神奈備 2007/05/26(Sat) 16:00 [Reply]
> 豊受の姫は、ミケの姫であると同時に、機織の姫、そして月の姫でもあったのではなかったか、と考えました。

 おっしゃる通り、丹後の七夕伝説の中には、織女とは比治の豊宇迦能売とするのもあるようです。女神には概ね織姫の伝承が語られており、天照大神も丹生都姫も例外ではありません。

 織女と云えば牽牛ですが、この牛はどうやら祈雨など水神に捧げる犠牲牛のようです。石上神宮の北側の布留川からも牛の骨が出土しているようです。

 そうすると織女も何かの祭りの犠牲的存在とすると、要は神の衣料とする織物を織って捧げる役割を持った女で、折口信夫曰くの神聖な水辺の棚で織物を作りながら神の到来を待つタナバタツメなのでしょう。そのような儀式が天上に反映したものが七夕伝説かも。

 豊受姫は伊勢に行ってから内宮の天照大神=北極星に規則的に食餞を届ける北斗七星に見なされたのですが、外宮を祀る度会氏は外宮の格上げを謀って、度会神道を唱え、天御中主神や国常立神と同一説を出したそうです。


> 織女は琴座のベガ、地球の歳差運動で約1万2千年前の縄文草創期の北極星。ここまではどーか、と思いますが、その記憶のカケラが豊受神=天御中主。

 この発想は凄い。

http://homepage2.nifty.com/turupura/java/TuruPlaKako.htm

 上記ソフトでシュミレートしますと、まさにそのころに北極に近づきますね。

[8307] Re[8301][8300]: 玄武から星の世界へ  くず 2007/05/25(Fri) 01:43 [Reply]
> > 墓主の魂を乗せて天の門まで届ける役割を玄武がしている表現が見える(曲阜市東安漢里墓石榔[後漢前期等]そうです。
>
>  なるほど、天は海ですから亀に乗って神仙境へと云うことですか。

玄武を含む四神とは中国の星座に原形を持つとの事でした。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%84%E6%AD%A6
成立年代が明確な玄武の出自は武帝の時代(BC141-BC87)の「淮南子」「史記」に見え、
「淮南子」では玄武を辰星(水星)とし、「史記」では北方七宿の内、虚宿と危宿からなる五角形としています。
また前漢末期の西安市交通大学漢墓に描かれた天文図にも、虚、危宿の中央に蛇の表現が見えます。
上記の、後漢(25-221)、山東省に見られた昇仙思想とは、死後西方にあるという崑崙山に西王母を尋ね、そこで不老不死の仙薬を求めるとしたもので、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E7%8E%8B%E6%AF%8D
崑崙に遊んだ周の穆王は光の速さを超える馬を持っていた。そうです^^

それから、ですが北方七宿には織女(琴座ベガ=西王母の原形とも)と、牽牛の原形ともいわれる牛宿があります。西王母は機織りの姫でもあり、彼女の元で仙薬を作っていたのは月の兎。月の姫でもありました。

銅鐸に描かれた人物を機織りの西王母ではないかとする説もあり、桜ヶ丘銅鐸、讃岐出土の国宝銅鐸(東京国立博物館)に表現が見られます。

そこでですが、桜ヶ丘に近く、銅鐸とも繋がりの深い摂津の豊受姫とは、この西王母ではなかったか・・豊受の姫は、ミケの姫であると同時に、機織の姫、そして月の姫でもあったのではなかったか、と考えました。
彼女は琴座のベガ、地球の歳差運動で約1万2千年前の縄文草創期の北極星。
ここまではどーか、と思いますが、その記憶のカケラが豊受神=天御中主。

[8306] Re[8304]: 出雲の佐太神社近辺  神奈備 2007/05/22(Tue) 09:35 [Reply]
 ありきたりですが・・・

 銀河星雲の中に隼人の楯の渦巻き紋を二つつないだようなものが存在しますが、生命力の旺盛さを感じるもようです。青谷上寺遺跡から出土した赤い盾にも渦巻きがありますが、つながってはいないようですが、やはり生命力の標しなのかも知れませんね。

 楯としては薄い木板で出来ているようで、物理的には攻撃を防ぐことは出来ないものでしょうが、この楯に対して攻撃を加えることははばかられたようなことがあったのかも知れません。魔除けの一つで、十字架や数珠を掲げるとか、鳥居の絵を描いておくような意味があるのかも。

http://kamnavi.jp/log/ugamoyou.htm

[8305] Re[8303]: 四隅突出墳の起源  神奈備 2007/05/20(Sun) 18:01 [Reply]
  西谷墳墓群は弥生後期末から古墳時代にかけての墓地遺跡です。弥生公園となっています。ことしの4月初旬に立ち寄りました。墳墓は相当むき出しにされていましたが、四隅の石がそれらしく残っているのには驚きでした。普通の山林として今日まで残されたのでしょう。墳墓群での最大は九号墳で少し離れた所にあり、どうやら頂上には三谷神社が鎮座しているようです。
http://www.genbu.net/data/izumo/mitani_title.htm

 この三谷神社は新宮氏が紀州熊野から勧請したと由緒書きにあるのですが、祭神は健磐龍命で阿蘇山の神様です。青草話ですが、墳墓が九州の支石墓から発展したことと関係があれば実に面白いことです。

 西谷墳墓は出雲の大王の墓とされています。『倭人伝』での倭国乱るの頃から出来ているようです。吉備や北陸と同じ頃に出来ているようです。これは畿内の前方後円墳の初期の纏向石塚やホケノ山古墳よりは数十年先行しているようです。

 西谷二号墳、三号墳内からは朱が検出されています。成分分析では大陸陜西省の鉱山から採取されたものと判っているようです。『倭人伝』の国の一つだったのかも知れませんね。

[8304] 出雲の佐太神社近辺  とみた 2007/05/20(Sun) 11:16 [Reply]
出雲には四大神を祀る大社と宍道湖周辺に四つの神奈備山(神名火山)があります。

四大大社は、東北の佐太大社、東南の野(能)義神社と熊野大社、西北の出雲大社(=杵築大社)です。

四つの神奈備山は、東北の朝日山 東南の茶臼山、西北の大船山、西南の仏経山です。

神奈備山周辺には、銅鐸や銅剣が出ます。

仏経山には荒神谷が対応し358本の銅剣と6個の銅鐸が出ていることは余りに有名です。

私は寧ろ、朝日山に注目しています。その近くに志谷奥遺跡があり銅鐸2個と銅剣6本が出ている。

5km東に佐太神社があり神在祭の神事が行われています。

西に少し行くと、古浦という弥生時代の浜辺に出ます。縄文人と渡来人が交わった

民が人骨をたくさん遺しています。

シャーマンが鹿や猪の骨を焼いてひび割れの具合で占い、神と交信する卜骨が掘り出されています。

不思議な土地です。

日本海をさらに東へ進むと、鳥取の青谷上寺遺跡があります。ここは古代は潟湖周辺の低湿地帯でした。2200年前〜1700年前の遺跡です。

やはり卜骨が出ています。
これとそっくりなのが、韓国の南東の海岸部の勒島にあるそうです。ここは紀元前の交易拠点のようです。

青谷上寺遺跡展示室で不思議な木製の赤い盾を見つけました。渦巻き紋が二つと三角紋がついていました。

これは何だ!?

巴紋か渦巻き紋か、弥生時代にこんな紋様がすでに日本にきていた証拠です。

神奈備別荘の写真コーナーに貼り付けておきました。ご覧ください。

何か連想できましたら教えてください。

[8303] 四隅突出墳の起源  とみた 2007/05/20(Sun) 09:54 [Reply]
四隅突出墳は出雲地方にたくさん出ていることで有名です。

西谷3号墳、荒島古墳群の塩津山古墳、出雲以外でも伯耆の妻木晩田をはじめ広島県、富山県などたくさん発見されています。

出雲大社の傍らに島根県古代出雲歴史博物館が本年3月10日オープンしました。

その展示に四隅突出墳の起源が書かれていましたのでメモを取りました、ご紹介します。

四隅突出墓の下から方形貼り石墓が出てきた。
したがってその起源は方形貼石墓だそうで、さらにそれは九州の支石墓を淵源とする。


四隅突出墳は弥生時代前期に九州北西部(佐賀県)で造られた支石墓が起源だと考えられます。

島根では支石墓の影響を受け木棺墓の上を一抱えほどある石で覆った配石墓が出雲市大社町や松江市鹿島町などの海岸部で造られるようになります。

弥生時代中期には墳丘の周りには石を貼った方形貼石墓に発展しこの墳墓は島根だけでなく京都府北部の丹後地方など日本海の西部地域で広く作られるようになりました。

一歩一歩、古代史の謎のベールが剥がれて行くのが楽しいいですね。

[8302] 『ウエツフミ』と竹島  神奈備 2007/05/18(Fri) 09:49 [Reply]
 『ウエツフミ』は、大友能直(頼朝の庶子)が貞応二年(1223)に、任地の豊後国で編纂したものとされています。宗像原本は明治六年大洪水で流失したそうだ。他に大友本があり、内容はウエツフミの草稿ということで、大分県立図書館に保管されているそうだ。

 どうもよく判らないのは大友能直が古代和字の一つである豊国文字を使って書いていることです。この文字は母音を思兼命が作り、我が五十猛命がカ行からワ行までの45字を作り、五十言建命と称えられたと言う。

 本居宣長は漢文で書かれている『日本書紀』より、万葉仮名で書かれている『古事記』をヤマトココロとして重要視したそうですが、『ウエツフミ』がその延長線上にあるのか、それとも『ウエツフミ』の延長線上に本居宣長の『古事記伝』があるのか、どうも良くわかりませんが・・・。


 『ウエツフミ』は神々のことで言いますと、男女の神々がペアで生成しています。例えば神生みでは大事忍男神、・・、大戸日別神、・・、大屋毘古神と生成されていきますが、『ウエツフミ』では、大事忍 乎伎の命、次に大事忍乎美の命、これは天に在してむつ魂星の神、大戸日別の命、次に大戸日比売の命、天に在しいや魂星の神、大屋毘古の命次に大屋比売の命これの二柱の神ハ天に在してさな魂星の神と言う。とあり、『古事記』の単独神よりはより原型とも言えるのかも知れません。ついでに現在は天に在して星神となっていると言うのも面白いことです。


 『ウエツフミ』の第七綴の11に大穴牟遅の命などが、建御名方の命の力を見たいと言ったので、建御名方の命は、丹波の国の江崎の大巌の巌を御手振らしに海波の深みに投げ放らしましき故島となも成る 竹島といウ ここに二柱の大神兄弟二柱の神共にそを見そなわして御名方の命に告りたまわく汝ハいと強き益荒男なり
 とあります。竹島の登場です。竹島が出てくる文献は15世紀が最も古いとされていましたが、ここでは13世紀までさかのぼれます。

[8301] Re[8300]: 玄武  神奈備 2007/05/15(Tue) 18:32 [Reply]
> 墓主の魂を乗せて天の門まで届ける役割を玄武がしている表現が見える(曲阜市東安漢里墓石榔[後漢前期等]そうです。

 なるほど、天は海ですから亀に乗って神仙境へと云うことですか。

 亀の甲良のよる占い−亀卜−は殷代後期にはあっったようで、弥生中期には対馬や三浦半島に見られるそうです。亀は神界とのつなぎ役だったということ。さて蛇を使った占いはあったとしても跡を残さない、記紀などにも出てきません。

 『古代日本と対馬』永留久恵著)に、大陸には五岳と云う聖山があり、そのうちの中岳を蒿山で姜族の夏王朝が聖地としていたし、続く殷王朝も祭祀を受け継いだそうです。また大陸の王都であった長安や洛陽も緯度で云うと34度半に位置しており、このラインは大和の三輪山や橿原、磯城、伊勢神宮などものってくるようで、四季節分の太陽や星の運行が同じに見える訳で、これを承知していた者が東征に参加していたと推測しています。
 対馬の聖山である御嶽もそのラインだそうで、この山の東部を目保呂(めぼろ)と云うそうで、どうやら御諸と同じ意味だそうな。

 ついでにイラクのバクダードもその線上のようですね。

[8300] 玄武  くず 2007/05/15(Tue) 07:51 [Reply]
公開中のキトラ古墳の玄武、ご縁がありまして見てまいりました。
東アジアの玄武に関係した展示も充実しており、見に行って良かったです。

以下展示の中で特に興味を引かれた2点を。

@後漢に編纂された辞書「説文解字」に、
亀は「広肩無雄、亀鼈之類以它[蛇]を雄(広肩では雄がおらず、亀鼈の類は蛇を雄とする)」とあり、亀は雌、雄は蛇と言う考えかたがあった。

蛇をはは、かかと呼ぶ古語があり(そのははが母、母さんに繋がるかは解りませんが)
また川の神を蛇、女神とする信仰等、古い時代から引き継ぐこの国の伝統は蛇を再生の象徴とし母神と仰ぐものであったのではなかったかと思っています。
蛇を男神とする考え方は後から入ってきたものではなかったか。
その点で記紀神話における蛇(男神)の話、亀(女神)に乗る男の話を読み返したいなと思いました。

A玄武を含めた四神信仰は後漢に中国各地へ拡散、定着するのですが、その中で山東においては昇仙思想と結びつき、墓主の魂を乗せて天の門まで届ける役割を玄武がしている表現が見える(曲阜市東安漢里墓石榔[後漢前期等]そうです。

個人的にはこのあたりが浦島伝説を生む背景にあったのではないか、と考えます。

[8299] 四国八十八カ寺  和歌山(橋本) 2007/05/12(Sat) 21:55 [Reply]
八十八という数字といつからかということについては今だに解明されていません。文明3年(1472)銘の銅製鰐口(高知県いの町)に「村所八十八」というのが現在のところ八十八カ寺の最古の史料とされています。これは村に八十八カ所のミニチュア版のことを指し、ミニチュア版があるということは既に四国八十八カ所が存在していたということです。大永年間に「遍路」、「南無大師遍照金剛」といった墨書が札所に残されていますので室町時代後期にはお大師信仰に基づき八十八カ寺を巡る遍路がいたということぐらいしか分かっていません。誰が札所を決めたのかは不明ですが、国分寺や一ノ宮が入っていることから政治的、宗教的な思惑があったのかもしれません。江戸時代には阿波藩が遍路から情報収集をしていたようです。最近では札所をめぐって2つの寺が裁判で争ったりしていますし、八十八カ寺に対抗して別格20カ寺が組織されたりしていますので、中世にも札所争いがあっても不思議ではありません。いきなり八十八カ寺ができたというのは考えられにくく八十八に先行する少数の寺巡りがあったのではないかとも言われています。西国三十三カ所に比べ規模の小さい寺院が多く江戸時代初期の文献にも非常に荒廃している寺院があったことが記され、史料が少ないのです。平安時代や鎌倉時代の史料には「遍土」という文字が断片的に見られます。国分寺や一部の寺院を除き発掘調査がなされておらず、今後発掘調査が進展すれば少しずつ解明されていくのではないでしょうか。

[8298] Re[8297]: 四国八十八カ所  神奈備 2007/05/12(Sat) 21:03 [Reply]
> 一ノ宮も札所でした

国   一宮       神宮寺   札所番号

阿波   大麻比古神社  霊山寺  一番
讃岐   田村神社    神宮寺(百相廃寺)今は一宮寺 八十三番
伊予   大山祗神社    愛媛県大三島町 別宮 大山祗神社  別宮山(べっくざん)南光坊  五十五番。
土佐   土佐神社     善楽寺  三十番

 札所の寺院はそれぞれ神宮寺になっているようですね。神仏習合の時代であれば、一ノ宮を札所としても不自然ではないですね。

 所で四国八十八ヶ所といつ頃誰が決めたのでしょうか。また以後の変遷はどうだったのでしょうか。


[8297] 四国八十八カ所  和歌山(橋本) 2007/05/10(Thu) 23:48 [Reply]
昨年四国八十八カ所回りましたが、その後色々調べています。MDOKA,さんの言われるように元々四国の辺地や山岳地帯を修行することから始まりました。海との関りが指摘されており、補陀落渡海信仰や熊野信仰の影響が強いと言われています。どちらかというと海が重要視されていたようで今昔物語には、「山に入り込んだ修行僧が馬にされてしまう話しがあり山に入ってはだめで、海に出るように」という説話があります。山は死者が行く所であったようで、今でも死者がでると「イヤダニ参り」といって71番弥谷寺に参拝する風習があります。札所も真言宗だけでなく天台宗、曹洞宗、律宗などがあり、4国分寺すべて札所に入っています。また、かつては諸国一ノ宮も札所でした。その他八十場の霊水も有りますし、神道の面から四国八十八カ所を考察するのも面白いかもしれません!

[8296] 時のお話 8終わり  神奈備 2007/05/10(Thu) 19:17 [Reply]
 ローレンツの時間の収縮の式と言うものがあります。あるスピード(V)で走っている物体の経過する時間は元の動いていない場所の物体の経過時間との比率を示します。

 収縮率=√(1−v**2/c**2) **は二乗 cは光速。300,000km/秒

 宇宙旅行をしていた浦嶋子は3年のつもりだったが、地上では300年経過していた。この場合、収縮率は1/100となります。この場合のVは光速の99.995%と実に光速に近いスピードになります。速いほど重くなるそうですので、大変な量のエネルギーが要るようです。地球の重力をいかに利用するかがポイントです。

 ちなみに光の速度の半分では短縮率は87% 300年なら259年経過。光の速度の90%でも44%ですから130年。

 私たちが地球から受けている重力は何時も私たちを地球に引っ張っています。このような力を加速度と言います。従って空から落ちてくる物は徐々にスピードをあげてくるはずです。しかし地球の場合には空気があり、空気抵抗を受けるので、スピードに限界があります。雨がそうです。空気抵抗がなければ雨の日には到底外を歩くことはできないと思います。

 真空中ではその抵抗がありませんから、重力を受け続ければその物体の速度はどんどんあがります。
 
 速度は加速度がかかっている時間分だけ速くなります。速度=加速度×時間 → 時間=速度÷加速度
 目標の速度を光速とします。300,000,000m/秒
 加速度を地球の重力と同じとします。人間にとって自然ですから。9.8m/(秒*秒)

 加速度をかけ続けて目標の光速に達する時間は
 300,000,000m/秒÷9.8m/(秒*秒)=354日

 約1年で光速に達します。この1年間には約0.5光年走ることになり、次の年からは1年で1光年。 
 

[8293] 時のお話 7  神奈備 2007/05/10(Thu) 08:57 [Reply]
 天上仙家ヒアデス星団までの距離は150光年程度、丁度300年もあれば往復できます。

 浦嶋子は宇宙旅行をして来たのです。天上仙家には昴星や畢星からの宇宙人も来ていたことになります。

 昴星と畢星とは牡牛座の肩と顔です。牡牛座の次ぎに東の空に昇ってくるのは猟師であるオリオン座です。例の高松塚古墳の天井に描かれていた星宿図でも西方七宿に昴、畢に続いて参(からすき 韓鋤)となっています。参はオリオン座の三ツ星で、猟師のベルト。オリオン座の三ツ星は赤道上にあり、真東から昇り、真西に沈むのです。昇る時は三ツ星は縦になり、沈む時は横になります。天空の角度で時間がわかるのです。

 参照 オリオン座の動き http://kids.gakken.co.jp/campus/academy/jisaku/contents/047orion.html

 高松塚古墳の星宿図の西方七宿には金星が対応するのが大陸の天文学の考え方です。古代の人々は浦嶋子がヒアデス星団まで行った事は知らず、金星に行ったと思っていたのかも知れません。すなわち丹波の国で浦嶋子を誘った五色の亀すなわち神女とは、豊受大神だったのです。


 『備前国風土記逸文』に興味深い一文があります。「神功皇后が備前の国の海上を航海している時、大きな牛がいて船をひっくり返そうとした。その時、住吉明神が現れて牛を転がした。牛転が訛って牛窓になった。」 岡山の牛窓は住吉大社の真西であるのは興味深いことです。

 さて、牡牛座を追いかけてオリオン座が昇って来ます。牛を退かすのが住吉明神であるのは、オリオン座の三ツ星こそ住吉三神であることを示していると言えます。筒は星、実に素直な理解。

 住吉大社に星宮と言う摂社が置かれています。説明板は写真掲示板に。http://6314.teacup.com/kamnavi/bbs/

 竃神住吉大神と共に星辰の神御因縁浅からず厄除の為星祭を行う慣習古く古来竃殿に竃神を祀り、星神なりという。

 住吉大神は星神と理解しても良いような文言だ!!

 筒川の浦嶋子も天上仙家から昴星と畢星とを追い出して亀比売の夫に治まった。まさに住吉の神であり、筒の男。
 丹後と摂津とは住吉、浦嶋、船木、豊受大神でつながっているようです。

 浦嶋子のような伝説は世界にも無いわけではない。白鳥処女伝説はヨーロッパにも分布しているそうです。また畢星をあめふらしとするのはギリシャと同じ。牡牛座をオリオンが退治するのもこの国のお話と共通です。
 奈良時代と云えば大仏も造られ、唐やより西の国々からの来訪者も多く、色んな話が伝わって来たのでしょう。それが豊かな伝承を生んだのです。



[8292] Re[8240][8239][8238]: 青草[2786]などを受けて:−  Sara 2007/05/09(Wed) 22:51 [Reply]
> > 地図で見ると、第一・第二・第三本宮は、正確に東西ラインに並んでいませんよね。
>
>  おっしゃる通り、真西ではありませんね。
>  これに意味があり、かつわかれば、筒の由来にも近づくのかも。
>  意味があるとすれば、オリオンの三つ星が登ってくる角度と垂直との差かも。
>
>  よくわかりません。

[8291] 時のお話 6  神奈備 2007/05/09(Wed) 07:59 [Reply]
浦嶼子の宇宙旅行譚
 豊田有恒著『神話の痕跡』、大和岩雄『日本の神々 住吉大社』などに触れられていますので、参考にいたしました。

 にぎやかな色の五色の亀とはまさに空飛ぶ円盤のイメージそのものです。

  七たりの竪子とは昴星(すばる)のことです。6〜7個の星のまとまりに見えますが実際には120個の星からなるプレアデス星団で、星座としましては牡牛座の肩にあたります。
  八たりの竪子とは畢星(あめふり)でアルデバランです。牡牛座の顔にあたります。ギリシャ神話でも雨を降らす女と言われています。
  天上仙家とは、宇宙にある蓬莱のことで、100個の星のヒアデス星団とされます。130光年ほど離れています。

 下記の冬の大三角をご覧下さい。
http://www.astroarts.jp/special/2006winter/image/constellation1.jpg
 すばるとアルデバランが牡牛座を形成し、それをオリオン座の猟師が追いかけています。

 浦嶋子は300年以上経過して帰国しています。本人は3年程度留守をしていたとの認識。これは相対性理論が登場しないと説明できない現象です。

 『水鏡』(12世紀末)、『帝王編年記』(14世紀後半)などの書物には、浦嶋子は347〜8年後に帰って来たとしています。淳和天皇の二〜三年です。その頃の歴史は『続日本紀』に詳しいのですが、もちろん浦嶋子の記事は見えません。
 中世の知識人も興味をそそられてのでしょう、遊んで見たのでしょう。


特別講座
神奈備流相対性理論の怪説

 アインシュタイン曰わく。光のスピード(約30万km/1秒)で走ると年をとらない。
 
 神奈備 生まれたての赤児を照らすと、その姿は光にのって宇宙に進んでいきます。先端の姿はいつも生まれたての赤児です。まるで写真のごとし。すなわち、光の速度で走ると年をとりません。
 だから一光年先で見ていますと、一光年後に生まれたての赤児、二年後には1歳の幼児の姿、数拾光年後にはおっさんの顔が飛んできます。

 画像のイメージ 神奈備写真版 http://6314.teacup.com/kamnavi/bbs/

 神奈備 月へ飛んでいくと1秒長生き。
 月から地球へは光で約1秒かかります。我々は1秒後の月を見ているのです。人が光の速度で月へ行くと目の前の月がみられます。すなわちここで1秒得をしたことになります。

[8290] Re[8287]: 姫からの伝言  神奈備 2007/05/08(Tue) 18:27 [Reply]
> >住吉の地で姫神である豊受大神を祭っていたのですが、これが神功皇后に置き換わってしまったということ。

 『浦島伝説に見る古代日本人の信仰』増田早苗著 には、『摂津国風土記逸文』に「豊宇可乃売神はいつも稲倉山にいて・・」とある稲倉と、住吉大社の鎮座地を示す玉野國渟名椋長岡玉出峡墨江御峡の渟名椋とを同じ意味とする理屈を並べて、住吉大社の地に豊受大神が祀られていたとしています。

 稲倉と渟名椋とを同じ意味とは到底思えないのですが、それでも摂津国に豊受大神がいたとなれば、住吉津で祀られていたと考えてもいいのかも。

[8289] >8285へ  もののけ退治の安来武士 2007/05/08(Tue) 01:52 [Reply]
 なるほど銅鐸が、サナキといわれていたのですか?
実は、古代出雲の分析を行っていて、考古学的には
島根県出雲市周辺の西部出雲は銅鐸のような青銅器が発掘され
安来市周辺では鉄器の出土が多い状態になっており、弥生時代
の最後あたりでこの2つの拠点が特に栄えて絶頂期を迎えたこ
とが四隅突出墳丘墓のような出雲文化圏独自の埋葬様式から
伺えます。
それに重ねるように、安本美典氏の言説由来と思われる、
西出雲=イザナギ支配地、東出雲=イザナミ支配地という
仮説が見られ、東出雲には伊邪那美神陵地と考えられる
比婆山久米神社という根拠がありますが、西出雲がイザナギ
なのかという理由の大きなヒントに銅鐸=サナキはなる
ように思います。

[8288] Re[8274][8275]:飯盛りの姫  くず 2007/05/08(Tue) 01:40 [Reply]
遅くなりました。
> > 建御名方神と争った時、建御雷神は彼の手を氷に変え、剣の刃に変えました。
>  『古事記』では、建御雷神が自分の手を氷に変え、剣の刃に変えたのです。これに恐れて退いています。

ずっと勘違いしておりました^^
自らの手 ですと、対象に影響(変化)を与える呪術的な能力より、自らの能力を示した技術、技能的な神格を考えます。

>豊受大神
山で飯を盛る姫からは、水田稲作の前の時代。山を舞台に行われたと思われる焼畑農耕を考えます。

少し古いものですが、森浩一氏の「遺跡からみた大阪平野と人間の歴史・国府遺跡から古墳の終末まで」。参考にしました。
http://www.kubota.co.jp/urban/pdf/16/pdf/16_2.pdf
縄文の段で氏は「世界各地の土器文化は農耕からの必要性の中で生まれている」と考察され、
仮説として焼畑を推定し、粟、イモ類を作っていたのではないかとされています。
その後になって一部地域での稲プラント・オパールの検出により縄文から稲作が行われていた事がわかってきています。

古事記におきましても豊受姫の親神として和久産巣日神が、火之迦具土神によってホトを焼かれた伊耶那美命の尿から生まれ、また切り刻まれた迦具土神の体からは山の神々が生まれています。これを山の再生と見ます。もののけ姫のエンディングイメージです^^
これらの記事を焼畑農耕に由来するものではと考えます。

山で飯を盛る姫についてもうひとつ、
以前青草で書きました伊勢物語の筒井筒からですが、この物語の中で男が通った高安の女の姿
「手づから飯匙取りて、笥子のうつは物に盛りけるを見て」男は熱が冷めてしまうのですが、
同じ話が大和物語(百四十九段)に、
「いとあやしきさまなる衣を着て、大櫛を面櫛にさしかけてをり、手づから飯もりをりける。」とあります。
女の住んだ場所は龍田山こえていく道(の途中)。通った男は葛城の男で、
段は「この男は王なりけり。」と結びます。

生駒の山麓には飯盛りの姫の伝えが何らかに残っていたのではないでしょうか?
また飯を盛る姫の特徴的な大櫛から、縄文晩期の遺跡から見つかる朱塗りの櫛を想います。
この物語はさらに古い伝承を伝えているような気がしています。

[8287] 姫からの伝言  アカイマル 2007/05/08(Tue) 01:29 [Reply]
>住吉の地で姫神である豊受大神を祭っていたのですが、これが神功皇后に置き換わってしまったということ。

どうして(><)
このあいだ? の 
私が抜けているのかしら(±0±)/
ツーーーーン(=0=)

           アカル姫

[8286] 時のお話 5  神奈備 2007/05/07(Mon) 19:16 [Reply]
雄略天皇と時間の不思議

 『古事記』雄略天皇と引田部の赤猪子

 大和川で赤猪子と言う童女を見初めた雄略天皇はそのうちに迎えるから 嫁に行くなと言ったきり、忘れており、童女は80になりました。婚せんとも、すっかり老女となった赤猪子を悼み、歌を与えました。
 引田の 若栗栖原若くへに 率寝てましもの 老いにけるかも(歌謡九四)

 どう見ても雄略天皇は若いようです。赤猪子だけが歳をとるのかいな。何と残酷!


『日本書紀』巻十四雄略天皇二二年(戊午四七八)七月

 秋七月。丹波國餘社郡の管川の人、水江浦嶋子が舟に乘って釣りをしていた。そして大龜を得た。それがたちまち女となった。浦嶋子は感動して妻とした。二人は一緒に海中にはいり、蓬莱山に至って、仙境を見て回った。この話は別の巻にある

 『日本書紀では戻ってきたとは記していません。また亀からなった女はただの女のようで、神女とはなっていません。 

『万葉集巻九 一七四〇』 http://www.manyo.jp/heiseimanyo/manyoshu/019_1.html

 住吉の岸から船出をしています。これは摂津の住吉なのでしょうか、丹後の網野神社の鎮座地を墨江浦浜と言うそうで、丹後かも知れませんが・・。
 万葉集の歌では亀は登場せず、直接に海若の神の娘子と結ばれました。帰って来て玉篋を開けてたちまちの内に死んでしまったと言う内容です。

『 丹後国風土記逸文』http://www.ne.jp/asahi/tokyo/tanken/newpage156.htm

 浦嶼子は五色の亀を獲って船に置きました。亀は娘に変わり、天上仙家に誘いました。
 楼殿に着くと七たりの竪子、八たりの竪子が出ていき、浦嶼子は彼らと交代して入りました。
 3年楽しい時を過ごした嶼子は玉匣を貰って郷里に帰りました。何と300年経っていました。
 筒川の浦嶼子を日下部首等が先祖としています。

 注1 筒川 筒は星だから銀河を表すか。星の世界を旅したとの形容ともとれます。
 注2 日下部首 『姓氏録』開化天皇の皇子の日子坐王 『古事記』では、崇神天皇により丹波に派遣されました。浦嶼子はただの漁夫ではなく、丹波の支配者の一族です。
 注3 五色の亀 五色の亀はたちまち美しい女となりました。神女。亀比売と言います。五とは、宇宙の五元素を示し、神仙思想の不老不死と云う観念で書かれたので300年としているのかも知れません。
 また、神女との約束を破って霊験が吹っ飛んだと云うことです。だいたい男は女との約束を破っています。イザナギの命も同様です。イザナギの命の場合には地上の人間の生死に関わることでした。浦嶼子の話も寿命に関わっています。

[8285] 時のお話 4  神奈備 2007/05/07(Mon) 09:13 [Reply]
 伊勢の事が出たので、手力男神を祖神とする伊勢の船木氏について若干触れておきます。

 『古事記』に「手力男神者、坐佐那県也」とあるように、伊勢の佐那、現在の多気郡多気町仁田に佐那神社が鎮座、近くの多気郡多気町四匹田から銅鐸が出土しています。
 銅鐸のことを「サナキ」と言うのですが、「サナキ」は「サナ」や「ナキ」に訛ることもあるのでしょう。

 丹後に祀られた豊宇賀能売命は哭木村の奈具神社に鎮座しました。 このナグも銅鐸の余韻を残しているのかも知れません。
 船木氏は「フ・ナキ」、伊勢では佐那神社を奉斎、手力男神は内宮の相殿に祀られるほどの神であり、その神威はもの凄いものがあるはずです。その力は弥生時代には銅鐸として祀られたと考えてもいいのでしょう。
 銅鐸は忘れ去られたのではなく、手力男神のような強力な神の名として伝えられていたのです。

 佐那神社の手力男神や奈具神社の豊宇賀能売命とは銅鐸の威力を伝える神だったのかも知れません。

 余談ですが、紀州の伊太祁曽神社、江戸時代に祭神を手力男神とする説があったようです。お伊勢参りに便乗した神名だったのかも知れませんが、伊太祁曽の神は木の神、浮き宝(船)の神として名高く、これを船木とまとめて考えれば、あながちトンデモ説とは言えないのかも知れません。

 これまた余談ですが、佐那神社に須麻漏売神社が合祀されています。須麻漏とはスバルで、『枕草子』には、「星は、すばる、ひこぼし、明星、ゆふづヽよばひ星少しはをかし。云々。」とあるスバルのことで、プレアデス星団のことで、六つ位の星が集団になって見えるものです。実際には120個ほどの星の集団です。
 このスバルを伊勢に持ち込んだのは一体誰だろうかと思っていましたが、『豊受皇太神御鎮座本紀』には、止由気之皇太神の相従神として須麻留売神の名が見えることから、これは海部氏の裔の度会氏かと思われます。要は金星である豊受大神と共にすばるである須麻留売神がやってきたと言うことです。丹後の浦嶋子の伝承の根強さが偲ばれます。

 どうもお話が青草っぽくなって来ましたが、行きがかり上ここで・・・

[8284] 時のお話 3  神奈備 2007/05/06(Sun) 08:30 [Reply]
 『住吉大社神代記』から

  姫神宮。御名。氣「息帶」長足姫皇后宮、奉齋祀神主。津守宿禰氏人者。元手搓「見」足尼後。

  膽駒神南備山本記 四至 東限膽駒川。龍田公田。 南限賀志支利坂。山門川。白木坂。江比墓。西限母木里公田。 鳥坂至。 北限饒速日山。

 摂津の国にいた豊宇可乃売神は稲倉山にいたのですが、摂津のどこかの社で祀られていたのでしょう。丹後では船木の奈具に祀られています。摂津と丹後の共通要素に船木氏が現れました。
 『住吉大社神代記』に「船木等本記」の記載があり、日神を出す氏族として尊ばれています。天手力男を遠祖とし、大田田命、神田田命を祖神としています。彼らは住吉大社創建の頃と言うか初期の河内での王権確立の頃には重要な役割を果たしていたのでしょうが、その後の河内の歴史には登場していないようです。
 船木氏は大社の祭祀について津守氏との主導権あらそいに破れたのかもしれません。従って河内王権から見たら僻地のような紀伊國伊都郡丹生川上天手力男意氣績ゞ流住吉大神を祭祀し、鉱物を採取していたようです。

 後にわけがあって、やむをえず、ついに丹波の国の比遅の麻奈韋に遷さされたのは船木氏であり、船木氏が豊宇可乃売神を奉じて遷ったのでしょう。この女神は穀物の神とされています。そうでしたら本来は、日神・水神・竈神・酒神でもあったのです。従って元始の神といえます。

 日神を出すとはどういうことでしょうか? 天岩屋から天照大神を引っぱり出す、これは実に判りやすい。それだけでは単なる力持ちのこと、そうではなく、日神を舟に乗せて天空を西へ、また沈んだ日神を東から昇らせる役割が重要です。

 金星は明けの明星の場合、太陽より先に昇って来ます。それに続いて日が昇るのです。また宵の明星の場合には太陽が沈んだ後も輝き続けます。まさに太陽の運行を司っているのが金星だとされたのです。金星こそ豊受大神と見なされていたのです。金星は日神、月神の御祖ともされ、豊受大神がそのように見なされた始原の神に相応しいのです。

 丹後の海部氏は豊宇可乃売神を奧宮で祀っています。海部氏と津守氏は同族であり、豊宇可乃売神を祀っていたのでしょうが、河内の王権からは姫神としては神功皇后を祀るべく強制されたのではないだろうか。その段階で、津守氏は豊宇可乃売神とは袂を分かったのでしょう。

 神功皇后の母方の祖は天日槍命ですが、父方の祖は日子坐王です。従って共に日下首の祖である浦嶋子が祖神とも言えます。住吉大神は塩筒老翁でもあり、筒川の浦嶋子です。浦嶋子は住吉の地で姫神である豊受大神を祭っていたのですが、これが神功皇后に置き換わってしまったということ。

 『大神宮諸雑事記』
  雄略天皇二十一年、天照大神の要請で丹後国与謝郡真井原の豊受大神を伊勢国に遷した。

 『丹後国一宮深秘』
  雄略天皇二十三年、豊受大明神を伊勢国山田原に迎えた。
 伊勢では外宮先祭と云われており、地主神として外宮が先に鎮座しており、後に滝原宮から内宮へ天照大神が遷座して来たと言われています。
 外宮の度合氏は天村雲命の後裔を名乗っており、丹後の籠神社奥宮の豊受大神と同じ神とする伝承は古いものがあったと言えます。
 古代、先ず祀る神とは食物の神であったろう。これは伊勢に限らず、丹後でも摂津でも同じこと。

[8283] 時のお話 2  神奈備 2007/05/05(Sat) 08:23 [Reply]
 『丹後国風土記逸文』から。

 比治の里の比治山の頂上に真奈井という井戸があり、ここに天女が八人が降りてきて水浴びをしていました。その時、和奈佐老夫・和奈佐老婦という老夫婦が、ひとりの天女の衣を隠してしまったのです。このため、天女は天に帰ることができなくなり、やむを得ずこの夫婦の娘になりました。

 この娘は酒を造るのが上手で、その酒は高く売れ老夫婦は金持ちになりました。すると老夫婦は娘がもう邪魔になってしまい、追い出してしまったのです。
 娘は悲しんでその村を去り、やがて船木の奈具の村に至り、そこで暮らすようになりました。この娘が豊宇賀能売命である。
 丹後国加佐郡 式内社 奈具神社「豐宇賀能賣命」
玄松子さん http://www.genbu.net/data/tango/nagu_title.htm

 奈具岡遺跡から水晶の工房跡が出土しています。水晶玉はレンズとなり、日から火をおこすことができました。日神の後裔に火明命がいるのも頷ける所。
 船木氏、日置氏や日下首の得意技だったのかも。
奈具岡遺跡 http://inoues.net/tango/naguoka.html

 丹後の籠神社は海部氏の齋祀る一宮であり、その奥宮は真奈井神社と云い、祭神は豊受大神です。
 『豊受大神宮御鎮座本記』には、「崇神三十九年に天照大神を丹後の吉佐の宮に遷した。」とあり、また「高天原から豊受大神も降りてきて天照大神と一緒に吉佐の宮にいた。」と出ています。海部氏の勢力が天皇家に近い存在である事が偲ばれる説話と思われます。


『摂津国風土記逸文』から。

 昔、止与宇可乃売神は山の中にいて飯を盛った。それによって名とした。
 またいう、−昔、豊宇可乃売神はいつも稲倉山にいて、この山を台所にしていた。のちにわけがあって、やむをえず、ついに丹波の国の比遅の麻奈韋に遷られた。

 稲倉山の候補地
  摂津国河辺郡 式内社賣布神社の裏山 中山寺の奥宮が鎮座
紫雲山中山寺奥院 http://kamnavi.jp/mn/kinki/nakayama.htm

 飯を盛ったと言う所からは:−
  飯盛山 生駒山北部。ここなら住吉大社との関係があるかも。
  泉南の紀伊との境。
  泉佐野市の関空の反対側の山中に稲倉池があります。

  良くわかりませんが、豊宇可乃売神は摂津で祀られていたと思われます。

[8282] 時のお話を少し。  神奈備 2007/05/04(Fri) 19:35 [Reply]
1.人は時を感じる。腹時計が始め。

1−1 巡り繰り返す時間 年々歳々花相似たり
 万葉集巻第十 二一七七 春は萌え夏は緑に紅のまだらに見ゆる秋の山かも

1−2 流れゆく時間 歳々年々人同じからず
 ゆく河の流れは絶えずして、しかももとに水にあらず

1−3 越えられる時
 田島守が探しに行った非時香実(ときじくのかぐのこのみ)=橘(季節を越えて実る)
 代々 黄色の実が春になると青くなる。代々長生きをする。

 山部宿禰赤人が不盡山(ふじのやま)を望(み)てよめる歌一首、また短歌
 巻第三 三一七 天地の 分かれし時ゆ 神さびて 高く貴き 駿河なる 富士の高嶺(たかね)を 天の原 振り放け見れば 渡る日の 影も隠ろひ 照る月の 光も見えず 白雲も い行きはばかり 時じくそ 雪は降りける 語り継ぎ 言ひ継ぎゆかむ 不盡の高嶺は

 時を遙かに越えるお話は、雄略天皇の時代に引田部赤猪子や浦嶋子のお話があります。

2.豊受大神は浦島子と共に丹後と摂津を結びます。豊受大神こそ浦島子を竜宮に連れていった神女だと思われます。

 『豊後国風土記逸文』
 豊後の国の球珠の郡に広い野のあるところに大分の人が家を作り田を作って住んでいた。家が富み楽しい生活を送っていた。酒を飲んであそんだが、ふと弓を手に入れた。弓を射ようとしたが的がなかったのだろうが、餅を的にして射た。その餅は白い鳥となって飛んでいってしまった。その後、家は衰えて、やがて行方知れずになってしまった。

  『豊後国風土記』の冒頭にも白い鳥が飛んできて餅になる話が記載されています。天女が白鳥に化して穀物の神となっているようです。天女は豊国の保食神であり、豊受神と称されたのです。この白い鳥の天女は今度は丹後に舞い降ります。『天皇家と卑弥呼の系図』澤田洋太郎著)に、豊国と丹後の地名一致が指摘されており、豊国の海部氏が丹後に移動したと云う説をだされています。
 豊国と丹後を豊受神、火明命の三世孫の椎根津彦や船木氏がつないでいるようです。

[8281] 戒壇めぐり  MADOKA [Url] 2007/05/04(Fri) 09:11 [Reply]
かまどさん
>そう言う大きなスケールで見た人っていないんじゃないでしょうか。そう言う風に見るとなんか新しいものが見えそうな気がしますね。

んー??そうか?
胎臓界まんだら=四国巡礼
他にどういう意味があるというのだ。。
と前からおもってたのよねえ
私はこんなことは 他にも言っている人があるんじゃないかとサイトで今回調べて どうもイナイなあでがっかり。。

なーーんでかなあと今回アラタメテ四国遍路のことを調べてみたら、わかった!一般的には空海が四国遍路をつくったとおもわれていますが。。どうもそうはいえないらしい。もともと、聖(ひじり)が人里離れた山や洞窟などで修行をしている先例があり。四国の海岸沿いの「四国辺地」 山伏の四国辺路があり。この上に お大師信仰がのかって 融合していったのが四国霊場巡礼の起源らしい

四国遍路の歴史
http://www.museum.tokushima-ec.ed.jp/hasegawa/manyu/henro2.htm

>町石道で小宇宙、四国・高野山で大宇宙を描いていたら・・・。壮大なスケールで面白そうですね。

町石道と良く似たの四国にあるよ!
私の四国巡礼=胎臓界マンダラのヒントになったとこ
下記の戒壇めぐり!
戒壇めぐりは各地にあれど たぶん日本一怖い戒壇めぐりであると思う!!(±0±)/
長ーーいウネウネしたコースに微妙な段差が真っ暗闇で方向感覚がなくなり超こわーーい(+0+)/
鼻先にいる人もわからなくなるのだ!
この戒壇めぐりの足元のスノコの下に四国八十八霊場のお砂が敷かれていて 周囲はマンダラが描かれている。わたしはこれは胎臓界マンダラに違いないとおもってたんだけど。。今回調べたら、マンダラの37尊! 37尊といえば たぶん 金剛界37尊のことだから、戒壇めぐりが大日如来の胎内で胎臓界 周囲のまんだらが金剛界で 両部まんだら なんだろうとおもうにゃーー 戒壇めぐりでこの世のでの罪業消滅とかいうのも、両界マンダラを通過する胎内めぐりで生まれ変わるという意味なんでないかあ
『四国霊場 第75番 善通寺』
http://45988.web.fc2.com/junrei/75/75z.htm
 『両界曼荼羅 曼荼羅のおしえ─祈りと悟りの造形に学ぶ─ 小林暢善』
http://www.sakai.zaq.ne.jp/piicats/mandara2.htm
奥之院 御廟橋 (みみょうのはし)
http://www.reihokan.or.jp/yomoyama/various/oku/meisyo/mimyo/mimyo.htm
高野山町石道をガイドしましょう
http://www.katuragi.or.jp/tyouisimiti/gaidosimasyou.htm

[8280] Re[8279]: Re 浦嶋子と住吉→丹後  神奈備 2007/05/01(Tue) 10:17 [Reply]
とみたさん、コメントありがとうございます。

> 丹波の籠神社から豊受神を伊勢神宮外宮に移したのは、716年前後でしょうか。

  712年成立とされる『古事記』天降の条に、「登由宇気の神、これは外つ宮の度相にいます神」とあり、一応712年より昔と考えています。


> ちょいと不思議なのは、神武東征で海道を案内した倭宿禰が海部氏の祖として祀られていることです。この人も亀に乗ってきますね。

 倭宿禰の場合『古事記』では、亀に乗ってですが、『日本書紀』では小舟です。


 浦嶋子の亀ですが、『丹後国風土記逸文』では神女、『日本書紀』では「大亀をえたが女になった」とあり、神女ではありません。『万葉集』一七四〇では、亀は登場せず、突然、「海若(わたつみ)の 神の娘子」の登場です。

 『古事記』の伝承、『風土記』の伝承が古いような気がします。


> 宇良神社(浦嶋神社)
 
 この神社には玉手箱に入っていた直径5cmの水晶玉があるそうです。御神体かどうかは不明。
 また豊宇可乃売神がたどり着いた船木の奈具(弥生町奈具)の奈具岡遺跡からは水晶の玉作工房跡が出土しているようです。
http://inoues.net/tango/naguoka.html

 水晶玉は美しいもので飾装飾品としても貴重だったのでしょうが、レンズとして集光の機能があり、火をおこす働きもあったようです。
 太陽(日下、日置) → 火 → 火明命???


> 彦火明命→天香語山命→天村雲命と続いていて天香語山命は木国熊野に遷り、お大屋津姫命を娶て高倉下を生んだ。

 この流れが悩ましい所です。大屋津姫命を娶ったのは大屋彦命とか五十猛神と云うことで、そうしますと、天村雲命=五十猛神となってしまいます。天村雲命を八岐の大蛇から出た太刀と考えますと、素盞嗚尊の御子と言えるかも。そうしますと五十猛神と一緒でも差し支えはなさそうです。
 また倭宿禰も天村雲命の御子と系図には出ており、

> まあいろいろな話が付会してややこしいのであります。

ということで、同感です。だから面白い。



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