神奈備掲示板の案内とログ

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掲示板のログ(平成十九年 九月 2007.9)お名前の敬称は省略しています。

[8469] 上田の虚空蔵堂  素人 2007/09/30(Sun) 01:23 [Reply]
神奈備 さま
書き込みが遅くてすみません。
>  虚空蔵については寺社の形だけではなく、山の名前にも多く残っているようです。例にあげていた信州上田市では北部に太郎山があり、その西側と南東側に虚空蔵山の名が見えます。太郎はタタラを思わせますし、鉱山の雰囲気がありありです。黄鉄鉱が採れたそうです。
>
蛇足ですが、
上田にも丸子温泉郷に虚空蔵堂があり、この周辺に
西内鉱山 小県郡西内村穴沢(北0.5Km) Cu  長野県小県郡丸子町穴沢
立倉鉱山 小県郡西内村熊倉  Cu,Pb,Zn,Au,Ag 長野県小県郡丸子町熊倉
などの鉱山跡があります。そして、今でも硫化鉄が出る長野県小県郡武石村下本入などがあります。火山性の鉱山地帯です。
虚空蔵堂 上田市東内の地図。地名にもなっているようです。
http://www.mapion.co.jp/c/f?uc=1&grp=all&nl=36/18/02.028&el=138/11/50.584&scl=70000&bid=Mlink

[8468] Re[8467]:[8466] 加古川流域  神奈備 2007/09/28(Fri) 10:21 [Reply]
 いこまかんなびさん それぞれ難しい問題です。以降かってな憶測です。

> 大歳神は、住吉の世界が広がる前に古くからその地に住んでいた人達が祀っていた古い神

 『播磨国風土記』(賀毛の郡)の起勢の里(社町南部に古瀬の地名あり、また小野市の加古川東岸とも)に条に、「臭江 品太天皇の御代に、播磨の国の田の村君は百八十(ももやそえ=たくさん)の村君があって自分の村でそれぞれに闘いあっていた。天皇はこの村に追い集めてことごとく皆斬り殺した。だから臭江と言う。」と言う記事があります。
 村君とは土蜘蛛のようなまつろわぬ存在だったのでしょうが、田の村君とある所から見ますと、農耕民のようです。彼らが祀っていた神を大歳神と称したのかも。歳神は正月にやってくる神の意味もあるのでしょうが、大歳神は農耕の神のようです。


> 住吉の神の世界が覆っていった

 そういうことでしょう。『播磨国風土記』(賀毛の郡)の河内の里(小野市の住吉神社付近?)に、「この里の田は草を敷かずに苗の子を蒔く。そうするわけは、住吉の大神がのぼっておいでになった時、この村で食事をされた。そしてお供の神たちは人が刈っておいた草を解き散らかしてお坐りになる敷物とした。その時村人は大変心配して大神に訴えた。大神が仰せられるのは、「お前の田の苗は草を敷かないでも草を敷いたようにかならず生えるだろう。」と言った。

 ここでは住吉の神は農業神として現れています。ここに大歳神と混線する要因がありそうです。大歳神社に覆さっていった所もあったのかも。


> 鴨田神社(祭神-加茂別雷神)

 『大阪府史蹟名勝天然記念物』によりますと、古来祭神は定説なし。住吉明神となすには拠り所なし。事代主命、大田田根子命、大己貴命、大賀茂都美命、神魂命。地域の氏族の祖神を祀っているのであろう。として神魂命をおしているようですね。

[8467] Re:[8466] 加古川流域  いこまかんなび [Url] 2007/09/27(Thu) 21:07 [Reply]
神奈備さん、どうもご教示ありがとうございます。

っていうことは、大歳神は、住吉の世界が広がる前に古くからその地に住んでいた人達が祀っていた古い神(例えばあちこちの大己貴神のような神)の世界に、新たな政治的支配が及んでいった住吉の神の世界が覆っていったということなのでしょうか。<はたしてこういう表現がいいのかどうか。>

単純な疑問なのですが、大の字の付いた神ってたくさんありますよね。大歳もそうなんですが、大の意味は何なんでしょうか。大げさ?偉大な大の字をはずせば、歳の神、大をとった神の名を考えてみると、これも何かとヒントに出合うのか。もうどなたかが指摘され議論伯仲だったのカモ。

ところで、播磨の国、賀茂郡の賀茂という名のルーツも、考える必要があるのカモ。

以前、大田々根子と関係が深い土地、堺市は泉北の陶荒田神社の南西、多治速比売神社に合祀された、もと大平寺村に鎮座したという鴨田神社(祭神-加茂別雷神)は、通称「住吉神」といわれていたようなのです。なぜなのかと。これまた鴨の神イコール住吉の神だったのでしょうか。
私にはまだまだわからないことばかりです。

[8466] Re[8465]:[8464] 加古川流域  神奈備 2007/09/27(Thu) 10:55 [Reply]
> 中世以前の土器包含層が露出していて驚いたのですが

流石いこまかんなびさん。本当の慧眼ですね。


> 大歳の神も住吉の神と同じ神なのかなぁーと感じる程でした。

『住吉大社神代記』に住吉大社(大神)の子神に大歳神の名が見えています。大社近辺の神社を殆ど子神として網羅しているようです。現在、摂社に大歳神社が鎮座。

 また、子神である赤留比賣命神の注として、中臣須牟地神と草津神の名が見えます。この草津神とは草津大歳神と見なされているようです。草津大歳神社が稲米を中臣須牟地神社に指しだし、ここで酒を醸し、喜連の赤留比売神社で新羅使節に給したことが延喜式玄蕃寮に記載されているとのこと。摂津国住吉郡の式内社に草津大歳神社があります。三社は磯歯津路沿いに鎮座していたようです。

 河内の平石に磐船大神社と言う磐座が点在する神社があります。近くに高貴寺があり、神仏習合時は寺の鎮守であったようです。この高貴寺に伝わる『河内高貴寺縁起』に、「風聞には当所、底筒男命、『旧事本紀』に言う饒速日尊、自ら天降りて御座す。岩船明神是也。」と書かれているのです。住吉三神の一柱である底筒男命とは物部の遠祖である饒速日尊であると言う内容です。
 また、いささか怪しいと感じている神社伝承学の小椋さんの本『消された覇王』の中で、大年神とは饒速日尊の幼名だとありました。上記から住吉神(底筒男命)と大年神とはイコールでつながります。

 しかしながらどうもこちらからのアプローチでは加古川流域を説明することにはならないようです。兵庫県に数多く鎮座する大年神社・大歳神社には大年神は祀られているのですが、饒速日尊の名で祀っている神社は一つもありません。

 加古川流域には多くの大歳神社が鎮座しており、多分住吉神社が祀られ始める以前から大歳神社が鎮座しており、神社と言えば大歳神社だったのでしょう。『住吉大社神代記』「播磨国賀茂郡椅鹿山の領地田畠」の項がもうけられているように、この付近は住吉大社の神領になっており、紀州や難波から船木氏などが植民して来て、彼らは住吉神社を祀っていったのでしょう。それでも地元の方々は神社と言えば大歳神社なのだと思い続けたのでしょう。

 それで住吉神社を大歳神社と呼んできたのであり、おそらく大歳神社を住吉神社との逆さまはなかったのでしょう。住吉神社に大歳神が合祀されていますが、住吉三神を祀らない住吉神社は見あたりませんから。

[8465] Re:[8464] 加古川流域  いこまかんなび 2007/09/26(Wed) 20:14 [Reply]
こんばんわ。以前、東播方面を住吉神社に絞って小野市などを回った時、確かに大歳神社が沢山あって驚きました。
その際は、大歳神社まで手が出ずじまいで、住吉さんだけでも今や失速状態です。
加古川から東岸の東条川を遡った所の小野市住吉町〜中番町〜船木町〜垣田神社のある小田町上流にかけた5km程の間には、住吉神社・住吉系神社に混じって8社程の大歳神社があるようで、びっくりでした。
現地に説明板がある神社は珍しい方で、船木氏と関係深い船木の地で、たまたま訪ねた小さな神社では、中世以前の土器包含層が露出していて驚いたのですが、本殿前の拝殿には「大歳神社」の扁額があると思えば、境内の対で立つ燈籠には「住吉大明神」と刻まれていて、まだ私には詳しく分からなかった段階でしたので、大歳の神も住吉の神と同じ神なのかなぁーと感じる程でした。
ただし過去の合祀も考えられるでしょうが。

[8464] 加古川流域  神奈備 2007/09/25(Tue) 15:57 [Reply]
 加古川流域には住吉神社や大歳神社が多く鎮座しています。足代書店主の足代さんのお話のよれば小野市山田町橋形に鎮座する住吉神社は何故かオオトシ神社とも呼ばれるそうです。播磨国賀茂郡の式内社である住吉神社の元社ともされているようです。
 他にもそのような神社があるそうです。
http://d.hatena.ne.jp/heisai/?of=5

 以下、『平成祭礼CD』で調べて見ました。

 播磨国の大歳神社で祭神は何故か三筒男命のみが二社。大年神社も二社。 
  三木市細川町増田 大歳神社「上筒男命 中筒男命 底筒男命」
  三木市細川町瑞穂 大歳神社「上筒男命 中筒男命 底筒男命」
  姫路市四郷町本郷 大年神社「大年神 (合祀)上筒男命 中筒男命 底筒男命」
  神崎郡福崎町大貫 大年神社「大年大神 住吉大神 底筒男命 表筒男命 中筒男命 ほか」
 全国で探してもこのような事例は播磨国のみです。

 逆に住吉神社で大年神が合祀されている事例は全国で6社、うち播磨国で4社。

 播磨国では住吉神と大年神とは実に似たようなと言うか同一視されているように見えます。住吉→海の神→水の神→穀物の神→大年神などなら全国的にそうなりそうですね。不思議なことです。

[8463] Re[8462]: 古代と鉱山  神奈備 2007/09/25(Tue) 13:07 [Reply]
> 生島足島の宮の南西に同社の元宮と言われる泥宮神社があります。

 泥から土へ、いかにも神話的というか、的をえた元社のようですね。可美葦牙彦舅尊の次ぎに国底立尊が現れる思いです。

 
> 元宮の泥宮神社から生島足島神社、そして一ノ鳥居、丘を越えて信濃国分寺へと繋がるラインが夏至の日の出線に重なるというものです。

 日の入りの方向に女神岳が来ます。両社からはきれいな神奈備山のように見えます。

 
 信濃、農業生産力もたいしたことはなさそうな信濃、その割にはこの国の歴史に大きい存在感を持っているように思えます。諏訪明神、金属、日本中央。

『日本書紀』巻二九天武天皇十三年(六八四)二月庚辰《廿八》◆庚辰。遣淨廣肆廣瀬王。小錦中大伴連安麻呂及判官。録事。陰陽師。工匠等於畿内。令視占應都之地。▼是日。遣三野王。小錦下悉女臣筑羅等於信濃令看地形。將都是地歟。

 天武天皇は信濃に都を造ろうとしていたようです。吉野のような神仙境をイメージしていたのかも。

 そういう意味では、長野からのくずさんのおっしゃる通りに、五行思想の影響も生島足島神社に残されているのかも知れません。

 各地の方がそれぞれの地元の歴史を語り、それを積み上げて行けば素晴らしい日本史の物語ができるのでしょう。

[8462] Re[8461][8460][8458][8457]: 古代と鉱山  くず 2007/09/24(Mon) 19:02 [Reply]

>話を変えますが、この上田市で注目すべきは生島足島神社が鎮座していることです。日本中央生島足島神社がキャッチフレーズです。

ご無沙汰しておりました。長野からです。
生島足島の宮の南西に同社の元宮と言われる泥宮神社があります。
中央にあって土を御神体とするのは中国五行を発現としたものではないかと考えます。
科野において塩田平と屋代(埴科郡、森将軍塚がある)は、多氏の本館地であったようですし、
多氏そのものも、中央と土、埴土に特別の意識を持った氏族だったのでしょう。
科野の地に生島神、足島神を祀ったのは、豊秋津島(本州)の御霊を祀るのに、その中央と言う意味が重きをなしたものと思います。五行的に。
現在の地理から行くと本州の中央は諏訪のやや南で、上田はちと北よりなのかも知れませんが、上田の地を流れる千曲川(信濃川)の河口からの距離と、天竜川の河口から諏訪、蓼科を越え塩田に至る距離はほぼ同じ。
そして科野のこの地を中央とみなす発想は、津軽海峡を知り、本州を島と見なす感覚がなければ、
(支配が及ばない東国を別国と考えた発想からは)生まれてこないのではないかと思います。
海運、河川舟運にたけた氏族が想定出来るのではないでしょうか。

もう一つ、生島足島神社の配置(設計)には面白いものがあって、
元宮の泥宮神社から生島足島神社、そして一ノ鳥居、丘を越えて信濃国分寺へと繋がるラインが夏至の日の出線に重なるというものです。
http://naviblog.mapple.net/outdoor/2006/09/post_8c6b.html

五行を知り、舟運にたけ、朱と太陽を祀る。そして鉄の伽耶に太くパイプを持ったこの国の初期成立に深く関わった氏族。
それが自分の多氏に関するイメージになります。

[8461] Re[8460][8458][8457]: 古代と鉱山  神奈備 2007/09/18(Tue) 20:02 [Reply]
 虚空蔵については寺社の形だけではなく、山の名前にも多く残っているようです。例にあげていた信州上田市では北部に太郎山があり、その西側と南東側に虚空蔵山の名が見えます。太郎はタタラを思わせますし、鉱山の雰囲気がありありです。黄鉄鉱が採れたそうです。


 話を変えますが、この上田市で注目すべきは生島足島神社が鎮座していることです。日本中央生島足島神社がキャッチフレーズです。
http://www.genbu.net/data/sinano/ikusima_title.htm

 由緒は
@信濃国造[多氏金刺氏他田氏]が国魂の神として勧請した。
A諏訪神が信濃に来た際に二柱の大神に奉仕し米粥を煮て献ぜられた。
 Aによりますと国造制度以前の古社のようですが、@の伝承と合わせようとすると、 古来からの地主神があって、そこで難波の生国咲国魂神社から国魂神を勧請することによって、神社として形をなしたと言うことでしょう。

 御神体は大地というか、土間のようです。池の中の土地を祀っているようですが、この池には葦などが生えてその根元にスズ(褐鉄鉱)ができたのかも。それを祈念したのかもしおれません。

 大和国の樫原神宮の近くに生国魂神社が鎮座しています。元は神武天皇の墓とされる場所に建っていたのですが、その墓を守っている村人ともども畝傍山から追い出されており、その東側に鎮座しています。ここでは金属は関係なさそうです。この近くの牟佐坐神社は生霊神を祭神としており、周辺には池があり、往古は湿地帯だったようです。やはりスズの生成を祈ったのかも。

 難波の生国咲国魂神社も神武天皇が奉ったとの伝承があります。国魂と言うのは支配者が奉りたいものだし、国魂が付着しなければ支配者(天皇)にはなれないのでしょうから、信州地方の支配者も国魂を奉りたかったのかも。
 往古は上町台地の北端に鎮座、東側は河内湖、スズかも。

 所で難波の生国咲国魂神社の元社と言う神社が尼崎に鎮座しています。生島神社ですが、ここの由緒には、社伝によれば人皇第十六代仁徳天皇当地方に行幸のみぎり、生島巫神を鎮め給ひ、其の後天皇都を高津(大阪)に遷されるや、当生島巫神を大阪の庄石山崎(現在の大阪城附近)に遷座せられたとあります。尼崎の神社は海岸沿いだったのでしょうが、これがスズや金属と関係したのかどうかよく分かりません。

[8460] Re[8458][8457]: 古代と鉱山  素人 2007/09/16(Sun) 01:35 [Reply]
神奈備 さま
書き散らかしたすみません。
> とみたさん、どうもです。
>
> 西日本に多い妙見菩薩、東日本に多い虚空蔵菩薩への信仰は鉄(採取)の神への信仰です。古代には鉱石は星が落ちてきたもの(隕鉄)と思われていたようです。星への信仰は北斗七星(妙見)であったり金星(虚空蔵)であったりさまざまだったのでしょう。
>
虚空蔵菩薩は前にこちらで、話題になった岐阜の金生山の虚空蔵菩薩と石灰山山頂のヘマタイト鉱床(赤鉄鉱)など典型でしょうか。
妙見信仰も日本に製鉄が最初に導入されたと思われる総社市の鉄鉱石が出たと思われる付近に妙見社が現在もあります。スカルン鉱床(磁鉄鉱)。
両者は鉱山・鉱石と密接に関係があるように思われます。

[8459] Re[8457]: 古代と鉱山  素人 2007/09/16(Sun) 01:16 [Reply]
とみた様
>素人さん、
>何時も鉄情報をありがとうございます。確か水銀にもご興味がおありのようですか>らご存知でしょうが、中国の水銀生産に関する最新情報を提供します(中国の科学>者三人のレポートで関係部分のみ抜粋)。

>中国の水銀採掘・使用の歴史は、2000年以上の長きに渡り、辰砂(硫化水銀)は>寿命を延ばす薬と信じられてきました。中国の水銀埋蔵量は世界三位。主な鉱床は、貴州・山西・河北・四川です。水銀資源の70%は貴州省にあるそうです。

>貴州省の万山は水銀の都とされています。600年以上掘られ続けているとか。
>私の興味では、日本の出雲の四隅突出墳で有名な西谷2号墳(弥生時代後期の墓)>の朱=辰砂は中国の陝西省の産とされています。

>古代は、国産の朱が取れるまでは、海外から輸入してと思っていますが。

いつも貴重な情報ありがとうございます。
鉄鉱石でも水銀・辰砂同じですが、原始的採取期には漂砂鉱床や岩鉄堆積鉱床など河川侵食で発生した堆積物から容易に入手できてかなりの量が流通したりして、資源が枯渇すると一時流通量が減ったりしたと思われますが、流路を遡って鉱脈の露頭部に到達して鉱脈の採取が始まると生産が増加したと思われますが、しかし稚劣な採鉱技術ではあまり生産は続かなかったのではと推測されます。意外と河川の堆積物の採取期が鉱石の採取量が多かったりしたかもしれません。技術の進歩に伴っていくつかの山と谷を繰り返したのではないかと推定されます。辰砂や水銀の生産がどの変から生産が始まったかが問題ですが、意外と初期は採取の条件が好いために多量に流通したかもしれません。秦の始皇帝の時期に大量消費で初期資源が枯渇して、中国では辰砂・水銀は貴重であったかも知れません。そのために、探査の手を伸ばしていたのかもしれません。この時期以後ですと日本では採取可能な初期資源を輸出するチャンスであったかもしれません。鞍山の鋳鉄と交換できれば1世紀の鉄器への切り替えも出来たのではと都合よく,私は早い時期ではないかと夢想しています。
 鉄の話に戻って、鞍山の漂砂鉱床は広大な地域に広がっていたと推定できます。
鞍山は遼河(大遼河とも言う。)の支流・太子河の支流に接しています。
太子河はさらに遼陽を通り、鞍山と同じ鉄鉱地域の本渓へと遡る。この地域は太子河の支流が多くの鉄鉱区地域を流れ遼陽付近で平野に出て川幅を広げる。そのために遼陽付近では流れが緩やかとなり上流から流されてきた、多くの砂利や砂が沈積するものと思われる。
古代に鞍山地域に堆積していた、漂砂鉱床・岩鉄堆積鉱床は埋蔵される莫大な鉄鉱石の量から推定して、莫大な量で彫りつくされたものと考えられます。この鉄鉱石で生産された鉄の量は莫大な量に上ったと思われます。半島の貧弱なスカルン鉱床の磁鉄鉱に比べはるかに莫大ですし、手ごろな大きさの岩鉄が手に入ったわけです。古代の日本を石器から鉄器に短期間に置き換えるのに余りある量と推定されます。歴史を見るにも鉱物の圧倒的量は重大な因子です。
蛇足ですが。
 以前奈良に行ったとき、三輪山の前に垂れ込めた黒雲の下で雷が暴れているとき、黒雲のなかから大きな白い鳥が一羽、飛び出してきて二上山のほうに飛んでいきました。丁度、三輪から耳成山に向かう途中でした。この後、天之香久山に行き、最後に畝傍山に向かいました。近づくと遠くから見えていた畝傍山は見えなくなり、神武天皇陵と樫原神宮が眼前に広がりました。少し離れると畝傍山が見えてきます。曽我川は畝傍山のこちらと反対側を流れているようです。前にご紹介した,四明山麓の盆地を流れ杭州湾に流れる曹娥江と偶然ですが奈良盆地の曽我川は似た名前です。南から北へと流れる川としては同じです。
浙江省曹娥江(左上が紹興市)
http://maps.google.co.jp/maps?ie=UTF8&t=h&om=0&ll=29.818008,120.916901&spn=0.675562,0.869293&z=10

[8458] Re[8457]: 古代と鉱山  神奈備 2007/09/14(Fri) 18:16 [Reply]
とみたさん、どうもです。

西日本に多い妙見菩薩、東日本に多い虚空蔵菩薩への信仰は鉄(採取)の神への信仰です。古代には鉱石は星が落ちてきたもの(隕鉄)と思われていたようです。星への信仰は北斗七星(妙見)であったり金星(虚空蔵)であったりさまざまだったのでしょう。

絶壁のへばりついた堂の建造、懸け造りですが、その絶壁から金属が採取されていたのかもしれません。

それゆえの懸け造りとの見方がネットの中にはあるようです。当を得ているのかも。

 福士幸次郎『原日本考』
各地にある佐奈、佐波、佐貫、讃岐、佐野には産鉄遺跡が出土し、佐奈具、猿投、散吉の地名からは鉄(銅)鐸が出土としています。

神奈備掲示板3967号2003/02/26(Wed) ペギラさん
谷川健一著「青銅の神の足跡」にいくつか提示されています。
(そういえば、日光の話も、猿と朝日、猿女と小野、猿と馬で考察ありますね。)
記述順
伊賀上野・佐奈具(さなぐ)
静岡県・佐鳴(さなる)湖
愛知豊田・猿投(さなげ)神社
大和広瀬郡散去(さぬき)郷(馬見村大字三吉(みつよし))
因幡散岐(さぬき)郷・(八頭郡河原町佐貫(さぬき))
小豆島大鐸(おおぬて)
但馬国朝来郡佐嚢神社
三重県桑名郡佐乃富(たのとみ)神社(多度町八剣宮)
武蔵・金さな神社
といったところでした。

それ以外にも佐奈豊川市千両町の佐奈川べりにある犬頭神社には、1個の銅鐸が宝物として所蔵されているそうです。

江戸時代に作成された『真田家系図』に拠れば、真田氏は清和源氏の末裔となっています。この氏族が上田市の真田に住んだから真田を名乗ったのですが、真田はサナ+タであって、やはり金属に関わっていた土地だったのでしょう。山家神社が鎮座、伊邪奈美命を祭神としているようです。余談ですが、この神の名にもサナが含まれています。またこの社には修験者の浄定が白山権現を勧請していますが、修験者も金属の匂いを探したとも言われます。

[8457] 古代と鉱山  とみた 2007/09/14(Fri) 11:49 [Reply]

>神奈備さん、
信州上田も妙見信仰の大星神社や太郎山周辺に鎮座すると言われる鉱山神があり、金属採取に関わっているようです。

 NHKの大河ドラマの片目の軍師は実在の人物ではなかったそうですが、片目であるのは金属精錬に通じるようで、甲斐や信州は金属に関わる土地柄だったのです。

武田信玄が、鉱山師に何を掘らしていたのでしょうね。

金か鉄か、戦には軍資金要りますものね。或いは敵情を知るための通路として地下道を掘ったのかもしれませんね。

軍師山本勘介?の片目が、天目一箇神の一目の象徴だとは初耳です。
一つ目小僧は、タタラ炉の穴より熔鉄がの状態を見つめるんですね。
鍛治職の神格化だとされています。勘介は遠州か駿河かあのあたりに生まれたことになっているようですが。・・・

妙見信仰とのつながりがわかりませんね。

道教の思想で、北辰(北極星)は宇宙の最高神、謂わば総理大臣で、北斗(七星)は各省大臣だそうです。生死禍福を支配する権限を持っている神様です。中国では4世紀の南北朝に、北辰信仰、北斗信仰が始まっているようですね。妙見信仰は、北斗信仰と仏(蜜)教が習合したんでしょうか。北辰菩薩は諸国土を擁護し作りなすところはなはだ奇特であるので、名づけて妙見という、敵を退け国土を守る。奈良時代には伝わっていたようです。

>素人さん、
何時も鉄情報をありがとうございます。確か水銀にもご興味がおありのようですからご存知でしょうが、中国の水銀生産に関する最新情報を提供します(中国の科学者三人のレポートで関係部分のみ抜粋)。

中国の水銀採掘・使用の歴史は、2000年以上の長きに渡り、辰砂(硫化水銀)は寿命を延ばす薬と信じられてきました。中国の水銀埋蔵量は世界三位。主な鉱床は、貴州・山西・河北・四川です。水銀資源の70%は貴州省にあるそうです。

貴州省の万山は水銀の都とされています。600年以上掘られ続けているとか。
私の興味では、日本の出雲の四隅突出墳で有名な西谷2号墳(弥生時代後期の墓)の朱=辰砂は中国の陝西省の産とされています。

古代は、国産の朱が取れるまでは、海外から輸入してと思っていますが。





 

[8456] 三徳山三佛寺  神奈備 [Url] 2007/09/12(Wed) 21:09 [Reply]
 一昨年に鳥取県の三徳山三佛寺の投入堂に行きました。ここは懸け造り堂の形式で、岩の窪んだ所に無理矢理に堂を造営した印象を与えます。信州上田では北向観音堂や龍水寺観音堂が有名です。

 懸け造りは神社で言えば磐座信仰に通ずるのでしょうが、何故懸け造りなのかがよく分からない所です。これらは一応仏教の範疇に入る信仰ですが、より深いというか古い信仰のように感じます。仏教には「山川草木悉有仏性」と言う思想があって、これは「草木が物を言っていたころ」であろう縄文時代に通じているように思えます。

 神社信仰は集団の守護ですが、これは天皇が神社の格付けを行った延喜の時代に決定的になったのでしょうが、元々は自然や祖霊に日々の安寧を素朴に祈ることだったのでしょう。「山川草木悉有霊魂」だった。

 また懸け造りと金属採取との関連が言われており、三朝温泉に近い三徳山もそうなのでしょうが、どうやら信州上田も妙見信仰の大星神社や太郎山周辺に鎮座すると言われる鉱山神があり、金属採取に関わっているようです。

 NHKの大河ドラマの片目の軍師は実在の人物ではなかったそうですが、片目であるのは金属精錬に通じるようで、甲斐や信州は金属に関わる土地柄だったのです。

 懸け造りの神社では日向の天安河原宮、出雲の磐船神社、大和の苣原町九頭神社などが思い浮かびます。

[8455] 川と馬  素人 2007/09/08(Sat) 00:56 [Reply]
とみた様
興味深い書き込み読ませていただいております。
旧大和川は南から北に流れる川なので、とても興味があります。今回はやめておいて纏めて中国の川との関係で書かせていただきます。奈良盆地には蘇我川などと言う川も有るようです。
> >柏原淀川や旧大和川の河口付近には牧が置かれています。船を馬で引っ張って上流に持っていったのでしょう。馬は川の中をあるいたのかも知れません。大隅、姫島、四条畷、羽曳野 など。
>
> そうですか、馬が船を引っ張る・・・頷けますね。

古代だと軍馬ではないでしょうか、多分、弓射騎兵でしょう。
大陸での高句麗との騎馬戦で和弓が騎上弓射に最適で弓射騎兵の技術を習得して大活躍し多ために、馬を日本に持ち帰ったものと考えられ初期は軍馬として導入されたように思われます。(現在の流鏑馬にその一部が残っている。)引かせるのですと、牛の方が良いように思われます。素人の夢想ですが。

> 中国の福建省では、上流から流れによって河口に下った船を、また上流まで、流れに逆らって戻すには、船曳人が舟にロープをつけ、瀬に腰まで浸かって引っ張ったとのことです。羽曳野に、曳く字ががありますね。四条畷には古代馬の遺跡があります。

日本でも人が引いていたようです。川の流心は流れが速いですが両側は流れが遅く竿を挿したり、人の力でもユックリであれば登れたのでしょう。急流では、別になだらかな水路を開削して登り専用とした所もあったようです。内陸水路は発達していたと思われます。近代まで沖縄などに会った、船を4隻横につないだような船は牛などで引いたのかもしれません。素人のたわごとです。
蛇足に鞍山の鉱石の資料がありましたのでご紹介します。
<<鞍山の鉱石関連資料
鞍山の鉱石
鞍山の鉱石はブラジルやオーストラリヤの数ミリ幅の縞状鉱床のように品位は高くないが、幅があるために風化すると砂利状の岩鉄となり製鉄には使いやすい粒度となったと推定される。
「鉱石は緻密塊状および黒白縞状の構造を示す。その縞は、幅が1cmから20−30cmで磁鉄鉱、赤鉄鉱、仮像赤鉄鉱、石英、角閃石と少量の菱鉄鉱、白雲母などからなっている。」
http://www.gsj.jp/Pub/News/pdf/1988/06/88_06_04.pdf
鞍山式鉄鋼鉱床
「五台(ウータイ)系下部の石嘴(シーツイ)統中の層状赤鉄鉱・磁鉄鉱床」
鞍山の鉄鉱石は鉄分含有量が低く(埋蔵量3億トンと言われた鞍山鉄鉱石の大部分を占める35-40%の貧鉱)このために、品質改善の前処理によって60%ぐらいに品質を上げて大型溶鉱炉で使われていた。」
http://www.gsj.jp/Pub/News/pdf/1974/02/74_02_05.pdf
鞍山における新鉱石の開発
http://www.gsj.jp/Pub/News/pdf/1962/07/62_07_05.pdf
遼寧省の鞍山−本渓
http://www.gsj.jp/Pub/News/pdf/1990/10/90_10_03.pdf
千山の五仏頂からの風景(麓に鉄鉱山が見えるが眼前山鉄鉱区?)
http://www.shenyang.cn.emb-japan.go.jp/jp/northeast/sence/pics/1023/002.html

[8454] Re[8453]: 馬・船  とみた 2007/09/06(Thu) 11:00 [Reply]
縁MADOKAさん、

仁徳天皇の八十嶋祭りの祭祀(太陽祭祀?)の本源を探すMADOKAさん、私は日本の古代に太陽祭祀を持ち込んだのは、北の民か南の民かを知りたいと模索中。

> 馬と船に関しては下記がお勧めです!
> 講談社学術文庫
> 馬・船・常民―東西交流の日本列島史
> ・網野 善彦・森 浩一【著】

謝々です。古代の川筋は今と違いますし、動力もない時代ですから今日の常識では、推定できません。

たとえば、信州の森将軍塚古墳では大きな河内の須恵器が副葬されているんですが、こんな大きな器はどうして運んだかななどと考え込んでいました。

海ルートでも日本海ルートで信濃?川を遡る。海ルートでも太平洋ルートで天竜川を遡る。或いは旧東山道の山間のルートを馬を使って運ぶ、急峻な山は越えられないし・・・

古墳の石材や、埴輪だって重いので運ぶのは大変です。


中国南方の少数民族の太陽信仰に関しては、諏訪春雄さんの日本王権神話と中国南方神話の本(角川選書)を紹介しましたが、先日図書館で、見つけた本で萩原秀三郎さんの本も、面白いですね。

図説日本人の原郷(小学館)や稲と鳥と太陽の道(大修館書店)には目から鱗の部分もあります、苗族の祭儀を丁寧な写真をつけて解説していました。

銅鼓をたくさん並べて叩いて祀る行事があるのですが、先導するのは一個の木製太鼓なんです。

> 堅田直先生は懐かしいですね。。私半年ほど講義受けてました、

意外な接点があるものですね。柏原東南部の玉手山丘陵の立柱祭祀のことは堅田先生からお聞きになっていませんか。4世紀代の前期古墳時代から始まる古墳群だそうですが。発掘調査の参加者の名前の一覧で20余名載っています。女学生が多いようです。

[8453] 馬・船  縁MADOKA [Url] 2007/09/05(Wed) 13:50 [Reply]
とみたさん
馬と船に関しては下記がお勧めです!
講談社学術文庫
馬・船・常民―東西交流の日本列島史
・網野 善彦・森 浩一【著】
[文庫 判] NDC分類:210.04 販売価:\1,102(税込)
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4061594001.html

堅田直先生は懐かしいですね。。私半年ほど講義受けてました、土器の復元、土器の拓本 発掘 を ちょろっと。。考古学に向いてないのがわかり断念(><)
ちょうど、X線で遺物を撮ったり、和歌山田辺の三栖廃寺の発掘中のころでしたねえ・・・


[8452] トンチンカン質問  とみた 2007/09/05(Wed) 10:33 [Reply]

タイシさん、神奈備さん ご教示ありがとうございました。

先般頂いた古代河内の地図の眺めていると楽しいですね。今の大和川は堺市に流れ込み、そのあたりは、綺麗な川とは言えませんね。
古代は河内湖に大和川が流れ込んでいた。河内湖にはいろいろな文化を持った渡来人が主に朝鮮から入ってきたのでしょうね。

>亀の瀬の近くの高井田横穴古墳群の船に乗る人物像の壁画を思い出しました。
大和川と石川が合流するあたりもポイントだと思います。

古代の5世紀ぐらいは、高井田も河内湖の湖畔ですね。日下(草香)も近い。
ここに5世紀終りに、横穴式石室墓が造られ、6世紀後半から7世紀初めにかけて横穴墓群が造られる。

出雲の東部で出雲国造の本拠、意宇郡の大庭・松代も同じく横穴式石室墓と横穴墓群がありました。

どちらが先でしょうね。

高井田遺跡に近く、大和川と石川の合流点あたりに玉手山丘陵があり、立柱祭祀が行われていたという事実を知りました。これは国会図書館の蔵書で調べたんです。帝塚山大の名誉教授、堅田直という方の貴重な報告です。丘陵にたくさんの柱を立て、その一角に竃を置いて火を炊く祭りのようです。中国東北部の諸民族は立柱祭を太陽神との交信の為に行うと考える学者もおられます。

この立柱祭は伊勢神宮の遷宮時の心柱の祭事以外に余り報告がありません。
不思議に思っています


>柏原淀川や旧大和川の河口付近には牧が置かれています。船を馬で引っ張って上流に持っていったのでしょう。馬は川の中をあるいたのかも知れません。大隅、姫島、四条畷、羽曳野 など。

そうですか、馬が船を引っ張る・・・頷けますね。

中国の福建省では、上流から流れによって河口に下った船を、また上流まで、流れに逆らって戻すには、船曳人が舟にロープをつけ、瀬に腰まで浸かって引っ張ったとのことです。羽曳野に、曳く字ががありますね。四条畷には古代馬の遺跡があります。

亀の瀬、亀の背についても仰せの通りで納得です。深読みも、度が過ぎると、妄想になります。自然に読むべきでしょうね。亀の瀬の亀と、道教との連想は無理だと思います。

 

[8451] Re[8449]: トンチンカン質問  神奈備 2007/09/04(Tue) 21:30 [Reply]
> 川の流れに逆らってくるわけでしょう。
> 川舟というのは当時は大切な交通手段だと思っているんです。帆もかかっているようですけれど、手漕ぎなんでしょうか。

 淀川や旧大和川の河口付近には牧が置かれています。船を馬で引っ張って上流に持っていったのでしょう。馬は川の中をあるいたのかも知れません。大隅、姫島、四条畷、羽曳野 など。

 亀の瀬付近は岩が盛り上がっていて、言ってみれば亀の背のようになっていたのでしょう。それを削って奈良盆地の水を排したとも考えられます。

[8450] Re[8449]: トンチンカン質問  タイシ 2007/09/04(Tue) 21:07 [Reply]
とみたさん はじめまして いつも神奈備さん 縁MADOKAさんにお世話になっているタイシです。

> 亀の瀬は、険しい隘路とか崖崩れも多いので補強工事を今もやっているのでしょうね(大昔、大和湖があったとかなかったとかこれも亀の瀬が鍵)。

今の亀の瀬の峡谷は、神奈備さんがHPで修験道 葛城28宿紀行で紹介して下さっています。
http://kamnavi.jp/dk/kamo2828.htm
亀の瀬には、雲石 亀石 高岩 扇岩などがあるようですが私には亀石以外解りませんです。
私も亀の瀬が”鍵”だと思っています。
亀の瀬の由来なんですが色々と説があるようですが、川の中の岩石が亀が遊ぶ姿に似ているところから亀の瀬と呼ぶとか亀に似た岩が由来だと言われています。

> たとえば608年遣隋使小野妹子とともに隋の特使斐世清が初瀬川のツバ市という川津(港)に着きます。
> 538年か552年かどちらか不明ですが、仏教の釈迦の仏像や経綸を持って、百済の聖明王の特使が欽明天皇の処に来るのも、ツバ市ですね。このルートなんですか。
> 川の流れに逆らってくるわけでしょう。

2年後の610年新羅・任那の使の入京の時は、大和川の支流寺川を遡って阿斗川辺の館(田原本町阪手付近)で迎えられ、小懇田宮に至っているそうですね。
聖明王のルートはよく知りません。
> 川舟というのは当時は大切な交通手段だと思っているんです。帆もかかっているようですけれど、手漕ぎなんでしょうか。

これも良く知りません。
亀の瀬の近くの高井田横穴古墳群の船に乗る人物像の壁画を思い出しました。
大和川と石川が合流するあたりもポイントだと思います。

柏原の南の羽曳野市の古市大溝にも興味深々です。

[8449] トンチンカン質問  とみた 2007/09/04(Tue) 08:50 [Reply]
タイシさん はじめまして とみたです。今は関東の利根川の近く(千葉県)に居ます。

いつも疑問に思っていたことに、ヒントをいただきました。ド素人には未だ疑問があります。神奈備さんもお詳しいので援けてください

>
難波から飛鳥への航路
古代の難波よりの航路は、河内湖〜旧大和川〜初瀬川だったそうで、瀬戸内海を航行してきた船は難波で停泊させ、湖船に乗り換え、難所の亀の瀬に至って、そこで乗り換えて上流に向かったそうです。

亀の瀬は、険しい隘路とか崖崩れも多いので補強工事を今もやっているのでしょうね(大昔、大和湖があったとかなかったとかこれも亀の瀬が鍵)。

たとえば608年遣隋使小野妹子とともに隋の特使斐世清が初瀬川のツバ市という川津(港)に着きます。
538年か552年かどちらか不明ですが、仏教の釈迦の仏像や経綸を持って、百済の聖明王の特使が欽明天皇の処に来るのも、ツバ市ですね。このルートなんですか。

川の流れに逆らってくるわけでしょう。
川舟というのは当時は大切な交通手段だと思っているんです。帆もかかっているようですけれど、手漕ぎなんでしょうか。

紀ノ川・吉野川も大和川に劣らず大切な川だと思っています。上市、下市がありますね。市は川筋に出来るわけでツバ市と同じ河津(港)だと思っています。

この川も上市までは、船でこれたとされています。宮滝が近くにあり伊勢街道と熊野街道と分かれている。

神武東征で熊野から宇陀に行くのもこのルートだという説もありますね。

亀の瀬という地名も不思議です。

大和には亀石とか酒船石とか亀が絡んでいる亀形石造物が多い。亀は道教とつながっている。
亀の瀬が亀の背なら蓬莱山を背負っている筈です。


[8448] 日神 日下 伊勢 住吉  縁MADOKA [Url] 2007/09/04(Tue) 01:51 [Reply]
タイシさん おひさ! いい書き込み有難うございまーす
非常にリアルにわかります・
どうも近世の大和への街道はこのルートが物流が盛んなようですねえ
違う件で調べたときもそうおもいました。

神奈備さん
>今の時代の運動不足気味の姐さんにはそうであっても>
そうともいえますが(><)
神武ルートに詳しくないんでなんですが
熊野古道は楽々ルートですよ
滝尻の坂と大雲取り 小雲取りをのぞけば、非常に平坦な道、貴族が輿にのっていったのは納得 黒チャンは長距離自転車で各地探訪されてますが、熊野ルートはものすごい楽で驚いたと言ってましたからね

大和への楽ルートは
私は三つと考えます。
交野 岩船 白庭ルート
ここは 鮎返しから岩船が船は難しい 亀の瀬と同じやり方で抜けたとおもわれますね。それ以外は気がつけば奈良ほぼ平坦な道!(か弱い私でも難なく富雄まで単独で歩けました)吉向さんがニギハヤヒをくりかえし言われるのはもっともだなあと。。古代に船もつけられたし、縄文遺跡も多いし、難波津からではもっとも楽なルートとおもわれます。

もうひとつは大和川ルート近世の物流事情からもうかがえます。

和歌山からは巨勢街道吉野(万葉ルート)
奈良の貴族が和歌山へはこのルートですねえ

そう考えると日下が謎?
日下の辺りはいまでもドライバーもイヤがる急斜面(><)

もちろん原因はおっしゃるとおり
>日下は上町台地の突端の豊碕の真東、どちらも昇る太陽、沈む太陽を眺める絶好の地であって、日神の後裔としては支配下に置きたい地、神武さんはこの段階では侵略者、日神の後裔は饒速日尊だったということ>

ですがふとおもいついたのは
伊勢参りの有名ルートは暗峠越えでしょう。
なんでこの難路を??
やはりここに日神の関係があるのでは

住吉大社の神奈備は生駒山
住吉と伊勢 を日神で繋げると日下を抜きには考えられないのでは?

郭公さん!!!!!
某板になんで日下のことがでてこねえんでしょうか?
不思議でなんねえんですがーーーー

[8447] Re[8446][8445]: 困難ルートにナゼ?  タイシ 2007/09/03(Mon) 23:09 [Reply]
>秋になったらタイシさんに高井の千本杉や剣主神社に連れていってもらいましょう。

皆様の古代史談議楽しみにしています。
コース考えておきますね。
また、登山かも?(笑)

亀の瀬について
亀の瀬の近くに「夏目茶屋の渡し」があり賑やかだったようです。
現地の橋の手前の説明板↓
http://www.kokubuhigashi-e.city.kashiwara.osaka.jp/map/natum/natu2.html

江戸時代、大和川を航行した船を剣先船と呼んでいたようですが、しかしこの船は大阪から亀の瀬までしか行かず、積荷はそこでいったん降ろし、奈良県側の川船に積み替えて上流まで上ったそうです。
何故、亀の瀬で積み替えたと言うと、当時、亀の瀬は今以上に岩石や急流で船が通行できなかったそうです。

難波から飛鳥への航路
古代の難波よりの航路は、河内湖〜旧大和川〜初瀬川だったそうで、瀬戸内海を航行してきた船は難波で停泊させ、湖船に乗り換え、難所の亀の瀬に至って、そこで乗り換えて上流に向かったそうです。
米、雑穀をはじめ、大和平野の物産は、三輪、田原本に集められたそうで、これらの川筋を利用して大阪に運ばれ、大阪からは魚類、塩などが大和に運ばれたようです。
今の大和川を見ていると、船が往来していたとは信じられませんが・・・

[8446] Re[8445]: 困難ルートにナゼ?  神奈備 2007/09/03(Mon) 11:42 [Reply]
> 日下からの山越へって結構キツイ(><)

 これは今の時代の運動不足気味の姐さんにはそうであっても、熊野の果無山脈を平然と越えてくる連中にとっては、天保山に登るようなもの。お風呂もいいですが、秋になったらタイシさんに高井の千本杉や剣主神社に連れていってもらいましょう。

 日下は上町台地の突端の豊碕の真東、どちらも昇る太陽、沈む太陽を眺める絶好の地であって、日神の後裔としては支配下に置きたい地、神武さんはこの段階では侵略者、日神の後裔は饒速日尊だったということ。

> そうか ナガスネ彦はニギハヤヒ派か!!

 そういうことだったのでしょう。

[8445] 困難ルートにナゼ?  縁MADOKA [Url] 2007/09/02(Sun) 20:08 [Reply]
ふと いまおもいついたけど
日下からの山越へって結構キツイ(><)
暗峠も鞍が返るからだし・・・
そういうルートをナゼ神武が選んだのか???
やはり日下になんかあるからか?
再考する必要があるかも??

[8444] 大和入り楽々ルート  縁MADOKA [Url] 2007/09/02(Sun) 19:51 [Reply]
神奈備さん
>さて、大和川を本当に船が上っていったのかどうか、現在の亀の瀬付近を見ている限りそうだとは思いにくい状況です。
北側の山が地すべり地区となり、何万本と電信柱のようなものが打ち込まれ続けています。http://agua.jpn.org/yamato/coverf.html

これかーなんか黒ちゃんが一箇所どうのこうのと。。。
でも、この間の九州VS大和 邪馬台国論争 そのとき歴史は動いたの再現では大和川ルートでしたねえ

ただ、大和に行くのにもっとも平坦なルートは交野から岩船街道で白庭へ
岩船神社のポイント以外は楽々!!
ニギハヤヒの大和ルートはこれやなと
軍勢も楽々いけると思われる
なんで、神武が迂回して和歌山から???
このルートでいきゃーよかったのに・・・
そうか ナガスネ彦はニギハヤヒ派か!!
こりゃーー通れないわなあ


[8443] 新旧大和川  神奈備 2007/09/02(Sun) 08:19 [Reply]
八尾と言えば富山ではおわら盆が始まりました。舞台はギリシャの円形劇場に似ており、舞台と町と川とが調和しています。

さて、大和川を本当に船が上っていったのかどうか、現在の亀の瀬付近を見ている限りそうだとは思いにくい状況です。

北側の山が地すべり地区となり、何万本と電信柱のようなものが打ち込まれ続けています。
http://agua.jpn.org/yamato/coverf.html

ここがせき止められたら奈良盆地は水没するするすると

大和川は江戸時代に付け替えられて西の大阪湾に直結しています。その昔は大阪市の東側にあった河内湖に流れ込んでいたようです。河内湖から大阪湾への潮汐による水流は激しかったようです。なみはや(浪速)が難波の語源とされている程です。やや水面の高い河内湖に流れ込んでいた時代の大和川は現在よりゆったりと流れていたのかも。


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